最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

5/30/2014

拉致事件の行きつく果てに

昨日夕方、安倍晋三首相が唐突に、北朝鮮政府が拉致事件の再調査を行うことについて日本と合意したと、自慢げに記者団に告げた。

だが首相官邸のロビーで記者たちに自分を取り囲ませて得意満面に語ったわりには、正式の記者会見は菅官房長官に任せて逃げてしまう。案の定、記者達に質問を浴びる立場になってしまう菅長官は、なかなか苦しい面持ちの、針の筵の状態だった。

なにしろ答えられる材料がほとんどないのだから、官房長官がしどろもどろになるのも仕方がない。安倍氏が得意満面に「拉致問題は私の政権の最大の過大」と暢気に言っていられるほど現実は甘くないのだ。

しかしこの総理大臣は、なぜこうも難しい話は他人に丸投げでシレっと威張れるのだろう?

安倍晋三氏は何も考えてすらいないだろうが、恐らく菅氏にはさすがに分かっていることとして、北朝鮮側は拉致問題再調査でどのような新事実が出るのかをある程度は交渉段階で明かしているだろうし、だから菅氏も「拉致被害者」ではなく「拉致が疑われる」ケースのことを会見でも強調気味だったのだろう。

つまりそれを認める準備は北にはある、ということだ。

漁船で遭難して北朝鮮に救助された、とされている人が実は拉致被害者ではないかと疑われている実際の例はいくつかある。

小泉政権の日朝交渉(当時安倍氏は官房副長官)で金正日政権が日本人拉致を認めた際、多くの被害者がすでに鬼籍に入っていることを北朝鮮は日本に告げている。恐らくは今回の再調査で、その方たちが亡くなった事情のより詳細な事実関係も、北側には出す準備はあるということも推測される。

父親の政権が病死や事故死と発表したことについて、金正恩率いる今の北朝鮮の政権は、実際には殺害された事実があれば、それも率直に認めるだろう。

日本のメディアはそこに気づいていながらわざと歪めているのか、本当に気づいていないほど政治や外交が読めていないのか…?

金正恩は父の代の大変な有力者であった叔父をあえて処刑する決断まで踏み切っている。これほど分かり易い政治的ジェスチャーをなぜ理解できないのだろうか?親族であっても腐敗高官は告発し、処刑粛正すら辞さないという決然とした態度は、若い指導者が「僕の政治は父の時代とは違う」と国民にアピールしているからに決まっているではないか。日本人拉致がその父や祖父の時代の負の遺産、誤りであれば、既に粛正した勢力がやったことだと明言した方が、現政権はむしろ傷つかずに済む。

金正恩が北朝鮮の三代目の国家指導者になってもう約2年になる。

つまり金正日と小泉純一郎が交渉した時代とは違ったフェーズになっているのに、「拉致問題は私の政権の最大の課題」と自称し、一回目に総理大臣になれたのはこの事件を利用したおかげである安倍晋三が、なぜ一年前には北朝鮮と再調査に向けた交渉に入っていなかったのか、理解に苦しむ。

昨年に叔父の粛正処刑を金正恩が決断する前に、安倍政権が拉致問題再調査を含めた交渉を北朝鮮とやっていれば、その叔父を粛正する理由のひとつに拉致問題を絡め説得力を増させることで、日本が金正恩政権に恩を売ることだって出来ただろうに。 
処刑が済んだ今では「あれは叔父達がやったこと」で済まされてしまえば、日本はなにも口出し出来なくなるだけだ。 
それも北朝鮮側から様々なオファーがあったのに逃げて来た、訪朝した参議院議員の懲罰までやって敵意と悪意だけを剥き出しにして来たのが日本である。

それどころか金正恩の政権に代替わりして以来、韓国ではパク・クネが大統領であり、対北強硬派保守で軍事独裁者の娘である政権とは関係改善が難しいと睨んだ北朝鮮は、昨年にはもう日本に国交正常化交渉再開と関係改善のためには妥協も辞さないサインを送って来ている。だが先日、拉致被害者・横田めぐみさんのご両親がお孫さんと面会出来たのだって、どうみても安倍政権の采配ではなく、外務省がモンゴル政府の仲介に(多分に独断で)応じたようにしか見えない。

それをきっかけに日朝間の実務者協議が再開し、そして北朝鮮が拉致問題の再調査を申し出た、というのが客観的にみれば今回の経緯である。

つまり、実は北側がオファーして来たことであって、ちっとも安倍外交の成果ではない。

だからこそ北側が準備をちゃんとやって条件を整えた態度で臨んで来たのに対し、日本側は首相が自慢たっぷりに記者に発表して官房長官がしどろもどろ会見、翌日に慌てて近しい新聞社に言い訳記事を出させるほどに拙劣な行き当たりばったりしか出来ないのでもあろう。 

「政府高官は『茶番劇なのは承知の上だ」と指摘する。首相自身もこれまで同様の趣旨のことを述べてきた」
産経新聞、5月30日 「北朝鮮の「汚いやり口」を熟知する首相 

しかしここまであからさまな提灯記事で必死に擁護、というのもマスコミとしてあまりにだらしない…。  
安倍晋三政権にとってこの件の唯一のメリットは、集団的自衛権の問題での支離滅裂な国会答弁を連発しては恥を晒している真っ最中だったのが、この件で政治報道の関心がシフトして、国会での愚劣な発言が叩かれずに済むようになる程度のことだ(ただこういう面だけでは、この人は本当に運がいい)。

報道で漏れ聴こえて来たとろこでは、北朝鮮側が交渉で中心に出して来たか、ほとんどそれしか言わなかったらしいのが、朝鮮総聯本部ビルが借金で差し押さえられ抵当物件として売却されることになった一連の問題だという。

だとしたら、金正恩は独裁政権であっても、大人の政治、大人の政権であり、それに対して安倍政権と今の日本の子どもっぽさが際立つ。

総聯ビルの問題はモンゴルの企業が落札し(つまり日本とも北朝鮮とも外交関係を持ち、日本と北朝鮮の仲介を買って出る気満々のモンゴル政府のはからいであろう)、総聯は恐らくその企業のテナントとして本部を実質維持出来るようになるはずだったのが、借金問題を総聯追い出しの在日朝鮮いじめに悪用したいだけの日本政府やその意向を受けたのがミエミエのメディアの攻撃で、この件は暗礁に乗り上げてしまっていた。

これが善処されることは、タテマエだけでも北朝鮮の公民である在日朝鮮人の人権を守るには不可欠である。朝鮮総聯はまず在日朝鮮人の互助組織であるし、北朝鮮在外公館の役割も持っているとしても、だからこそそれを追い出したり仕事を妨害するのは露骨な悪意でしかない。

その人権・人道上の問題をメインに交渉で出し、あえて「拉致を再調査するから代わりに国交正常化交渉の再開を」とはほとんど言っていない一見控えめな態度で、かえって北朝鮮の立場を改善することになるし、逆に総聯ビルの借金の問題を差別に悪用した日本側の立場は微妙になる。

それにしても、総聯ビルを落札したのがモンゴル企業となると、とたんに日本のメディアが持ち出して来たのは「朝青龍」である。 
元横綱だからこそ日本とモンゴルの友好に大いに役立ちたがっている、ここ近年で最高の横綱で相撲ファンには最も愛されていた彼を、なにせ頭がいいから記者が馬鹿にされてしまったことを根にもって悪役扱いしたくてしょうがないのだから、日本のメディアと来たら本当にレベルが低下しているし、最早差別意識丸出しではないか。 
あまりにみっともない。

それにしても安倍晋三氏だけが得意満面、その首相をメディアも一生懸命に持ち上げているのが異様なのだが、北朝鮮が拉致問題の再調査をきちんとやればやるほど、安倍晋三氏の立場は実は悪くなるに決まっている。なのになぜかこの総理大臣閣下は、こんな当たり前のことにも気づかないらしい。

菅長官のしどろもどろ会見で安倍晋三もさすがに自分の考えが甘かったことに気づいたのか、本人が気づかぬまま世耕辺りが動いたのか、慌ててメディアを牽制しようと産経新聞にヨイショをお願いした模様だが、本当にこの人のやることと言ったらなぜこうも後先を考えない行き当たりばったりばかりなのか?

確かに金正日政権の段階で北朝鮮が出して来た、拉致被害者の安否情報は、かなりいい加減なものだった。「亡くなった」と言われても、その詳細があやふやな場合が多く、遺体もほとんど出て来ない、遺骨として提出されたものがDNA鑑定で別人と判明してしまえば、ご家族はなかなか納得出来るわけもない。

その心情を冷酷に利用して死亡時の状況がはっきりしないというだけのことを「北が噓を言っている、生きているはずだ」と、その金正日政権以上に非論理的でヒステリックな決め付けで世論の支持を得てしまったのが安倍晋三氏だ。

では生きているという保証はどこにあるのか?

ちょっと考えれば誰でも気づいているはずが、しかしご家族の気持ちを思えば明言はしにくいのは、逆に死亡情報があやふやであればあるほど、確実にその方たちは亡くなっているだろうと言うこと、かりに生存していても「死んだ」と当時の北朝鮮政府が言ってしまえば、その体面を保つためにすぐに殺されてしまうのが普通だ、と言うことである。

自分が言っているメチャクチャな暴論を、ご家族の気持ちへの配慮にスリ替えて、明らかな噓で奇妙な国威発揚に邁進して利用して来ただけなのが安倍氏の不誠実っぷりなのだが、金正恩政権が「ではちゃんと再調査して報告します」と言い、本当にそれをやってしまえば、安倍氏の命運は実はつきる、この10年間彼がひどい嘘つきであり続けて来たか、少なくとも現実をなにも考えられない愚か者であることが、明らかになってしまう。

つまり亡くなったと報告されている拉致被害者が実は生きていたなんてことは、普通に考えてあり得ない。気持ちの問題では認めたくない、あまりに辛いことでも、ご家族の多く(例えばお孫さんに会った横田さん夫妻や、田口八重子さんの兄の飯塚さんや忘れ形見の息子さん)は「やはり死んでいるだろう」と分かっていてもそれを口に出来ないだけだ。

改めて死亡が確認されても、安倍氏はまた「北朝鮮が噓を言っている」で逃げ通す算段だからこそ、ああも自慢げにこの件を発表出来たのだと推察できるが(だから政府高官が「茶番は承知の上」などと言い張るわけである)、だからこの人は本当に後先の計算が出来ないというか頭が悪いというか…。

政権の問題があると必ず変な殺人事件が起きて報道から隠されることが繰り返されるなど、妙に運がいいのと、そうでなくともメディアが一生懸命プロテクトしているから維持出来ている政権だと言うことが、この人にだけはまったく自覚出来ないらしい(たとえば菅長官はそこは分かっているから、あえて今回も泥を被る役を引き受けたのだろう)。

前回に北朝鮮が日本と再調査で合意しながら立ち消えになったのは金正日政権の時だ。今回は金正恩の政権で、事情がまったく異なるし、この政権は説得力のある再調査結果を出さなければ自国の立場が悪くなるだけであると承知の上で、それなりの準備や覚悟をしてこの「再調査」を出して来ている。

しかも金正恩がより慎重に準備して交渉戦略を練れるように、一年以上準備期間を与えてしまったのが、安倍晋三の政権が逃げ続けて来たことなのだから、まったくもう…。

だから「噓だ」とは言わせないだけの報告を出して来るだろうし、もし実は金正日政権下で殺害された事実があればその事実を認め、既に菅長官が会見でさんざん匂わせたように、これまで拉致被害者とされていなかった人たちが「拉致だった」と認めて謝罪すれば、北側の報告内容が噓だと決めつけることは極めて困難になる。

なにしろ、そこまで認めてしまえば、北側には噓をつく理由が一切なくなるし、殺害などの事実を認めれば、それは北側の現政権の誠意とみなされる。

安倍晋三が自慢げに吹聴した「拉致再調査」が、彼にとってとんだ地雷になる可能性は高い。彼が国民に期待させているような結果は絶対に出て来ないし、しかも北側はこれ以上日本側に「そんなの噓だ」とは言わせないカードも出せる立場にあるのだ。

ただかなり高度に大人の外交を続ける金正恩(巧いといえば巧かったにせよ父の代のアクロバティックな自爆スレスレ綱渡り瀬戸際とはレベルが違う)にも、大きな誤算はひとつあるように見えてならない。

金正恩が日本との関係改善に積極的な理由のひとつは、今の韓国のパク・クネ政権では南北関係の改善が望めない、せいぜい「お互いに侮辱合戦はもうやめよう」と呼びかけるくらいしか出来ていないからでもあろう。

そのパク・クネの韓国は日本との関係も悪化している。金正恩政権はそのパク大統領を「馬鹿だ」と思っているだろうし(そして実際に馬鹿なんだし)、日韓関係の悪化の一因が韓国大統領の愚かさにあると思っていることは充分に推測できる。

だがだとしたら、金正恩政権は一点、肝心なところで状況を読み誤っている。日韓関係がここまで悪化しているのは、安倍晋三がその愚かなパク・クネ以上の、お話にならない、なにも分かっていない、常識の通じない愚かな政権だからなのだ。

北朝鮮が今度出して来るであろう報告の内容が普通に考えれば噓だとは決して言えそうにない内容であっても、安倍晋三だったらそれでも「噓だ」と言い張るに違いない。かくして北朝鮮の期待している日朝関係の改善、今必要な経済成長のための交流の拡大も、在日朝鮮人の地位向上や人権の擁護も、すべて期待はずれに終わるだろう。

残る問題は、果たして我々日本国民が、安倍晋三がそこまで愚かであり、日本政府が歴史問題だけでなく、本来なら日本にとって圧倒的に有利な外交カードになるはずの拉致問題についてすら外交上の大きな誤りばかり繰り返して来たことに、気づけるかどうかだと思う。

よく考えて見れば、日本との関係改善は新政権下で新しい国をめざし経済成長を必要としている北朝鮮にとって重要なだけでなく、日本にとって悪いことはなにもないのだが。

こんな醜い妥協の産物なら、新国立競技場は建てるべきではない


2020年東京五輪に合せて新しく建て替えられることになった国立競技場は、国際コンペで選ばれたザハ・ハディドの案がずいぶんと物議を醸して来た。


なおコンペが行われた経緯はほとんど国民に知らされず、気がついたときにはこのバグダット出身の女性建築家の途方もないデザインに決まっていて、そこでやっと周辺住民の反対などが始まるというのは、相変わらずのニッポンの風景ではある。

未だに「日本の国立競技場なのになぜ外人が」という話すら出て来るのも困るわけだが(だから国際公募でコンペやってるんだからそうなりますって)、ザハ案に決まってからその計画が建築予定地の現況からすればあまりに大き過ぎることが初めて問題になるは、神宮外苑は風致地区でありこんな巨大建造物は違法ではないか、あるいは今の敷地を大幅にはみ出して幹線道路にかかってしまい渋滞まで危惧され始める、というのではコンペの運営自体がよく分からない。


さらに総工費1300億円の予定がザハ案は試算では3000億はかかりそうだということになり、大幅なデザイン変更が余儀なくされるのでは、という経緯を、僕自身はザハ案にあまり感心しなかったので多分に白けて見て来たわけだが、それでも建築費を抑え、大きさの面でも環境に配慮したという新しい最終案の中身には唖然としてしまった。




「代々木の森にこんなSFチックな宇宙船が降り立ったみたいなのは」と言うのがザハ案に対する僕の最初の素直な感想であった。


ところがいざ最終計画が発表され、並べて見せられた今では、元の設計がいかに美しかったか、とすら思えて来てしまう。

いやまあ、これでは比較すれば誰だってそう思うでしょう。

安藤忠雄が審査委員長を勤めたというコンペでザハ・ハディトの案が選ばれたのは、立地の問題や美的な趣味では反対もしたくとも、評価されたこと自体は理解出来ないことではない。

元のデザインの大きな特徴である、縦方向にスタジアムを横断する流線型の曲線の構造物こそがミソであるのに対し、最終案のデザインは、この曲線になんの魅力も美しさもなく、曲線という記号性のみ踏襲されているようにしか見えない。

建築家に言わせれば、元のデザインは「スタジアムではない、橋」なのだそうで、つまり二つの曲線は単なる美観上の要素ではなかった。

それ自体が自立する、いわば橋のような単一アーチ構造物を二つ並べて、スタジアム自体は普通に地面から柱と壁で上に積み上げられ支えられるのではなく、この二つの曲線から吊り下げられることになるのが、新国立競技場の建築的な最大の特徴だった。


この斬新な構造のアイディアこそがこの案が評価された最大の理由であろうし、国際コンペで公共建築のデザインを公募するというのは、こうやって新しい建築の在り方を切り開くチャンスを建築界に与える、という役割もある文化事業でもある。

と同時に、単なる装飾でなく構造上の必然だからこそ、元のザハ・ハディド案の二つの巨大曲線はこうもシャープで躍動感のある力学的なカーブを描いていたのである。まさにこのフォルムは、建物の本質、その設計の根幹から産み出されたものだったのだ。

口の悪い建築関係者のなかには、安藤忠雄が理工系の建築学科の出身ではないから構造計算が苦手だからこれを選んでしまったのだと言う人すらいたようだが、無論女性建築家でしかもアメリカ人でもヨーロッパ人でもないことの政治的な利点もあったにせよ、安藤だってなによりもこの構造のおもしろさに着目して評価したのだと思う。 
ただ確かに、構造計算のプロではない安藤忠雄の弱点もあるとしたら、土木の専門家でもなければこれが実際の施工でどれだけ難しいのか気がつきにくかった、ということはあるかも知れない。

いや「こんな巨大アーチ本当に作れるの?」というくらい、現代の建築土木技術の最先端に挑戦するような代物なのだ。だがそういう新しいチャレンジのため、建築史の新たな一頁を切り開くためにも、こういう巨大公共建築の公募はあるのでもある。

64年の東京オリンピックの全体像をデザインしたのは丹下健三で、今でも20世紀の名建築、丹下の代表作のひとつとされている代々木の国立体育館は、屋根を支える構造の斬新さが世界の建築界をあっと言わせ、戦後に復興した日本の建築水準の高さを世界に見せつけた。

国立代々木体育館、遠景にはやはり丹下健三設計の東京都庁と東京パーク・ハイアットホテル、および丹下事務所で息子の丹下憲孝の手がけた東京モード学園

この屋根の美しい、ユニークな曲線もまた、実は建物の構造そのものと密接に結びついているからこそ産まれたものだ。巨大な室内空間を実現する屋根を支えているのが、屋根の曲線構造それ自体なのだ。

と同時に、これが発表された時には当時の建築施工の業界は頭を抱えたのだろうし、施工技術が追いつかず、比較的最近まで雨漏りなどの問題が絶えなかった。
国立競技場
ザハ・ハディドの元デザインの特徴であり美点であると同時に欠点ともなりかねない2本の巨大なカーブの最大の問題は、湾曲の頂点でかなりの高さになり、端が今の国立競技場の敷地を大きくはみ出して幹線道路すらまたいでしまうことである。

これが「短くすればいいじゃないか」で済む話ではないのは、もうお分かりだろう。なにしろこのカーブの長さが、8万人を収容できる開閉屋根付きのスタジアムという巨大構造物の全体を支えている…というか、吊り下げているのである。短くしたり湾曲の度合いを変えてしまうだけで、その強度は維持出来なくなる。幹線道路をまたがないで今の敷地内になるべく納めるのなら、スタジアム部分の重さを減らす、つまり規模を小さくするしかない…

…と、このデザインが国際コンペで選ばれている以上は、誰もがそう考えるはずだ。スタジアム自体がこの二つの曲線から吊り下げられることが設計コンセプトの要であり、それはさすがに無視できない。無視したらこの案を選ぶ意味がない。

そこへ国立競技場を管理する文科省傘下の独立行政法人日本スポーツ振興センター…というか要するに文科省が出して来た、総工費を1700億に抑えたという最終計画が、ザハ・ハディドの当初案以上に、それも今度はただ悪い意味で、我々の度肝を抜くべき代物であるのは、改めてその全体イメージを見るだけでもうお分かりだろう。

大きな曲線二本がスタジアムを縦方向に貫く見た目だけは踏襲されているものの、元のデザインにあった流線型の躍動感がまるでない、寸詰まりで単調で、力強さのかけらも感じさせないことには一目で気づく。

これでは当初構想が骨抜きどころか、まるで別物だ。

元の設計案の仕掛けを知っていれば、なぜこんなに無粋でかっこ悪いのか、理由は明白になるだろう。

最終案の二つのカーブは、ただスタジアムの上に張り付いた屋根の支えでしかなく、スタジアム本体はごく当たり前に壁と柱で支えられた平凡な構造に、安易な装飾性をゴテゴテと付け加えただけの代物だ。二つの曲線に至っては屋根を支えるだけなら大きさが桁外れな以外はとくに斬新でもないし、鈍重で平板で寸詰まりにしか見えず、建物をかえって醜くしている(それでも前代未聞の大きさで金額は相当なものだ)。

なぜこうなってしまったのか?ザハ・ハディドの元の構想を生かしながら、幹線道路にまではみ出てしまう問題を解消するには、全体の規模を縮小するしかなかったはずだ。

ならば観客収容8万人が本当に必要なのか、ということも建築費や維持費の問題からして検討されてしかるべきなのが、文科省はオリンピック招致の際に8万人規模の屋根付き競技場を建てるとアピールしてしまったとかで、そこは譲れないらしい。

8万の観衆を集める巨大イベントの需要がそんなにあるのか?

独立行政法人JSCの側では、採算を合せるため年12回のコンサート使用も予定しているとか…って、そんな大人気のミュージシャンがそんなにいるとも思えないし(月イチでジャニーズ事務所専属になるとか?)、だいたいこれ「国立競技場」でしょう?教育スポーツ行政の一貫じゃないの?

2020年オリンピック開会式だって、そこまで観客が集まるかは怪しいのではないか?ここまで無様な建築をただ8万人収容と屋根付きだけで強行し、文化的に意味がないどころか妥協の産物に落ちぶれるだけでなく、将来すぐに無用の長物になりはしないか?

僕は実は丹下健三だってそんなに好きではない…というのは高校生くらいの時に東京都庁の新築コンペというトラウマがあり、そこで選ばれたのが今もみなさんご存知の、恐らく丹下の最悪の作品であろうあの都庁だ。
当時めきめき頭角を表していた磯崎新の都庁コンペ案がとても美しいものだったのが、なんでも巨匠・丹下によれば「パリのノートルダム寺院へのオマージュ」という(って地方行政のお役所ですよ、なぜ教会?)あの意味不明の二つの塔である。


とはいえそれでも、大人になれば丹下の国立代々木体育館や広島平和記念資料館がすごい傑作であることは認めざるを得ないし、丹下は第二次大戦後の世界に衝撃を与えた天才建築家であると同時に、64年東京オリンピックをひとつの契機とした丹下の東京都市計画の構想は、日本のひとつの時代を象徴するものでもある。

日本政府ではなくフランス政府が、ル・コルビュジェの国立西洋美術館を世界遺産に申請しているが、高度成長の時代の始まりに天才丹下が構想した一連の東京オリンピック関連建築物もまたそう申請されるべき価値がある、とも言えるのである。

国立代々木体育館ほど凄いとは思わないにしても、国立競技場もまたそうした日本の過去の、輝いた歴史の記念碑なのだ。それを取り壊して新しいものを建てるなら、それにふさわしいだけの建築でなければならないはずだ。

国立代々木体育館建設現場の丹下健三
好き嫌いやコンセプトについての意見の相違はいくらでもあるにせよ、ザハ・ハディドには新たな建築を目指す強烈な意志もあり、当初案にはそれだけの構想も目指したものだとは言えるものがあった。

いや僕らが「こんな宇宙船みたいなの」と思ってしまったのは頭が古いだけなのかも知れない。少なくとも言えるのが、彼女の発想自体が、64年の丹下の国立体育館がそうであったような建築構造の新たな挑戦、スタジアム建築として前代未聞の斬新なものだったということだ。

だが最終的に発表された案は、原案を形だけは踏襲したつもりでいても、中身はまるで別の平凡なもの、それも無駄な装飾があるだけで平凡どころか出来の悪い建築でしかない。

それもそうなってしまった経緯は、いかに今の日本の行政がだらしなくなってしまったかの象徴みたいな話である。

なにしろ案が発表されてやっと批判が起こった中には違法の可能性すら含まれ、都市計画の観点では無茶苦茶で建築費が大き過ぎると叩かれ、付け焼き刃の対応で、しかし「屋根付き競技場で収容人員8万人」というなぜか文科省が拘るIOC相手の見栄というか媚ばかりを最優先した結果の、どうしようもない妥協の産物でしかない。

今からでも遅くはない。

こんな珍妙な妥協の産物なら、8万人の収容人員が必要かどうか(オリンピックでさえ競技本番でガラガラに見えてしまいはしないか)も含め、いったんこれは白紙に戻し、今や日本の戦後の歩みが刻まれた歴史的建造物である現状の国立競技場を生かし、改修する形にした方が、まだ先進国・文化国家としての日本の体面は立つのではないか?

それに昨今の国際オリンピック委員会の方針である「無駄遣いはしない、設備はなるべく新設はせず、大会終了後も有益に使い続けること」にも合致する。

1936年のベルリン・オリンピックのスタジアムは未だ現役だ。ロサンゼルスのオリンピック・スタジアムは1932年と84年の二度の大会で使用された。

丹下の名作を中心とする代々木と外苑の東京オリンピックに関する建築群が、56年の時を経て二度の五輪大会をホストするのは、併せて世界遺産にでも登録申請でもすれば、むしろセールスポイントにだってなる。

ザハ・ハディド氏本人がこの最終案にどこまで関われたのか、彼女が納得しているのかは知らない。それは巨大コミッションを受注しながらそれを取り消されるのは、気鋭の女性建築家にとっても大きな損失にはなる。

とはいえここまで自分の構想を骨抜きにされた、見るからに醜悪な代物に自分の名を冠されることの方が、アーティストとしての彼女にとって不名誉であり、もうほとんど許し難い侮辱にも見えて来てしまうのである。

そして同時に、こんなひどく無教養な妥協と化した新国立競技場を建ててしまえば、それはこの国にとって不名誉であり恥さらしにしかならない。

まったく、「愛国心」を称揚し民族の歴史だ伝統だと言いたがる割には、なぜ今の内閣はこうも歴史を軽視しながら新しい創造も殺す、世界に日本の恥を晒すようなことばかりやるのだろう?

5/16/2014

三年経ってまたもや「鼻血」騒動の不毛

まずこの際、はっきりさせておいた方がいい。放射線被曝の症状として「鼻血」というのは、ある意味完全な間違いである。

広島・長崎の最初の原爆症、つまり急性放射線障害の症状として実際に現れたのは鼻および歯茎からの大量出血と全身に紫斑が現れたことであり、ほとんどの患者は数日以内に死亡している。

実際に被爆者の身体に起こっていたのは、大量の放射線で血管細胞や造血細胞それ自体が破壊されたことによる大量の内出血であり、鼻粘膜と歯茎が、その出血が体外にもっとも出易い部位だったに過ぎない。

決して「被曝したから鼻血が出た」のではなかった。見た目には「鼻血」もあったが他の症状も同時にあり、そして実際に起こっていたのは、決してただの鼻からの出血ではなかった。

被爆者の証言や、身近なところでは『はだしのゲン』を見ても「鼻血が」だけとはまず書いていない。鼻と歯茎からの出血と体中の紫斑、それに脱毛(これは放射線で毛管細胞が破壊されたことによる)などが同時で起こり、ゲン(作者の中沢啓治氏)のような極めて稀で運がいい例外を除けば、ほとんどが数日中に命を落としている。

私事でいえば、これは医師であった祖父にとって人生最大のトラウマだった。 
熱線によるケロイドなどの外傷がなければ、とても元気に見えた広島市内からの避難者が、突然大量の内出血を始め、毛髪が抜け落ち、なにが起こっているのか祖父にはなにも分からないまま、手のほどこしようもなく、みな数日以内に亡くなってしまった。  
名医との賞賛も欲しいままにし、また自分でも腕に自信があったプライドの高い祖父にとって、手も足も出せないまま患者を死なせてしまったことはあまりに重い記憶であった。 
祖父が開業していたのは、広島と山口の県境の和木町(元々この地の郷士の家系)、山陽本線での最寄り駅は大竹で、広島市内から30Kmほど離れている。この距離を原爆を受けた多くの避難者が、かなりの部分歩いて来た。丸木俊・位里夫妻の原爆絵本『ひろしまのピカ』でも主人公の少女は歩いて宮島口まで辿り着いているが、昔の人は健脚だったことを割引いても、原爆症の症状が出る被曝直後からのタイムラグのあいだは、それだけ元気だったのだ。 
祖父は僕が小学校一年生の時に亡くなっているが、被爆者を診察した体験は何度も話してくれたし、原爆ドームと平和記念資料館にも幼稚園の時に見学させられた。末期がんで入院していたのは広島日赤病院で、病室の窓の向かい側はいわゆる原爆病棟だった。自分の病気のことよりも被爆者と原爆症のことを丁寧に話していたのが祖父だった。 
その祖父が1950年代には原爆ドームの保存に反対だった、「あんなもの壊してしまえ」と言っていたと知ったのは、亡くなって何十年も経ってからだ。

福島第一原発事故では即、被曝=鼻血という誤ったステレオタイプが無節操に流布し、「鼻血が出た」という“証言”らしきものが、匿名で、事実確認なぞまったくないまま飛び交った。当然ながら急性放射線障害による死亡例は一切ないまま、いったんは収まったかと思えば(かつての)人気漫画(でありこれまでも何度も問題を起こして来た)『美味しんぼ』で、三年目にしてまた騒動になっている。

福島県内で鼻血が多発しているという事実もなく、むろん福一で事故収束に懸命に当っている現場の労働者にも、特段そんな症状が現れているという話も聞かない。

被曝=鼻血というステレオタイプ自体が実は誤りなのだから当たり前の話だし、福島県民や原発事故による避難者にしてみれば「またか」とうんざりするだけだ。



福島の皆さんの「もううんざり」にはとても及ばないにせよ、僕らだって現実に被害はある。 
原発事故後の浜通りについて真面目な映画を作るよりも、「鼻血が」とか「甲状腺の膿胞が」とか、科学的根拠の薄いセンセーショナリズムに走り、「政府が噓をついている」という安直なプロパガンダに徹することを、国内外の出資するプロデューサーに要求されてしまうのだ。 
映画作家の最低限の良識として「そんなことは出来ない」と言えば、それで企画が成立しなくなってしまうのが、我々の現実である。

抗議の声があがるのは当たり前なのだが、政府関係者や閣僚が鬼の首でもとったように批判を連発するに至っては、逆効果にしかなっていない。

なにしろ通り一遍の「風評被害だ」と「福島県民が」の感情論しかないのである。そうすると『美味しんぼ』が福島県内の農業の取り組みなども取り上げているから「作者も福島県のことをちゃんと思っている」という類いの、これまた幼稚な感情論で反論にもなってない抗弁が持ち上がり、「政府が都合の悪いことを隠そうとしているのだから『美味しんぼ』は擁護すべきだという、これまたひどく子どもじみた二項対立の善悪二元論に終始する。


もう「フクシマの人たちを思っています」を自己正当化のへ理屈に利用するのはいい加減禁止した方がいい気もして来る。これは在日コリアンいわゆる同和など、被差別者をいわばダシにした自称「良心派」の偽善すべてに敷衍できる話でもある。

はっきり言って『美味しんぼ』は批判されるべきである(そしてこの漫画のこうした問題が決して今に始まった話ではないことも検証すべきだ。もっと直接的な被害を受けた農業者や食品関係者も多い)。


単に勉強不足のリサーチ怠慢、差別的な先入観の偏見に囚われたまったくの間違いなのだから、「間違いだから問題」「とるに足らない幼稚な虚構」とはっきり言えば済むことだし、この原作者の(以前からしょっちゅうある)拙速な偏見だらけの権威の偽装による決め付けにふんぞり返る拙劣さをあげつらう余勢で「政府に都合の悪いこと」の隠蔽に利用しようとしたところで、そんなことは通用しないどころか逆効果であることくらい、安倍内閣の閣僚たちは気づくべきだ…

…ってそれは無理なんだろうな、首相以下驚くほど世間知らずで実務能力のない人たちだから…

また安倍晋三首相や政府を批判する側も、幼稚な二項対立に囚われて『美味しんぼ』を「言論の自由」などと言って擁護すべきではない。

そもそも公表された作品が批判されることは言論の自由の範疇であるのだから論理倒錯も甚だしいし、少なくとも左派リベラルを自称するのであれば、デマや偏見の決め付けが昔から多かっただけでなく、人物設定からして笑っちゃうほどの保守父権主義の男権的/女性蔑視的な権威主義まみれのこの漫画を、今さら擁護するのも馬鹿馬鹿しいではないか(ちなみにこの漫画が本当に人気漫画だった20年以上前には、多くのフェミニズム論者がこの呆れるほど時代錯誤の甘ったれたマチズモの説話構造を厳しく批判していた)。

だがこの三年経って何を今さらな「鼻血」騒動の最大の問題は、雁屋哲なるいい加減な権威主義者の幼稚な思い込みと不勉強な差別偏見に基づくデタラメな表現それ自体ではないだろう。

いかに20年、30年前の人気漫画で映画化まで(三國連太郎と佐藤浩市父子が、父と息子役で初共演したことも話題になった)されようが、今さら時代錯誤のマンネリズムで「まだやってたの?」という、日本の漫画界が新しい創造に関して恐ろしく脆弱になっている現実が「困ったもんだ」であるものの、本来なら今さらとるに足らない、無視していいはずの代物だ。

それがここまで話題になってしまっている、日本の世論構成自体がそこまで幼稚化していることこそが、問題なのだ。

もっとはっきり言えば、現実に原発事故が直面している問題や、原発事故の直接の被災者の現実が無視され、たとえば仮設住宅暮らしが4年も5年も続くことがいつのまにか決まり、将来に関する目処がほとんど立ってすらいないことはメディアで話題にすらならないのに、こんな下らない漫画のこととなると全国紙の記者や東京のテレビ局がわざわざ福島県に取材に行く。

今さら福島第一原発事故についての関心なんてほとんど失っていた人たちが、こんな時だけ「フクシマの人たちが」と言い出す、そのご都合主義で絶望的に東京中心主義の、他者も当事者も見えていない無責任っぷりこそが問題なのだ。

福島県と原発事故が全国的に話題になるのなら、もっと話題にすべき重要な、当事者の生活に直接関わることがいくらでもあるはずだ。

またこれが雁屋哲なるいい加減な権威主義者の、表現者としての最大の問題でもある。もっとも安直に俗受けすることで「福島の真実」などと称し売名だか掲載誌の部数を伸ばすことを狙うなどとは、さすがに無責任に過ぎる。

「福島は安全」とみなすか「フクシマは危険」とみなすか以前に、放射能による被害の危険性に警鐘を鳴らしたいのなら、真面目に取材さえしていればよほど重要な「福島の真実」は幾らでも掘り出せたはずだ。



今年一月に、フランスのアングーレム漫画フェスティバルの主催者側企画展示で、韓国の従軍慰安婦をテーマにした作品群が展示されたことに対して、一部の日本人が勝手に「日本ブース」を立ち上げ『慰安婦の真実』なる展示を始め、問題になったことがある。 
これがその「日本側の主張」の展示だそうで、主張の中身以前に漫画作成ソフトにいい加減に自分達に都合良く恣意的に引用した他人の発言を切り貼りしただけのやり口が、そもそも漫画を馬鹿にしている、と当然ながら批判を浴びたわけだが、曲がりなりにもプロであるはずの雁屋哲なる人物が「福島の真実」と称しているものは、この「慰安婦の真実」と称する素人細工とまるで同レベルだ。
唯一の違いは、市販アプリケーションに付随のキャラではなく、かつて自分が創造したキャラを使っただけ、あとはおよそ「漫画表現」と呼ぶに値しない杜撰なつまみ食いの切り貼りでしかない。


放射線被曝による健康影響でも、ただの誤解の差別的なステレオタイプに過ぎない「鼻血」などとは異なった、現実に起こりうる健康リスクをこそ、ちゃんと話題にすべきなのだ。

またこのもっとも安直に俗受けすることに体もなく乗ってしまう世論もまた、これでは手塚治虫以来、漫画が日本では文化としてそれなりの地位を築き芸術表現としても認められるようになって来たはずが、「なんだしょせん漫画の読み過ぎで一億総白痴化しただけではないか」と言われても文句は言えまい。

こんな幼稚化した世論の騒動は、現実にある問題や十全に想定すべき今後の問題からの逃避にしか、実はなっていない。

東電の賠償責任をどこまでに設定すべきかの議論すらなおざりにただ「鼻血が」では、「『美味しんぼ』を批判することで東電を擁護するのか」的な言いがかりも、実はまったく成立していない。

…というのも、福一事故レベルの放射性物質の環境内への放出でもっとも危惧される甲状腺がんをめぐる問題すら、かなり複雑な医学的な知見を要する議論になるせいもあるのだろうが、「鼻血が」というそもそも実は単なる間違いであることの話題性に隠されたまま、まるで論じられてすらいないではないか。

甲状腺がんは見つけにくいがんであり、成長も遅い。仮に一部の細胞ががん化しても、そのまま免疫で排除されがんにはならない場合が多い、とも言われている。いずれにせよ放射性ヨウ素が甲状腺に取り込まれたことによるがんを発見し確定するには、4年から5年待たなければならない、と言うのが医学的な定説であり、福島県ではその4年後を目標に十全な検査体制を整え早期発見の準備を進めている。

…ということすら全国規模で話題にはまるでならず「鼻血が」なのだから、そりゃ福島県民はウンザリすると思いますよ…

そしてこれから約1年後、可能な限り万全の検査体制が整えられれば、福島県内では確実に甲状腺がんの発生が見つかるだろう。

いや決して「原発事故で必ずがんが起こる」と断言しているのではないので誤解なきよう。統計的には人口に対する一定の比率でこのがんは見つかっているわけで、その比率よりも高い割合であれば「原発事故が原因」と特定出来るだろうが、ほぼ同じかより低い割合であっても、甲状腺がんの患者それ自体は多かれ少なかれ見つかるはずなのだ。

『美味しんぼ』のような騒動は、このような現実の問題を隠蔽し議論を先延ばしにする効果しか持っていない。そのことこそが現実社会における最大の問題だ。

4年後、5年後に福島県で(ほぼ確実に)見つかるであろう、2011年3月4月前後に始まったとみなされる甲状腺がんの数が、一般の平均値とほぼ同じかより少なければ、統計的・疫学的には「原発事故由来のがんの存在は認められない」という結論が出されるだろうし、それ自体は間違っていないし、福島県民にとっては一安心できる材料になるだろう。

だが一方で、実際にそのがんが見つかった患者さんやその親御さんは、それで納得出来るかと言えばそんなはずはないし、納得しないことを「非科学的」と断ずる根拠もない。統計データだけでは個別例で「原発由来ではない」と証明されたことにはならないのだから、個々の発症例はやはり原発事故による放射性ヨウ素が原因かも知れないのだ。

その時こそ、東電の健康被害に対する賠償責任はどうなるのかについて、大変な議論が巻き起こるはずだし、今から議論の下地づくりくらいはしておくべきなのだ。

賠償額を少しでも減らしたい東電は、発生率が低ければその統計データを盾に詭弁を交えて「原発事故由来であると確定は出来ない」を「原発事故由来ではない」にスリ替えるだろうし、現状の自民党政権が(安倍であっても次の内閣でも)継続するのが確実なので、政府もその東電と同じ主張を繰り返すだろう。

それでいいのだろうか?

少なくともそこで甲状腺がんが見つかった患者さんやその親御さんは納得すまいし出来ないだろう。納得しないまま泣き寝入りを強要されることも目に見えているが、それは恐ろしく非人道的な話であるし、実は決して科学的な態度でもない。

目に見えて甲状腺がんの発見率が来年の今頃あたりに増加していれば東電の賠償責任は明確になるはずだが、それでも個別のケースについて逆に東電側が争うことは決して不可能ではない。個別発症について「原発由来だとは断言できない」ことは、裏を返せば「他の原因であるとは断言出来ない」も意味するし、これをひっくり返した詭弁で裁判を争うことは充分に可能なのだ。

「なるほど、全体的に原発事故によって甲状腺がんが発生したことは確かかも知れないが、あなたの場合がそうだとは断言できない以上、当方の賠償責任は証明出来ないでしょう」という話にだって、なりかねないのだ。

これがあと1年以内には、福島県で現実になる。だからそれまでに、東電の賠償責任や政府の責任についての社会的なコンセンサスを作っておかなければならないはずだ。

たとえば僕自身の考えでは、原因の特定・確定が出来ない以上、4年後5年後に福島県など放射線値が2011年3月4月の段階で高かった地域(つまり半減期8日の放射性ヨウ素がその線源とみなされる場所)での甲状腺がんの発生は、一律東電が健康被害の賠償責任を負うべきだとするのが、人道的・倫理的にもっとも正しいと思う。

この僕の考えが正しいかどうかは議論を要するとしても、こうしたことをきちんとルール化しておかなければ、いざ甲状腺がんが(どれだけの数にせよ)見つかり始める時に、混乱は避けられず、ただでさえがんが見つかってショックを受けた人たちを、さらに苦しめることにしかならないではないか。

「鼻血が」などと(そもそも関係性の薄いことで)騒いでいる場合ではないと心底思う。

なお「実際に鼻血が出たと言っている人がいるじゃないか」という何を今さらな話については、病気についてプライバシーは尊重されるべきにせよ、まず医学者がしかるべき発生データをまとめて、鼻血を訴えている人が主にどのような社会的な立場にある人なのかをきちんと示して欲しい。 
それだけで充分に社会学の興味深いデータになる。同調圧力がこと日本人の社会においてどのように個々人に作用するのかの研究対象としては、もって来いの話ではないか。 
言うまでもなく、実際に鼻血が出た人だっているだろう。 
なお個人的にはなぜ「歯茎からの出血」を訴える人が皆無なのかが謎ではある。歯槽膿漏の潜在罹患率は日本ではかなりの数になるのだし出血は多いはず…と言ってよく考えてみれば「被曝=鼻血」という誤ったステレオタイプを信じ込むわりには、鼻だけでなく歯茎からの出血があったことを、雁屋哲氏であるとか知りもしないのだ。
別に原発事故の有無に関わらず、鼻血なんて日常茶飯事で出ることであり、こと子どもの場合は心因性だとほぼ分かっていても、わざわざ原因の特定なんてしないのが当たり前だ(たとえば興奮状態で鼻血が出るなんて、こと子どもではよくある)。 
ただそれを「放射線が原因」とみなす理由なんてなにもないし(原爆症の症状が「鼻血」という思い込み自体が間違いなのだし)、実際に増えてもいないのならそれで話は終わる(で、ごく一部・特定の立場の、それもほとんどが匿名の人たちを除けば、「増えた」という信頼できる証言すらまずない)。 
いやさらに突っ込んだ研究をしたら、もっと興味深い結果だって出る可能性がある。ただしそれは放射線医学等とはほとんどなんの関係もない、心理学と精神医学の研究対象としては、である。 
もっとも、かなり教科書的な結論にはなる気はする。つまり「自己暗示」の効果のテストケースの検証に適した話、いわゆるプラセボ(偽薬)効果のバリエーションとして研究する価値はあるかも知れない、ということだ。