最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

8/11/2013

被災地で映画を撮るということ・その5 (震災から2年と5ヶ月)


あっというまに(しかしまるで先が見えない被災地では、拷問のように重く停滞した時間が)2年と5ヶ月が過ぎて、改めて思い返すに、震災の起こった直後に驚かされたことのひとつが、被災地からの生中継だった。

避難所で小学生の男の子が「今、なにが欲しい?」と訊かれ、「電気がないとみんなが困っているので電気。それからとくにお年寄りが寒がっているから灯油」と答えた。

なにか子供らしい答えを期待していた東京から来たレポーターは、二の句が告げず黙り込んでしまった。

震災から9日後に16歳の少年とその祖母が救出されたとき、日本中が祝福したように見えた。だが報じられた救出の詳細に、少年を褒めてあげた者がマスコミで誰もいなかったのは不思議だ。

彼は数百メートルも流された自宅ではなく、外で救助隊に声をかけたのだ。つまり、瓦礫に閉じ込められて逃げられなかったのではなく、逃げようと思えば逃げられた。ただ家に祖母が閉じ込められていたので、離れなかった、祖母のために一緒に助けを待っていたのだ。それも発見時、少年は肺気胸になっていた。長い距離は絶対に歩けない、実は外に助けを求めに行くのだって苦しかったはずだ。

確か石巻と女川のあいだあたりだったと思うが、孤立した集落の避難所に夜、テレビの取材がやっと取材に訪れると、若いレポーターは「とりあえずお茶を」とテーブルに座らされ、明るい笑顔で下にも置かぬ歓待を受け、思わず当惑してしまうとその戸惑いがまた笑い飛ばされて、かわいがられる有様である。番組の期待にあまりに反していたのだろう、東京のスタジオでも困っていまい、キャスターがなにか「大変なこと」を聞き出そうと懸命になるが、避難所の人たちは「よく来てくれた」と言うばかり、「心配しないでも自分達は大丈夫」と朗らかに笑い、「他所がもっと大変だからそっちのことを伝えて欲しい」と言う。

うちの兄嫁は石巻の出の人である。地震の日、やっと彼女と電話がつながった母が当然、ご実家のことを気遣うと、彼女は「こういうことには鍛えられている人たちですから、あまり心配しないで下さい」と言った。なんとか実家と連絡がとれて無事は分かっていたものの、本当は心配で心配でしょうがない時に、である。

孤立した島に米軍が救援に到着すると、食糧を持って来たというのに、老女が「ご苦労様」とねぎらって米兵にリンゴを渡そうとする。「あなた方の食べ物を持って来たのに」と黒人の米兵は驚いたことだろうが、素直に老女の親切に感謝していた。

こうした洗練された人間性の、文化的な振る舞いに、世界中のメディアが感嘆し、日本人は素晴らしい、と賞賛した−日本のメディアを除いては。

同じ日本人であればこそ、こうした振る舞いがただ彼らがいい人だという以上に、この土地の文化の層の厚みの力であることに気づかなかった。いやその人間性の強靭さに、気づきたくなかったのかも知れない。

客人はまず「お茶でも」で歓待する。人前で、ましてテレビの画面で泣き言を繰り返したり、助けにすがったり、自分個人が「欲しい」ものを言い出すようなことはしない。それははしたないことであり、震災の大変な状況でも、いやもしかしたら、そんな大変な今だからこそ、決して自分たちを育んで来た文化や価値観から外れた振る舞いはしない。

それに気づかなかった、理解しなかったどころか、東京では「外国人は被災地を美化している」と不平まで漏れて来るのだからおかしいな話だ。しかも報道倫理規定で死体を写せない日本よりも遥かに生々しい被災地の悲惨が写真などで出たのも海外メディアだし、原発事故の避難地域で空き巣が続発していたことも(まあこれは、うかつに報道すべきではない。模倣犯が続出してしまうだろうから)、日本人は知らなかった。

むしろメロドラマチックな美化に徹していたのは、日本のメディアの方だし、「震災・原発事故もの」映画もまたその構図を踏襲しがちだ。

まるで「自分たちは被災者を考え、被災地のために報道しているのだ」と懸命に自己主張しているかのようにすら見える、手放しのセンチメンタリズムすら横行し、そのお涙頂戴と、決して涙を見せたくない被災地の間に、強烈なギャップさえ見えて来てしまっていた。

膨大な命も奪われた、目の前で家族や友人が流されても助けられなかったかも知れないのに、死の匂いは妙に抜け落ちている。『無人地帯』で真っ先に取り上げたのは、原発事故避難の結果、相当の数の人が、津波の瓦礫の下に取り残されたことだが、これは福島県内では報道されるが、全国ニュースにはほとんどなっていない。

そんななかで本当に美化されていたのは、決して被災地とその人々ではなく、「絆」と称して「東北を思う」そこ以外の日本であり、東京などから行ったボランティアや、募金活動などである。一方で政府がまったくの無策で混乱の極みにあったこと、拙速の避難命令が多くの犠牲も産んだこと、臨時立法で復興の障害になりそうな制度を是正するのを国会が怠けていたことなどは、批判すらされなかった。

お互いを批判している場合ではない、的ないいわけが、被災者を無自覚に「他者」と見たこちら側の「内輪」でばかり続いていた。いや批判って別に叩くのが目的ではなく、迅速かつ適確になされなければならない対応や支援があるときに、厳しい言葉が飛び交うのは、責任ある大人の世界では当然だと思うのだが。

原発事故の記者会見を毎日毎日やっていた枝野官房長官(当時)に共感が集まったが、こういう時の官房長官の最大の責務が、迅速な被災地救援と復興のベースを整備するため、各省庁の連携を監督することであったのは、マスコミも世論も忘れていたようだ。

あれだけ記者会見を繰り返していては、そのためのブリーフィングなどで時間は手いっぱい、他の仕事はほとんどやる暇がなかったのではないかと思ってしまうが。

一生懸命なのは認めるが、枝野長官の会見はかえって世論を混乱させた。「ただちに健康に影響はない」のは科学的な事実なのだが、あのイントネーションでは「ただちに、ってどういうこと?」と疑いたくなってしまうし、自然科学においては0.001%でも可能性は可能性なのだと理解しているのか疑わしい「可能性は否定出来ない」の連発も、かえって不安を煽ってしまう。

後に国会事故調の喚問で真相が分かってしまった。枝野氏の会見内容に実際にはほとんど嘘はなかった。だが本人は自分が嘘をついているつもりだったのである。 
なんと福一事故が福二に連鎖して、というどう考えてもあり得ない「最悪の事態」を彼はずっと気にしていたのだ。 
恐怖におののく自分を隠して「ただちに危険はない」は確かに、枝野氏個人のレベルでは、紛れもない嘘である。ただしその嘘のつもりで言ってる内容に別に大きな嘘や隠蔽はなかったのだから、話がややこしい。 
…っていうか、とりあえず自分が分かってないことを偉そうに知ったかぶりで会見って、やめましょうよ。

こうした被災地以外の日本の混乱ぶりに比して、被災地の洗練された文化的な振る舞い、泣き言はいわず、公の場ではあえて淡々と振る舞う、他人様は微笑みで迎え入れる、その自尊心と矜持の高さ、人間性の豊かさが際立つのは、やむを得ないことだ。僻んでみてもしょうがない。むしろ反省し、学ぶところでしょう。

東北の太平洋岸の人々の思いも寄らぬ強靭さは、ひとつには、天変地異自体には心構えが出来ていたこともあるのだろう。

基本、農業と漁業で暮して来た文化では、大自然の気まぐれは「ひどい」と悪魔視するよりも、「仕方がない」のである。

大雨で洪水は大変だが雨がなければ農作物は枯れてしまう。海は恵みを与えるが荒れれば命を奪う。それが人間にとって利となるか損害をもたらすか、現代文明はその後者を「悪」とみなして済ましがちだが、大雨でも普通の雨でも、自然にとっては基本、同じことだ。

飯舘村、比曾の十三仏
もうひとつは、これは僕自身実は東北にほとんど縁がなかった(東京生まれで、親は広島と山口の県境と、神戸の出身)のでほとんど実は知らなかったことなのだが、なにも日本の近現代史で東北が大変な思いをするのは今回が初めてではなかったことがある。今年の大河ドラマの『八重の桜』は明治維新を東北の視点で見直す点でまったく画期的だが(映画がまずやるべきでしょう、こういうことは)、どれだけ明治維新とは薩長による東北の植民地侵略に他ならなかったのか、僕たちはそれを知らなかったし、忘れていたし、習っていなかった。

東北が辛抱強いのは、「寒いから」だけではなかったのだ。

明治・大正・昭和を通じて東北はただ「貧しかった」と僕たちは思いがちだったが、実は『おしん』なんてまだ生温い方で、実は無視され、抑圧され、システマティックに搾取され、差別すらされて来たのだ。

福島浜通りに原発が出来たから東京の電力のために福島が、ということではなかったのである。それは歴史の流れに組み込まれた必然的なワンステップに過ぎなかった。東北の電力が「お国の発展」のために京浜工業地帯に送られるのも、昭和3年の大地震と大津波の「復興」で既にこの国の極端な中央集権の全体構想の一部になっていたのだ。

『無人地帯』で飯館村の飯樋の老婦人が、父は養蚕教師で、昭和16年に農業に転職して飯舘村に来たのだと語っている。


これは今では、日本人にだって説明が必要なことかも知れない。

飯館のお隣の伊達市は「日本のシルクロード」を町おこしのうたい文句にしていた。ここはかつて、養蚕と生糸の流通の一大拠点だったのだ。

福島の山中から宮城南部、山形にかけて、東北は生糸の巨大産地であり、戦前、昭和一桁台まで、生糸と絹は日本の最大の輸出品だった。ただしそれでいちばん儲けていたのは、大阪の船場である。大正期に、大阪は東京より人口も多く、世界に向けて日本製品を売る巨大経済中心になっていた。

昭和初期から日本は満州の鉄鉱石と石炭を狙い、確保し、軍備増強を睨んだ重工業国家に変貌を遂げようとしていた。関東の、京浜工業地帯が急速に発達し、昭和3年の大津波の復興政策がいつのまにか電力と安価な労働力を東京に送る制度作りに変貌していたのも、この流れにおいてである。

生糸で現金収入を得ていた東北の農村は、次第にその生活基盤をも失うことになっていく。飯樋の老婦人は慎ましくも「いずれ食糧難になる時代だったから」とその辺りへの言及はあえて避けていたが、やがて確かに彼女のいう「食糧難の時代」、戦中と戦後はまず農業で飢えた焼け跡の日本を支えながら(戦中はかつ、多くの男達が陸軍兵として戦地に送られながら)、戦後の日本の目覚ましい復興と重工業化ですぐに農業では生活が成り立たなくなり、出稼ぎで労働力を都市に供給するようになったのが、こうした土地の歴史なのだ。

このブログの前項(「被災地で映画を撮るということ・その4」)で触れた、中央、つまり東京の、映画を作ってる我々と、被災地のあいだにアプリオリに存在する構造的格差とは、こうして続いて来た歴史の現段階でもある。

東京の我々はそれは知らないでも生きて来られた。だが東北の現在は今なおその歴史の延長にある。

この震災が、その歴史を変える大きな転換点になるのではないか、そう期待したことも僕にはある。そうでならなければならなかった、と今でも思っている。

大槌町の人にこう言われたことがある。

漁師だった自分達は田舎であることを恥じ、子供に勉強しろ、都会に行って偉くなれ、と教えて来た。だがこの震災後、それがまったく間違っていたことに気づいた、と。

だがテレビの生中継が、生中継だからこそ東京でそれを演出している側の思惑を越えて見せてしまった、東北の太平洋岸の人々の強い誇りと矜持と自制を、果たして我々はちゃんと理解しようとしただろうか?

写っていたのに、見ていない、そんなことはなかっただろうか?


もうひとつ大きな問題がある。

前項ではやむにやまれず、船橋敦史さんの映画『フタバから遠く離れて』が双葉町からの避難民を分断してしまった、結果として映画が井戸川さんたちを搾取しただけでなく負の影響で振り回してしまったことを指摘せざるを得なかったのだが、ではなぜ井戸川さんたちはこの映画に協力したのか、なぜ被災地の人たちは、東京中心のメディアが自分達の姿を正確に伝えてくれないのが実は分かっていても、キャメラの後ろ側にいる我々の言いなりになってしまうのか、という疑問を持った方も多いだろう。

より正確には、あくまで「一部の」である。

僕らですら「インタビューはたくさんだ」と言われたことは2度ほどあった(といって、話だけはさんざん聞かせてもらったが)。取材に応じない人は少なくないし、「俺がいくら話しても、新聞は記事にしてくれねえんだべな」と笑う人もいた。

「俺が言うようなことは知りたくないんだろうな」、つまり取材記者の期待した通りの、彼らに「分かり易い」「いちばん理解できる」ような話はしなかったのだろう。

ちなみにそう笑っていた大熊町の70歳の男性は、『無人地帯』で原発が出来た経緯や、当時の出稼ぎ生活のことを、給料の金額まで挙げて具体的かつ雄弁に語っている。あそこまで言われれば「なぜ反対しなかったのか?金に目がくらんだ推進派」などと中傷するのは無理だろう(苦し紛れに「反省してない」と怒り出した東京の人間がいたのは、さすがに想定の範囲外だった)。


だが井戸川さんのように、取材する側、支援する側の期待通りに振る舞ってしまう人もいるし、それは責められることでもない。

取材に応じなければ、自分達のことは忘れられてしまう。

なにしろ東京の電気のために原発が出来て40年、そのことすら東京の我々は忘れていた、気にも止めなかったのだ。

たとえ不完全でも、撮影に来てくれる人間は、まだ自分たちの苦難が世間から忘れられないようにする、ただそのためだけでも大事な存在なのだ。

それは映画でもテレビでも活字でも、話してくれる人、自分の考えに近い、理解し易い、ないし話を合わせてくれるから理解したと思い込み易い相手ばかりをどうしても撮ってしまうのは、人情だ。

ただそこには、罠があることを忘れてはならない。

客観的に、論理がしっかりしているから、あるいは誠実さが滲み出ているから口べたでも「こちらに理解し易い話」と、単に政治的・社会的に自分に共鳴し易い、というより聞き手のこちらが自らを問われることがないから取材が楽になることは、やっている本人にはなかなか判別がつかない。


人間とはしょせん、自分に甘く自惚れや自己満足に逃げてしまう傾向の強い生きものだ。

だが本来の「公正であること」とはあくまで前者であって、後者に寄り添ってしまってこれでは偏ってしまうから両論併記で反対派も、という態度は実は中立でも公正でもなんでもなく、ただ取材したり映画を作る側の身勝手な、自己閉塞した理屈でしかなく、その態度自体がすでに偏見の固まりなのだ。

一昨年、まだ完全に完成はしていなかった『無人地帯』を東京フィルメックスで上映した際に、「映画を作る人たちはみんな被災地のためになにかをやりたいと思っただろうが、どう差異化を計れると思ったのか?」と質問された。


その時には僕は、あまり深くも考えてなかったもので、適当に流して別のことを答えていたのだが(困ったもんだ)、実はそういう考え方にすでに重大な誤謬があったのが、「震災・原発事故もの」映画のそもそもの失敗だったのかも知れない。

映画だけではない、テレビはもっと凄かった。

たとえば、冒頭で述べた「みんなのために電気と灯油を」と言った少年の翌日には、同じ局の取材班は被災者にボードに今必要なものを書かせて、それを生中継で伝えることで「我々は被災者のためになっているのだ」と思い込もうとし始めたのだ。

別に悪いことだとは言わないが、それよりもなぜあの男の子を「君はえらい。立派な大人になって下さい」と、あの時褒めてあげられなかったのか?それこそが他所から取材や撮影で来たおじさんが、その子の人生のためにしてあげられることだったのではないか?

そこまでして、自分達の自己正当化にしか関心が持てなかったのだろうか?あくまで自分たちは「いいこと」をやっている、「きれいに生きたい」正義の味方であることでその実人の上に立ちたかったのか、あるいは自分が批判されることを本能的に恐れたのだろうか?

あるいはその逆転した例として、「後ろめたさ」を宣伝文句にした森達也らの『3.11』もあった。そこで「実は後ろめたかったんです」と言い合う東京の者どうしの内輪で開き直れば、それで許されるものでもあるまいに。

これほどの大災害、我々の文明や科学を超越した出来事を前に、おいそれと「自分が出来ること」や「正しいこと」が見つかるわけがない。その意味で、誰も「正義」の立場に立てる者なぞ、いないのだ。罪悪感やいたらなさで立ち止まっていたって、なんの意味もない。

フィルメックスでの質問の後段については、僕が鈍感なのだろうか?他の人の取材や映画とどう差異化を計るかなんて、我々はそんなことちっとも考えもしなかった、そんなことは思い浮かびもしなかったのが、正直なところだ。

質問してくれた青年には悪いが、たとえみんながみんな被災地に、それこそ取材に行ったって、数十万の人が被災し、あれだけの地域が被害にあったその全体なんてカバー出来るわけがない。

たとえばみんながみんな揃って「エム牧場」に撮影に行くのでもなければ、単純に自分達しかそこに行っていない場所は20Km圏内のほとんどがそうなるし、自分達だけしか会っていない人はたくさんいるのだ。

それに同じ場所でも、津波で破壊された場所の映像は、そこでなにがあったのかを読み解こうとするだけでも、もの凄く時間がかかる。「どう撮るか」は必然的に、それを撮った人間の判断で千差万別になるだろう。

こちらは自分が頼める最高のキャメラマンの一人に頼み(身体的にも精神的にもタフな撮影ではあるので、大津幸四郎にはさすがに頼めなかったが、加藤孝信はなぜ彼が著名でないのかが分からない、極めて優れた撮影者だ)、最良の編集者と、尊敬してやまない音楽家に協力を仰いだ。これだけだって他人と違うことになるのは当然だし、それもフランス人の編集、在仏のアメリカ人の音楽、ナレーションはアルメニア系レバノン人で今はカナダ人の女優、というのは普通の発想ではないのだろうし。



なお『無人地帯』の冒頭ショット、超望遠の長廻しのパンは、あらゆる批評で360度と書かれている。見た人はみんな、延々と続くショットがどこまでも続くと思うらしい。実際には、90度とちょっと、たしか120度くらいだが、自然現象で完全にカオスになった風景は、我々の空間感覚すら混乱させる。

撮影後に、避難した方に撮影素材を見てもらった時にも、津波に遭った場所はそこがどこなのか、地元の人ですら混乱していた。そのことは映画をどう構成するのかに、重大な示唆となった。



どっちにしろ「みんなが同じことをやるんじゃないか、なら自分のやることに意味はないのではないか」なんて、そんなことすら考えもしなかったわけで、最初はいささか迷ったのは、2004年に一回、ここで映画を撮れないかと考えはしたものの、すぐに諦めていたこと、つまりぜんぜん知らない土地が、それも被災地になっていて、そこでいきなりなにが撮れるのか、自信がなかっただけである。

そんな不安はいったん双葉郡に入ればすぐ打ち消された。4月に東北道で郡山から東に向かい、大熊町の山側から入った時、いきなりその春の美しさに息を呑んだのである。


あとは自分の映画にしかならないんだから、やることさえやっていれば自ずからそういう他とは違った映画になるのだし、自分たちの出来る最良の映画はなにかを考え抜くだけ、というのが正直な答えだったりする。

「人と違う映画」ではなく、ただ「いい映画」を作ろうとしただけ。

別に「被災者のため」「被災者の味方」であることで自分を正当化しようとも思っていなかったのも、これも結果として「いい映画」さえ出来れば、そこには伝わって然るべき真実が映っているはずなのだから、それはなにかの意味を持つはずだから、余計なことは考えない方がいい。

映画とはそういうもの、作品とは作家を超えるべきものだし、だからこそペドロ・コスタの言うように、「映画とは本来ならとても役に立つもの」なのだ。

なのに自分の作品の外に起こることまで自分でコントロールしようとする、いい映画を作ることが目的ではなく、「被災者のためになにかをやっている自分」を褒めてもらおうとすること自体が、僕には傲慢に思える。

ただ調子にのってもうひとつ言ってしまえば、アモス・ギタイがよく「自分の映画の出来不出来は、しかるべき人が怒り出すかどうかで判断出来る」と、自分に浴びせられる右派ユダヤ人からの攻撃に涼しい顔をしている。


警戒区域になる直前の双葉郡を二日間走り回って撮影した時には、それまでの世論の狂躁も見ていたことだし、『無人地帯』が「しかるべき人が怒り出す」映画になるだろう、とはすでに分かっていたりした。

被災地とは、目に見える壮絶な破壊と、目に見えない恐怖に破壊された風景とは、そういう場所なのだと思う。そこでは我々の標榜する現代文明的な、その実自己正当化になによりも拘泥してしまう「正義」なんて、えらくちっぽけなものである。

それだけに、果敢に「自分がこの自分の産まれた土地の人間であること」の矜持をきちっと守って振る舞った多くの被災者には、頭が下がる、そこから学ぶべきことが僕たちには多々あるのだ、としか思えない。

「後ろめたさと向き合う」とか、「フクシマの人々のために」とか、偉そうに言ってるヒマはなかったし、今もない。


2年も経ってしまえば、最初は毅然としていた人たちも、避難生活、仮設や借り上げ暮らしが続き、疲労は隠せない。その時間の残酷さは、ある意味で震災直後の風景よりも怖い。

それでも他所からの者が客人として現れれば、然るべく振る舞い、もてなす。こちらの同情を買おうとすることなどまるでなく、心から歓迎してくれる(逆にいえば、本当に思っていることを口にする相手は、限られるわけだが)。

それが今は「被災地」と呼ばれる場所が、慎ましく密やかに培って来た文化である。

「被災地を撮ること」とは、ただ震災の傷を撮ることではない。私たちが今は「被災地」と呼ぶ場になる前の歴史があり、これからもその歴史は続いて行く。その時間のうち「被災地」である時間だけを、僕たちはたまたま切り取っているだけなのだ。

切り取った時間に自覚的であるためには、映像そのものがその前後に継続する時間の存在を、自覚的に意識していなければならない。

またそれが、震災による被災、原発事故の被災のひとつの真実でもある。

そこでなにが失われたのかに気づかなければ、本当の被害の大きさは理解出来ない。そして失われたのは、単に家や町や港や田畑だけではないし、人命だけでもない。

津波が奪って行ったのよりももっと大きなものが、今失われようとしている。大自然の猛威ではなく、現代人の心の冷酷さ、政治の無責任、社会の身勝手さによって。

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