イーストウッド『マディソン郡の橋』のクライマックス
最新作にして、呆気ないほど軽やかに、既存の映画とはまったく別次元の映画に飛躍してしまった傑作『ヒア アフター』を見るにつけ、公開当時はイーストウッド映画としては決して評価された訳ではない『マディソン郡の橋』を見直さなければならないかも、と思いつつ、あまりに見事なフランチェスカ(メリル・ストリープ)とロバート(クリント・イーストウッド)の、雨の別れのシーン。
考えてみればイーストウッドが原作を最も大きく改変したのは、ヒロインの死に始まる回想の物語に、その母の葬儀のために集まった子供たちのプロローグとエピローグを付け加えたことである。
『ヒアアフター』を見るにつけ、この “死” の枠物語があることが、映画『マディソン郡の橋』において決定的な意味を持つことが分かって来る。つまり『マディソン郡の橋』は、実は母が死者となった時に初めてその母を理解する子どもたちの物語であり、プロローグとエピローグに挟まれた本編の部分は、『ヒアアフター』のジョージ(マット・デイモン)が見てその内容を彼らに語るビジョンにも似たものであり、イーストウッドの映画はいわば“霊媒”の役を果たしているのではないか?
また「死」の枠物語構造のなかで見るとき、この痛切な別れの場面の真の意味が、初めて明晰になるとも言える。
つまりなぜロバートはこのシーンで、雨の中に幽霊のように現れ、なぜ十字架が愛の印になるのか。その十字架をリアビュー・ミラーにかけるとき、ロバートの手はなぜこうも愛おしそうにそれを扱うのか。
なぜこの秘密を隠し続け、この一週間について嘘をつき続けて来たことが、イーストウッドの映画においては「母の罪」には決してならず、むしろのその嘘と秘密によってこそ観客は子供達と共に、彼女を愛さなくてはならなくなるのか?
そしてドアのハンドルを思わず握りしめるフランチェスカの手、これが『ヒアアフター』に大きな意味を持つことになる。
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