最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

7/11/2014

「反対する理由」について




ここ三回に渡っていわゆる「集団的自衛権」を巡る論議(では実はない)について書いて来たが、ここで筆者がなぜ安倍の自衛権の行使に関する閣議決定に反対するのかの理由を、念のため明記しておく。

①まず、戦後の日本が(時に狡猾な偽善であったとしても)守り通して来た平和主義の理念は、やはり正しいものであり、無闇やたらと反故にするわけにはいかない。 
②憲法条文から論理的に導き出さ得ない「解釈改憲」など「解釈」であるはずもなく、法治原則への冒涜は日本の恥であり、この憲法を国会で真剣に議論し、圧倒的多数の賛成で決めた先人達への裏切りだ。 
③第二次大戦を反省したはずの日本が、再び戦争をやる国になるべきでない。
④僕はあらゆる戦争に反対する。戦争というものが実際にどういうものか、実体験のある人たちから学ぶ機会に恵まれても来たので、避けられないような戦争でも避けるべく最大限の努力はしなければならない、としか思えない。これはもう、自らの体験を話して下さり、今は鬼籍に入られた、たとえば空襲や原爆、あるいは靖国や皇居でお会いした特攻や硫黄島の生存者、ノルマンディー上陸作戦その他を体験した大先輩(ってサミュエル・フラーですが)への敬意と友愛に賭けて、絶対に反対。


サミュエル・フラー監督作品『最前線物語』

この4点が、大上段にいささかカッコつけて言う理念的なものであるのに対し、いささか本音混じりの現実の文脈で言えば…

⑤現代の世界で戦争を始めることに、なんのメリットもない。こと日本が置かれた地政学的な位置付けと、未だに世界に冠たる経済大国として尊敬もされている地位からして、デメリットしか見当たらない。 
⑥安倍が「集団的自衛権」と称して来た論議は、実は中国と戦争をいつでも出来る、先制攻撃ですらやるように憲法解釈を変えたぞ(って変えられないってそんなの)、というブラフである。安倍が抑止力だなどとうそぶくのは要は子どもじみた強がりでしかなく、かえって足下を見られ、諸外国に日本を警戒させて孤立を招く。なかでも事実上名指しで誹謗され仮想敵扱いされた最大の貿易相手国・中国との関係を損ねられては、日本の国益に明らかに反するし、しかも客観的に見れば日本が乱暴な挑発を続けているだけなのだから、弁護のしようがない。 

商売に響き、日本の経済を悪化させるだけなのはバカだとしか言いようがないし、俺は外国に行って肩身の狭い思いなんてしたくもないんだよ、ってこともある。
安倍信者のなかには、対中貿易はGDPの5%だからたいしたことがない、なんて無茶苦茶を言ってる連中までいる。 
冗談じゃない。現状のGDPから5%を単純に引いただけでも、日本は超不景気のマイナス成長だし、日中の断交だけで実際の損害は5%じゃ済まない。ほんとうにどこまで世間知らずで非現実的なのだろう? 

⑦あともう一点。はっきり言ってこの国には明治維新以来、ずっと同じアジアへの差別蔑視があるとはいえ、ここ数年の中国と韓国に対する露骨な差別と蔑視、敵視は異様であり、もう見ているだけで気持ち悪い。精神衛生上悪過ぎるからこんな真似は金輪際やめて欲しい。

1930年代、40年代の日本だって、ここまで病んで差別的ではなかった。

だがどうも、世間で「集団的自衛権」に反対する人たちの理由は異なるようだ。

安倍のやったのが露骨な中国相手のブラフであり侮辱であり脅迫であること(安倍のいう「抑止力」とは、要するに日本はいつでも戦争をやる、これからは先制攻撃も出来る、アメリカも味方だ、と言えば…南京大虐殺はなかった等の暴論を中国が受け入れてくれるとでも思ってるらしい)はなぜか無視され、この愚行が東アジアの緊張を高めるだけであることへの批判は、海外メディアのそれが主にネット上で紹介される程度だ。

安倍が敵視しているのが中国であることには、なぜか反対派も口をつぐんでいる。温家宝が前首相、習近平が現主席でなければ、もはや日中が戦争直前になってもおかしくないことを安倍はやってしまったのだが。

大手のメディアは、反対の旗色が鮮明に見える毎日や朝日ですら、国際的に悪評ぷんぷんであることには口をつぐみ、あたかもアメリカは評価しているかのように装っている(実はいちばん苦虫を潰しているのがオバマ政権なのだが)。

それどころが反対デモだとかで出て来る理由のメインが、「集団的自衛権が容認されたら徴兵制になって自分達が戦争に行くから反対しましょう、子どもたちが戦場になんて」という話ばかりなのには、正直ちょっと面食らう。

共産党までが「徴兵制になる」メインの主張に据えているのに至っては、あなた達は護憲平和主義の党ではなかったのか、と言いたくなる。その共産党もまた、これがどう世界のなかの日本の立場に悪影響するのかは全然語らない。

それでも政治家と言えるのか、あなた達は?

集団的自衛権(では実はない、先制攻撃を容認し専守防衛をやめること)は自民党右派が念願して来た日本の再軍国化の一貫に位置づけられ、その意味では徴兵制の復活も一部の耄碌した爺さんたちは、まだ本気で思っているのかも知れない(って議員定年制で引退してないか?)。


とはいっても「集団的自衛権が容認されたら徴兵制になって」は、さすがに風が吹けば桶屋が儲かる式のへ理屈で、強いて言えば「そうなる可能性もないとは言えませんね」であっても、そこに至るにはまだまだハードルが幾つもある。

徴兵制に反対ならそのデモをするべきだと思うが、徴兵がなければ集団的自衛権はあった方がいいとでも言うのか?

「徴兵制になる」と言う人の根拠が、集団的自衛権を認めたら自衛隊の志願者が減る、だからいずれ徴兵制、などというのに至っては、転倒した希望的観測が強過ぎる。

だいたい、自衛隊の入隊者の実態がどんなものなのか、皆さん気づいていないのか、都合良く無視しているのだろうか?

たとえば大阪府で成績第一位の募集事務所は、同和対策事業で再開発されたが今は閑散としてしまった、あべのベルタにある。いわゆる被差別部落出身だったり、就職差別で他に仕事がない人が多い。  
出自で就職差別に晒されたり、学歴でハンディを負う若者の手っ取り早い就職先が、自衛隊であったり暴力団だったりすることも、忘れられては困る。まして官邸まで「集団的自衛権反対!」でデモに行った人たちは、在日への差別に反対すると称するカウンター・デモに参加している人も多いはずだ。口では差別に反対と言いながら、日本の差別の被害の現実になんの関心も想像力も持たないのでは、ただの偽善だ。

ところがずっこけることに、官邸前に「集団的自衛権反対!」でデモに行った知人に寄れば、警官の対応が丁寧だったとか、そうするとしたり顔で「彼らが真っ先に戦争に行かされることになるから、実は僕たちに賛成なんだよ」とか解説した阿呆がいたらしい。

それが自称は「映画評論家」だとか…こんなヤツの書く薄っぺらで勘違いの自己愛に満ちた、なにも分かってないし分かる気もない愚劣な駄文を「評論」だの「批評」だのと名乗られては、映画への冒涜だ。 
その阿呆評論家は、まさにその、例のカウンター・デモとやらにも参加していたらしい。そこまで人間的想像力に欠如した独善で映画なんて見られちゃ困ります。 
俺の映画は普通の人が素直に見れば誰でも分かる作りになってるけど、こんなバカには絶対に理解できんわ。

もう、どこまで自分と自分達の徒党にだけは甘いのか?

なぜこうも、自分とその周囲半径5メートルの集団依存の自己愛しか考えられないのか?

あなた達はなぜ、世界のなかの日本どころか、社会のなかの自分という意識すら持てないのか?

警官が案外と丁寧ってのはね、福一事故以来、官邸前や国会周辺のデモは度々あるし、なぜか恐ろしく警察権力に従順か、せいぜいポーズだけ黄色い声で「人権侵害よ」と声を張り上げながら実は警察に協力して参加者の交通整理で威張っているいわゆる「プロ市民」しかいないから、警察もあしらい方のノウハウが出来上がっているし、慣れもあって冷静に対処している。あともしかして、ちょっと呆れているだけじゃない? 
だいたい最近の若い警官は、昔ながらの「オイコラ警官」なんて、職質でだってそう簡単に本性は現しませんて。 
かつての安保反対とは違うんだよなあ、いろんな意味で。 
なにしろそのいわゆる「プロ市民」だとかは、参加者でもカメラを向けたら「肖像権の侵害よ」「あなたスパイじゃないの」とか言うらしい。というわけで、「デモに参加しました」でツイッターやFBに並ぶ写真は、後ろ姿や旗と空ばかり。 
えーと…自分の顔も名も堂々と示すこともない「デモ」って、誰に何を訴えているつもりなんですか?

もちろん自分が戦争に行く、他国の誰かを殺すなんていやだ、という良心が反対の理由になること自体は悪いことではない。

だが集団的自衛権への反対では、まず論理の飛躍がひどいし、だいたいその今の段階でいきなり「ボクは戦争に行きたくない」だけが論点では、あまりに自己中心的ではないか?

これは福島第一原発事故を受けた反原発デモの頃から気になっていたことだ。その時に多くの反対者を結束させた最大の合い言葉が「ワタシは被曝したくない」…のは分からないではないのだが、東京やそれこそ大阪で、そんなこと言うのはさすがにナンセンスだ。

実は直接になんの被害も受けず、実際の被害当事者と関係もないはずなのに、自分達がこそが被害者だ、と主張したがるのはなぜか? あたかも「ワタシたちは被害者だ」で連帯すれば、絶対正義にでもなった気分になれるようだ。

挙げ句になんの関係もなく、話すら聞こうとしない相手を「被害者」と認識して同化した気分になり、「フクシマ」の代弁者を気取る。そんな勝手な空想が膨らんで「フクシマの子どものお葬式デモ」まであったとか、ただの自己中心主義に耽溺したまま、一歩もそこから進歩しようとしない。

まあ40年間、福島浜通りにいつのまにか原発が二つも出来てもまったく気づかず、中越地震で柏崎の原発が止まっても、東電が先に手を打って絶対に東京では停電が起こらないように邁進… 
…で、そのあなた達の電気のために政府が福一の原子炉の寿命を延長までしてくれて、なに不自由なく、なにも考えずに原発の電気の恩恵に甘えてくれば、過保護の結果で自己中心主義にしかなれないのも、しょうがないのかも知れないが。

だがなによりもまず、福島県には現実にその原発事故に直面し、生活を奪われた人たちがいることは忘れるべきではない。それは単に「被曝したかしないか」の問題ではない

まったく健康被害の不安が皆無とまでは言い切れないにしても、なにしろ実際に自分達に被害があるのだからちょっと勉強してみれば、福島県のほとんどの地域でさえ最優先のプライオリティではないリスクだと、皆さんすぐに理解していた。

と同時に、そうした勉強や理解が、実は250Km離れている東京や、もっと離れている大阪であるとか、東北の被災地以外の日本にはまったく共有されず、被曝したかどうかそれ自体よりも「被曝している」とみなされ差別されることで起こる問題の方が怖いこともまた、ほとんど瞬時に骨身に沁みて感じていた人が多い。

農家のなかには追いつめられて自殺者も出ている。あれから3年、本質はなにも変わってはいない

大熊町の梨農家

福島第一原発事故の被害が大きいと喧伝すればするほど、反原発という主張に説得力を持たせることには一応はなる。だからこれだけの規模の事故の割には意外と被害は最低限度でなんとか切り抜けている、ということは認めたくない心理は働くかも知れない。

だがそれを勘案しても、事故発生直後からインターネットを利用してどこそこで鼻血だの足が5本の牛だの、福島で奇形児が大量に産まれただの、「こんなの真に受ける人がいるの?」と呆れるような話が、自称「反原発」な人たち(ほとんどが匿名)の口から口へと拡散するのは、あまりに無責任というものだ。

しかもそういう、震災直後のパニック心理でやってしまったことを、反省しているわけでもない。

こんな「反対デモ」の独善を、原発事故被災の当事者になると同時に、「被曝している」と差別され、「原発マネー」などと中傷される立場に追いやられた人たちは、事故直後から気づいていた。

3年4ヶ月になる今月になって、やっと福島民友が、福島県では東京の反原発デモがどのように見られていたかを率直に論評した記事を載せたのだが、これはこの3年間、福島で多くの人たちが思って来たことそのままだ。少しは謙虚に耳を傾けたっていい。



デモの主催者側が「レッドウルフ」さんであるだけでもずっこけるのだが、そのレッドウルフさんたちがこんな「反論」をネット上に出している。

http://coalitionagainstnukes.jp/?p=4870 

もう論評する気にもならない…。

とりあえず読んで下さい。ただし途中でこのあまりに幼稚な身勝手にうんざりして止めてしまっても、僕は文句は言いません。

改めて確認だけしておく。この民友の記事で書かれていることは、実は福島では3年前から多くの人が思って来たこと、冷静に考え抜いて来たことだ。言葉も慎重に選ばれている。

だが「フクシマのため」で取材に行くんだか講演でチヤホヤされたいんだかよく分からないジャーナリストの人たちの耳には、なぜか入らなかったらしい。

それでも「これ以上故郷に原発がある現状は続けて欲しくないし、他の原発立地の人たちに同じ目に遭って欲しくない」と、東京のデモにゲストで参加した人もいる。

だがそこで彼らの多くが感じたのが、どうしようもない違和感だ。

ことさら悪意を見せるわけでなくとも、なぜこうも無神経なのか、なぜ現実を見ようとしないのか?同じことは東京から来たそういう「反原発」の人を受け入れた地元の人たちも感じていた。

たいした被曝が確認されていないいわき市の南部で、翌年には田植えを始めているた風景を見て「やっぱりやっちゃうのね。国の圧力が怖いのは分かるけれど」とか言っちゃうらしい。あんたら百姓が田畑に賭ける誇り、生き甲斐をなんだと思ってるんだ? 
飯舘村、長泥の除染実験
 無論一方で、いわき市の中央台のブルジョワ奥様だとか、福島市の大学教員のなかには、なにしろ東京に憧れ、標準語でお上品に喋るのがプライドだったりするのか、「危険です危険です」と地元で調理される学校給食すらストップさせて、東京の模倣にひたすら走った人もいる。 

広野町と楢葉町の境
日本の中央集権社会が招いた堕落とアイデンティ喪失の滑稽な悲劇であり、福島県から地元採用された東電正社員が同様の無神経さで「俺たちは日本を救ったんだ」とか同級生に威張り散らして呆れられるのと、実は同じことだ。

昨年末に特定秘密保護法が強硬されたときには、「私たちの言論の自由が奪われる」「好きなことが言えなくなる」「藤原さんだって日本でもう映画を作れなくなりますよ」とか言われ、途端にデモになぞ行く気が失せてしまった。

ちょっと待てくれよ、おい。

あれが無茶苦茶な法律であることに異論はなく、むしろ僕はもっとも厳しい批判を言って来た部類だが、この法律で僕の表現の自由が直接に侵害されることはない(処罰されるのは機密を漏らした公務員だ)。せいぜいが間接的には持っている永田町や霞ヶ関方面からの裏の噂の入手ルートがいささか枯渇する可能性がある程度だが、特定秘密保護法を使って僕が作る映画を止めることは出来ない。

だいたい、そんな国家機密の暴露がなくても、僕の政治的なテーマの映画の一部は一応は左派リベラルの日本の独立系映画業界でも敬遠されたりすることが少なくない。米軍基地(というか米兵住宅)を扱った『フェンス』の第二部はたぶんにコメディとして構成しているが、笑いが出ないどころか、どこがブラックジョークなのかすら伝わらなかったのは、日本の、それもむしろ業界の人たちだ。 
山形ドキュメンタリー映画祭では遠慮した一般のお客さんに「笑ってよかったんですね」と後で言われたほどだ。 



寄生虫と外来生物による自然破壊の話のあと、米兵の奥様たちが乳母車で赤ん坊を連れているシーンを見せて思いやり予算の総額を告げれば、普通はギャグだと分かりますよね…?

「集団的自衛権は徴兵制になるから反対です」というデモにも、同じ違和感、同じ異様な自己中心主義、なにかの理念や「これが正しいことだと信じる」という意思も見えず、客観性の欠如した、ぶっちゃけただの自己満足の感をどうしても拭い切れない。

「戦争に行くのはいやです」ならば、せめて「私は人を殺したくない」を毎回毎回、付け加えてもらえないだろうか?

「どんな理由があろうが私は殺人は悪だと信じる」と言ってくれないだろうか?言わないでもいいから、心の中でしっかり自分のなかに落とし込んでくれないだろうか?

「自衛官が殺される」だけではなく、「自衛官が人を殺す」に反対してもらえないだろうか?自衛隊は私たち国民の自衛権を担保し、いわば肩代わりすることで存在して来た組織だ(というのが従来の憲法解釈)。つまりその自衛隊が他国の人を殺すのは、私たちの国、私たち国民の名においてである。私たちはその意味で、殺人行為の間接的加害者にもなる。「それはいやだ」となぜ言えないのだろうか?

「戦場で人を殺す」とはどういうことか、この際ちょっとでいいから考えてもらえないだろうか?

第二次大戦中から、米軍では戦場における「非効率」を研究して来ていて、ごく初期から分かっていたことがある。戦場におけるいわゆる「無駄」は、その八割以上が、いざ他人を殺すときに人間が躊躇することが理由だった。 

ジョン・ヒューストン監督『そこに光あれ』 

以後、米軍ではこの人間には誰でも備わっている本能的な良心に着目し、いかにその良心の働きを弱めるかを計算した訓練プログラムの開発を進めて来た。 


スタンリー・キューブリック監督『フルメタル・ジャケット』 

イラク戦争の結果、帰還兵にPTSD患者が多く、殺人事件まで多発している理由は、ただそれだけ過酷な戦場だっただけではない。まさに「良心を殺す」ことを目標とした訓練プログラムが、その人たちの人格まで歪めてしまったのだ。

まだ60年安保で国会前で絶望的に闘った世代(つまり小学校低学年か幼稚園で、空襲で逃げ惑った世代)が、「孫を戦場にやりたくない」と言うなら分かる。



大島渚監督『日本の夜と霧』


それにしてもあなた達は、デモや政府に反対するということを、なんのためにやっているのですか?

自分が社会の一員としての責任感から、少しでもこの社会をいい方向に進めたい、悪い方向や危険な方に進むのを阻止したい、という意志は、建前だけでもいいから言わなければなるまい。

「ワタシいやなんです」だけなら、なぜ他人があなたの言葉を聴く必要があるのだろう? 
なぜ「さいかどーはんたーい」と間の抜けた踊りをやってみたり、黄色い声で「安倍死ね!」と絶叫しただけで「なんで行動しているボクの言うことを聞いてくれないの!」と、上記の「首都圏反原連」とか名乗る人たちのように勘違いしたことが言えるのだろう? 
デモとはパフォーマンスだ。パフォーマンスは観客が見るためのもので、演者の自己満足を満たすためにあるのではない。

もうひとつ滑稽なことがある。

こうした最近のデモは(官邸前にせよ、新大久保の「在特会」と「カウンター」の双方にせよ)、かつてのような組合等の組織による呼びかけではなく、ネットを使って参加者に声をかけている。

だからついうっかり「レッドウルフさん」が新聞記事になってしまうように、ネット上で知り合ったどうしの「オフ会」の感覚が抜け切れていない。

ちなみに福島民友の記者はちょっと意地悪はやっていると思うけどね。「レッドウルフ」さんだの「ぼんちゃん」さんだの「どーどる」さんなどが新聞記事に出るだけでまるでマンガだ。よほどネット依存でもしていない限り読者は失笑する。 
しかしそんなのは、気づかず実名を名乗らなかったあなた方の自業自得だ。

彼らがデモで絶叫する(しかしなんで「安倍死ね」とか言うのかね?正義のためのデモじゃないのか?)以外の発言の場も、主にネットである。

なのに彼らはネット上で批判されると、「俺たちはお前らみたいにネット上で批判してるんじゃない!行動しているんだ!」と言って批判を逃れる手口を、ほとんど水戸黄門のご印籠のように振り回せばいいと思い込んでいる。

いやだから、国会前で「死ね」と叫ぼうが(批判にもなってない)、ネット上できちんと論理を構築して筋道の通った批判を繰り広げようが、言葉は言葉です。

で、どっちかといえば後者の方が高級な言論であること、民主主義の社会にはむしろ後者が必須であることは、言うまでもない。

しかし「レッドウルフ」さんねえ…

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