まずはっきりさせて置こう。
現代の日本で「差別に反対」という際にすぐ出て来るいわゆる言葉狩り、ある言葉を「差別語」と断じてそれを用いることを差別とみなすこと、その語彙を社会から排除することは、まずなによりも差別に反対する理論的文脈からして、完全に間違っている。
未だにこんなことから説明しなければならないのも馬鹿馬鹿しいのだが、差別とは意識の問題であり、ある発言やそこで用いられた語が差別の表出になるのかどうかは、差別的な認識と意識の構造を反映した文脈の問題で判断するものだ。
その意味で、「『キチガイ』と言うことが差別になる」という文章は、ただの間違いだ。
「言葉を禁じるのは冒涜」とか「日本語の表現が貧しくなる」とか云々の倒錯、挙げ句に「逆差別」なるキチガイじみた意味不明語を持ち出す必要はまったくない。言葉狩りはそもそも差別を減らすことになんの意味もない。むしろ結果論として、差別する側にいいわけの逃げ道を与え、差別する側だけが隠蔽出来たと思い込む倒錯の偽善のなかに差別を固定化させ悪質化させる効果しかない。
だから「『キチガイ』と言うことが差別になる」という文章は、それを問うこと自体が誤った命題であるだけではない。
差別的な意識・認識や動機が問われるべきところ、「差別語を使っていないからこれは差別ではない」という薄っぺらな誤摩化しで、明らかな差別的な発言を許す口実を与えてしまう、悪影響があまりに大きいのだ。
ただどうもこれだけで済ましてしまうと、世の中には分かり易い論理倒錯の詭弁にすぐ走る、頭があまりよくない人が多いらしい。
ちなみにここで『白痴』という言葉を用いたら差別になるのかどうかは、かなり微妙な問題になるので、言わないでおく。「白痴」という語の意味をどう定義づけているのかどうかで、話が変わって来るからだ。僕が理解している意味での「白痴」であれば、差別かどうか以前にまず不適切で、意味が合っていない。
「『キチガイ』と言うことが差別」とは言えないからと言って、それだけでは「『キチガイ』と言ったって差別じゃないんだ」ということには絶対にならないに決まっているだろうに。
十分条件と必要条件の違いも分かってない倒錯論理で「ワタシは論理的だ」と本気で言い張るキチガイが多いんだから、まったく困ったもんである。
十分条件と必要条件の違いも分かってない倒錯論理で「ワタシは論理的だ」と本気で言い張るキチガイが多いんだから、まったく困ったもんである。
そんなキチガイな人たちがどうも増殖し易いのが今の日本のネット環境であり、そんなキチガイじみた人に限ってキチガイ予備軍の子分が集まって徒党を組む結果、実際には「キチガイ」という語が発せられる際の論理構造が、今の日本のことネット言論では、だいたい8~9割くらいの見当で差別的…というか露骨な差別意識の発露になっている。
断っておくが、まず「キチガイ」イコール精神障害者への差別ということには本来はならないし、いわゆる差別語が発せられるとそれに該当する無関係のマイノリティが無条件に「傷つく」から差別だ、という論理自体が、まあなんというか、お話として「狂って」いる。
そこで「傷つく」方が本来ならおかしいのだが、万が一傷つくとすればそれは精神障碍や疾患を「キチガイ」とみなし差別する社会構造や価値観を患者自身が内面化してしまっているわけで、これではその患者をみだりに責めるわけにも行かず、解消が極めて難しい自己差別の問題になる。
こういう場合の基本は、やはり自己差別は差別が厳然と存在するこの社会の結果起こることで、その意味では自分や自分を含むマイノリティ集団を差別してしまう被差別者はやはり犠牲者であり被害者であり、自己差別とは差別が与える被害の最たるもののひとつなのだ。
だがだからと言って「被害者だから責任はない」とも決して言えない。自立した個である限り、その自立した個を守ることなしに差別と戦うことにはならない、それを自分が阻害している自己差別は、自分で克服する責任が、自分自身に対してある。最終的には、自分にしかそれは出来ないのだから。
「『キチガイ』と言うことが差別になる」が論理的に誤っている、それが差別になるとは言えないのは、「キチガイ」という語の持つ意味が精神疾患や精神障碍の定義と一致するわけがない、むしろ現代の日本語ではかなり異なっているからであり、つまりは「精神障碍者」「精神疾患の患者である」イコール「キチガイ」とみなすことこそが、むしろ明らかな精神障碍および疾患への差別であるからだ。
つまり精神疾患や障碍があってもキチガイではない人もゴマンといれば、精神疾患などの診断が下りるはずもないキチガイはもっとたくさんいるし、精神疾患がありかつキチガイでもあるがそのキチガイ性が疾患の症状ではない人もいるのである。この定義のズレを無視してしまうことこそが、本質的に差別的なのだ。
たとえば秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告が「キチガイ」かどうかも議論の余地が実はあるが、彼の犯行が狂気としか思えないとは言えるにせよ、検察側が自ら早々に精神鑑定をやらせた結果でも、精神障碍や疾患の類いはやはり見つかっていない。彼が犯行に至った認識にも意識にも、精神医学で「病」とみなす歪みがないのは最初からだいたい分かっていた。
智大君が「キチガイ」であるかどうかはむしろ「全員がキチガイの村では、まともな人間がキチガイ扱いされる」的な視点において、つまり彼が怒り絶望した現代の日本社会の方が狂っているのではないか、という議論の方が重要だ。
これがいわゆる「言葉狩り」「差別語」の本質的な問題のひとつであり、僕が言葉狩りに断固反対であるのは、他人様に向かって「キチガイ」と言いたくてしょうがない輩の自称「言論の自由」を守ると言うキチガイじみて身勝手な理由とはまったく関係がない。
言葉狩りが差別がそこにあることの認識を歪め、差別する側に下らないへ理屈と姑息な誤摩化しによる逃げを許し、むしろ差別を隠蔽かつ悪質化させるから賛成出来ないのだ。
言葉狩りが差別がそこにあることの認識を歪め、差別する側に下らないへ理屈と姑息な誤摩化しによる逃げを許し、むしろ差別を隠蔽かつ悪質化させるから賛成出来ないのだ。
これは最初は良心的な怒りだったはずの「反レイシズム運動」だったものが、ただの軽薄な付和雷同の流行になり、相対的な自己正当化に耽溺する人たち(=「キチガイ」と他人様に言いたくてしょうがないキチガイな人たち)によって「反レイシスト」というただのファッショに堕落しつつある運動ごっこについても言える批判だ。
そもそも彼らは「ヘイトスピーチ」の定義の認識が間違っているのも問題なのだが、彼らのいう「ヘイトスピーチを許さない」は結局「言葉狩り」の病理の再現でしかない。
その彼らが「ヘイトスピーチ」とご都合主義で決めたものを排除したところで、日本の在日コリアン差別や朝鮮民族差別の問題にかすりもしないし、すでに「言葉狩り」が差別の隠蔽による悪質化につながり、「差別語」を使わなければ差別したことにならないというマジョリティ側の身勝手な俺様ルールによる差別の正当化まで誘導してしまった過去を鑑みれば、警戒するのがまともな人間というものだ。
そして繰り返しておくが、「『キチガイ』と言うことが差別」は間違いであるが、実際には「キチガイ」という語が発せられるのは8割以上が差別的な動機によるものであり、そうした発言は明らかに差別発言だ。
現にさんざん起こっていることだが、言葉狩りが理論的に誤りであるだけでなく、実際に問題があり過ぎる、その禍根のひとつが、「キチガイ」が差別語として禁じられた結果、蔓延したのが言い換え語であることだ。
たとえば「精神障碍」「精神障碍者」は、現代の日本では極めて多くの場合、「キチガイ」の言い換え・代用語として使われている。
では「精神障碍」もよろしくないから禁じよう、みたいな話になると、今度は「アスペルガー障碍」だとかがキチガイの言い換え語にされてしまい、発達障碍のある人が犯罪者予備軍であると誤解した差別と偏見がますます蔓延してしまう。
ここに一貫してあるのは精神疾患や先天的な脳の機能の欠陥(と、とりあえずこう言っておくが、むしろ社会が求める標準からの偏差ともいえ、社会の側の問題も無視出来ない)に対する根深く無自覚な差別意識であり、精神を病んでいる=「キチガイ」であり蔑視ないし危険視の対象と思ってしまっていることの犯罪的な誤りだ。
そして多くの場合、「キチガイ」と言う語は、相手を精神疾患や精神障碍とみなして自分の下位に置き、その言動を非合理的かつ不当に無効化して自分の(その実なんの根拠もない)優位を担保しようとする動機で発せられている。言い換え語としての「精神障碍」「精神障碍者」「アスペルガー」なども同様だ。
故に多くの「キチガイ」発言は明らかに精神疾患や精神障碍に対する露骨な差別意識を前提にしている差別発言であり、また自分の気に入らない相手を下位に貶めようとする動機が、意見が合わない、気に食わない等々のキチガイじみて自己中心的な理由だけで「キチガイ」呼ばわりしている意味で相手に対して根本的に差別的であり(惜しむらくは一方的に差別出来ているつもりが、相手からは差別でもなんでもなくただバカにされるだけ)、つまりは何重もの意味で差別意識丸出しの、恥知らずで、身勝手で、しかも論理的に倒錯している、つまりはキチガイじみた差別意識が丸出しな発言だ。
よく見ていれば帰納法と演繹法が、他者性の認識が欠如した幼稚さの、自己閉塞した身勝手で混同された結果の、分かり易い論理倒錯の誤謬、つまりキチガイというかただのバカの言い草なのだが、なぜこんなキチガイじみた論理倒錯が大手を振って今の日本社会に蔓延しているのか、理由は複合的なものだろう。
第一に今の日本社会に蔓延する価値観が、子どもの時分にまず接する教育の現場からして、差別やいじめが大好きな人間を増長させたり、そういう動機を多くの人の心理に植え付けてしまう、キチガイじみたものであることが挙げられるが、これはこのブログで以前にも差別やいじめの問題で取り上げて来たことなので、今回は割愛する。
もうひとつは、第一の理由とかなり関連するものだが、「正しさ」ということに関する価値観が歪んでいる、そもそも正義や悪は絶対概念とまでは言わないまでも、人間関係の相対性で計れるものではない、ということが、これまた教育の現場がキチガイじみた倒錯に陥っている結果、ちゃんと教えられていないことだ。
「正しさ」とは本来、我々個々人に外在する、本質的に他者的な概念であって、我々は正しさを目指すことは出来るし、個々の問題において「正しく」あることまでは可能だが、それはその場で自分が行っていること、言っていることが正しいだけであって、決して「ボクが正しい」とはならないはずだ。
まして相手が間違っている、「キチガイ」であることを指摘したところで、それは単に相手がそうである事実が指摘されているだけであって、「よってボクは正しいのだ」なんてことを意味するわけがない。そこが分かってないキチガイが多過ぎるのである。
だがこと「キチガイ」という言葉に関する限り、やはりあまりに被害の深刻な、最大の問題として、「精神疾患/障碍」=「キチガイ」とみなす差別意識があまりに根深く社会に蔓延してしまった結果、「キチガイ」という概念に関して我々があまりに狭量であり、精神疾患や障碍に関してあまりにも無理解なままタブー視してしまっている現状がある。
これは精神医療の現場で巨大な問題を引き起こしている。
ただでさえ精神疾患の多くで、典型的な症状には否認が含まれる。自分が病んでいるのだということは、大雑把に二つの理由でなかなか本人には認識しにくいのだ。
ただでさえ精神疾患の多くで、典型的な症状には否認が含まれる。自分が病んでいるのだということは、大雑把に二つの理由でなかなか本人には認識しにくいのだ。
第一に、人間の認識は最終的には主観認識に収斂される。社会的な生物としての人間は成長の過程で他者と自分との根源的な差異の認識を獲得(つまり他人様は他人様、自分の思い通りにならないのが当たり前と悟る)し、その他者から見た自分を想定し自己を客体化するようシミュレーション出来るようになることで「大人」としての人格に到達するのだが、とはいえそこまで考えているのだって最終的には自分の脳が感じて考えている活動だ。
他人が自分に対して言うことを謙虚に聞く人間であろうと心がけるつもりでも、それを実践したつもりであると認識しているのだって最終的には自分だし、他人に言われたことの内容だって自分で勝手に解釈している可能性は排除出来ない。つまり、人間はやはり最終的には無意識に自分自身を標準とみなし、そことの差異で価値などを判断してしまう動物であり、だから自分がおかしいということは、なかなか認識出来なくなりがちなのだ。
こと精神疾患で認識の機能が損なわれている場合、これはますます極端になる。だから多くの精神疾患では、そもそも原理的に病識を持つことが難しくなる。
なおこの区分けは、議論を分かり易くするためにあえて単純化しているわけで、実際には次に挙げる理由も第一の理由と渾然一体となっている場合が多い。
で、その第二の理由だが、社会的な自己防御反応だ。「自分がおかしい」と自己認識することは、社会生活が営めなくなり孤立する恐怖を必然的に内包する。だから本当は心のどこかで「なにかおかしい」と気づいていても、それを無意識に押し込めようとしてしまうことは避けられない。
もうお分かりだろう。
「精神疾患/障碍」=「キチガイ」とみなす差別意識があまりに根深く社会に蔓延してしまっていると、この第二の理由による否認の動機が必然的に増大する。自分が「キチガイ」とみなされ差別される恐怖が、どうしたって避けられないのだから、しかも疾患で認識が歪んでいる患者なんだからしょうがない。だから多くの患者は、自分の精神が病んでいるのだとの認識を死活問題のように思い込んで忌避し、ほとんど命がけで否認に固執し、病がますます悪化するどころか、別の精神疾患すら引き起こすこともあり得る。
そんな偏見の禍根があまりに大きい結果、日本の精神医療の現場はますます困難になるし、そうなると優秀で頭がいい人材ほど、よほどの物好きかお人好しでない限りは精神科医になろうと思わない。結果として知的能力の面でも倫理観でもまさにロクデモナイ医学生に限って精神科になりがちであり、なにしろ頭が悪く観察力がなければ、ただでさえ難しい精神医療の現場で、まともな診断は下せないし、性格も悪いから患者に対する無自覚な差別意識の優越感に浸るキチガイぶりを発揮されればますます病を悪化させかねないし、行き着くところは、これまた最近まで認知行動療法つまりちゃんと患者の話を聞く、その話す内容から問題をつまびらかにして行く、という作業が健康保険の適用対象でなかった、つまりちゃんと精神科の診断や本来の治療をやっていると儲からなかったキチガイじみた制度のせいもあり、どんどん薬漬けばかりが進むというまことキチガイじみた状況になってしまう…じゃなかった、現にかなりそうなっている。
しかも「自分は病気だ」といえば弱者扱いでそれなりにチヤホヤされることに気づいてしまう患者の場合、この否認は極めて歪んだ方向に暴走し、それが薬漬けをやっていれば儲かるし弱者の患者を見下しながら助けている気分で優越感に浸れるロクデモナイ医者側の経済的利潤や身勝手とも利害が合致して、ますます危険な状況まで産まれている。
確かに、最終的に、精神疾患は脳内などの神経物質の分泌異常に理論的に還元されるわけだが、それはそもそも私たちの精神活動が、突き詰めれば脳内などの神経物質の分泌の結果で起こっていることだからでしかない。「病気」と言った途端に突然神経物質の分泌の話になる、病気だけが神経物質の分泌の問題なのだと思い込む区分け自体が、キチガイなのだ
投薬治療はその崩れた分泌のバランスを一時的に、無理矢理に修正することでしかなく、最終的にはその分泌異常を出来る限り自律的に制御できるよう回復しなければ、今度はその向精神薬などの依存症にだってなり得る。
精神科の治療の本質は、あくまでカウンセリングでその人の精神の活動の問題点を修正し、出来る限り自律的に脳内などの神経物質の分泌のバランスを回復することが基本だ。薬物は補助的な役割か、緊急手段でしかない。
日本の精神医療の大部分の現状はこのように、こうなるとどっちが患者でどっちが医者か分からないよ、というまさにキチガイじみた世界になりかねないわけで、つまりここで挙げたロクデモない医学生転じてロクデモない精神科医モデルや、そことくっつくのが楽な治る気のない倒錯患者モデルは、比喩的に言ってしまえば依存症のメカニズムのドツボに嵌っていることにもなる。
…っていうか最近適用されている広義の依存症そのものだったりする。
ちなみに例えばDVも、現代の精神医学では広義の依存症、対人関係依存に分類されるし、上記の甘ったれた勘違いに耽溺する患者と、同じような甘ったれた勘違いの歪んだ自己愛を抱えたロクデモナイ医師の関係は、場合によっては露骨に共依存にすらなりかねない。
こんな精神医療の現状では、数少ないまともな先生こそ大変になってしまうわけで、しかもさっき言った「キチガイ」と決めつけて相手を差別する自己撞着でしかない病理が蔓延する第一の理由の通り、とにかくキチガイと化した多数派が自分たちと違うというだけで少数派を叩きがちであり、しかもその少数派の方が優秀となればますます憎悪を逞しくするキチガイなマジョリティが多いのだから、数少ないまともな先生こそその真面目さ故に過剰にストレスを溜め込んで、親メランコリー性気質の(つまり真面目で責任感の強い人がなりがちな、いわゆる古典的なケースの)鬱病になってしまったりする。
この抜本解決は、やはり社会全体に蔓延している誤った価値観や認識を糾すことでしか改善しようがないと思う(と正論の極論ですぐ問題の核心や根っこを正せばいいのだ、と思ってしまうのが、この筆者のキチガイじみたところです)。
まず精神疾患や精神障碍の意味での「キチガイ」ならば、脳や精神の機能がなんらかの部分で「健常」な状態と比較してなんらかのズレがある、精神疾患や障害などの傾向がある故に「キチガイ」的な人間と言うのならば、あらゆる人間がそうであり、完全にまともな人間がいたらその方がキチガイじみている、ということだ。
これがフロイトが精神分析を始めて以来、その歴史には多々間違いがあったにせよ、その間違いを見つけては正しながら曲がりなりにも現代の精神医学に至っている歴史の最初から、フロイトが真っ先に言っている大前提であり、そもそも大なり小なり精神が「狂って」いない人間なんていないのである。
そのどこか大なり小なり狂っているかも知れない自分に、自分なりの折り合いを見つけることこそが、「人間が人間として生きる」ということなのだ。精神医療が出来るのは、最終的にはその手助けでしかない。
そのどこか大なり小なり狂っているかも知れない自分に、自分なりの折り合いを見つけることこそが、「人間が人間として生きる」ということなのだ。精神医療が出来るのは、最終的にはその手助けでしかない。
なおこれは、実は精神医学に限った話ではない。結局どんな病気でも、治る気がない患者相手では医者はお手上げである。
またより広義の「キチガイ」の定義で言えば、それこそ大昔から世界中のことわざで言われていることとして、
「全員がキチガイの村では、まともな人間がキチガイ扱いされる」
このことについて、我々はあまりに忘れ過ぎてはいないだろうか?
それこそ全国民が「進め一億火の玉だ」と叫ぶ「キチガイ」の状態になり、冷静かつ現実的に考えればそもそも倫理的に間違っているだけでなく、戦略的に、リアリティの問題でうまく行くわけがない大陸進出やら朝鮮半島の植民地支配やらにキチガイじみて熱中し、挙げ句にあれだけ人口・面積比があれば支配なんて出来っこない中国大陸までキチガイ丸出しに侵略したがり、それがうまく行かないと、まともな人間ならばさすがに立ち止まって「これはヤバいんじゃないか」と思うべきところ、さらにキチガイじみた対米戦争まで始め、1942年のミッドウェイ海戦の時点ともなればさすがに「こりゃ勝てっこない」と気づくべきなのに、また思いっきり自己撞着なキチガイっぷり丸出しに、噓なのが分かっている大本営発表にその大噓をついている側までがんじがらめになり、「そんなこと言ってるから勝てる戦も勝てないのだ、たるんどる、この非国民!」なんてキチガイ丸だしな出鱈目でまともな意見を抹殺し、その後3年もキチガイじみた戦争を続けて破滅寸前にまでなった過去を持つこの国だからこそ、「全員がキチガイの村では、まともな人間がキチガイ扱いされる」ことについて十分に注意深く慎重に自分を客観視すべきなのが、いつのまにか「日本はなにも悪くなかったんだ」「日本を悪く言うのは反日だからだ」なんてキチガイ村の内輪でしか通用しないキチガイの論理が幅を利かせる国になっているのが、今の日本ではないか。
だいたい朝鮮半島の植民地支配なんて、1930年代の半ばには破綻していたわけで、傷が広がり支配者側まで損害を被る前に、独立を認めて恩を売っておくでもしておいて、友好関係によって一定の影響力を維持する方が、(これも「コロニアリズムだ!」と批判すべきところではあるが)まだ遥かにキチガイでない現実的な考え方だろうに、それすら出来ずに「玉砕」などとキチガイじみたサド=マゾヒズムまで自国軍兵士(植民地の本来なら異民族も含む)に強要し、挙げ句にボロボロの敗戦で、旧植民地を分断国家にする禍根まで残した、植民地主義のモノ差しで見たって惨憺たるみっともない大失敗を自分達の内輪だけでは必死で無視して、朝鮮民族相手に威張り散らしたがる今の日本人なんざ、どこまでキチガイなんだよ、っていう話になる。
…と、ちょっとまともなことを言ったら、無自覚な極右ネオナチ化の進むキチガイ村の住人たちが「こいつはキチガイだ」とか「反日だ」とか叩いて必死に差別したがる、キチガイなマジョリティ様が必死でこちらの言葉を封じようとするわけである。極めて分かり易い差別の構造なわけだ。
ちなみに「傷が広がり支配者側まで損害を被る前に、独立を認めて恩を売っておくでもしておいて、友好関係によって一定の影響力を維持する」とは、つまりアメリカ合衆国が占領した戦後の日本に対して巧妙にやってのけたことである。
大都市を片っ端から大空襲に、原爆二発まで落とした相手国に、これだけ巧妙にやってのけるのだから、さすがにおよそキチガイとは言い難い狡猾さだ。表向きは自由と民主主義と民族自決というタテマエをちゃんと偽装しながら、ちゃんと得るものは得てしまう実は植民地宗主国というのは極めてムカつくし、これも「コロニアリズムだ!」と批判すべきところではあるにせよ、まあ、たいしたもんだ(←岩手弁)。
さてこれでも、かつての日本が身の程知らずの背伸びの野望でトチ狂ったキチガイでなかったと、言えるんですかね?
もうひとつ「キチガイ」について言っておけば、「キチガイ」という語にもはや脊髄反射でヒステリックな「差別だ」と声があがるほど言葉狩りの誤謬が刷り込まれ、そのキチガイっぷりの反動として、言葉狩りの誤謬を理論的に考察するわけでもなく、ただのちゃぶ台返しで「『キチガイ』と言ったって差別ではない」と絶叫する、よりキチガイな人々まで出て来る、まことキチガイじみた状況が蔓延する以前、「キチガイ」とは遥かに豊かな意味の広がりのある語だった。
つまり「キチガイ」という語にもはや脊髄反射で「差別だ」「差別じゃない」と言い出すキチガイがいっぱいいる現状を百も承知で、確信犯の半ば以上ブラックユーモアでここまで「キチガイ」を連発しながら、そこに一切の差別性のある「キチガイ」という語の使用はないという妙なマニエリズムまで徹底してしまう、という悪ふざけを大真面目でやっているのは、これまで繰り返した「キチガイ」とは別の意味で、明らかにキチガイじみた言動なのである。
そう、キチガイには本来、常軌を逸している、常人離れした発想をする、並外れて頑固だったり強靭だったりするオリジナルな個性や、ものごとを妥協のなさ過ぎに徹底してやってしまう精神、という意味もあった。
大島渚『絞死刑』
大島渚『絞死刑』
例えば、60年代の大島渚の映画はどんどんキチガイじみて行ったし、『絞死刑』や『帰って来たヨッパライ』となるともうほんとキチガイ映画だし、さていよいよ日本での映画の経済状況が悪くなったら、フランスのアナトール・ドーマンというキチガイなプロデューサーが「オオシマ、俺が金を出すからポルノを撮らないか」と明らかにキチガイなことを言い、それを「僕はスキャンダルが大好きなんだよ」というまさにマジキチな理由で喜んで受けてしまい、日本では刑法175条にひっかかって逮捕すらされるリスクを百も承知で、なのに官憲がヒステリックにキチガイじみた反応をするよう挑発するかのように、わざわざ話題性まで盛り上げて『愛のコリーダ』を撮っちゃった大島さんは、明らかにキチガイだった。
『帰って来たヨッパライ』予告編
『帰って来たヨッパライ』予告編
つまり「キチガイ」は文脈によっては褒め言葉でもあり得たのが、日本語の本来なのだ。いや日本語の本来かどうか以前に、それが「狂気」の超越性をめぐる本来の社会的生物としての認識なのだ。
だからって相手を貶める意図で「キチガイ」と言っておきながら、責められたら「キチガイ」は褒め言葉でもあり得るなんて言い出す幼稚な詭弁は通用するはずがないので、褒め言葉でなくキチガイ、重度の差別キチガイでしかもキチガイじみて姑息な皆さんは、ご注意下さい。
もっと言えば、「全員がキチガイの村では、まともな人間がキチガイ扱いされる」の逆説として、ドストエフスキーの『白痴』もそうだしある意味で『罪と罰』もそうであり、古代神話や昔ばなし、民間伝承まで遡れば、キチガイ、狂気を持った存在だからこそ、人間の世の中の矛盾や不正を突く、キチガイ=神、の説話構造は、人類が大昔からの知恵として持って来たものである。
自分たちが誰でも大なり小なりキチガイであり得る、人間は正義について考え、正義を信じ、正義を実践しようとすることは出来るが、自分達自身が正義そのものだと勘違いすることこそ最大の危険なキチガイなのだという自戒を、賢くまともな人間たちは大昔からちゃんと考えて来たのである。
その意味でも、ただある言葉を差別語と決める表層だけの言葉狩りは無意味なのであり、差別語認定こそキチガイじみた倒錯であり、それも現実の人間社会とその限界性を無視した、傲慢な倒錯なのだ。
だから「『キチガイ』と言うことは差別になるのか?」という問題設定自体が実は倒錯であり、無意味なのだ。こういうことを言っているのはまさに、悪い方の意味でキチガイなのだ(いや、ただのバカと言った方が正確ではある)。
そして再三繰り返すが、「『キチガイ』と言うことが差別になる」が間違いだからといって、「だから『キチガイ』と言っても差別ではない!」と言い張るのは、ただの内輪の自己撞着した身勝手に倒錯したキチガイのへ理屈であるだけではない。
姑息な差別野郎の下手な言い訳だ。
姑息な差別野郎の下手な言い訳だ。
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