最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

4/24/2011

原子力発電所と共に生きるということ

いわき市・小名浜漁港の漁師。岸壁には津波で打ち上げられたままの漁船が。地震以降、出港も出来ず仕事もないなかで、「復興」などまるで考えられないという。

承前。福島第一原発から20kmの範囲の、先週金曜から「警戒区域」として立ち入り禁止になってしまった地域を主に2日間、あとの1日は「警戒区域」で入れないので、いわき市内を四倉〜小名浜の主に海岸地帯を廻った福島浜通りロケで、率直に思ったのは「頑張って下さい」とはとても言えない、しかし「頑張って下さい」以外には、かける言葉が見当たらないことだ。

   いわき市・永崎

地震と津波の被害がほとんど手つかずなのは、強制的に避難させられたままの20Km圏内だけではなかった。

   いわき市・四倉
   いわき市・豊間

福島県もまた津波と地震の被害に遭っていること自体が、原発事故の陰に隠れてほとんど報じられていないのだが、現地でもまたその被害はほとんど顧りみられず、復旧も復興も進んでいない。

原発事故が安定するまでは手がつけられないのだと、福島県知事が言っている。

政府の復興・振興策がおよそ現実味を帯びて来ないなかで、県は国から分捕れるだけの予算や補償はゲンナマで分捕ろうと決めているようだ。それがまた、知事の再選にはいちばん有効な支持集めにもなるのだろう。

だがその結果、農作物は作付けも出来ず、漁師は出漁自体が禁止され、小名浜漁港では津波で岸壁に乗っかってしまった漁船が、ひと月以上も放置されたままだ。

漁民はなすすべもなく漁港の岸壁にたたずみ、漁協はとにかく補償金を得るように動き始めている。この国の現代の、妙に金銭だけに単純化された価値観では、それしかないのだ。

お金も確かに大切だ。だが、使ってしまえばそれまでだ。

人々が本当に求めているのは一時的なお金や再建にからむ土建利権ではなく、今後もここに住み続けて行くための生活の基盤と、生き甲斐でもある仕事を続けられることだろう。

生きることの意味と価値そのもの−自分の穫ったり養殖した魚や、自分の育てた農作物が「買ってもらえない」以上に「危険だとみなされ食べてもらえない」ことは、もっとも屈辱的にその職業のプライドを打ち砕く。

しかもとくに漁師は、10代から海に出ていて、今さら他の土地で他の仕事だなんて、想像もつかないのが現実だろう。

だが原発事故ばかりが最優先され注目されるなか、その仕事と生活を取り戻せる目処は、まったく立っていないのである。

それに原発がこれでなくなるのだとしたら、それまで原発が雇用を保証する産業でもあった経済基盤はどうなるのだろう?なんだかんだ言っても、東京電力の子会社で働きながらの兼業農家も多く、東京電力の周囲に地元の経済が廻っている面は否定できない。しかも今の日本は、原発事故の放射能被害や、それ以上に深刻な風評被害がたとえなかったとしても、農業漁業で食べて行ける社会では必ずしもないのだ。


漁港では、漁師の知恵で、津波が来る前に沖に逃げて無傷だった小型漁船も、実は少なくない。船だけでいえば、漁業は再開できる。

しかし海に出たところで、放射性物質を含む汚染水が海に流れ出てしまったことが報じられた結果、どうせ魚が売れず、油代も出ない(現に東京都内では魚自体が売れず、魚屋の商品の鮮度も落ちて来ている)。

四倉漁港の復旧は、国道に上がってしまった漁船が漁港の岸壁まで降ろされているだけだ。水産加工場どころか冷蔵庫も破壊されている。


小名浜でも四倉でも、津波は漁港の防波堤を破壊し超えて内陸を襲ったものの、その設備が津波の力を減じたのか、震源と海岸線の位置関係も幸いしたのか、たとえば小名浜では市街地は主に浸水被害で、不幸中の幸いで家々が破壊されて瓦礫しかない荒野のようにはなっていなかった。

そうは言っても、震災後もう40日、漁に出られないのだからまず仕事がない。大臣も来たそうだが、「一緒に復興を頑張りましょう」と口先だけは言いながら、なんら将来の復興の展望も示さずに帰って行ったという。

すべては原発事故が安定するまでなにも動かないのに、いつまでかかるのかもさっぱり分からない。「工程表」がやっつけ仕事でおよそあてにならないことは、誰もが気づいている。

小名浜港は原発から50Kmくらい離れている。いわき市自体、避難区域にはごく一部しか入っていないし、いわき市は巨大な市だ。だが県外からは、あたかもいわきに原発があって危険なのだと誤解されているのではないかとすら思えると、漁師達は語っていた。

また一方で、「海は繋がってるからね、しょうがない」とも。いずれにせよ「漁師と百姓は無視されている」、そう思うしかないのが浜通りの現実であり、実を言えばこの国の数十年にわたる政治だった。

元から地場産業である農業漁業では食べていけなくなった戦後高度経済成長の時代があって、その結果として原発が浜通りにふたつも作られたのがこの地域の歴史である。原発は潜在的には危険だが、そこで保証される税収や補助金、なによりも雇用が、この地域を衰退から守って来たのもまた現実なのだ。

しかし原発が立地する町には補助金や税収があり、原発の近くではあってもそこに原発があるわけではない、いわき、南相馬、北方の飯館村などには補助金はない。双葉や大熊、富岡に較べれば、浪江などは補助金の額も少なく、税収にもならない。その微妙な差異がまた、地域に暗い影を落としてもいる。いわき市の海岸地帯から見ると、宮城など他県の復興ばかりが優先されているようにも見える。

およそ聞いていいて気持ちのいい話ではないが、それだけ皆が諦め、絶望し、焦っているのだ。

しかたがない。ほとんど誰も、その声に本気で耳を傾けようとすらして来ていない人々なのだ。我々が出来るのは、せめてその苦衷を察して話を聞き、記録することだけだ。

小名浜港からすぐ北の永崎という海岸の集落も津波でひどい被害を受けていた。そこからもう少し北の豊間も、町並の半分が津波で破壊され、瓦礫で満足に車で乗り入れることも難しい状態のままだ。


豊間では、津波で半壊した家の前にたたずむ老夫妻に話を聞いた。半壊といっても、築140年の家の柱はびくともせずに残り、この家を修理して住み続けることを決意したという。そう聞けば誇らしい話かと勘違いされそうだが、「他に行くところもないし。でも福島に将来があるとも思えない」と老人は続けた。

大工の勧めで家を直して住み続けることにはしたのも、もう引退しているので家をこれから借りるのも難しく、壊して建て替えるよりはまだ、少しはお金がかからないからでもある。


この家には、「私の建物です。壊さないで下さい」という貼り紙がしてある。だが周囲の半壊の家の多くには、撤去を指示する貼り紙が目につく。

取り壊しまでは今は行政が無料でやってくれるものの、ほとんどの人に、建て替える資金の目処などないだろう。では本当に、今後もここの人々は済み続けることができるのか?それを担保する答えは、誰も出していない。


自分たちはもうこの年齢だからいいが「若い人たちは焦っている」。仮設住宅の抽選に誰かがたまたま当選するなど、ちょっとしたことで避難所では苛立が募るという。

それもまた、しかたのないことなのだろう。しかしこうして小さな集落は引き裂かれ、地域もまた引き裂かれて行く。原発事故の行く末を見守る中で、ここにあった「故郷」の破壊は、今もう、すでに進行しているのだ。

これから避難所に帰る途中に風呂に行くのだと老夫婦はいう。それも一週間に一回だけだ。

 塩屋崎 築140年の津波被害を受けた家の前で

原発から20kmの範囲内を、4月21日までに富岡町や楢葉町、双葉町、浪江町、大熊町、広野町で我々が撮ったフッテージには、それなりに希望か、少なくとも安心感を示せるものも多々あるはずなのだが、我々が20Km圏内を駆け回って撮ってる間に急に決まった22日から「警戒区域」で、そのかすかな希望ですらはかないノスタルジアになってしまったのかも知れない…。

 福島県浜通り・大熊町の放牧状態の牛

我々の当初の企画は、あわよくば20Km圏内に残り続けている農家を見つけて、そこでの日々の生活を撮って集落の歴史を語ってもらえれば、それが主軸になって力強い映画が出来るだろうという考えだったし、今でもそれが出来れば理想的だとは思う。

決して声高になにかを主張するわけではないが、そこに残り続けること自体がひとつの生き方の決意表明であり、原発に集約される現代の不条理への静かな抵抗なのだろうと、思うからだ。

少なくとも映画的には、静かな抵抗と闘いこそが、最も高貴で美しい。矛盾のすべてを引き受けながら苦悩し、あるいは黙々と自分の生き方を貫くことをこそその闘いとすること。

小川紳介の一連の「日本解放戦線・三里塚」シリーズは、あの静謐で深淵な『三里塚・辺田部落』という小川の最高傑作にこそ行き着いたわけだし、むろんドライエルの『裁かるるジャンヌ』を忘れるわけにはいかない。

原発事故をめぐる情勢は、社会的・政治的な意味での、ひとつの闘いなのだという確信は、この三日間でいよいよ強くした。

この闘いは決して、敵/味方の二項対立の闘争・抗争ではなく、原発がただ「悪」なのでもない。

原発と共に生きて来ざるを得なかった人々が自分たちの尊厳を取り戻す闘いであり、世界と自分との関わりを正常化する闘いなのだとすら思うし、それはこの日本が今後まともな国であり続けられるかの闘いでもあるとも、いよいよ強く思う。

原発の事故は決して原発だけの問題ではない。

東京電力の責任を問い政府を責めることは容易いが、福島県浜通りに東京電力の原発が2つと火力発電所が1つ、さらに東電に電気を売る火力発電所がさらに3つあって、本来は農業と漁業が主要産業であったはずが(あと戦後まもなくまでは石炭)、農作物と魚ではなく電気を送った方がそこで食べていける、出稼ぎなどに頼らずに故郷で生き続けられることになっていたその現実が、歴史的な社会構造の不公平、そして高度成長が終ったあともその経済構造を変えようとしなかったすべてのツケを、見事なまでに分かり易い矛盾の構図を、こうした地域に押し付けて来たのだ。

今や福島県浜通りは、その象徴ともなる静かな戦場になっている、この三日間の撮影/ロケハンで思えた。

  福島第一より約20Km 広野町の農家「二年後には専業を目指す」

この震災と、とくに原発事故は、このもはや20年30年前には変え始める必要があったことを、今こそ変えなければならない最後のチャンスを、提示してもいるはずだ。

だが福島県以外の日本のすべてが(もしかしたら宮城・岩手も含まれるのかも知れないけれど)、その闘いを無視し「福島」をなにか忌むべき特殊な記号であるかのように処理しようといる。

だからこそ、そこに残り続ける闘いは自身の人生をかけて自分の尊厳と、土地と生命と分ち難く結びついた実存を守り抜く哲学的な次元にも到達するだろうし、そう撮ることも出来るだろうと思っていた。だが、この方向性は、3つの理由で断念せざるを得ないだろう。

ひとつは現実的に、「警戒区域」指定により20Km圏内で我々が撮り続ける以前に、主人公となるべき人たちがそこで暮らし続けること自体が困難になったこと。

もうひとつもこれまた現実の問題として、二日間では残り続ける人に会うことが出来なかった。出会えていれば一週間くらいそこに主人公達と篭城することも考えないではないわけだが(実際、電気さえ通っていて機材の充電ができれば、あとは先方が理解してくれればそれは可能だったわけで)。

だがもっとも痛切な理由は、見捨てられた福島浜通りの、とくに原発事故の被害を受けている場所には、絶望にも至りようがない諦念が漂っているからだ。20Km圏内に留まる人々はまた違った心境なのだろうが、他の人たちは、いわば宙づりの状態に置かれ、好奇のまなざしをむけられると同時に、無視されていることを痛切に感じているように思えた。

そして原発と共に生きる場に留まり続けて来た人もまた「警戒区域」指定によって、その確信と信念を奪われ、宙づり状態に引きずり込まれる。

いや彼らは最初からそれを直感したからこそ、故郷を離れることを拒み続けていたのかも知れない。

だがそのささやかな個人的な闘いも、国家政府のメンツと、匿名性の大衆の共謀によって、押しつぶされようとしている。

福島第二原発が立地する富岡町の町役場前では電気は
通っているため、無人の街道沿いに電光掲示板が虚しく輝いていた


4/23/2011

福島第一原発の周囲へ行って来ました

福島第一原発より5Kmほどの地点、浪江町 請戸港の津波被害
4月21日に撮影 ©2011, Aliocha films, inc.


4月20日から三日間、福島県浜通り、今では「福島第一原発がある地域」として有名になってしまった地域に行って来た。いわゆる20Km圏内が「警戒区域」に指定されたのが22日、その前の2日間はその20km圏内の広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町などを見て、3名の小編成スタッフ(筆者、撮影の加藤孝信、助手の山田哲弥)で撮影して回った。

上はこの撮影で20km 圏内で撮ったフッテージのひとつである。遠景には原発の排気塔も見える。


この震災についてなにか映画を撮らなければなるまい、ならば撮るべきなのはやはり福島県浜通りだろうと考えたからだ。震災被害で浮かび上がったこの国の構造、地方と中央の冷酷な関係と、そのなかで日本人が自分たち自身を見失いつつあることが、もっとも痛烈に浮かび上がるのが、ここだと思ったからだ。

 <仮題「No Man's Zone」英文の企画書はこちら>

当初の企画は避難勧告が出た20Km圏内に残り続ける農家、とくに老人に密着し、ただ原発事故だけでなく、この地域、自分たちの村の歴史から現代の悲劇に至るまでを象徴的に、農民漁民の生活から浮かび上がらせることだったが、三日目に「警戒区域」が発令され、それは不可能になった。

自分たちがもう入って撮影は出来なくなるから困るというだけではない(それも我々の懸念としてあることは、否定はしないが)。

残り続けているといっても生活に必要なものなどは、20Km圏外でないと調達できないのだから、この処置で彼らがその故郷に残り続けることは事実上不可能になるのも、時間の問題となった。

要は政府としては、そうやって政府の指示に従おうとはせず、政府のメンツを潰す者たち(地元の人も、我々も)を強引にでも排除し潰そうとしているのだろう。

一方で避難している人たちには、政府に従った「ご褒美」でもあるかのように、一時帰宅が許可されるという。

とはいえ一世帯に一人だけで、それもたった二時間で、荷物の持ち出しすら限定されるという、これまた人を馬鹿にした話だ。

たった二時間でなにをしろと言うのか?一世帯で一人なら、夫婦で必要なものをその場で選ぶことすら許されない。地震や津波で痛んだ家を片付ける時間もないだろう。大地震で墓石が倒れているところも多いが、それを直している暇もあるまい。


商売に必要な書類をとりに行くにも、津波は逃れていても大地震だったことは道路状態の悪さから容易に想像がつくわけで、店舗や事業所が地震で潰れてしまったところも少なくなく、ならばまず瓦礫をどけなければ書類探しも無理だろう。

建物は残っていても、なかはぐちゃぐちゃになっているところだって多い。

一世帯に一人ということで、夫が入る場合が多くなるのだろうが、妻が通帳や印鑑などをどこにしまっているかも、夫が探すのは一苦労ということになってなりかねない。二時間はあっという間に過ぎる。

どこまでも人々の生活が見えていない、想像どころか考えることすら出来ないのが、この国の「偉い人たち」であるようだ。

それも一ヶ月以上も経ってからである。

報道で知ってはいたが、福島県警がやっと遺体等の捜索を始めている光景にも遭遇した。白いそろいの防護服姿が、なにやら亡霊のようにも見えた。

富岡町の富岡駅周辺では、その警官隊に制止されたりもした。遺体の捜索にあたる姿をあまり見られたくはない気持ちは、分からないではない。


津波で破壊された常磐線・富岡駅。駅舎を挟んで陸側はある程度建物は残っているが、防護服姿の県警が主に捜索に入っていた海側はまったくの更地の状態だった

通常の震災では、生き埋めにされた人などの生存の限界は72時間、3日間とされる。今回の東日本大震災では9日後にも石巻市で生存者が発見されたりしたのだが、原発周辺の地域では、その期間に捜索はまったくなされなかった。

人々が決しておおっぴらに口には出来ない不満、いや苦悶は、隣人や親族が見殺しになってしまったこととも無関係ではあるまい。

今さら捜索を始めても遅いことは、県警にも分かっているだろう。

現場の警察官にしてみれば、一刻も早く捜索に行きたかったのかも知れない。だが「安全第一」の上層部や政府が、それをなかなか許さなかったであろう事情も容易に想像がつく。それで被曝負傷者でも出れば、自分たち上層部の責任になる。だから避ける。

第一原発での事故対処も、大きな余震があれば即全員退避で、作業が滞ることが多いとも聞いた。いや最初から、全員退避命令のせいで、事故が拡大したのではないか、という不満すら現場から上がっているらしい。

この請戸漁港も、捜索の手はまったく入ってないように見える。


その他にも富岡町や双葉町で、我々は津波で破壊されたままになっている場所を見て来た。

原発の北半分が立地する双葉町では、海岸近くに広がる広々とした水田が、一面津波にやられたまま、手つかずになっていた。瓦礫から推察するに民家もあったのだろうが、そのこともまったく分からないまま、海岸に植えられた防風林の松だけがかつての田園風景の美しさを伝えていた。


この田畑から岬をひとつ隔てて南側、より原発よりの海浜公園では、護岸の入った上の松の下の地表の崩れ方から、いかにこの地域を襲った津波が大きかったのかが推測ができる。


それでも松は立っている。護岸や防潮壁の分厚いコンクリートが破壊されても、防風林の松が最後の障壁になって、浸水被害だけで留まったような場所も、いわき市の海岸地帯で見かけた。

津波の破壊力にあらためて慄然とすると同時に、20Km圏内ではそれが原発事故のためまったく手つかずに放置されたままであることに、胸が痛む。


…と同時に、この地域、福島県の浜通りが、とても美しい場所であることにも率直に驚いた。

自然の猛威を思い知らされるだけでなく、自然のたおやかでやさしい美しさもまた、そこにあったのである。

津波の届かなかった場所に広がっていたのは、地震で道路はひどく痛み、地震で痛んだ家々はあっても、素朴な美しさに満ちた、陳腐な言い草で申し訳ないが「日本の原風景」とでも形容できそうな、麗しい田園風景だったのである。


いやまったく、この震災と原発事故以前には、この地方になんの興味も持っていなかった自分を恥じる他はない。


ちょうど桜の満開の季節でもある。山林の端や、田畑や家々の庭の要所に植えられた桜が、初春の木々の淡い緑や、まだ葉がついていない木の枝との絶妙のコントラスト。それは東京で見られる桜だらけの公園や桜並木とはまるで異なった、清楚で上品な美しさだ。

避難を余儀なくされた人々が早くうちに戻りたいという気持ちが痛いほどよく分かる、美しい故郷がそこにはあるのだ。

だがこの美しさは、4月22日の午前零時をもって、もはや誰も見ることもできず、そこで生まれ育った人にとって戻ることができる故郷でもなく、ほとんどの人にとっては永久にかえり見ることもない風景となった。

4/17/2011

エドワード・ヤン、「人生は本当はシンプルなものだ」

 エドワード・ヤン『Yi Yi: a one and a two』(2000)

エドワード・ヤンが中国語ではただ「一」という数字の二度繰り返し、英語題は「一と二」とだけ名付けた遺作、日本の公開題名は主人公一家の末息子の名前をとって「ヤンヤン 夏の想い出」となった、この上なくシンプルにしてこの上もなく複雑な人生の機微を見せる映画が、久々に東京で上映中だ。

  4月22日まで高田馬場の「早稲田松竹」にて
  http://www.wasedashochiku.co.jp/lineup/nowshowing.html

「アジア映画」の枠組みに押し込められてしまいがち、それは未だ商業的にはアメリカ中心、芸術文化的にはヨーロッパ中心の植民地主義的な構造が残る世界の映画界のなかでは下に見られがちなハンディを意味するのだが、エドワード・ヤンが1980年代以降の世界映画でもっとも重要で、もっとも優れた、その作品の芸術的価値の最も高く、その映画の提示する哲学的な意味がもっとも知的で、洗練され、そして深い映画作家の1人であることは、間違いがない。

結婚式で始まりお葬式で終る映画。「結婚式は縁起のよい日を選んで、赤いものをたくさん飾って賑やかにするものだが、現実にはそんなに幸福なものとは限らない。一方で葬儀は悲しいものだとされているが、静かに心を落ち着かせられる場でもある」(エドワード・ヤン)

未だに建前は中華民国を名乗る台湾という国の持つ歴史的に複雑なアイデンティティの混沌と、その軸足の定まらない社会のなかの少年時代の心の闇に切り込んだ記念碑的な大作『クーリンチェ少年殺人事件』の深遠な政治性は、ドイツ社会の偽りの戦後を揺さぶり続けたライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの過激さに比肩し、近代化する社会のなかでの女性のアイデンティティの揺らぎを鮮烈に捉えた長編デビュー作『海辺の一日』はすでにイングマル・ベルイマンの哲学的な女性の実存の探求と並び称されるべきものであると同時に、巧みなフラッシュバック構成はベルトルッチの『暗殺の森』に互角の奸智を見せ、都市生活者の孤独を凝視する『台北ストーリー』『恐怖分子』の洗練を極めた冷徹さはミケランジェロ・アントニオーニをも圧倒しかねないものであり、その作品に一貫する映画メディアそのものへの問いかけは、ジャン=リュック・ゴダールに一歩も引けをとらない。

8歳の少年はひたすら他人の背中の写真を撮る。「自分の背中は、自分では見られないでしょ」

ひとことで言うのなら、現代映画とは、エドワード・ヤンのことなのだ。

高度に文明化した「現代の世界」を適確に見せ続ける感性をこれほど洗練させ、そこに生きることの人生の意味そのものをかくも奥深く追及し続けることが出来た映画作家は、我々の時代においてエドワード以上には、いない。

   『台北ストーリー』

   『恐怖分子』

   『独立時代』

そのエドワードが、『クーリンチェ少年殺人事件』で台湾史と自分の前半生を総括した後、「台湾は豊かになった。台北でもロサンゼルスでもパリでもベルリンでも東京でも、人間の生活はそう変わらない世界だ。だからこそ僕は、これからは若い世代に語りかけなければならない」として作った『独立時代』『麻雀』を経て、到達した境地であるこの映画は、これまでの作品のすべてを引き受け、その自分自身への解答ともなっていながら、とてつもなくシンプルで、難解さのかけらもなく、ひとつの家族の日常をただシンプルに、淡々と見つめる。その深い感動に比肩しうる映画は、映画史上に小津安二郎の『東京物語』くらいしか思い浮かばないかも知れない。

実のところ、あまりに見事にそれまでの作品で提示して来た現代人の孤独と精神の空虚への解答ともなっているこの映画を見て、エドワードに「この映画でひとつだけ心配なのは、このあとどんな映画を作るの?これが遺作でもおかしくない」と尋ねてしまった。

彼は笑って「まだ映画でやりたいことはたくさんあるから心配要らないよ。今度は刑事ものをやりたいと思ってるんだ。アメリカで、シアトルを舞台に中国系の刑事が主役になる。最近のアメリカ映画を見ていると、アクションの撮り方があまりになってないので腹立たしいんだ。正しいアクションの見せ方をアメリカ人に教えてやるつもりさ」と笑っていたのだが…。


だが映画史上もっとも悲痛な喪失の物語でもある『東京物語』とは真反対に、ただもっともシンプルな数字である『一』の繰り返しだけの題名を持つこの映画は、人生そのものを受け入れたときに目の前に広がる大きな希望に、満ちあふれているのである。

そしてこの映画の7年後にこの世を去ったエドワードが、実はこの映画の撮影中にすでに大腸がんの診断を受けていたことを知って見る時に、我々はそのフィルモグラフィを貫く驚くべき真実に、気づかされるのだ。

 エドワード・ヤン『海辺の一日』冒頭部

『海辺の一日』の終盤近く、二人のヒロインの一方の兄でもう一人のヒロインのかつての恋人だった医師が、がんで亡くなった時の様子が、妹であった女から恋人であった女へと告げられる。

そのすべてを、人生の失敗も挫折も、死をも受け入れる言葉は、実はこのエドワードの遺作とまったく同じことを、すでに語っていたのだ。

すべてを受け入れた先の再生、それは今のこの日本でもっとも求められているものなのかも知れない。

 『Yi Yi: a one and a two』お葬式で終る映画

そしてエドワードの映画、とくに『独立時代』『麻雀』とこの遺作の晩年の三作品が語っているのは、その再生は我々が自分から虚心に探求しようとし尽くしたそのときにだけ、唐突に、簡単に、見つかるのだということだ。

すべてを受け入れたとき、この世界はささやかな奇跡に満ちている。エドワードはそっと、そう呟き続けている。

4/13/2011

原発事故があらわにした日本人の差別の構造

中島みゆき『顔のない街の中で』

この歌を菅直人首相に聴いて欲しいし、「放射能怖い」が露骨な被曝差別になってる人、「福島で今避難しないのは」とか恐怖を煽っている人たち、その一方でそれでも原子力発電は日本に必要だ(=多少の犠牲はやむを得ない)と思っている人すべてに、聴いて欲しいと思う。

見知らぬ人の笑顔も
見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう
見知らぬ人のことならば
ままにならない日々の怒りを
物に当たる幼な児のように
物も人も同じに扱ってしまう
見知らぬ人のことならば
ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ


上の私製ビデオクリップは、作った人がフィリピンの貧民街での体験を反映させたものだが、今や同じことを、外国どころか同じ日本のなかについて言わなければいけない状況になっている気がする。

フィリピンどころか、同じ日本列島のなかで、日々テレビにそこが映っているはずの場所のことのはずなのに、その人たちは我々にとって、「顔のない」人たちになっている。

詳細はまだ分からないが、福島県飯館村で「計画避難地域」が決まって、自殺された老人までいるという。以前にも政府の「摂取制限」発表に絶望した福島県の農民が1人、自殺している。

この批判されるのが嫌なだけの政権のあまりにも中途半端な、そしてタイミングがずれた避難指示の改訂もまた、当事者のことをなにも考えていない。

見知らぬ人の痛みも
見知らぬ人の祈りも
気がかりにはならないだろう
見知らぬ人のことならば
ああ今日も暮らしの雨の中
くたびれて無口になった人々が
すれ違う まるで物と物のように
見知らぬ人のことならば
ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ


だいたい「緊急避難準備地域」とは、あたかも緊急事態がこれから起るような不安を煽る言い草だが、現実には最悪の緊急事態が起こりうる状態は最初の数日〜10日間程度のことだけだった。今後の「万が一に備える」にしても、一方で避難するのは生活もある人間なのだ。物のようにここからこっちに移します、と言えるような話ではないはずなのだが、その想像力もゼロ。

見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう
見知らぬ人のことならば


それにしても、「日本はひとつ」とは裏腹に、こんなことまで起っているのだから呆れる。

「子供が心配」福島ごみ処理支援で川崎市に苦情2千件超
産経新聞 4月14日(木)0時48分配信

川崎市の阿部孝夫市長が東日本大震災で被災した福島県を訪問し、がれきなどの災害廃棄物処理の協力を申し出たことに対し、2000件を超える苦情が市に寄せられていることが13日、明らかになった。

阿部市長は7日、福島県庁で佐藤雄平知事と会談。被災地支援の一環として「津波で残ったがれきなど粗大ごみを川崎まで運び、処理したい」と申し出た。このことが新聞などで報じられた8日以降、川崎市のごみ処理を担当する処理計画課などに「放射能に汚染されたものを持ってくるな」「子供が心配」といった苦情の電話やメールが殺到。中には阿部市長が福島市出身であることを挙げ、「売名行為だ。福島に銅像を建てたいだけだろう」というものもあったという。

川崎市は「放射能を帯びた廃棄物は移動が禁止されているため、市で処理することはない」と説明。市のホームページでも安全性や理解を呼びかけている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110414-00000507-san-soci


川崎市で、福島県では処理し切れなくなった震災で出た瓦礫等の廃棄物の処理を引き受けたところ、放射能を含んだ煙が飛ぶといわんばかりのデマが盛り上がり、猛反発が起ったのだそうだ。

ネット上でのこのデマの伝播の経緯がここに分析されているのだがhttp://news.livedoor.com/article/detail/5486245/?p=1、有名な「反原発」学者が差別デマの火に油を注いでいるのには呆れた。

またこの人物が、原発事故からの汚染水の流出についての政府見解の、20Km圏内は避難区域であり、海流で拡散されるから今のところそこまでの危険性はないだろうという見解があまりに楽観論であったにせよ、そこに「海水浴をしても安全なのか」と噛み付いたトンデモ屋さんなわけだが(それでも学者か?政府の発表の仕方があまりに稚拙でかえって混乱を招くものであるのは確かなのだが、とはいえなぜこのようにあからさまな嘘を用いるのだ?)。


この有名「反原発」(原子力発電に反対なのかデマで恐怖を煽りたいのか、もはや判然としない)学者には悪気はないのかも知れないが(さすがに広瀬隆のように露骨な反ユダヤ主義差別カルトの怪文書を流布してるわけではない)、彼のような人物が結果として助長している文脈においては、「福島」「原発事故」「放射能」が、もはや「被差別部落」と同じような扱いになっているとしか思えない。

放射能は「死」と関わることであり、そして原子力発電が「荒ぶる神」と化した。

だからそこに関わる福島は「穢れ」だから忌避する、と言わんばかりの構造だ。挙げ句に市長が福島市出身であることをあげつらうのだから、「福島」という地名と空間がまったく「忌むべきもの」の記号と化している。福島県産の米が売れなくなったのと同様、そこにはなんの合理性もない。

いわゆる被差別部落民が、葬祭を司り、動物の屠殺や皮革加工などの、自然界から「命を頂く」ことと関わっているが故に、かつては神と人間の中間存在/仲介者として畏怖され、江戸時代には幕府が制度上不可触賤民とみなしても文化の担い手として憧憬を集めていたのが、明治以降はただひたすら不潔・穢れとみなし、拒否し、差別して来たのと、まったく同じ構造、その現代版ではないか。

ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ
顔のない街の中で
顔のない国の中で
顔のない世界の中で


死に関る職業を穢多として扱い忌避し差別するのと同様に、放射線は「死」の象徴なのだろう。だから専門の人間だけ知ってればいいし、扱えばいい。自分達の日常にそれが持ち込まれることを極端に恐れる。そしてそこに関わったことが地名だけでもスティグマとなり、それを背負ったとみなされる人間は、拒否する、拒絶する、差別する、その「顔」も「声」も奪う。故郷も、名前も奪う。

原子力の研究をして来た研究者がテレビで解説をすれば「御用学者」「推進派」のスティグマを負わされる。いやがらせで電話がパンク状態になった人もいるという。

その「穢れ」から免罪されるには、「反対派」の記号を選びとったことを自己証明しなければならない。すると今度はまるで神のような崇拝対象とされる−いわゆる部落民の起源がシャーマンであったのと同様に。

ところがそうした以前からの「反対派」学者は実験経験が少ないので、計測値の誤りを見抜けず、誤ったデータに基づいた机上の空論(「放射性塩素が検出」なら、海水の塩分から派生したという相当にあり得ない仮定しか成立しない)で「再臨界の可能性」に言及してしまうと、危険視するよりは大喜びするかのようなパニックが広がり、「東電の隠蔽だ!」となる。

当の学者は「間違ってました」とすらなかなか言えない。崇拝が差別に変わるのは紙一重の問題だから、それは怖いだろう。


一方で原発事故と必死で格闘する作業員たちは防塵マスクと防護服に覆われた、やはり「顔のない」存在としてのみ表象され、彼らの仕事よりも、「被爆したかどうか」だけが焦点になる。


日本の「市民運動」とか「左派」のフリって、しょせんこんなものだったの?

思いやりや他者への想像力のかけらもなく、身勝手で、本性は差別が大好き。「正義」や「ヒューマニズム」を装うのも、しょせんはそれを主張する集団のなかに匿名性の自分の居場所を求めて同化しようとするだけ。

まさに「顔のない街の中」に埋没したがる、自分の顔を持たぬ輩の正義ごっこ。だから他人の命も暮らしも、その祈りも痛みも悲しみも、見知ることも出来ないのだろう。

ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ
顔のない街の中で
顔のない国の中で
顔のない世界の中で


東京で「放射能怖い」と騒いでる、これまた「左翼系」な人たちは、今や完全にその「穢れ」差別と排除と空想上の敵への攻撃心で結束するメンタリティに陥っている。

だいたい「政府が、東電がちゃんと説明せずに安全だと言うから不安になる」って、そんなの経営者や政治家に訊くことじゃないのにね。医学の話なんだから医者に訊くだろうにね、普通は。政府もまたなぜ官房長官にそんな発表をさせるのだろう?弁護士あがりだろうに、枝野って。


その本当の動機はもはや分かり切っているだろう。みんなと一緒に不安になりたいだけ、その不安な自分の身勝手を「正義」と認められたいだけなのだ。

あたかも母親であれば不安にならなければならない、その不条理を「母性愛」の絶対正義として認めろとか言わんばかりの、強引な同調圧力。

水道水を子どもに飲ませていいのかどうかの不安よりも、安全なのが分かっている水道水でも子どもに飲ませたら後ろ指をさされることが、本当は不安なのだ。

これは大自然の猛威と自然科学に基づく科学技術の暴走を前にした、祭りなのだ。

現代の日本人は、その祭りの作法を忘れてしまっている。明治以降、白人盲信の中途半端な西洋化で去勢された我々には、畏怖する他者的なものを「祀る/祭り」の儀礼はもはやなく、祈りも共感も想像力も失ったまま、ただひたすら拒絶し、排除し、差別することに安心感を担保することしか、なくなっているのだ。

…と、かように幻滅するばかりの「原発事故」の日々。これでは編集中の新作『ほんの少しだけでも愛を』でとりあげた「大阪」であるとか、そこの「市民の映画館」だけを責めるわけにはいかない。たまたま大阪に、歴史的な経緯から、いわゆる被差別部落が多いからああなっているだけなのだ。

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)

我々が撮ってしまったのは、まさに現代日本の縮図だったことが、この震災での被災地以外の馬鹿騒ぎで、よく分かった気がする。

多くの人のバケの皮が見事に剥がれてしまったことも含めて。

まさに我々がこの映画で告発しようとしているように、「死」とか「自然」とのつき合い方向き合い方、そして自分自身との向き合い方を見失った日本人達が、だからみんなと一緒に差別をしたり互いに敵意をむき出しにすることで、そこに自分の居場所を確認するのが習い性になっているのだ。

顔のない街に属していたいという倒錯した、己の人間性を捨て去った願望のためだけに。まさに己の顔を棄てたいがために。

見知らぬ人の痛みも
見知らぬ人の祈りも
気がかりにはならないだろう
見知らぬ人のことならば
ああ今日も暮らしの雨の中
くたびれて無口になった人々が
すれ違う まるで物と物のように


ところが我々が撮ったことに実はソックリ、という点では、もっと凄いものが現れてしまった。

他ならぬ我らが総理大臣閣下・菅直人氏がまた…。

原発周辺「20年住めない」=菅首相が発言、その後否定
時事通信 4月13日(水)15時51分配信

菅直人首相は13日、松本健一内閣官房参与と首相官邸で会い、福島第1原発から半径30キロ圏内などの地域について「そこには当面住めないだろう。10年住めないのか、20年住めないのか、ということになってくる」との認識を示した。松本氏が会談後に明らかにしたものだが、首相は同日夜、「私が言ったわけではない」と記者団に語った。

松本氏によると、同氏は首相に対し、避難生活を強いられている周辺住民の移住先について、福島県の内陸部に5万〜10万人規模の環境に配慮したエコタウンをつくることを提案。首相は賛意を示し、「中心部はドイツの田園都市などをモデルにしながら、再建を考えていかなければならない」と語った。

ただ、松本氏はその後、「20年住めない」との発言について、「私の発言だ。首相は私と同じように臆測(認識)しているかもしれないが、首相は言っていないということだ」と記者団に釈明した。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110413-00000089-jij-pol


「そこには当面住めないだろう。10年住めないのか、20年住めないのか、ということになってくる」なんて科学的な根拠は、まだどこにも出てないはずだが、もしかして首相が昨日の記者会見で「私が知ってることは全部情報公開されている」と言ってたのは嘘で、そんな大変なデータを実は持っているとでも言うのか?(あり得ないけど)

原発周辺地域(とそこに住む人々)は、もう完全に、「死」と連なるが故に「穢れ」で「忌むべき」空間にされてしまってる。

そういえばTVでは20Km圏内レポートが流行してるのだが、なんかキャメラの目線がそういう「忌むべき」っていう撮り方になっているのだし。

「無法地帯」などの扇情的な見出し語と共に、そこに住んでいた人々の故郷が失われ放置されていることの悲しみなぞ一顧だにせず。

見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう
見知らぬ人のことならば


だが、総理大臣閣下の言い草は、続きがもっと笑ってしまうのだ(いや笑いごとではないのだが)。

内陸部に5万〜10万人規模の環境に配慮したエコタウンを作るんだそうだ。それも「中心部はドイツの田園都市などをモデルにしながら、再建を考えていかなければならない」などと、総理大臣閣下はおっしゃったのだそうだ。

そこで我々が思い出してしまうのが、大阪市のいわゆる「同和対策」地域の風景だ。

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)この続きはこちら

ここの太鼓の銅像はドイツのニュルンベルクにある「人権通り」をモデルにした「人権・太鼓ロード」なのだという。
http://blhrri.org/topics/topics_0078.html

この種の「特殊目的」が暗黙の了解になっている関西の公共住宅に、共通する様式となっている珍妙な洋風の塔であるとか、そこに言い訳のような第三セクターの商業施設をつくり「ベルタ」とか「マルシェ」とかのヨーロッパ風のネーミングをつけることも…。


…なるほど、「ドイツの田園都市などをモデル」にしたエコタウンねぇ…。

江戸時代まで日本にあった、アニミズム的な文化と精神の構造、死や自然界の猛威といった他者性への畏れと敬意を媒介する立場にあった人々を、その過去の文化を西洋近代化によって「野蛮」と断罪することの分かり易いアクションとして、いかがわしい西洋風によって封印しようとして来た(そこで潤うのが「同和利権」などでは決してなく、「土建業の利権」であることは言うに及ばず)ことと、まったくの相似形ではないか。

『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)より、大阪の境界構造の解析

それにしても、これで原発の周辺地域は放射能と関係なく、政府の稚拙さ身勝手さと、差別と風評への恐れのせいで、無人地帯にされてしまうのではないか…。

また恐ろしく不可解な「レベル7」評価で「チェルノブイリ級」事故との認定も(原発事故として考えられる最悪のケースの臨界爆発であった、文字通り「別格」だから「レベル7のチェルノブイリ」とはまるで違った事故なのに)、これで福島の農業と漁業は壊滅的なダメージを受けてしまいかねない。

しょせん恣意的な政治評価でしかないINESを用いた、それでもまともに理解していれば誰もが首を傾げる「チェルノブイリ並み」判定は、しょせんマスコミの「過小評価」「楽観論」批判を恐れた保身に過ぎないのだが、しかし政府たるものが国民の生活をなにも考えていないとは…。それはマスコミも、むろん同罪だ。

原発の雇用と補助金と税収への依存構造を、過疎化で大きな産業のない小さな自治体に、それがなければ出稼ぎせざるを得ないような土地に押し付けて来た残酷さを無視し等閑視して、「推進派をやっつけろ」的な、生活感ゼロの都会の政治ごっこで「放射能怖い」教の風評を広めれば、地元はますます分断され疲弊し、経済的に原発にますます依存するしかなくなることにも、想像が及ばないのだろうか?

ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ
顔のない街の中で
顔のない国の中で
顔のない世界の中で


まあしかし、この騒動が終った頃には、僕は友達が激減しているのだろうと思う。一部の「原発反対」の映画に関わる人であるとか、その無神経な冷酷さと無自覚な差別意識の発露に、二度と顔もみたくないとすら思ってしまっている。「放射能はとにかく危険なんです、子どもが奇形になったりガンになるんです。ちょっとでも汚染された可能性のある野菜を食べたら危険なんです」とか、原発に反対なのではなく、ただの差別カルトではないか。

4/08/2011

3月11日から4週間

 黒沢清『トウキョウソナタ』より、ドビュッシー「月の光」

3月11日金曜日から、4週間が経った。その直前の木曜の夜にはマグニチュード7.1、最大震度は6強を記録する、普通ならそれだけでも充分に大地震と呼ばれるはずの余震で、東北地方は大停電だという。

先の見えない不安のなか、まず被災地の皆さんには心からお見舞い申し上げる他はない。

その皆さんを思うと同時に、4週間前の地震と津波で命を落とされた多くの方、まだ行方も定かではない人々の死をせめて悼もうとするとき、我々は映画を作っている人間ではあっても、それを伝え表現する言葉も映像もなく、今はただ音楽の力に頼るしかない。

というわけで、先日NHKで放映され、この震災を経てもまったく古びていなかった黒沢清『トウキョウソナタ』(2008)のラストの、喪失と服喪を超えた、再生のための音楽を、冒頭に掲げる。


3月11日とその後の数日間、唐突な非日常のなかで我々はこのままではいけないと思ったはずだ。非日常の、奇妙な、しかしそれはそれで健全なはずの連帯感が、これから何かが変わるのではないかという希望さえ、暗示していた。

だがそれは、幻想だったようだ。

途方もない悲劇に襲われながら驚くほどの強さと人間性を見せた三陸の、ほとんどが破壊された幾つもの町や集落の人々の雄々しさに、慰める側であるはずの我々が逆に勇気づけられたその姿は、しかしすぐにテレビの主役ではなくなり、政府に忠実に従ったテレビ局の、30Km離れた地点から原子力発電所を眺める超望遠の映像に画面が占有されるようになるのと前後して、この国はこれまでは隠し通して来た、見て見ぬ振りをしてきた矛盾と断絶を、露呈し始めて今日に至っている。

そのテレビ画面には、原発の周辺で生きて来た人々の姿は、哀れで途方に暮れる「避難者」のステレオタイプとしてしか映し出されない。「大変ですね」とは声をかけても、「申し訳ない」とは誰も思わない。彼らが震災の被害者でもあることすら無視される。


「がんばろう日本」と「放射能怖い」、この二極分化した狂騒のなかで(この2つはその多重の被災地において、完全に重なっているはずなのに)、幾つもの大事なことが見失われている。

もしかしたらそれらの大事なことを直視しないために、我々はこの2つを魔法の呪文として唱えているだけなのかも知れない。

   アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』(1979)

それにしても、原発事故の被害はなんとか最小限に食い止められているとはいえ、それでもこれだけの深刻な事態だというただその現実だけで、もう充分に「今後も原子力発電を続けていいのだろうか」との疑問が共有されているはずなのに、この期に及んでは事実・現実だけに基づいて主張するべきことを主張すればいいだけのはずなのに、一部の「反原発運動」が風評被害と地元軽視と、いわゆる被曝差別に平然と横滑りするステリックさは、いったいなんなのだろう?

この人たちはほんとうに原子力発電に反対したい、止めたいと思っているのだろうか?

それともこの契機を捉えて東京電力や政府を叩き、そこと癒着していると断ずる大手マスコミを叩く、人身御供を供える祭りに狂奔しているだけなのだろうか?

いや単に、不安と危機を前にして、「放射能」を「穢れ」とみなし差別し排除する、野卑な宗教儀式なのだろうか?

その文脈では、実際に被害に遇っている人々もまた「穢れ」とみなされ、おためごかしの憐れみの裏で既に差別されている

「“直ちに” 健康に影響はない」との言い方、しかし「念のため」農作物を出荷制限だけでなく摂取制限、それも元々基準値を超えていない地域も含めての県単位という、政府の矛盾した言い方が却って不安を覚えさせるものなのは確かだ。

そうは言っても現に、この程度の低い数値の放射線ならば、放射線による健康影響が被曝量とその期間の累積から推測される以上、短期ならば確かに影響はまず考えないでいい。

大気中への放射能の漏洩は、どうも先月15日以降ほぼ治まっていることが計測データから分かるのだが、誰も気にしないようだ。

被災地でもある原発の周辺地域、福島県にとってはこれはもの凄く大きなことのはずなのだが。

まだ福島の一部地域以外では、それこそそんな数値は出ていないというのに、専門医がそうTVで語れば途端に「安全デマ」「御用学者」と叩かれる。あくまで量と期間という前提で語っているはずなのに、「放射能は安全だ」と言ったことにされた挙げ句に、トンデモ呼ばわりである。

そして東京電力と政府がひたすら叩かれる。それで原発事故が終息されるのであればどんどん叩いて下さいと言いたいところだが、そんなはずもない。なのにどういう事故への対処をしているのかもよく理解しないままに、「隠蔽だ」と罵倒される。

「炉心溶融」とか「メルトダウン」が、その意味もよく理解されないままに、「スリーマイル島」という記号と結びつけられて連発される。一部が溶けている可能性が高いからって圧力容器の底に高熱が穴が空いたような意味での「ダウン」であるわけもないのに。

ここまで論理性も科学性もなにもなく、ただ単語とその連想に反射するだけで興奮する社会が、果たして原子力のような膨大な(=危険でもある)エネルギーを手にしていても、いいのだろうか?

我々近現代の日本人は自然の巨大な力とのつき合い方の精神も、「死」との向き合い方の哲学も、完全に喪失しているのかも知れない。

それはそもそも、地震と津波という巨大災害の認識にしてもそうだ。我々が確かにその猛威を認識したはずの、津波の光景の映像も、もう半ばタブー化されている。視聴者の「トラウマ」になるのだそうだ。

その巨大な爪痕が、今でも現実の傷として存在し続けているというのに、ふざけた話である。

その災厄の引き起こした膨大な死者たちへの言及や服喪が無視されていることは言うに及ばず…。そして「復興のためには経済を、だから日常を取り戻せ」と連呼される。

今さら元の通りなどということが、最早あり得ないことから逃げるように。

「被災地に元気を」などとはおこがましい。おびただしい死者たちを前にして、今生き延びている人たちに与えるべき「元気」など、我々は持っているのだろうか?

「勇気」なら、彼ら自身がすでに持っている。驚くべき助け合いの精神と礼儀正しさと共に、彼らはTVキャメラの前にそれを見せつけてくれている。

小学生の子供が「なにか欲しいものは」と尋ねられて、「みんなが寒いから灯油と電気」と答えるような勇気。津波の恐怖、親を失った悲しみを背負いながら、果敢に生きていこうとする勇気。

…と同時に、我々が目を背けようとすることとして、故郷を取り戻したい、ここに居続けたいと思う一方で、それがもはや限りなく不可能に近いことも、彼らはたぶんん、実は理解していることがその表情と言葉の端々には察せられる。

「おしん」や「楢山節孝」ではないが、明治以降、奉公、出稼ぎ、徴兵で戦争に行かされ、戦後もずっと集団就職や、出稼ぎで少しずつ近代日本によって喪失させられて来た故郷は、日本がこのままである限り、もはや決定的に失われるしかないことも。

政治のレベルで言うのなら、被災地にしても、とくに原発事故の被害も受けている地域にとって、本当に必要なのは【補償】ではない。これを機会に大きく転換されなければならないはずの【政策】であり、この国と社会のあり方の大方針転換、明治以降の歪みを総ざらいに作り替えることのはずだ。

だが「日本はひとつ」と言いながら、東京という中枢でそれを本気で議論する人は皆無のようだ。その中枢であることの罪もまた問われるのを、ひたすら恐れるように。自分たちは決して変わりたくないという頑迷な悪しき、そして無自覚で身勝手な保守主義ゆえに。


ふと思うのだが、この東京を初めとする、なんだかんだ言ったところでまるで安全圏で展開する乱痴気騒ぎは、「日本はひとつ」といくら叫んだところで、あるいは東京にある官邸が茶番の舞台になり下がり、やはり東京にある東京電力本店の記者会見が興奮した記者達の怒号の嵐になったところで…

…それは当の被災地の側からは、どのように見えるのだろう?

福島第一原発の、主に2号炉の格納容器からと目される水漏れの膨大な汚染水は確かに問題だし、それが地震で損傷した部分から海に流れ出ていたのも沿岸漁業にとって大きな問題だ。だから穴を塞ぐ一方で、流出路を塞いだ以上は溢れるしかないその収容先が応急処置として必要で、まだそうしたタンク等が間に合わない以上、やむを得ぬ判断として濃度が低い汚染水のタンクを空にするのは、海洋汚染を防げないのなら、その被害を最小限度にするためには、必要なことのはずだ。

ところが高濃度の汚染水が意図せずに流れ出ていたことよりも、その対処とはいえ意図的に、より放射性物質の量の少ない(つまり被害が少ない)水を放出したことの方に、批判が集中する。「海外は日本を海洋テロ国家だと見ることになる」という暴論まで飛び出す始末。

海外の批判がどうこう、意図的だったから違法かどうかよりも、海の放射性汚染を少しでも減らすことが、どう考えたって重要なはずなのだが…。

本当に放射能が怖いと思っていたら、これだって決して手放しで誉められることではないにせよ(早急に他の高度に汚染された水の収容先を準備するべきだとはいえ、まだ間にあわない)、より被害は少なくなることなのだと分かっていれば、こんな話にはならないはずなのだが…。

そんな単純なことは、即座に分かるはず、説明できるし報道できることのはずなのだが…。

この事故に巻き込まれた当事者、とくに漁業者や農業者にとっては、実際の被害が最低限であること(風評で売れなくなるのもまた現実の被害であるのは、言うまでもない)のはずなのだが…。

実のところ、テレビで地元漁業者に取材している映像を見ても、東京電力を批判させたいから低濃度汚染水の放出が決まった時点で取材している側と、その前から起っている高濃度の汚染水の漏洩の方が心配な漁師、そして東電からの補償の獲得を見据えている漁協幹部のあいだで、すでに大きな意識のズレがあることは、それぞれの表情や発言の間合いのニュアンスから、はっきり見て取れる。

生活者と、そうではない人々の違いが。

そして大地に根ざし海に生きる名もなき生活者たちの声は、無視される。水俣病事件からも、なにも変わっていない、なにも学んでいないのだ。


「日本がひとつになって復興を」とは真逆に、これまでも構造的に存在していたこの社会の断絶が、地震と原発事故の結果、かえってはっきりと見えてしまった。

今日のエントリーに使っている写真は、タルコフスキーの『ストーカー』のワンシーンだ。

大地震と核による巨大な破壊があった後の近未来、その破壊の中心であったであろう「ゾーン」と呼ばれる無人地帯に入る三人の男は、見えない恐怖に苛まれながら「ゾーン」の奥へと進んでいく。

不気味なトンネルの入り口に到達した三人は、マッチ棒を折ったクジを引いて、誰が最初に進むのかを決める。作家である男が当たりクジの、折られていないマッチを引き、その「死」が待っているかも知れない暗闇と光のトンネルへと進んで行く。

クジの偶然によってこの扉の向こう側に行ってしまった、死線を超えてしまった作家の人物と、まだ扉のこちら側(とはいえタルコフスキーのキャメラはその「死」の側に最初からあるわけで、キャメラから見れば元から「向こう側」に見えるわけだが)にいる二人の違い。

この二人もすぐにこの扉を踏み越えることになるわけだが、ゾーンの奥底の砂丘の部屋に辿り着くまで、この一人と二人の差異は決定的であり続ける。

この二人と一人の差異は、今の日本の引き裂かれた断絶を象徴しているように思える。


まだ「こちら側」にいるしかない我々は、もはや向こう側に、「震災後の日本」、巨大な天災と破壊で産まれた新たな「ゾーン」というかより哲学的・精神的に高度な次元に進んでしまった、そこに進めなければ死ぬかしかない「東北」がすでに現出していることに気づきたくないがために、彼らのことを思うかのような演技として「日本はひとつ」「元気を与える」と言い続けたり、あたかも彼らのことを思う振りをして「放射能は本当に怖いんだから避難するべきだ」「故郷をなくしても人間は生きていけるのだ」などと言い続けている。

その「絶対他者」を認識したくないために、「日本はひとつ」と「放射能は本当に怖いんだから」の双方に無数の似非物語を作りあげることにのみ、狂奔している。

そこにある真の物語、そこにすでにあって誰も気がつこうとしなかった、近代化によって喪失させられていく故郷の物語と、あまたの死によって中絶させられながら変容していく生の物語を、今でも決して見たくないために。

我々の文明と社会の構造が、その喪失を押し付けながら、そこから逃げて来たことに気づきたくないために。

実際、そう考えなければ、とくに「放射能は本当に怖いんだから」の方はまったく辻褄があわない。放射能が本当に怖いのなら遥かに強い放射能を持った汚染水が流出していることの方が問題のはずだし、東京電力の首脳の吊るし上げよりも事故の本質を理解しどう解決するのかを知ろうとするはずだ。

「推進派」を批判し脱原発の世論を作り出したいのなら、その発言をねじ曲げて誰も言っていない「放射能は安全だ」なんて主張をでっちあげたりはしないはずだ。説得力のある議論を展開し、政府に今後の原発政策を問う国民投票でも要求するはずだ。

まして補助金や雇用を目がくらんで私利私欲で「安全神話」に染まって原発を受け入れたのだから、というようなことは決して言えないはずだ。その補助金や雇用がなければ、町や村がとっくの昔に限界集落になり、ゴーストタウンになっていたかも知れないのだから。

「故郷をなくしても人間は生きていけるのだ」などとよくも言えたものである。出稼ぎに出たまま文字通り故郷喪失者(ホーム・レス)になった人も多い地方のトラウマを想像することもしないで、東京と都市だけが潤う中央集権の構造に乗っかって、我々は「電気は関東へ、放射能だけ福島へ」を金の力で押し付けて来たのだ。

また、もし「日本はひとつ」なら東京でタレントがメッセージを読む公共CMでなく、被災地の声を伝え被災者の雄々しさを見せる公共CMを作るはずだ。

だがその人々の雄々しさに言及したのは天皇だけであり、福島第一原発周辺の被災者の複雑な悲しみに思いを馳せた取材者は姜尚中だけだ。

我々は原発事故で避難を余儀なくされたり、避難地域のすぐ外側で生き抜いている人たちが、原発以前に震災の被害者でもあることすら、忘れがちだ。だから震災の義援金は出さずに東京電力に補償させろとか言う。両方もらって当然のはずなんだが。


それが社会の大勢であるのなら、「向こう側」に運命のいたずらで行き着いてしまった人々は、「こちら側」に留まったままの大衆の差別を恐れて、黙ってしまうしかなくなるだろう。

ヒロシマ、ナガサキで被爆者がそうなってしまったように。地下鉄サリン事件の体験者を聴いた人が村上春樹しかいなかったように、そして秋葉原事件の生存者たちもまたそう扱われ、「社会の敵を死刑にする」という大衆の欲望の正当化の道具へと、貶められて来ているように。


内田樹氏がブログで、かなり痛烈な皮肉を込めて、二日にわたって原子力発電所事故をめぐる日本のうろたえぶりを分析している。

4/7 荒ぶる神の鎮め方
4/8 原発供養

あまりに図星なので、笑いごとでもないのに笑ってしまった。

内田氏の指摘するように、我々は地震という自然の猛威としてのカタストロフィーにせよ、自然の秘めた力を人間が科学技術で使いこなそうとした結果とんだしっぺ返しを食らったカタストロフィーにせよ、そのカタストロフィーを「荒ぶる神」として畏れながらもつき合う知恵や儀式を、確かに忘れてしまっている。

我々は明治維新以降、そのかつての日本文化の、他者や自然との関わり方の知恵や儀式を失った。「穢れ」ともみなしうる「死」と関わるものへの恐怖は、ただの忌避と排除になり、象徴的なこととして、その霊的な儀式を担って来た人々が「被差別部落民」として排除された

生と死の儀礼を司ると同時に、社会の矛盾、人間の矛盾の語り部としての芸術を担って来たその彼らが「近代化」のなかで排除されたとき、日本人にとっての芸術表現、物語は、その本来の現実の中での力をも、喪失させられて来たのである。芸術とはまさに「ゾーンの向こう側」から「こちら側」の人間世界を見て、「我々は本当にこのままでいいのか」を考える道具であったはずだ。

その「ゾーン」の存在を、「近代日本」は恐れ続け、封印して来たとも言える。

3/11は日本という国の歴史が変わる大きな契機となる日付のはずであり、これを契機に我々は自分たちの社会や文明のあり方だけでなく、生活や価値観を問い直されてもおかしくない。


地震と津波と原発事故は、日本がもう、今までのままではいけないことを、突きつけたはずだ。

たとえば確かに我々の豊かな暮らしのために電力は必要かもしれない。夏場の猛暑で老人の熱中症を防ぐためにエアコンは必要だろう。日本の経済のためには、ふんだんな電力も必要だろう。

だがだからと言って、実は潜在的に危険だと誰もが気づいている原子力発電を、補助金と雇用と「日本のため」の三点セットで、その雇用や補助金がなければ過疎の村になるように中央集権の経済体制が仕向けて来た故郷に、むりやり押し付けて来たような構造が、このまま許され続けていいのだろうか?

そこで得られる我々の「幸福」や「豊かさ」は、本当に我々の幸福なのだろうか?


必死で自分たちを納得させて30年40年と原発と共存して来た人々を、その電気を享受して来た我々が安易に責めていいものではないことだけは、確かだ。

石原慎太郎が「我欲にまみれた天罰」とこれまた物騒な言い方をしたようだが、直接の被災者にとってではなく日本全体にとっての「天罰」であるのなら、それはあながち間違った考えではない。ただしそれを言うなら、東北の被災地域の多くはその「我欲まみれ」の文明から取り残されて割を食って来たところだ。

「天罰」なら東京で起るべきであって、そこで計画停電でぶうぶうと不平を言ってるどころでは済まないはずなのだが。

その計画停電だってなぜか東京23区の大部分は除外されるし、どうしても電気がなくては困る医療関係や自宅療養関係に最大のしわ寄せがいくわけで、どこまでも不公平なわけだが。

今「ゾーン」に進まなければならないのは我々なのだ。


被災地がいわば『ストーカー』の作家の人物のように先に進むなら、我々はあとの二人のように、そこについて行くべきでさえあるのかも知れない。

東京から「文化人」を自称する輩が「元気を与え」に行くと称するのもおこがましい。我々はむしろこれから、その死者たちと死を超えた者たちの声なき声に、まず耳を傾けなければならないのではないか。それを表現に変えることにこそ、専念すべきではないか。

3/11後の日本がどう変わり得るのかは、そこからしか始まらないように思える。

地震と津波から9日後、3月20日に奇跡的に、80歳の祖母といっしょに救出された石巻の16歳の少年は、助けてくれた警察官に「将来は芸術家になりたい」と言ったのだそうだ。


彼を救出した警官は、少年のその言葉に勇気づけられたという。

その少年、阿部仁君が大人になり、芸術家としてその人々の声なき声を作品に出来る日が来るまで、3/11で生まれた「ゾーン」が、この国において物語芸術がその本来の意味を取り戻す契機となるために、我々にもまたやるべきことがある。

すでにおびただしい分量のテレビ報道があり、今後は多くの映画がこの震災をめぐって作られることになるだろう。

だがそこで我々が恐らく決して忘れてはならないのは、その映画作りが服喪の儀式であると同時に、近代日本によってシステマティックに喪失させられて来たものを再生する可能性をつなぎとめる、最後のギリギリのチャンスにこそ、我々の映画がならなければならないことだ。

ここまで読んですでに推察されている方もいるだろうが、僕自身が撮るとしたら、福島の原発周辺地域のことになるだろう。