1/22/2016

ドキュメンタリーと「観察」映画についての私見


20世紀のもっとも偉大な写真家のひとり、アウグスト・ザンダー (1876-1964) の有名なモットーは「見ること、観察すること、考えること」だった。

アウグスト・ザンダー『二十世紀の人々』より
映画は写真メディアの延長発展上にあり(昨今の急激なデジタル化で写真性と絵画性の境界が曖昧になっていることはこの際ひとまず置いておく)、もっとも根本的な機能が、レンズの前にあってフレームで切り取られた空間と時間の機械的・光学的な記録である以上、そうした “機械” の目から見た「観察」が映画の根幹にあるのは確かだろう。


ことドキュメンタリー、つまり対象がキャメラの前にある、私たちを取り巻き、その目の前にある現実である時に、20世紀の人々の存在をドキュメントし続けたザンダーのモットー「見る、観察する、考える」はドキュメンタリー映画にも敷衍できるし、むしろ積極的にそう考えられてしかるべきだろう。


とはいえ、「カメラはしょせん機械」だからと言って、作為を排したつもりでただカメラを漫然と向けて「観察しました、これが世界です」と単純化する前に、ザンダーが「観察すること」を「見ること」「考えること」と並列させていることを無視するべきではないし、彼が自らの生きた時代の膨大なドキュメント(その総数は4万を超えると言われ、写真集『二十世紀の人々』は全7巻、掲載枚数は700枚前後)たる写真の一枚一枚をちゃんと、よく見れば(「観察」して「考えれ」ば)、カメラの前の人物の人となりを最大限に観察し記録しようとするその作品は、明らかに演出されたものだ。


写真や映像で世界のありようをありのままに記録するには、直接の行為それ自体はただシャッターを押すだけの単純なものに思えても、実際にはその構図で世界を切り取ってその反射する光を定着する、写真ならあるひとつの瞬間(アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉を借りれば「決定的瞬間」、原義は「すぐ消えてしまう、逃げてゆくイメージ」)、映画映像ならある一定の(ショットの継続するあいだの)時間を選択して残す過程(アンドレイ・タルコフスキーの言葉では「刻印された時間」)をなにかを伝える表現として成立させるには、文字通りのただの機械的な観察記録だけでは済まないし、逆に言えば単純機械的な「観察」だけでは、写真や映像は記録極めて不完全で、なにも本質を伝えないものにしかなり得ない。


まず写真や映像の原理上の問題のみを、しごく単純化して考えるだけでも、カメラが単一の視点しか取り得ないだけでも、被写体の背後には膨大な死角が生まれ、そこにあるものは見えないし映らない。

フレームによって厳格に切り取られたその外側にあるものもやはり排除され、見えないし映らない上に、写真や映像に定着されるのが人生のごくごく一部の限られた時間でしかない以上、ひとつの写真に被写体である人間のありのままの総体を焼き付けようとするとき(つまり作品として成立させようとするとき)、演出は観察と考えることの創造のプロセスの一部に、必然的になってしまう。

写真や映像においてザンダーのように一見なにもやらないことは、だからこそ逆に恐ろしく難しい。映画ならばマノエル・デ・オリヴェイラは、その豊穣な晩年に到達したシンプルなスタイルについて、こう言っている、「シンプルさを実現するには、多くの経験が必要だ」


実のところ、こんなのはなにも写真や映画・映像の実作者や専門研究者でなくとも、たとえば典型的な機械的プロセスで撮影される証明写真がちっとも「本人らしくない」ことなど、まったくの普通の生活者でも、体感的に気付いていることだ。


人間の目は、光学的な原理はカメラと同じだ。

しかし人間の視覚認識の場合は、脳が自動的に膨大な情報を整理しているのと比べ、しょせんは “たかが機械” でしかないカメラは(今後の人工知能の発達で大きく変わるかもしれないにせよ、今のところは)、より限界に制約された不完全な観察装置でしかあり得ない上に、人間の場合ならば視覚と同時に聴覚、嗅覚、触覚などなどの様々な情報を同時に知覚してもいて、「見る」「観察する」こととは、その総合的な判断になる。


しかし19〜20世紀の機械文明の神格化メンタリティは、あたかもカメラが機械であることこそが客観であるかのような幻想を産み、近代世界の写真映像による記録や表現の受容もまた、ずっとその勘違いに囚われて来た。


「映像や写真があるのだから事実そのままのはずだ」と我々が思い込んで来た背後には、写真や映像にまったく定着されなかったか、記録されていても隠されたままだった時間と空間と事実があることに、自覚的にならざるを得なくなったのは、20世紀も終わりに差し掛かり、映画が発明から100周年を迎えた、今から20年前のことだ。

例えば世界最初の映画とされる「リュミエール工場の出口」に実は複数のテイクが存在していたことを研究者達が突き止めたなどの新発見が、「ありのままの現実の記録映像のプリミティヴで純粋な美しさ」だと思い込んで来たことを裏切る初期映画の本質 -- 映画がその起原からしてただ「観察」ではなく「演出」であった事実 -- を明らかにした。

「リュミエール工場の出口」の三つのテイク(1895年)

1995年は第二次大戦終結の50周年でもあった。映画の発明以降の20世紀の戦争が、膨大な映像に記録され、それが大衆に見せられプロパガンダに役立てられた歴史の背後に、撮影・記録されても封印されて来た、戦場のあまりに凄惨な光景を撮ったさらに膨大な映像があったことも、逐次明らかにされた。写真・映像によって目立った作為もなく観察され記録されたはずの事実でも、実際に受容されたのは恣意的に操作されたものだったし、また一方でそういう取捨選択は(すべてを見る時間など誰にもない以上は)必然でもあることが、自覚されざるを得なくなっている。


だがそんな映画・映像や写真の本質を再考させられる数々の新発見の意味を咀嚼する間もないまま、相前後して写真と映像のデジタル化が始まり、それがあまりに急激に進行した20年後の今では、感光フィルムを必要とした過去とは比べ物にならないほどの膨大な量の、写真と映像による記録が日常に満ちあふれている。

だからこそ、我々はむしろ写真なり映像が “たかが機械” でしかないことを、機械だからこそ騙され易くすらある限界性も含め、もっと冷静に受け止めなければならない時代に生きている。


そんな写真と映像のインフレーション(過剰供給)の時代が現実となるよりも遥か以前に、ザンダーは写真メディアの限界性に既に自覚的であったからこそ、「観察すること」を「見ること」「考えること」と並列させたのだろうし、その限界あるメディアで同時代の人間のあり様そのものをドキュメントするとき、彼にとって演出は不可欠な創作の手段の一部だった。


それに彼に撮影された人々の多くがカメラにまなざしを向けていることからも、カメラの存在そのもの、撮影するという行為が必然的に現実の人間関係に介入してしまうこともまた、そもそも避けられないものであったと分かる。

『二十世紀の人々』はむしろ、写真とカメラが “たかが機械” でしかないことの認識を先取りしていた点で、今なお極めて現代的な表現でもある。


映画・映像の場合は記録するのは一瞬ではなくある一定の時間であり、運動それ自体も捉えることができる違いがあるとはいえ、ザンダーの写真表現における問題意識は映画にも共通するはずだ。

しかも映画や映像が観客にとっては時間体験でもあり、その時間の連続性のなかでの論理構成を写真集の構成以上に厳密に考えなければならない以上、「見ること、観察すること、考えること」の矜持はより厳密に考えられ、作品に取り込まられなければなるまい。だが現代の世界(とくに日本)には「機械的=客観」と思い込み、創造的な作為の介入を主観ないし偏向とみなして排除すれば「客観」ないし「中立」「公平」になれて高見に立てる、という誤解が、むしろかつてない程に蔓延してはいないだろうか?



その自己矛盾は、写真そして映画が近代の産物として発明された時点で、最初から抱えている歴史的な問題でもあり、写真と映画は一方では機械的に現実を記録する、現実そのままの反映である記録性を認識されることで観客を魅了して来つつ(アンドレ・バザンのリアリズム映画理論)、同時に作り手の個性や主観、考えを反映した作品として、夢を見させ観客を満足させる作りごととして消費されて来た。こと映像は空間的かつ時間的に現実を「ありのまま」に観察・記録する機械とみなされながらも、こと映画の表現はなぜかフィクションのストーリーテリングの手段としてむしろ発展を見て来た。

芸術表現を、作り手の個性を反映した自己表現とみなす認識は、西洋ではルネサンス中期、とくにレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ・ブオナローティの登場に見られる近代主義的な自己認識の萌芽に遡る。そうした個人至上主義・人間中心主義は18世紀の啓蒙主義とその後半に起きた民主主義革命を経て、個・自我の確立の一般民衆レベルへの敷衍が、科学主義と並んで近代のもっとも中心的なイデオロギーとなるなか、それまではいわば「職人」だった芸術家は、近代以降の世界では知識人や政治家に準ずる敬意も集め、権威を持つロールモデル、憧れの対象のいわばスターにもなった。


だがその西洋近代主義のもう一方の根本にある科学=客観と、個・自我=主観の双方を絶対的価値とみなすことの、相反する関係をどう発展解消するのか、その葛藤は現代に至るまで宿命的に継承されて来ただけでなく、近代主義が東アジアにも波及し受容される課程で極端な西洋化が進行した結果の現代の日本のように、一方では「個性」を礼賛しながら、同時に個々人の主観を偏向とみなして排除するという奇妙な自己矛盾に陥いりつつ、個の尊重と多数派・大衆を正義とみなすことの双方が、ポピュリズムから全体主義に陥りかねない危ういバランスにのっかっている。

「客観」を担保するはずの論理性や事実に基づくことは脆弱になり、超越的な普遍性の意識が失われたなか、「客観」イコール単に「みんなが納得すること」、「公平」イコール「両論併記」といった皮相な解釈に陥り、近代主義の一方の根幹であった個人主義はなし崩しにされ、結局は自己の所属する集団の主観性に極端に依存してしまう傾向が、むしろ強まってすらいる。そんな現代の日本における「個」の自由とは、どの所属集団を選ぶのか、例えば政治では「右」か「左」か、安保法制に「賛成」か「反対」か、あるいは「親日」か「反日」か、そのどちらに属するのか、その「右」なり「左」のそれぞれのなかでもどの派閥の一部となるかの選択に、矮小化されてしまっている。

昨年の、安保法制と集団的自衛権行使の違憲性についての議論の展開は典型的だった。

そもそも「憲法解釈を変更する」と言いながら政府側は新解釈なるものを合憲とみなし得る論理を一切提出しなかったわけで、客観的・論理的に合憲とみなしようがない以上は「違憲」で結論は出たはずだし、ならばその現実をそのまま報道するのが「客観的で公平な」でなければおかしい。にも関わらず「賛成」か「反対」かの二項対立のどちらかを選ぶ自由しか存在していない日本社会の文脈では、「両論併記」で新安保法制に「賛成」と言っている側の意見も報じるべきだとの声が溢れ、それに乗じて世論の反発に意固地に自己閉塞していた官邸や自民党からの露骨な圧力までが、報道各社にかけられた。

そこで「賛成派のデモ」なるものもテレビのニュースで流さざるを得なくなったわけだが、かえって一目瞭然でそちらの側の滑稽さと、あまりもの人数の少なさまで印象づけられる結果にしかならなかった。国会での議論の与党側のむちゃくちゃな振る舞いや答弁になってない答弁も含め、こういう場合はいわゆる「観察的映像」というか、なんら説明も演出もなく、表層に機械的に見えるものをただ「観察」的に見せるだけでこそ、伝わるべきものは伝わる。


だがそういう写真や映像が撮れることもあるというだけで、カメラが機械であるから客観公平性を担保できる、「観察」していれば公平中立な真実が見えるのだと思い込むのは、やはり大きな誤解でしかない。今の日本の政治状況の表層があまりに単純化されていて、事態の展開やとくに与党の政治家の振る舞いが目に見えて滑稽だから、ただ見せるだけで済むのであって、それでもその滑稽さがなにに起因するかには踏み込めない限りは、作為はない、これは主観ではなく「観察」だといかに言おうが、実際の機能としてはむしろ安易なプロパガンダ止まりになってしまう。

作為的な演出要素を極力排した(ように見える)、その意味で「観察映画」的なドキュメンタリー映画といえば、まずフレデリック・ワイズマンが挙げられるだろう。

 フレデリック・ワイズマン最新作『ジャクソン・ハイツ』予告

ワイズマンの方法論は一貫している。対象となる組織や場所を選んで、そこでまず興味を引いたものに片っ端からキャメラを向けることにひたす徹する。事前に親しくなってキャメラや撮影行為や自分たちの存在に慣れてもらったり、主体的な演出としてインタビューなどを通して被写体となる人々と積極的に関わることはしないし、被写体となる人々がキャメラの存在を意識しているとしても、「それで彼らがより忠実に自分の社会的な役割を演じてくれるのなら、なんの問題もない」とすらワイズマンは明言する。

だがそのワイズマンは、自分の映画を「(客観的な)観察」映画だとはまったく考えていない。むしろ口癖は「私の映画は主観的で偏っているが、公平」「映画の構成は明らかに私の考えの反映であり、作品は現実を用いたフィクション」だし、仮に彼が上記の安保法制をめぐる茶番劇のような「見れば分かる」事態をありのままの滑稽さで見せるとしても、編集構成によってその滑稽さがなにに起因するのか、映画を見た側の解釈の余地は多様かつ豊穣であっても、その分析と論理構成自体は極めて明晰だからこそ、フレデリック・ワイズマンは現代映画の世界最高の巨匠のひとりなのだ。

言い換えれば「見る、観察する(よく見る)」の先に、ワイズマンが一作品あたり平均一年かける編集という「考える」プロセスが厳然としてあり、しかも彼が一貫して基本的な方法論を変えない作家だからこそ、そのポストプロダクションの経験は以降の作品のプロダクションにフィードバックされていく。そうして撮影され完成される彼の映画は決して「私が見たものをありのままに観察して映画にしました」というようなナイーヴさで出来上がるものではないし、ワイズマン自身がそんなことは一切主張していない。

 フレデリック・ワイズマン『高校』(1968)

一方、1930年代生まれのワイズマンとほぼ世代的には重なる日本のドキュメンタリー映画の黄金時代はその最盛期に、左派の社会政治運動との主体的関わりを持ち、その政治的な立ち位置も明白に作品中に組み込まれ、左派勢力の政治的表明の文脈に依拠しながら展開して来た。

土本典昭『不知火海』(1973) 予告

むろん作品それ自体は、土本典昭、小川紳介の最盛期を筆頭に、製作過程の政治的枠組みを超克しているものも多く、さらにはその最盛期と重なるように登場した原一男のように政治的運動体の集団性と一線を画した「個」の主体性に立ち位置を定める映画すら現れていた。

だがそんな70年代前半の日本ドキュメンタリー映画の豊穣な過去は、左派リベラリズムが日本においてバブル期とその崩壊以降著しく凋落し、しかも偏見で見られがちになるに至って、「左派」とみなされることを「レッテル貼り」として忌避する傾向すら蔓延するなか、次の世代の日本のドキュメンタリーはこと90年代以降、政治性や社会性へのコミットメントを回避するようになった。

原一男『さようならCP』(1972)

今に至るそうした現代の日本のインディペンデント、とくにドキュメンタリー製作における全般的な作風は、急激なデジタル化で進行するイメージの氾濫の時代を自覚した映像制作にむしろ逆行している。あたかもキャメラという機械で「私/僕が見たまま」の体験を映画に出来るという、その実近代主義的な機械の「客観性」幻想にどっぷり浸かって、作り手がその場にいてキャメラのボタンを押せばそれが「(作り手が体験した)現実の記録」になったかのように思われる時、ドキュメンタリーの役割はその(作り手が体験した)事実の伝達にのみ矮小化され、観客からすると映画を見る体験は「見て、観察して、考える」のではなく、作り手の体験を通しての作り手との自己同一化の幻想になってしまっている。

現代の写真や映画の表現としてむしろ後退しているとすら言えそうなこの傾向の始まりは、映画の場合、思い返せば、これまた映画発明100周年の年に作られた、森達也がオウム真理教に潜入密着撮影した『A』『A2』だった。

森達也『A』(1995)

日本ではちょうどその当時、冷戦終結に続けてバブルが崩壊していて、さらにこの戦後50年の年には阪神淡路大震災と、松本・東京地下鉄の両サリン事件が起こっていた。この混沌のなか、テレビの映像報道やジャーナリズムを中心とする、いわばマジョリティの言説を形成して来た側は、自らのとるべき方向性をまったく見失い、オウムについても客観的で公正な、知的かつ分析的な報道はまったく出て来ていなかったし、報道ではなく芸術の側でも、サリン事件が日本社会に与えたインパクトを公正に考察しようとした表現行為といえば、村上春樹の『アンダーグラウンド』(と、続編『約束された場所で』)くらいしか思い当たらない。

日本社会全般が自らの立ち位置を見失ったまま、なんとなく自分達=多数派という認識にしがみついたまま、オウムという危険な少数分子をそこに対置するものとして認識することの安心感に依存したがっていた、そんな一般的な報道つまりマジョリティ側から見たオウム像に対し、森達也が逆転させた視点で見せたものの価値は確かに大きかった。

だがその出発点には近代主義のもうひとつの要諦である社会や集団に対する「個」という立ち位置があったはず(森は「オウムの側」に立ったわけではなく、たまたま一人の個としてそちら側に踏み込んでみた、その結果が映画だったはず)であることが作り手の側でも観客にも十分に咀嚼されないまま、結果として日本のドキュメンタリーには大手メディアが“報道できないこと” “見せられないこと” をただ見せるという、単純化されたアンチテーゼの役割を不器用に担い始めることになる。

森達也『A2』

森達也が実際に『A』でやろうとしていたのは、オウムを一般社会のマジョリティに敵対する反社会分子としてでなく、むしろその延長上として見せることだったはずだ。だがそこで選びとられた「オウム(のそば)から見たら、この事態はどう見えるのか」の視点は、森自身やその映画の積極的受容者が、本来ならその視点の提示によって立場が相対化されるはずだった一般社会、マジョリティの側から「オウム側」「反社会的」、要するに「左翼」(イコール「過激派」?)とみなされる( “レッテル貼り” される)ことにまでなってしまい、結局は社会全体の意識にほとんど直接的な影響を与え得なかったその限界も、今となっては明らかだと言わざるを得ない。

『A』『A2』は社会現象を見るオルタネイティヴな視点を提供したはずが、なぜこうもその肝心な点で機能しなかったのだろう?

一方では森達也の側でも、『A』の衝撃に較べて『A2』では映画の立ち位置=観察するキャメラの置き場所の意識化を徹底できなかった限界が、作品それ自体にも、その受容の在り方にも現れていた。『A2』は『A』によって成立したブランド(あるいは “レッテル貼り”)の枠内でしか見られない映画になってしまったし、それがこの続編における森自身の立ち位置にさえなってしまっていた。

俗な言い方をすれば『A2』は『A』をおもしろがった観客層、つまりはポテンシャルに「オウム側」ともみなされかねない(そう「レッテル貼り」される)人たちのために作られた映画として受容されたし、これは森達也本人だけを責めることでもなく、自身の立ち位置それ自体にメタ的な客観視を導入することについて、バブル期以降の日本社会では忌避される傾向があまりにも強過ぎる。

なにかをなんらかのカテゴリーに分類して「その人たちの意見」と「レッテル貼り」することで、自分はあたかも客観的な高見にたって、そこで突きつけられたものを無視できると思い込む人が増えているし、今やなにか/誰かを貶めて「他者/自分とは違う」ということだけに安心感を動機としたレッテル貼りに狂奔する人たちすら、増えているのだ。

村上春樹の『アンダーグラウンド』についてですら、「大衆が共感しやすい被害者側に安易に寄り添った」という、えらく的外れな“批判”が飛び出すのも、今の日本社会におけるドキュメントやノンフィクションの現状だ。自分と異なった視点や意見の存在自体は否定はしない、干渉しないという意味では「認め」はするが、しかしそれが少数者の側(オウム信者だけでなく、村上が取材したサリン事件の被害者すら、1億を超える人口の国家においてごくごく一部の圧倒的少数派だ)である限りは「それはあなたの意見、私の立場/考えは違う」だけでコミュニケーションの回路をシャットアウト出来てしまう。そうやって「自分と異なる集団」とのみ他者をレッテル貼りすることで拒絶してしまう時に気にかかっているのはその実、ひたすら「みんな」つまり多数派が同意してくれるかどうかだけなのだが、しかし一方で多数派つまり「みんなと同じ」であることは、「個性がない」「自分の意見がない」とみなされることにも通じる。

こうした日本のドキュメンタリーの新しい傾向が可能になったのは、小さなキャメラでも高画質の映像が撮れるようになったことが決定的だったのだが、そうしたマジョリティに対するアンチテーゼ性が、従来の映像記録に較べて格段に個人的な規模で撮れるようになったが故の映像の個人化と安易に混同されてしまったことも否めまいし、またそれは反体制・反権力の運動が運動集団としての組織性を失ない、日本のドキュメンタリー映画というジャンル自体がニッチ化していた当時の政治的状況のなかではやむを得ない、当然の帰結でもあった。

『A』において実際には、森達也にとってもオウムはあくまで他者だったはずだ。こと『A2』においては森とそのキャメラがどんどんオウムのそば、そしてオウムの側に立ち位置を求めて行くにしても、オウムを見せる映画である以上は「自己表現」ないし「自分を見せる」ドキュメンタリーではなかったはずだ。だがそれでも、森達也によるオウム映画が、小川紳介の三里塚映画や土本典昭の水俣作品、あるいはこの世代の日本のドキュメンタリー作家たちが学生運動を撮った映画と決定的に異なって、撮る対象と撮っている側の境界の曖昧さの余地を残しているがゆえに、結果として「自己表現」ないし「自分を見せる」映画に限りなく接近してしまう、その「メッセージ」が「オウムは悪くない」に収斂されてしまいがちな面があったことも、否定はできない。

決定的な弱点ひとつが、監督自身がキャメラを兼ね、デジタル化された小型ビデオキャメラをかなり安易に使ってしまっていることだ。小型化されたキャメラは手軽に手持ちで撮影できるので、見る側からすればあたかも「作り手の体験がそのまま映像として記録される」幻想をはらみがちになるし、その印象を助長するかのように、はっきり言えばあまり巧くない手持ち撮影では、立ち位置や視点が明確でないままに、それなりに絵が撮れてしまうことでかえって「臨場感」の印象を与えはするが、実際の状況は実のところ逆によく見えていない。

もうひとつ挙げられるのは極めて具体的に、『A』のラストのオウムの当時の広報部長、荒木信者のインタビューの問題点だ。

ちなみにこのシーン自体は『A』『A2』を通じて最良、かつもっとも本質的なシーンだ。しかしこのシーンを優れたものとしている要素がそのまま、森達也が招き寄せてしまった彼自身の向かって行く限界と、その後の日本のドキュメンタリー映画の袋小路に進まざるを得ない方向性を、決定づけてしまってもいた。

『A』という題名はオウム(AUM)の頭文字であると同時に荒木の頭文字だとも森は言っているが、付け加えるならそれは「曖昧」の頭文字「A」にもなっている。

荒木自身が恐ろしく曖昧に自己閉塞した人間であり、森自身がこのインタビューを通じてその荒木に曖昧に共感するというより、はっきり言えば曖昧に同化している、そこが『A』という作品それ自体の長所であり美点であり、森の本来の演出の計算では、森を媒体としてオウムを見る観客とオウムがつながっていく、そのことでオウムが日本のマジョリティ社会にとって敵対・対立するものではなくむしろその必然的な延長として見えて来るはずだった。だが結果として、オウム事件についての映画としての『A』は森達也自身についての映画としての『A』『A2』の差異がほとんど見えなくなってしまい、『A』とくに『A2』が単に「オウム側の映画だ」「反社会的だ」と言われても、案外と反論しづらい。

『A』のマスコミ試写で、隣の席が当時オウム問題も追うジャーナリストだった猪瀬直樹氏だったことを今でも覚えている。このラストの荒木広報部長の困った曖昧さに思わず笑いを禁じ得なかった二人が、かなりゲラゲラ笑い出してしまっていた。

似たようないわばデジャヴュ体験が、猪瀬氏が都知事だった頃にあった。

当時の都議会自民党に小児性愛的な性描写が蔓延するマンガを規制すべきだという動きがあった。猪瀬氏自身はその都議会与党に必ずしも賛同するわけではなかったが、規制に反対というマンガ・ファンの側に、明らかにこの『A』のラストの荒木を見たときに近い困惑を感じていたのだろう、「マンガばかり読んでないで現実の女の子を口説いて肘鉄でも食らってみれば」とツイッター上で発言した。これがいわゆる「炎上」というか凄まじい感情的な反発につながったのである。

反発だけは凄まじいが、言ってることにはなんの説得力もない。

「ああ、荒木のような人たちの集団でしかなかったオウムが、それでもサリン事件のような強烈な暴力性にまで突っ走ったのは、こういうことだったのか」

1995年の時点で、「オウムのようなもの」はまだごく一部に見られる現象だった。だが十数年を経たとき、それは数としてはかなりの多数派になっていたし、しかもその人たちは「あなた達はオウムの荒木氏によく似ている」と言われたら、それこそ猪瀬氏の「肘鉄でも食らってみれば」に対するどころではない暴走を始めるのだろう。

それは「抗議」ではなく「暴走」にしかならない。どんなに数が多かろうが、同じようなものを心に抱えていることにお互い安心し合いながら、お互いにその内面を隠し続ける集団内に自己閉塞した感情論にしかなり得ない。

そんな言動を見せられることには、『A』の荒木氏のインタビューに思わず笑うしかなかった困惑に近いものがある。彼がなぜああなってしまったのか、あるいはマンガの性描写規制の動きに反発していた人たちがなぜそうなるのか、むしろ猪瀬氏の方が本人たちよりも理解している。だがよく分かっている、理解しているからこそ同化は決して出来ないし、いったいどこから話しかけてあげていいのか見当がつなないまま、滑稽さを見てしまうことを禁じ得ない自分達の困惑(「分かってはいるんだけどそれでも、なぜ君たちはそうなっちゃうの?」的な)も含めて、笑う他ないのだ。

同じことを感じるのが、とりわけ2000年代になって登場する、多くのいわゆる「セルフ・ドキュメンタリー」だ。もっと言うなら日本のドキュメンタリーにおけるこの流れは、この『A』のラストの荒木のインタビューから始ったとも言えよう。

ここでいう「セルフ」とは、たとえば原一男が自分のかつての恋人・武田美由起を撮った『極私的エロス 恋歌1974』(1974年)に自分自身を写し込んでいる、あるいは『ゆきゆきて、神軍』で奥崎謙三と対峙するキャメラを原が自ら操作することで、原自身の存在がその全編に刻印されているという意味での「自己表現としてのドキュメンタリー」とは、明らかに一線を画す…というより正反対とすら言えるものであり、喩えて言うなら『A』のラストで荒木広報部長にインタビューする森のキャメラが、一応は荒木を捉え続けながらもその焦点が曖昧であり続けることと、『ゆきゆきて、神軍』のキャメラが奥崎謙三に対峙し続ける圧倒的な集中力との、映画らしさにおける決定的な差異もそこにある。

 原一男『ゆきゆきて、神軍』(1987年)

いやデビュー作『さようならCP』においてすでに、原一男のキャメラは執拗に「青い芝の会」の脳性麻痺を持つ人々を追い、寄り添いさえし、むしろ彼らの運動を伝え支えるための映画を作ってさえいながら、原のキャメラが「青い芝の会」に接近すればするほど、逆に明確になるのは被写体・対象となる人々の「個」と、映画の作り手たる原一男の「個」の決定的な差異だった。

「青い芝の会」の面々は街頭で車椅子すら拒否し、地べたを這って移動する。それを手持ちキャメラで追跡する二足歩行の健常者たる原一男では、視線の高さ自体が決定的に違う。『さようならCP』は撮る側と撮られる側の身体的な差異を、キャメラがどこからなにを撮るのかによって物理化し、身体化し、それによって映像化している。

我々はこの人たちと違う、だが違うからこそ、そこにコミュニケーションをとる、キャメラを持って向かい合い、理解しようとすることに意味が産まれる。

こうした「個」の確立を前提とした他者表現であると同時に自己とその世界観の表現にもなり、それが観客個々人に突きつけられもする映画的な躍動に対し、森達也の登場がある契機となり、前後して登場する日本映画学校の映像ジャーナリズム科の卒業制作『ファザーレス』や『あんにょんキムチ』によって決定づけられた「セルフ」の流れは、むしろ作り手(=撮り手)、被写体(=多くの場合、家族)、そこに共感する観客が、曖昧なかりそめの共同体を産み出すような方向性にどんどん向かって行くことになる。『A』ならオウム事件、『ファザーレス』なら部落問題とDV、『あんにょんキムチ』なら在日コリアンのアイデンティティと、いずれも元々は社会的な主題性を持った作品であるにも関わらず。


いわゆる「観察映画」と称される(あるいは自称する)ドキュメンタリーは、10年以上に渡ってそうした曖昧な共感と自己同一化のコミュニティを撮る側、撮られる側、そして見る側のあいだに形成する「セルフ」の流れが日本のドキュメンタリーの主潮となり、『A』や『ファザーレス』『あんにょんキムチ』にはまだあった社会的な問題意識も消え、ほぼ作り手の半径5mくらいの中だけで世界観が完結し、似た様な人生観を曖昧に共有する観客の限られた小集団に受容され消費されていく傾向へのアンチテーゼとして、他者を客観観察することでより開かれた映画を目指すかのように登場した、というようにも見える。

その「観察映画」において、作り手側の作為はなるべく排除されているかのように見え(インタビューはなく、つまり作り手は対象に積極的に関わらないし演出もしない。 ナレーションや音楽で観客の受け取り方を方向付けもしない)、観客はキャメラという媒介を通して作り手とともにその目の前にある他者的なシチュエーションを観察する、という構造をとる。

だから「観察映画」は自分自身と撮影対象と観客の共感関係を強要する「セルフ」に対して、より広い観客に開かれているかのようにも見えるのだが、果たして本当にそうなのだろうか?


フレデリック・ワイズマンの映画(ないしアウグスト・ザンダーの写真)のような徹底した客観性(論理性、知性)の方法論と、それを成立させる知性と構成力(実は演出であり、高度な作為そのもの)ならば可能なことだが、一方でそれは観客にも対象への安易な共感や作り手/撮り手への自己同一化を許さず、むしろあえて突き放す面さえ持つ、ある厳しさを持ったものになる。

たとえばワイズマンの映画はおもしろいし楽しめるが、観客を安心させてはくれない。

だがいわゆる「観察映画」は、むしろ観客を安心させる仕掛けとして機能している。

たとえば『選挙』のような作品を見る時、我々はそれが我々の社会の政治システムであり、我々自身がたとえ無自覚な不作為にせよそうした滑稽な政治文化を支え、その一部に組み込まれ、そこに支配されていることを忘れ、高見に立ったかのように訪問先の企業で従業員とともにラジオ体操をしている候補者を見て笑っていられるという面で「おもしろい」のだし(あるいは「おもしろいのはそこだけ」)、そうした日本社会の表層の滑稽さを「客観」というよりは高みに立って(「上から目線」で)おもしろがりながら、なぜこのような政治文化が成立しているのかまでは考えないで済むし、映画の側がそこで「見て、観察し、考えること」を観客に促しもしない。むしろそれが回避さえされているのは、そこを考え始めた瞬間、観客の立ち位置が揺らぎ、安心して見ていられなくなるからだ。

いわゆる「セルフ」の流れに位置づけられるドキュメンタリーの中でも、河瀬直美(『につつまれて』『かたつもり』)とヤン・ヨンヒ(『ディア・ピョンヤン』『いとしのソナ』)は、自分達をあえて「見せる」こと、その存在を顕在化させることに意識が集中していることが、彼女達が現代の日本社会において「見られない」存在に貶められがちであったことへの抵抗の意志も含め、例外的に社会性を持つ存在だし、あるいはまったく別物だと考えてもいいのかも知れない。

だが『ファーザーレス』『あんにょんキムチ』も、本来の作品の立ち位置はそこにあったはずだし、『A』の荒木のインタビューでさえ本来の構図はそこだったはずだ。にも関わらず「セルフ」の潮流は、「自らを見せる」ことが「自らが受け入れられる」ことにすり替わる曖昧さによって、その撮っている主体こそがその実「見えなく」なり、観客と撮る側と撮られる側の曖昧な自己同化のなかに埋没していく、その共感意識にこそ依拠した「表現もどき」に埋没していく脆さに、むしろ傾斜して行ってしまって来た。


その自らが「受け入れられる」ことを欲するからこその「見られること」からの逃避においても、「セルフ」と「観察映画」は表裏一体であり、本質的に同じことの異なった位相での顕現に過ぎない。

『ファーザーレス』の主人公は、母親に自分が中年男性と性交渉を繰り返していることを告白し、母親はそこで彼を「受け入れ」て抱きしめる。そこにこの作品の「感動」や「共感」が凝縮されたこと(自分にとってはちっとも「良かった」ではないのに、観客は「よかった」と思って「感動」した)に、主人公自身はほぼ20年を経た今も、忸怩たる思いを抱き続けているという。「セルフ」と「観察映画」が相似形でしかないことの弱みは、このシーンで主人公の背中から「観察」的に見ているキャメラ位置の失敗の時点で、既に始っていたのだ。

この時にキャメラ位置が主体的に本質に迫るよう演出されて、彼の顔の切り返しショットがここで入っていれば(その顔にはこの映画を「受け入れた」観客が想像したのとは真逆の表情が現れていたはずだ)、『ファーザーレス』は遥かに優れた映画になっていたと同時に、それが「セルフ」の流れを決定付けるほどの反響を呼んで「受け入れられる」こともなかったかも知れない。そして日本の「観察映画」は、この安全圏に置かれた/観客を安全圏に置くキャメラ位置から始っていたのであって(ちなみに『ファザーレス』のこのシーンの場合は、状況からして撮影者が入り込むことができず、キャメラだけが置かれて文字通り機械的に廻っていた)、ある監督が自分の創意であるかのようにブランド化していいものではそもそもない、むしろ最初から大いに限界があるものだ。

「観察」も「セルフ」も、撮り手と観客が共犯関係で自らが見られる存在=批評・批判され得るものとして対象化されることからの逃避を産み出す受容の文脈を作り出してしまった。まただからこそ、どちらの傾向もキャメラが「巧い」こと、つまりは本質がよく見えるような位置にキャメラを置き、その立ち位置に映画の視点を止め、観察し、考えることを拒絶する構造を持っているのだろう。


言い換えればそれは、自分が「見られる」ものになることを恐れて、ある集団内に埋没・同化したい、そのことで社会というかある集団に参加できる安心を担保するために作られていて、映画(ないし写真)表現の本来の投企からすれば、「映画もどき」にしかなり得ないものでもあるが、それは単にそうした映画の作り手と、そのファンというか支持するクラスタ層だけの問題ではあるまい。日本社会の全体が、所属する集団に受け入れ易い自分自身を常に演じることを習い症としている現代があって、日本のインディペンデントのドキュメンタリーの実態がまったくインディペンデント(原義は「非・依存」)ではない故にその傾向に極度に染まっているに過ぎないのだ。

日本社会の総体が今や自分の本質を「見られたく」ないし、受け入れられ得る自分しか「見せたく」ない、あわよくば一歩高見に立って「見ていられる」安心感に埋没したがっている。


原一男の『さようならCP』の冒頭では、脳性麻痺の障碍者たちの人の多い駅前の街頭での活動が「観察」されている。彼らは思い思いに地べたを這いずり回り、スピーチし、カンパを集める。通りすがりの人たちは、子供に硬貨を渡してカンパの募金箱に入れさせたりする。外形的な状況を「観察」だけしているぶんには、障碍者たちが市民の同情や共感を集めるポジティブな光景に見える。

だが原はそこで、募金をした人や子供に募金をさせた親に執拗にインタビューし、その声を駅頭の光景にかぶせる。その言っている内容を理解した瞬間、一見微笑ましく見えた、自己主張をする障碍者たちとそれに共感するかのように見えた市民の関係は、一変してしまう。言葉のはしばしから、市民社会の側の同情や共感が恐ろしく無自覚な差別意識、障碍者を下位に見たが故の憐れみとしての同情であることが否応なく突きつけられ、しかも喋っている人たちの声はどう聞いても自らの “心からの善意” を疑いもしないトーンなのだ。


「見て、観察し、考える」こととして映画を突き詰めようとするとき、キャメラの機械的な記録の機能を「客観」だと過信して、ただ距離を置き、作為を排して「観察」すればいいのだ、などとは言っていられないし、それ以上に「観察」だから観客が安全圏に留まれるわけでもない。

むしろ映画でも写真でも、その「機械によって、ありのままに記録する」機能を生かしつつよく見て、観察し、考えれば、それは自ずから我々自身に跳ね返り、我々の立ち位置を揺さぶるものにもなる。だが「セルフ」にせよ「観察映画」にせよ(そこに本質的な違いは実はない)、作り手自身が自らを問いつめ、対象となる人々や状況と対峙し、作品が観客を問いつめるような緊張関係を避け、安心して見ていられることを担保するためのギミックになっているのが、今の日本のドキュメンタリーの現状ではないか?


「セルフ」にせよ「観察映画」にせよ、実際に観客が目にする映像においても、両者に本質的な違いはない。どちらも森達也が創始してしまった「ヘタウマ」というか、その実ちっともうまくない、小型化されたデジタル・ビデオで可能になった、なんとなくそれっぽくは見える映像で多くは手持ち、三脚を使うにせよ「なにをどう撮るのか」よりは現場でたまたま撮影者がいる位置から選べるもっとも手っ取り早いキャメラ位置で、撮影されている。

絵の美意識があるわけでもなければ、キャメラ位置や構図の選択に作家性を見る以前に、なにかをきちんと見てきちんと記録するための選択や判断があるわけではない。はっきり言えば作り手の能力の低さ、稚拙さ、考えの浅さを伝えることが第一の機能である映像しかない、むしろその傑出した「個」の不在が、観客を安心させる。


「みんな違ってみんないい」と、みんなで言い合っているぶんにはみんなが安心できるのが現状だとしたら、だから「違う」自分を認めてもらうことに安心感を得るものとしていわゆるセルフ・ドキュメンタリーがあり、さほど違わない自分達という「みんな」の側に立てた気分になれるのが「観察映画」なのではないか? この両者は実はコインの裏表の関係にあり、そのどちらにも「映画」ないし「作品」としての独立した「個」がなく、だからこそ自らを問われることを恐れる観客も、安心して見て、共感し、自己同一化できるのだ。


だがその「個」が存在し得ない社会の限界性や不安をこそ直視することが、現代の日本社会の本質を本当に「観察」することのはずだ。それが現代映画としての日本のドキュメンタリーの役割のはずだ。


日本のドキュメンタリー映画史におけるセルフと観察の流れが1995年、つまりは阪神淡路大震災とサリン事件の年の辺りから始ったとするなら、元から自明ではあったその限界が顕在化して突きつけられたのが、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故の2011年だ。本来なら日本のドキュメンタリー作家にとって(誤解を恐れずに言えば)最高の題材が現に起こっていたというのに、どちらの今はやりの方法論も、この複合的な人災と天災の突きつける文明論的な本質をよく見て、観察し、考えることには、まったく向いていなかったことが明らかになってしまった。

比喩的に言ってしまうなら我々が立っている大地そのものが揺れ動くこと自体が、安易に手持ちに依拠しても、とりあえず置いた三脚の上のキャメラでも、およそ映像化出来ないものだ。

まして大津波が原発事故を引き起こし、日本が戦後、いや明治維新以降の近代化で構築して来た文明の土台そのものが揺さぶられている時、それをどこから見て、観察し、考えるのか、その立ち位置の選択というドキュメンタリーの演出の基本は、機械的だから客観的で公平なのだというような安易な思い込みだけでは、決して見えて来ない


偶然と言おうか皮肉な宿命と言うべきか、大地震と大津波と原発事故、そこから浮かび上がる私たち日本人という民族の存在それ自体の限界と矛盾が、「セルフ」や「観察」に依存する日本の今のドキュメンタリーの流れでは撮れないものだという、その限界性をあからさまにしてくれたのが、そもそも『A』によってこの流れを決定付けた森達也だった。『3.11』は被災地を「観察」しようとした映画でありながら、結局は被災地で狼狽え興奮する自分達を撮っただけの「セルフ」になってしまい、最後には映画それ自体が途方もなく傍若無人で無思慮な「自分達」の仕草によって、映画それ自体を完全に破綻させてしまう。

しかしあのラストの横暴さは、ただ森を責めてその非道徳的な振る舞いを糾弾して済むものではない。彼がやったことは確かに極端に過ぎたが、あそこで撮ろうとしたものこそが「震災の映像」について今の日本社会が求めていたものの究極であって、また「セルフ」でも「観察」でも結局のところ、あそこ以外にはキャメラが向かなかったのだ。だがそんなものを撮ることが大震災が引き起こした事態をよく見て、観察し、考えることになるはずがなく、残るのは、森自身がこの映画の宣伝文句にしたところの「後ろめたさ」だけだ。


もう一点指摘しておくならば、「みんな違ってみんないい」もなにも、そもそも人間はその存在からして一人一人が「みんな違う」ものだ。

今の日本のドキュメンタリーがぶち当っている現実の壁について言うならば、被災者はその体験によって、なんのリスクもなく震災をただテレビで見ていただけの我々とは決定的に「違う」。いや1995年の時点でも、村上春樹が文学というメディアを駆使した『アンダーグラウンド』で後に明らかにしたように、地下鉄サリン事件の体験者として彼のインタビューに応じた人たちは、それぞれに通勤通学の地下鉄に乗った普通の日本人達なのに、その体験によって決定的になにか「違う」(故に「傑出した」)人間になっている。そのサリン事件体験者たちが「普通の人々なのにどこか違う」、そのことこそが『アンダーグラウンド』を類い稀に美しい書物にしている。


「違う」ことに「いい」かどうかの承認を求めようが、それが得られなかろうが、「違う」ものは「違う」のだ。「多様性を認める」というのも昨今よく言われることだが、そもそも世界は多様なもの、多様性に満ちた空間と時間なのであって、問題なのはむしろ、自分達の方がその多様な世界に受け入れられて存在を許されるかどうかだ。

写真と映像、とりわけ映画とは、本来その「違うこと」を超克する手段である。撮ること、そして見ることとは、その「違い」を無視するのではなくその「違い」そもののを視覚的に認識することからこそ、理解し合えるつながりを見出せるはずだ。