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12/10/2011

テロリズムと男性性〜オリヴィエ・アサイヤス『カルロス』、ロバート・クレイマー『アイス』


オリヴィエ・アサイヤス『カルロス』(2010)予告編

東京日仏学院で、1970年前後を中心とした極左革命勢力などによる政治的暴力の時代をめぐる映画の特集上映『鉛の時代』が開催中だ。

「テロリズム」というと2001年の9/11事件以降、なにやら絶対悪か狂信の、絶対的に排除すべき恐怖のイメージで捉えられがちなのがこの10年間であっただけに、この時代を遡行したズレと比較、省察は意義深い。

テロリズムとはあくまで「政治的暴力」である。暴力は政治の手段であって目的ではなく、テロルは恐怖を世界にばらまくための半狂人の悦楽なぞではない。それはなんらかの政治的目的達成のための、あくまで手段なのだ。

無論、21世紀のテロリズムではあえて、敵に「テロルとは暴力と破壊に陶酔した狂人の絶対悪だ」と思い込ませるというひねり技に出たオサマ・ビン・ラディンが、その不安と恐怖の演出を見事にやり遂げた結果、「アメリカの権威・威信を解体する」という目標を実のところ完璧に成し遂げてしまってもいるわけで、アルカイーダは20世紀以降もっとも成功したテロリズム組織なのかも知れない-目的の達成という意味では。

暴力は手段であって目的ではない-70年代のテロリズムの目的とはたとえば『アイス』においては革命であり、『カルロス』の場合は「パレスティナの大義」だ。


 ロバート・クレイマー『アイス』より
「最後の官僚が最後の資本家の血液に溶けてなくなるまで、人類に幸福はない」

実はアメリカの権威と維新の破壊解体こそが目的であったアルカイーダとは異なり、この時代のテロリズムは、それぞれにそれなりに立派な「正義」である目的を堂々と掲げていた。問題はむしろ、「目的は手段を正当化する」とマルクスが言うのでれば、だから政治的暴力と言う手段が肯定されるかどうか、のように思える。

そしてマルクスが正しいのであれば、目的が正しい以上はテロルも正しいことになる。

なるほど、そうは言っても暴力の行使は違法ではないかと言われるかもしれない。

しかしそこでバルベ・シュロデールのドキュメンタリー『テロルの弁護士』の主人公がナチ戦犯クラウス・バルビーを弁護した際の論理がある。なるほど、バルビーの指揮下に拷問が行われ、ユダヤ人は逮捕され連行され、ジャン・ムーランのようなレジスタンス指導者たちが殺された。「だがそれはフランスがアルジェリアでやったことと全く同じではないか」。

国家もまた暴力を政治的手段として用いている(警察も軍隊も国家の権力を施行する暴力装置だ)ときに、テロリズムを「違法だ」と断罪することは、倫理的に極めて困難になる。国家を維持するという目的の正しさを(マルクスを援用して)語るのであれば、ならば帝国主義的な資本主義を擁して植民地や少数民族を弾圧する国家の存立が「正しい」目標と言えるのだろうか?

アメリカ映画かマスメディアのニュースの大前提になっている「テロ=悪」の論理は、実のところこのように極めて脆弱なものに過ぎない。そもそも例えば現在のようなホワイトハウスを維持することが、アメリカ人とその同盟国民にとって幸福なのかすらどうかすら怪しいのだし。「テロ=絶対悪」とは、その実およそ絶対正義とは言い難い国家権力に依存することしか出来ない者たちの自己投影、その実自分たち自身が力と優越感の幻想することのシャドーボクシングに過ぎない。

それはスティーヴン・スピルバーグが『ミュンヘン』で徹底して見せたことでもある。なお今回の日仏の特集で入っていておかしくなかった『ミュンヘン』が上映されないのは、ただ上映許諾とプリントが確保できなかったからなのだそうだ。残念、『カルロス』と『ミュンヘン』が比較できたら面白かったのだが。

スティーブン・スピルバーグ『ミュンヘン』(2005)予告編

とはいうものの、『ミュンヘン』におけるモサドのミッションはそれを命じた国家の正当性がそのミッションによって大いに歌がしいものとなることを示しつつも、ミッション自体は成功した(それがイスラエルの安全保障にどれだけ役立ったかはずいぶん怪しげであるにせよ)。

それに対し、「鉛の時代」と呼ばれたテロリズムは結局は一切成功せず、なにも残さず、むしろ「革命」が夢見られた時代に終止符を打っただけだ。結果から見れば、これはおよそ「正しい」と言えた代物ではない。

オリヴィエ・アサイヤスの『カルロス』において、PFLP(パレスティナ解放人民戦線)のメンバーからスタートしたカルロスは、常に「パレスティナの大義」を掲げる。5時間の大長編が三部作に分けられたこの傑作で、第一部は「パレスティナの大義」を奉ずる若きヒーローのアクション映画のような軽快さで進行する-というか、『カルロス 第一部』はおもいっきりアクション映画であり、娯楽性たっぷりだ。

我々はカルロスが「テロリスト」であることすらつい忘れがちに、カリスマ性にあふれ頭も切れて現実的な戦略性にも優れたリアルなヒーローとして、彼の冒険を共にしてしまう。同じく「パレスティナ人民と共に」と標榜するものの、その宣言が薄っぺらな“正義ごっこ”でしかない日本赤軍の子どもっぽさの描写との対比で(赤軍派崩れのオジさんは不満だろうが、実際そんなもんだったんだから仕方あるまい)、カルロスの若いことは若いものの戦いを知っている大人の男の魅力は、一層際立つわけだ。

パリでPFLPの活動を始めた時期のカルロスが、シャワーを浴びる印象的なシーンがある。

全裸のまま、カルロスはベッドルームで大きな鏡の前に立ち、自分の肉体を見る。若々しく、がっしりした男の肉体だ。彼はその肉体にふさわしい立派な股間を、左手で握りしめる。


第一部の後半、逮捕された上官に密告されながら、公安警察とその上官を間一髪で射殺してパリを逃れ、南イエメンのPFLPの拠点に隠れるカルロスは、再び全裸で、蚊帳のなかで目覚める。その肉体はアルコールで無様な脂肪の固まりになっている。

ロバート・クレイマーの『アイス』では、街頭で突然活動家を襲う集団が、彼を倉庫の床に押し付け、ズボンをずらし、その男根に拷問を加える。映画の後半、恋人と抱き合う気力を失った別の活動家は、逮捕されたら牢屋で強姦されること、アナルを犯される恐怖を口にする。

テロリズムがあくまである政治的目標を達成する手段としての政治的暴力という大義名分で行われるとしても、暴力は暴力だ。

それは男性的な力の発散として実践されるのが現代の父権的社会の常であり、だからテロリズムのヒーロー(カルロスはテロ業界のスーパースターとすら言える)はセクシーである以上に、そのアクションはセクシャルなものなのだ。


テロルの暴力を優れてセクシャルなものと結びつけることは、スピルバーグもまた『ミュンヘン』で試み、賛否両論を浴びることになった演出だ。アメリカの正義、「対テロ戦争」の正義を疑いたくないアメリカの観客は、それも他ならぬスティーブン・スピルバーグ(『E.T.』『シンドラーのリスト』の監督である)の映画で、「テロとの戦争」が性的なイメージと結びついて見せられることに愕然としたに違いない−アメリカの主流の文化は、今日においてさえ、タテマエは性的に極めて保守的なのだ。


スピルバーグ『ミュンヘン』暴力的なるものと、性的なるもの

一方でクレイマーは『アイス』で、その保守的=父権的なものそれ自体の多義的な揺らぎを問う。この映画において、革命を目指すラディカル集団の男達の行動は、しかしうんざりとするまでに非革命的で、保守的な男性観にがんじがらめにされたものであると同時に、その強がりが故のもろさ、危うさが瞬間瞬間に浮かび上がる。あたかも彼らの「革命」とは、その自分の抱えた脆さ(=非・男性性、と彼ら自身がみなすもの)を隠蔽し、逃避するためのものであるかのようだ。

だが同時に、革命運動に身を投ずるということは、官憲に逮捕され迫害される=男性性を巨大父権に傷つけられる危険を孕む。『アイス』とはこの両義的な矛盾を内包した「革命」のゆらぎを捉えたフィルムでもある。

そしてクレイマーが革命ゲリラを描くことから離れた40年後に、オリヴィエ・アサイヤスが手がけた『カルロス』では、このテロリズム界の超セレブ自身が、極めてセクシャルな存在として描かれる。第一部では颯爽とした性的魅力を備えたアクションのヒーローとして登場し、スピルバーグにおいてアクションと性の結びつきがある種の罪悪感を潜めたものであったのに対して、第一部においてアクションと性はひたすら官能的、魅力的に結びつく。

『カルロス』第一部は、今やデジタル特殊効果に頼り過ぎ、形式化した社会のモラル・コードにがんじがらめにされ、もはや身体性と官能性を見失いつつあるアメリカのアクション映画に対する、小気味よいまでのフランスからの回答であるとすら言える。ゲーリー・クーパーやジョン・ウェインの昔から、いやそれ以前のダグラス・フェアバンクスから、アクションスターとはセクシーでなければならなかったのだ(そのハリウッド最後の例が、変化球ではあるが『ダイ・ハード』ブルース・ウィリスだとも言えるだろう)。

セクシーでカリスマ性にあふれたカルロスは(これも史実通りに)女性たちとの関係も派手だったし、アサイヤスの映画はテロルの行使と同じくらい、彼が女たちを「征服」していく様も重要視して見せ続ける。

だがそのムードがいっぺんするのは、南イエメンでいったんぶくぶくに太ったあと、訓練を受け直したカルロスが、彼の起こしたテロ事件のなかでも最も有名な、ウィーンのOPEC本部占拠・各国石油相人質事件だ。


OPEC占拠事件、チェ・ゲバラ風衣装のカルロス(エドガー・ラミレス)
ベレー帽に、クリスチャン・ディオールの革のジャケットだとか。
ズボンも当時の流行のいわゆる「らっぱズボン」。

ここでなにがどう映画のなかで変わるのかは、『カルロス』三部作を見てもらう他ないのだが、最終的にフランス当局に逮捕されるまで身を隠していたスーダンで、中年になったカルロスを苦しめていた病は、睾丸の腫瘍であったことだけを、ここに指摘しておく。

オリヴィエ・アサイヤスはテロリズムについて「nulだ(退屈で無駄で頭が悪い、といったような意味)」と断ずる。

OPEC本部占拠事件にしても、「パレスティナの大義」はエクスキューズでしかなく、本当の動機はイラクとシリアが石油の値段つり上げを狙って、サウジアラビアの石油大臣を暗殺させようとしたことだった。映画『カルロス』において現実のパレスティナ人が不在なのは、カルロスが「パレスティナの大義」を掲げつつ、その目的のためになにもせず、実のところ関心すらすぐに失ってしまっていたからなのだ。

「目的は手段を正当化する」とマルクスは言う。だからこそここで、我々は『鉛の時代』のテロルについてこう問わなければならない。革命家を自称するものたちが掲げた「正当な理由/目的」は、彼らの本当の目的だったのか?

彼らは本当に革命を目指していたと言えるのだろうか?カルロスの「パレスティナの大義」もなにもかもいいわけに過ぎず、本当の目的はなにか別のものに横滑りしていたのではないか?

『カルロス』と『アイス』は、男達が自分たち自身の掲げた目的を呆気なく裏切って行く映画としても、見ることができるのかもしれない。あるいは、男という生物にはそれがなかなか難しいのが、本当のところなのかも知れない。

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