10/22/2013

画家は絵を描く、ただそれだけである〜モーリス・ピアラ監督『ヴァン・ゴッホ』


ピエール=オーギュスト・ルノワール『浴女たち』

この秋にたまたま、印象派と呼ばれたフランスの絵画運動の末期を…というかその代表的な画家二人の最晩年を描くフランス映画が二本、日本で公開される。というか一本はもう公開してるんだっけ?

一本はピエール=オーギュスト・ルノワール、もう一本はフィンセント・ファン・ゴッホ。一本はまったく見る価値もないどうしようもない通俗、もう一本は「画家とはいったい何者なのか」に迫る、恐るべき、まさに途方もない傑作だ。

『ルノワール 陽だまりの裸婦』(公式サイト http://renoir-movie.net/)というこれまたセンスのない日本語題の映画は、なんでこんなもん誉める人がいるのかさっぱり分からない。「ルノワールの光を見事に再現した」なんていう評に至っては、ルノワールの絵を見たことがないんだろうね、この人は、と言いたくなる。

 

いやだって、ルノワールの晩年の光なんて、この映画のどこにも映っていないではないか。

キャメラマンは台湾の名手リー・ビンピンなのでつい期待していたが、侯孝賢の『憂鬱な楽園』や『珈琲時光』のときの卓越した自然光の柔らかな使い方がずっとルノワール的だったと気づく。

 侯孝賢監督『憂鬱な楽園』

ことさら南仏の光の描写に必要もないのに、やたら使われる午後遅めの光線は、ただの凡庸にしかなっていない。デジタル上映で画が固く見えるせいもあるのだろうが、およそ晩年のルノワールの、溶き油をたっぷり使って絵の具を薄くカンバスに広げることで得られる、奔放な淡色の積み重ねの調和と豊饒を思い起こさせることはなにもない、絵はがき写真の色で、空気感もなにも感じさせない。その南仏の空気感こそ、晩年のルノワールのおおらかな官能の調和と豊饒の源泉なのに。

太陽光の大気に対する入射角の問題なんだから、この午後遅めの光の色が欲しいなら、北に行った方がいいですよ。それこそベルイマンみたいに。

陶器の絵付け出身の、職人肌の画家は「ルーベンスは女の脂肪を描いた。私は肉を描く」と毒舌を奮ったと言われるが、この映画は美肌化粧品のCMのモデルのような女優の肌をツヤたっぷりに撮っているだけ、無駄に多用される午後遅くの黄金色の光は、ただその肌に反射しているだけだ。

…っていうかこの映画の関係者は、画家の息子ジャン・ルノワールが同じルノワール旧邸付近で撮った映画『草の上の昼食』も見とらんのかね? 
その映画で、息子は確かに父の撮ったように「脂肪でなく肉」を撮り、父やポール・セザンヌが自分の絵画にもっとも理想的だと選んだ南仏の光を撮っている。 

一見軽やかに、奔放に、しかし恐るべき直感的速度の緻密な計算で。
ちょうど父ピエール=オーギュストが、リウマチで手の自由が効かなかったというのに、大変な手早さでないと描きこなせない、溶き油をたっぷり使った特殊な技法を発展させたように。

お話の中心は、ルノワールの最後のモデルとなったデデ、後の女優カトリーヌ・エスランと、老いてリウマチで手足が不自由になった画家、そしてこの次男ジャンの「三角関係」なのだが、この映画の監督や脚本家たちは、画家の作品だけでなく、後にフランス映画史最大の映画作家となるジャン・ルノワールの作品も、ロクに見ていないのだろうか?

 ジャン・ルノワール監督、カトリーヌ・エスラン主演『女優ナナ』

時代は第一次大戦中、負傷したジャンが実家に戻って来る−−この20年後にこのジャン・ルノワールのもっとも有名な傑作となる『大いなる幻影』の、そのインスピレーションが産まれた時期でもあるのだが、そんな体験を若きジャンが既に背負っていたことも…この映画の関係者たちは『大いなる幻影』すら忘れているらしい。

…っていうか、戦争を体験したことすら感じさせない甘えた現代っ子の、ただの勘違いした不満たらたらなガキじゃん、これじゃ。

この戦争での負傷が元で終生びっこになり、晩年にはそれが映画作りに支障を来たし、文筆に転業したジャン・ルノワールは、自伝と、父ピエール=オーギュストの評伝を書いているが、映画評論家のなかにはジャンがそうした著書で決して書かなかった父との葛藤をこの映画が見せている、と感動する人がいる。

申し訳ないがいったいどこを読んでいたのか、と言いたくなる。

晩年になってなお、ジャン・ルノワールの文章には「天才の息子に産まれてしまった不幸」をめぐる葛藤が溢れ帰っている。ただルジャンがそこに恨み言を発散して憐れみを乞う下賎で愚かな男ではなかっただけ、むしろその葛藤も含めて自分という存在を受け入れているだけだ。その知性があるからこそジャン・ルノワールはジャン・ルノワールになった。

ジャン・ルノワール監督『河』

それでもジャンがはっきり書き、二冊の本の底流に流れているアイディアは、あまりに偉大な父の芸術を前に、若き自分がなにをやったら生きていけるのか、さっぱり掴めなかったことだ。

偉大なる表現はすべて既になされてしまった、自分になにが出来るのか分からない、それこそが現代映画の地平を切り拓いたジャン・ルノワールの、その現代性の原点にある。

実はあまりにジャンの映画が素晴らしい、楽しいので、多くの映画ファンさえ、なかなか気づかないことがある−−ジャンの映画が映画的なのは、それが本質的に反映画的であり、ある意味映画を「信用」はしてはいない、新しい創造の手段としての映画に最初から見切りをつけているからである。
彼はヌーヴェルヴァーグのずっと前に、偉大な芸術表現はすべてやり尽くされてしまったこと、映画それ自体はオリジナルな芸術表現たりえない、そのことこそが映画的なのだ、と気づいてしまっていた作家だった。

この映画の関係者がさっぱり分かっていないのは、そうした煩悶を自分の内なる葛藤として受け止めるのでなく、ただ普通に父との葛藤に転嫁してしまうようでは、ジャン・ルノワールはあのような天才にはならなかったし、ピエール=オーギュストはそう簡単に息子が反発出来る類いの父でもなかったことだ。

いやこの映画の関係者も、それが自分たちがなんの苦もなく共感できるルノワール父子像だからと思って喜んでしまう人も、天才というものが恵まれた才能の賜物を持ったただの人なのだと思い込んでいる…そう勘違いしている。

天才の才能とは、本人にとって決して天才ではない。

自分の天才を信じることまではもしかしたら出来るかも知れないが、実感することは本人には不可能なのだ。天才とは凡庸と通俗の虚栄を突破する、凡俗な目には常規を逸したように見えるかも知れない、妥協のかけらもなく、度を超した、冷酷ですらある自らとの戦いの末に、努力を突き詰めた結果産まれる奔放な自由以外の、なにものでもない。

ピエール=オーギュスト・ルノワール『ジャンとガブリエル』

身体がだんだん不自由になるのに反比例するように、50年代末か60年頃から、ジャンはおしゃべりな人になった。

あまりにユーモラスでおおらかなその喋りっぷりに、多くの人は、批評家も含めて誤解したのだろうが、ジャン・ルノワールはその実、自分に対しても他人にも相当に厳しいし、恐ろしく頑固で、必然としてかなりの毒舌家でもあった。

たとえば『黄金の馬車』の音楽に用い、この映画の演出上の最大の協力者と呼ぶイタリア・ルネッサンスの作曲家ヴィヴァルディについて、ジャンはこう言っている。

「だいたい最良の協力者というのは、何世紀も前に死んだ人です。こちらの言うことに絶対に反論しないので、喧嘩になりませんから。なんでも言うことを聞いてくれます」

ちなみに『黄金の馬車』は最近、オリジナル・ネガからデジタル修復され、
半世紀以上失われていた本来の色彩が取り戻された。

晩年のジャンは、フランソワ・トリュフォーと共に自分の映画を見直して「この歳になって初めて、自分の映画がいかに父の影響から産まれたものかが自覚出来る」と漏らしたという。

そんなジャンが直接に父との葛藤を、たとえば直接の憎しみとか反発の形で書けるわけもない(隠すのではなく、単に意識が及ばない)以前に、この父子が通俗な親子の葛藤を生きているはずがない。

まずそんな下品で自分が見えていない人間が、あんな優れた人間洞察力にあふれた映画を遺すわけもなく、実際にサッシャ・ギトリが撮影している父子の姿は、とても仲が良い。

  サッシャ・ギトリ『祖国の人々』より

芸術家である父の偉大さを誰よりも認めていたのはこの息子であろうし、だからこそこの天才がいかにその愛する父が巨匠であったことのコンプレックスに苦しんだのかは、自伝と父の評伝を読めば一目瞭然だ。

この映画がえらく通俗な息子の反抗期にしてしまったジャンの苦悩は、そんなケチな承認欲求ではない。父親が天才であること、なんだかんだ言いながらその七光り(とくにお金の面)があったから映画監督になれた天才というのは、こんなに単純じゃない。

そしてサッシャ・ギトリが撮影した映像や、他ならぬ晩年の絵画作品それ自体に現れた、リューマチで手の自由も利かないのに、包帯で縛り付けた絵筆を喜々として奮う老画家の境地もまた、こんな通俗であるはずがない。

この映画は現代インテリの通俗が、芸術家とはその実職人の究極形、自分の仕事である自分の創作にこそ生きる存在であったことを理解できないことの、その無惨さの証明にしかなっていない。ここにあるものを「人間ルノワール父子」と錯覚してはいけない。小人、小物に変換されたルノワールでしかない。

もう一本の映画は、実は20年以上前の作品だ。

10年前に亡くなったモーリス・ピアラの『ヴァン・ゴッホ』、療養のためオーヴェール・シュール・オワーズに移り住んだゴッホが自殺するまでの最後の三ヶ月を描く。

個人的には、21年前の製作当時にアメリカ公開で見ている。 
それ以来見直す機会もなく(フランスでDVD化されているが、とてもではないがDVDでは再現され得ない、あまりに映画的な表現なので)、その時がいやまあ、これくらい客が入ってない映画館も珍しいという状態で、そしてほとんど一人で見て、これほど重い混乱と衝撃を受け、見直すわけでもないのにずっと強烈な印象が残っている映画も滅多にない。

予告編、配給はザジ・フィルム

ゴッホといえばヴィンセンテ・ミネリ監督の名作『炎の人』や、ピアラの少し前にはティム・ロスがフィンセントを、ポール・ライスがテオを演じたロバート・アルトマン監督の『ゴッホ 謎の生涯(原題は「フィンセントとテオ」)』がある。芸術家の内面の葛藤の探求を通して「精神の自由への闘い」を見せようとした、それはそれで美しい二作品は、しかしピアラの作品を前にしては、あまりにロマンチシズムに耽溺して見えてしまう。

とはいえ、そこはミネリでありアルトマン、決して上記のルノワールについての映画のような凡俗なロマンチックではない。

ヴィンセンテ・ミネリ監督『炎の人』より 
それでもロバート・アルトマン自身は自分のゴッホ伝を、「ちょっとロマンチックになり過ぎてしまった。仕方がないよ、私は芸術家を愛しているので」と認めていた−−自分を「芸術家」とは決して言わなかった巨匠が、である。

ジャック・デュトロン演ずるゴッホは、一見ただの人だ。

流れるようになめらかな、しかし力強い動きで青い絵の具をカンバスに塗る、その運動の秘めた激しさを追う素晴らしいファーストカットが、オーヴェールの駅に到着する列車の運動を追う力学的なキャメラワークへと連鎖する、その青いカンバスに VAN GOGH というタイトルがそっけなく、しかし堂々と現れる瞬間を見逃してしまえば、これが美術史上もっとも愛される画家のひとりの伝記であることすら、忘れてしまうかも知れない。

フィンセント・ファン・ゴッホ『オーヴェール・シュール・オワーズの村』

終の住処となる宿屋についたゴッホは、主人にまずはお近づきのワインを勧められ、そっけなく「酒は飲まない」とだけ言って女中に自室に案内させる。

精神病院を出たばかりで、医者に飲酒を禁じられていただけで、これが守られるわけではないことはゴッホの生涯に多少なりとも知識がある者なら知っているが、ピアラはこの禁酒がいつ破られるのかをサスペンスフルな仕掛けにするわけでもない。

フィンセント・ファン・ゴッホ『オーヴェールを臨む葡萄畑』

そう、ピアラの演出には内なる狂気との葛藤に苦しみながら、その内面と目の前の世界の化学反応を理想化した、元牧師志望の宗教的求道者の画家の分かり易い姿はまるでない。

フィンセント・ファン・ゴッホ『庭のガシェ嬢』

ゴッホが同時代の画家でセザンヌだけは圧倒的に評価していたことが知られているが、主治医ガシェ(有名な絵画コレクターで後期印象派の支援者でもあった)の家に飾られたセザンヌを見ても、「悪くない」程度しか言わず、ガシェをがっかりさせる。

えっと一応、中期セザンヌの最高傑作、フランスの国宝の一枚、「首吊りの家」です。いいのか、これ? いや「悪くない」のか…
同じオーヴェールで描かれたポール・セザンヌの『首吊りの家』

もっとはっきり言えば、ピアラの描くゴッホは、「とりつくシマもないイヤな奴」にすら見える。

ミネリの映画でカーク・ダグラスが演じた情熱の人でもなく、イライラして無愛想である以外にはことさら感情も見せず、そんなゴッホを見せる映画もまた一見、淡々としている。

「情熱と狂気の画家」を期待するとなにごとかと思うその淡々っぷりは、しかしガシェに頼まれて、その娘がピアノを弾く姿の絵を描くシーンで覆される。

フィンセント・ファン・ゴッホ『ピアノを弾くガシェ嬢』

…というか、これがまた最高に一見淡々とした場面で、ゴッホがまさに「イヤな奴」なのだが、ひたすら描く絵にだけ集中し、イライラしながら、

「そんな弾き方ではダメだ。君はピアノを弾くのが楽しくて弾いているのか?」

…とモデルを平然となじる。

相手は一応、世話になっていて、患者だけでなく友人として迎え入れてくれた主治医の娘である。

「じゃあどう弾けばいいのよ?」
「そんなこと僕が知るわけがない。いいからちゃんと弾け」

かと言ってゴッホがピアノを弾く彼女の内面に興味があるようにも見えない。気にしているのはあくまで彼女の腕の線、背中の線である。

いやこれは凄い。この瞬間にこそまさに、ピアラは絵を描くことの本質を豪速球で見せてしまっている。

「内面」なぞカンバスの表面にも、フィルムの乳剤の光化学反応にも、移し替えることが出来るはずがない。画家が描き、映画作家が撮るのはひたすら形、フォルムである。そのフォルムが内面を伴った真実、画家や映画作家が選びとり納得するだけの「美」がそこになければ、芸術家は仕事にならない。


完成された絵は、見る者の人生を豊かにする。だがだからって、絵を描くこと自体が博愛的であろうはずもない。

作品とは究極にわがままな存在だ。「自己表現」なんてただの勘違いの幻想であり、芸術家の人生も含め、すべてが作品のためにこそ奉仕しなければならない。創作の本質とは、そういうものだ。

モーリス・ピアラは映画作家であり、画家でもあった。このありのままのゴッホの姿は、ピアラの映画作家として、画家としての自画像でもあろう。

フィンセント・ファン・ゴッホ『オーヴェールのレ・ヴェセノ集落』

ピアラが見せるゴッホの最後の三ヶ月に、ロマンチシズムのかけらもない。ただ「絵を描く人間」がポンとキャメラの前に放り出されているかのようだ。

ゴッホの「狂気」がどんなものなのかも、ピアラは分かり易く説明しようとしない。それは一目見てわかる並外れた情熱や感情でもないし、主治医であるガシェですら本当に精神病なのか分からん、ただの不摂生だとまで言い出すほど、ただ単にとりつくシマもなく黙々と、かなりイライラも見せながら、ひたすら絵を描く無愛想な男である。

こうも心を閉ざされ、なにも把握する糸口すら掴めなければ、精神科医は仕事になるまい。 
そりゃ「こんなやつは病気じゃない」と、つい言いたくもなるでしょうよ…。

フィンセント・ファン・ゴッホ『オーヴェールの市役所、7月14日』

ゴッホほど生前はほとんど絵が売れることもなく、死後その天才が大逆転のように賞讃された画家も少ない。

だが画商であった弟テオとの往復書簡などの史料や遺された作品を、ロマンチシズムを排して丹念に検証すると、それは決してゴッホが時代の先を行き過ぎた孤高の画家だったからでも、誰も彼の絵画を理解しなかったからでも、ゴッホがそれだけ素っ頓狂な「狂気の天才」だったからでもない。

敬愛したジャン=フランソワ・ミレーの主題に基づく『種まく人』

独学で、美術学校などに一切関わりがなかったことで誤解されがちだが、ゴッホは古典から同時代に至る絵画の技法だけでなく、その理論を極めて論理的・知的かつ実地的にマスターしていて、恐らく議論すれば誰にも負けなかったことだろう。

ただこの映画でジャック・デュトロンが演じているような、ひたすらイライラした、そっけない感じで絵画論をぶつけられ、論難されてしまえば、相手は立場がまったくなかったに違いない。

そりゃ嫌われるわ、これ…。

安藤広重『名所江戸百景・亀戸の桜』に基づく模写

そしてフィンセント・ファン・ゴッホの絵画は、あまりの創作のスピードにこれまた誤解されがちだが、決して情熱と勢いだけで描かれた、ただの本能の絵画ではない。

むしろ丹念な先行作家や同時代作家の研究にも基づき、時には模倣を繰り返し、フォルムと色彩の実験と考察を重ねながら、美的なだけでなく知的にも積み上げられた、緻密な努力の結晶でもある。


ガシェ医師の肖像・第一版
ガシェ医師の肖像・第二版
モーリス・ピアラの映画はこの両版の両方を見せる

そうした史料・史実と実際の作品から考えると、ゴッホが生前ほとんど売れない画家だったのは、有名な耳切り事件(ピアラの映画はそこは描かない。それはこの映画のだいぶ前の話だ)などから想起される、情熱的すぎる狂気の画家に時代が追いつかなかったから、ではない。

アルトマンが自分の映画の冒頭で見せた、資本主義的なマーケットに浸透する前に死んでしまった、ということならまだあり得る。

ロバート・アルトマン監督『フィンセントとテオ』 
なにしろ宣伝をやる気がないのでは、印象派以降の時代、つまり産業革命が起り資本主義化が一気に進行した世界ではなかなか…ではあるし、ゴッホの自殺に至った狂気の孤高イメージのロマンチシズムこそ、その意味では最高のマーケティングになった。

フィンセント・ファン・ゴッホ『夜の白い家』
白い家は、ガシェ医師の邸宅だった
ピアラの映画の実際の挿話にはフィクションも相当に含まれる(現存しない絵を描くシーンもあり、一方でオーヴェール時代の有名作は、「ガシェ医師の肖像」以外はわざとほとんど登場させない)が、その精神はおそらく事実に相当に近い−−この映画のフィンセントは単に、えらくそっけなく無愛想で人付き合いが下手な男であり、それでも彼に(作品も含め)魅了はされる周囲の人間は、距離を置くことか、戸惑うことしか出来ない。

いちばんショッキング(でもあくまでそっけなく、冷徹に見せられる)なのは、通常は深い愛情で兄と結ばれていたと解釈される弟テオの、妻への告白である。

「ルノワールがファン・ゴッホのような絵を描き始めたら、幾らでも売ってみせる。兄がルノワールのような絵を描けば売れっ子になるだろうが、私には売れない、売りたくない」

ゴッホの絵は当時でも決して売れないはずの絵ではなかった(これは今の研究者や愛好家の目から見れば確かに、その通りなのだ)。最先端ではあるが、決して理解されない絵ではない。

フィンセント・ファン・ゴッホ『オーヴェールの平原』

理解されなかったのはフィンセントという人間の方であり、最愛の弟だったはずのテオが理解せず、嫉妬すらしていた、というのがピアラの解釈だ。テオがフィンセントを支援し続けたのは、実は嫉妬し憎しみすらあった兄への、優越感を保つためですらあった。

そうして理解されることもなく、また人間としての自分個人を理解されたいとも思わなかったかのように見える画家は、ただ絵を描き続ける。モーリス・ピアラはただその、カンバスの上以外では心を閉ざし続ける画家を、見せ続ける。

芸術家の孤高というのはこういうものだ、とピアラは言っているかのようだ。そしてその存在そのものを見せることこそが、純粋な映画なのだと。



途方もない映画である。20年前に見た時は、ひたすら一見淡々としてそっけないように見えるこの映画の、凄まじいまでの重みに、恐怖すら感じた。あれから少しは自分も大人になったのだろうか、ゴッホの絵が少しは見えて来たのか、これが絵描きというもの、芸術と言う行為なのだと、受け止める気になる。

絵描きの仕事とは、ただ絵を描くことである。そのことにのみ、画家として、芸術を営みとする人間の姿がある。後はただの虚栄だ The rest is vanity。

ゴッホの遺作と言われる『カラスの飛ぶ麦畑』

その虚栄がなければ、画家の仕事は社会的に成立しないのかも知れない。だが、その虚栄をフィンセント・ファン・ゴッホは拒絶した。あるいは、受け入れ演ずることが出来なかった。

なぜなら彼は、ひたすら絵を描く人だったのだから。



モーリス・ピアラ監督特集・公式サイト
http://www.zaziefilms.com/pialat/

『印象派を超えて〜ゴッホ、スーラからモンドリアンまで』展
国立新美術館
http://km2013.jp/

10/13/2013

転向ユダヤ人だったヴェラスケスと『ラス・メニーナス』の謎



美は常に謎を孕んでいる。ある意味、世の優れた芸術は、そこに完全には決して理解しきれない謎か秘められているからこそ美しいのであり、そうした作品が評価されて来た理由は、たいがいは大なり小なり誤解なのかも知れない。

それでも作品は時代を超えて残り、我々はそこに隠された真実の美をどこかで直感するからこそ、それを愛し、賞讃し続けて来た。

ディエゴ・ヴェラスケスの『ラス・メニーナス』(1656年)は、スペイン国立プラド美術館の至宝中の至宝にして、西洋絵画の最高峰と謳われる。

美術史のなかで数多くの画家がヴェラスケスを称して「画家のなかの画家」と呼び、その最高傑作と多くの人が認め、愛し、崇敬して来た一枚は、今プラドの二階中央の諸王の間の、入り口から見て真っ正面に飾られている。


一見、宮廷のなにげない日常を切り取ったかに見える絵だ。

スペイン・ハプスブルク王朝フェリペ4世の幼い王女マルガリータを中心に、この少女に仕える侍女達が囲む光景、この侍女達が題名の由来だ。マルガリータはおしゃまなポーズをとっているが、彼女の左右からかしずくようにかがみ込む二人の侍女と、画面左の画家がこちらを見ていることに、いかにも日常の、さりげない一瞬を捉えたという趣きがある。


画面奥の暗がりには開けられたドアから光が入り込み、今にも部屋を去ろうとしつつ振り返る人物が、その捉えられた一瞬が過ぎ去り行くものであることを暗示し、現在のこの平穏な調和がはなかいものであることと、時間の永続性を見る者に想起させる。

なにげない一瞬だからこそ刻み込まれる、人の現実のはかなさと、時間の永遠。画面中央に立つあまりにも愛くるしい王女マルガリータも、その兄の王太子カルロスも夭逝し、スペイン・ハプスブルク王家の「青い血」がこの後まもなく途絶える歴史を知る者であれば一層のこと、ここに捉えられた調和の瞬間の貴重さに、想いを馳せるかも知れない。

だが実はこの絵には、遠近法を完璧にマスターしたヴェラスケスの大仕掛けが組み込まれていることはよく知られており、故に遠近法という西洋絵画の根幹をなすテクニックの最高の完成例とも言われる。

画面奥中央、遠近法の視線が収斂する先の焦点には、鏡のなかにおぼろげな男女の姿が見える。国王でマルガリータの父フェリペと、その王妃だ。

つまりヴェラスケスは鏡を用いることで遠近法をひっくり返しているのであり、この絵画全体を見渡す眼差しとは他ならぬ、その鏡に映る国王夫妻となる。

ディエゴ・ヴェラスケスはスペインのハプスブルク王朝フェリペ4世に仕えた宮廷画家であり、同時にその宮内長官にまで登り詰めた宮廷官僚でもあった。

絶対王朝の君主に仕える宮廷画家の最高傑作は、その絵画の切り取った世界を見る目を、国王の視線に一致させることで、その君主に仕える絵画表現の最高峰を産み出した、これはまさに絶対君主の見ている宮廷の風景なのだ、というのがこれまでもっとも流布して来た解釈である。

カトリック君主の絶対王朝の時代であればまだともかく、18世紀以降の、啓蒙主義も経て、革命の時代があり、民主主義ともなれば、ヴェラスケスのこの完璧に美しい作品のテーマはしかし、えらく時代錯誤に古くさいどころか、間違ったもの、今さら誉めるものでもないようにも思えて来る。

それでも19世紀以降の多くの芸術家たちは、この絶対君主に仕える芸術の最高の絵画表現であるはずのこの絵に深く感動し、賛美を惜しむことはなく、王の絶対性に奉仕したように解釈されるこの宮廷画家こそが、「画家のなかの画家」の賛辞を一身に集めて来た。

わけても同じスペインの20世紀が産んだ天才パブロ・ピカソは『ラス・メニーナス』を崇拝し、原画が描かれた301年後の1957年に、何枚ものヴァリエーションを連作することでオマージュを捧げている。



そのピカソ版の『ラス・メニーナス』の多くで、画面左の画家の姿が遥かに大きく、誇張されて描かれている。


これはピカソが、絶対王権の時代に王こそが全て、描かれた空間の支配者であるこの光景を見ている目であることを覆し、芸術家こそが主人なのだというメッセージを描き込んだのだと、通常は解釈されて来た。

ヴェラスケスは優れた画家であり、その技術と才能は「画家のなかの画家」と呼ぶにふさわしい。

だが彼はあくまで宮廷社会の、王に従属することに誇りを持った絵描きであり、近代の自立した芸術家ではない、と『ラス・メニーナス』は解釈されて来た。

だからこそピカソは、現代の、権力から独立した芸術家として、その権力構造を覆し、画家の優位を高らかに宣言したのだ、と。


しかし、ピカソは本当にヴェラスケスの描いた絵の主題をひっくり返したのだろうか?

一見、完璧な遠近法を表現したかに見える『ラス・メニーナス』は、一カ所だけそれが狂っている。他ならぬ画面左の画家、ヴェラスケス自身の前に置かれたカンバスが不自然に大きく、よく見ると絵筆を持った手との位置関係もおかしい。
  • プラド美術館公式サイトより 高解像度画像の『ラス・メニーナス』はこちら
光線と陰影もデリケートに計算され、柔らかな光が背景の暗がりにおぼろげに溶け込む表現から、ヴェラスケスが空間遠近法だけでなく空気遠近法の卓抜した技巧をこの一作に駆使していることが分かる。だが、カンバスの縁だけは、どこから入って来たのか分からない光で、極端に光輝いている。

画家自身の体のサイズこそ普通であるものの、ピカソは決してヴェラスケスのやったことを覆したのではなかった。むしろ本能的にヴェラスケスがこの絵で画家である自分自身を誇張していることを見抜き、その効果をピカソ一流のやり方で増幅させたのだ。


20世紀末以降のプラド美術館の綿密な調査で、『ラス・メニーナス』について今まで知られていなかった重要な事実が明らかになった。

ひとつはX線調査で、カンバスが当初はもっと普通の大きさで描かれていたこと、そしてより重要な発見は、ヴェラスケスが当初、自分を横顔の、カンバスに向かい絵筆をふるうその瞬間に描いていたことだった。

当たり前のことなのに先入観で気づかない、ということは世の中しばしばある。美術史はこれが絶対王政の時代の宮廷画家の作品であるのだから、ヴェラスケスの遠近法を完璧にマスターした技巧を駆使した大仕掛けを、フェリペ4世の視点を表現するためだったと思い込んで来た。

だがよく考えてみれば、これは宮廷生活のなにげない一瞬に時間の永続性を捉えた絵ではない。絵筆を持ちカンバスの前に立つ画家の前に、王夫妻がいる。ということは、これは王夫妻の肖像を描く画家の仕事の一瞬を捉えた絵なのだ。

一見、絵の主役に見える王女マルガリータは、実は肖像のためにポーズをとる王夫妻の目の前にいる。恐らくは、王夫妻の表情から柔和な自然さ、やさしさを引き出すために、画家の意向で両親の前に立たされているのだ。

つまりこれは画家ヴェラスケスの仕事中の姿を映す自画像なのであり、このシチュエーションのすべてが画家の仕事にこそ奉仕するためにあるだけではない。画家が自分自身を描いているということは、絵の視点は王夫妻のそれではなく、その位置に画家が自分を含む群像を見る鏡が、想定されなければならない。絶対君主の視線に一致させられているのは、画家自身のまなざしなのだ。

そしてヴェラスケスは一見さりげないが、その実計算され尽くした技巧を用いて自分のカンバス、つまり芸術家としての自分のすべてを表現する物体だけを、遠近法を狂わせることで存在を強調し、それだけでもなにかが足りないと思い、横顔ではなく、画面に正対する正面像として自分を描き直した。

黒衣の画家を目立たせる胸の赤い十字も、後から描き加えられていた。

では『ラス・メニーナス』が本当はなにを描いた絵だったのか。その解釈を決定づける新たな事実も、詳細な文献調査から次第に明らかになった。

『鍵、あるいはブレダの降伏』(1635年) 
画面右端でこちらを見ているのがヴェラスケス

従来、ヴェラスケスはセビリア出身で、若くしてその才能をフェリペ4世に見込まれ、ヨーロッパ各地に留学して様々な絵画の流派や技巧をマスターし、またその信頼の篤さから貴族に列っせられ、その宮廷の運営を監督する重責も任せられたこと以外は、その生涯はほとんど謎であった。

だがそこには、まったく意外な事実が隠されていた。ヴェラスケスの父はユダヤ人の職人であった。

イベリア半島からイスラム教徒を追い出したレコンキスタを経てカトリックの信仰が強要された時代である。ユダヤ人には亡命・移住するか、転向するか、異端審問の末処刑されるかの選択肢しかなかった。そしてヴェラスケスの一家は転向し、セビリアに残った。

つまりディエゴ・ヴェラスケスは当時のスペインでもっとも差別される階層、転向ユダヤ人の息子だった。

差別は神の意思に基づくものとされ、それと戦うことなど考えられない時代である。「豚」との蔑称で呼ばれた転向ユダヤ人が本来宮廷画家になることなぞあり得ず、まして貴族になるなんて考えられもしない。だがヴェラスケスは画家として、その大出世を実現した。

ヴェラスケスが『ラス・メニーナス』に最後に描き足したと思われる胸の赤い十字は、当時貴族だけが入隊を許されたカトリックの騎士団の紋章である。それは彼が出自を隠して登り詰めた地位の高さを誇らしげに伝えると同時に、差別と戦うことすら許されなかった時代にカトリックに屈服するしかなかったユダヤ人の、屈辱の刻印でもある。

1626〜28頃 若きフェリペ4世

フェリペ4世が、寵愛した服臣であり、その才能を愛し投資も惜しまなかった(ヴェラスケスのヨーロッパ各地への留学は、王が私財を投じて面倒をみたものだ)画家の正体を知っていたかどうかは分からない。

だがひとつ確かなのは、王は画家が自分の一族を美化した肖像を必ずしも描くわけではないことを承知の上で、中年以降の老醜が始まった顔を描くことも素直に受け入れたし、ヴェラスケスが宮廷に仕える矮人や、王子の遊び相手の白痴の少年、台所で働く黒人女中を、王一家を描く時以上の真摯な眼差しで描くことに、この画家の類い稀なる才能の発露を評価していたことだ。

1656年のフェリペ4世

ヴェラスケスの出自が、差別される転向ユダヤ人であったこと、彼がその出自を隠し、自身の才能の力でこの地位に辿り着いたこと、その事実が分かったとき、初めてこうしたその一連の作品の意味と、彼がなぜ「画家のなかの画家」と賞讃されるのか、なぜ一見宮廷の日常を描いただけに見えた『ラス・メニーナス』がこれほどの傑作、西洋絵画の最高峰になったのかが見えて来る。

矮人ながら一等書記官となったディエゴ・アセード、通称イル・プリーモ(1635年)
王太子の遊び相手、白痴の少年フランチェスコ・レスカーノ(1640年)
『ラス・メニーナス』部分

それはピカソも、彼を「画家のなかの画家」と尊敬した後代の画家たちも、誰も知らなかった事実のはずだ。それでもピカソは、その作品に描かれていたものを詳細に研究し尽くした結果、本能的にその本質を察知して、オマージュを捧げていたのである。

『ラス・メニーナス』は画家である、芸術家であることにのみ、自分が何者であるのかの答えを見いだした転向ユダヤ人の、芸術の世界のなかだけでは自分も王も矮人たちも、すべてが平等であり対等であることが出来たことを伝える、慎ましくも誇らしい自画像であり、画家とは、芸術家であるとは何者であるのかを描き切ったが故に、だからこそ絵画のなかの絵画なのだ。

ヴェラスケスが10代の末か20歳前後に描いた『台所の風景』
(1620-22年頃、シカゴ・アート・インスティテュート蔵)

その画家の秘密を、美術史のなかで誰も知らなかった。

だからこの絵が本当はどんな瞬間を描いたものであったかすら、分からなかったはずだ。それでも『ラス・メニーナス』は絵画のなかの絵画、画家のなかの画家の代表作であることだけは、誰もが認める事実として明らかだったのである。

若きヴェラスケスを代表する傑作がプラド美術館にある。『酔っ払いたち、あるいはバッカスの勝利』(1628-29年)だ。


バッカスはギリシャ神話の酒と享楽の神である。

だがヴェラスケスがその酒宴を描くとき、神とその従者はなまめかしい官能的な青年の姿となり、それ以上に見る者の目を惹き付けるのは、あたかもその二人の裸の青年に奉仕させるかのように、画面の中央に陣取り、豪快で野卑な微笑みでこちらに顔を向ける、名もなき百姓たちの迫力だ。


やはりプラド美術館の所蔵するヴェラスケスの、『ラス・メニーナス』の翌年の、晩年の傑作とされる『糸紡ぎの女たち』(1657年)は永年、実はヴェラスケスが描いたのではない形で伝えられて来て、何が描かれているのかも誤解されてきた。

この下の画像がこれまで知られて来た、加筆された『糸紡ぎの女たち』だ。上部のアーチが付け足され、左右の幅も広げられた画面では、ギリシャ神話で運命の糸をつむぐ三人の女神を、神殿の入り口に描いたものだと解釈され、ヴェラスケスの革新性は、せいぜいがその女神を美しい裸身ではなく、名もない庶民の職人階級の女たちとして描いたことだと思われて来た。


これも修復作業で上部と左右の加筆部分を取り除いた結果、斬新な構図を持った、まったく異なった絵であることが分かった。

そしてこの大胆に切り詰めた構図が表しているものも、自ずからまったく異なって来る。

神殿の内陣に見えた画面奥の、向こうの部屋に描かれたつづれ織りの図柄は、ヴェネチア派の巨匠ティツィアーノの『エウロパの陵辱』である。スペイン王室はルーベンスによるこの模写を永年所有しており、ヴェラスケスが参考にしたのはこちらだとも言われている。

ルーベンス(ティツィアーノの原画による)『エウロパの陵辱』

なおエウロパは、ヨーロッパの語源である。これはギリシャ神話でエウロパという王女が最高神ゼウスに犯され、後に王となる英雄を身ごもったことを描く絵だ。だが『糸紡ぎの女たち』をそうした神話に基づいて解釈することは、ヴェラスケスの本来描いた構図ではあまり意味がなさそうだ。

むしろこの絵では、『エウロパの略奪』はつづれ織り、タペストリーに変換されている。そして絵の主役は(従来の加筆部分を含めた場合の、壮麗な神殿ではなく)画面前の職人の女たち。画面奥の空間は神殿の内陣ではなく、ルーベンスやティツィアーノを模したタペストリーの飾られた貴族か富裕層の屋敷、あるいは宮廷だろう。

ヴェラスケスが描いたのは、ティツィアーノやルーベンスへのオマージュでは恐らくない。オマージュを捧げられているのは、その日々の積み重ねがいずれこの奥に飾られたタペストリーに至るのであろう、糸を紡ぎそれを織る女たちの仕事なのだ。

まったく異なった物語が、『糸紡ぎの女たち』の修復によって浮かび上がる。

薄暗い部屋で仕事にはげむ女たちの努力が、やがて華やかな屋敷か宮廷に飾られるタペストリーとなる、これはそれが作られるプロセスを一枚のカンバスに封じ込めた、時間の経過と永続性の絵画だ。そしてヴェラスケスにとって本当に大事だったのは、光にあふれ華やかなタペストリーでも、豪華で権力好みの、裸婦像を中心としたルーベンス的な神話的絵画でもない。

光のなかではなく手前の薄闇のなかで、日々の仕事をこつこつとこなす、名もなき女たち。そこにこそ晩年の画家は、それこそが自分の仕事、自分が自分であることの真実である、創造の神話を見いだしたのだ。

矮人のセバスチャン・ダ・モラ(1646年)

差別と戦うことすら許されもしなかった、多くの人にとっては考えることすらなかった時代に、転向ユダヤ人である出自、民族アイデンティティを隠し、棄てることでしか、自分が自分であることが出来なかった、しかしだからこそ誇らしく画家のなかの画家としての自分を獲得した天才が、晩年に見いだした真実が、ここにある。

これもまた、それは今まで決して語られることもなく、後代の加筆によって隠されていた真実であり、ヴェラスケスの秘密であり、謎である。

10/11/2013

京都朝鮮初級学校と京都朝鮮学園の全ての生徒さんへ


京都朝鮮初級学校と京都朝鮮学園の全ての生徒のみなさん、

10月7日の京都地裁での勝訴の判決
でみなさんが勝ち取ったことは、決してただの「日本の裁判所の判断」ではありません。人種差別が公共の福祉に反するのは当たり前、これは人間という生きものと社会の普遍的な正義なのですから。

これまで僕たちの国が「正義」でなかったのです。


僕たちの国は、京都朝鮮初級学校と京都朝鮮学園の全ての生徒さんのおかげで、忘れてかけていた本当に大切なことを学ぶことが出来ました。

残念ながら僕たちのこの国が、みなさんのお父さんお母さん、おじいさんおばあさん、ひいおじいさん、ひいおばあさんを苦しめてしまった過去を、あらためてお詫びするとともに、皆さんにありがとう、と言わせて下さい。

これからも辛いことはあるでしょう。在特会とかいう変なオジさんたちだけがみなさんを苦しめているのではない。もっと多くの人が白い目であなた達を見ていることも、あなた達は感じてるでしょう。

でもそれはあの変なオジさんたちが間違っているのと同様、その人たちが、僕たちの国が間違っているのです。

京都朝鮮初級学校と京都朝鮮学園の全ての生徒の皆さんは、みなさんの学校で学ぶ権利があります。

それは誰にも犯すことができない権利、Right、正義です。

それはみなさんが日本で生まれた朝鮮民族として育つ、勉強すべきことを学ぶ権利です。

後ろめたいことはなにもないのです。

確かに、まだまだ間違った人たちがこの国にはいます。偉いはずの人たちのなかにも混じっています。

みなさんのこれからもまた、闘いだらけの人生になるかも知れません。でも、堂々と生きて下さい。

僕たちの国の誤った歴史がある以上、僕たちはみなさんに「日本のために」なんて言う権利はありません。

ただみなさん自身のために、立派な大人、日本で生まれた朝鮮民族として自分に恥じない大人になれるよう、頑張って下さいと言うだけです。

そうやってみなさんが堂々とした在日に育つことが、結果として日本のためにもなるのです。なぜなら、そのみなさんの姿から、僕たちの国はもっと学ぶべきことがあるからです。

京都朝鮮初級学校と京都朝鮮学園の全ての生徒のみなさんの「祖国」とされる国のことで、この国の僕たちに気兼ねすることも、あるかも知れません。

ですがその皆さんの「祖国」とされる国のことは、まず誰よりもその国の人が決めること、選ぶこと、そして皆さんが大人になってその国とどうつき合うのかも、みなさんが自由に、自分の意思で選ぶことです。決してその選択に、僕たち日本人への気兼ねや、「日本人がこう言うから」を混ぜないで下さい。

なぜならそんな必要はないし、僕たちが口を挟むことでもない、そんな資格はないからです。

あくまでみなさんの国、その国の人たちの国なのですから。

あるいは日本に生まれた朝鮮民族として、「国」にこだわらないで生きる自由もみなさんにはあることも、忘れないで下さい。国籍なんてそんな程度のものでもある。大事なのは「どの国に属するのか」ではなく、「みなさんが何者であるのか」なのですから。

強く生きて下さい。喧嘩に強いとか、弱いものを従える強さではなく、自分は何者であるのかを探し、貫き、守り通すこと、それだけが本当の強さなのです。

みなさんが日本に生まれた朝鮮民族として生きるには、僕たちが想像もできない辛さもたくさんあるかも知れません。あまりに不公平だとおもうこともあるでしょう。

でもその人生は、皆さんの一人一人しか生きられない人生、みなさんの存在自体がかげえのない、唯一無二のものです。そしてそれをちゃんと生きれば、大変な闘いもあればこそ、そのぶんだけ、より強く生きられるチャンスが、みなさんには常に与えられているのです。

だから強く生きて下さい。みなさんは決して「弱者」ではないのですから

10/10/2013

「ヘイトスピーチ」の連呼は、世論捏造の欺瞞でしかない


京都朝鮮学園の初級学校、つまり在日朝鮮人の民族教育の小学校に対する差別いやがらせの街宣行為と名誉毀損に対し、京都地裁が街宣行為の禁止と1260万円の損害賠償を命じた。


「素晴らしい判決」だとか喜ぶ気はしない。まったくの当たり前の判断がやっと出て、ほっとするだけだ。と同時に、4年間我慢して忍耐強く戦った京都朝鮮学園の皆さんの強さに敬服する。

そして、この判決を「在日特権を許さない市民の会」なるバカ共が裁かれただけだとは、絶対に思ってはならない

インターネット普及の悪しき副産物でこんな良心のタガの外れた恥知らずなバカ共が出て来たはるか以前から、朝鮮学校はずっと差別を受けて来た。

そこで学ぶ子どもたちは戦後史を通じて恒常的に白い目で見られ、ここ10数年は拉致問題や北朝鮮のミサイル開発が大きく報道される度に、制服のチマチョゴリの着用すら命がけだった。

京都朝鮮学園の子どもたちや卒業生が耐えて来たのは、「在日特権を許さない市民の会」相手だけでは決してないことを、僕たちは絶対に忘れてはいけない

そんな我が国の、この差別する社会の愚かしさに、やっと「人種差別に公共性などあるはずがない」という当たり前の判決が下された。

裁かれたのは、私たちの社会とその歴史そのもの、問われたのは私たちの良心だ。

そして今後問われるのは、この判決を受けて、京都朝鮮学園の子どもたちが、今後は怖い思いもせず、後ろめたさを押し付けられることもなく、日本人相手に常に配慮しなければという思い込みを刷り込まれたりせず、日本に生まれた朝鮮民族として学び続けることが出来るかどうか、その子どもたちの学ぶ権利を、僕たちの社会がちゃんと守れるかどうかだ。

ところで、今回の判決はあくまで4年前の街宣行為に対するものなのに、なぜか報道では、判決文にその言及が皆無の「ヘイトスピーチ」という最近の流行語が繰り返された。それもまだ定着しない語彙という認識もあるのか、「ヘイトスピーチ」の解説までおまけでついてくる始末だ。

ところが判決文にだって、「ヘイトスピーチ」なんて言及はない。判決の対象となった4年以上前の街宣行為の時点では、Hate Speech や Hate Crime というアメリカの差別反対運動が産んだ概念なんて、そのアメリカの影響が強いLBGTの界隈くらいでしか通用していなかったのに、あまりに不自然な報道だ。


LBGT、つまりレズビアン、バイセクシャル、ゲイおよびトランスジェンダー、つまり性的マイノリティ。
つまりはゲイがいわゆるハッテン公園だとかで襲われるのが「ヘイト・クライム」だと、海外事情に敏感なゲイのあいだとかだけでは、20年くらい前からずっと流通してた言葉、ってことです。


わざわざ見出しに「ヘイトスピーチ」を使いながら、その語彙の解説をわざわざ付記する必要があるという不自然どころか不条理で意味が分からない報道が、そんな必要なまったくない、単に人種差別、より具体的には在日朝鮮韓国人への差別と書けばいいことなのに繰り返されるのは、あまりに珍妙だ。それもこの全マスコミ金太郎飴状態となれば、操作されているのは明らかだ。

だいたい4年前の事件なのに、それについて最近ネットのなかでだけ唐突に流行っている最新の流行語を使うのは変だ。裁判報道の基本に反し、法論理の基本を倒錯している。


「『ヘイトスピーチ』は人種差別」という呆れた見出しまであった。 
京都新聞の見出しは、現在は修正されている。 しかし朝日新聞は意味が分かってない恥ずかしい見出しのまんまですよ。
いやだから、差別扇動の発言だから「ヘイトスピーチ」って言うんですよ。もうお話が完全にひっくり返っとるがな。


ところが判決翌日には、社説やコラムで「ヘイトスピーチは許さない」オンパレードである。前日には用語解説が必要なほどなじみのない言葉だったのにね。

一方で被害者であり勝訴した京都朝鮮学園が在日朝鮮人の朝鮮学校であることすら明言されず、朝鮮学校がいまも高校無償化から外されていることなどの差別政策に言及があるはずもなく(官邸記者会見では誰も菅官房長官に質問せず、毎日新聞だけが翌日朝刊で言及)、かつてのチマチョゴリ切り裂き事件など、在日や朝鮮民族に対する差別の歴史はまるで無視、下手すれば在日の「ざ」の字すら出したくない雰囲気だ

被告が「在日特権を許さない市民の会」なのに、肝腎の被告であり加害者についての解説がないのもあまりにも不自然だ。「在日」への言及を極力避けてるとしか思えない。

とりわけ不自然なのが、NHKの7時のニュースと9時の看板ニュース番組「ニュース9」だ

ちなみに世界中の外交当局の日本を担当する部署や、国際企業、海外企業の日本との取引の担当者、市場関係者、日本のことを報じる報道関係者などは、この2つのニュースのどちらかは必ず見ている。NHK-BSがアメリカのABCの夜のニュースを放映するのと同じことだ。

さてNHKの報道だが、その「在日特権を許さない市民の会」(以下「在特会」)が今年の初夏くらいから始めた、新大久保や大阪の鶴橋などでの「反韓デモ」なるものの映像を流し、なのに「在日特権を許さない市民の会」という名称はたった一回、さすがに被告名を出さなければ報道が成立しないから仕方なく、だけである。


今年初夏からの「反韓デモ」は、もちろん今回の判決の対象ではない。それを「参考映像」の断りもなく用いるのは完全に報道のルールに違反する。しかもそんな映像を用いながら、「在特会」がどんな団体なのかの説明はなにもない。

この露骨ないやがらせをデモと称してやるのは最近の事象で、この団体は小沢一郎の訴追を検察審査会に要請したことで悪名高い集団であり、ネット上では10年くらい前から有名だったはずだ。

なのにNHKは以前にも、9月22日のニュースではこの団体…とは決して言わないのがまた姑息なのだが、こうした「ヘイトスピーチ」が出て来たのは最近の韓国の対日政策(たとえば福一事故の汚染水問題が顕在化し、韓国が水産物の禁輸処置に踏み切ったこと)が原因であるかのような虚偽歪曲を、報道をしている

この報道のおかしさに関しては、以前にもこのブログで触れた→ http://toshifujiwara.blogspot.jp/2013/10/dna.html 

僕たち日本人で一定の世代より上であれば、NHKの報道が不自然どころか当たり前にまったくの嘘であるものだから、つい「変な報道だ」と思うだけで、逆にNHKがわざと嘘をついたことにすら、うっかりすると気がつかないかも知れない。

だが日本の近代史における朝鮮民族との関わりを知らない若い世代や、あるいは外国人がNHKの報道を見たらどうなるのか?

これだけしか見なければ、あたかも…

…韓国や北朝鮮がいかにも「反日的な」政策を進めるので、それに我慢出来なくなった「被害者」の日本人の一部が怒って「ヘイトスピーチ」なる新たな差別を始めたが、しかし「韓国や北朝鮮がどんなに理不尽でも←だいたいこれがまったくの嘘)」、日本人の大半はそうしたごく少数の差別を許さず、司法もちゃんと対処し、政府を代表して官房長官も苦言を呈した…

…と言う物語にしか見えなくなる。むろんまったくのフィクション、無論ただの捏造なのだが。

僕らならば朝鮮学校が差別され続けて来た苦難が「在特会」とやらに始まったことではなく、朝鮮人への差別がずーっと日本で続いて来たことも知っているし、朝鮮学校とその子どもたちが差別の標的とされて来たことにも怒ったり憂慮して来た。

なぜ在日コリアンがここにいるのかも、日本の植民地侵略も、たとえば関東大震災で朝鮮人虐殺事件があったことも、つまりは100年以上続いて来た差別の歴史があったことも、知っている。

「ヘイトスピーチ」が今社会問題なのではない。戦後ずっと、いや戦前に日本が朝鮮半島を保護国にし、植民地として併合して以来、朝鮮人差別は社会問題であり、この社会の病なのだ。

だが、なにしろNHKだけでなく他の報道機関も、朝鮮学校や在日朝鮮人への差別の歴史も、ここ10余年とりわけ憂慮される拉致問題を利用した差別の正当化も、チマチョゴリ切り裂きなどのヘイト・クライムも、一切無視しているではないか。

これでは「ヘイトスピーチ」という目新しい差別が問題であるかのようにしか(背景知識となる常識がなければ)思われかねない


ちなみに「在特会」は警察の公安部の違法逮捕などにも協力して来ているし、反日教組で教育委員会などへの圧力団体でもある。最近では『はだしのゲン』が松江市の学校図書館から排除されそうになったのもこの団体の仕業だ。先述の通り最大の「大手柄」は、どうせ無罪は決まっている裁判でも、その無茶な訴追で小沢一郎を政治的に抹殺したことだ。
いろいろバレては困る後ろ暗い癒着があるから、警察や公安委員会は仕方なくデモを許可しているだけだ。本来なら警備の警官が、彼らの「デモ」での振る舞いに脅迫罪や威力業務妨害などが含まれる以上、現行犯逮捕すべきだし、違法性犯罪性を指摘し断るはずだ。
それにこと新大久保や鶴橋で徒党を組んで朝鮮韓国人を侮辱するなんて、警視庁や大阪府警では、ただでさえオウム事件以降公安部の無能に辟易している刑事部、とくに組織犯罪対策課は当然ながら猛反対する。みれば分かるように機動隊まで出動する異様な警備の厳重さは、そのためだ。


「在日特権を許さない市民の会」の差別示威行為は、7月初頭の日韓外相会談でも韓国側から批判され、対処が要請されている。

韓国側はこれでも手加減してくれた方で、「在日特権を許さない市民の会」が安倍政権の熱烈な支持団体でもあり、自民党右派とも密接な関わりがあるという、安倍氏のフェイスブック片山さつき氏のツイッターでも見れば即座に一目瞭然であることまでは、あえて言及しなかった。


だけど、もちろんバレバレですよ。ツイッターは登録すれば誰でも見られる。フェイスブックでも、安倍晋三氏は公開ページだ。 
外交当局者は当然、情報収集のためにチェックしている。


日本ではまったく報道されないことだが、野田政権以降、安倍晋三政権になって日本外交の立場はさらに悪化し、国際的孤立をますます深めている。

理由は簡単で、野田政権がみすみす尖閣諸島の領有権問題で大失敗をした上に、引き継いだ安倍政権が国際社会が許容するはずもない極右で差別的な歴史修正主義を主張しているからだ。さらに日本政府は日韓の領土問題でも、慰安婦などの歴史問題でも、不誠実さ丸出しの失策を繰り返し、憲法改正を口にして再武装と軍国主義化が露骨に警戒され、国連事務総長自らが警告を発するほどだ。

「レーダー照射」騒動は安全保障の基本すら理解しないただの恥さらしだったし、河野談話見直しを自民党や安倍が口にし撤回を余儀なくされたこと、橋下大阪市長の「慰安婦」暴言、麻生副総理の「ナチスに学ぼう」発言と、日本の立場は悪くなるばかりなのである。同盟国アメリカですら、大統領が安倍を嫌悪しきっていることを隠しすらしない。

もちろん安倍氏らの差別主義丸出しな歴史修正主義に国際社会で勝ち目があるはずもないどころか(そもそも、ただの歴史捏造で、つまりただの嘘だから)、日本の立場を悪くするだけだし、そうでなくとも日本の法制度が差別的であることは、国連人権委員会などから再三告発がなされている。


こと日韓外交は、安倍氏の失策の連続の上に、現韓国大統領のパク・クネの父パク・チョンヒが安倍の祖父・岸信介と親交が深かったことを過信した自惚れが完全な目論み外れで、韓国にやられっぱなしである。 
APEC首脳会合ではパク氏になんとか握手を求める安倍の無惨さと、余裕で冷酷に握手に応ずるパク氏の姿が際立った。


霞ヶ関としては、安倍政権がバカでどうしようもない、国益を損ねているとは分かっていても、さすがに安倍晋三は首相だし、自民党の選挙すら忘れて消費増税・法人減税やTPP参加などで完全に言いなりなのは便利なアホ政権なので、なんとか守らなければならない。

むしろ一発逆転で「差別を許さない日本」を演出したい

だから国連総会では安倍を説得して反核の平和主義で差別に反対する人道主義の演説までやらせたが、実践もなにも伴わないわけで、これくらいでは誰も信用してくれず、偽善とみなされ無視され反響もない。


いやだいたい、日本社会に在日や朝鮮民族への差別があることなんて、隠したって隠せるもんじゃないんだけど 
むしろそれでも日本を友好国とみなす韓国が、かなり気を遣って、最低限の言及しかしていないほどだ。


とにかく差別の問題に関して、日本はものすごくイメージが悪い国だし、しかも実際に差別が大好きとしか思えない、差別をさんざんやっている国であることを、国民は知らされていないか、下手すると自覚することを拒絶して逃げている人も少なくない。

ところが、そこへ京都地裁の判決であるとかが出てしまえば(官邸は地裁の判決日程くらい簡単に把握出来るし、「在特会」と安倍政権・自民右派の密接な関係からして気にしていて当然だ)、日本社会に厳然と在日や朝鮮民族への差別がある、それもずーっと続いていることがますますバレてしまうので、まことに都合が悪い。

だからこそ、あまりに不自然な「ヘイトスピーチ」連呼による歪曲報道が、全マスコミ金太郎飴状態で起ったのだろう。無論毎度おなじみ、官邸記者クラブを通した要請に記者クラブ会員社が応じたわけだ。


  • 日本の近代史を知らない、差別の歴史も知らない若者や外国人なら、新聞やNHKニュースだけ見れば日本が差別に反対する良心的な国であるかのように思うよう仕向けるために。
  • そして在日朝鮮韓国人への差別という日本社会に未だ蔓延するありふれた差別を無視したい、一部の偽善的市民におもねるために。
  • 言い換えれば、在日朝鮮韓国人差別が目新しい流行語で語られるものなぞではちっともなく、100年以上の歴史のある残酷で醜悪な代物であるのに、その歴史を歪曲捏造し、差別を隠蔽するために。


無論、バカげた浅知恵であることは言うまでもない

世界中の日本を担当する外交官やビジネスマン、市場関係者は、もちろんNHKの7時や9時のニュースを見て、五大紙の報道をフォローし社説もチェックしているが、無論それだけではない。

客観的な立場で日本の歴史だって踏まえている。そして日本が朝鮮民族を差別し続けている国であることは隠しようがないのだ。こんな浅知恵で付け焼き刃な騙しに、引っかかるわけがない。永田町内部的には安倍に「在特会」等との縁を切らせること以外では、せいぜいが韓国の現政権の、日韓関係を回復したいが故の温情にすがる口実くらいの効果しかない。


先代のイ・ミョンバク、今のパク・クネ政権を通じて、韓国政府はまったく「反日」などではない。韓国の政府としてこれ以上はさすがに妥協出来ない一線のところを、日本側が常に挑発して来ただけだ。それは韓国の国民の圧倒的多数でさえ同じこと、むしろ過去はともかく、基本的に極めて親日的な国だ。
むしろ左派政権、たとえば植民地時代でも日本の教育の充実などは率直に評価したキム・デジュンの方が、政策的には日本や米国と対立することも辞さなかった。 
なおキム氏は日本亡命中の自分がKCIAに拉致された事件ですら、日本政府がその手引きをしたことへの批判は控え、移送中のKCIAの船を自衛隊機が威嚇したことで自分が殺されずに済んだのだとを明かし、感謝すら述べていた。


むろんいかに官邸記者クラブや外務省記者クラブを通じた要請があろうが、「ヘイトスピーチ」がまったく耳慣れない用語であれば、マスコミ各社だって官邸の要請だろうが応ずるわけにはいかない。せいぜいが京都地裁判決を報じないことくらいしか出来ず、しかしそんな報道握りつぶしをやればますます、日本は差別を隠蔽し温存させる国だのとの悪印象は強まる。

そこで「ヘイトスピーチ」という言葉をある程度は浸透させておく必要があったわけだが、幸い(というか実はわざと、巧妙に演出されたことなのだろうが)ネットではかなり流行語になっていた。

例の「在日特権を許さない市民の会」の新大久保や大阪・鶴橋へのイヤガラセ犯罪行為に対してネット上、ツイッター等で呼びかけられた「カウンター」活動のおかげだ。


…というよりも、この「カウンター」を呼びかけた者たちの動きが、最初から極めて不自然であった理由が、この京都地裁の判決に関する報道で明らかになった、と言ってもいいだろう。
なぜ最初から「在日朝鮮韓国人への差別を許さない」という普通の言い方をわざわざ避け「ヘイトスピーチ」というなじみのない、ほとんどの人が意味すら知らなかった言葉を繰り返したのかが、ようやくよく分かった。


逆に言えば、結果から見ればこの「カウンター」を呼びかけた本当の最大の目的が、差別の歴史を隠蔽して誤摩化すために「ヘイトスピーチ」を流行語とすること、「在日への差別」ではなくあくまで「ヘイトスピーチ」に反対する市民運動を捏造することだったとしか思えない。

…と思ったら、なんのことはない、ご本尊がすでに自白しているではないか(汗)。
もちろんあなた自身がそんな「社会問題」を捏造しようとして来た、報道もあまりにもわざとらしい歪曲で、その捏造に協力しているだけ。 そんな言葉、今回突然紙面に踊るまで、ほとんどの人が知らなかった。
実際に社会問題としてあるのは昔からずっと、在日朝鮮人韓国人への差別である。あなたもまた拉致問題報道をめぐる歪んで差別的な報道でそれに加担した。「在特会」よりも遥かに深刻で、日本社会全体に蔓延しているヘイトスピーチだ。 
しかしさすがに新聞社のギリギリの良心で、用語解説を要すると判断されてるわけだから、まさに 「頭隠して尻隠さず」だ。 

この運動集団、とりわけ中心メンバーである「レイシストしばき隊」等や、有田芳生議員らの言動の不自然なまでの愚かしさが、彼らが単に愚かで無自覚な差別主義者だから、というだけではやはりなかったのだ。

ただ彼らが愚かなだけだったら、誰かが止めたり諌めたりしたはずだ。だがその愚かさを諌めたものは、逆に「カウンター」の面々の口汚い攻撃に晒され排除されて来た。論理も議論もへったくれもない、ただの暴虐な「いじめ」。なぜそんな醜態をネット上の公衆の面前で晒したのか、やっと納得が行く

最初から見せしめと排除が狙いだったのだろう。

彼らの愚かで無自覚な差別主義の言動の濫発は、むしろ意図的な排除のための必然だったのだ。


いやどうにもおかしいな、無自覚な差別性満載で差別的な暴言だらけ運動なので、呆れて避けて来たのだが、どうせなら覚悟を決めて参加しておけばよかった。 
内部に入ってたら、このカラクリにはとっくの昔に気づいて、内情も押さえて告発出来ただろうに、後悔先に立たず…。


在日朝鮮人韓国人であればまだ、やっと自分たちへの差別の暴力に反対してくれる日本人の大衆運動に過度に期待を寄せるのは分からないではないし、また「カウンター」の参加者らは、その彼らを当然のごとく自己正当化に利用して来た。

一方で、運動ではないものの個々人として常に在日朝鮮韓国人への差別に反対して来た、少なくとも憂慮して来た普通に良心的な日本人であるとか、この胡散臭さの偽善性を見抜く在日、あるいは既存の差別反対の運動体に入って来られては困るから、わざと排除するように仕向けたのだ。

まともな神経で在日への差別に反対するのなら、必然的にそれは歴史問題に結びつく。それを排除する「反差別」なんてあり得ない。



こと「仲良くしようぜ」と言ったスローガンの胡散臭さに納得出来ず、「レイシストしばき隊」が日の丸フェチであることに我慢がならない在日朝鮮韓国人を排除し攻撃するために、彼らが積極的にけしかけて利用したのは、他ならぬ自分たちの側に参加している在日である。これはさすがに許し難い。
なかでも急先鋒を切っていた在日の人物は、無自覚にこのように告白してしまった 。
絶句…。もはやなにをか言わんや。こうなるとあまりにも憐れでしかない。 
結局、歴史問題やこれまでの差別の問題で「レイシストしばき隊」を怒らせるのは「在日を血に染める」、その差別主義ナショナリストの暴力を誘発し「更に酷い惨事を招きかねない」という思い込み、いや刷り込まれた差別意識の根深さ… 
だから、自分たち在日の参加者にはそんな議論は出来ないと、当の最も積極的に参加しているように見える在日が思って来たわけだ。 
最初から、被差別者に刷り込まれた怯えを利用した差別主義の運動でしかなかったのである 
そして結果は、こうして惨めな奴隷在日、ペット在日、自ら自分達が受けて来た差別の歴史を隠蔽させられ、卑屈さに徹することを強要される人たちが出て来ただけだ。この醜悪な偽善のなにが「仲良くしようぜ」なのか?

真面目に「在日ウンチャラをナントヤラな市民の会」に対抗するなら、慰安婦問題への不誠実な対応という極めて差別的な外交も問題にすることになるし、拉致問題を利用した反朝鮮総聯・反朝鮮学校の差別プロパガンダには当然言及する(有田芳生議員も批判に晒される)し、8月になれば靖国問題も関わって来るし、もともとこの団体と密接な関係がある公安警察や、安倍政権は、徹底批判されることになる。

そもそも「在日ウンチャラをナントヤラな市民の会」それ自体なら、せいぜい数十人の動員力しか持たない。それが大きな社会的影響力を持つと言うのなら、それは彼らの大っぴらな発語(つまり「ヘイトスピーチ」)の問題ではなく、口には出さないが彼らにこっそり共感する日本人全般の問題であり、国の制度や社会のあり方自体が未だに差別だらけであることの問題だ。

だがその現実を直視することは、この「カウンター」を呼びかけた人たちにはあまりに不都合、というより裏で金を出し操作しているのであろう官邸か、あるいは外務省の、そもそもの意図と目的からすれば逆効果だ。

ほぼ確実に、その機密費で作られた運動だったのだろう。なにしろ、まず資金の動きがあまりに不自然だ。

草の根手弁当のはずがカンパ呼びかけもないのに、立派なウェブサイトも立ち上げ(無料のブログなどを利用するのではなく)、ツイッターでの発言量だけみてもほぼ専従の人間が「レイシストしばき隊」を中心に何人かいる。

このグループを中心として先月には「差別撤廃東京大行進」なるパレードまで開催され、この時もNHKニュースを中心に(それまで「在特会」も「カウンター」もほとんど報道されず、日韓外相会談で問題にされたことも無視して来たのに)いきなり大きく報道され、しかもこの時にはかなり金のかかったビラを「フライヤー」と称して街頭などで大量に配布…

…は出来ていなかった。受け取る人があまりにも少ない、というか僕もたまたま目撃し観察した際には、誰もいなかった。

つまり、まずこの運営資金はどこから出ているのだ? あくまで草の根の運動を装い、協賛や後援団体などはまったく出て来ず、なのにカンパの呼びかけもない。

どこぞの金持ちでもバックにいない限り、こんな資金を使途不明金に偽装して出せるところはそうないし、逆に良心的な寄付であるとか後援団体ならば、わざわざ隠す必要もないはずだ。むしろ名前を出してもらたいくらいだ。

そんな怪しげな資金の出所であれば、それで誰がいちばん利益を得るのかを考えるのがまず当然である。となるといちばん可能性が高いのは、こうして「カウンター」が「ヘイトスピーチ」という流行語を捏造することでいちばん利益を得る側が出す金、つまり官邸機密費か、外交機密費だろう。これならなんの苦もなく資金は出るし、足もつかない。

さらに妙なことに、たかが数十人の「在特会」に対してカウンターで集まるのは数百人が限度。なのに出版社が動き、その専従と目されるメンバーが本まで出版するという。およそ出版社の自力だけでは、採算ラインを突破できない部数しか期待出来そうにない内容の本なのに、版元は政治思想系の中小ではない。

まだ同和出身で「保守の立場からの反原発」を敢えて唱えた巧妙で狡猾なレトリックを用いて以前にもちょっとした話題を集めた人物が、トリッキーな保守論をぶちあげた一冊目なら、おもしろがる編集者もいるだろう。

だが先述のようなあからさまな世論操作で突然全マスコミが「ヘイトスピーチは許しません」と言い出し、その語彙が定着するかどうかも怪しい現状のなかで、「カウンター、しばき隊専従」と目されるなかでももっとも頭が悪そうな、乱暴で知性のかけらもない歴史修正主義すら唱える人物が「ヘイトスピーチ」を題名にした本って…こうなるとカネだけでなく、特殊なパイプのある人脈が動き圧力をかけていなければ、ありえない話だ。

つまり全マスコミ金太郎飴を演出したり、その演出が起ることを知らされていて、大手出版社にコネがある人脈だ。

「フライヤー」と称するビラや、関係者というか実質専従のスタッフが本を出版すること(彼らの生活費だってある)、そんなに出来はよくないが、プロでも三流くらいが作っていそうなウェブサイト、それに妙にカタカナや横文字を濫発すれば流行になると思っているセンスの悪さも含め、さらに大手マスコミや出版社との人脈となると、広告代理店的な俗っぽさがプンプン匂う。
大方、最近政府関連のウェブサイトのデザインや運営だけでなく、パブリック・コメントの仕切り、リサーチ業務などなどで、霞ヶ関が大口受注先となっている電通が、裏で関わっているのであろうことが、すぐ思いつく。
電通あたりがあまり使えないヒマな下請けの、出来の悪いデザイナーやフリー編集者あたりに金を握らせて仕掛けた「電通裏プロデュース」ではないのか、というのが僕のとりあえずの推測だ。 
そして金の出所つまり大元締め、つまりこのような官製市民運動を捏造させることでの最大の受益者は、首相官邸なのだから(バカだが言いなりで便利な安倍を守り日本の外交的失墜を挽回出来る…と思い込んだだけ)、まず可能性がいちばん大きいのが、官邸機密費、となる。



もちろんこんな後ろ暗い欺瞞の、権力側のご都合主義に奉仕するだけの、官製市民運動の捏造のカラクリに関わったのは、「レイシストしばき隊」の一部などごくごく少数の主導メンバーだけに決まっている。圧倒的多数の参加者はなにも知らずに、ただ自分たちは正義の運動をやっている気になって、踊らされただけだし、もっと言えば中心メンバーの面々ですら、金は渡されてもそれがどこから出た資金なのか考えるほどの知能も持ち合わせていないかも知れない。

もっとも、踊らされただけの参加者にもあまり同情は出来ない。
ごくごく少数の主導メンバーに呆気なく扇動されて、「在特会」以上に身勝手極まりない独善で無自覚な差別発言をネット上で繰り返し、その主導メンバーの親衛隊気取りで、もはや「在特会」などはそっちのけで、差別に反対する批判者を攻撃する正義ごっこ、その実単なるいじめ騒ぎに耽溺したのも、多くの「騙された」一般参加者だ。
いや良心的な一般参加者が「おかしい」と言い出したら、ファナティックな攻撃で排除したのも、主導メンバーにそそのかされた珍妙で幼稚な偽善者でしかない、ただの正義ごっこの自己満足のための一般参加者たちである。
彼らの発言もまた無自覚な差別意識がしょっちゅう発露しているのに、主要メンバーたちは諌めようとも止めようともしない。かくして運動の評判はどんどん落ちる…なんでこんなことを、と思えば、わざと評判を落とすのが目的なら納得が行く。


さらに「差別撤廃東京大行進」と称するイベントでは、人種差別撤廃条約の履行が主張され、「カウンター」の主要メンバーと共通する主催者側などはそれ以前から同条約に基づく「ヘイトスピーチ規正法」の制定を口にしている

なぜ「ヘイトスピーチ禁止法」でないのか首を傾げるが、本当に同条約の定義に基づき、ドイツやカナダなどを参考にした刑事処罰を含む法律があれば、真っ先にお縄になるうちの一人が有田芳生議員であり、あるいは「レイシストしばき隊」の中心メンバーの何人かである。 
それが明らかに刑事罰を含む「禁止法」では、さすがに怖かったのか? 
まあ、こんなんじゃあさすがに、ねえ…?まさに定義通りのヘイトスピーチではないか。 
よくもこんな分かり易い差別憎悪の扇動発言を放置するものである。だからバカなのかと思ったら、まともな人間が呆れて離れることが狙いの、確信犯だったわけだ。 
しかしここまで分かり易いヘイトスピーチを書く人が、ヘイトスピーチ論を出版って…自己批判でもしてくれるんだろうか?


だが日本国憲法は「あらゆる検閲はこれを禁ずる」と明記している「ヘイトスピーチ規正法」は明らかに違憲になるし、同様の憲法を持つアメリカ合衆国などでは、合憲の国内法を正しく運用することと、世論の啓蒙や文化の力で、たとえ実際にはどれだけ人種差別がまだあろうとも、差別は絶対に許されないことだという社会的コンセンサスを作りだしている。

ちなみにフランス第五共和国憲法は検閲を禁じてはいないが、やはり「ヘイトスピーチ規正法」に類するものはない。 
人種差別は明らかな悪であり、そこから社会を守ることは国民の良心とフランス文化の伝統に任されている、という考え方だ。

議員だったら憲法を理解しているはずだ(それとも民主党ってそこまで劣化したの?)し、ならば「ヘイトスピーチ規正法」の制定は迂闊に口にしないはずだ。なにしろ違憲になりかねない。

それに少なくとも「在日ナントカをウンチャラな市民の会」なる、その実せいぜい数十人程度の動員力しかないネット上の幻影の、日頃のネット上の言動ならまだしも、新大久保や鶴橋での街宣行為だったら、現行法で充分に抑えることも現行犯逮捕も出来るむしろ警察の怠慢が問われるべきだし、刑法の脅迫罪の規定や名誉毀損罪に人種差別に関する既定を付記すれば、「ヘイトスピーチ規正法」は必要ない。

いや拉致問題を利用した差別流布の前科がある有田芳生議員や、上述の野間某、あるいはやはりこのパレードに参加した小池晃氏の属する共産党の同和差別を告発し、彼ら差別主義者を黙らせるなら、「ヘイトスピーチ規正法」は便利だと思うけどね。

国会議員までが主導するデモでは、これもあまりにも不自然だ。だがこの有田議員の場合、「拉致問題の解決には九条改正が必要」という青山某なるネオコン論客の発言にまで理解を示している。つまり改憲派なのだ。

これも「レイシストしばき隊」らが「在特会」以上に、まともで普通に差別に反対する一般市民や既存の反差別運動を排除した理由のひとつなのだろう。「ヘイトスピーチ規正法」を求める声が高まれば、「今の憲法は変えるべき」「自主憲法制定」という議論に、自民右派のトンデモ改憲論に警戒する中道や中道左派も、改憲に賛同するしかなくなるからだ。

つまり差別撤廃東京大行進のもうひとつの目的は、改憲論を世論に受け入れさせる素地を作ることだ

実に巧妙な世論誘導で、つくづく霞ヶ関というのは浅はかな割には大衆を騙すことに関してだけは相当な悪知恵を持った人々だと感心する。

もっと他にやることがあるだろうに…俺たちの税金だぜ?

それにしてもつくづく、日本人というのは…加藤泰監督の映画『男の顔は履歴書』の安藤昇の台詞ではないが…


「なんにでもすぐ流されますからね、日本人という奴は」


…である。



なお『男の顔は履歴書』は戦後まもなくの闇市で勃興する第三国人、つまり韓国朝鮮人・台湾人の組織と日本人との抗争を描くヤクザ映画の大問題作だが、加藤泰監督の優れた知性と傑出した人間洞察力の演出で、驚くことに差別性はまったくない。むしろ加藤泰とインテリ・ヤクザの安藤昇(安藤組組長)がこの映画で告発するのは、日本人の偽善的で暴虐な差別性がこのような対立を招いたことだ。


それにしたってあまりに安易に流され過ぎだろう、この決して「在日朝鮮韓国人が差別されて来たことに反対する」ではなく、あくまで「ヘイトスピーチはいけません」だけの連呼は。

だから決して忘れてはいけない、僕たちはもう、騙されても流されてもいけない

朝鮮学校の子どもたちを苦しめ、その父母、祖父母、曾祖父母をずっと苦しめて来て、京都地裁の判決で断罪されたのは、「在特会」の「ヘイトスピーチ」…ではなく差別的な街宣活動だけではない。「在特会」はここで直接処罰されるただの象徴、みせしめでしかない。

僕たち日本人の一人一人の心のなかに、決して大声で叫んで「ヘイトスピーチ」とみなされる発語はしないものの、「在特会」的なものは潜んではいないか?


  • チマチョゴリ姿の朝鮮学校の女生徒たちに、「外国人、たかが朝鮮人のくせに」と思ったことはないか?
  • 在日の人の率直な言葉に「朝鮮人が生意気な」と思ったりしたことはないか?
  • 「日本にいるんだから遠慮しろ」とか心の中で毒づいたことはないか?
  • 自分たちの国と民族の過去の誤りを指摘されただけで「反日だ。朝鮮人は俺たちを敵視してるんだ」と身勝手な憎悪を持ったりはしていないだろうか?
  • あるいはその過ちを指摘されるのを恐れ、彼らを対等の人間として扱わず、腫れ物の「弱者」としてつき合ってはいないか?
  • 逆に在日朝鮮韓国人にだって変な奴やわがまま身勝手、ひどい奴悪い奴だっている。それを「差別だ」と言いがかりをつけられることを恐れて「かわいそうな弱者なんだ、しょうがない」と思い優越感を覚えたことはないか?
  • 逆にそうやって「弱者」だから批判出来ない自分を棚に上げ、「特権だ、無批判の立場に立てるのはずるい」と嫉妬してはいないか?彼らが「弱者」だから批判できないことに、欲求不満を覚えていないか?
  • 在日の人との関わりにおいて、「お前は朝鮮人なんだから」と心のなかで思って、子分や二流市民扱いを、したことはないか?
  • だからこそ、「在特会」を叩きさえすれば、そんな心の奥底に押し込んで隠して来た、後ろ暗い自分の差別したい気持ちを免罪できると思って「ヘイトスピーチはやめろ」「このヘイト豚」などと街頭で叫びはしなかったか?


本当に裁かれたのは、これまで彼らをずっと差別して来た私たちの国であり、私たちの冷たく差別的な眼差しであり、私たちの社会の人間性の欠如、私たちの歴史と現在に至る誤りなのだ

京都朝鮮学園の子どもたちが、その誤りを僕たちに教えてくれた。京都地裁ではない、その子どもたちが、だ。

これまでその子どもたちとその父母、祖父母、曾祖父母をずっと苦しめて来た、あるいは彼らが苦しんでいることを無視して来たことを改めてお詫びすると同時に、僕たちは彼らに誠心誠意、「僕たちがいかに間違っていて醜い日本人だったのかに気づかせてくれて、本当にありがとう」と言わなければいけない。

在日朝鮮韓国人に「仲良くしようぜ」と僕たちが言えるのは、やっとそれから、僕らが彼らに仲良くしてもらえるだけの、醜くない日本人になってからだ。