最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/31/2011

地震と大津波と原発の危機があった年に


ちょうど一年前の大晦日には、このブログにこんなことを書いていた→ 「2010年-この国はいったい何を恐れているのだろう」

その時には3月11日の大地震ようなことが起こると考えてもいなかったし、あの日を境にこの国は大きく変わったはずだとも言える。先日、イタリア人の映画ジャーナリストに取材を受けたときにも、自分で「2011年3月11日は1945年8月15日と同じくらい重要な日付けだ」と言っている。
イタリアの日本映画ウェブサイト「Sonatine」 Matteo Boscarol によるインタビュー(英語)
同、レビュー
しかし一年前に書いた昨年の総括と、その決定的な日付けから8ヶ月以上も経った今の現状を比べると、本質的なことはなにも変わっていないのだ、とも思えて来る。
平気で嘘をつく人々と、その嘘に平気で騙される人々。 
もはやなにも筋が通らない、筋を通すことを誰も気にもせず、閉塞感を皆が愚痴りながら、自分の現状をなにも変えようとは決してしないニッポン人。 
失敗も冷静に受け止められず反省もできない国。 
自分からはなにもしない人々の国。(2010年12月31日の本ブログ)
我々は、この大天災とそこに誘発された人災(原発事故)から、なにも学習していないのかも知れない。いやむしろ、こと原発事故をとりまく諸問題は、ただこれまでずっとあったのに誰もが見て見ぬ振りをしてきた様々な矛盾が、顕在化しただけなのだとすら、言えてしまいそうだ。

 3/11の地震には、誰もがそうであったように自分も驚いた。まったく予想も覚悟もしていなかった(この列島が地震の巣の上にあることは自明であるのに)。

しかし正直に言って、その日の夜ぐらいから福島第一原子力発電所でどうも問題が起こっているらしいと報じられたときには、もちろん「大変なことになった」とは思ったもの、想定外とか驚きという意味では、たいして驚きはしなかったのである。

簡単な話だ。福島第一原子力発電所が老朽化していることも(設計上の耐用年数を越えて運用されていたことも)、津波想定が甘かったことも、すでに新聞やテレビの報道で知っていたのだ。

既に知っていて、理屈としては想定できることなのだから、「驚く」というのは少し違う。

しかしそれでも、世論はすぐに『国民は安全神話に騙されていたのだ』という、それこそ神話に他ならぬ虚構に飛びついた。福一に潜在的な危険性があったことは、かつて五大紙の一面トップの記事にだってなっていたのに

「大手マスコミは東電にお金をもらっているから、真実を報道して来なかったのだ」という、まったく事実に反する話は(繰り返し言うが、僕だって新聞とテレビで【知っていた】のだから、報道はもちろんされていたのだ。それもかなり大きく)、しかし「知らなかった自分たちに罪はないのだ」という無責任さに徹したい欲求から、あっというまに世論の大勢が盲目的に信じ込むものとなった。


「安全神話が」「東電が」「推進派が」と騒ぐ人たちに、2004年の秋に一時は大問題になったはずの原子炉の耐用年数延長決定をめぐる報道を指摘すると、確実にヒステリックに…反論すらせずに話を逸らして、なぜか「推進派だ」と罵倒までされてしまう。

奇妙な話だ。どんなに知らんぷりをしようが、その事実がちゃんと、現実としてあったことを、指摘している相手は知っているのだ。いまさら誤摩化したところで、今度は嘘つきという罪を重ねるだけではないか。

なぜその時には関心を持ちたくなかったのだ、国が決めたことなんだから大丈夫だと思ってしまったのだと、素直に過ちを認められないのだろう?そこで気づかなければ原発を止めて行くのなんて無理に決まってるのに。なし崩しで「のど元過ぎれば」になるのは分かり切っているのに。

なにしろ、なぜ原子炉の耐用年数を延長するという無茶苦茶な決定を政府が下したのかと言えば、それはなによりも「東京の電力が足りなくなる」からだった。
中越地震で柏崎の原発が自動停止し(これは原子炉の安全機構が働いたのだから、怒るべき話ではない、念のため)、この原子力発電所が活断層に囲まれていたことが明らかになった。その当時、地震などの問題があまりないとされていた福一にもっと電気を作らせないと、東京が困ったことになると予想されたのだ。
少なくともずっと反原発運動などに関わって来た人達は、耐用年数延長問題も、その時には一部の地震学者から貞観地震のときには福一にも10m超級の津波が来ていた可能性があると指摘されていた(ちなみにこれを大々的に特集で報じたのはTV朝日系の『報道ステーション』である)ことも、さすがに知っていたはずだ。

なのにその人達までがなぜ、「安全神話に騙されていて国民は知らなかったのだ」という神話に他ならない虚偽を鵜呑みにする素振りをするのだろう?

国が決めたことなんだから大丈夫だと思ってしまう」国民性というのは、原発事故でやれ「政府が隠蔽だ」とか「国民を騙している」と言っている人達でも、実のところその政府の権威への依存性がまったく変わってもいない、成長も学習もしていないことも、指摘しておく。

なにしろ放射能による汚染の実際被害を語るときにその人達が持ち出すのは、医学者の見解でも放射線の専門家の意見でもなく、最大の権威であるかのような顔をして言い出すのは「これまでの基準が1mSv/yだった」から、法律がそうなのだからそれを越えたら被害があるのだ、という倒錯した論理なのだ。

その基準や法はどのような理由で、どのような思想を背景に、誰が決めたものなのかということは、一切考えようともしない。そこに考慮すべき余地があることすら気づかぬまま、国家が決めたことに盲従したいだけなのだろうか?

なのに一方で、原発事故というかっこうのいいわけがあったから、その権威の担い手である政府であるとか官僚、あるいはやはりエリート社員の多い大企業である東京電力を叩いて鬱憤晴らしが出来るという、その状況に陶酔しているだけにしか見えない。
法の文言を杓子定規に踏まえるだけで、現行の法が人為の産物である以上は人間の限界性の枠内にしかなく、常に改められ更新されなければならないという、近代法治のもっとも基本的な部分をすっ飛ばして、「法治国家なんだから」と言い出す−−この「法治」「民主主義」をめぐる日本人の根本的な勘違いも、このブログではうんざりするほど繰り返して来た話ですよね、念のため。
しつこいほど繰り返すが、近代法治というのは民主主義と法の公平性、そして倫理という理想的な体系の理念がまずあって、その人為では到達不能かもしれない高度な理想を目標に、現実には限界だらけでなかなかそこに到達出来そうもない人間たちが、個々の矛盾や問題を地道にクリアしていくこと、常に理念の基本に立ち返って、現実の社会と照らし合わせながらその欠陥があって当然の法体系を少しずつでも理念に合わせて更新していく、そのプロセスの実践でしかない。「法で決まってるからそれを守れば法治だと認めてもらえるはずだ」なんて怠惰で依存性丸出しの話では、ないのだ。
僕にはさっぱり理解できないことだ。

確かに政治家になったり、一流官僚になったり、東電のような一流企業に入るからには、東京大学とかその辺りの難しい学校に入らなければいけないわけで、子どものころからお勉強だって出来なきゃいけない。でもどんなに優秀な優等生だろが、人間は人間でしかない。学歴という権威だって極めて限界のあるものでしかなく、能力の物差しとしてそこまでアテになるはずもないことくらい、ちょっと考えれば分かるはずじゃないか。

ましてそういう学歴を支える日本の教育、とくに受験の実態が、極めて限定された分野での杓子定規な知的活動(と言うほど「知的」であるのかも疑わしい) にしか対応できないものであることだって、みんなその教育を受けているんだから分かってるはずだろうに。

「安全神話に騙されていた」というのが虚偽でないとしたら騙されてる方がよほどのお人好し(というか馬鹿)である以上に、原発事故をめぐって政府や東京電力が「隠蔽している!」などという話には、かなり呆れてしまう。「隠蔽」するもなにも、何を隠すべきかを判断できるほどの情報すら、政府や東電は把握していなかったというのが実態だろうに。彼らがいちばん「隠蔽」したのは、自分たちが実はよく分かってないことを必死で隠そうとして来た、とは言えるんだろうが。

しょせん、その程度のものである。それどころか官邸も東京電力も恐ろしく混乱していたことも、当時の報道を見れば分かりきったことだ。

「隠蔽」どころか、まだ内部で検討段階の案に過ぎないことが「高官の話」としてボロボロと出て来てしまう。そしてスクープされたことでその検討段階の案は既成事実化し、フランスのアレヴァ社の水浄化装置を使うことにしても、破損した原子炉建屋を覆うことにしても、どんどんお金がかかるが実効性は疑わしいことばかり決まって行く。あこぎな商売を狙ってる連中にいいように振り回されてるんじゃないか、とすら思えて来る状況に、また政府以上になにも分かってないで勉強不足であることがあからさまなマスコミが拍車をかけていることは、4月1日のこのブログ(「嘘でもないのにエイプリルフール的な…あまりに不条理な…そして滑稽な…悲しいまでに…」)でも指摘した。

先日も、原子炉内から放射性キセノンが検出されたことを、東京電力が慌てて公表した。まだ検出量も確定してない段階で、とにかく発表しなければというのは、ちょっとでも公表が遅れるだけで「隠蔽だ」と叩かれるのが怖いからなのだろう。しかし検出量が分かっていなければ何が起こっているのかは特定できっこない。「再臨界しているのではないか」と訊かれればNoと答える根拠がまだないのだ。果たして24時間後には検出量が特定され、結果はおよそ再臨界はあり得ない微量。そんなの量が確定した時点できちんと公表しておけば、結果として誤報だったものがNHKの7時のトップニュースになるなんてことは、なかったろうに。

福島県の放射線アドバイザーに就任した山下俊一氏が「こう言っては失礼ですが、日本全国理科音痴。そこに高度な核物理学が」だから「この際反省してきちんと勉強しなおすべき」と指摘した時には、「なるほど」と思った。果たして山下氏が指摘した通りのことが、ますます加速している。

しかもそこで最大の問題は、誰もが「自分たちは勉強不足だったかも知れない。確かに理科音痴だったのかも知れない」と反省すら一切しないことなのだ。

福一事故が起こるまでは原子力発電の問題にまったく無関心で、大々的に報道されていたことすら無視しておいて「安全神話に騙されていた」と必死で虚構を口にしているのと、まったく同じ心理だろう。

実のところ、我々は自分たちの使っている電気が実はどれだけリスクを伴うことなんて自覚したくなかった、ましてそのリスクを地方の、他に目立った産業つまりは雇用がない土地の弱みにつけ込んで押し付けて来たことを無視したかったから、関心を持たなかっただけなのではないか?

ひたすら自分が責められるかも知れないことを恐れているだけなのだ。そしてそれが大いに誤っていたことすら、大地震や大津波、それに原発事故を経ても、まだ学習しようとすらしない。

自分は「いい子」なのだと必死に思い込むこと、他人に批判されたりしたくないという以外のことは、これだけの災害が起こっても、まだ考えられもしないままなのかも知れない。

だがそんな自分の周囲の目ばかり気にして、そこでなにか間違いを指摘されたとたんに命が危ないとでも勘違いしてしまうところで思考停止していようが、大地震と大津波でひとつだけは確実に実感しなければならないはずのこととは、我々人間が信じ切って、そこに浸り切って生きて来た現代文明の価値観なんて、しょせんとても果敢ないということではないのか?

絶対に安全で快適な暮らしなど求めたところで、そんなこと自体が、この宇宙の巨大さの前に、決して到達できないものなのだ。

確かに今年の地震と大津波は、我々が知っている歴史のなかでは未曾有の天然災害だろう。東北の太平洋沿岸ではところによっては数十センチの地盤沈下も起きている。

それは凄いことだ。でも一方で、そうした地球の活動がなければ、この日本列島自体が存在していない。

逆に言えば、その壮大な大地の創造の物語のなかでは、この未曾有の大地震ですら、ほんのかすかな地殻の変動でしかない。

人間の存在とはしょせん、それほどに脆く果敢ないものだ。だがだからこそ、尊いのである。

12/19/2011

いわき市、12月

金曜日の晩に、いわき明星大学で『無人地帯』無料試写があったので、金土はいわき市に行って来た。

12月16日撮影 いわき市豊間の四家さん宅

4月22日に撮影した、築140年で津波の直撃を受けながらも構造はびくともしなかったという家は、7ヶ月半建ってもそのまま建っていた。「これは私の建物です。壊さないで下さい」と、4月に持ち主が貼っていた張り紙そのままに。

4月22日撮影、豊間の四家さんご夫妻(映画『無人地帯』より)

この四家さんのご近所で、お宅よりも遥かに新しい、やはり津波に遭った家はもうほとんど取り壊されていて、ぱっと見ただけでは津波で破壊されたことも分からないかも知れない。


元からなにもなかったのと、一見なにも変わらない光景に戻っているのだ。


町の大部分が壊滅してしまった山陸の小さなコミュニティ等とは違って、いわき市は大きな市なので、比率からすれば津波の被害は限られているように数字上は思われがちだ。ほとんどの場所では、一応普通の生活が戻っているようにすら見える。だが津波の被害を受けた人達の困難はまだ始まったばかりだし、個々人の抱えた困難にはなんの変わりもない。

さらにいわゆる「警戒区域」からの避難者も、多くがいわき市の仮設住宅に住んでいる。


今回の震災は「神戸の教訓を活かせ」がかけ声になったが、関西の大都市と東北地方では、比較的温暖な福島県浜通りでもぜんぜん様相は違う。そこをよく考えないで慌てて作ってしまった仮設住宅は、実用的な面だけ考えても、どうみても冬場はあまりにも寒そうだ。

元々断熱材を入れるような設計になっておらず、ところが素材自体が金属など熱伝導が高いもの、ということは外気の寒さがそのまま入って来てしまう作りが、それも山の手の高級住宅地の近くの市有地や、未造成の宅地の区画(ということは、宅地に必ずしも適していない、風が吹きすさぶ丘のてっぺんとか)にボコっと建てられているのだ。

これでは環境自体が、その人達が今までずっと暮して来た、昔ながらの好立地の場所とはあまりに環境が違いすぎるだけでなく、避難先で孤立しろと言っているようなものだし、生活の便も悪過ぎる。ただでさえ仕事がなく収入が断たれている避難者なのに、日々の買い物にも自動車がなければ不便。高齢者ならタクシーしか足がない人も多いだろう。


もう12月で寒いから、つい冬場の断熱材のことが気になってしまうが、トタンの平屋根ということは、直射日光の熱を逃がすことができずに室内にどんどん溜まってしまっていたはずだ。そういう不満はほとんど聞かれていないということは、皆さん我慢していたのだろう。

慌てて建てなければいけなかったのは分かるが、もう少し配慮は出来なったのだろうか?今さら責めてみても仕方がないとはいえ、このような行き当たりばったりの急場しのぎの連続みたいなやり方は、今後は改めて行かなければなるまい。

一方で、もう少し後になって建てた仮設住宅は、屋根も切妻で快適さに配慮したり、しっかりした民間業者や団体に委託されたものは木造だったり、よく出来ているものもある。



「残り物には福がある」とはいえ、これでは初期に仮設に入った人達との格差が大き過ぎて不満や軋轢も産まれそうだ。それがまた、見るからに急場しのぎのそれと隣接して建っていたりするのだ。


神戸モデルの仮設住宅は、2年間という想定で作られている。しかし20km圏内からの避難者がたった2年で元の家に戻れたり、あるいは別の住む場所を見つけられるだろうという保証なんて、どこにもない。

そんな自分たちの力ではどうにもならない、先行きの見えない現状のなかで、避難している人達はこの季節だとクリスマス会など、ささやかな日々の節目節目に、落ち込んでしまったりコミュニティがバラバラにならないように、出来るだけ前向きに生きようとしている。


東京電力では原子炉の冷却に使った水の行き場が足りなくなり、この年の瀬になって海に流すことをいきなり検討し始めた。これだって最初からそうなるのは分かってる話のはずだろうに、なぜ今まで手をこまねいて来ただけなのか?

政府も東京電力も、「東京の」「東大を出た」優秀な、頭のいい人達のはずだ。だがやってることは、先行きをなにも考えないままの行き当たりばったりで、将来的なことはなにも決められないし、現実の問題をあまりに無視した、配慮の欠けたことばかりだ。せめて当事者の話くらいちゃんと聞けばまだ分かることもあるだろうに、そもそも聞く耳を持っていない。

東京のマスコミだって同じことだ。地元の、いちばん困っている人達に何がいちばん必要なのか考えようともせず、主に東京中心の視聴者や読者におもねて、現実とは無関係にそこに “分かり易い” ようにと彼らが考えるような報道しかしない。


そんな中では、秋頃になってやっとエアコンが取り付けられたとか、まだまるで済んでいない仮設も多いという話をするのにも躊躇してしまう。ひどいこととは言え、「駄目だなぁ、しっかりして下さいよ」程度の話であるはずだ。だがその程度の話でもプライドを死守し批判を逃れたいだけの人達は聴こうとしないし、一方でこの程度の話でも「責任をとれ、クビだ」となりかねない。

現代の都市の論理で “分かり易い” 報道とは「責任の所在をはっきりさせる」と称してとにかく叩く相手、悪者を作ることでしかない。

かくして大臣の首は飛び、責任を問われるのを恐れる東京電力は未確認の情報や想定・仮定までも説明不足で公表し(いや、配布する資料に説明は書いてあっても、どうせ記者たちは真面目に読もうともしないのだろう)、一方で考えておかなければならないことはなおざりなのだ。

都会など、「その他の日本」では、原発事故で「安全と安心」が失われたと叫ばれ続け、マスコミは主にその声に応じてのみ報道を続け、インターネットでもそのような言葉ばかりが飛び交う。それが日本の「世論」として均質化されたものであり、地方から発信されることですら、その都会に合わせてテーラーメードされている。

その陰で、あまりにも大きなものが、この一連の災害で失われている。

破壊の映像に息を飲むのは容易い。病気になるかも知れないと騒ぐことも、簡単に出来ることだ。批判する、というより叩く相手を探しまわれば、その対象はそこらじゅうに転がっている(し、実際のところいくらでも批判すべきことだって多い)し、「責任を追及」することで自分は正義だと思えるのなら、楽な話だ。実は自分達が、そのもっとも困っている人達を助けようにもその術すら持っていないことも、忘れられる。

そんな「ここ以外の日本」では、本当はどれだけ大切な物が失われてしまったのか、そのことを見極める努力すら、忘れられてしまっている。

なお、このお宅にお住まいだった四家敬さんご夫妻の避難先にお心当たりのある方は、ご一報頂けると助かります。追記:無事連絡が取れ、続編にも出演して頂く予定です。

【お知らせ】いわき市では年明け、1月14日にも13時半〜、もう一度『無人地帯』の試写を無料で行います。会場:いわき市・磐城緑陰中学校 視聴覚室 お問い合わせは錦つなみ基金まで。同時期に郡山市、福島市などでの試写も検討中です。

12/13/2011

『NoMan's Zone 無人地帯』いわき市で試写



大熊町、双葉町、富岡町、浪江町などのいわゆる20Km圏内と、いわき市、そして飯舘村で撮影した最新作のドキュメンタリー『NoMan's Zone 無人地帯』ですが、現地の人に見て頂くために、いわき市の被災者支援グループ「綿つなみ基金」のご協力により、いわき明星大学で試写を行うことになりました。

12月16日(金)開場17:30  上映18:00~   場所/いわき明星大学 講義館   定員/400名入場無料   主催/錦つなみ基金   問合わせ/09053574980(斉藤)  

【アクセス】   いわき駅から6番のりばより約20分   (下記以外は本学へ行きませんのでご注意ください。)   ○ラパークいわき行き(高専前・明星大経由)→明星大正門 下車   ○いわき光洋高校行き(高専前・明星大経由)→明星大正門 下車    ○いわきニュータウン行き(八ツ坂・飯野経由)→中央台北中 下車 徒歩4分


『NoMan's Zone 無人地帯』20011年 日仏合作
アリョーシャ・フィルム、ドゥニ・フリードマン・プロダクション製作

撮影 加藤孝信
編集 イザベル・インゴルド
音楽 バール・フィリップス 演奏 バール・フィリップス、エミリー・レスブロス
音響監督 臼井勝
製作 ヴァレリー=アンヌ・クリステン、ドゥニ・フリードマン
制作 カトリーヌ・グリゾレ
朗読 アルシネ・カーンジャン
監督 藤原敏史


今回は被災者、この大変な事態の当事者の皆さんにまずご覧頂きご意見を伺うための、無料上映です。以後、来年2月のベルリン国際映画祭に出品、そのあと劇場公開を目指しているところです。

ところで東京フィルメックス映画祭でのワールド・プレミア上映で、このように素晴らしい感想を書いてくれた人がいました。

「無人地帯」NoMan's Zone - Life_Fragment_log _ / _或いは _ /Life/Glitch/Memo_

こういう文章を喚起するというだけでも、映画を作ってよかったと思える。

12/10/2011

テロリズムと男性性〜オリヴィエ・アサイヤス『カルロス』、ロバート・クレイマー『アイス』


オリヴィエ・アサイヤス『カルロス』(2010)予告編

東京日仏学院で、1970年前後を中心とした極左革命勢力などによる政治的暴力の時代をめぐる映画の特集上映『鉛の時代』が開催中だ。

「テロリズム」というと2001年の9/11事件以降、なにやら絶対悪か狂信の、絶対的に排除すべき恐怖のイメージで捉えられがちなのがこの10年間であっただけに、この時代を遡行したズレと比較、省察は意義深い。

テロリズムとはあくまで「政治的暴力」である。暴力は政治の手段であって目的ではなく、テロルは恐怖を世界にばらまくための半狂人の悦楽なぞではない。それはなんらかの政治的目的達成のための、あくまで手段なのだ。

無論、21世紀のテロリズムではあえて、敵に「テロルとは暴力と破壊に陶酔した狂人の絶対悪だ」と思い込ませるというひねり技に出たオサマ・ビン・ラディンが、その不安と恐怖の演出を見事にやり遂げた結果、「アメリカの権威・威信を解体する」という目標を実のところ完璧に成し遂げてしまってもいるわけで、アルカイーダは20世紀以降もっとも成功したテロリズム組織なのかも知れない-目的の達成という意味では。

暴力は手段であって目的ではない-70年代のテロリズムの目的とはたとえば『アイス』においては革命であり、『カルロス』の場合は「パレスティナの大義」だ。


 ロバート・クレイマー『アイス』より
「最後の官僚が最後の資本家の血液に溶けてなくなるまで、人類に幸福はない」

実はアメリカの権威と維新の破壊解体こそが目的であったアルカイーダとは異なり、この時代のテロリズムは、それぞれにそれなりに立派な「正義」である目的を堂々と掲げていた。問題はむしろ、「目的は手段を正当化する」とマルクスが言うのでれば、だから政治的暴力と言う手段が肯定されるかどうか、のように思える。

そしてマルクスが正しいのであれば、目的が正しい以上はテロルも正しいことになる。

なるほど、そうは言っても暴力の行使は違法ではないかと言われるかもしれない。

しかしそこでバルベ・シュロデールのドキュメンタリー『テロルの弁護士』の主人公がナチ戦犯クラウス・バルビーを弁護した際の論理がある。なるほど、バルビーの指揮下に拷問が行われ、ユダヤ人は逮捕され連行され、ジャン・ムーランのようなレジスタンス指導者たちが殺された。「だがそれはフランスがアルジェリアでやったことと全く同じではないか」。

国家もまた暴力を政治的手段として用いている(警察も軍隊も国家の権力を施行する暴力装置だ)ときに、テロリズムを「違法だ」と断罪することは、倫理的に極めて困難になる。国家を維持するという目的の正しさを(マルクスを援用して)語るのであれば、ならば帝国主義的な資本主義を擁して植民地や少数民族を弾圧する国家の存立が「正しい」目標と言えるのだろうか?

アメリカ映画かマスメディアのニュースの大前提になっている「テロ=悪」の論理は、実のところこのように極めて脆弱なものに過ぎない。そもそも例えば現在のようなホワイトハウスを維持することが、アメリカ人とその同盟国民にとって幸福なのかすらどうかすら怪しいのだし。「テロ=絶対悪」とは、その実およそ絶対正義とは言い難い国家権力に依存することしか出来ない者たちの自己投影、その実自分たち自身が力と優越感の幻想することのシャドーボクシングに過ぎない。

それはスティーヴン・スピルバーグが『ミュンヘン』で徹底して見せたことでもある。なお今回の日仏の特集で入っていておかしくなかった『ミュンヘン』が上映されないのは、ただ上映許諾とプリントが確保できなかったからなのだそうだ。残念、『カルロス』と『ミュンヘン』が比較できたら面白かったのだが。

スティーブン・スピルバーグ『ミュンヘン』(2005)予告編

とはいうものの、『ミュンヘン』におけるモサドのミッションはそれを命じた国家の正当性がそのミッションによって大いに歌がしいものとなることを示しつつも、ミッション自体は成功した(それがイスラエルの安全保障にどれだけ役立ったかはずいぶん怪しげであるにせよ)。

それに対し、「鉛の時代」と呼ばれたテロリズムは結局は一切成功せず、なにも残さず、むしろ「革命」が夢見られた時代に終止符を打っただけだ。結果から見れば、これはおよそ「正しい」と言えた代物ではない。

オリヴィエ・アサイヤスの『カルロス』において、PFLP(パレスティナ解放人民戦線)のメンバーからスタートしたカルロスは、常に「パレスティナの大義」を掲げる。5時間の大長編が三部作に分けられたこの傑作で、第一部は「パレスティナの大義」を奉ずる若きヒーローのアクション映画のような軽快さで進行する-というか、『カルロス 第一部』はおもいっきりアクション映画であり、娯楽性たっぷりだ。

我々はカルロスが「テロリスト」であることすらつい忘れがちに、カリスマ性にあふれ頭も切れて現実的な戦略性にも優れたリアルなヒーローとして、彼の冒険を共にしてしまう。同じく「パレスティナ人民と共に」と標榜するものの、その宣言が薄っぺらな“正義ごっこ”でしかない日本赤軍の子どもっぽさの描写との対比で(赤軍派崩れのオジさんは不満だろうが、実際そんなもんだったんだから仕方あるまい)、カルロスの若いことは若いものの戦いを知っている大人の男の魅力は、一層際立つわけだ。

パリでPFLPの活動を始めた時期のカルロスが、シャワーを浴びる印象的なシーンがある。

全裸のまま、カルロスはベッドルームで大きな鏡の前に立ち、自分の肉体を見る。若々しく、がっしりした男の肉体だ。彼はその肉体にふさわしい立派な股間を、左手で握りしめる。


第一部の後半、逮捕された上官に密告されながら、公安警察とその上官を間一髪で射殺してパリを逃れ、南イエメンのPFLPの拠点に隠れるカルロスは、再び全裸で、蚊帳のなかで目覚める。その肉体はアルコールで無様な脂肪の固まりになっている。

ロバート・クレイマーの『アイス』では、街頭で突然活動家を襲う集団が、彼を倉庫の床に押し付け、ズボンをずらし、その男根に拷問を加える。映画の後半、恋人と抱き合う気力を失った別の活動家は、逮捕されたら牢屋で強姦されること、アナルを犯される恐怖を口にする。

テロリズムがあくまである政治的目標を達成する手段としての政治的暴力という大義名分で行われるとしても、暴力は暴力だ。

それは男性的な力の発散として実践されるのが現代の父権的社会の常であり、だからテロリズムのヒーロー(カルロスはテロ業界のスーパースターとすら言える)はセクシーである以上に、そのアクションはセクシャルなものなのだ。


テロルの暴力を優れてセクシャルなものと結びつけることは、スピルバーグもまた『ミュンヘン』で試み、賛否両論を浴びることになった演出だ。アメリカの正義、「対テロ戦争」の正義を疑いたくないアメリカの観客は、それも他ならぬスティーブン・スピルバーグ(『E.T.』『シンドラーのリスト』の監督である)の映画で、「テロとの戦争」が性的なイメージと結びついて見せられることに愕然としたに違いない−アメリカの主流の文化は、今日においてさえ、タテマエは性的に極めて保守的なのだ。


スピルバーグ『ミュンヘン』暴力的なるものと、性的なるもの

一方でクレイマーは『アイス』で、その保守的=父権的なものそれ自体の多義的な揺らぎを問う。この映画において、革命を目指すラディカル集団の男達の行動は、しかしうんざりとするまでに非革命的で、保守的な男性観にがんじがらめにされたものであると同時に、その強がりが故のもろさ、危うさが瞬間瞬間に浮かび上がる。あたかも彼らの「革命」とは、その自分の抱えた脆さ(=非・男性性、と彼ら自身がみなすもの)を隠蔽し、逃避するためのものであるかのようだ。

だが同時に、革命運動に身を投ずるということは、官憲に逮捕され迫害される=男性性を巨大父権に傷つけられる危険を孕む。『アイス』とはこの両義的な矛盾を内包した「革命」のゆらぎを捉えたフィルムでもある。

そしてクレイマーが革命ゲリラを描くことから離れた40年後に、オリヴィエ・アサイヤスが手がけた『カルロス』では、このテロリズム界の超セレブ自身が、極めてセクシャルな存在として描かれる。第一部では颯爽とした性的魅力を備えたアクションのヒーローとして登場し、スピルバーグにおいてアクションと性の結びつきがある種の罪悪感を潜めたものであったのに対して、第一部においてアクションと性はひたすら官能的、魅力的に結びつく。

『カルロス』第一部は、今やデジタル特殊効果に頼り過ぎ、形式化した社会のモラル・コードにがんじがらめにされ、もはや身体性と官能性を見失いつつあるアメリカのアクション映画に対する、小気味よいまでのフランスからの回答であるとすら言える。ゲーリー・クーパーやジョン・ウェインの昔から、いやそれ以前のダグラス・フェアバンクスから、アクションスターとはセクシーでなければならなかったのだ(そのハリウッド最後の例が、変化球ではあるが『ダイ・ハード』ブルース・ウィリスだとも言えるだろう)。

セクシーでカリスマ性にあふれたカルロスは(これも史実通りに)女性たちとの関係も派手だったし、アサイヤスの映画はテロルの行使と同じくらい、彼が女たちを「征服」していく様も重要視して見せ続ける。

だがそのムードがいっぺんするのは、南イエメンでいったんぶくぶくに太ったあと、訓練を受け直したカルロスが、彼の起こしたテロ事件のなかでも最も有名な、ウィーンのOPEC本部占拠・各国石油相人質事件だ。


OPEC占拠事件、チェ・ゲバラ風衣装のカルロス(エドガー・ラミレス)
ベレー帽に、クリスチャン・ディオールの革のジャケットだとか。
ズボンも当時の流行のいわゆる「らっぱズボン」。

ここでなにがどう映画のなかで変わるのかは、『カルロス』三部作を見てもらう他ないのだが、最終的にフランス当局に逮捕されるまで身を隠していたスーダンで、中年になったカルロスを苦しめていた病は、睾丸の腫瘍であったことだけを、ここに指摘しておく。

オリヴィエ・アサイヤスはテロリズムについて「nulだ(退屈で無駄で頭が悪い、といったような意味)」と断ずる。

OPEC本部占拠事件にしても、「パレスティナの大義」はエクスキューズでしかなく、本当の動機はイラクとシリアが石油の値段つり上げを狙って、サウジアラビアの石油大臣を暗殺させようとしたことだった。映画『カルロス』において現実のパレスティナ人が不在なのは、カルロスが「パレスティナの大義」を掲げつつ、その目的のためになにもせず、実のところ関心すらすぐに失ってしまっていたからなのだ。

「目的は手段を正当化する」とマルクスは言う。だからこそここで、我々は『鉛の時代』のテロルについてこう問わなければならない。革命家を自称するものたちが掲げた「正当な理由/目的」は、彼らの本当の目的だったのか?

彼らは本当に革命を目指していたと言えるのだろうか?カルロスの「パレスティナの大義」もなにもかもいいわけに過ぎず、本当の目的はなにか別のものに横滑りしていたのではないか?

『カルロス』と『アイス』は、男達が自分たち自身の掲げた目的を呆気なく裏切って行く映画としても、見ることができるのかもしれない。あるいは、男という生物にはそれがなかなか難しいのが、本当のところなのかも知れない。