最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/22/2014

茶番の総選挙後ニッポンを生き延びるための良識


終わってみれば自民党は議席を減らしている。史上最大議席を誇る与党にとって最初から分かっていた通りなんのメリットも大義もない「解散総選挙」にしかならなかったその結果は、しかしなぜか「圧勝」と報道され、しかも「圧勝」のはずなのにその余波が報道からあっと言う間に消えて、2014年は終わろうとしている。

強いて言えば、減った数議席ぶん以外の与党議員たちは2年後までが任期だったのがこれから4年に、つまり2年ぶん延長され、任期満了後の選挙だったら惨敗しそうだったところそれが先延ばしになった、というメリットはあったのかも知れないが、仮にこの解散がなく2年後に任期満了で総選挙になったとしても、今回のような選挙報道だったら、結局はやはり与党が勝つのではないか?

争点もなにも報ずることもなく、選挙戦で野党から当然出て来る与党批判を国民の耳に入れないために選挙それ自体をほとんど報道しない、というやり方の結果は、当然の帰結としての史上最低投票率だった。

なのにその大手メディアがしたり顔で「国民の無関心」をなじるのだから、どこまでご都合主義な自己欺瞞で、空威張りを続けたいのだろうか?

近頃のブンヤは読者を「愚民」とでも決めつけてエリート気取りでふんぞり返っているのだろうか? あるいは「自分たちはエリートだ」というプライドにしがみつくため読者を愚民扱いしなければ、自我が根底から崩壊してしまうのかも知れない。

まあしょせん、日本で東大出であることでもっともエリート面して威張り散らすことのできる世界といえば三つあって、霞ヶ関と、築地(朝日新聞)と、代々木(日本共産党)である。 
この三つの世界での東大卒バリューは、当の東京大学の学内よりも大きいほどだ。

なにしろ安倍が解散を発表した時点で言い出したのは、もはや誰も反対できない「消費増税10%の先送り」という争点にならない争点だったし(内需と消費に関する経済指標がこれだけ悪ければ、財務省ですら強行は不可能だ)、公示前はさすがに報道せざるを得なかった行き過ぎた円安のダメージやアベノミクスの明らかな失速も、選挙戦中は報道が激減して、今度は空前の原油安で円安による燃料費値上げが相殺されるかのような話までさんざん喧伝され、なにを判断すべき選挙なのかの問題意識は徹底してぼやかされ、隠蔽されていた。

もちろん実際の選挙期間中には野党候補からアベノミスクの問題点や、安倍政権のやって来たことで明らかに誰もが疑問を持つであろう問題も、ちゃんと提示はされていたのである。ただそれが報道されなかっただけだ。

みんなの党の政策ブレーンだったはずがいつのまにか維新の江田憲司氏は、安倍政権になって公共事業が5兆から10兆に倍増していることを暴いた。さんざんもてはやされた「アベノミクス」は確かにこれまでの常識では考えられない異常な金融緩和政策だったが、しかしそれで一時は景気が上向いたかのように見えたのすらただの幻想で、昔ながらの公共事業で実態経済に税金から真水が注入されたから、ということになる。

しかもその前には、「震災復興」と称してやはり相当量の真水がすでに建築業界を中心に注入されているのだから、アベノミクスによる景気回復と成長路線というのがまったくの当て外れだったのだ、と言わざるを得ない。 
昨年は比較的数字がよかったのだって、金融緩和の結果の金あまりが、消費増税前の駆け込み需要で建築関係を中心に使われたからだろう。 
不況時の経済政策の定番であるはずの金融緩和がほとんど効果を示さないのは日本では今回に限ったことではなく、バブル崩壊後の度重なる金融緩和だって一度として期待された効果を上げたためしがないのだが、前代未聞のアグレッシブな金融緩和でさえ日本経済についてほとんどなんの効果もなかったことになるのだから、きちんとした検証が必要なはずだ。それこそインフレ・ターゲット論の最初の本格実験がアベノミクスだったのにそれがうまく行っていないのなら、経済記者はいったいなにをやっているのだ?

ミスター年金こと民主党・東京七区の長妻昭氏は、かつてバブル期に年金が株に投資されて「消えた年金」となった苦い過去があるというのに、安倍政権になってから年金積み立て基金がすでに半分以上株に投資されていることを暴いた。

「このままでは今度は消えた年金基金になりかねない」という危機感はその通りだが、これもまったく報道されないので、危機感が国民に共有されることはまずない。

●メディアは今年夏の黒田日銀による「追加金融緩和」(その結果がもはや歯止めの効かない行き過ぎた円安)の内容を決して分かり易く報道はしようとしなかったが、生活の党代表の小沢一郎氏は「もはや公定歩合を下げるだけでは足りず、日銀にお札を刷らせてそれで債権を買わせている」と分かり易く本質を解説した。

これもそう説明されれば、中学校で習っている程度の経済学の基本で「危ないのではないか?」と普通に気づくことなので、メディアはわざと難しい言葉で本質をぼかし、挙げ句に選挙戦の報道すら控えてしまっていた。

さらに始末が悪いことに、これらの問題はいずれも、本来ならとっくの昔に新聞やテレビがすっぱ抜いて報道しておくべきだった話なのだ。つまり政治ジャーナリズムが怠けに怠けて来た事実がばれないように、今度は選挙報道すら怠けてしまったのだ。

安倍官邸の圧力を恐れて政権に不利な報道をずっと控えて来た大手メディアは、政権の問題だけでなく自分たちの不作為というか報道機関として明らかに問題がある自分たちの怠慢も隠蔽しようとして選挙報道自体をほとんど怠けてしまうことでさらに状況を悪化させている。

選挙中に安倍が海外のメディアに対して発信していたことも、日本のメディアはまったく無視している。

公示後まもなく、安倍は英国の経済紙Economistのインタビューに応じているが、そこで彼は総選挙の目的を、政権の権力地盤を固め確かな経済政策を行えるようにするためだと論じ、具体的に「何十年も改革出来なかったことを改革する」と言って電力自由化、さらにはなんと農協の解体、そして高齢者医療や終末期医療の改革と雇用制度改革まで目標として挙げている。

インターネット上で英語とはいえ誰でも読めるような首相の重要インタビューで、首相が争点とみなすものが語られているのを、選挙中の国内メディアがまったく無視するとはいかなる珍事なのか?

むろんこと農協解体は、国内で報道されたとたん自民党の地方における組織票のかなりの部分が瓦解する。 
高齢者医療や終末期医療の改革はよほど丁寧に内容を説明し決して国民の生命それ自体に関わるようなことにはならないと保証出来なければ、高齢化が進む都市部でもあっという間に自民票は激減したはずだ。

選挙戦が終わった途端、安倍は開票速報番組で改憲を進めて行くことを力強く(自慢げに)強調してしまったそうだが、安倍に選挙を(一応は)勝たせることが改憲推進になり得ること自体、メディアは選挙期間中ずっと国民から隠して来た。

2012年総選挙でも翌年の参院選でも、メディアは改憲論集団的自衛権特定秘密保護法も、安倍政権がそれを推進するのが分かっていながら選挙中に争点として報ずることはしなかった。それで安倍を勝たせておいてギリギリになって反対論を社説に書いたところで、今さらなにを、でしかない。

別の選挙速報番組では、いわゆる保守系メディアのはずのTV局のニュースキャスターが、アベノミクスの将来について当たり前の疑問を問うただけで、安倍はイヤホンを外して一方的にまくしたてたという。本来ならこの醜態は翌日朝刊の一面を飾っておかしくないスキャンダルなのに、とりあげたのはごく一部のウェブ媒体だけだ。

まったくもって、とにかく政権に不利そうなことは一切メディアが報じないのでは、史上最低投票率でなんとなく安倍が「圧勝(ではない、議席数は減っている)」してしまうのも無理はないし、それは安倍とその政策が支持されていることをまったく意味しない。

国民にはこの政権、この首相についてどう判断するかの十分な材料すら与えられていないのだから、支持するかどうか以前の問題だ。

じゃあなんのための選挙だったのか?750億もかかったそうだが。

この責任はまずなによりも、報道業界の怠慢にある。はっきり言えば日本の報道は、もはや死んでいる

メディアや識者と称する人たちが安倍に支持が集まっているかのように装って「右傾化」を危惧するかのように言うのは、半ば以上欺瞞でしかない。「右傾化」しているのは国民ではない、あなた達だ。 
国民に問題があるとすれば、あなた達が進んでいる危険な方向性に疑問すら持たないことなのだが、しかし疑問を持つもなにも、そもそも知らされていないのだからしょうがない。

日本のメディア、ジャーナリズムの堕落が決定的になったのは、いわゆる慰安婦問題について、朝日新聞が官邸の圧力に耐えられず、90年代初頭に朝鮮半島の女性を慰安婦になるよう強要したことに関する初の元日本軍関係者による直接証言(吉田証言)の報道を自ら否定し、「誤報」「虚偽」と言わされてしまったこと、その論理のおかしさを他の新聞がまったく批判すらせず、金太郎飴のように「慰安婦問題は朝日が捏造しただけで存在しない」とまで言い出しかねないことだ。

本来なら、いわゆる保守系で吉田証言を報じた朝日とは立場が相容れないかのように見えるメディア(たとえば読売新聞や産経新聞)でさえ、ジャーナリストとしての職業意識さえあればあの朝日の「撤回」は批判しなければならなかった。 
右だ左だ以前に、ジャーナリズムとしてやっていること、言っていることが、あまりにおかしいのだから。

朝日の当初報道で問題があったとしたら、慰安婦制度やその問題点についての認識が当時としてはやむを得ないこととして、研究が進んだ現代からすればいささか杜撰だったことと、当時には直接的な裏付け資料が見つかっていなかったことに過ぎない。

朝日が報道した時点では吉田証言を完全な事実として確証を持って報道する根拠がいささか足りなかった、という批判はまああり得なくもないが、曲がりなりにもある人物の証言内容を「虚偽」と断じてその報道を「誤報」などと断言する根拠こそ、現代の朝日新聞社はまったく持っていないし、少なくとも朝日が「訂正」「撤回」と称した記事には、その根拠が一切提示されていない。

吉田氏はすでに鬼籍に入っているが、こんなことが本来なら許されるはずもなく、根拠もなく嘘つき呼ばわりされた氏が朝日新聞社を名誉毀損罪で訴えてもおかしくない。

実名で証言した取材対象に対するジャーナリズムの側からのひどい信頼関係の冒涜以外のなにものでもない。 
お人好しにもスクープの中身を提供してやったのにこんな侮辱を受けるのでは、誰も新聞の取材になんて応じなくなくなる。

こうして官邸の圧力に屈して報道の矜持を売り渡しただけの朝日と、金太郎飴のようにそれに追随した現代の日本大手メディア(リベラル系、保守系のかつてあった区分けを問わず)の態度のさらなる問題は、その報道があった当時の歴史的文脈すら完全に無視し、いわば「現代の価値観で過去を断罪する」の典型をやってしまっていることだ。

第二次大戦で日本兵だった人たちがまだ多く存命だった時代には、日本軍が朝鮮人女性を慰安婦になるように強要して性的に搾取したなんてことは、おおっぴらに語ることこそはばかられる恥であったものの、当たり前の認識だった。

吉田証言が出て来た文脈とは、誰もがそうであったに違いないと思っていても確定的な証言・証拠は誰も明らかにしていなかったことに、初めて匿名告発ですらなく自らの実名を名乗っての証言が出て来たことに過ぎない。

つまり当時の一般的な受け取り方では「吉田証言に裏付け」が必要だったのではなく、吉田証言の登場の方こそが、みんなが実はそう思って来たことの「裏付け」だったのだ。

さらに馬鹿げた話なのは、直接的に吉田氏が自分が関わったと証言した件についてならともかく、より広範な意味での「裏付け」、つまり慰安婦徴集に強制性があったことを示すか、強制であったと解釈するのがもっとも合理的な資料も証言も、この20年のあいだに大量に出て来ていて、そこにはアジア女性基金による綿密な歴史学的手続きを踏んだ調査の成果だけでなく、日本政府が(しぶしぶながら、遠慮がちに、明らかにやる気なさそうに)調査の上開示した公文書も含まれているのが、現実であることだ。

吉田証言が発表された時点では、日本政府は当時の公文書の調査すらしていないし、それらの資料を公開・開示もしていなかったのに、その当時について「資料的な裏付けが」とか言い出すこと自体、倒錯したナンセンスもいいところであることも指摘しておく。 
まさに事実関係の時系列の認識がひっくり返っていなければ思いつかないような話だ。

しかし河野談話やその準備のためもあって、政府がしかたなく当時の公文書で現在も残存しているもの(慰安婦制度関連の公文書は終戦時にほとんどが破棄され証拠隠滅されていて当然であるにも関わらず)を調査した結果、政府がギリギリの詭弁の言い訳でなんとかでっち上げられた公式見解は、せいぜい「強制を直接に命じた文書は見つからなかった」でしかなかった。

こんな「見解」が実質的な意味皆無の下手な言い訳でしかないことは、子どもだって本来なら分かる。

まったくもって、常識で考えればこんな公式見解は見え透いた詭弁の言い逃れで、なにも意味しておらず否定も出来ていないのは言うまでもない。

文献学としての歴史学の基本すら、この人たちは理解出来ていないのだろうか?

過去において起きた事実がすべて記録されていることなぞあろうはずもなく、当時に書かれた膨大な記録のなかで現存が確認できるのはごくごく一部に過ぎないのは、歴史学では当然の前提だ。現存してないからそうした記録が「なかった」、記録がないからその「事実がなかった」などと言えるわけもなく、まして一次資料である当事者証言があるのなら、よほど非常識で素っ頓狂で現実的にあり得ないものでもない限り、まず事実を踏まえたものだという前提で考えるのが当たり前だ。

ちなみに、例えば先ごろ朝鮮総督府の木っ端役人だった人が「慰安婦が強制されたことなんてない」と “証言” したそうだが、こっちは「よほど非常識で素っ頓狂で現実的にあり得ない」の典型になる。慰安婦になるよう強制されたのは現場でであって、総督府の役人の耳に直接入らない、見えないように、知らないフリが出来るようになっているのが、役所として当たり前の組織論だ。
実を言えば安倍晋三自身、先にも触れたEcominist紙のインタビューで、強制があったことを認めている。ただし「当時に兵隊たち個々人がやった犯罪行為ならあっただろう」、つまり軍が命令に基づき組織的に関与したのではなく現場で兵士が勝手にやったこと、という言い訳になってない言い訳で逃げているわけだが。

慰安婦制度の運用の実態については、まず仮にそんな直接命令の文書記録があれば、終戦時の混乱で紛失している場合が多いどころか、可能な限り破棄・証拠隠滅されていて当然だ。

朝鮮総督府や陸軍20師団などが出した命令書の全体で、破棄されたり終戦時に紛失せずに残っているものはいったい何パーセントあるのか、最低限でもそれくらい同時に公表しなければなんの意味もない。

しかも当時の日本の国内法でも、直接的に女性に慰安婦になるよう強制・強要すれば、それ自体が違法行為だ。そのような命令は軍法会議で証拠採用されてしまうので、口頭や暗黙の了解で済ますのが当たり前で、最初から文書になぞしない。その程度の知恵も働かないほど間の抜けた軍隊、軍事機密を守る意識が皆無の無能な司令部なぞ、前代未聞の笑い話にしかならない。

しかも日本政府が極めて消極的な態度で手近な公文書を調査しただけでも、その目的が「慰安婦になり、慰安婦として働き続けるよう強要するため」と明記されていないだけで、徴集時の立ち会いに始まりいわゆる慰安所の警備・管理を軍が直接やっていたのはもちろん、慰安婦の健康診断(というか妊娠や性感染症の管理)まで軍医がやっていた、あらゆるレベルで軍が関与していたことまで証明されてしまっている。

「立ち会い」がただの傍観者であったと言い張るとしたらあまりにバカバカしくてお話にもならないし、「命令の目的が強制だとは書いていないから強制はなかった」と言い張るようでは、子どもにさえ馬鹿にされる。

安倍政権を中心とする慰安婦問題を矮小化ないし無視しようとする側の論理は、日本軍が並外れて純真で無邪気過ぎて、軍事組織としてはあまりに世間知らずの幼稚さゆえにまるで無能だったとでも仮定しない限り、まるで成り立たない子どものへ理屈に過ぎない。

ところが彼らはこんな帝国陸海軍チョー無邪気お子さま軍隊説と並行して、当時の日本では借金のカタに貧農の子女を強引に娼婦にするのが横行していたことや、日本に限らず軍隊に性の問題はつきもので戦時性暴力はどこの国の軍隊でも問題を起こしているではないか、と主張するのである。

馬鹿げた矛盾のダブスタもたいがいにすべきだ。

悪徳女衒が横行していたらしい国の軍隊だけが、世界じゅうのどんな軍隊でも当然ながら大なり小なり犯していたはずの罪とまったく無縁の、純粋で純朴な正義の味方で性欲ゼロの貞節な童貞集団だった、とでも言い張るのだろうか?

だが日本の大手メディアはすべて、まともな知能と現実社会の理解さえあればバカバカしくてお話にならない、詭弁にもなっていない詭弁を金太郎飴のように鵜呑みにし、朝日新聞がよりによって政権の圧力に屈してジャーナリズムの最低限の矜持と取材源の確保を担保するルールをぶっ潰したことを批判すらせず(なんの根拠も示さずに自らの取材に応じてくれた相手を嘘つき呼ばわりとは、こんなことをやっていてはもはや誰も新聞記者を信用して証言しようなどとは思わなくなり、ジャーナリズムが自らの首をしめるようなものなのに)、しかもたったひとつの、確かに今からみれば詳細が曖昧で不正確な部分もあるようにも見える古い証言ひとつを否定するだけで(取材者の認識不足で質問が未熟だったのは明らかだ)、過去20年の間に調査も研究も進み証言も多々出て来ている慰安婦問題そのものを否定できるという論理倒錯すら、通用すると思い込んでいるのだ。

もちろん同じバカバカしさの先頭を切っているのが我らが安倍総理大臣閣下であるのは言うまでもなく、朝日新聞は日本の名誉を毀損したことを国際版で謝罪しろとまで息巻いているそうだが、こんな倒錯したナンセンスで報道機関に圧力をかけようとする(しかも恥ずかしげもなくそれを公言してしまっている)政権にまったく無批判なようでは、新聞記者も新聞社の経営陣も安倍と同罪、同レベルの愚かしさ、いや自らの職業に対する裏切りでしかない。

安倍が問題なのはもちろんだが、本当のガンはメディアにあるように思えてならない。

今の日本のメディアは大手を中心に、フリーランスの多くに至るまで、いくつもの面でジャーナリズムに必要な最低限の認識が欠けている。

1)大手メディアがここまで官僚機構や官邸、政治家とりわけ与党のそれ相手に弱くなってしまったのは、情報源のほとんどをそこに依存してしまっているからだ。政治報道のネタのほとんどが会見か官僚や政治家の「オフレコ懇談」では、情報源を握られてしまってその機嫌を損ねるようなことは一切言えなくなってしまう。情報源がジャーナリズムにとって死活問題なのは分かるが、これでは報道に絶対不可欠な客観性を担保しようもない。

こうなってしまうのも、記者たちの取材能力それ自体が極端に低下してしまっているからだ。 
記者が調査能力も鍛えず、分析能力も持たず従ってまともに質問も出来なくなるようでは、ただ会見やオフレコ懇談でもらった情報をそのまま垂れ流すだけで、報道の独立もへったくれもない。

2)報道の社会的役割に関する認識も明らかに欠けている。そもそも報道機関がサービスを提供する相手はあくまで読者・視聴者であるはずが、これでは新聞社は民間企業のくせに無償で政府広報機関を引き受け、その経費を国民に押し付けているような話にしかなっていない。

3)なによりも問題なのは、「事実とはなにか」についてのもっとも基本的な哲学的な認識や思考が、あろうことかその事実を探り当てて報ずることが使命であるはずのジャーナリズムから欠如してしまっていることだ。

言うまでもないことだが、過去に起きた事実は、現在の人間がどう逆立ちしようが変えることはできない。 
過去の事実についての誤った認識を糾すことは出来るが、起こった事実それ自体をその時点から見て未来になる現在から変えられるはずもないのに、これでは因果関係の時系列すら分かっていないことになる。 
「報道がなければ事実がなかったも同然になる」のはジャーナリズムの側の能力不足や怠慢の結果論で、単に報道されるべき事実が無視されたか、無能故に誤報になっていることに過ぎない。

4)事実とその事実の記録や記憶の関係性もまるで認識出来ていないのも問題だ。証言は信用ならず公文書記録しか史実およびその解釈として認めないなんて馬鹿げた話もなく、文書として記録される内容がなんなのかすら分かっていない愚昧な主張で相手にする価値もない。

極端な話「日本書紀」は律令国家の公式歴史書だからそこに書いてあることはすべて史実で日本書紀の解釈が絶対に正しい、などと言い出したら「みそ汁で顔洗って一昨日来られても迷惑だからそのまま永久に眠ってろ」と罵倒されたって文句は言えないはずだ。

ある事実についての記録は、その記録している主体が政府だろうが誰だろうが、単に記憶の証言を記述したものに過ぎず、こと司法ならともかく行政府・行政機関の残す記録なぞ、ありのままの事実ないしその証言を過不足なく精確に残していることなぞ、まずあり得ないに決まっているではないか。

権力の直接行使を担当する者は、どんなに真面目で正直であっても常にその権力の行使を自己に対してもパブリックに対しても正当化する必然を抱えている。むしろ真面目で職務に忠実な人間ほど、完全に正当化できなければ権力の行使を躊躇してしまうからこそ、逆に不都合な側面を無自覚に無視してしまう傾向が出て来るのが当たり前ではないか。こと行政組織に所属してその組織の権力行使を担うものは、真面目にその組織への忠誠を考えれば考えるほど、どうやったって恣意的な偏向解釈に走りがちなものだ。だからこそ民主主義国家では三権分立が肝要とされている、ということにすら気づけないようでは、近代民主主義では「第四の権力」とも称される報道を担う資格なぞない。

実際の世界では権力の行使が完璧に無謬でなんの負の側面もない、などということはあり得ない(そんな完璧さが人間的に可能なら、民主主義それ自体が必要なくなる)。そこにも気づけないのなら、今の日本のジャーナリストの大半は恐るべき世間知らずか、さもなくばとんでもない盲目さだ。現実社会の権力の行使に関わる際には、どこから見てもまったく間違いのない完全な正義の状態なぞ、そもそもあり得ないというのが、まともな大人の社会人の認識ではないか?

だからこそ、ジャーナリズムが権力の行使に常になにかしら批判的な眼差しを向けることの意味があるのではないか。 
なのにそのジャーナリストたちが「日本の公文書に直接の証拠がない」という政府見解を無批判に鵜呑みにするのか?

まして慰安婦の強制も、あるいは南京大虐殺なども、当時の日本の国内法でさえ本来なら違法になる。公文書ではその違法性が隠蔽されるか無視され、記述することが忌避され、適当なでっち上げのいいわけで誤摩化されるのは、当たり前のことではないか。

5)歴史認識や時代感覚の変遷を理解認識出来ていない、というのも恐るべき不勉強だ。現代の価値観で過去を判断してはいけない。

第二次大戦や十五年戦争の最中の日本がどんな社会で、日本軍がどのような組織だったかについてまったく無知でなければ「慰安婦を強制したはずがない」なんて言えるわけがない。むしろ強制が当たり前だったのだ。鉄や金属器の供出を断れた人間なんて内地の日本国民ですらあり得ず、勤労「奉仕」だってタテマエではボランティア、特攻隊だって志願扱いでも実際には断れるはずもなくつまり強制だったのに、植民地の、それも貧農の娘やその家族が「軍への奉仕」を断れたはずもかなろうに。

6)人間関係の権力性の認識もあり得ないほどの幼稚な無邪気さで欠如していて、現実の世界についての報道として成立出来ていない。

まず軍が立ち会っている慰安婦の徴集なら、軍の存在自体が強制力を自動的に発揮する。「業者の違法行為を監視するために軍や警察が立ち会った」なんて絵空事を本気に出来るだけで頭がおかしいし、また実際にその任務に当った兵士が手ぶらで帰還して「業者が不正をしないように我々が監視したところ、慰安婦を志願する女性は一人もいませんでした」と報告することなぞ出来るわけもない、とすら気づかないのはどうしようもない。まったくもって、現代の価値観で過去を判断してはいけない。 
むしろ軍が同行して不正を防止とは、軍の存在自体が逆らえない圧力になるから、騙す等の不正の必要がなくなる、という意味にしかならない。再三繰り返すが、現代にしか通用しない価値観でみだりに過去を判断してはいけないのだ。

7)ある事実やそれを伝える情報、あるいはある発言がパブリックになったとき、それが他者からみてどのように解釈され得るのかの多義性を考えられない、という点でも、安倍は政治家失格だし日本の大手メディアのほとんどはジャーナリズム失格だ。日本はただの敗戦国ではなく、その戦争犯罪や人道に対する罪が処断されながら、その過去への反省を戦後70年ちかくずっと曖昧にして来た国だ。その日本の政府が人道犯罪として批判されている過去の史実を、理屈にならないへ理屈で否定しようとしているだけでどれだけ印象が悪いか、それだけで日本への批判や反発が起こって当然であることを、この人たちはまったく考えられもしないらしい。

口先だけでは「村山談話河野談話を継承する」と言いながら、東京裁判は勝者が敗者を裁いた不公平だからと言い張ってその事実認定すら認めないと国内ではうそぶくのは、二枚舌にすらなってない幼稚な詭弁というかただの嘘つきにしか見えない。

で、挙げ句に「韓国の反日宣伝が」となるのなら寝言もたいがいにしてほしい。NYタイムズに「慰安婦はただの売春婦」などという広告を出すなんて、普通なら「日本の悪印象を振りまこうとする悪ふざけか?もしかして工作員?」と疑っておかしくない。

一部には日韓基本条約に付随する賠償に関する協約をタテに、韓国人の元慰安婦が被害を訴えていることを韓国政府が(民主主義主権国家の当然の義務であり、自国のかつての軍事独裁政権の過ちの償いの意味も込めて)支援する立場を明白にしていることを「国際条約違反だ」などと言い張る者がいる。いや実際、この協約を盾に日本では裁判所ですら裁判を門前払いにして来ているわけで、それだけでも印象最悪なのだが、この協約自体が客観的に見れば不道徳で公序良俗と社会正義に反する不平等条約であることに気づけないのだろうか?

他国政府に気がねして自国民個々人の財産権を勝手に放棄してしまう独裁政権も問題なら、それをその独裁政権に札ビラを見せつけて強要した相手国(しかも力関係として明らかに強国の側)はもっと問題にされる。そんな協約を日本が独裁政権相手に結んだこと自体、日本側の傲慢で無反省な植民裡主義と倫理観の欠如が問われてもおかしくないのだ。

しかも慰安婦問題を否定したがる人たちは、慰安婦は民間業者がやったことで軍の管理・雇用ではない、と言い張りながらこの協約を持ち出すのだから、ここでも完全に矛盾している。日本政府の権限で請求権をチャラに出来るのは日本政府に本来なら支払い義務がある給与などに限定され、実際にこの協約で放棄されたのは旧日本軍人および軍属への未払い給料と恩給に限られ、民間業者による未払い給与や民間業者が賠償すべき損害は含まれ様がない。日本はいつ市民の財産権と民間の経済活動の自由を公式・法的に否定したのだ?ここでも安倍やその周囲の人々の主張は完全に自己矛盾しているし、これではハタ目には下手ないいわけで責任を誤摩化そうとしている不誠実さとしか解釈され得ない。

8)だいたい慰安婦問題を日韓関係の問題だと勘違いしていることからして、ものごとの認識がなっていないし世の中の仕組みと言うものが分かっていない。

確かに現実には慰安婦問題は日韓の外交マターとして交渉対象にもなっているが、韓国側の立場はあくまで自国民のこうむった損害を主権国家としての責任で代弁しているという論理である。タテマエはあくまでも、自国の独裁政権が過去にその被害者たちを徹底して無視どころか儒教道徳を振りかざして侮辱までして来た反省に立っていることも含め、問題にしているのは個々の被害者の受けた損害への償いであり、個々の被害者への謝罪だ。 
国家レベルでは日本政府の誠意と過去の過ちへの真摯な反省が問われているだけであって、「日韓」の喧嘩ではない。慰安婦問題とはあくまで人権を侵害した加害国政府と、尊厳を踏みにじられた被害者の間の問題なのだ。 
それをあたかも日韓の二国家間の問題であるかのように装い、韓国の一部の極右勢力をあげつらって「どっちもどっち」であるかのように論じて「両論併記」する欺瞞自体が、ハタ目にはただの姑息な欺瞞で、しかもひとめで誤摩化しがバレてしまうような稚拙な独りよがりにしか見えない。

繰り返しになるが、慰安婦問題でもちろん第一義的におかしいのは安倍やその周囲、および支持者を自称するらしき人たちの倒錯だ。だが彼らの倒錯はあまりに馬鹿げていて、およそまともな社会、まともな大人同士の議論として通用するものでなく、真面目に相手にすべきものですらない。

子どもの駄々レベルの独りよがりで論理的な整合性にも社会常識にも客観性にもまるで欠如していて、本来なら真面目に批判することすらバカらしい、恥ずかしい笑い話レベルのものだ。

なのに一流の報道機関を自認しているはずの日本の大手メディアはもちろん、識者や著名人と称する人たちですら、「そもそも言っていることがあまりに無知で非常識でおかしい」ことをすら批判できず、あたかも日本側と韓国側(ではない、あくまで被害者である元慰安婦と加害者であった日本国との関係だ)を両論併記すれば「公平な報道だ」とか思い込んでいるらしい。

挙げ句に朝日新聞などは「韓国側で反日だ」という馬鹿げた言いがかりをつけられることを本気で恐れているかのようなみっともない態度に終始してしまっている。 
これでクオリティ・ジャーナリズムが務まるのだろうか?

極めて皮肉なのは、「議論の対象にする以前のバカらしさ、そんな “意見” は口にするだけ無価値」という、本来なら健全な民主主義の運営において当然の大前提であることが(そうでなければあまりにも時間の浪費になる)、この国ではもはやまったく機能していないことであり、なぜそうなるのかと言えば「小学校からそう教育されているので価値観が歪んでいる」という解釈がもっとも妥当に思えてしまい、ならばその主体であり最大の責任者が安倍たちの仇敵であるはずの日教組であることだ。

こんな歪んだ価値観がなぜ育ってしまうのかと言えば、70年代半ばから日教組が学級運営の手法として推奨して来た「学級会」の欺瞞と、教師の質の低下が思考力を伸ばすことではなく単に言われた通りの正解で点数を稼ぐことしか教えられなくなった現実の不健全で矛盾した野合の当然の結果、とみなせば説明はついてしまうのだ。

安倍やいわゆるネトウヨが日本の歴史問題について言い張ることを「議論の対象にする以前のバカらしさ」とはっきり言えないのは、「『みんな』の意見に価値があるのだから無視してはいけない」からだけであり、要は運動会の徒競走で「ビリの子か傷ついてはいけない」から「みんなで手をつないでゴールイン」と同じ発想である。

中途半端でその実欺瞞でしかない「個性」の尊重、実は点数主義の「正解」教育しか出来ていないのに「みんなの意見はみんな正しい」と学級会や読書感想文では推奨することで「正解」を出せない生徒を甘やかして不満をガス抜きした妙なダブスタで子どもを洗脳して来た当然の結果、と言ってもいい。

これも安倍たちが「反日」と言いたがっている日教組が普及/蔓延させたことだ。70年代以降に教育の現場で日教組がやった甘やかしの欺瞞がなければ、安倍のような主張が真面目に相手にされる余地すらなかっただろう。

なにが事実でありなにが正しいのかすら「みんなで決めること」にしてしまい、なのにルールは「それが正しい、ないし公正さの維持に必要だから」ではなく「みんなで決めたことだから」守らなければいけないという妙な教育の結果、「事実とはなにか」の認識が持てなくなるのは、ある意味で当たり前である。

既に起こった事実は「みんな」だろうが誰だろうが、「決められる」はずもないのに。

たとえばある学級でいじめが起こっているという事実があったとする。

ところが日教組の推奨した「学級会」式の学級運営では、いじめが起こっているかどうかすら「みんなで決めたことが正しい」になってしまうわけで、それでもさすがにいじめが起こっている事実が被害者の具体的・身体的な傷害や登校拒否などの現実で隠せなくなると、今度はなぜいじめが起こったのかを「みんなで決めましょう」になる。

その「みんな」の圧倒的多数が加害者側なのに、いじめをめぐる正確な事実関係がこれで把握できるはずがない。

さらに「みんなの意見はみんな正しい」的な読書感想文的価値観の「国語教育」で「作者の気持ちを考えてみましょう」をやっていては、いじめ被害者が現に深く傷つけられていることと、加害者側が自分の非を咎められて「傷つく」ことすら等閑視されてしまう。

まさに「ビリの子を傷つけないためにみんなで手をつないでゴールイン」の発想そのもので、そこに「みんな」の妙な多数原理を場違いに持ち込んでは、自業自得で「傷ついた」などと泣き叫んでいる場合でなく本来ならきちんと反省しなければならない加害者側が「傷ついた」ことばかりが問題にされ、いじめの「解決策」は被害者をその体現する不都合な事実といっしょに排除しよう、という結論にしかならない。

この陰惨極まりない結果として、もはや日本社会全体が共有する欺瞞として繰り返されるのが、いじめ被害者におためごかしに「逃げること」ばかり強要する恐ろしく残酷な偽善である。

過去の日本の侵略戦争とそれにともなう人道犯罪、失敗した植民地支配に伴う植民地住人に対する不当な搾取、つまり日本の戦争責任・歴史責任の問題は、実はこの日教組が推奨した「学級会」とまったく同じ論理で、今の日本国内では処理されてしまっている。

学級会の「みんな」がしょせんその学級という閉塞された集団内の話でしかないのと同様、この場合の「みんな」は最大でもしょせん、日本国内のコップの中の嵐でしかない。戦争犯罪と歴史責任は日本国外の、他国の人たちに与えてしまった被害の問題だというのに、その肝心の被害当事者である「他人様」も、実際の過去に起きた事実も、予め排除されてしまっているエセ議論だ。

しかもこの「事実とはなにか」と「他人様」がまるで無視された倒錯は、慰安婦問題や戦争責任を問うて安倍や自民右派などを批判するかのように見える側でさえ共有されている。

要は皆が自分が所属する「みんな」という半径5m程度の内輪集団の多数派がいかに「傷つかない」で済むかのへ理屈を一生懸命に捏造しているだけで、他者である被害者の尊厳は無視され、その人格を尊重し損なわれた尊厳を回復することも、自分たちの責任を自覚し、社会の一員としてその社会をより良くする責任を担うことも拒否され、「歴史修正主義」を批判する側の圧倒的多数ですら、悪者を叩くことで自分の正当性を相対的に担保することにしか、実は興味を持っていない。

たとえば「ヘイトスピーチ」をめぐって「法規制を」という話なぜかなってしまうのも、実はこの種の歪んだ論理の典型になっている。 
なにが差別偏見の流布で憎悪を煽動する発言になるのかを「みんなで決めましょう」と、構造的に差別する側であるマジョリティの「みんな」が決めて、その「みんなで決めたルール」に反するたとえば「在日特権を許さない市民の会」を排除しよう、という発想なのだ。

絶望的なのは、しょせん自分の属する「みんな」の内輪しか見えておらず、そのなかの対立回避と「みんなが傷つかないこと」ばかりが最優先されていることであり、それがもっとも顕著に現れているのは、実は安倍氏の周囲や今の自民党とその支持層以上に、大手を中心とするがもはや大手だけとも限らないメディア、報道の業界だ。

報道の本来の役割からすれば、まったくとんでもない話である

公正で正確な報道の第一歩とは、まず取材対象に対して一定の他者性をきちんと担保する一線を守ることだ。そうでなければただ盲目的に、言われたことを右から左へ、情報源の側が目論んだ通りに報道する広報機関にしかなり得ない。

ところが昨今のジャーナリストはフリーランスでさえ、なにかを事実として報道することについて自ら判断し責任を担うことから逃げて、最悪ネット生中継頼り、「誰かが言った正しいこと」を仲介することにのみ専念する有り様だ。
こんな「取材」には迂闊に応じない方がいい。それこそ朝日新聞が吉田氏に対してやったようなひどい裏切りで、後で自分だけが一方的に傷つくことになりかねないですよ。

あるいは一般市民を取材対象にするのでも、相手があくまで他人様であることの認識が前提になければ、まともに質問すら出来ず、この場合は相手が主張することをいちいち事前に準備して暗記していはいないので、その言わんとしていることすら満足に引き出せないで終わる。このように他者性が認識できないインタビューは、結局一般の取材対象を、自分たちの幻想する主張を補完するコマとして搾取することにしかならない。

たとえば震災や原発事故の報道では、いや報道に限らずドキュメンタリー映画ではなおのこと、「被災者」は取材する側の思い込みの投影としてしか表象されていないのがほとんどだ。

さらに言えば、既に述べた通り報道がまず「事実」を伝えることを第一の目標としているのなら、報道している時点で既に過去になっている「事実」とは、報道したり伝えたりする側にとってさえ、決定的に他者的なものだ。

たとえ自分自身のことであっても、過去に起きた事実は現在の自分の都合で変えられるものではなく、事実それ自体は過去において確定しているはずだ。

その実際に起こったことの概要をどこまで正確に把握できるかどうかはともかく、事実それ自体は事実であって今になって変えられるものではなく、報道する側や報道の受け手の思い込みや願望とは無関係に存在しているはずだし、それを追及することが報道の本来の役割でなければおかしい。

むろん、自らが所属する社会や組織、集団の権力構造を認識してその構造に配慮してしまうことを極力排除しなければ、事実を出来る限り正確に把握したりきちんと論理的に解釈することは出来ない。

残念ながら我々には自分の立場や生活やプライドを守らなければならない強迫観念が常にある以上、得てして自分の保身のために無自覚に自分の解釈を歪めてしまうものだからこそ、自分から半径5mの「みんな」しか見えていないのでは困るのだ。

所属する集団の権力構造にとって都合の悪いことを指摘した結果自分の立場が危うくなるのなら、それを本能的に避けてしまうのが人間というものではあり、だがそれはことジャーナリズムの場合、報道の本来の目的や社会に対して持っている役割を決定的に裏切ることになる。

ところが今の日本のジャーナリズムの大半は、大手を中心にもはやフリーランスやネット上メディアでさえ、右も左も関係なく「ボクたち正義」を自分たちの内輪で確認しあうことを優先してしまい、自分たち自身の立場の持つ危うさを気づこうとすらせず、うっかり誤報をしてしまったらそれを糊塗するために誤報を増幅させてしまう有り様だ。

たぶん今の安倍政権下の日本で起きていることの本当の問題は、「社会の右傾化」などではない。

本当の問題は幼稚化、社会のあり方の基本的価値観や行動原理が小学校の学級会並みに退行してしまっていることであり、とりわけ政治家や官僚や大企業社員、そしてなによりもジャーナリズムに属する人々が、自分たちが「傷つく(それも実害を受けることよりも感情論、要は偉そうな顔ができなくなる劣等感に苛まれること)」ばかりを恐れる保身に凝り固まっていること、そして「事実」「現実」の認識をめぐるもっとも基本的な哲学的概念すら理解できなくなっていることなのだ。

社会のあり方やその価値観が学級会並みになっているだけではない。その成員のなかでもとくにエリート層であるはずの人たちもまた、いわば「しょーがくせー」、ただ「ボク悪くないもん」と威張りたいだけの幼稚な動機のまま大人をやっているのだ。

勝ったはずの選挙の報道番組でキャスター相手に逆ギレして、イヤホンを外し(つまり相手の言うことを聞かないぞ、と駄々っ子のような意思表示をした上で)自説をまくしたてた総理大臣というのは、この「エラいはずの人たち」ほどどんどん幼児化していく日本という国家にとって、まことふさわしい政治指導者なのかも知れない。

なお安倍がいつのまにか選挙の争点にしていたらしい「改憲論」に関しては、僕自身は実はそんなに危惧はしていない。 
少なくとも今の自民党の、安倍の周辺で作っているような憲法草案なら、いちばん心配なのはあまりにもバカバカしい中身であることがバレてしまった瞬間に彼らが「傷ついた!」と泣き叫んでどんなヒステリックなバカ騒ぎが始まるのか、まったく想像がつかないことだ。 
そしてメディアは、そんなヒステリックな馬鹿騒ぎをなんとか正当化しようと(安倍さんたちを「傷つけ」まいと)、ますます虚報に虚報を重ねるのだろう。こうして世論の劣化がどんどん進んで行くことの方が、あり得るはずもない改憲よりもよほど危険だ。

12/11/2014

わけが分からない解散総選挙で、いったい誰が最後に笑うのか


史上最大議席を誇る巨大与党がなぜか「解散総選挙」。この 理解不能な騒動が始まったころ、さらに変だったのは、解散の権限を持つ首相は長期外遊中だった。

いくら高度情報通信時代とはいえ、首相が外交に専念しているはずの時になぜか、どうにも首相すら預かり知らぬとしか思えぬところから、解散だ総選挙だの声が上がって来ていたのである。

「国家機密を守らなければ」と法律まで作っておきながら、政権の最重要機密事項である解散の話がこうも簡単に漏れるとは、安倍政権というのはとにかく、普通のことがまったく普通に出来ない政権であるらしい。

この解散をめぐる“内閣の機密漏洩”おかげで、野田政権の気まぐれで日中関係がこじれて以来の懸案だった首脳会談がやっと開催されても中身はまるで報道されなかった。ワイドショーはすでに解散一色だったからだ。

いやこれ、明らかに「特定秘密保護法」の処罰対象ですよ?

日本のメディアが中身を報じない日中首脳会談が、見れば分かるように中国圧勝、安倍は屈辱的に扱われても黙っているしかなかったあとで、習主席自身が「一回目は他人だったが二回目以降は友人」と余裕で声をかけたら(普通は「もう変なこと言うなよ」の脅しと思いますよ)、安倍自身が喜んで随行記者にそれを自慢げに披露した。

「ボクが一生懸命我慢したら中国サンもボクの気持ちを分かって優しい声をかけてくれたんです!」で済んでしまうのだから、誰も考えもしなかった奇策 “ワガママ坊やの駄々泣き落とし” を成功させた外交的な奇跡といえばまったくその通りで、従来の外交や国際政治の価値観では、評価すべき言葉も基準も見当たらない。

いやまあ、それで丸く収まったんなら、いいんですけど…。
僕はまだまだ若いつもりだし、本業では斬新な手法を売りにしているはずが、それでも自分が従来の価値観ややり方に囚われた旧弊の保守主義者に思えて来るくらい、安倍首相の政治は本当に「新しい」。我々が知って来たあらゆる常識を、あまりに軽やかに(というか軽薄に)超越している。

ついこないだまで、特定秘密保護法改憲論、いわゆる「集団的自衛権」論議に、歴史問題をめぐる中国韓国との対立が、安倍政権が批判を浴びる主なポイント、それに内閣改造後には「政治とカネ」問題がちょっと加わっただけのはずが、選挙が決まったとたんに安倍が争点は「消費税10%増税引き延ばし」だと言い出し、メディアでは安倍の経済政策の是非が主な論点になって来ている。

「いやアベノミクスが失敗したからって外交無視されても困るんですが」とはまた誰も言わないのが不思議だが、一方でアベノミクスの失敗だけでも論じる時間が足りないほど論点だらけだし…

…と思っていたら、安倍はしかし「アベノミクスは順調だ」という。え?ならなぜ消費増税を先延ばしにする必要があるのか、ますますわけが分からんぞ?

いやまったく、この政権がいかに普通の議論を普通に出来ないフシギちゃん政権であると分かっているとはいえ、あまりに言うことが変過ぎて、それが「あまりに変な話」であることについ気づかないくらい、もう言っていることがムチャクチャです。

とにかく「普通のことを普通に出来ない」の典型というか、アベノミクスの失敗つまり安倍政権の経済政策の誤りも、最初からそもそもあまりに非常識な経済政策で、二年前からこういう結果になることは分かっていたはずだ。

アベノミクスは最初から短期しか使えない常識はずれの奇策でしかなく、二年も継続できるものではない。金融緩和と円安誘導で通貨流通量が増加するように政策的に誘導すれば、GDPなどの数値はいったんは一応はあがり、景気はよくなったかのように見える。たったこれだけの自動仕掛けめいた市場操作を「経済政策」と言われても、普通なら国民が困るわけだが。


  • 通貨流通量を増加させる手段にはいろいろあるが、他になにも出来なくなった場合でも究極、通貨供給量を増やせばいい。
  • つまり日銀にお札を刷らせてそのあぶく銭で民間債権でも国債でも買わせればいい。

これがアベノミクスと名付けられた経済政策の現状だ。
これで永続的に成長路線の薔薇色の未来が約束できるのだったら、世界中でそうやればいい、国際協調の大リフレでリーマン・ショック以降の危機なんて突破できたはずだとは、安倍の経済政策のブレーンをやっている人たちですらさすがに言うまい。 
むろんそんなことみんなでやってしまったら、世界経済が一気に破綻するし、その国の国債どころか通貨それ自体まで一気にデフォルトしてしまうからだ。

アベノミクスの「異次元緩和」を支持する経済の専門家と称する人たちですら、国民や一般相手には「通貨流通量を増加させるには究極、通貨供給量を増やせばいい」政策に伴うリスクは決して口にしなかったし、批判派ですら「円安で物価高になり、それが消費を冷え込ませる」までは指摘してもその先はほとんど言わないまま、安倍が日銀総裁を更迭して新総裁が「金融緩和は止めるタイミングが難しい」と就任会見で言っても誰も呆れもせず批判もせず(いやだから、それがあなたの仕事です、日銀総裁!)、アベノミクスは二年近く続くあいだに、本当に「お札を刷って名目経済成長」になってしまい、歯止めが効かない円安が経済を直撃し始めている。

安倍政権が二年近く続いた結果、日本経済はいわば金融緩和依存症、まるで麻薬中毒状態なのだ。正直、この選挙がどんな結果になってもいまさら急には止めるわけにもいかない。
確かに麻薬や向精神薬と同様、金融緩和も「止めるタイミングが難しい」のは黒田さんが正直に仰った通りではあるが(変なところでプライドかなぐり捨てて正直になられても困るんだけど)、だからこそ即効性がある景気対策だと分かっていても中央銀行は慎重になるのだ。 
またして権が人気取りで安易に手を出さないように、政府の口出しできない、独立した機関としての中央銀行の専権事項だったはずが、その政治システムの安全弁すら吹っ飛ばしてしまったのが安倍政権である。

日本国債の格付けは下がったと言ってもまだワンランクだけで済んでいるが、まさに警告として受け取るべき、つまり「もうやめろ、危ない」という話でしかない。

これまで世界でもっとも信頼度の高い国債だったのが一気に「日本がギリシャのようになる」だけでは済まない。日本国債の大部分は国内で買われ、その多くが「老後の蓄え」だ。それが全部紙クズになりかねないことを、アベノミクスは今も継続中なのだ。

実はこの程度のことは、中学校で習っているはず、義務教育の一部だ。

モノの価値は需要と供給のバランスで決まり、貨幣経済では物価水準の高低は貨幣の流通量と有形無形の商品の量の関係性に左右される。「インフレ」とは「モノの貨幣換算の価値が上がる」だけではなく、裏返せば商品に対して貨幣の量が多くなっため貨幣の価値が下がっていること、たとえば商品やサービスの量に比して通貨の流通が多いことを意味している。

なお「インフレーション」を経済用語として用いたのはカール・マルクスが最初である(というか経済学の創始者自体がマルクスである)が、元は医学で「腫れている」「炎症」の意味だ。

アベノミクスはその日本円の価値を恣意的に下げることから始まっている。

日本での「物価高」とは、日本円の価値が下がっていることを同時に意味するわけだが、元々は菅直人が言い出した(当時は財務省と特に日銀が常識的な危機感を持ち、やらせなかった)「インフレ・ターゲット」とは、人工的な市場操作でこの状態を作り出す意味である(ただの理論であり実際にそうなる保証は何もない…というか従来の経済学ではそうなる説明がつかない・後述)。

どうも「円安」とだけ言うと、それは他通貨に対する円の価値だけだと思ってしまうかも知れないが、それだけではない。

社会のなかに存在する資産や財産や、社会の生産活動で産まれる商品の価値、サービスの価値に比して、通貨の価値が下がるのが「物価高」と呼ばれる状態だ。それが通貨の流通が多いことの結果であれば、それだけ多くの売買契約が起こっているのだから悪いことではもちろんない。通貨流通つまり経済取引が刺激されて資産や財産の価値があがったり、その増えた資産が投資されて生産活動も刺激され、サービスの需要も増えて売買が増えるから通貨の流通が増え、その結果の物価の上昇(=通貨の価値の下落)以上に社会全体の持つ富が増えていくからだ。これが「経済成長政策」の本来意味するところである。

だが中学校で習った通り、それはただ物価が上がればいい、通貨の流通量が増えればいいということではない。通貨の流通量をとにかく上げるだけだったら、通貨の供給量を増やせばいいし、まずは金融緩和だが、要するに究極お札を刷ればいいはずだ。しかしこれに手を出す政府や中央銀行が滅多にないのは当たり前のことだし、その理由も中学校で習っている。

まず社会全体の持つ富に較べて異常に通貨の流通量が多く、土地不動産や証券・債権などの投機対象に異常に資金が集中する状態を「バブル」という。

バブルはもちろん、遅かれ早かれ弾ける。軟着陸はもの凄く困難だし、それが出来なければその国や社会や延々とその後遺症に苦しむことになるのは、我が国が1990年代以降実感して来た通りであるだけではない。 
19世紀に資本主義が成立してから、世界は1929年以来これを何度も経験して苦い教訓を学んで来たはずだ。最近ではリーマン・ショックがあり、中国の(実態経済の拡大をものすごく伴った)急成長のおかげで、辛うじて世界大恐慌が防げている。

さらに危険なのは、通貨の流通量が自然に増えるのはまだ市場にそのニーズがある、バブルでさえ投機マーケットで売買取引が活発だから起こるのに対し、通貨供給量をただ増やせば(つまりお札を刷れば)、という理屈に走ってしまうと、これまた子供でも分かる話だが、カンフル剤には使えても、そこで社会全体の生産性の成長が伴わなければ、通貨の量が無駄に多い分モノの値段ばかりがあがる一方で、バブルにすらならない。

これも実は中学校で習っているはずだが、この場合は「インフレ」とは区別して「スタグフレーション」と呼ばれる。社会全体の富(資産・財産と生産活動で産まれる財、サービス)に比して通貨の絶対量自体が不釣り合いに多く、物価高なのに不景気な状態のことだ。

アベノミクスは理屈だけで言えば、はっきり言えばスタグフレーション誘導政策とも同意になる(中学生でも分かる話)。

だからこそ安倍の再登板当時から(あ、これも日本のメディアでは報じなかったか)、国際的にアベノミクスには風当たりが強く、日本の引き続きの金融緩和を求め続けるIMFですら警告を発していた。

それでも短期であればアベノミクスに効果が見込めたのは、通貨流通量でいえば日本はついこのあいだまで、むしろ潜在的には「金あまり」ですらあり、だから硬直した通貨の流動性を強引にでも確保する必要があった。

これは日本人の国民性もあるのだろうが、バブル崩壊以降の基本は常に金融緩和路線、つまり利子がどんどん下がり続けこれ以上下げようがないレベルのままもう10年以上が経過しても、利子もろくにつかないのに定年退職をした高齢者を中心に銀行預金が多い(さすがに昨今は取り崩され、かつてほどの水準ではないが)ことがあった。

その預金の投資先がなかなか見つからない、銀行がなんと消費者金融を傘下においてそこでよりリスキーだが高利の金貸業に手を出し、本来なら成長分野になるかも知れない中小企業などが貸し渋りに喘ぐ、というのが民主党政権時代でも、それ以前の自民政権でも、日本の金融政策の問題だったはずだ。

「いやそんなの銀行員がちゃんと仕事すればいいわけだろ?あんたらどれだけ高給取りなんだよ金食い虫!引退した高齢者に今さら自分の判断で投資しろなんて言うなよ」とも思わなくはないが、実態経済が実は決してそんなに悪くなかった、ほどほどに堅実には経済が廻っているのになにか先行きに不安が大きいとき、こういう刺激策で前向きムードになること自体は、無碍に否定すべきことでもない。

だがそこで忘れてはならないのは、リフレ策は理論的には結局スタグフレーション誘導であり、だからあくまで短期の時間稼ぎにしかならないことだ。

投資や消費が増えるムードを作ったところで、間髪をいれず今後成長が期待される分野への資金が流れ易くする政策を打つ一方で、膨大な預金を少しは消費に廻してマーケット全体でも通貨流通量が増えるように誘導する、その方向にいろいろインセンティヴを配して行くという金融・経済政策の王道が、口で言うのは簡単だがなかなか難しかったのは確かだ(民主党政権の本来の公約であり、霞ヶ関に潰された)。だから突破口としては、アベノミクスという「禁じ手」もひとつの手段ではあったとは言える。

ちなみにアベノミクスが始まってから「民主党政権時代は経済が」と言い出す人が出て来たが、当時の新聞見出しでも見れば分かるように、経済がそこまで悪いという実感は当時はなかったはずだし、実際にそんなに悪くなかった 
なによりもの証拠に、日本円も日本国債も、リーマン・ショック後の世界では数少ない信頼される通貨であり国債だから、円高だったし格付けも高かったのである。

アベノミクスで日本の株価は上がった…のは、そのように見えただけである。

円安になれば円建ての株は値段が対外的に下がるから買いがつき易くなるから円建てでは上がって見える。

企業収益の海外分は円建ての決算では数値が自動的に増える。

最初の刺激効果のあとも、その株が上がっているように見え続ける効果を持続するためだけに、特定業種の株価が上がるような政策アイディアをとっかえ引っ替え出して来たのが、安倍のいう「第三の矢」の実態だ。

安倍が自慢げに記者会見する「成長戦略」が毎回あまりに的外れなので驚いた人も多いだろうし、この政権が「あまりに変なこと」ばかりやる典型例になるのだが、ちゃんと理由もあったのである。たとえば…


  • 薬品のネット販売を解禁すれば、ネット販売会社と製薬業界の株価は上がる。
  • 人材派遣事業の規制を緩和すれば、人材派遣会社の株価は上がる。
  • 本気で日本製兵器を大量購入する国があるかどうかはともかく「集団的自衛権」をぶちあげ武器輸出解禁を言うだけでも、重工業製造業の株価はとりあえず上がる。


現在の株取引のほとんどはコンピューター処理で、ひとつのソフトウェアが分当り何千もの売買を処理している。安倍政権が打ち出す「政策」らしきものは常に、そのソフトウェアが反応して買い注文を出すような内容になっている…というかそれ以外に「成長戦略(これも「買い」が入るキーワード)」として打ち出す理由がない。

なんのことはない、人間相手ならよほどのバカでない限り引っかからないが機械は騙せる安直な金融詐欺の一種だ。 
この「風評の流布」で安倍が持ち上げられてホリエモンが実刑を食らうなら、日本はおよそ法治国家とは言えまい。

今年下半期に入って見るからにアベノミクスが失敗し、とくに内需の大半を占める個人消費が落ち込んでいると明らかになったことが総選挙の背景にある、という分析がある。4月には消費税が8%に増税され、それが消費落ち込みの原因だから、10%への再増税を先延ばしにすることを国民に問う、というのが安倍さん本人が解散した(後付けの)理屈だ。

安倍さんの政治が次から次へとあまりに変なことをやり続けてくれるので、ほんの半年とか8ヶ月とか一年前のことでも、国民の側も忘れがちになってしまうのだが、「なら最初から8%増税をあんたが止めればよかったじゃんか」という突っ込みはさておき、つくづくこの人は渋谷の自邸から永田町に通勤するのでも車窓の外すら見ないんだなあ、と呆れてしまう。

ちょっと思い出せば、今年の下半期が前年度同期に較べて極端に消費動向が悪くなるのは、昨年の同時期がむしろ良過ぎたからでもある。こと安倍さんの自宅がある辺りから永田町への通勤ルートなら分かり易かったはずだが、昨年の秋から今年の春にかけて、都内は消費増税前の増改築と新築の駆け込みでちょっとした建築ブームになっていた。

アベノミクスでダブついた資金があったのでそこに廻す余裕もあり、はっきり言えば消費増税とアベノミクスの組み合わせは、安倍さんの経済政策でほとんど唯一成功した部類に入るんじゃないか、という皮肉のネタにすらなる。

あれだけ駆け込み需要があるのだから、そのぶん増税後の二、三ヶ月の景気の落ち込みは「まあ増税のやむを得ない結果でしょう」と甘受する他ない部分はある…とも言えないのは、その駆け込み需要で業者や作業員に払われたおカネは増税後にも消費に廻って冷え込みを抑えたはずだし、都内の建築の需要は新築でも増改築でも、増税後もそこまで極端には下がっていない。

それでも消費増税で消費落ち込みを言われるのをとにかく(たぶんほとんど病的に)恐れた安倍政権がやってしまった決定的な失策は、いわばプチ金融詐欺の風評の流布も一年以上続ければさすがに手詰まりネタ切れになったところで、日本円の通貨流通量ではなく通貨供給量それ自体を増やし始めたことだ。

これは安倍自身の人格の未熟さも相当に関わっているのだろう。なにしろとにかく批判を受けるとパニックを起こす人だ。だから消費動向が悪いと言われたとたん、なにも考えられずに馬鹿の一つ覚えで日銀に命じて(ちなみにこれは違憲であり違法)お札を刷ることしか思いつかず、日本円の価値それ自体をどんどん下落させてしまったのだ。

それがこの夏以降の極端な円安の正体だ。民主党政権時代に較べて日本全体の価値が、円安だけで6割近くにまで下落している計算になる。

普通なら、こういうのを文字通りの「売国」と言う。 
もうニッポン全国買い叩き大セール以外のなにものでもなく、さっそく銀座や新宿は中国人観光客だらけになっている。

「いやあなたさあ、渋谷から永田町にご出勤と言ったって地下鉄半蔵門線じゃないんですよねえ?」とまた安倍さんにイヤミを言いたくなってしまうのだが、都内なら原油価格アップによるガソリン代のアップは、安倍さんでもない限りそう車では移動しないから、そこまで個人消費を冷え込ませたりはしないだろうが、そんな公共交通が発達しているのは東京などごく一部の都市部だけで、地方に行けばガソリン代の上昇、これから冬になれば北の方では灯油代のアップだけでも、超円安政策は確実に消費を冷え込ませ、それは消費増税の比ではない。

いや今のところはまだ、各企業は「円安による輸入原価の高騰」しか値上げの理由に持ち出していないが、本当に今後起こりかねない、あるいはすでに今起こっているのは、日本円という通貨それ自体の価値の下落である。

実際に日本社会が持っていたり生産できる有形無形の富の総体に対して、不均衡に通貨の流通量ですらなく供給量それ自体ばかりが多い状態、つまりはスタグフレーションだ。


総選挙への関心は、現状ものすごく低い。

メディアはまたもや「国民の無関心」「無気力」を責める上から目線の無責任なお題目を繰り返すのだろうが、こんな政治、あんな政治報道で関心を持てという方がどうかしているし、もはや安倍さんだけが悪いのではない。

アベノミクスがスタグフレーション誘導政策にもなる、言い換えれば短期しか使えないものであったのは、再三繰り返すが「最初から分かっていた」はずだ。

なのにメディアは「安倍政権で景気が良くなった」と繰り返し、「第三の矢」がいつまでも出て来ないことすら誰も危機感を持って批判しなかった。

一般市民は本当は気が気でなかったはずだが、それがなかなか言いにくい「空気」というのがこれまた、日本ではおなじみである。なにしろ「専門家」先生たちが大丈夫だと言ってるんですから、ね…。

こと昨今ではメディアがやたらと「専門家」を出して来る。ちょっと前までは専門分野をちゃんと紹介した上でかなり練られ相応に客観的な見解を流していたはずが、最近ではNHKなど平気で「専門家の意見は」でどこかの教授やシンクタンクの役員をただ登場させるだけで発言内容も相当にいい加減、編集しまくりで文意をつくり、視聴者にはそれが具体的にどんな研究者でどんな見解を持っているかではなく、「専門家だから正しいんだ」だけが強引に刷り込まれる。 
ブラックジョークとして言ってしまえば、東アジア東南アジアは、未だにほとんどが全体主義と独裁が幅を利かせる国ばかりで、曲がりなりにも民主主義と言えそうな国はまだ二国しかない。それは国民党が今の台湾の利益をちゃんと考えなくなったので民進党が政権復帰するのが時間の問題の台湾と、うっかりパク・クネに投票して大統領にしてしまったことをみんなしっかり後悔している韓国であって、日本はこの二国に完全に抜かれただけでなく、どんどん羊のごとく従順でなにも言わない国民の全体主義国家に後戻りしている。

それにしても不思議だ。いったい誰の意図で今回の解散総選挙が決まったのか?

最終的にはもちろん総理大臣である安倍晋三しか決められないことだし、本人は相変わらず「私の決断」のつもりなのだろうが、首相が外遊で留守中に誰かがイニシアティヴをとって解散風を吹かせ、帰国した首相が無節操にそれに乗ってしまっただけ(毎度おなじみ、おだてられていい気になった)、としか見えない。

そもそも安倍晋三首相にとってこそ、ここで解散するメリットがまったくない。

衆院選で史上最大議席を確保し(小泉純一郎すら越え)、参院選でも圧勝、この「国民の支持」の表象としての議席数こそ、安倍の最大の権力の源泉だ。

霞ヶ関の一部ですらこの首相に振り回されるような巨大な権力、特に強力な決定力を武器にして来れたのに較べて、解散総選挙したところで、前回衆院選ほどの議席はまず期待できないのだから、得るものはなにもない。

それもとってつけたように「争点は消費増税先延ばし」って…いや今のままの数値なら予定通りの増税はもはや絶望視、それをもっとも強硬に進めたい財務省ですら二の足を踏む状態で、与党も野党も増税反対なのに今さら争点にはならない。

それに安倍さんが「アベノミクスは成功」と言うのなら、それこそ消費税の10%増税を引き延ばす理由がない。ではいったいなにを戦う選挙をやるつもりで、彼は解散を決断したのだろうか?

人気取りで財政規律を無視する首相の国が、その首相の命令で異次元金融緩和政策?そりゃ国債がデフォルトするモラル・ハザードも時間の問題になるぞ?

これはあくまで仮説、推測に過ぎないが、逆に言えば安倍政権の史上最大議席に伴う権力を削ぐことがこの総選挙の真の目的だと考えれば、ある程度納得は行く。

衆院で史上最大議席のあと政権につけばアベノミクス人気で参院選も圧勝、というので、財務省も経産省も安倍を止めることが出来なかった(説明したって理解できる知識も知能もないし)。

いかに日本の経済界の重鎮が憂慮し、アメリカの現政権が怒り、世界中が心配し、日本の実態経済に響くのも時間の問題に見えた日中関係の膠着化も、安倍が最大議席と国民の支持を背景にしている以上、外務省でも自民党の長老でも止められなかった。

安倍がぶちあげた「集団的自衛権」にしても、実際に防衛省などが “霞ヶ関文学” を駆使してうまくねじ込んだのは「予防的先制攻撃」の容認であり、たとえば他国間の紛争が日本に飛び火する前に日本から介入できる、という権限だ。防衛省にとっては有り難く、外務省にとっても使えるカードではあった。とはいえその防衛・外務の両省も、まさか首相自らの発表会見で中国を実質名指しにし、南沙諸島問題が日本が中国に戦争を仕掛ける理由になると言う、極めて好戦的な挑発が飛び出すとは、まったく想定の範囲外だったろう。

あの暴言を外務省幹部や首相OB、元外務大臣たちがどう火消しに廻ったのか、まったく報道には出て来なかったが、あそこまで言われてしまうと、中南海もうかつに反応すれば「即戦争」となりかねないせいか無視してくれて、結果として問題になっていないのが安倍の「勝利」と言えば、そうなのかも知れない(本人がそう思い込んで自慢している可能性はある)。

安倍政権が「普通のことを普通に出来ない」政権であること、「あまりに変なことばかりやる」非常識内閣であることに例をあげればキリがないが、要は永田町も霞ヶ関も、さすがに疲れてしまったのではないだろうか?

一種の「安倍おろし」がこの解散総選挙騒動の裏にあるように思えてならないし、その切り口で今後の事態の推移を見れば、もっと分かって来ることがあるのかも知れない。

ただそれが分かって来たところで、ではどこに投票すべきかが見えて来るわけでもないのが、我ら国民の不幸ではある。

これだけははっきりしたと思うのだが、日本は民主主義の国ではない

12/07/2014

東京国立博物館の国宝展〜日本の「祈り、信じる力」とは、中国を完璧以上に模倣すること



『日本国宝展・祈り、信じる力』という題名だけ見ると、安倍晋三政権の困った国家主義ごっこのなんちゃって全体主義が、ついに美術館・博物館、歴史的文化遺産の保存・展示まで蝕んで来たのか、とゾっとする人もいるだろう。

とはいえなにしろ「日本」とわざわざつけるまでもなく「国宝展」と言われれば、オール国宝指定の名品ばかりだし一応は見ておこうと思ってしまう(つまり客寄せ・動員の成功は保証されている)が、一方で「とにかく国宝だから」だけが基準で特別展を構成させられるだけでも、学芸員が気の毒にもなってくる。

それも「祈り、信ずる力」だ。まさかとは思うが「神風」伝説のオリジンと称して蒙古襲来絵詞の展示でも期待されて居そうで怖くなる。

共催のNHKには、安倍の腰巾着気取りの元三井物産の籾井氏が会長として政権から強引に送り込まれているし、同じく政権に押し付けられた経営委員に至っては、特攻隊を美化したつもりの支離滅裂な小説がベストセラーということになっている御仁である。一方で東京国立博物館自体はもちろん文化省傘下だし、題名だけみると政権の馬鹿げた圧力に屈した右翼国家主義テイストと思われるかも知れない

ところが、今日が最終日で8時までで終わってしまうので今更のブログ掲載で恐縮だが、東京国立博物館の国宝展は想定外のとんでもない展覧会なのだ。これだけの国宝を全国から集められる東博の権力だけでなく、学芸員スタッフのいかにも日本の文化と伝統を踏まえたイジワルな遊び心の知性が、凝縮されている。

なお庭園の秋の公開も今日が最終日、こちらは午後4時までです。小堀遠州の「転合庵」
ここに竹を使ったりするところがまさに「きれい寂び」の洗練


出品作品はすべて国宝で、確かに「祈り、信じる力」つまり日本の歴史と伝統の信仰の精神史のテーマに大真面目に本気で忠実な展示にすると、その当然の結果として…安倍たちが期待していそうな中身とまるで真逆になるのは、実を言えば日本の歴史と文化伝統をちゃんと知っていれば理の当然ではあったが、しかしここまでやるか東京国立博物館!


逆に言えば安倍たちのような昨今の自称「右翼」は、学校で教わるレベルの日本史ですらよく分かっていないのだろう。


まず入り口には奈良の薬師寺に伝わる飛鳥時代の仏足石、そして最初の目玉が法隆寺の至宝とされる玉虫厨子だ。

まず日本史の教科書の写真ではまったく分からないが、玉虫厨子は3mを越える巨大なもので、材質は黒檀かなにかとても堅く艶のある木で黒光りして、大変な迫力と華やかさなのだ。堅い木材の極めて精緻な加工による繰り返し文様の精緻さに圧倒されると同時に、その文様の意匠と四面に描かれた絵を見ればすぐに気づくことがある−−これは驚くほどに完璧な技術と教養をバックに作られた、完璧過ぎるまでの中国模倣だ。

こちらは現代に復元された複製の玉虫厨子

写真で見るのとは違って、四枚の絵はまだかなり保存がよく、とても鮮やかに見えるが、その意匠も中国風だしこと捨身飼虎図(釈尊が前世に飢えた虎の母を憐れみ、自らその子どもたちの餌になった、という故事)の物語展開の表現法は完全に中国文明のそれだ。


考えてみたら当たり前のことで、仏教はまず朝鮮半島を経て渡来し、遣隋使・遣唐使以降は中国から直接最先端を学ぼうとして来たのが古代の日本だ。

玉虫厨子はおそらく最初の遣隋使(一般には聖徳太子が、とされているが実際の記録では推古天皇で、日本書紀に太子の関わりの記述は一切ない)以降の作で、半島経由でなく中国の直接模倣を目指したのは自然なことだ。ただそうはいっても、これだけの技術と美的水準で、というのが圧巻であるのは言うまでもない。

「これこそまさに、祈り、信じる力」と言われればその通りだと思う。本当によくもここまで熱心に模倣したものだ。


意地悪な憶測をしてしまえば、日本史の教科書では色あせた、大きさすら分からない小さな写真でばかり紹介されるのは、玉虫厨子が無視できない文物であっても、ちゃんと教えれば中国模倣だと子どもに分かってしまうからかも知れない。


そして飛鳥時代〜平城京の時代までの仏教関連の展示が続く。

中国から輸入された細密文字の法華経(ちなみに日本の右派が極端に忌み嫌う創価学会は法華経信仰だ)、のちに藤原不比等に暗殺される長屋王による般若心経写経(当然、全部漢字だ)があり、奈良県の寺院に伝わる当時からの法具の数々の精緻な加工技術に息を呑みつつ、中国から輸入したのか日本で忠実に作られた模作なのか、素人目には区別がつかない。

唐招提寺の舎利容器(奈良時代)

唐招提寺の舎利容器であるとか、驚くべき工芸の粋であり、完璧に、最高級のレベルで、いやまったく素晴らしい中国模倣ではないか。

東大寺大仏の台座の内部から発見された2本の剣、「陰剣」「陽剣」も展示され、仏教だけでなく道教系の陰陽思想も古代の日本に強い影響を持っていたことが印象づけられる。

虚空蔵菩薩像(平安時代、東京国立博物館蔵)

平安朝の仏教の展示に入ると、東京国立博物館自身が所蔵する至宝のひとつ、国宝・虚空蔵菩薩像など、こちらは絵画が中心になるが、仏やその守護神たちはもちろん元はインド由来だし、そのインド風の姿の細部に中華風の文様などのディテールを繊細な描写で付け加えていることがよく分かる。ゾウに乗った普賢菩薩の絵ももちろんある。

その向い側には奈良国立博物館の地獄草紙と東大寺の華厳五十五所絵巻が展示され、末法という感覚が平安中期以降蔓延したことがはっきり印象づけられ意味づけが深化されている一方で(政治の腐敗と朝廷の堕落を含む)、それに応じて流行して教科書ではこっちばかりが強調される阿弥陀信仰は、宇治平等院の装飾の飛天菩薩二体と、阿弥陀来迎図が一点だけ、といかにもサラリと済ましているところがおもしろい(これが最終室の展示の伏線になっている)。

安倍を奉る昨今の珍妙な右派は、学校教育が「自虐史観」で「日本の真実を教えていない」と言い張って来たが、その認識はある意味で間違ってはいないのかも知れない。 
古代の日本人が仏教伝来から聖徳太子あたりを経て大化の改新、平城京までどころか、太子の時代の第一回遣隋使直後まで程度のほんの短期間で「玉虫厨子」を作れるほどに中国の最先端の様式や技術まで吸収するほど優秀であったことを隠して来たわけで、確かに「不当に日本を貶めた」「自虐」と言われればそれは、その面もある。 

ちなみに聖徳太子の国書が隋の皇帝煬帝を怒らせた、という「無礼神話」には史実的な根拠がなく、古代の日本はそんな野蛮国のように振る舞いはしなかったと考えた方が合理的だし、現に煬帝は返礼の使者をちゃんと派遣している(そもそも太子が摂政だったとしても国書は推古帝名義のはずで、あんなデタラメを学校で教えているのがおかしい)。 

日本は中華帝国を中心とする東アジア文明圏のルールをすぐに理解し、大唐帝国が成立するとさらに熱心にその文化文明を学び、朝貢外交に精を出したというのが「真実の歴史」だ。 


平安朝に入って遣唐使が途絶えて「日本独自の文化」が、というのもまったくの虚偽だ。 
遣唐使という正式国交の朝貢が、唐帝国の内乱と中央政権衰退で出来なくなっても、とにかく中国を学び模倣することと、日本国内の政情が安定しないなかで中国に憧憬と救済の希望を求め続けた「日本人の祈り信じる力」は、むしろ強化されていた。

ここまで平安朝までの仏教美術の粋=古代日本の中国模倣の努力を徹底して見せて、安倍的な自称右派が(単純に意味が分からないとしたら困るが)イライラでもし始めたところで、もちろん日本の信仰は仏教だけでなく古来からカミ信仰があった、と来るのだが、またこの展示室が完全な爆弾である。


いやまったく、もはや「反アホ政府の知的テロリズム展覧会」と呼びたくなるほどだ。


まず沖ノ島で発見された、古墳時代に遡る祭祀遺跡の出土品の展示だが、いやみったらしくわざと日本製と確認される鏡等を中心に見せながら、その形式も文様も完璧な中国模倣であることは見れば分かる(ダメ押しとして、このあと弥生時代の同じ文様の、こちらは中国製の鏡も展示されている)し、解説では中国や朝鮮半島の文物も多いことがちゃんと触れられている。


尖閣諸島問題をめぐる安倍の馬鹿げた暴走が、痛烈に皮肉られていることになる。日本と中国大陸や朝鮮半島のあいだに無数に点在する島のどれをとっても、「古代から日本人が使って来た」ことは言えるが、「日本人だけが使って来た日本固有の領土」と主張するのは、歴史を知らない愚か者だけだ。 
沖ノ島もそうだが、東シナ海も日本海も古代から海上交通が活発で、当然ながらその海を囲むあらゆる国がこうした小さな島を利用して来ていたのであって、「歴史的に昔から日本領」だとということ自体が馬鹿げているのだ。


さらに展覧会は、カミ信仰の起原が弥生時代と縄文時代の信仰文化だとなんの解説もなく「当たり前のこと」として提示しつつ、しかも恐らくは現代につながる「日本人」の祖先である弥生よりは、わざと縄文の土偶に力を入れて東北から出土した傑作を並べ、最後に持って来るのは函館市から出土した中空土偶である。これは非常に写実性が高いスラリとした男性像で、入れ墨をして毛深い身体は、文化的・身体的にどうみても「縄文人の子孫がアイヌではないか」と自然に思わされる。



(実際、文献による確認が不可能で考古学調査もまだまだこれからだが、今のところアイヌの直接の先祖が弥生人の系譜の日本人に次第に追われて行った縄文人だと推測するのが、もっとも合理的な解釈であり、本来の定説だ)


大和朝廷以降の信仰では、あえて熱田神宮の来国俊(短刀)を展示しつつ解説でちゃんと同神宮に三種の神器のひとつの草薙の剣があることを示し、日光東照宮のご神刀の国宗ともども、「刀は武士の魂」という明治以降の虚偽の伝説をちゃんと覆してくれる。来国俊も国宗も、それ自体がある種の「ご神体」なわけだが、刀自体が一種の「カミ」として扱われもして来たのが日本の伝統だ。

そして薬師寺の僧形八幡座像のご登場である。


本来の日本の信仰とは「神仏習合」どころかカミ信仰と仏の信仰が渾然一体(要は人間を越えた存在であれば自然だろうが死者の霊だろうがとりあえず、暴れられても困るので拝む)であり、子の場合は日本の神(八幡とは応神天皇の神格化だ)が仏や菩薩や仏教の神々より格下の僧の姿で現されて来たことをバーンと見せつけてくれるわけだ。

こと平安朝に密教が導入されてからは、世界のすべてが究極大日如来に収斂する世界観のなかで日本の神々は密教の信仰体系にどんどん組み込まれて行った。

後半ではまず歴史文書展示で、たとえば日本書紀の最古の写本(京都国立博物館)はもちろん、すべて漢文で書かれているが、展示部分は中大兄皇子の宮中クーデター、いわばテロ事件である蘇我入鹿暗殺の下りで、わざわざその内容の解説つきだ。

だが「分かる人には分かる」この展覧会のミソは、東寺文書(百合文書)の展示だろう。

まずいきなり目につくのは、わざわざ表装されて保存されて来た足利尊氏による祈祷依頼だ。

これもちゃんと内容解説つきで、尊氏が反乱軍(つまり南朝)退治を表向きでは祈願しつつ、後醍醐天皇の身勝手に手を焼いて、その実うんざりしていた風がちゃんと伝わる。その後に、その後醍醐帝の綸旨が表装など一切されないまま展示されているのだから、日本史の常識さえあればこの展覧会が「なにを言いたいのか」は分かり切ったようなものだ。


東寺は後醍醐帝の綸旨よりも尊氏の祈祷依頼に価値を置き、後者を飾れるように表装して保存して来たのだ。 
ミもフタもなくこの態度こそが「歴史の真実」である。


我々が学校で習っている歴史では、足利幕府初期の天皇家分裂騒動は一応「公平」「客観的」に書かれているが、戦前の「國史(皇国史観)」は南朝正統論で尊氏が「逆賊」だった。今の歴史教育ですらやはり尊氏が天皇に逆らって勝手に別の天皇をたてて将軍になったというようなニュアンスはあるし、南北朝の対立がとても深刻だったかのように思わされている。

だがこの東寺百合文書の展示を見れば、実際がどうだったかがよく分かる。

後醍醐天皇がおかしな無茶を言うから皆が手を焼き、結局は退位させられたのに、後醍醐帝はそれを認めず騒ぎ続け、血統では天皇家嫡流なので無碍にもできず、さて困ったね、というニュアンスがありありで、そして南北朝の対立自体はまったくたいしたことではなかった(後醍醐帝とごく一部の跳ねっ返りが吉野に立て篭っていただけ)、というあたりが真相だったのだ。


考えてみたら当たり前の話である。鎌倉幕府の北条家執権支配は明らかに行き詰まっていたにせよ、だからって武家政権を天皇親政に戻して京都の朝廷の貴族官僚が世の実権を、なんてあり得ようはずもない。 
鎌倉幕府の滅亡は単に武家支配のなかでの代替わり・政権交代に過ぎないのに、それを理解できずに自分の独裁を強要した後醍醐天皇はただの迷惑だ。


つまり、展覧会のど真ん中でこれを持って来たのは、南朝と後醍醐天皇を「正統」とみなしあたかも「忠君愛国」が日本の歴史だか伝統だと思い込んで来た近代の、明治以降の歴史観がおかしい、完全な誤りだ、ということであろう。

順路では文書展示の後になる、鎌倉時代以降の「信仰」に関わる美術と称して展示される国宝群は、もうある意味「むちゃくちゃ」というか「学芸員のやりたい放題」というか、この展覧会の「言いたいこと」のダメ押しの連発だ。

禅宗の僧であった雪舟には国宝指定の作品が何枚もあるが(常設展の方では12月は破墨山水図が「今月の国宝」だ)、ここで見せられるのはその作品中もっとも中国山水の特徴を忠実に踏襲した「天橋立図」で、しかも「最近の研究成果」としてこれが雪舟80代の最晩年の作であることまで明記されている。つまり天才雪舟の到達点も、完全な中国模倣だった、と言わんばかりの話だ。

雪舟等楊「天橋立図」
さらに南宋の禅僧の肖像や、北宋で描かれた孔雀明王図も展示されている(もちろん日本の「国宝」。確定できるだけで国宝の15%が外国製、その可能性が高いものも含めれば4割くらいになるはずだ)。教科書ではなるべく触れないようにしているが、公式の遣唐使が平安末期に途絶えたことに大きな意味はほとんどなく、その後も日本は江戸時代まで常に密接に中国と交易し、中国渡来の文物や知識は常に日本人の信仰や文化で模倣され、崇拝され、大きな影響を持って来たのだ。

法然上人絵伝絵巻はわざと、朝廷権力が法然の一派を弾圧したことを物語る部分が選ばれて、展示されている。

相国寺、玳玻天目散花文茶碗(国宝)

さらに茶道が実は禅宗の文化でありやはり信仰と深く関わっていることを堂々と言い放っておいて、見せてくれる茶器はまず相国寺の鼈甲模様の天目茶碗、もちろんこれは元時代の中国でしか作れなかった逸品だ。

この華やかな中国の茶碗が「日本風じゃない!日本の茶道は侘び寂びのはずだ!」と知ったかぶりをする人は、その次の大井戸茶碗にほっとするのかも知れないが、安土桃山の茶人がもっとも珍重した「井戸茶碗」は、朝鮮人の農村の民具の美を日本で(勝手に)再発見したものだ。

大井戸茶碗、喜左衛門(京都、大徳寺孤蓬庵蔵)

愛国者サマたちへのお情け(笑)に、その次はやっと紛れもなく日本製の茶具として、立派な志野茶碗が展示されているが、これは大商人三井家のコレクションだ(NHKの教養のかけらもない会長が三井出身であることへの皮肉か?三井家は将軍家をもしのぐコレクションを持ち知性と教養の深さで武家の大大名さえ凌駕していた)。

そしてその次が、大阪市立東洋陶磁美術館の至宝、飛青磁花生である。もちろん中国製、元の陶磁器の最高峰の傑作である。

飛青磁花池(大阪市立東洋陶磁美術館)

さらに禅宗や茶道の関係で中国から輸入された絵画や墨跡の展示が続き(もちろん日本の「国宝」)、ここまで見てくればもうはっきりするだろう。


  • 日本の文化と伝統とは、常に中国と朝鮮半島を文化・文明の先進地域とみなして憧れ、そこを忠実に模倣したり多くを学んで作られて来たもの以外のなにものでもない。 
  • その「祈り、信ずる力」とは、その模倣をある意味オリジナル以上に完璧にやってしまう熱意に他ならない。


祈り信じることとはなによりも中国文明を畏怖し模倣することだった、と言い切ってしまった展覧会の最後は、九体の国宝仏像(うち三体はごく最近、昨年の指定)と元興寺の五重塔ヒナ型の展示だが、このダメ押しがまたふるっている。

まず元興寺の五重塔ヒナ型は五重塔の定型の完全な縮尺模型で、各地に国分寺を建てるために使われたと解説されている。つまり中国や朝鮮半島から渡来した建築技術を国内各地で忠実に再現できるように完全に分解可能で、日本の大工が中国渡来の技術をそっくりそのままコピーして塔を建てるためのものだったという。

そしてこの部屋に展示されている仏像のなかでも、もう言いたいことは分かった、とは思っていてもやはり唖然とさせられるのが、法隆寺金堂の四天王像のうちの広目天だ。


こんな広目天は見たことがない。まず顔立ちは、法隆寺西院(斑鳩伽藍)夢殿の秘仏・救世観音によく似ている。


夢殿の救世観音は聖徳太子の写し身だという伝説があるが、はっきり言えば朝鮮半島風の顔だ。

さらにこの広目天は、服装までが後の定型となる中国風に西方とインドの影響を交えた鎧兜ではなく、朝鮮半島の文官の出で立ちだ。

というかこの広目天、顔も、服装も、踏みつけている悪鬼のシンメトリーに形式化された表現も、完全に朝鮮半島風の像である。

その広目天の向かいには京都・三千院の阿弥陀三尊から、脇侍の観音菩薩と勢至菩薩像だが、この阿弥陀三尊は来迎図の機能があるため両菩薩が前屈みになっているのが特徴だ。死者のもとに阿弥陀如来が来迎するのはもちろん西方から、つまり中国の方角だ。

そして大トリが、法隆寺金堂の広目天同様に昨年に国宝指定となったという、快慶の「善財童子」と「仏陀波利」だ。


鎌倉彫刻の最高峰のひとつなのは間違いないが、この二体は「渡来文殊」五体の一部だと言うのだから、もう大笑いである。

「渡来文殊」とは、乱れた日本の国に知性の象徴の文殊菩薩が正しい教えをもって中国から救済のため渡来する、という伝説であり、インド人の少年と老人である善財童子と仏陀波利は、その中国から正しい知性を伝えに来てくれる文殊菩薩のお供なのである。



さて、安倍晋三さんやお取り巻きのオトモダチたちの誰かは、この “日本の文化と伝統の粋” を集めたすばらしい国宝展をちゃんとご覧になったのだろうか?いや「愛国者」なんだから見なきゃいけないでしょう? 
唯一心配なのは、安倍たちが単に愚かであるだけでなく、昨今の若手の右派・保守気取りも含め、「次世代の党」の若手候補であるとかにしてもたいがい単純に驚くほど無知無教養でマンガしか知らないから、さっぱり意味が分からなかったりして…。

12/05/2014

男の覚悟、女の決意(小沢一郎と森ゆうこの場合)


ニッポン稲作の輝かしい伝説・魚沼コシヒカリの産地であり、戦後日本政治においてもいわば伝説の選挙区「新潟六区」、田中角栄元首相のかつての地盤から、今回の衆院選では田中家の系譜の立候補がない。元外務大臣の角栄の長女、真紀子氏は選挙に出なかった。

田中角栄の政治的系譜、かつての自民党の保守王道はもう20年くらい前から自民党をどんどん離れて行ったわけだが、田中元首相が最後にもっとも目をかけていたと言われる小沢一郎氏の率いる「生活の党」にとって、ここは真紀子氏とのつながりもあって「勝てる選挙区」であると同時に、民主党から追い出されたあとジリ貧の同党にとっては「落とせない選挙区」のはずだ。

ところが選挙戦が始まって驚いた。

生活の党から新潟六区で立候補したのは、かつて民主党の新潟選出参議院議員で、小沢氏と共に同党を離れた森ゆうこさんなのである。

日刊スポーツの報道
森ゆうこ氏の公式サイト 

驚くと同時に納得も感心もするが、正直に言うと少し呆れる。いくら小沢一郎氏と森ゆうこさんだからって、ここまでバカ正直に、政治的には(というか日本の政界的には)自殺覚悟とすら言われそうなことをやるのか?

つまり生活の党はこの選挙区に、あえて田中家や小沢さんの出身母体である旧田中派・経世会の系譜だと分かる候補、今でも地元では絶大な人気を誇るはずの戦後日本最大の政治家にあやかった人を立てた方が勝てる、という誰でも当然踏襲するはずの定石、いわば「永田町の常識」を完全に無視し、ある意味これまで小沢一郎の政治的な生き方の一部であった政治的な計算すら否定したのだ。

ただし、これだけは確認しておいた方がいい。 
小沢一郎がこれまで時に「豪腕」とも言われ権謀術数の政界における「数は権力」の論理で勝ち抜いて来た時もあったのは確かだが、小沢にそれが出来たのは単に「頭が良かったから計算ができた」だけであって、小沢にとってそういうことが「得意」だったからではまったくない。 
むしろ出来る出来ないとは別次元で、そういうことは小沢にとって「嫌い」だし「苦手」でもあった。

これは小沢一郎にとって相当な覚悟を持った決断だったろうし、それをしかと受けとめた森ゆうこさんの決意もまた、並大抵のものではあるまい。

森ゆうこさんは「女性政治家」としてマスコミがちやほやしたためしがないが、考えてみたら不思議なことである。

民主党参議院議員だった当時の森ゆうこ氏の議員会館の部屋

きれいだし上品な人で、なにより理路整然と弁が立つので国会質問で活躍して来た人だが、毅然とした態度で政府答弁を問いつめる姿は…民主党政権が菅、野田の代になったときには、野党よりも与党の森さんの方が鋭く政権の問題をついて来ていて、国会中継を見る女性の多くが「かっこいい」と思って来た。つまり普通なら民主党きっての論客として、見栄えがすることも含めてメディアでひっぱりだこになっておかしくない。

森ゆうこ参議院議員(2012年当時)

逆に言えば森さんがそれでもメディアで人気の女性政治家にならなかったのは…

…うん、不思議だねえ…

いやメディアの皆さんが「かわいい女」ならいいが「頭がいい、かっこいい女」は敬遠して来た、という男尊女卑の女性蔑視だっただけでミもフタもないわけだが。

森ゆうこさんには一度、議員会館でお会いしたことがある。僕の会った限りでは、国会議員ではちょっと珍しいタイプの人だ。

知り合いに言われて、ある種の「小沢ファン」の退職後くらいの年齢の皆さんに若造一人が興味本位で混じったようなものでいささか失礼だったが、直接お会いするとまず普通にきれいな人だった。そしてすぐ気づいたのは、頭がいい、ものすごく頭の回転が早いし勘もいい、感受性もシャープだ。

だがその「頭のよさ」は決して、いわゆる永田町的なものではなかった。

回りくどいことが一切なく、興味関心の向き方がストレートなのだ。永田町の論理では、支持者のなかでも歳上で偉そうな人のヘソを曲げるようなことはやってはいけないのは言うまでもない。だが森ゆうこさんにはたぶん、そこを一生懸命に気に出来る回路が本能的にないのだろう。

実は「世間の常識」や「永田町なら当たり前」に反して、この時に結局森ゆうこさんは、「支持者」である他の人よりも彼女の話に応じて質問をぶつけて行く新参者の僕と(まあいちばん若い男性だったのも含め?)、結局はいちばんよく話をしていた。

型通りを重んじるのではなく、ちゃんと真面目に中身がある話をすることが優先される人なのは、その時によくわかった。頭がいい人にありがちで、相当に素直で裏表がない(というか裏表をいちいち作るのが面倒くさい、無駄、と思っていそう)

あと頭がいい人に特有の癖と言うか欠点も−−下らない話を聞くと顔に出る(記者相手に怒り出してしまう小沢さんよりはマシだろうが)

実を言えば柏崎苅屋原発を地元に抱えて原発反対と放射能防護を気にかけていた森さんと、『無人地帯』をベルリンでプレミアした後に一周年で浜通りに行って来たばかりの僕とは、同じ「原発は止めるべき」でも意見が合わないところも多々あったし、いかに森さんも含めて菅、野田執行部には批判的であっても、僕は当時の民主党の対応についてそれでも周りの顔が青ざめるようなことも相当に言っていたし、こと小沢一郎その人についても、震災後まったく動かなかったことには相当に批判的だった。 
森さんは僕のその意見を聞いても、言い訳めいた説明や憶測の小沢擁護は、一切言わなかった。

いやつくづく小沢一郎は腐っても小沢一郎である。

彼の選挙手法を「ドブ板」とよく言うが、そこでイメージされるような「ドブ板」なら、こういう森ゆうこさんをいきなり新潟六区にぶつけたりはしまい。

いやそれは、単に東京のメディアがいわゆる「ニッポンの田舎」をまったく理解しないまま小馬鹿にしているせいに過ぎないのでもあるが。

世間は小沢という人をまったく理解していないので「なんでこんなに分かり易い人のことが分からないの?」とトンチンカンで必ず予測が外れる記事とか報道にいつも首を傾げて来たわけだが(たとえば福田康夫政権時代の「大連立」話をめぐる話はこちら。メディアの予想と正反対の、僕が予想した通りの結果になった)、今回のこれも、いかにも永田町的にはあり得ない話であると同時に、いかにも小沢さんらしい話だ。

いやもうあっぱれなくらい「ああやっぱり、小沢一郎は小沢一郎なんだねえ」としか言いようがない、よくも悪くも。

小沢一郎と、あと鳩山由紀夫元総理には、ほとんど誰も指摘しないがある致命的な欠点があるし、それは森ゆうこさんにも多分共通している。 
育ちがいい、というか人がいいのである。 
鳩山さんがその点ではもっとも度が越していると思うが、「金持ち」というよりは子どもの頃の周囲の環境がよかったのか、「人の悪意」というものに驚くほど鈍感な時がある。小沢さんの場合はまだ「頭のよさ」でカバーしている面が相当あるとはいえ、それでも世の「悪い人」や「悪意」を理解する回路がそもそも欠けているのではないか? 
鳩山さんは総理の座を追われた後、「周囲の話を聞き過ぎた」ことを反省していたそうだ。普天間基地移転をめぐるごたごたを巡って、鳩山さんは官邸の官僚だけでなく同じ党の盟友のはずの側近までが自分を騙してハメようとしていることに、どうもまったく気づいていなかったそうだ。 
そんなもん徳之島移転案が突然メディアにリークされた時点で、ハタ目にも一目瞭然だと思うが。 
小沢さんだってその辺りは同罪で、次の首相になった菅直人氏や野田佳彦氏が自分のことも、国民との公約も、最初から裏切るつもりだったなんて想像もつかなかったろう。

かしいくらそんな小沢さん、実は恐ろしく純真で真面目な理想主義者だからって、ここまでやっちゃまずいでしょう?あなたいくらなんでもどこまでバカ真面目にお人好しなんですか、とこの人の性分を承知の上で、それでも言いたくなってしまう。

森ゆうこさんの場合は、それはもう「強い女性だから」で終わってしまいそうだが。

新潟六区はこれまでがらっぱちな田中真紀子氏の地元だったところで、その意味では「強い女」に慣れているかも、とは言っても真紀子氏は角栄の「わがままなお嬢さん」の型破りが許容されて来たのだろうし、「女が生意気な」とみなされがちな彼女を、角栄氏自身の選挙母体だった越山会が必ずしも氏を支援して来たわけではない。

今回は完全に自民党側だ。

まあ越山会に支援された候補が「アベノミクスの恩恵を新潟にも」とか演説しているらしいのは、ああ堕落したもんだ、としか言いようがないんですけどね。 
その「恩恵」で今年は米価がいきなり3割下落だとか、いくら越山会が今でも強力な集票力を持っているのであろうにしたって、傲慢過ぎるにも程があると思うのだが。

ステレオタイプで言えば“新潟の山の中”のような“田舎”はそれこそ「男尊女卑」、しかもそこにぶつけてくるのが良妻賢母か主婦イメージでもなく、自民党で増えている場末のホステス風けばけばしさでもない、勝ち気だが知的な「普通の女性」の森ゆうこさんを、それも「田中角栄の最後の弟子」である小沢一郎が、その角栄の選挙区に立てた。

小沢さんは森さんを

「選挙区の地元のみなさんが何を悩み、何を困っているのか。直接会って、胸にたたき込み、地元に根を下ろした政治家になれ」

と説得したらしい。森さんも第一声で、新潟六区を田中角栄の選挙区だけでなく、戦前は日本農民党の活動家で議員、戦後は社会党の議員を務め、日本育英会を実現させた功労者としても知られる三宅正一の選挙区として語ったという。

いや改めて気づいたのだが、魚沼コシヒカリの産地はお米だけでなく凄い土地だったのだ。角栄と三宅正一、ある意味両極のようで双方に補完し合う、日本が本来向かうべきだった道筋が、この選挙区にはあったのか。

これはふたりとも本気だ。

その本気さの意味を報道できないのなら、日本のメディアの政治報道、選挙報道の質はもうどうしようもなく低下している、と言わねばなるまい。

またここまである意味「ちゃぶ台返し」というか、既存の政治的常識をすべてかなぐり捨てたような「純粋な理念」しかない闘いをあえて選ぶべきであるほど、日本の政治は骨の髄まで腐ってしまっているとも言える。

11/15/2014

安倍政権の「外交的勝利」と「解散総選挙」


日本憲政史上、前代未聞の珍事だろう。

衆議院の解散を決めることは総理大臣だけが持つ特権のはずだ。その総理大臣が連続外遊中で外交に専念している(はずの)あいだに、なぜか12月に解散総選挙が既定路線になっている。

高度情報通信の時代に、物理的に国内にいないからと言って連絡を密にとることはいくらでも可能とはいえ、そんなことに気をとられて外交は大丈夫なのかよ、と心配になるところだが、APEC会議で先頃やっと北京で行われた日中首脳会談は安倍政権の「外交的勝利」なのだそうで、孤立した韓国が「反日外交」をやめるのも時間の問題だそうだ。

ミャンマーで行われている東アジア諸国会議では、安倍首相は果敢にも中国の南沙諸島における開発計画に「法の支配」を尊重すべきだと牽制したそうだ。

法の支配ねえ…。 
南沙諸島はヴェトナム、フィリピンが領有権を主張して、実効支配する中国とのあいだで小競り合いが起こっているが、「法の支配」ならば日本の尖閣諸島に関する主張と同様、実効支配する中国にとっては「領土問題なぞない」が公式見解であって法的には問題がなくなるのだが。
日本国内で尖閣諸島の所有権を当時東京都知事だった石原慎太郎が買おうとしたときには「日本国内の経済取引は我が国が関知するとことではない」が中国政府の態度だったが(ちなみに慎太郎が買っていれば、仮に中国が尖閣諸島を領有してもその所有権は尊重されるのが「法の支配」である)、それが「法の支配を尊重」のはずだ。

中国が尖閣諸島を問題にしたのは、2010年に(日本の国内法によれば)領海侵犯の違法操業をしていた漁船を日本が拿捕し、その船長を法定拘置期間が過ぎても監禁し続けた(これは日本の国内法でも違法)末に日米外相会談、首脳会談の結果、釈放となった時と、2012年に野田首相(当時)が尖閣諸島を国有化すると言い出し、しかも「法の支配」云々と中国を挑発する国連演説をやってしまった時以降今までだけだ。

いや「法の支配」つまり公平客観で言えば、「中国が問題にした」のではなく「中国政府が無視できない問題を日本政府が引き起こし、中国政府が対応を余儀なくされた」と言った方が正確だ。

この野田政権の時点で、尖閣諸島をめぐる日中のいさかいは中国外務省が即座に報道官が「戦後の世界の法秩序は第二次大戦の結果に基づく」とコメントしただけで決着がついている。

習近平に政権が交替したあと、中国は自由民主党の重鎮・野中広務氏をわざわざ招き、氏がその側近であった田中角栄と周恩来のあいだで日中国交回復時に「棚上げ」合意があったことを確認した。

つまり立場上の建前はともかく、中国側は日本が実効支配する現状を問題にする意志がないことを、明白にしている。

どうも最近日本でのこの言葉の使い方がヘンなのだが、「国益を重視」「国益を優先」とは、周恩来が「棚上げ」を提案したようなことを言うのである。 
国家のおおやけの立場、つまり建前上は、歴史的な経緯からして中国政府は(中華民国つまり台湾と同様)尖閣諸島の領有権を主張しなければならない。 
だが日中の国交を回復し、日本との経済交流で中国の産業経済を促進することの方が中国の国益だったし、しかもいざ日本に尖閣の領有権を放棄されてしまえば、今度はこの無人島群が北京と台北の衝突の火種になる。 
ならば「棚上げ」の方が国全体の利益になる、というのが「国益を重視」だ。 
体裁としてはまったく格好のつかない妥協でも、その体面よりも国益が優先されたわけだし、習近平政権はわざわざ野中氏を招いてまでそのことを改めて確認したのだ。 
これで日中関係の政治的硬直が続く理由はなくなった…はずだったが、なんとその日本に一方的に有利な「棚上げ」密約の存在を、自党の大先輩が裏付け証言までしているのに、それでもわざわざ閣議決定で再否定したのが、安倍政権である(2010年当時の民主党の菅内閣が出した同様の決議に負けてはならぬ、とでも言うことなのだろうか?)。

同盟国のアメリカは早々に、2012年どころか2010年の「船長」騒動の際に「両国の主権問題に我が国は関与しない」として日本の味方を拒否したし(その首脳会談の翌日に船長が釈放、米側は国務副長官が「菅直人首相の高度な政治判断」を賞賛した)、ちょうど2年前に野田政権がいきなり自爆解散して退陣した真の理由も、日中関係を硬直化させた野田首相にオバマが愛想をつかし、再選祝いの電話すら受けるのを拒否したから、である。

野田による解散は、その午後の党首討論でいきなり口にされた。

民主党内ではすでに野田を退陣させ細野豪志氏を後任首相にして、党を離れた小沢一郎らを呼び戻し、細野首相で中国とも話をつける動きが進行しており、当の与党のそんな選挙準備すらまったく出来ていない総選挙は、当然ながら民主の惨敗に終わった。
この年の夏に東京で行われたIMF総会に、尖閣諸島問題を日本が硬直させたままでは中国の閣僚レベルが参加できなくなった時点で、世界は呆れ、オバマ政権は激怒していた。 
それも当然だろう。ユーロの通貨危機がささやかれる中、それでなくても今の世界で、中国抜きにIMF総会なんて考えられない。リーマン・ショック以降の世界経済をなんとか支えているのは、巨大な中国経済の力強い成長だったし、この時にユーロ危機を回避できるのに使えるマネーは、中国と日本の保有する外貨準備だった。

安倍と習近平の首脳会談を実現させるのに奔走したのは、福田康夫元首相だったそうだが、その裏にはむろんアメリカのもはや公然たる圧力と(日中会談に先立ちアメリカ政府は、国務長官と副大統領が、これからのもっとも大事な関係は米中関係だとさかんにアピールしている)、このままでは日本が外交的に完全に孤立することについての福田さんも含めた政治や外交が分かる人たちの危機感があったし、中国としても日本との関係が悪化し続けることは大きなリスクを伴う。

急成長する中国の産業の主力は、電気機器などの最終組み立て工程では日本製の部品が欠かせないし、日本企業の多くが中国に工場を持ってもいる。

たとえばユニクロの服だとかみなさん多少はお持ちだろうが、日本ブランドであっても製造国の表記を見て欲しい。 
主力商品でデザインがいいぶん裁断や縫製にそれなりの技術が必要な、ある程度高級なものや新しい商品のほとんどが「Made in China」、他に比較的シンプルで以前からの定番デザインのTシャツなどにカンボジア、バングラディッシュ、ヴェトナム、インドネシアなどの国名が見つかるだろう。

いや危惧しているのは中国だけではない。日本経済が風邪をひき、日中の経済取引が滞れば、世界経済が肺炎を起こすとすら言えるのが、今の世界の実情である。

日中の経済取引は、二国間のものでは世界最大規模の取引きのひとつだし、しかも外貨準備高などがいちばん多いのがこの二国だ。2012年のIMF東京総会は、まさにこの両国のマネーでユーロ危機の解決を図るのが本来の目的だったはずが、中国の閣僚級出席が不可能になった結果なにも決められなかったのである。

逆に言えばこの2国間の経済交流に障害が出ることは、リーマン・ショック以降不安定な迷走を続ける世界の経済にとって死活問題になりかねない。

言うまでもなく、日中の経済取引は日本経済にとっても死活問題だ。

わざわざこうも国益に反すること(「国益」とは国家の体面やメンツに関わる、たとえば「無人島の領有権」ではない。ベタに実際の利害、主におカネと商売の話だ)をやり続ける安倍政権は、世界から見れば「不思議ちゃん」でしかない。

筋も通らず、国益に合致するとも思えない、安倍政権の非常識な外交は安全保障理事会で経済制裁が議論されてもおかしくない類いの話だ。

たとえば靖国神社参拝など、第二次大戦中の日本を正当化するとみなされる行為は普通の国ならまったく許容されず猛然たる批判を浴びるし、慰安婦問題に関する不誠実な対応も同様だ。 
「集団的自衛権」や改憲論議と、それらをめぐる安倍の発言に至っては、普通なら露骨な戦争挑発行為として危険視される

にも関わらず、日中関係や日本の外交がまだそこまでは決定的に破綻していないのは、ひたすら日本が今でも世界経済を支える経済産業超大国だから、である。

だから今まで安倍は駄々を通し続けて来れたわけではあり、世界が根負けして筋の通らないわがままでも聞いてくれた結果の「外交的勝利」と言えば、まあそうなのかも知れない。

もっとも、首脳会談の中身からして、真相は違う。

安倍はわざわざ記者団に、習近平が「一回目に会うのは他人どうしだが、二回目以降はもう友人だ」と言ってくれたと自慢げに吹聴したそうだが、むしろ先方が余裕の大人の態度で配慮してくれた、ということに気づけないのだろうか?

国内ではテレビの第一報でのみ検閲カットがなくて報道され、その後はまったく伏せられているが、ホスト国が中国だというのに安倍は首脳会談の会場で習主席が来るまで待たされている。

「首脳会談」といっても通常の公式会談の体裁すら準備されず、双方が閣僚らを従えてテーブルを挟んできちんと議論を交わすのではなく、ソファに座らされて「表敬訪問」レベルの「懇談」扱いでしかない。その上、習主席が日本側の通訳官を露骨に無視する態度すら見られた。


決まったことは双方の領海に関することについての連絡を密にする体制の構築と外務省発表を通した報道では言われているし、その前に外務省は尖閣諸島について日中両国が「異なった見解を持っている」ということを、首脳会談の根回し段階で公式に発表させられている。

それは事実としては当然そうだろうとはいえ、日本が公式に領有権があると言っている以上、公式な発言はあくまで「我が国固有の領土であり主権の範囲、問題はない」でなくてはならないはずだ。

いかに国益に関しては微妙でも、国家の体面は国家の体面であり、公式の外交の場では形だけでも守られなければいけない体裁なのだが。

それどころか、この文脈で海上連絡メカニズムを構築、というのは、尖閣諸島とその周辺海域について中国政府の権限を一定レベルにせよ認める、という意味にしかならない。 
尖閣諸島の支配権と警察権の執行は、あくまで日本政府でなければ、それこそ「日本の主権を侵害」になる。

安倍は靖国神社の問題が議題にならなかったことで「外交的勝利」と胸を張っていいとでも、思っているのだろうか?

尖閣諸島に関する妥協と引き換えに靖国参拝、つまりどうも彼にとっては「日本の名誉」であるらしいただの自己満足を押し通した気分でいるのかも知れないが、中国側からすれば「そんなことは言わずもがな」の大人の態度であろう以前に、そもそも日本の戦争責任の問題は日中の二国間の問題ではないし、安倍の就任後の日本をめぐる国際政治の現状では、歴史問題は日本対世界の対立になっている(ということを、二国間の首脳会談ではあえて言及しないことで逆に巧妙に明確にさせたのもまた、習政権の「大人の態度」である)。

たとえば慰安婦問題や戦争責任に関することは、最初から世界に対する日本の誠意と信頼の問題だ。 
その信頼を損ね続けているからこそ、国連人権理事会人種差別撤廃委員会でも問題にされているだけでなく、現に安倍の靖国参拝は中国以上にアメリカ合衆国が大きく問題にし、駐日大使館に「日本の現政権に失望した」という異例の声明まで出させているではないか。

その上で「一回目は他人だが二回目以降は友人だから」というのは、はっきり言えば「もう観念して、馬鹿なことはやめるよね」という意味の慇懃無礼でしかない。首脳会談に至る経緯や、外交儀礼では異例の相手国をあからさまに軽んじる態度からすれば、そうとしかとれない。

日中首脳会談における習近平による安倍の扱いは、それほどに侮蔑的、日本側からすれば屈辱的なものだ。

ホスト国が相手国を待たせて後から「やあやあ」と言って出て来るなんて、本来なら政権の「国辱外交」に左派からすら批判が上がってもおかしくないレベルの、双方に最恵国待遇を確認しあった独立国どうしではちょっとあり得ない扱いなのだ。

ところがこれまで中国のこととなると過剰反応なまでになんでも批判的な報道に熱中して来た日本のメディアは、ほとんど論評を避け、今回に限っては中国政府を批判しようともしていない(批判して当然のネタがあるのに)。

いったいどういうことなのだ? 
中国の民間漁船がやっている違法操業ではさんざんあり得ない憶測で中国政府に筋違いな悪口を言い続け、民間のいわゆる「反日デモ」を政府の差し金だと決めつけて来たのに、中国政府それ自体が明確な態度として示したことは、なぜ問題にしないのか?

そこへ日中首脳会談への評価のまとめも出る余裕もないまま、突然の「解散風」だ。

ことテレビのワイドショーやニュースはもはや「解散」一色。結果、首脳会談や安倍外交について論評する「識者」が出て来る余地はまったくない。いやむしろ、それが出て来ないようにしているとすら見える。

そもそも与党が史上最大の議席数を衆参両院で確保していて、それをバックにした決定力が売りのはずの安倍政権だというのに妙な話ではあり、自民党内ですら長老連から「大義がない」と批判が上がっている

これが野田時代から継続する安倍政権の度重なる外交の失態、安倍がこれまでの外交方針を完全に方向転換せざるを得ない立場に追い込まれたことを報道させないための話題作りの解散だとしても、まったく驚かない。というか、それ以外に解散をする理由が見当たらない。

現有議席を越える選挙結果がさすがに期待出来ない以上、今選挙をやっても与党にも政権にもなんのメリットもないと考えるのが普通だ。

しかも確実に選挙に響く消費税の10%への増税まで控えているのに、安倍がいかに「先送り」を突然主張し始めようが、選挙民はそう簡単に騙されたりしない。強いて言えば、それでも投票する先の野党がない、ということしか、自民党にとって今選挙をやる勝算はない。

いやむしろ、これからの消費税増税もある、アベノミクスの失速(これは時間の問題だった)が年末にかけて数字で明らかになるだろうし、極度な円安で高騰する資源や食糧などが経済どころか企業の業務や国民の生活まで圧迫しはじめていて、その上これまで安倍が一部の熱狂的支持を集めて来た極度に人種差別的な、周辺諸国への敵意に満ちた東アジア外交も、この日中首脳会談で明かに転換せざるを得ない(つまり安倍の外交は明白に頓挫している)。 
これら選挙にとってのマイナス要因が明らかになる前に、とっとと解散して当選できれば、任期が延びるぶんまだ新人議員などは安心できる、ということなのだろうか? 
現にベテラン勢が呆れて難色を示す中、自民党内では若手・新人を中心に解散を支持するものは多いそうだ。

APEC会議の晩餐会では国名アルファベット表記に基づく席順でJapanとKorea、つまり安倍と韓国の朴大統領が隣合わせになって言葉を交わしたとか、日韓外相会談が行われ今後は定期的に会談を続けることが決まり、それを日本のメディアでは「韓国が孤立を恐れて日本との関係改善を求めている」と報じている。

だが、韓国・朴政権は最初から、日本との関係を絶つようなことなどそもそもやっていない。

この政権は植民地支配についてすらほとんど問題にしない態度すら明確にしていて、唯一要求しているのは(朴大統領の父・朴正煕にも戦中・戦後を通じて一定の責任がある)慰安婦問題とその被害者への誠意ある対応だけだ。今年の光復節(独立記念日)の演説でも、慰安婦問題だけが懸案であると大統領は明言しているし、日韓外相会談でその韓国側の態度が変わることなど、期待する方がおかしい。

もちろん韓国政府にも抜き差しならぬ弱みが、国益上はある。

中国にとっての日中関係と同様、日本との関係が自国の経済にとって決定的に重要で、だから悪化させたくないし、とりわけ日本が安倍政権になってからの異常な没交渉は、いつまでも耐えられるものではない。

まあ日本を諦めて取引先を他所に求めることは出来るが、日本の経済界とのこれまでの信頼関係をそう簡単には裏切りたくないのが、東アジア世界の倫理というものだ。

東アジア圏が安定した友好関係で維持されることは、その地域のどの国にとっても重要な国益だ。凋落の激しいヨーロッパ(EUとユーロは失敗だった、というのが支配的な見方になりつつある)やオバマもどうにも腰砕けで安定成長路線には回復しそうにないアメリカに変わって、日中韓を基軸にする東アジア・東南アジア経済圏が今後の世界を引っぱって行きたい、という野心もある。

それに日本だけが勘違いしているが、中国でも韓国でも、国民は基本、日本が大好きなのだ。


「中国人は反日だ」という印象操作を日本の大手メディアがやり続け、国民もかなりの部分が洗脳されてしまっているのとは裏腹に、一時は日本の反中国感情を恐れて減った中国からの観光客は、この夏頃から目に見えて激増しているのが、東京で生活していれば目につくはずだ。


銀座も新宿も、中国人観光客だらけである。

それも尖閣諸島の問題化の前の中国人観光客とは、客層が明らかに変化しているのが、服装を見ても、行く店を見てもわかる。

ほんの数年前、銀座にアジア地域本部を抱えるエルメスの関係者から、「アジア本店はここではなく上海に建てるべきだった」と言われたことがある。エルメス銀座の売り上げのもっとも大きな割合が、中国からやって来る富裕層の観光客だったそうだ。



レンツォ・ピアノの革新的構造設計を採用した結果、日本の建築許可が降りるまで完成が何年も遅れたこの銀座エルメス・ビルは、そのせいで出来上がったときにはすでに賞味期限が近づいてしまったのかも知れない。



当時は銀座に乱立する高級ブランド店に、富裕層の中国人観光客が殺到していたのが、今年の中国人観光客が押し掛けるのは、銀座ならユニクロの銀座旗艦店や、せいぜいが有楽町の無印良品だ(ただこっちは西欧や米国人の方がまだ多い)。


新宿でビック・カメラとユニクロが共同店舗の「ビックロ」を構えたのは、大変な先見の明の勝算だったことになる。

今や数寄屋橋から成田や羽田の空港に直行する格安バスに、銀座のユニクロで最後のお買い物を終えた中国人観光客が行列している。


つまり、今や中国からの観光客の主流は、実はちょっと余裕ができた中間層である。

中国の(というか中国に限らずアジア圏の)若者にとってのファッションは、今ではエルメスやシャネルやルイ・ヴィトンの成金ブランドではなく、安価でおしゃれで手入れも楽なユニクロや無印なのだ。それが安倍政権の押し進めた急激な円安というチャンスで、さっそく前から来たかった日本にやって来たのであろう。


この辺りはユニクロがさっそく目を付けて、「NIPPON OMIYAGE」なる観光名所をポップなデザインにアレンジしたTシャツのレーベルまで立ち上げて、こと中国人観光客の多い新宿などでは、かなりの専用スペースまで作っている。


日本のメディアはこれまでの報道が間違っていたと言うわけにもいかず、中国人観光客のV字回復を報ずる記事でも、「ドラマなどで見る悪者の日本人」を一生懸命に前提にしようとしているが、寝言は寝て言え、としか言いようがない。


70年代の日中国交回復を経て、80年代には鄧小平体制化で中国は日本企業の工場や共同事業を積極的に誘致している。

働く先が日本企業や日中合弁企業であるだけではない。

日本のコンビニもたいがい中国を始めアジア各地に進出し、大都市に行けば日本のデパートやスーパーも支店を出している。過去は過去の歴史として、40代以下なら日中国交回復後、30代なら「日中友好」が盛んにスローガンとして唱えられた時代に育っていて、現に身近には日本からの商品やサービスが「高級でおしゃれなもの」として生活に溢れているのだ。


この手の報道では今でも、日本に来る観光客に「炊飯器を買う」と言わせているのもウンザリする。

実を言えば銀座で中国人観光客がもっとも集中していそうな店は、アップル・ストア銀座だ。


iPhoneでもiPadでもMacでも、ITデジタル機器はむしろ日本以外のアジアの方が、生活必需品度が高いほどなのである。

元から言論の自由が保証されておらず、公的メディアが信用できない、と思っているのがデフォルト設定なのが中国人である。 
たとえば今や中国を代表する映画作家になったジャ・ジャンクーの最新作『罪の手ざわり』は、マスコミでは報道されずSNSで広まった事件を題材にしている。 
中国版ツイッターなどは、日本でのツイッターで大手メディアの新聞記事のリンクがさかんに引用されるのとは比べものにならない、重要なニュース装置になっているし、政府がブロックをかけていると言ったってVPNで回線を迂回させて(これは簡単だし、取り締まりはまず不可能だ)フェイスブックやツイッターで情報を得ている中国人も多い。 
日本人と違い、中国人はそもそも政府の発表やそれに基づく大手の報道を、話半分にしか信じていない。頼りになるのは口コミのうわさ話や裏情報だから、SNSやネットの需要度は当然高まる。 


それにしてもアップルなら国際企業なんだから製品は中国でだって買えるし、価格は世界中でだいたい同じくらいになるように各通貨で決められている。わざわざ日本で買うこともないだろう、と思ったら、今はそうではないらしい。

考えてみれば当たり前のことで、今年に入っての中国人観光客の激増の背景には、安倍の押し進めた急激な円安がある。

日本ではドルに対する円の価値しか報道しないが、中国元に対してはそれ以上に大幅な円安なのである。アップルの価格設定が追いつかない限りは、MacもiPhoneも日本で買った方が安い。


「日本は輸出企業が多いから円安は日本に有利」という思い込みは、せいぜいが1980年代までのものだ。なのに日本のメディアは、日本の円安で韓国が焦っているなどという数十年遅れの世迷いごとを一生懸命報じている。だが国際為替市場の当たり前の常識として、自国通貨が強いことは、それだけ多くの外貨建ての商品が買えるぶん、経済的に有利になるのだ。


さっきから何度もユニクロの例を出しているが、ユニクロの服のかなりの部分が製造国は中国である。

その服を中国人観光客が、日本の標準でいえば安価とはいえ中国の物価水準ではかなりのお値段で、それでも円安のチャンスに買い込んでいる。それが21世紀のグローバル経済の構造なのだ。

今さら円安で価格競争、と言ったって中国でも東南アジアでも工場労働者は確実に増えていて慣れて来てもいるし、そして人件費は物価水準からしてずいぶん安い。そこで価格競争をやるなんて無理があり過ぎて、なんの現実味もない。

何度も繰り返すが、ユニクロの製品は大部分が中国製だ。80年代末から90年代に、無印良品が日本の良質の素材と高い縫製技術と品質管理で、それまで安価で良質な下着など日用品がほとんどなかったヨーロッパを驚愕させたのとは、時代が違うのである。


法人税減税や、企業の設備投資優遇策を打ち出しても、その工場は日本国内はほとんど作られないだろう。大手企業が直接経営する最終組み立て工場であるとかは、中国や東南アジアに作った方が経営上合理的なのは、理の当然だ。

実際には金融緩和と恣意的な円安誘導以外に目立った施策がない「アベノミクス」は、円安で海外での儲けを換算した場合の円建ての決算の数値があがる、必然的に海外の市場と連動している日本の株式市場で、ドル建てならおなじ株価でも日本円に換算したら株価が上がったことになる、という効果しか基本的にはない。


いわば市場操作の時間稼ぎとしては有効な策でも、2年近くもそれだけをやっていれば、むしろデメリットの方が多くなる。

今年は農業分野では米価が3割減という衝撃の数値が出てしまっているが、いかに「食糧安全保障で自給率を上げよう」と机上の空論を振り回しても、農家でもトラクターの燃料も、肥料も、家畜の飼料も、その多くが輸入品である。急激な円安で輸入販売企業がその価格を上げざるを得なくなるのは時間の問題で、つまりアベノミクスでたとえば農家の経営はいっそう圧迫される。

発電用原子炉がすべて停止している現状で、火力発電が主力になっている電力会社の経営に関しては、今さら言うまでもない。これもいずれ、電気代に転嫁されざるを得まい。


日本は未だに、世界のなかでは途方もなく豊かな国だ。

経済規模が中国にぬかれて世界第三位と言ったって、向こうは人口が10倍、アメリカ合衆国も世界では数少ない億単位の国民がいる国で、日本より多い約2億だ。そしてアメリカとも、急成長後の中国とも異なり、日本はそれほどの社会格差がまだなく、治安のよい安定した社会を辛うじて守っている。義務教育が徹底され識字率が世界一の99%近い、というのも大きなメリットだ。

安倍政権の前は円高だったのも、リーマン・ショック後に不安定化した世界の主要通貨のなかで、円だけは信頼できる、安定した通貨だとみなされたからであり、その背景には日本経済が安定している、日本の財政も実はまだそこまで危機的な状況ではまったくなく日本の国債が暴落するようなことはまずあり得ない、という理解が世界のマーケットに浸透していたからだ。

これらはいずれも、直接に通貨には換算されないところでの、日本の富だ。

円安になったら中国人が喜んで憧れの日本に来るのもまた、そうした日本の富だ。


第二次大戦の惨敗から平和国家として復興を果たし、戦争は一切やらずに、資源のない国が勤勉さと知恵で世界でもっとも豊かな国のひとつになったことへの世界中の、とくに発展途上国や新興国からの深い敬意も、日本が持っている大きな富なのである。


だがバブル崩壊後もう20年以上、ひたすら目先のマーケットの数値を上げることにこだわり、もともと経済政策の失敗であったバブルをもう一度夢見るかのように国民を煽動することしか出来ず、今や急成長した周辺諸国に人種差別丸出しの敵意さえ剥き出しにしてしまう日本の政治は、そうした日本が持っている無形の大きな富を、どんどん食いつぶしている。


総選挙とは本来なら、そうした現状を打破する将来の国家像を国民に提示する機会であるはずだ。

選挙なのだから、今の段階で考えられるさまざまな国家の将来像を各党が提示し、議論し、国民の選択を仰ぐ場でなければならないはずだ。


だが泥縄の世論操作・世論誤摩化しにしかなりそうにない今度の総選挙にも、それはまったく期待できそうにない。

10/28/2014

塩崎厚生労働大臣の「謝罪」(泉南アスベスト訴訟続報)

(このエントリーは前々項 アスベスト訴訟の最高裁判決は「勝訴」なのか? の続きになります)

泉南アスベスト訴訟の原告、つまり泉南のアスベスト被害の代表の皆さんが、昨夕やっと塩崎厚労大臣に面会した。最高裁の判決が出てから最後の段階のひと月弱だけ、原一男監督の大作ドキュメンタリーの応援スタッフで参加しているが、原告の「関西のおばちゃん」たちが本当に普通の、気さくな皆さんで、すっかりかわいがって頂いていて本当に感謝している。

とにかく国にきちんと謝って欲しいという気持ちは本当によく分かるし、賠償金が目当てだろうとか陰口だってさんざん叩かれながら、8年も頑張って来た皆さんにとって、大臣が謝罪したことはとても大きかったに違いない。

「まずは謝って欲しい。お金の問題じゃない」

それを奇麗ごとなどと冷笑すべきでない。たとえば石綿肺が悪化し、50歳で看護婦のお仕事を退職するしかなかった岡田さんの、もっと働きたかった人生は、どんなにお金を詰んだって取り返せないのだから。


しかし今は一級障碍者扱いで月500円とはいえ、酸素ボンベだけでも以前は三割負担でも月々の出費が3万。それ以上に、働けない身体にされてしまったことは言うまでもない。決してお金が目当てでなくても、お金のこともまた、無視できない。

国が「謝る」とはどういうことなのだろう?

原組・記録班も他のメディアと同じ扱いで、キャメラは原さんのメイン・キャメラ一台だけで、それも冒頭部分のみの撮影。国側はメディアに「謝った」という印象、イメージだけを報道させたい意図が透けて見え、それもお膳立てをしたのは自民公明与党のアスベスト対策プロジェクトチームの二人の議員。その二人が面談後の記者会見をまず行い、与党がアスベスト問題に強い関心を持っていることをアピールするのはいいが具体的な問題の話はなにもなかった。


最高裁判決には大きな問題がふたつある。

まず国の責任は昭和33年から46年までに限られ、それ以前はアスベストの危険性を十分に認識できる立場になかったとみなされ、その後は法律で排気装置の設置を義務づけたから国の責任は果たしたという判断になっている。だが僕たちの一般的な感覚では、石綿が危険だと認知されたのはその20年以上後の、1990年代半ば以降だ。法規制がほんとうには徹底されなかった、危険性が啓蒙されなかったことが、「法律があるんだから個々の事業者の責任」で済むのだろうか?

形だけで逃げて産業上の石綿の重要性を優先させたのが、この国の政府ではなかったのか?

もうひとつはアスベスト被害がいわば「労災」の枠組みでしか認識されていないこと。いわゆる近隣暴露、つまり「労災」ではなく「公害」としてアスベストの被害を受けた人たちの訴えは退けられている。

国側は大臣の面会を発表した時点でも、「裁判で勝った原告には謝る」というニュアンスを通し続けていたので、最高裁でも門前払いの敗訴になった原告は不安もあるし怒ってもいた。それが全員に大臣が(予想に反し)頭を下げたことは、それは嬉しかったろう。だがそれが国側の狙いだったような気もする。わざと謝らないかも知れないと思わせておいておけば、謝ったという事実だけで、裁判で門前払いにされて来て政治救済の対象であるべき、そしてずっと怒って来た人だって、つい喜んでしまう。

夫がアスベスト被害の石綿肺と肺がんで亡くなった佐藤さんは、昭和46年以降とみなされ敗訴になっている。その夫を撮ったDVDを二枚、大臣に渡すため持参していた。塩崎大臣はちゃんと受け取ったという、それだけで佐藤さんは一応は喜んでいたが、大臣がちゃんと見るかどうかには一瞬だけ不安をかいま見せた(その瞬間が撮れてますように!)。佐藤さんの夫のような被害者の救済について、大臣は

「前向きに善処したい」

と言ったそうだ。

佐藤美代子さん
農家で隣がアスベスト工場だった南さんは、環境被害、近隣暴露について大臣に訴えることは出来、大臣はそうした問題があることまではきちんと認識したらしい。これも

「前向きに善処したい」

とは言った。

農家だったが隣の工場からのアスベスト被害で亡くなった父の遺影を持つ南さん
亡くなったご両親の訴えは認められた岡田さんは、しかし託児施設がなく石綿工場内で子守りをされ、それで乳幼児の頃からアスベストを吸ってしまったご自分の訴えは認められていない。石綿肺で呼吸が難しくなり、50歳で働けない身体になり、月三万の酸素ボンベ。一本12時間もつと言うが、昨日は減りが多く、泉南の家を出てから帰るまでほぼ12時間でも、まずもたなさそうだった。

その岡田さんは、記者会見ではっきり、自分は「敗訴した」と明言した。

普段は朗らかな病気にめげず岡田さん
これはまったくおかしな話だ。子どもの頃の岡田さんは、訴えが認められた労働者とまったく同じ環境で被害に遭っている。しかも粉塵は低い位置ほど濃くなるわけで、働いている大人以上に吸ってしまっている可能性が高い。

しかし「敗訴」だ。

会見のあいだじゅう、南さんの固い表情と岡田さんの沈んだ顔が印象に残った。

最高裁判決後の記者会意見での岡田さん、南さん、川崎さん

「前向きに善処したい」

意地悪な言い方をしてしまえば、霞が関話法の官僚用語で、「出来るだけ先送りにしてなにもしない」の意味でもある。

それでも、大臣には会う気がないとしか見えず、原告に応対した厚労省の官僚が「スケジュールが多忙で、報告がいつになるか」とすら繰り返し、原告が傍聴していた国会答弁ではその塩崎大臣も菅官房長官も「重く受け止める」ばかりをロボットのように繰り返した2週間前の上京時に較べれば、えらい違いではある。

だから原告の皆さんが喜ぶのも分かるが、そうなることを狙った演出だったような気がしてならないのは、僕の見方がうがち過ぎているのだろうか?

いずれにせよ、大臣は

「前向きに善処したい」

とだけは確かに言った。

大阪高裁に差し戻しになった第一陣の訴訟については、和解調停に入り判決が確定した第二陣と同じ扱いにする、という「方向」は語ったが、即時であるとか期日を決めて明言したわけではない。
遺族ではなく数少ない生存原告の石川さん
昨日はまず、新幹線で到着する原告の皆さんを東京駅まで迎えに行った。霞が関に移動しながら聞けた話では、弁護団にはなるべく穏便に、あまり激しい言葉は使わないように言われたということであり、最初は代表2名だけ発言し、あとの人はなにも言えない段取りだったのを、佐藤さんが怒って変えさせた、という話をJRから地下鉄に移動するあいだ歩きながら伺うことができた(手持ちの大移動長廻し、うまく撮れてるかな…)。

こうして全員が発言できるようになったとはいえ、1人たった1分である。

厚労省に到着して、最初は自分になにも言うな、言ってはならない、と言っていた若い弁護士さんに会った佐藤さんは、自分から真っ先に彼女に声をかけ、しきりに労り、謝っていた。

そういうところが、本当にとてもやさしい、いい人だ。涙もろいぶん、他人の感情にもとても細やかに配慮する。

僕にも「藤原くん、藤原くん」としきりに声をかけてくれ、帰りの厚労省のエレベーターのなかでは「藤原くん、やったよ!励ましてくれてありがとう」と元気に語りかけて下さった。

だがこの人たちの善良さ、やさしさが、結果としてこの人たちが損になるように利用されてしまっている気がどうしてもしてしまう。

大臣が

「前向きに善処したい」

としか言わなかったことを佐藤さんの口から聞いたのも、この時だ。

「本当に大丈夫なんですかね」と言うと、佐藤さん南さんは一瞬だけ「我が意を得たり」と不安を隠せないことの混じり合った表情をされた。

「大臣は人の痛みが分かる人だった」と皆さんが信じたい気持ちは痛いほどわかるが、一生懸命そう信じないとやっていられない、という思いで、だからこそ自分を押し殺している気配もそこはかとなく感じ取れた。

その「痛みが分かる」と発言し、本当に感動していたように見えた松島さんが、東京駅で原さんのインタビューに応えようとしなかったのはなぜなのだろう?「会見で言った通りです、もういいです」としかおっしゃらなかったのは、実は分かっているのではないか、とも思えた。

だとしたら、それでも語らないその複雑さを、どうドキュメンタリーで映画に出来るのだろう?

ご両親を亡くされた、まだお若い武村さんだけは、厚労省の前でも、新幹線を待つホームでも、「こんなのはふざけている。大臣に会うべきでなかった。それより石綿対策室でもなんでも、厚労省の役人を泉南に呼びつけて実態を見せるべきだった」と怒っておいでだった。

遺族原告の武村さん
東京駅のJRと地下鉄、そして厚労省が主な撮影現場になった今日だが、「規則ですから」ということですぐ警備員が来て撮影を止める。帰りの見送りで新幹線を待つホームでも、なかなか撮影は困難だった。そんな我々に原告の皆さんは最後まで気を遣って下さった。どうも気がせいてしまって目立ってしまい、それで警備員にマークされてしまったのかも知れず(なにしろキャメラに接続したマイクを僕が持っていて、それで二人が走り回っているわけで)、もっと冷静に、おとなしく、目立たぬように動けばよかったと反省することしきりでもある。

いやドキュメンタリーはやはり難しい。こういう追っかけドキュメンタリーは僕はほとんど経験がない(いやまあ東京駅内や周辺でゲリラ撮影とかは以前やってますけど、その時はある程度は警備員対処も含めて仕込んでいたので)ので始末が悪いのだけど、それにしてもどんどん難しくなっている気もする。 
駅にせよ役所にせよ、警備員はただ仕事だからやっているだけだし、理由は「お客様のプライバシーの侵害」などそれなりにもっともにも聴こえる…のだけれど、結果として僕たちは真実や現実からどんどん遠ざけられている気がする。

原告の皆さんは、新幹線に乗ったあとも発車まで、ずっとホームにいる我々ににこやかに手を振って下さっていた。そして大阪、泉南に帰って行かれた。

僕はほんの三度の上京につき合っただけだが、ほんとうにやさしくして頂いて、心から感謝する次第だ。いずれ泉南にも遊びに行きたい(ただ皆さんに会いに、遊びに)。そして失われた人生は決して取り戻せないとしても、これからのこの皆さんの生活が、少しは平穏で、もう怒らないで済むものであって欲しいと願う。

しかしそれが皆さんが我慢することで得られる平穏ならば、あまりにも不公平だと言わねばならない。

この国はいつから、こんなに不公平で薄情な国になってしまったのだろう?「裁判に勝ってよかったね」「大臣にも謝ってもらえたし」、それだけでいいのだろうか?

前回の上京時に、弁護団の村松先生が僕のインタビューで漏らしたことがある(なかなか口が固く慎重な村松先生に、原監督が変化球を決断して僕に訊かせたわけだ)。

結局、この国では公害だとか労災は、被害者が頑張らなければ決して救済されないのだ。それも憐れみを乞い、可哀想だと言うことを世間に思わせることでしか、救済らしきものは始まらない。

いや村松先生は、ここまでははっきりは言わなっかったと思う、上記はやりとりの中での僕の相づちも含めた言い換えだが、要するにそう言うことである。

そんな社会を相手にしているときに、弁護団がなるべく原告に慎ましいというか謙虚というか、おとなしい、被害者然とした態度に留まるよう促すのも、やむを得ない戦略ではあると思う。

だがそれでは映画にならない、という点では原さんも僕も認識はほぼ同じだ。映画に出る人は、たとえ被害者でも、毅然としていて欲しい、そうでなければ映画的ではない。

いやこれでは言葉が足らないだろう。「映画的であって欲しい」とはどういうことかと言えば、映画とはやはり人間が実存していること、その世界があることの尊厳をこそ撮るものだからだ。

でも福島の被災者が毅然と、あくまで堂々としている『無人地帯』は日本では受け入れられなかったし、一昨日の日曜に、震災の三周忌以来半年ぶりに会った富岡町の西山さんが主人公の一人になるその続編も…昨晩は二人で、ほんとブラックユーモアだか不条理喜劇かとしか思えない浜通りの現実を、しかもそこ以外の日本では誰も関心を持たないことも含め、毒舌で盛り上がっていました。
 『…そして、春』富岡町に一時帰宅中の西山さんとお父上

ふと思うのは、原さんが泉南で撮りたい映画も、僕が福島浜通りで撮って来ている人たちも、この方が絶対に映画的だと僕らは思うのだけれど、弁護士の村松先生がおっしゃったようなこの日本の社会では、絶対に「ウケない」のかも知れない。

人が人としての尊厳を守り抜いて生きようとするという物語を、今のこの国は受け入れないのかもしれないとしたら、日本の映画って終わってるんじゃないか?