大阪市長やり直し選挙は一応、橋下さんの一人勝ちだったが、大阪都構想は極めて難航している。
このこと自体はとても残念だ。大阪府全体にとって都構想がメリットが大きいだけでなく、大阪市にとっていささか乱暴にも見える現状改変の都構想であっても、最終的にはよい転換点になったはずだからだ。
だが都構想の本質がなんなのか自体すら、橋下さん自身がほとんど語っていないのは橋下さんにも責任の一端があるとしても、今までちゃんと言って来なかったことを言ってしまえば、橋下さんが市長を続けることすら不可能になるのかも知れない。
実のところ前回の選挙では圧倒的な支持で市長に当選させておきながら、大阪市民の大半は恐らく都構想を支持していないか、まず内容をよく分かっていないか、理解する気もないし、実は理解している人は既にこっそりと反対しているのではないだろうか?
いや本当は分かっているのに分かっていないふりをしているのか、本当にまるで分かっていないのか、実は分かっているのに分かっていること自体までも無意識の底に追いやって分かっていないフリをしていること自体についてすら無自覚であるのか、その区別も判然としないことこそが、まさに「ザッツ大阪」なのである。
いわば橋下さん独り舞台であったやり直し選挙が、わずか20%代の低投票率であったことも、無意識か無自覚にせよ、市民が実は都構想を毛嫌いしていることの反映なのかも知れない。
都構想の究極の目的、というより都構想もまたその手段に過ぎない橋下さんの本当の野心は恐らく、大阪と関西圏をここ何十年かの停滞から抜け出させ、日本の現状である東京一人勝ち・中央集権の経済構造を打破し、大阪をかつてそうであったように東京と並ぶ日本の二大経済中心として復権させるために、大阪の経済活動を活性化させ、経済を担えるだけの基礎体力や気力を回復させることなのだ。
明治から大正時代や昭和初期、大阪は人口が東京を上回っていた。絹が日本の主要輸出品だった時代に、日本の経済の中枢にあったのは船場の大問屋たちだった。江戸時代でも、江戸ではなく大阪こそが日本の経済の中心、日本の中心にあったのは言うまでもない。
だから東京一人勝ちはおかしい、というのは歴史的にも正しい認識だし、極度の中央集権よりも日本全体にとってもメリットがあるはずだ。
だが現状の大阪は違う。
東日本大震災では東京一極集中の脆弱さに気づく人も多く、企業のなかには大阪にも経営基盤を持とうとする、一時的には経営の中枢を大阪に移すことを考えた人も少なくない。だが起こっておかしくなかった(東京でそれを危惧する人も少なくなかった)この大移動は、結果としてまったく起こらなかった。理由は東京が実際にはそれほど被害を受けていなかったことでも、回復が思いのほか早かったからでもない。端的に言ってしまえば、大阪にその受け皿になる体力も体制もなかったからだ。
ぶっちゃけ、大阪に行ってみたら仕事がまるで進まなくなった、ということだったりもするわけで…。
いやまあ大阪万博が頂点であるよりは没落の始まりだった大阪の現状はそんなものであり、今の大阪はおよそ「商売人の町」でもないし、実利を重んじチャッカリしているわけでもいなく、むしろこれほど実利や商売の損得を考えられない人たちが経済を担っている都市も珍しいほどだとすら思う。
以前に橋下さんがぶち上げた、関空と梅田をリニアで結ぶ構想にしても、大阪と関西の経済圏の全体を考えれば、伊丹空港が廃止となることも受け入れられたはずだが、そうはならなかった。関空、伊丹、神戸と三つも空港があることがただ「無駄」だから整理すべきだった、というだけではない。伊丹に配慮して関空がその機能を発揮できないことが大阪がこのグローバル経済の時代に巨大経済都市として生き残る上で障害になり、大阪の東京への従属を固定化するからこそ、断行すべきだったのだ。
ちなみに新幹線が大阪駅に止まらないようになったことからして、大阪を実は経済都市としては没落させようという狙いだったような気もする。
結果、大阪は東海道山陽新幹線の東京や品川と並ぶターミナルという当然の地位を確保出来ぬまま、新大阪がただの停車駅になっている。
空の便に関しては、東京も決して便利な都市ではない。羽田空港の再国際化が今やどんどん進行しているのも、成田空港というかなり遠く不便で、その割に空港としての使い勝手も悪いところが玄関口であることが、香港や、インチョン国際空港を擁するソウルが国際ハブ空港としての機能を発展させていることに較べて、日本経済の凋落を危惧する要素にすらなっていたからだ。
その点、関空は最初からハブ空港化を視野に入れて設計されている(成田は当初計画の半分くらいしか実現出来ていないので滑走路が足りないし、ハブ運用は夜間離発着が出来ないので無理)。関空を当初の構想通りに完全に運用すること(伊丹と関空の一本化はその重要な一部)は、国際経済都市としての大阪を維持するには不可欠のことだったし、日本経済の基礎体力強化にも貢献したはずだ。
バブル以降の停滞20年超とはいえ、中国はともかく韓国に経済的に「抜かれる」ことを日本が危惧したりライバル視する理由はない。だいたい、国の大きさつまり市場規模がぜんぜん違うし、韓国経済は日本経済に大なり小なり依存しなければ維持出来ない。
そうは言っても国の安定した経済成長を政策的に支える選択について、韓国政府の方がここ10数年以上の日本よりも遥かに合理的で正しい選択をたいがいはやっていることは無視しない方がいい。
というよりも日本には「景気が悪い、景気が悪い」という強迫観念への行き当たりばったりの対処(たとえばアベノミクス)以外に、経済政策や、現状に見合った安定成長路線の政策判断がないのが問題なのだ。
それでもなんとか持っているのは、日本がそれだけ豊かな国で過去の遺産があり、日本政府も相当に資産を抱え、そんな危機的な財政難では実はないから、である。
その意味で、大阪市政と大阪経済の現状は、日本の縮図か極端化されたカリカチュアとも言える。
だからこそ橋下さんは伊丹の廃止も視野に入れて関空=梅田リニア構想をぶちあげた。
今ならバスで1時間かかるしそのバスが1時間に1本か2本しかない梅田=関空をリニアで結べば、今はいかに儲かっていようが伊丹=羽田便は意味がなくなる代わりに、海外からのビジネスマンの日本出張の相当な部分を大阪が担える体制になる。
まったく、羽田=伊丹便が繁盛しているのに伊丹を廃止する理由がない、と言い張る人たちはなんと「先のこと」も考えられず、現状認識すら木を見て森を見ずの保身の自己中心主義なのだろう?東京から大阪に来る乗客が伊丹に着くか関空に着くかだけの違いで、伊丹が羽田便で儲かるとはすなわち、大阪が東京に従属する都市であることに甘んじる現状の追認以外のなにものでもない。伊丹空港から行くままでは、国際ビジネスマンにとって大阪は、東京のついでに時間があったら程度のスタンスでしかなく、だから大阪が発祥の、本店や本社が大阪にある企業でも、実際の業務の中心は東京に置くしかなくなり、それでは大阪の経済産業はどんどん空洞化する。
「関空は不便」と言って伊丹廃止に反対したって、それは大阪市内と関空が直結されていないからだ。
逆に伊丹が便利なのは、ただ阪急電車が走っているからに過ぎない。リニア構想は実用化されていない技術なのだし大風呂敷広げ過ぎの打ち上げ花火スタントだったにしたって、なぜ梅田や天王寺か難波と関空が鉄道で直結していないのか、理解に苦しむ…ようなことでもない。それをやってしまったら伊丹空港の価値がなくなるから、わざと関空を不便にしているのだ。
あるいは伊丹を維持するなら維持するで、今度は比較的近いアジア圏、少なくとも韓国やとくに中国、それに台北やバンコクやマニラくらいは直行便を飛ばさないと意味がない。それもビジネスで常用できる程度の運行規模でないと、今度は国際ハブ空港化したインチョンや香港や上海、北京に、関空や成田、羽田が大阪の旅客を奪われるだけになる。
大阪が実利を重んじ損得勘定にぬかりのない商売人の町だなんていうのは、現代ではまったくの嘘っぱちだ。むしろ官僚的な既得権益に、それがジリ貧に向かうことを見て見ぬふりしてしがみつき、顧客のニーズへの対応も苦手な引きこもり体質、というのが実態に近い。
都構想はそんな現状の停滞を打破するひとつの手段であり、橋下徹さんが目指しているのは過去の繁栄を食いつぶしその栄光のプライドにすがりながら、現状をなにも変えられず、このままでは衰退するしかない大阪の力を取り戻すことだ。
都構想とはそのための荒療治であり、また府知事として橋下さんが実感したあまりにもの不自由を打破することでもあった。ぶっちゃけ、大阪府というのは財政難も含めてほとんどなにもできないのに規模だけは大きい自治体である。
なぜ大阪府には力がないのか?
これまでの府政にも責任がないわけではないが、最大の理由は構造的なものだ。大阪府内では、大阪市だけが一人勝ちにリッチな自治体であり、実質権力の大部分を府ではなく市が独占しているからだ。
これは大阪府内でも大きな不均衡を引き起こしている。
大阪市だけがお金が潤沢では、他の自治体の住民は貧乏クジを引かされた格好になる。もっとも、その他の市町村も大阪市のベッドタウン化しているわけで、それなりにリッチな大阪市の恩恵に多少は預かってもいるわけだが。
なにしろ腐っても鯛のかつては巨大経済中心で、日本の大企業は経営機能のほとんどが(国際競争に勝ち抜くために)東京中心で動いていても、大阪には名前だけ本店、名目上本社がまだたくさんある。実は大阪の産業経済とは現状ほとんど関係がなくとも、それは大阪市の税収には結びつく。
その上大阪市の不動産資産が、実はもの凄いらしい。正確なところは忘れたが(橋下氏の対抗候補たちはなぜそれを調べ上げて争点にしないのだろう?)下手すれば市全体の25%だか3割以上の経済産業立地が、実は大阪市の所有だったりする。
だからこそ大阪市はリッチで、無駄なハコモノでもどんどん建てられるだけではない。補助金で地元経済を廻している面ももの凄くあり、そして市役所がその巨大利権を握っているのである。そのすべては、大阪市民の目先の利益ともなり、その生活を維持するのにも貢献してはいるわけで、だから橋下さんも都構想の真の目的をおおっぴらに口には出来ないのだろう。
つまり都構想の本丸は、大阪市役所の持っている巨大利権と巨大権限を剥奪し、大阪市だけがリッチな現状を変えて大阪府全体で効率的におカネを使うことと、過去の遺産と補助金漬けの大阪の経済の実態を打破して、自立した経済的な体力を回復することにある。
市営地下鉄や市バスの経営体制を変える、といった橋下さんが打ち出している一見些細に見える改革案も、実はこの「大阪市がとにかくリッチな自治体で、その財源が大阪の経済のかなりの部分をなんとか廻している」という文脈で、本来は考えなければいけないし、逆にそう考えればこそ明瞭に意味が分かることなのだ。
少なくともそれらの市営交通の経理を明瞭にする効果はある、市が実は膨大な資産や財源を隠し持っていることの一端は見えて来るはずなのだ。
言い換えれば都構想の本音とは、「大阪市民は甘やかされて腑抜けにされているからこのままじゃダメだ」ということであり、「税金の無駄遣いでもなんでもいいからそれで経済が廻っているという現状はおかしいだろ」、だから「大阪市民がもう今までのように甘やかされず、大阪府全体で有効にお金を使うことが、大阪の経済活性化につながる」である。
だがこれを言ってしまえば、東京コンプレックスに苛まれる大阪市民のプライドはもの凄く傷つくし、実はかなり補助金で廻っている経済の、その補助金を直に貰っている層であるとかからは、確実に支持されない。
でも橋下さんが選挙キャッチフレーズで打ち出している「次世代のために」で考えれば、このままその温存の最優先で行けば、大阪は実は経済的に凋落するだけなんだから、目先は損するとしてもやった方がいい決断のはずではある、少なくとも本気で議論はすべきだ。
だが橋下さん自身が、そうした本当の争点を今度の選挙ですら打ち出せてはいない。これには維新という政党の問題もある––橋下さんと慎太郎以外は、恐らく本当の政策だとかなにも分かっていない人たちばかりに見える。
「維新」というウヨッキーな復古調の党名も含め、橋下さんや慎太郎が右翼を演じているのは、それがポピュリズムとして現代の日本政治でかなり有効だからに他ならない。その意味で橋下さんや慎太郎の国家主義や復古主義はかなりの部分、スタンドプレーであり演技だ。だが維新の他の議員や党員にとっては、安倍晋三ばりのペラペラな国家主義の装いが本気の本気で、子供じみた精神論以外の中身がなにもないのだから始末に負えない。
これは橋下さんや慎太郎本人の性格的な問題もあるのではあろうが、結果として側近やブレーン、補佐役として彼らを支える人材がいない、というか周囲にロクに能力がない人たちしかいない。
橋下さんが格闘しつつぜんぜん成果が上がらない大阪市政の場合は、市議会与党や野党より、もっと大きな問題や障害が他にある。まず市役所が、それこそ霞ヶ関も真っ青な「伏魔殿」だし、その巨大利権と巨大権限をそう簡単に手放すわけがない。
いや橋下さんにとってもっと困ったことは、本当の改革のポイントを選挙の争点にしても票にならないという大阪市とその市民全体の問題だろう。
この点でも大阪は日本の縮図か、凝縮されたカリカチュアになっている。国政ならば霞ヶ関、大阪市政なら中之島の市役所を中心とする建物群が本当の「敵」なのだ。
だが国民も市民も、肝心な時には選挙の結果よりもその官僚機構の方になびくよう、適度に飼いならされ、お役所には結局は絶対に逆らわない、逆らえないと思い込まされている。
実は大阪市はリッチである。だが表向きは日本でもっとも多数の生活保護支給を抱える自治体でもあり、だから「不正受給」の背後に在日コリアン団体やいわゆる同和団体の影響をあてこすりながら、「生活保護が市の財政を圧迫している!」とか言った方が、選挙には勝ててしまうのがこれまた「ザッツ大阪」だったりする。
なにしろ共産党まで支持者を維持し票を集めるスローガンが、「同和利権」なるフィクションを持ち出し部落解放同盟をネチネチとヘイトスピーチで攻撃することだったりするのが、大阪市政では当たり前の風景なのである。
いやそれは日本共産党だからこそ、という説もあることも念のため言っておきます。
その方が結構図星だと僕自身だって思っているし、そんなヘイトスピーチのデマ偏見流布での支持集めを延々とやって来た代々木のエラいさんが「反差別デモ」とかで先頭に立ったりするのはほとんど失笑ものの悪質な冗談である。
これは決して安易に言っていいことではないし、裏でこっそり口にする人の多くが極めて安直な偏見で、結果として完全に間違っている場合がほとんどだが、かと言って無視するのもまた差別的な偽善になりかねないこととして、橋下徹さんという政治家と、橋下さんがいわゆる同和、被差別部落民の出身であることは、やはり切っても切り離せない。
橋下さん個人の性格がどうこう、などの薄っぺらで偏見に満ちた決め付けをやりたいのではない。
むろん橋下さんが自分の実力で出世できる弁護士という資格商売を選んだこと、派手なスタンドプレーと大風呂敷に固執しがちな目立ちたがり屋である一方で、世間のうわべだけの偽善のタテマエを時にまるで無視して自爆しがちなことと、自力で上り詰めたエリートだからこその強烈な自信と負けず嫌い、人によっては傲慢と毛嫌いするプライドの激しさ、いずれもいわばその “最下層” 出身だからでもあるのだろう。
だが、それが橋下さんの「強さ」と強烈な上昇志向のベースにあるとしても、そうした強烈さや我の強さを持てない小市民的な付和雷同な人間が「あいつは同和だから」とか陰口を、というのは、さすがにちょっとウンザリ…
…と言っても、ぶっちゃけた話、こと大阪府知事、大阪市長としての橋下さんの毀誉褒貶の激しさに関しては、支持しているようで裏では陰口を叩く人も多い大阪方面の論理は、まさにこうした差別意識と成功者への嫉妬のない混ぜ以外のなにものでもない。
実を言えば橋下さんの出自のこと自体、僕は彼がまだ府知事であった頃に大阪で映画を撮り始めるまで、考えもしなかったのだが、「橋下」という名字自体が関西出身であればすぐ “ピンと来る” ものである。
いや言われてみればそうなのだけど、いくらなんでも法的にいわゆる「部落民」が平等扱いになってからもう140年、さすがに今さら、そんな差別をするのはごく一部の人だろうと、当初は無邪気にも思っていたのだ。
だが「あいつの出身は」云々を最初に聴かされたのは、彼が右派だから反対なのだろうと普通なら考えるようないわば左派リベラルの市民派というか、小川紳介や土本典昭、原一男の映画作りを大阪で積極応援して来たはずの人からだった(かと言って代々木系ではないので念のため。つまり大阪では左翼が差別の先棒を担ぐのは共産党に限ったことではない)。
だから橋下さんとその出自、つまり彼がいわゆる被差別部落出身でありながら、あの大阪で府知事になり市長をやっていることにおいて、結局はその出自の問題を切り離しては考えられないのは、橋下さん個人の人柄や性格に関する問題ではない。橋下さんが結局はそういう出自の人としか見られない、そうなってしまう危険性を橋下さん自身も無視出来ないことが、いちばん大きいのだ。
言い換えれば、それは橋下さんの育ちとか性格の問題よりも、橋下さんを見る市民・府民の側の(あくまで先述のような、「ザッツ大阪」的な意味での「無自覚」な)差別意識の問題だ。
そう思えば、橋下さんが極右ポーズをとることを選択したポピュリストであることには決して賛成も共感も出来ないものの、その選択をした動機も含め(同和出身で左派だったら、それこそ相手にされないのがバブル後の日本のポピュリズムだ)、橋下徹さんの「勇気」は認めざるを得ないし、その「勇気」とは大阪市民の特権的優位意識をあえてぶっ壊す都構想をぶちあげたことも含めてであることは、言うまでもない。
前市長の平松氏も本人は決して悪い人ではないのだろうが、平松市政が話題作りの人気とりでやったことの多くが、大阪の人には分かる(ただし先述の「ザッツ大阪」で、実は分かっていること自体分からないのか、分からないフリをしているのかよく分からないのが大阪である)「暗号化された同和いじめ」だった。
ちなみに平松さんと橋下さんの一騎打ちになった前回の市長選で、橋下さんの出自をあげつらったネガキャンが週刊誌で行われたのは、平松陣営が関わっているとしたら大阪が分かっていない部類の勇み足だろう。
実は差別が根深いからこそ、「橋下が市長になれないのは同和だからだ」と言わせることは絶対にやらないのも「ザッツ大阪」、その辺りは徹底して二枚舌というか、「差別している」と言われることは徹底して避ける。
釜ヶ崎の「浄化」計画を進めようとしたこと(ホームレスの人たちを新築した福祉住宅に入れる、と表向きは「よさそう」に見えること)、道頓堀のタコ焼き屋が市の土地で営業していたのを撤去させたこと、河川事務所が川や堀・運河に沈んでいた現金などをいわばネコババしていたことの告発、すべて「分かる人には分かる」こととして、いわば「暗黙の同和利権」と市民が実は理解して来たことをターゲットにしている。
橋下さんの代になって大っぴらに維新が問題にした大阪人権博物館(リバティおおさか)の展示内容にしたって、とっくに平松市政の代から、同和差別の告発の要素が徹底的に去勢された、極めて偽善的な内容になっていた。
旧渡邊村、その昔のえた・ひにん制度導入の前の秀吉の時代には「太鼓庄屋」の称号を与えられた日本一の太鼓の産地、江戸時代には骨粉肥料の開発でもけっこう儲けていたその場所にある「差別の歴史を教える」博物館が、アイヌの展示とか女性差別に関する話から始まるんだから、人をバカにしているじゃありませんか。
残念なことに、橋下さんも市長になったとたん、自らがその出自なのに…いや、これは部外者の勝手な言い草だろう。橋下さん自らがその出自だからこそ、分かり易い「暗号化された同和いじめ」をやらなければ市長の地位が危うくなったことは認めざるを得まい。
そうしなければ、すぐに「あいつはやっぱりしょせんはヨツ」と陰口が行き交うに決まっている。リバティ大阪だって橋下さんの立場では、平松時代に既にやっていたそれ以上をやらなければ「やっぱりヨツ」でリンチ吊るし上げの対象になりかねない。
それこそ都構想の真意が分かったとたん、市長を続けられないどころか「部落のクセに生意気だ」が決して表向きでは口にされない合い言葉となって、それこそリンチで殺されかねない、その恐怖はあれだけ勇ましい橋下さんだって無視は出来まい。
東京では、橋下さんが文楽協会に噛み付いたことで「文化が分からない無教養な右翼」と批判することが主流だったが、実はこれは大阪ではまったく違った意味を持つのだ。
文楽人形浄瑠璃、その語り部である太夫も人形遣いも、太棹三味線も、たとえば「太夫」の称号が示す通り、伝統的にいわゆる「えた・ひにん」階級の特殊技能だった。人形浄瑠璃はいわゆる「かわらもの」の芸能であり、その大きな劇場は地域的に言えばいわゆる「被差別部落地域」にあるものだった。
…っていうか大阪の今ある繁華街の多くが、大阪駅のある梅田ですら元は巨大墓地があった場所であり、たいがいは歴史的にはいわゆる「部落地域」かそこに隣接している場所だ。そしてその多くは、江戸時代から賑やかだった。
なお江戸だって、日暮里や浅草から北西、吉原にかけてと、隅田川の川向こうの両国は “そういう地域” で、だから歓楽街や娯楽文化の中心として栄えた歴史がある。
別に役者芸人や遊女が「虐げられたもの」だったから、というだけの単純な話ではないので念のため。
浄瑠璃も歌舞伎も、そして能楽も、そのドラマの基本構造からして宗教的・霊的に、その人たちでなければ担えない表現だったからである。
こと浄瑠璃ではその構造は極めて明確だ。浄瑠璃の物語は決してオリジナル・ストーリーではなく、すべて元は歴史物語として誰もが知っている共通教養の源平合戦や太平記などを翻案した歴史物か、同時代的に大いに話題を集めた恋愛スキャンダルを扱った世話物だ。
『義経千本桜』より
前者では主人公達は歴史上の非業の英雄たち、後者ではたいがい心中事件の主人公、つまり死者であり、それまで世間で知られていたのとは異なる「事件の当事者から見た真相」がそのドラマの中身だ。つまり死者を代弁することで、武家社会の忠義の論理や商人の世界の義理や決まり事の矛盾が引き起こした悲劇を告発するのが文楽人形浄瑠璃であり、その真実を語り社会を批判出来るのは、特殊な霊的な力を持ち然界の神々や死者たちとつながった “権力外” の人たちだけだったのだ。
被差別部落、「えた・ひにん」とは本来、そういうものである。江戸時代の身分法でも、士農工商のさらに下に「えた・ひにん」があるという構造ではない。そのヒエラルキーの「外」にあった制度上最下級身分、いわば「身分がない」「身分の外」であり、では実態も最下級だったのかと言えば必ずしもそうとは言えなかった。
というかもっとはっきり言えば、現代でもたとえば「太子町」と言った地名がその地域には多いし、京都に行ってしまえばミもフタもなく分かり易いこととして、「えた・ひにん」階級は明らかに、天皇と密接な関わりを持っている。
なお彼らが江戸時代までなら皮革加工やにかわの製造、明治以降では屠畜や精肉に関わるのが「穢れ」とみなされて、というのもむしろ明治以降の誤解である。本来は「それら穢れた職業しか彼らに許されなかった」のではなく、彼らにしか許されない仕事だったのである。
命を奪うことは「穢れ」ではなかった。命を奪えば普通は「祟る」、その祟りを本気で恐れたのが過去の日本人であり、自然神や死者の霊を鎮める力を持つ彼らだけが「祟り」を恐れずに済んだのだ。
橋下さんが自分も被差別の出自なのに右翼のポーズをとり「弱者」に冷たい、という批判は教条左翼から多々出て来そうなわけだが、それはそれであまりに差別的な言い草だと指摘しておく。むしろそんな厳しい境遇だからこそ実力でのし上がった橋下さんからすれば、そんな「弱者」扱いこそが自分達を被差別の立場に追い込み閉じ込める話にしか見えない。
頭の良さと人一倍の勉強を武器に弁護士資格をとり差別をはねのけて来たのが橋下さんであり、弱者扱いされること、弱者に甘んじることなんてまっぴらご免だろうし、そうしたことを一切考えて来なかったし教えもして来ていないことが、日本の差別に関する教育(「人権教育」)や、反差別を自称する「支援」の運動の多くに見られる巨大な誤謬だ。
橋下さんの右翼国家主義のポーズはむろん「その方が人気が出る」という冷徹な判断が第一にあるのだろうが、こうした戦後左翼がこと差別の問題についてほとんどなにも成し遂げて来ず、しょせんは恵まれた中産階級の自己満足に堕して終わっているのが大半である現状と、こと大阪では他ならぬ共産党が自分達に対するヘイトスピーチで票や支持を集めていることへの、彼自身の強烈な反発の結果でもあるのだと思う。
この辺りは、戦後の左翼運動や今の左派やリベラルを称する人たちが大いに反省すべきことだ。
また橋下さんの世代になれば、一方で部落解放同盟などの運動体ももはや賞味期限を失ってしまっていることが大きい、とも思う。
これは解放同盟自体が悪いわけではない。
橋下さんは賛成しないだろうとも思うが、少なくとも僕から見て、解放同盟は大筋に置いて、戦後の運動方針はどれも間違ってはいない。普通なら差別の解消に役立って当然の、理論的に正しいものがほとんどだったと思う。
だが戦後まもなく、貧困と差別が密接に結びついていた時代に、いわゆる部落民の経済的な生活状況の向上を要求して戦ったことは、結果として「同和利権」なる都市伝説を産み、増幅させ、あたかもいわゆる部落民が一般市民に較べて優遇されているかのような偏見を産んだ。
就職差別が激しかったからこそ、自治体などに積極雇用を要求したことも差別解消の最初の段階として当然とられるべき処置だったが、これも「利権」と言うことにされてしまった。
行政の側はさらに手の込んだことに、雇用なら歴史的に旧えた・ひにん階級が関わって来た葬儀祭礼や河川の管理、ゴミ処理などの職種をメインにし、これ見よがしに「危険手当」などを匂わせることで一般プチブル市民の悪意と嫉妬に満ちた噂を誘発して来た。
公共住宅の建設ではわざと建設費が割り増しになるような独特な様式の建物にして、巨額の建設費でこれまた一般プチブル市民の嫉妬を誘発させて「同和利権」神話を補完すると同時に、そうした建物それ自体が見た目の特異性からして被差別のスティグマとして機能するように仕向ける念の入り様である。
また一方で、こういう施策の過程で部落解放同盟それ自体の一部幹部を始めとしたいわゆる被差別の側に、いやな言い方をすれば「鼻薬」をかがせることも、ちゃんとぬかりなくやって来ている。そうすることで当然の権利の要求の運動を去勢し、利権に縛り付けて身動きをとれなくすることも計算済みだったのか、これもまた無自覚・無意識にそう仕向けたのか…
橋下さん自身が飛田料理組合の顧問弁護士をやっていたこともある。オランダの「飾り窓」云々どころではなく日本にも、こと大阪には(売春禁止法があろうがなかろうが)、それこそ「飾り窓」とは比べものにならないほど厳格な伝統様式すら持った遊郭、売春業が飛田や九条の松島に存続しているし、歴史的な経緯では遊女もまた「えた・ひにん」階級であったことから、それは橋下さんが育った環境の身近にあったものだ。
橋下さんにしてみれば、そういう現実が厳としてある現状を知りもしないで「慰安婦がかわいそう」的な感傷主義の“正義”の装いに終始する議論には、そう簡単に納得はできまい。
むろん理論的・理念的に考え抜いた結果ではなかった安直な発言の責任は問われるべきだが、橋下さんがいわゆる部落民であり、飛田料理組合の顧問弁護士だったことの意味を深く考えもせずに「女を食い物にする組織売春に加担した」的にあげつらった批判には、「それは違う、なにも分かってない」と言わねばなるまい。
部落解放同盟の戦後の運動・闘争のなかで、現代の我々にも馴染みが深いのはいわゆる「言葉狩り」だが、これは実は差別の解消には理論的にはなんら寄与しない闘争だった…というのは同盟も最初から実は分かってやっている。
「えた・ひにん」とか「ヨツ」と言ってはいけないとしたところで言い換え語で「部落」、それも禁じたところで今度は「同和」と、いくらでも言い換えは出来る(「売春」と言わず「風俗」も似たような話だし、軍専用売春婦では体裁がつかないから「慰安婦」と呼んだ日本軍なんてのもある)わけで、言葉を禁じたところで差別は温存される。
差別は決して「差別語」ではなくあくまで差別意識の問題であり、「チョン」が差別語だから使わないとしたところで、差別的な意識や文脈で「在日」と言えば差別性は維持される。
ただそれでも、「差別語」という概念を持ち出すことで、「チョン」だの「ヨツ」だのの言葉を無頓着かつ無神経に使っていた人間に気づかせることにはつなばるはずだし、放送局などの大手メディア・言論権力を掌握する側にそれを突きつけること自体が、差別問題をうやむやにさせず差別される側がきちんと自分達の存在と、自分達が担う正義を突きつける意味があった。
ところがこれも、まるで理論的にはそうなるはずの結果にならなかったのだから、現代の日本という差別することが国民共同体の暗黙のレゾン・デートルになっている泥沼は恐ろしい。
なんと日本のマジョリティの側はこれを、「部落の連中が生意気にも俺たちの言論を封じようとしているが、差別と言われるのは困るからしょうがない」というように読み替えてしまったのだ。こうして差別に苦しめられている側が不当な抑圧者にスリ替えられるフィクションが共同幻想として成立し、自分達こそが被害者なのだという歪んだ自己正当化の言い訳にみすみす利用され、挙げ句に解放同盟は「怖い」か「鬱陶しい」、不当な圧力団体扱いすらされてしまうのが現状だ。
戦後の部落解放運動の歴史は、やって来たことは基本正しかったはずだ。
戦略的にも理論からすれば有効で、普通ならそれで成功することをちゃんとやっていたはずなのだ。
なのに結果だけ見れば、敗北よりももっと始末が悪い。自分達の正当性を認めさせたはずが見事に足下を掬われ、差別する側の狡猾にして無自覚な悪意の連帯に闘争の手段を絡めとられ、逆利用され、差別は解消に向かうのでなく隠蔽されるだけで温存され、昨今ではそこに胡座をかいてふんぞり返ったまま「反差別の運動」の主体すら被差別者から奪う「マジョリティからの反差別」運動を称してその自分達の「善意」にマイノリティを服従させようとする輩まで出て来る始末だ。
それどころか今や、『はだしのゲン』に「かたわ」「乞食」「貧乏人」と言った言葉が出て来ることを理由(というか言い訳)に、このマンガを子供に読ませまいとする、そうすることで戦後に原爆の被爆者がどれだけひどい差別を生き延びて来たかすら隠そうとする勢力まで、出て来てしまった。
「なぜゲンだけなのか」 回収協力の校長「悔やんでる」(朝日新聞) http://www.asahi.com/articles/ASG3M7G13G3MPTIL033.html
こうした「臭いものにフタ」こそが、いわゆる「差別語」禁止の最大のデメリット、むしろ差別が「なかったこと」とされてしまうことに利用されかねない。
差別を表象する言葉、差別が確かにあったし今もあることの明確な記号を禁忌とすることで、差別自体が隠され、伝える言葉もなく、それ自体がなかったことにされてしまう。
また「差別語を使っていないから差別ではない」と言い張る余地まで、差別をし続けたい側に与えてしまう。
「差別する側」でありながら反省と自己改善を拒絶する者達にとって、もっとも好都合で身勝手な結果になりかねないことだ。
そんな現状のなかで橋下徹さんを無碍に責めることは、少なくとも僕にとってはちょっと良心が許さない。その個々の発言内容や態度には、納得出来ない、批判すべきだと思うことも多々あるが、それですら狡猾かつ無神経な無自覚さで「自分達が安心して差別出来る立場を温存したい」をずっと貫いて来た僕たちの社会が彼をそこに追い込んでしまった結果であるようにしか、僕には見えない。
ただだからこそ、橋下徹さんにはあえて言いたいし、気づいてもらいたいとも思ってしまうのである。
あなたが差別をはねのけて懸命に頑張って来たそのことすら、あなたの真の敵である匿名の、集団制の、摩訶不思議で正体の判然としない、無自覚で無神経で無責任なこの国の「差別する側」に結果として負けてしまっている、いいように利用されてしまっているのではないか?
だからこそ、大阪都構想の本当の意味も、そろそろブチまけてもいいのではないか?
「あなた達はこれまで不当に甘やかされて来て、それがあなた達の活力も奪っているのだ。大阪市民であることの特権的な利益なんてこの際、大阪のため、日本のためにこそ自ら棄てる覚悟を、あなた達は持つべきではないのか?」と言ってもいいのではないか。
そうでなければ橋下徹さんに大阪市民から期待されていることは、ただの徹底した「同和いじめ」(それを同和出身の市長がやれば「差別ではない、区別だ」と正当化されるらしい。そんなバカな)でしかなくなってしまう。
実はかなりの部分が補助金で廻ってしまっている経済をなんとかするのでなく「同和利権」という都市神話になんとなく符合しそうな補助金や生活保護だけを切ることだけだ、ということになってしまうし、このどうしようもなくドス黒く陰惨で無自覚さと無神経さに満ちた、不特定多数の「差別する側」のいっそう堕落した集合的不道徳の泥沼だけが、橋下市政が次の世代に遺す負の遺産になってしまいかねない。
これは単に差別される側の、いわゆる部落民や在日コリアンなどの人に「やさしい」社会を、とかいう話ではない。こんな自堕落な非倫理と、人間としての最低限の矜持の欠如を共有する集団性のなかに引きこもり、商人の町のガッツなんてとっくに失いかけている大阪が、再び名実ともに日本第二の経済圏の中心、独自の文化とエネルギーを持った都市を取り戻せるかどうかの、瀬戸際ではないのか。
つまり大阪が自分をちゃんと取り戻す、ということでもある。