最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

4/13/2011

原発事故があらわにした日本人の差別の構造

中島みゆき『顔のない街の中で』

この歌を菅直人首相に聴いて欲しいし、「放射能怖い」が露骨な被曝差別になってる人、「福島で今避難しないのは」とか恐怖を煽っている人たち、その一方でそれでも原子力発電は日本に必要だ(=多少の犠牲はやむを得ない)と思っている人すべてに、聴いて欲しいと思う。

見知らぬ人の笑顔も
見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう
見知らぬ人のことならば
ままにならない日々の怒りを
物に当たる幼な児のように
物も人も同じに扱ってしまう
見知らぬ人のことならば
ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ


上の私製ビデオクリップは、作った人がフィリピンの貧民街での体験を反映させたものだが、今や同じことを、外国どころか同じ日本のなかについて言わなければいけない状況になっている気がする。

フィリピンどころか、同じ日本列島のなかで、日々テレビにそこが映っているはずの場所のことのはずなのに、その人たちは我々にとって、「顔のない」人たちになっている。

詳細はまだ分からないが、福島県飯館村で「計画避難地域」が決まって、自殺された老人までいるという。以前にも政府の「摂取制限」発表に絶望した福島県の農民が1人、自殺している。

この批判されるのが嫌なだけの政権のあまりにも中途半端な、そしてタイミングがずれた避難指示の改訂もまた、当事者のことをなにも考えていない。

見知らぬ人の痛みも
見知らぬ人の祈りも
気がかりにはならないだろう
見知らぬ人のことならば
ああ今日も暮らしの雨の中
くたびれて無口になった人々が
すれ違う まるで物と物のように
見知らぬ人のことならば
ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ


だいたい「緊急避難準備地域」とは、あたかも緊急事態がこれから起るような不安を煽る言い草だが、現実には最悪の緊急事態が起こりうる状態は最初の数日〜10日間程度のことだけだった。今後の「万が一に備える」にしても、一方で避難するのは生活もある人間なのだ。物のようにここからこっちに移します、と言えるような話ではないはずなのだが、その想像力もゼロ。

見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう
見知らぬ人のことならば


それにしても、「日本はひとつ」とは裏腹に、こんなことまで起っているのだから呆れる。

「子供が心配」福島ごみ処理支援で川崎市に苦情2千件超
産経新聞 4月14日(木)0時48分配信

川崎市の阿部孝夫市長が東日本大震災で被災した福島県を訪問し、がれきなどの災害廃棄物処理の協力を申し出たことに対し、2000件を超える苦情が市に寄せられていることが13日、明らかになった。

阿部市長は7日、福島県庁で佐藤雄平知事と会談。被災地支援の一環として「津波で残ったがれきなど粗大ごみを川崎まで運び、処理したい」と申し出た。このことが新聞などで報じられた8日以降、川崎市のごみ処理を担当する処理計画課などに「放射能に汚染されたものを持ってくるな」「子供が心配」といった苦情の電話やメールが殺到。中には阿部市長が福島市出身であることを挙げ、「売名行為だ。福島に銅像を建てたいだけだろう」というものもあったという。

川崎市は「放射能を帯びた廃棄物は移動が禁止されているため、市で処理することはない」と説明。市のホームページでも安全性や理解を呼びかけている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110414-00000507-san-soci


川崎市で、福島県では処理し切れなくなった震災で出た瓦礫等の廃棄物の処理を引き受けたところ、放射能を含んだ煙が飛ぶといわんばかりのデマが盛り上がり、猛反発が起ったのだそうだ。

ネット上でのこのデマの伝播の経緯がここに分析されているのだがhttp://news.livedoor.com/article/detail/5486245/?p=1、有名な「反原発」学者が差別デマの火に油を注いでいるのには呆れた。

またこの人物が、原発事故からの汚染水の流出についての政府見解の、20Km圏内は避難区域であり、海流で拡散されるから今のところそこまでの危険性はないだろうという見解があまりに楽観論であったにせよ、そこに「海水浴をしても安全なのか」と噛み付いたトンデモ屋さんなわけだが(それでも学者か?政府の発表の仕方があまりに稚拙でかえって混乱を招くものであるのは確かなのだが、とはいえなぜこのようにあからさまな嘘を用いるのだ?)。


この有名「反原発」(原子力発電に反対なのかデマで恐怖を煽りたいのか、もはや判然としない)学者には悪気はないのかも知れないが(さすがに広瀬隆のように露骨な反ユダヤ主義差別カルトの怪文書を流布してるわけではない)、彼のような人物が結果として助長している文脈においては、「福島」「原発事故」「放射能」が、もはや「被差別部落」と同じような扱いになっているとしか思えない。

放射能は「死」と関わることであり、そして原子力発電が「荒ぶる神」と化した。

だからそこに関わる福島は「穢れ」だから忌避する、と言わんばかりの構造だ。挙げ句に市長が福島市出身であることをあげつらうのだから、「福島」という地名と空間がまったく「忌むべきもの」の記号と化している。福島県産の米が売れなくなったのと同様、そこにはなんの合理性もない。

いわゆる被差別部落民が、葬祭を司り、動物の屠殺や皮革加工などの、自然界から「命を頂く」ことと関わっているが故に、かつては神と人間の中間存在/仲介者として畏怖され、江戸時代には幕府が制度上不可触賤民とみなしても文化の担い手として憧憬を集めていたのが、明治以降はただひたすら不潔・穢れとみなし、拒否し、差別して来たのと、まったく同じ構造、その現代版ではないか。

ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ
顔のない街の中で
顔のない国の中で
顔のない世界の中で


死に関る職業を穢多として扱い忌避し差別するのと同様に、放射線は「死」の象徴なのだろう。だから専門の人間だけ知ってればいいし、扱えばいい。自分達の日常にそれが持ち込まれることを極端に恐れる。そしてそこに関わったことが地名だけでもスティグマとなり、それを背負ったとみなされる人間は、拒否する、拒絶する、差別する、その「顔」も「声」も奪う。故郷も、名前も奪う。

原子力の研究をして来た研究者がテレビで解説をすれば「御用学者」「推進派」のスティグマを負わされる。いやがらせで電話がパンク状態になった人もいるという。

その「穢れ」から免罪されるには、「反対派」の記号を選びとったことを自己証明しなければならない。すると今度はまるで神のような崇拝対象とされる−いわゆる部落民の起源がシャーマンであったのと同様に。

ところがそうした以前からの「反対派」学者は実験経験が少ないので、計測値の誤りを見抜けず、誤ったデータに基づいた机上の空論(「放射性塩素が検出」なら、海水の塩分から派生したという相当にあり得ない仮定しか成立しない)で「再臨界の可能性」に言及してしまうと、危険視するよりは大喜びするかのようなパニックが広がり、「東電の隠蔽だ!」となる。

当の学者は「間違ってました」とすらなかなか言えない。崇拝が差別に変わるのは紙一重の問題だから、それは怖いだろう。


一方で原発事故と必死で格闘する作業員たちは防塵マスクと防護服に覆われた、やはり「顔のない」存在としてのみ表象され、彼らの仕事よりも、「被爆したかどうか」だけが焦点になる。


日本の「市民運動」とか「左派」のフリって、しょせんこんなものだったの?

思いやりや他者への想像力のかけらもなく、身勝手で、本性は差別が大好き。「正義」や「ヒューマニズム」を装うのも、しょせんはそれを主張する集団のなかに匿名性の自分の居場所を求めて同化しようとするだけ。

まさに「顔のない街の中」に埋没したがる、自分の顔を持たぬ輩の正義ごっこ。だから他人の命も暮らしも、その祈りも痛みも悲しみも、見知ることも出来ないのだろう。

ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ
顔のない街の中で
顔のない国の中で
顔のない世界の中で


東京で「放射能怖い」と騒いでる、これまた「左翼系」な人たちは、今や完全にその「穢れ」差別と排除と空想上の敵への攻撃心で結束するメンタリティに陥っている。

だいたい「政府が、東電がちゃんと説明せずに安全だと言うから不安になる」って、そんなの経営者や政治家に訊くことじゃないのにね。医学の話なんだから医者に訊くだろうにね、普通は。政府もまたなぜ官房長官にそんな発表をさせるのだろう?弁護士あがりだろうに、枝野って。


その本当の動機はもはや分かり切っているだろう。みんなと一緒に不安になりたいだけ、その不安な自分の身勝手を「正義」と認められたいだけなのだ。

あたかも母親であれば不安にならなければならない、その不条理を「母性愛」の絶対正義として認めろとか言わんばかりの、強引な同調圧力。

水道水を子どもに飲ませていいのかどうかの不安よりも、安全なのが分かっている水道水でも子どもに飲ませたら後ろ指をさされることが、本当は不安なのだ。

これは大自然の猛威と自然科学に基づく科学技術の暴走を前にした、祭りなのだ。

現代の日本人は、その祭りの作法を忘れてしまっている。明治以降、白人盲信の中途半端な西洋化で去勢された我々には、畏怖する他者的なものを「祀る/祭り」の儀礼はもはやなく、祈りも共感も想像力も失ったまま、ただひたすら拒絶し、排除し、差別することに安心感を担保することしか、なくなっているのだ。

…と、かように幻滅するばかりの「原発事故」の日々。これでは編集中の新作『ほんの少しだけでも愛を』でとりあげた「大阪」であるとか、そこの「市民の映画館」だけを責めるわけにはいかない。たまたま大阪に、歴史的な経緯から、いわゆる被差別部落が多いからああなっているだけなのだ。

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)

我々が撮ってしまったのは、まさに現代日本の縮図だったことが、この震災での被災地以外の馬鹿騒ぎで、よく分かった気がする。

多くの人のバケの皮が見事に剥がれてしまったことも含めて。

まさに我々がこの映画で告発しようとしているように、「死」とか「自然」とのつき合い方向き合い方、そして自分自身との向き合い方を見失った日本人達が、だからみんなと一緒に差別をしたり互いに敵意をむき出しにすることで、そこに自分の居場所を確認するのが習い性になっているのだ。

顔のない街に属していたいという倒錯した、己の人間性を捨て去った願望のためだけに。まさに己の顔を棄てたいがために。

見知らぬ人の痛みも
見知らぬ人の祈りも
気がかりにはならないだろう
見知らぬ人のことならば
ああ今日も暮らしの雨の中
くたびれて無口になった人々が
すれ違う まるで物と物のように


ところが我々が撮ったことに実はソックリ、という点では、もっと凄いものが現れてしまった。

他ならぬ我らが総理大臣閣下・菅直人氏がまた…。

原発周辺「20年住めない」=菅首相が発言、その後否定
時事通信 4月13日(水)15時51分配信

菅直人首相は13日、松本健一内閣官房参与と首相官邸で会い、福島第1原発から半径30キロ圏内などの地域について「そこには当面住めないだろう。10年住めないのか、20年住めないのか、ということになってくる」との認識を示した。松本氏が会談後に明らかにしたものだが、首相は同日夜、「私が言ったわけではない」と記者団に語った。

松本氏によると、同氏は首相に対し、避難生活を強いられている周辺住民の移住先について、福島県の内陸部に5万〜10万人規模の環境に配慮したエコタウンをつくることを提案。首相は賛意を示し、「中心部はドイツの田園都市などをモデルにしながら、再建を考えていかなければならない」と語った。

ただ、松本氏はその後、「20年住めない」との発言について、「私の発言だ。首相は私と同じように臆測(認識)しているかもしれないが、首相は言っていないということだ」と記者団に釈明した。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110413-00000089-jij-pol


「そこには当面住めないだろう。10年住めないのか、20年住めないのか、ということになってくる」なんて科学的な根拠は、まだどこにも出てないはずだが、もしかして首相が昨日の記者会見で「私が知ってることは全部情報公開されている」と言ってたのは嘘で、そんな大変なデータを実は持っているとでも言うのか?(あり得ないけど)

原発周辺地域(とそこに住む人々)は、もう完全に、「死」と連なるが故に「穢れ」で「忌むべき」空間にされてしまってる。

そういえばTVでは20Km圏内レポートが流行してるのだが、なんかキャメラの目線がそういう「忌むべき」っていう撮り方になっているのだし。

「無法地帯」などの扇情的な見出し語と共に、そこに住んでいた人々の故郷が失われ放置されていることの悲しみなぞ一顧だにせず。

見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう
見知らぬ人のことならば


だが、総理大臣閣下の言い草は、続きがもっと笑ってしまうのだ(いや笑いごとではないのだが)。

内陸部に5万〜10万人規模の環境に配慮したエコタウンを作るんだそうだ。それも「中心部はドイツの田園都市などをモデルにしながら、再建を考えていかなければならない」などと、総理大臣閣下はおっしゃったのだそうだ。

そこで我々が思い出してしまうのが、大阪市のいわゆる「同和対策」地域の風景だ。

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)この続きはこちら

ここの太鼓の銅像はドイツのニュルンベルクにある「人権通り」をモデルにした「人権・太鼓ロード」なのだという。
http://blhrri.org/topics/topics_0078.html

この種の「特殊目的」が暗黙の了解になっている関西の公共住宅に、共通する様式となっている珍妙な洋風の塔であるとか、そこに言い訳のような第三セクターの商業施設をつくり「ベルタ」とか「マルシェ」とかのヨーロッパ風のネーミングをつけることも…。


…なるほど、「ドイツの田園都市などをモデル」にしたエコタウンねぇ…。

江戸時代まで日本にあった、アニミズム的な文化と精神の構造、死や自然界の猛威といった他者性への畏れと敬意を媒介する立場にあった人々を、その過去の文化を西洋近代化によって「野蛮」と断罪することの分かり易いアクションとして、いかがわしい西洋風によって封印しようとして来た(そこで潤うのが「同和利権」などでは決してなく、「土建業の利権」であることは言うに及ばず)ことと、まったくの相似形ではないか。

『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)より、大阪の境界構造の解析

それにしても、これで原発の周辺地域は放射能と関係なく、政府の稚拙さ身勝手さと、差別と風評への恐れのせいで、無人地帯にされてしまうのではないか…。

また恐ろしく不可解な「レベル7」評価で「チェルノブイリ級」事故との認定も(原発事故として考えられる最悪のケースの臨界爆発であった、文字通り「別格」だから「レベル7のチェルノブイリ」とはまるで違った事故なのに)、これで福島の農業と漁業は壊滅的なダメージを受けてしまいかねない。

しょせん恣意的な政治評価でしかないINESを用いた、それでもまともに理解していれば誰もが首を傾げる「チェルノブイリ並み」判定は、しょせんマスコミの「過小評価」「楽観論」批判を恐れた保身に過ぎないのだが、しかし政府たるものが国民の生活をなにも考えていないとは…。それはマスコミも、むろん同罪だ。

原発の雇用と補助金と税収への依存構造を、過疎化で大きな産業のない小さな自治体に、それがなければ出稼ぎせざるを得ないような土地に押し付けて来た残酷さを無視し等閑視して、「推進派をやっつけろ」的な、生活感ゼロの都会の政治ごっこで「放射能怖い」教の風評を広めれば、地元はますます分断され疲弊し、経済的に原発にますます依存するしかなくなることにも、想像が及ばないのだろうか?

ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ
顔のない街の中で
顔のない国の中で
顔のない世界の中で


まあしかし、この騒動が終った頃には、僕は友達が激減しているのだろうと思う。一部の「原発反対」の映画に関わる人であるとか、その無神経な冷酷さと無自覚な差別意識の発露に、二度と顔もみたくないとすら思ってしまっている。「放射能はとにかく危険なんです、子どもが奇形になったりガンになるんです。ちょっとでも汚染された可能性のある野菜を食べたら危険なんです」とか、原発に反対なのではなく、ただの差別カルトではないか。

12 件のコメント:

  1. うーん、いつもながら考えさせられます。いま、一番、読みがいのある、痛いところをついているブログだと思います。とにかく、個人的には読み続けますので、頑張って書き続けて下さい。

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  2. 匿名4/14/2011

    はじめまして。ツイッターからきました。

    放射能はとにかく危険なんです、子どもが奇形になったりガンになるんです。ちょっとでも汚染された可能性のある野菜を食べたら危険なんです」とか、原発に反対なのではなく、ただの差別カルトではないか。

    私には、なぜそれが差別カルトなのかがよくわかりませんでした。
    そういった事を言う人が多い事=福島の人達が他の地域で差別される事になる、という事ですか?

    確かにもう差別は始まっているようです。。。残念な事です。
    でも、危険性を訴えてる人が差別しているのではなく、危険性も把握して無く、良いも悪いも自分で判断していない人達=無関心な人達が差別しているのではないかな、と感じます。

    農業と漁業は壊滅的なダメージを受けてしまうのは風評からではなく、原発が無ければこのような事も無かったはずです。原発が事故を起こしたからでもなく、もっと根本的に、人工的に手を加え過ぎた、その結果だと捉えています。

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  3. 「私には、なぜそれが差別カルトなのかがよくわかりませんでした」科学的にまったく誤った考えであるのに、その誤りを指摘され丁寧に説明されても「御用学者だ」「安全デマだ」とか叫ぶのは、どう考えてもただのカルトでしょう。
    「危険性を訴えてる人が差別しているのではなく、危険性も把握して無く、良いも悪いも自分で判断していない人達=無関心な人達が差別しているのではないかな」ありもしない危険性を訴えて「奇形になる」とか言っている人はあきからな差別をすでに初めてますね。いったいこのブログのなにをお読みなのでしょうか?
    「農業と漁業は壊滅的なダメージを受けてしまうのは風評からではなく」安全性が確認され出荷されている野菜が変われないことを普通の日本語で「風評」と言います。危険性もないところに危険だ食べるな触れるなということは、明白な差別です。それは原発ではなく明らかに人間がやっていることです。

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  4. さつき4/15/2011

    初めまして、私もツイッターからお邪魔しております。
    おっしゃること、その通りだと思います。
    このヒステリーは何だろうと思っていましたが、不安を抱える自分を正当化したいというのはなるほどと思いました。

    それで、「そうだよね? そうでしょ? そう思うでしょ?」としつこいほど聞いてくる人が多いんですね(笑)
    そう思ってんなら自分だけで思ってりゃいいじゃん、なんでいちいち他人を巻き込もうとするのさ、と、そこが不快だったので——納得です。

    それにしても、ここまでくるともう、誇大妄想狂という気がしてきます。
    2件目のコメントを拝見して思いました。
    もはや現実よりも、自分の脳内妄想のほうが、情報として優先されているんですね…。
    洗脳みたいなものでしょうか。

    茨城のレタス、水菜、福島のニラ、私はおいしくいただいてます。
    第五福龍丸のときの、ばかばかしい「魚敬遠」の話を親から聞いていましたが、まさか、21世紀になってこんなパラノイアを見ることになろうとは思いませんでした。

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  5. 匿名4/16/2011

    監督は、ゲリラの切り込み隊長のような方とお見受けします。私は真面目に原発を止めてほしいと考えてきたので、反原発カルトにも反対です。なお、「友達をなくす」のではなく「友達ではなかった」ことが判明してしまうだけではないでしょうか。ただし、私は孤立を選ばず「友達」ではない「隣人」とともに生きる道を模索します。

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  6. 匿名4/17/2011

    子供に水道水飲ませればどっかから「子供を心配しないなんて母親失格」と言われ、子供に水道水飲ませなきゃどっかから「正しい情報に基づいて行動できないなんて母親失格」と叩かれる。外から見てても母親って職業は本当大変だなあと思います。どうにかしてこの職業をもうちょい楽な職業にできないもんですかね。
    「科学無視の態度が差別を生む」ってことに関しては同意です。

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  7. 菅直人に、福島にはもう住めないと言わないといけないという状況に追いやったのは、国民の世論ではないですか。住めないと言っても叩かれ、エコタウンという前向きな構想を打ち出しても叩かれ、どうしろというのですか。彼に対しては同情の念しか沸きません。何を言っても否定され、右からも左からも叩かれ、しまいには訳も分からずやめさせられ、本当にかわいそうです。せっかくの非世襲政治家の総理に対し何故もっと暖かい態度で接してあげられないのでしょうか。ただでさえ大変な状況にあって何故憎み争う事しかしないんですか。許し支え合い手を取り合う事こそが今必要でしょうに。
    私はエコタウン構想に賛成ですよ。福島が住みよい場所になればいいと思います。

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  8. よく読んでから投稿して頂ければ幸いです。「エコタウンという前向きな構想」ではありません。いわば大阪の「同和対策住宅」と同じような、そもそも差別的な発想に基づいた考え方でしかありません。

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  9. 素晴らしい分析です。日々,原発反対運動に辟易していた私には,ストンと腹に落ちるものでした。

    私の生まれたのは63年ですので,まだ空中で核実験が行われていた時代です。その当時は水も食料もだれも気にしていなかった。せいぜい冗談か本気か,雨に濡れるとハゲるぞと茶化していたのです。というか茶かせることができたのです。

    どうでしょうが,今の日本は。
    当時の日本は高度成長期で,語弊を避けずにいえば,成長することに意義ありで,社会の歪は我慢できたのです。
    しかし,いまはこの20年は縮退していく社会で,ちょっとしたことが我慢出来ない社会になってしまいました。

    今回の震災や原発事故は日本人全員が背負っていかなければならない宿業なのであり,東電がわるい,原発が悪いとか騒いでもなんの解決策にもなりません。

    日本人全員が本気で考えて実行に移して行かないと,日本が加速して沈没していく恐怖を覚えます。

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  10. 所謂 "切って血の出る"人道や人間主義を基点に据えながらも、解釈と展開においてはそれらの「大鉈」に頼ることなく、透徹した視座を貫くことは容易ではありません。
    貴兄の知的誠実さに、心から敬意を表します。

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  11. @dymal_answer 様、それは褒め過ぎというものです…。あまり褒めると自惚れますので。どうもm(_ _)m。

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  12. 匿名さま、
    「どうでしょうが,今の日本は」本当にいったいどうなってしまったのでしょうね。目の前とはいいませんが、ほんの数百キロ先に天災と事故で困っている人達がいるのに、その人達のことを配慮しよう、慮ることすら出来なくなっている「大衆」。
    そもそも原発の電気を使って来たのは誰かといえば、自分たちでもあるというのに。

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