7/14/2013

日曜日の子供、イングマル・ベルイマン生誕95周年

7月14日はフランス革命記念日ではなく、イングマル・ベルイマンの誕生日だ。1918年7月14日の日曜日に、彼は産まれた。

『ファニーとアレクサンデル』撮影中のベルイマン

「日曜日の子供」なんだからハッピーな子供のはずである。そして「難解・哲学的」な芸術家イメージとは裏腹に、映像で残っている彼の演出風景だとか、ものすごくハッピーなおじいちゃんだったりする。

「私は直感でやりたいことをやってるだけ、自分の直感しか信じないし、難しいことを訊かれても困る」とか平然と言っている。演技の質の高さの評価が高いことも、「俳優と映画のテーマを論じあったり伝えたりするかって?私だって分からないのに、そんなこと訊かれたら逃げ出すよ」

 AFIで特別講義をするベルイマン(音声のみ)。けっこう冗談ばっかり

来週からは『第七の封印』『野いちご』『処女の泉』という、あまりに有名代表作過ぎて、かえって見忘れていたり見直し損ねている三本のリバイバルが始まる。

『ベルイマン三大傑作選』http://www.bergman.jp/3/  7月20日より、渋谷ユーロスペースにて


『第七の封印』冒頭から、どう撮ったのか分からない不思議な映像


60年代に映画の「作家主義」、映画とは個人の芸術家の芸術的な表現である、という認識を確立させた監督たちのなかでも、最も尊敬される巨匠でありながら、日本では80年代後半からのミニシアター・ブームで育った世代にとって、ベルイマンはいささか馴染みがない作家だったりする。

ひとつには1982年の『ファニーとアレクサンデル』を最後に、巨匠が「映画はもう作らない」と宣言したせいもある。

“最後のベルイマン映画”になった『ファニーとアレクサンデル』
中央は特別出演のギュンナー・ビョーンストランド
劇中劇でシェイクスピアの『十二夜』の道化を演ずる
ギュンナー・ビョーンストランド
「映画を愛する」といういささか気恥ずかしいことを大真面目に公言する世代にとっては、「本妻は芝居で映画は愛人(本人はその後これを撤回し「私は重婚者」と笑っていた)」と言い放った人にはいささか反発もあったのだろうし、なにしろ「新作がない」過去の作家になってしまったのだ。

『ファニーとアレクサンデル』アラン・エドワルと子どもたち
この「映画撤退」宣言の動機も本人の説明は明解だった。

映画が嫌いなのではぜんぜんなく、ただ映画監督の仕事は「肉体的にも大変」で、「体力がもたない」から。芝居ならリハーサル室で俳優と一緒に楽しいんでいるだけだからまだ続けられる、というだけ。

…とか言いながら、実際のベルイマンは、その後もテレビ用として翌年には『リハーサルの後で』を作り、遺作『サラバンド』に至るまで、何本も映画と呼んで差し支えない作品を、撮り続けていたわけなのだが。

遺作『サラバンド』、リヴ・ウルマン

もうひとつには、ベルイマンが「敷居が高い」作家だったからである。

今度リバイバルされる、50年代末の、国際的な名声を確立した三本のあと、ベルイマンは少人数キャストの、室内劇的で濃厚なドラマ、それも「神の不在」の問題など哲学性の濃厚な、「難解」とレッテルを貼られる(実際には「どんなに考えても答えがない」)、本人が「三部作」と呼ぶ作品を立て続けに発表した。

三部作、『鏡のなかにある如く』『冬の光』『沈黙』の三本だ。

『鏡の中にある如く』ギュンナー・ビョーンストランド、ハリエット・アンデルショーン
『冬の光』イングリット・チューリン、ギュンナー・ビョーンストランド
『沈黙』イングリット・チューリン

すでに『第七の封印』が、十字軍から帰った騎士が死神とチェスの勝負をするという、それだけ言われると難しいだけに思える映画だ。『処女の泉』も、クライマックスの不条理に娘を殺された父の嘆きが、「神の不在」を明確に打ち出している…と、テーマ論的にだけ論ずれば、そういう難しい作品に誤解されかねない。

またリアルタイムで圧倒的な批評家の評価を得たぶん、その批評家たちが難解とされるテーマ性を難しく論ずることに格好な題材となってしまったため、たぶんにベルイマンの作る映画の、純粋に映画としての、直感的なおもしろさが却って伝わらず、ますます敷居の高い作家になってしまった面も否めないのかも知れない。

 『処女の泉』を見た衝撃を語るアン・リー監督。父の嘆きと絶望がアップでなくロングショットで表現されていることは、「自分もよく真似をする」という。

イングマル・ベルイマン自身は、父親がスウェーデン王室付きの牧師、自身の受けたプロテスタント中産階級の厳しい子育てへの反発をまったく隠さず、その父的なるものとの葛藤を、この時期の映画のテーマ上の中枢に据え、それは今回リバイバルされる三本のなかではとりわけ『野いちご』に顕著であり、『処女の泉』でもマックス・フォン・シドウ円ずる父親と二人の、対照的な娘との関係(野性的なブルネットのグンネル・リンドブロムの養女と、金髪で天真爛漫なビルギット・ペテルソンの実の娘)にも反映されている。


『処女の泉』のグンネル・リンドブロム
『第七の封印』のグンネル・リンドブロム、
マックス・フォン・シドウ、ギュンナー・ビョーンストランド
…というか「父的なるものとの葛藤」は、『ファニーとアレクサンデル』でも少年アレクサンデルは冷酷な牧師の義父を“呪い殺す”ことになるし(なのにハッピーエンド?)、『サラバンド』でも86歳の父と61歳の息子は憎み合っている。

母と娘の葛藤がテーマの『秋のソナタ』にしてもこれは父と息子の葛藤の変奏とも言え、78歳の老教授が人生を振り返る旅といえば叙情的に思える『野いちご』も、主人公の老教授は一見善良で優秀な医者に見えながら、やはり息子と対立し、その対立が息子とその妻の不仲を産んでいると、主人公はその嫁に指摘される。

『サラバンド』父エルランド・ヨセフソン(ベルイマンが息子に言われた言葉を、自分が息子に言われた言葉としてそのまま引用している)

『サラバンド』息子ビョーレ・アールステッド
『野いちご』息子ギュンナー・ビョーンストランド、父ヴィクトル・シェーストレム

『冬の光』、多分にベルイマンの父がモデルと言われる牧師を演じるギュンナー・ビョーンストランド

『ファニーとアレクサンデル』冷酷な牧師の義父

『鏡のなかにある如く』は『処女の泉』に続いて米アカデミー外国語映画賞をとったものの(後に『ファニーとアレクサンデル』を併せて、三冠達成)、そして『冬の光』がこと本人にとってもっとも私的な愛着のある作品であったが、『沈黙』は大胆な性描写で世界中で観客動員だけは稼げたものの、悪い意味で「芸術的でよく分からない」イメージがつきまとう作家になってしまった。

しかもこの三部作に続いて、ベルイマン自身がもっとも前衛性を突き詰めた問題作『ペルソナ』まで発表して、いわばダメ押しをしている。

『ペルソナ』で初めてベルイマンと組んだリヴ・ウルマン

今日では最高傑作のひとつとされ、ゴダールなどファンというよりもはや崇拝者が多い『叫びとささやき』も、公開当時はヒットはしていない。むしろ金銭的には困難な状況に陥り、ベルイマンは低予算のテレビ用作品『ある結婚の風景』しか作れない状況に追い込まれている。


『叫びとささやき』は、ベルイマンがある晩見た、
赤い部屋に白い服の女達がいた夢に着想されたという

…ところがこの『ある結婚の風景』こそが彼の最大のヒット作、スカンジナビアでは放映時間帯に街から人が消えた、離婚率が上昇したという伝説の映画にまでなってしまった、あまりの評判に世界中の映画配給業者が劇場公開を望み、3時間の劇場公開版が作られて大ヒットになったのだから、世の中分からないものである。
『ある結婚の風景』エルランド・ヨセフソンとリヴ・ウルマン



『第七の封印』について、ベルイマン自身は「私自身が死が怖かったから書いた脚本」と公言して憚らず、この死の恐怖の主題も、『ファニーとアレクサンデル』『サラバンド』に至るまで、ベルイマンが度々繰り返し描いて来た主題であり、三部作では真っ正面から向き合っている。つまり、テーマ論だけで論じると、もの凄く難しくて理屈っぽい映画に思われてしまう-実際にはぜんぜん違うのだが。


映画の原点となるモチーフは、死神とチェスで勝負する騎士。これはスウェーデン南部、当時ベルイマンが常任演出家だった劇場のある近くの教会に描かれた壁画から想を得たイメージで…などと難しそうな、あたかも海の向こうのような話を持ち出すから「難解」に思ってしまうだけなのかも知れない。

実際には「三部作」ですら、ちっとも「難解」ではなく、ただ映画のなかにとりあえげた主題への回答がないだけなのだが(「死」と「生きることの意味」なんて、答えようがない問いだし)、まして『第七の封印』となると、たぶん20年くらい見直してない(DVDは買っていても、『ある結婚の風景』や『叫びとささやき』、あるいは『狼の時』のようないささかマイナーな映画さえ見直しているのに)と、「え?こんな映画だったっけ?」と素直に驚いてしまうのである。

なにが印象が違うって、「普通におもしろい」映画なのだ。

死神との勝負を通じて死の恐怖と人間の生への意志を問う…その『第七の封印』は、よく考えれば当たり前の話としてとても巧妙に演出されたホラー映画であり(死は怖いんだから)、ブラック・コメディの要素も多く(怖いからこそ斜に構えるのも、人として当たり前)、そしてもの凄く適確でシンプルな構造とシャープでサスペンスとサプライズをふんだんに取り込んだ演出で、映画としては実はとても分かり易いのである。


劇的な構図として「若々しい生の喜び」を体現するキャラクター、ということになるビビ・アンデルショーンなんてひたすらかわいいし(つまり、実はえらく分かり易いことをベルイマンはちゃんと踏まえている)。


『鏡のなかにある如く』では、統合失調症を病んだ娘の病状を最後まで観察して創作に生かしたい、と日記に書いてしまった作家の父、そして『冬の光』では愛を受け入れられず、信者を絶望と自殺から救うことが出来ない牧師を演じ、深刻なベルイマン映画の、苦悩する深刻な顔のイメージが強いギュンナー・ビョーンストランドが、ここでは騎士の従者を演じていて、ツッコミ満載の台詞が、ひたすらおかしい。



しかも腕っぷしは強いし、まるでギャング映画のヒーローみたい(笑)。





『第七の封印』マックス・フォン・シドウ、ギュンナー・ビョーンストランド
 ところで騎士マックス・フォン・シドウと従者ギュンナー・ビョーンストランドの「カップル」は、この後の『魔術師』で科学者と奇術師で敵対するどうし、『鏡のなかにある如く』では精神を病んだ娘を持った作家の父と彼女を愛してやまない夫、核兵器の時代に世界の存在そのものに絶望する漁師と、彼を救えない牧師という組み合わせで繰り返されている。 



気の合う同じ俳優を繰り返し使いながら、ぜんぜん違う役をやらせるのがベルイマンの特徴でもある。 
映画やテレビは40本以上、演劇の演出は200本以上、そこで知り尽くした俳優たちを、ベルイマンは好んで使い、自らスターに仕立て上げてもいった。 
ちなみにマックス・フォン・シドウは『第七の封印』で十字軍に10年間参加して中近東から戻って来た騎士を演じたときで26歳、『処女の泉』の父役は27歳である。よく考えるとベルイマンのキャスティングは、年齢的にはしばしば無茶苦茶…であることに計算してみないとまるで気づかないから凄い。 
『ペルソナ』でも、失語症の大女優を演じるリヴ・ウルマンと若い看護婦のビビ・アンデルショーン、実は彼女の方がキャリアも年齢もよほど大女優だったりする。 
『第七の封印』ビビ・アンデルショーン
『ペルソナ』ビビ・アンデルショーン
『ある結婚の風景』ビビ・アンデルショーン

『野いちご』も、以前見ていた時と、ぜんぜん印象が違って驚いた。こんなにダイナミックで若い映画だったっけ?

主人公は当時78歳のスウェーデン映画の巨匠ヴィクトル・シェーストルム監督が演じているのだし、「若者には分かりにくい」という先入観を持ちそうになるが、考えてみたらベルイマンは当時まだ40前、5回の結婚歴を持ち、50代になってやっと「思春期が終わった」と豪語した彼だけに、けっこう若者の映画で、老人抱える心の葛藤も、思いっきり生々しい。

「頑固な老人」ではなく、ストレートにけっこうわがまま(笑)、そして自分が78歳になっても本質的に子供であり、人生の諸問題にこの年齢でも直面できないと自覚せざるを得ない物語なのだ。


『野いちご』冒頭の悪夢。
ことアップの積み重ねから突然フルショットに切り替える瞬間とか、
まさにベルイマンの演出の力技が冴え渡っている

78歳にしてほとんど「若きウェルテルの悩み」そのまんま、さて私の人生はなんだったのだ、という問題にぶちあたった時、ビビ・アンデルショーンが別れ際に「おじさんやさしくて素敵。大好きよ」といい、それでけっこう人生救われてしまうはずが、「辛い時には子供の頃を思い出すことにしている」と78歳の老人が、というまあなんというか…人生そんなもんだという希望まで、最後に待っている映画なのである。


『野いちご』で二役を演じるビビ・アンデルショーン
…というか、案外とベルイマンの映画はたいてい、ハッピーエンドとまでは言わないが、必ずラストになにかの「救い」があったりする。『鏡のなかにある如く』のラストとかになると、多少無理があり過ぎにも思えるが、『処女の泉』の謎めいた「救済」など、まさに圧倒的な説得力だ。



37歳のベルイマンのオリジナル脚本がなぜここまで78歳の老人の複雑な心境を…と思いきや、当時かなり不仲だったらしい父をたぶんに踏まえながらも、自分自身がビビ・アンデルショーンとの破局の後、『真夏の夜は三度微笑む』『第七の封印』で国際的な成功を収めながら、実はものすごく落ち込んで自信喪失のなかで書いた脚本でもあるらしい。

『野いちご』の悪夢、ヴィクトル・シュエーストレム監督
の代表作『霊魂の不滅』へのオマージュ
『処女の泉』も、中世が舞台で、キリスト教信仰と土俗信仰の衝突とか、難しいことを論じ始めたらいくらでも難しい映画になりそう…であり、現におえらい映画批評がそう論じて来た「名作」なのだが…

…それ以前に、もの凄く出来のいい超一級のサスペンス映画であり、巧妙に演出されたホラー映画なのである。

『第七の封印』も『処女の泉』もなるほど、中世ヨーロッパの世界観を忠実に踏まえた映画ではあり、キリスト教の主題が随所で繰り返されてはいる。


『処女の泉』インゲリ(グンネル・リンドブロム)はオーディーンの神に
カーリン(ビルギット・ペテルソン)への呪いをかけるように祈る
マックス・フォン・シドウ、グンネル・リンドブロム

たとえば『処女の泉』では、敬虔なキリスト教徒の主人公一家と対比されるように、キリスト教の普及以前の北欧のオーディーン信仰が出て来るわけで、この土俗信仰を表す象徴的な図像(たとえばガマガエル)も多用されたり、「難解」「知識がなければ」と言い始めるのは簡単かも知れず、また映画評論家の多くがそうやって難解に論じようともして来た。

金髪のカーリン(ブルギッテ・ペテルショーン)と
野性的な黒髪のインゲリ(グンネル・リンドブロム)
『沈黙』の理知的な姉(イングリット・チューリン)と
官能的な妹(グンネル・リンドボルム)
だがこの作品で初めてベルイマンと組み、以後ほぼ全作品で撮影を担当したスヴェン・ニクヴィストの、自然光を大胆に生かした艶かしい映像に注視し、あるいはとりわけ女優の演出には定評があるベルイマンが見事に演じ分けさせている、二人の若い女優の対照的な個性をストレートに感じていれば、そういう“知的”な解釈が実はぜんぜん必要ないことが分かるはずだ。



とりわけ、二人の対照的な娘が教会に蝋燭を届けるために通り抜ける森の描写のなまめかしさ、わけてもインゲリが同じオーディーン崇拝の仲間だと直感する男(アラン・エドワル)の住む、水がふんだんにあふれる小川沿いの小屋には、これが宗教の対立などと言った観念的、ないし薄っぺらなものでなく、「人間に従順な文明化された世界」と「飼いならされない野性・自然としての世界」の対立なのであることが、ほとんど肉体的なレベルで体感出来てしまう。


『処女の泉』、オーディン崇拝者どうし、
アラン・エドヴァル、グンネル・リンドボルム
外から入り込む光の織りなす陰影のパターンと、水の音を生かした音響設計の融合も凄いし、黒沢清監督などは明らかにこうしたベルイマンの表現に強い影響を受けている。

『ファニーとアレクサンデル』
死んだ父(アラン・エドヴァル)の遺体が安置された寝室は、
ふんだんに自然の要素で装飾されている
対照的にほとんどモノクロの、義父となる牧師(ヤン・マルムショ)の屋敷
『第七の封印』で死神が伐った木の切り株の上にリスが現れる
のは、偶然起こったことをそのまま撮影したのだという。
そしてベルイマンの映画では、こと『処女の泉』の場合にも、決して「文明=キリスト教=善」「野蛮=土着神=悪」という単純な図式や、あるいはそれを逆転させた反キリスト教というか、いわゆる近代主義の構図には、決して収まらない。


『処女の泉』撮影の想い出を語るブリギッテ・ペテルショーンとグンネル・リンドブロム



もしかしたらベルイマンがどうも決定的に誤解されがちというか、「難解」と思われがちなのは、むしろそうした構図や図式を拒否し、人間を取り囲む謎めいた世界の、人間の外にある自然も、人間のうちなる野性もまとめて受け止めることからしか「生きる」と言うことは始まらない、この根本的にはもの凄くシンプルな世界観に、多くの人がなかなか気づけないからなのかも知れない。


『処女の泉』マックス・フォン・シドウの父が復讐を前に身体を清めるのも、水である
そして父マックス・フォン・シドウが、殺された娘の復讐をするアクション・シーンは、映画史上屈指の暴力描写だ。これだけでも必見。

復讐の準備をするマックス・フォン・シドウ

三人を殺すなかでどう殺したのかがはっきりしてるのは一人目だけ、っていう演出も大胆不敵だ。



とにかく恐るべしベルイマン、なのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿