昨日の西日本新聞に掲載された追悼文です。
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ガンダーラの仏像の傑作に『釈迦苦行像』がある。悟りを開く前に七年間断食し、菩提樹の下で瞑想を続けた釈迦を現したもので、身体は痩せこけているが、明晰な目と穏やかな表情が、釈迦がこれから到達するであろう悟りを見つめている。
土本典昭の死顔は、ガン闘病の壮絶さにやつれてはいたが、悲しいものではなかった。まるで土本の死という悲しみを、その顔が癒してくれる不思議さ。それは釈迦苦行像を連想させる。
土本典昭の映画は60年代から70年代の政治運動の文脈で語られがちだ。土本自身が全学連活動家の過去も持っているのも事実なのだが、今となっては晩年の土本を撮った拙作『映画は生きものの記録である 土本典昭の仕事』では、政治闘争にほとんど触れていない。製作当時からこれに苦情を言う人も少なくなかったのだが、そのなかで僕の判断を励ましてくれたのが、他ならぬ土本典昭本人だった。
当時はこの若造でも対等な映画作家として接する土本の謙虚さと、彼の徹底した民主主義的倫理観なのだと考え、感服していたのだが、今となってはそれだけではないことに気づく。闘争の話を排除したのは、映画的に単純な理由がある。運動の過去を語る土本よりも、水俣の患者さんたちを初めとする他者の苦難と喜びに向けるまなざしと、それをどう映画的に実現して来たかを語る土本の顔の方が、はるかに輝いて魅力的だったからだ。今思えば、土本自身が、闘争をもはや超えていたから、映画にその要素が入ることを望んでいなかったのかも知れない。
だからなのだろうか、ラストで『水俣 患者さんとその世界』のクライマックスを引用したことにだけは、土本は激しく反対した。もちろん「君の映画なのだから強制はしません」との矜持は常に自分に厳しく貫きつつも、それでもこの引用は要らないと何度も訴えられた。「漁に出て行く漁船と共に僕が消えて行くので、充分じゃないですか」。
患者の浜元フミヨさんがチッソの株主総会で社長の江頭氏(昭和45年当時)に詰め寄る激しいシーンを最後に持って来たのは、恐ろしい不正義と悲しい闘争が過去にあったことも観客にとっては忘れてはならないからだ。だが他人にはそうは見えないはずだとしても、土本には、もはや自分も、そして水俣の患者さんたちも、水俣病の悲劇とともに何十年と生きて来たなかで超越したはずの過去に無理矢理引き戻す雑念にも見えてしまうのも確かだ。
2004年に水俣を訪れた土本は、親友の緒方正人氏に「僕は思想的な激しさを失って来つつある」と打ち明け、そのまなざしから見える「人間ってのは相当なことができるものだなあ」という率直な驚きを露にした。だが実は、『水俣 患者さんとその世界』をきっかけに、土本はすでに「思想的な激しさ」を極力抑えた、他者へのやさしさに満ちたまなざしの映画にどんどんシフトし、「人間ってのは相当なことができる」ことこそを記録し続けてきた。水俣病の患者さんたちが患者である以前に漁師であり、豊かな人間であること。不正義は告発しつつも、生きるということがそれを遥かに超えた意味を持っていることを受けとめ、命そのものを賛美するまなざしだ。
土本典昭も僕自身も、「宗教は阿片」というマルクスの言葉に納得する方だが、それでも『映画は生きものの記録である』には宗教的、とくに仏教的なモチーフや構成が繰り返し現れてしまっている。いや土本自身が、水俣の人々が仏教徒であり、『よみがえれカレーズ』のアフガンの人々がイスラム教徒であることをとても大切に撮っているし、アフガンの遺跡から発見された仏像などを丁寧に記録しようとするあまり『在りし日のカーブル博物館1988年』という別作品まで作っている。
宗教嫌いなのになにか宗教的な映画を作ってしまった自分の無意識にいささか納得できないものを感じて来たのだが、そのもやもやは、釈迦苦行像を思い起こさせる土本の穏やかな死顔を見ていて、解消された。土本典昭という人はなによりもこういう崇高な生き方をした人であり、彼の映画は彼の生き方そのものだったと、今は確信できる。
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