12/18/2010

私的・江戸時代論

Twitterで連続ツイートした江戸時代の歴史についての僕なりの見方、考え方をまとめてみた>

歌舞伎や相撲などが最近スキャンダルで叩かれることについて、「河原ものがやってたもののくせに伝統などと権威ぶるのは生意気だ」などといわんばかりのマスコミのバッシングは、露骨な差別であることの無自覚ぶりに唖然とする以上に、そうした伝統芸能がなぜ日本にあるのかについて無知過ぎる。

日本の伝統芸能とは、世俗権威の秩序外にあったことが重要なのだ

都市と結界と境界、墓地、河原

大阪や京都、東京だと旧江戸城から下町までの都市構造には、「世俗権威の秩序の外にある世界」への感性が未だに残っている。両国国技館は「川向こう」にあり、寛永寺と浅草寺と吉原と旧骨ケ原は江戸城の鬼門封じ、その延長上には日光東照宮。世俗権威の幕府ですらその権威秩序の外へ意識は持っていた

京都が何重にも渡る結界構造によって構成されている都市であることは比較的知られているが、大阪もかつて7つの巨大墓地という分かり易い結界に囲まれていた都市であった。その結界構造は今では天王寺辺りにしかはっきりとは残っていない。今日、中央駅前の中心街である梅田も難波も、かつては結界/境界領域だった。

梅田は中央駅周辺なのになんでああも風俗店が並んでいたりで「いかがわしい」のか?かつて巨大墓地と沼地(「埋田」)だったから。なぜ天満駅前はラブホテルだらけなのか?そのすぐ北に葦原墓地があったから。

難波には千日墓地があり、そのすぐ側の難波の廓が明治の末にかつて鳶田墓地だった飛田に移転。聖と俗の混合で結界を張った記憶は、都市の無意識に今でも刻印されている。

古い地方都市に行けば、たとえば金沢でも鎌倉でも、山に囲まれたその山の中腹に墓地があるのも、かつての日本人が「人間の世俗権威の秩序外」への感性を持っていた民族であることを今でも示している。死者の世界は人間の世俗秩序とその外の世界との境界に置かれ、外からのみだりな侵入を防ぐ結界の役割を持っていた。

江戸の「川向こう」の現国技館辺りに芝居小屋が立ち並び、京都では刑場もあった四条河原周辺、大阪では巨大墓地と隣接する地域で歌舞伎や浄瑠璃が発展した、そのすべてが「河原もの」の担う世俗権威の秩序外にこそ娯楽芸能があり、それが「世俗秩序外の世界」を意識する祭礼でもあったことを示している。

 溝口健二『雨月物語』より、船幽霊

「河原もの」の担う芸能が世俗権威の秩序外にあることは、その多くが死者の霊や自然霊の「魂鎮め」の物語構造を持っていることにも明らかだ。

能楽はシテの語る死者の悔恨にその声を聴く力があるワキが耳を傾けることで成立し、浄瑠璃は死者たちが歴史やスキャンダルの真相を語ることがクライマックスだ。


能、そしてとくに人形浄瑠璃は矛盾の演劇である。能のシテ/死者の恨みや後悔は語ること、ワキが聞くことで解消され成仏はするが、その原因の解決が示されるわけではない。人形浄瑠璃の人物達は社会規範や倫理の矛盾の狭間で破滅したり死を選ぶのだが、太夫はその解決策を語りはしない。

歌舞伎のなかでも市川宗家の得意とする荒事は厄払いの神事でもあり、団十郎・海老蔵は相撲の横綱と同様にカミつまり自然霊の宿る肉体と化す(だから横綱の腹には、そこに宿る荒ぶる神を抑える綱が巻かれる)。自然霊が関わる以上、そこに賭博が携わるのは理の当然である。賭博とは、自然霊の意思をうかがう占いなのだから。


人間の世界の内側と外側、人間の秩序以外のものへの意識

  溝口健二『近松物語』

歌舞伎の多くは浄瑠璃の翻案だが、独自の発達を遂げたドラマの代表例が怪談もの。その舞台に見せられるのは世俗権威の秩序の矛盾に殺され恨みを残して死んだ、たとえば四谷怪談・お岩の嘆きであり怒り。いわば御霊信仰の変化形であるからこそ、担う「河原者」は世俗権威の外にあらねばならなかった。

南北朝〜室町時代には「阿弥」号を名乗ったいわゆる「河原もの」(京都では鴨川の河畔を中心に多くいたのでこの俗称)の職は、猿楽師から転じて観阿弥・世阿弥が能を確立、人形遣いの傀儡、他にも陰陽師、葬祭の世話、それに庭や建築の設計。土地の声を聴く特殊能力があるとされたので。

浄瑠璃節の物語は、歴史ものなら忠義の論理と政治の矛盾のなかで死や殺人を選び、偽りの英雄や悪役を演じることになった武士達の苦悩の真相。世話物ならば世間体やしきたり、金に追われて愛をまっとう出来ない男女の悲劇。つまり世俗権威の秩序外にある河原ものに託された、その権威への批判の芸能。

徳川幕府による風俗統制などにしばしば遭い、検閲の抜け道を探る歴史もありながら、江戸時代の大衆文化が今から見て驚くほど自由なのは、創造の主体を世俗権力が最下層身分と定めても、社会構造的にはむしろその外にあった「河原もの」が担っていたから。自然界や死者たち、「外」の世界との媒介者。

  溝口健二『歌麿をめぐる五人の女』

歌舞伎/浄瑠璃の最高峰のひとつである『義経千本桜』は英雄義経の伝説を、義経とその部下たちを英雄とみなす価値観そのもの換骨奪胎に読み替える。忠義のため悪役を演じた鮨屋の権太の悲劇、武士の死に様をまっとうできなかった知盛の孤独な死というカタルシス、そして聖なる踊り子で娼婦である静御前

『義経千本桜』のクライマックス、聖なる踊り子/娼婦/英雄の恋人である静を護る忠信が実は狐の化身であり、彼が静に寄り添うのは忠義ではなく、彼女の鼓の革が自分の両親だから。日本の物語芸能を担う語り部が、なぜ世俗の権力秩序の外にある「河原もの」であったのか、その真髄が凝縮されている。

『義経千本桜』。白拍子の静は聖なる娼婦/河原もの。忠臣に見える忠信は、実は人間の秩序外の世界に属する狐の化身。静は自分の鼓が忠信の両親の革であることを知らずに鼓を叩き、その一拍一拍ごとに人間の忠臣を演じていた忠信は、親の愛に飢えた狐である本性を露にしていく。人間の権威秩序の崩壊。

江戸時代に頂点を極めた日本の文化は、一方に徳川幕藩体制という世俗権威のヒエラルキー支配を仮構しながら、人間外の世界への感性を保つによってその支配権威を相対化し、そこから見える権力権威の矛盾を意識する多重的な視点を持ち合わせた成熟したものだった。明治以降その成熟は否定される。


忠臣蔵とはなにか? 〜単一の中心のない、多層的な物語

江戸庶民が持てはやした赤穂事件の真相は、浅野長矩が吉良上野介に斬りつける理由が不明なこと。それでも庶民が浅野公への忠義を貫いたことで復讐を遂げた浪士達を愛したと考えるのは、説得力のある話ではない。忠臣蔵とは実はなんだったのか?なぜ日本人は明治大正昭和と、この物語を愛し続けたのか?

江戸庶民が赤穂事件に喝采を叫んだのは、なによりも幕府権威の裁定に対する、その法秩序の非論理的な運用に対する異議申し立てであったことが最大の理由だろう。儒教を国家倫理として喧嘩両成敗を唱えるのなら、幕府の裁定は筋が通らず、それを幕藩体制を追われた浪士が証明するという、この痛快。

『仮名手本忠臣蔵』では吉良に当たる高師直が色狂いで浅野公に当たる塩谷半官の美人妻に懸想し、賄賂など無理難題を要求するという設定を導入する。権力が腐敗し自身の権威化に標榜する倫理すら守れなくなっていることへの、風刺と批判が明確にそこにはある。河原ものが担う物語は権力を批判し否定する

だが『仮名手本忠臣蔵』は、「忠臣蔵」という題名にも関わらず、本質的には忠義の遂行を賞讃する物語ではない。むしろ忠義の遂行のための犠牲者たちにこそ、お軽勘平などの傍筋によって注視していく。もっとも象徴的なのは、そこで忠義の遂行のクライマックスである討ち入りの場面が皆無であること。

『仮名手本忠臣蔵』は完全上演すれば9時間かかる大作であり、決して浪士達の復讐遂行という単一の物語的な筋を追うものではない。むしろ複数の主人公を持つ集団劇であり、その場その場で舞台の中心を担う者たちがそれぞれの倫理を主張し、それが衝突。単一の世俗権威に根ざした「正義」はない。

人形浄瑠璃歴史ものの完全上演や歌舞伎の通し狂言、江戸時代の戯作を現代人が見るときに驚かされるのは、その中心の不在っぷりである。主人公と言える人物があまりいない以上に、物語を支配する単一の倫理価値観がない。天皇や義経への忠義奉仕が動機の場合も、その肝心の権威の中心は限りなく不在だ。

北斎や広重の独創的な遠近法に西洋の、たとえば印象派や後期印象派が驚愕した理由のひとつは、西洋的な遠近法の絵画的語彙では消点との関連で示される絵画の主題的な中心が、彼らの風景画にはないこと。後景の富士だったり前景の波や船だったりが、あくまで画面上の等価の表象対象としてそこにある。

松の廊下事件の本来の本質は、勅使供応という世俗権威の最高の発散の場で、まったく理由不明のまま(あるいは浄瑠璃/歌舞伎では色恋沙汰)、人間の「狂気」の暴力沙汰によってその権力・権威性が揺さぶられた、そのこと自体にあった。権力が理由も問わずに喧嘩両成敗原則をねじ曲げたことも含め。

江戸時代には世俗権力による厳しい身分制度はあったが、実態は明治以降流布された歴史観とかなり異なっていた。武家がある種の絶対権力を持っていたのはかなりの部分、単に建前上に過ぎない。芸能出版が時に弾圧されたのは、それが実に自由奔放だったことと表裏の関係にあるとみる方が妥当だろう。

明治以降の国家主義醸成の中、忠臣蔵神話は変質する。浅野と吉良の確執は「仮名手本〜」の色恋沙汰でなく吉良の賄賂要求という「悪」になり、多様であった浪士たちのドラマは「忠義」というひとつの目標に収斂する均質的な集団になり、忠義のクライマックスのために講談から討ち入りの描写が追加された


鎖国という名の外交

江戸時代の鎖国体制の評価も、昨今の日本史学の研究では明治以降の否定的論調とは異なり、ひとつの外交政策として評価する流れが定着している。実のところ江戸時代の日本は、文化的に「閉ざされていた」わけではない。中国大陸との交流は非公式ではあっても活発だったし、韓国とは正式国交もあったし。

明治以降の鎖国政策否定の論調は、あくまで西洋列強との交流がオランダに限定されていたことの批判、つまりは西洋中心史観に基づく否定に過ぎない。その西洋文明でさえオランダ経由で多くの影響を与えていたという現実は否定しようがなく、医学でさえむしろ当時の日本は世界でも先端的な位置だった。

幕末の開国で海外に流出した浮世絵は西洋の絵画に衝撃を与えた。たとえばその大胆な遠近法の活用。

印象派の心酔した「日本的なオリジナリティ」はしかし、たとえばその独創的な遠近法などの多くの要素は、オランダ経由の技法を日本の絵師達が発展させたもの。北斎は化学染料さえ駆使し、つまり文化的には、西洋相手でさえ「鎖国」ではなかった。

江戸幕府は切支丹を禁止したが、宗門改メをその禁制に関わる政策だとみなす明治以降の歴史観は無理があり過ぎる。なぜ東北地方にまで徹底され、最も厳しかった地域のひとつがたとえば弘前藩で、農村の小さな寺や祠まで廃止されたのかなど、切支丹禁制だけではまるで説明がつかない。

江戸幕府の宗門改メが切支丹対策が目的であったとしたら、全国の仏教寺院をいくつかの中心寺院の傘下に体系づけて、その本山の支配下に末寺を置くと言った体制の構築も、農村から仏像を撤去して城下町に寺院を集中させたりしたことも、まるで説明がつかない。学校で教わった日本史はかなり間違っている

江戸幕府の宗門改メの目的は、切支丹禁制よりも、各地の土着の神仏への信仰を抑制し、信仰を権威化体系化され寺社奉行の支配下に出来る限り置き、それらを繋ぐ修験者や傀儡、河原もの等のネットワークを抑えることにあったのでは? それら裏の精神的な体系の頂点が、言うまでもなく「天皇」であろう。


自然=カミ/オニ、「人間外」の世界へ開かれた感受性

農耕コミュニティが原点の日本文化において、信仰の対象とはまず人間的秩序の「外」にある自然、そして死者。そこに彼らが見たのはカミであると同時にオニであり、信ずると同時に畏れる対象。農村や町等の人間界とより大きな外の世界を媒介する場が例えば墓地、河原、そこで行われる祭礼、芸能、性行為

外の世界のカミ/オニを畏れつつ農村や町を維持するとき、人間の世俗権威秩序の外と内をつなぐ場が山の中腹や河原にあった墓地等、その役を担い土着の神仏のネットワークをつなぐのがたとえば河原者と呼ばれる民であり、世俗権力は持たずとも時間を支配する天皇が、その頂点にあったのが江戸時代以前。

京都、大阪、東京の江戸城の東側、金沢等の日本の都市に見られる構造は、古来城壁に囲まれ、近代になって城壁の跡に環状道路を設けた西洋の都市とは異なった構造を持つ。物理的に都市を守る壁でなく、川や山の自然境界を生かしつつ寺院、墓地、祭礼と遊興娯楽、廓などを配し、開かれた境界を持つ都市。

17〜18世紀の江戸は世界の他の国ではおよそ考えられない人口を持った巨大都市だった。その大きな理由は江戸が「外に向かって閉ざされた都市」ではなかったから。町の外から上水道を引き、下水こそなかったが糞尿の処理等も外の農村と連携し堆肥として利用する合理的なシステムを日本人は持っていた

江戸は上水道の整備が進んでいただけでなく、大阪と同様、街中に張り巡らされた川や運河のネットワークが、衛生を守り巨大人口密集を可能にしただけでなく、交通網として人的にも開かれた都市を実現していた、その運河は東京でも大阪でも戦後高度成長でほとんどがなくなってしまった。

江戸では蕎麦が庶民の食べ物として普及したのに対し、大阪がうどん文化圏なのは、江戸では整備が進んだ上水道が大阪ではそれほどでもなかったから。蕎麦は水をふんだんに使い洗い流すことが出来ないと病気になる。水が豊富でなかった大阪では煮込んでものびず煮沸消毒ができるうどんの方が普及した。

19世紀になっても、江戸や大阪のような大都市は世界にはなかなか出現しなかった。最大の理由は、西洋などに見られる城壁で囲まれた閉ざされた都市は、衛生的に多くの人間を許容できず、人口が密集すると、すぐに疫病が流行してしまうから。水に囲まれたオランダや米大陸のNY等が僅かな例外だった。


江戸時代の農村〜忠義の論理は明治以降の神話である

江戸時代を武家中心のヒエラルキーとみなし、明治以降の忠孝の倫理をあてはめて見てしまうと、農民はそれぞれの藩の領主である大名と密接な支配関係を持っていたように思いがちだが、国替えが頻繁にあり、小藩といえども通信手段がせいぜい早馬の江戸時代で、そのような関係が成立したとは考えにくい。

江戸時代の農村社会は幕藩体制下にあったと言っても、藩主は参勤交代で半分は地元におらず、しかも嫡子が育つのは江戸で、しかも通信手段は限られ、しかも藩の人員の多くも江戸詰めであり、しかも国替えで領主自体が変わることも多かった。武家中心のヒエラルキー史観では江戸時代は理解できない。

江戸時代の社会を封建的な幕藩体制と忠義の倫理から解釈する武家中心史観は、より精確な歴史的理解の便利さや必要から採用されたものでも、歴史的経緯で自然にそうなったことでもなく、明治維新以降の政治的な必然からでっち上げられ、イデオロギー色の強いもので、実態をあまり反映してはいない。

江戸時代には将軍が君主で、庶民は天皇を意識していなかったというのも、特定イデオロギーによる偏見だろう。たとえば人形浄瑠璃や歌舞伎で天皇が無垢な倫理的権威としてしばしば登場する。天皇に実態権力はなく空間は支配せずとも、象徴権威として時間を支配していた。時間と暦は農耕民族には重要だ。

我々の習う日本史は、その実非常に偏ったものである。戦国時代以降は武家を支配者とみなし、そこを中心として来た歴史観では、実際の社会のありようを正確に把握できていない可能性が高い。たとえば戦国時代最大の武装勢力のひとつが、武家ではない石山本願寺であったことは、ほとんど無視されている。

いったん武家中心史観から離れて、たとえば戦国時代末期を見直すと、織田信長のやったことでいちばん重要なのは桶狭間でも安土城を造ったことでも、本能寺での非業の死でもない。石山本願寺との戦いに苦しめられた挙げ句に、少なくとも5千、恐らくは数万人の一般庶民を殺した大虐殺者の顔である。

江戸時代の建前の政治体制を起源に明治時代に確立した「武士道」「武家」中心の史観だと、戦国時代は大名たちの動で理解できそうに思える。だが実際には、武家による支配体制の基盤がなんとか確立したのは石山本願寺で信長が一般庶民を大量虐殺したこと、その後で秀吉が刀狩りと検地を行ってやっとだ。


ただ倫理的のみの権威であり、時間のみを支配する媒介者/象徴

浄瑠璃『妹背山女庭訓』で天智帝は盲目で純真な無垢そのものとして登場する。その帝の復権のため藤原鎌足は占星術を駆使し、相当に悪虐な陰謀をも繰り広げ、何組かの男女を破滅させることも厭わない。すべては鹿の化身である蘇我入鹿を滅ぼし秩序を回復するため。無論劇の共感は破滅する男女に向かう。

『妹背山女庭訓』の作者が天智帝を盲目で無力な存在と設定したのは、筋が通っている。倫理的な権威とは、実世界の利害に関わっては機能できないのだから。実際の天皇もまた、実態権力を持たず空間を直接支配することがないのが常態。つまり象徴であるが、但し明治以降のような権力の象徴ではなかった。

江戸時代の武家の行動規範は、明治以降に「武士道」と呼ばれたものと共通点もあるが相違点も無視できない。明治以降の天皇とは、江戸時代までの天皇、時間の象徴的な支配者で、年号を発布し暦を決め、つまり自然のサイクルを人間が利用可能なものに翻訳するカミ世界との媒介者であった天皇とは、別物。

近松門左衛門の『大経師昔暦』は京都の大経師の家の妻と手代の駆け落ちスキャンダルが題材。近松の劇的な構成にそれが直接関わっているわけではないが、「大経師」とは勅許により全国で使われる暦の生産流通を一手に引き受ける大商人だった。全国支配の影響力として、幕府権威よりこっちの方がよほど広がりが大きいし生活にも関わっている。

ただし暦は天皇が決めると言っても、天皇が勝手にやっては意味がない。あくまで天体の運行と四季の変遷を、人間の読み解ける言語体系に移し替えることなのだから。

江戸時代まで「天皇」とは、人間外の「カミ/オニ」世界との仲介者、人間界からみれば人間界の世俗権力秩序の外の世界の象徴だった。「河原もの」の役割も同様で、彼らの一部は「見えない天皇」よりも直接的にその世俗権力秩序「外」の代弁者として、芸能娯楽祭祀を司る。「太夫」とはそれを示す称号。

南北朝から室町時代には、江戸時代では「太夫」となった人々は「阿弥」をしばしばなのった。カミ信仰のアニミズム体系と仏教はなんの矛盾もなく一体化していたのは、それが日本の風土では自然だったからだ。

「河原もの」等を「えた・ひにん」と総称し最下級身分に貶めたのは江戸幕府であり、明治以降その身分制度は撤廃されたことになっている。だが江戸時代の生活感覚では、彼らはむしろそうした身分制度等の権力秩序の「外」に居たわけで、近代以降の出自を隠さねばならないような差蔑とは本質的に異なる。

江戸時代まで天皇は「見えざる存在」/「語らざる存在」、御簾の向こうにその「気配」を感じるような対象であり、それは人間の権力秩序外の世界である「カミ/オニ」=自然と死者たちが、凡俗の人間には理解不能であることを象徴しているようにも見える。明治以降、太陽暦の採用で天皇はその役割を失い、「見えざる御簾の向こう」ではなく、「ご真影」になった。

江戸時代まで日本人の生活感覚だった人間の権力秩序の外、つまりは自然や死者達との仲介を「見えざる天皇」と供に担っていたいわゆる「河原もの」は、その外の世界の価値観・秩序を代弁するからこそ、彼ら自身を定義づける名前のない、「呼ばれざる民」だった。今日でも歴史用語にさえその言葉はない。

江戸時代以前には権力権威の秩序が常に不完全で、「カミ/オニ」とみなす自然や生と死のサイクルがその外にあり、人間に理解しきれるものではないという感覚を持っていた。「天皇」が無言/不可視、いわゆる「河原もの」が自身の名を持たないその代弁者だった文化が、それを現しているように思える。


開かれた国、閉ざされた国

明治以降の歴史観では、江戸時代の朝廷は征夷大将軍の位を与える幕藩体制のその上の政治的権威として理解されるが、年号の制定と暦を作ることが最重要の役割だったことは無視されがちだ。暦と年号は全国共通であり、暦がなければ農業はできない。江戸時代の朝廷は政治支配とは別の次元で機能していた。

明治以降の日本は人間界の世俗権威の秩序の外に「カミ/オニ」の世界を想定するアニミズム的世界観を「迷信」として排除し、「カミ信仰」を天皇を頂点とする「国家信仰」に作り替え、西洋の王権神授説を模倣した論理を仮構した理屈で天皇を定義し直した。宮中祭祀でさえほとんどが明治以降の発明品だ。

今日の「象徴天皇制」は天皇を国家の象徴とみなす、征夷大将軍位を天皇が与えるという明治以降の歴史観の延長の考え方だ。だが江戸時代まで暦の制定に見られるように自然秩序の媒介者だった天皇が「象徴」していたのは、人間外の「カミ/オニ」の世界(例えば自然)の秩序と論理、あるいはその不在、ないし人間に理解する不可能性だ。

過去の日本人たちは、自分たちに理解しきれないかも知れない自然の存在や、自分たち自身の矛盾、性や愛の問題などの自分たちの中にある理解しきれないことがあることを、認識し尊重できる感性を持っていたのだ。それは「自分たちの外」に開かれた感性だと言えるだろう。

江戸時代を「鎖国」、つまり日本が外に対して、世界に向かって閉ざされていたとみなすのは、あくまで西洋中心史観の偏向に過ぎない。単に西洋諸国との直接交渉をオランダに限定しただけであり、西洋だけが「世界」でもあるまい。

国家神道への批判は、軍国主義の温床になったことが今日では中心になるが、僕が最大の問題だと思うのは、これが日本古来のカミ信仰を「迷信」として恥ずかしがってなんとか「西洋並み」にしようとした結果でっち上げられた宗教であるところだ。明治の日本とはまるで宗主国なき自発的植民地である


藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』2011年、編集中より
結論部分のナレーション

恐らく現代の日本人「マジョリティ」の最大の病は、自分たちの社会を支える秩序がどんどん崩壊して行っているのに、そのことは決して自覚したくないところにある。いやもっと始末の悪いことに、そのような単一の人間界のみの秩序と権威の構造なぞ、元々この列島にはなかったことすら忘れている。

江戸時代の日本人は決して地理的/物理的に広い世界観を持っていたわけではない。だが自分たちの生活圏とその延長の外側に、自分たちの理屈が通用するとは限らない外の世界があるという意識はあったし、自分たちの価値観の限界も意識できていた。今の日本はそれが欠けた引きこもり国家になっている。

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