
…チェックいただいている皆様にご心配をおかけいたしまして、どうもすみません。いえご心配いただくほどのことでもなく、要するに新作『フェンス』のワールドプレミアが決まっていたので、仕上げで忙しかったのが最大の理由です。
それもただ演出・編集としての仕上げの作業、作品の中身のことだけでは済まなくなってしまった。プロデューサーが親御さんの介護に時間をとられ、映画祭出品が決まっているのに身動きがとれなくなり、完成段階でいきなり監督だけでなくプロデュース業務まで背負い込むことになってしまったのだ。今更上映をキャンセルもできずに、なんとか仕上げたものの金銭的なことはこれからどうしようか、と言ったところではあったりして…。
一本の映画でなく二部構成の独立したそれぞれ一時間半近い映画が二本、合計で2時間50分近い大作で、さて公開の形態は二本バラバラでいいのか、このままだと劇場に悲鳴をあげられてしまうので二時間弱の短縮バージョンを作るのかどうかと、まだ問題は山積ではありますが。
その上、さる9月24日にはアテネフランセ文化センターで亡き佐藤真さんについての講演を仰せつかり、映画的な関心として極めて近いところにいた人だっただけに逆にニアミスを繰り返すばかり、とくに『阿賀の記憶』『OUT OF PLACE』と佐藤真の映画作家としての本性がついに明らかになっていく時期において僕の方は批評から撤退しつつあったせいで映画は見て「すごいことになってきた」と思いつつもなかなかそれを表明するあまり機会もなく、そこで亡くなり方がああいうものだったので罪悪感も含めて「えらい重責を引き受けてしまった」と言うわけで『フェンス』の作業の合間にはブログを書く代わりに講演を準備していたような次第でした。なにしろ「映画史のなかの佐藤真」というえらく巨大なお題で、しかも「論じられるのは藤原君しかいない」とまで、アテネフランセ松本さんのえらい買いかぶりなのか、人を乗せるのがお上手なのか…。
講演がひとまず終わり、改めて映画作家・佐藤真の全体像を見直して一段落ついたところで、今度は自宅マンションの階下から火事が起こり、直接の類焼はベランダ部分だけで済んで丈夫な鉄筋コンクリに耐火ガラスをふんだんに使った比較的古い建物だったことに感謝する一方で、もともと呼吸器系が弱いせいもあって、煙のせいで入院はするは、ベランダだけでもやはり電気系統がやられてこの仕上げの忙しいときにしばらく作業ができなくはなるわ、電気が復旧してみれば外付けハードディスクが故障していたことが分かり、一部の映像ファイルが欠損していて復元しなければいけないわで、資金集めどころではなく完成させるのがやっと。スタッフの、というのには大御所過ぎる“フジワラ組”のメインスタッフ、撮影・大津幸四郎と音響デザイン・久保田幸雄の大ベテラン、というか巨匠お二人には迷惑と心配かけどうしでしたが、お二人と、ミキシング担当の協映スタジオの皆さん、今回は映像のタイミング作業で参加の『映画は生きものの記録である』の撮影・加藤孝信の各氏のおかげでなんとか完成にこぎつけたこと、この場を借りて改めてお礼申し上げます。心配しないで下さい、と言っておきながら心配されそうなことばかり書いていますが、さて完成はしてワールドプレミアはやったものの、支払いをどうするのかとか、なにしろ監督が自主製作を兼ねるとなると2年分の仕事のギャラなんて後回しにせざるを得ませんし、じゃあ家賃はどうするんだとか、生活費とか…心配かけついでですみませんが、心当たりある方は、仕事紹介して下さい(汗)。
こんな準備中の企画もありますので…
「東京駅」
「三里塚・赤い土」
(再生には最新版のQuicktimeが必要です)
主観的に言えばドキュメンタリーで自分がやりたかったことを全部やってみようとした映画、いわば好き勝手の産物。ですが客観的に見れば、あくまで型破りではありますが、それなりにいい映画なんでしょう。戦争の歴史と米軍基地問題が表向きの主題なのに、「やさしさと敬意」が絶賛されて「lovely」と言われているし、とくに相川さんと鈴木さんの痛烈なユーモアには、爆笑が起ってましたから。
ただ問題は、見ている人がもの凄く少ないということで…。その上今時の世界的な標準でも「商売になる映画」とは正反対のことばかりやっているので、なかなか資金の回収には結びつかないんだろうなぁ…。
ちなみに今日のタイトル写真は昨日とおなじ、シェフィールドの駅の裏にそびえ立つ、30年くらい前に建築途中のまま放置されたル・コルビュジェ風の集合住宅の残骸。鉄鋼産業が盛んなころに大量の労働者が住むために計画されたんでしょうが、「産業空洞化」を具現した風景みにも見えて来ます。
モノを作ることで価値を生産するという古典的な資本主義の実体経済が成り立たなくなった先進国(言うまでもなく、労働コストが高いので単純労働主体の製造業は発展途上国に移転するしかなくなる)が、レーガノミクス辺りから見いだした生き残りが金融だったわけですが、それが崩壊した今、たとえばアメリカ国民は結局のところ経済危機からの脱出を求めてオバマさんの「yes, we can!」に希望を託したわけであります。就任する前からアメリカを代表する自動車会社GMの破綻という問題に直面するオバマさんですが…
イギリスに着いたときにはオバマさんの勝利が決まっていて、シェフィールドの映画祭ではアメリカ本国以上に喜んでましたし、もちろん当ブログとしても彼の引き起こす「change」に期待はしていますが、とくにアメリカの場合20年間だましだましやって来ただけにますます巨大化したこの根本的な矛盾にどう向き合うのかが遅かれ早かれ問われるのでしょう。つまり豊かな先進国になれば、それ自体が繁栄の継続の足かせになる、先進国の繁栄はモノを生産するということからはいくぶん離れた、せいぜいが付加価値の部分にしか依拠できなくなるという…。そりゃまったく同じクオリティの生産行為であるなら、物価が安いつまり労働コストが低く抑えられる発展途上国に産業の実態が流れるのは、資本の論理からいえば当然なわけであって。
…マルクス的回帰ってのも、悪くないかもしれない…。なんだか愚痴ばっかりになってしまった。
0 件のコメント:
コメントを投稿