最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
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第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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12/24/2008

映画批評状況の鈍感

うちの実家は、父が現役時分には某一部上場企業でそれなりの立場だったせいだろうが、日経新聞をとっている。たまたま実家に戻ったら、新聞は年末総括のシーズンで、日経夕刊の最終面の文化欄では今年の映画ベストスリーを何人かの映画欄執筆者があげている。

読んでいてちょっと唖然とした。作品の選択のことではなく、評言にである。

たとえば「あさま山荘事件」を「再現」したつもりの映画について「万人がこれを見て自分の戦後史の再確認を迫られる」。イヤミで言ってるんだとしたら高級すぎて逆に伝わらないんだけど…。つまり、未だに自分たちの失敗を総括もできず、勘違いを反省も再確認できていないで自己正当化を繰り返すだけの世代を戦後史が創り出してしまっていることにおいて、戦後史に蔓延する無責任さと強度の小児的自己愛くらいは、確認できるんだろうね。

数人の評者の合計では最高点になっていたのがニコラ・フィリベール監督の『かつて、ノルマンディーで』なのは棄てたもんじゃないと思ったら、評を読んでさらに唖然とする。二人の評者が挙げているのだが、どちらもが30年前に撮られた劇映画の現場を再訪したということに触れただけ、その歳月の意味を云々としか書いていない。

2008年の日本でこの映画を見ているのにこの反応って、いったいなんなんだ?

映画を見た人なら当然分かることとして、30年の歳月云々については映画の前提の枠組みではあるが、その30年の経過についてはせいぜい頭の15分くらいで紹介されるだけ、それ以上の意味をこの映画はとくになにかしようとはしていないし、主題からしてそんなことは不可能に近い。

なぜって30年の歳月と同時に、その30年前に撮られた劇映画がさらにその過去の、19世紀に起った事件の映画化で、30年前の劇映画もそのきっかけになったミッシェル・フーコー編纂の本も、そして30年後のこのドキュメンタリーも、すべてその事件という過去とその事件の記録との関わりにおいて成立するように、映画が意図的に構成されているのだ。

その19世紀に起きた一家惨殺事件について、二人の評者はまったくなんにも反応していない。この2008年の日本で公開された映画だと言うのに。フランス革命後でもいっこうに平等なんて実現はしていないノルマンディーの片田舎で、貧農の息子が一家を惨殺した「理由なき大量殺人」事件ですよ。動機の解明はまったくできないまま、フランス革命で実施されたはずの近代法規の原則、責任能力とか精神鑑定だとかを結果としてまったく無視する形で、惨殺事件があり旅に出た容疑者が逮捕され、王政復古の政府の超法規的な意向で処刑された経緯を、映画的な表現としては難しいのを覚悟で、事件や裁判のドキュメンテーションとドゥルーズの論考を丹念に紹介しながら、もちろん最初からそうなるのは分かっていると言えばその通りに、やはり理解する術もないというその強烈な不条理が、静かに語られる映画なのだ。

その構造のなかでは30年の歳月も、事件以来百数十年の歳月も、当然ながら普通の三十年とはまったく異なった位相を示すはずだ。出演者の時間であるだけでなく、これは少なくとも社会の時間を包摂し、演じられた時間、演技を通して再現された時間を考察させる映画だ。まあ『かつて、ノルマンディーで』がその点ではいささか理屈っぽい予定調和に収まってしまうというか、やはり理解不能でしかないなにかに狼狽えることから逃げるように、行方不明の30年前の主演男優捜しに収斂してしまうおとなしい映画にも見えるように構成されているのは(よくも悪くも)否めないにしても、だからってそこを無視します、普通?

もちろん触れるにはデリケートな話題なのは分かる。短い年間総括にとてもおさまる内容ではないだろう。でもそうは言っても、よりによってこのニッポンの2008年だったというのに、事件の中身にはまったく触れないまま、「一人一人にとって30年の歳月には意味がある」とかって、いったいどういう神経で書けるのか…。人に人生において30年の歳月に意味があるのは、そもそも当然のことだろうに。そんなこと今更映画や映画批評にお説教されても困りますがな(汗)。

僕はこういうふうに褒められたことないけど、もし『かつて、ノルマンディーで』のような映画を作ってこういう褒められ方したら、「自分はいったいなんのためにこの映画を作ったんだ?」って逆に絶望して、それこそ映画評論家宅を狙った連続テロ事件でも始めちゃうかもしれない。これだったらまだ無視された方がマシ。無視してくれてありがとう、と言いたいくらいだ(まあ別の「30年、40年の歳月」は慇懃無礼に無視した「批評」が大半でしたが--案の定、こちらの予想通りに)。

だって不可解で犯人の動機の真相なんてわかるはずもない事件と分かっていてあえて映画で取り組もうとしたこと、30年前に劇映画で取り込んだ監督とその助監督で今度は自分が取り組もうとしたその意思を、「それは無意味だよ。まあ30年の歳月ごしに作ったからそれは偉いねぇ」とバカにされたみたいにしか思えないじゃんか。だったら我々が映画なんて儲かりもしないギャンブル稼業をやって、ピエール・リヴィエール事件なんて厄介なものに取り組む意味って、どこにあるんだよ?

いや我々映画を作ってる側の感情なんて、まだたいした問題ではない。もっとも腹立たしいのは、今年にあの映画をこの国で見たごく普通の観客が、当然この国の今そこにある現実を当然反射させる知性と感受性を持っているのに、映画評論家という肩書きのある人々がその観客/読者を愚弄しきっていること。まして「日本経済新聞」、社会経験も豊富なはずの、いわば大人の読者を想定した記事のはずですぜ。

そりゃ映画の観客が減るのも当たり前でしょう。っていうか、それって「映画」を馬鹿にした態度以外のなにものでもないようにも、思えて来る。


ドキュメンタリー『靖国』騒動でも、芸術文化振興基金の選考審査員だったであろう批評家だとかは、誰も名乗り出なかった。一応守秘義務があるといっても、それは選考時の癒着を防ぐという目的で、毎年メンバーは変わるはずだから『靖国』を選んだメンバーが職を解かれた後で自分の見解を表明したって問題はないはずなのに。プロデューサーとか実作に関わる立場ならともかく、批評家たるものとしてなんだかあまりに無責任すぎませんか? 他人様、お客様、読者や観客に、そして社会に対して自分の作品とか自分の言葉で向き合うって、まして他人の作品を切り口に不特定多数の読者に対して何かを論ずるって、もっと厳粛なことではなくてはならないのでは、ありませんか?

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