昨今の日本における議論では、政治でもなんでも、たとえばネット上のそれでも、酒席などでも、ある違和感を覚える展開が、最近はとても多い。「私は○○と思う(から反対です)」で話が事実上打ち切りになってしまうのだ。
なぜそう「思う」のか、その理由は一切語られもしない。そして捨て台詞が「人それぞれ、いろんな思いがあっていいじゃないですか」となる。
「なんとなくそう感じる」のでもない(ちなみにそうした直感は、経験則からすれば案外と当っている場合も多い)し、「考えた」その結果の結論でもない、ただ「思い」という言葉ばかりが飛び出し、それが絶対化され、あとはコミュニケーション拒絶。
いやそれどころか、「私は思う」で話を終わらせる人たちは、自分のその「思い」が理解されないと「拒絶された」と感じ「お話にならない」と言い出し、場合によっては「罵倒された」ということにまでなってしまう。
なんなのだろう、この「思い」という曖昧な感情の奇妙な絶対化は?
たとえば鬱病を患っている場合、自分が陥っている思考のパターン(しばしば悲観主義の堂々回りに、鬱病患者は陥っている)の認識が、別の見方をすればストレスとならないかも知れない可能性を提示されても、それを感覚的に受け入れられない場合がある。
理屈で考えれば別の理解が可能だとしても、イニシャルなショックが強過ぎると感覚としてそうした別解釈をリアルな、あり得ることとして受け取ることが、どうしても難しくなるのだ。この場合、それが誤解だった場合でも、どんなに説得をしても当面は無駄である。患者自身がそのショックから回復し、別の解釈で現実を受け入れるようになれるまでには時間がかかるし、場合によっては投薬治療で脳の機能そのものの作用を変えるしかないのかも知れない。
だがここで現代の精神医療に念のため警鐘を入れておくなら、薬物で脳の機能を左右するのは、要するに麻薬だということは、忘れてはならない。
短期的には回復したように見えても、結果として脳内の化学反応の自然なバランスを壊す危険性を常に秘めているのだ。
ある程度の回復に至ったところで思考のパターン自体を見直すか、ストレスの原因自体を生活から取り除くか減らすかしない限り、自律的に脳内のバランスを保てるように出来なければ、薬であったものは麻薬となり、依存症にもなり得る。
こういう場合の感覚、個々人それぞれの気持ちというのは案外と絶対的なものであり、そう簡単に変えることは出来ないし、おいそれと評価を加えることに意味もない。だが一方でなにかを感じるのは基本、純粋に個人的な体験であり、他者はせいぜい「こういう気持ちなのだろうか?」と類推することしか出来ないし、だから自分の感覚を他人に無節操に押し付けることは、本来なら誰もが躊躇する。
一方、「考える」というのは客観性を伴った論理構造を内包しているものだ…
…というとお勉強めいて難しく聞こえるかもしれないが「AはこうだからBになる」「Aがこう動けば結果としてBはこう動く」程度の客観論理は、我々の日常生活のそこらじゅうにある。
その論理性、筋が通った話の共通認識と共通理解が社会を支え、言語による意思疎通を可能にする。そうした社会性の基盤にある共通理解がなければ、そして他者についてもその程度のことは考える努力なしには、我々の社会は維持出来なくなる。
英語での議論でよく使われる表現に、We agree to disagree というのがある。直訳するなら「合意しないことで合意する」、それが可能になるのは、お互いの異なった結論に至るそれぞれの論理構造を双方が理解した結果、「自分の考えは違うが、お前の考え方も間違っているとは言えない」という結論が共有されるからだ。
たとえば「神は存在するか否か」ないし「どの神を信じるのか」という問いは本来なら、最終的にはこの結論に至って、争いにはならないはずだ(歴史が示す通り、宗教者や哲学者どうしの対話はほとんど常にこの結論に至ると同時に、社会的・政治的なレベルの宗教においてはめったにそうはならない)。なぜなら、それなりに思考を重ね経験も積み思想を豊かにして来た歴史があり、その結果多くの信仰を集めているちゃんとした宗教ならば、それなりに論理的な整合性を持った世界の解釈の在り方があるし、異なった信仰の認識体系とは別の解釈の世界観に他ならず、同じ世界の事象に対して異なった説明がそれぞれに成立するならば、どちらかが間違っているとは言えないし、最終的な結論が、そもそも有限な人間の生命のタイムスパンのあいだに出るとも、やはり有限でしかない人間の認識の範疇に収まるとも、限らないからだ。
無神論と信仰の唯一の違いは、科学的な論理と偶然と無神論者が呼ぶものを、信仰者が「それこそが神の働きである」とみなす、その解釈の違いに過ぎないとすら極論できる。
人が生まれ、そして死ぬというプロセスの理解に輪廻転生を介在させようが、そんなものは信じないと無視しようが、人が生まれ、そして死ぬことに変わりはない。
霊魂の物質的な存在を証明できなくとも、ある出来事がなにかの祟りだと信じようが信じまいがその出来事は起こっているのであり、祟りを信じた方が人間の行動を律するには役に立つとすら言えなくもない(つまり祟りが怖ければ、そう簡単に人を殺したり、まして大虐殺なんて簡単には出来ない。織田信長以前の日本史に大虐殺が滅多にないのは、祟りを恐れ死者を鎮撫する信仰文化が生活の一部だったからだ)。
自然現象や偶然が常に我々の想定を凌駕し、その現象を構成する要素のすべてが科学的に計測可能であるわけもないのなら、「荒ぶる神」を恐れる感覚が合った方が災害に強い社会にだってなる(安政の大地震は規模自体は関東大震災より大きい。だが幕末の江戸の方が近代都市東京より被害は遥かに少なかった)。
ところが今の日本では、こうしたお互いの正当性や限界性を認識した議論が、まったく成立しないように思えてならない。
なにかの議論が始まれば、論理展開と事実関係の把握は早晩どうでもいい話になり、成熟した世界観としての「信仰」とは似ても似つかぬただの思い込みのぶつかり合いが「勝った」「負けた」「どっちが正しい」の意地の張り合いになり、論理的にどうにも勝ち目がなくなった側が突然「思い」を口にして、対話そのものが成立しなくなるのだ。
そして自分たちの「思い」を絶対的な根拠であるかのように振り回して「論破した」と言い張るのである。
いやそれは、あなた達の「思い」というか「思い込み」でしかないのだが…。
あなたや私が「感じたこと」、その「気持ち」は、個人的な体験だ。だからおいそれとその共有を他人に押し付けることは出来ない(そもそも、そう簡単に理解されてはたまったものではない)。
「考えること」は論理性に基づく展開があるぶん客観的であり共有される論理構造によって相手を説得可能であると同時に、同じ事実関係を元に異なった論理体系も構築し得るし、勘案されず抜け落ちていた事実がある可能性を潜在的に内包するため、さしあたりの結論が相対的である余地を、常に残すことになる。
この両方においては、他者の、時に対立する感覚や考え方は、共存が可能になる。
「自分はこう感じるが他人がああ感じることはあり得る」のだし、一方で同じような感覚が共有されることもしばしば、実人生にはある。人間は個々人に個性があると同時に、そこまでかけ離れた存在でもないからだ。
だが最近流行りの「私の思い」には、そこに他者の存在や異なった「思い」への理解が併存する可能性がまったくないから、困ってしまう。
いや「人それぞれにいろんな思いが」と言ってるじゃないか、認めているではないか、とあなた方は言い張るのかも知れない。だがその様々な他人の、異なった「いろんな思い」は完全にあなた自身の外部に放置され、あなた自身の思考や世界観に組み込まれたり影響を与える可能性は、最初から排除されているではないか。
それではそんな他者の「思い」は、自己閉塞したあなた自身にとって、存在しないのと同然ではないか。
「思い」しか語れず、自分の感覚と、その自分が感じたことを元になにかを考える意識の階層構造が出来上がっていない人たちの場合、よくても「あなたがそう思うなら勝手にどうぞ、私はこう思います」にしか至らないし、異なった「思い」なり「感覚」や「考え」を持つ他者を説得するか納得させようという努力も、最初から放棄されている。
これは「Agree to disagree」に見られる、双方の感覚と思考の尊重とは、まるで真逆な態度、実はただの拒絶と、一方的な別離の宣言でしかない。
いやこれならまだマシな方で、「私はこう思うのにその私の思いを理解しないあなたはひどい」と、自分がその相手の異なった「思い」を理解し許容する意志なぞまったくないくせに、いやむしろその異なった「思い」を拒絶するために、平然と「思い」を喚き出す人が多いのが、最近の日本の現状だ。
こうした「思い」とはその実、まるで定義の定まらない、しごく曖昧なものであり、主観であるのか客観であるのかすら判然としないし、そう「思う」主体は誰なのかすら明示もされず、むしろ主観なのか客観なのかが曖昧なまま、そう「思う」主体の身勝手な都合で、ときに主観であるかのように、あるいは客観であるかのように、極めて恣意的に使い分けられてしまう。
その概念の定義が曖昧な故に、こうした「なんとなく」でしかなく、主体もよく分からない「思い」の情動は極めて危険なものにも、社会的にはなり得る。
「私はこう思う、なぜなら」の論理構造をすっ飛ばしたままでいる結果、ある事象に対する解釈や意見が対立しているはずが、そこに自分をやり込めている相手への個人的な敵意の感覚が入り込んでも、本人はまったく無自覚なままでいられるし、「なにが正しいのか/なにが美的なのか」の思考を根本的に欠いている結果、手放しの敵意や憎悪の集団ヒステリー化を無防備に招いてしまうのだ。
「思い」の共有だけで固まった集団は、なにしろ感覚と思考が未分化なままなので、その共有される「思い」の強化にこそ無批判に最大のエネルギーを注ぐことになる。「自分たちが信じていることが正しい」のか「自分たちは正しいと思いたい」という欲望なのかの区分けが認識すら出来ていないため、後者があっけなく前者を乗っ取ってしまう。
いったんこうした「思い」の集団化という悪循環の構造に巻き込まれてしまうと、抜け出すことはなかなか困難だ。あくまで私的な体験である「感覚」「気持ち」によって個人が集団から分化され自立が担保されるのではなく、なんとなく「みんなの思い」がそこに優先されてしまい、そこから自分の感覚が外れていることの認識すら、無自覚に拒絶する状態にまで簡単に至ってしまう。
そうならざるを得ないのは、「思い」が自分とは異なった他者との交換可能な、交信可能なものではないからだ。
異なった「考え」であれば、共存し双方から学ぶことは理知的な意識のプロセスで可能だし、異なった「感覚」は自身の感覚の限界性(つまりそう「感じ」ているのはあくまで私個人でしかない)故に倫理的に共存可能なのだが。
だが「思い」にしか固執しない人間がなにかを共有し、なにかを交信し合える相手は、同じ「思い」を持った相手ないし集団しかない。異なった「思い」の持ち主には「人それぞれですね」と言うだけで、それ以上の関わりを持つ必然がなくなってしまう。
かといって自身の意識や認識がしっかり階層化されて自我の感覚がある程度確立しているわけでもないからこそ「私の思い」にこだわるしかない以上は、「その『思い』を持っているのは私だけだ」という孤独に耐えることも出来まい。
言い換えるなら「人それぞれ」だからこそ、その「人それぞれの思い」のうち「同じ思いを持った多数派」になることでしか、こうした人たちは自分の居場所を担保出来なくなってしまうのだろう(それが究極、差別排外主義に陥るしかなくなるのもまた、言うまでもない)。
そして「同じ思いを持つ共同体」の維持の材料として、こうした人々はその思いを補完し正当化するように見える情報だけを共有する「事実」として認識する。その「事実」が、視点を変えればどのように見えるのかも、なにしろ「考える」プロセスがないのだから思いつきもしないし、「今はこう感じるがそれは現時点での私の感覚に過ぎない」とも思わないし、「あくまで自分が感じているだけなのだから、それを他者に伝えるには相応の手続きが必要だ」と考えもしないのだ。
なにやら抽象的なことを延々と書き連ねて申し訳ないのだが、実はこの曖昧なる「思い」の共有の心理メカニズムが、日本社会のあらゆる局面を実は支配しているように思えてならない。
いやこう言ってみたのは単なる「思い」ではない。そういう前提で世の中を見てみれば、あまりにいろんなことがぴったり当てはまってしまうではないか。
たとえば、社会全体に責任を負うはずの総理大臣が、最近やたらと客観性や他者性・社会性に欠いた「思い」という言葉を、連発してはいないだろうか?
野田前首相がそうであったし、現首相の安倍晋三氏に至っては、本当にもうその「思い」の表明しかない。
一方で、ではその安倍晋三を批判する側もまた、「思い」の共有だけで結束している場合があまりにも多い。
山梨で観測史上120年ぶりという豪雪が起こっているときに安倍氏が支持者と高級天ぷらを食していた、という話がやたら批判されるのなぞは典型だ。豪雪における地方と中央政府の役割や責任の分担や、その場合の首相の役割や責任をめぐる議論はすっぽかされ、どこで首相が無責任なのかが議論され、なにが批判されるべきなのかを詰めることもなく、ただ「安倍憎し」の「思い」だけで結束する。
論理的な思考や議論は介在しない。一方で、肝心の、豪雪で苦しむ山梨県の人々を慮る感性も麻痺している(原発事故発生直後に「フクシマ」が連呼されたのにも通じる)。
もっとも、それで批判される安倍氏自身が、他人を責められる立場にない。
なにしろ就任早々アルジェリアで日本人が反政府イスラム過激派に拉致監禁された事件への対応に、「思い」のアピールだけが目的で外遊を切り上げ、なにができるわけでもないのに東京に戻って緊急対策本部とやらを作っていたのが安倍氏だ。
むろん事件の解決はアルジェリア政府の管轄で、日本政府が出来るのはアルジェリア政府の提供する情報を被害者家族や関係者に速やかに伝え、場合によっては渡航を手配などすることだけだ。
首相がわざわざ陣頭指揮する話ではない。「国民の命を守りたい」という「思い」の表現のつもりなのかも知れないが…。
いや安倍氏たちの最大の「思い」とはなによりも、日本を戦争が出来る国にしたい(「国を守る」などと言い換えているが、武力で国を守るとはつまり戦争である)、過去の戦争について日本が悪いと言われたくない、日本が一番の国でありたい、といういずれも極めて子供っぽい「思い」しかなく、その正当性を他者(国民、そして国際社会)に説明して伝える努力など、一切していないのがこの政権である。なのに理解されない、と毒づくのだ。
いやむしろ安倍氏たちがやっているのは「他者」、異なった考えや感じ方をする可能性を持った相手を「反日」と称して排除し(外国だけでなく、国内でも)、そうすることで自分と同じ「思い」を共有する共同体の結束に奉仕することだけだ。
そこにはまっとうな人間的な「感覚」もなければ、論理性を担保し多面的にものごとを検証する「考え」もない。
たとえば「慰安婦問題で韓国に責められたくない」という安倍氏らの「思い」に反し、今彼らが主要な論点にしている「慰安婦になるよう強制されたことがあったか否か」(いや、これ自体は本来ならそんなに主要な論点ではない)、つまり「強制性」にしても、まともな「感覚」と理性的な「考え」があれば、結論はとっくに出ている。
日本政府の調査で、慰安婦の徴集に軍の同行が義務づけられている命令書が出ているのだ。安倍氏たちの「思い」がいかにそこに書かれた「不正の防止」という文言に固執しようが、では具体的にどんな「不正」をどう「防止」したのかすら、彼らは「考え」ようともしないのだから困ってしまう。
これでは同じ「思い」を共有するどうしで慰め合う以外には、誰に対しても説得力を持たない。
ちなみにどんな不正かといえば、軍の委託した民間の業者に任せていただけでは、とにかく軍に注文された(というか軍に力づくで課せられた)ノルマを一生懸命に満たすために、「工場で働く、お国のためだ」などの噓で騙すことが横行し、問題になったのだ。
日本軍相手の性奉仕なんて喜んでやる若い娘が、そうたくさんいるわけもない––自分の「感覚」を大事にすると同時に、だからこそ他者の「感覚」も尊重しちゃんと想像出来るなら、こんなのは分かり切った話だ。金を積んだくらいで若い女性の貞操観念や恐怖感がそう克服できるわけもないなんて、ちょっと当たり前に人間的な「感覚」で想像力を働かせれば分かる(それが出来ない幼稚で身勝手で女性を大切に出来ない男なんて、よほど「非モテ」なんだろうね)。
で、そうした「不正」を防止するために軍の同行が義務づけられた…となれば、ちょっと論理的に考えれば防止された「不正」とはこうした「騙す」行為であり、騙さずとも慰安婦を確実に徴集できる手段が軍の同行であった、というだけの話ではないかと、まともな知性と論理性があればたいがいはすぐに推論出来るはずだ。
だが安倍氏たちの「思い」は、そういった論理的な可能性の検証を一切拒絶する。あるのは「ボクたちの思い」だけなのだ。
個人の良心的な感覚に集団の「思い」が優先され(「みんながそう『思って』いるのに反対するのは和を乱す」)、論理性と客観性が必須で含まれる「考えること」も無視されている。かくして、残るのはただなんの正当性もなく内輪でのみ絶対化された「ボクたちの思い」だけになる。
武装した軍が同行していれば、女性たちたちはそれこそ軍が怖くて、命が惜しくて断れない。だから「騙す」必要がなくなっただけのこと。ちゃんと論理的な思考さえ働かせれば、要するに実態は強制連行だったわけではないか、という論理展開は、本来なら誰でも、少なくとも検証の対象にはする。
「強制連行と直接書いてないじゃないか」といかに安倍氏たちの一方的で自己閉塞的な「思い」で言い張ったって、なんの説得力もない。なにせこれに補完し合う史料として実際に強制連行された元慰安婦の証言があり、しかも慰安所の警備(つまり逃亡防止)も軍の任務、慰安婦の移送も軍が行い、性病の検査も軍医の仕事だったとなれば、徴集の現場でだけは妙に日本兵がやさしく、悪徳業者から女性たちを守ったのだなどという整合性のかけらもない絵空事は、これはもう考えるまでもなく一瞬の直感だけでも「バカバカしい」で終わってしまう。
だが一方で、こうした個に根ざした「感覚」も、客観性論理性を持って「考えること」もないままに、ただ同じ「思い」を共有する集団に埋没する浅はかさは、安倍氏とその周辺以外にもあちこちある。たとえば福島第一原発事故をめぐる、被災地以外の世論のパニックと暴虐ぶりは、その典型だろう。
原子力発電所の事故は科学事象であり、しかも「見えない」以上は、データからの論理的な推論で判断する以外の対処は本来なら出来ないはずだ。だがデータに基づく論理的な推論を専門の科学者や技術者が行えば、「原子力ムラの隠蔽だ」と袋叩きに合った。
彼らの「思い」としては、原発事故はSFマンガで聞いた「メルトダウン」や「核爆発」のハルマゲドン的状況でなければ、満足できなかったのだろう。前者の「メルトダウン」に至っては、その論理的な定義付けも曖昧なまま。
一方で、そうやって叩かれる側(政府や東電本店など)もまた事実関係に目を向けるよりも、「反原発なんてサヨクのマスコミが」という被害妄想めいた「思い」に耽溺するばかりだった。
データに基づく政府や東電や専門家の推論が気に入らないのなら、その元のデータの数値は東電が記者会見のたびに資料を出しているのだ。だが、そのデータをもとに客観的な論証で政府発表等とは多少異なった推論を発表した専門家も最初はもてはやされたが、なにしろ政治的な都合や配慮に左右されないからこそそんな一匹狼が出来る人たちだけに、論理的にしっかりとしたことしか言わず「分からないことは分からない」ともはっきり言うので、いつのまにか「しょせん元原子力ムラだ」という「思い」だけのレッテル貼りで、追放されたり袋叩きにされたりした。
そうした専門家の推論が、論理的にどれだけ整合性があるのかどうかの検証なんて、ほとんど誰も興味を持たなかった(実際に事故に巻き込まれた人たちは除く)。
一方で、避難を強要されることになった周辺住民や飯舘村に関しても、論理的にすぐ思いつくようなことすら無視されたし(20Km圏内の津波被災地には当然生き埋めになった生存者がいたはずだ、避難といっても寝たきりの高齢者などはリスクが高いはずだ、地震で道路が破壊されているのだから避難が順調に進むわけはない、受け入れ先もなく避難を命じられてもおいそれと動けない、等々)、ずっとそこで生活して来たその場を離れることの辛さや躊躇、故郷を失う痛みへの共感も、当たり前の「感覚」さえあればすぐに思いつくはずなのが、まるでなかった。
思い返すなら、原発事故直後のとくに東京の世論にあったのは、もしかしたら福一が東京電力の発電所だったこと、つまり自分たちこそがこの原発の最大の受益者だった責任と、なのに福一の存在すら知らなかった後ろめたさから逃れたいという身勝手な「思い」だけだったのかも知れないし、大地震と大津波と原発事故で、私たちの生活がそこに依存して来た文明と社会構造の限界が突きつけられたことへの不安から、ひたすら逃げたい「思い」だったのかも知れない。
こうした不安の裏返しとしての「思い」もまた、安倍晋三氏たちと実はそっくりの鏡像である。
安倍氏のような子供じみた自称「愛国」の「思い」の共有がなぜこうも増幅したのかと言えば、中国が経済規模で日本を抜いて世界第二位になり、日本だけでなく韓国製の電気製品や自動車もまた世界市場で歓迎されて独占が崩れ「中国と韓国に抜かれる」その不安がある一方で、バブル以降経済が安定しない不安と不満がこの国と社会を苛みながら、そのことについてなにか抜本的な対処をしようとする意志や勇気を、この国が過去20年以上まったく持って来ていない現実、その自信喪失と将来の不安ゆえ、に他ならない。
いやもっとぶっちゃけて言ってしまうなら、双方の共通する真の「思い」とは、将来、未来が見えない停滞した現在のなかで、ひたすら刹那的に「ボク悪くないもん」と言い続けたいことでしか、実はない。
そこにあるのは、批判されることは否定されることだから、だから耐えられないという「思い」だけだ。
恐ろしく浅はかなことではあり、そして実はもの凄く恐ろしいことでもある。