最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

8/24/2016

水俣病発生から60年、未だ抜け落ちている政治の責任


NHKのクローズアップ現代プラスが、水俣病についての新事実、加害側企業チッソの内部文書をスクープした。チッソの久我正一副社長(2008年没)の、1977年〜78年の政府との折衝に関する生々しいメモだ。この時期に水俣病をめぐって起こった二つのことに(誰もが疑っていたように)やはり因果関係があったことが、このメモの発見で立証された。

●ひとつは政府によるチッソ救済のための公的資金投入の決定。

もうひとつが1978年の環境庁通達により、水俣病の認定基準が複数の症状が見られなければ絶対に認められなくなったこと(実際には、72〜3年頃にはすでに現場ではこういう運用が支配的になっていた)。

この二つの決定は直接の因果関係にあり、政治が深く関わっていたことが久我メモで立証された。

政府はこれまで、認定基準の厳格化については「医学的知見が深まったことで」と説明して来た。もちろん誰が考えたって、これがチッソが補償金として支出する金額を抑えようとする目的なのではないかとまず思うだろう。さらに厳密に言えば、77年から78年の時期以降、チッソを通して患者に補償金として支払われる国の出資を減らすため(国が既に国費によるチッソ救済を決めていたので)と疑われて当然なのだが、それが今回やっと政府が言い逃れできないように立証されただけでなく、政府の資金によるチッソ救済が決まった舞台裏も明らかになった。

水俣病といえば言うまでもなく、土本典明による日本ドキュメンタリー映画史の金字塔、『水俣 患者さんとその世界』から始まる17本の映画でも、深く切り込んで記録されてきた事件だ。しかし1977から78年の水俣は、その土本典明の水俣シリーズも撮影されていない時期だ。

土本典明「水俣 患者さんとその世界」1971年

ちなみにメモの主、久我副社長は土本の『水俣一揆』で島田社長の横にいつもいる「悪番頭」キャラの人だ。『患者さんとその世界』のクライマックスに登場する江頭社長も島田氏もメインバンクの第一勧銀からの出向で、チッソ内部からの叩き上げで実務を(その後ろ暗い部分まで)掌握し続けていたのが久我氏だったと考えても、間違いはないだろう。

「水俣一揆」中央の背中が島田社長、左が久我副社長
机に座るのは患者の川本輝夫氏

その久我氏は、患者への補償金負担がチッソの経営を圧迫し、倒産も視野に入る危機的な状況の中、政府に働きかけていた。

そこで久我氏に紹介されて国費の注入によるチッソ救済の枠組みを作るように動いたのは、意外な人物だった。当時は財務官僚から参議院議員になったばかりの、藤井裕久・元財務大臣である。

後に藤井さんは1993年にその自民党を離党、小沢一郎氏らとともに新生党を立ち上げ、細川護煕内閣で財務大臣を務めた。細川政権が倒れた後も自由党と民主党の幹事長、民主党の最高顧問を歴任、テレビ討論などで財務省の内輪の論理にも批判的に言及するなど、経済政策を中心に実直な正論を展開し、日本の政治家としては数少ない良心的な実直さを見せて来た人物で、2009年の政権交代への道筋を固めた1人でもある(鳩山由紀夫内閣で再び財務大臣になるが、健康を損ね辞任)。

今は「生活の党」の小沢氏のモットーとなっている「国民の生活が第一」というのは、藤井さんの信念でもあった。

その藤井裕久さんが、久我副社長のメモで名指しされていた。

今回インタビューにも誠実に答えてすべてを「その通りです。間違いありません」と認めたのは、いかにも藤井さんらしい態度ではあった。とはいえ、そんな藤井さんが政治家に転身した直後に、こんな後ろ暗い、いわば「汚い仕事」に関わっていたのは、驚きでもある。

だが藤井さんがこの「汚い仕事」に力を尽くした理由である、患者に補償金が支払われ続けるためには、チッソを潰すわけにはいかないという現実もまたもちろん、ちょっと考えれば誰でも気づくことだ。その補償金なしには、多くが漁民であった患者たちは身体の自由も、肝心の漁場である水俣の豊かな海もチッソの汚染水に奪われ、極貧に追い込まれかねない。

水俣病事件について忘れられがちな視点は、公害の被害がただ加害企業を断罪する「正義」だけでは終わらない厳しい現実だ。水俣市自体が日本の高度成長のなかでその経済をチッソに依存せざるを得ない企業城下町であり、そのチッソが破産すれば企業責任は有限責任なので、補償金も支払われなくなる。

「汚い仕事」とはいえそれだけで藤井さんに幻滅するわけではない。むしろ「生活が第一」であれば、働くことが出来なくなった患者たちへの補償にこそ、万全が尽くされなければならない。藤井さんの、つまりは小沢一郎氏たちの「国民の生活こそ第一」の原点は、もしかしたら実は水俣にあったのかも知れない。

補償金の負担でチッソが倒産すれば、水俣は様々な意味でドン底に追い込まれ、死の町にすらなっていたかも知れない。当然ながら、藤井氏のところには水俣からのチッソを守って欲しいという嘆願もあった。

とはいえ、チッソを救済するための公的資金投入を、「あんなひどい会社はつぶれて当然だ」と思っていた世論相手に正当化する工作がいかに大掛かりだったのか、政府が直接に動いてまで水俣市民にチッソ擁護の世論を作り出そうとしていたというのは、さすがに驚く。藤井さんは「騒ぎを起こすいう言い方は好きではないが、その通りです」と認める。

だがその世論形成の結果、水俣で補償を受け取った患者への風当たりや差別が激しくなることまでは、政府でも考えていなかったようだ。ここはぜひ、もっと藤井さんに訊きたいところだ。結果を知れば当たり前の展開ではある。しかし事前に思いついたかどうか?思いつかなかった、気づかなかったことに責任はないのか?

藤井さんはNHKの取材に率直に応えていたが、もっと突っ込んで話を聴かなければならないことは多い。それは藤井さん個人の問題ではなく、公害の救済がただ「正義」を通すだけで済む問題ではなく、現代の社会の構造それ自体の欠陥に深く切り込まなければならない課題であり、水俣病発見から60年経った今でも思想的・理念的な大枠すらまったく未解決のままだからでもある。

今の藤井さんであれば、その責任から逃げるようなことはないだろう。

そして77年から78年の藤井さんは、ある意味で誰よりも公害問題の複雑さと根の深さを考えていた(考えざるを得なかった)人でもあるのかも知れない。その立場にいなければ「チッソはけしからん」で済むかもしれない。多くの国民は当然そう考えただろうし、だから藤井さんが国会でチッソの責任を追及する質問をすれば、政治家としての地位は築けたはずだ。だがそうやって悪徳企業のチッソを倒産に追い込めば、患者の受け取るはずだった補償金はいわば不良債権、判決も賠償命令も紙くず同然になる。

とはいえ、その藤井さんでさえ、自分が決めた国によるチッソ救済の結果として、自分が救おうとしたはずの多くの患者がかえって救われなくなった(2万人以上の未認定患者が今も苦しんでいる)ことは認めようとしなかった。

ここも藤井さんをもっと問いつめなければならないことだ。

久我メモには政府内部の恐ろしい言葉も残されている。患者への補償のための国費投入を「ザルに水を注ぐようなものだ」と言い切っているのだ。当時は藤井さんもその党員だった自民党も、福田内閣も、そういう立場からの認定基準の厳格化を追認している。チッソへの配慮のためにすでに不当な厳格さで運用され始めていた認定基準は、今度は国の財政、つまりは国民の財産を守るために絶対的なものとされた。

政府が支援することでチッソは倒産せずに補償金を払い続けることができるようになったが、その結果、患者とチッソの対立する利害の関係性のなかで、政府が完全にチッソ側になったというか、患者への補償が国の財政と国民の利害に反する構図になってしまった。チッソを患者の要求から守ることは政府の財政を守ること、つまりはあろうことか国民の財産を守ることとなってしまったのだ。

だからこそ藤井さんにはもうひとつ、どうしても問わなければいけないことがある。

患者のためには政府がチッソを支援するしかない、という藤井さんの決断は根本的には良心的なものだったが、それでもひとつ大きな問題意識の自覚が抜け落ちていはしないか?

なぜ水俣病被害がここまで広がり、患者が増え、国費を投入しても救済し切れないからといって患者数そのものを減らそうとする(つまり患者を切り捨てた)結果になったのか、そのそもそもの原因は、どこにあったのか?

言うまでもなくその最大の原因は、厚生省の内部では原因がチッソのメチル水銀だと分かっていて勧告も出ていながら、政府が「政治的判断」で原因の公式認定を遅らせたことだ。水俣の患者たちが、自分たちの「奇病」の原因が自分たちの食べた魚で、それがチッソの廃水に汚染されていたせいだったと知ったのは、公式発見の1956年から12年も経った1968年のことだ。

だから政府もまた患者の支援と補償に力を尽くさねばならないのは、単に政府として国民の生活を守る義務があるだけではない。水俣病の患者がこれだけ増えてしまった大きな責任と罪は、政府にこそあったのだ。

その時には、高度成長を支える優良企業、日本のトップクラスの化学工業企業だったチッソを守るのが政府にとって優先事項だったのであろうことも、想像に難くない。政府はだからこそ原因の究明をわざと先延ばしにしたのだろうが、この「未必の故意」状態の先送りのタイムラグのあいだに水俣でなにが起きていたのかは、土本が克明に証言として記録している。

『医学としての水俣病・第一部』の冒頭で渡辺さんが証言しているように、水俣病の症状がでた患者は、精を付けるためにかえって魚を食べる量を増やしていたりする。考えてみれば当たり前のことだ。「魚が原因」とは誰も教えてくれなかったのだから、漁民であればまず魚を食べて栄養をつけようとする。その結果、かえって患者はより多くの毒性の有機水銀を体内に取り込んでいた。

ほっておけば健康回復のために魚をより一生懸命食べるだろう、このような当たり前の想像力すら東京の役所にいる人たちはなかなか持てていないことは、今も変わらない。たとえば福島第一原発事故でも、まったく同じ問題が露呈している。

その想像力を持てなかったことそれ自体が、中央官庁や政治家の、巨大で罪深い能力の欠如であることから、我々も政治家も目を逸らしてはならない。「仕方がない」では済まされない。せめて「能力がなかった」ことの罪は反省しなければならないはずだ。

既に述べた通り、77年から78年の時期に水俣で起きていた重大な変化は、土本の水俣シリーズでは撮影されていない。そして土本の仕事があまりに偉大すぎるため、『不知火海』つまり70年代半ば以降の水俣は、かえって日本のドキュメンタリー映画史から抜け落ちた状態になってしまった。77年から78年に実は起きていた大きな動き(政府側の巻き返し)も、土本の映画がないのでなかなか知られない水俣病の歴史の一頁になっている。

『不知火海』が撮られたとき、患者達の社会的・政治的な戦いは一応は収束し、映画は「生きることの闘い」というか、水俣病との闘いとはすなわちいかに患者が人間らしく生きられるのかであるという問題設定に、映画の関心が明らかに移行している。

だがその数年後、土本が水俣を撮り続けられなくなった時に、患者たちはまず自分たちの健康な生活を奪った加害企業であるチッソを許すことができるのかという葛藤に追い込まれ、補償金を得たことが単に嫉妬されるだけでなく、チッソを苦しめているのだという差別攻撃まで、他ならぬ故郷の水俣から受けることになる。

ただでさえ結婚などで差別されるのを恐れて認定の申請すらできなかった患者たちはますます追いつめられ、その後に待っていたのは申請しても認められるのは10%以下という、国がこっそり設定していた高いハードルであり、その正体は日本の現代政治が自らを雁字搦めにしていた深い闇だった。

『不知火海』を頂点とすることで、土本の映画はなによりも患者たちの人間性の回復のための作品となったし、その患者と直接対峙することになった会社の側の立場までは、土本は『水俣一揆』ではっきりと映画に刻み込んでいる。しかし政治を直接に問うことまではやっていないし、当時の自主製作のドキュメンタリー映画にはその手段もなかなかなかったし、だいたい政府も自民党の政治家も、現役だった当時では絶対に取材に応じなかった。

しかし水俣病事件それ自体は企業の責任だとしても、その背後には大きな政治の流れが一貫して関与しており、政治の責任こそが重大だ。それがどんな関与だったのか、政府がなにを考えていたのかは撮られていないので、この事件を映画的に考えるときにどうしても抜け落ちがちだ。

逆に言えば、今水俣についての映画を作るのなら、今回はっきり因果関係が立証された国によるチッソ救済(これが患者のためにも必要だったことは、僕も認めざるを得ない。土本も認めていた)と、その結果としての認定基準の不当な厳格化の問題こそ、取り上げられるべきではないだろうか。

そして政府側の人間として藤井裕久・元参議院議員にもぜひとも映画に出て、もっと深く語ってもらわねければなるまい。

土本の水俣シリーズに限らず、日本のドキュメンタリーはこれまで、なかなか政治家の側、権力の側それ自体の問題に切り込むことが出来て来なかったし、政治の側でも映画に出ようなどとは思わなかっただろう。

今の藤井裕久氏であれば、その日本の戦後政治の根源的な問題をこそ語ることに、応じてくれるはずだとも思う。

公式発見から60年、水俣病事件は終わっていない。2万にもおよぶ未認定患者がいて、政治決着はなされたものの極めて不完全なままだ。裁判所も認定基準のおかしさを指摘する判決を出しているが、まだ確定・決着はしていない。いや、現行の認定基準の厳しさが政府のいう「医学的知見」ではなく患者への補償を続ける財源の不安から来た財政的ベースの判断に過ぎなかったことが立証された今、政治決着は白紙に戻し、そもそも政府の不作為によって多くの人が水俣病になった責任も含め、改めて問い直されなければならない。

しかも奪われた人生を取り戻すためのその時間は、ほとんど残されていない。

そのあいだに、当時3歳だった第一号患者の田中実子さんは、63歳になった。土本典明の映画には、まだ少女の姿だった田中さんが何度も写っている。その妹をずっと介護し続けていた姉の下田さんは、自身も中学生の頃から手のしびれなどの症状が出ていたが、差別を恐れて認定申請はしなかったという。やっと認定を受けようと思ったのは1978年以降で、10%にも満たない認定率では、認められるはずもなかった。

妹が重度の水俣病患者である。水俣病が食中毒である以上、同じ食生活で育って来た下田さんの症状が、水俣病でないわけがないはずだ。

これは土本が『医学としての水俣病』の、とりわけ第三部で指摘したことでもある----具体的な症状だけがベースの認定基準は、そもそも科学的ではない。

その下田さんは今回明らかになった経緯を知らされ、NHKのカメラの前でこう呟いていた。「人間的でない」「煩悩(熊本方言では「他の人間への執着」転じて「思いやり」の意味になる)が欠けちょる」。

今回のクローズアップ現代では使われていなかったが、おなじくNHKのETV特集では別の下田さんの深い言葉があった。ずっと面倒を見て来た妹よりも自分が寿命を迎えてしまうことの不安を語りながら、下田さんはその妹の実子さんを「生き甲斐」と呼んだ。

水俣では、まだまだ記録の映画が作られるべきだし、チッソ救済のための世論形成の内幕と厳格化された認定基準が生み出した深い亀裂は、映画が一本作られるべきテーマだと思う。

それは単に水俣病の歴史で抜け落ちている重要な一頁を埋めるためだけではない。私たちの戦後日本の社会と文明のあり方そのものに含まれる矛盾と限界が、ここに現れているからだ。

8/17/2016

「靖国神社」問題の最終的解決策


想定を遥かに超えた茶番に呆れる他はない。

例年8月15日に靖国参拝することをいわば公約にして来た稲田朋美議員が8月の内閣改造で防衛大臣になったとたん、その8月15日前後に海外出張で逃げ出すというのもバカげているが、それを「知恵」と評価するコメンテーターもいたりするのは呆れてものが言えない。

こんな不誠実さの表明で姑息さを世界に晒すくらいなら、まだ堂々と靖国神社に参拝した方が防衛大臣にふさわしかった。

公人としての立場上行けない、というのなら国会議員であっても同じことのはずだし、大臣という出世とポストのためには信念も曲げるなら、彼女が毎年参拝して敬意を表して来たはずの戦死者にも失礼なら、出張の名目はジブチに派遣された自衛隊の激励だという、これでは自衛隊を統括する立場の防衛大臣としてダシにされた自衛官に失礼千万だ。

もちろん多くの自衛官は「大臣のため」でなく「国民のため」に任務に当たっていると信じたいが、とはいえ上に立つものがこれで命がけ(かつ有事には殺人も含む)任務を負った組織がちゃんとまとまって動けるとも思えず、自分のポストの保身のためにみすみす士気を下げるようなことをやっているだけでも、防衛大臣はとっとと更迭するのが筋だ。

そもそも、安倍政権がそんなに靖国神社を参拝したいのなら、国を代表する政権として外交上まず通すべき筋がある。

解決策その1)外交問題になるのが不満なら、サンフランシスコ講和条約の破棄と東京裁判の無効を公式に宣言すればいい(できるならね)

もちろん靖国神社は戦前戦時中には軍国主義思想を支えたイデオロギー装置だったし、運営組織はその思想性を維持したまま現在も存続し、侵略戦争を美化する価値観を唱え続けてはいる。そのこと自体も旧日本軍に侵略されたり敵対関係にあった国々の反発を買う可能性は大であるにせよ、日本国が憲法上思想信条の自由を保証し、国際社会もその価値観を共有していて、現在の靖国神社が一宗教法人である以上、外交上問題になる(諸外国政府が問題にできる)のは、日本の公人がA級戦犯が祀られた神社を参拝する、つまり日本政府がA級戦犯を崇拝することが、異論の余地なく国際公約違反になることだけだ。

日本はサンフランシスコ講和条約の調印によって主権と独立を回復して国際社会に復帰しており、同条約には東京裁判(極東国際軍事法廷)の判決の遵守が明記されている。その判決で日本に侵略戦争を始めさせた張本人としてA級戦犯が断罪されている以上は、日本政府やその公人がその人物を再評価し、まして崇拝することは、この講和条約に違反することになる。

それでもどうしても靖国神社に行ってA級戦犯を崇拝したいのなら、安倍政権はまずサンフランシスコ講和条約の破棄と、極東国際軍事法廷の無効を宣言すべきだ。

外交問題としての靖国神社の問題は、単純にただこれだけしかない。

日本国内の一宗教法人の信仰や思想を諸外国の政府が云々すべきことではないし、日本政府にも弾圧する権限がないからだ。だからって公人が支持していいものではないのは言うまでもなく、思想的におかしい以上は公然と批判はするべきだ。この二つの別次元の問題を恣意的に混同して「心の問題」「私的参拝」などと言っているのがおかしい。

極東国際軍事法廷の判決を不当だと言うのなら、国としてそう言うべきだ。不当だと言えないのなら、日本という国家の公職にある以上は靖国神社に行ってはならない。

どうしても個人的な「心の問題」、私的な「思い」で行くのなら、メディアにわざわざ参拝の予定を伝えて取材を期待するなんてもっての他だ。こっそり個人で行けばいいし、記帳はしても神社側に絶対に公表はしないようお願いすればいい。

講和条約の破棄と極東国際軍事法廷の無効を明言する度胸もないのに靖国神社に行きたい、その正当化の理屈として東京裁判は勝者が敗者を裁いたのだから不公平だ、と言い張るのは本末転倒だ。

勝者が敗者を裁くのは不公平だと主張するのなら、国の公式な立場である以上は意見が合いそうな学者の発言をどれだけ引っぱって来ようが意味がない。不公平だと言うのなら公式に東京裁判の無効を宣言しサンフランシスコ講和条約破棄すべきだし、それが出来ないのならそんな発言をする権利などない。

あの人たちは国家の矜持と責任というものをなんと心得ているのだろうか?恥知らずな冒涜も甚だしい。

こんな単純な理屈すら誤摩化されているのが靖国神社をめぐる疑似「論争」だ。そして稲田朋美氏のような誤摩化しがまかり通るようでは、軍国主義の復活以前に日本政府はその不誠実さによって国際的信用を失うし、そんな稚拙な二枚舌を政府が用いるようでは日本国内における政治と法の制定・運用の公平性にすら疑念が生じる。つまり国家が国家でなくなる。

解決策その2)A級戦犯を靖国神社の祭神から外すしかない。そもそも祀られる資格がない

以前には、日本遺族会の会長であった自民党幹事長の古賀誠氏が、遺族会の意思を代表してA級戦犯の分祀を提案したことがあるし、そのA級戦犯のなかでも広田弘毅と東郷茂徳の遺族は文官であった彼らが靖国に祀られることに反対との意思を表明して来た。なぜ靖国神社側がこうした遺族の声に誠実に答えないのか、宗教者としてあまりに不道徳としか言いようがない。

日本人としての基本的な倫理に反することを延々とやり続けて「神社」を名乗ること自体がおこがましい。

靖国神社が外交的に問題なのは、A級戦犯が信仰対象になっている施設に国家の公人が訪問することだけだ。戦没者の慰霊や顕彰そのものについては、むろんやり方次第では諸外国の国民の反発を買い、その国々との関係を悪化させることにはなるにせよ、どんなカルト信仰でも政治家にすら信仰の自由はあり、靖国神社は一宗教法人でしかない。そんなカルト野郎は信用できないと思う国民が落選させるしかなく、まして他国政府が直接云々できることではない。

一方で、靖国神社が戦死者の慰霊施設である以上は一定の配慮が必要なのも現実だ。

そこに祀られた戦死者が「靖国で会おう」を信じて死んだことを、個人差はいくらでもありこそすれど、一般論として否定はできない以上、それが現代から見れば誤った思想であっても、遺族や戦場を共にした者達の、その死者を慰霊できる場所はここしかない、という信仰を踏みにじることまではできない。

だが現代の政治問題としての靖国神社の問題は、そもそも肝心の戦死者の慰霊が完全に蚊帳の外に置かれている時点で、国内的にも(とくに他ならぬ戦死者と遺族や兵隊仲間にとって)恐ろしく不誠実な状態が恒常化していることだ。

そもそも、A級戦犯には靖国神社に祀られる資格がない。国家のために戦死した人たちではないし、東京裁判の判決の遵守を誓約しているサンフランシスコ講和条約を遵守すr国家としての日本の公的な立場である以上は、「戦争でなくとも国にために死んだ」とすら国とその職務にある公人の立場にある限りは絶対に言えない。

それに、むしろ靖国神社に祀られた圧倒多数の戦死者たちにとってみれば、彼らがそこで自分たちと一緒に祀られていること自体がおかしい。

どんなに甘く見ても、A級戦犯は失敗する作戦を立ててその兵士達に死を覚悟した任務を命令した側であり、特攻や玉砕があった旧日本軍の場合は、はっきりと「死ね」と命じてすらいる。

しかも、こと対米開戦の経緯や、戦争が1945年8月まで長引いた理由を歴史的に検証するなら、ひたすら彼らの無能と保身と責任感のなさでなし崩し的に開戦になだれ込み、負けている戦争の責任を取りたくないばかりに無駄に戦死者を増やしたのも彼らなら、具体的な個々の作戦でも指揮官としての無能さばかりが際立つ。

そもそも、負けて自軍の兵士に膨大な犠牲を出すような作戦を強行しただけでも指揮官として無能なだけでなく、無責任極まりない。

遺族や生き残った元兵士、そして戦死した人々にしてみれば「誰のせいで死んだ(しかも犬死に)と思っているんだ?」と言うのが偽らざる本音だ。

解決策その3)「分祀できない」とする靖国神社や神社本庁の言い訳はまったくの虚偽なので撤回せよ

そもそも神道という宗教には、理論化され意識化できる教義がない。

日本に固有の民族宗教である以上、その教義は日本人という民族が伝統的・歴史的に積み重ねて来た倫理観の総体に勝るものはなにもないはずだ。なのになぜ靖国神社側が遺族の思いを踏みにじり、自分たちが祀っているはずの死者達に思いを馳せることなく、御都合主義のゴリ押しに終始できるのかは理解に苦しむ。

その御都合主義とは、いったん合祀されたものは分祀できない、という主張だが、まずそんな「教義」は神道にはない(というか神道には教義がないのだから、参照になるのは日本人の「常識」だけだ)。

靖国側は複数の火がひとつの火になったら、後から分けても同じ火だから、一部の神だけ取り除くことは出来ないと言い張るが、靖国にはちゃんと祭神名簿があり、その人数分がそのまま○○柱の祭神としてカウントされている。

つまり複数の祭神が個々の戦死者として特定されているのが靖国神社であって、神社の数の上でまったく「ひとつの火」になぞなっていないし、そんな風習は日本のカミ信仰にそもそもない。あくまで別々の神がひとつの神社に合祀されているのは日本の多くの神社がそうなっているし、その祭神のうち一柱なり二柱なりをその神社から取り除くことは神道ではまったく可能なはずだ。

現に歴史的にその先例は探せば全国津々浦々の社伝でいくらでも見つかるはずだが、有名どころにたとえば神田明神がある。

神田明神 楼門

ここの祭神は公式の社伝によれば出雲の大己貴命(オオナムチノミコト、大国主【オオクニヌシ】大神)と少彦名命(スクナビコナノミコト)を祀る神社として7世紀に遡る起源とされているるが、14世紀以降は平将門が合祀され、江戸時代にはこの三柱が「江戸総鎮守」として信仰を集めて来た。

大国主大神は神仏習合で仏教の大黒天と、少彦名命は同じく恵比寿天と同一視され、神田明神の祭神はながらく「だいこくさま」「えびすさま」、そして「まさかどさま」だった。

この「まさかどさま」が、明治維新で江戸が東京になり天皇中心主義国家の首都となると、えらく都合の悪いことになる。なにしろ平将門は平安時代に朝廷に叛旗を掲げ、関東に独立王国を打ち立てようとして滅ぼされた英雄であり謀反人だ。

その将門が怪談めいた伝説(「かんだ」の語源は一説には首を切られた将門の「からだ」で、首なしの遺体が歩いて力つきて倒れた場所が最初の境内だったとも言われ、また平安京に運ばれた首が飛んで戻って来た首塚が江戸城大手門そばにある)も含めて祭神だからこそ、江戸総鎮守となったのが神田明神だ。

平将門首塚 東京・大手町

大己貴命と少彦名命は元々出雲の神で、この二柱だけなら出雲大社の分社でしかなく、江戸の地元の神として総鎮守たりえるのは「まさかどさま」のはずだ。で、明治維新以降昭和のあいだまではずっと、「まさかどさま」は神田明神の祭神ではないことになった。

分祀どころか、神ではないとされて来た平将門は、平成に入ってやっと神田明神に戻っている。

東京(江戸)でいちばん有名な神社がそういう歴史を持っているのに、靖国神社や神社本庁はなにを偽りを主張しているのだろう?

どうしてもA級戦犯を崇拝したいのなら、はっきりそう言えば良い。

靖国神社や神社本庁の幹部たちや、自民党の右派の政治家達とその支持者にとって、肝心なのは戦死者ではなくA級戦犯であるのなら、戦死者やその遺族をダシに使うのは止めるべきだ。

こんな不誠実な二枚舌は、日本のあらゆる伝統的な価値観・倫理観に照らし合わせたところで不正直、「嘘つきは泥棒の始まり」にしかならない。

解決策その4)靖国神社をちゃんとした普通の日本の神社に戻す(慰霊なら仏教の役目)

予め言っておくと、これは精確に歴史を踏まえる限り自己矛盾だ。靖国神社はその成り立ちからして、最初からまったく日本のいわゆる神社信仰、カミ信仰の場ではない。

戦死者の慰霊鎮撫なら、伝統的にその役割は仏教の「菩提を弔う」であって、ただ戦死者を祀る役割を神社が担ったことは、たぶんに西洋かぶれな明治政府が西洋の無名戦死の墓もどきを、たぶんに西洋のキリスト教の王権神授説に倣った新興宗教でしかなかった「国家神道」の枠組みででっち上げようと考えて、東京招魂社を始めた以前には、まったく類例がない。

古来、神社に祀られるのはまず「やおよろず」の自然神だった。

大神神社 拝殿 寛文4年(1664)徳川四代将軍家綱寄進
拝殿だけがある神社でご神体は背後の三輪山
広島県 宮島 厳島神社 島自体が神格化されている

日本はアニミズムの大地だ。古代に統一王権が成立すると、教義の理論もない自然神崇拝だけでは中華帝国を中心とする東アジア文化圏のなかであまりに浮いた存在になってしまうので、仏教と儒教を導入した後も、今度はその仏教がアニミズム化して、仏教の教義化された理論に基づきカミ信仰も仏教の信仰に取り込まれて行った。

琵琶湖に浮かぶ神の島である竹生島 祀られているのは仏教の弁財天
弁財天坐像 鎌倉時代13世紀
弁財天はインド起源の仏教の神 頭上には日本古来の水の神である宇賀神
江戸時代の上野・不忍池弁財天には鳥居があったが
明治の神仏分離令をうけて撤去されている

たとえば出雲の地元神だった大己貴命ないし大国主大神が、元を辿ればインドのシヴァ神のひとつの化身である大黒天と、次第に同一視されるようになる、といった具合だ。

シヴァ神の化身である大黒は本来なら軍神で、それだけなら神田明神で江戸総鎮守にも十分になれそうだが、中世に大国主=大黒が完全に定着した時点で、日本における大黒信仰は豊穣と商売の神に変容している。

快兼 大黒天立像 南北朝時代 貞和3(1347)年
軍神だった大黒が豊穣の神に変容する時期の作例と考えられている

大国主は古事記の「国譲り」の神話にあるように、自らの国を大和朝廷の先祖である高天原の神々に明け渡した神であり、因幡の白うさぎの神話にあるようにむしろやさしい神様で、およそ総鎮守にはなりそうにない。少彦名命=恵比寿ないし夷、戎神も同様で、だから「まさかどさま」が排除された明治以降、神田明神は商売の神様になっていた。

あるいは、古来からの自然神や地元の土地の神以外で、人間が神社で信仰対象になった例も確かにある。キリスト教文化圏の西洋人には「ただの人間が日本ではカミになるのか」と驚かれたりもするが、これは大きな誤解だ。

日本で神社で信仰対象になった元は人間は、元々人間であった頃から「ただの人間」ではなかった。

神田明神の第三の祭神が平将門であるのは、将門が公然と朝廷に叛旗を翻し、関東に独立国を打ち立てて自らその天皇を名乗ろうとした途方もないスケールの大きさがあったからであり、また京都に運ばれたその首が大声を発して関東に飛んで行った(今も江戸城大手門のそばに首塚があり、心霊写真の有名スポット)という人間離れまでした伝説まである。

菅原道真が天神になったのはまず生前の道真が途方もない秀才で、しかも左遷されて憤死して化けて出る(御所に雷になって落ちて多数の宮廷人を殺した)ほどの気性の激しさがあったからだ。

北野天神縁起絵巻 鎌倉時代13世紀 雷になって藤原時平を殺す道真

有り体に言えばほっておくとたたりが怖いから神様として崇め奉っておとなしくしてもらうためだった。

大阪天満宮

安倍晴明が晴明神社で神格化されているのは、平安朝の大陰陽師は自然との交信能力がある今風にいえば超能力者だったからで、「葛の葉」伝説の伝承によれば、母は狐の化身である。

晴明神社 京都市一条戻橋

このように、神社で人間が神格化されると言っても、それは「ただの人間」ではなく、元々生前から「カミ」というか普通の人間からかけ離れた存在だったから神になるのが日本の伝統信仰だ。

豊臣秀吉や徳川家康が、豊国神社や東照宮で神格化されたのも、常人離れした偉業を成し遂げた天才とみなされるからだ。

上野東照宮 慶安4(1651)年
豊国神社唐門 旧 南禅寺金地院唐門 寛永4(1627)年

四谷のお岩稲荷は一応は稲荷神社で正式の祭神は稲荷の神だが、「四谷怪談」のお岩さんが恨みの強さで祟ったから神格化されている。

大阪の曾根崎天神(正式には露天神社)が通称「お初天神」なのは、近松門左衛門の「曾根崎心中」に劇化もされた、世間の常識を完全に打ち破って純愛に命を捧げた恋人どうしだから(つまり普通の人間にはあんな恋愛ができないから)神格化されている。

招魂社も靖国神社も、まったくこの歴史的・伝統的な神格化の条件には合わない。

というより、明治以降の徴兵制というシステムでは圧倒多数が一般兵卒の戦死者のはずだ。もともと「ただの人」が兵士になり戦死者になるのが徴兵制の肝心なところであり、ほとんどがただの一般兵卒として死んでいるのが近代の戦争で、その名もなき庶民の、普通の戦死者だからこそ、靖国であるとか無名戦死の墓で慰霊し顕彰する意味があるはずだ。

とはいえ、それでもあえて靖国神社は普通の神社になるべきだと言ってしまえるのは、日本のカミ信仰、神道の伝統が、そこまで過去の厳密な「伝統」にこだわるものでないことも、そもそもの本質の一部だからだ。

元はシヴァ神の大黒天がなぜか因幡の白うさぎと国譲りのやさしい大国主大神と同一視されると商売の神になり、その本体の大国主の出雲大社はいつのまにか「縁結びの神様」になっている(これは比較的新しい信仰で、江戸時代か明治以降だ)。

伊勢神宮は天皇家の祖先神のはずなのにその天皇制の絶頂期だった平安時代などは見向きもされず、それも当然で京都中心ならド田舎だった伊勢(平安朝で「伊勢」と言えば「伊勢物語」だが、要するにへんぴな田舎に追いやられた業平のことだ)が、江戸時代になると江戸と畿内のあいだになるので大人気の観光地になり、この人気があったからこそ明治以降は「国家神道」に取り込まれてその中心の神に祀り上げられているものだ。

キツネは元はネズミを食べるので稲の俵を守ると考えられ、それで農耕神である稲荷の眷属となったのが、いつのまにか「お稲荷様=キツネ」になっている。

だから元々は、およそ日本らしからぬ中国道徳の儒教コテコテで始まった靖国神社が、当の中国人もズッコケそうな「忠君愛国」を今もなお後生大事に奉じ続けるべき理由も、日本の本来のカミ信仰の伝統から言えば、まったくないのだ。

確かに儒教も古代に日本に輸入され、こと江戸時代には朱子学が幕府の公式学問になったとはいえ、いつのまにか日本化されていて、その日本的な儒教は中国的な「易姓革命」を理念・理想化するものでも、「忠君愛国」を理想として強いるものでもなくなっていた。

日本で重視された儒教の概念はむしろ「徳治」、下にあるものが上にあるものや国家に忠誠を尽くすヒエラルキーの正当化よりも、上にあるものが下にあるものに自然に尊敬されるだけの「徳」を持つことこそが肝要とされて来た。

天皇位にある者と言えどもその「徳」がなければ譲位すべき、と自らを厳しく律するのが日本的な儒教であり、将軍家や大名もより厳しくこの原理に従ったのが江戸時代だった。

元を辿れば、国家主義的な色彩で中国的な「忠君愛国」を強要しようとした「国家神道」ですら、そのなかで最も重視された天皇は、結局のところもっとも日本的解釈の儒教道徳を表す諡号を死後付与された「仁徳」帝、民が貧しいうちは自らも豊かさを拒んだことで「仁」と「徳」を実践したという伝説がある天皇だ。

大阪府堺市 百舌古墳群 大山古墳(伝 仁徳天皇陵)

靖国神社にA級戦犯が、その彼らによって玉砕や特攻や戦病死や餓死を強要された一般の戦死者とともに祀られているのは、明らかにこの「仁」と「徳」を重んずる国の歴史と伝統に反するし、現代の政治家たちが靖国参拝を自分の売名行為に利用しながら、大臣になったらあからさまな誤摩化しで批判を避けるために海外出張してしまうなんていう情けない姑息なあり様もまた、およそ「仁」も「徳」もかけらも感じさせないし、彼らが自分たちのエゴのために国の外交を停滞させ近隣諸国と対立を深めることも、およそ「徳」のない為政者のなせる業としか言いようがない。

こんな仁も徳もないあり様が「神道」などというのは、日本のカミガミとそれを信仰して来た日本人の歴史に対する冒涜であろう。

ではいかに、ここまで歪んだ靖国神社を、普通に日本的なカミ信仰、普通の神社に「戻せる」(ないし「変えられる」)のか?

解決策その5)靖国神社の実際の最大の役割は花見の名所、と正しく認識する

ひとつの契機はすでに靖国の境内そのものと、現代の日本人の生活に組み込まれている。

ほとんどの日本人とまでは言わずとも、東京の住人にとって靖国神社に生活上の意味があるのは、ソメイヨシノの東京での開花の基準木がここの境内にあるからだ。

神社は日本人にとって古代からのアニミズム信仰の継承の場であるからこそ、自然の声を聴き季節の移り変わりを意識する場であるのが本質である。

たとえば明治神宮は創建百年を経て、今やその見事な人工の自然林こそがその最大の神聖さとなっている。祭神が明治天皇とその皇后であることなど、もはや参拝する人は誰も意識しない。あの森こそが、神宮のカミなのだ。

明治神宮 北参道

そして靖国神社もまた、その思想的な役割とは別に、花見の名所としての神社本来の機能はたしかに立派に果たすようになった。

解決策その6)靖国に祀られた戦死者がどんな死に方をしたのかを忘れない

もうひとつの契機は、先の大戦の陰惨過ぎる結果であり、今の靖国神社の祭神の圧倒多数が、このどうしようもなく愚かしい負け戦の犠牲者であることだ。

戦後の靖国神社は、戦前までのようにただ「国のために命を捧げた普通の(徴兵された)人々」の場所では、もはやなくなっている。「こんなことやっていて、戦争に勝てるのか?」と多くの将兵が実は思いながらも、誰も不満を口に出せないまま死んで行ったのが、今そこに祀られている圧倒多数なのだ。

藤田嗣治 アッツ島玉砕 昭和18年

その無惨な死(ほとんどが犬死に)に至る過程では、良心を押し殺して朝鮮人の少女の慰安婦を、「かわいそうだ」と言うだけで周囲に袋だたきにされそうなのが怖いばかりに乱暴に犯し、自分たちの食べ物にすらロクに気を遣わない上層部の「自弁調達」なる理不尽な命令に逆らえないばかりに、自分が故郷に帰ればさして変わらぬ立場の中国や東南アジアの農民たちから食糧を奪い、その過程の興奮状態で強姦や虐殺まで繰り返させられ、その略奪もできなければ餓死や戦病死が待っていた。

藤田嗣治 決戦ガダルカナル 昭和18年

正気なら絶対にできない人肉食も、やらざるを得なかった。

特攻なんて命じられるようでは、こんな戦争は勝てないのではないか、という当たり前の疑問すら押し殺すしかなく、「志願」することを強要もされた。

サイパン島や沖縄戦ではついに、自分たちが守るはずだった同じ日本人の女子供まで手にかけさせられた。

藤田嗣治 サイパン島同胞臣節をまっとうす 昭和20年

硫黄島では地下壕に籠って最期まで抵抗しろなどと無茶な命令を受けて、「生きて虜囚の辱めを」と洗脳される一方で、降伏して捕虜になれば生命と身体の安全が保証されることも教わらないまま、その地下道の中で手榴弾で自爆して無惨なバラバラ遺体になって死んで行った。

藤田嗣治 アッツ島玉砕 昭和18年(部分)

こんな死に方を、それも「A級戦犯」の無能と無責任と保身のために強要され、化けて出て来るなという方に無理がある。雷にでも台風にでもゴジラにでもなって国会議事堂や首相官邸をぶっ壊したって足らないくらいだ。

解決策その7)当のA級戦犯の身になって考えてみれば、靖国にいること自体がいたたまれないはずだと気づくべき

日本で人間がカミになるのは、普通の人間、ただの人ではない、人間から逸脱し人間を超越するなにかに達してしまった存在だ。ならば先の大戦の死者達は、その戦場での人間離れした陰惨な体験と、およそ尋常な人間では考えられない無惨極まりない死によって、立派にカミになる資格があり、現代の日本人にはその荒らぶるカミを畏れる道徳的な義務がある。

およそ「英霊に哀悼の誠を」云々なんてきれいごとでは済まないし、そのおかげで今の平和があるなんて木で鼻をくくったような偽善を言っている場合ではない。

そしてもちろん、終戦時に自決する覚悟すらなく、あるいは自決し損ねるほどに間が抜けていて、ちゃんと裁判を受けて自分の言い分も言えて、そして己のあまりにもの罪深さ(国民の生命に責任を負う政治家や兵士の命に責任を負う上官にとっては、無能無責任であることそれ自体が、あまりにも大きな罪だ)の罰を受けて処刑されただけのA級戦犯に、そんなカミになる資格はない。過去の日本人が信じて来た仏教の六道輪廻に従えば、修羅道に生まれ変わることすら許されない。餓鬼道にでも落ちぶれたくなければ前非を悔いて無心に阿弥陀様にすがる他はない。

恐らく当のA級戦犯であった人たちほど、このことを自覚していた人たちはいまい。だから彼らを靖国神社に祀り続けることは、彼ら自身への冒涜でもある。