最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

4/08/2011

3月11日から4週間

 黒沢清『トウキョウソナタ』より、ドビュッシー「月の光」

3月11日金曜日から、4週間が経った。その直前の木曜の夜にはマグニチュード7.1、最大震度は6強を記録する、普通ならそれだけでも充分に大地震と呼ばれるはずの余震で、東北地方は大停電だという。

先の見えない不安のなか、まず被災地の皆さんには心からお見舞い申し上げる他はない。

その皆さんを思うと同時に、4週間前の地震と津波で命を落とされた多くの方、まだ行方も定かではない人々の死をせめて悼もうとするとき、我々は映画を作っている人間ではあっても、それを伝え表現する言葉も映像もなく、今はただ音楽の力に頼るしかない。

というわけで、先日NHKで放映され、この震災を経てもまったく古びていなかった黒沢清『トウキョウソナタ』(2008)のラストの、喪失と服喪を超えた、再生のための音楽を、冒頭に掲げる。


3月11日とその後の数日間、唐突な非日常のなかで我々はこのままではいけないと思ったはずだ。非日常の、奇妙な、しかしそれはそれで健全なはずの連帯感が、これから何かが変わるのではないかという希望さえ、暗示していた。

だがそれは、幻想だったようだ。

途方もない悲劇に襲われながら驚くほどの強さと人間性を見せた三陸の、ほとんどが破壊された幾つもの町や集落の人々の雄々しさに、慰める側であるはずの我々が逆に勇気づけられたその姿は、しかしすぐにテレビの主役ではなくなり、政府に忠実に従ったテレビ局の、30Km離れた地点から原子力発電所を眺める超望遠の映像に画面が占有されるようになるのと前後して、この国はこれまでは隠し通して来た、見て見ぬ振りをしてきた矛盾と断絶を、露呈し始めて今日に至っている。

そのテレビ画面には、原発の周辺で生きて来た人々の姿は、哀れで途方に暮れる「避難者」のステレオタイプとしてしか映し出されない。「大変ですね」とは声をかけても、「申し訳ない」とは誰も思わない。彼らが震災の被害者でもあることすら無視される。


「がんばろう日本」と「放射能怖い」、この二極分化した狂騒のなかで(この2つはその多重の被災地において、完全に重なっているはずなのに)、幾つもの大事なことが見失われている。

もしかしたらそれらの大事なことを直視しないために、我々はこの2つを魔法の呪文として唱えているだけなのかも知れない。

   アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』(1979)

それにしても、原発事故の被害はなんとか最小限に食い止められているとはいえ、それでもこれだけの深刻な事態だというただその現実だけで、もう充分に「今後も原子力発電を続けていいのだろうか」との疑問が共有されているはずなのに、この期に及んでは事実・現実だけに基づいて主張するべきことを主張すればいいだけのはずなのに、一部の「反原発運動」が風評被害と地元軽視と、いわゆる被曝差別に平然と横滑りするステリックさは、いったいなんなのだろう?

この人たちはほんとうに原子力発電に反対したい、止めたいと思っているのだろうか?

それともこの契機を捉えて東京電力や政府を叩き、そこと癒着していると断ずる大手マスコミを叩く、人身御供を供える祭りに狂奔しているだけなのだろうか?

いや単に、不安と危機を前にして、「放射能」を「穢れ」とみなし差別し排除する、野卑な宗教儀式なのだろうか?

その文脈では、実際に被害に遇っている人々もまた「穢れ」とみなされ、おためごかしの憐れみの裏で既に差別されている

「“直ちに” 健康に影響はない」との言い方、しかし「念のため」農作物を出荷制限だけでなく摂取制限、それも元々基準値を超えていない地域も含めての県単位という、政府の矛盾した言い方が却って不安を覚えさせるものなのは確かだ。

そうは言っても現に、この程度の低い数値の放射線ならば、放射線による健康影響が被曝量とその期間の累積から推測される以上、短期ならば確かに影響はまず考えないでいい。

大気中への放射能の漏洩は、どうも先月15日以降ほぼ治まっていることが計測データから分かるのだが、誰も気にしないようだ。

被災地でもある原発の周辺地域、福島県にとってはこれはもの凄く大きなことのはずなのだが。

まだ福島の一部地域以外では、それこそそんな数値は出ていないというのに、専門医がそうTVで語れば途端に「安全デマ」「御用学者」と叩かれる。あくまで量と期間という前提で語っているはずなのに、「放射能は安全だ」と言ったことにされた挙げ句に、トンデモ呼ばわりである。

そして東京電力と政府がひたすら叩かれる。それで原発事故が終息されるのであればどんどん叩いて下さいと言いたいところだが、そんなはずもない。なのにどういう事故への対処をしているのかもよく理解しないままに、「隠蔽だ」と罵倒される。

「炉心溶融」とか「メルトダウン」が、その意味もよく理解されないままに、「スリーマイル島」という記号と結びつけられて連発される。一部が溶けている可能性が高いからって圧力容器の底に高熱が穴が空いたような意味での「ダウン」であるわけもないのに。

ここまで論理性も科学性もなにもなく、ただ単語とその連想に反射するだけで興奮する社会が、果たして原子力のような膨大な(=危険でもある)エネルギーを手にしていても、いいのだろうか?

我々近現代の日本人は自然の巨大な力とのつき合い方の精神も、「死」との向き合い方の哲学も、完全に喪失しているのかも知れない。

それはそもそも、地震と津波という巨大災害の認識にしてもそうだ。我々が確かにその猛威を認識したはずの、津波の光景の映像も、もう半ばタブー化されている。視聴者の「トラウマ」になるのだそうだ。

その巨大な爪痕が、今でも現実の傷として存在し続けているというのに、ふざけた話である。

その災厄の引き起こした膨大な死者たちへの言及や服喪が無視されていることは言うに及ばず…。そして「復興のためには経済を、だから日常を取り戻せ」と連呼される。

今さら元の通りなどということが、最早あり得ないことから逃げるように。

「被災地に元気を」などとはおこがましい。おびただしい死者たちを前にして、今生き延びている人たちに与えるべき「元気」など、我々は持っているのだろうか?

「勇気」なら、彼ら自身がすでに持っている。驚くべき助け合いの精神と礼儀正しさと共に、彼らはTVキャメラの前にそれを見せつけてくれている。

小学生の子供が「なにか欲しいものは」と尋ねられて、「みんなが寒いから灯油と電気」と答えるような勇気。津波の恐怖、親を失った悲しみを背負いながら、果敢に生きていこうとする勇気。

…と同時に、我々が目を背けようとすることとして、故郷を取り戻したい、ここに居続けたいと思う一方で、それがもはや限りなく不可能に近いことも、彼らはたぶんん、実は理解していることがその表情と言葉の端々には察せられる。

「おしん」や「楢山節孝」ではないが、明治以降、奉公、出稼ぎ、徴兵で戦争に行かされ、戦後もずっと集団就職や、出稼ぎで少しずつ近代日本によって喪失させられて来た故郷は、日本がこのままである限り、もはや決定的に失われるしかないことも。

政治のレベルで言うのなら、被災地にしても、とくに原発事故の被害も受けている地域にとって、本当に必要なのは【補償】ではない。これを機会に大きく転換されなければならないはずの【政策】であり、この国と社会のあり方の大方針転換、明治以降の歪みを総ざらいに作り替えることのはずだ。

だが「日本はひとつ」と言いながら、東京という中枢でそれを本気で議論する人は皆無のようだ。その中枢であることの罪もまた問われるのを、ひたすら恐れるように。自分たちは決して変わりたくないという頑迷な悪しき、そして無自覚で身勝手な保守主義ゆえに。


ふと思うのだが、この東京を初めとする、なんだかんだ言ったところでまるで安全圏で展開する乱痴気騒ぎは、「日本はひとつ」といくら叫んだところで、あるいは東京にある官邸が茶番の舞台になり下がり、やはり東京にある東京電力本店の記者会見が興奮した記者達の怒号の嵐になったところで…

…それは当の被災地の側からは、どのように見えるのだろう?

福島第一原発の、主に2号炉の格納容器からと目される水漏れの膨大な汚染水は確かに問題だし、それが地震で損傷した部分から海に流れ出ていたのも沿岸漁業にとって大きな問題だ。だから穴を塞ぐ一方で、流出路を塞いだ以上は溢れるしかないその収容先が応急処置として必要で、まだそうしたタンク等が間に合わない以上、やむを得ぬ判断として濃度が低い汚染水のタンクを空にするのは、海洋汚染を防げないのなら、その被害を最小限度にするためには、必要なことのはずだ。

ところが高濃度の汚染水が意図せずに流れ出ていたことよりも、その対処とはいえ意図的に、より放射性物質の量の少ない(つまり被害が少ない)水を放出したことの方に、批判が集中する。「海外は日本を海洋テロ国家だと見ることになる」という暴論まで飛び出す始末。

海外の批判がどうこう、意図的だったから違法かどうかよりも、海の放射性汚染を少しでも減らすことが、どう考えたって重要なはずなのだが…。

本当に放射能が怖いと思っていたら、これだって決して手放しで誉められることではないにせよ(早急に他の高度に汚染された水の収容先を準備するべきだとはいえ、まだ間にあわない)、より被害は少なくなることなのだと分かっていれば、こんな話にはならないはずなのだが…。

そんな単純なことは、即座に分かるはず、説明できるし報道できることのはずなのだが…。

この事故に巻き込まれた当事者、とくに漁業者や農業者にとっては、実際の被害が最低限であること(風評で売れなくなるのもまた現実の被害であるのは、言うまでもない)のはずなのだが…。

実のところ、テレビで地元漁業者に取材している映像を見ても、東京電力を批判させたいから低濃度汚染水の放出が決まった時点で取材している側と、その前から起っている高濃度の汚染水の漏洩の方が心配な漁師、そして東電からの補償の獲得を見据えている漁協幹部のあいだで、すでに大きな意識のズレがあることは、それぞれの表情や発言の間合いのニュアンスから、はっきり見て取れる。

生活者と、そうではない人々の違いが。

そして大地に根ざし海に生きる名もなき生活者たちの声は、無視される。水俣病事件からも、なにも変わっていない、なにも学んでいないのだ。


「日本がひとつになって復興を」とは真逆に、これまでも構造的に存在していたこの社会の断絶が、地震と原発事故の結果、かえってはっきりと見えてしまった。

今日のエントリーに使っている写真は、タルコフスキーの『ストーカー』のワンシーンだ。

大地震と核による巨大な破壊があった後の近未来、その破壊の中心であったであろう「ゾーン」と呼ばれる無人地帯に入る三人の男は、見えない恐怖に苛まれながら「ゾーン」の奥へと進んでいく。

不気味なトンネルの入り口に到達した三人は、マッチ棒を折ったクジを引いて、誰が最初に進むのかを決める。作家である男が当たりクジの、折られていないマッチを引き、その「死」が待っているかも知れない暗闇と光のトンネルへと進んで行く。

クジの偶然によってこの扉の向こう側に行ってしまった、死線を超えてしまった作家の人物と、まだ扉のこちら側(とはいえタルコフスキーのキャメラはその「死」の側に最初からあるわけで、キャメラから見れば元から「向こう側」に見えるわけだが)にいる二人の違い。

この二人もすぐにこの扉を踏み越えることになるわけだが、ゾーンの奥底の砂丘の部屋に辿り着くまで、この一人と二人の差異は決定的であり続ける。

この二人と一人の差異は、今の日本の引き裂かれた断絶を象徴しているように思える。


まだ「こちら側」にいるしかない我々は、もはや向こう側に、「震災後の日本」、巨大な天災と破壊で産まれた新たな「ゾーン」というかより哲学的・精神的に高度な次元に進んでしまった、そこに進めなければ死ぬかしかない「東北」がすでに現出していることに気づきたくないがために、彼らのことを思うかのような演技として「日本はひとつ」「元気を与える」と言い続けたり、あたかも彼らのことを思う振りをして「放射能は本当に怖いんだから避難するべきだ」「故郷をなくしても人間は生きていけるのだ」などと言い続けている。

その「絶対他者」を認識したくないために、「日本はひとつ」と「放射能は本当に怖いんだから」の双方に無数の似非物語を作りあげることにのみ、狂奔している。

そこにある真の物語、そこにすでにあって誰も気がつこうとしなかった、近代化によって喪失させられていく故郷の物語と、あまたの死によって中絶させられながら変容していく生の物語を、今でも決して見たくないために。

我々の文明と社会の構造が、その喪失を押し付けながら、そこから逃げて来たことに気づきたくないために。

実際、そう考えなければ、とくに「放射能は本当に怖いんだから」の方はまったく辻褄があわない。放射能が本当に怖いのなら遥かに強い放射能を持った汚染水が流出していることの方が問題のはずだし、東京電力の首脳の吊るし上げよりも事故の本質を理解しどう解決するのかを知ろうとするはずだ。

「推進派」を批判し脱原発の世論を作り出したいのなら、その発言をねじ曲げて誰も言っていない「放射能は安全だ」なんて主張をでっちあげたりはしないはずだ。説得力のある議論を展開し、政府に今後の原発政策を問う国民投票でも要求するはずだ。

まして補助金や雇用を目がくらんで私利私欲で「安全神話」に染まって原発を受け入れたのだから、というようなことは決して言えないはずだ。その補助金や雇用がなければ、町や村がとっくの昔に限界集落になり、ゴーストタウンになっていたかも知れないのだから。

「故郷をなくしても人間は生きていけるのだ」などとよくも言えたものである。出稼ぎに出たまま文字通り故郷喪失者(ホーム・レス)になった人も多い地方のトラウマを想像することもしないで、東京と都市だけが潤う中央集権の構造に乗っかって、我々は「電気は関東へ、放射能だけ福島へ」を金の力で押し付けて来たのだ。

また、もし「日本はひとつ」なら東京でタレントがメッセージを読む公共CMでなく、被災地の声を伝え被災者の雄々しさを見せる公共CMを作るはずだ。

だがその人々の雄々しさに言及したのは天皇だけであり、福島第一原発周辺の被災者の複雑な悲しみに思いを馳せた取材者は姜尚中だけだ。

我々は原発事故で避難を余儀なくされたり、避難地域のすぐ外側で生き抜いている人たちが、原発以前に震災の被害者でもあることすら、忘れがちだ。だから震災の義援金は出さずに東京電力に補償させろとか言う。両方もらって当然のはずなんだが。


それが社会の大勢であるのなら、「向こう側」に運命のいたずらで行き着いてしまった人々は、「こちら側」に留まったままの大衆の差別を恐れて、黙ってしまうしかなくなるだろう。

ヒロシマ、ナガサキで被爆者がそうなってしまったように。地下鉄サリン事件の体験者を聴いた人が村上春樹しかいなかったように、そして秋葉原事件の生存者たちもまたそう扱われ、「社会の敵を死刑にする」という大衆の欲望の正当化の道具へと、貶められて来ているように。


内田樹氏がブログで、かなり痛烈な皮肉を込めて、二日にわたって原子力発電所事故をめぐる日本のうろたえぶりを分析している。

4/7 荒ぶる神の鎮め方
4/8 原発供養

あまりに図星なので、笑いごとでもないのに笑ってしまった。

内田氏の指摘するように、我々は地震という自然の猛威としてのカタストロフィーにせよ、自然の秘めた力を人間が科学技術で使いこなそうとした結果とんだしっぺ返しを食らったカタストロフィーにせよ、そのカタストロフィーを「荒ぶる神」として畏れながらもつき合う知恵や儀式を、確かに忘れてしまっている。

我々は明治維新以降、そのかつての日本文化の、他者や自然との関わり方の知恵や儀式を失った。「穢れ」ともみなしうる「死」と関わるものへの恐怖は、ただの忌避と排除になり、象徴的なこととして、その霊的な儀式を担って来た人々が「被差別部落民」として排除された

生と死の儀礼を司ると同時に、社会の矛盾、人間の矛盾の語り部としての芸術を担って来たその彼らが「近代化」のなかで排除されたとき、日本人にとっての芸術表現、物語は、その本来の現実の中での力をも、喪失させられて来たのである。芸術とはまさに「ゾーンの向こう側」から「こちら側」の人間世界を見て、「我々は本当にこのままでいいのか」を考える道具であったはずだ。

その「ゾーン」の存在を、「近代日本」は恐れ続け、封印して来たとも言える。

3/11は日本という国の歴史が変わる大きな契機となる日付のはずであり、これを契機に我々は自分たちの社会や文明のあり方だけでなく、生活や価値観を問い直されてもおかしくない。


地震と津波と原発事故は、日本がもう、今までのままではいけないことを、突きつけたはずだ。

たとえば確かに我々の豊かな暮らしのために電力は必要かもしれない。夏場の猛暑で老人の熱中症を防ぐためにエアコンは必要だろう。日本の経済のためには、ふんだんな電力も必要だろう。

だがだからと言って、実は潜在的に危険だと誰もが気づいている原子力発電を、補助金と雇用と「日本のため」の三点セットで、その雇用や補助金がなければ過疎の村になるように中央集権の経済体制が仕向けて来た故郷に、むりやり押し付けて来たような構造が、このまま許され続けていいのだろうか?

そこで得られる我々の「幸福」や「豊かさ」は、本当に我々の幸福なのだろうか?


必死で自分たちを納得させて30年40年と原発と共存して来た人々を、その電気を享受して来た我々が安易に責めていいものではないことだけは、確かだ。

石原慎太郎が「我欲にまみれた天罰」とこれまた物騒な言い方をしたようだが、直接の被災者にとってではなく日本全体にとっての「天罰」であるのなら、それはあながち間違った考えではない。ただしそれを言うなら、東北の被災地域の多くはその「我欲まみれ」の文明から取り残されて割を食って来たところだ。

「天罰」なら東京で起るべきであって、そこで計画停電でぶうぶうと不平を言ってるどころでは済まないはずなのだが。

その計画停電だってなぜか東京23区の大部分は除外されるし、どうしても電気がなくては困る医療関係や自宅療養関係に最大のしわ寄せがいくわけで、どこまでも不公平なわけだが。

今「ゾーン」に進まなければならないのは我々なのだ。


被災地がいわば『ストーカー』の作家の人物のように先に進むなら、我々はあとの二人のように、そこについて行くべきでさえあるのかも知れない。

東京から「文化人」を自称する輩が「元気を与え」に行くと称するのもおこがましい。我々はむしろこれから、その死者たちと死を超えた者たちの声なき声に、まず耳を傾けなければならないのではないか。それを表現に変えることにこそ、専念すべきではないか。

3/11後の日本がどう変わり得るのかは、そこからしか始まらないように思える。

地震と津波から9日後、3月20日に奇跡的に、80歳の祖母といっしょに救出された石巻の16歳の少年は、助けてくれた警察官に「将来は芸術家になりたい」と言ったのだそうだ。


彼を救出した警官は、少年のその言葉に勇気づけられたという。

その少年、阿部仁君が大人になり、芸術家としてその人々の声なき声を作品に出来る日が来るまで、3/11で生まれた「ゾーン」が、この国において物語芸術がその本来の意味を取り戻す契機となるために、我々にもまたやるべきことがある。

すでにおびただしい分量のテレビ報道があり、今後は多くの映画がこの震災をめぐって作られることになるだろう。

だがそこで我々が恐らく決して忘れてはならないのは、その映画作りが服喪の儀式であると同時に、近代日本によってシステマティックに喪失させられて来たものを再生する可能性をつなぎとめる、最後のギリギリのチャンスにこそ、我々の映画がならなければならないことだ。

ここまで読んですでに推察されている方もいるだろうが、僕自身が撮るとしたら、福島の原発周辺地域のことになるだろう。

1 件のコメント:

  1. 先日はコメントに丁寧に返信いただき有難うございます。
    まあ、もともと僕はどちらかというと偏ったものの考え方をする方なので、もしかしたら偏って考えているかもとも思うのですが、とにかく、下記の映像のユーチューブへのアップを友人と一緒に始めました。ご批判あるかと思いますが、参照して頂ければ嬉しいです。

    http://blue.ap.teacup.com/documentary/1753.html

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