最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/27/2008

ハロルド・ピンター死去

1930年生まれだから、78歳ですね…。

        『召使』 監督ジョゼフ・ロ−ジー

ゴダール、ワイズマン、クリント・イーストウッド、故・黒木和雄と同い年だったんだ。それにしても訃報が多い今日この頃…。

12/24/2008

映画批評状況の鈍感

うちの実家は、父が現役時分には某一部上場企業でそれなりの立場だったせいだろうが、日経新聞をとっている。たまたま実家に戻ったら、新聞は年末総括のシーズンで、日経夕刊の最終面の文化欄では今年の映画ベストスリーを何人かの映画欄執筆者があげている。

読んでいてちょっと唖然とした。作品の選択のことではなく、評言にである。

たとえば「あさま山荘事件」を「再現」したつもりの映画について「万人がこれを見て自分の戦後史の再確認を迫られる」。イヤミで言ってるんだとしたら高級すぎて逆に伝わらないんだけど…。つまり、未だに自分たちの失敗を総括もできず、勘違いを反省も再確認できていないで自己正当化を繰り返すだけの世代を戦後史が創り出してしまっていることにおいて、戦後史に蔓延する無責任さと強度の小児的自己愛くらいは、確認できるんだろうね。

数人の評者の合計では最高点になっていたのがニコラ・フィリベール監督の『かつて、ノルマンディーで』なのは棄てたもんじゃないと思ったら、評を読んでさらに唖然とする。二人の評者が挙げているのだが、どちらもが30年前に撮られた劇映画の現場を再訪したということに触れただけ、その歳月の意味を云々としか書いていない。

2008年の日本でこの映画を見ているのにこの反応って、いったいなんなんだ?

映画を見た人なら当然分かることとして、30年の歳月云々については映画の前提の枠組みではあるが、その30年の経過についてはせいぜい頭の15分くらいで紹介されるだけ、それ以上の意味をこの映画はとくになにかしようとはしていないし、主題からしてそんなことは不可能に近い。

なぜって30年の歳月と同時に、その30年前に撮られた劇映画がさらにその過去の、19世紀に起った事件の映画化で、30年前の劇映画もそのきっかけになったミッシェル・フーコー編纂の本も、そして30年後のこのドキュメンタリーも、すべてその事件という過去とその事件の記録との関わりにおいて成立するように、映画が意図的に構成されているのだ。

その19世紀に起きた一家惨殺事件について、二人の評者はまったくなんにも反応していない。この2008年の日本で公開された映画だと言うのに。フランス革命後でもいっこうに平等なんて実現はしていないノルマンディーの片田舎で、貧農の息子が一家を惨殺した「理由なき大量殺人」事件ですよ。動機の解明はまったくできないまま、フランス革命で実施されたはずの近代法規の原則、責任能力とか精神鑑定だとかを結果としてまったく無視する形で、惨殺事件があり旅に出た容疑者が逮捕され、王政復古の政府の超法規的な意向で処刑された経緯を、映画的な表現としては難しいのを覚悟で、事件や裁判のドキュメンテーションとドゥルーズの論考を丹念に紹介しながら、もちろん最初からそうなるのは分かっていると言えばその通りに、やはり理解する術もないというその強烈な不条理が、静かに語られる映画なのだ。

その構造のなかでは30年の歳月も、事件以来百数十年の歳月も、当然ながら普通の三十年とはまったく異なった位相を示すはずだ。出演者の時間であるだけでなく、これは少なくとも社会の時間を包摂し、演じられた時間、演技を通して再現された時間を考察させる映画だ。まあ『かつて、ノルマンディーで』がその点ではいささか理屈っぽい予定調和に収まってしまうというか、やはり理解不能でしかないなにかに狼狽えることから逃げるように、行方不明の30年前の主演男優捜しに収斂してしまうおとなしい映画にも見えるように構成されているのは(よくも悪くも)否めないにしても、だからってそこを無視します、普通?

もちろん触れるにはデリケートな話題なのは分かる。短い年間総括にとてもおさまる内容ではないだろう。でもそうは言っても、よりによってこのニッポンの2008年だったというのに、事件の中身にはまったく触れないまま、「一人一人にとって30年の歳月には意味がある」とかって、いったいどういう神経で書けるのか…。人に人生において30年の歳月に意味があるのは、そもそも当然のことだろうに。そんなこと今更映画や映画批評にお説教されても困りますがな(汗)。

僕はこういうふうに褒められたことないけど、もし『かつて、ノルマンディーで』のような映画を作ってこういう褒められ方したら、「自分はいったいなんのためにこの映画を作ったんだ?」って逆に絶望して、それこそ映画評論家宅を狙った連続テロ事件でも始めちゃうかもしれない。これだったらまだ無視された方がマシ。無視してくれてありがとう、と言いたいくらいだ(まあ別の「30年、40年の歳月」は慇懃無礼に無視した「批評」が大半でしたが--案の定、こちらの予想通りに)。

だって不可解で犯人の動機の真相なんてわかるはずもない事件と分かっていてあえて映画で取り組もうとしたこと、30年前に劇映画で取り込んだ監督とその助監督で今度は自分が取り組もうとしたその意思を、「それは無意味だよ。まあ30年の歳月ごしに作ったからそれは偉いねぇ」とバカにされたみたいにしか思えないじゃんか。だったら我々が映画なんて儲かりもしないギャンブル稼業をやって、ピエール・リヴィエール事件なんて厄介なものに取り組む意味って、どこにあるんだよ?

いや我々映画を作ってる側の感情なんて、まだたいした問題ではない。もっとも腹立たしいのは、今年にあの映画をこの国で見たごく普通の観客が、当然この国の今そこにある現実を当然反射させる知性と感受性を持っているのに、映画評論家という肩書きのある人々がその観客/読者を愚弄しきっていること。まして「日本経済新聞」、社会経験も豊富なはずの、いわば大人の読者を想定した記事のはずですぜ。

そりゃ映画の観客が減るのも当たり前でしょう。っていうか、それって「映画」を馬鹿にした態度以外のなにものでもないようにも、思えて来る。


ドキュメンタリー『靖国』騒動でも、芸術文化振興基金の選考審査員だったであろう批評家だとかは、誰も名乗り出なかった。一応守秘義務があるといっても、それは選考時の癒着を防ぐという目的で、毎年メンバーは変わるはずだから『靖国』を選んだメンバーが職を解かれた後で自分の見解を表明したって問題はないはずなのに。プロデューサーとか実作に関わる立場ならともかく、批評家たるものとしてなんだかあまりに無責任すぎませんか? 他人様、お客様、読者や観客に、そして社会に対して自分の作品とか自分の言葉で向き合うって、まして他人の作品を切り口に不特定多数の読者に対して何かを論ずるって、もっと厳粛なことではなくてはならないのでは、ありませんか?

12/19/2008

ブッシュ大統領と靴

いま世界で話題?のゲーム(ここをクリック)です。


けっこうクセになるかも知れませんぜ(笑)。

って本当はこの程度では済まない怒りでもおかしくないのが、ついこういう風にギャグにされてしまう、ギャグにしかならないってのがなんとも…。

オリヴァー・ストーンがこんな映画も作っちゃってますが、日本ではいつ見られるんだろ? 父親へのコンプレックスという、極めてオリヴァー・ストーン映画的なこだわり丸出しの解釈をしてるみたいで、直球勝負なだけに意外と最高傑作かもしれない?

それにしてもブッシュ政権のいう「テロとの戦争」における「Shock and Awe (衝撃と畏怖 )」戦略って、テロリズムの定義そのものじゃんか。

12/17/2008

あのピーター・フォークが…


ちまたではロス市警のコロンボ警部補で有名な、映画ファンにとってはジョン・カサヴェテスの映画や『ベルリン天使の詩』が印象深い名優ピーター・フォークが、アルツハイマー病なのだそうです…。もう80過ぎで、盟友カサヴェテスが亡くなってもうそろそろ20年、という感じですから、しょうがないか。


ベルリン天使の詩』だって気がつけば20年前の映画だし…。勘定してみて驚くけど。

12/13/2008

アメリカ自動車産業は没落し、イーストウッドはアメリカ映画を撮る

ビッグ3の救済法案が上院で廃案、アメリカ自動車産業の衰退がアメリカ全体の没落と共に強烈に印象づけられるこの時、というか救済法案がつぶれたその翌日に、御歳78の元ダーティー・ハリー、クリント・イーストウッドの久々の主演作品(で、もちろん監督最新作)の公開である。今回の舞台はかつての自動車産業の都デトロイトで、イーストウッドが演ずるのは退職した元フォードの自動車工場労働者だそうで、NYタイムズの評がつい "a sleek, muscle car of a movie Made in the U.S.A., in that industrial graveyard called Detroit" と書きたくなるのもうなづける、もうタイミングが良すぎてほとんど不気味。

《『Gran Torino』 予告編 》

気がつけばイーストウッドは最後の、本来の意味でのアメリカ映画作家なのかも知れない。レーガン=ブッシュ父12年の共和党政権の末期に自ら “最後の西部劇” と銘打った渾身の『許されざる者』を発表して以来、イーストウッドの映画は常にアメリカ社会のその時々の現実についての、アメリカに生きることを生々しく反射して見る映画、アメリカとはなんなのかを考えさせることをその力として持った映画ばかりだ。一方でアメリカ映画、というかハリウッド映画はアメリカ社会とほとんど関係のない国際市場向けの、「グローバリゼーション」の名の元に均質化して無国籍化した世界向け商品になっている。だいたいアメリカを舞台にしているはずの映画ですら(国内製作費の高騰のせいで)カナダだったりオーストラリア、ニュージーランド、時代物なら旧東欧で撮影されているわけだし。

『許されざる者』だって撮影はカナダで行われていたはずだと言われればそれまでだけど、19世紀が舞台の西部劇、イーストウッド自身が「西部劇」というフィクション映画のジャンルについの映画として作ったつもりだったはずのこの映画、92年8月の全米公開時には、とくにロサンゼルスでは現実社会と無関係に見るわけにはいかない映画になっていた。8月公開の夏休み映画がアカデミー賞をとるのは珍しい。だいたい映画会社は賞狙いの映画は選考・発表時に重なる11月からクリスマス・シーズンに持って来るものだし、つまりワーナーブラザーズは最初、この映画がアカデミー賞を総ナメにするなんて予想もしてなかったに違いない。当時僕はLAに住んでいたのだが、93年に入ればこれが賞をとるのはもうあまりに自明のことだった。

ちなみに僕のその年のアカデミー賞予想は、大当たり、留学先の寮の予測トトカルチョで大勝でした(笑)。って別に自慢するまでもない話で、だって8月の公開からずっと、ロサンゼルスのどこかではこの映画が劇場にかかっていたんだから。そのあいだ確か8回くらいは見たはずだが、しかも公開時はわりとガラガラで、批評だってそんなによかったわけでもないと記憶していたのに、口コミで広がったのだろうか、後になればなるほど、翌年に入った方がむしろ客が多かったくらいなのだ。んでもって、アカデミー賞に投票する会員は要するに映画業界で働く組合・協会員で、多数派はロサンゼルスに住んでますから。

監督イーストウッド予想外の大躍進のワリを喰った大作が、たとえばコッポラがAIDS時代の吸血鬼映画を愛=セックス=死の寓話に仕立てた『ドラキュラ』だったりする。洗練された宣伝キャンペーンに大きな資本がつぎ込まれた話題作だっただけでなく、今見直せば大変な野心作だし、『地獄の黙示録』以来の渾身の傑作なんだろうけれど、公開時は「ぜんぜん怖くない」という印象しかなかったし、AIDS時代のメタファーもなんだか直接の理屈だけで考え過ぎにしか見えなかったのは、比較対象として『許されざる者』の肌身で感じるアクチュアリティが、それだけ強烈すぎたのだろう。

だって92年の8月といえば、LA暴動のわずか三ヶ月後である。しかも僕がたまたま当時住み始めたのが暴動の中心地のサウスセントラル、さっそく『許されざる者』を見に行ったのがハリウッドのチャイニーズ・シアター。途中ではどうやっても韓国人街を通ることになり、すると焼き討ちされた商店がまだそのままなのだ。バスを乗り換えれば黒人の運転手に「Are you Korean?」と訊かれ、慌てて「No no, Japanese」と答えたのも情けないのだが、そうやってたどり着いて見たのがあの『許されざる者』、暴力と銃へのオブセッションと暴力の神話化、さらに銃規制と、そして復讐があらぬ方向に暴発し、暴力が暴力を誘発し、クライマックスでは街の漆黒の空に星条旗がむなしくたなびく、恐ろしくリアルなアメリカと銃と暴力と、力による治安の維持の失敗をめぐる、恐ろしく真摯な映画的考察だったのだ。

もし日本にいたら、LA暴動はアメリカの根深い人種問題の一例としてしか考えられなかったかも知れず、だから『許されざる者』がいかにアクチュアルなアメリカのリアリティについての映画だったのかは、頭でっかちになったままでは分からなかったかもしれない。だが三ヶ月後であっても肌身のリアリティだ。さすがに高給取りの映画関係者はサウスセントラルとかコリアタウンには直接は行かないだろうが、それでも同じ街、同じ社会であるはずの場所の現実だ。この一見難解にも思える瞑想的な西部劇の意味がストレートに突き刺さなければ、アメリカ映画というものはその時点で終わってしまっていただろう。

ちなみに『許されざる者』がずっと公開されていたその年の11月、12年続いた共和党政権は選挙に敗れ、クリントン大統領が翌1月に就任。だがクリントン政権はこの時すでに煮詰まってしまいつつあったアメリカをどう治癒して行くのかに、8年かけてとても限定的なことしか出来ず、経済に関してはむしろ金融資本主義偏重を制度化することで、経済のヴァーチャル化、ウォール街のカジノ化を進めてしまった。もちろんそれ以外に、アメリカのお金の稼ぎどころがなくなっていた、社会政策重視のクリントンに、ではそのための財源はどこにあったかと言うところで、貨幣至上主義にからめとられるしかなかったのだろうけれど。

『スターウォーズ』に始まるレーガン時代とアメリカ映画の第一期非アメリカ映画化から、92、3年あたりには「アメリカ映画」が復活するかに見えたが、だいたい95年の『カジノ』までだよね、そこに映し出されたのはまさに経済のヴァーチャル化、ウォール街のカジノ化のメタファーとしてのラスヴェガス、その破綻まで予見していたのだが。その後アメリカ映画はどんどんつまらなくなって行き、9/11でなにも学習できずにもっとつまらなくなった。あたかも自らの “正しさ” を妄執的に証明しようとするばかり(それはリベラル派の『華氏9/11』でさえ、ブッシュの誤りに対する自らの “正しさ” を繰り返すものでしかなかった)、商業主義の経済性の “正しさ” でマーティン・スコセッシの執念の傑作『ギャング・オブ・ニューヨーク』さえ無惨に破壊され、ロバート・アルトマンは嫌気がさしてイギリス映画を作ったほど。

イーストウッドは違っていたけれど。だいたいイーストウッドの映画くらい “正しさ” の主張を揺さぶり続けるアメリカ映画もないのだが、ミスティック・リバーも硫黄島・二部作(とくに『父親たちの星条旗』)もやはり前者は開戦時、後者の時には泥沼化が進行中のイラク戦争と無関係に見るのは難しい。そのようなタイミングに作られたのは、製作時にそういう映画になるのは分かっていたはずだし、だから時代を意識して反映させていたのかも知れないが、それにしても『許されざる者』の場合はまったくの偶然だろう。暴動が起きたときには、映画はもうほぼ完成していたはずなんだし。

新作『Gran Torino』だって、撮影時には金融危機はまだ起っていないはずだし、自動車メーカー破綻なんて話題にもなっていなかったはずだ。もちろんただそれだけの映画ではないはずで、しばらくアメリカに行く予定もないので、早く日本でも見られるようになるといいのだが、予告編を見ただけでも、驚くほどアメリカ神話の崩壊、新しい時代にかつてのアメリカン・ヒーロー(上の写真のポーズとか、意図的にダーティー・ハリーをなぞっている)がどう変われるのか、あるいは変われずに滅びて行くのか、神話の裏のアメリカの失敗と罪がどこにヒーローを向かわせるのか、そして "United” な国としてのアメリカを再現しようとするオバマの勝利を見越したかのような図像に、満ちあふれている。

『許されざる者』を92年8月から何度も、下手するとひと月に一回はロサンゼルスで見続けたことは、僕にとってもっとも重要な映画体験だったのかも知れない。映画がいかに高度で深い意味で現実と関わり、我々がどう自分の人生や自分を取り囲む世界を見るのかを刺激する表現であり得るのかを、これほど厳しく学んだことはない。もちろんイーストウッドのこの西部劇があのタイミングで公開されたというのも偶然のはずだし、僕がその時期にアメリカに住んでいたのもまったくの偶然のはずだ。

とはいえ、僕にとっては偶然でありラッキーだったのだろうとしても、イーストウッドにとっても本当に偶然だったのか。なるほど、LA暴動は暴動が起るまで、社会はその底にあるものさえ認識してなかったかも知れない。自動車産業の破綻もアメリカ経済の突然の凋落も、突然起って初めて認識されたようにも見えるし、アメリカの失墜も経済危機に伴うものとして理解されがちだ。でもそれは我々が報道などを通してしか現実を見ていないからそう思ってしまうだけで、暴動に至るなにかは綿々とそこで地下水脈が沸騰するように徐々に矛盾が熱を帯びていたのだろう。イーストウッドが『許されざる者』の脚本の権利を買ってから10年待ったというのは、自分では「俳優としてこれを演じられるまで円熟するため」だったというが、本当は静かに、この映画が真のアメリカ映画として意味を持つ時代を待ち続けていたのかも知れない。

GMもクライスラーもフォードもとっくに車が売れなくなっていたのだし、デトロイトの労働者コミュニティの崩壊も何年も、何十年もかけて進んでいたことのはずだ。イーストウッドが報道だとか世の風潮に惑わされることなく、社会がまだ騒いでいない流れに、ずっと敏感だっただけなのかも知れない。映画作家が映画を通して現実と切り結ぶというのは、そういうことでなくてはいけないのかも知れない。

12/06/2008

円覚寺見物記その2

円覚寺の写真をこのリンク先に追加しましたので興味があれば…。

円覚寺見物の前か後には、この落ち着いた雰囲気の和風喫茶が、北鎌倉駅のすぐそばにあるのでお薦め。文字通り駅のすぐ脇(“前” ではない)のであまり目立ちませんが、それだけにそれは落ち着いた時間が過ごせます。とても上品な微笑みが印象的なご高齢の女主人で、抹茶セットは境内内・仏日庵でやってる抹茶サービスとは比べ物にならない本格派で、お茶碗もなかなか立派なものに上品な和菓子を季節に合わせて…というのはますますもって外国人案内にはもってこいですな。

12/03/2008

円覚寺

ここ数日、ブログの写真が円覚寺なのは、秋の紅葉シーズンまっさかりなのと、東京フィルメックス映画祭のゲストということで外国人の友人が来ていたりするので、連れて行ってたりしたからです。

映画関係者で鎌倉の円覚寺というと、小津安二郎のお墓があることで有名で、他にも木下恵介監督、女優・田中絹代とその甥にあたる小林正樹監督のお墓もあるわけですが、僕は底意地が悪いので「小津の墓に連れてってやる」とかいいながら、その実小津の墓を見るだけで満足するかどうかを試しているわけでもあって…。つまり着くなり「小津の墓はどこだ?」で、小津の墓参りを済ましたらそれでおしまい、「東京に帰ろう」とかって、単なる映画おたくか、下手すりゃネクロフィリアの一種じゃん。ここに来て小津のお墓にしか興味を持たないって?

たとえばこの写真の舎利殿、国宝というお墨付きがあろうがなかろうがどうでもいいけど、一般公開は年に一度とかそれだけで近寄ったりなかに入ったりはできないにせよ、門のところから見るだけでも背後の山を借景した配置の妙といい、建物それ自体の屋根の組み合わせの美しさといい…。

もちろんシンプルな立方体に「無」とだけ書かれた小津安二郎の墓標というのも、それはそれでいかにも禅的な哲学性と小津ならではのミニマリズムな奥深さを讃えた名作(?)であります。


でもたとえばこの山門、創建当時のものではなく、江戸時代の再建ですが、それでもこの枯淡の美しさだって、ただごとじゃないでしょう?

しかも紅葉シーズンまっさかり、いちばん美しい季節ですからね。

円覚寺はいわば山全体をひっくるめて禅の修行の場、別に仏教徒じゃなくてもこの自然と調和したミニマリズムな美学には、なにか感じてもおかしくないはず。というか、とりあえずいかにも日本の伝統文化の奥ゆかしさですし、禅ってのは宗教というより瞑想に基づく哲学で、ここはそういう特別な空間の雰囲気がしっかりありますし、都心だとかにいると現代日本しかなかなか見られない外国人を案内するのには、とても都合がいいわけで。


これがどうやったら虎の頭に見えるのか分かりませんが、そう見えるのが禅の奥義なのかも知れん。いずれにせよ自然の岩を生かして池などを配置した庭作りの妙。いかにも日本的な自然との共存の美学って説明すれば感心して頂けること請け合い(笑)。

しかしまじめな話、三浦半島の自然環境がかろうじて維持されているのは、円覚寺などのお寺の持っている山が開発されていないのと、あとは米海軍の旧池子弾薬庫の森(現在は1/3が池子海軍住宅として開発、残りは境界を超えた日本側も含めて、逗子市、鎌倉市、横浜市にまたがる巨大な雑木林)があるからなんだそうです––というのは僕の最新作『フェンス』で扱ってる話でもあって、逗子はJR横須賀線だと北鎌倉のふた駅先に過ぎないので、ロケハンの帰りだとかにもよく寄り道しました。出演者の一人はこちらの境内にお住まいだし。

円覚寺建立を発願した北条時宗を祀った開基廟(仏日庵)は、数年前にNHKの大河ドラマでやったのを機会に修復されました。

         黄梅院の奥の小さな観音堂
つまり円覚寺のいちばん奥、ってことになります。いや違った。その奥の山も含めて円覚寺なんだっけ。

          方丈の庭から見える銀杏

          同じく方丈の庭の梅の木

            方丈の庭の百観音

まあ外国人に仏陀と菩薩の違いとか、見分け方とか、観世音菩薩とはなんぞやとか、説明するのは大変なんですが(汗)。最近はダライ・ラマが国際的有名人なので、「ダライ・ラマってのはこれの生まれ変わりなんだよ」と説明すればいいから少しは楽か。でも西洋人は「仏陀の生まれ変わり」だと思ってたりするので、「いやだから菩薩ってのは仏陀じゃなくて、悟りを開いて仏陀になる前段階が菩薩で、だから観音菩薩はまだ悟りには達してないから装飾品を身につけていて…」とか「まだ悟りに達してないからダライ・ラマとして転生できるんであって、悟って仏陀になったら輪廻転生から外れるから生まれ変わらないのであって」とか、日本語で説明しても、自分だってよく分かってないんだから難しい…。

ダライ・ラマ位の宗教的な定義付けって、「水面に映る月の影」みたいなものなんだそうですから、ここまで説明し始めるとすさまじく奥深いんですが素人の不信心者にはもうなにがなんだか…。

      ま、いいや。ここは密教じゃないんだし。

閑話休題。ここは関東有数の禅の道場なもので、本堂(写真上)(ちなみに震災で壊れたものを戦後再建したので、これが鉄筋コンクリというのは少々しらけますが)の向かって左側には…

座禅場である「選仏場」があります。中はこんな感じ↓。

本尊の阿弥陀如来の前でハンディカムを構えるのはサンパウロ映画祭のディレクターのレオン・カコフ氏。「Zen」というとなんとなく西洋でも言葉だけは知られているからいいんだけど、「『禅』とはどういう宗派なんだ」とか聞かれたら説明するのはもっと大変だなぁ。

庫裡の前でケータイで写真を撮ってるのはアモス・ギタイ『いつか分かるだろう』の脚本担当で、今年も来日しなかったアモスの代理で来たマリー=ジョゼ・サンセルム。僕のほぼ全作品で非公式の編集アドバイザーでもあります。ここに来るのは二回目か三回目。

今年はマリー=ジョゼがレオンに薦めたものだから、一週のうちに二回も行くハメになってしまった。まあいいんだけど。今年は天気もいいし、夏はゲリラ豪雨でも秋に入ってからは台風とかもなかったので葉の色づきも最高でしたから。

なんといったって紅葉がまっさかりであります。

というわけで観光まっさかり。なにせ駅の目の前でもありますし。ちなみに小津の名作『晩春』の冒頭も、このすぐそばの北鎌倉駅のホームです。

<さらに円覚寺の写真>