最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

4/24/2011

原子力発電所と共に生きるということ

いわき市・小名浜漁港の漁師。岸壁には津波で打ち上げられたままの漁船が。地震以降、出港も出来ず仕事もないなかで、「復興」などまるで考えられないという。

承前。福島第一原発から20kmの範囲の、先週金曜から「警戒区域」として立ち入り禁止になってしまった地域を主に2日間、あとの1日は「警戒区域」で入れないので、いわき市内を四倉〜小名浜の主に海岸地帯を廻った福島浜通りロケで、率直に思ったのは「頑張って下さい」とはとても言えない、しかし「頑張って下さい」以外には、かける言葉が見当たらないことだ。

   いわき市・永崎

地震と津波の被害がほとんど手つかずなのは、強制的に避難させられたままの20Km圏内だけではなかった。

   いわき市・四倉
   いわき市・豊間

福島県もまた津波と地震の被害に遭っていること自体が、原発事故の陰に隠れてほとんど報じられていないのだが、現地でもまたその被害はほとんど顧りみられず、復旧も復興も進んでいない。

原発事故が安定するまでは手がつけられないのだと、福島県知事が言っている。

政府の復興・振興策がおよそ現実味を帯びて来ないなかで、県は国から分捕れるだけの予算や補償はゲンナマで分捕ろうと決めているようだ。それがまた、知事の再選にはいちばん有効な支持集めにもなるのだろう。

だがその結果、農作物は作付けも出来ず、漁師は出漁自体が禁止され、小名浜漁港では津波で岸壁に乗っかってしまった漁船が、ひと月以上も放置されたままだ。

漁民はなすすべもなく漁港の岸壁にたたずみ、漁協はとにかく補償金を得るように動き始めている。この国の現代の、妙に金銭だけに単純化された価値観では、それしかないのだ。

お金も確かに大切だ。だが、使ってしまえばそれまでだ。

人々が本当に求めているのは一時的なお金や再建にからむ土建利権ではなく、今後もここに住み続けて行くための生活の基盤と、生き甲斐でもある仕事を続けられることだろう。

生きることの意味と価値そのもの−自分の穫ったり養殖した魚や、自分の育てた農作物が「買ってもらえない」以上に「危険だとみなされ食べてもらえない」ことは、もっとも屈辱的にその職業のプライドを打ち砕く。

しかもとくに漁師は、10代から海に出ていて、今さら他の土地で他の仕事だなんて、想像もつかないのが現実だろう。

だが原発事故ばかりが最優先され注目されるなか、その仕事と生活を取り戻せる目処は、まったく立っていないのである。

それに原発がこれでなくなるのだとしたら、それまで原発が雇用を保証する産業でもあった経済基盤はどうなるのだろう?なんだかんだ言っても、東京電力の子会社で働きながらの兼業農家も多く、東京電力の周囲に地元の経済が廻っている面は否定できない。しかも今の日本は、原発事故の放射能被害や、それ以上に深刻な風評被害がたとえなかったとしても、農業漁業で食べて行ける社会では必ずしもないのだ。


漁港では、漁師の知恵で、津波が来る前に沖に逃げて無傷だった小型漁船も、実は少なくない。船だけでいえば、漁業は再開できる。

しかし海に出たところで、放射性物質を含む汚染水が海に流れ出てしまったことが報じられた結果、どうせ魚が売れず、油代も出ない(現に東京都内では魚自体が売れず、魚屋の商品の鮮度も落ちて来ている)。

四倉漁港の復旧は、国道に上がってしまった漁船が漁港の岸壁まで降ろされているだけだ。水産加工場どころか冷蔵庫も破壊されている。


小名浜でも四倉でも、津波は漁港の防波堤を破壊し超えて内陸を襲ったものの、その設備が津波の力を減じたのか、震源と海岸線の位置関係も幸いしたのか、たとえば小名浜では市街地は主に浸水被害で、不幸中の幸いで家々が破壊されて瓦礫しかない荒野のようにはなっていなかった。

そうは言っても、震災後もう40日、漁に出られないのだからまず仕事がない。大臣も来たそうだが、「一緒に復興を頑張りましょう」と口先だけは言いながら、なんら将来の復興の展望も示さずに帰って行ったという。

すべては原発事故が安定するまでなにも動かないのに、いつまでかかるのかもさっぱり分からない。「工程表」がやっつけ仕事でおよそあてにならないことは、誰もが気づいている。

小名浜港は原発から50Kmくらい離れている。いわき市自体、避難区域にはごく一部しか入っていないし、いわき市は巨大な市だ。だが県外からは、あたかもいわきに原発があって危険なのだと誤解されているのではないかとすら思えると、漁師達は語っていた。

また一方で、「海は繋がってるからね、しょうがない」とも。いずれにせよ「漁師と百姓は無視されている」、そう思うしかないのが浜通りの現実であり、実を言えばこの国の数十年にわたる政治だった。

元から地場産業である農業漁業では食べていけなくなった戦後高度経済成長の時代があって、その結果として原発が浜通りにふたつも作られたのがこの地域の歴史である。原発は潜在的には危険だが、そこで保証される税収や補助金、なによりも雇用が、この地域を衰退から守って来たのもまた現実なのだ。

しかし原発が立地する町には補助金や税収があり、原発の近くではあってもそこに原発があるわけではない、いわき、南相馬、北方の飯館村などには補助金はない。双葉や大熊、富岡に較べれば、浪江などは補助金の額も少なく、税収にもならない。その微妙な差異がまた、地域に暗い影を落としてもいる。いわき市の海岸地帯から見ると、宮城など他県の復興ばかりが優先されているようにも見える。

およそ聞いていいて気持ちのいい話ではないが、それだけ皆が諦め、絶望し、焦っているのだ。

しかたがない。ほとんど誰も、その声に本気で耳を傾けようとすらして来ていない人々なのだ。我々が出来るのは、せめてその苦衷を察して話を聞き、記録することだけだ。

小名浜港からすぐ北の永崎という海岸の集落も津波でひどい被害を受けていた。そこからもう少し北の豊間も、町並の半分が津波で破壊され、瓦礫で満足に車で乗り入れることも難しい状態のままだ。


豊間では、津波で半壊した家の前にたたずむ老夫妻に話を聞いた。半壊といっても、築140年の家の柱はびくともせずに残り、この家を修理して住み続けることを決意したという。そう聞けば誇らしい話かと勘違いされそうだが、「他に行くところもないし。でも福島に将来があるとも思えない」と老人は続けた。

大工の勧めで家を直して住み続けることにはしたのも、もう引退しているので家をこれから借りるのも難しく、壊して建て替えるよりはまだ、少しはお金がかからないからでもある。


この家には、「私の建物です。壊さないで下さい」という貼り紙がしてある。だが周囲の半壊の家の多くには、撤去を指示する貼り紙が目につく。

取り壊しまでは今は行政が無料でやってくれるものの、ほとんどの人に、建て替える資金の目処などないだろう。では本当に、今後もここの人々は済み続けることができるのか?それを担保する答えは、誰も出していない。


自分たちはもうこの年齢だからいいが「若い人たちは焦っている」。仮設住宅の抽選に誰かがたまたま当選するなど、ちょっとしたことで避難所では苛立が募るという。

それもまた、しかたのないことなのだろう。しかしこうして小さな集落は引き裂かれ、地域もまた引き裂かれて行く。原発事故の行く末を見守る中で、ここにあった「故郷」の破壊は、今もう、すでに進行しているのだ。

これから避難所に帰る途中に風呂に行くのだと老夫婦はいう。それも一週間に一回だけだ。

 塩屋崎 築140年の津波被害を受けた家の前で

原発から20kmの範囲内を、4月21日までに富岡町や楢葉町、双葉町、浪江町、大熊町、広野町で我々が撮ったフッテージには、それなりに希望か、少なくとも安心感を示せるものも多々あるはずなのだが、我々が20Km圏内を駆け回って撮ってる間に急に決まった22日から「警戒区域」で、そのかすかな希望ですらはかないノスタルジアになってしまったのかも知れない…。

 福島県浜通り・大熊町の放牧状態の牛

我々の当初の企画は、あわよくば20Km圏内に残り続けている農家を見つけて、そこでの日々の生活を撮って集落の歴史を語ってもらえれば、それが主軸になって力強い映画が出来るだろうという考えだったし、今でもそれが出来れば理想的だとは思う。

決して声高になにかを主張するわけではないが、そこに残り続けること自体がひとつの生き方の決意表明であり、原発に集約される現代の不条理への静かな抵抗なのだろうと、思うからだ。

少なくとも映画的には、静かな抵抗と闘いこそが、最も高貴で美しい。矛盾のすべてを引き受けながら苦悩し、あるいは黙々と自分の生き方を貫くことをこそその闘いとすること。

小川紳介の一連の「日本解放戦線・三里塚」シリーズは、あの静謐で深淵な『三里塚・辺田部落』という小川の最高傑作にこそ行き着いたわけだし、むろんドライエルの『裁かるるジャンヌ』を忘れるわけにはいかない。

原発事故をめぐる情勢は、社会的・政治的な意味での、ひとつの闘いなのだという確信は、この三日間でいよいよ強くした。

この闘いは決して、敵/味方の二項対立の闘争・抗争ではなく、原発がただ「悪」なのでもない。

原発と共に生きて来ざるを得なかった人々が自分たちの尊厳を取り戻す闘いであり、世界と自分との関わりを正常化する闘いなのだとすら思うし、それはこの日本が今後まともな国であり続けられるかの闘いでもあるとも、いよいよ強く思う。

原発の事故は決して原発だけの問題ではない。

東京電力の責任を問い政府を責めることは容易いが、福島県浜通りに東京電力の原発が2つと火力発電所が1つ、さらに東電に電気を売る火力発電所がさらに3つあって、本来は農業と漁業が主要産業であったはずが(あと戦後まもなくまでは石炭)、農作物と魚ではなく電気を送った方がそこで食べていける、出稼ぎなどに頼らずに故郷で生き続けられることになっていたその現実が、歴史的な社会構造の不公平、そして高度成長が終ったあともその経済構造を変えようとしなかったすべてのツケを、見事なまでに分かり易い矛盾の構図を、こうした地域に押し付けて来たのだ。

今や福島県浜通りは、その象徴ともなる静かな戦場になっている、この三日間の撮影/ロケハンで思えた。

  福島第一より約20Km 広野町の農家「二年後には専業を目指す」

この震災と、とくに原発事故は、このもはや20年30年前には変え始める必要があったことを、今こそ変えなければならない最後のチャンスを、提示してもいるはずだ。

だが福島県以外の日本のすべてが(もしかしたら宮城・岩手も含まれるのかも知れないけれど)、その闘いを無視し「福島」をなにか忌むべき特殊な記号であるかのように処理しようといる。

だからこそ、そこに残り続ける闘いは自身の人生をかけて自分の尊厳と、土地と生命と分ち難く結びついた実存を守り抜く哲学的な次元にも到達するだろうし、そう撮ることも出来るだろうと思っていた。だが、この方向性は、3つの理由で断念せざるを得ないだろう。

ひとつは現実的に、「警戒区域」指定により20Km圏内で我々が撮り続ける以前に、主人公となるべき人たちがそこで暮らし続けること自体が困難になったこと。

もうひとつもこれまた現実の問題として、二日間では残り続ける人に会うことが出来なかった。出会えていれば一週間くらいそこに主人公達と篭城することも考えないではないわけだが(実際、電気さえ通っていて機材の充電ができれば、あとは先方が理解してくれればそれは可能だったわけで)。

だがもっとも痛切な理由は、見捨てられた福島浜通りの、とくに原発事故の被害を受けている場所には、絶望にも至りようがない諦念が漂っているからだ。20Km圏内に留まる人々はまた違った心境なのだろうが、他の人たちは、いわば宙づりの状態に置かれ、好奇のまなざしをむけられると同時に、無視されていることを痛切に感じているように思えた。

そして原発と共に生きる場に留まり続けて来た人もまた「警戒区域」指定によって、その確信と信念を奪われ、宙づり状態に引きずり込まれる。

いや彼らは最初からそれを直感したからこそ、故郷を離れることを拒み続けていたのかも知れない。

だがそのささやかな個人的な闘いも、国家政府のメンツと、匿名性の大衆の共謀によって、押しつぶされようとしている。

福島第二原発が立地する富岡町の町役場前では電気は
通っているため、無人の街道沿いに電光掲示板が虚しく輝いていた


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