最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

8/30/2017

不可解な事件をめぐる不可解な裁判~埼玉女子中学生誘拐「2年間監禁」事件


逮捕された当時の寺内樺風被告 首に自殺未遂の傷があった

2年間も行方不明だった女子中学生が、実は大学生に誘拐されたままになっていた。

自力での脱出が成功して発覚したこの事件はマスコミでも大きな注目を集め、ネット上で論争も引き起こした。その「論争」の詳細には触れたくない。賛否両論に分かれた喧々諤々の、そのどちらも的外れにしか思えないだけでなく、そんな誤解に基づく風聞は、被害少女の将来に禍根しか残さないからだ。

そして今、一審の裁判が進んでいる。

だがあれだけ話題になった発覚当時との不釣り合いさが不自然なまでに、報道はおとなしい。新聞が掲載するのもせいぜい社会面の小さなベタ記事扱いだったのが、被告が奇声を発し奇妙な発言を始めて判決言い渡しが延期となったことで、久々にテレビ報道でも取り上げられるレベルのニュースになったが、こんなことでもなければ裁判が進んでいたこともほとんど知られなかったろうし、事件そのものがもう忘れられていたのかも知れない。

だとしたら、率直に言って、その方がいいというか、せめてもの救いだ。

被害少女のことを考えるなら、事件発覚当初にあんなに大騒ぎしたこと自体が、致命的な誤りだった。しかもこの点については、ただマスコミの興味本位な視聴率至上主義や、ネット上の下衆な好奇心だけを責めていいものでもない。

2年間におよぶ誘拐監禁という事件それ自体以上に異様だったのは、被害者の父親が友人と共に得意満面に記者会見に現れ、娘の身許が特定されかねないことをペラペラと喋りまくり、その後も彼女の証言とされるものがこの父からマスコミに垂れ流され続けたことだ。

当たり前と言えば当たり前だが、その「証言」はその父親をこそひたすら満足させるような内容ばかりだった。

逃亡を決意したのはネット上で父親とその友人・仲間達が自分を探しているホームページを見たからだったとか、誘拐されたのは両親について心配させられる噓を言われてついて行ってしまったとか、犯人にはお前は両親に棄てられたのだと思い込まされて絶望していた等々、あまりに出来過ぎな上に、こと誘拐の経緯については現実性が疑われるような、たぶんに子供じみた話だった。

子供じみていたのも子供が考えつくことなのであれば無理もないが、もし父親の作り話や、その誘導尋問で作ったストーリーだったとすると相当に始末が悪い。

いやそうでなくとも、少女がひたすら父の気に入るようなことを、当のその父に言い続けていた、というより “言わされ続けていた” と言った方が精確にも思えるが、その痛々しさと言ったらなかった。

さすがに途中で警察が止めさせたようだが、その警察からの情報の、犯人の証言とされるものが、これまたその少女の(というか父親の)話に懸命に辻褄を合わせるかのような強引な中身で、こちらにもまたずいぶん無理があったのに、報道も、ネット上の議論も、なぜかその不自然さにはほとんど触れることがなく、事実関係よりも事件の外見上の構図について、なにを興奮でもしたのか、憶測というか空想の開陳に熱中していた。

この誘拐は現実の出来事だったはずだ。だが多くの人は「この想定は現実にあり得るかどうか」を自問するよりも、あまりにも現実離れした事件に自分たちの現実離れしたファンタジーを押し付けて、ただ消費してしまっていただけなのかも知れない。

しかもそれは、報道陣とかSNS利用者とかの、実は直接になんの関係のない興味本位の傍観者でしかない人々に限ったことでもなかった。

当事者、とくに被害者にとって最も身近だったはずの両親もまた同様であり、捜査当局もまた思い込みというか、社会が考える「子供とは、中学生の少女なら、こうあるべき」という、その実かなり現実離れした幻想に過ぎないものに囚われ続けたまま、なんとも抽象的な罪状しか立証できる見込みがなさそうな裁判になってしまっている。

なにしろ求刑は懲役15年だが、その理由がずいぶん珍しくもあり、また不自然さも禁じ得ないのだ。主たる罪状は、少女のPTSD(心的外傷性症候群)を傷害とみなしての傷害罪だと、検察はいう。

もちろんPTSD、とりわけ思春期のそれは深刻な被害なのに、これまで日本では裁判も含めて軽視されがちだったのは大問題で、児童虐待のケアなどについても深刻な限界を招いている。今回の裁判がそうした偏見を覆す新しい判例になるとすれば、歓迎すべきことではある。

しかしそれでも、誘拐監禁事件のはずが「PTSDを与えた傷害罪」という、立証が難しそうな罪状がメインで、身体的な暴力による傷害や、拉致・略取・誘拐・監禁の具体的な(物的証拠も含んだ確実な立証ができる)犯罪行為が主たる訴因にならないのでは、やはり違和感は禁じ得ない。

もっとも、少女が最終的には自力で逃げ出せた状況などから考えれば(物理的に閉じ込められていたわけではなく、しかもその直前に引っ越しまでしている)、監禁の立証はかなり困難なのだろう。

拉致・誘拐もまた、およそ暴力的な手段を立証できそうになく…というよりは、そんな事実自体がなかったように思われそうな起訴内容になってしまっているのだが、これは最大の被害が少女の重度のPTSDという罪状を見れば、やむを得ないことでもある。

そこまで深刻なトラウマになったのだとしたら、その原因はまず誘拐時の経緯なのだろうし、ならば思春期のPTSDの場合、客観的で精確な記憶を話せる可能性は極めて低いし、また証言させること自体が拷問に近い虐待になりかねないからだ。

とはいえその結果(なにしろ「真相」は被害者と加害者以外に知る由もない)、裁判では拉致も監禁も、物理的な暴力や直接的な威嚇ではなく、少女に強烈な恐怖感をなんらかの形で植え付けて(といって、暴力なしにどうやれば可能なのだろうか、というのも大きな問題となるが)、マインドコントロール状態に置いていた、というストーリーくらいしか成立しなくなり、またそういうストーリーを検察が構築した結果、PTSDを引き起こしたことが主たる罪状になったわけでもあろう

一方で、しかしその同じ検察が被告については精神鑑定に基づき「自閉スペクトラム障害」(いわゆる発達障害のこと)の傾向があるとも認定している。

被告の外見だけでも「マインドコントロール」ができそうなタイプにも見えなかったのが、この障害がある(俗にいう「空気が読めない」、他人が発する微妙な表情などのサインを無自覚に認識してわざわざ意識するまでもなく対処することができない)のにマインドコントロールを駆使というのは、ずいぶんちぐはぐな話に思える。

それにしても、最初は恐ろしく猟奇的に見えながら、事実関係が分かって来ると残酷さよりも不可解さばかりが際立つ事件だった。そこで「裁判で真相を明らかに」となるかと言えば、弁護側・検察双方の主張を見る限り、あまり期待できそうもない。

ならばせめて、裁判がほとんど報じられないことで事件そのものが忘れ去られて欲しいのだが、しかしどうにも無理があり思い込みや興味本位な幻想、はては一部の人々の願望ばかりが先行した誤解だけが、なんとなく事件のイメージとして残ってしまいそうなのは、それでいいのだろうか?

被告はこれまでの裁判でまったく反省の意志を示さず、「美術品を盗むなどよりもずっと軽い罪だと思っていた」「なにが悪かったのか分からない」などとうそぶいているというが、これまたずいぶん無理がある話だ。

逮捕直前に被告が自殺を諮って失敗していることひとつ取ってもまったく整合性がないし、美術品泥棒との比較に至っては窮余の思いつきのへ理屈にしても強引過ぎる。

むしろそんな無理矢理な証言から見えて来るのは、被告が一生懸命に自分が極悪人であるかのように振る舞っている、というか猟奇的な凶悪犯を自分が思いつく限りの想像で演じようとしていることに思える。

判決言い渡し予定の公判では奇声を発し、本人特定の質問には「オオタニケンジ、年齢は16歳」「現住所は群馬県高崎市のオートレース場。職業は森の妖精でございます」と答え、裁判長が「私が言っていることが分かりますか」と尋ねると「日本語が分かりません」と言ったという。結果、判決公判は延期になったが、これも発狂した凶悪犯を一生懸命に演じている芝居ではないか、とも思える。

このような事件があると、ついそうした精神の歪んだ凶悪犯の起こした異常な事件として片付けたくなるのだがが、報道された範囲でも詳細を見て行くと、誘拐監禁事件としてはなかなか説明がつかないことが多過ぎた。

2年も監禁して隠し通すとなると田舎の大きな農家の離れとか、それなりの広さと部屋数がなくては難しいだろうし、だから犯人が大学生というのならばせめて実家の一軒家かなにかと思えば、現場は大学生が下宿していた二間のマンションだった。

なのに物音などで周囲に怪しまれることもなかったのは、ことさら「隠して」もいなかったからだったようだ。

現に犯人と少女は近所の住人にしばしば目撃されていたが、現代のことで近所付き合いの会話があるわけでもなく、なんとなく兄妹だと思われていたらしい。

昨今のマンションは外から鍵をかけて内部に人を閉じ込められる構造にはまずなっていない。外付けの鍵を使っていたという報道が出ては否定され、結局正確なことはあやふやなままだったが、裁判ではどうなっているのだろう? 

いずれにせよ少女が脱出できたときには、鍵は普通に内側から開けられるものだけだった。この時には、2人は大学があった千葉県から東京の東中野に引っ越しているのだが、これも普通の「監禁」状況としてはまず考えられないし、無論弁護側が主張し、今は被告もそれに合わせようとしているようにも見える「統合失調症」も、まず確実にあり得ない。

どういう「監禁」が可能だったのかの疑問は、そもそも「監禁」ではなかったのではないかという憶測を呼ぶ。とはいえ、そこからあらぬファンタジーを膨らませ、それをネット上で大真面目に吹聴する者も多かったのも、筆者にとっては驚きだったし、無節操な推論というより「願望」の開陳が、性犯罪被害者がしばしば受けるセカンドレイプとあまりに似通っていたのだから、激しい反発を呼んだのも当然だろう。

だがそこで「ストックホルム症候群」といった論が出て来たのは事件の「解決」の経緯を見る限り明らかに行き過ぎで(自力で脱出しただけでなく、保護されて一応入院はしたものの、身体的な健康にはまったく問題がなかった)、かなり現実離れしており、だからこそこうした善意の「擁護論」もまた、逆に被害者の将来にも禍根を残しかねない。

どういう「誤解」かといえば、端的に言ってしまうなら、ファースト・レイプもなかったのにセカンド・レイプを、被害者をセカンド・レイプから守りたい善意が、逆に引き起こしてしまっていた。

デリケートな問題なのでこの言い方に留めておきたいが、「セカンド・レイプ」を危惧する以前に、この事件の場合は文字通りの「ファースト・レイプ」どころか、直接的に性的なことは恐らく一切なかったとしか思えない、説明がつかないのだ。

最初からそう考えないと辻褄が合わない事実関係ばかりだったし、現に検察も、このような誘拐監禁の状況下では性的関係があっただけで強姦ないし準強姦、最低でも被害者は未成年なのだから少年保護条例違反の立証はほぼ自動的のはずが、そのいずれも訴因に入れていないだけでなく、論告求刑のなかにある被告の証言の一部にも照らせば、今や確実だと言っていい。

検察が被告の証言を基に犯行の動機として挙げているのは、「観察したかった」だけだ(ただしこの自称「動機」もかなり疑わしいのは、後に論じる)。直接に性的なことは一切出て来ていない。これは事実として性的なことが一切なかったからであろうと同時に、被告が少女についてそうした誤解が広まることを懸命に避けようとしているからでもあろう。

発狂した凶悪犯の病的な猟奇犯罪だが、性的なことは一切ないという、よく考えるとずいぶん奇妙で不自然で犯罪心理学的にも説明がつかない事件の構図にはなるが、こんなものでも強引に押し通し世間に信じさせないことには、父親のせいで事実上身許が世間に知られてしまった被害者少女には、事実上将来がなきに等しくなってしまうし、戻った家庭での居場所もなくなってしまうだろう。

被告も思わず「少年」と言ってしまいたくなるほど子どもっぽいところがあるが、その子供の発想なりに懸命に考えついたことを、今の彼はやっているように思える。

精神鑑定にもかけられ、検察は「自閉スペクトラム障害」つまり発達障害の傾向があることを認定しつつも、責任能力は問えるとしている。これは当然の判断で、発達障害では一時的なパニックで前後不覚に陥ることはあっても、2年間も継続する譫妄状態はまず考えられない。

弁護側は責任能力を争点にするくらいしか弁護方針が思いつかなかったのか、先述の通り被告には統合失調症の傾向があると主張しているが、こうなると「弁護士やる気があるのか?」と文句も言いたくなる。

被告は2年間もの長期に渡って少女を自分と同居させ、アルバイトや仕送りなどの収入だけでちゃんとその二人分の生活を維持できていただけでなく、同時に理系の大学のかなり難しい過程を優秀な成績で卒業し、就職まで決めている。以前にはアメリカに渡って小型航空機の免許も取っている。

軽度の発達障害ならもしかしたら可能かも知れないが、統合失調症による責任能力が失われるような譫妄状態で、こんな器用なことができるはずがない。

動機が少女を昆虫か小動物を閉じ込めるような意味で「観察したかった」というのも、近隣住人の目撃証言がでっち上げでもない限り、実際のマンションの構造や近隣住人の証言などからして、まず成り立たない。

事件の結果の異常性に囚われるあまりに、我々はなにか尋常ではない、常軌を逸したことがあったに違いないという先入観と、猟奇的な好奇心に執着し過ぎていないだろうか?

2年というのは、確かに異常な長さだ。

だが結果として「監禁」になるのは、それ自体としてはむしろ平凡で日常の枠内でしかないシチュエーションさえあれば成立し得るし、いったん成立していれば惰性のまま継続することは十分にあり得るのが人間の「生活」だ。

発想の逆転で、どうやって2年間も監禁し続けたのではなく、なぜ2年間もこの状態が継続され得たのか、という設問に立てば、検察の主張通りに重度のPTSDが少女に残っているようなマインド・コントロールというのもひとつの仮説としては成立するし、それでもなにかのきっかけでそのマインド・コトロールか、あるいは惰性でしかないものが壊れ、彼女が脱出する勇気を持てたというのも無論あり得る。

脱出時に彼女は500円しか所持金がなかったと報道にあったが、たとえばお金がなければ逃げ切れないと判断していたとも推論できる。

ただし一方で、無一文だろうがとりあえず警察に駆け込んで保護を求めればいいとは考えなかったというのも、不自然さは禁じ得ない。

しかし社会の標準からすればまったく奇妙な、理解不能な「生活」とはいえ、少女が被告のマンションに暮らすこと自体が日常化していれば、「2年の監禁が異常」という外形的な事実よりも、2年後の脱走を「日常」に対する「変化」として考え直した方が、有益な思考の枠組みになるのではないだろうか。

だいたいまず初歩的なこととして、子どもが一日一晩でも家に帰らなければ、親はひたすら心配するだろうが、子どもの側はどうかと言えば、帰ったとたんに叱られることを実はまず心配するものだ。帰るにはなにかうまい説明か言い訳を考えつかなければならないし、それがなかなか思いつかなかったり、そうして親と対決することをつい躊躇し忌避してしまうだけでも、「明日でいいや」となるのも、むしろ自然ですらある。

そうやって日々が積み重なればなるほど、早く帰って謝っておけば良かったと後悔するほどに、帰る時の心理的なハードルは離れている日数が長ければ長いほどに上がっていく。

普通なら最大でも二、三日から一週間で済むだのろうが、なにかのはずみか、単にいいわけを思いつかなかっただけで数週間、数ヶ月と引き延ばされ始めれば、帰ったときの説明や言い訳をやりようがますますなくなり、そうなってしまえば2年だってただの「惰性」になる。

契機がなんだったにせよ、このような「惰性」は案外と簡単に成立し得るのが子どもの心理だし、だからこそ彼女が主体的にその「惰性」を壊して「変化」を起こそうとした動機を考えることの方が、それまでの2年間の意味を解き明かすことにつながりはしないだろうか?

まず警察に駆け込む、という当然の行動を考えなかったのは、彼女の側には彼女の側で、監禁され続けたというより「家に帰ろうと決心しなかった」ことについていささかの後ろめたさがあったと考えれば納得はいく。

念のため、積極的にそこに残ろうとしたのではなく、なんとなく「(ひどく叱られてもいいから)家に帰ろう」とまでは思わなかったに過ぎないことは、あらためて強調しておこう。ここには決定的な違いがある。

少女の側に立って考えるなら、東中野に引っ越したという具体的な生活環境の変化が、逃亡を決意する大きな契機になったと考えて、まず大きな間違いないだろう。

ひとつには、千葉県にいたときに較べて交通の便が圧倒的によく、駅も徒歩圏内だし電車などでの逃亡が容易になった面もあるだろうし、現に彼女は駅に逃げ込んでそこの公衆電話から両親に連絡し、両親に言われて警察に保護を求めている。

ただしこれは、引っ越しの時点で新しい住所などをどこまで彼女が把握できていたかにもよる。千葉にいたときには近所の証言によればしばしば2人で買い物に行く姿が目撃されていたはずだが、東中野に移ってもそうした外出の機会はあったのだろうか?

いずれにせよ、引っ越しが逃亡の契機になったのは確かだろう。つまりはより直接的に、環境が変わったことそれ自体の心理的な影響が大きかったのだろうし、特に重要だったのは、そもそも犯人が引っ越した理由ではなかったのか?

大学を卒業し就職して社会人になることを犯人が少女に隠していたはずもないだろうし、この犯人の側の変化の意味、これまでの生活が激変したことは、いままで惰性で家に帰らなかった少女の側にも「自分はこのままではいけない」と思わせたはずだ。中学校2年生で誘拐されたまま学校に行かず、自分の社会的な成長も、自分の時間もいわば止まったままの2年間を経て、被告の青年の方は社会人になるという成長の大きな一歩を踏み出している。

そこで否応なく突きつけられる現実がある--自分もまた、本来なら4月には中学校三年生になっているはずだ。このままでは、自分は中学最後の1年も経験できず、高校にも進めなくなる。

詳細が分からない以上は憶測をみだりに吹聴すべきでもあるまいが、それでも警察も検察も弁護側も、そして報道もその受け手である社会全般も、事件全体の構図を完全に読み違えているように思えてならない。

被告の奇妙な証言もその誤った構図の枠内での役割を必死に演じようとしているだけに見えるのが、この事件が「謎」である最大の理由ではないのか?

事件の結果としての異常性とは別に、もうひとつ我々が当然の前提だと思い込んでいることが、実はそれをひっくり返すだけで全体像の説明がつく。

子どもが親元で育つのは当たり前で、子どもにとってそれがいちばん幸福であり、だから少女が家に帰りたいと思い続けて来たはずだ、と我々は思い込んではいないか?

言い換えれば、家族との2年間、学校に行けたはずの2年間を奪われたことを、少女がずっと「喪失」であり「被害」として認識していたはずだというのが、この事件の理解の前提になっていた。

そうした前提で行くと、一方では現実的に、少なくとも物理的な監禁がどうみても困難だった事実関係がある以上、逆にこうした「喪失」よりも優先される事情が少女の側にあったはずだ、という考えにしか至らない。

だから検察はマインドコントロールとその結果によるPTSDというストーリーに至り、たとえばネット上ではそこに疑似恋愛的というか小児性愛的なマンガやアニメに通じるファンタジーを、勝手に事件に投影する主張も相次いだ。

だがどちらも、そもそもの前提が間違っているのだ。

子供は親元で育つ「べき」、子供は親の元に返りたいと思っている「はず」というのは、あくまで社会的に共有さえる価値観から来る倫理規範か、最悪共同幻想でしかない。

そうである「べき」だとしても、思春期の子供にとって親元にいることが幸福、ないし楽しい、そうしたいと思っているとは限らず、むしろ逆だ。この年齢ではむしろ親の存在を抑圧と感じ始めるのが正常な発達段階だ。

たいがいの子供は学校に行かなければいけないとは思っているが、「行きたい」と思っているわけでは必ずしもない。行かなくてはならないからだ。

子供が「学校に行きたいですか」「楽しいですか」と訊かれたら「はい」と答えるのは、そう答えなければならないからでもある。

ただの一般論としてさえそうである上に、現代の日本の中学校が子供たちにとって楽しい場であるかといえば、まったくそんなことはないと、実は日本中の誰もが知っているはずだ。なにしろいじめによる自殺が過去30年以上社会問題となっているのが日本の学校である。

そんな学校が本当に、どうしても行きたいと思えるほど楽しいだろうか?

今の日本の子供達にはそれが当たり前になっており、どういじめを避けるかの方法論も(いじめられるくらいならいじめる側になった方が楽であることも含め)習い症になっている。習い症、惰性、日常は、いまさら積極的に嫌だとも思うまいが(素直にそう思ってしまうだけで、最悪いじめ自殺予備軍になる)、いったんそこから解放されれば、ぜひにも戻りたいとはなかなかなるまい。

この事件の被害者少女にとって、皮肉にも誘拐されて学校に行けなくなったことが、逆にその恒常的な抑圧環境からの解放にもなった。

クラスメートや教師にしじゅう気を遣い続けるくらいなら、朴訥として不器用でどう見ても抑圧的には見えそうにないし、そういう態度がなかなか取れそうにない犯人の大学生ひとりに、適当に気を遣っておけば済むだけならば、ある意味でずっと楽にもなり得る。

つい「少年の」と言いたくなるが成人している被告の動機はといえば、本人がまったく証言しなさそうなのでなんとも言えないが、行き着いたのは惰性の共有と言った程度のことだろう。

報道に出て来た同級生や近所の証言から類推するなら、結果として疑似家族、疑似兄妹的な「生活」になんとなく満足していたようだ。そもそもの誘拐の発端はといえば、これは証言がはっきりしない以上、どうにもよく分からない。

もう一点、皮肉なことに事件によって彼女がそこから解放された、もしかしたらもっと大きな抑圧がありえる現実も、この事件の場合決して見落としてはなるまい。

繰り返すが、まず一般論として、思春期の少年少女にとっては家庭もまた決して居心地のよい場ではないのが、この少女の場合はもっと複雑なのだ。

つまり、両親の問題があり、これこそがまた相当に深刻である可能性が高い。

ここでどうしても、事件の公表当時からの父親の異常な行動に再び言及しなければなるまい。親であれば娘が見つかったことの喜びと同時に、今後彼女が直面することになる困難にもすぐに思いが至るし、最初は喜びのあまり思い当たらなかったとしても、警察は必ずそのことは示唆するはずだ。つまり、被害者の名前は絶対に匿名にしなければならないし、身許が特定されて将来に渡ってこの異様な事件が彼女個人と結びつけられることは極力避けられなければならない。

ところが…父親の行動が真逆だったのは先述の通りだ。

事件の解決にはなんの直接の関係もなかったのに、父親は記者会見で「探す会」の仲間を伴って登場して自分達がいかに頑張ったのかを強調し、喜びを露にしたのは娘が助かったことよりも、そのじぶんたちの努力が報われたことで、そうすれば確実に娘の身許が特定されてしまうことにはまったく無頓着だった。

どう考えてもこの自己顕示欲の激しさと、自制心の欠如した身勝手さは異常だ。つまり、事件によって皮肉にも少女がそこから解放された「家庭」とは、このように幼稚で「男の子」的な仲間意識に執着し、自制心や親としての自覚がなく相当に自己中心的な父が、だからこそ父・家長として無自覚に抑圧的に振る舞っている環境ではなかっただろうか?

事件発覚後に、父親経由で報道された少女の「証言」によれば、彼女が脱出を決意したのは、ネットでその父親達の活動を知ったからだという。

ならば結果論として少女が見つかったことになんの直接の関係もなかった「探す会」こそが、実は事件の解決に決定的な役割を果たしたことになる。

言い換えれば、少女は自自力で、自分の意思で脱出したことをあえて無視して、「お父さんに勇気をもらった」、つまりは「お父さんに助けられた」と言えるような立場を自分で作ったわけでもある。

もちろん、そんな出来過ぎた話はまずあり得まい。

むしろ結果としてなんの役にも立たなかった「探す会」だったからこそ、父親がそのことに「傷ついて」機嫌を損ね、自分がこの家族に戻ることが困難になるのではないかと、少女が怯えているようにすら見えて来る。そうでなくとも、2年間もそこにいなかった家庭にいきなり戻ることは、誰にとっても決して簡単ではない。家族の関係性を一から作り直す覚悟すら必要になる。

どうも、もっとも保護され配慮される必要がある少女こそが、逆にいちばん気を遣って、一生懸命に大人達に配慮しているのではないか?

そう思わせる存在は、少女の父親だけではない。

裁判では父親ではなく母親が証言していて、どうも検察もこの父親を証言させるには信用性が欠けるか、いずれにせよ事件の被害の立証には役に立たないと判断したようなのだが、代わりに出て来た母親の証言もかなりゾッとさせられるのだ。

母親は犯人が反省していないと聞いて「なにか自分たちが損したような気分」で不快だ、と述べたのだ。

どういう事情であれわが娘の正常な2年間が「奪われた」事件についての親の心情としては、ずいぶんそっけなく、そして完全に自己中心的で、娘のことがまったく無視されているのだ。

果たしてこの両親の下で、少女は幸せな子供だったのだろうか? このままで彼女の将来に心配はないのだろうか?

もちろんこの2年間が「幸福」だったわけもあるまいが、もしかしたら「安心」は出来ただけ(暴力も性的な脅迫もないのなら、直接的にそんなに脅威はないし、学校や家のことはいったん「忘れて」しまえば、不安になる要素は実はそんなにはない)でもマシだったとしたら、こんなに不幸なこともない。

そしてなによりも不幸で悲劇的になり得るのは、問題の2年間を含む少女の「これまで」以上に、彼女の「これから」、今現在の彼女の家庭での生活と将来だ。

もちろん事件の真相は2人だけしか知らない。検察の言う通り重度なPTSDなら被害者から精確な証言はまず得られないと考えた方がいいのだろうし、被告は頑に、少なくとも極端な誇張であるのは確実な、恐らくは自分が一生懸命に作り上げただけのストーリーしか口にすまい。

報道は具体的な事件の本質について曖昧なままだったし、裁判でそれが明らかになったともおよそ思えない。

いずれにせよこの事件が忘れ去られることこそが被害者少女にとって最大の利益となるわけだが、我々が決して忘れてはならないのは、被害者の親とはいえ決して被害者ではないことだ。

親は子どもとはあくまで別人格であるのに、その子供にとって異常な抑圧となりかねない両親のあきらかに異様な言動・行動についてなんの関心も払われないことは、率直に言って疑問だ。

はっきり言えば子供の虐待すら最悪の場合は想定される心理・行動のパターンであることにだけは、しかるべき責任のある諸機関にはぜひ、留意し続けて頂きたいと思ずにはいられない。

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