最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/29/2017

「情報の出所」について


森友学園疑惑を「朝日新聞の捏造だ」と言い張る捏造にしても荒唐無稽過ぎる書籍を、さすがに朝日新聞社名誉毀損で訴訟に持ち込んだそうだ。

いくらなんでも馬鹿過ぎるだろう、としか言いようがないのだが、この著者であるとかは「朝日新聞は “反日” だから」的な馬鹿丸出しな思い込みに…いや、こういう言いがかりは本当に「思い込み」なのだろうか? むしろ「噓も百回言えば本当になる」的に確信犯の虚偽フィクションを、自分達がそういうことを平気でやるのだから朝日新聞等々も(自分達と同様に)捏造をやっているに違いない、という無自覚な自己投影ロジックに陥っているのではないか? そうとでも考えた方が、まだ合理的な理解は可能なほどに荒唐無稽で馬鹿げている。

ひとつの同じ事実でも、立場や視点が異なればまったく異なって見えて来る実例は確かに、歴史上決して少なくない。言い換えれば、多くの歴史書がいわば「勝者の視点」ないし政治権力の自己正当化で書かれて来た結果、例えば新しい政権に打倒された古い政権はしばしば不当に低く評価されがちだ。我が国の歴史では最初に編纂された二つの歴史書の「古事記」と「日本書紀」のあいだで既にずいぶん人物の性格づけや動機、事件の解釈が異なっているし、こと明治以降の「皇国史観」では、例えば徳川幕府の評価はどう見ても不当に貶められているとしか思えない面も多い。

そうした偏向を防ぐためには多様な視点からの見方が必要だとは言え、それはあくまで客観的な史実に対する視点や見方の違い(さすがに「皇国史観」ともなるとその範疇を超えた捏造史観ではないか、と言えそうだが)でなければならないはずが、恣意的なつまみ食いを自分たちの都合で事実をねじ曲げて決めつけたデタラメは、さすがに度を越している。

もっとも、こと森友学園疑惑については、そもそも根本的におかしいポイントが、批判的な報道ですらしばしば避けて通られていることが、こうしたフェイクニュースのつけ込む余地を与えている面は否定できない。

つまりこの学校法人が作ろうとしていた小学校が自称「教育勅語に基づく」教育を標榜したカルト的偏向思想の刷り込みを目標としていること、そしてこの私立の学校に特別な配慮をした疑惑が持たれている安倍政権…というか安倍首相本人が、同じカルト的偏向思想を共有していること、そうした特定の価値観の刷り込み自体が教育基本法に違反していることが、なぜか遠慮がちにしか語られて来ていないのだ。

安倍政権がどうしてもそういう方向へと日本の教育に関する基本方針を変えたいのなら、それは政策と法制度の転換を通して堂々とやるべきことであり、まず国会で議論しなければならないし、憲法の改正も必要になるかも知れない。 
それを堂々とやる度胸がないからといって私立の学校法人を国有地の払い下げで優遇する、という発想自体が法治国家としておかしいのだ。

情報やニュースの受容においては、その情報の出所を考慮する必要がある、というのはメディアリテラシーの基本ではあるが、まったくこういう馬鹿単純なレッテル貼りの偏見決めつけの意味ではない。

昨今は、既存のニュースメディアは信用できず「ネットにこそ真実」と思い込む向きも多いようだが、大手の新聞やテレビ報道などの既存ニュースメディアはまだ一応は報道する根拠の裏取りチェックが義務化されていたり、記事やニュースになる前に複数の人間のチェックが入ったり、虚報が指摘され反論できなければ抗議も殺到して社の信用が失墜するだけに、まだ最低限の事実関係そのものについては誤りが比較的少ない、とみなす合理的な判断の方が、よっぽどメディアリテラシーの基本だ。

もちろん、そうした大手メディアの報道が、誤報どころか昨今ではクレーマーめいた苦情を恐れるあまりに「信頼性の高い情報源」の発表をただ垂れ流すだけの報道になりがちな問題はあって、近年の日本では特に顕著になって来てもいる。

たとえば犯罪事件を報道するのに最も無難なやり方は、警察発表をそのまま報じることで、現代の犯罪報道はどんどんその方向に振れて来ているが、これは誤報を防ぐためではない。間違いがあっても警察の責任に出来るからだ。

そうした警察情報に依拠した結果、日本の報道史上最悪の濡れ衣報道になってしまったのが松本サリン事件だが、この教訓が十分に反省されているとはとても言えない(むしろ逆)のが、日本の犯罪報道の現状だ。

熊井啓監督作品「日本の黒い夏 冤罪」2001年

こと最近の日本では警察に限らず、なぜか政府官庁が「もっとも信頼できる情報」を持っていて、公的な情報=正しい情報と思い込まれがちだが、基本的に政府というものは政府の都合や自国の国益に則したことか、政府の公的な立場に則したことしか言わないわけで、つまりは政府発表ほど政治的な恣意性で歪められた可能性が高い情報はない。

例えば南京大虐殺について「記録がない」「証拠がない」として「捏造」説を主張する者もいるが、これも完全なナンセンスだ。確かに当時の日本軍が作成した公的記録に虐殺行為は記録されていないが、これは喩えて言えば殺人犯はわざわざ自分の犯罪行為を日記に書かないか、警察にその日記を証拠として押さえられる前に破棄するに決まってるのと同じことだ。 
証拠を隠滅・隠蔽する権限がある国家政府が「証拠がない」なんて言い訳をしたとことで、真に受ける人間はよほど客観性に欠如して洗脳された状態であるか、単純によほど頭が悪過ぎる。 
同じことは森友学園疑惑で、国有地払い下げの経緯について財務省が「記録がない」と言い張って来たことで、よりせせこましく、まるで帝国ニッポンの子供じみたパロディのように繰り返されて来た。 
まして証拠隠滅を恒常的にやって来たことすら国会答弁で公言してしまったのが佐川理財局長(当時)で、しかもその答弁自体があきれ果てた虚偽だった。自動的にデータを完全消去するコンピューターのシステムなんてないし、ましてそんなものを政府機関が採用していたらそっちこそより大きな問題だ。


なのに「お国の言うことだから正しいはず」と妄信する国民相手に新聞やテレビが他国との外交の問題で外務省や官邸からの情報を垂れ流すだけでは、たとえば2周年になってその問題性がやっと白日の元に曝け出されつつある「日韓慰安婦合意」についての、日本の世論は完全に冷静で客観的な判断力を失っている。

なおこの件についての韓国外務省の調査結果は、さすがにまったく想定していなかった、とんでもない内容が含まれていた。

まさか非公開の秘密合意があって、そこで第三国での慰安婦像の設置を韓国政府が支援等しないようにと日本側が迫っていたとは。国家のやることとしてあまりにはしたない上に、慰安婦問題が日本の名誉を失墜させる倫理的な大問題であって国際社会からの批判に反論の余地がないことを実は日本政府もまた自覚しているからこそ、それをなんとか姑息に隠蔽したい下心がミエミエの要求を、それも秘密裏にやっていたとは、呆れる他はない。

しかもこの秘密合意は、たとえばアメリカ各地での慰安婦像の設置を「韓国の差し金に違いない」などと邪推している日本側の幼稚さまで曝け出してしまっている。

もちろん最近大阪市が姉妹都市提携の破棄などと喚き出したサンフランシスコ市などのアメリカの地方自治体が、他国政府の圧力などに屈するわけもなかろうに、他人様を馬鹿にするのもほどほどにして欲しい。 
日本ではいざ知らず(長崎市が原爆の爆心地にあった浦上天主堂の廃墟を撤去したことには、アメリカの圧力が疑われ続けているというか、長崎市ではそうに違いないと思っている人が多いし、「それもしょうがない」が暗黙の了解だ)、アメリカの地方自治では、そんなことは市の名誉にかけて決して許されないことだ。

ちょっと冷静に客観視すれば分かることだが、慰安婦問題は日韓の外交問題である以前にまず被害当事者と日本政府の問題であり、韓国政府は自国民の被害者を国家の責任として代弁しているに過ぎない。だいたい慰安婦制度の被害者は韓国人に限らないのに、それを2国の政府間だけで「不可逆的な最終解決」などと日本側が言っていること自体がナンセンスなのだが、この「不可逆的」は韓国側が言って来たことだったと、今回の調査で明らかになった。

考えてみたら当たり前のことだ。複数の被害国のうち韓国一国にだけ「不可逆的」を約束させることにまったく意味がないが、加害国ならば日本一国しかなく、その日本一国の反省と謝罪が「不可逆的」ならば、日本政府が「罪を認めたのだから今後は否定したり誤摩化したりしない」という意味で「不可逆的」は成立する。

つまりこれは、日本人が信じ込まされて来たのとまったく真逆の意味になるし、よく考えてみれば、そもそもそうでなければ「不可逆的」なんて文言が出て来るはずがなかった。

「真摯な反省とおわび」が「不可逆的」という韓国側の要求を日本政府が受け入れ再確認したとは、つまりこれは「蒸し返さない」なんて意味ではまったくなく、「慰安婦なんていなかった」だの「捏造だ」だの「高給取りの売春婦だ」などと日本側が今後言うことはありませんね、と確認されたのが「不可逆的」という文言だったわけだ。

同じ文言でも、どの文脈で誰が言ったかによって意味が変わるのは当たり前なのに、ところが昨今の日本では、そんな基本すら理解から抜け落ちているか、恣意的に操作されたり無視されている。日韓合意に「不可逆的」という文言が確かにあったのは事実だが、どちらが言ったかで意味は全然変わるし、現に日本国民の大多数は、真逆の意味を信じ込まされて来たのが、よく考えれば韓国が日本に要求したのであれば意味はあるが、日本が韓国に、であればそもそもなんの意味も成立しないではないか。

「それは誰が言ったのか?」「その情報は誰が流したものか?」、場合によっては情報は、事態の流れを変えたり、事件そのものを事実上起こすに等しい力を持つからこそ、権力闘争などでは巧妙な戦略性を持って使われて、いわば【武器】にもなるし、その威力の大きさ故に誤った情報が致命的な悲惨を国や社会にもたらすことも少なくない。

たとえばヴェトナム戦争でアメリカの攻勢を激化させるきっかけになったトンキン湾事件は、実は米海軍の連絡通信体系の混乱が起こっていて、実際にはなかった事件だった。

日本の歴史を遡れば、本能寺の変の後に信長の遺体が見つからなかったという情報をいち早く得た羽柴秀吉は、信長は無事だという偽情報を織田臣下の諸侯に送っていて、だから明智光秀には誰もが味方するのを躊躇し、そのクーデタは「三日天下」に終わった。

その秀吉はしかし、今度は情報不足どころかあり得ないレベルの無知無教養で朝鮮半島を侵略し明の首都北京まで武力で支配しようとして(そもそも地理的に不可能だろうに、そんなの)、この大失敗も引き金になって信望を失った豊臣政権は短命に終わった。

この大陸と日本列島の関係について、古代の天皇家は遥かに狡猾だった可能性もある。天智天皇のとき日本は白村江の戦いに惨敗して朝鮮半島での同盟国と重要な戦略物資の鉄を輸入する拠点を失った(日本は鉄鉱石を産出せず、古墳時代には砂鉄から製鉄する技術がなかったので鉄はすべて朝鮮半島からの輸入だった。よって初期ヤマト王権にとって朝鮮半島との交易は極めて重要だったのだ)。

ところがこの経緯にはどうも裏があるようなのだ。天智帝とその弟の天武天皇は白村江の大敗北を逆に誇張して利用していて、唐が日本に攻めて来るかもしれないと国内を煽ることで反抗的な豪族を押さえ込み、中央集権の律令体制の確立に利用した節があるのだ。だとすれば実に狡猾な情報戦略を天智帝は持っていたことになる。どうも帝自身はそんな侵攻がまずあり得ないことを察していたどころか、白村江の戦いを反対派の直接排除に利用した、つまり負けると分かっていて国内の厄介な勢力を送り込み、わざと戦死させた可能性すら指摘されている。

天智帝が急死するとヤマト王朝は一時は壬申の乱の大混乱に陥ったが、それに勝利し即位した天武帝とその皇后(のちの持統天皇)は国内体制の整備を進めて大宝律令を制定、そこで改めて遣唐使を送り朝貢関係を再開するが、その時にこれまでの「大王」「倭王」ではなく「日本」の「天皇」を名乗った。 
皇国史観の偏向を排除して客観的に言えば、「日本の始まり」はこの大宝律令が制定された大宝元(701)年で、建国したのは天武帝(と、それ以上に皇后のウノノサララ、つまり持統天皇)と考えた方が妥当ですらある。 
なお先に述べた「古事記」と「日本書紀」が似て非なる内容であるという問題は、この両者が「倭」ではなく「日本」と言う国家がまさに成立する前後に成立していることでその理由は説明がつく。つまり「古事記」は古代ヤマト王権的なアニミズム神聖政治的の価値観で、「日本書記」は律令という法の支配に基づいた、唐風の法制度による論理的支配の国家体制の理念で書かれたものなのだ。

一方その日本の近代の、20世紀の十五年戦争では、軍部はノモンハン事件(昭和14年・1939年)の段階ですでに、大敗北の情報を国民にどころか政府部内にも隠し続けることで権威権力を維持しようとしていて、以降この稚拙な詐欺的な情報操作を延々と続けてしまったた。この偽情報に依存した「大本営発表」の虚構体質が、結果としてどこまで壊滅的な事態を招いたのか、今さら言うまでもあるまい。

しかも虚偽情報に依存するわりには情報戦略どころか情報管理すらまったくなっていなかったのが日本軍で、日米開戦の前から機密情報は暗号をアメリカに解読されて筒抜けだったし、日本の敗戦はそうした諜報活動での敗北だけでなく、レーダー技術が遥かに劣っていた一事をとっても、命運が最初から決していた。

20世紀の日本の戦争は侵略行為の過程で非人道行為が繰り返されたという倫理的な問題で糾弾されるだけでなく、そもそも最初から勝てるわけがない戦争を情報不足と情報の恣意的な解釈で押し進めてしまった点でまず「亡国」としか言いようがない。日本の軍国主義については単に倫理的に非人道行為を反省し謝罪する責任があるだけでなく、あまりに馬鹿げた失敗を今後は繰り返さないようにしなければ、日本民族の総体には学習能力がない、ということになりかねない。

つまり対米戦は開戦前からそもそも情報戦で負けていたし、国内では歪んだ情報提供でいわば国民が「騙された」ことには、「騙された」側にも反省があってしかるべきなのに、昨今の日本の報道や世論形成ではその意識があまりに抜け落ちていて、政府などの「公的情報」に依存する傾向がむしろ強まっている。

だからこそ逆に冒頭の、朝日新聞社もさすがに呆れて名誉毀損訴訟を起こした一件のような、幼稚過ぎる荒唐無稽もまかり通ってしまうのかも知れない。

立証責任・挙証責任は疑惑を言い出した側にある、というのも、それは個人を相手にした場合(たとえば刑事裁判では、立証する責任は一方的に検察・警察側)であって、記録を作成することもできれば記録を非開示にして証拠の隠蔽も隠滅もできる権限がある国家権力側がそれを言い出すこと自体がナンセンスだ。

もしかして「事実・真実はなんなのか」ではなく、子供染みた「勝ち・負け」しか意識できないから、政府政権に向けられた疑惑に「立証責任は疑惑を言い出した側にある」などと滑稽な倒錯を言い出してしまうのかも知れない。 
それも大人の議論とか権力闘争のレベルの「勝ち」ないし「負け」ではなく、まるで小学生どうしの喧嘩で教師がどちらの側につくのかレベルの、極めて幼稚な社会観しかないとしたら、こうしたあまりに馬鹿げた滑稽も説明がつく。

むしろ記録・証拠をきちんと残し検証を可能にことは、別に近代の民主主義に限らず、国家政府がその公正な権威を維持するために必須の義務だ。

こと東アジア文明圏では、「史記」以来、ある王朝が中華帝国の正統継承者である証としてやらなければいけない事業が、正史を編纂することだった。それもその王朝の恣意的な都合ではない客観性のある歴史書を遺すという義務が課せられていたお陰で、考古学遺物しかない弥生時代の日本であるとかクメール朝成立以前のカンボジアについても、中華帝国の正史が基本的な歴史史料になっている。 
天武・持統朝で「古事記」そして「日本書紀」が編纂されたのも、古代神聖政治のアニミズムの「倭」がら文明国の「日本」へと脱皮するに当たって、中華帝国に倣った正史の編纂が必要だったからだ。

この点でも、まだ軍事機密ならともかく森友・加計疑惑はそもそも決定過程を明らかにすることが国家・国民の利益に反する機密になろうはずもなく、証拠となる文書記録を国会で開示できないだけでも政権側が完全にアウトになるのが本来の政治的な常識であり、政権に不利だから開示しないというのは、それ自体が国家権力の私物化に他ならないし、隠蔽と虚偽を重ねに重ねてその場限りの言い逃れを続けるご都合主義だけで出口戦略もないような政権をこのまま維持させて行くことは、国民にとってもその国家にとっても、致命的な誤りになりかねないのは、第二次大戦の惨憺たる敗戦で学習したはずのことなのだが。

森友・加計疑惑を「些細な問題だ」と言うのなら、もっとひどい稚拙で行き当たりばったりの、出口戦略なき破綻した情報戦略は、安倍政権が自画自賛する経済政策「アベノミクス」だ。「株価はこんなに高いじゃないか、アベノミクスは成功している」と言い張るのなら、その株価自体が恣意的に操作されたもの、いわば虚偽情報に過ぎないのだ。

安倍政権がなんだかんだで支持を集める大きな理由である日本の株高は、今や日銀と年金資金で政府が買い支えている人工的なものでしかない。こうした株価操作のなかでもとくに、総選挙の期間中に株価が16日連続連騰なんてバカげたやり過ぎもいいところだが、東京市場には毎日「日銀タイム」と俗に呼ばれる時間がある。投資家はこれが政権による株価操作の情報捏造であることも百を承知で、これで株価が上がることを前提に買い注文を入れているのだ。つまり噓を噓と百も承知で、政権の都合を利用して儲かるうちは儲けよう、という歪んだ共犯関係が政府の経済政策と投資家のあいだに成立していて、マーケット・メカニズムはもはやガタガタになってしまっている。

しかもこの政策的な株の高騰は裏を返せば、日銀が株の買い入れを止めるという観測が流れるだけで日本の株価はいつでも暴落しかねないわけで、この出口戦略のなさは「大本営発表」の虚偽情報を重ね続けた結果、惨敗は分かっていても終戦に持ち込むことが極度に困難になってしまった1943年以降の日本政府と日本軍と同じくらいに愚かで危険なものなのだ。

森友学園疑惑に話を戻せば、発端は地元豊中市の市議会議員で、つまり情報ソースはそもそもが「反日の朝日新聞」ではなくその議員の木村真氏だった。もっと言えばこの木村市議は国有地に建設予定の私立小学校のポスターが、教育勅語に基づく教育を謳うなど、あまりにあり得ない話(ごく当たり前に教育基本法に違反する可能性が高いので)に驚いたわけで、元々のソースは森友学園のいわば自爆行為だ。

加計学園疑惑は、大手新聞やテレビで話題になるずっと前から、夕刊紙などでは森友学園疑惑の追及のあいだに「もうひとつの森友疑惑」的に指摘されていたことで、これも問題視して騒ぎ始めたのは今治市の地元市民団体だ。

だいたいどちらの学校法人をめぐる疑惑も、公表されている売却家格であるとかそれこそ募集ポスターとか、すぐ分かる客観情報だけでもどこから見てもおかしな話なのだ。報道で取り上げられるまで時間がかかったのはたまたま報道機関が知らなかっただけで、知ればすぐに報道したくなるかっこうのネタではないか。それでも加計学園の場合は、大手報道各社はかなり慎重で、夕刊紙(日刊ゲンダイ)やネット上の方が情報は先行していたのに、「朝日新聞の謀略」のわけがなかろう。

文科省内部から「総理のご意向」文書がリークされて朝日新聞(と実はNHK、ただしその「クローズアップ現代」は放映されずじまい)がスクープしたタイミングは、次第に国会や報道で巷間知るところとなってからで、自分達の関わった決定に疑問を持っていた文科省の職員がリークしたと考えるのがもっとも合理的でごく当たり前にあり得る話だ。それが特段の戦略的な意図を持って流された情報だと考える根拠といえば「安倍首相に都合が悪いから」しかなく、もちろんそんな決めつけはただの被害妄想の荒唐無稽でしかない。

どちらの疑惑も、いつのタイミングで出ようが政権に打撃を与えるのは確実だし、そもそもこんなことをやっている政府が悪い、で話は終わる。出されるタイミングによって恣意的に誤解を招いたり、印象操作を行ったりなんて、やりようがない。

一方で、マスコミでは誰も話題にしないが、先の総選挙の選挙戦で、小池百合子東京都知事の立ち上げた「希望の党」と前原誠司代表の民進党の「大合流」がスクープされたのは、明らかに意図的な戦略性を持ったタイミングでリークされた情報だ。

逆に小池からすれば、この大合流の大合併は詳細まで詰めて完全な合意となったところで初めて選挙の「空中戦」での意味を持つカードだった。きちんと合意をつめていきなり民進党+小池の巨大野党を中心に、民進党と選挙協力をして来た社民、共産、自由党も連携した安倍包囲網がいきなり発表されれば、そのインパクトは凄まじかったはずが、あんな拙速なタイミングで、民進党内から反発が出るのが確実な段階で報道されたのは明らかに計算違いで、逆に大合流がうまく行くかどうかも怪しくなる。

つまりはこのリークによるスクープは、大合流そのものを潰して選挙戦を自民党有利に運ぼうとしたのか、あるいはもっとせせこましい話として民進党内のいわゆる「保守派」が、新党からいわゆるリベラル派を排除したい意図を持って流したものだとまず考えられる。

選挙の結果を知っていれば、この最大の受益者は安倍政権と自民党(最大の脅威だった小池百合子は完全に失墜した)なのだからそっちの陰謀だとも思い込みたくなるが、恐らくそうではあるまい。自民党側にこの大合流の情報が漏れていたとはさすがに考えにくく、まさか希望の党か民進党の党内に自民党のいわば「工作員」でもいたのだろうか、といった荒唐無稽な前提でも考えなければ、まずあり得ないことだからだ。

残念ながら、これは旧民進党勢力のオウンゴールというか自爆行為とみなすのがもっとも妥当だろうし、またそう疑われても当然なまでに、こういう件では民進党ならびに旧民主党には前科があり過ぎる。

政権を取ったときに鳩山由紀夫首相による、沖縄・普天間基地移設は「最低でも県外」公約を潰したのは、鳩山の「腹案」であった徳之島案が秘密交渉段階で「政府高官によれば」でスクープされたことだった。住民にもまったく知らせていない秘密交渉段階で暴露されれば、徳之島の各自治体は態度を硬化させる他はなく、県外移設は潰されたどころか、鳩山政権自体が退陣に追い込まれた。言い換えれば、これは鳩山内閣の危機管理の失敗だったのかも知れない一方で、情報は辺野古移転の強行と鳩山潰しを目的に意図的にリークされた可能性も否定はできない。

福島第一原発事故が起こった時にも、官邸から出ては行けない情報が次々と報道を賑わせて現場や被災地を混乱させ不安に陥れた。まあこれは、意図的・恣意的・戦略的というよりも、当時の官邸の危機管理能力の問題だろう。

直近の例では、先述の衆院選の直前に山尾しおり議員の不倫疑惑が週刊誌に流れたのは、「まさかまたもや、内閣調査室が尾行でもして集めた情報?」かと思えば、出所はなんと民進党内だったらしい。山尾議員が幹事長に内定したことをやっかんだ誰かがその人事を潰そうとして、だったのだろうか?

こういう過去起こったことを考えれば、今度のリークもまた民進党の「いつもの悪い癖」が出たと考えて、まず間違いはないだろう。またその後の流れを見ても、「リベラル排除」に熱中していたのは小池よりも、元民進党でいわゆる「保守系」の議員たち(すでに離党し結党に参加した者たちと、民進党から合流した議員の一部の双方)だった。

だとしたら多くの民進党の衆院議員が「希望の党」に合流しなかったのは、彼らの望み通りにはなったわけだが、そこで立憲民主党が結成されたのは「そりゃそうなるに決まってるだろう」な展開なのに、そこまで先が読めなかったのはあまりに間が抜けている。 
だいたいそんなことをやっている「希望の党」の、元民進党のいわば二枚舌・裏切り者議員なんて、有権者が信頼してくれるものだろうか? 
情報が【武器】になり得ることが分かってないか、【喧嘩のやり方】を知らない人たちはこれだから困る、としか言いようがない。またこういう人達に限って「保守」気取りで、日本の戦争放棄の憲法を変えたがっていたりするのだから、背伸びの火遊びもほどほどに、である。

11月14日に第一報が出て、ゴタゴタが年を越して続きそうな大相撲の「暴行」事件は、日馬富士が貴ノ岩を殴打し負傷させたのは10月26日の深夜だったはずだ。それが3週間、それも秋場所の序盤で、というのはいかにも恣意的なものを感じさせるのだが、ここまで「ワイドショー独占」状態なのにコメンテーターが誰もそこに触れないのは、なんとも奇妙な話だ。

いったい誰がスポ日に、この情報を流したのか? 当初は日馬富士がビール瓶で殴ったと言われ(後に誤報と発覚)、すぐに報道に乗った最初の診断書の「頭蓋亭骨折、髄液漏の疑い」という文言がいかにも重傷のように読まれてしまい、診断書を書いた医師が慌てて、あくまで「疑い」を列挙しただけでそんな意味ではない、全治10日程度の軽傷だ、と訂正する騒ぎになった。この診断書も、秋場所の休場届のために準備されたもののようだが、出所がよく分からない。

貴乃花に厳しい処分を相撲協会の理事会が決めた今頃になって、事件から発覚まで時間がかかったことで話を大きくなったとしたり顔で言うコメンテーターもいるのに呆れるのだが(いやここまで混乱して話が大きくなったのは、あなた方が連日連日、たいした新事実もないのにこの話題ばかり報じて何時間も憶測を論じ続けたからだ)、どうせそこまで言うのなら、なぜ報道が遅れたのか…というよりも、なぜ11月14日の秋場所3日目が第一報になったのかくらい、ちゃんと論じるべきだろう。

どうも「報道が遅れたのは相撲協会が隠蔽しようとしたからだ」とあてこすって無理矢理に貴乃花を擁護したいようだが、警察に被害届が出て刑事事件としての捜査が始まっていたのなら、マスコミに発表するかどうかはまず鳥取県警の判断だ。その県警は被害届を受けて協会に通知の上で捜査協力を依頼しているが、協会側の「秋場所があるので力士には相撲に集中させたい」という意向を受け入れて事情聴取を待っている。

つまり県警は貴ノ岩の被害届けによって被害の内容はほぼ把握していたし、現場には貴ノ岩の恩師である出身高校の教師なども同席していて、なにしろ鳥取在住なのだから県警は当然、そちらの事情聴取は先に済ましているはずだが、その時点でこれを発表を要するような重大な刑事事件とはみなしていなかったはずだ。協会の多分に事務的な「秋場所があるので」を受けて事情聴取を先延ばしにするほどなのだから、県警にとって緊急性が高い捜査でもなく、また協会が隠蔽工作をしたり力士たちが口裏合わせをする可能性があるとも思っていなかった。

また協会側でも、なにしろ「秋場所がある」で事情聴取などの捜査協力は後でいい、と鳥取県警が言うくらいなのだから、そんなに重大な事件ではないのだろう、と認識して当たり前だ。そんなところまで「相撲協会の体質」を批判するのは、さすがに度を越している。

まあ地方の県警はよくも悪くも保守的なので、有名力士が当事者でそのキャリアを傷つける可能性があるのだし、なるべく穏便に済ませようと考えた可能性もある。この場合、キャリアが傷つけられる可能性があるのは加害者の日馬富士以上に被害者の貴ノ岩も、という認識も、なんとなくは相撲界内部の事情も類推できる県警にはあっただろう。

つまりその判断の是非はともかく、なぜこの事件が3週間前後はまったく報道されなかったのかと言えば、まず単に県警にとって公表するほどの事件ではなかったからだ。そういう態度の県警から連絡を受けたていたからこそ、相撲協会もたいした対応はしなかったのだし、だからといって相撲界の人間ではなく第3者的な立場、ないし被害者の恩師なのでどちらかといえば被害者側の高校関係者もまた、「これは大変だ。もみ消されてはいけない」と思ってマスコミに話そうともしていない。

以上は事実として断言していいだろう。なぜなら、そうでなければとっくに、11月の初頭の、12日に秋場所が始まるだいぶ前に、この事件は明るみに出ていたはずなのだ。

ではなぜ、11月14日になって第一報が出たのかと言えば、この時期になって誰かが初めてマスコミに事件のことを(それも不正確に誇張された形で)リークしたからであり、そこには当然ながら恣意的な意図がある。

で、それは誰かと言えば、もっとも可能性が高いのは言うまでもなく(恐らくは間接的にせよ)貴乃花だ。他には事件を知っていて、それをマスコミに流そうとした、つまり報道して世に訴えなければならないと考えた関係者は、警察も含めていなかったのだ。

またリーク元が貴乃花ないしその関係者が疑われる理由はもうひとつある。「ビール瓶で殴った」「モンゴル会だった」など、事実に反する内容が多過ぎる第一報だったことだ。これがまた、日馬富士(や白鵬、鶴竜)に不利な印象操作として作用もしていた(実際には、貴ノ岩の高校の頃の留学先だった高校の関係者との会食で、3横綱はゲストとして招かれていた)。

騒ぎがどんどん大きくなったのも、報道に出た後ですぐに(「発覚後」というのは、上記の事情から必ずしも正確な表現ではない)日馬富士が親方の伊勢ケ濱を伴って謝罪に来たのを貴乃花がこれみよがしに無視して車で立ち去ったのに始まって、貴乃花が貴ノ岩の所在を協会に対してさえ明らかにしなかったり、場所後には貴乃花が貴ノ岩の診断書の提出も怠ったまま冬巡業を無断欠勤させたり、しかも本人はこれまたこれ見よがしにマスコミの前に自分の姿は毎日のように(いかにもしらじらしく)見せながらダンマリを決め込み、といった不可解な行動を繰り返し、マスコミもまたその貴乃花のゲームにのせられたのか、意図的に協力しているのか、いずれにせよ「ああでもない、こうでもない」と憶測ばかりを延々と報道し続けて来たからだ。

貴乃花の一連の「奇行」は、すべて少しでも大きくマスコミが報道すること、その状況が長引くように仕向けることが目的だったと考えれば、すべて説明がつく…と言うより、それ以外にこれらの行動には合理的な動機の説明がつかない。

つまり貴乃花はかなり巧妙にマスコミを踊らせるメディア戦略を打っていて、マスコミが見事に踊らされたのだ。考えてみればこの場合、なにも言わないことは報道の好奇心をかきたてるのに最も有効な、それもかなり高度な技で、誰ができるわけでもないが、かつて「国民的ヒーロー」だった貴乃花なら十分に条件が揃っている。

だからってそれにいいように乗せられているマスコミもどうかとは思うが…。挙げ句に協会の理事会で処分が下される直前の発売で、週刊新潮と週刊文春が共に貴乃花の「激白」を掲載しながら、中身は本人の発言がごく一部しかなく、しかも貴乃花自身は理事会に対して「週刊誌の取材には応じていない」と証言しているのだから、もうわけが分からない。

またこの貴乃花の奇行と並行して、やってることも(協会相手に)言ってることもどう考えてもおかしい貴乃花が、それこそマスコミにはなにも言わないからこそマスコミがこぞってその心のうちを勝手に忖度してまで懸命に擁護したがっているのも、相当に奇妙な事態だ。

貴乃花が警察や検察の捜査への協力を口実に、自分や貴ノ岩の協会危機管理委員会による事情聴取に応じて来なかったことを支持する意見が、一般どころか “識者” からも後を絶たないのに至っては、まず滑稽極まりない。まあこれは、この一件に限らずマスコミ報道が精確さに欠ける言い方で国民に大きな誤解を振りまいて来たことにも原因はあるのだが、警察や検察には捜査上の秘密を守る権限はあるが、よほど異例の事態でもなければ被害者側や目撃者に口封じをする権限なんてないし、そもそもそんな口封じをする理由がない。

マスコミの“識者” も含めて多くの人が勘違いしているようなのだが、加害者や被疑者が「警察が捜査中」を理由に取材に応じないのも、別に警察・捜査当局側では理由は成立しない。逆に捜査中で刑事訴追の可能性がある事案について、被疑者には自分を守るために答えない権利があるだけで、マスコミに喋らないのはその自己保身の権利を行使しているに過ぎない。

例えば国会の証人喚問で証言拒否できるのは、別に警察や検察のために「捜査中だから答えない」のではなく、裁判で自分に不利な証拠になる可能性があるから答えないでもいいのだ。

被疑者は警察の捜査そのものに対してすら、自分に不利になることは答えないでいい黙秘権すらあるし、一般市民が警察の捜査に強力するのはあくまで善意であって義務ではない。まして貴乃花が協会の聴取に応じないことで捜査に寄与できることなんてなにもなく、強いて言えば警察に対する貴ノ岩の証言と異なったことを言えば、当然どちらかが偽証となり、責任が問われるだけだ。

被害者側がわざわざ黙秘権を行使するという、ずいぶん奇妙な状況がこの一件では起こっている。それが貴乃花が弟子である貴ノ岩を守ろうとしているように見えるのは、よほど人がいいというか貴乃花に勝手に忖度しているとしか思えないし、一方で貴乃花の側にこそなにか隠したいことがあるのだという以外に考えようがない。

今年の春の稀勢の里の昇進まではすっかりブランクが出来てしまった日本人横綱の、その最後が貴乃花で、それ以前からいわば「国民的ヒーロー」で、入門前の少年時代から有名で、相撲部屋への入門自体が大ニュースになった珍しい存在だからって、いくらなんでも騙され過ぎというかいいように手玉に取られ過ぎ、ほとんど神がかり的とすら言っていい気持ち悪さが蔓延している。

いくら貴乃花という「国民的ヒーロー」の幻想のバイアスがかかっているからと言って(そして日馬富士も白鵬もモンゴル人)、こういう日本の世論形成のあり方というのはかなり不気味だ。

ぶっちゃけて言えば要するに、「日本人」の共同幻想の都合で聞きたいこと、耳障りでないことだけしか受け入れず、嫌なことは考えたくもないし聞きたくない、という歪んだ主観に染まり過ぎな気がするし、そこに相撲ファンや一部の相撲記者とのズレがあることも無視されている。

端的に言えば日馬富士本人を良く知る人や、その相撲を見て来たファンからみれば「日馬富士はそんな人ではないはずだが」というのが率直な感想なわけで。

いやだいたい、しょせんは相撲、エンタテイメント業界の一業種内のゴタゴタに過ぎないこと一色に報道が染まること自体、明らかにヘン過ぎるし、そのこと自体が情報操作の疑い、つまり政府に都合が悪いことをなるべく報道させないようにしていて、そのために大相撲騒動を誇張して報道しているのでは、という可能性ももちろん否定はできない。

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