スカルノの妻だっただけで大きな顔して芸能人、だなんてまったく好きにはなれない人物であるが、今回の根本氏の行動で本当に問題なのはほぼただ一点、事実確認を怠ったことだけだし、これとて本来ならジャーナリズムが報じていておかしくないのに報道していないことの結果に過ぎない。取り上げられていれば、根本氏はただコメンテーターとして加害者を厳しく批判できただろうし、根本氏の責任はその意味で、些細な問題でしかない。
なるほど少年法では、犯罪少年のプライバシーは保護することになっている。
だがこれは、あくまで犯罪少年の将来への配慮から、ちゃんと反省し更正するのなら過去を引きずって名指しで責められることを免除してあげなければかわいそうだという立法精神に基づくものであって、「違法だからダメなんだ」あるいは「事実確認を怠ったデヴィ夫人は許せない、極悪人だ」と言わんばかりに批判すのは、まず叩きたい欲望が先にあって、近代法治主義が分かってないで法律に叩く理由を見つけて理不尽に他人を攻撃したい欲望を満たすだけの、いわばいじめの心理にそっくりの言動だ。
そして我慢ならないほどいやらしいのが、根本七保子氏を必死で叩く人々の動機が透けて見えていて、それが極めて卑しく姑息なものであることだ。
それは今回の事件でいじめが問題になったとき、毎度おなじみであるかのように「識者」の多くが呪文のように繰り返すだけの偽善も、同じ動機を持ったものだとも思う。
これらまことしやかに語られる偽善というのは、たとえばまず、「いじめ被害に遭ったら、学校に来なくていい」「学校に行かなければ死なないで済むじゃないか」という言い草である。
いじめられっ子は邪魔だから、お前が来なければいじめは「解決」するよ、と言わんばかりの言い草なわけですが、差別事件と同様、問題は被害者の側にあるとして、その被害者を徹底的に排除することで解決を図るわけですね。
被差別部落問題や在日コリアン問題でもこれを延々とやり続けているのが、ここ何十年かの日本社会の毎度おなじみのパターンである。左翼や市民派を気取った人々も、やっているのは「被差別者の支援」であって、決して差別の問題解決のためのアクションではない。
子供がいじめを解決しようとしない学校や教師、いじめをしてくる同級生らへのあてつけとして、いわばボイコットとして登校を拒否するのなら、どんどんやっていい。それもひとつの身の守り方であり、抗議のやり方だ。
登校拒否児が出れば教師の査定や学校の評価にも響くんだろうし、それくらい困らせてやらなければ割が合わないし、だいたい動こうとしないだろう。
なにしろちょっと真面目に教師をやっていれば気づくはずのいじめを、見て見ぬフリし続けておいて、問題になったら「気づきませんでした」とか平気で言うのが今時の…というかいじめが社会問題化して30年来の「教育者」サマたちの、極めてありがちな姿だ。
だが「学校に来なくていいよ」はおかしい。まあなんとも分かり易い排除の論理、いじめの完成の欲求の表出でしかないことも自覚出来ないのだろうか?いじめの原因はいじめた側にはない。あくまでいじめをやった側と、それを許した教師・学校側の問題だ。
ところがその肝腎の原因の側の責任が、世論ではなぜか無視されがちなのである。最悪、加害者が責められると「いじめと同じだ」という暴論まで飛び出して来る。どう考えても異様な事態だ。
あるいは、これは総理大臣の野田まで言ったらしいが、「信頼できる大人に相談しろ」という話がある。
おいちょっと待て! なに寝ぼけてるんだ?
大人がそんな信頼にふさわしい行動をとっていれば、少年が自殺するほどの絶望に追いつめられるなんてことに至っていないだろうが!
子供に相談される前に教師がいじめに気づき発覚していなければ、教師はいったい子供のなにを見て教師をやっているのか、というだけでも責任は逃れ得ないし、そんな見て見ぬフリを決め込んで来た大人たちを、信頼出来るほどにお人良しな子供なんているわけないだろうに。
当の野田さんがおよそ「信頼できる大人」に見えないことは言うまでもなく、小沢一郎グループの離党・新党結成に至った野田の党内運営なんて、個別に議員の携帯電話をかけて小沢の陰口を吹き込み圧力をかけるって…それっていじめっ子の行動パターンそのものじゃないか。
国家政府の代表者の総理大臣が、あまりに軽々しくふざけたことを言うもんじゃない。
だいたい国家が文部省で管理する国の教育制度、それも憲法上の義務が国家にも課せられている義務教育課程における、学校運営の失敗である。国の代表者たるもの、まずその最高責任者として子供に謝ったっていいだろう。
どちらの偽善も根本的におかしいのは、なぜかいじめの問題解決を、被害者の方に求めていることだ。
そして過去30年、いじめが社会問題化して、「葬式ごっこ」などをやられた少年が自殺したりした80年代前半から今に至るまで、この倒錯は延々と続いている。解決につながるわけがない同じ「解決」策だけを延々と繰り返しながら。
だから今の日本でいじめ問題が解決するはずもないのは、理屈では最初からほぼ分かり切った話であり、そして現実にまったく解決していない。
一方的に被害に遭っているだけの被害者に問題解決を丸投げして、そのいじめという行為をやっている加害者の側の問題を学校が先頭を切って無視し不問に伏し続けて来ているのだから、原因の方への対処をなにもして来ていない以上、いじめがなくなるはずがない。
なんでこんな分かり切った単純な話を、この国の教育現場や「識者」たちはずっと気づきもしないままなのだろう?
いや、恐らく、本当は気づいているのではないか?気づいていながら逃げているだけなのではないか?
人間の集団があれば必ずいじめは起こる、と言いたがるのも昨今の「識者」の特徴だ。これには二つの誤謬と倒錯が含まれているわけで、まず仮に「必ず起こる」からと言ってそれが許されていいかどうかはまったく別次元の問題である。
なのに、そこを恣意的に誤摩化しているのがこれら「識者」たちの偽善なのだ。
もうひとつ、誤謬であり倒錯であるのは、人間の集団があれば必ず避けられないのはあくまで「葛藤」であって、「いじめ=葛藤」ではないことだ。
「いじめ」は葛藤のひとつの表出の形でしかなく、避けようと思えば避けられることであるか、あるいはむしろ別の、より本質的な、集団の分裂を招くような葛藤を起こさせないためのいわばガス抜きとして利用できるのが「いじめ」であったりする。
こんな話は政治学では古典も古典、基礎中の基礎に属する話だ。ヒトラーのドイツがユダヤ人を敵視し排除することでドイツ国民の統一を図ったとか、スターリンのソ連や旧大英帝国などが、支配する植民地の境界線をわざと民族対立が起こるように引っぱったとか、世界史には枚挙に暇がない手法。
日本史では(これは最新の研究を踏まえれば、史実とはいささか異なるにせよ)江戸幕府が最下層身分としてえた・ひにんを置いた理由はこれだった、とそれこそ当の学校の先生が社会科の授業で教えている。
だから学校の先生には、「先生がやっていることは江戸幕府の差別政策と同じじゃないか」くらい、いじめの被害に遭っている子供は言ってやっていい。まさにこの古典的な分断支配の方法論を使って「学級運営」をやっているのが、1970年代以降の日本の教育現場の主流なのだから。
…というか、あまりに皮肉なのは、学校教育にこれを持ち込んだのが、表面上は左翼リベラルぶった日教組だった、ということだ。
参考文献として、原武史著『滝山コミューン一九七四』をお薦めしておく。何を隠そう、これは東久留米市立第七小学校の話だが、僕は同市立第九小学校の卒業生です。まったく同じことは目撃している。
日教組の教研で推奨された、「連帯責任」を重視したり、班分けで集団ごとに子供を競わせつつ「団結」を強調する、その一方で強引な平等主義で優劣を含む子供の個性を無視しようとする手法が蔓延したことが、70年代末からいじめの蔓延につながり、80年代に自殺者が出るまでに表面化したのではないか。
一方で教育労働者としての権利の確立と、国家権力の教育への介入を排除するのは結構とはいえ、教育者としての能力や矜持に欠け、当然ながら指導力がない教師すら組合で保護され、熱心で優秀な若い教師を教員室や職員会議における「いじめ」的な手法で潰す、ということも並行して起こっていたのである。
こうなればいじめが起こり、それが悪化して蔓延するのは当たり前ではないか。最悪な話(でもなくけっこう蔓延していることとして)、教師がいじめをあからさまに誘発しているか、少なくとも利用している場合すら、ある。
指導力の低い教師は親になんとか胡麻を擦ることで自分の地位を守ろうとする。
その時にはより地域等の有力者である親、他の親に影響力がある親にすり寄るのが最良の選択だし、その親がライバル視したり敵視できる別の親を仕立て上げるのは、もう当たり前の生存本能に近い。
そうやっていじめを誘発することすら、教師のその場しのぎの保身にはなってしまうのだ。子供相手でさえ、たった一人のいじめ被害者と、多数の味方があるいじめ加害者、そのどっちの側におもねった方が「学級運営」は楽になるか。矜持がなく保身が最優先される教師なら、答えは分かり切っている。
過去30年日本で社会問題となって来たいじめの特徴は、誰がいじめられるか分からない、というより普通ならいじめの対象になりにくい、いわば活発な優等生だったりする子供が「生意気だ」としていじめの対象になるのも多いことなのだが、その集団心理のメカニズムの背後にあるのが、実は親のプライドとそこに取り入る教師の共犯行為だったりする実例は、かなり多いはずだ。少なくともその典型例のひとつを、僕は実地で知ってますよ。『滝山コミューン』から分かれて出来た第九小学校ですからね。
またその「いわば活発な優等生」が、平気で教師に向かって「先生がやっていることは江戸幕府の差別政策と同じじゃないか」と言ってしまう子供なんだから、あまりに分かり易い話でしょう。
実は歴史をちゃんと検証すれば、日本でずっと問題になっているようないじめの原因と対策は、極めて分かり易い話なのだ。
なのにほとんどど誰も言及しないし、すぐに出来ることもやらないで、いじめ事件で自殺が起こるとニュースになり、そしてなにも変わらないままの繰り返しで、もう30年である。
だがこれは日教組(と言って、もはやたいした組織率でもなく力もないが)も文科省も絶対に認めないだろう。
自分たちの誤りを認めた瞬間に容赦なく叩かれるのが怖い、だから必死で誤摩化す、逃げるというのが彼らの行動パターンなのだから。
80年代の後半になって「日の丸」「君が代」があたかも日教組と文科省の重大な対立軸になったかのように見えるのも、実はこのいじめの温床となる馴れ合い体質から国民世論の目を逸らす偽装なのではないか、とすら思えて来る。それくらいにあの国旗・国歌論争は本質的にバカバカしいわけで。ここまで読んでいて、今いじめに遭っている子供、あるいはいじめの被害に遭った人、いじめの傍観者だったり加担者だったりした人は、もう気がついただろうと思う。
そう、「自分たちの誤りを認めた瞬間に容赦なく叩かれるのが怖い」という、この30年間に日本の子どもたちが常に学校の現場で感じさせられて来た恐怖感というのは、実は偉そうな顔をした大人たちも、文科省のお役人も、先生たちも、親でさえ、まったく同じなのだ。
だからこそ「識者」も、「原因の方への対処をなにもして来ていない以上、いじめがなくなるはずがない」という当たり前のことに、一生懸命に気づかないフリをしているのではないか?
「いじめの原因は加害者のいじめる側にある」と本当のことを言ってしまったとたんに、「加害者のいじめる側」の人たちは、それを認めてしまったらそれこそ…そう、「自分たちの誤りを認めた瞬間に容赦なく叩かれるのが怖い」、だから必死で、なりふり構わず、攻撃性をムキ出しにしてまで、否定しようとする。
その「加害者のいじめる側」の方、いじめを実は自分たちが利用さえして来た側、だから「加害者」が糾弾されることを恐れる人たちこそが、大人も含めれば現状の日本社会では多数派なのだ。
だからそれこそスカルノ第三夫人、通称デヴィの根本七保子さんのように、「悪いことは悪いのに、こんなことが許されてたまるもんですか」と怒ってしまったら、なにしろ「お前が悪い」と言われていることにつながる話なので、もう必死で叩くしかなくなる。
デヴィ夫人のあの発言は、「世界のセレブ」の「元大統領第三夫人」のイヤミな発言ではないでしょう。あれは八百屋の娘の素朴な庶民の義憤ですよ。
始末の悪いことに、差別の問題であれば差別する側のマジョリティの方がはるかに数が多いのと同様に、過去30年間ずっとこうしたいじめが社会問題であった結果、世の中の多数派の方こそが元は「加害者の側」「いじめる側」であり、いじめをなくすために対処しなければならない「原因」の側そのものなのだ。
でも、だからこそ、元は「加害者の側」「いじめる側」であり、今でもいじめをなくすために対処しなければならない「原因」の側のまま、大人になってしまっている人たちに問いたい。
あなた方はその程度の下らない我が身かわいさの身勝手な保身で、子供がいじめで追いつめられて自殺するという悲劇が連続することを見過ごして行けるんでしょうか?
そんなに自分だけがかわいいという態度で、子どもたちに何が教えられるんですか?人間として恥ずかしくはないのでしょうか?
自分の過去のあやまりを、今の子どもたちに繰り返させれば、「自分だけが悪いんじゃない」「みんなやってるじゃないか」といつまでも誤摩化し続けられるとでも、思っているのですか?
こういうズルい大人たちが、いじめられている子どもたちに絶対に教えない知恵を、ふたつほど教えておきます。
まず、「正当防衛」の権利は誰にでもあります。だからいじめられても、自分を身を守る範囲ではやり返しても、あなたはまったく悪くありません。
そこでまたズルい先生は、「いじめじゃない、喧嘩だ」として、「喧嘩両成敗だ」と誤摩化そうとするでしょう。その理由はもう分かるだろうと思います。いじめっ子を叱ったりしたらその親がクレーマーになるのが怖いから、そして「いじめ」が発覚したら上司が怖いからです。でもそんな先生には「先生って、正当防衛も知らないんですか」とはっきり言ってあげましょう。さすがにメンツが潰れて言い返せなくなりますから。
「自分は非力だからやり返しても適わない」と思ってるとしたら、心配はいりません。ちゃんと抵抗することのもうひとつの目的は、あなたがいじめられているという事実をあからさまに露見させることだからです。やり返して大騒ぎになれば、先生はさすがに見て見ぬフリはできなくなります。
そしてそれでも誤摩化す先生には、「出る所に出ます」と言うか、親に言わせましょう。これを言った途端に、先生はあわててあなたの機嫌をとるか、いじめを解決しようとするでしょう。上司にバレたら、立場がなくなりますから。
上司の校長や教育委員会だって同じじゃないか…って思うかも知れませんけど、「だからこそ」騒ぎは大きくした方がいい。無視できない騒ぎになれば、そういう卑怯な偉い大人は、その先生に責任を押し付けることを選びますから。
それでも逃げるなら、マスコミがあります。インターネットがあります。2ちゃんねるなどに投稿するのはあまり感心できませんけど、あなたがいじめを告発することそれ自体は「正義」であるか、少なくとも立派な復讐です。卑劣で臆病な連中のやる理不尽ないじめなどとは、人間としてレベルが違います。
もうひとつ、これも日本の大人はなぜか子供に教えたがらないのですが、それでも社会科の授業で教えなきゃいけないことになっているので、一応は授業に出て来ます。この世界で民主主義という、今の日本でも採用している、もっとも正しいとされる政治制度の起源と、そこで最も尊重され尊敬されないければならない人間の権利の話です。
民主主義を作って来たのは、理不尽な圧政に対して起ち上がって抵抗して来た勇気ある人たちです。あなたが今遭っているかも知れないいじめと同じようなことです。
だからこそ、圧政に対して抵抗する権利は、民主主義の社会で最も尊重されるものなのです。これを「抵抗権」と言います。
先生も学校の中ではプチ権力者です。その先生が間違った、理不尽なことを許してあなたを苦しめるなら、先生は圧政を行う悪い権力者です。そんな先生に抵抗する権利はあなたには生まれながらあるんですから、先生が知らないなら教えてあげましょう。
「先生、『抵抗権』も知らないで教師やってるんですか?恥ずかしくないんですか?」って。過去30年間、ここまで社会問題化した「いじめ」をまったく解決出来ていないことは、この国のあらゆる大人の責任であることから、これ以上この社会は逃げてはいけないだろう。
30年と言えば、もはやいじめに怯えて育った世代が、人の親になっている時代だ。こうして悪質で卑劣ないじめの病理が親子で連鎖するのなら、日本社会自体に未来がなくなる。
そしていじめを解決するのなら、唯一真に有効な「いじめ対策」とは、加害者の側にやめさせ、反省させ、原因を取り除くことからしか始まらない。いつまでもその基本の第一歩すら踏み出せないで、このあまりに当たり前の話をなんとか誤摩化すのなら、明日にもまたもう一人子供が自殺するかも知れないことくらい、危機感を持って当たり前ではないか?
いつまで逃げ続けるんですか?