最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

7/08/2013

震災と原発事故発生から2年4ヶ月…〜「しょうがない」では済まされない人災


まず告知。2年と4ヶ月と3日にあたる7月14日に、2011年東京フィルメックスでの上映以来久しぶりに、『NO MAN'S ZONE 無人地帯』を東京で上映する。


NO MAN'S ZONE 無人地帯
2012年/日仏合作/カラー/DCP/105分/日本語、英語
撮影 加藤孝信 編集 イザベル・インゴルド 音楽 バール・フィリップス 整音 臼井勝 ナレーション朗読 アルシネ・カーンジャン 製作 ヴァレリー=アンヌ・クリステン、ドゥニ・フリードマン 監督 藤原敏史
国際配給 Doc&Film International




昨年2月のベルリン以来、世界各地の映画祭で上映し、スイスでは劇場公開も終わってDVDが発売中、福島県内では何度か上映してもらって来たが、東京は久しぶりだ。

上映イヴェント&シンポジウムの案内はこちら↓

「シネマ・タイフーン: 記憶の表象、表象の記憶――「フクシマ」を撮るとはどういうことか」
7月14日(日) 13:00 – 東京経済大学B201教室
http://cultural-typhoon.com/2013/access/

…しかし…やれやれ…「『フクシマ』を撮る」かよ…

イヴェントとシンポジウムの題名からすると「断ればよかった」と思わなくもないのが、正直なところだ。

まだカギカッコに入ってるということは、「フクシマ」というカタカナ表記それ自体を問うという意味合いもあるのだろうと期待するのだが、いったいいつまで「ヒロシマ」に倣うかのように福島をカタカナで呼ぶ差別的なスティグマを押しつけ続ければ気が済むのだろう?

企画し、上映したいと言って来たのは、以前一橋大で教えていて今は東大に所属する友人のニコラ・リスクーティンで、英語のやりとりだったから、まさかこんな日本語題名だとは思ってもみなかったし、彼女もまたそれは気がついていなかったのだろう。

しかし日本人スタッフの、このセンスの悪さはなんなの?

一応、カルチュラル・スタディーズの研究者が主体らしいのだけれど、うーむ、この人たちはカルスタの一体なにを勉強したんだ?

せめて「フグスマ」とでも福島弁で訛ってシャレてくれれば、まだカルスタ的に救いがあるのだが…。ああ我が国は、地方を足蹴にして搾取して来た歴史の最悪の事態が起こってもなお、明治以来の中央集権なマジョリティ様のお国である。

一緒に上映されシンポジウムにも参加する、友人の舩橋敦史が監督した『ニュクリアー・ネイション』も、日本公開題は『フタバから遠く離れて』にされてしまっている、おいおい…。

ちなみに舩橋監督に確認したことはないが、原題は核家族、ニュクリアー・ファミリーに引っ掛けたダブルミーニングなのだろう、と僕は勝手に思っている。 
おじいちゃんおばちゃんと同居しなくなった子供が、どうにも「死」の観念をちゃんと理解出来なくなった、共同体の生活規範が身に付かない、やがて引きこもりが増えた、などの戦後の核家族化の問題点を国家レベルに敷衍すれば、他者性の欠如した本質的に身勝手な国家政府のビヘイビアがある種の末期症状に達し、同じ国家の成員である原発事故被災者についてすら、まともにケアするどころか、ちゃんと認識すら出来なくなった、その結果の悲劇にすらなり得ないぐずぐずの悲惨が、3.11以降の日本の現状である。 
原子力依存や核兵器フェティシズムだけではない、核家族ならぬ核国家としての平成ニッポン。

この映画でいわばヒーロー役になった、「推進派が原発事故で改心して反原発になった」双葉町の町長だった井戸川さんは(ってどういう地方の現実無視の図式なんだよこれ?)、いつまでも避難先の埼玉から動かないことが、故郷の少しでも近くに戻って生活再建を志す(といって、後述の通り出来ることはあまりない)町の人たちの不興を買い、「原発の地元は推進派で原発マネーで汚れているんだ」という差別偏見丸出しの決め付けをする東京のいわゆる「反原発」(って、本気で原発を止めて行く気があるのかどうか、僕にはよく分からない・これも後述)べったりに見られてしまったこともあってか、町長辞任を余儀なくされた。

加須市の旧葛西高校には、今なおお年寄りを中心に、109人が寝起きしている。

数日前の、朝日新聞のレポートはこちら

この人たちは「井戸川派」なのだろうか?

むしろ僕には、先に希望が見えないままなのでもう諦めてしまった、このまま余生は避難所暮しでも、周りに人がいるだけ寂しくなくていい、と心を決めてしまったように思える。

いわば「『被災地以外の日本』に見捨てられた人たち」になってしまっているのではないか? 同じ国の、同じ国民だというのに。

双葉町の農地から見えた、原発の煙突
しかし井戸川さんは、この残された町民の人たちに対してどう責任を果たすのだろう? 
映画の続編はどうなるんだろう?
井戸川さんをただ責められる立場に自分はいないが、井戸川さんを後先も考えずに利用した人たち(こういう結果になることは、ちょっと考えれば誰でも気づくはずだ)の責任は、やはり無視出来ない。 
決して「井戸川さんの映画」ではない、あくまで双葉の人たちの映画なのに、公開イヴェントの客寄せで井戸川さんをしきりに招いたりしたことが、映画がある程度儲かることにはつながったが、井戸川さんにとっては致命的になってしまった。 
“分断” に追い込まれた格好になる双葉町民に至っては、それ以上に困った情勢だ…。除染で出た廃棄物や、原子炉の使用済み燃料などの最終処分場はどこに作るのか? 結局、帰宅困難地域(後述)となる原発周辺しか立地がないことは、双葉や大熊の人たちの多くは、ある程度は覚悟している。 
だがそれなら、国にごり押しやなし崩しはさせない、きちっと頭を下げさせてお願いさせる、帰れない住民の未来を相応に保障することは最低限の条件だ。 
いやそれに、どうしても故郷は棄てられない人たちにどう納得してもらうのか? 
分断している余裕はないのである。 
いや双葉町民が分断したのではない。いわば東京に代表される(あるいは東電管内、と言ってしまってもいい)中央集権でいちばん得をして来た側に振り回され、分断させられているのだ。  

宮城県・名取市、津波で被災した閖上中学校

そしてその一週間後は、またまた気の重い(入れる政党がない…)参議院選挙である

「アベノミクス」が根本的に数字のお遊びの金融ゲームでしかなく、その人工ミニ・バブルを実態経済の回復に結びつける施策が出て来なきゃ意味がないこと、日中関係、日韓関係を悪化させ続ける現政権が、アメリカとの関係まで悪くして、むしろ不況要因になりかねないことは、本ブログの昨年末、今年始めの項で論考済みなのでそちらをご参考下さい。 
全体主義国家へようこそ  
日本は本当に「危機」なのか? 
日本は本当に「危機」なのか・その2 
集団的強迫観念の虚言癖状態になったマスコミが日本を滅ぼす 
新流行語?「レーダー照射」ってなに?


「世界一厳しい基準をクリアしたから安全」と言い張る安倍首相以下、どれだけ論理的におかしいだけでなく、2年前の「想定外」の事故から自分達がなにも学習していないことを誇らしげに公約に掲げる自民党も謎なのだが(安全基準はしょせん、想定されるトラブルの予防としてでしか決められないもののはずだが?)、「原発ゼロ」「反原発」を掲げる野党も、「では具体的にどう止めるのか」の具体案は、なにも出す気がないらしい。

これでは前回の衆院選と同様、参議院選挙でも「脱原発」は争点にはなるまい。 
これで本気だと思えと言うのなら、国民(とくに東京の電気のための原発の犠牲になった浜通り・双葉郡、相馬郡の人たち)をどれだけ馬鹿にしているのか?

この二年間で分かったのは、原発抜きでも電力はなんとか賄えるということだ。

もちろん予備分の余剰電力が10%を切ることもしばしばで、20%ののり代は欲しいとされて来た従来の運用からすれば、安心とは言い難いにせよ、「なんとかなって」しまった電力会社の技術陣の努力は、正直言って予想外だ。 
一般市民が「節電」に気づく契機すらほとんどなく、製造業など大口利用の事業者にはかなりの節電努力が課せられたままとはいえ、それぞれに極端なタイムシフトもなくなり、ほぼ平常道理の工場操業は取り戻せている。 
つくづく「お客様は神様」というか、一般消費者には決して迷惑はかけまい、恥は見せまい、という古典的な日本の経営倫理は、案外とまだまだ健在だった 
お陰で「お客様」であるわれわれ一般市民は、その実なんの責任も考えずに、ただ「福島」だか「フクシマのひとたち」を心配する素振りを続ければいいのだから、恐ろしく楽ちんではある。 

だから電力供給自体はどうにかなりそうだし、ではこの二年の経験を元に新たに恒久的な電力供給プランを作れ…という要求を「反原発」を掲げる野党が要求しないのも不思議だ。

今や原発を再稼働させなければならないとする最大の理由は、あくまで私企業であり、営利目的つまり利益を上げなければならない株式会社である電力会社の、資本主義の企業に課される経営上の倫理の問題なのだ。

営業運転をしていない原子炉は膨大な維持費を、なんの利益も上げないままに食いつぶす。資本財、資産である原子炉を、電力会社は株主の了解なしに廃炉、つまり資産価値ゼロとみなすことも出来ない。

実際の廃炉解体の技術もまだ開発途上の未完成で、これも急ピッチで完成させるなら相当な開発費になる(それも収益に直接は結びつかない技術)。こうして会社の儲けや、総資産を減らすこと自体が、株主に対する背任行為にもなり得るのが、現行の法律だ。

それが現代の金融主体の資本主義のシステムなのだから仕方がない。ここで必要なのは政治決断、政策的な決定であり、たとえば原子炉の所有権・管理権を一括して国に移管し、国家政府の責任で廃炉を進めて行くべきではないか、と言ったような政策提言だ。

(…と言うと、電力会社から買い上げるなど、それなりにキャッシュが動く話にしないと私有財産権の侵害となる可能性はあり…ってところでまた「東電を儲けさせるのか?!」というヒステリーが始まるのだろうなぁ。いやだから、東電叩きと原子炉を止めること、どっちが優先なの? 東電の経営が悪ければ、それだけ福一の事故対処にかけられる金額も減ることも分からないのだろうか?)

野党は官僚が握る詳細なデータを持っていないから詳細は決められないとはいえ、大枠の政策くらいは公約として提言出来るはずのことだ。

…ところが、それをやる気が一切ないらしい。

政府与党や官僚機構だけではなく、野党も含めて、この二年間なにをやって来たのだろう?

だいたい、2012年6月の段階で「再稼働反対」でデモを始めただけでも勉強不足(最低でも電力供給シミュレーションの検証など、半年は前から要求しなきゃ阻止出来るはずがない)、そして再稼働を強行されたら運動が瓦解…って? 
真面目にやっていたとは思えない…。

いわき市・久之浜は津波被災後、火災が発生し焼け野原に

「二年間なにをやって来たのか?」これは震災からの復興となるともっとのしかかって来る巨大な疑問…

…でもないのは、答えが簡単過ぎるわけで、「実質的なことはなにもやっていない」のである。


いわき市勿来、子どもたちのためのサッカー場は、今は瓦礫置き場である。瓦礫は丁寧に分類されているが、その先はなにも決まっていない。








津波で流された地域が、瓦礫は撤去…というか整理はしたものの、廃墟のままで、そこに街を建て直せるのかどうかの目処も立っていない、というよりも、なにも決める気がないのは、尋常ではない。


宮城県・石巻市

津波被害を受けた場所を再建していいのかどうかも決まってないまま、住民=被災者はなにも出来ずに待っているだけだ。

なにかを決めることで責任を負いたくもない。もともと過疎化が進んでいた土地、このまま待たせておけば故郷にこだわる老人は亡くなり、若者は諦めて出て行くだろう、とかタカを括っているのではないか?


『無人地帯』に登場したいわき市・豊間の、四家さんご夫妻の、
津波に耐えた築120年の家は、まだ修理も出来ない。


そう邪推すらしたくなるほどの薄情さであり、徹底して無責任を決め込んだ不作為だ。

天変地異はまだ「しょうがない」にしても、決めるべき責任のあるはずの人たちが、出来るはずのことすら何もしない、考えもしないこの不作為という人災。

今回の震災で直接被害を受けたのは、人口一億三千万の日本国で、わずか30万強だ。

マグニチュード9クラスの巨大地震で、空前の巨大津波が来襲してもこの少人数の人的被害(たいていの国では、死亡者だけでこの数を超えそうだ)、在日コリアンより数が少ないほど、助けようと思えばみんなで助けられる規模である一方で、存在を無視しようと思えば簡単に出来てしまう

…それもまた、現実になっている。

昨年のお盆に警戒区域が解除された楢葉町、かつての庄屋の屋敷



原発事故が原因の避難地域は、昨年度末・今年三月末を持って「警戒区域」はなくなり、再編された。

本当は富岡町などの場合、2012年の3月に決まるはずのことが、一年先延ばしになっただけだし(お陰で夜の森の桜は、1/3だけは今年は見られたものの)、これが避難させられている皆さんに実際にどういう意味を持つのか僕も図りかねていたので、今までこのブログでは、あえて言及しなかった。

とはいえ、昨年のお盆で解除されている楢葉町の現状を、昨年の夏、秋、冬と見ていたので(撮影しているので)だいたいの予想はついていたし、その通りになってしまっている。


楢葉では解除になってからやっと、環境省から200億規模の膨大な予算が出て除染作業が始まった…といって、取り除いた土や木、草などをどこに持って行くのかが決まっておらず、楢葉町の美しい田園には、そこら中に除染廃棄物を詰めた黒い袋が目立つ。

除染作業はゼネコンに丸投げされ、福一原発での作業がなくなった原発下請け業者などが、会社を存続させるために作業を引き受ける。原子力や放射能をよく知っている作業員からすれば、「なんなのこれ?」的なマニュアルの決まりごとも多く、それが「手抜き作業」とマスコミに告発され…といって、マスコミも識者も、東京で決められたマニュアル自体が不備・非現実的である可能性には、誰も言及しないのである。


国が決めたマニュアルだから? だから放射性物質のビヘイビアは物理と化学の法則に従うものであって、そんな人間世界の政治の都合が関係あるはずもなかろうに。



では、警戒区域の廃止・避難区域の再編で、なにが変わったのか?

ぶっちゃけて言ってしまえば、「避難解除準備地域」という名前になった場所は、日中は一時帰宅などの許可なく自由に出入りは出来る…というだけのことである。

いつになったら住めるようになるのかは分かっていないし、「帰宅困難地域」となった場所は改めて道路がバリケードで封鎖され、これが解除される目処はまったく立っていない。



結局のところ形だけ、およそ「復興の第一歩」には見えない

国は被災者が諦めるか、亡くなって行くことを期待でもしているのだろうか?

楢葉町、木戸ダム


震災も、原発事故も、「被災地以外の日本」では、最初はグロテスクな「世界の終り」的な、ホラーじみた黙示録的エンタテイメントとして消費され、それに飽きると「視聴者にショック」という理由で津波の映像等は排除され、「絆」だの「復興」だのの美辞麗句で粉飾された、お涙頂戴のメロドラマに転換された

すべてが「そこ以外の日本が消費する娯楽」にされてしまった。

それこそ昨年には自分達が「さいかど~はんた~い♪」と踊っていただけであることを、もう忘れているらしい人たちも含め(しかし彼らは、なんで踊ってたんだろう?)

だがそれは、福島第一原発事故の現実では、まったくない


 昨年12月、一時帰宅した大熊町の梨農家(続編『…そして、春』撮影素材)

現実は、「終り」が見えるエンタテインメントではないし、そこには起承転結がはっきりして結末の大団円が見えるメロドラマ構造も期待出来ない。

ひたすらなにも変わらない現実が、延々と、果てしなく…日常になってしまったままの非日常が、ただ継続するだけである

この蛇の生殺し、真綿で首を絞めるようなじわじわした「殺し方」は、怒り反抗する力も奪い、もう国やその他の日本には頼れない、自分たちで頑張ろうと言う気力すら、日々すり減らして行く。

積み重なるのは、ひたすら疲労だ。

ここに政府や政治家や運動家たちの「悪意」はない。

彼らは「自分達は一生懸命やっている」と堂々と胸を張るだろう。なかなか進まないのは自分達のせいではない、「しょうがない」のだと。

だがこれは、震災と大津波と、その引き起こした想定外の原発事故については、「起こってしまったこと、今さら騒いでもしょうがない」と、自らの人生を生き続ける決意を秘めて「しょうがない」と言った、『無人地帯』に登場して下さった多くの方が口にした、農業や漁業で自然と共に生きて来た人たちの「しょうがない」とは、明らかに意味が違う。

『無人地帯』に登場する浜通りや飯舘村の人たちの「しょうがない」が、百姓の国の民草の叡智と誇り(人前で泣き言繰り言はいうまい、くよくよせずに生きていくしかない)を表す言葉だったとするならば、こちらの「しょうがない」は、どうしようもなく自分たちにだけは甘い者達の、言い訳に過ぎない。

『無人地帯』冒頭シーンを撮影した浪江町、請戸港。
線量自体は、いわき市小名浜とほとんど変わらない

2 件のコメント:

  1. 匿名7/10/2013

    藤原監督のこの映画が、日本の映画館で一定期間上映されない(されていればスミマセン)のは、よく理解できませんね。私はもちろん見に行きたいですが、大学のシンポジウムのようなので、遠慮します。
    失礼な言い方ですが、都内ミニシアター系の映画とか、平日言っても客まばらというのは、珍しくないですし、藤原監督の映画を上映した方が、よっぽど客入ると思うのですけど。都内かその近郊の映画館で上映されれば、見に行きますね。

    返信削除
    返信
    1. 劇場公開で赤字を出したくないので、プロデューサーに慎重に動いてもらっているだけです。

      削除