JR鴬谷駅あたりの山手線の線路から内側(西南)には、一見なんの変哲もない墓地が広がっているが、そこへ突然、こんな壮麗な歴史建造物が目に入る。
上野公園の裏手、東京国立博物館の北側の通りの向かいだ。
寛永寺厳有院殿(徳川家綱)霊廟 勅額門 延宝9(1681)年 |
この朱塗り銅葺きに金箔の装飾がまばゆい門、文化財を示す看板に「厳有院」と書かれているのは徳川の第四代将軍・家綱の戒名で、これはその墓所・霊廟の勅額門(天皇の筆になる寺社等の名を記した額を掲げた正式な門)だ。
観光地上野の一隅でも、墓参以外では訪れる人はほとんどいない。
門の内側には一見なんの変哲もない墓地が広がる |
内側(現在の霊園から見た)の軒下には龍の彫刻 |
厳有院殿の門から少し西には、五代将軍綱吉、戒名は常憲院の霊廟の門もある。
常憲院殿(五代将軍綱吉)霊廟 勅額門 宝永6(1709)年 |
東京国立博物館の北側にある墓地は、寛永寺の境内だ。徳川家の菩提寺というくらいは時代劇でも出て来る名ではあるし、上野の「山」に慶應4(1868)年の戊辰戦争で彰義隊が立て篭ったことは教科書にも書いてある。
だからこの墓地のなかに徳川の将軍達の墓所があるのも当然なのに、なぜかほとんど意識されず、観光でも歴史教育でもまず話題にのぼらない。
金箔をふんだんに用いた豪華な門 |
戊辰戦争で彰義隊が篭城戦を展開したのが「上野の山」と教科書で習うのが現在の上野公園であることは、広小路から入って右手の階段をあがると西郷隆盛像の裏に供養墓もあるのだが、つまりは寛永寺に立て篭ったのだとまでは、なぜか連想が続かない。
右手のこんもりとした森が厳有院殿霊廟の奥ノ院 つまり将軍たちの墓所 |
寛永寺第二霊園内 厳有院殿(徳川家綱)霊廟 水盤舎 延宝9(1681)年 |
金で豪華に装飾されていた痕跡 |
厳有院殿霊廟の奥ノ院(墓所) 宝塔(墓所)と前門 幕末〜明治初期の彩色白黒写真 現在もこのままのはずだが非公開 |
近頃では関東大震災で壊れ顔だけが上野公園内の丘に安置されている上野大仏が、「これ以上は落ちない」というシャレで、受験祈願のお守りとして人気なのだそうだ。
だがこの釈迦如来の顔が元は高さ6m前後の大きな仏像の一部分で、しかも大仏殿もあったとなると、その受験生たちでもよく知らないかもしれない(入試問題にも出ないだろうし)。
明治8年(9年説も)に取り壊された寛永寺の大仏殿 彩色白黒写真 |
上野の大仏、寛永寺の釈迦如来坐像は最初は寛永8(1631)年に木造で作られ、明暦年間(1650年頃)に銅造になり、火災に遭って破損した後に天保14(1843)年に修理改鋳された。今残っているのはその顔だ。
明治時代の彩色写真絵はがき |
大仏の顔をあしらった観光ポスターにも言及があるが、一昔前には上野といえば「西郷さん」というイメージも強かった。
よく考えれば銅像があるだけで、上野にとくに縁があったわけではない西郷隆盛(むしろライバルだった大久保利通の方が内国勧業博覧会をここで開催させるなど、関係が深かった)を思い起こすのも、奇妙な話だ。
その上野公園は正式名称に「恩賜」がつくので天皇家と関わる印象も強いし、上野駅も含めてノスタルジックに見える洋風ぽっい建築も多く、煉瓦造りや木造の明治洋風建築の校舎が残る東京芸術大学も隣接していたりで、なんとなく「明治っぽい」感がある。
旧 東京音楽学校奏楽堂 明治23(1890)年 |
旧 東京美術学校(現 東京芸術大学) 正門 |
実際には、たとえば上野駅の現駅舎は昭和5(1930)年築のアールデコ風のモダニズムだし、東京国立博物館(帝室博物館)の現在の渡辺仁設計の本館は昭和7年から12年(1932-37)にかけて、国立科学博物館は昭和6(1931)年建築の、どちらも国会議事堂(昭和11年)と並ぶ帝冠様式の典型例だ。
上野駅 昭和5(1930)年 |
西郷像の後ろに戊辰戦争で悲劇のヒーローとなった彰義隊の供養墓がある山王台は、江戸時代後期の「江戸名所図会」ではこのあたりになる。
松濤軒斎藤長秋 他 江戸名所図会 東叡山寛永寺其の一 天保5-7(1834-36)年 |
名所図会に描かれている山王権現社(神社)は跡形もない。
彰義隊供養墓 |
もう少し左、つまりかつての境内の奥の方向、江戸名所図会では次頁の右端に進むと、天海大僧正(天文5年?-寛永20年・西暦1536-1643)の遺髪を祀った毛髪塔がある。
同 東叡山寛永寺其の二 |
天海大僧正毛髪塔 現在の上野の森美術館のはす向かいにある |
天海は徳川家康、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の側近として活躍した天台宗の高僧で、寛永2(1625)年に三代将軍の家光に進言して上野に東叡山寛永寺を開いた。諡号(亡くなった後に朝廷から贈られた名)は「慈眼大師」、墓所は日光山輪王寺の慈眼堂だ。
無血開城した江戸で唯一戦闘があったのが、彰義隊が立て籠った「上野の山」だったという漠然としたイメージも、上野公園は確かに広小路や上野駅から見ると丘陵地の高台だし緑も豊かなので、なにもなかったのどかな山が戦場になり、明治以降に公園として整備したみたいな印象すら(「恩賜」公園だし)持つかも知れない。
だが上野が「山」であったのは江戸時代には「上野東叡山」とも呼ばれていたからで、「山」は山でも寺院の「山号」 だ。
天台宗別格総本山、比叡山延暦寺に準ずるかそれと並ぶ格式を持った「東の叡山(比叡山)」の東叡山寛永寺、それが上野の「山」の意味だった。西郷像と彰義隊の供養墓がある山王台にあった山王権現社は、寛永寺の境内地の地鎮の鎮守社だった。
上の広重による全体俯瞰図では左端、今の大噴水広場にそびえ立っていたのが、高さ32mの巨大にして華麗な根本中堂(本堂)で、五代将軍綱吉の元禄11(1698)年に完成した。
150年前までここにあった二層入母屋造りの根本中堂の高さは、建造物自体としては日本の現存城郭建築でいちばん高いと言われる姫路城天守閣の31.5mとほぼ同じ、姫路城の場合はその下に15mの石垣があるので合計46.5mだが、仏堂なので横幅は天守閣よりも遥かに広かったはずだ。
江戸時代に再建された東大寺大仏殿の高さ46.8mや、江戸城の寛永天守(1657年明暦の大火で焼失)の推計44.84mにはかなわないとはいえ、現代の世界最大級の木造建築物になる京都の西本願寺御影堂、知恩院の御影堂などと並ぶかそれ以上の規模で、明暦の大火で江戸城の天守閣がなくなって以降では東日本で最大の建築物だった。
今は噴水があるだけの上野公園の中心部には、中央に唐門を備えた回廊で囲まれた根本中堂(瑠璃殿)がそびえ、その前には天台宗寺院に特徴的な渡り廊下で結ばれた常行堂と法華堂(合わせて「にない堂」)、周囲には雲水塔と呼ばれた多宝塔、輪蔵など意匠を凝らした豪華な伽藍が建ち並んでいた。
今は「さくら通り」になっている参道には楼門の文殊楼(別名「吉祥閣」)がそびえ、そばの丘には大仏殿があった。上の広重による東叡山全図で文殊楼のすぐ左(西)に描き込まれている朱塗りに瓦屋根の建物が、今は顔だけが残る大仏の大仏殿だ。下谷広小路(現在の上野広小路)の惣門から寛永寺に入ると、文殊楼(吉祥閣)の左手すぐ後ろに見えたはずだ。
この錦江斎春艸の風景浮世絵では前面が参道で中央やや左に楼門である文殊楼(吉祥閣)、その奥左側に大仏殿、左手奥は不忍池、右手奥に常行堂と法華堂をつなぐ渡り廊下、根本中堂とそれを取り巻く回廊などの中心伽藍だ。
手前右端に描かれているのが、江戸時代当時のまま現存する清水観音堂だ。寛永8(1631)年の建立で、元禄7(1694)年に現在の場所に移設されている。
寛永寺の今の境内は東京国立博物館と鴬谷駅のあいだ、厳有院殿・常憲院殿の霊廟があった場所に霊園が広がり、最澄作と伝えられる秘仏本尊の薬師如来像は、墓地の西南に隣接する敷地の一層入母屋造の根本中堂(本堂)に祀られている。
東京芸術大学と台東区立上野中学校の奥でちっとも目立たない。
江戸時代の東叡山は、上野公園全体が境内にすっぽり納まるどころでは済まなかった。
東は現在の山手線・京浜東北線の線路が走る崖からすべて寛永寺、その麓にも上野駅がある場所には子院が建ち並び、東京国立博物館の敷地はまるごと寛永寺の本坊で、さらに東京芸術大学のキャンバスも寺域におさまり、西は日暮里の団子坂までおよぶ301,870坪の広大さだった。寺領も11,790石も与えられていた。
現在の中堂の立地は塔頭・子院のなかでもさほど大きくない大慈院があったところで、普通のお寺よりは大きめな建物は明治12(1879)年に開山の天海ゆかりの川越の喜多院から寛永年間建造の本地堂を貰い受け、上野東照宮の薬師堂が神仏判然令で取り壊された古材も使って改造・移築したものだ。
この絵図の中央の、赤で描かれた建物群が寛永寺の中心伽藍で、今は上野公園の大噴水の池がある場所だ。
その右下の大きな「御本坊」が現在の東京国立博物館、さらに右が徳川霊廟、本坊の西北西(上やや右)に塔頭の大慈院の表記がある。今の中堂がここだ。
東叡山三十六坊と呼ばれた塔頭の子院のうち19が今も存続しているが、敷地は縮小され、場所もほとんどが移転されている。
東京芸術大学美術学部の裏手にある護国院(釈迦堂・谷中大黒天)は、江戸時代のお堂が現存する寛永寺の唯一の子院だ。
本堂である釈迦堂は、寛永年間の創建の後火災に遭い、享保年間(1718-35)に再建された二代目の建物になる。
この再建には、八代吉宗による享保の改革の緊縮財政のまっ最中だった幕府・徳川家ではなく、藤堂家などの大名が寄進しており、堂内の柱にはそうした大名家の家紋があしらわれている。なお丸に二の紋は天海の紋だ。
寛永寺とその子院は、明治政府に境内地・寺領をすべて没収された。
釈迦堂は昭和初期まで政府から借り受ける形になった境内地に建ったまま、関東大震災にも耐えたが、その復興期の昭和3(1928)年に、今度は上野中学校の建設のため移転を命じられ、墓地も多摩霊園に移された。先代住職夫人の話では、元々国に没収されたまま国から借りている土地では断ることもできず、曵き屋技術で堂を移動したのだそうだ。
この作業に当たっては、東京美術大学(当時)教授だった建築家・岡田信一郎(代表作に戦災で焼失前の歌舞伎座など)の設計で本瓦の屋根を銅葺きに替え軽量化し、蔀戸をガラスをはめ込んだ引き戸にするなどの改修が行われた。
また本堂に隣接する庫裏も岡田信一郎の設計(台東区有形文化財)で、本堂の新しい引き戸とデザインが統一されている。
こうした子院の境内地は戦後になって、GHQの主導する民主化のなか、政府が没収したままの国有地に寺があるのはおかしいと指摘され、元から較べればあまりに縮小された現有の土地のみとはいえ、やっとそれぞれの寺の所有に返還された。
寛永寺本体も、明治維新で寺領も境内地も没収されて収入がほとんどなくなり、明治から戦前までずっと資金難に苦しんだ。
関東大震災で破損した大仏も、修理費用の目処が立たないのでそのまま保存するしかなかったのだ。
そして昭和20(1945)年の東京大空襲の大火災は、寛永寺に残された江戸時代の建築のうち不忍池の辯天堂と、厳有院(四代家綱)、常憲院(五代綱吉)のふたつの霊廟に類焼した。
戦後の寛永寺は、霊廟の跡地を徳川家から寄付されて墓地を造成し、谷中墓地の一部と合わせた霊園の経営で、ようやく確かな経済基盤を持つことができたのだそうだ。
もちろん厳有院、常憲院の両霊廟が残っていれば国宝指定は確実だし、けっこうな観光地になっていてもおかしくなかったはず…というよりも、明治初期に奥ノ院(墓所)の墓前の拝殿など一部の建造物は解体もされたものの、残された門や拝殿・幣殿・本殿などは、昭和5年制定の旧国宝制度で国宝(今でいう重要文化財にほぼ該当)に指定されている。
だがまだその徳川霊廟がまだ現存していたはずの、明治から戦前の小説などを当たっても、本坊跡地に建てられた帝室博物館(現在の東京国立博物館)が江戸川乱歩の推理怪奇小説に登場したりはするが、徳川霊廟に触れたものはほとんどない(というか、筆者は読んだことも聞いたこともない)。
上野というと、昔ながらの江戸の香りも残る下町というイメージを漠然と持つ人も多いかも知れない。
だが実際の上野はまず明治維新で破壊され、その後も関東大震災と東京大空襲で甚大な被害を受け、復興の度に都市化・近代化の波を経て変貌して来た街なのだ。
かつて江戸の大きな中心のひとつだった上野の歴史が、今ではまったく忘れられているというのも、ずいぶん奇妙なことではある。
現在の東京国立博物館の敷地は、実はかなり広い。だがその大きな敷地が寛永寺の本坊だったことは、日本の歴史に関心があるはずの見学者でもほとんど知らない。
この本坊を住まいとした東叡山の貫主には天皇の子が任命され(法親王・門跡寺院)、日光山輪王寺の住職を兼任し(輪王寺宮)、しばしば比叡山の天台座主も務めた。
つまり東叡山寛永寺は、かつて日本仏教の最高権威のひとつだったのだ。しかも今風に言えば「皇室ゆかりの地」でもある。
春と秋に公開される広大な庭園も、元は江戸時代初期に作治奉行と徳川家の茶道指南を務め「きれい寂び」の美学を確立した小堀遠州の手になる本坊の庭だった。ただし明治以降にどれだけ手が加えられているのかはよく分からない。ちなみに同じく小堀遠州の茶室転合庵は、昭和になって京都・伏見から移設されたものだ。
明治14(1881)年、本坊の跡地にジョサイア・コンドル設計の帝室博物館本館が建てられ(関東大震災で大きく破損し、現在の渡辺仁設計の本館に建て替え)、総黒漆塗りの本坊表門、通称「黒門」は、博物館の正門になった。
その黒門は、現在では元の位置から数百メートル向かって右・東側の、今の寛永寺の葬祭ホール輪王殿の前に移設されている。
2013年には台東区による修復工事も完了した(国の重要文化財)。
だが都内でも有数の貴重な歴史建築遺産で、総黒漆塗りの渋い輝きが印象的な名建築が、国立科学博物館の向かい、上野公園の眼と鼻の先に建っているわりには、観光コースにも入っていない。
そのかつての本坊表門の、黒漆塗りの門扉には、今でも慶應4(1868)年5月15日(太陽暦換算7月4日)の、上野戦争の弾痕が残っている。
戊辰戦争で彰義隊が上野の山に立て篭ったというのは、単に彰義隊の討ち死にや自決で終わったわけでなかった。
上野戦争とも呼ばれる苛烈な戦闘では、新政府軍は佐賀藩が製造した最新式の大砲(英国製アームストロング砲の改良型で、性能が上だったらしい)も使用、どさくさ紛れに東叡山寛永寺の大伽藍に火を放ち、たった一日で境内のほとんどが焼失、上野は江戸時代の華やかさは見る影もない焼け野原になった。
残されたのは厳有院・常憲院の両霊廟と、この本坊の黒漆塗りの表門、初代家康の霊殿となる上野東照宮の、慶安4(1651)年に家光が建て替えた通称「金色殿」(上掲の江戸切絵図では「御宮」)と、寛永8(1631)年にその東照宮の仏塔として建立され火災を経て同16(1639)年に再建された五重塔が、今は上野動物園の敷地となった場所に建っている他、寛永8(1631)年建立の清水観音堂、下谷広小路(今の上野広小路)側のふもとにあった惣門(こちらも通称・黒門、現在は南千住の円通寺に移設)だけだった。
大仏殿も焼け残ったものの、明治5年に上野が日本初の近代的な都市公園になると決まったあと、明治8年(9年、10年説もあり)になぜか取り壊され、大仏は露座(要するに野ざらし)にされた。関東大震災で大きく損壊して首が落ち、修理費用の目処がたたないまま保存されていたが、太平洋戦争が始まると、銅造だったため軍に金属供出を命じられた。
「これだけは」と覚悟を決めて守り抜かれたのが顔の部分で、昭和47(1972)年に大仏殿跡の丘に安置されて現在に至っている。
さらに東京大空襲で四代家綱の厳有院、五代綱吉の常憲院の両霊廟がほとんどが焼失したのも先述の通りだ。残ったのはそれぞれの勅額門と水盤舎、そして奥ノ院の墓所の、銅造や石造の門と宝塔(墓標)だけだ。
東京国立博物館の東側の道路に残っている石燈籠には「大猷院殿尊前」という文字が彫られている。
「大猷院」は三代家光の戒名だ。
この道を直進すると、左手に寛永寺の開山堂がある。先ほどの絵図では「慈眼」と書かれており、現在の正式名称は東叡山輪王寺だ。
「慈眼大師」は寛永寺を開いた天海(1536?-1643)の諡号だ。家康・秀忠・家光の三代に渡って徳川将軍家のブレーンを務め、106歳と言われる長寿をまっとうした。
その天海を祀る開山堂は諡号から慈眼堂と呼ばれ、「両大師」とも呼ばれるのは併せて10世紀の天台宗中興の良源(慈慧大師・元三大師)も祀られているからだ。
なお家光が葬られたのは日光山輪王寺で、ここの大猷院殿は日光東照宮(初代家康の墓所で現在の社殿は家光の造営)のはす向かい、日光二荒山神社と輪王寺の中心伽藍がかつてあった辺りの奥に、家光の遺言に従い東照宮にかしずくような位置に建てられている。
家光は遺言で祖父家康の東照宮よりは慎ましく、と指示したそうだが、黒が基調とは言っても東照宮と同様に彫刻をそこらじゅうに配し、金箔をふんだんに使った豪華というか派手さは、ほとんど装飾過多でゴシック的に見える。
国宝に指定され、家光が寛永13(1636)年に建て替えた東照宮と共に今ではUNESCOの世界文化遺産だが、この日光の大猷院殿と同様のものが二つ、今の寛永寺の霊園には建っていたのだ。
寛永寺の慈眼堂(開山堂)は上野戦争の戦火を免れ、関東大震災も東京大空襲も焼け残ったが、1989年に不審火で焼失してしまった。現在の開山堂(東叡山輪王寺本堂)は、1993年(平成5年)の木造の再建だ。
背後にあった家光霊屋(寛永寺大猷院殿)の跡地(東京国立博物館の向かって右手、北東の向かい側)には、元は36あった寛永寺の子院で明治以降に存続が許された19の子院のうち15が、規模を大幅に縮小して移転させられ、つつましく軒を並べている。
かつてなら家光霊屋の東南側すぐ隣だった子院の現龍院の墓地には、家光が亡くなった際に殉死した幕臣たちの墓所がある(なおこの時を最後に、殉死は幕府によって禁じられた)。
この墓地は明治維新以降も移されていないが、隣接していた子院はいずれも廃止されるか移設されている。
徳川家(松平家)の先祖代々の宗派は、浄土宗だ。
小田原の北条氏が豊臣秀吉に降伏して関東を手放し、家康が天正18(1590)年にその秀吉の命でそこに国替えになって江戸に本拠を移したときに菩提寺としたのは、当時は今の千代田区平河町辺りにあった増上寺だった。
その増上寺は慶長3(1598)年に江戸城の拡張に伴い芝に移転されると同時に、徳川家による豪勢な伽藍の建設が始まっている。
東京大空襲では芝一帯も焼け野原になり、増上寺の伽藍もほとんど失われた。二代秀忠が寄進した元和8(1622)年建立の、大きな三解脱門(三門)が奇跡的に焼け残ったことで、戦後には強運のご利益がある門という縁起かつぎも言われるようになった。
現在の増上寺では他に本坊表門と、寛政年間まで増改築が繰り返された経蔵が、江戸時代に遡る建築物だ。
他に鐘楼が一部戦災で焼け残った部材を使って再建され、鐘自体は江戸時代のものだ。
元和2(1616)年に73歳という、当時としては異例の長寿をまっとうした家康は、遺言によりまず駿府の久能山に葬られ、「東照大権現」として神格化されると日光に改葬された。
墓所は久能山と日光の東照宮になる(一説には日光にはその神霊を移しただけで、亡骸は今も久能山の奥ノ院にあるとの説も。どちらの墓所も発掘調査はされていない)。
二代秀忠(台徳院)とその正室・江与(崇源院)の墓と霊廟は、この浄土宗の増上寺に作られた。
そして三代家光が、天海の進言により江戸において京都御所に対する比叡山延暦寺の位置関係を踏襲し、千代田の城から見て鬼門方向に当たる上野に、鬼門封じとして寛永2(1625)年に寛永寺を建立、比叡山と並ぶ天台宗の別格総本山にして、増上寺と並ぶ徳川の菩提寺となった。
寛永年間(1624年〜45年)に建てられたので寛永寺というのも、最澄が開いた比叡山の修行道場が正式な勅許の寺となったのが延暦年間(782年〜806年)だったので延暦寺と名付けられたことに倣っている。
翌々年の寛永4(1627)年には、天海と家康の信頼も篤かった藤堂高虎(当時は津藩主)により、藤堂家が寛永寺に寄進した旧屋敷地に、東照大権現(東照神君)として神格化された家康を祀る社が創建された。
日光東照宮と共に正保3(1646)年に正式に朝廷より宮号を授けられて上野東照宮になり、5年後の慶安4(1651)年には家光が建て替えた豪華な社殿が完成、「黄金殿」とも呼ばれる。
ちなみに本殿には家康の他に天海と藤堂高虎の木像も納められていて、また高虎の墓所は今もこのすぐそばの上野動物園内にある。
また比叡山が琵琶湖のほとりにあることから、上野台地の西側に広がっていた湿地帯(古代には海だった)を整備して、琵琶湖に見立てた不忍池が造成された。
琵琶湖の見立てということで、不忍池にはさらに竹生島に見立てた中之島が作られ、その竹生島の宝巌寺から勧請された八臂の辯財天坐像が祀られた。
入母屋造の辯天堂は戦災で焼失したが、戦後昭和33(1958)年に再建された六角堂は、今でも多くの観光客を集めている。
なお十二支の巳(ヘビ)が弁財天と結びつくのは、インドの水神サラスヴァティが仏教に取り込まれて弁財天として日本に入ると、日本の土着の水神で蛇身に人顔で表される宇賀神を頭上に載せた姿になり、両者が同一視されるようになったからだ。
また寛永8(1631)年には、京都の清水寺を模した懸造り構造の清水観音堂が、最初は参道を挟んで大仏の向かいになる摺鉢山の斜面に建てられた。
その後、五代綱吉が根本中堂の大造営を開始したのに伴い、元禄7(1694)年に不忍池辯財天に向かい合う現在の場所(桜ヶ丘)に移築されて現在に至っている。
この観音堂だけが、江戸時代の寛永寺の中心伽藍のうち現存するお堂だ(なおやはり現存する五重塔は本来は東照宮のもの。共に国の重要文化財)。
清水寺を模した清水観音堂なので、本尊も「往生要集」で知られる浄土信仰の祖、恵心僧都(源信、942-1017)の作とされる千手観音坐像が、その清水寺から迎えられた。
この本尊も秘仏で、年一回の開張は2月の1日間、初午の日に行われる。普段見られるのは江戸時代の作の「お前立ち本尊」の千手観音像だ。
なお上野に清水観音堂が建てられたのとほぼ同時期に、家光はモデルになった京都の清水寺の大規模な再建工事も行っている。
音羽山清水寺は平安時代以来の古刹で京都でも屈指の庶民信仰の聖地だが、応仁の乱以降荒廃し、舞台も崩壊していた。その再建は目に見えて分かりやすく「泰平の世の到来」の象徴でもあった。
日光に建てられた家康の墓所・東照宮は、元々は家康が簡素な廟でいいと遺言していた。
そうは言っても秀忠だってそこそこに立派なものは造営したはずだが、家光は気に入らなかったのか、取り壊して当時の作治奉行・甲良宗広の指揮で建て直させたのが、ほとんど装飾過多なまでに豪勢に作り込まれた、彫刻と金箔と白の胡粉塗りだらけの社殿だ。
東照宮の斜め前の山の斜面にある家光の墓所、輪王寺大猷院殿霊廟もほぼ同じ建物構成だが、祖父家康の東照宮よりも地味に、ということで白が基調の東照宮に対し黒が多く用いられている。
またこの家光の墓所・霊廟は遺言により、南面するのではなく東照宮にかしずく方向で建てられている。
日光は古代からの修験道の聖地で、奈良時代に満願寺が開かれ、平安時代に慈覚大師円仁により輪王寺と改称し天台寺院となっていたが、やはり戦国時代に衰退していた。つまりここも、天海の助言で将軍家が再興した寺だ。
家光による東照宮の建て替えは、100年以上続いた戦国時代が大坂夏の陣で終わって約20年後のことだ。家光はあたかも「子どもが無邪気に遊んでいられる時代になった」と宣言するかのように、この彫刻を一般庶民が見られる範囲では東照宮のクライマックスに配している。
家光政権は武家諸法度で諸大名への締め付けを強め、大掛かりな天下普請を次々と命ずることでその財力も押さえ込もうとした。諸大名にしてみれば強権的な抑圧に見えただろうが、彼らに幕府に反抗して内乱を起こす力を持たせないことは、戦乱の時代再びとしないためには有効な手段ではあった。
戦国時代の武家では、相続をめぐって兄弟や親子で殺し合い、家が分断して家臣同士が争うことも少なくなかった。家督相続を安定的に制度化することは内乱を防ぐには重要で、家康は長子相続を制度として確立して御家騒動を防ぎ政権を安定させ、下克上で戦乱が続くことを防ごうとしたのだ。
なお福(春日局)の父・齋藤利三は明智光秀の腹臣で4歳の時に本能寺の変が起こり明智家が滅亡、福は母の実家に身を寄せて育っている。その実家の稲葉家に婿養子として入った夫の正成は、関ヶ原の戦いでの小早川秀秋の東軍への寝返りに功績があったが、秀秋の死で小早川家が断絶し浪人になってしまった。家康は「あの齋藤利三の娘なら」ということと、そうした苦難の前半生も見込んで家光の乳母に抜擢し、福もまた徳川による平和の実現に強い期待を持っていたのかも知れない。
一般論でいえば、確かに実力主義で自由な社会の方が効率的になるかも知れない。だがそこで問われるのは、なにを物差しにその実力を評価するかだ。徳川家が絶対的な平和主義最優先の体制を徹底させようとした当時、100年以上続いた戦国時代で全国が疲弊荒廃し、人心も武家を中心に暴力主義的にすさんでいた。戦乱の手柄で(つまりは人殺しで)立身出世、武勇と力を見せつけることこそが武家のアイデンティティという支配階級の意識を変えないことには、戦国時代は終わらなかっただろう。
中世の封建制武家社会は、武功で手柄を立て領地を与えられその支配権を認められることで成立していた。つまり戦争がなければ実力を示すことができず評価もされないし、逆に言えば主君は手柄に恩賞を与えることで権威を維持していた以上は、恩賞として与える領地を獲得するための拡張戦争を続けなければ、求心力を失ってしまう。
戦国時代の末期には、この中世的システムは明らかに飽和状態に至っていた。信長は実力をつけた家臣団を警戒し始めてわざと乱暴なまでに困難な作戦を命じて疲弊させたり、無理難題を押し付けて処罰したりして、織田家と嫡子の信忠に権力を集中させようとするなかで明智光秀に討たれたのだし、豊臣秀吉が天下の統一を成したとたんに「明を征服する」と言い出して朝鮮半島を侵略したのも、単に狂気じみた思いつきとも片付けられない。戦争を続けなければ臣下が実力を発揮する機会も、主君が恩賞つまりその実力の評価として与える土地もなくなり、体制のまとまりが危うくなるのだ。
残酷で陰惨な戦国のピークは、信長以上に秀吉時代だった。小田原征伐後の奥州仕置で天下統一を完成した時には百姓も含め「悉くなで斬り」を命じ、その翌年に始めた朝鮮出兵では(日本ではほとんど知られていないが)さらに徹底した、血みどろで凄惨極まりない戦い方を実行させている。徳川が天下を統一してその平和を維持するためには、そんな人心のすさみきった暴力的で刹那的な価値観を変えることが不可欠だったはずだ。
武家の棟梁の将軍を祀った東照宮なのに武勇を称揚する要素が見られず、平和の道徳や文化教養を説いた意匠の贅を尽くした装飾で埋め尽くされているのは、これが新しい泰平の時代のための新しい価値観を分かり易く発信する政治装置だったからだ。
たとえば日光、久能山、金地院、上野などの各東照宮の拝殿には、平安時代の三十六歌仙の絵が飾られるのが通例だし、上野東照宮の透塀には陸と水のさまざまな生き物が相慈しみ戯れる姿が描写されている。
見るからに多額の資金を、軍備や戦争ではなく建築工芸の粋を集めた豪勢な寺社の建立に注ぎ込んだのは、その前の支配者だった豊臣秀吉の好んだ安土桃山の華やかなさ以上のものを、庶民の目に分かりやすく見せる必要性もあっただろう。
秀吉の派手好きは有名だが、その豊臣政権にとって替わったのが徳川幕府だったせいか、江戸時代初期の公的建築にはそれ以上に「ド派手」な、華やかなものが多い。
こと寺社仏閣は、基本的に身分の分け隔てなく誰もが参拝できる場所だ。城郭や武家屋敷以上に、「見せる政治」の効果は大きい。
応仁の乱以降荒廃していた京都をまず復興させたのは豊臣秀吉で、現在の街割りもその時の都市計画に基づいたものだ。息子の秀頼もその方針を継承し、相国寺の法堂や東寺(教王護国寺)金堂、北野天満宮などを再建している。
そうした寺社造営の一貫で方広寺の鐘事件が起こり、大坂の陣と豊臣家の滅亡に至ったのだが、その秀頼による方広寺の大仏殿の建造には幕府の技術者集団(中井家)が参加していたことが、残された図面から分かっている。
定説では、家康は関ヶ原の戦い後か幕府を開いた時には既に秀頼を滅ぼすことを考えていて、陰謀をめぐらし機会をうかがっていたかのように言われているが、方広寺の再建に幕府が協力していることを考えると、いささか疑問も出て来る。
なおこの方広寺の大仏は、奈良・東大寺よりも大きい高さ19mで、大阪城の落城と豊臣家の滅亡後も、江戸時代を通じて京都で人気の観光名所であり続けた。「大仏」といえば奈良・東大寺や鎌倉高徳院以上にこの京都大仏であり、寛永寺の大仏も奈良よりはむしろ、この京都大仏を模したものだ。
一度は幕府の京都所司代が朝鮮通信使の接待で大仏を見せてあげようと連れて行ったところ、自国を侵略して暴虐の限りを尽くした秀吉の寺だと知った国使が怒り出し、大騒ぎになったこともある。
秀吉の創建当時の方広寺の本尊は、信州長野の善光寺の秘仏本尊をまず武田信玄が甲府に移し、それを今度は織田信長が武田勝頼を滅ぼした際に奪ったその秘仏で、さらに大仏の建立も始めさせていた。この造りかけの大仏が慶長の伏見大地震(1596年)で倒壊して一事は頓挫、秀頼がその遺志を継いで完成させた京都大仏の正面が、今は豊国神社の境内だ(参道には今でも「大仏前郵便局」などがある)。
現在の豊国神社は、明治の神仏分離令と廃仏毀釈で政府に没収された方広寺の境内地の正面部分に建っている。豪勢な唐門はかつての伏見城の遺構とされるが、直接には家康の側近・以心崇伝の住居であり塔所だった南禅寺の金地院から没収して移築したものだ。
たとえば天満宮は左遷先で憤死した菅原道真が “祟って” 御所に雷となって落ちて来たので、神として祀ったのが起源だ。
江戸時代に船乗りの守り神として全国規模の人気を集めた四国・讃岐の金毘羅宮の祭神は、この道真と並ぶ「日本三大怨霊」のひとり崇徳上皇だ。
崇徳院は平安末の院政期に、幼少期から英明な天皇とされながら父・鳥羽上皇に騙されて退位させられ失脚し、保元の乱で讃岐に配流されて狂い死にした、その亡霊伝説も有名だ。
もちろん戦国時代に人を殺しまくり、「祟り」の原因を作りまくったのは信長だけではない。豊臣秀吉は自分の兵に膨大な犠牲が出る人海戦術すら平然と実行し、息子の秀頼が産まれれば養子の秀次を切腹させただけでなく、その側室や奥女中など36名を賀茂川の河原で見せしめに処刑した。また日本ではほとんど知られていないが、朝鮮出兵で秀吉がやらせた戦い方は農村や町を平然と皆殺しにするなど、凄惨極まりなかった。
それに「生類憐れみの令」が現代に思われているように不評だったわけでもない。戦国の気風にこだわる一部の武家からこそ多少の反発はあったものの、全般的にはむしろ人気の政策だった。だいたい実際には、まず捨て子や病人、身寄りのない老人の保護救済を命じた高度福祉政策だった。
確かに幕府財政は綱吉の代に逼迫し始め、幕府は恒常的に物価の安定に腐心し、年貢米を現金化する際の米価の下落もあって財政難に苦しみ続けることになった。家康は幕府金蔵に300万両を遺したと言われるが、八代吉宗の就任時には30万両にまで減っていたという。
だがこれは明治以降の俗説に言われるように、綱吉がぜいたくな放漫財政に耽溺したからではない。
まずインフレと米価の下落は、経済学の観点からみれば、戦国時代を終わらせ泰平の時代に国を富ませようとした家康以来の目標が思いのほか成功したことの、必然的な結果だ。
河川の整備や大規模な新田開発を進めて農業生産能力を高め、統一貨幣制度を日本史上初めて導入し、五街道をはじめとする道路網や江戸、大坂を中心とする水上交通網も整備して経済流通が盛んになれば、当然ながら好景気のインフレ基調になるし、富と価値観の多様化の当然の結果として米の価値は相対的に下落し、年貢米に依存した幕府や諸大名の財政は苦しくなる。
また綱吉の代に幕府の出費が増大したのも、東叡山寛永寺を始めとする寺社の整備や、希望する者は庶民でも無償で学べる昌平坂学問所(昌平校)の設立など、要するに文化政策での支出が、明治以降はあたかも綱吉の身勝手なぜいたくのように歪められて伝えられているに過ぎないし、またこうした政策が綱吉に始まったものではないことも、これまでも見て来た通りだ。
綱吉が生母・桂昌院の身勝手な放埒を許して幕府財政を傾けたかのように思われているのも、実際には母の名で奈良の春日大社や東大寺や新薬師寺、京都の清涼寺、長野の善光寺などの名刹を再建・再興したことだった。
桂昌院は京都の町衆の出身(俗説に「八百屋の娘」とも)で、将軍家に生まれぜいたくな庇護の下に育って価値観が歪んでしまいかねない将軍の子に庶民感覚というか、一般人の生活感覚や人命の尊重を教え、それが綱吉の福祉重視政策にも影響したのではないか、というのが昨今の評価だ。
新薬師寺本堂の本尊前の柱には桂昌院の寄進で修理が行われた際の、葵紋をあしらった彩色が残っている(ほぼ同じ装飾は、桂昌院発願の江戸の護国寺の内陣にも見られる)。
同じく奈良の春日大社には、桂昌殿と呼ばれる桂昌院寄進の建物が回廊のすぐ西にある。
ちなみに新薬師寺には、徳川将軍家の歴代の位牌が納められている。
かつての江戸、現在の東京都内では、音羽の護国寺が綱吉の寄進した桂昌院発願の寺として名高い。
元は幕府が薬草の栽培をさせていた高田薬園があった江戸の郊外だが、護国寺の建立によりその門前は人気の観光・行楽地としてにぎわうようになった。
たとえば江戸城大奥の奥女中は、特別な理由がない限り城外にでることが許されなかったので、寺社への参詣は外出の格好の口実になり、将軍家の祈願寺となった護国寺はとりわけうってつけだった。門前町にはそうした奥女中が恋人と密会するのに使える水茶屋なども多かったという。
護国寺の本尊は桂昌院の持仏の中国渡来の琥珀の観音像で、完全な秘仏になっているが、それを祀るための巨大な本堂(観音堂)が建立されたのはさらに大きい寛永寺の根本中堂の造営の前年で、この時はわずか半年で完成したという。
また根津権現(現・根津神社)の社殿は、綱吉が甥の甲府大納言綱豊(六代将軍家宣)を将軍世嗣と決めた祝賀のため、甲府徳川家が屋敷地を寄進し、綱吉が建てさせたものだ。
それに綱吉の代に幕府が財政危機に陥った最大の理由は、治世の末期に元禄の関東大地震(元禄16年・1703年)と、4年後に宝永の東南海地震、立て続けにその49日後には富士山の宝永大噴火(宝永4年・1707年)と、大規模災害が相次いだことだった。
以前にも四代家綱が明暦の大火のときに、被災民の救済のための幕府備蓄米の無償配給や、復興のための大規模土木工事に膨大な出費をしているが、綱吉の時にもまず大震災で被災民の救済だけでなく河川護岸などの大規模改修が必要になったときに、今度は矢継ぎ早に大噴火である。火山灰による日照不足で農業生産が激減したことも、年貢に頼る幕府や諸藩の財政にとっては大打撃だった。
「生類憐れみの令」を理由に綱吉を暗愚の君のようにみなすのは、むしろ後世、とくに近代以降の偏見だ。後世に悪名高い犬の保護施設を現代の中野駅のあたりに作ったのは、江戸市中に溢れていた野犬・野良犬対策で(現代なら殺処分になるが)、後世言われるようにことさら犬を人間より大事にさせようとしたわけではない。
捨て子や病人、老人の弱者保護政策を、理念的にはあらゆる生きものに広げたのはたしかに極端ではあり、具体的な施策は大地震と富士山大噴火への対応優先のため綱吉自身が取りやめたが、甥の甲府大納言綱豊が六代将軍の家宣となった時にもその理念と基本方針は維持すると確認されていたことも、近代では見落とされがちだ。
それに仏教の殺生戒では、すべての生命を尊ばなけらないのも確かだ。「生類憐みの令」はそもそも理念法で、綱吉が狙ったのは生命を尊ぶ道徳規範の奨励することであり、戦国時代まで要するに暴力の行使こそが仕事だった武士を、泰平の新時代に合せた価値観で戒めるための意味合いが大きかった。
実際に反発があったのも、泰平の治世が確立されて武勇よりも学門や官僚的な実務能力が重んじられるようになった幕府の方針への、旧来の(戦国時代的な)価値観に囚われた武家からの不満が大きかったようで、実際の記録によれば処罰されたのもこれ見よがしに反発した武士ばかりだ。
学門と仏教を重んじた綱吉はいささか抹香臭い公方様だったとは言えるかも知れないし、明治以降の新渡戸稲造的な「武士道」「侍の国」イメージには反するとしても、そもそも家康が武勲はないが丁寧で几帳面な性格で面倒見がよいので人望が厚く、平時の実務能力に長けた秀忠に将軍位を譲って以来、徳川のもっとも基本的な方針は、人命の尊重と殺し合い・内乱の防止だった。
家康没後の秀忠と、その息子の家光も、武家どうしの争いや専横、暴力の行使を抑えることに心血を注いだ。家光の子である家綱と綱吉は、その方針をさらに進めて、戦国時代風の武家の力(暴力)の支配から、文治政治の平和統治への転換を計っていく。
綱吉は学問を奨励し儒教朱子学を庶民でも希望すれば無償で学べるように昌平校を解放したが、儒教道徳で厳しく自らを律するよう求められたのは支配階級の武家と一部の高い格式のある家で、一般庶民に強要されたわけではない。
士農工商という身分制度もずいぶん誤解されがちだ。大名行列は平身低頭しなければならないものではなくてむしろ大勢の見物客を集めるものだったし、武家が名誉を毀損されたら「切り捨てご免」でお構いなしというのは、後世の神話だ。
名誉を傷つけられたから、と言っても即座に届け出た上でどうしても許し難い侮辱があった事実を立証できなければ、切腹どころか打ち首獄門さえ覚悟しなければならなかったのが実際の法制度だったし、そうやって届け出た後も、いかなる理由があっても人を殺めた罪そのものは深く反省する印として、まず真っ先に蟄居が申しつけられた(蟄居しながら証拠や証人探しもやるのは大変、というか無理)。
本当に「切り捨てご免」をやった武士が徳川幕府250年の歴史の間にどれだけいたかも怪しいというか、実際の意味合いは逆で、戦国時代の気分が抜け切らない武家がみだりに庶民を斬ることを禁じるために厳しい条件を課した制度だったと考えられる。
諸潘が一揆を恐れたのも、なによりも領民がそこまで不満を持つような政治をやったというだけで幕府による厳罰の対象になるからだった。大名家がみだりに領民や民衆、庶民の命を奪ってしまえば取り潰しを覚悟しなければならなかったし、島原の乱以降は一揆軍に対し銃を水平方向に発射することも禁じられた。
徳川将軍家の統治の基本の哲学では、武家である大名が各潘の統治者と言っても「当座の者」に過ぎず、民百姓をこそ「末代までの者」、つまりその土地の真の住人とみなし、諸大名にとっては将軍家と、究極的には天皇からの「お預かりしたもの」として大切にすることが求められた。武家にとって年貢米が主要な収入でもあった以上は当然でもあったが、農村の生活を守ることは幕府が諸大名に課した最大の責任となった。生活が成り立たなくなった農民が土地を去り村が途絶えることは「亡所」と言われ、領内で一村でもそういう状態になれば、それだけで領主は責任を問われ、取り潰しの対象になりかねなかった。
また家康が始めた大規模治水工事と用水路、運河の整備、それを引き継いだ三代家光の江戸城外堀の建設などの、江戸を中心とした大規模な「天下普請」は、労働力が地方から流入することで江戸の人口増加を狙った政策でもあった。
こうした徳川の絶対平和主義の統治の下で、人口も全国で増加し、農業生産も経済も順調に成長を続けた。とりわけ都市は急速に発展し、江戸は綱吉の時代には世界最大級の、確認できる限りでは当時の世界でもほとんど唯一の100万都市になっていた。
しかもその江戸の行政と治安の責任を担う南北の江戸町奉行所には、同心が200名しかいなかったという(南北で月毎の輪番制なので実際に職務にあったのは100人という計算になる)。町人の自治が尊重され、治安の維持にも庶民が積極的に参加していたのだ。
家光は上野東照宮の華やかさや、日光東照宮のほとんど装飾過多の贅沢さを、誰もが見ることのできた寺社の様式では突き詰めた。
その一方で将軍家が自らの私的な使用や接待などのために作らせた、城内にあって一般の目に触れる機会の少ない建物となると、茶の湯と数寄の文化の影響もあってむしろ簡素で、デザインは洗練されていても華美は排したものが多かったりする。
四代家綱が紫衣事件で父・家光と対立して抗議の退位をした後水尾上皇と中宮和子(秀忠の娘で家綱にとっては伯母)のために造営した修学院離宮も、洗練された数寄趣味の極致ではあるが、まったく華美ではなく、簡素の極みですらある。
日光東照宮や輪王寺も、江戸から物見遊山の旅行に出かけるには手軽な距離の日光に、江戸市民をはじめとする一般庶民に見せるためにこそ作られたものだ。
墓所だけに陽明門より奥に入るのは当初は諸大名だけで、昇殿は大名でも一部に限られ、奥ノ院への墓参は将軍家と親藩のみだったものの、陽明門までの参拝は身分に関係なく誰でもできたし、現に日光街道の整備のおかげもあって、日光は江戸から手近な人気の観光地になった。
ちなみに参拝では身分に関わらず裃(かみしも)を着るのが作法とされ、門前町では貸衣装屋も繁盛したという。格式ばった権威主義というよりは今風に言えば一種のコスプレを楽しむような感覚だったのかも知れない。
上野東叡山に豪華な美意識の粋を集めたのも江戸庶民相手の政策であり、天海が琵琶湖に見立てた不忍池や清水寺を模した清水観音堂を発案したのも庶民の京や上方への憧れに応えるためでもあった。
この寛永寺と上野東照宮、増上寺と台徳院殿霊廟、日光東照宮と輪王寺の大猷院殿霊廟が、徳川が実現した泰平の世を分かり易く見せる、華麗でエンタテインメント性に満ちた建築様式を確立したとも言える。
ただし今日でも京都などの神社では、権現造りとは異なった、近世以前の構成が多い。本殿は一個の独立した建築物で、その前の拝殿や幣殿、舞殿などは離れた別個の建築物として、あいだを空けて建てられ、通常の祭事はそのなかで、本殿前の特別な祭事は屋外で執り行なわれる。
中世には本殿の前の拝殿や幣殿から伸びた塀や回廊で本殿を取り囲み、いわば本殿を隠して特に正面の全体を見せない形式が普及した。春日権現(春日大社)や加茂御祖社(下鴨神社)、加茂別雷社(上賀茂神社)のようなとくに格が高い社では、本殿がほとんど見えない。
家康が神格化されることになり、久能山から日光に改葬される途中に川越の喜多院に立ち寄った際に天海が法要を執り行った仙波東照宮(埼玉県川越市・喜多院内)の社殿も、拝殿は透塀で囲まれた本殿から独立した、別の棟になっている。
家光が上野東照宮の二年前に造営した浅草寺の三社権現(明治の神仏分離令で浅草神社に改称)の現社殿は、屋根だけがある開放的な、回廊のような「石の間」で本来は独立していた拝殿と本殿をつなぐ、いわば権現造りに至る過渡期の形式だ。
なお家光は三社権現とあわせて、金龍山浅草寺の本堂や楼門、五重塔などの壮大な伽藍も造営している。
東京大空襲であらかた焼失してしまったが、戦後に再建された本堂は、鉄筋コンクリートとはいえ家光造営の金堂と大きさや見た目はほぼ同じに作られている。
江戸時代には楼門(宝蔵門)の上層にも、常にではないが年中行事に合わせて登ることができ、江戸全市を一望できる眺めを多くの人が楽しんだという。
また家康の江戸開府時には江戸城内にあった、市中に時を報せるための「時の鐘」は、家光の代以降は寛永寺と浅草寺に置かれた。
本坊の伝法院も徳川家により大書院、客殿などが整備され、寛永寺と日光山輪王寺の管主を務めた法親王(出家した皇族)が隠居後にしばしばここに住むようになった。
小堀遠州による庭園がは国の名勝、江戸時代当時の客殿や玄関などが重要文化財に指定されている。大書院は幕末に火災で焼失後、明治時代の再建だ。
こうした大掛かりな寺社の造営は、将軍家の権威を示す以上に、いわば庶民へのエンタテインメントの提供でもあった。
また参拝やその周囲で行われる娯楽は経済活動や活発なコミュニケーションを促し、とくに江戸では地方出身者が多かったのをひとつの街にまとめて社会を安定させる効果もあっただろう。そして実際、江戸は直接に治安を担う町奉行所同心が南北両町奉行所合計で200名しかいなかったのに、治安はよかった。
上野からほど近い根津権現(現・根津神社)にも、綱吉の造営した豪華な社殿が残されている。
現在の境内地は後に六代将軍家宣となる甲府大納言綱豊が将軍将軍世嗣(次の将軍・世継ぎ)と決まったことを祝うため、甲府家がその屋敷地を寄進し、綱吉が社殿を造営したものだが、もともと庶民信仰の対象だ。
江戸総鎮守の神田明神は、明暦3(1657)年の大火の後、江戸城の大改造に伴い遷移されたのが現在の、東側が崖になっていて眺望が広がる高台になった境内だ。ここに幕府が寄進した社殿もまた壮大で絢爛たるものだった(やはり東京大空襲で焼失)。
神田明神といえば神田祭りでも人気の、境内で産湯をつかることが江戸っ子の条件と言われたような、やはり庶民信仰の場だ。
鎌倉の鶴岡八幡宮も現在の社殿も、麓の若宮が二代秀忠、上宮は十一代家斉による造営だ。もちろん信仰による幕府の権威付け(八幡宮は源氏の氏神で、徳川家は源氏の系譜)であったのも確かだが、現代人の、たぶんに西洋の影響を受けた感覚でいう「権威」、巨大な財力と権力を見せつけるような意味合いとは、ニュアンスがいささか異なる。
やはり江戸から手近だった鎌倉は、綱吉と同時代の水戸徳川2代藩主・光圀が著書で紹介したのをきっかけに、人気の観光地化していたのだ。ちなみにこの光圀をモデルにした水戸黄門の諸国漫遊伝説は有名だが、実際の光圀は江戸と水戸の領国の往来と日光参拝以外では、鎌倉にしか旅行していない。
過去の日本ではこうした寺社仏閣の愛好はもっと極端で、参拝はエンタテイメントだったし、その建築もエンタテインメント性を強く意識したものになった。
豪華な伽藍や社殿も、その装飾や描かれた絵や、仏像だけでなく珍しい動物などをかたどった数々の彫刻などを見ては、「わあ、きれい」とか「おもしろい」という好奇心を満たす娯楽でもあったのだろう。文字通りの「物見遊山」が一般庶民に娯楽として広く普及したのが江戸時代だ。むろん「物見遊山」の「山」は、別に山登りを娯楽とすることではなく、寺院の山号を指す。
江戸で幕府が作った寺社仏閣が人気を集め、出雲大社(豊臣秀頼の再建)、信州長野の善光寺(徳川家により長野に戻され、現在の本堂は宝永4年・1707年に綱吉により、甲良宗賀の指揮で造営)など、聖地で巡礼地だった寺社が幕府や諸大名により再建されたり伽藍が整備され、同時に五街道をはじめ全国の交通網の整備が進むと、西国三十三観音霊場などの巡礼が娯楽にもなり、参拝にかこつけた物見遊山の観光文化が庶民のあいだでも爆発的に増えて行く。
関東なら日光の輪王寺や東照宮、鎌倉見物に、足を伸ばして富士信仰も人気を集めた。関所を超えるには身分証明書にあたる通行手形が必要だったが、参拝が理由なら簡単に発行されたのだ。
関東からも畿内・京大坂からも行き易い伊勢神宮が大人気の観光地になったのも江戸時代だ。江戸時代には全国人口の1/6が伊勢参りをしたとも言われる。
崇徳上皇を祀る讃岐の金刀比羅宮は海上交通網が整備された江戸時代に、船乗りの守り神として全国的に有名な人気の観光地にもなったし、同じく四国で真言宗の開祖・空海ゆかりの地を廻る八十八箇所のお遍路も、江戸時代に定着した。
季節の変化に彩られたかつての日本人の生活のなかで、寺社仏閣が境内にふんだんに植えられた木々の春は桜、秋は紅葉というように、四季の移り変わりを楽しむ場でもあるのは、今でもあまり変わらない。
春の花見で桜を愛でる風習は、奈良の吉野山の桜が起源だと考えられている。
平安貴族はわざわざ吉野まで花見に出かけて行ったほどだが、やがて京都でもより手近に楽しめるように、その吉野山の桜が洛北の嵐山にも移植された。
嵐山や嵯峨野はもともと渡来人系の特殊技能を持った人々が多く住む地域だったが、嵯峨天皇が離宮を置いたことから(現在の大覚寺)公家の別荘地にもなり、一帯を見下ろす山々は、室町時代には足利将軍家のブレーンだった禅僧・夢窓疎石が開いた天龍寺の一部として整備された。
というよりも、嵐山自体が、天龍寺の方丈庭園の借景で、明治政府に没収されるまでは天龍寺の所有だった。
京都の近郊には、他にも豊臣秀吉が花見の大茶会を開くことになる醍醐など、数々の桜の名所が産まれて行く。
応仁の乱で京都は荒廃したが、逆にこうした京都の文化が地方に拡散する契機にもなった。
これまた時代劇大河ドラマや漫画やゲームの「戦国武将」のイメージには大いに反することかも知れないが、和歌や「伊勢物語」「源氏物語」などの平安朝の王朝文化や、足利将軍家の八代義政の創始した、例えば侘び茶などの現代の「和風」文化の起源となる美学など、さまざまな京風の文化を身につけ、禅僧をアドバイザーに漢籍など中国起源の教養を学ぶことも、戦国時代の大物大名たちにとっても必須だったのだ。
禅というと今日でこそ日本文化の粋のように思われているが、禅宗はそもそも達磨大師がインドから中国に渡って興し、日本には中世に宋代の中国から伝わった新しい仏教だ。
当時の日本での受容では、禅とその文化は中国風(足利義政の「東山御物」は「唐物」と呼ばれた)という認識だったし、禅僧は中国を中心に東アジアの国際社会の情勢にも通じていた。
現代人が「和風の極致」くらいに思っている禅画の水墨山水も、たいがい図柄は中国の風景だし、人物も建物も中国風だ。
室町後期から安土桃山時代にかけて日本の絵画の頂点に上り詰めた狩野派は、この中国模倣の伝統を引き継ぎ、大名家の調度として描いた障壁画や屏風は基本、中国の風俗と中国の風景だった。
将軍家や大名家では、君主や跡取りの生活スペースに農耕図や祭礼図などのモチーフを好んで障壁画や屏風に描かせて庶民の生活を意識する教訓とする風習があったことは先述の通りだが、そこで描かれる庶民の姿も中国風俗が基本だ。
喫茶の習慣も元は禅宗と共に中国から伝えられたもので、天目茶碗や宋代の青磁など中国製の茶器は足利義満とその孫の義政以降「唐物」として珍重されたし、侘び茶を大成させた千利休は、李氏朝鮮時代の半島の民具の意図されざる美を高く評価して愛好した(井戸茶碗、三島茶碗、袴茶碗など)。
安土桃山時代にポルトガルやスペインとの交易で海外の文物(「南蛮文化」だけでなく日中間の貿易物資も運び、東南アジアからの文物も輸入された)もどんどん流入するなかで、大名達や堺などの有力商人の財力もあって、今に続く日本の文化もまた大きく花開いて行った。
有力な戦国大名ともなると単に武勇だけでなく、文化教養でも威信を発するようになる。織田信長は利休の鑑定で高い価値を付与した茶器を、所領の代わりに褒美として与え、俗に茶碗ひとつが城ひとつ以上の価値を持つとさえ言われた。
禅宗の文化と共に、もともと堺の商人の出身だった利休の茶はこうして武家の文化に取り込まれ、細川幽斎・三斎父子や古田織部、小堀遠州と行った武家が利休の死後もその高弟として継承して行った。
和歌や漢籍に親しむことは、こと四季の変化が豊かな日本の文脈では、花鳥を愛で自然を風流として愛好することと一体化する。
それまで大陸からの輸入品にほぼ限られていた絵付けの陶磁器が日本でも作られるようになったのもこの時代で、その技術は安土桃山時代に飛躍的に発展し、江戸時代に入ればヨーロッパ相手の重要な輸出品にもなって行った。
寛永寺では天海がまず吉野山から持って来させたヤマザクラを植え、その後も徳川家は境内を桜で埋め尽くして上野を花見の名所にした。
民間でもたとえば吉原遊郭では花見の季節限定で中通りに桜の木を他所から持って来てを楽しませるのが年中行事となった。
現代もっともポピュラーな桜の品種であるソメイヨシノも、江戸時代に開発された
。株分けで増やすのが簡単になったこともあり、また寒冷地でもよく育ったので爆発的な人気となり、全国に広まって現代に至る。
文化や娯楽の場を作ることは、徳川幕府が民衆の信頼を得るための重要な政策のひとつだった。つまりは寺社の造営は、泰平の世を治める幕府にとって重要な庶民サービスでもあったのだ。
とはいえ寛永寺はお寺、それも門跡寺院で比叡山と並ぶ天台宗の最高権威、しかも将軍家菩提所だけに、ハメを外し過ぎたどんちゃん騒ぎはさすがに憚られた。そこで八代吉宗は隅田川の堤に桜を植え、無礼講の酒盛りもできる新たな花見の名所を作った。
元をただせば、隅田川の堤防をより確かな洪水防止のために整備拡大した治水工事だった。家康以来、治水は徳川将軍家にとって重要な関心事である。その新築の堤防に桜を植えたのは、花見客が大勢集まれば自然に土が踏み固められるという吉宗の計算だった。
家康の江戸開府以前、今の平地部分は茫漠とした湿地帯か海で、日比谷まで遠浅の入り江だった。そんな寒村だった江戸に本拠を定めた家康は、まず江戸湾に流れ込んでいた利根川を霞ヶ浦へと流れを変える空前の大土木工事に着手する。いわゆる「利根川東遷」で、三代家光の時に完成した。
また江戸市中では人工の川である神田川を掘削した土で江戸湾を埋め立てて銀座や築地などの土地を造成し、西の郊外には玉川上水などが整備された。
水の安定供給は都市住民の生活用水と衛生の確保だけでなく、耕作可能な土地を増やし農業生産高をあげるためにも必須だった。
利根川の東遷により、それまで湿地帯や荒れ地が多かった関東平野が日本でも有数の穀倉地帯に変貌してゆく。こうした幕府の治水工事への熱心な取り組みは諸大名にも影響を与えている。現代の日本の河川の8割以上が、江戸時代に造成されたり改修を加えられた人工の河川だ。またこうした大規模土木工事が大きな雇用を産み、江戸の人口を増やす効果もあった。
こうして江戸開府から百年前後の元禄期には、江戸は恐らく当時の世界で唯一の百万都市になっていた。
治水や水路の整備は、こと江戸や大坂のように人口が密集した大都市では生活用水の確保と衛生管理で必須だったし、商業の発達のためには極めて重要な交通網・輸送路でもあった。戦後の高度成長で多くが埋め立てられたり暗渠化されているが、東京も大阪(江戸時代までは大坂)も運河と水路と橋だらけの街だ。
そもそも家康が関東に転封された際に、既に町があった小田原や鎌倉ではなく、あえてほとんどが湿地帯と丘陵でなにもなかった江戸を本拠地と定めたのも、治水工事さえしっかりやれば、内海になる江戸湾を海運基地として活用でき、大きな経済発展の可能性があると考えたからだ。
そうした幕府の一貫した方針のなかで吉宗が新たに造成した隅田川の桜の堤と、やはり吉宗が整備した飛鳥山は、花見の酒盛りで大騒ぎをしても許される桜の名所として、江戸庶民の人気を集めた。
諸大名などの武家階級の視点では、こと家光までの徳川は武家諸法度、禁中公家諸法度などを制定し、厳しい締め付けを断行していたのは確かだし、最初の三代では有力大名家の取り潰しや国替えも相次いだ。
そのせいか、外様だった薩長閥が徳川を倒した明治維新以降の歴史教育の影響で、徳川の統治は強権的なものだったとみなされがちだ。
江戸大改造の天下普請の負担も重かったし(急ピッチの工事を命じたのは諸大名の財力を弱める狙いもあった)、改易に怯えつつ徳川の命令に従って来た大名達やその家臣からみれば横暴に思えたのはその通りだろう。主家の改易で失業して浪人になった武士達の恨みも買ったはずだ。
だがそうした「皇国史観」的な理解の文脈では、徳川の基本哲学が百姓・農民こそ「末代の者」でそれぞれの土地の強固に結びつくものであり、武家はその統治を一時的に預かるだけの「当座の者」でかりそめでしかなく、むしろ民衆の生活の安定をこそ重視する方針だったことが、明治以降の学校教育や一般に流布された歴史観でまっとうに理解されて来たとは言い難い。
天下普請の大土木工事が江戸つまり現在の東京や大坂など、かつて幕府直轄だった諸都市で近現代の発展の基礎となったことも、現代では無視されがちだ。
徳川が儒教・朱子学を公式学門に据えたことも、明治以降では「忠義」を重んじる武断的な価値観の徹底に思われがちだが、重んじられて来たのはむしろ「徳治」の概念で、上に立つ武家をこそ厳しく律し、民衆に不満があるようでは統治者の側が徳がない、と断罪すらされかねない。また支配層がそういう姿勢でもとらなくては、かつての日本の庶民は相当に口が悪くもあった。
日本では文字の普及が世界史上異例と言えるほど早く、平安時代の中後期、11世紀や12世紀となるとすでに有力貴族や朝廷、天皇や上皇を揶揄する手厳しい落書きが都で流行っていた。中世・室町時代の時点で、文字コミュニケーションはすでに地方の庶民階級にも浸透しており、木版印刷技術が発達した江戸時代ともなれば瓦版も人気を博した。
幕府が交通網を整備したこともあってその版元は相当な情報収集・発信能力を持ち、識字率も上がり貸本屋などが増えたことで、読書の習慣も庶民層にまで爆発的に普及している。直接的な政治批判は取り締まることもあったとはいえ、250年ものあいだ将軍家の権威というよりも人望を保つのも、徳川家にとってなかなか大変だったろう。
家康が「狸おやじ」と呼ばれ、二代秀忠が父と妻・江与の方に頭が上がらなかったとか、三代家光の同性愛や、その母・江与の方に寵愛された弟の忠長の確執に家光の乳母・春日局も絡んだお家騒動未遂が、ミもフタもなく庶民の噂のタネになっていたのは当時からで、将軍家や大名家の艶めいたゴシップやら、どの大名の家中やどの旗本に美男がいるのかといった話題も瓦版のかっこうの題材になり、歌舞伎などの娯楽にもインスピレーションを与えた。
四代家綱が「さようせい様」、五代綱吉が「犬公方」、緊縮財政を断行し米価の安定に苦しんだ八代吉宗が「米将軍」、十三代家定が短気だったので癇癪の「癇」の字をとって「癇公方」といったあだ名で公然と揶揄されていたのは、厳しい身分制度で武家が強権政治を敷き庶民は服従させられていたのかのような後世のイメージとは随分異なる。
中世、とくに南北朝〜室町時代以降の日本の歴史的な大きな特徴は、文字の普及もあって文化教養が幅広い階層に浸透していたことだ。
また支配階級の側でも、平安時代末期には後白河法皇が庶民の俗謡だった今様に熱中していたし、室町幕府の足利将軍家は庶民芸能だった猿楽を愛好して能楽に発展させた。
戦国時代を経て、江戸時代には庶民文化が花開くことになり、寺社仏閣はその中心的な役割も担うようになって行く。
三代家光の大公共事業による都市整備と雇用・経済の底上げも成功し、徳川の体制が盤石となると、四代家綱の代には方針が文治政治に本格的に転換し、明暦の大火の復興を機に江戸庶民の経済発展や福祉を最優先する政策をとったのも、五代綱吉が福祉政策と文化振興を重んじたのも、明治以降の忠君愛国思想の称揚の文脈では否定的に見られるか無視されがちだが、客観的にみれば泰平の世の維持のためにも合理的な判断でもある。
文治政治と町民優先(=民間活力の成長戦略)、それに平和主義を押し進めた五代綱吉の代に幕府財政が逼迫したのも、別に将軍家が贅沢が原因ではない。
後世には、享保の改革を行った八代吉宗が武道の復興や身体鍛錬を奨励したのと比較して、綱吉は抹香臭くひ弱に見られたり、元禄文化の賑やかさもあって浪費癖というイメージで語られがちだ。
だが双方を比較して綱吉を暗愚の君、吉宗を名君のように扱う明治以降の傾向が史実に則しているとは言い難い。また実際には吉宗も綱吉を尊敬していて、死後は綱吉の眠る常憲院殿霊廟内に自らを葬るように言い遺した。
吉宗が自分の墓所は綱吉の常憲院殿霊廟内に建てるよう遺言したのには、霊廟の膨大な建築予算を削減する目的もあった。
以降の将軍はこの先例に倣い、寛永寺か増上寺の既存の四つの霊廟のいずれかに葬られた。
寛永寺の厳有院殿に葬られている四代家綱も、明から禅の高僧・隠元隆琦を招いた京都・宇治の黄檗山萬福寺(明治以降、臨済宗から独立した黄檗宗の総本山)などを建てているが、なかでもよく知られているのが両国の回向院だろう。
その名の通り死者の「回向」が役割で、もともと明暦の大火(明暦3・1657年)の犠牲者供養のために建立されたが、今では大相撲興行発祥の地としての方が有名かもしれない。
強い西風で東に燃え広がった火で避難した民衆が、隅田川の岸に追いつめられ、逃げ場がなくなって多くの焼死者を出した反省から、家綱とその後見役で側近の保科正之(秀忠の末子で家綱の叔父にあたる)は、それまで江戸防備のための戦国時代的な発想で、隅田川が外堀と合体していて東側に渡れる橋が北のはずれの千住にしかなかったのを改め、火災時に対岸への避難路を確保する大きな橋を建造した。
隅田川を挟んで西は武蔵の国、東は安房になることから「両国橋」ないし「大橋」と呼ばれ、両国という地名もこれに由来する。
防備よりも交通網の発展を優先した、幕府の基本政策の大転換を象徴する事業でもあった。橋を渡った先に回向院が建立されたのをきっかけに、江戸市街は隅田川東岸の深川などへと拡張して行く。現代のいわゆる東京の「下町」だ。
明暦の大火では江戸城の天守も焼失した。家綱と保科正之は再建はせずにその予算を江戸の復興に廻すと決め、まだ戦国時代の意識が残る古参の幕臣達も説き伏せた。
両国橋の建設と同様、天守を作らないこと(そして壮大な回向院を建立したこと)もまた、もはや戦乱の時代ではないという将軍家の意思表示でもあった。
また元禄11(1698)年には綱吉の生誕50周年を期に永代橋も建造され、隅田川東岸は江戸の不可分の新興地域として発展して行く。
元をたどれば家康が本拠地を江戸に定めたのも、堅牢な都市防備が可能な鎌倉や小田原よりも、自らが作り出そうとしていた平和の時代を見据え、開かれた江戸の発展の可能性を選んだからだった。
そのひ孫になる家綱の治世は一般向けの歴史や教科書では無視されがちな時代だが、明暦の大火後の江戸復興政策は、徳川の統治が武断政治から文治政治へと転換し、絶対平和主義を確立した象徴的な決断となっただけでなく、現代の東京へとつながる大都市・江戸の歴史の大きな転換点だった。
なお回向院では、身分の分け隔てなく明暦の大火の死者を回向した起源から、あらゆる人間の慰霊・供養を受け入れる方針を今でも守っているだけでなく、動物墓地もある。
「生類憐れみの令」が決して綱吉の気まぐれや思いつき、まして「悪政」だったわけでもなく、徳川の統治方針から当然出て来た流れだったことが、これを見ても分かる。
両国橋の両岸には、延焼防止のため広い火除地が設けられた。
ここには家は建てられないが、火災の時にすぐに解体できるならという条件で仮設小屋は許されたため、すぐに見世物小屋などが集まるようになり、回向院の境内から橋をはさんだ両岸の一帯が、江戸の一大エンタテインメント・センターになった。
また公式には江戸は武州(武蔵)、隅田川東岸は房州(安房)になるので、隅田川を渡れば江戸市中で禁じられていた動物の肉を食べることなどが許されていたりしたのも、この地域を大いに発展させた理由だったらしい。
隅田川を渡ることが日常のケから、ハレの祭礼空間への移動でもあったのだろう。
また、なにしろ徳川のもたらしたものが250年の平和と安定経済成長だっただけに、江戸の人々は武家も大商人も庶民も、ちゃんと働きもしただろうが、けっこう暇でもあったのだろう、大変な娯楽好きで物見高かった。
両国の見世物小屋が相撲興行の発祥の地なのは先述の通り、芝居小屋も立ち並び、八代吉宗が東南アジアからオランダ船に輸入させたゾウがいたこともある。そんな名残として今は回向院の北にあるのが、両国国技館だ。
幕末の嘉永3(1850)年には、やはりオランダ経由で日本に初めて輸入された生きた虎も両国で展示されている。
こうも新しい物好き・珍しいものに目がないのが江戸庶民なると、この3年後のペリー来航への反応も一般に思われて来たのとはかなり違ったことが想像される。
というか、実際に庶民はむしろ興味津々だったし、それは幕府の中間官僚も同様だった。またその幕末に日本を訪れた欧米人から見ると、この一般レベルに広まった文化水準の高さが驚異でもあった。
日本では中世期にはすでに文書による記録やコミュニケーションが農村部にも浸透していたのが、家綱と、とくに綱吉が文化政策を重視して庶民層にも学問を奨励したこともあって寺子屋の数も激増、幕末時で約1万5000と推計され、識字率は半数を軽く超えていたと見られる。
当時の世界では、群を抜く教育水準の高さだ。西欧では公教育制度が始まっていたが、英国ですら識字率は3割に満たない程度だったのが江戸市中ではほとんどの者が読み書きができ、貸本屋が大人気で、最低でも「論語」くらいの漢籍の素養はなければ読みこなせない滝沢馬琴の『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』のような大長編が、庶民向けに大ベストセラーになっていたのだ。
江戸の庶民文化は、こと戦後民主主義の文脈では、幕府の厳しい弾圧や検閲に苦しめられたかのようなイメージで語られがちだが(たとえば喜多川歌麿が50日の手鎖の刑に処せられたこと)、そうした締め付けも時にはあったのは飢饉で財政危機になり治安も悪化した時の改革政策の一貫で一時的に行われた性格が強い。
たとえば罪人の墓は作ってはならない禁制はあったが、人気の大泥棒・鼠小僧次郎吉は、ちゃんと墓が回向院にある。墓石に記された俗名を「次良吉」と一字変えただけで、お咎めはなかった。
平安時代でもそうだったが、平和になったとたんに美しいもの、楽しいものに熱中し、教養を競い合うのが明治以前の日本の国民性だ。こと四季の変化が豊かな風土から、年中行事が盛りだくさんな文化を華開かせて来たのが、実際の日本史から見えて来る日本人の姿であって、およそ明治以降にそう思われて来たような「武士道」や「侍」イメージの、マッチョで男性的な国ではない。
それどころかその「武士」たちこそ、四季の花鳥を愛で風流を楽しむ教養が必須とされていたのが実際の日本史だった。
たとえば徳川家の嫁入り道具には「源氏物語」のモチーフを用いるのが慣例になっていた。「源氏物語」が武家の基礎教養になっていたからだ。
菖蒲田に互い違いの板橋を渡す「八ッ橋」が、東京に残る大名庭園だけでも小石川後楽園(水戸徳川家上屋敷)や江戸城二ノ丸庭園、明治神宮御苑(かつて加藤清正などの大名の下屋敷があった)などなどに見られるのも、平安貴族でプレイボーイ歌人の在原業平の放浪を描く「伊勢物語」も基礎教養になっていたからだ。
こうした洗練された戯れと遊びの文化の精神的な豊かさがもっぱら貴族の専有物だった平安朝とは異なり、中世後期・室町時代にはすでに文字コミュニケーションが庶民レベルで普及していた日本では、江戸時代に入ると文化的に高いレベルの教養を盛り込んだ娯楽が、まず財力をつけた商人から、ほどなく庶民層にも浸透して行った。
そんな文化教養趣味が爛熟かつ庶民化もしていた巨大都市・江戸で、上野は春なら桜の名所、夏には不忍池に蓮が咲き、秋には紅葉が境内を彩り、冬には雪景色を楽しむ場でもあったことが、数々の風景浮世絵からも分かる。
不忍池自体が琵琶湖の見立てだったのはすでに述べた通りだが、秋には落雁、つまり渡り鳥の飛来が風物詩になったのは、「江戸八景」ないし「東都八景」のひとつとしてだ。
中国大陸で10世紀に北宋で名勝とされた洞庭湖の瀟江、湘江近辺の瀟湘八景(瀟湘夜雨、平沙落雁、煙寺晩鐘、山市晴嵐、江天暮雪、漁村夕照、洞庭秋月、遠浦帰帆)が、南宋の文人画の強い影響下にあった日本の禅の山水画に取り入れられ、室町時代から江戸時代初期には狩野派などの定番の画題にもなっていた。
その瀟湘八景に当てはまるものを日本国内に見立てたのが、たとえば近江八景(琵琶湖周辺・現在の滋賀県)だ。
家康がいわばなにもなかったところに新たに江戸を開くと、上方への憧れもあってこの「八景」を当てはめたのが江戸八景や東都八景、江戸近郊八景、今の神奈川県横浜市内の金沢八景などだ。
江戸百景や東都百景では、東叡山界隈では不忍池が「落雁」、夕暮れどきの鐘の響きを意味する「晩鐘」には寛永寺の時の鐘が当てられることが多い。
現代の上野公園で雪景色を見ることはめったにない。
いかに江戸時代には今よりも平均気温は低めだったとはいえ、江戸が豪雪地帯であったわけもあるまいが、それでも上野の雪景色を描いた風景浮世絵が多いのは、江戸時代の人々にとってここが珍しい雪景色を楽しむ場でもあったからだろう。
近代日本最初の都市型公園となった上野には、今でも博物館や美術館、それに動物園もあるし、最近では東京都が「ヘヴン・アーティスト」と呼んで公認推奨している大道芸も盛んだ。
その意味では、上野の山が江戸時代から保って来た、エキゾチックでもの見高い日本人を引きつける魅惑の祭礼空間としての役割は、確かに継承されている。
だがよく見れば台東区や東京都が、随所に歴史文化遺産の解説の看板を建ててくれてはいるものの、注意して探して気付いて読まない限り、その場その場の歴史的な意味はまったく意識されないだろう。
無理もない。江戸時代にさかのぼる上野の繁栄の歴史的な背景が、ほとんど知られていないのだ。
その宗教的な意味合いも、文化的なDNAの潜在意識レベルで上野が今も文化の香りもする娯楽の場、人が集まり珍しいものを見て楽しむ所であり続けていることくらいでしか残っていない。
現代ではパンダこそが上野に祀られたカミなのかも知れない。ちなみに明治時代に人気を集めたのはキリンとゾウだった。動物のキリンがキリンと呼ばれるようになった(和名が「キリン」になった)のは、英語で giraffe と呼ばれていた珍獣をぜひとも輸入して来園者を増やす切り札にしたいと思った上野動物園が、予算を得るためにこれが霊獣の「麒麟」の本物だと言って、いわば政府を「騙した」からだったりする。
麒麟も象も、龍や獅子、狛犬と同様、仏教とともにその姿や概念が中国から伝わった霊獣で、実物は見られなくとも広く親しまれて来たものだった。
上野といえば花見と動物園で、徳川の菩提寺の寛永寺があったという知識くらいはふと思い出すことがあったとしても、根本中堂がどこにあったのかなどは考えもしないのも、徳川の築いた都市・江戸という記憶がほとんどなくなってしまった現代の東京では、当たり前ではある。
東京国立博物館の庭園は、春の桜と秋の紅葉の季節に公開され、申し込めば茶室の利用も出来る。
なによりも、慶應4(1868)年の戊辰戦争で上野が幕府軍と新政府軍の激戦で焼け野原になっていたこと自体が、日本人の集団的な記憶からは抹消されている。
その理由のひとつは、分かり切ったことだ。近現代の、我々の歴史観が、勝者・明治維新政府の正当化のために書き換えられた歴史だからだ。
新政府軍に焼き払われたあとの寛永寺は廃寺も取りざたされ、復興がやっと認められたのは明治12年になってだった。川越の喜多院は天海が住職を務めたこともあり、また徳川との所縁も深く(喜多院には家光が寄進した江戸城本丸御殿の一部が移築されているし、仙波東照宮もある)、その本地堂をもらい受けて移築改築して新たな根本中堂とした。
とはいえ再建が許された場所も、あたかもなるべく人目につかないようにするためか、子院の大慈院だった敷地だ。
上野をどうするのか、明治政府内ではさまざまな案が検討され、軍の練兵場にするとか、病院にする計画もあった。
寛永寺の焼け野原を都市公園とすることを提案したのは、その病院計画を任されるはずだった御雇い外国人のオランダ人医師だった。
西洋人に言われたことには弱いのが、重度の西洋コンプレックスに苛まれていた明治政府だ。明治5年に公園整備が始まったが、現代につながる上野公園のにぎわいのきっかけになったのは、征韓論で政府を去った西郷が西南戦争を起こしたのと同じ明治10(1877)年に、内務卿の大久保利通が上野で内国勧業博覧会を開かせたことだった。
こうなると、なぜパンダ以前は西郷さんが上野のシンボルだったのか、ますます分からなくなる。大久保だったらまだ納得も行くのだが。
だが大久保の目指したのが伝統産業を基盤に大量生産技術を導入した民生・軽工業中心の産業革命の、輸出立国による日本の近代化だったことを考えると、これも勝者の政治の都合による歴史の抹消・隠蔽の一例として理解できる。
大久保は第一回博覧会(と西南戦争)の翌年に不平士族に暗殺され、元々その先見性ゆえの独断専行に長州閥からの反発が大きかった明治政府は、大久保がマスタープランを作った民生主導・軽工業基盤の平和的で現実主義的な近代化から、軍事力強化の「富国強兵」を睨んだ重工業国家化へと、政策を大きく変えることになる。
19世紀末の重工業先進国といえば、原料資源と製品の市場を求めて必然的に植民地侵略に向かうものだ。大久保が暗殺されたあとの政策転換で日本が結局は辿ってしまった道の行き着いた果てについては、今さら言うまでもあるまい。資源と市場を求めた植民地侵略路線は日清日露の両戦争に勝利で決定的になり、征韓論つまり朝鮮半島支配ですら飽き足らず、石炭や鉄鉱資源を求めて満州に進出、それを提案して政府を追われたはずの西郷の唱えた対外進出・大陸侵略の野望を鮮明にしてゆく。寛永寺が大仏を供出させられ、将軍家霊廟や不忍池の辯天堂が焼失したのも、いわばその必然的な結果だった。
歴史を振り返れば、豊臣政権もまた短命に終わったのは、朝鮮出兵(…と言うか秀吉は明まで征服すると言っていた)の失敗が大きい。この大暴挙があったからこそ豊臣家は人心を失い、家康が台頭して絶対平和主義の、民衆を大事にして平和的な手段で国を富ませる幕府体制を敷くことになった。
近代日本の政府が、徳川が江戸庶民にはやさしい政権でそれなりに人気があったことも、大久保が日本の近代化の別のあり方を示そうとしていたことも、隠そう、国民に忘れさせようとしたのも、自然と言えば自然な流れではあった。
だからこそ、明治以降の近代日本は、単に徳川幕府を倒して政権を得たからだけでなく、国家とその統治理念の上でも、徳川250年の平和を否定しなければならず、徳川の聖地だった上野をそのまま残すわけにはいかなかったのだろう。
そんな何重もの国民に忘れさせたい歴史を封じ込めるために必要だった神話化の効果を発揮し得るのは、西南戦争で逆賊として死にながらも根強い人気を誇り、相当に暴力的でこっそり対外侵略路線の元祖であったことはなぜか誰も気にせず、江戸城を無血開城させた徳の高い英雄(ただし上野は焼け野原にした)と言われた西郷だったのだろう。
もっとも、西郷隆盛と幕府側の勝海舟の英断で江戸が戦火から救われたというのも、たぶんに明治以降に歪められた見方だ。
孝明天皇と信頼関係にあった十五代慶喜は、その天皇が急死して少年の明治天皇を擁する西郷や大久保利通、岩倉具視らが朝廷を牛耳り混乱する政局を打開するために大政奉還を宣言、譜代・外様の違いを問わず大物の大名が重臣として参加する合議制の公武合体の新体制に平和裏に移行することを狙っていた。これが実現されていたら、薩長の急進的な武力倒幕派の下級武士たちは、政治権力の中心から弾き出されていただろう。
そこで出世の見込みが閉ざされる下級武士たちは、少年の明治天皇に王政復古の大号令と、慶喜を朝敵として征伐する勅令を出させたのだ。
鳥羽伏見の戦いで天皇家を表す錦の御旗が掲げられたことを知った慶喜は、大坂城の攻防戦で重要な経済都市だった大坂が戦場になり、さらには内戦が全国に拡大するのを避けるため、即座に大坂から海路で江戸に戻った。
江戸城の籠城戦を避けるため、慶喜は主戦派の重臣を解任すると寛永寺に直行、大慈院の一隅(現在の根本中堂の裏)の葵の間に謹慎蟄居して「朝敵」としての処罰に甘んじて受け入れる姿勢を鮮明にした。普通なら、これだけで江戸城総攻撃などなくなっていたはずだ。
だが新政府軍がそんな素振りもまったく見せないまま東に進撃するなか、江戸城の主となったのは薩摩藩・島津家の養女として13代家定に嫁いでいた篤姫(天璋院)と、孝明天皇の妹で14代家茂に嫁いでいた和宮だった。
和宮は先の天皇の妹としての人脈を活かして朝廷や公家に働きかけ(東征軍の名目上の総司令官は和宮の元の許嫁だった有栖川宮)、天璋院は新政府軍の事実上の総司令官で武力倒幕論の急先鋒だった西郷が、自分の輿入れの際の随行の1人だったことに目を付けた。
和宮が江戸の住民を巻き込んだ戦闘を避けるよう訴えた書状が宮内庁書陵部に保存されており、天璋院が西郷の出世を褒めてうまく持ち上げつつ、戦争回避のみごとな説得を展開した長文の書状も近年発見されている。
こうした徳川家の妻たちが活躍してこその江戸無血開城だったことが忘れられ、西郷隆盛と勝海舟という男たちの功績が神話化されて来たのも、明治がどういう時代だったのかを考えさせられずにはいられない。
とはいえ江戸全体が戦場になることこそ避けられたものの、彰義隊が上野東叡山に立て籠ったのをいいことに、新政府軍はそこに火を放ち、徳川がなんだかんだで庶民に親しまれて来たことの精神的な中枢の寛永寺を破壊しただけではない。その暴力的なやり方は、東北の、徳川親藩や恩顧の諸藩への攻撃ではさらに徹底された。
戊辰戦争の惨禍の以前にも、京都では長州藩が元治元(1664)年の禁門の変(蛤御門の変)を起こす前の景気付け(?)で嵐山の天龍寺などを焼き討ちし、この武力クーデタ未遂が松平容保と西郷の指揮する薩摩軍に鎮圧されて敗走する際に市街地に放火、甚大な被害を出している。今日の京都市の中心市街に明治以前の建物が以外と少なかったり、老舗といっても明治以降創業の店が案外と多いのはこの長州の放火のせいだ。
禁門の変を鎮圧したのが京都守護職で会津藩主の松平容保だったので、新政府軍には会津への逆恨みもあったのかも知れない。また上野戦争で美しいものを破壊する快感に「味をしめた」こともあり、会津藩への攻撃はとりわけ凄まじいものだった。
だがこの会津戦争のあまりものひどさも、福島県以外ではほとんど知られていない。
会津松平家は、四代家綱の代に徳川の治世が戦国時代の雰囲気が残る武断統治から、平和と武家以外の町民・農民の安定した生活を守ることを最優先する文治政治に転換する方針確定に決定的な役割を果たした、あの保科正之の家系である。
首だけが残った上野大仏が「これ以上は落ちない」というシャレで「合格大仏」になっていることを、寛永寺の関係者はより深い意味を込めて語る。
「“敵” にこれ以上はないというほどひどく扱われて来た」というのは、その “敵” によって日本そのものが存亡の危機に陥り、寛永寺が空襲で将軍家霊廟と辯天堂を失っただけでない。僧侶達は周囲の上野がほとんど焼け野原になり多くの死者が出たことも、傍観するしかなかった。
上野がもうひとつ、新政府にとって極めて都合の悪い場だった理由は、今でも上野東照宮つまり神社と五重塔つまり仏閣の一部であるはずのものの位置関係に、端的に見て取れる。
五重塔は東照宮の参道横に建っているが、その境内と動物園の敷地が、鉄の柵で強引に区切られている。元はひとつの境内で、「旧寛永寺五重塔」と呼ばれているのは本来は東照宮の仏塔だった。
これも近代以降に日本人の記憶から抹消された、隠蔽された過去のひとつだ。神仏にさしたる区別をつけないのが本来の伝統で、今日「神道」と呼ばれる宗教はなく、仏教と一体化していた。
神社に仏塔があるのは普通のことだったし、神宮寺や経蔵などの仏堂も建てられ、むしろ神社と寺がワンセットなのが、日本の本来の信仰の形だった。
逆に寺院にカミを祀る社があるのも当たり前で、上野の東照宮は寛永寺の一部だったし現に鳥居にも「東叡山」の東照宮と刻印されている。また惣門を入った右手の高台には総鎮守として山王権現社があった。逆に仏教の神であっても不忍池辯財天も江戸時代には鳥居があった。
ざっと例を挙げるだけでも東大寺の手向山八幡宮、高野山の四所明神、三井寺の十八明神社や三尾神社、日光山の二荒山神社などなど、ごく当たり前にカミを祀る社が併設されていたのが、日本の信仰文化の本来の姿だ。
古代から、寺院の立地に選ばれたのは、仏教伝来以前からの聖地・霊山だった場所だったのだろう。東大寺にしてもすぐ隣接して春日大社の奥ノ院である聖なる山の御笠山があるが、手向山八幡宮は東大寺の境内の地霊を抑える鎮守として天皇家の祖先神とされる八幡大菩薩(元は九州・宇佐の農耕神だったが応神天皇の神格化とされた)を迎えて祀ったものだ。
逆の例が高野山の麓にある四所明神社、またの名を丹生都比売神社で、高野山の女神の丹生都比売大神(ニウツヒメノオオカミ)が男神の高野御子大神(タカノミコノオオカミ)に勧められ、空海を歓迎し真言宗の修行道場を造ることを許したとされる。さらに敦賀の氣比神社から大食津比売大神(オオゲツヒメノオオカミ)と安芸の宮島から厳島神社の3姉妹の祭神のうち市杵島比売大神 (イチキシマヒメノオオカミ)の二柱の女神が迎えられ、この四柱が高野山の守護神となった。
寺院の立地に選ばれた場所の多くは、仏教伝来以前からの霊山だったのだろう。日本最古の仏教寺院のひとつ四天王寺(大阪市)の立地は「日本書紀」によれば「荒陵」、つまり古墳だったと思われる。ここは聖徳太子(厩戸豊聡耳王・厩戸王)と蘇我馬子に滅ぼされた物部守屋に関係する霊的な場所だった可能性があり(四天王寺はこの戦傷祈願で創建された)、元は物部氏の屋敷跡に建てられたという説もあるが、境内にはその守屋と弓削小連、中臣勝海(いずれも仏教伝来以前のカミ信仰の祭祀に関わっていた豪族)を祀った祠がある。
元々そこにいた地霊のカミガミへの対応として、四天王寺では怨霊をカミとして祀ることでなだめ、東大寺の場合には抑えるための鎮守として天皇家の祖先神が迎えられ、高野山の場合は元からの地霊・カミがそのまま寺院の守り神になったわけだ。
寛永寺の僧侶は今でも家康を「権現さま」と呼ぶ。輪王寺と二荒山神社が一体化した日光山は日光三所権現で、東照宮はその霊山・聖地に建てられたのだし、神仏分離令で改称されるまでは根津神社は「根津権現」で、浅草神社は「三社権現」、奈良の春日大社なら「春日権現」ないし「春日大明神」が本来の名称だ。いずれも仏教的な世界観に組み込まれた位置づけでの日本のカミガミへの信仰なのだ。
日本人本来の意識のなかでは、「神仏習合」どころでは済まないどころか、むしろこの言い方も発想が逆なのかも知れない。神仏は元から漠然と同じもので、仏教の伝来でカミガミへの信仰がその一部に取り込まれて来たのが、日本の本来の信仰の形だったのではないか?
そこを仏と神を無理矢理に分化して「神道」なる事実上新たな宗教を作ろうとしたのが、明治維新政府の断行した神仏分離令と、仏教排斥の廃仏毀釈運動だった。
天皇の祖先神になる天照大神(アマテラス、伊勢神宮)を最高神とする「国家神道」という、いわば明治起源の新しい宗教の誕生以前には、天皇家もずっと仏教に帰依し、日本の仏教史のなかで大きな役割を果たして来た。多くの天皇は退位後に出家して法皇となり、宇多法皇の仁和寺、嵯峨天皇の離宮が寺になった大覚寺、亀山法皇創建の南禅寺のように、天皇・上皇が作った寺院も多い。
寛永寺と日光山輪王寺が門跡寺院だった、つまり皇族がそのトップを務めて来たことも、繰り返し述べて来た通りだ。
江戸では他にも西本願寺系の築地本願寺、東本願寺系の浅草本願寺が築地門跡、浅草門跡だった。
飛鳥時代の厩戸豊聡耳王(聖徳太子・厩戸王)は、明治の皇国史観以前は仏教の重要な信仰対象だった。斑鳩・法隆寺の東院伽藍(太子の屋敷があった斑鳩宮跡地)夢殿の救世観音像や、法隆寺のすぐそばにある中宮寺門跡の菩薩半跏思惟像は、共に太子の生前の姿を写したものだと伝承されている。
半跏思惟像は通常は弥勒菩薩を表すが、中宮寺では如意輪観音として伝えられて来ているのも、太子が観音菩薩の生まれ変わりとみなされて来たからだ。今日でも四天王寺では、聖徳太子像を「本地・如意輪観音」として祀っていし、太子は天台宗や浄土真宗などでも信仰対象だ。こうした太子信仰はその没後まもなくか、息子の山背大兄王が蘇我氏に滅ぼされてまもなくにまで遡るのだろう。
公的な歴史で厩戸王が聖徳太子として政治的に神話化されるのは「日本書紀」の記述に基づくが、その文面を見る限りでは実際の政治的な役割ははっきりしない。いかにも中国儒教的な十七条憲法は飛鳥時代の文章とは考えにくく「日本書紀」成立期のものだろうし、それ以外では推古帝に法華経の解説を講義したことくらいしか、とくに太子の業績として記述されたものはなく、遣隋使の派遣などの政治決定は推古天皇のやったことだ。
おそらく太子が本当に果たした歴史上の役割は、推古朝における仏教の導入普及に関することで、没後まもなく仏教的な信仰対象になっていたのを、「日本書紀」が踏襲して政治にも関わった(「摂政」)ことにしたのではないか。
なお中宮寺も門跡寺院になり、ながらく内親王(皇女)が住職を務める尼寺だった。
平安時代に密教が導入されると、日本のカミガミは理論的にもその体系化された世界観に組み込まれ、「本地垂迹」つまり如来や菩薩が日本の衆生の救済のために現れた姿、その「権現」とみなす教義化がなされる。
今日でもチベット密教の転生仏・活仏信仰(たとえば今のダライ・ラマはダライ・ラマとして14回目の転生、観音菩薩の生まれ変わりとしては32世になる)がよく知られているが、同じような考え方で仏が日本のために聖徳太子になったり、カミとして衆生救済のため現世に現れる、その日本限定のカミとしての姿が「権現」で、その本来の仏を本地仏と言う。
たとえば日光山(三所権現)は男体山・女峯山・太郎山の三山がそれぞれ千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の権現とされ、だから男体山の別名「二荒山(ふたらさん)」は観音浄土の普陀落山(ふだらくさん)が訛ったものだという説もある。また「日光」も一説には「二荒」を「ニコウ」と音読みしたのが語源なのだそうだ。
あるいは春日権現社(現 春日大社)なら本殿第一殿の武甕槌命(タケミカヅチ)は釈迦如来ないし不空羂索観音を本地仏とし、第二殿の経津主命(フツヌシ)は薬師如来、第三殿の天児屋根命(アメノコヤネ)は地蔵菩薩、第四殿の女神、比売神(ヒメガミ)は十一面観音で吉祥天の姿をとることもあるとされ、また若宮の天押雲根命(アメノオシクモネ)は文殊菩薩と同一視されて来た。
「権現造り」の構造は、こうした本地垂迹説の「権現」の考え方を反映したものだ。
カミがそこにいるとされる本殿を直接拝むのではなく、その前に拝殿があり、本殿に宿るカミが拝殿によって表象される。
権現造りの完成形では、屋根も壁も床もある幣殿(相の間)でつながれることで、分離されると同時に一体にもなっている。
神仏分離令以前には、カミを祀る社に本地仏、つまりそのカミの本来の姿とされる仏像があるのも普通だったし、優れた仏像も多かった。
それが神仏分離と廃仏毀釈運動で真っ先に標的にされ、多くの仏像が破壊されたり、海外に流出している。今日、美術館・博物館の収蔵品になっている仏像の多くが神社の本地仏だったり、神社内の仏殿(神宮寺)が破壊され、安置される場所がなくなったものだ。
上野東照宮にもかつては薬師堂があり、薬師瑠璃光如来像が本尊として祀られていた。
神仏分離令でこの薬師堂は取り壊され、薬師瑠璃光如来立像と脇侍の日光・月光二菩薩も東照宮から追い出されて寛永寺が引き取り、部材の一部は新しい根本中堂の増改築に用いられた。本地仏の三尊は昭和42年以降、かつて大仏と大仏殿のあった丘の上のインド風の仏塔(大仏パゴダ)に安置されている。
高野山の奥ノ院にある家康の霊廟(安国院殿)にも薬師堂が付随しており、また日光の東照宮では薬師堂は破壊されなかった。全国の神社で本地堂が残されているのは極めて珍しい(国の重要文化財)。
むろん東照宮の一部として造られたものだが、現在ではその帰属が輪王寺と東照宮のあいだで曖昧なままで、東照宮境内にあるが輪王寺の僧が管理している。
上野の大仏殿があった丘の裏手、上野精養軒のそばには今も寛永寺の鐘楼があり、「時の鐘」が午前と午後の6時と正午に時を告げている。かつて江戸市中の標準時刻を報せていた鐘だ。
こうして出来上がった近現代の「神道」で、我々が伝統だと思っている礼拝形式は、ほとんどが一部の寺社の風習を明治政府が全国的な統一規則にしたか、明治時代に新たに作り出されたものだ。天皇が行う宮中祭祀でさえ、ほとんどが明治以降に「復元」というか要は新しく作ったものだし、神社に神主や白小袖に赤袴の巫女さんがいるのも、江戸時代までは仏教僧の別当がいた(そもそもあの衣装は一定の身分格式以上でないと着られなかった)。
寛永寺のような門跡寺院の宮門跡・法親王も廃止され、天皇家の菩提寺の泉涌寺は多くの天皇の墓所でもあるためさすがにそのまま残されたものの、その重要性からすれば意外なほど、未だ知名度は低い。
かつて大きな寺院には必ず、時に複数あった鎮守の社も多くが移転させられたり、廃止されたりした。
神社内の神宮寺や仏塔や宝塔は各地で撤去させられ、上野東照宮の薬師三尊のような本地仏は居場所を失った。仏塔である五重塔と本地堂の薬師堂が残っている日光東照宮は極めて希有な例だ。
たとえば鎌倉の鶴岡八幡宮では、明治に仏塔・宝塔などの仏閣様式の建造物をすべて取り壊し排除する境内の大改造が強行され、「八幡大菩薩」だった神号も「八幡神」に変えられてしまった。戦のカミとして神格化された第十五代応神天皇は菩薩の称号で呼ばれ、神像も仏僧の姿(僧形八幡)が普通だった。
本来は江戸から全国に広がる街道口にあった江戸六地蔵のうち、千葉街道に通じる深川の永代寺にあった銅造の大きな地蔵尊が今では街道口となんの関係もない寛永寺塔頭の浄名院(へちま寺)にあるのも、永代寺が富岡八幡宮に併設された寺院で、神仏分離令に基づき廃寺となったからだ。
八幡大菩薩は天皇(十五代応神帝)の神格化とみなされただけに、政府が天皇中心の国家神道という新しい国家宗教を作ろうとする中で、仏教要素の排除がとくに徹底されたのかもしれない。
明治政府はさらに、日露戦争後には全国で神社の合祀と廃止も命じた。自然のカミを祀った社は人格のある(古事記・日本書紀に書かれた)カミの神社に統合され、鎮守の森が伐採されて農地として売り払われた。西洋の教会は木で囲まれたりはしていないではないか、ということだったらしい。
日本のカミ信仰の起源は言うまでもなく、自然神信仰(アニミズム)であり、山や川、森や林や巨岩こそがカミの宿る場であるのが本来なのに、あまりに馬鹿げている。
現代日本人が無邪気に「伝統」と思っている「神道」は、近代にかなりいびつに西洋の影響下に変質させられたものだ。
神仏分離令と廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治初期に、奈良で藤原氏の氏神の春日大社とワンセットの菩提寺だった興福寺の危機はよく知られている。
寺領どころか境内地も没収され、多くの堂舎や寺宝が失われた。今の奈良公園はほとんどが興福寺の境内で、子院や僧坊が並んでいた場所だ。
一時は50銭で売りに出された五重塔など、現代ではほとんどが国宝指定されている多くの文化財は、いずれも奇跡的に破壊を逃れたものなのだ。
アメリカのメトロポリタン美術館やボストン美術館などでは、平安朝の天台宗や浄土信仰の須弥壇がまるごと収蔵・展示されていて驚かされるが、別に略奪されたのではない。日本文化を愛したアメリカの実業家や富豪が、神仏分離と廃仏毀釈で明治政府が破壊しようとしていた日本の文化財を保護するため購入し、持ち帰ったものだ。
もう一点、これも通俗日本史観では見落とされがちだが、僧侶とくに禅僧は、かつての日本で最高クラスの知識人であり、政治家としての役割も絶大だった。
とくに禅僧は中国の文化や文献、制度に詳しく、武士と強く結びついてその政治コンサルタントになり、外交官としても活躍し、教師・指導者になった。戦国武将の多くが身近に禅僧を招き、政治顧問や子弟の教育を頼むのが当たり前だった。漢籍に通じた禅僧は孫子の「兵法」なども教示できたし、現に今川義元の軍師・太原雪斎は臨済宗の僧侶だった。
徳川の幕府による250年に及んだ平和統治理念の確立に功績が大きかったのが天台宗の天海であり、法体系の制度設計とその運用の基本論理を作り上げたのは臨済宗・京都五山別格筆頭の南禅寺の以心崇伝(金地院崇伝 1569-1633)だ。
念のため繰り返しておくが、徳川家(松平家)の宗派は浄土宗だ。家康・秀忠・家光の三代を支えたブレーンの崇伝は臨済宗、天海は天台宗で寛永寺は天台寺院である。
崇伝は「武家諸法度」などの幕府の様々な法令を執筆、元々亀山上皇の開いた南禅寺だけに朝廷や天皇ともパイプを持ち、家光の代まで幕府を支え「黒衣の宰相」として恐れられるほどの権勢を奮い、禅の高僧として中国語に堪能で国際情勢にも明るかったことから外交顧問としても活躍した。
崇伝の協力で、家康は対馬の宗家を仲介役に、秀吉の朝鮮出兵で国交が断絶していた李氏朝鮮との正式国交を回復し、明や清と正式国交の冊封関係は取られなかったが貿易は盛んに行われ、タイのアユタヤ朝などの東南アジア諸国との交易も栄えた。
日朝の友好関係は明治新政府に幕府が倒されたことを不道徳とみなした李朝が断交するまで続き、12回に渡って国使の朝鮮通信使が江戸を訪れ、毎回その道中で大人気になっている。
以心崇伝が起草と制定に関わった武家諸法度では、諸藩諸大名が貿易外交を直接行うことが禁じられ、外国との付き合いはすべて幕府の許可を得て、幕府を通じて行われることになった。いわゆる鎖国令(ただしこの名称は後世のもの)と吉支丹(切支丹)禁止令も崇伝が執筆している。この外交・通商政策が苛烈な宗教弾圧を含み、悲惨な犠牲も少なくなかったのも確かだが、一方では武器、特に国産が不可能な火薬(硝石は日本では産出せず、輸入に頼るしかなかった)が諸大名に渡らないようにすることで、内乱を防ぐ手段でもあった。
対ヨーロッパ貿易は確かにオランダ一国に限定されたが、「鎖国」という言葉のイメージとはかなり反して、オランダを通して輸出された日本の陶磁器や漆器はヨーロッパで王侯貴族や上層ブルジョワを中心に大流行になっている。
僧侶や宗教との関わりでいえば、西洋近代を模倣し西洋に認められる国になろうと懸命になっていた明治政府にとって、もっと受け入れ難かったであろう歴史の痕跡も、上野にはある。
上野が江戸城の鬼門の方角にあたり、京都と比叡山の関係に見立てた鬼門封じになっているのは何度も触れて来た通りだが、明暦の大火後に神田明神が移転した現在の高台にある境内も、やはり千代田の城から見てやはり鬼門だ。つまり江戸総鎮守と東叡山で二重の鬼門封じになっているのだが、こうした中国由来の方位学(今で言ういわゆる風水)に基づいた都市設計は、西洋起源の近現代の科学主義では「迷信」かも知れないが、元はといえば古代中国の天文学だ。
開国と明治維新以前の日本人にとって(いや実はそれ以降も今に至るまでずっと)、方位の吉兆などを考えることは、わざわざ信仰というまでもないような、むしろ生活の一部だった
だいたい、今でも日本人は、占いやお守り、縁起かつぎが大好きな民族だ。
そう言ってしまうとますます、鎖国政策もあったことだし、江戸時代は遅れた、迷信深い時代だったと思われるかも知れないが、これも多分に明治以降の偏見だ。
実際には、こと享保の改革で蘭学(オランダ経由で輸入された西洋の学問)の研究が公式に解禁されて以降、西洋の先端知識や技術は出島を通して積極的に輸入されている。
学問の奨励も初代家康に遡るのだが、西洋渡来の学門の研究が解禁されると、たちまち江戸では解剖ブームが起こっている。
それも医者が飛びついただけでない。例えば相当に精確な人体解剖人形が、両国や浅草の見世物小屋で人気を集めた。
後にはシーボルトの鳴滝塾も多くの門人を集め、日本の医学は江戸時代の鎖国のあいだにも飛躍的な発展を見せている。たとえば子宮のなかの胎児が頭を下にしていることが発見されたのは江戸時代の日本でだったし、幕末には華岡青洲による世界初の全身麻酔の外科手術も行われた。
これまでさんざん紹介して来た風景浮世絵は開国で西洋に輸出され、その遠近法の自由自在な使い方が西洋絵画史、とくに印象派の誕生に強い衝撃を与えることになるのだが、元をたどれば空間遠近法も出島経由で輸入された西洋絵画やその理論書、それに輸入品のレンズを使った光学玩具の「眼鏡絵」から江戸時代の絵師が学んだものだ。
「写生」を日本美術で確立した円山応挙は、最初はその眼鏡絵を描く職人だった。また伊藤若冲の作品にも、オランダから出島経由で輸入された洋書の銅版画との類似性が指摘されている。
蘭学者の司馬江漢は輸入された西洋の絵画理論書を元に本格的な空間遠近法を研究し、油絵の具でも絵を描いた他、「鈴木春重」の名義で浮世絵版画も手がけ、空間遠近法を理屈通りに取り入れた浮世絵版画は「浮き絵」と呼ばれ18世紀後半にブームになっている。
また多色刷りの錦絵の最盛期に喜ばれた深い藍色は、天然の植物由来の藍の染料では出せない。ベロ藍(「ベルリン」の訛りか?)と呼ばれる、オランダ経由で輸入されたドイツ製の化学染料を使った色だ。
浅草には天球儀が設置された天文台があったことも、北斎が描いている。
こうした近現代科学の先端知識が、現代では迷信とされる縁起担ぎの文化と衝突も矛盾もなく受容されていたのが、江戸時代の日本だった。
徳川が上野を江戸の鬼門封じとして「聖地」に整備したのを、うかつに「迷信」だとは片付けられないことはまだある。
明暦の大火の反省から、それまで東からの侵入を防ぐため橋がほとんどなかった隅田川に、火災時の避難路として両国橋と永代橋が建造されて両岸が火除地になったことについては先に述べた通りだが、東叡山につらなる表参道を下谷広小路(現在の上野広小路)という幅の広い道路として幕府が整備したのも、延焼防止策だった。
これも一般的な(通俗的な)歴史観では無視されがちな幕末の大事件に、安政2(1855)年の江戸の安政の大地震がある。実はマグニチュードでは関東大震災より大きな直下型地震だったと推定されている。
関東大震災後、夏目漱石門下の随筆家・俳人で物理学者の寺田寅彦が、震災の被害の研究に熱中するうちに、近代的な消防設備などなかった安政の大地震の方が被害が遥かに小さかったこと、また関東大震災でも明治以降も広小路などの江戸時代の街割りが維持されていたところは延焼が食い止められていたことに気付く(寺田寅彦『日本人の自然観』)。
対照的に、両国橋の両岸の火除地は再開発で建物が密集していて、関東大震災のなかでも最もひどい火災による被害を出している。
上野にはこうした徳川の痕跡だけでなく、もっと正体の分からない、日本史をさらに遡る未知の、語られざる、近代以降に忘れられた「伝統」の古層もある。
たとえば上野東照宮には樹齢600年以上という大楠が神木として祀られている。東照宮の創建より200年以上遡るはずだが、創建時にすでに樹齢200年の大木があったから神木にしたのか、神木があったからそこに家康を祀ったのかは、判然としない。
ちなみにその奥、本殿の脇には、かつて江戸城大奥に取り憑いて悪さをしたとされる狸を祀る祠もある。
不忍池に面した斜面には現在二つの神社があるが、そのひとつの起源は寛永寺や東照宮よりも遥かに古い。
五條天神社、別名・下谷天満宮。ただし天神ないし天満宮という呼び名で医学・薬学の神様になったのは、寛永18(1641)年に菅原道真を祀る相殿が追加されてからだ。
元々の祭神は出雲の大己貴命(オオナムチノミコト、大国主【オオクニヌシ】、神仏習合では大黒天と同一視)と少彦名命(スクナビコナノミコト、同じく恵比寿天)で、創建は社殿によれば神話時代に遡り、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際に戦勝を祈って社を作ったのは、寛永寺の開山後は山道を挟んで大仏のはす向かいになる擂鉢山だったらしい。
清水観音堂も最初は擂鉢山に建てられていた。その建立時か、清水堂が根本中堂の造営に併せて移転したとき、五條天神も寛永寺の門前に移設され、大正時代までは現在のアメ横商店街の入り口あたりにあった(よって旧町名が五條町、現在は上野4丁目)。
大正時代に五條天神が現在地に移転したので、今ではそれと併設されたかっこうになっている忍岡稲荷、またの名を穴稲荷、現在の呼称では花園稲荷の起源は、さらに謎めいている。
天海の弟子・晃海が夢のお告げを受けて洞窟のなかに古い稲荷社の痕跡を見つけて復興したので穴稲荷とも呼ばれるが、その夢枕に立ったのが寛永寺の建設で上野の山林を追われた狐の怨霊だったとも言われているのだ。
稲荷社の痕跡を見つけた洞窟は元は狐の巣穴で、穴稲荷の建立は殺された狐の霊魂を慰めるためという説もある。
現在の、外にある社殿は明治6年に民間有志の手で再興されたものだ。
徳川の以前から上野にあった聖地の痕跡の極めつけとして、かつての寛永寺の参道(今のさくら通り)を挟んで大仏の向かい側、元々古代から五條天神があって、清水観音堂が最初に建てられた摺鉢山は、実は古墳だ。
つまり五条天神社は古代の未知の王か有力者の墓に祀られた社だった。近現代の考古学調査では全長70m〜100mと推計され、出土した埴輪片から5世紀から6世紀の前方後円墳のようだが、以前から切り崩されて石室などが失われていて被葬者などの詳細は分からない。
ヤマトタケルノミコトがその古墳の上に社を築いたということは、もしかして東征で滅ぼした王権の怨霊を鎮撫するためだったのだろうか? なぜそこに祀られたのが、「古事記」の国譲りの神話によればヤマト王権に併合された側の出雲の神々だったのだろうか?あるいはヤマトタケルノミコトがここに社を祀ったという伝承自体が、古墳が造られたという意味なのだろうか?
上野はただ、千代田の城の鬼門封じとして徳川の聖地が設けられただけなのだろうか?
家康の江戸開府の遥か以前に遡る、古代からなんらかの宗教的というか霊的な意味を持った場所だった痕跡がそこかしこに見えるが、正体はさっぱり分からない。そういえば東京芸術大学の敷地も、掘れば古代の遺跡らしき断片がいろいろ出て来るらしい。
なお増上寺の旧境内の芝公園内からも縄文時代の丸山貝塚が発見され、丘は5世紀頃の建造と見られる丸山古墳だった。
台徳院殿の奥ノ院(二代秀忠の墓所)と安国院殿(現・芝東照宮)との間に位置するこの前方後円墳は全長106mと推定されるが、やはり江戸時代以前に後円墳丘が切り崩されていたらしく詳細は分からない。
金龍山浅草寺の過去と来歴も、さらに謎めいている。
伝承では推古天皇36(628)年の創建、つまり聖徳太子の時代にまで遡り、漁師の網に黄金の観音像がかかり、この地方の豪族が自らの屋敷を寺にして祀ったのが起源とされる。
明治時代に神仏分離令に基づき三社権現(現在の浅草神社)が浅草寺と分離され、本堂裏にあった稲荷社も撤去されたのだが、この工事の際に古墳の石棺が出土した。
今は伝法院庭園に安置されている。つまり浅草寺もまた古墳に建立された寺だったのだ。
他にも関東には大きな前方後円墳が少なくない。ヤマト王権中心の歴史観ではまだ完全には説明がつかない古代史の、未解明で謎の多い痕跡だ。
そんな正体不明の古墳跡にある浅草寺の、本尊の一寸八分の黄金の観音像は絶対秘仏だ。明治初期の文化財調査で一度だけ人目に触れてスケッチも残されているが、その調査官達が変死したという妙な都市伝説まである。
天海は、ただ江戸城の鬼門封じに当たる位置だからと言うだけで、上野を聖地化したのだろうか?むしろ摺鉢山のあった上野や、絶対秘仏の神秘的な伝説があってやはり古墳だった浅草、芝の丸山古墳などとの位置関係から、太田道灌が江戸城の場所を決め、徳川家がそれを発展させた、と考えた方が、時系列的には納得が行く。
寛永寺の輪王寺宮が隠居後は浅草寺の伝法院に住むことが多かった。浅草にある東本願寺の江戸別院も門跡寺院であり、つまり今では誰も気にもとめないが、浅草は江戸時代に「皇室ゆかりの地」だった。
明暦の大火後に千代田の城のもうひとつの鬼門封じとなった江戸総鎮守の神田明神も、その正体は現代人からすればかなり理解し難い。そのもっとも重要な祭神は明治以降、ごく最近、昭和天皇が崩御し平成になるまで排除されていた。
明治以降100年ほどは五條天神と同じ大己貴命と少彦名命の二柱だけが公式の祭神で、この二柱の出雲系のカミが大黒天と恵比寿天と同一視されたことから、神田明神は今では商売の神様として初詣客が絶えない。
だが元々は商業のカミではなく江戸の総鎮守であった神田明神の第三の祭神は、平安時代に朝廷に反逆し関東に独立国を作ろうとした異端の英雄、平将門なのだ。
謀反人として討ち死にした将門の首は平安京に運ばれ、都大路に晒された。伝説ではその3日目に「俺の身体はどこだ」と首が大声を上げ、宙空に舞って東へと飛んで行ったとされる。
その首が力つきて落ちた場所が今も将門の首塚がある大手町、江戸城の三ノ丸大手門の門外すぐで、当時は海岸の丘だった(そこから東、今の東京の中心部の大部分は、徳川による埋め立て)。
この首塚が祟るので、14世紀に蓮阿弥陀仏の称号を諡って神格化というか仏とみなし(どちらも過去の日本人にとっては本質的に同じこと)、神田明神にカミとして祀られた。首塚は今も神田明神の別院である。俗説では神田明神の起源そのものが首を失った将門の「からだ」が訛って「かんだ」になったもので、首塚の近くにあった元の境内は将門の首なし遺体が放置された場所だったとも、首を斬られた遺体がそのまま歩いて行って倒れた場所だとも言われる。
こうした伝説が史実なのかどうかが重要なのではない。過去の日本人がこうした話を喜んで伝承して来たことこそが肝心なのだ。
明治新政府が朝敵でしかも魔性の逆賊とみなした将門を、神田明神の祭神から排除したのも、近代の西洋的な、神と悪魔が対立するキリスト教の世界観の理屈ではよく分かる。だが逆に言えば、そうやって明治に作り上げられた、安易なまでの単純さで近代主義的な善悪区分をしてしまう国家神道を日本の「伝統」と呼ぶには、あまりに無理がある。
神田明神の正式の社伝では、創建は天平2(730)年に遡り、出雲から来た人々が「古事記」にヤマト王権に国を譲った大国主命(オオクニヌシ)つまり大己貴命を祀ったのが起源とされているが、この国譲りの神話もどう解釈していいのかよく分からない日本古代のミステリーだ。
普通に読むとヤマト王権が出雲の国を征服併合したという意味にみえるが、その大己貴命をヤマト王権の王子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が祀ったのが五條天神の起源となると、現代人の感覚だと誰が味方で誰が敵、なにが魔物でなにが滅ぼした敵の怨霊で、なにが守り神になるのか、わけが分からなくなる。
上野の摺鉢山古墳や、浅草寺や増上寺の境内にあった古墳を作った人々も、恐らくヤマト王権に滅ぼされるか征服吸収された王朝だったとすれば、摺鉢山に祀られていたのも出雲の王が神格化されたカミガミだったというのは、なんとも興味深い。
ヤマト王権の日本列島支配が成立する過程で滅ぼされた王国の墳墓が聖地化したのが、浅草寺だったり上野だったり、芝だったりするのだろうか?
では国譲りの神話は、いったいなにを意味するのだろうか?
関東地方にかなり大きな王権があったと考えるべき根拠は他にもある。たとえば現在の大田区から立川市まで伸びる玉川添いの崖地(国分寺崖線)に沿って古墳が点在しているし、埼玉県行田市にはさきたま古墳群(5〜7世紀)もある。その稲荷山古墳(5世紀後半)から出土した鉄剣の、豪華な金象嵌の文字で記された銘文は、ヤマトに吸収併合された後の征服者側のものとも、ヤマトに臣従した元の王権の有力者が葬られているとも、読みようによってはヤマトとは別の王が元々は関東を支配していて、さきたま古墳群はその墳墓だとも解釈できる。
とはいえ古代に関東で古墳を造った王権が、五條天神や神田明神に痕跡が残るとはいえ、地理的にはずいぶん離れた出雲とどう結びついたのかは不思議だし、「国譲り」の神話の意味もますますよく分からない。
ヒントになりそうなのが信濃の国(長野県)の諏訪大社の祭神が大国主大神(大己貴命)の息子の建御名方神(タケミナカタ)で、国譲りの際に出雲を逃れ諏訪にたどりついたと「古事記」に記されていることだが、この記述がまた相当に血みどろなのだ。
葦原中国の国譲りに反対した建御名方は、高天原つまりヤマト王権の使者・武甕槌命(タケミカヅチ、春日権現の第一殿祭神で上賀茂神社の主祭神、建御雷神とも表記)に力較べを挑むが、その武甕槌命の手が氷の剣に変化し、建御名方は両腕を切り落とされてしまう。
命からがら逃げた建御名方神が最後に追いつめられたのが、信濃の州羽海(スワノウミ)つまり諏訪湖だった。
ここで建御名方神は追って来た建御雷神に殺されそうになるが、諏訪盆地から出ないこと、葦原中国を天つ神の御子(つまりヤマトの大王)に奉る旨に反対しないことを約束して、命だけは許される。
この建御名方神が諏訪湖の女神である八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)と結ばれて夫婦のカミが諏訪大明神になり、諏訪地方は御柱祭や冬の御神渡り(氷結した諏訪湖に出来る氷のヒビが、建御名方神と八坂刀売神が出会うため諏訪湖を渡った跡とみなされる)など、山岳信仰に由来する独特の神秘的な雰囲気と伝承や文化を持つ土地として、全国の諏訪神社を通して信仰を集めて来た。
この神話に見られる諏訪と出雲の結びつきは、なにを意味するのだろうか?
そもそも、国譲りとはなんだったのか?
出雲がヤマト王権に「譲った」葦原中国とはなにを・どこを指すのだろう?
弥生時代に稲作を基盤にした村落共同体が発展して、やがて各地に王国を形成した。建御名方神は元々はそんな地方の国々のひとつだった諏訪の王が神格化され、その地方神話が「古事記」に取り込まれるなかで出雲と結びつけられたとも考えられる。
逆にいえば「古事記」にある出雲とそのカミガミとは、必ずしも現在の島根県を指す地名ではなく、ヤマト王権による統一以前に各地にあって滅ぼされたか征服併合された弥生時代〜古墳時代初期の諸王国を象徴しているのではないか?
各地に分立し関東にもあった小王国か、あるいは出雲王国が、ヤマト王権に滅ぼされるか併合される過程を象徴しているのが国譲りの神話だとするなら、諏訪の神話はその過程にかなり暴力的な侵略があったことを示しているのかも知れない。
今のところここまでは言えるような気がする。
平将門にせよ、神田明神や五条天神社の出雲系のカミガミと日本武尊にせよ、正体不明の上野や芝や浅草の古墳にせよ、穴稲荷の狐にせよ、勝者の視点で書かれた支配の正当化の歴史では語りきれない、将門のように志半ばで逆賊として殺されたり、上野の狐のようにすみかを追われたり、日本武尊のように道半ばで命を落とし、あるいは滅ぼされた者たちの怨霊への畏怖とその物語への愛着が、今は東京、かつて江戸と呼ばれた土地と人々の潜在的な精神史に深く関わっていることだけは確かだ。
徳川がそんな江戸をあえて中心に選んで、100年に及ぶ戦乱を終わらせる平和を構築しようとした、というふうに考えると興味深い。
なにしろ幕府の政務の中心は将門の首塚近くに建てられた江戸城であり、精神的な中心として作られたのが謎の古墳があって出雲系の神々が祀られていた上野に作られた東叡山寛永寺で、その寛永寺が徳川の統治にとって、江戸城と同等かそれ以上に重要な役割をになっていたのだ。
そして四代家綱の代に江戸城天守の再建が放棄されたあと、東叡山の華麗な瑠璃殿はその次の綱吉の代に建てられ、幕末に新政府軍に破壊されるまで、江戸で最大かつもっとも豪華な建築物だった。
明治以降、そのすべてが新政府に破壊された記憶を封じこめるかのように、東京となった都市の上野公園となった旧寛永寺境内の山王権現社の焼け跡に、彰義隊の怨霊が葬らた。
かつての鎮守社つまり地霊を抑える役割を持った山王台で、その彰義隊の供養墓を押さえ込むかのように銅像が立てられた西郷隆盛も、西南戦争で逆賊として死ぬことで、逆に明治以降の近代日本の、いわば守護神となった。
その明治以降の日本の、勝者・支配者の作った歴史に隠された、上野が「徳川の聖地」であったことの紛うことなき証である徳川将軍たちの墓は、人目に触れず、非公開のまま、ひっそりと、石垣と木々に囲まれて佇んでいる。
だが上野が「山」であったのは江戸時代には「上野東叡山」とも呼ばれていたからで、「山」は山でも寺院の「山号」 だ。
広重 東都名所 上野東叡山全図(拡大はこちら) |
天台宗別格総本山、比叡山延暦寺に準ずるかそれと並ぶ格式を持った「東の叡山(比叡山)」の東叡山寛永寺、それが上野の「山」の意味だった。西郷像と彰義隊の供養墓がある山王台にあった山王権現社は、寛永寺の境内地の地鎮の鎮守社だった。
上の広重による全体俯瞰図では左端、今の大噴水広場にそびえ立っていたのが、高さ32mの巨大にして華麗な根本中堂(本堂)で、五代将軍綱吉の元禄11(1698)年に完成した。
恩賜上野公園 噴水広場 ここにかつて高さ32mの寛永寺根本中堂がそびえていた |
150年前までここにあった二層入母屋造りの根本中堂の高さは、建造物自体としては日本の現存城郭建築でいちばん高いと言われる姫路城天守閣の31.5mとほぼ同じ、姫路城の場合はその下に15mの石垣があるので合計46.5mだが、仏堂なので横幅は天守閣よりも遥かに広かったはずだ。
広重 上野東叡山中堂之図 |
綱吉が根本中堂を完成させた西暦1700年頃の寛永寺 |
江戸時代に再建された東大寺大仏殿の高さ46.8mや、江戸城の寛永天守(1657年明暦の大火で焼失)の推計44.84mにはかなわないとはいえ、現代の世界最大級の木造建築物になる京都の西本願寺御影堂、知恩院の御影堂などと並ぶかそれ以上の規模で、明暦の大火で江戸城の天守閣がなくなって以降では東日本で最大の建築物だった。
比叡山延暦寺根本中堂 2026年までの予定で修復工事中 比叡山は一層だが寛永寺の根本中堂は二層入母屋造りでさらに高かった |
別名「瑠璃殿」とも称されたのは、天台宗の開祖・最澄(伝教大師)が自ら彫ったとされ、近江の石津寺(滋賀県)に伝来していた薬師瑠璃光如来が本尊に迎えられていた(秘仏)からだが、建物自体も「瑠璃」と呼ぶにふさわしく神々しく輝かんばかりだったとも言われる。
現在の大噴水がほぼ根本中堂が建っていた位置になる |
北斎 浮絵 上野東叡山中堂之図 手前に法華堂と常行堂、奥が根本中堂 |
徳川家光が再建した比叡山根本中堂の唐門 寛永11〜19(1634〜42)年 |
今は噴水があるだけの上野公園の中心部には、中央に唐門を備えた回廊で囲まれた根本中堂(瑠璃殿)がそびえ、その前には天台宗寺院に特徴的な渡り廊下で結ばれた常行堂と法華堂(合わせて「にない堂」)、周囲には雲水塔と呼ばれた多宝塔、輪蔵など意匠を凝らした豪華な伽藍が建ち並んでいた。
天台宗寺院に特徴的な常行堂と法華堂を合わせて「にない堂」 比叡山延暦寺西塔 寛永寺のものはこれよりかなり大きかったはず |
今は「さくら通り」になっている参道には楼門の文殊楼(別名「吉祥閣」)がそびえ、そばの丘には大仏殿があった。上の広重による東叡山全図で文殊楼のすぐ左(西)に描き込まれている朱塗りに瓦屋根の建物が、今は顔だけが残る大仏の大仏殿だ。下谷広小路(現在の上野広小路)の惣門から寛永寺に入ると、文殊楼(吉祥閣)の左手すぐ後ろに見えたはずだ。
錦江斎春艸 東都八勝 上野晩鐘 |
この錦江斎春艸の風景浮世絵では前面が参道で中央やや左に楼門である文殊楼(吉祥閣)、その奥左側に大仏殿、左手奥は不忍池、右手奥に常行堂と法華堂をつなぐ渡り廊下、根本中堂とそれを取り巻く回廊などの中心伽藍だ。
明治初期の彩色白黒写真に写った寛永寺大仏 大仏殿は明治初期に取り壊された |
上野公園さくら通り 惣門から吉祥閣を経て根本中堂に向かう寛永寺の参道だった |
旧寛永寺五重塔 寛永8年(1631)年に建造後火災で焼失・同16(1639)年再建 |
手前右端に描かれているのが、江戸時代当時のまま現存する清水観音堂だ。寛永8(1631)年の建立で、元禄7(1694)年に現在の場所に移設されている。
清水観音堂 寛永8(1631)年 |
五重塔は本来は上野東照宮のもの 明治の神仏判然令での取り壊しを避けるため 寛永寺に移管 現在は上野動物園の敷地内になり所有は東京都 |
寛永寺の今の境内は東京国立博物館と鴬谷駅のあいだ、厳有院殿・常憲院殿の霊廟があった場所に霊園が広がり、最澄作と伝えられる秘仏本尊の薬師如来像は、墓地の西南に隣接する敷地の一層入母屋造の根本中堂(本堂)に祀られている。
寛永寺 現根本中堂 (旧川越喜多院本地堂) 寛永15(1638)年建造 明治12(1879)年に移築・増改築 |
東京芸術大学と台東区立上野中学校の奥でちっとも目立たない。
江戸時代の東叡山は、上野公園全体が境内にすっぽり納まるどころでは済まなかった。
東は現在の山手線・京浜東北線の線路が走る崖からすべて寛永寺、その麓にも上野駅がある場所には子院が建ち並び、東京国立博物館の敷地はまるごと寛永寺の本坊で、さらに東京芸術大学のキャンバスも寺域におさまり、西は日暮里の団子坂までおよぶ301,870坪の広大さだった。寺領も11,790石も与えられていた。
上野台地の東側の崖 かつてはここまで寛永寺でこの下にも塔頭が並んでいた |
現在の中堂の立地は塔頭・子院のなかでもさほど大きくない大慈院があったところで、普通のお寺よりは大きめな建物は明治12(1879)年に開山の天海ゆかりの川越の喜多院から寛永年間建造の本地堂を貰い受け、上野東照宮の薬師堂が神仏判然令で取り壊された古材も使って改造・移築したものだ。
(この絵図は西が上 左上が不忍池 下谷切絵図の全体はこちら) |
この絵図の中央の、赤で描かれた建物群が寛永寺の中心伽藍で、今は上野公園の大噴水の池がある場所だ。
その右下の大きな「御本坊」が現在の東京国立博物館、さらに右が徳川霊廟、本坊の西北西(上やや右)に塔頭の大慈院の表記がある。今の中堂がここだ。
かつての中心伽藍の方向より五重塔 |
現在の上野恩賜公園だけでなく東京芸術大学もまるごと寛永寺の旧寺域に収まる |
東叡山三十六坊と呼ばれた塔頭の子院のうち19が今も存続しているが、敷地は縮小され、場所もほとんどが移転されている。
寛永寺の子院 護国院 釈迦堂 享保年間(1716-35)の再建 |
東京芸術大学美術学部の裏手にある護国院(釈迦堂・谷中大黒天)は、江戸時代のお堂が現存する寛永寺の唯一の子院だ。
獅子と象の装飾(江戸時代の寺院や神社の建築では通例) |
本堂である釈迦堂は、寛永年間の創建の後火災に遭い、享保年間(1718-35)に再建された二代目の建物になる。
護国院 釈迦堂 内陣 釈迦三尊 |
手前より文殊菩薩 釈迦如来 普賢菩薩 江戸時代初期 |
本尊は釈迦三尊だが、三代家光が拝んでいた大黒天の掛け軸を納めた厨子が 前に祀られることもあり、正月と甲子の日などには開張もされる |
釈迦堂の内部 かつての彩色が残る欄間の彫刻 |
柱には何重にも漆が塗られており かつてはさらに金箔張りだった |
この再建には、八代吉宗による享保の改革の緊縮財政のまっ最中だった幕府・徳川家ではなく、藤堂家などの大名が寄進しており、堂内の柱にはそうした大名家の家紋があしらわれている。なお丸に二の紋は天海の紋だ。
江戸時代以前に遡る様々な仏像 欄間の上の千體仏はかつて3000以上あり1380が現存・修復済み |
本尊脇侍の普賢菩薩と文殊菩薩も近年修復された |
剥落が激しいが緑と金で描かれた狩野派の獅子の壁画 |
褪色はしているが華やかな装飾 祥雲の絵は東京芸大美術科の協力で再現 |
漆塗りの柱には金箔の跡が残る |
寛永寺とその子院は、明治政府に境内地・寺領をすべて没収された。
釈迦堂は昭和初期まで政府から借り受ける形になった境内地に建ったまま、関東大震災にも耐えたが、その復興期の昭和3(1928)年に、今度は上野中学校の建設のため移転を命じられ、墓地も多摩霊園に移された。先代住職夫人の話では、元々国に没収されたまま国から借りている土地では断ることもできず、曵き屋技術で堂を移動したのだそうだ。
現在の屋根は昭和3年の改築 設計 岡田信一郎(当時は東京美術大学教授) |
この作業に当たっては、東京美術大学(当時)教授だった建築家・岡田信一郎(代表作に戦災で焼失前の歌舞伎座など)の設計で本瓦の屋根を銅葺きに替え軽量化し、蔀戸をガラスをはめ込んだ引き戸にするなどの改修が行われた。
護国院釈迦堂 昭和三年に蔀戸が現在のガラス入りの引き戸に差し替えられた 設計・デザイン 岡田信一郎 |
また本堂に隣接する庫裏も岡田信一郎の設計(台東区有形文化財)で、本堂の新しい引き戸とデザインが統一されている。
こうした子院の境内地は戦後になって、GHQの主導する民主化のなか、政府が没収したままの国有地に寺があるのはおかしいと指摘され、元から較べればあまりに縮小された現有の土地のみとはいえ、やっとそれぞれの寺の所有に返還された。
寛永寺本体も、明治維新で寺領も境内地も没収されて収入がほとんどなくなり、明治から戦前までずっと資金難に苦しんだ。
上野公園内(旧寛永寺・上野東照宮境内)お化け燈籠 寛永8(1631)年 |
清水観音堂 寛永8(1631)年 |
不忍池もかつては寛永寺の境内 |
関東大震災で破損した大仏も、修理費用の目処が立たないのでそのまま保存するしかなかったのだ。
そして昭和20(1945)年の東京大空襲の大火災は、寛永寺に残された江戸時代の建築のうち不忍池の辯天堂と、厳有院(四代家綱)、常憲院(五代綱吉)のふたつの霊廟に類焼した。
寛永寺第二霊園 ここに厳有院殿霊廟の壮麗な伽藍が建っていた |
厳有院聯霊廟 幕末〜明治初期の彩色白黒写真 |
戦後の寛永寺は、霊廟の跡地を徳川家から寄付されて墓地を造成し、谷中墓地の一部と合わせた霊園の経営で、ようやく確かな経済基盤を持つことができたのだそうだ。
常憲院殿霊廟は将軍家霊廟の中でも最も堂舎の整った完成形だったという |
勅額門の前には初代から寄進された大量の石灯籠が並んでいた |
もちろん厳有院、常憲院の両霊廟が残っていれば国宝指定は確実だし、けっこうな観光地になっていてもおかしくなかったはず…というよりも、明治初期に奥ノ院(墓所)の墓前の拝殿など一部の建造物は解体もされたものの、残された門や拝殿・幣殿・本殿などは、昭和5年制定の旧国宝制度で国宝(今でいう重要文化財にほぼ該当)に指定されている。
奥ノ院(墓所) 墓の前にあった拝殿 |
だがまだその徳川霊廟がまだ現存していたはずの、明治から戦前の小説などを当たっても、本坊跡地に建てられた帝室博物館(現在の東京国立博物館)が江戸川乱歩の推理怪奇小説に登場したりはするが、徳川霊廟に触れたものはほとんどない(というか、筆者は読んだことも聞いたこともない)。
上野というと、昔ながらの江戸の香りも残る下町というイメージを漠然と持つ人も多いかも知れない。
浄名院(旧・浄円院、俗称へちま寺)山門は享保年間 (1716-35) |
だが実際の上野はまず明治維新で破壊され、その後も関東大震災と東京大空襲で甚大な被害を受け、復興の度に都市化・近代化の波を経て変貌して来た街なのだ。
境内の八万四千體地蔵は日露戦争の戦没者の供養のため明治39(1906)年以降の建立 |
江戸六地蔵のうち明治に廃寺になった深川の永代寺の銅造地蔵尊が移されている |
ここが江戸時代にはどんな場所だったのか、痕跡は探せばまだあるが、寛永寺の僧侶や子院の住職や檀家でもなければ、東京の住人の記憶にもほとんど残っていない。たとえば寛永寺が分譲している墓地を買おうと思う人たちのどれだけが、そこに徳川将軍家の絢爛な霊廟が建っていたと知っているだろうか?
江戸名所図会 東叡山寛永寺(ここをクリックして拡大してご覧下さい) |
かつて江戸の大きな中心のひとつだった上野の歴史が、今ではまったく忘れられているというのも、ずいぶん奇妙なことではある。
上野公園大噴水 ここにかつて高さ32mの根本中堂がそびえていた |
広重 江戸名所 上野東叡山境内 手前左が吉祥閣 奥に法華堂と常行堂を結ぶ渡り廊下 背後に根本中堂 |
比叡山延暦寺 にない堂(常行堂と法華堂)をつなぐ回廊 背面より 寛永寺のにない堂は根本中堂の前にあったが延暦寺では西塔 釈迦堂の前 |
日光山輪王寺の常行堂 |
輪王寺のにない堂回廊の中央は慈眼堂(天海の墓所)への門になっている |
広重 東都名所 上野東叡山 根本中堂側より見たにない堂の渡り廊下と文殊楼 |
現在の東京国立博物館の敷地は、実はかなり広い。だがその大きな敷地が寛永寺の本坊だったことは、日本の歴史に関心があるはずの見学者でもほとんど知らない。
この本坊を住まいとした東叡山の貫主には天皇の子が任命され(法親王・門跡寺院)、日光山輪王寺の住職を兼任し(輪王寺宮)、しばしば比叡山の天台座主も務めた。
つまり東叡山寛永寺は、かつて日本仏教の最高権威のひとつだったのだ。しかも今風に言えば「皇室ゆかりの地」でもある。
東京国立博物館 庭園 元は寛永寺本坊庭園 |
春と秋に公開される広大な庭園も、元は江戸時代初期に作治奉行と徳川家の茶道指南を務め「きれい寂び」の美学を確立した小堀遠州の手になる本坊の庭だった。ただし明治以降にどれだけ手が加えられているのかはよく分からない。ちなみに同じく小堀遠州の茶室転合庵は、昭和になって京都・伏見から移設されたものだ。
明治14(1881)年、本坊の跡地にジョサイア・コンドル設計の帝室博物館本館が建てられ(関東大震災で大きく破損し、現在の渡辺仁設計の本館に建て替え)、総黒漆塗りの本坊表門、通称「黒門」は、博物館の正門になった。
明治時代の上野公園全景 まだ大仏がある 奥にコンドル設計の帝室博物館本館 その前に黒門が描かれている |
その黒門は、現在では元の位置から数百メートル向かって右・東側の、今の寛永寺の葬祭ホール輪王殿の前に移設されている。
寛永寺本坊表門(黒門) 寛永2(1625)年 |
2013年には台東区による修復工事も完了した(国の重要文化財)。
だが都内でも有数の貴重な歴史建築遺産で、総黒漆塗りの渋い輝きが印象的な名建築が、国立科学博物館の向かい、上野公園の眼と鼻の先に建っているわりには、観光コースにも入っていない。
親王が住職を務める門跡寺院なので菊紋が配されている |
総黒漆塗りの荘重にして華麗な門は2013年に修復された |
修理の際に交換された黒門の鬼瓦 根本中堂前に安置 |
上野戦争(慶応4/1868年旧暦5月15日)の弾痕 |
戊辰戦争で彰義隊が上野の山に立て篭ったというのは、単に彰義隊の討ち死にや自決で終わったわけでなかった。
月岡芳年 東叡山文珠樓焼討之図 慶応戊辰五月十五日 明治7(1874)年 寛永寺では根本中堂の前にあった法華堂と常行堂(併せて「にない堂」)の攻防戦 |
比叡山のにない堂 寛永寺の中堂前にもこれを模した 二つの堂があったが これよりかなり大きかったはず |
上野戦争とも呼ばれる苛烈な戦闘では、新政府軍は佐賀藩が製造した最新式の大砲(英国製アームストロング砲の改良型で、性能が上だったらしい)も使用、どさくさ紛れに東叡山寛永寺の大伽藍に火を放ち、たった一日で境内のほとんどが焼失、上野は江戸時代の華やかさは見る影もない焼け野原になった。
豊国 上野東叡山花盛圖 左に文殊楼(吉祥閣)奥に根本中堂 |
残されたのは厳有院・常憲院の両霊廟と、この本坊の黒漆塗りの表門、初代家康の霊殿となる上野東照宮の、慶安4(1651)年に家光が建て替えた通称「金色殿」(上掲の江戸切絵図では「御宮」)と、寛永8(1631)年にその東照宮の仏塔として建立され火災を経て同16(1639)年に再建された五重塔が、今は上野動物園の敷地となった場所に建っている他、寛永8(1631)年建立の清水観音堂、下谷広小路(今の上野広小路)側のふもとにあった惣門(こちらも通称・黒門、現在は南千住の円通寺に移設)だけだった。
旧東照宮五重塔 寛永16(1639)年 最上層だけ銅葺き屋根 |
初代家康を祀る上野東照宮 慶安4(1651)年造営の社殿 |
東叡山寛永寺 清水観音堂 寛永8(1631)年 |
広重 東都名所 上野東叡山ノ図 右に清水観音堂 中央に文殊楼 その左上に大仏殿 |
広重 東都名所 上野清水観音堂 左端に文珠楼(吉祥閣) |
桜の季節の清水観音堂 寛永8(1831)年 |
大仏殿も焼け残ったものの、明治5年に上野が日本初の近代的な都市公園になると決まったあと、明治8年(9年、10年説もあり)になぜか取り壊され、大仏は露座(要するに野ざらし)にされた。関東大震災で大きく損壊して首が落ち、修理費用の目処がたたないまま保存されていたが、太平洋戦争が始まると、銅造だったため軍に金属供出を命じられた。
「これだけは」と覚悟を決めて守り抜かれたのが顔の部分で、昭和47(1972)年に大仏殿跡の丘に安置されて現在に至っている。
厳有院殿惣門の二天門 空襲で焼失 幕末〜明治初期の彩色白黒写真 |
厳有院殿霊廟勅額門 |
厳有院殿霊廟 勅額門と鐘楼 幕末〜明治初期の彩色白黒写真 |
東京国立博物館の東側の道路に残っている石燈籠には「大猷院殿尊前」という文字が彫られている。
武州東叡山 大猷院殿 尊前 の刻印のある石灯籠 |
「大猷院」は三代家光の戒名だ。
「慈眼大師」は寛永寺を開いた天海(1536?-1643)の諡号だ。家康・秀忠・家光の三代に渡って徳川将軍家のブレーンを務め、106歳と言われる長寿をまっとうした。
その天海を祀る開山堂は諡号から慈眼堂と呼ばれ、「両大師」とも呼ばれるのは併せて10世紀の天台宗中興の良源(慈慧大師・元三大師)も祀られているからだ。
開山堂 天明元(1781)年 再建の本堂は平成元(1989)年に火災で焼失 現在の本堂は平成5(1993)年の再建 |
旧 大猷院殿霊屋の銅灯籠 |
なお家光が葬られたのは日光山輪王寺で、ここの大猷院殿は日光東照宮(初代家康の墓所で現在の社殿は家光の造営)のはす向かい、日光二荒山神社と輪王寺の中心伽藍がかつてあった辺りの奥に、家光の遺言に従い東照宮にかしずくような位置に建てられている。
輪王寺大猷院殿(日光・山内地区)承応2(1653)年 |
夜叉門 |
夜叉門の正面・石段下の展望所 |
夜叉門を抜けると唐門と拝殿 |
拝殿正面 向拝の装飾 |
家光は遺言で祖父家康の東照宮よりは慎ましく、と指示したそうだが、黒が基調とは言っても東照宮と同様に彫刻をそこらじゅうに配し、金箔をふんだんに使った豪華というか派手さは、ほとんど装飾過多でゴシック的に見える。
輪王寺大猷院殿 拝殿と本殿(本堂) 承応2(1653)年 |
国宝に指定され、家光が寛永13(1636)年に建て替えた東照宮と共に今ではUNESCOの世界文化遺産だが、この日光の大猷院殿と同様のものが二つ、今の寛永寺の霊園には建っていたのだ。
開山堂(両大師/東叡山輪王寺)の現在の境内 |
寛永寺の慈眼堂(開山堂)は上野戦争の戦火を免れ、関東大震災も東京大空襲も焼け残ったが、1989年に不審火で焼失してしまった。現在の開山堂(東叡山輪王寺本堂)は、1993年(平成5年)の木造の再建だ。
戦災で焼失した大規模な歴史建築の再建は、長らく消防法の制約で木造の大規模建築が許可されず、たとえば大阪の四天王寺、名古屋城や熊本城などの天守閣や、成田山新勝寺の大本堂、東京都内なら芝増上寺大殿や浅草寺観音堂、寛永寺でも弁天堂は鉄筋コンクリートだったが、建築基準法と消防法の改正で、この時は伝統的な木造で建て直すことができた。
背後にあった家光霊屋(寛永寺大猷院殿)の跡地(東京国立博物館の向かって右手、北東の向かい側)には、元は36あった寛永寺の子院で明治以降に存続が許された19の子院のうち15が、規模を大幅に縮小して移転させられ、つつましく軒を並べている。
かつてなら家光霊屋の東南側すぐ隣だった子院の現龍院の墓地には、家光が亡くなった際に殉死した幕臣たちの墓所がある(なおこの時を最後に、殉死は幕府によって禁じられた)。
現龍院墓地 家光の殉死者の墓 |
この墓地は明治維新以降も移されていないが、隣接していた子院はいずれも廃止されるか移設されている。
広重 江戸名所之内 上野東叡山 |
にない堂の渡り廊下があった辺り |
歌川豊春 江戸名所上野仁王門之図 手前に三枚橋 寛永寺の正面入り口 当初の惣門だった仁王門は貞享2年(1688年)に焼失 |
かつての三枚橋は今は上野四丁目交差点 ここからが寛永寺だった |
埋め立てられて不忍通りになった川 |
寛永寺に向かう参道だった下谷広小路 現在の上野広小路 |
広重 新撰江戸名所 不忍池新土堤春之景 現在の不忍通りには川が流れていた |
この絵図面では南東にあたる江戸城の方角が右 |
上野公園広小路口の広場は寛永寺の門前広場(黒門から三枚橋まで)の半分ほど |
当初二天門があった辺り 右手石段の上がかつての山王社 |
2016年に設置された黒門(惣門)跡を示す噴水 実際の位置はこの左側 |
徳川家(松平家)の先祖代々の宗派は、浄土宗だ。
小田原の北条氏が豊臣秀吉に降伏して関東を手放し、家康が天正18(1590)年にその秀吉の命でそこに国替えになって江戸に本拠を移したときに菩提寺としたのは、当時は今の千代田区平河町辺りにあった増上寺だった。
広重 東都名所 芝増上寺雪中 |
その増上寺は慶長3(1598)年に江戸城の拡張に伴い芝に移転されると同時に、徳川家による豪勢な伽藍の建設が始まっている。
広重 東都名所 芝神明増上寺全図 |
東京大空襲では芝一帯も焼け野原になり、増上寺の伽藍もほとんど失われた。二代秀忠が寄進した元和8(1622)年建立の、大きな三解脱門(三門)が奇跡的に焼け残ったことで、戦後には強運のご利益がある門という縁起かつぎも言われるようになった。
増上寺三解脱門 元和8(1622)年 徳川秀忠の建立 |
現在の増上寺では他に本坊表門と、寛政年間まで増改築が繰り返された経蔵が、江戸時代に遡る建築物だ。
増上寺本坊表門(黒門)慶安年間(1648~1652年) |
増上寺 経蔵 原型は慶長年間でその後増改築を繰り返した |
鐘楼堂 原型は寛永10(1633)年 焼け残った部材を用い再建 梵鐘は延宝元(1673)年の鋳造 |
他に鐘楼が一部戦災で焼け残った部材を使って再建され、鐘自体は江戸時代のものだ。
増上寺 惣門(大門)三解脱門 大殿(本堂) 東京大空襲で一面焼け野原になり、大門と大殿は戦後の再建 |
広重 東海道名所之内 芝増上寺 |
元和2(1616)年に73歳という、当時としては異例の長寿をまっとうした家康は、遺言によりまず駿府の久能山に葬られ、「東照大権現」として神格化されると日光に改葬された。
墓所は久能山と日光の東照宮になる(一説には日光にはその神霊を移しただけで、亡骸は今も久能山の奥ノ院にあるとの説も。どちらの墓所も発掘調査はされていない)。
増上寺安国殿 家康の念持仏だった黒阿弥陀像を祀る |
二代秀忠(台徳院)とその正室・江与(崇源院)の墓と霊廟は、この浄土宗の増上寺に作られた。
寛永ごろの増上寺台徳院殿 江戸図屏風 (国立歴史民俗博物館蔵) |
芝増上寺境内 安政5年(1858年)の地図 |
台徳院殿(二代秀忠)霊廟惣門(二天門)寛永9(1632)年 |
明治時代の彩色写真絵はがき おそらく台徳院殿(二代秀忠)霊廟 |
増上寺も境内地の多くが明治新政府に没収され現在の芝公園になり、さらに東京大空襲でほとんど破壊されている。
台徳院(二代秀忠)殿霊廟惣門(二天門)寛永9(1632)年 |
境内北側の文昭院(六代家宣)有章院(七代家継)の両霊廟は、有章院の惣門と通用門(御成門)、石造や銅造の宝塔や銅門を残して焼失した。
増上寺境内の南側にあった台徳院殿霊廟は今はこの門だけが残る |
この時には境内南側の台徳院殿霊廟は無事だったが、続く5月の空襲でこちらも惣門(二天門)、勅額門、奥ノ院(墓所)への御成門以外は、木造だった宝塔とその覆屋も含めて、すべてが焼け落ちてしまった。
台徳院殿(二代秀忠)霊廟勅額門 寛永9(1632)年 ※現在は狭山不動尊に移設 |
増上寺の将軍家の墓は昭和33年に発掘調査を経て境内の安国殿裏に改葬、霊廟の敷地はコクド開発(西武グループ)にホテル開発のために売却された。
台徳院殿霊廟模型 1910年製作 英王室より増上寺宝物館に貸与 この形式が家光による日光東照宮の建て替えに踏襲された |
台徳院殿霊廟の装飾の指示書 江戸東京博物館蔵 |
台徳院殿霊廟 本殿内部 |
今その将軍たちの墓の跡地には、東京プリンスホテルとザ・プリンス・パークタワーが建つ。
三解脱門の左右つまり増上寺の正面の南北には、台徳院の惣門(二天門)が南側のパークタワーの敷地内に、有章院殿(七代家継) の惣門と御成門が北側の東京プリンスホテル駐車場に、それぞれ現存している(有章院殿二天門は修復工事中)。
台徳院殿霊廟 奥ノ院への御成門 |
御成門内側 飛天の描かれた天井の鏡板 |
台徳院殿の勅額門、奥ノ院(墓所)への御成門と、正室の崇源院(江与ないし江、小督・浅井長政の三女で織田信長の姪、豊臣秀頼の母淀殿の妹)霊屋の丁字門は、プリンスホテル建設に伴って埼玉県所沢市の西武ドームそばに堤義明・西武グループ会長が建立した狭山不動尊に移設されている。
旧台徳院殿霊廟 銅灯籠 諸大名の奉納 所沢市の狭山不動尊境内 |
不思議なことに、今ザ・プリンス・パークタワーが建っているのは、台徳院殿の奥ノ院(秀忠の墓)があった場所の精確に真上で、中心まで一致している。
焼失前の台徳院殿霊廟奥ノ院 この中に木造の宝塔があった |
奥ノ院の木製の宝塔 秀忠はこの下に埋葬されていた 現在のザ・プリンス・パークタワーはちょうどこの位置に建つ |
また増上寺境内の反対側、北側の東京プリンスホテルの建物も、文昭院殿と有章院殿の奥ノ院、つまり将軍達の墓があったところにかなり重なる。
東京プリンス・ホテル建設前の文昭院・有章院霊廟奥ノ院跡 |
有章院殿二天門 享保2(1717)年(現在は修復工事中) |
なお崇源院(秀忠正室・浅井長政の三女)の霊屋は、正保4(1641)年に霊牌所に建て替えられた際に鎌倉に移設され、鎌倉五山筆頭・建長寺の仏殿(本堂)になっている。
建長寺 仏殿・旧増上寺崇源院殿霊屋 寛永9(1632)年 |
天井が金箔張りの格天井だったり、禅宗寺院の仏殿らしくない折衷様の優美で華麗な造りは、元が将軍家の霊廟建築だったからだ。
折り上げ格天井と飛天の意匠 |
禅宗寺院に和様の格天井は珍しいが元は霊廟建築 |
透かし彫の飛天は台徳院殿(夫・秀忠)霊廟御成門に共通する意匠 |
霊屋の正面にあった唐門も併せて建長寺に移され、方丈(龍王殿)の正門となっている。
建長寺方丈唐門 旧・増上寺 崇源院殿唐門 |
徳川家の三つ葉葵が、建長寺の開基である鎌倉幕府執権・北条家の三つ鱗に差し替えられている。
広重 江戸名所三ツ之眺-上野花盛 文殊楼の脇より「にない堂」の渡り廊下 右手が擂鉢山 |
上の絵は現代ではだいたいこの辺りないしさらに手前からの眺め |
そして三代家光が、天海の進言により江戸において京都御所に対する比叡山延暦寺の位置関係を踏襲し、千代田の城から見て鬼門方向に当たる上野に、鬼門封じとして寛永2(1625)年に寛永寺を建立、比叡山と並ぶ天台宗の別格総本山にして、増上寺と並ぶ徳川の菩提寺となった。
栄松斎長喜 江戸名所八景 晩鐘(寛永寺の文珠楼) |
寛永寺の時の鐘 現在の鐘は天明7(1787)年の鋳造 |
寛永年間(1624年〜45年)に建てられたので寛永寺というのも、最澄が開いた比叡山の修行道場が正式な勅許の寺となったのが延暦年間(782年〜806年)だったので延暦寺と名付けられたことに倣っている。
比叡山の文殊楼 寛文8(1668)年に焼失後 本来よりも小規模で再建されたもの つまり寛永寺の文殊楼はこれよりかなり大きかった |
上野公園大噴水(寛永寺根本中堂跡地)に文殊楼を再現したインスタレーション アーティスト:大巻伸嗣 (TOKYO数寄フェス2017) |
翌々年の寛永4(1627)年には、天海と家康の信頼も篤かった藤堂高虎(当時は津藩主)により、藤堂家が寛永寺に寄進した旧屋敷地に、東照大権現(東照神君)として神格化された家康を祀る社が創建された。
上野東照宮 慶安4(1651)年 造営 本殿と拝殿をつなぐ幣殿 |
日光東照宮と共に正保3(1646)年に正式に朝廷より宮号を授けられて上野東照宮になり、5年後の慶安4(1651)年には家光が建て替えた豪華な社殿が完成、「黄金殿」とも呼ばれる。
上野東照宮 唐門 拝殿 |
透塀と入母屋造の拝殿 |
唐門 唐破風の下の鳳凰と孔雀 |
唐門と拝殿の千鳥破風 |
唐門脇の透塀 左甚五郎作の下り龍 東照宮では上向きの龍が下りになる |
ちなみに本殿には家康の他に天海と藤堂高虎の木像も納められていて、また高虎の墓所は今もこのすぐそばの上野動物園内にある。
旧 上野東照宮五重塔 寛永16(1639)年再建 現在は上野動物園の敷地内 |
また比叡山が琵琶湖のほとりにあることから、上野台地の西側に広がっていた湿地帯(古代には海だった)を整備して、琵琶湖に見立てた不忍池が造成された。
西村重長 上野池のはた桜の花見景 18世紀 右側に寛永寺の参道と文珠楼 |
琵琶湖の見立てということで、不忍池にはさらに竹生島に見立てた中之島が作られ、その竹生島の宝巌寺から勧請された八臂の辯財天坐像が祀られた。
渓斎英泉 蘭字枠江戸名所 江戸不忍弁天ヨリ東叡山ヲ見ル図
|
毎日午前10時と正午、午後3時に読経が行われ、辯財天(寛永寺では正式には旧字体の「辯」を用いている)の縁日の巳の日には法要も開催されるなど、信仰と行事は引き継がれている。
本尊(秘仏)は竹生島の宝厳寺から勧請された八臂大辯財天坐像 |
江戸時代の豪華な天蓋も空襲の前に運び出されて無事だった |
秘仏である本尊は、毎年9月の二の巳の日に開張。平安時代の作と言われ、年に一回しか外気に触れないからか、彩色もきれいに残り、とても優美な像だ。
毎日の読経法要の後には即興の法話も |
なお十二支の巳(ヘビ)が弁財天と結びつくのは、インドの水神サラスヴァティが仏教に取り込まれて弁財天として日本に入ると、日本の土着の水神で蛇身に人顔で表される宇賀神を頭上に載せた姿になり、両者が同一視されるようになったからだ。
前の円筒形の厨子の中には絶対秘仏の宇賀神像が納められている |
栄松斎長喜 江戸名所八景 落雁(不忍池) 不忍池は春の桜、夏の蓮、秋には渡り鳥の名所になった |
また寛永8(1631)年には、京都の清水寺を模した懸造り構造の清水観音堂が、最初は参道を挟んで大仏の向かいになる摺鉢山の斜面に建てられた。
その後、五代綱吉が根本中堂の大造営を開始したのに伴い、元禄7(1694)年に不忍池辯財天に向かい合う現在の場所(桜ヶ丘)に移築されて現在に至っている。
不忍池辯財天の正面より清水観音堂 |
この観音堂だけが、江戸時代の寛永寺の中心伽藍のうち現存するお堂だ(なおやはり現存する五重塔は本来は東照宮のもの。共に国の重要文化財)。
寛永寺清水観音堂 寛永8(1631)年 |
菱川師宣 浮世人物図巻 17世紀(部分)上野清水堂 |
清水寺を模した清水観音堂なので、本尊も「往生要集」で知られる浄土信仰の祖、恵心僧都(源信、942-1017)の作とされる千手観音坐像が、その清水寺から迎えられた。
この本尊も秘仏で、年一回の開張は2月の1日間、初午の日に行われる。普段見られるのは江戸時代の作の「お前立ち本尊」の千手観音像だ。
本尊は金箔張りの扉の厨子の中 お前立ちは江戸時代のもの 四天王と二十八部衆に囲まれている |
漆塗りの格天井 扁額は日露戦争の英雄・東郷平八郎が揮毫 大正時代 |
清水寺を模して斜面を利用した懸け造り |
広重 名所江戸百景 上野清水堂不忍池 安政3(1856)年 |
国芳 東都東叡山の圖 左端に月の松 |
なお上野に清水観音堂が建てられたのとほぼ同時期に、家光はモデルになった京都の清水寺の大規模な再建工事も行っている。
清水寺 右から本堂 回廊 その後に朝倉堂 轟門 田村堂 経蔵 三重塔 寛永8〜10(1631-33)年 いずれも徳川家光の再建 |
音羽山清水寺は平安時代以来の古刹で京都でも屈指の庶民信仰の聖地だが、応仁の乱以降荒廃し、舞台も崩壊していた。その再建は目に見えて分かりやすく「泰平の世の到来」の象徴でもあった。
清水寺 本堂 寛永10(1633)年 徳川家光の寄進再建 |
田村堂 経堂 三重塔 寛永9〜10(1632-33)年 家光の再建 |
日光に建てられた家康の墓所・東照宮は、元々は家康が簡素な廟でいいと遺言していた。
そうは言っても秀忠だってそこそこに立派なものは造営したはずだが、家光は気に入らなかったのか、取り壊して当時の作治奉行・甲良宗広の指揮で建て直させたのが、ほとんど装飾過多なまでに豪勢に作り込まれた、彫刻と金箔と白の胡粉塗りだらけの社殿だ。
日光東照宮 陽明門 寛永13(1636)年 |
東照宮の斜め前の山の斜面にある家光の墓所、輪王寺大猷院殿霊廟もほぼ同じ建物構成だが、祖父家康の東照宮よりも地味に、ということで白が基調の東照宮に対し黒が多く用いられている。
大猷院殿二天門 承応2(1653)年 扁額はかつて家光と対立して抗議の退位を強行した後水尾上皇の宸筆 |
またこの家光の墓所・霊廟は遺言により、南面するのではなく東照宮にかしずく方向で建てられている。
日光は古代からの修験道の聖地で、奈良時代に満願寺が開かれ、平安時代に慈覚大師円仁により輪王寺と改称し天台寺院となっていたが、やはり戦国時代に衰退していた。つまりここも、天海の助言で将軍家が再興した寺だ。
輪王寺大猷院殿 本殿(本堂) 承応2(1653)年 |
本殿側より拝殿 |
奥ノ院(墓所)につながる皇嘉門は明(中国)風 |
千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音の三尊を祀る本堂の三仏堂や、常行堂と法華堂の「にない堂」なども家光の造営(いずれも重要文化財)で、三仏堂は今の日光二荒山神社の境内にあったものが、明治の神仏判然令を受けて旧本坊に移されている。
本来は輪王寺と二荒山神社と東照宮が一体の聖地で全体が日光山輪王寺だった。今ではその日光山全体が「日光の社寺」として一括してUNESCOの世界文化遺産に指定されている。
二荒山神社の現在の社殿も三仏堂と同時期に家光が再建したものだ。幕府がこうした豪勢な寺社の造営に心血を注いだのは、いわば「見せる」政治でもあった。
家光が造営した日光と上野の東照宮は、武勇や権威権勢を強調する建築には必ずしもなっていない。
たとえば「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の像で有名な日光の神厩舎の浮き彫りは猿を喩えに人の一生を説くものだし、境内のこの部分には他にも神庫のゾウの浮き彫りなどなど、一般庶民にも分かり易く目を引く、いわば動物園みたいなものとして構想されている。
当初は身分の隔てなく参拝できたのは陽明門までとされたが、この贅を尽くした巨大な門には吉祥と、儒教を引用して平和な治世を象徴し、それを実現する君主の「徳」を徳川家が自らに課す意匠で埋め尽くされている。
特に目を引くのが、遊ぶ子どもたちの姿(唐児遊び)が欄間にずらりと並んでいることだ。
輪王寺三仏堂 正保2(1645)年 徳川家光の造営 |
平成31(2019年までの予定で大修理中 |
天台寺院に特有の二つ一組の法華堂(手前)と常行堂(奥)あわせて「にない堂」 |
常行堂の正面に二荒山神社の鳥居 本来は一体の境内 |
本来は輪王寺と二荒山神社と東照宮が一体の聖地で全体が日光山輪王寺だった。今ではその日光山全体が「日光の社寺」として一括してUNESCOの世界文化遺産に指定されている。
日光二荒山神社 右に見える拝殿も三仏堂と同じ正保2(1646)年 三仏堂は本来はこの手前にあった |
二荒山神社の現在の社殿も三仏堂と同時期に家光が再建したものだ。幕府がこうした豪勢な寺社の造営に心血を注いだのは、いわば「見せる」政治でもあった。
日光街道からつながる日光山(輪王寺と東照宮)の参道 |
日光東照宮 石造の大鳥居は秀忠の創建当時・元和3〜4(1617-18)年のもの |
仁王門(表門) 家光による建て替え 寛永13(1636)年 |
東照宮五重塔 寛永13(1636)年の塔は落雷で焼失し 文政元(1818)年の再建 |
家光が造営した日光と上野の東照宮は、武勇や権威権勢を強調する建築には必ずしもなっていない。
上野東照宮五重塔 寛永13年に建立後すぐ落雷で焼失 同16(1639)年再建 |
たとえば「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の像で有名な日光の神厩舎の浮き彫りは猿を喩えに人の一生を説くものだし、境内のこの部分には他にも神庫のゾウの浮き彫りなどなど、一般庶民にも分かり易く目を引く、いわば動物園みたいなものとして構想されている。
神厩舎 元和3(1617)年 |
三猿 本来は子どもには悪いことを見聞きさせたり言わせたりしないという教え |
上神庫 寛永13(1636)年 ゾウの浮き彫り |
当初は身分の隔てなく参拝できたのは陽明門までとされたが、この贅を尽くした巨大な門には吉祥と、儒教を引用して平和な治世を象徴し、それを実現する君主の「徳」を徳川家が自らに課す意匠で埋め尽くされている。
甲良宗広 東照宮陽明門 寛永13(1636)年 |
特に目を引くのが、遊ぶ子どもたちの姿(唐児遊び)が欄間にずらりと並んでいることだ。
唐児遊びの浮き彫りが門を取り囲む |
家光による東照宮の建て替えは、100年以上続いた戦国時代が大坂夏の陣で終わって約20年後のことだ。家光はあたかも「子どもが無邪気に遊んでいられる時代になった」と宣言するかのように、この彫刻を一般庶民が見られる範囲では東照宮のクライマックスに配している。
家光政権は武家諸法度で諸大名への締め付けを強め、大掛かりな天下普請を次々と命ずることでその財力も押さえ込もうとした。諸大名にしてみれば強権的な抑圧に見えただろうが、彼らに幕府に反抗して内乱を起こす力を持たせないことは、戦乱の時代再びとしないためには有効な手段ではあった。
平和な世を支える徳を説く中国故事が組み物の下に彫られている |
秀忠の長男・竹千代(後の家光)は幼少時は病弱で、内気で芸術を好む性格は、父や母の江与には将軍に不向きと思われていて、家中にも弟の国松(後の駿河大納言・松平忠長)を将軍後継にと望む声も少なくなかった。江与は織田信長の姪に当たるが(浅井長政と市の方の三女で姉は豊臣秀頼の母・淀殿)、忠長はその信長によく似ていたとも言われる。
だが家康は、家光の乳母・福(のちの春日局)の嘆願もあって、将軍後嗣を正式に家光と定めた。
だが家康は、家光の乳母・福(のちの春日局)の嘆願もあって、将軍後嗣を正式に家光と定めた。
戦国時代の武家では、相続をめぐって兄弟や親子で殺し合い、家が分断して家臣同士が争うことも少なくなかった。家督相続を安定的に制度化することは内乱を防ぐには重要で、家康は長子相続を制度として確立して御家騒動を防ぎ政権を安定させ、下克上で戦乱が続くことを防ごうとしたのだ。
参拝が上級武士に限られていた唐門にはより高度な儒教思想の中国故事の彫刻 |
狩野探幽 春日局像 17世紀 菩提寺の麟祥院蔵 |
官職が世襲の、家制度で長子相続の原則を徹底させる社会というのは、確かに現代の価値観では不自由かつ非合理的には見える。
しかし権力の継承を厳格にルール化することで御家騒動と政治的混乱や戦国乱世の再開が防げたのも確かだ。また嫡子相続を大原則の制度にしたからこそ、福が家光の乳母に選ばれたように、成長すれば重責を担うことが決まっている嫡子のために優れた養育係を選ぶことも非常に重要になった。
しかし権力の継承を厳格にルール化することで御家騒動と政治的混乱や戦国乱世の再開が防げたのも確かだ。また嫡子相続を大原則の制度にしたからこそ、福が家光の乳母に選ばれたように、成長すれば重責を担うことが決まっている嫡子のために優れた養育係を選ぶことも非常に重要になった。
神厩舎の浮き彫り 大人になった猿に子どもができる |
一般論でいえば、確かに実力主義で自由な社会の方が効率的になるかも知れない。だがそこで問われるのは、なにを物差しにその実力を評価するかだ。徳川家が絶対的な平和主義最優先の体制を徹底させようとした当時、100年以上続いた戦国時代で全国が疲弊荒廃し、人心も武家を中心に暴力主義的にすさんでいた。戦乱の手柄で(つまりは人殺しで)立身出世、武勇と力を見せつけることこそが武家のアイデンティティという支配階級の意識を変えないことには、戦国時代は終わらなかっただろう。
神厩舎で猿に喩えられている人生は はあくまで平和な時代の平均的な生涯 |
中世の封建制武家社会は、武功で手柄を立て領地を与えられその支配権を認められることで成立していた。つまり戦争がなければ実力を示すことができず評価もされないし、逆に言えば主君は手柄に恩賞を与えることで権威を維持していた以上は、恩賞として与える領地を獲得するための拡張戦争を続けなければ、求心力を失ってしまう。
戦国時代の末期には、この中世的システムは明らかに飽和状態に至っていた。信長は実力をつけた家臣団を警戒し始めてわざと乱暴なまでに困難な作戦を命じて疲弊させたり、無理難題を押し付けて処罰したりして、織田家と嫡子の信忠に権力を集中させようとするなかで明智光秀に討たれたのだし、豊臣秀吉が天下の統一を成したとたんに「明を征服する」と言い出して朝鮮半島を侵略したのも、単に狂気じみた思いつきとも片付けられない。戦争を続けなければ臣下が実力を発揮する機会も、主君が恩賞つまりその実力の評価として与える土地もなくなり、体制のまとまりが危うくなるのだ。
奥宮(家康墓所)に向かう門の手前の眠り猫も平和を象徴すると考えられる |
残酷で陰惨な戦国のピークは、信長以上に秀吉時代だった。小田原征伐後の奥州仕置で天下統一を完成した時には百姓も含め「悉くなで斬り」を命じ、その翌年に始めた朝鮮出兵では(日本ではほとんど知られていないが)さらに徹底した、血みどろで凄惨極まりない戦い方を実行させている。徳川が天下を統一してその平和を維持するためには、そんな人心のすさみきった暴力的で刹那的な価値観を変えることが不可欠だったはずだ。
武家の棟梁の将軍を祀った東照宮なのに武勇を称揚する要素が見られず、平和の道徳や文化教養を説いた意匠の贅を尽くした装飾で埋め尽くされているのは、これが新しい泰平の時代のための新しい価値観を分かり易く発信する政治装置だったからだ。
金地院東照宮(京都・南禅寺金地院)拝殿内の土佐光起による三十六歌仙図 日光東照宮や仙波東照宮の拝殿にも三十六歌仙図が飾られている |
たとえば日光、久能山、金地院、上野などの各東照宮の拝殿には、平安時代の三十六歌仙の絵が飾られるのが通例だし、上野東照宮の透塀には陸と水のさまざまな生き物が相慈しみ戯れる姿が描写されている。
上野東照宮 透塀 上段は陸の生き物 下段は水鳥や魚が描かれている |
見るからに多額の資金を、軍備や戦争ではなく建築工芸の粋を集めた豪勢な寺社の建立に注ぎ込んだのは、その前の支配者だった豊臣秀吉の好んだ安土桃山の華やかなさ以上のものを、庶民の目に分かりやすく見せる必要性もあっただろう。
西本願寺 飛雲閣 一説に秀吉の聚楽第から移設されたと言われる |
第二層・三十六歌仙を杉戸絵に描いた歌仙の間 第三層 摘星楼 |
伝・左甚五郎作 西本願寺(京都)唐門 安土桃山時代 伏見城の唐門を移築したと言われている |
北野天満宮 拝殿 豊臣秀頼造営 |
同 本殿 |
秀吉の派手好きは有名だが、その豊臣政権にとって替わったのが徳川幕府だったせいか、江戸時代初期の公的建築にはそれ以上に「ド派手」な、華やかなものが多い。
寛永期の松平伊代守江戸上屋敷復元模型 台所門 江戸東京博物館 |
江戸城表御殿復元模型 赤穂浪士事件の発端になった刃傷が起きた松の大廊下 |
こと寺社仏閣は、基本的に身分の分け隔てなく誰もが参拝できる場所だ。城郭や武家屋敷以上に、「見せる政治」の効果は大きい。
上野東照宮 徳川家光造営の社殿 慶安4(1651)年 |
設計を担当したのは甲良宗広(日光東照宮)の息子・宗清 |
上野東照宮 唐門 門内より |
唐門の装飾 阿形の獅子 |
吽形の獅子 こうした彫刻の彩色にはいったんすべて金箔で覆った上から 岩絵の具を塗っていく「活彩色」の手法が使われている |
儒教の中国故事「諌鼓鶏」を表した透かし彫り |
「諌鼓鶏」 |
拝殿正面の唐破風をあしらった向拝
|
阿形の獅子 |
拝殿唐破風の奥の装飾 |
幣殿(左)と拝殿(右) 南側より |
拝殿と幣殿のつなぎめ部分の軒下の装飾 |
本殿の組み物と彫刻 |
本殿の最後部 |
拝殿正面 |
甲良宗清 上野東照宮 拝殿 慶安4(1651)年 |
幣殿(北側) |
自証院(家光側室お振の方)霊屋 慶安5(1652)年 家光の長女で尾張徳川家の光友に嫁いだ千代姫の建立 |
尾張徳川家の造営だが 棟書に幕府作事方大棟梁の甲賀(甲良)宗清の名が確認された |
和様建築で高い格式を表す折り上げ格天井 |
元は新宿区にあったが現在は江戸東京たてもの園に移築・修復されている |
応仁の乱以降荒廃していた京都をまず復興させたのは豊臣秀吉で、現在の街割りもその時の都市計画に基づいたものだ。息子の秀頼もその方針を継承し、相国寺の法堂や東寺(教王護国寺)金堂、北野天満宮などを再建している。
相国寺 法堂 慶長10(1605)年 豊臣秀頼造営 |
そうした寺社造営の一貫で方広寺の鐘事件が起こり、大坂の陣と豊臣家の滅亡に至ったのだが、その秀頼による方広寺の大仏殿の建造には幕府の技術者集団(中井家)が参加していたことが、残された図面から分かっている。
方広寺 「国家安康 君臣豊楽」の梵鐘 慶長19(1614)年 明治時代再建の鐘楼を修理中 |
大工頭中井家建築図集 方広寺大佛殿図 慶長13(1608)年 |
定説では、家康は関ヶ原の戦い後か幕府を開いた時には既に秀頼を滅ぼすことを考えていて、陰謀をめぐらし機会をうかがっていたかのように言われているが、方広寺の再建に幕府が協力していることを考えると、いささか疑問も出て来る。
都名所図会 大仏殿 安永9(1780)年 |
なおこの方広寺の大仏は、奈良・東大寺よりも大きい高さ19mで、大阪城の落城と豊臣家の滅亡後も、江戸時代を通じて京都で人気の観光名所であり続けた。「大仏」といえば奈良・東大寺や鎌倉高徳院以上にこの京都大仏であり、寛永寺の大仏も奈良よりはむしろ、この京都大仏を模したものだ。
一度は幕府の京都所司代が朝鮮通信使の接待で大仏を見せてあげようと連れて行ったところ、自国を侵略して暴虐の限りを尽くした秀吉の寺だと知った国使が怒り出し、大騒ぎになったこともある。
秀吉の創建当時の方広寺の本尊は、信州長野の善光寺の秘仏本尊をまず武田信玄が甲府に移し、それを今度は織田信長が武田勝頼を滅ぼした際に奪ったその秘仏で、さらに大仏の建立も始めさせていた。この造りかけの大仏が慶長の伏見大地震(1596年)で倒壊して一事は頓挫、秀頼がその遺志を継いで完成させた京都大仏の正面が、今は豊国神社の境内だ(参道には今でも「大仏前郵便局」などがある)。
豊国神社 唐門 伝・旧伏見城遺構 旧南禅寺金地院勅使門 |
現在の豊国神社は、明治の神仏分離令と廃仏毀釈で政府に没収された方広寺の境内地の正面部分に建っている。豪勢な唐門はかつての伏見城の遺構とされるが、直接には家康の側近・以心崇伝の住居であり塔所だった南禅寺の金地院から没収して移築したものだ。
死後いったん神格化された秀吉だが、徳川幕府の成立後その神格は剥奪されていた。明治政府が豊国神社を復興させたのは、明治天皇が将軍位を狙わなかった秀吉を忠義の者だと評価したからだ、と言うことになっている。
秀頼の大仏は寛文2(1662)年の地震で倒壊し、すぐに木造で再建された。これが今度は寛政10(1798)年に落雷で焼失し、天保年間(1831-45)に肩から上のみの半身像と小さな大仏殿が元の大仏殿の敷地の後方に作られ、この三代目の大仏は昭和48(1973)年に放火に遭うまで残っていた。
跡地は現在、大仏殿跡公園になっているが、ここから豊国神社の社殿にかけて建っていたのが、かつての巨大な大仏殿だ。
やはり応仁の乱後は荒廃していた臨済宗の京都五山別格筆頭の南禅寺も、往事を務めた以心崇伝が家康から家光までのブレーンとして活躍(武家諸法度、公家諸法度なども執筆)したのに合わせて、将軍家だけでなく諸大名や朝廷の援助を受けて伽藍の復興を果たした。
崇伝の住居だった南禅寺の塔頭・金地院には将軍家の茶の湯の師匠で作治方奉行・小堀遠州の設計した東照宮が造られた。また遠州は家光が金地院を訪ねた際に方丈前に「鶴亀の庭」も造っている。南禅寺本坊の大方丈前の「虎の子渡しの庭」も遠州の作庭だ。
家光は家康の構想した利根川の東遷や江戸城の建築・江戸周辺の水路の造成などの大土木事業を完成させた一方で、日光東照宮の建て直しに併せて日光山輪王寺の復興伽藍も整備し、江戸では寛永寺を造営し浅草寺の伽藍も再建、紫衣事件に際して一度は追放した沢庵宗彭(1573-1646)を江戸に招いて東海寺も建立している。
また上方では応仁の乱以降荒廃していた清水寺、門跡寺院(親王・内親王が住職を務める寺)筆頭の仁和寺、東寺の五重塔、石清水八幡宮の社殿、家康の造営後に落雷で焼失していた知恩院の御影堂、葵紋の徳川にとって氏神にあたる下鴨神社の寛永の式年造替、そして信長の焼き討ちでほぼ全焼していた比叡山延暦寺など、数多く多くの寺社を再建した。
それはいわば、「戦国時代」を終わらせ泰平の時代を維持する徳川家の決意をもっとも分かり易く示すことができる「見せる政治」だった。
放火で焼失した天保期の大仏殿の跡地の公園 |
跡地は現在、大仏殿跡公園になっているが、ここから豊国神社の社殿にかけて建っていたのが、かつての巨大な大仏殿だ。
秀吉の創建当時の方広寺は平安末期に後白河法皇が創建した蓮華王院(三十三間堂・現在の建物は鎌倉時代の再建)まで含む広大なものだった。今でも南東に安土桃山時代の巨大な南大門と「太閤塀」と呼ばれる築地塀が残っているが、元々はここが方広寺の南限だった。
蓮華王院(旧方広寺)南大門 慶長5(1600)年 太閤塀 |
また東寺(教王護国寺)の現在の南大門は、方広寺の西門が明治時代に移築されたものだ 。
蓮華王院本堂(三十三間堂)文永3(1266)年 |
なお豊国神社は廃止し方広寺の秘仏本尊も善光寺に戻させた徳川幕府だが、必ずしも秀吉の記憶をないがしろにしたわけではない。 方広寺は存続されただけでなく、幕府はその修理再興の支援を諸大名に命じてもいた。
高台寺 慶長11(1606)年 観月台 開山堂 御霊屋 庭園は小堀遠州作 |
また家康は秀吉の正室だった高台院(北政所、おね)が秀吉の菩提を弔う高台寺を建立した際にも、資金を負担している。
高台寺開山堂 禅宗には珍しい折り上げ格天井など豪華な意匠 |
徳川家の元々の宗派である浄土宗の総本山・知恩院は、家康が征夷大将軍の宣下を受けるために上京した際に永代菩提所に定め、秀忠・家光にわたる三代の寄進・造営で壮大な伽藍が整備された。
知恩院 三門 元和2(1621)年 徳川秀忠の寄進 |
三門楼上 天井の龍は狩野探幽の筆 |
知恩院 御影堂 まず家康が寄進造営したが焼失 家光が再建 平成30(2018)年いっぱいまで平成の大修理中 |
知恩院 御影堂 寛永16(1639)年 三代家光の造営 |
知恩院 御影堂 |
徳川の支援以前の御影堂 室町時代 享禄3(1530)年 現在は法然上人の本地仏である勢至菩薩を祀る本地堂(勢至堂) |
経蔵 元和7(1621)年 二代秀忠寄進 宋版大蔵経六千巻を納める |
大方丈と庭園 |
大方丈(左)小方丈(右)寛永18(1641)年 |
知恩院 大鐘楼と大梵鐘 寛永13(1636)年 |
やはり応仁の乱後は荒廃していた臨済宗の京都五山別格筆頭の南禅寺も、往事を務めた以心崇伝が家康から家光までのブレーンとして活躍(武家諸法度、公家諸法度なども執筆)したのに合わせて、将軍家だけでなく諸大名や朝廷の援助を受けて伽藍の復興を果たした。
南禅寺 三門 寛永5(1628)年 家康の腹臣だった藤堂高虎の建立 |
南禅寺大方丈 慶長16(1611)年に御所の対面所を寄進されたもの |
小方丈 伏見城の書院を移設したとされる |
大方丈 |
小堀遠州 作庭「虎の子渡しの庭」南禅寺大方丈 |
狩野永徳 南禅寺大方丈「鳴滝の間」障壁画 |
狩野探幽 小方丈「虎の間」障壁画「水呑之虎」 |
大方丈と小方丈の屋根 |
南禅寺 三門 寛永5(1628)年 |
崇伝の住居だった南禅寺の塔頭・金地院には将軍家の茶の湯の師匠で作治方奉行・小堀遠州の設計した東照宮が造られた。また遠州は家光が金地院を訪ねた際に方丈前に「鶴亀の庭」も造っている。南禅寺本坊の大方丈前の「虎の子渡しの庭」も遠州の作庭だ。
家康の遺言で南禅寺金地院内に建てられた東照宮 小堀遠州作 寛永5(1628)年 拝殿・幣殿・本殿 |
拝殿内には土佐光起の三十六歌仙図が掲げられている |
南禅寺金地院 大方丈 慶長16(1611)年 |
小堀遠州 南禅寺金地院方丈前庭「鶴亀の庭」 |
家光は家康の構想した利根川の東遷や江戸城の建築・江戸周辺の水路の造成などの大土木事業を完成させた一方で、日光東照宮の建て直しに併せて日光山輪王寺の復興伽藍も整備し、江戸では寛永寺を造営し浅草寺の伽藍も再建、紫衣事件に際して一度は追放した沢庵宗彭(1573-1646)を江戸に招いて東海寺も建立している。
また上方では応仁の乱以降荒廃していた清水寺、門跡寺院(親王・内親王が住職を務める寺)筆頭の仁和寺、東寺の五重塔、石清水八幡宮の社殿、家康の造営後に落雷で焼失していた知恩院の御影堂、葵紋の徳川にとって氏神にあたる下鴨神社の寛永の式年造替、そして信長の焼き討ちでほぼ全焼していた比叡山延暦寺など、数多く多くの寺社を再建した。
比叡山延暦寺 根本中堂 寛永19(1642)年 信長に焼き討ちされ三代家光の再建 |
延暦寺根本中堂 正面 現在は2026年完成予定の大修復工事中 |
延暦寺根本中堂 外陣 |
明治時代の文化財調査で撮影された根本中堂内陣の中央厨子 最澄の作とされる秘仏の薬師如来像を安置 内陣の撮影はまず許可されない |
それはいわば、「戦国時代」を終わらせ泰平の時代を維持する徳川家の決意をもっとも分かり易く示すことができる「見せる政治」だった。
清水寺 本堂中陣 寛永10(1633)年 |
こうした大名たちの寺社への貢献は、学校で習う日本史や大河ドラマ、歴史小説や最近の戦国時代ゲームなどでは無視されがちだ。
今もある寺の檀家制度が、寺が住民登録を担い身許証明の手形なども発行した江戸時代の制度から始まっていることくらいは教科書にも出て来るが、江戸幕府が仏教を篤く保護して寺社の造営に熱心だったのは、単に吉支丹(切支丹)を禁じた宗教政策があったからだとか、そう言う理由だけではない。
戦国大名たちも殺人に良心の呵責を感じたり天罰・仏罰を恐れたりはしなかったかといえば、むしろ真逆だ。たとえば武田信玄は俗名は晴信で「信玄」は法名、出家しての名前だし、上杉謙信が信仰に篤く毘沙門天を崇拝していたのも有名だ。
勝負ごとはしょせん時の運というだけでも「神仏の加護」が重要だったことももちろんあるだろうが、戦争という暴力の行使だけでなく、権力闘争で肉親すら手に掛けることも少なくなかった(たとえば武田信玄は父信虎を殺しこそしなかったが追放し、長男は自害に追い込んでいる)一方で、だからこそ多くの武将が神仏にすがり許しを請わずにはいられなかったのも、また自然な感情だろう。
家康も「厭理穢土 欣求浄土」という浄土宗の言葉を馬印にしていた。その彼もまた、同盟を組んだ織田信長に強要されたとはいえ、妻の築山殿(瀬名)を殺害し、息子の信康を自刃させるなど、菩提を弔い許しを請わなければならないものは決して少なくなかった。
延暦寺を焼き討ちし、本願寺派の庶民一揆勢力を大量虐殺、はては弘法大師空海の入定した真言宗の至高の聖地・高野山まで攻め滅ぼそうとしていた信長という希有というか異常な例外だけを見て、戦国時代の日本やその武将たちを分かった気になってはいけない。
むしろ織田政権が信長と長男の信忠の殺害で事実上終演し、息子や弟達が継承できなかったのは、あまりに罰当たりで不徳というか、人を殺し過ぎ仏教を軽んじ過ぎたので人心を失った結果ではないか。本能寺の変はミステリーでもなんでもなく、明智光秀でなければ織田家臣団の誰かが身の危険や天下の行く末を案じていずれは信長を討っていただろう。俗説で家康も含めた様々な黒幕説が絶えないのも、誰が「もうついて行けない」と思ってもおかしくなかった(つまり誰にでも、自分が殺さなければ信長に殺されるかも、という動機があった)からだ。
豊臣家も無謀な朝鮮出兵などの晩年の秀吉の横暴の当然の結果としてやはり短命に終わり、やっと平和な社会構築の出発点に立った徳川にとって、戦国時代に荒廃した寺社の復興事業は、これほどの財力と精力を軍事ではなく信仰と文化に注いでいるという事実それ自体も含めて、まさに「見せる政治」だった。
清水寺 三重塔 寛永9(1632)年 |
清水寺 奥ノ院 寛永9(1632)年 |
本堂と舞台 寛永10(1633)年 |
今もある寺の檀家制度が、寺が住民登録を担い身許証明の手形なども発行した江戸時代の制度から始まっていることくらいは教科書にも出て来るが、江戸幕府が仏教を篤く保護して寺社の造営に熱心だったのは、単に吉支丹(切支丹)を禁じた宗教政策があったからだとか、そう言う理由だけではない。
寛永寺清水観音堂 寛永8(1631)年 |
戦国大名たちも殺人に良心の呵責を感じたり天罰・仏罰を恐れたりはしなかったかといえば、むしろ真逆だ。たとえば武田信玄は俗名は晴信で「信玄」は法名、出家しての名前だし、上杉謙信が信仰に篤く毘沙門天を崇拝していたのも有名だ。
勝負ごとはしょせん時の運というだけでも「神仏の加護」が重要だったことももちろんあるだろうが、戦争という暴力の行使だけでなく、権力闘争で肉親すら手に掛けることも少なくなかった(たとえば武田信玄は父信虎を殺しこそしなかったが追放し、長男は自害に追い込んでいる)一方で、だからこそ多くの武将が神仏にすがり許しを請わずにはいられなかったのも、また自然な感情だろう。
家康も「厭理穢土 欣求浄土」という浄土宗の言葉を馬印にしていた。その彼もまた、同盟を組んだ織田信長に強要されたとはいえ、妻の築山殿(瀬名)を殺害し、息子の信康を自刃させるなど、菩提を弔い許しを請わなければならないものは決して少なくなかった。
現在の根本中堂に引き継がれている東山天皇による「瑠璃殿」の勅額 |
延暦寺を焼き討ちし、本願寺派の庶民一揆勢力を大量虐殺、はては弘法大師空海の入定した真言宗の至高の聖地・高野山まで攻め滅ぼそうとしていた信長という希有というか異常な例外だけを見て、戦国時代の日本やその武将たちを分かった気になってはいけない。
むしろ織田政権が信長と長男の信忠の殺害で事実上終演し、息子や弟達が継承できなかったのは、あまりに罰当たりで不徳というか、人を殺し過ぎ仏教を軽んじ過ぎたので人心を失った結果ではないか。本能寺の変はミステリーでもなんでもなく、明智光秀でなければ織田家臣団の誰かが身の危険や天下の行く末を案じていずれは信長を討っていただろう。俗説で家康も含めた様々な黒幕説が絶えないのも、誰が「もうついて行けない」と思ってもおかしくなかった(つまり誰にでも、自分が殺さなければ信長に殺されるかも、という動機があった)からだ。
豊臣家も無謀な朝鮮出兵などの晩年の秀吉の横暴の当然の結果としてやはり短命に終わり、やっと平和な社会構築の出発点に立った徳川にとって、戦国時代に荒廃した寺社の復興事業は、これほどの財力と精力を軍事ではなく信仰と文化に注いでいるという事実それ自体も含めて、まさに「見せる政治」だった。
上野戦争で明治新政府に焼き払われた根本中堂の鬼瓦 |
それに凄惨な戦国時代が100年以上続いた以前から、日本人は天罰と死者の “祟り” を深く恐れて来た民族だった。なにも怪談話だけではない。寺社の縁起などをみても、近代以前の日本人にとって「死者が祟る」、その恨みを恐れることは「迷信」ではなく当然の価値観であり生活実感だった。
たとえば天満宮は左遷先で憤死した菅原道真が “祟って” 御所に雷となって落ちて来たので、神として祀ったのが起源だ。
北野天満縁起絵巻 甲巻 鎌倉時代13世紀 |
北野天満宮 三光門 慶長12(1607)年 現在の社殿は豊臣秀頼の再建 |
北野天満宮の重厚で豪華な拝殿 豊臣秀頼の再建 |
北野天満宮 本殿 豊臣秀頼造営 徳川はこの豪華さに対抗する必要もあった |
江戸時代に船乗りの守り神として全国規模の人気を集めた四国・讃岐の金毘羅宮の祭神は、この道真と並ぶ「日本三大怨霊」のひとり崇徳上皇だ。
京都・安井金毘羅宮のすぐ北にある崇徳上皇の墓所 |
歌川豊艶 為朝誉十傑 白逢姫と崇徳院 |
もちろん戦国時代に人を殺しまくり、「祟り」の原因を作りまくったのは信長だけではない。豊臣秀吉は自分の兵に膨大な犠牲が出る人海戦術すら平然と実行し、息子の秀頼が産まれれば養子の秀次を切腹させただけでなく、その側室や奥女中など36名を賀茂川の河原で見せしめに処刑した。また日本ではほとんど知られていないが、朝鮮出兵で秀吉がやらせた戦い方は農村や町を平然と皆殺しにするなど、凄惨極まりなかった。
寛永寺に葬られている五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」は、明治以降の日本人が考える(新渡戸稲造的な)「武士道」からすると、およそ異様に思えるかも知れないが、実のところ徳川の施政方針の基本からそう逸脱したものではないことは、家光の代に作られた日光と上野の東照宮の装飾の意匠を見てもわかる。
上野東照宮 透塀の透かし彫り 徳川家光の造営 |
上段は陸の花鳥や動植物 下段は海や川の魚や貝や水鳥 |
確かに幕府財政は綱吉の代に逼迫し始め、幕府は恒常的に物価の安定に腐心し、年貢米を現金化する際の米価の下落もあって財政難に苦しみ続けることになった。家康は幕府金蔵に300万両を遺したと言われるが、八代吉宗の就任時には30万両にまで減っていたという。
だがこれは明治以降の俗説に言われるように、綱吉がぜいたくな放漫財政に耽溺したからではない。
徳川綱吉 不動明王 元禄8(1695)年 霊雲寺蔵 |
まずインフレと米価の下落は、経済学の観点からみれば、戦国時代を終わらせ泰平の時代に国を富ませようとした家康以来の目標が思いのほか成功したことの、必然的な結果だ。
河川の整備や大規模な新田開発を進めて農業生産能力を高め、統一貨幣制度を日本史上初めて導入し、五街道をはじめとする道路網や江戸、大坂を中心とする水上交通網も整備して経済流通が盛んになれば、当然ながら好景気のインフレ基調になるし、富と価値観の多様化の当然の結果として米の価値は相対的に下落し、年貢米に依存した幕府や諸大名の財政は苦しくなる。
家光の側室で綱吉の生母 桂昌院 奈良・長谷寺蔵 |
また綱吉の代に幕府の出費が増大したのも、東叡山寛永寺を始めとする寺社の整備や、希望する者は庶民でも無償で学べる昌平坂学問所(昌平校)の設立など、要するに文化政策での支出が、明治以降はあたかも綱吉の身勝手なぜいたくのように歪められて伝えられているに過ぎないし、またこうした政策が綱吉に始まったものではないことも、これまでも見て来た通りだ。
京都 嵯峨野釈迦堂(清涼寺)本堂 元禄8-14年 五代綱吉生母桂昌因の寄進 |
綱吉が生母・桂昌院の身勝手な放埒を許して幕府財政を傾けたかのように思われているのも、実際には母の名で奈良の春日大社や東大寺や新薬師寺、京都の清涼寺、長野の善光寺などの名刹を再建・再興したことだった。
新薬師寺(奈良市)金堂 天平時代8世紀 桂昌院の寄進で 大規模な修理が行われた 同時期に唐招提寺も大修理が行われている |
桂昌院は京都の町衆の出身(俗説に「八百屋の娘」とも)で、将軍家に生まれぜいたくな庇護の下に育って価値観が歪んでしまいかねない将軍の子に庶民感覚というか、一般人の生活感覚や人命の尊重を教え、それが綱吉の福祉重視政策にも影響したのではないか、というのが昨今の評価だ。
新薬師寺本堂の本尊前の柱には桂昌院の寄進で修理が行われた際の、葵紋をあしらった彩色が残っている(ほぼ同じ装飾は、桂昌院発願の江戸の護国寺の内陣にも見られる)。
同じく奈良の春日大社には、桂昌殿と呼ばれる桂昌院寄進の建物が回廊のすぐ西にある。
春日大社 桂昌殿 |
ちなみに新薬師寺には、徳川将軍家の歴代の位牌が納められている。
新薬師寺 今は鐘楼内に安置されている徳川歴代将軍の位牌 |
かつての江戸、現在の東京都内では、音羽の護国寺が綱吉の寄進した桂昌院発願の寺として名高い。
護国寺 惣門(御成門) 元禄時代 寺社の三門でなく大名屋敷の形式 |
元は幕府が薬草の栽培をさせていた高田薬園があった江戸の郊外だが、護国寺の建立によりその門前は人気の観光・行楽地としてにぎわうようになった。
護国寺 仁王門 元禄時代1700年頃 |
たとえば江戸城大奥の奥女中は、特別な理由がない限り城外にでることが許されなかったので、寺社への参詣は外出の格好の口実になり、将軍家の祈願寺となった護国寺はとりわけうってつけだった。門前町にはそうした奥女中が恋人と密会するのに使える水茶屋なども多かったという。
護国寺 天和元(1681)年 桂昌院の発願により創建 |
護国寺の本尊は桂昌院の持仏の中国渡来の琥珀の観音像で、完全な秘仏になっているが、それを祀るための巨大な本堂(観音堂)が建立されたのはさらに大きい寛永寺の根本中堂の造営の前年で、この時はわずか半年で完成したという。
護国寺本堂(観音堂) 元禄10(1697)年 |
護国寺の創建は天和元(1681)年 現本堂はその16年後に半年で造営された |
護国寺 本堂 寛永寺根本中堂の焼失後では都内最大級の木造建築 |
この翌年に綱吉は寛永寺の根本中堂を完成させた |
本尊の桂昌院所持の琥珀製の観音像は絶対秘仏 お前立ち本尊の如意輪観音坐像(元禄13[1700]年)は毎月18日に開張される |
金箔に彩色をふんだんにほどこした豪華な内陣と厨子 |
護国寺本堂(観音堂) 元禄10(1697)年 |
また根津権現(現・根津神社)の社殿は、綱吉が甥の甲府大納言綱豊(六代将軍家宣)を将軍世嗣と決めた祝賀のため、甲府徳川家が屋敷地を寄進し、綱吉が建てさせたものだ。
根津権現 拝殿 宝永3(1706)年 |
それに綱吉の代に幕府が財政危機に陥った最大の理由は、治世の末期に元禄の関東大地震(元禄16年・1703年)と、4年後に宝永の東南海地震、立て続けにその49日後には富士山の宝永大噴火(宝永4年・1707年)と、大規模災害が相次いだことだった。
湯島聖堂 旧 昌平坂学問所 入徳門 宝永元(1704)年 ほとんどが関東大震災で焼失したなかで唯一の綱吉時代の建物 |
常憲院殿霊廟の惣門・二天門 今の台東区立上の中学校辺り |
「生類憐れみの令」を理由に綱吉を暗愚の君のようにみなすのは、むしろ後世、とくに近代以降の偏見だ。後世に悪名高い犬の保護施設を現代の中野駅のあたりに作ったのは、江戸市中に溢れていた野犬・野良犬対策で(現代なら殺処分になるが)、後世言われるようにことさら犬を人間より大事にさせようとしたわけではない。
幕末〜明治初期の彩色白黒写真 勅額門の向こうに鐘楼と拝殿が見える |
それに仏教の殺生戒では、すべての生命を尊ばなけらないのも確かだ。「生類憐みの令」はそもそも理念法で、綱吉が狙ったのは生命を尊ぶ道徳規範の奨励することであり、戦国時代まで要するに暴力の行使こそが仕事だった武士を、泰平の新時代に合せた価値観で戒めるための意味合いが大きかった。
実際に反発があったのも、泰平の治世が確立されて武勇よりも学門や官僚的な実務能力が重んじられるようになった幕府の方針への、旧来の(戦国時代的な)価値観に囚われた武家からの不満が大きかったようで、実際の記録によれば処罰されたのもこれ見よがしに反発した武士ばかりだ。
空襲を焼け残った水盤舎 右手に奥ノ院の入り口 |
学門と仏教を重んじた綱吉はいささか抹香臭い公方様だったとは言えるかも知れないし、明治以降の新渡戸稲造的な「武士道」「侍の国」イメージには反するとしても、そもそも家康が武勲はないが丁寧で几帳面な性格で面倒見がよいので人望が厚く、平時の実務能力に長けた秀忠に将軍位を譲って以来、徳川のもっとも基本的な方針は、人命の尊重と殺し合い・内乱の防止だった。
常憲院殿霊廟 手前が本殿 奥の一段高い棟が本殿 |
家康没後の秀忠と、その息子の家光も、武家どうしの争いや専横、暴力の行使を抑えることに心血を注いだ。家光の子である家綱と綱吉は、その方針をさらに進めて、戦国時代風の武家の力(暴力)の支配から、文治政治の平和統治への転換を計っていく。
綱吉は学問を奨励し儒教朱子学を庶民でも希望すれば無償で学べるように昌平校を解放したが、儒教道徳で厳しく自らを律するよう求められたのは支配階級の武家と一部の高い格式のある家で、一般庶民に強要されたわけではない。
常憲院殿霊廟 本殿脇にあった奥の院に向かう唐門 |
士農工商という身分制度もずいぶん誤解されがちだ。大名行列は平身低頭しなければならないものではなくてむしろ大勢の見物客を集めるものだったし、武家が名誉を毀損されたら「切り捨てご免」でお構いなしというのは、後世の神話だ。
名誉を傷つけられたから、と言っても即座に届け出た上でどうしても許し難い侮辱があった事実を立証できなければ、切腹どころか打ち首獄門さえ覚悟しなければならなかったのが実際の法制度だったし、そうやって届け出た後も、いかなる理由があっても人を殺めた罪そのものは深く反省する印として、まず真っ先に蟄居が申しつけられた(蟄居しながら証拠や証人探しもやるのは大変、というか無理)。
本当に「切り捨てご免」をやった武士が徳川幕府250年の歴史の間にどれだけいたかも怪しいというか、実際の意味合いは逆で、戦国時代の気分が抜け切らない武家がみだりに庶民を斬ることを禁じるために厳しい条件を課した制度だったと考えられる。
現在は深い森になった奥ノ院を囲む石垣は幕末〜明治初期に作られた |
現在の常憲院殿霊廟 左の位牌堂は戦後に建てられたもの |
徳川将軍家の統治の基本の哲学では、武家である大名が各潘の統治者と言っても「当座の者」に過ぎず、民百姓をこそ「末代までの者」、つまりその土地の真の住人とみなし、諸大名にとっては将軍家と、究極的には天皇からの「お預かりしたもの」として大切にすることが求められた。武家にとって年貢米が主要な収入でもあった以上は当然でもあったが、農村の生活を守ることは幕府が諸大名に課した最大の責任となった。生活が成り立たなくなった農民が土地を去り村が途絶えることは「亡所」と言われ、領内で一村でもそういう状態になれば、それだけで領主は責任を問われ、取り潰しの対象になりかねなかった。
また家康が始めた大規模治水工事と用水路、運河の整備、それを引き継いだ三代家光の江戸城外堀の建設などの、江戸を中心とした大規模な「天下普請」は、労働力が地方から流入することで江戸の人口増加を狙った政策でもあった。
こうした徳川の絶対平和主義の統治の下で、人口も全国で増加し、農業生産も経済も順調に成長を続けた。とりわけ都市は急速に発展し、江戸は綱吉の時代には世界最大級の、確認できる限りでは当時の世界でもほとんど唯一の100万都市になっていた。
しかもその江戸の行政と治安の責任を担う南北の江戸町奉行所には、同心が200名しかいなかったという(南北で月毎の輪番制なので実際に職務にあったのは100人という計算になる)。町人の自治が尊重され、治安の維持にも庶民が積極的に参加していたのだ。
北斎 仮名手本忠臣蔵 初段・大序 |
国芳 仮名手本忠臣蔵 三段目・刃傷 |
だが武家の暴力と殺生に厳しく対処して人命尊重を第一とする幕府の基本方針を綱吉が確立した中で、浅野長矩が吉良上野介に斬りつけたことに正当化できそうな動機がまったく分からない(浄瑠璃と歌舞伎では高師直が塩谷判官の妻に横恋慕してセクハラ、近現代に流布した俗説では吉良の賄賂要求となっているが、どちらも根拠はない)、しかも本人もなにも言わなかったのでは、綱吉の苦渋の決断はそうおかしなことではない。
しかも刃傷事件が起きたのは、朝廷から派遣された勅使を迎える儀式でだった。これでは厳罰で臨むしかないのも、綱吉の立場としては当然だ。幕府は家光の代に禁中公家諸法度を出し朝廷や公家も管理下に置いてはいたとはいえ、決して天皇を軽んじていたわけではない。
渓斎英泉 江戸八景 上野の晩鐘 右から清水観音堂 文珠楼(吉祥閣) 大仏殿 |
征夷大将軍位は天皇から授けられ、天皇からその民を預かっているのだし、直接の権力行使はしないからこそ、天皇は平和な統治と人々の安定した生活を精神的に担保する重要な象徴的権威だった。その権威を尊重は、徳川が進める絶対平和主義の政策のなかでも極めて重要だったのだ。
桜の季節の清水観音堂 |
だいたい(繰り返しになるが)東叡山寛永寺も門跡寺院、つまり皇族が住職を務める寺とすることは天海の宿願でもあった。
天海と家光によって徳川の聖地になった上野は「将軍家の菩提寺」で住職も皇族なのだから、身分の高い人専用だったのではないか、と現代人は誤解するかも知れないが、瑠璃殿(根本中堂)を中心とする大伽藍など、誰でも参拝できた。むしろ誰もが来る場所だからこそ分かりやすく魅力的な、華麗で美しい伽藍が必要だったのだ。
甲良宗広 上野東照宮五重塔 寛永16(1639)年 四隅の軒下には方位守護の龍 さらに初層には各面三つずつ十二支が配されている |
日光東照宮五重塔 文政元(1818)年 同様に初層には十二支 |
家光は上野東照宮の華やかさや、日光東照宮のほとんど装飾過多の贅沢さを、誰もが見ることのできた寺社の様式では突き詰めた。
日光東照宮 二ノ鳥居と陽明門 |
唐門と拝殿 |
その一方で将軍家が自らの私的な使用や接待などのために作らせた、城内にあって一般の目に触れる機会の少ない建物となると、茶の湯と数寄の文化の影響もあってむしろ簡素で、デザインは洗練されていても華美は排したものが多かったりする。
家康が伏見城内に詰め所として建てた月華殿 慶長8(1603)年 横浜・三渓園に移築 |
江戸城奥御殿の一部を家光が川越喜多院に寄進した喜多院客殿 家光はこの建物のなかで産まれたとも言われる |
喜多院書院 江戸城本丸奥御殿の一部を家光が寄進した |
喜多院本坊 式台玄関 江戸城本丸奥御殿の一部を移設 |
二条城内に家光が造らせた「三笠閣」元和9(1623)年 横浜・三渓園 |
旧 紀州徳川家別邸「巌出御殿」慶安2(1649)年 横浜・三渓園 |
四代家綱が紫衣事件で父・家光と対立して抗議の退位をした後水尾上皇と中宮和子(秀忠の娘で家綱にとっては伯母)のために造営した修学院離宮も、洗練された数寄趣味の極致ではあるが、まったく華美ではなく、簡素の極みですらある。
家綱が後水尾上皇のために造営した修学院離宮 下御茶屋御座所・寿月観 |
寿月観の上皇の御座所 |
修学院離宮 上御茶屋 窮邃亭の御座所 |
日光東照宮や輪王寺も、江戸から物見遊山の旅行に出かけるには手軽な距離の日光に、江戸市民をはじめとする一般庶民に見せるためにこそ作られたものだ。
日光東照宮 庶民の参拝を前提とした部分 上神庫 鐘楼 陽明門 |
墓所だけに陽明門より奥に入るのは当初は諸大名だけで、昇殿は大名でも一部に限られ、奥ノ院への墓参は将軍家と親藩のみだったものの、陽明門までの参拝は身分に関係なく誰でもできたし、現に日光街道の整備のおかげもあって、日光は江戸から手近な人気の観光地になった。
ちなみに参拝では身分に関わらず裃(かみしも)を着るのが作法とされ、門前町では貸衣装屋も繁盛したという。格式ばった権威主義というよりは今風に言えば一種のコスプレを楽しむような感覚だったのかも知れない。
陽明門両脇の回廊(国宝)ここまでは誰でも参拝できた 下部には西洋の燭台のようなエキゾチックな意匠も |
上野東叡山に豪華な美意識の粋を集めたのも江戸庶民相手の政策であり、天海が琵琶湖に見立てた不忍池や清水寺を模した清水観音堂を発案したのも庶民の京や上方への憧れに応えるためでもあった。
上野東照宮 唐門 慶安4(1651)年 |
上野東照宮 拝殿 慶安4(1651)年 |
拝殿(右)と拝殿 |
右から拝殿 幣殿 本殿 典型的な権現造り |
台徳院霊廟や日光・上野の東照宮、大猷院殿霊廟の、拝殿と本殿を相の間(幣殿)でつなぐ「権現造り」は、北野天満宮(慶長12・1607年 豊臣秀頼の寄進)の、本殿と拝殿の間に屋根のある石の間を配した社殿の構成を発展させたものだ。
日光東照宮はその過渡期の段階とも言え、北野天満宮と同様に拝殿と本殿のあいだは本来床がない土間造りで一段下がった格好になり(現在は畳が敷かれている)、本殿の前面は重厚な、金箔に牡丹の彫刻を配した扉が塞ぎ、内部から見ると独立した建物のような形だ。
北野天満宮 左が本殿で右が拝殿と楽の間 両者をつなぐ石の間の屋根 |
石の間 |
石の間内部 左が拝殿 右が本殿 屋根はつながっているが 本殿の前面は別個の建造物という体裁 |
日光東照宮はその過渡期の段階とも言え、北野天満宮と同様に拝殿と本殿のあいだは本来床がない土間造りで一段下がった格好になり(現在は畳が敷かれている)、本殿の前面は重厚な、金箔に牡丹の彫刻を配した扉が塞ぎ、内部から見ると独立した建物のような形だ。
日光の大猷院殿本殿(本堂)側面の扉 日光東照宮では 石の間から見ると本殿の前面にはこれと同様の扉がある |
金地院東照宮(南禅寺金地院内)の幣殿の床は一段低いが、上野東照宮や日光の大猷院殿では幣殿と拝殿は同じ高さの床でつながっている。上野東照宮の場合は横からは幣殿が一段下がっているように見えるが、この扉の中にはすぐ階段があり、拝殿と同じ高さの床に上がるようになっている。
上野東照宮 幣殿 慶安4(1651)年 |
このように本殿と拝殿のあいだを床も貼り壁で囲って完全に屋内になる幣殿でつないだ「権現造り」が、その後現代に至るまで神社建築の基本形になった。
反対側(北側)より 拝殿の屋根 幣殿 本殿 |
上野東照宮 本殿 2015年の徳川家康400年忌に修復 8億円かかったという |
ただし今日でも京都などの神社では、権現造りとは異なった、近世以前の構成が多い。本殿は一個の独立した建築物で、その前の拝殿や幣殿、舞殿などは離れた別個の建築物として、あいだを空けて建てられ、通常の祭事はそのなかで、本殿前の特別な祭事は屋外で執り行なわれる。
現存最古の神社建築と言われる宇治上神社 平安時代後期の流れ造り屋根の本殿 手前に拝殿の屋根が写る |
手前が平安後期の本殿 鎌倉時代の拝殿を見下ろす |
本殿正面 格子戸の奥に三つの小さな社があり 本殿はいわばその三つの社殿の覆い屋になっている構造 |
寝殿造りの拝殿 鎌倉時代 |
中世には本殿の前の拝殿や幣殿から伸びた塀や回廊で本殿を取り囲み、いわば本殿を隠して特に正面の全体を見せない形式が普及した。春日権現(春日大社)や加茂御祖社(下鴨神社)、加茂別雷社(上賀茂神社)のようなとくに格が高い社では、本殿がほとんど見えない。
圓城寺(三井寺)南院の鎮守・三尾神社 滋賀県大津市 手前の本殿(鎌倉時代・重文)は拝殿と連続した塀に囲まれている |
家康が神格化されることになり、久能山から日光に改葬される途中に川越の喜多院に立ち寄った際に天海が法要を執り行った仙波東照宮(埼玉県川越市・喜多院内)の社殿も、拝殿は透塀で囲まれた本殿から独立した、別の棟になっている。
仙波東照宮(埼玉県川越市) 川越の大火で焼失後寛永17(1640)年再建 |
仙波東照宮 本殿 中世に確立した流れ造りを踏襲した独立した建築 |
拝殿の内部には岩佐又兵衛の三十六歌仙図が飾られている |
家光が上野東照宮の二年前に造営した浅草寺の三社権現(明治の神仏分離令で浅草神社に改称)の現社殿は、屋根だけがある開放的な、回廊のような「石の間」で本来は独立していた拝殿と本殿をつなぐ、いわば権現造りに至る過渡期の形式だ。
三社権現(浅草神社)拝殿 慶安2(1649)年 |
拝殿の板唐戸をすべて開けた状態 奥の正方形に配置された柱の部分には壁がない |
この場合は床の高さは拝殿と同じで屋根もあるが、壁はなく、いわば本殿と拝殿が廊下で繋がれたような形だ。
左が孔雀と鳳凰の描かれた本殿 右が石の間 |
なお家光は三社権現とあわせて、金龍山浅草寺の本堂や楼門、五重塔などの壮大な伽藍も造営している。
浅草寺本堂(観音堂)昭和33年鉄筋コンクリートの再建 規模と形式は家光が慶安2(1649)年に造営した本堂(旧国宝)に基づく |
北斎 浅草金龍山観世音境内之図 |
東京大空襲であらかた焼失してしまったが、戦後に再建された本堂は、鉄筋コンクリートとはいえ家光造営の金堂と大きさや見た目はほぼ同じに作られている。
江戸時代には楼門(宝蔵門)の上層にも、常にではないが年中行事に合わせて登ることができ、江戸全市を一望できる眺めを多くの人が楽しんだという。
広重 江戸名所 浅草金龍山之図 当時は年に何度か楼門に登ることが出来た |
東京大空襲で焼失後 鉄筋コンクリートながら元の大きさで再建された楼門(宝蔵門) |
広重 六十余州名所図会 江戸・浅草の市 五重塔は現在と反対側にあった |
また家康の江戸開府時には江戸城内にあった、市中に時を報せるための「時の鐘」は、家光の代以降は寛永寺と浅草寺に置かれた。
浅草寺の時の鐘 元禄5(1692)年 綱吉による改鋳 鐘楼は戦後まもなくの再建 |
本坊の伝法院も徳川家により大書院、客殿などが整備され、寛永寺と日光山輪王寺の管主を務めた法親王(出家した皇族)が隠居後にしばしばここに住むようになった。
伝 小堀遠州作庭 浅草寺伝法院庭園 寛永年間 毎年春に一般公開される |
小堀遠州による庭園がは国の名勝、江戸時代当時の客殿や玄関などが重要文化財に指定されている。大書院は幕末に火災で焼失後、明治時代の再建だ。
こうした大掛かりな寺社の造営は、将軍家の権威を示す以上に、いわば庶民へのエンタテインメントの提供でもあった。
渓斎英泉 江戸名所尽 金龍山浅草寺雷門之図 |
雷門は幕末に焼失 現在の門は戦後に松下電器の寄進で再建 |
広重 名所江戸百景 浅草金龍山 安政3(1856)年 この出版時に雷門は焼失していた |
東門になる二天門は空襲などを焼け残った江戸時代初期の建物 |
また参拝やその周囲で行われる娯楽は経済活動や活発なコミュニケーションを促し、とくに江戸では地方出身者が多かったのをひとつの街にまとめて社会を安定させる効果もあっただろう。そして実際、江戸は直接に治安を担う町奉行所同心が南北両町奉行所合計で200名しかいなかったのに、治安はよかった。
広重 東都名所 上野東叡山 |
実際にはめったに雪が降ることのない冬の上野公園 |
上野からほど近い根津権現(現・根津神社)にも、綱吉の造営した豪華な社殿が残されている。
二代目広重 江戸名所図会 根津 |
根津神社 楼門 宝永3(1706)年 |
根津権現 唐門と拝殿 透塀 宝永3(1706)年 |
現在の境内地は後に六代将軍家宣となる甲府大納言綱豊が将軍将軍世嗣(次の将軍・世継ぎ)と決まったことを祝うため、甲府家がその屋敷地を寄進し、綱吉が社殿を造営したものだが、もともと庶民信仰の対象だ。
根津神社 右から西門 拝殿 幣殿 本殿 手前に透塀の屋根 |
歌川国貞 江戸名所百人美女 根津権現 |
江戸総鎮守の神田明神は、明暦3(1657)年の大火の後、江戸城の大改造に伴い遷移されたのが現在の、東側が崖になっていて眺望が広がる高台になった境内だ。ここに幕府が寄進した社殿もまた壮大で絢爛たるものだった(やはり東京大空襲で焼失)。
神田明神(神田神社)楼門 空襲で焼失後の再建 |
北斎 新板浮絵 神田明神御茶の水ノ図 奥に描かれているのは湯島聖堂 |
二代目歌麿 浮絵神田明神御祭禮之図 |
神田明神といえば神田祭りでも人気の、境内で産湯をつかることが江戸っ子の条件と言われたような、やはり庶民信仰の場だ。
広重 江戸名所 神田明神境内眺望 崖の上の高台の境内の向こうに眺望が広がる |
都市化が進み分かりにくいが神田明神の境内東側は崖になっている |
鎌倉の鶴岡八幡宮も現在の社殿も、麓の若宮が二代秀忠、上宮は十一代家斉による造営だ。もちろん信仰による幕府の権威付け(八幡宮は源氏の氏神で、徳川家は源氏の系譜)であったのも確かだが、現代人の、たぶんに西洋の影響を受けた感覚でいう「権威」、巨大な財力と権力を見せつけるような意味合いとは、ニュアンスがいささか異なる。
鶴岡八幡宮 上宮楼門 文政11(1828)年 |
やはり江戸から手近だった鎌倉は、綱吉と同時代の水戸徳川2代藩主・光圀が著書で紹介したのをきっかけに、人気の観光地化していたのだ。ちなみにこの光圀をモデルにした水戸黄門の諸国漫遊伝説は有名だが、実際の光圀は江戸と水戸の領国の往来と日光参拝以外では、鎌倉にしか旅行していない。
水戸家は尾張・紀伊と共に家康が息子を分家させた御三家だが、他の二藩と異なり将軍位の直接の継承権がなく、幕府内での政治的な役職を担えない立場の光圀は、綱吉以上に学問好きの趣味人だった。その片鱗は水戸家の上屋敷で今は都立公園になっている小石川後楽園に見ることができる。
大名庭園に水田があるのはさすがに珍しいが、儒教・朱子学の「徳治」思想の、君主は下々の生活を知らなければならないという教えに基づき、農耕図や庶民の祭礼の絵柄は大名家の城や屋敷の調度の障壁画や屏風絵の定番だった。また光圀が儒教や禅の研究に熱心だったことを反映し、中国故事に由来する中国趣味も随所に見られる。
小石川後楽園(旧水戸藩上屋敷庭園) |
大名庭園に水田があるのはさすがに珍しいが、儒教・朱子学の「徳治」思想の、君主は下々の生活を知らなければならないという教えに基づき、農耕図や庶民の祭礼の絵柄は大名家の城や屋敷の調度の障壁画や屏風絵の定番だった。また光圀が儒教や禅の研究に熱心だったことを反映し、中国故事に由来する中国趣味も随所に見られる。
明から図面を取り寄せたという円月橋 |
大名屋敷の庭園ともなると特別な機会を除けば江戸庶民の目に触れることはそうなかったが(とはいえ、祝い事などで解放されることも度々だった)、将軍家や大名家が熱心に寄進した寺社仏閣は信仰の場なので誰でも分け隔てなく入ることができた。
お寺への参拝というと現代人には堅苦しく思われそうでいて、今でもこうした場が観光スポットとしてにぎわうのは外国人観光客に限ったことではない。初詣でとなると大変な人出だし、本来は自分の写経した経巻を寺に奉納した証明書だった朱印も、最近では御朱印集めが「大人のスタンプラリー」的な人気だ。
京都の清水寺を模した懸造りの清水観音堂 寛永8(1631)年 |
お寺への参拝というと現代人には堅苦しく思われそうでいて、今でもこうした場が観光スポットとしてにぎわうのは外国人観光客に限ったことではない。初詣でとなると大変な人出だし、本来は自分の写経した経巻を寺に奉納した証明書だった朱印も、最近では御朱印集めが「大人のスタンプラリー」的な人気だ。
三社権現 拝殿 慶安2(1649)年 三代家光の造営 中国由来のエキゾチックな霊獣である麒麟や飛竜 獅子や玄武 |
拝殿内部や本殿正面に描かれた鳳凰や孔雀も中国・仏教由来の霊獣 |
過去の日本ではこうした寺社仏閣の愛好はもっと極端で、参拝はエンタテイメントだったし、その建築もエンタテインメント性を強く意識したものになった。
根津権現 拝殿 宝永3(1706)年 仏教の獅子と象、卍紋 |
根津神社 拝殿より本殿 典型的な権現造り |
本殿の背面 |
豪華な伽藍や社殿も、その装飾や描かれた絵や、仏像だけでなく珍しい動物などをかたどった数々の彫刻などを見ては、「わあ、きれい」とか「おもしろい」という好奇心を満たす娯楽でもあったのだろう。文字通りの「物見遊山」が一般庶民に娯楽として広く普及したのが江戸時代だ。むろん「物見遊山」の「山」は、別に山登りを娯楽とすることではなく、寺院の山号を指す。
江戸で幕府が作った寺社仏閣が人気を集め、出雲大社(豊臣秀頼の再建)、信州長野の善光寺(徳川家により長野に戻され、現在の本堂は宝永4年・1707年に綱吉により、甲良宗賀の指揮で造営)など、聖地で巡礼地だった寺社が幕府や諸大名により再建されたり伽藍が整備され、同時に五街道をはじめ全国の交通網の整備が進むと、西国三十三観音霊場などの巡礼が娯楽にもなり、参拝にかこつけた物見遊山の観光文化が庶民のあいだでも爆発的に増えて行く。
富士参詣曼荼羅図 室町時代16世紀 |
関東なら日光の輪王寺や東照宮、鎌倉見物に、足を伸ばして富士信仰も人気を集めた。関所を超えるには身分証明書にあたる通行手形が必要だったが、参拝が理由なら簡単に発行されたのだ。
広重 伊勢参宮 宮川の渡し |
関東からも畿内・京大坂からも行き易い伊勢神宮が大人気の観光地になったのも江戸時代だ。江戸時代には全国人口の1/6が伊勢参りをしたとも言われる。
逆に言えば、伊勢参りは実のところ江戸時代以降の風習でしかない。皇祖神の天照大神を祀る伊勢神宮には奈良・平安時代から内親王(天皇の娘)が齊宮之宮に任じられて祭事に当たっていたものの、例えば平安時代には「伊勢」といえば在原業平が「都落ち」したような僻地扱いだった。
天皇の行幸も白鳳時代の持統帝以降、明治末までなかった。 つまり今の伊勢信仰の起源は、元を辿れば江戸時代の庶民娯楽なのだ。
広重 東海道五十三次・行書版 大尾・京師 |
崇徳上皇を祀る讃岐の金刀比羅宮は海上交通網が整備された江戸時代に、船乗りの守り神として全国的に有名な人気の観光地にもなったし、同じく四国で真言宗の開祖・空海ゆかりの地を廻る八十八箇所のお遍路も、江戸時代に定着した。
二代目広重(背景・文殊楼)歌川豊国(人物)江戸自慢三十六景 東叡山花さかり |
季節の変化に彩られたかつての日本人の生活のなかで、寺社仏閣が境内にふんだんに植えられた木々の春は桜、秋は紅葉というように、四季の移り変わりを楽しむ場でもあるのは、今でもあまり変わらない。
春の花見で桜を愛でる風習は、奈良の吉野山の桜が起源だと考えられている。
渡辺始興 吉野山図屏風 18世紀 |
平安貴族はわざわざ吉野まで花見に出かけて行ったほどだが、やがて京都でもより手近に楽しめるように、その吉野山の桜が洛北の嵐山にも移植された。
広重 六十余州名所図会 山城 あらし山渡月橋 |
嵐山や嵯峨野はもともと渡来人系の特殊技能を持った人々が多く住む地域だったが、嵯峨天皇が離宮を置いたことから(現在の大覚寺)公家の別荘地にもなり、一帯を見下ろす山々は、室町時代には足利将軍家のブレーンだった禅僧・夢窓疎石が開いた天龍寺の一部として整備された。
嵐山 天龍寺(京都五山第一位)足利将軍家ブレーン夢窓疎石の開山 |
というよりも、嵐山自体が、天龍寺の方丈庭園の借景で、明治政府に没収されるまでは天龍寺の所有だった。
天龍寺曹源池庭園 夢窓疎石作庭 南北朝時代14世紀 背景に嵐山の山々 |
京都の近郊には、他にも豊臣秀吉が花見の大茶会を開くことになる醍醐など、数々の桜の名所が産まれて行く。
広重 京都名所之内 あらし山満花 |
応仁の乱で京都は荒廃したが、逆にこうした京都の文化が地方に拡散する契機にもなった。
足利八代将軍義政の隠居所 東山山荘(現 慈照寺)東求堂 文明18(1486)年 |
これまた時代劇大河ドラマや漫画やゲームの「戦国武将」のイメージには大いに反することかも知れないが、和歌や「伊勢物語」「源氏物語」などの平安朝の王朝文化や、足利将軍家の八代義政の創始した、例えば侘び茶などの現代の「和風」文化の起源となる美学など、さまざまな京風の文化を身につけ、禅僧をアドバイザーに漢籍など中国起源の教養を学ぶことも、戦国時代の大物大名たちにとっても必須だったのだ。
東求堂の義政の書斎「同仁斎」書院造りと茶室の美学の原点になった |
南宋・龍泉窯 青磁茶碗 銘「馬蝗絆」13世紀 足利義政所用・旧東山御物 |
禅というと今日でこそ日本文化の粋のように思われているが、禅宗はそもそも達磨大師がインドから中国に渡って興し、日本には中世に宋代の中国から伝わった新しい仏教だ。
慈照寺 観音殿(通称「銀閣」)長享3(1489)年 |
当時の日本での受容では、禅とその文化は中国風(足利義政の「東山御物」は「唐物」と呼ばれた)という認識だったし、禅僧は中国を中心に東アジアの国際社会の情勢にも通じていた。
土佐光信 伝足利義政像 室町時代15世紀 |
現代人が「和風の極致」くらいに思っている禅画の水墨山水も、たいがい図柄は中国の風景だし、人物も建物も中国風だ。
雪舟等楊 秋冬山水図 冬 15〜16世紀初頭 |
室町後期から安土桃山時代にかけて日本の絵画の頂点に上り詰めた狩野派は、この中国模倣の伝統を引き継ぎ、大名家の調度として描いた障壁画や屏風は基本、中国の風俗と中国の風景だった。
狩野探幽 山水図屏風 16世紀末 安土桃山時代 |
将軍家や大名家では、君主や跡取りの生活スペースに農耕図や祭礼図などのモチーフを好んで障壁画や屏風に描かせて庶民の生活を意識する教訓とする風習があったことは先述の通りだが、そこで描かれる庶民の姿も中国風俗が基本だ。
狩野探幽 士農工商図屏風 17世紀 |
庶民の生活を描くが風俗服装は中国風 |
喫茶の習慣も元は禅宗と共に中国から伝えられたもので、天目茶碗や宋代の青磁など中国製の茶器は足利義満とその孫の義政以降「唐物」として珍重されたし、侘び茶を大成させた千利休は、李氏朝鮮時代の半島の民具の意図されざる美を高く評価して愛好した(井戸茶碗、三島茶碗、袴茶碗など)。
名物大井戸茶碗 銘「有楽」李氏朝鮮16世紀 織田信長の弟・有楽斎所用 |
千利休 茶室「待庵」京都府乙訓郡大山崎町・妙喜庵境内 |
千利休旧邸書院 意北軒 大徳寺塔頭・高桐院 |
狂言袴茶碗 伝 千利休所持 鴻池家伝来 李氏朝鮮16世紀 |
安土桃山時代にポルトガルやスペインとの交易で海外の文物(「南蛮文化」だけでなく日中間の貿易物資も運び、東南アジアからの文物も輸入された)もどんどん流入するなかで、大名達や堺などの有力商人の財力もあって、今に続く日本の文化もまた大きく花開いて行った。
織部 扇形蓋物 安土桃山時代17世紀初頭 梅に着物の絵柄など様々な意匠が組み合わされ側面には南蛮風の文様も |
織部燈籠 ないし「切支丹燈籠」16世紀末 新宿区・大宗寺出土 基部が十字架になっている |
有力な戦国大名ともなると単に武勇だけでなく、文化教養でも威信を発するようになる。織田信長は利休の鑑定で高い価値を付与した茶器を、所領の代わりに褒美として与え、俗に茶碗ひとつが城ひとつ以上の価値を持つとさえ言われた。
禅宗の文化と共に、もともと堺の商人の出身だった利休の茶はこうして武家の文化に取り込まれ、細川幽斎・三斎父子や古田織部、小堀遠州と行った武家が利休の死後もその高弟として継承して行った。
細川忠興(三斎) 利休好み茶室「松向軒」寛永5(1628)年 大徳寺塔頭高桐院 |
和歌や漢籍に親しむことは、こと四季の変化が豊かな日本の文脈では、花鳥を愛で自然を風流として愛好することと一体化する。
志濃 秋草図平鉢 16世紀ないし17世紀初頭 安土桃山時代 |
それまで大陸からの輸入品にほぼ限られていた絵付けの陶磁器が日本でも作られるようになったのもこの時代で、その技術は安土桃山時代に飛躍的に発展し、江戸時代に入ればヨーロッパ相手の重要な輸出品にもなって行った。
ヨーロッパ輸出用の柿右衛門様式の伊万里 |
景徳鎮の金襴手を模し「大明万暦年製」の銘がある(つまり中国製詐称の)伊万里 |
柿右衛門様式の伊万里磁器はーロッパで絶大な人気を博した |
もともと四季の区別が明確な日本の風土文化では美意識が季節の移ろいと密接に結びついて来た。江戸時代に平和な社会が確立すると、武家も豪商も庶民も区別なく日本人の花好き、とくに桜の愛好はさらに強まる。
宮川長亀 上野観桜図屏風 江戸時代中期18世紀 |
寛永寺では天海がまず吉野山から持って来させたヤマザクラを植え、その後も徳川家は境内を桜で埋め尽くして上野を花見の名所にした。
民間でもたとえば吉原遊郭では花見の季節限定で中通りに桜の木を他所から持って来てを楽しませるのが年中行事となった。
広重 東都名所 新吉原五丁町弥生花盛全図 |
。株分けで増やすのが簡単になったこともあり、また寒冷地でもよく育ったので爆発的な人気となり、全国に広まって現代に至る。
かつての寛永寺の参道 ソメイヨシノの並木は近代に植え直されたもの |
桜の季節の清水観音堂 |
満開の桜に彩られた清水堂 |
とはいえ寛永寺はお寺、それも門跡寺院で比叡山と並ぶ天台宗の最高権威、しかも将軍家菩提所だけに、ハメを外し過ぎたどんちゃん騒ぎはさすがに憚られた。そこで八代吉宗は隅田川の堤に桜を植え、無礼講の酒盛りもできる新たな花見の名所を作った。
広重 富士三十六景 東都隅田堤 |
元をただせば、隅田川の堤防をより確かな洪水防止のために整備拡大した治水工事だった。家康以来、治水は徳川将軍家にとって重要な関心事である。その新築の堤防に桜を植えたのは、花見客が大勢集まれば自然に土が踏み固められるという吉宗の計算だった。
渓斎英泉 隅田堤桜 |
国芳 隅田川花見 |
家康の江戸開府以前、今の平地部分は茫漠とした湿地帯か海で、日比谷まで遠浅の入り江だった。そんな寒村だった江戸に本拠を定めた家康は、まず江戸湾に流れ込んでいた利根川を霞ヶ浦へと流れを変える空前の大土木工事に着手する。いわゆる「利根川東遷」で、三代家光の時に完成した。
また江戸市中では人工の川である神田川を掘削した土で江戸湾を埋め立てて銀座や築地などの土地を造成し、西の郊外には玉川上水などが整備された。
渓斎英泉 東都花暦 茗渓(オチャノミズ)之蛍 人工の川である神田川 右岸に昌平坂学問所(現 湯島聖堂)奥の水道橋は当時は本当に水道が通っていた |
水の安定供給は都市住民の生活用水と衛生の確保だけでなく、耕作可能な土地を増やし農業生産高をあげるためにも必須だった。
広重 名所江戸百景 玉川堤の桜 安政3(1856)年 |
利根川の東遷により、それまで湿地帯や荒れ地が多かった関東平野が日本でも有数の穀倉地帯に変貌してゆく。こうした幕府の治水工事への熱心な取り組みは諸大名にも影響を与えている。現代の日本の河川の8割以上が、江戸時代に造成されたり改修を加えられた人工の河川だ。またこうした大規模土木工事が大きな雇用を産み、江戸の人口を増やす効果もあった。
広重 不二三十六景 大江戸市中七夕祭り 江戸の町人地の人口密集ぶりがよく分かる |
こうして江戸開府から百年前後の元禄期には、江戸は恐らく当時の世界で唯一の百万都市になっていた。
治水や水路の整備は、こと江戸や大坂のように人口が密集した大都市では生活用水の確保と衛生管理で必須だったし、商業の発達のためには極めて重要な交通網・輸送路でもあった。戦後の高度成長で多くが埋め立てられたり暗渠化されているが、東京も大阪(江戸時代までは大坂)も運河と水路と橋だらけの街だ。
広重 名所江戸百景 京橋竹かし 安政4(1857)年 現在の京橋交差点で水路は首都高速道路になっている |
そもそも家康が関東に転封された際に、既に町があった小田原や鎌倉ではなく、あえてほとんどが湿地帯と丘陵でなにもなかった江戸を本拠地と定めたのも、治水工事さえしっかりやれば、内海になる江戸湾を海運基地として活用でき、大きな経済発展の可能性があると考えたからだ。
広重 不二三十六景 武蔵小金井堤 玉川上水(現在の小金井市、小金井橋付近) |
そうした幕府の一貫した方針のなかで吉宗が新たに造成した隅田川の桜の堤と、やはり吉宗が整備した飛鳥山は、花見の酒盛りで大騒ぎをしても許される桜の名所として、江戸庶民の人気を集めた。
広重 名所江戸百景 飛鳥山北の眺望 安政3(1856)年 |
広重 江戸近郊八景之内 飛鳥山暮雪 |
諸大名などの武家階級の視点では、こと家光までの徳川は武家諸法度、禁中公家諸法度などを制定し、厳しい締め付けを断行していたのは確かだし、最初の三代では有力大名家の取り潰しや国替えも相次いだ。
そのせいか、外様だった薩長閥が徳川を倒した明治維新以降の歴史教育の影響で、徳川の統治は強権的なものだったとみなされがちだ。
上野東照宮 寛永4(1626)年 創建 現社殿は慶安4(1651)年造営 |
諸大名がこぞって寄進した石灯籠が並ぶ東照宮の境内 |
江戸大改造の天下普請の負担も重かったし(急ピッチの工事を命じたのは諸大名の財力を弱める狙いもあった)、改易に怯えつつ徳川の命令に従って来た大名達やその家臣からみれば横暴に思えたのはその通りだろう。主家の改易で失業して浪人になった武士達の恨みも買ったはずだ。
上野東照宮 大石鳥居 寛永10(1633)年 備前の御影石製 老中酒井忠世の奉納 地震を経て享保19(1734)年 酒井忠知により改修 |
だがそうした「皇国史観」的な理解の文脈では、徳川の基本哲学が百姓・農民こそ「末代の者」でそれぞれの土地の強固に結びつくものであり、武家はその統治を一時的に預かるだけの「当座の者」でかりそめでしかなく、むしろ民衆の生活の安定をこそ重視する方針だったことが、明治以降の学校教育や一般に流布された歴史観でまっとうに理解されて来たとは言い難い。
天下普請の大土木工事が江戸つまり現在の東京や大坂など、かつて幕府直轄だった諸都市で近現代の発展の基礎となったことも、現代では無視されがちだ。
広重 名所江戸百景 千駄木団子坂花屋敷 安政3(1856)年 寛永寺の寺域は団子坂まで広がり 上野戦争では激しい戦闘もあった |
徳川が儒教・朱子学を公式学門に据えたことも、明治以降では「忠義」を重んじる武断的な価値観の徹底に思われがちだが、重んじられて来たのはむしろ「徳治」の概念で、上に立つ武家をこそ厳しく律し、民衆に不満があるようでは統治者の側が徳がない、と断罪すらされかねない。また支配層がそういう姿勢でもとらなくては、かつての日本の庶民は相当に口が悪くもあった。
日本では文字の普及が世界史上異例と言えるほど早く、平安時代の中後期、11世紀や12世紀となるとすでに有力貴族や朝廷、天皇や上皇を揶揄する手厳しい落書きが都で流行っていた。中世・室町時代の時点で、文字コミュニケーションはすでに地方の庶民階級にも浸透しており、木版印刷技術が発達した江戸時代ともなれば瓦版も人気を博した。
幕府が交通網を整備したこともあってその版元は相当な情報収集・発信能力を持ち、識字率も上がり貸本屋などが増えたことで、読書の習慣も庶民層にまで爆発的に普及している。直接的な政治批判は取り締まることもあったとはいえ、250年ものあいだ将軍家の権威というよりも人望を保つのも、徳川家にとってなかなか大変だったろう。
斜面一面のつづじと清水観音堂 |
家康が「狸おやじ」と呼ばれ、二代秀忠が父と妻・江与の方に頭が上がらなかったとか、三代家光の同性愛や、その母・江与の方に寵愛された弟の忠長の確執に家光の乳母・春日局も絡んだお家騒動未遂が、ミもフタもなく庶民の噂のタネになっていたのは当時からで、将軍家や大名家の艶めいたゴシップやら、どの大名の家中やどの旗本に美男がいるのかといった話題も瓦版のかっこうの題材になり、歌舞伎などの娯楽にもインスピレーションを与えた。
四代家綱が「さようせい様」、五代綱吉が「犬公方」、緊縮財政を断行し米価の安定に苦しんだ八代吉宗が「米将軍」、十三代家定が短気だったので癇癪の「癇」の字をとって「癇公方」といったあだ名で公然と揶揄されていたのは、厳しい身分制度で武家が強権政治を敷き庶民は服従させられていたのかのような後世のイメージとは随分異なる。
あるいは、今年のNHK大河ドラマの主人公は大坂夏の陣で家康をすんでのところまで追いつめた真田信繁だが、この信繁が「真田幸村」の名で庶民に人気を博したのも、その幸村伝説のなかでは悪役・仇役となる家康の子孫の徳川将軍家の統治下でだった。
だいたい徳川に倒されたのが豊臣政権であっても、秀吉の伝記である「太閤記」も人気があった(江戸時代後期に一度だけ発禁になっている)。
歌麿 教訓親の目鑑 理口もの 読んでいるのは絵本太閤記 |
庶民の文化レベルが高く為政者も世論を気にせざるを得なかったこともあるが、前政権を倒した現政権が権威付けのプロパガンダで前政権を悪く言うことで自己正当化を図ること自体が、宗教観からしても日本の伝統に反する。
むしろ敵として死に至らしめた相手でも、その敵の怨霊が「祟る」ことの防止も含め、菩提を弔い慰霊するのが、世間の厳しい目もあって、「徳」のある統治者の責任だった。
歌川国芳 百人一首之内 崇徳院 |
南北朝の争乱期では、後醍醐天皇が没すると将軍足利尊氏はその菩提を弔うために、夢窓疎石に嵐山の天龍寺を建立させている(孫の義満の代には京都五山第一に定められた)。
真言宗の聖地である高野山では、空海が入定した奥ノ院に向かう参道には、敵味方を問わず多くの戦国武将の墓所や供養墓が並んでいる。
高野山奥ノ院 安国院(徳川家康)霊廟 寛永20(1643)年 |
織田信長は本能寺の変の前に高野聖を京都で大量処刑し、高野山の焼き討ちも計画していたが、その信長の供養塔すらちゃんと高野山奥ノ院にある。
中世、とくに南北朝〜室町時代以降の日本の歴史的な大きな特徴は、文字の普及もあって文化教養が幅広い階層に浸透していたことだ。
また支配階級の側でも、平安時代末期には後白河法皇が庶民の俗謡だった今様に熱中していたし、室町幕府の足利将軍家は庶民芸能だった猿楽を愛好して能楽に発展させた。
戦国時代を経て、江戸時代には庶民文化が花開くことになり、寺社仏閣はその中心的な役割も担うようになって行く。
三代家光の大公共事業による都市整備と雇用・経済の底上げも成功し、徳川の体制が盤石となると、四代家綱の代には方針が文治政治に本格的に転換し、明暦の大火の復興を機に江戸庶民の経済発展や福祉を最優先する政策をとったのも、五代綱吉が福祉政策と文化振興を重んじたのも、明治以降の忠君愛国思想の称揚の文脈では否定的に見られるか無視されがちだが、客観的にみれば泰平の世の維持のためにも合理的な判断でもある。
上野東照宮 四季の動植物や花鳥をあしらった透塀 |
文治政治と町民優先(=民間活力の成長戦略)、それに平和主義を押し進めた五代綱吉の代に幕府財政が逼迫したのも、別に将軍家が贅沢が原因ではない。
透塀の下の段には水の生き物 鯉 |
後世には、享保の改革を行った八代吉宗が武道の復興や身体鍛錬を奨励したのと比較して、綱吉は抹香臭くひ弱に見られたり、元禄文化の賑やかさもあって浪費癖というイメージで語られがちだ。
上野東照宮 本殿 |
だが双方を比較して綱吉を暗愚の君、吉宗を名君のように扱う明治以降の傾向が史実に則しているとは言い難い。また実際には吉宗も綱吉を尊敬していて、死後は綱吉の眠る常憲院殿霊廟内に自らを葬るように言い遺した。
上野東照宮 唐門 左甚五郎の上り龍 慶安4(1651)年 東照宮では家康の遺訓という伝承で上向きの龍が「下り」としている |
四代五代の霊廟が続けて寛永寺に建ったあと、六代家宣、七代家継の霊廟は増上寺の番で文昭院殿霊廟、続けて有章院殿霊廟が、二代秀忠の台徳院から見て増上寺境内を挟んで反対の北側に建てられた。
増上寺 台徳院殿霊廟勅額門 後水尾天皇の筆による勅額 |
同 奥ノ院(墓所)への御成門 飛天 花鳥 水紋の装飾 |
文昭院殿霊廟 勅額門 正徳3(1713)年 戦災で焼失 |
文昭院殿霊廟 拝殿 |
文昭院殿霊廟 拝殿内部 |
文昭院殿霊廟内部 相の間から本殿 いずれも戦災で焼失 |
文昭院殿奥ノ院銅造鋳抜門 聖徳3(1713)年 現在は増上寺徳川将軍家墓所(昭和33年改葬)の門 |
有章院殿(七代家継)霊廟 享保2(1717)年 勅額門から拝殿 |
有章院殿霊廟 勅額門と鐘楼 1890年頃の着色写真 Adolfo Farsari撮影 |
ちなみに有章院(増上寺・七代家継)の江戸城側に作られた裏門が、吉宗以降は将軍による増上寺参拝に用いられるようになり、この門が「御成門」と呼ばれるようになった。
増上寺 有章院殿「御成門」正徳6(1716)年 |
地下鉄・御成門駅の名前の由来だ。
崇源院殿(秀忠正室・お江与の方)霊殿 丁字門 寛永9(1632)年 所沢市の狭山不動尊に移設 |
吉宗が自分の墓所は綱吉の常憲院殿霊廟内に建てるよう遺言したのには、霊廟の膨大な建築予算を削減する目的もあった。
常憲院殿霊廟奥ノ院内の有徳院(吉宗)の墓所前の拝殿 |
厳有院殿霊廟に葬られた俊明院(十代家治)墓所の拝殿 |
俊明院(十代家治)宝塔・前門 厳有院殿奥ノ院内 |
以降の将軍はこの先例に倣い、寛永寺か増上寺の既存の四つの霊廟のいずれかに葬られた。
戦後、増上寺の将軍家霊廟の敷地を買い取った西武グループは、重要文化財の三つの門を狭山不動尊に移築した他、石灯籠などを鉄道の西武線の沿線の寺社に寄付したり、東京各所のプリンスホテルに移して庭の飾りに利用している。
グランドプリンスホテル新高輪に移設された台徳院殿の銅灯籠 |
また寛永寺の将軍家霊廟にあった石灯籠の多くも、都内の随所の寺院に移設されている。
惇信院(9代家重)霊前にあった石灯籠 小平市 野中山円成院 |
寛永寺も増上寺も、将軍の霊廟はいくつかの門を残して戦災で焼失しているが、その華麗さをしのばせる遺構として、二代秀忠の正室お江与の方・法名崇源院の霊殿は、江戸時代にすでに鎌倉の建長寺に移設されていて、その仏殿になっている。
現在は建長寺方丈の勅使門になっている崇源院殿霊屋の唐門 |
崇源院殿霊屋 寛永9(1632)年 現 建長寺仏殿 正保4(1647)年移設 |
建長寺仏殿内陣 本尊は室町時代の地蔵菩薩坐像 |
江与の方と秀忠の長男で三代将軍になった家光は、同性愛者でなかなか女性を身辺に近寄らせなかったと言われている。
霊廟建築だった時の華やかな壁画がかすかに残っている |
江与が次男の忠長に家督を継がせようと考えたのも、のちのちに跡取り問題が起こるのを危惧したからかも知れないし、家光の乳母・福(春日局)が大奥を創設したのも同じ理由からだった。福の奮闘の甲斐あって家光の最初の側室となったお振の方は、娘を出産した後まもなく亡くなってしまい、後に尾張徳川家の光友に嫁いだその娘・千代姫が霊屋を建立している。
自証院(三代家光側室お振)霊屋 慶安5(1652)年 |
この霊屋は明治以降寺が衰退したため一時は西武グループに買い取られて赤坂プリンスホテル内にあったが、今度はホテルの建て替えに際し東京都に寄付された。今は修復され江戸東京たてもの園で見ることができる。
日曜・祝祭日には扉が開かれ内部も公開される |
尾張家の造営事業だったが、建築を担当したのが幕府の作事方・甲良家(宗広の隠居後の当主・宗清)だったことが修復時に墨書から確認された。
厳有院殿霊廟勅額門 延宝9(1681)年 |
寛永寺の厳有院殿に葬られている四代家綱も、明から禅の高僧・隠元隆琦を招いた京都・宇治の黄檗山萬福寺(明治以降、臨済宗から独立した黄檗宗の総本山)などを建てているが、なかでもよく知られているのが両国の回向院だろう。
その名の通り死者の「回向」が役割で、もともと明暦の大火(明暦3・1657年)の犠牲者供養のために建立されたが、今では大相撲興行発祥の地としての方が有名かもしれない。
広重 東都名所 両国回向院全図 中央に巨大な仮設見世物小屋が |
強い西風で東に燃え広がった火で避難した民衆が、隅田川の岸に追いつめられ、逃げ場がなくなって多くの焼死者を出した反省から、家綱とその後見役で側近の保科正之(秀忠の末子で家綱の叔父にあたる)は、それまで江戸防備のための戦国時代的な発想で、隅田川が外堀と合体していて東側に渡れる橋が北のはずれの千住にしかなかったのを改め、火災時に対岸への避難路を確保する大きな橋を建造した。
広重 名所江戸百景 大はしあたけの夕立(両国橋) 東洋文庫蔵 |
隅田川を挟んで西は武蔵の国、東は安房になることから「両国橋」ないし「大橋」と呼ばれ、両国という地名もこれに由来する。
北斎 絵本隅田川両岸一覧より 両国橋 |
防備よりも交通網の発展を優先した、幕府の基本政策の大転換を象徴する事業でもあった。橋を渡った先に回向院が建立されたのをきっかけに、江戸市街は隅田川東岸の深川などへと拡張して行く。現代のいわゆる東京の「下町」だ。
渓斎英泉 蘭字枠江戸名所 江戸両国橋ヨリ立川ヲ見ル図 文政期(1818-29) |
明暦の大火では江戸城の天守も焼失した。家綱と保科正之は再建はせずにその予算を江戸の復興に廻すと決め、まだ戦国時代の意識が残る古参の幕臣達も説き伏せた。
東京大空襲で焼失する前の回向院の全景 |
両国橋の建設と同様、天守を作らないこと(そして壮大な回向院を建立したこと)もまた、もはや戦乱の時代ではないという将軍家の意思表示でもあった。
泰平の世には天守は不要という将軍家の意思表示には諸大名も従うことになり、以降全国の城で天守閣は作られなくなる。
旧江戸城本丸(皇居東御苑) 明暦天守台 |
この上に天守が建ったことはない |
焼失した寛永天守台の石を再利用したとされる中雀門石垣 |
広重 江戸名所橋尽 日本橋 櫓は多いが天守は建てられなかった江戸城 |
天守の代わりとなった本丸富士見櫓 万治元(1658)年再建 どの角度から見ても美しい「八方正面の櫓」とも呼ばれた |
明治初期の本丸富士見櫓 現在の坂下門辺りから |
現在の宮内庁前(元は西の丸)より |
また元禄11(1698)年には綱吉の生誕50周年を期に永代橋も建造され、隅田川東岸は江戸の不可分の新興地域として発展して行く。
宮川長亀 隅田川納涼図屏風 18世紀 右側に両国橋 左端下は駒形堂 |
元をたどれば家康が本拠地を江戸に定めたのも、堅牢な都市防備が可能な鎌倉や小田原よりも、自らが作り出そうとしていた平和の時代を見据え、開かれた江戸の発展の可能性を選んだからだった。
鳥文斉栄之 隅田川図巻より 両国橋 |
そのひ孫になる家綱の治世は一般向けの歴史や教科書では無視されがちな時代だが、明暦の大火後の江戸復興政策は、徳川の統治が武断政治から文治政治へと転換し、絶対平和主義を確立した象徴的な決断となっただけでなく、現代の東京へとつながる大都市・江戸の歴史の大きな転換点だった。
広重 名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋 安政4(1857)年 |
なお回向院では、身分の分け隔てなく明暦の大火の死者を回向した起源から、あらゆる人間の慰霊・供養を受け入れる方針を今でも守っているだけでなく、動物墓地もある。
増上寺は東京大空襲でほとんどの伽藍を失った 戦後に建てられた動物慰霊塔 |
関東大震災の身元不明遺体の供養塔 |
江戸時代から身元不明者の供養の場でもあった |
身分上「えた・ひにん」だった浄瑠璃 歌舞伎関係者の墓も多い |
「生類憐れみの令」が決して綱吉の気まぐれや思いつき、まして「悪政」だったわけでもなく、徳川の統治方針から当然出て来た流れだったことが、これを見ても分かる。
両国橋の両岸には、延焼防止のため広い火除地が設けられた。
北斎 隅田川両岸景色図巻(部分)すみだ北斎美術館蔵 |
ここには家は建てられないが、火災の時にすぐに解体できるならという条件で仮設小屋は許されたため、すぐに見世物小屋などが集まるようになり、回向院の境内から橋をはさんだ両岸の一帯が、江戸の一大エンタテインメント・センターになった。
広重 名所江戸百景 両国橋大川ばた 安政3(1856)年 |
広重 名所江戸百景 びくにばし雪中 安政5(1958)年 「山くじら」とはイノシシの肉を使ったぼたん鍋のこと |
隅田川を渡ることが日常のケから、ハレの祭礼空間への移動でもあったのだろう。
広重 両国橋納涼 |
渓斎英泉 江戸八景 両国橋の夕照 |
歌麿 両国花火 |
また、なにしろ徳川のもたらしたものが250年の平和と安定経済成長だっただけに、江戸の人々は武家も大商人も庶民も、ちゃんと働きもしただろうが、けっこう暇でもあったのだろう、大変な娯楽好きで物見高かった。
国貞 江戸名所百人美女 新大はし 安政5(1858)年 |
両国の見世物小屋が相撲興行の発祥の地なのは先述の通り、芝居小屋も立ち並び、八代吉宗が東南アジアからオランダ船に輸入させたゾウがいたこともある。そんな名残として今は回向院の北にあるのが、両国国技館だ。
象志 享保14(1729)年 この前年にゾウが来日し京都経由で江戸に連れて来られた |
伊藤若冲 象図 若冲は長崎から江戸への道中に京都に寄ったゾウを見ていたらしい |
歌川国芳 二十四孝童子鑑 |
幕末の嘉永3(1850)年には、やはりオランダ経由で日本に初めて輸入された生きた虎も両国で展示されている。
国芳 十月十日西両国於広小路御覧入候 嘉永3(1850)年 |
こうも新しい物好き・珍しいものに目がないのが江戸庶民なると、この3年後のペリー来航への反応も一般に思われて来たのとはかなり違ったことが想像される。
国貞 東都両国橋 川開繁栄図 安政5(1858)年 |
広重 東都名所 両国橋夕涼全図 |
五雲亭貞秀 三都涼之図 東都両国ばし夏景色 安政6(1859)年 |
というか、実際に庶民はむしろ興味津々だったし、それは幕府の中間官僚も同様だった。またその幕末に日本を訪れた欧米人から見ると、この一般レベルに広まった文化水準の高さが驚異でもあった。
広重 名所江戸百景 両国花火 安政5(1858)年 |
日本では中世期にはすでに文書による記録やコミュニケーションが農村部にも浸透していたのが、家綱と、とくに綱吉が文化政策を重視して庶民層にも学問を奨励したこともあって寺子屋の数も激増、幕末時で約1万5000と推計され、識字率は半数を軽く超えていたと見られる。
当時の世界では、群を抜く教育水準の高さだ。西欧では公教育制度が始まっていたが、英国ですら識字率は3割に満たない程度だったのが江戸市中ではほとんどの者が読み書きができ、貸本屋が大人気で、最低でも「論語」くらいの漢籍の素養はなければ読みこなせない滝沢馬琴の『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』のような大長編が、庶民向けに大ベストセラーになっていたのだ。
江戸の庶民文化は、こと戦後民主主義の文脈では、幕府の厳しい弾圧や検閲に苦しめられたかのようなイメージで語られがちだが(たとえば喜多川歌麿が50日の手鎖の刑に処せられたこと)、そうした締め付けも時にはあったのは飢饉で財政危機になり治安も悪化した時の改革政策の一貫で一時的に行われた性格が強い。
たとえば罪人の墓は作ってはならない禁制はあったが、人気の大泥棒・鼠小僧次郎吉は、ちゃんと墓が回向院にある。墓石に記された俗名を「次良吉」と一字変えただけで、お咎めはなかった。
ちなみに鼠小僧こと中村次郎吉は「どこにでも忍び込める」という縁起担ぎや、博打に強かったという伝説から、墓石を削ってお守りにすることが流行した。
回向院に葬られた人気の盗賊 鼠小僧の墓 |
墓石がなくなってしまっても困るので、回向院では削って持ち帰るための「お前立ち」の墓石を設置している。
ただし記録に残る自白では、実際の中村次郎吉は博打に強かったどころか、大名家から盗んだ膨大な金は博打でスッてしまったらしく残金はほとんどなかったらしい。
直接に同時代の武家を批判するのはさすがにタブーだったが、『仮名手本忠臣蔵』のように時代設定を形だけ「太平記」の南北朝時代に移し、吉良上野介を高師直にするだけで、問題にはされなかった。
文楽人形浄瑠璃は、現代では近松門左衛門らの世話物がポピュラーだが、江戸時代にむしろ人気があったのは『仮名手本忠臣蔵』や『一谷嫩軍記』『義経千本桜』『妹背山女庭訓』などの歴史もので、テーマはずばり、忠義や徳を道徳とする武家社会の倫理の矛盾がもたらす悲劇だった。
喜多川歌麿 忠臣蔵七段目 |
つまり江戸時代の大衆文化は体制批判の色彩が濃かったのだが、そのことだけが注目に値するわけではない。
北斎 仮名手本忠臣蔵 九段目 |
南北朝時代に舞台を移した『忠臣蔵』にせよ、源平合戦に取材した『千本桜』『嫩軍記』にせよ、歴史を知らなければ理解できない内容だし、『妹背山女貞訓』に至っては大化の改新、古代史が題材だ。
国芳 仮名手本忠臣蔵 十二段目・品川泉岳寺 安政元(1854)年 開国直後の出版なので品川沖に黒船が描かれている |
このように「知らなければ(教養がなければ)分からない」娯楽が、すんなりと受け入れられるだけ、江戸時代の一般庶民の教養水準が高かったことがうかがわれる。
平安時代でもそうだったが、平和になったとたんに美しいもの、楽しいものに熱中し、教養を競い合うのが明治以前の日本の国民性だ。こと四季の変化が豊かな風土から、年中行事が盛りだくさんな文化を華開かせて来たのが、実際の日本史から見えて来る日本人の姿であって、およそ明治以降にそう思われて来たような「武士道」や「侍」イメージの、マッチョで男性的な国ではない。
上野東照宮 上段に陸の 下段に水の生き物をあしらった透塀 |
武家の棟梁の神格化とは思えない透かし彫りの装飾 |
あらゆる生命を慈しむ仏教的な世界観が反映されている |
それどころかその「武士」たちこそ、四季の花鳥を愛で風流を楽しむ教養が必須とされていたのが実際の日本史だった。
千代姫が尾張家の光友に嫁いだ際の嫁入り道具「初音の調度」 『源氏物語』の「初音」に基づく 寛永16(1639)年 国宝 名古屋市・徳川美術館蔵 |
たとえば徳川家の嫁入り道具には「源氏物語」のモチーフを用いるのが慣例になっていた。「源氏物語」が武家の基礎教養になっていたからだ。
野々村仁清 色絵紅葉賀図茶碗 17世紀 『源氏物語』で光源氏が父の帝に対面する場に基づくがあえて 人物は描かない留守文様、読解は見る者の教養に任されている |
菖蒲田に互い違いの板橋を渡す「八ッ橋」が、東京に残る大名庭園だけでも小石川後楽園(水戸徳川家上屋敷)や江戸城二ノ丸庭園、明治神宮御苑(かつて加藤清正などの大名の下屋敷があった)などなどに見られるのも、平安貴族でプレイボーイ歌人の在原業平の放浪を描く「伊勢物語」も基礎教養になっていたからだ。
光琳 八ッ橋図屏風 1709年以降 米メトロポリタン美術館蔵 |
伊勢物語 嵯峨本(17世紀の手彩色版本) |
こうした洗練された戯れと遊びの文化の精神的な豊かさがもっぱら貴族の専有物だった平安朝とは異なり、中世後期・室町時代にはすでに文字コミュニケーションが庶民レベルで普及していた日本では、江戸時代に入ると文化的に高いレベルの教養を盛り込んだ娯楽が、まず財力をつけた商人から、ほどなく庶民層にも浸透して行った。
英一蝶 見立業平涅槃図 18世紀初頭(肉筆画) 釈迦の死とその死を嘆く弟子たちや信者や動物達を描く仏画の「涅槃図」 のパロディで 関係した女たち等が業平の死を嘆いている 英一蝶の大作の涅槃図(ボストン美術館蔵)は最高傑作ともされる |
鈴木春信 見立て伊勢物語・八ッ橋 18世紀(浮世絵版画) |
そんな文化教養趣味が爛熟かつ庶民化もしていた巨大都市・江戸で、上野は春なら桜の名所、夏には不忍池に蓮が咲き、秋には紅葉が境内を彩り、冬には雪景色を楽しむ場でもあったことが、数々の風景浮世絵からも分かる。
鳥居清長 不忍池の花見 |
広重 東都名所 上野不忍蓮池 左手に弁財天 右奥に寛永寺の巨大な中心伽藍が描かれている |
戦時中には水を抜き水田になって稲が栽培された 蓮は戦後に植え直されたもの |
渓斎英泉 東都花暦 不忍蓮 |
入母屋造りの弁天堂は戦災で焼失、現在の六角堂は昭和33(1958)年の再建 |
歌麿 江戸八景 不忍池乃落雁 (秋) |
中国大陸で10世紀に北宋で名勝とされた洞庭湖の瀟江、湘江近辺の瀟湘八景(瀟湘夜雨、平沙落雁、煙寺晩鐘、山市晴嵐、江天暮雪、漁村夕照、洞庭秋月、遠浦帰帆)が、南宋の文人画の強い影響下にあった日本の禅の山水画に取り入れられ、室町時代から江戸時代初期には狩野派などの定番の画題にもなっていた。
相阿弥 瀟湘八景図 大徳寺大仙院 室町時代16世紀 |
狩野松栄 瀟湘八景図 大徳寺聚光院 礼の間障壁画 永禄9(1566)年 |
長谷川等伯 瀟湘八景図屏風 安土桃山時代 |
その瀟湘八景に当てはまるものを日本国内に見立てたのが、たとえば近江八景(琵琶湖周辺・現在の滋賀県)だ。
広重 近江八景之内 唐崎夜雨 |
同・石山秋月 右奥に見える瀬田の唐橋も近江八景のひとつで「瀬田夕照」 |
家康がいわばなにもなかったところに新たに江戸を開くと、上方への憧れもあってこの「八景」を当てはめたのが江戸八景や東都八景、江戸近郊八景、今の神奈川県横浜市内の金沢八景などだ。
広重 江戸近郊八景之内 玉川秋月 |
同 小金井櫻夕照 |
江戸百景や東都百景では、東叡山界隈では不忍池が「落雁」、夕暮れどきの鐘の響きを意味する「晩鐘」には寛永寺の時の鐘が当てられることが多い。
広重 東都八景 上野晩鐘 (広小路から三枚橋と東叡山の門前広場) |
寛永寺の入り口だった三枚橋は現代の上野四丁目交差点にあった
|
上野晩鐘 現役の鐘は天明7(1787)年 鐘楼は大仏の近く 現在は上野精養軒の隣にある |
現代の上野公園で雪景色を見ることはめったにない。
いかに江戸時代には今よりも平均気温は低めだったとはいえ、江戸が豪雪地帯であったわけもあるまいが、それでも上野の雪景色を描いた風景浮世絵が多いのは、江戸時代の人々にとってここが珍しい雪景色を楽しむ場でもあったからだろう。
広重 名所江戸百景 湯しま天神坂上眺望 かつてはここから不忍池と寛永寺が見えた |
広重 銀世界十二景 上野東叡山 文殊楼(手前)とにない堂、根本中堂 |
上野東照宮 唐門と拝殿 慶安4(1651)年 |
寛永寺清水観音堂 寛永8(1631)年 |
月の松は平成の復元 辯天堂は戦後の再建 |
広重 東都雪見八景 上野東叡山不忍池 左奥に根本中堂などが見える |
明治初期の不忍池辯財天 戦災で焼失(東京国立博物館蔵) |
江戸大神楽 |
中国雑技 |
その意味では、上野の山が江戸時代から保って来た、エキゾチックでもの見高い日本人を引きつける魅惑の祭礼空間としての役割は、確かに継承されている。
だがよく見れば台東区や東京都が、随所に歴史文化遺産の解説の看板を建ててくれてはいるものの、注意して探して気付いて読まない限り、その場その場の歴史的な意味はまったく意識されないだろう。
上野東照宮 お化け燈籠 寛永8(1831)年 佐久間勝之の寄進 高さ6.06m |
無理もない。江戸時代にさかのぼる上野の繁栄の歴史的な背景が、ほとんど知られていないのだ。
四季折々の花鳥で飾られた上野東照宮の透塀 |
「活彩色」つまり金箔を貼った上から彩色している |
上野東照宮の社殿と透塀は2015年に修復作業が完了した |
その宗教的な意味合いも、文化的なDNAの潜在意識レベルで上野が今も文化の香りもする娯楽の場、人が集まり珍しいものを見て楽しむ所であり続けていることくらいでしか残っていない。
上野東照宮 透塀 慶安4(1651)年 |
下の段には様々な海や川の生き物 |
上野東照宮 本殿 慶安4(1651)年 |
現代ではパンダこそが上野に祀られたカミなのかも知れない。ちなみに明治時代に人気を集めたのはキリンとゾウだった。動物のキリンがキリンと呼ばれるようになった(和名が「キリン」になった)のは、英語で giraffe と呼ばれていた珍獣をぜひとも輸入して来園者を増やす切り札にしたいと思った上野動物園が、予算を得るためにこれが霊獣の「麒麟」の本物だと言って、いわば政府を「騙した」からだったりする。
自証院霊屋 慶安5(1652)年 左の像は吽形 右が阿形 |
戦災で焼失する以前の不忍池弁財天の装飾彫刻 |
護国寺 本堂 象と獅子の彫刻 元禄10(1697)年 |
金王八幡宮(渋谷区)拝殿 江戸時代初期 |
三社権現 拝殿の向拝 獅子と飛竜と麒麟 |
日光東照宮 仁王門(裏側) |
輪王寺大猷院殿霊廟 夜叉門 |
麒麟も象も、龍や獅子、狛犬と同様、仏教とともにその姿や概念が中国から伝わった霊獣で、実物は見られなくとも広く親しまれて来たものだった。
伊藤若冲 鳥獣花木図屏風(右隻) |
上野といえば花見と動物園で、徳川の菩提寺の寛永寺があったという知識くらいはふと思い出すことがあったとしても、根本中堂がどこにあったのかなどは考えもしないのも、徳川の築いた都市・江戸という記憶がほとんどなくなってしまった現代の東京では、当たり前ではある。
かつての寛永寺の参道は「さくら通り」になっている |
もともとほとんど知られていない、教わってもいないどころか、むしろその歴史は隠されて来たのだ。
そうは言っても公園の中心の大噴水広場が、高さ32mの巨大な根本中堂の跡地であることも誰も知らないというのは、なんとも奇妙な感覚にはなる。
東京国立博物館庭園 元は小堀遠州作庭の寛永寺本坊庭園 春 |
東京国立博物館の庭園は、春の桜と秋の紅葉の季節に公開され、申し込めば茶室の利用も出来る。
なによりも、慶應4(1868)年の戊辰戦争で上野が幕府軍と新政府軍の激戦で焼け野原になっていたこと自体が、日本人の集団的な記憶からは抹消されている。
清水観音堂に掲げられた上野戦争の絵馬 |
右下の黒門から観音堂に駆け上がる洋装の軍服の新政府軍 左下に吉祥閣 |
その理由のひとつは、分かり切ったことだ。近現代の、我々の歴史観が、勝者・明治維新政府の正当化のために書き換えられた歴史だからだ。
清水観音堂に飾られた上の戦争当時の、佐賀藩で作られた国産の砲弾 |
旧本坊表門(黒門)に残る上野戦争の弾痕 |
だからこそ、上野が徳川の聖地であった記憶と、その歴史や伝統文化が上野戦争で新政府軍に破壊された史実は、「恩賜」つまり天皇家と、明治維新最大の英雄・西郷隆盛のイメージに隠蔽されて来たのだろう。
「恩賜」公園つまり天皇家から東京市民に「下され、賜った」と言うが、元を糾せば新政府が上野戦争で焼き払って破壊した寛永寺から没収した土地ではないか。
「恩賜」公園つまり天皇家から東京市民に「下され、賜った」と言うが、元を糾せば新政府が上野戦争で焼き払って破壊した寛永寺から没収した土地ではないか。
上野戦争後の焼け跡と思われる明治初期の写真 |
新政府軍に焼き払われたあとの寛永寺は廃寺も取りざたされ、復興がやっと認められたのは明治12年になってだった。川越の喜多院は天海が住職を務めたこともあり、また徳川との所縁も深く(喜多院には家光が寄進した江戸城本丸御殿の一部が移築されているし、仙波東照宮もある)、その本地堂をもらい受けて移築改築して新たな根本中堂とした。
寛永寺 現根本中堂 旧 川越喜多院本地堂 |
とはいえ再建が許された場所も、あたかもなるべく人目につかないようにするためか、子院の大慈院だった敷地だ。
上野をどうするのか、明治政府内ではさまざまな案が検討され、軍の練兵場にするとか、病院にする計画もあった。
明治維新時の所有区分を示した図面 焼失していた寛永寺伽藍も書き込まれている 本坊は陸軍 根本中堂跡など境内の中心は文部省 東照宮と徳川霊廟は徳川家に帰属 |
寛永寺の焼け野原を都市公園とすることを提案したのは、その病院計画を任されるはずだった御雇い外国人のオランダ人医師だった。
三代歌川広重 上野公園内国勧業第二博覧会美術館并猩々噴水器之図 明治14(1881)年 ジョサイア・コンドル設計の初代東京国立博物館本館 |
西洋人に言われたことには弱いのが、重度の西洋コンプレックスに苛まれていた明治政府だ。明治5年に公園整備が始まったが、現代につながる上野公園のにぎわいのきっかけになったのは、征韓論で政府を去った西郷が西南戦争を起こしたのと同じ明治10(1877)年に、内務卿の大久保利通が上野で内国勧業博覧会を開かせたことだった。
大正時代 第一次大戦後に上野で開かれた平和記念東京博覧会 |
こうなると、なぜパンダ以前は西郷さんが上野のシンボルだったのか、ますます分からなくなる。大久保だったらまだ納得も行くのだが。
大久保は第一回博覧会(と西南戦争)の翌年に不平士族に暗殺され、元々その先見性ゆえの独断専行に長州閥からの反発が大きかった明治政府は、大久保がマスタープランを作った民生主導・軽工業基盤の平和的で現実主義的な近代化から、軍事力強化の「富国強兵」を睨んだ重工業国家化へと、政策を大きく変えることになる。
19世紀末の重工業先進国といえば、原料資源と製品の市場を求めて必然的に植民地侵略に向かうものだ。大久保が暗殺されたあとの政策転換で日本が結局は辿ってしまった道の行き着いた果てについては、今さら言うまでもあるまい。資源と市場を求めた植民地侵略路線は日清日露の両戦争に勝利で決定的になり、征韓論つまり朝鮮半島支配ですら飽き足らず、石炭や鉄鉱資源を求めて満州に進出、それを提案して政府を追われたはずの西郷の唱えた対外進出・大陸侵略の野望を鮮明にしてゆく。寛永寺が大仏を供出させられ、将軍家霊廟や不忍池の辯天堂が焼失したのも、いわばその必然的な結果だった。
歴史を振り返れば、豊臣政権もまた短命に終わったのは、朝鮮出兵(…と言うか秀吉は明まで征服すると言っていた)の失敗が大きい。この大暴挙があったからこそ豊臣家は人心を失い、家康が台頭して絶対平和主義の、民衆を大事にして平和的な手段で国を富ませる幕府体制を敷くことになった。
秀吉が朝鮮侵攻で首の代わりに持ち帰えらせた朝鮮人の耳を弔う耳塚 かつての方広寺門前 現在は豊国神社の前 |
近代日本の政府が、徳川が江戸庶民にはやさしい政権でそれなりに人気があったことも、大久保が日本の近代化の別のあり方を示そうとしていたことも、隠そう、国民に忘れさせようとしたのも、自然と言えば自然な流れではあった。
だからこそ、明治以降の近代日本は、単に徳川幕府を倒して政権を得たからだけでなく、国家とその統治理念の上でも、徳川250年の平和を否定しなければならず、徳川の聖地だった上野をそのまま残すわけにはいかなかったのだろう。
高村光雲 西郷隆盛像 明治31(1898)年 |
そんな何重もの国民に忘れさせたい歴史を封じ込めるために必要だった神話化の効果を発揮し得るのは、西南戦争で逆賊として死にながらも根強い人気を誇り、相当に暴力的でこっそり対外侵略路線の元祖であったことはなぜか誰も気にせず、江戸城を無血開城させた徳の高い英雄(ただし上野は焼け野原にした)と言われた西郷だったのだろう。
結城素明「江戸開城談判」神宮外苑・聖徳絵画館 |
もっとも、西郷隆盛と幕府側の勝海舟の英断で江戸が戦火から救われたというのも、たぶんに明治以降に歪められた見方だ。
孝明天皇と信頼関係にあった十五代慶喜は、その天皇が急死して少年の明治天皇を擁する西郷や大久保利通、岩倉具視らが朝廷を牛耳り混乱する政局を打開するために大政奉還を宣言、譜代・外様の違いを問わず大物の大名が重臣として参加する合議制の公武合体の新体制に平和裏に移行することを狙っていた。これが実現されていたら、薩長の急進的な武力倒幕派の下級武士たちは、政治権力の中心から弾き出されていただろう。
そこで出世の見込みが閉ざされる下級武士たちは、少年の明治天皇に王政復古の大号令と、慶喜を朝敵として征伐する勅令を出させたのだ。
鳥羽伏見の戦いで天皇家を表す錦の御旗が掲げられたことを知った慶喜は、大坂城の攻防戦で重要な経済都市だった大坂が戦場になり、さらには内戦が全国に拡大するのを避けるため、即座に大坂から海路で江戸に戻った。
上野東照宮 透塀 あらゆる生命を慈しむかのような透かし彫り |
江戸城の籠城戦を避けるため、慶喜は主戦派の重臣を解任すると寛永寺に直行、大慈院の一隅(現在の根本中堂の裏)の葵の間に謹慎蟄居して「朝敵」としての処罰に甘んじて受け入れる姿勢を鮮明にした。普通なら、これだけで江戸城総攻撃などなくなっていたはずだ。
だが新政府軍がそんな素振りもまったく見せないまま東に進撃するなか、江戸城の主となったのは薩摩藩・島津家の養女として13代家定に嫁いでいた篤姫(天璋院)と、孝明天皇の妹で14代家茂に嫁いでいた和宮だった。
和宮は先の天皇の妹としての人脈を活かして朝廷や公家に働きかけ(東征軍の名目上の総司令官は和宮の元の許嫁だった有栖川宮)、天璋院は新政府軍の事実上の総司令官で武力倒幕論の急先鋒だった西郷が、自分の輿入れの際の随行の1人だったことに目を付けた。
和宮が江戸の住民を巻き込んだ戦闘を避けるよう訴えた書状が宮内庁書陵部に保存されており、天璋院が西郷の出世を褒めてうまく持ち上げつつ、戦争回避のみごとな説得を展開した長文の書状も近年発見されている。
上野東照宮唐門の透かし彫り 中国故事に基づく君主の徳についての戒め |
勝海舟と西郷は、篤姫と和宮の、江戸市民を守ろうという強い意思と巧みな裏工作のお膳立てがあった上で面談したのであって、江戸の街と庶民に大きな犠牲を出したであろう陰惨な戦闘が避けられたのは、勝と西郷という男たちよりも、この徳川の妻たちの力だ。
天璋院篤姫(1836-83) |
明治初期を生き抜いた篤姫の墓所は、寛永寺の常憲院殿霊廟奥ノ院の、夫・家定の墓のそばにある。夫婦が並んで葬られているのは将軍家の墓として異例だ。14代家茂は増上寺に葬られており、戦後に将軍の墓所が移設された際に和宮の墓もその隣に移されている。
和宮親子内親王(1846-77) |
こうした徳川家の妻たちが活躍してこその江戸無血開城だったことが忘れられ、西郷隆盛と勝海舟という男たちの功績が神話化されて来たのも、明治がどういう時代だったのかを考えさせられずにはいられない。
和宮が江戸に輿入れした際の牛車の記録 |
とはいえ江戸全体が戦場になることこそ避けられたものの、彰義隊が上野東叡山に立て籠ったのをいいことに、新政府軍はそこに火を放ち、徳川がなんだかんだで庶民に親しまれて来たことの精神的な中枢の寛永寺を破壊しただけではない。その暴力的なやり方は、東北の、徳川親藩や恩顧の諸藩への攻撃ではさらに徹底された。
寛永寺 旧本坊表門 寛永2(1625)年 |
寛永寺清水観音堂 寛永8(1631)年 |
禁門の変を鎮圧したのが京都守護職で会津藩主の松平容保だったので、新政府軍には会津への逆恨みもあったのかも知れない。また上野戦争で美しいものを破壊する快感に「味をしめた」こともあり、会津藩への攻撃はとりわけ凄まじいものだった。
だがこの会津戦争のあまりものひどさも、福島県以外ではほとんど知られていない。
会津松平家は、四代家綱の代に徳川の治世が戦国時代の雰囲気が残る武断統治から、平和と武家以外の町民・農民の安定した生活を守ることを最優先する文治政治に転換する方針確定に決定的な役割を果たした、あの保科正之の家系である。
内陣の前には観音経から取られた「慈眼視衆生」 観音菩薩が慈しみの眼であらゆる生命を見つめているとの意 天海の諡号「慈眼大師」もこの一節から取られている |
首だけが残った上野大仏が「これ以上は落ちない」というシャレで「合格大仏」になっていることを、寛永寺の関係者はより深い意味を込めて語る。
上野大仏 天保14(1843)年の改鋳修理の頭部のみ現存 唇に朱の彩色、頬に金箔の痕跡が残る |
「“敵” にこれ以上はないというほどひどく扱われて来た」というのは、その “敵” によって日本そのものが存亡の危機に陥り、寛永寺が空襲で将軍家霊廟と辯天堂を失っただけでない。僧侶達は周囲の上野がほとんど焼け野原になり多くの死者が出たことも、傍観するしかなかった。
2016年夏、大仏の顔の上に屋根が設けられた |
歴代徳川将軍家のうち、最後の将軍となった十五代慶喜のみ、埋葬は神道形式(というのは明治以前にはなかった新しい風習)で行われ、その墓所は谷中霊園の東京都所轄部分にある。
谷中霊園 徳川慶喜とその妻の墓 |
徳川慶喜の墓 |
かつては谷中の天王寺の手前までが寛永寺の寺領で、今の谷中霊園にも将軍以外の徳川家の人々の墓所や霊廟があった。
谷中霊園のなかにある徳川家の墓所 |
分家(御三卿)の田安家の墓 |
今でも谷中霊園の一部は寛永寺の管理 で、徳川家や徳川親藩の他、寛永寺やその塔頭の主要な僧侶、それに仙台の伊達家などの大名家の墓もある。
上野がもうひとつ、新政府にとって極めて都合の悪い場だった理由は、今でも上野東照宮つまり神社と五重塔つまり仏閣の一部であるはずのものの位置関係に、端的に見て取れる。
この南面が五重塔の本来の正面 手前が東照宮参道 冊で区切られて上野動物園 |
五重塔は東照宮の参道横に建っているが、その境内と動物園の敷地が、鉄の柵で強引に区切られている。元はひとつの境内で、「旧寛永寺五重塔」と呼ばれているのは本来は東照宮の仏塔だった。
上野東照宮 備前(岡山県)の御影石製の石造明神鳥居 |
二代目広重 東都真景図会 上野東照宮 |
これも近代以降に日本人の記憶から抹消された、隠蔽された過去のひとつだ。神仏にさしたる区別をつけないのが本来の伝統で、今日「神道」と呼ばれる宗教はなく、仏教と一体化していた。
神社に仏塔があるのは普通のことだったし、神宮寺や経蔵などの仏堂も建てられ、むしろ神社と寺がワンセットなのが、日本の本来の信仰の形だった。
比叡山・横川の良源(慈慧大師。元三大師)の廟所 霊屋の前に鳥居 |
仏僧の廟所・墓所だが霊屋の後 墓の前にもさらに鳥居が |
同じく横川 恵心僧都(源信)の墓所 やはり鳥居 |
逆に寺院にカミを祀る社があるのも当たり前で、上野の東照宮は寛永寺の一部だったし現に鳥居にも「東叡山」の東照宮と刻印されている。また惣門を入った右手の高台には総鎮守として山王権現社があった。逆に仏教の神であっても不忍池辯財天も江戸時代には鳥居があった。
ざっと例を挙げるだけでも東大寺の手向山八幡宮、高野山の四所明神、三井寺の十八明神社や三尾神社、日光山の二荒山神社などなど、ごく当たり前にカミを祀る社が併設されていたのが、日本の信仰文化の本来の姿だ。
奈良・東大寺の総鎮守 手向山八幡宮 神門 |
古代から、寺院の立地に選ばれたのは、仏教伝来以前からの聖地・霊山だった場所だったのだろう。東大寺にしてもすぐ隣接して春日大社の奥ノ院である聖なる山の御笠山があるが、手向山八幡宮は東大寺の境内の地霊を抑える鎮守として天皇家の祖先神とされる八幡大菩薩(元は九州・宇佐の農耕神だったが応神天皇の神格化とされた)を迎えて祀ったものだ。
手向山八幡宮 幣殿と本殿 |
逆の例が高野山の麓にある四所明神社、またの名を丹生都比売神社で、高野山の女神の丹生都比売大神(ニウツヒメノオオカミ)が男神の高野御子大神(タカノミコノオオカミ)に勧められ、空海を歓迎し真言宗の修行道場を造ることを許したとされる。さらに敦賀の氣比神社から大食津比売大神(オオゲツヒメノオオカミ)と安芸の宮島から厳島神社の3姉妹の祭神のうち市杵島比売大神 (イチキシマヒメノオオカミ)の二柱の女神が迎えられ、この四柱が高野山の守護神となった。
高野四所明神図 室町時代16世紀 |
寺院の立地に選ばれた場所の多くは、仏教伝来以前からの霊山だったのだろう。日本最古の仏教寺院のひとつ四天王寺(大阪市)の立地は「日本書紀」によれば「荒陵」、つまり古墳だったと思われる。ここは聖徳太子(厩戸豊聡耳王・厩戸王)と蘇我馬子に滅ぼされた物部守屋に関係する霊的な場所だった可能性があり(四天王寺はこの戦傷祈願で創建された)、元は物部氏の屋敷跡に建てられたという説もあるが、境内にはその守屋と弓削小連、中臣勝海(いずれも仏教伝来以前のカミ信仰の祭祀に関わっていた豪族)を祀った祠がある。
元々そこにいた地霊のカミガミへの対応として、四天王寺では怨霊をカミとして祀ることでなだめ、東大寺の場合には抑えるための鎮守として天皇家の祖先神が迎えられ、高野山の場合は元からの地霊・カミがそのまま寺院の守り神になったわけだ。
日光山が修験道の聖地だったのも、男体山・女峯山・太郎山の日光三山への信仰は恐らくさらに古代に遡る。天台寺院となってからも二荒山神社と輪王寺は一体とみなされ、三仏堂の三尊並列の本尊である千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音はそれがそれぞれに男体山・女峯山・太郎山と同一視されて「日光三所権現」と呼ばれた。
二荒山神社拝殿 奥の簾の向こうに本殿の正面扉が見える |
寛永寺が比叡山延暦寺に倣った寺(だから東叡山、東の比叡)であったのは再三述べて来た通りだが、惣門の右手、今の西郷隆盛像が立つ当たりは山王権現社だったのも、叡山にも東塔から最澄の廟所である浄土院と西塔に向かう途中に、山王権現を祀る山王院がある。
それに上野でも日光でも東照宮は家康が「東照大権現」というカミになったので神社になっているが、上野東照宮ならば日光にある墓に代わって江戸で家康にお参りができる役割は、上野にあった家光の「御霊屋」の寛永寺大猷院殿とほぼ同じだ。増上寺の安国院殿霊廟となると江戸時代のあいだはずっと仏教の廟所で、芝東照宮と改称されて増上寺から切り離されたのは明治の神仏分離を受けてのことだ。
五重塔の帰属が上野東照宮から寛永寺に移されたのも、神仏分離令で取り壊しになるのを避けるためで、東京都に所有権が移ってもずっと「旧寛永寺五重塔」と呼ばれて来た。
その上野東照宮の拝殿正面の門扉には、仏法を象徴する法輪がずらりと並んでいる。
法輪は日光東照宮にも随所に配されているし、こちらの境内には仏塔である五重塔が今も同じ境内にちゃんと立っている。
神社である日光東照宮と仏堂の輪王寺大猷院殿では、上野東照宮と同じ「権現造り」の拝殿・幣殿・本殿を中心とする建物の構成はほとんど同じだ(色の使い方は黒が多い大猷院殿が地味…ということになっている…はず)。
逆に寛永寺や増上寺にあった徳川将軍の霊廟も、仏教施設であっても明治以降全国統一的な神社の構造として普及した権現造りだった。
比叡山延暦寺内の山王院 |
それに上野でも日光でも東照宮は家康が「東照大権現」というカミになったので神社になっているが、上野東照宮ならば日光にある墓に代わって江戸で家康にお参りができる役割は、上野にあった家光の「御霊屋」の寛永寺大猷院殿とほぼ同じだ。増上寺の安国院殿霊廟となると江戸時代のあいだはずっと仏教の廟所で、芝東照宮と改称されて増上寺から切り離されたのは明治の神仏分離を受けてのことだ。
上野東照宮 水舎門 寛永4(1627)年 |
参道に並ぶ諸大名寄進の石灯籠 |
五重塔の帰属が上野東照宮から寛永寺に移されたのも、神仏分離令で取り壊しになるのを避けるためで、東京都に所有権が移ってもずっと「旧寛永寺五重塔」と呼ばれて来た。
その上野東照宮の拝殿正面の門扉には、仏法を象徴する法輪がずらりと並んでいる。
上野東照宮 拝殿 慶安4(1651)年 |
法輪は日光東照宮にも随所に配されているし、こちらの境内には仏塔である五重塔が今も同じ境内にちゃんと立っている。
日光東照宮 五重塔 |
神社である日光東照宮と仏堂の輪王寺大猷院殿では、上野東照宮と同じ「権現造り」の拝殿・幣殿・本殿を中心とする建物の構成はほとんど同じだ(色の使い方は黒が多い大猷院殿が地味…ということになっている…はず)。
輪王寺 大猷院殿 拝殿正面 |
折り上げ格天井 狩野派による龍の天井画は東照宮を踏襲 |
狩野探幽は日光東照宮と上野東照宮にも獅子の障壁画を描いている |
拝殿より幣殿・本殿 |
大猷院殿 拝殿 承応2(1653)年 |
幣殿 左に拝殿 右に本殿(本堂) |
本殿(本堂) |
逆に寛永寺や増上寺にあった徳川将軍の霊廟も、仏教施設であっても明治以降全国統一的な神社の構造として普及した権現造りだった。
上野東照宮 本殿 幣殿 拝殿 慶安4(1651)年 |
拝殿より本殿 透塀が明るいのは西陽が金箔に反射しているから |
日本人本来の意識のなかでは、「神仏習合」どころでは済まないどころか、むしろこの言い方も発想が逆なのかも知れない。神仏は元から漠然と同じもので、仏教の伝来でカミガミへの信仰がその一部に取り込まれて来たのが、日本の本来の信仰の形だったのではないか?
西陽の照り返しがまばゆい本殿背面の擬宝珠 |
そこを仏と神を無理矢理に分化して「神道」なる事実上新たな宗教を作ろうとしたのが、明治維新政府の断行した神仏分離令と、仏教排斥の廃仏毀釈運動だった。
上野戦争を焼け残った東照宮の五重塔は 廃仏毀釈の破壊を避けるため寛永寺に移管された |
天皇の祖先神になる天照大神(アマテラス、伊勢神宮)を最高神とする「国家神道」という、いわば明治起源の新しい宗教の誕生以前には、天皇家もずっと仏教に帰依し、日本の仏教史のなかで大きな役割を果たして来た。多くの天皇は退位後に出家して法皇となり、宇多法皇の仁和寺、嵯峨天皇の離宮が寺になった大覚寺、亀山法皇創建の南禅寺のように、天皇・上皇が作った寺院も多い。
寛永寺旧本坊表門 寛永2(1625)年 |
寛永寺と日光山輪王寺が門跡寺院だった、つまり皇族がそのトップを務めて来たことも、繰り返し述べて来た通りだ。
門跡寺院つまり皇族が住職を務めたので菊紋が配されている |
寛永寺と日光山双方の往事を務めたのが「輪王寺宮」 |
江戸では他にも西本願寺系の築地本願寺、東本願寺系の浅草本願寺が築地門跡、浅草門跡だった。
日光山輪王寺の本坊表門(黒門)には金の菊紋 |
輪王寺 本坊表門 江戸時代中期 重要文化財 |
飛鳥時代の厩戸豊聡耳王(聖徳太子・厩戸王)は、明治の皇国史観以前は仏教の重要な信仰対象だった。斑鳩・法隆寺の東院伽藍(太子の屋敷があった斑鳩宮跡地)夢殿の救世観音像や、法隆寺のすぐそばにある中宮寺門跡の菩薩半跏思惟像は、共に太子の生前の姿を写したものだと伝承されている。
中宮寺門跡(奈良・斑鳩)本尊 如意輪観音半跏思惟像 飛鳥時代7世紀 聖徳太子の写し身として信仰されて来た |
半跏思惟像は通常は弥勒菩薩を表すが、中宮寺では如意輪観音として伝えられて来ているのも、太子が観音菩薩の生まれ変わりとみなされて来たからだ。今日でも四天王寺では、聖徳太子像を「本地・如意輪観音」として祀っていし、太子は天台宗や浄土真宗などでも信仰対象だ。こうした太子信仰はその没後まもなくか、息子の山背大兄王が蘇我氏に滅ぼされてまもなくにまで遡るのだろう。
おそらく太子が本当に果たした歴史上の役割は、推古朝における仏教の導入普及に関することで、没後まもなく仏教的な信仰対象になっていたのを、「日本書紀」が踏襲して政治にも関わった(「摂政」)ことにしたのではないか。
なお中宮寺も門跡寺院になり、ながらく内親王(皇女)が住職を務める尼寺だった。
明治21年文化財調査写真 撮影 小川一真 |
平安時代に密教が導入されると、日本のカミガミは理論的にもその体系化された世界観に組み込まれ、「本地垂迹」つまり如来や菩薩が日本の衆生の救済のために現れた姿、その「権現」とみなす教義化がなされる。
小島荒神図 室町時代15世紀 土着神だが密教の法具を持って表されている |
今日でもチベット密教の転生仏・活仏信仰(たとえば今のダライ・ラマはダライ・ラマとして14回目の転生、観音菩薩の生まれ変わりとしては32世になる)がよく知られているが、同じような考え方で仏が日本のために聖徳太子になったり、カミとして衆生救済のため現世に現れる、その日本限定のカミとしての姿が「権現」で、その本来の仏を本地仏と言う。
日吉山王本地仏曼荼羅 鎌倉時代14世紀 霊雲寺蔵 |
たとえば日光山(三所権現)は男体山・女峯山・太郎山の三山がそれぞれ千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の権現とされ、だから男体山の別名「二荒山(ふたらさん)」は観音浄土の普陀落山(ふだらくさん)が訛ったものだという説もある。また「日光」も一説には「二荒」を「ニコウ」と音読みしたのが語源なのだそうだ。
春日宮曼荼羅 鎌倉時代 南市町自治会蔵 下から一の鳥居 左に東大寺 春日権現と若宮 その上 御蓋山の中腹に本殿四柱と若宮の本地仏が並ぶ |
あるいは春日権現社(現 春日大社)なら本殿第一殿の武甕槌命(タケミカヅチ)は釈迦如来ないし不空羂索観音を本地仏とし、第二殿の経津主命(フツヌシ)は薬師如来、第三殿の天児屋根命(アメノコヤネ)は地蔵菩薩、第四殿の女神、比売神(ヒメガミ)は十一面観音で吉祥天の姿をとることもあるとされ、また若宮の天押雲根命(アメノオシクモネ)は文殊菩薩と同一視されて来た。
「権現造り」の構造は、こうした本地垂迹説の「権現」の考え方を反映したものだ。
根津権現 拝殿 宝永3(1706)年 卍やゾウ、獅子はいずれも仏教の意匠 |
権現造りの拝殿から本殿を見る |
根津権現(根津神社)本殿 宝永3(1706)年 徳川綱吉造営 |
カミがそこにいるとされる本殿を直接拝むのではなく、その前に拝殿があり、本殿に宿るカミが拝殿によって表象される。
豊臣秀頼造営 北野天満宮拝殿 慶長12(1607)年 |
北野天満宮 手前より本殿 拝殿 西の楽の間 |
京都の北野天満宮や日光東照宮ではそのあいだの地面を屋根と壁で覆った「石の間」でつながれており(東照宮では現在は石の間も畳敷き)、また浅草の三社権現(現 浅草神社)では、本殿と拝殿は渡り廊下状の床で繋がれているが柱と屋根しかない。
三社権現(浅草神社)拝殿 慶安2(1648)年 徳川家光造営 |
拝殿の後側の扉を開けた状態 奥に幣殿と本殿が見える |
権現造りの完成形では、屋根も壁も床もある幣殿(相の間)でつながれることで、分離されると同時に一体にもなっている。
薬師如来座像 9世紀平安時代(国宝 奈良国立博物館) 京都東山・若王子社の本地仏 神仏分離令で流出後 国に買い取られた |
それが神仏分離と廃仏毀釈運動で真っ先に標的にされ、多くの仏像が破壊されたり、海外に流出している。今日、美術館・博物館の収蔵品になっている仏像の多くが神社の本地仏だったり、神社内の仏殿(神宮寺)が破壊され、安置される場所がなくなったものだ。
上野東照宮 本殿 |
薬師瑠璃光如来 日光菩薩 月光菩薩 旧 上野東照宮本地仏 |
神仏分離令でこの薬師堂は取り壊され、薬師瑠璃光如来立像と脇侍の日光・月光二菩薩も東照宮から追い出されて寛永寺が引き取り、部材の一部は新しい根本中堂の増改築に用いられた。本地仏の三尊は昭和42年以降、かつて大仏と大仏殿のあった丘の上のインド風の仏塔(大仏パゴダ)に安置されている。
昭和42年に大成建設の寄進で建立されたパゴダ 東照宮の本尊だった薬師三尊を安置する |
高野山の奥ノ院にある家康の霊廟(安国院殿)にも薬師堂が付随しており、また日光の東照宮では薬師堂は破壊されなかった。全国の神社で本地堂が残されているのは極めて珍しい(国の重要文化財)。
日光東照宮 薬師堂(本地堂) 寛永13(1636)年 |
むろん東照宮の一部として造られたものだが、現在ではその帰属が輪王寺と東照宮のあいだで曖昧なままで、東照宮境内にあるが輪王寺の僧が管理している。
東照大権現として神格化された家康の像 17世紀 |
上野の大仏殿があった丘の裏手、上野精養軒のそばには今も寛永寺の鐘楼があり、「時の鐘」が午前と午後の6時と正午に時を告げている。かつて江戸市中の標準時刻を報せていた鐘だ。
寛永寺 時の鐘 江戸市中に時を告げるのも寛永寺の役割だった |
明治初期の時の鐘 上野戦争による寛永寺の破壊後まもなくの彩色白黒写真 |
明治維新で1人の天皇の在位期間中はひとつの元号になり、太陽暦が採用されるまでは、元号を決めることと、農業が基幹産業であれば決定的に重要だった暦を定めて毎年発行することは朝廷、天皇のみがその権限を持っていた。
つまり空間を支配し政治的に統治するのは将軍家の役割でも、時間を支配し続けていたのは天皇であり、その天皇が象徴的に支配する時間を報せる役割として鐘を鳴らすのも仏教寺院の役割だったのだ。
上野東照宮参道の石灯籠 天台宗中興の祖・良源(慈慧大師・元三大師)の紋 |
天皇の祖先神の天照大神を最高神とする「神道」として明治政府が仏教から切り離した「国家神道」を創始した(というか、でっち上げた)ことは、こうした天皇家の伝統を強引に、本来なら強い結びつきがあった仏教から分断することでもあった。
神仏習合がまったくの当たり前で意識すらされなかったのが、近現代の日本人のほとんどには逆に奇異に見えてしまい、わざわざ「神仏習合」と言わなければ理解出来ないほどに、日本人の信仰意識が暴力的に変えられた契機が、明治維新の神仏分離と廃仏毀釈だった。
寛永寺のような門跡寺院の宮門跡・法親王も廃止され、天皇家の菩提寺の泉涌寺は多くの天皇の墓所でもあるためさすがにそのまま残されたものの、その重要性からすれば意外なほど、未だ知名度は低い。
かつて大きな寺院には必ず、時に複数あった鎮守の社も多くが移転させられたり、廃止されたりした。
三井寺南院の鎮守・三尾神社は神仏判然令で境内から移転された 鎌倉時代の本殿は移設されたもの 拝殿と透塀は明治以降 |
神社内の神宮寺や仏塔や宝塔は各地で撤去させられ、上野東照宮の薬師三尊のような本地仏は居場所を失った。仏塔である五重塔と本地堂の薬師堂が残っている日光東照宮は極めて希有な例だ。
日光東照宮には経蔵(輪蔵)もある 寛永13(1636)年 |
五重塔が残されただけでも、上野東照宮と寛永寺はまだ運が良かった方なのかも知れない。
たとえば鎌倉の鶴岡八幡宮では、明治に仏塔・宝塔などの仏閣様式の建造物をすべて取り壊し排除する境内の大改造が強行され、「八幡大菩薩」だった神号も「八幡神」に変えられてしまった。戦のカミとして神格化された第十五代応神天皇は菩薩の称号で呼ばれ、神像も仏僧の姿(僧形八幡)が普通だった。
僧形八幡神坐像 国宝 薬師寺 平安時代寛平年間(889~898) |
本来は江戸から全国に広がる街道口にあった江戸六地蔵のうち、千葉街道に通じる深川の永代寺にあった銅造の大きな地蔵尊が今では街道口となんの関係もない寛永寺塔頭の浄名院(へちま寺)にあるのも、永代寺が富岡八幡宮に併設された寺院で、神仏分離令に基づき廃寺となったからだ。
広重 東都深川八幡宮境内全図 右下に永代寺と銅造の地蔵尊が描かれている |
かつて深川八幡の神宮寺・永代寺にあった地蔵菩薩 江戸六地蔵のひとつ 現在は東叡山の子院浄名院境内に安置 |
八幡大菩薩は天皇(十五代応神帝)の神格化とみなされただけに、政府が天皇中心の国家神道という新しい国家宗教を作ろうとする中で、仏教要素の排除がとくに徹底されたのかもしれない。
広重 江戸高名会亭尽 深川八幡境内 |
広重 名所江戸百景 深川はちまん山ひらき |
加茂御祖社(下鴨神社)糺ノ森 |
糺ノ森 奈良殿神池 |
御手洗池と井上社 加茂御祖社(下鴨神社)は元は賀茂川の水を神格化した神社 |
日本のカミ信仰の起源は言うまでもなく、自然神信仰(アニミズム)であり、山や川、森や林や巨岩こそがカミの宿る場であるのが本来なのに、あまりに馬鹿げている。
賀茂御祖社(下鴨神社)の現在の主たる社殿は 三代家光による寛永5(1628)年の式年造替の際のもの |
現代日本人が無邪気に「伝統」と思っている「神道」は、近代にかなりいびつに西洋の影響下に変質させられたものだ。
賀茂御祖社(下鴨神社)直視が許されない東御本宮 |
そこから見えて来るのは、仏教は外来宗教だから否定し、日本の土着信仰は西洋近代的な価値観では「迷信」だから排除しようという、歪んだコンプレックスだ。
日光東照宮 本地堂 全国の神社で本地堂が残されている例は極めて稀 薬師如来の眷属である十二神将については干支の守り神としてお守りも 売っているが 厨子内に秘仏本尊の薬師像があることの説明はない |
神仏分離令と廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治初期に、奈良で藤原氏の氏神の春日大社とワンセットの菩提寺だった興福寺の危機はよく知られている。
興福寺 五重塔(右)東金堂(左)室町時代の再建 国宝 |
寺領どころか境内地も没収され、多くの堂舎や寺宝が失われた。今の奈良公園はほとんどが興福寺の境内で、子院や僧坊が並んでいた場所だ。
興福寺破損仏 明治21年撮影 現在は国宝指定されている八部衆のうち沙羯羅像 |
一時は50銭で売りに出された五重塔など、現代ではほとんどが国宝指定されている多くの文化財は、いずれも奇跡的に破壊を逃れたものなのだ。
明治21年 小川一真撮影 興福寺東金堂内の破損仏 |
アメリカのメトロポリタン美術館やボストン美術館などでは、平安朝の天台宗や浄土信仰の須弥壇がまるごと収蔵・展示されていて驚かされるが、別に略奪されたのではない。日本文化を愛したアメリカの実業家や富豪が、神仏分離と廃仏毀釈で明治政府が破壊しようとしていた日本の文化財を保護するため購入し、持ち帰ったものだ。
紅葉に映える秋の清水観音堂 |
もう一点、これも通俗日本史観では見落とされがちだが、僧侶とくに禅僧は、かつての日本で最高クラスの知識人であり、政治家としての役割も絶大だった。
とくに禅僧は中国の文化や文献、制度に詳しく、武士と強く結びついてその政治コンサルタントになり、外交官としても活躍し、教師・指導者になった。戦国武将の多くが身近に禅僧を招き、政治顧問や子弟の教育を頼むのが当たり前だった。漢籍に通じた禅僧は孫子の「兵法」なども教示できたし、現に今川義元の軍師・太原雪斎は臨済宗の僧侶だった。
徳川の幕府による250年に及んだ平和統治理念の確立に功績が大きかったのが天台宗の天海であり、法体系の制度設計とその運用の基本論理を作り上げたのは臨済宗・京都五山別格筆頭の南禅寺の以心崇伝(金地院崇伝 1569-1633)だ。
以心崇伝像 南禅寺金地院 開山堂 |
小堀遠州 金地院大方丈前庭「鶴亀の庭」巣ごもりの鶴 |
吉祥である松の下の石は鶴の無数の卵をに見立てられている 同性愛者でなかなか跡取りが出来なかった家光のために作られた |
金地院 大方丈 諸侯対面の間 狩野探幽と尚信の障壁画 家光の来訪時の座所で鶴亀の庭の巣ごもりの鶴に正対する |
念のため繰り返しておくが、徳川家(松平家)の宗派は浄土宗だ。家康・秀忠・家光の三代を支えたブレーンの崇伝は臨済宗、天海は天台宗で寛永寺は天台寺院である。
慈眼大師毛髪塔 東叡山寛永寺(現 上野公園内) |
木造 天海僧正坐像 喜多院慈眼堂内 寛永20(1643)年 天海の没する数ヶ月前に生き写し像として作られたと言われる |
川越喜多院 慈眼堂 正保2(1645)年 |
喜多院の本堂である慈慧大師(良源)を祀る慈恵堂 寛永16(1639)年の川越大火の直後に家光が再建 |
崇伝は「武家諸法度」などの幕府の様々な法令を執筆、元々亀山上皇の開いた南禅寺だけに朝廷や天皇ともパイプを持ち、家光の代まで幕府を支え「黒衣の宰相」として恐れられるほどの権勢を奮い、禅の高僧として中国語に堪能で国際情勢にも明るかったことから外交顧問としても活躍した。
狩野探幽 以心崇伝像 南禅寺金地院蔵 |
崇伝の協力で、家康は対馬の宗家を仲介役に、秀吉の朝鮮出兵で国交が断絶していた李氏朝鮮との正式国交を回復し、明や清と正式国交の冊封関係は取られなかったが貿易は盛んに行われ、タイのアユタヤ朝などの東南アジア諸国との交易も栄えた。
日朝の友好関係は明治新政府に幕府が倒されたことを不道徳とみなした李朝が断交するまで続き、12回に渡って国使の朝鮮通信使が江戸を訪れ、毎回その道中で大人気になっている。
日光東照宮奥ノ院 家康の墓所 金・銀・銅の合金製の宝塔は元禄時代 |
霊前の具足は朝鮮の李朝からの贈り物 |
東照宮 奥宮拝殿 元和3(1617)年 |
ここで参拝できたのは将軍だけ |
以心崇伝が起草と制定に関わった武家諸法度では、諸藩諸大名が貿易外交を直接行うことが禁じられ、外国との付き合いはすべて幕府の許可を得て、幕府を通じて行われることになった。いわゆる鎖国令(ただしこの名称は後世のもの)と吉支丹(切支丹)禁止令も崇伝が執筆している。この外交・通商政策が苛烈な宗教弾圧を含み、悲惨な犠牲も少なくなかったのも確かだが、一方では武器、特に国産が不可能な火薬(硝石は日本では産出せず、輸入に頼るしかなかった)が諸大名に渡らないようにすることで、内乱を防ぐ手段でもあった。
戦国時代の末、日本には15万梃の火縄銃があったと推計されるが、徳川政権の成立と相前後してほとんどなくなっている。
国産が圧倒多数だった火縄銃の製造拠点だった堺では、その技術を活かして包丁の生産が発展した。
対ヨーロッパ貿易は確かにオランダ一国に限定されたが、「鎖国」という言葉のイメージとはかなり反して、オランダを通して輸出された日本の陶磁器や漆器はヨーロッパで王侯貴族や上層ブルジョワを中心に大流行になっている。
オランダ東インド会社の紋章が入った染め付けの伊万里焼 17世紀 |
たとえば伊万里焼きは元々、景徳鎮などの中国磁器の模倣から始まり、ちょうど中国で明から清への王朝交替でその陶磁器産地が衰退した隙をついてヨーロッパの市場を席巻した。
こうした高級工芸品の輸出は手工業の発展を牽引し、幕府にとっては諸藩の反乱の防止にもなり、国内政治を安定させ、財政上も大きな意味があった。
しかし明治新政府が急激な西洋化を目指す一方で「武士道」の国としての自己イメージを追及し、天皇とその祖先神の天照大神(伊勢神宮)を中心に再定義されたカミ信仰を「神道」と称して国家宗教にしようとして来た近代の歴史観と、「サムライの国」という近現代日本の国家観では、史実では坊主がこんなに大きな顔をしていて、武家の政府が仏教の殺生戒に忠実で殺生を戒める絶対平和主義の方針を徳治とみなし、庶民もそんな泰平の世をけっこう楽しんでいたなどというのは、おおいに都合が悪かったのだろう。
しかし明治新政府が急激な西洋化を目指す一方で「武士道」の国としての自己イメージを追及し、天皇とその祖先神の天照大神(伊勢神宮)を中心に再定義されたカミ信仰を「神道」と称して国家宗教にしようとして来た近代の歴史観と、「サムライの国」という近現代日本の国家観では、史実では坊主がこんなに大きな顔をしていて、武家の政府が仏教の殺生戒に忠実で殺生を戒める絶対平和主義の方針を徳治とみなし、庶民もそんな泰平の世をけっこう楽しんでいたなどというのは、おおいに都合が悪かったのだろう。
清水堂では初午の日のみ源信(恵心僧都)作の秘仏本尊の厨子が開かれる 右に釈迦三十六尊 左に東照大権現としての家康の神像の掛け軸 |
僧侶や宗教との関わりでいえば、西洋近代を模倣し西洋に認められる国になろうと懸命になっていた明治政府にとって、もっと受け入れ難かったであろう歴史の痕跡も、上野にはある。
渓斎英泉 上野花遊(はなあそび)の図 |
恩賜上野公園 さくら通り中程 摺鉢山(元は古墳)のふもと |
広重 東都名所 上野東叡山の花見 |
上野が江戸城の鬼門の方角にあたり、京都と比叡山の関係に見立てた鬼門封じになっているのは何度も触れて来た通りだが、明暦の大火後に神田明神が移転した現在の高台にある境内も、やはり千代田の城から見てやはり鬼門だ。つまり江戸総鎮守と東叡山で二重の鬼門封じになっているのだが、こうした中国由来の方位学(今で言ういわゆる風水)に基づいた都市設計は、西洋起源の近現代の科学主義では「迷信」かも知れないが、元はといえば古代中国の天文学だ。
今は新宿四丁目、新宿御苑と新宿駅の間にある護本山天龍寺は、元は江戸城の裏鬼門守護の役割で牛込納戸町・細工町に建てられた寺だ。
護本山天龍寺 葵紋の配された山門は昭和10年代に 1940年東京オリンピックを当て込んで建てられたもの |
新宿御苑の近くには、新宿二丁目に江戸六地蔵のひとつを祀る大宗寺もある。
大宗寺 銅造地蔵菩薩坐像 正徳3(1712)年 内藤新宿(現新宿二丁目) |
新宿(内藤新宿)は甲州街道の最初の宿場で、江戸六地蔵がいずれも街道口に置かれたのも、江戸を発つ旅人が道中の安全を祈り到着する者が旅の無事を感謝するだけでなく、江戸を外界から霊的に守護する意味もあった。
江戸六地蔵之内 巣鴨 医王山真性寺 銅造地蔵菩薩坐像 正徳4(1714)年 |
また家康が日光に埋葬されることを遺言したのは、北斗七星と北極星への北辰信仰と、中国の儒教伝来の君主南面思想との関連があるとの説もある。日光山は江戸のほぼ北にあたり、たとえば唐の長安やそれを模した平城京、平安京のように、儒教の論理では君主は都の最北に座し、夜の天空に不動の北極星を背に、南に見える土地と人民を統治するとされた。
君主南面との関連性は分からないが、江戸城の天守閣も最初は本丸の中程にあって表御殿の一部だったのが、家光の代に建てられた寛永天守は本丸御殿の北端の、大奥のさらに奥にあった。
旧江戸城本丸 明暦天守台 |
明暦の大火でこれが焼失し、ほぼ同じ位置に天守台までは造営されたが、四代家綱と叔父で側近の保科正之が江戸市街の復興に幕府の財政出動を優先したため天守が再建されなかったのは先述の通り。
天守台が出来たところで工事は中断された |
以降、江戸城は天守のない城であり続け、天守の不在こそが徳川の平和支配の象徴でもあった。 今も残る明暦天守台の上には天守が建ったことがないのに昨今一部の政治家などが江戸城天守閣の再建を、などと言っているのはまったくのナンセンスだ。ならば寛永寺根本中堂を再建した方がいい。
不忍池弁財天 初詣で |
開国と明治維新以前の日本人にとって(いや実はそれ以降も今に至るまでずっと)、方位の吉兆などを考えることは、わざわざ信仰というまでもないような、むしろ生活の一部だった
北斎 弁天詣で |
広重 上野不忍池の雪 |
渓斎英泉 江戸八景 不忍暮雪 |
だいたい、今でも日本人は、占いやお守り、縁起かつぎが大好きな民族だ。
清水観音堂の舞台より不忍池辯財天 |
広重 江戸高名会亭尽 下谷広小路 現在の上野広小路より見た不忍池と辯天堂 |
上野花園稲荷隣の韻松亭から不忍池辯天堂を臨む |
広重 東都名所 上野山王山 清水観音堂花見 不忍之池全図 中島辯財天社 右側に寛永寺鎮守の山王権現 辯天堂はかつて「辯財天社(神社)」とも呼ばれた |
小田野直武 不忍池図 18世紀 享保の蘭学解禁で広まった西洋画の技法 |
東京大空襲で焼失し戦後に再建された辯天堂 |
年に一度の9月の二の巳の日 秘仏八臂大辯財天の開張 |
広重 江戸名所 不忍池 |
明治の神仏分離令で鳥居が取り除かれた |
広重 江戸高名会亭尽 池之端 |
そう言ってしまうとますます、鎖国政策もあったことだし、江戸時代は遅れた、迷信深い時代だったと思われるかも知れないが、これも多分に明治以降の偏見だ。
実際には、こと享保の改革で蘭学(オランダ経由で輸入された西洋の学問)の研究が公式に解禁されて以降、西洋の先端知識や技術は出島を通して積極的に輸入されている。
学問の奨励も初代家康に遡るのだが、西洋渡来の学門の研究が解禁されると、たちまち江戸では解剖ブームが起こっている。
解体新書 前野良沢・杉田玄白訳 安永3(1744)年 |
それも医者が飛びついただけでない。例えば相当に精確な人体解剖人形が、両国や浅草の見世物小屋で人気を集めた。
見世物小屋用の解剖人形 |
後にはシーボルトの鳴滝塾も多くの門人を集め、日本の医学は江戸時代の鎖国のあいだにも飛躍的な発展を見せている。たとえば子宮のなかの胎児が頭を下にしていることが発見されたのは江戸時代の日本でだったし、幕末には華岡青洲による世界初の全身麻酔の外科手術も行われた。
後藤光成 随観写真 宝暦7(1757)年 |
これまでさんざん紹介して来た風景浮世絵は開国で西洋に輸出され、その遠近法の自由自在な使い方が西洋絵画史、とくに印象派の誕生に強い衝撃を与えることになるのだが、元をたどれば空間遠近法も出島経由で輸入された西洋絵画やその理論書、それに輸入品のレンズを使った光学玩具の「眼鏡絵」から江戸時代の絵師が学んだものだ。
「写生」を日本美術で確立した円山応挙は、最初はその眼鏡絵を描く職人だった。また伊藤若冲の作品にも、オランダから出島経由で輸入された洋書の銅版画との類似性が指摘されている。
司馬江漢 不忍池図 18世紀 本格的に西洋遠近法を導入 北側の現在の上野動物園池之端地区からの眺め |
蘭学者の司馬江漢は輸入された西洋の絵画理論書を元に本格的な空間遠近法を研究し、油絵の具でも絵を描いた他、「鈴木春重」の名義で浮世絵版画も手がけ、空間遠近法を理屈通りに取り入れた浮世絵版画は「浮き絵」と呼ばれ18世紀後半にブームになっている。
北斎 新版浮絵東叡山花盛之図 奥に寛永寺五重塔 根本中堂 |
また多色刷りの錦絵の最盛期に喜ばれた深い藍色は、天然の植物由来の藍の染料では出せない。ベロ藍(「ベルリン」の訛りか?)と呼ばれる、オランダ経由で輸入されたドイツ製の化学染料を使った色だ。
北斎 富嶽三十六景 東都浅草本願寺 濃淡の異なる複数のベロ藍(化学染料)の版で構成 |
浅草には天球儀が設置された天文台があったことも、北斎が描いている。
北斎 富嶽百景 鳥越の不二(浅草天文台) |
こうした近現代科学の先端知識が、現代では迷信とされる縁起担ぎの文化と衝突も矛盾もなく受容されていたのが、江戸時代の日本だった。
浅草も、両国橋の両岸の火除け地に仮設小屋が立ち並んだのと同様、境内西の奥山や参道両脇の仲見世を中心に、娯楽文化が盛んな歓楽街になった。
広重 東都名所 金龍山奥山花屋敷 |
戦災で焼失するまで江戸、そして東京の庶民に親しまれた巨大な本堂観音堂は、三代家光の造営だった。
広重 江戸名所 金龍山之図 |
この浅草寺も、江戸城を霊的に守護する方位学的な意味があったとも考えられている。
日本橋かいわいのにぎわい 広重 名所江戸百景 日本橋雪晴 安政3(1856)年 右奥に見える江戸城には櫓は無数にあるが天守はない |
上野東照宮 拝殿 |
明暦の大火の反省から、それまで東からの侵入を防ぐため橋がほとんどなかった隅田川に、火災時の避難路として両国橋と永代橋が建造されて両岸が火除地になったことについては先に述べた通りだが、東叡山につらなる表参道を下谷広小路(現在の上野広小路)という幅の広い道路として幕府が整備したのも、延焼防止策だった。
広重 名所江戸百景 下谷広小路 右の店は現在の松坂屋 左奥の緑が東叡山 |
これも一般的な(通俗的な)歴史観では無視されがちな幕末の大事件に、安政2(1855)年の江戸の安政の大地震がある。実はマグニチュードでは関東大震災より大きな直下型地震だったと推定されている。
広重 名所江戸百景 上野山した 現在の京成上野駅のやや先 忍岡稲荷の鳥居が見える |
関東大震災後、夏目漱石門下の随筆家・俳人で物理学者の寺田寅彦が、震災の被害の研究に熱中するうちに、近代的な消防設備などなかった安政の大地震の方が被害が遥かに小さかったこと、また関東大震災でも明治以降も広小路などの江戸時代の街割りが維持されていたところは延焼が食い止められていたことに気付く(寺田寅彦『日本人の自然観』)。
対照的に、両国橋の両岸の火除地は再開発で建物が密集していて、関東大震災のなかでも最もひどい火災による被害を出している。
細田栄之 上野三枚橋之図 |
かつて三枚橋があった上野四丁目交差点 暗渠化された川のフタが見える
|
上野戦争の攻防戦 三枚橋から黒門を経て清水堂前 |
惣門(通称・黒門)の位置を示す噴水 実際にはさらに左側にあった |
宮川長亀 上野観桜図屏風 18世紀(部分) 寛永寺惣門(黒門)の描写 背後に清水堂 |
上野戦争直後 焼け残った寛永寺惣門(黒門) |
夜には色付きのイルミネーションも |
彰義隊供養墓の説明板に描かれた黒門での戦闘 |
かつて鎮守の山王権現があった場所に設けられた彰義隊の墓 |
上野にはこうした徳川の痕跡だけでなく、もっと正体の分からない、日本史をさらに遡る未知の、語られざる、近代以降に忘れられた「伝統」の古層もある。
上野東照宮 神木 樹齢600年の大楠 |
たとえば上野東照宮には樹齢600年以上という大楠が神木として祀られている。東照宮の創建より200年以上遡るはずだが、創建時にすでに樹齢200年の大木があったから神木にしたのか、神木があったからそこに家康を祀ったのかは、判然としない。
ちなみにその奥、本殿の脇には、かつて江戸城大奥に取り憑いて悪さをしたとされる狸を祀る祠もある。
上野東照宮 本殿脇 狸を祀った祠 |
拝殿前よりご神木の大楠 |
不忍池に面した斜面には現在二つの神社があるが、そのひとつの起源は寛永寺や東照宮よりも遥かに古い。
上野忍岡 五條天神社 |
五條天神社、別名・下谷天満宮。ただし天神ないし天満宮という呼び名で医学・薬学の神様になったのは、寛永18(1641)年に菅原道真を祀る相殿が追加されてからだ。
元々の祭神は出雲の大己貴命(オオナムチノミコト、大国主【オオクニヌシ】、神仏習合では大黒天と同一視)と少彦名命(スクナビコナノミコト、同じく恵比寿天)で、創建は社殿によれば神話時代に遡り、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際に戦勝を祈って社を作ったのは、寛永寺の開山後は山道を挟んで大仏のはす向かいになる擂鉢山だったらしい。
清水観音堂も最初は擂鉢山に建てられていた。その建立時か、清水堂が根本中堂の造営に併せて移転したとき、五條天神も寛永寺の門前に移設され、大正時代までは現在のアメ横商店街の入り口あたりにあった(よって旧町名が五條町、現在は上野4丁目)。
五條天神社の旧社殿地 アメ横通り |
大正時代に五條天神が現在地に移転したので、今ではそれと併設されたかっこうになっている忍岡稲荷、またの名を穴稲荷、現在の呼称では花園稲荷の起源は、さらに謎めいている。
天海の弟子・晃海が夢のお告げを受けて洞窟のなかに古い稲荷社の痕跡を見つけて復興したので穴稲荷とも呼ばれるが、その夢枕に立ったのが寛永寺の建設で上野の山林を追われた狐の怨霊だったとも言われているのだ。
稲荷社の痕跡を見つけた洞窟は元は狐の巣穴で、穴稲荷の建立は殺された狐の霊魂を慰めるためという説もある。
現在の、外にある社殿は明治6年に民間有志の手で再興されたものだ。
ちなみに稲荷大明神は元々は農耕・稲作の神で、キツネはネズミを食べることから米を守るとみなされ、稲荷神の眷属だった。だがあまりにキツネが稲荷社につきものであることが定着し、いつしかキツネが稲荷神と同一視されるようになる。穴稲荷の伝説はその好例だろう。
徳川の以前から上野にあった聖地の痕跡の極めつけとして、かつての寛永寺の参道(今のさくら通り)を挟んで大仏の向かい側、元々古代から五條天神があって、清水観音堂が最初に建てられた摺鉢山は、実は古墳だ。
擂鉢山古墳 6世紀前半 |
清水観音堂は当初 古墳の墳丘である擂鉢山に建てられていた |
つまり五条天神社は古代の未知の王か有力者の墓に祀られた社だった。近現代の考古学調査では全長70m〜100mと推計され、出土した埴輪片から5世紀から6世紀の前方後円墳のようだが、以前から切り崩されて石室などが失われていて被葬者などの詳細は分からない。
五條天神が元々あり 清水観音堂が当初建てられた擂鉢山古墳 |
ヤマトタケルノミコトがその古墳の上に社を築いたということは、もしかして東征で滅ぼした王権の怨霊を鎮撫するためだったのだろうか? なぜそこに祀られたのが、「古事記」の国譲りの神話によればヤマト王権に併合された側の出雲の神々だったのだろうか?あるいはヤマトタケルノミコトがここに社を祀ったという伝承自体が、古墳が造られたという意味なのだろうか?
上野はただ、千代田の城の鬼門封じとして徳川の聖地が設けられただけなのだろうか?
清水観音堂は元禄7(1694)年に現在地に移転 |
家康の江戸開府の遥か以前に遡る、古代からなんらかの宗教的というか霊的な意味を持った場所だった痕跡がそこかしこに見えるが、正体はさっぱり分からない。そういえば東京芸術大学の敷地も、掘れば古代の遺跡らしき断片がいろいろ出て来るらしい。
渓斎英泉 東都花暦 上野清水之桜 |
なお増上寺の旧境内の芝公園内からも縄文時代の丸山貝塚が発見され、丘は5世紀頃の建造と見られる丸山古墳だった。
芝丸山古墳 墳丘の上 後円部より前方部を臨む |
後円部 |
台徳院殿の奥ノ院(二代秀忠の墓所)と安国院殿(現・芝東照宮)との間に位置するこの前方後円墳は全長106mと推定されるが、やはり江戸時代以前に後円墳丘が切り崩されていたらしく詳細は分からない。
丸山古墳の墳丘斜面に祀られた円山随身稲荷大明神 |
家康を祀る芝東照宮(旧 増上寺安国院殿)は丸山古墳の麓にある |
金龍山浅草寺の過去と来歴も、さらに謎めいている。
広重 東都名所 浅草金龍山全図 かつて五重塔は現在とは参道を挟んで反対側にあった 本堂の向こうに三社権現 左端の稲荷社は明治維時代に撤去 |
伝承では推古天皇36(628)年の創建、つまり聖徳太子の時代にまで遡り、漁師の網に黄金の観音像がかかり、この地方の豪族が自らの屋敷を寺にして祀ったのが起源とされる。
三社権現の祭神は浅草寺本尊の発見した漁師兄弟と豪族の三柱 家光のこの社殿造営に際し東照宮も合祀された |
広重 名所江戸百景 吾妻橋金龍山遠望 |
明治時代に神仏分離令に基づき三社権現(現在の浅草神社)が浅草寺と分離され、本堂裏にあった稲荷社も撤去されたのだが、この工事の際に古墳の石棺が出土した。
浅草寺 本堂裏手から発掘された石棺 |
今は伝法院庭園に安置されている。つまり浅草寺もまた古墳に建立された寺だったのだ。
金龍山浅草寺伝法院(本坊) 庭園 小堀遠州 寛永年間(1624〜45) |
浅草寺はほぼ全伽藍が東京大空襲で焼失 戦後に再建 |
広重 東都名所 金龍山雪景 19世紀 |
幕末〜明治初期の浅草寺五重塔 慶安2(1649)年 家光の再建 焼失前は現在の再建の塔とは反対の境内東側にあった |
そんな正体不明の古墳跡にある浅草寺の、本尊の一寸八分の黄金の観音像は絶対秘仏だ。明治初期の文化財調査で一度だけ人目に触れてスケッチも残されているが、その調査官達が変死したという妙な都市伝説まである。
浅草寺縁起より 本尊感得の図 |
ちなみに見たら死ぬという物騒な伝承がある絶対秘仏では、他に京都の東寺西院・御影堂の南面に安置されている、空海自身が彫ったという不動明王像が有名だ。
石川県法住寺 木造不動明王坐像(重文)鎌倉時代14世紀 東寺西院御影堂の空海作「見たら死ぬ」絶対秘仏の模刻とされる |
また法隆寺西院夢殿の本尊で、聖徳太子の生き写しとの伝承もある救世観音像も、明治時代にフェノロサが再発見するまでは、厨子を開けるだけで天変地異が起こるとされた絶対秘仏だった。フェノロサが強引に厨子を開けさせ取り出させたときには、法隆寺の僧侶が天罰を恐れて逃げ惑ったという。
法隆寺夢殿 救世観音菩薩立像 飛鳥時代7世紀 明治21(1888)年 文化財調査写真 小川一真撮影 |
長野の善光寺の本尊の阿弥陀三尊も、6世紀にインドから渡来したとされ1000年以上絶対秘仏だ。 お前立ちの模刻像(鎌倉時代・重文)から判断する限りでは、実際には朝鮮半島・三国時代の様式と思われる。
善光寺は武田信玄に甲府に移され、信長が武田を滅ぼすと秘仏本尊も奪われ、秀吉が京都に方広寺を開くとその本尊になった。幕府が本来の長野に戻し、寺領を寄進し復興させてからは、庶民信仰で栄え、お前立ち本尊の出開張が全国で盛んに行われた。 現在の本堂は綱吉時代に幕府の支援で再建されたものだ。
天海は、ただ江戸城の鬼門封じに当たる位置だからと言うだけで、上野を聖地化したのだろうか?むしろ摺鉢山のあった上野や、絶対秘仏の神秘的な伝説があってやはり古墳だった浅草、芝の丸山古墳などとの位置関係から、太田道灌が江戸城の場所を決め、徳川家がそれを発展させた、と考えた方が、時系列的には納得が行く。
金龍山浅草寺本堂内陣(戦災で焼失後再建) 見たら死ぬと言われる絶対秘仏の一寸八分の本尊を納めた厨子 |
北斎 浅草観音雷神門 |
渓斎英泉 蘭字枠江戸名所 江戸金竜山浅草寺観世音境内図 |
浅草寺は初代家康が江戸開府にあたり崇敬・保護した寺院のひとつだ。没後には東照宮も設けられ、家光が三社権現の新たな社殿を造営した際にそこに併合・合祀されている。
浅草寺二天門 慶安2(1649)年の家光による浅草寺と三社権現の現社殿造営時の建立 と思われるが浅草東照宮の随神門として元和4(1618)年に建立された可能性も |
寛永寺の輪王寺宮が隠居後は浅草寺の伝法院に住むことが多かった。浅草にある東本願寺の江戸別院も門跡寺院であり、つまり今では誰も気にもとめないが、浅草は江戸時代に「皇室ゆかりの地」だった。
明暦の大火後に千代田の城のもうひとつの鬼門封じとなった江戸総鎮守の神田明神も、その正体は現代人からすればかなり理解し難い。そのもっとも重要な祭神は明治以降、ごく最近、昭和天皇が崩御し平成になるまで排除されていた。
広重 東都名所 神田明神東阪 |
明治以降100年ほどは五條天神と同じ大己貴命と少彦名命の二柱だけが公式の祭神で、この二柱の出雲系のカミが大黒天と恵比寿天と同一視されたことから、神田明神は今では商売の神様として初詣客が絶えない。
だが元々は商業のカミではなく江戸の総鎮守であった神田明神の第三の祭神は、平安時代に朝廷に反逆し関東に独立国を作ろうとした異端の英雄、平将門なのだ。
広重 江戸名所 神田明神 |
謀反人として討ち死にした将門の首は平安京に運ばれ、都大路に晒された。伝説ではその3日目に「俺の身体はどこだ」と首が大声を上げ、宙空に舞って東へと飛んで行ったとされる。
歌川貞重 神田大明神御祭之図 高台の境内の上と下の行列 遠景に江戸城と富士山 |
その首が力つきて落ちた場所が今も将門の首塚がある大手町、江戸城の三ノ丸大手門の門外すぐで、当時は海岸の丘だった(そこから東、今の東京の中心部の大部分は、徳川による埋め立て)。
平将門首塚 千代田区大手町1-2-1 |
この首塚が祟るので、14世紀に蓮阿弥陀仏の称号を諡って神格化というか仏とみなし(どちらも過去の日本人にとっては本質的に同じこと)、神田明神にカミとして祀られた。首塚は今も神田明神の別院である。俗説では神田明神の起源そのものが首を失った将門の「からだ」が訛って「かんだ」になったもので、首塚の近くにあった元の境内は将門の首なし遺体が放置された場所だったとも、首を斬られた遺体がそのまま歩いて行って倒れた場所だとも言われる。
蓮阿弥陀仏の板碑は徳治2(1307)年 将門の怨霊を封じこめる意味もありそうな配置 |
こうした伝説が史実なのかどうかが重要なのではない。過去の日本人がこうした話を喜んで伝承して来たことこそが肝心なのだ。
明治新政府が朝敵でしかも魔性の逆賊とみなした将門を、神田明神の祭神から排除したのも、近代の西洋的な、神と悪魔が対立するキリスト教の世界観の理屈ではよく分かる。だが逆に言えば、そうやって明治に作り上げられた、安易なまでの単純さで近代主義的な善悪区分をしてしまう国家神道を日本の「伝統」と呼ぶには、あまりに無理がある。
旧江戸城の正門だった三ノ丸大手門 櫓などは戦災を経て戦後の再建 |
神田明神の正式の社伝では、創建は天平2(730)年に遡り、出雲から来た人々が「古事記」にヤマト王権に国を譲った大国主命(オオクニヌシ)つまり大己貴命を祀ったのが起源とされているが、この国譲りの神話もどう解釈していいのかよく分からない日本古代のミステリーだ。
普通に読むとヤマト王権が出雲の国を征服併合したという意味にみえるが、その大己貴命をヤマト王権の王子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が祀ったのが五條天神の起源となると、現代人の感覚だと誰が味方で誰が敵、なにが魔物でなにが滅ぼした敵の怨霊で、なにが守り神になるのか、わけが分からなくなる。
旧江戸城 本丸中雀門跡 |
上野の摺鉢山古墳や、浅草寺や増上寺の境内にあった古墳を作った人々も、恐らくヤマト王権に滅ぼされるか征服吸収された王朝だったとすれば、摺鉢山に祀られていたのも出雲の王が神格化されたカミガミだったというのは、なんとも興味深い。
ヤマト王権の日本列島支配が成立する過程で滅ぼされた王国の墳墓が聖地化したのが、浅草寺だったり上野だったり、芝だったりするのだろうか?
では国譲りの神話は、いったいなにを意味するのだろうか?
関東地方にかなり大きな王権があったと考えるべき根拠は他にもある。たとえば現在の大田区から立川市まで伸びる玉川添いの崖地(国分寺崖線)に沿って古墳が点在しているし、埼玉県行田市にはさきたま古墳群(5〜7世紀)もある。その稲荷山古墳(5世紀後半)から出土した鉄剣の、豪華な金象嵌の文字で記された銘文は、ヤマトに吸収併合された後の征服者側のものとも、ヤマトに臣従した元の王権の有力者が葬られているとも、読みようによってはヤマトとは別の王が元々は関東を支配していて、さきたま古墳群はその墳墓だとも解釈できる。
稲荷山古墳出土鉄剣 5世紀後半 国宝 |
とはいえ古代に関東で古墳を造った王権が、五條天神や神田明神に痕跡が残るとはいえ、地理的にはずいぶん離れた出雲とどう結びついたのかは不思議だし、「国譲り」の神話の意味もますますよく分からない。
ヒントになりそうなのが信濃の国(長野県)の諏訪大社の祭神が大国主大神(大己貴命)の息子の建御名方神(タケミナカタ)で、国譲りの際に出雲を逃れ諏訪にたどりついたと「古事記」に記されていることだが、この記述がまた相当に血みどろなのだ。
北斎 信州諏訪湖水氷渡 |
葦原中国の国譲りに反対した建御名方は、高天原つまりヤマト王権の使者・武甕槌命(タケミカヅチ、春日権現の第一殿祭神で上賀茂神社の主祭神、建御雷神とも表記)に力較べを挑むが、その武甕槌命の手が氷の剣に変化し、建御名方は両腕を切り落とされてしまう。
広重 富士三十六景之内 信州諏訪湖雪晴 |
命からがら逃げた建御名方神が最後に追いつめられたのが、信濃の州羽海(スワノウミ)つまり諏訪湖だった。
渓斎英泉 木曽街道六拾九次之内 塩尻嶺諏訪湖氷眺望 |
ここで建御名方神は追って来た建御雷神に殺されそうになるが、諏訪盆地から出ないこと、葦原中国を天つ神の御子(つまりヤマトの大王)に奉る旨に反対しないことを約束して、命だけは許される。
この建御名方神が諏訪湖の女神である八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)と結ばれて夫婦のカミが諏訪大明神になり、諏訪地方は御柱祭や冬の御神渡り(氷結した諏訪湖に出来る氷のヒビが、建御名方神と八坂刀売神が出会うため諏訪湖を渡った跡とみなされる)など、山岳信仰に由来する独特の神秘的な雰囲気と伝承や文化を持つ土地として、全国の諏訪神社を通して信仰を集めて来た。
この神話に見られる諏訪と出雲の結びつきは、なにを意味するのだろうか?
そもそも、国譲りとはなんだったのか?
出雲がヤマト王権に「譲った」葦原中国とはなにを・どこを指すのだろう?
寛永寺旧本坊表門 寛永2(1625)年 |
弥生時代に稲作を基盤にした村落共同体が発展して、やがて各地に王国を形成した。建御名方神は元々はそんな地方の国々のひとつだった諏訪の王が神格化され、その地方神話が「古事記」に取り込まれるなかで出雲と結びつけられたとも考えられる。
逆にいえば「古事記」にある出雲とそのカミガミとは、必ずしも現在の島根県を指す地名ではなく、ヤマト王権による統一以前に各地にあって滅ぼされたか征服併合された弥生時代〜古墳時代初期の諸王国を象徴しているのではないか?
寛永寺(旧上野東照宮)五重塔 寛永16(1639)年 |
各地に分立し関東にもあった小王国か、あるいは出雲王国が、ヤマト王権に滅ぼされるか併合される過程を象徴しているのが国譲りの神話だとするなら、諏訪の神話はその過程にかなり暴力的な侵略があったことを示しているのかも知れない。
上野東照宮 拝殿 慶安4(1651)年 |
平将門にせよ、神田明神や五条天神社の出雲系のカミガミと日本武尊にせよ、正体不明の上野や芝や浅草の古墳にせよ、穴稲荷の狐にせよ、勝者の視点で書かれた支配の正当化の歴史では語りきれない、将門のように志半ばで逆賊として殺されたり、上野の狐のようにすみかを追われたり、日本武尊のように道半ばで命を落とし、あるいは滅ぼされた者たちの怨霊への畏怖とその物語への愛着が、今は東京、かつて江戸と呼ばれた土地と人々の潜在的な精神史に深く関わっていることだけは確かだ。
寛永寺 常憲院殿(徳川綱吉)霊廟 勅額門 応永6(1709)年 |
徳川がそんな江戸をあえて中心に選んで、100年に及ぶ戦乱を終わらせる平和を構築しようとした、というふうに考えると興味深い。
東叡山寛永寺 清水観音堂 寛永8(1631)年 |
なにしろ幕府の政務の中心は将門の首塚近くに建てられた江戸城であり、精神的な中心として作られたのが謎の古墳があって出雲系の神々が祀られていた上野に作られた東叡山寛永寺で、その寛永寺が徳川の統治にとって、江戸城と同等かそれ以上に重要な役割をになっていたのだ。
広重 東都上野花見之図 清水堂 |
そして四代家綱の代に江戸城天守の再建が放棄されたあと、東叡山の華麗な瑠璃殿はその次の綱吉の代に建てられ、幕末に新政府軍に破壊されるまで、江戸で最大かつもっとも豪華な建築物だった。
沢雪嶠 浮絵 上野花見之図 |
明治以降、そのすべてが新政府に破壊された記憶を封じこめるかのように、東京となった都市の上野公園となった旧寛永寺境内の山王権現社の焼け跡に、彰義隊の怨霊が葬らた。
かつての鎮守社つまり地霊を抑える役割を持った山王台で、その彰義隊の供養墓を押さえ込むかのように銅像が立てられた西郷隆盛も、西南戦争で逆賊として死ぬことで、逆に明治以降の近代日本の、いわば守護神となった。
かつての山王権現社跡 高村光雲の西郷像と彰義隊の墓 |
その明治以降の日本の、勝者・支配者の作った歴史に隠された、上野が「徳川の聖地」であったことの紛うことなき証である徳川将軍たちの墓は、人目に触れず、非公開のまま、ひっそりと、石垣と木々に囲まれて佇んでいる。
常憲院殿(五代綱吉)墓所 宝塔と銅門 |