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12/20/2015

「夫婦同姓は合憲」判決:日本は法治国家ではない

まず真っ先に確認しておくべきだろうが、最高裁大法廷の判断はあくまで「夫婦同姓(の強要)は違憲とは言えない」でしかない。憲法の許容する受忍範囲内で違憲とまでは判断出来ない、というだけで、選択的夫婦別姓の法制化を「不必要」と断じたわけでも、まして「夫婦別姓は違憲」と言ったわけでもない。

この最高裁の判断は、法務大臣の諮問会議で選択的夫婦別姓の法制化が提言されてからもう20年前後、立法府が怠けて来たので司法の判断という流れになったのを、最高裁が立法府に丸投げで投げ返して判断を避けたという以上の意味は持っていない。要は最高裁は判断したくないので(怖いので?)国会でやってくれ、というだけのことだ。

どうにも法治国家ということ、憲法というものの機能すら理解できない人が政治家でさえウヨウヨいるのが我が国の政界の残念な実情で、最高裁が「夫婦同姓(の強要)を支持した」と勝手に思い込んで舞い上がっているいわゆる保守系議員すらいるようだが、法治国家の憲法とは、そもそもそんな機能を持つ法体系ではない

国家の行政権力・法権力の行使を制約するのが憲法の機能であって、「夫婦同姓がいい」あるいは「別姓がいい」などの方向性を決める権能自体が、法治国家の最高裁の違憲立法審査権には含まれようがない上(それこそが立法府の仕事)に、憲法の基本理念から言っても、今回の最高裁大法廷判断が個人の名前を個々人の自己同一性の認識に関わる人格権の範疇として認めている以上、その自由を最大限保証することの方が憲法の理念により合致するのは、当たり前の話だ。今回大法廷が判断したのは、結婚で姓を変えなければならない程度の不自由は憲法が保障する基本的人権の範囲内には含まれない、というだけであって、夫婦の姓の選択にあたってより幅の広く、制約の少ない選択的夫婦別姓の法制化の方が憲法の大枠の基本理念に照らしてもベターであるのは、言うまでもない。

今回の判断に至った15人の最高裁判事のうち、女性が3人でその女性はいずれも夫婦同姓の強要を「違憲」と判断していることは報道でさかんに言われている。実際には違憲判断を下した裁判官は5人で、女性3人を含むその出身は大学教授つまり有識者、行政官つまり実務官僚、そして弁護士だ。元裁判官と元検察官のいわば司法キャリアは、いずれも「合憲」と判断している(そして全員男性である)。こうなると日本の司法制度の中枢を担う人材のクオリティこそが問題にも思えて来るわけで、三権分立や司法の独立、公正な裁判制度の維持どころか、そもそも日本が本当に法治国家なのかにも疑問を覚えずにはいられまい。なにしろ裁判官や検察官が、法論理に基づく合理的な判断や、自身の判断に論理的整合性の説得力を持たせることに怠けているというか、その能力すらない、自分の主張に論理的な裏付けを構築する必然にすら気付かないか、自分達の主張にいかに論理性が欠けているのかに無自覚なのか、疑問を覚えずにはいられなくなる。

なにしろ最高裁大法廷の判断には、どうにも首を傾げるところがある。判決文は名前を個々人の自己同一性の認識に関わる人格権の範疇として認めておきながら、夫婦同姓、つまりその自己同一性の認識に関わる人格権が制約され得る憲法上の理由を、まるで提示出来ていないのだ。

日本国憲法の論理構造からして、人格権が制約され得る唯一の理由は「公共の福祉に反する」だけだ。だが夫婦同姓というたかが明治時代後期に決められた人工的な法慣習に例外を設けることのなにが公共の福祉に反するのか、「定着している」というだけではおよそ理由にならないし、一方でこの大法廷判断は通称としての旧姓の使用を推奨までしているのだ。通称として旧姓を用いればよい、つまり実生活の人間関係では夫婦が別姓で問題がないと認めるのなら、「公共の福祉に反する」という理屈は崩壊するはずだ。

法的には通称でしかない名前を社会生活上名乗る上で、本人に法的な手続きが介入する状況で多々不便が生ずること以外には(つまり本人が困る以外には)、公共つまり社会の側は夫婦が異なる姓を名乗ることでなんら利益を損なわれることがないことを、この判断は認めてしまっているのだ。だが、ならば姓の変更を受忍すべき理由がそもそもない。

社会生活上で通称の使用が奨励される、つまり夫婦が異なる姓を社会生活で名乗ることが公共の福祉に反しないのなら、それぞれの産まれた姓を法的にも名乗り続けることが許容されず、婚姻に伴う姓の変更を受忍しなければならない理由がそもそもなくなってしまう。

男女、夫と妻のどちらのかの姓に統一すればいいのだから男女平等に反するとは言えない、というへ理屈に至っては、司法が「象牙の塔」と一般に揶揄されてもしょうがないほど現実離れしているのは言うまでもない。実際に96%の夫婦は夫の姓を名乗る、それが「当たり前」とされているわけで、妻の姓を名乗るのは「婿入り」か(妻の実家に女子しか子どもがおらず姓を維持するため)、夫がよほど「理解がある」場合など、特殊な事情に限られるのが現実だ。こうも現実離れしたことを最高裁が言い出してしまっては、司法への信頼を司法自らが損ねていることになり、それこそ公共の福祉に反する。

そもそも選択的夫婦別姓に反対する人たちは、反対していることそれ自体からして、法治国家とはなにかが分かっていない。選択的、つまりは個々のカップルの自由であって、あくまで「他人様」のことなのだ。あなた達にも、あなた達の夫婦関係にも、あなた達の子どもにもなんら関係がない。夫婦でも異なった姓を維持したい他所の夫婦のプライベートに介入する権利なんぞ、いったい誰があなた方に与えたと言うのだ? 他人様の私生活に自分の価値観で介入するのなら、せめてもう少し説得力のある理由がなければおかしいだろう? その人たちが夫婦で異なった姓を名乗ったところで、あなた達にはなんの損害もないはずだ。

あなた方が結婚するときに妻の姓を変えさせることは、妻が納得する限りはあなた方の自由だし、選択的夫婦別姓が法制化されたところで、あなた方の夫婦関係はなにも変わらないはずだ。それとも妻を説得するのに法律だからと言い張ることくらいしか思いつかないほどのダメ亭主なのか?

夫婦でそれぞれに産まれたときからの姓を維持することを、そのカップルの自由選択に任せたところで、そのカップルの勝手であって、あなた方にその他人様の自由を制限する権利なんぞ、本来ならあろうはずもない。

「日本の麗しい家族制度」?そんなのあなた方の個人的な趣味でしかなく、ご自分で維持するのは勝手だが、他人に押し付ける正当性はないし、そもそもそんなに夫婦同姓が「麗しい」のなら、法律で守る必然などなく、ほとんどの夫婦は同姓を選択して「麗しい」家庭を営むであろうし、そうすることでこそ「日本の麗しい家族制度」とやらの道徳的正当性も立証されるはずだ。

もちろん実際にそんなことがないのは言うまでもない。

むしろ法的に事実婚を選択した夫婦の方が一般論で言えば仲睦まじくあるくらいで、離婚手続きが煩わしい、離婚して姓を戻すと結婚した時と同様の名義変更などの手間がかかるから、というのがいわゆる「仮面夫婦」が維持される理由のひとつになっているほどだ。夫婦が同じ姓を名乗り仲睦まじく「麗しい」家庭を築くのなら、そもそも夫婦関係なんて究極のプライベートでもあり、公的な法制度が介入しない方がうまく行くに決っている。

いささか底意地の悪い邪推をしてしまえば、だからこそああした人々は夫婦同姓を強硬に主張するのだろう。端的に言ってしまえばただの嫉妬であり、裏返せば自分達の夫婦関係や家族の絆に自信がない。だから夫婦で異なる姓を名乗ることに共闘している夫婦の姿であるとか、妻に理解を示すそうした夫達に嫉妬をぶつけているに過ぎないのではないか?

ちなみに結婚の際に夫が自分の姓を棄てて妻の姓を名乗ると「理解がある」など立派な人扱いされるのも、ある意味おかしな話だ。大部分の女性はそれを「当然のこと」として受け入れるか抵抗を覚えながらも従っているのに、女性の側が「理解がある」「立派な人だ」と言われることは皆無なのだから。

実際には別姓を維持するために法的には「事実婚」の状態を選択したり、夫が妻の姓に婚姻で姓を変更するのは、夫婦が合意してやっていることであってただ夫が一方的に妥協しているわけではないはずのに、夫婦別姓を望むことが男女の対立軸で議論されるのも、いったいどういう無自覚な全体主義社会なんだ、と毒づきたくもなるのだが、「フェミニストが」とか悪口雑言を言い張る男達にひとこと忠告しておくならば、「だからあなた達はモテないんですよ」、これでは“非モテ”の悪循環のデススパイラルにしかなっていない。

「子どもが困惑するからかわいそう」とか「混乱する」という主張も、呆れるほどの想像力の欠如というか、子どもがどう育つのかということが理解出来ていない。その程度の出来が悪い夫であり父親にしかなれないのなら、子どもに尊敬されたいなんて身の程知らずの身勝手ではないのか?

別姓の父母に育てられた子どもは、最初からお母さんとお父さんの名字が違うことが当たり前の環境で育つのだから、混乱なぞするわけもない。「周囲と違うからかわいそう」とか「いじめの原因になる」とかの主張が通ってしまうに至っては、だから日本は過去30年、十代の子どもがいじめ被害を苦に自殺するような歪み切った教育環境をなんら改善することも出来ないままなのだ、と言ってしまえば、話は終わる。

いやまったく、どこまで個々人の人格と自我の独立性を去勢したがる、どういう全体主義国家なんだよそれは、としか言いようがない暴論がまかり通っているわけだが、人格権として憲法が保証しているはずの自己同一性の認識に関わることで言えば、個々人のアイデンティティとは本来、「自分は周囲とどこが違うのか」という認識の獲得から始るはずのものだ。これでは自我の発達を人工的に阻害し、みすみす依存性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害の予備軍をシステマティックに育成しているような話だ。

記者会見で原告は選択的夫婦別姓を求める自分達の訴えが棄却されたことそのものよりも、夫婦同姓を「合憲」とみなしたその理由があまりに「チンケ」であることに失望を口にした。まったくもってもっともな感想だとしか言いようがない。「自分の名前を名乗ること」が自己同一性の認識に不可欠であるのは言うまでもなく、それが憲法の認める人格権の一部だと言うのなら、それが制約されるにはもう少し説得力のある理由を提示出来ないことには、あまりに他人様を馬鹿にしている。

どうしても夫婦同姓の法制度を維持したいと思っている皆さんにお願いがある。せめてもう少しマシな理由を考えて下さい。

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