F2支援戦闘機が離陸に失敗して墜落炎上した。よりによってこのタイミングに。なにしろ防衛専門の輸入商社と防衛事務次官の癒着がスキャンダルになってるこのときに、一機120億円の“国産”戦闘機がこの事故である。
F2を「国産」と呼ぶこと自体かなり無理があり、実態はアメリカのF16のマイナーチェンジ版に過ぎないこの飛行機、マイナーチェンジのわりにはえらく開発費が膨らんで、それが一機120億というバカみたいなお値段の一因になっている。元々三菱重工製のF1の後継機として純国産を目指したはずが、F16の製造元の猛烈なロビー活動で日米共同開発になった、ということになっているけれど、日米貿易摩擦華やかなりし時分に決まった話だし、一民間企業のロビー活動だけでそう決まったと考えるのは無邪気すぎるでしょうね、やっぱり。
現在進行形の防衛次官(前)スキャンダルでひとつの具体的な便宜供与疑惑は、開発中の輸送機CXをめぐるものだが、こちらも国産を目指しながらもエンジンは米国製、で製造元ジェネラル・エレクトリック社の元の代理店だった防衛商社の専務が独立したついでに代理店業務もゲットして、という事情が、常識的にいってどうみても贈収賄にしかみえない接待癒着の背景事情としてある(で、元の会社の方は例のキューマさんとおつきあいが深かったようで)。
言うまでもなく防衛費は永らく政府予算のなかでの聖域であり続けて来たし、今でも実態はそう変わらない。「お国を守る」の大義名分で、何が起こるか、どんな敵が攻めて来るか分からないから万全を、という意識を前提とされてしまえば、「もったいない」と経済原理を導入することはためらわれるし、「抑止力」という軍需産業にとってはまことに好都合な眉ツバな理論まである。というわけで「行政改革」どこ吹く風で、湯水のように国家予算使いまくり、税金注ぎ込みまくりができる分野で、その足下を見ているのかどうかは知りませんが(まあ「常に敵を上回る最新鋭を」と言われれば、これも文句は言いにくいし)、この黄金のヤマで癒着が起きない方がおかしいのかも知れない。
もっとも、これぞ我が国のいわゆる「平和ボケ」の典型としか言いようがない話でもある。通常、安全保障というのはシビアに現実的でなければ意味がないわけで、問題にすべきは戦争ゴッコの幻想ではなく、現実に起こりうる戦争の予測でなければおかしい。その予測の範疇で必要な装備を備えるという防衛費ならともかく、我が国の防衛費の使い方の現実はちっともそうなっていない。たとえば航空自衛隊の主力戦闘機であるF15は攻撃機としての使用を考慮した設計のアメリカの大型戦闘機で、日本国の領空の防衛には必要でない性能がかなりあって、これもかなりバカ高い。なにしろ本来は世界中どこでも対地攻撃ができる性能を建前上制限するように改造して、結果として米軍装備のF15よりももっと高価なのだからいったいなんなの? イージス艦だって日本の領海を守るだけであれだけの能力が必要なんでしょうかねぇ。どう考えても憲法上の制約内で必要とは思えない高価な装備に、日本国政府は大金を注ぎ込み続けているのだ。それもほとんどがアメリカ製ないしアメリカ原産(莫大なライセンス料が支払われる)である。醒めた目で見れば、国土防衛を言い訳にアメリカの軍需産業に貢ぎ、その軍需産業がたとえばブッシュ親子やその前のレーガンの有力なロビー勢力で…ということにもなってしまう。
こういう疑念を呈すると、すぐに「ミギ」の皆様から「北朝鮮のような狂った国が」と言われるのだが、それを言うなら、だからこそ日本の防衛費の使い方も安全保障政策もおかしいとしか思えないのだ。だって今の自衛隊の装備で、仮に北朝鮮が日本に戦争をしかけた場合、防衛出来ますか? F15だって、F16をベースにしたF2だって、そもそもまだ冷戦という思い込みがあった時代に旧ソ連を仮想敵に想定した配備でしょうが。ロクな飛行機はないけどミサイルと核弾頭は持ってるらしい北朝鮮相手に、どれだけ意味があるの?
いやまあ、自民党の右派あたりが本当は北朝鮮でなく中華人民共和国を仮想敵とみなしてるのは公然の秘密なのだが、それこそ中華人民共和国とどうやってこの狭い国が戦争するねん? 人口なんてあちらの10分の1ですよ。それに現在の日中関係や中国の内政からして、中華人民共和国が日本を侵略しようとするなんてこと、あり得るんでしょうか?
実を言えば、恐らく「防衛」「安全保障」の専門家ほど分かっているはずだ。現代の世界で、武力で日本の安全保障を担保しようという発想自体が、およそ現実性を欠いているのである。地勢学的に言って、現代の兵器ではこの立地条件の国が攻められたときに武力で守るなんて、物理的に不可能に限りなく近い。それこそ北朝鮮の不良品ミサイルだって、撃ち落とす装備なんてあり得ないんですから(ブッシュはんはミサイル防衛構想とかいうずいぶん非現実的なお話をでっちあげて、軍需産業をもうけさせてはりますが)。
本日付けでインド洋における海上自衛隊の給油活動は終わりになるわけだが、これを継続しなければならないと主張して来た政府の理由付けもコロコロ変わってなかなか笑わせてもらえた。さてこれで「国際社会における日本の地位」が低下するかどうか、よぉく見ておいた方がいいでしょう。たぶんそんなことはまったくない。対米関係ですら、アメリカの世論は「テロとの戦争」反対に傾きつつあるどころか興味すら失って来てるんだし、もうすぐ大統領選挙ですよ。なんでそういう当たり前の分析にのっとって外交戦略をとれないのかが、不思議ではある。
むしろ小沢民主党が「国連主義」で継続を突っぱねたことがもっと知られれば、日本が世界の新しい流れをリードしたことにすらなるかも知れませんぜ。言い換えれば、外交ってこういうふうに正当性の大見得を切ってやることなんですが、世界でもっとも大義名分を主張できる憲法を持ちながら、それを有効利用もできないんだから…。
題名は室町時代の禅僧・夢窓疎石の言葉で「別に工夫なし」。ここはそんな境地にいつか到達したい、日本ではまだ有名でない映画監督・藤原敏史が勝手に愚痴ってるブログです
10/31/2007
10/30/2007
消費期限、賞味期限の偽装についての素朴な疑問
お伊勢参りの定番、赤福餅が製造日の表示偽装で営業停止になり、そこで代わって売り上げが伸びていた御福餅も製造日表示の偽装で、営業自粛だそうだ。なんだかこの手のニュースを聞かない日はないくらい、ほとんど流行としか思えないのだが、「そりゃそういうインチキはいけませんよ」というのは当たり前ながら、根本的な疑問が湧いて来た。
(注:写真はただの彩りで、本文と関係ありません)
その1) そもそも偽装はなぜ発覚したの?
当然、内部告発なんだろうけれど、逆に言えば消費期限切れないし賞味期限切れの食品を実際に食べた人のあいだで食中毒が発生したわけでも、商品自体を調べてみたら品質が劣化してたことが分かったというわけでもないらしい。保健所だとかではその偽装した食品の品質を調べたりはしていないのだろうか?
その2) そもそも消費期限、賞味期限って意味あるの?
上記の疑問から当たり前のように思いつくのが、期限切れの商品を消費した、つまり食べたお客がそれこそ何年にもわたって大勢いるはずなのに、食中毒だとかが起こってないのか、という疑問。いやもちろん、起こっていなくて幸いなのだが、まだ十分食べれるものを「期限切れ」として捨てていることになりゃしませんか? だって今の世界は先進国でこそ飽食の時代ながら、全体的には慢性的な食料不足だし、今後より深刻な食料危機が予想されているんじゃなかったのかしらん?
その3) そもそもなんで偽装する必要があったの?
で、「もったいない」と考えているうちに当然考えなければならなくなるのは、なんでそんな偽装をしたのかということ。御福餅の場合はまだ遠隔地での販売分の製造日を一日ずらしていたというから動機は分かるのだが、どう考えても、期限切れ商品を偽装して売ろうが正直に売ろうが、売り上げも、原材料費や製造コストも変わらない。偽装しているぶん余計に在庫期間を抱えることになるのだから、倉庫代のぶんだけかえって余計に金がかかってるじゃないか。ムキ餅、ムキ餡と称していったん製造した商品をバラして、なんていうのに至っては経営者はなにを考えてそんな余計な手間をかけて違法行為をやってるのか、さっぱり意味が分からない。
要するに余剰生産を延々と続けて来た、ということなのだろう。売れ残った商品をなんとか売ろうとして偽装に走ってるとしか考えられないのだから。しかしそれが延々と何年も、何十年も続いているとはどういうことなのか? まともな経営者だったら、作った商品を売り切れない現状が続いていたのなら、とっくの昔に生産量自体を縮小して経営合理化を図っているはずである。そんな経営を続けていても倒産していないのがいちばん不思議だ。
もちろん生産ラインを縮小すれば、そのぶん従業員を減らすことになり、要するにクビを切らなければならないという困ったことにはなるだろう。だからっていちいち偽装していたり、完成した商品をバラして再利用する手間をかけるのも雇用の確保というのは、いくらなんでもやり過ぎだ。それが十年も二十年も続いて来たというのは、考えれば考えるほど我々の常識を超えている。それとも、僕はまともな会社勤めの経験がないせいで、この程度のことを不思議に思ってしまうほど世間知らずだというだけなのだろうか?
ちなみに一連の偽装ニュースで個人的にいちばん印象的だったのは、伊勢の老舗・赤福餅のどうもせいぜいが40代、それもずいぶん子供っぽく見えた社長サンの会見。この人、本当に偽装のことなんてまったく知らなかったんじゃない? 創業者一族だかの跡取りおぼっちゃまなんだろうが、ある意味でこの人の「社長」の肩書き自体が偽装の虚構だったのかも知れませんネ。
(注:写真はただの彩りで、本文と関係ありません)
その1) そもそも偽装はなぜ発覚したの?
当然、内部告発なんだろうけれど、逆に言えば消費期限切れないし賞味期限切れの食品を実際に食べた人のあいだで食中毒が発生したわけでも、商品自体を調べてみたら品質が劣化してたことが分かったというわけでもないらしい。保健所だとかではその偽装した食品の品質を調べたりはしていないのだろうか?
その2) そもそも消費期限、賞味期限って意味あるの?
上記の疑問から当たり前のように思いつくのが、期限切れの商品を消費した、つまり食べたお客がそれこそ何年にもわたって大勢いるはずなのに、食中毒だとかが起こってないのか、という疑問。いやもちろん、起こっていなくて幸いなのだが、まだ十分食べれるものを「期限切れ」として捨てていることになりゃしませんか? だって今の世界は先進国でこそ飽食の時代ながら、全体的には慢性的な食料不足だし、今後より深刻な食料危機が予想されているんじゃなかったのかしらん?
その3) そもそもなんで偽装する必要があったの?
で、「もったいない」と考えているうちに当然考えなければならなくなるのは、なんでそんな偽装をしたのかということ。御福餅の場合はまだ遠隔地での販売分の製造日を一日ずらしていたというから動機は分かるのだが、どう考えても、期限切れ商品を偽装して売ろうが正直に売ろうが、売り上げも、原材料費や製造コストも変わらない。偽装しているぶん余計に在庫期間を抱えることになるのだから、倉庫代のぶんだけかえって余計に金がかかってるじゃないか。ムキ餅、ムキ餡と称していったん製造した商品をバラして、なんていうのに至っては経営者はなにを考えてそんな余計な手間をかけて違法行為をやってるのか、さっぱり意味が分からない。
要するに余剰生産を延々と続けて来た、ということなのだろう。売れ残った商品をなんとか売ろうとして偽装に走ってるとしか考えられないのだから。しかしそれが延々と何年も、何十年も続いているとはどういうことなのか? まともな経営者だったら、作った商品を売り切れない現状が続いていたのなら、とっくの昔に生産量自体を縮小して経営合理化を図っているはずである。そんな経営を続けていても倒産していないのがいちばん不思議だ。
もちろん生産ラインを縮小すれば、そのぶん従業員を減らすことになり、要するにクビを切らなければならないという困ったことにはなるだろう。だからっていちいち偽装していたり、完成した商品をバラして再利用する手間をかけるのも雇用の確保というのは、いくらなんでもやり過ぎだ。それが十年も二十年も続いて来たというのは、考えれば考えるほど我々の常識を超えている。それとも、僕はまともな会社勤めの経験がないせいで、この程度のことを不思議に思ってしまうほど世間知らずだというだけなのだろうか?
ちなみに一連の偽装ニュースで個人的にいちばん印象的だったのは、伊勢の老舗・赤福餅のどうもせいぜいが40代、それもずいぶん子供っぽく見えた社長サンの会見。この人、本当に偽装のことなんてまったく知らなかったんじゃない? 創業者一族だかの跡取りおぼっちゃまなんだろうが、ある意味でこの人の「社長」の肩書き自体が偽装の虚構だったのかも知れませんネ。
ブログを始めることにしまして、楊徳昌のはなし
写真:映画『フェンス』 藤原敏史 作品 撮影 大津幸四郎
©2008、Yasuoka Films, ltd., compass films
ブログを始めることにしました…と言ってもののはずみなのでなにを書くべきか、と思いつつ、よろしくお願いします。今後ヒマなときか、逆にテンパッて逃避したいときしか書き込まないでしょうが、どうぞおつきあい下さいませ。
そういえば一昨日は楊徳昌(エドワード・ヤン)の結果として遺作になった『一、一 a one and a two』(日本公開題は『ヤンヤン、夏の思い出』っていったい…)を久しぶりにフィルムで見直してやっぱりすごいものはすごい。しっかし、こんなにシンプルで誰でも分かる、いや誰でも感動するであろう映画が、なぜ興行でヒットしなかったのだろう? いやエドワード・ヤンがここで繰り広げている演出と構成の洗練は実はとんでもないのだけれど、なにがとんでもないってあまりにも自然に見えてこれがとんでもない映画であることをまったく気にしないで見られるということなのに。
数日前に彼の長編デビュー作の『海辺の一日』を初めてフィルムで見たのだが、20年ほどの経験と円熟を経てまったく別の映画になっている『一、一』が、一方でこのデビュー作とまったく同じことを語っている映画でもあること、完璧に円環が完成していることに気づかされた。そういえば2000年にこの映画をもって来日したときに「これを作ってしまったら次はもうやることがないんじゃないですか?」と冗談半分に訊ね、ヤン監督は笑って「心配しないでもまだ映画でやりたいことはいっぱいあるさ」といろいろ構想も聞かせてくれたのだが、亡くなって初めて知ったのは、あの時すでに彼がガンで手術を一度受けていたということ。こっちは軽口のつもりだったが、ニコニコ笑って答えてくれたヤン監督の心中はどんなものだったのだろう? いやはや、バカなことを聞くべきでなかった。
『一、一』ラストシーン
『一、一』はお葬式で終わるが、『海辺の一日』の最後の回想ではヒロインの兄が半年前にガンで亡くなっていたことが明かされる、その兄の死に際の独白も含め、まだ59歳で亡くなってしまったエドワード・ヤン自身が、たぶんその映画のように自らの運命を素直に受け止めていたであろうこと(だから余計な気遣いを嫌って、なにも言わなかったのだろう)、それに較べて自分たちが彼の死をどう受け止めていいのかまだ迷い続けているしかないことに、改めて気づかされる。