最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

10/23/2012

京都、西本願寺の “日本史のタブー”



前回の龍安寺に続き、京都のお寺の話。

京都駅からいちばん近いお寺といえば、南に(新幹線から塔が見える)教王護国寺(東寺)と、北に烏丸口で降りて烏丸通をまっすぐ行った東本願寺と、そこから左に曲がった先の西本願寺である。

どういうわけか、両本願寺はともにそれほど観光名所ではない(西本願寺はUNESCOで世界遺産登録もちゃんとされているのに)し、その歴史もあまり知られていない。

国宝である白書院、黒書院、飛雲閣が普段は公開されていないせいもあるのだろうけど、そういえば「本願寺」という名称は、日本史の教科書でもよく出て来る割にはよく分からない存在だ。

国宝 唐門

ちなみに唯一普通に見られる国宝の唐門(彫刻の細かさで、一日中見ていられるということから、「日暮の門」とも呼ばれる)だけでも呆れる程の絢爛豪華な桃山時代の大工仕事の粋だが、黒書院・白書院は、同じ京都にあるほぼ同時代の、様式も似通った建築であり、江戸幕府の京都代表部であった権力の象徴、二条城よりも、もっと洗練された絢爛豪華さで、狩野派全盛期の美術が結晶していたりする。

通常非公開なので、西本願寺の一連の豪華建築については、公式ウェブサイトはこちら。くれぐれも、びっくりしないように。

国宝 黒書院 式台玄関



「これが寺かよ。宮殿じゃねえか」っていう感じ。

…というか、浄土真宗の総本山の、門主の座所なんだから、ある意味宮殿なのだが、それにしても凄い財力だったわけだ。

本願寺派がどれだけ大きな力を持っていたかは、本堂の阿弥陀堂と御影堂の巨大さを見るだけで、強烈に印象づけられるはずだ。

阿弥陀堂
御影堂

それぞれに800人の信徒が、一度に入れるのだそうだ。

ちょっと我々が「京都のお寺」に抱いているイメージとは違うことも、あまり観光名所ではない理由なのかも知れない。


数年前に大規模な修復工事が行われ、その本来の姿を取り戻した屋根の曲線はとても優美なのだが、なにしろ大き過ぎて屋根に目が行かない。それ以外は、むしろシンプルで、質実剛健とした建築だ。

とくに御影堂は、無骨なまでにユニークで、華やかな装飾性を一切感じさせない作りが、つつましくありながらもそのスケールの大きさが、モダンで力強い。


それにしても、なんだか「京都のお寺」のイメージでないその理由は、たとえば阿弥陀堂の横に廻ると分かる。


「なにが寺だよ。城塞じゃねえか」

これも一般公開されていないので普段は見えないのだが、裏側は城郭建築と同様に基礎部分が石垣になっている。

こちらは関ヶ原の合戦後に家康の寄進で建てられた東本願寺。これもまさに城の石垣である。どちらの本願寺も、掘割に囲まれている。


浄土真宗大谷派、本願寺派、あるいは一向宗ともいう。

近代に一時は東本願寺の大谷派、西本願寺の本願寺派の二つの法人格に分裂したものの再合併、今日でも日本の仏教で最大の宗派であり、それは少なくとも戦国時代以来ずっとそうだ。

一方で、教王護国寺(東寺)と比叡山という、平安京つまり京都の鎮守の要であったり、あるいは仁和寺のように天皇家に所縁の深い密教とは立場が正反対だし、相国寺や龍安寺のように武家の仏教として栄えた禅宗とも違う、いわゆる「公的な仏教」ではない。権力と結びついた信仰ではない。

それがこれほどの威容と財力を誇り、戦国時代が終わった直後の京都に、あたかも城郭のような寺院を築けるとは、いったいどういうことなのか?

しかも本願寺派は、ここ京都に本拠を置くようになる以前に、一度滅亡しかけているのだ。

阿弥陀堂門(重文)

今の西本願寺はその後に、秀吉が寄進した土地に建てられている。

秀吉が「許した」というニュアンスでは決してない。寄進し、ある種の独立した権限すら付随していたことは、京の都のど真ん中にこのような、城郭とも思える寺院を建立出来たことを見ても明らかだ。

堀割もしかり、こと西本願寺の御影堂や阿弥陀堂の作りは、ぶっちゃけた話、いざとなればここで篭城戦が出来るような建築である。

「なにが寺だよ。城塞じゃねえか」


そう、これは半分は、信徒が篭城する「城」として作られたものではないか。

京都に移る前に本願寺派の本拠があったのは、大坂の石山本願寺である。

これは歴史の教科書では注釈くらいでしか書かれていない話だが、石山本願寺といえば、その跡地に秀吉が建てたのが大坂城。現在の大坂城は、大坂夏の陣で焼失し完全に破壊された跡に、江戸幕府が盛り土をしてその上に建てたものだが、つまり城郭の立地である。

ちなみに大坂城の存在のせいで誤解されがちだが、豊臣の本拠が大坂に移ったのは秀吉の死後の淀殿と秀頼の代であり、秀吉政権の本拠は京都だった。

…というか、これも日本史の教科書ではなんだかあまり大きく書かれていないが、石山本願寺といえば織田信長が10年もかけて攻略したものだ。

ここから先は、教科書ではもうタブーそのものの話になる。


信長の「天下統一」の最大の障害は、今川でも武田でもその他の諸大名でもなく、石山本願寺であり、最終的に攻略に成功した際の信長の虐殺の犠牲者は、正確な文献が残っていないものの数万とも言われている。

明智光秀が突然、意を決して本能寺で信長を討ったのは、最近の研究では、石山本願寺で信長が殺したあまたの民衆のたたりを恐れたため、いわば魂鎮めではなかったのか、とすら言われている。

過去の日本人は祟りを本気で恐れる民族でもあった(これだけ一般民衆を殺していれば、実際問題として思いっきり恨まれているわけでもあり、一種の“祟り”になるのもまた確か)。また信長は本願寺以外にも比叡山も焼き討ちしているのだから、ケタ外れな“罰当たり”であったわけだが、これはまた別の話


信長の「天下統一」の最大の障害であった、言い換えれば戦国時代末期の最も強力な武装勢力は、武家の戦国大名などではなく、信仰の下に一般の民衆が結集した本願寺派、一向一揆であったことを、意味するではないか。

信長に滅ぼされた後でも、まだ多くの民衆の支持を集めていた一向宗の信仰=民衆の恨みと怒りをなだめる懐柔策で、秀吉は京都にこの広大な敷地を、大谷派に寄進したのではないか?

だとすれば、西本願寺が京都にこれだけの寺領を持ち(今の境内だけでなく、龍谷大学など周辺地域も、元はすべて西本願寺の土地だ)、しかもそこにいざとなれば篭城できるような寺院を建てたことも、納得が出来る。

さらにここに移設された由来は定かではないものの、国宝の飛雲閣も元は秀吉が京における邸宅の聚楽第に、天皇の行幸のために建てたものだという。これも大谷派門主への秀吉のプレゼントであったとしても、おかしくない。

国宝 飛雲閣と鐘楼(重文)



一方で、一度は信長に滅ぼされかけてもなお民衆の支持を集める大谷派の力を恐れた、政権を回復した武家は、家康が東本願寺の敷地を寄進することで、その本拠を分裂させ権勢を分断させようと試みたわけでもある。

東本願寺の御影堂

浄土真宗大谷派、本願寺派、一向宗とはどんな信仰か、って言うのはなにしろ日本仏教の最大宗派、最近、宗祖親鸞の750年祭も営まれたわけで今さら説明も野暮…でもないのが、これが日本史の授業であまり教えられていないのでまた頭を抱えてしまうのだが…

…人は誰しも前世の業や自らの人生で犯す罪を重ねているものであり、念仏を唱えてひたすら阿弥陀仏にすがり、運命を受け入れ心を清めることでしか、浄土に極楽往生することはあり得ない。

平安末の浄土建築:福島県いわき市の白水阿弥陀堂(国宝)と浄土庭園

浄土信仰は元は平安時代、末法思想の流布とともに最初に広まったもので、宇治平等院鳳凰堂を建立した藤原道長など、貴族階級にも帰依するものは多かったが、こと鎌倉時代に入り親鸞が登場することで、ひたすら念仏を唱えることが基本のシンプルさが民衆に広く受け入れられるようになった。

たとえば国家鎮護を旨として、いわば最先端の学問のように平安初期に受け入れられ、空海・最澄というエリート秀才たちの力量もあって公式の信仰となった密教とは違い、民衆の救済をひたすら説いた信仰である。


教義の基本も、禅宗のように瞑想を中心に思索をめぐらすものでも、密教のようにいろいろ学問が必要なものでもなく、我々が生きているということは、衆生に支えられ生かされているのであって、自分の生と業を受け入れて阿弥陀仏の慈悲にすがるという、シンプルであると同時に、ヒエラルキーの権力構造のなかに生きるのではなく、農村で皆が助け合ってコミュニティを維持して来た庶民の生活感覚にも、より近しいものだったろう。

いわば、仏の前には人間皆平等でもあるのだろうし、だからこそ民衆に受け入れられ、やがて本願寺派は民衆の解放運動の大きな中心となる。


農耕民族である日本人の庶民感覚では、元からしてどんなに人間世界で偉そうにしていようが、天災などの自然の猛威をはじめ、人間外の世界からの力の前には無力ではないか、という感覚も息づいていた。

「無常」の世界観であり、こと戦国時代にはその感覚は強まったであろうし、一方で(これも日本史の教科書ではぼやかされがちだが)当時は、武家支配階級の力が相対的に落ちていたぶん、民衆も武装し、力を持っていたわけでもある。

たとえば西洋のような厳格な階級社会が、日本に必ずしも根付いていたわけではない。江戸時代の士農工商などの身分制度はそれとして、しょせん人間のやることであり、無常なのだ。

だからこそ、一向一揆は、こと武家支配が内紛で弱まった戦国時代には、巨大な力を持ち得たのだろう。

金箔を多用した建築といえば、足利三代将軍義満の金閣寺にせよ、秀吉が千利休に作らせた黄金の茶室にせよ、財力を誇示する成金趣味という感じが強い。

…というか金閣なんて一応、禅宗の相国寺派のくせに、なんだよこの絢爛豪華は、とか、利休の侘び茶に金箔貼りの茶室って秀吉って悪趣味、っていう話だろう。

一方で浄土信仰で金箔といえば、まず思い浮かぶのが岩手県・平泉に欧州藤原氏の建てた中尊寺の金色堂だが、こちらは西本願寺・御影堂の祭壇である。


写真だとなかなか伝わらないかも知れないが、ほの暗いお堂のなかでも、反射率の高い金は障子ごしの柔らかな外光でも燦然と輝く。

これが浄土のイメージだと言われれば、電気もなく、明かりと言えば蝋燭すらなく、菜種油を燃やす灯明しかなかった時代には、すんなりと受け入れられたことだろう。


富の誇示とか、金箔の世俗的な価値以前に、それを超越した感覚で、なんとも言えぬ説得力があるのは、親鸞750年祭を前に丁寧に修復された今の西本願寺に行けばわかると思う。


それにしたって、これだけの仏閣を建立できた戦国時代直後の本願寺派の財力や、動員できた労働力は、途方もないものだったはずだ。

繰り返すが、それも石山本願寺を信長に破壊され、相当に力を削がれた後のことのはずだ。


我々にとっておなじみの、信長、秀吉、家康という、戦国時代末期の「天下統一」の物語は、この本願寺の存在が実際にはこれだけ大きかったことを考えれば、かなり歪んだものなのではないか?

NHKの大河ドラマでは、石山合戦の話はほとんど触れられない。

まるで今でも、タブーであるかのようだ。


よく考えれば、それは今の日本の学校教育でだって、これはタブーになるだろう。

信長の「天下統一」の最大の敵は、武装した民衆勢力である一向一揆であり、そのトップに立つのが大谷派、本願寺だった。

つまり信長の「天下統一」は、実はライバルの大名を、鉄砲などを用いた斬新な戦法の知恵で打ち破ったからなどではまったくなく、民衆を代表する勢力を壊滅させようとし、その過程で民衆を大虐殺までしたことだった。

その後継者である秀吉がやったこととは、自身が庶民出身の「太閤記伝説」とは裏腹に、検知によって庶民・農民の財産である農地を管理下に置き、生産量を把握し、確実に年貢を収奪できるシステムの構築と、農民の武装解除に他ならない刀狩りだった。

つまり戦国時代の終了とは、戦乱を納めて民衆に平和をもたらした等ということではなかったのではないか?

むしろ武家に対抗できる程の力さえ持った農民・庶民から、その力を収奪し、再び武家の支配下に置いたことだったのではないか。

参拝者の目を楽しませるためと言われる御影堂縁側の木工細工

逆に言えば、「従順さ」がしばしば日本人の国民性として指摘されるが、それもまったくの嘘っぱちであったことになる。

なにしろ戦国時代に、支配階級である武家が内紛で凋落していたあいだに、庶民の結束した反抗が、これほどの巨大な力を、持ち得ていたのだから。

学校教育で本願寺派の歴史を教えたがらないのも当然だ。

いろいろと「偉い人」に都合が悪い。


日本の庶民は、支配階級の堕落にも唯々諾々として従い、戦国時代にはただ武家の内紛に翻弄されていただけで、秀吉や家康といった巨大権力に寄る平和に安堵していた「かわいそうな国民」に留まっていたのだ、としておいた方が、いろいろと都合がいいわけである。

だったら今の日本国民がこれだけ従順であることも、なんとなくみんな納得できるわけだし、現代の支配階級にとっても好都合だろう。

一向一揆なんてオウム真理教みたいな、信仰に凝り固まって「偉い人」に反抗した「不届きな狂信者」であった方が、楽なのだ。


でも、この西本願寺を見れば、「そんなこと、ないよねぇ」と思う。

「どこがただの宗教なんだよ、民衆の革命勢力じゃねぇか」

民衆解放運動、支配階級を打破しようとした革命闘争、普通の人々が誇りを持って生きるだけの強い価値を、かつての日本の庶民が持っていたこと、それは支配階級を根底から揺さぶり得るものでもあったこと。

西本願寺はその記念碑でもあるのだ。

東本願寺 修復工事中の阿弥陀堂

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