6/30/2014

光秀はなぜ信長を殺したのか?


戦国時代後期に四国の支配者だった長宗我部氏に、天正十年(1582年)に織田信長の重臣・明智光秀の部下が、信長に従うよう促した書状と、長宗我部側がその部下に信長側に妥協する旨を告げた書状が発見された

このやりとりの直後に光秀が主君である信長を京都・本能寺で滅ぼした事件の動機を理解する新資料として、注目されている。


つまり信長は四国に攻め入り長宗我部氏を滅ぼそうと準備を進めていて、光秀がそれを阻止するために信長を討ったという解釈だ。

確かに日付けが近く(長宗我部氏の側が織田に従うことを意味する書状が5月21日の日付けで、信長の死は6月2日夜)、なぜこのタイミングで光秀が信長殺害を決意したのかの説明はつく。

だがそれでも、本能寺事件の最大の謎は解明されていない。

本能寺事件が現代人にとってもっとも理解し難いのは、なぜ光秀が信長を殺したのかではなく、なぜ光秀は、自分が確実に命を落とすことを覚悟で、この謀反を起こしたのか、なのだ。

まだ光秀が織田の有力家臣の誰か、たとえば柴田勝家と内々に話をつけていたというのなら、なんとか分からないでもないが(とはいえ、では勝家がどう主君を殺した光秀を許す理屈をでっち上げられるのか、想像がつかない)、僅かな手勢で本能寺の信長を討ってしまえば、強力な武力を持つ織田家臣団の誰かが即座に自分を攻め、勝つ見込みはほとんどない。

よしんば本領に帰りついて篭城したとしても、光秀を滅ぼし信長の仇を討った者が織田政権の有力後継者に躍り出られるのだから、誰もがその功名を狙う。決死の篭城戦は絶望的なものにしかなり得なかった。

それこそ四国に逃げて長宗我部氏の保護に頼るくらいしか、光秀には勝算どころか生き残る術すらなかったのだが、その当主・長宗我部元親は光秀自身の説得に応じて、織田に恭順を示したことも今回分かった。ならば長宗我部氏が光秀をかくまう可能性も低いし、光秀をかくまったことを口実に織田政権が四国に侵攻するなら、光秀がそれを阻止しようとした意味がなくなる。

まさに逃げ場、生き残れる可能性が皆無の光秀の謀反を、現代的に政治クーデタと解釈して、利害損得や政治的保身からその理由を探ることに、無理がある。

最近のNHKなら歴史番組ですら馬鹿げたバラエティ路線なので、タイムスリップしたレポーターが光秀に直撃インタビューして本能寺事件の真相を、とかいう展開の番組でも作りそうだが、もし僕が構成台本を頼まれたら、「信長さんを倒した理由はなんですか?」という質問をされた光秀が思わず激怒する、というシーンでも書いてしまう気がする。

「そなた、なにゆえにそんな分かり切ったことを訊く?(儂を愚弄しておるのか?)」

戦国時代当時の感覚と価値観で考えるなら、恐らく光秀にとって、誰かが信長を殺さねばならない理由は分かり切ったことだったはずだ。強いて言えばそれが許されるのは自分しかいない、というくらいの自負はあったのかも知れない。

現代人は信長を型破りな英雄くらいにしか考えておらず、その型破りさとは青年時代の茶筅結いの髪といった奇矯な服装や、意表を突いた奇襲作戦、イエズス会宣教師と積極的に交流し西洋の文物を貪欲に取り入れた新し物好き、大量の鉄砲隊の導入という前代未聞の戦法で甲斐の武田氏を破ったこと、絢爛豪華で西洋風の意匠も取り入れたド派手な安土城などが、そう思っている主な理由だろう。

近代以降の日本史の教育で美化された信長像と、当時の人間が見たであろう信長像は、かなり異なる。

我々は信長を、戦国時代を終結させ日本に安定統一政権を築いた先駆者という位置づけで見ているが、これは天皇を中心とする統一国家としての日本を理想像とした明治維新以降の歴史観に基づく解釈でしかなく、後付けの評価、英雄化に過ぎない。

現代の、「天下統一」の英雄としての信長の評価は、その後に徳川氏が250年に渡る長期の超安定政権を築いた結果論から遡ってみた上で出来る評価でしかない。当時の人間には織田信長はどう見えていたのかを考えれば、誰かが信長を殺さなければいけない、と明智光秀が覚悟を決める理由はかなり自然なものだ。

江戸時代にも、天下泰平の世を築いた功績を誇る徳川氏にとって、信長は始祖家康の同盟者であり、家康が信長を引き継いだことにはなるので一応の評価はしており、江戸幕府は信長を否定はしなかったものの、近代以降の信長の英雄化が決定的になった背景には、開国後の日本が近代の世界のなかで「サムライの国」というアイデンティティを(かなり性急に)作り出した(捏造した)ことも大きい。こと江戸時代の庶民にとっては織田信長はたぶんにからかいの対象であり(屈強大柄なのにナゼか前髪姿の小姓・森蘭丸との恋愛など、かなり卑猥な冗談のネタになっている)、また狂気の武将として忌避されるか、あるいはその狂気故に特別視されていた。

信長は確かに型破りな武将であり、その型破りさが甲斐の武田、三河の今川、美濃の齋藤、北條、上杉、伊達、長宗我部、毛利、薩摩の島津、細川などの有力大名を差し置いて、いわゆる天下統一に先手を打てた大きな理由であることは間違いない。

だがその型破りさとはなによりも、信長が日本人の常識ではあり得ないほど派手に人を殺した、虐殺をやりまくった、恐るべき殺戮者だったことだ。

応仁の乱に始まる戦国時代自体、統一政権がなかったことだけで現代の視点や価値観ではネガティブに見られているが、そこまで悪い時代ではない。京都は確かに荒廃し、足利将軍家は統一政権とは名ばかりの存在になってしまっていたが、全国統一政権がなかっただけでは必ずしも「乱れた時代」とは言えない。

名目上は一応足利将軍家を将軍と呼び天皇の信仰上の権威も尊重しながら、各地方をそれぞれに独立性の高い武家の政権が統治した、いわば地方分権の時代であっただけで、群雄割拠状態のそれぞれの諸侯が常に血みどろの戦乱を起こしていたわけでもない。むしろ武家の統一政権がなくなり、武家どうしの争いで武士の権力が相対的に低下した地域では、農民や商人らがそれなりに力を持ち自主統治と言える状態を作り出した場所すら多々あった。現代人が「宗教勢力」と誤解しがちな一向一揆も、実際には統治能力の低い武家の領地だった場所などで農民や在地の武士が自分たちの生活を守る自治・自衛を確立したことに他ならない。その思想的な支えが、浄土真宗の平等思想だったのだ。

戦国時代はある意味、歴史的な必然としての地方分権化だったとも言える。室町時代から始まった農業技術の革新が進み、農民はそれなりに豊かになり、その余剰の農作物の売買で商業も発達して諸国間の交易交流も栄え、文化的にも新たな創造が次々に産まれていたのだ。武家の統治能力が相対的に下落した結果、農民はたまにある戦乱で落ち武者として敗走する武士から武器を奪うなどして、相当な武力すら持つことになる。「下克上」というと悪く聴こえるが、要は身分制度が揺らぎ、農民や商人から武家になり武将として成功したのは、なにも羽柴秀吉が最初ではない。たとえば美濃の斎藤道三は薬売りの出身だ。

『七人の侍』みたいな、野武士に蹂躙されなにもできない百姓、荒廃した農地、といったイメージに我々は影響されがちだが、武家同士の戦争はたいてい農地ではない、庶民を巻き込まない場所で、農閑期に行われていた。武家はそれなりに農民や庶民に配慮しなければ、そもそも年貢などの収入もなくなってしまうのだ。だからそれぞれの地方のいわば実質独立政権としての諸侯は、戦争に勝って所領を広げるよりも、今現に統治している地域を安定させることに腐心していた。甲斐の武田が戦国最強と呼ばれるほどの軍事強国化を目指したのは、雪深く気候が厳しく、経済的に後進地帯だった甲斐・信濃の、その領民をなんとか「食わせるため」でもあった。

そんな時代にいきなり、「領民を食わせること」もお構いなしにバンバンと支配地域を広げる戦争に熱中して殺戮を繰り返した信長の登場というのは、それだけで型破りだった。

当初は楽市楽座制など、自国の経済成長にむしろ腐心していた織田政権だが、その勢力を増すほどに、戦いで破った敵方を許したり自分の家臣団に組み入れるよりも、平然と皆殺しにすることを厭わなくなる傾向が、比叡山焼き討ちや浅井攻め辺りを契機に顕著になっていく。型破りといえば型破り、というか当時の日本人には想像もつかない残虐さだ。

また叡山焼き討ちなどの信長の蛮行が型破りだったのは、本来は武家の戦争はまず武家どうしで、宗教勢力や庶民を巻き込んではいけないという武家の不文律を完全に無視したことだ。戦闘員でない者でも、それこそ女子供でも、平気で殺させたし、さらには当時の日本人にとって完全に「罰当たり」になるしかない相手を平然と攻撃し、滅ぼし、虐殺を繰り返した。

天皇家と結びつきが強く、もっとも権威ある寺社のひとつである比叡山を、信長は焼き討ちして僧侶や僧兵を皆殺しにしている。これはまだ教科書などで我々が一応は習っている信長の所業だが、信長の「天下統一」の最大の障害であり、信長が残虐の限りを持ってそれを撃ち破った「最大の敵」については、今もタブーになっている。

信長の「天下統一」における最大の「功績」とは、浄土真宗の石山本願寺を滅ぼしたことだ。

これも現代の我々は、単に旧弊な宗教組織を叩いたかのような意味に誤解して「信長は先進的な型破りの英雄」とますます思い込みがちだが、当時の実態はそんなものではまったくない。

本願寺派は日本仏教の最大宗派であり、それはなによりも庶民にもっとも広まった信仰だったからこそ、信長は目の敵にしたのだ。

その庶民とは戦国時代に武家の政権が不安定で脆弱になったなか、農業技術の進歩もあって力を増し、先述の通り武装すらし、時には自治すらやっていた農民である。武家から見れば一向一揆と呼ばれ、現代人は「反乱」でもしていたかのように誤解しているが、客観的には農民や庶民が武家を必要とせず、自衛と自治を自分達の手で、真宗の信仰を倫理規範にして実行していたのが戦国時代の「一揆」だ。

その総本山、大坂の石山本願寺(現在の大阪城)こそ、信長がもっとも手を焼いた敵だった。

この浄土真宗の総本山と支持する一般庶民の、実は当時の日本で最大級の武装勢力を、血みどろの容赦ない虐殺という手段で潰したことこそ、信長の「型破り」、まさに天に唾し民を恐怖させる狂気の「功績」だったのだ。

信長がキリスト教にも関心が深く、ルイス・フロイスなどイエズス会宣教師を優遇したことも、現代に信長が評価される理由のひとつとなっているが、これも明治維新で日本政府が積極的な西洋化を押し進めた、そのお手本とみなせたことが大きい。しかも宣教師が持って来る西洋の文物や新技術はどんどん取り入れ、西洋風の城郭として安土城まで作らせながら、信長はキリスト教の信仰自体にはなんの興味もなかったとされている。明治維新の日本政府が捏造しようとした歴史観にとって、「日本人の魂は棄てなかった」とか言えるわけで、最適に理想的だった。
だがキリスト教を優遇したこともまた、信長が既存の日本の宗教権威をまったく尊重しなかったどころか弾圧したくてうずうずしていた、寺社仏閣を平然と破壊しその信徒を平気で殺す虐殺者の本質と表裏一体でもあるのが、当時の視点・価値観で見た信長の実態だ。
後に豊臣政権が長崎でいわゆる二十六聖人を処刑し、江戸時代に入ってキリスト教が禁じられたのは、切支丹の側から見れば暴虐な悲劇なのは間違いない。しかしイエズス会が日本の既存の信仰を弾圧し破壊する信長に全面的に協力していたことと裏腹の関係にあったことも、無視はできまい。 
切支丹弾圧史や江戸幕府の宗教政策は、この方向性からも再検討する必要があるように思える。

これだけの危険な、狂っているとしか思えない虐殺者・信長が日本全国を支配下に置いたら、どうなっていただろうか?

現代の我々は信長が恐るべき虐殺者であったことを知らないから、光秀が忠義を誓ったはずの主君を殺した理由を理解できず、裏切り者となじったり、その動機についていろいろな説を空想してしまうのである。

過去の、その当時の人間の価値観を考慮せずに、歴史を理解することは出来ない。

信長のように人を殺しまくっていては、どんなに諸国を平定し、暴力の恐怖で諸侯を着々と支配下に置こうが、天下が治まるわけがない。

信長の戦争の後には膨大な死者と、人心には恨みと恐怖ばかりが残された。それも彼がとくに目の敵にしたのが、信仰心の篤い普通の庶民と、その信仰を集める寺社仏閣である。

当時、この前代未聞の型破りの虐殺者・信長の譜代の家臣であり、織田家臣団のなかでも随一のインテリ、遺された史料によれば漢籍にも通じ道徳心も強い常識人だったと思われる光秀にしてみれば、君主の徳などかけらもない暴虐な、狂った主君は誰かが止めなければならず、それが許されるのは私利私欲抜きに命を棄ててまででも、自分こそやらなければならないと思ったとしても、なんの不思議もない。

西洋的な歴史観を導入しつつ、かつ信長が暴虐な殺戮をくり返した史実を後世の贔屓目で無視してしまうから、我々現代人は本能寺事件を政治的な意図を持ったクーデタだと考えてしまい、その動機が謎になってしまうのだ。

実際には本能寺事件の当時、信長は備中を羽柴秀吉に攻めさせ中国地方侵略の真っ最中、四国攻略も秒読み段階に入っていたのである。誰かがこの狂気の虐殺者を止めなければならなかった。それが光秀だった。

こと四国は今でも真言宗のお遍路八十八カ所が有名だが、特殊な霊的な意味を持ち、信仰や宗教権威の強く、聖地の多い土地柄だ。 
比叡山や本願寺など、これまでの信長の信仰集団と庶民への容赦ない血みどろのやり方を見ていれば、四国ではより凄惨な殺戮が起こったであろうことを光秀が心から危惧したとしてもむしろ自然だ。 
その意味では今回発見された文書は、光秀がついに信長を討つ決意を固めるに至った過程を考える上で有力な史料にはなるように思える。

結局、光秀が本能寺事件を起こしたのは、ただ信長の殺戮を止めることだけが目的で、自身の野心なぞ関係ないどころか、自身の命すらその犠牲にする覚悟だった、と考えるのがもっとも自然ではないか?

網野善彦以降の日本史学研究では、過去の日本人が本気で祟りを恐れる民族であり、特定の信仰というより日本古来の価値観に基づく信仰体系を持っていたことを勘案すると、様々なことが明晰に説明できることが分かって来ている。 
そうした日本の伝統的な信仰のイメージに当てはめれば、信長の実際の戦争や政治が型破りであると同時に人命をほとんど考慮しない残虐なものであったこと、奇矯で派手で目立つ服装や髪型、甲冑などを好んだこと、ど派手で奇抜な安土城の造形など、どれをとっても人の姿をしたカミないしオニとして受け止められていたことが容易に理解できる。 
確かに破格の強さを持ち、群雄割拠が固定化していた当時の日本の現状を変えるパワーを持った信長は「カミ」であると同時に、日本人にとっての「カミ」とは人間を超えたなにか全てであり(神と悪魔の区別は、日本には元々は存在しない)、それはいつでもオニに転じ得る。信長が暴虐な殺戮をくり返すオニと化した以上、その荒ぶるカミを制し、倒すことは、現代政治的なクーデタではなく文字通り「まつりごと」、信仰政治のための犠牲、信長に殺された死者たちを慰め宥めつつ、オニとなったカミをカミの領域にお引き取り頂く儀式の意味を持つ。 
日本史上、死後政治的な権威付けで神格化されたのではなく(たとえば家康が東照神君となったような)、生きながらにして「カミ」領域に入ったかのように神話化された武人は、神話時代のヤマトタケルノミコト以外には、他に平将門、源義経くらいしか類例がない。そのなかでも将門以上に、信長はカミであり魔物だった。 
その信長をカミとして殺す、いわば「神事」としての殺害を許されるのは、私利私欲が一切ないと天地神明にかけて誓約できる、その証拠として自らの命すら棄てられる者だけだ。織田家臣団のなかでその聖人君子の行いが出来そうな人間は、明智光秀以外に見当たらない。

の本能寺事件という一事をとっても、我々現代の日本人は、実は自分達の歴史をあまり理解していないし、最早その理解の手段すら我々からどんどん遠のいている。

どこの国でも歴史を国家の自己正当化のために恣意的に歪めることは大なり小なり行われて来てはいるが、日本の場合は元々アジアの国、アジア的な価値観で歴史が作られて来たことを、明治維新以降に無理矢理西洋的な標準に合せ、そんな実態なぞあったためしのない天皇を政治的中心とする統一国家を「正義」としてしまったので、ことその歪みが大きい。

だから現代の我々は、もはやこの本能寺事件であるとかの重大事件の本来の歴史的な意味すら分からないし、たとえば忠臣蔵がなぜあそこまで日本の国民神話になったのかも理解できない。

ついこないだ「サムライ・ブルー」のサッカー日本代表が案の定、またW杯で敗退したが、武士、武家をことさら英雄視して日本を「サムライの国」という虚構の自己既定をしてしまったこと自体が、本来の日本の歴史からすればまったく歪んだ西洋コンプレックスの裏返しでしかない。 
そしてそれが、明治以降1945年に至る植民地主義の侵略国家、そして自滅寸前の敗戦という、恐ろしく倒錯した道に日本を歩ませてしまった。 
そもそも、そんな「サムライの国」という発想自体が、歪んだ虚構だったのに。

信長が残虐な殺戮をくり返した狂気の武将であったことが隠されてしまったのと同様に、近代国家日本の軍隊もまた残虐な殺戮や暴虐な支配をくり返してしまった過去も、現代の我々は忘れがちだ。

だが信長の虐殺は日本人どうしの国の内部でカタがつき忘れられたとしても(信長が石山本願寺を滅ぼした後も本願寺派は日本で最大の仏教宗派、信徒集団であり続け、秀吉が京都の広大な敷地を寄進し、そこに西本願寺が建てられ現代に至っている)、近代の、他国でやってしまった殺戮や暴虐な支配は、そう忘れられるものではないのだ。



西本願寺、御影堂。いったん信長に滅ぼされてもこの威容。
「猫の首に誰が鈴をつけるのか」という言い回しがある。

信長という猫どころか危険な虎、鬼は首に鈴でなく首を切り落とすくらいしか、その残虐な魔性を抑える術はなく、明智光秀が命を賭してその任を果たしたのだとしたら、今の日本は安倍晋三というたかが愚かで幼稚な子猫の首に鈴をつけることすら、誰もが怯えたまま、やろうとしていない

そして我々の歴史観はどんどん歪んで行く。

およそ中国や韓国の歴史観をなじれる身分ではない。日本人は日本という独自の高度に洗練された国と民族であったその意味、アイデンティティを見失わされ、虚構の歴史を信じ込まされたまま、今や「本能寺」と言ってもなんのことか分からない若い世代が大半の国になりつつある。

その自分たちの歴史すら知らない者達が、明治維新時に西洋の標準に合せて急ごしらえで捏造した国旗としての「日の丸」や国歌としての「君が代」に固執して、その意味も分からないまま強制しようとしているのである。呆れる他はない。

6/26/2014

負け犬のナショナリズムとマゾヒズムの正義


承前。河野談話の検証で明らかになった事実関係だけを抽出すると、今回の報告書が懸命に印象づけようとしていることや、安倍晋三政権がそもそも調査をさせた動機とは、むしろ真逆の経緯が見えて来る。

当初文案から「慰安婦すべてが強制だったわけではない」という主旨の、強制を前提にした記述があり、これが韓国側との非公式協議で変わったことが実際の事実関係の最大のポイントなのだが、この元の日本側主張とてあくまで、慰安婦が強制だったことを前提に「しかし全員が全員そうだったわけでは」と言っているに過ぎない。

つまり韓国側の圧力(だいたい先述の通り普通の非公式ルートの打診だけで、そんな圧力なんてない)や、実際の被害者16名の証言を聞くまでもなく、「慰安婦は強制だった」は最初から日本側の認識だったことこそが、検証報告で証明されたことになる。

河野談話で日本政府が慰安婦が強制だったことを認めたのは、これまで言われて来たような河野洋平氏の独断でもなければ、韓国側の圧力に抗しきれずでもないし、証言者という動かし難い事実を目の前に突きつけられてでもなかった。最初から強制があったことが前提だった、というのが、今回の報告の事実関係から導き出される、最も中心的な結論であり、これまでの認識を覆す新事実でもある。

たとえば、この調査のきっかけになった、元慰安婦の証言聞き取りに関する当時の官房副長官による不平不満の国会証言はなんの意味もなかったことにもなる。 
1) 証言の聞き取り調査は、日本が強制を認めた重要な理由、強制があったという根拠ではない。むしろ韓国側と被害者の顔を立てる儀礼的な形式と、なによりも無理難題を言い続ける日本側の政治家の一部を説得するためだった。
2) 聞き取りの手法自体は、性犯罪被害者の証言をとるのに裁判証拠でも採用されている普通のやり方だ。

だがこれも考えてみたら当然の話だ。もし日本軍が強制で多くの女性を慰安婦にして虐待したと認め、謝罪するのが目的でなければ、河野談話は出す理由も意味もそもそもない。

慰安婦が強制もされず自由意思で日本軍に奉仕し、違法性も人権侵害もなく、慰安婦制度になんの問題もない、‪安倍の周囲が言うように慰安婦問題それ自体が捏造だったなら、そもそも河野談話なんて準備する必要すらなかったはずだ。

深読みするなら、河野談話の当初文案に「すべての慰安婦が強制であったわけでは」的な文言が入っていたこと自体が、自民の一部を口説き落とす外務省の苦肉の策だったのだろう。韓国が納得するかどうか以前の問題で、既に前回エントリーで書いた通り、こんな見え透いた論点誤魔化しを国の公式見解で出せるはずがない。

だから最初から最終文面に残す気がない言及だった、とみなす方が外交の常識からして自然だろう。

外務省としては河野談話が日本の名誉のために出す必要がある、しかし与党の一部が納得しない、という綱渡りのなかでわざと「すべての慰安婦が強制であったわけでは」と論点を誤摩化すような文言を入れて、それが韓国側の反発で修正を余儀なくされることも計算づくだったのでは、とすら思えて来る。

‪安倍晋三‬ら自民のなんちゃって右派の二世三世は、外務省が河野談話を出すために自分達を納得させる方便で作り出した「いや仰ることは分かるのですが、ホラ韓国がうるさいし、朝日新聞に叩かれますから、妥協するしか」的なフィクションを、本気にしてしまっていたのだろう。いわば都市伝説に振り回された類いの話だ。

当初文案に「すべての慰安婦が強制であったわけではない」という非常識な言及があれば、非公式に見せられた韓国側は当然反発する。だがこの主張はデタラメな誤摩化しではあっても、少なくとも強制の事実は前提になっているから交渉の余地はある。

もし「強制はなかった」と書かれていたら、韓国は猛反発して日本を公然と非難しただろう。韓国政府の立場からして、交渉を決裂させざるを得ない。

韓国と全面対決になるだけではない。河野談話が「強制なんてなかった」というための政府声明だったら、日本が国際社会の総スカンを食らっていたのは確実だ。だいたい宗主国の軍隊が植民地や占領地女性に性奉仕をさせていただけで、その本質はレイプになる。戦場で半ば偶発的に略奪や強姦が起こるのよりも、システマティックな制度体制であっただけに、より悪質だ。

その被害者である女性たちを「高給に釣られた売春婦」とか言い出すのなら、最悪の暴虐な女性蔑視にもなってしまうし、高給で慰安婦を募集していた広告を持ち出したところで、なんの証拠にもならない。いやむしろ、そうやって募集した時点で業者が「日本の工場で働く」などと言って騙す不正行為が横行し、新聞に叩かれた史実がある(結果、軍と警察の同行が命じられた)のだから、その広告は「朝鮮人女性の多くは高給くらいで日本の性奴隷になることは選択しなかったから、ほとんど集まらず、強制で慰安婦を集めた」という間接証拠にしかならない。

公式文書がない、というのもなんの証拠にもなるはずもない。最初から違法行為である証拠をわざわざ公式文書に残す阿呆はおらず、実は違法行為を命じていても一見そうは読めない文言にするか(そしてその命令書は実在する)、証拠を残さぬよう口頭の命令で済ます。

安倍晋三さんはせめて麻生太郎さん並に漫画くらいは読んだ方がいい。ヤクザものの漫画でも、あるいはマフィア映画でも、武器や暴力で脅して証文や契約書にサインさせる、署名捺印させるなんて当たり前の手法だ。そういったことがフィクションで使われるのは、もちろん現実にいかにもありそうな話、よくある話で、説得力があるからだ。 
安倍さんはテレビで株価ばかり見てないで『相棒』でも見ればいいのに。今の民主国家日本の警察だって、実は違法行為になる命令は口頭で証拠を残さないようにやるか、一見違法ではないように見える文言の命令書を出す。そう言ったリアルな社会で実感することをきちんとドラマ化しているから『相棒』は人気があるわけで。
こんな世間では当たり前すぎて大衆エンタテインメントでも常套の手法にすらなっていることを無視して、とはあまりに教養がなさ過ぎて恥ずかしい。

河野談話の検証の結果それ自体は、「ずべての慰安婦が強制だったわけでは」という国家の出す声明文としてあまりに非常識な文言が当初あった以外は、ごく普通の外交手続きが示されたに過ぎない。

それでも安倍さん達は、韓国の圧力だか朝日新聞の陰謀だかに負けて出されたもので日本は韓国の陰謀の被害者なんだ、と言い張りたいらしく、報告書自体もその恣意的に歪曲された解釈に読者を誘導する意図が相当に明白だ。

日韓関係をぶち壊しにしたいようにしか見えないことはさておいても、よく考えてみたら奇妙な心理だ。朝鮮日報の社説に「日本外交の独自性を自ら否定している」と皮肉られた、つまり独立国としてあまりに恥ずかしいことを自ら公言している、とイヤミまで言われてしまったのだが、これは「安倍晋三は危険なナショナリストだ」と言うだけでは説明がつかない問題ではないだろうか?

これまで世界史のなかで普通に理解されて来たナショナリズムとは、ベクトルが逆なのだ。ナショナリズムとは通常、民族や国家の正義と勝利、少なくとも闘ったことや勇敢さを称揚するものなのだが、安倍晋三の時代の日本のナショナリズムは違う。

たとえばソウルにでも行けば、韓国は日本の植民地支配への恨みつらみで被害の歴史を教えて洗脳している反日なのだ、と言った日本人の思い込みがまったくの誤りであることに気づくはずだ。そんなに抑圧と被害の歴史を教えたいのなら、たとえば日本総督府を撤去したりはしない。だがまさに被害の象徴である日本総督府は跡形もなく広大な広場になり、感福宮を復元して韓国のナショナリズムがしきりに強調しているのは(といって植民地になる前にも李朝の皇帝がほとんど住まなかった宮殿だし、北京の紫禁城の縮小コピーでしかないのだが)、朝鮮民族の偉大な歴史であり(李氏朝鮮は実際にはかなりひどい王朝だったが)、ハングル文字の開発を命じた李朝の皇帝の金ピカの像まで立てている(そのハングルは、民衆が文字を読めるようになるのを嫌った後の皇帝達が封印したのだが)。

5.4運動が起こった公園には、抗日抵抗を呼びかけた当時のインテリたちの英雄化された銅像と記念碑が並んでいるが(実際にはたいした数ではなかったのだが)、それこそ日本軍が朝鮮人民に銃剣を突きつけているような像はどこにもない。

ソウル市内には植民地時代のことを展示する博物館もあることにはあるが、相当にうらびられているし、展示内容はまったくたいしたことがない。「あんなところ行かなくていい」と言われたのは僕が日本人だから気を遣ってくれていたのかと思えばそうではなく、単につまらない、韓国人にとっても退屈だろう。

これは中国でも同じで、たとえば抗日戦争時代を描いた映画はかなり作られても、そのテーマは中国の民衆がいかに抵抗したかであって、日本軍が酷かったことは物語の舞台背景設定でしかない。

満州帝国の首都・新京であった長春では、日本時代の公的な建築物がそのまま使われている、憲兵隊本部が共産党本部になっていたりして、皇帝・愛新覚羅傅儀の宮殿が日本の圧制の記念館になっている…というと仰々しく聴こえるが、傅儀が住んでいたのは仮宮殿で、町の中心部からは外れた、相当にこじんまりとした建物だ。

ベルトルッチの映画『ラストエンペラー』は実際にここで撮影されたので、映画ファンが期待して行くと、立派に見えたのは映画のマジックであり、しかも外装と中央の吹き抜け階段以外のほとんどの大仰な室内セットは、チネチッタに作られたセットだった。

ベルナルド・ベルトルッチ監督『ラストエンペラー』

はっきり言えば長春に日本支配が残した公的な建造物のなかでもっとも地味で目立たないものだけが、日本支配を伝える博物館に当てられていて、展示内容もえらくチャチでなんの感興も呼び起こさないのが実際だ。ソウルの記念館もそうだが、これで「日本はこんなに酷いことをしたんだ」とか涙を流して反省する日本人がいたら、そいつはサヨクの偽善者だ、とすら言ってしまいたくなるほどあっけない。

南京事件などで強調されるのは「日本軍が酷かった」よりは「日本軍が強かった」ことだ。日本軍が強ければ強いほど、それに抵抗し続けた中国民衆や、敗退させた八路軍がより強かったことになるからだ。だから中国側が国内では南京大虐殺の被害者数を30万と言っていることの意味も、誤解しない方がいい。

 張芸謀監督『紅いコーリャン』

イスラエル国家の樹立が正当化され、受け入れられたのは、世界史的に見ればホロコーストがあったからである。だがイスラエルでは建国後40年以上、ホロコーストはあまり語られない歴史であり、そこを逃れたり生き延びてやって来た移民は無視される、いわば差別対象だった。

70年代に書かれた遠藤周作の『死海のほとり』には、「私」がエルサレムでホロコースト博物館を訪ねる描写がある。誰も見学者がいない、うらびれた、埃じみて寂しい場所だ。それは中国でも韓国でも、被害の記憶を展示する博物館はたいがいそんなものなのだ。

こと韓国やイスラエルでは、そうなるのは当たり前でもある。韓国なら北朝鮮、イスラエルならアラブ諸国と、独立以来ずっと戦争状態にある国家だ。自分達の民族の悲惨な敗北の歴史は封じ込め、英雄的な勇敢さと力を称揚するナショナリズムを作り上げなければ、戦い続けられない。

フランスは極めてナショナリスティックな国であり、今も超右派の国民戦線の伸張が危惧されているが、フランスはナポレオンがワーテルローで惨敗して以来、戦争に勝ったことがない。それ以前だってたいがいは、戦争に負けている。ナポレオンが国民的英雄に演出したジャンヌ・ダルクは、フランス国土の半分がイギリスに占領された百年戦争のヒロインだ。

そのジャンヌ・ダルクと第二次大戦中のレジスタンス、そして国民的な人気マンガである『アステリックス』(カエサルに侵略されたガリアで、ひとつの村が抵抗し続ける話)が、いわば現代フランスのナショナリズムを規定している。だがそこで強調されるのはいずれも、占領されて悲惨な目に遭ったことではなく、雄々しく闘ったり、粘り強く抵抗したことである。


ポーランドはドイツとロシアという二大強国に挟まれた辛い歴史を歩んで来ただけにナショナリズムが強い国だが、その国民的叙事詩とされる『パン・タデウシュ』は、ナポレオン戦争の流れで一回だけポーランド人がロシア人を追い出したことを、ほがらかでおおらかに歌い上げるものだ。

アンジェイ・ワイダ監督『パン・タデウシュ物語』

「自分達が負けた」「被害者だった」なんてことは、ナショナリストにとってあまり嬉しいことではないし、国家にとっては国民が暗く鬱的に落ち込んでしまうからあまり言いたくない歴史なのが普通だ。

ところが今の日本のナショナリズムはまったく違う。中国戦線の勝利や英雄的行為に沸き立った日米開戦前の日本のナショナリズムとも違う。

日米戦争の最中でも、大本営は日本が敗北を続けていることを「大本営発表」で国民に隠し続けて来た。 
実は国民は日本が確実に負けていることに気づいていたはずだが、それでも「勝った」「日本は強い」「神国だ」とうわべではかけ声を掛け合い続けなければ、戦争なんて続けられない。確かに戦前戦中の日本のナショナリズムにも、マゾヒスティックな面はあったことは当時の戦意高揚映画を見ても分かる。人々が共感したのは勝つことよりも、苦しい戦場で耐え抜く兵士や、自分を押し殺して大義に殉ずる苦悩だった。

木下恵介監督『陸軍』
 だがそのマゾヒズムは決して、「自分達は被害者だ」と負けていることを吹聴するのではない。もっと真剣だしそれなりに感動を呼んだのは分かる。

たとえば河野談話の検証報告で安倍晋三たちが言いたがっているのは、要は日本が韓国に負けた、ということでしかない。

靖国参拝をどうしてもしたいのは、韓国や中国や、今では米国に、日本が確実に批判されるからである。そしてその度に批判を浴びては、「韓国は、中国は反日だ」と言い続けて被害者になりきれるのである。

あたかも自分達が被害者である、イコール自分達は正義で、“いじめる側” が悪だ、と言いたいだけであるかのようだ。

これは国家間の関係や歴史に関することだけではない。たとえば死刑制度を支持する人たちは、被害者と被害者遺族を徹底的に利用し、自分達がその側にあるかのように装うことで、死刑を正当化する。

先日、さる知人が自分の本だから読んで欲しいと言われて、『さよならサイレント・ネイビー〜地下鉄に乗った同級生』という地下鉄サリン事件の実行犯のひとり豊田死刑囚についてのノンフィクションを読んだのだが、読み進めることがどんどん苦痛になって何度も投げ出したくなってしまった。

なにが苦痛って、この本の言いたいことは極めて明確だ。バッサリ言ってしまえば「友達の豊田君がこんなことになって僕は悲しかった。オウムもひどいし社会もひどい」。あまりに想定の範囲内というかワイドショー的で単調、まるで「豊田君(無自覚に、イコール著者本人)が遭ったひどいこと」のショッピングリストでしかなく物語的なうねりも構成もなく、単に退屈で読者不在…になるのも当然で、そもそも “人間” が不在なのだ。

著者は豊田死刑囚の親友で大学も一緒だったという。その友達をオウムに奪われ、止められなかった苦悩と良心の呵責が全編を貫いてでもいればまだお涙頂戴で読み甲斐はあったかも知れないが、自信の内面や思いを惜しげもなく披瀝する割には、苦悩も呵責もまるでない。そこではオウム真理教への憎悪と友達の豊田君を誤解している世の中への憎悪が、どちらも明確に既定されることも分析されることもなく、ただ感傷的にないまぜになっている。

そして著者が浮かび上がらせようとする豊田君像は、ひたすら被害者としての受け身の存在であり、人間として空虚でしかない。著者はその人間像を浮かび上がらせようという努力を放棄して「彼はこんなに真面目で純粋な人だった、洗脳の被害者なのに、加害者呼ばわりする世間は酷い」と、村上春樹によるサリン事件被害者(ならぬ「あの3月20日の朝」の体験者)の証言集『アンダーグラウンド』にまで見当違いの八つ当たりを始める。

そりゃ自分の意志ではなにもしていなければ、「悪いこと」はしていないことになるので、結果として「正義」、少なくともクリーンに見えるという理屈にはなるのかも知れないが…。

読者が関心を持つ、あるいはこれが文学として成立する中心軸は、なぜ豊田死刑囚のような自然科学の最先端の教育を受けた、素粒子物理学を専攻していたような「もの凄く科学的な人」のはずが、オウムのような矛盾だらけで非科学的な教義に染まってしまったのか、という疑問である。その豊田死刑囚の主体的な物語が浮かび上がらなければ、彼がどう生きてなぜこうなったのかを読者に感じさせなければ、文学として成立しない。ノンフィクション、内面の直接描写が禁じられた実在の他者を事実から描写するのでも、間接話法の技巧でそこを浮かび上がらせるから、たとえばカポーティの『冷血』は傑作なのだ。

トゥルーマン・カポーティ原作、リチャード・ブルックス監督『冷血』

あるいはフィクションならば、ドストエフスキーはラスコーリニコフ『地下室の手記』の主人公が徹底的に病んでいる、その病んだ主人公の意志や行動を語るから文学なのであり、シェイクスピアの悲劇の主人公は愚かであるからこそ、その愚かさ故の人間性の深さが産む悲劇に、我々は引き込まれる。

あまり愚かであるが故に深く愛した」、『オセロー』オーソン・ウェルズ監督

「豊田君」はこの本の主人公でありながら、そこには居ない、空虚でしかなく、空虚であるが故にいくらでも想像できる「被害者である豊田君」像に、また著者があられもなく自分を同化させたマゾヒズムのホモソーシャル幻想は無自覚に淫猥ですらある。

だが結果としてひとつだけ、『さよならサイレント・ネイビー』から学べることはあるのかも知れない。結果論として、なぜオウム真理教が産まれたのかの理解のきっかけは、与えてくれるのだ。

あくまで結果論として、なぜ「自然科学エリート」であったはずの豊田死刑囚を初めとする地下鉄サリン実行犯たちがオウム真理教にはまり、あのように幼稚で不合理で結果だけは恐ろしく暴虐な、動機の滑稽さと結果の悲惨のギャップがあまりにも不条理な事件を起こすに至ったのかを、『さよならサイレント・ネイビー』という世にも曖昧模糊として漠然たる自我の不確立な自己愛の書は、ちゃんと提示してはいるのである−−著者まで含めて病理の観察対象として見た場合には。

言語化されていない曖昧な映像の連続であるが故にそこまで明確に認識されないが、森達也の『A』『A2』も実は同じような叙述構造を持っている。そこで決定的なのはこの映画のカメラが遠慮なく言えばもの凄くヘタクソであることであり、「大人」や「プロ」の仕事に絶対に見えないことが、オウムに自己投影するこのいわばセルフ・ドキュメンタリーを成立させている。 
原一男が今、セルフ・ドキュメンタリーの傾向が強い日本のドキュメンタリー映画の現状を論ずる連続講座を主催している. 
原がこの最近の傾向について率直な疑問としているのが、そうしたセルフな作品のほとんどが「カメラが下手」(原自身はキャメラマン監督で圧倒的な撮影の名手)なのと「勉強をしていない」なのだが、むしろ下手であり不勉強、つまりは努力不足があからさまだから成立しているのが、このような「自己表現」なのではないかと僕は思う。 
そして実はそれは決して本来の意味での「セルフ」、つまり自己の表現ではない。空虚で主体性のない自己だから、映画とその作り手と観客が「受け身」の立場を共有できるから、決して感動ではないなんとなくの同化意識で、一定の満足を与えられるのだ。 
と同時に、それに満足できる観客というのは、実は「オウム化」が進行している現代日本人、あくまで「受け身」であり、好き嫌いや感情はあってもそれを基に他人には干渉しない、だから自己責任を負わずに済む地位に安住できる場を求めているのではないか。

たとえば『さよならサイレント・ネイビー』のような社会の認識、世界と自分との関わり方をしていれば、オウム真理教に洗脳されたり、安倍晋三が首相になってしまうのは、ある意味当然ではないか。

自然科学の先端教育を受けていたかどうかも実は関係がなかった、というより「科学とはなにか」の理解が、その最初の一歩から間違っていたのではないか? 著者にとっても、著者の無批判で潜在意識レベルでは多分に同性愛的な(フロイトの論に従えば性志向が未分化で幼児的な、無自覚な鏡像としての)同化幻想の対象としての豊田死刑囚にとっても、恐らく自然科学が提示する「真理」もオウム真理教の教える「真理」も、あくまで受け身で自分が主体的にその探求に関わる意志を持てない点において、そうすることで常に受け身の「依存者」ないし「被害者」であり続けたかったことに、本質的な違いはなかったのだろう。

科学も宗教・哲学も、本来の投企には人間が世界の根本的で普遍的な原理を探求することが根幹にあるはずだが、この著者や彼が同化対象とする豊田死刑囚に於いては、その主体性が予め去勢されているというか、そもそも豊田死刑囚にせよ著者自身にせよ、その自己という個が見えて来ない…というか「ない」のだ。 
あくまで受け身に、そうした「真理」を与えてくれるシステムに依存することだけが彼らの主体的な選択で、それが東京大学だったり麻原彰晃であったりしただけなのか、「真理とはなにか」を自らの主体性で考え続ける意思が見当たらない。

そしてこの被害者でありたい、常に受け身でしかない場に自分を置き続けたいいわばオウム的なマゾヒズムは、1995年から10数年のあいだに、日本社会の全体に蔓延してしまったように思える。決定的だったのは北朝鮮による拉致事件だ。帰還した元拉致被害者の蓮池薫さんの兄、蓮池透さんが、それを適確に指摘している。


それまで日本は植民地支配と戦争犯罪の加害者だと言われ続けて来た。だが拉致事件では日本人が被害者になった。とたんにマゾヒスティックな負け犬のナショナリズムのタガが外れてしまった、と蓮池透さんは指摘する。

安倍晋三は日本の右傾化を代表する政治的な事象である、という見方が国際的に定着しつつある。麻生さんが「ナチスを見習え」と言ってしまい、橋下徹さんが米軍も日本の性風俗を活用しろと言って慰安婦制度を肯定してしまい、都知事選挙で舛添さんが「女には生理があるから政治家に向かない」と言ってしまい、安倍がダボス会議で「中国との戦争も辞さない」という意味にしかとられないことを言って国際経済の関係者を震撼とさせ、今度は都議会での女性蔑視丸出しの野次とその顛末が注目され、日本の政治には旧態依然の時代錯誤な父権的・男性至上主義的なファシズムが蔓延しつつあるのではないか、と世界に思われ始めている。

今回の河野談話の検証報告や、安倍がその前に河野談話を撤回しようとしたことも、こうした従来型のファシズムへの懸念の文脈に位置づけられて警戒されているのは、ある意味では当然だ。

だがこの理解は皮相に過ぎず、安倍晋三の日本という政治事象と、その根底にある現代の日本の本当の病理の一面しか捉えていない見方だと、僕はあえて思う。

ダボス会議での安倍の発言も、「中国との戦争を辞さない」という意味をそこで読み取ることは、安倍本人や日本人の感覚からすれば誤解なのだ。あれは文字通りに読み取らなければならない発言であり、安倍は本気で「日本は中国にいじめられている被害者なんだ」と言うことで自己正当化が計れると信じ込んでいて、「そんなにいじめられたらボク逆ギレしちゃうぞ」と言っただけなのだ。

にわかには信じ難い幼稚さだが、安倍晋三にとって河野談話の検証は、まったく単純に「日本はこんなに韓国にいじめられて言いなりになった被害者なんだ」と言いたいことだけが動機なのだ。慰安婦の存在をなんとか無視したいのは、加害者であったことが「被害者=正義」という自己イメージの邪魔になるからだけなのである。

被害者になりたいマゾヒズム、弱者であるかそこに同化することで自分の存在が正当化されるという、今や日本の全体に蔓延した倒錯を理解しない限り、今の日本が本当に陥っている危険な病理を、止めることは出来ない気がする。

言うまでもなくこれは根本から倒錯した認識でしかない。被害と加害の関係において加害者が悪であることは、被害者が正義であることを意味するはずがないのである。

人間が正義、正しくあり得るとしたら、それは自分の意志で正しい行いをした時にのみ担保される。そして被害者であったり被差別者、いわば「弱者」である立場とは、その主体的な行動の権利を予め奪われてしまっていることに他ならず、それは人間として恐ろしく屈辱的な状況であり、およそ正義なぞ名乗る気になれるものではない。しかも自分の力でそこから抜け出すことが、恐ろしく困難なのだ。

実際に被害の当事者である者たちは、そのことを自らの人格が破壊されかねないほどの痛みと共に知り尽くしている。

その絶対的で絶望的な困難のなかで、それでも主体的な意志で立ち上がる時にこそ、自分の人生を生きる決断をした時にこそ、「物語」が産まれ、その決断の方向性がたとえ間違っていようが正しかろうが、それは時に芸術ともなり得るのだ。

たとえばその慎ましやかにして雄弁な例が『アンダーグラウンド』であり、ドキュメンタリー映画であれば土本典昭の水俣作品であり、もっともラディカルで破壊的なのが例えば原一男のスーパーヒーローシリーズだ。

あるいはそれを、自分を語るいわば「セルフ」によって成し遂げたのがリティ・パニューの傑作『消えた画』であろう。



13歳の時に祖国カンボジアでクメール・ルージュ時代が始まってしまったパニューにとっては、自分を語ることこそがその “それでも立ち上がる時”、奪われた自分を取り戻すアクションであると同時に、これは「被害者でしかない自分」を冷徹な覚悟で突き放す映画でもある。

6/22/2014

「河野談話」検証報告という外交上の自爆行為


安倍晋三さんは高校生の時に強姦事件を起こしていて、岸家(安倍家)の圧力で警察が握りつぶした、という噂が永田町界隈では根強いそうだ。

この書き出しを見て怒り出す人も、安倍政権があまりにデタラメなので筆者もついに気が触れたか、と思う人もいるだろう…が、ここにはあくまで、永田町つまり政界(実を言えば、それもむしろ自民党界隈)でそういう噂が行き交っているという事実が、伝聞で書いてあるだけだ。

そう言えば安倍さんが前に首相の時は自分の一身上の、病気でやめたはずなのが、自分で辞任会見はやっちゃうわ、復帰しても悪びれる様子もなく前回の失態の謝罪もしなかったのは、実はたいして重症ではなく、また自分から辞めたのではないからだ、と言うまことしやかな噂もある(というかこれは公然の秘密と言っていい。もちろん病気のことはただの言い訳で誰も本気になぞしていない)。 
なんでも山口組系からの献金を暴露すると彼の無能を疎んだ霞が関に脅されて、と言うまあこれも永田町で聞く噂だが、そんなのが総理だとしたらどう思います、的な風聞を、あくまで不確かな伝聞と断りつつ…あくまでそう言う噂があるらしい、と僕はお伝えしてるだけですが、どうなんでしょうね、総理にふさわしいんですかね…。 
いやだって、高校生時代についての「噂」は、これを言い合っているのがその安倍晋三を総理総裁に選んだ自民党の人々なんですよ? 
それも元首相で自民党最大の有力者の一人の一族ならば警察が犯罪でも隠蔽してくれるという話が当然の前提になってるんですよ、自民党関係者の間では。安倍氏自身の噂の真偽より、そっちの方がよほど問題だと思うのだが。

いやこれだって言論であまりやっていいことではないのだが、この際これもやむを得ない、というより安倍晋三さんに文句を言われる筋合いはないだろう。

たとえば安倍政権が従軍慰安婦問題の河野談話についてやった「検証調査」だの「報告書」だのは、要するにこれと同じこと、火のないところに一生懸命煙を立てる悪質な印象操作である。

最初は河野談話自体を撤回したかった安倍政権が、それは国際社会…というかアメリカが許さないと分かって、悔し紛れになんとかこの談話の信用性を毀損するイメージを作りたくてやっていること…に見えるのは日本国内で見た場合であって、たとえば朝鮮日報は社説で「河野談話検証は韓日関係の破たんが狙いなのか」と即座に反応した。

朝鮮日報の社説(日本語訳)

そう思われても仕方がないのだが、安倍首相とそのオトモダチ内閣は、この「調査報告」とやらが外交上そのようなメッセージとしてしか受け取られ得ないことに、どうもまったく無自覚なようなのだから恐れ入る。

安倍晋三が中国や韓国などの近隣諸国の関係を破綻させようという意志を持っているのなら狂人だろう。 
だが実際には、彼は恐らく自分のやっていることがそういう意味になってしまうことに気づいてすらいない。 
狂っているというよりも単に愚かなだけなのだが、どちらが危険なのかと言えば、ここまで来ると相当に微妙な問題である。

それに安倍がどんなに駄々をこねようが河野談話は撤回も修正も出来なかったのだから、そもそも意味がない「調査」だ。そんなに撤回したかったら、この調査をやってから「撤回する」とか言えばまだ筋が通るのに、この総理大臣のやっていることはまるで子どもだ。

客観的に、普通の国際標準で考えれば、こんな報告書を出したところで、悪意の印象操作以外の動機が見当たらない。まさか安倍晋三とそのオトモダチたちが悔しかったから、それをなだめるために国費を浪費だなんて、常識では考えつかないことだ(それだけ日本の政治状況が非常識になってしまっている、ということだでもある)。

報告書は冒頭で「河野談話に問題はない」と結論づけながら、延々とその結論を否定するわけではないが恣意的な引用で河野談話の印象を悪くするのには使える記述が、延々と21ページも続くそうだ

その意図を問われれば安倍政権は「いや河野談話は継承すると言ったはずだ」と言い張り、「ちゃんと問題はないという報告書を作ったじゃないか」とうそぶくのだろうが、もちろんそんなのは真意ではない(だったらそもそも調査自体やる意味がない)。

靖国神社に参拝するのだって、この人たちの場合はもはや英霊だ戦死者だのではなく、中国や韓国に反発され「サヨクのマスコミ」に叩かれる、そこへの対抗としてやっているだけだ。

なんとかケチをつけたい、というのがあまりに子どもじみている。

だからこそ、事実関係の再確認自体は、この談話の文責を負う河野洋平元官房長官自身が「足すべきところも引くべきところもない」というその通りだとしても、導き出されることを狙った恣意的解釈の方には多いに問題がある。

たとえば慰安婦の徴集に強制性があったとみなす結論が、元慰安婦の生存者16名の証言を取る前からほぼ決まっていた、と言われると、あたかも証言の信用性が薄いか、事実を証言で確認する前から決まっていた政治的結論だったかのようにとることも出来る。

もっとも、まともな常識があればそんな憶測は一笑に伏されることだろう。歴史学的な見解として、朝鮮人慰安婦の多くが強制で慰安婦にさせられたことは定説だったから、それを覆すような他の結論には、国家の名誉にかけて至りようがなかったのだ。

というか歴史学上の定説以前に、そんなのは戦後昭和40年50年代くらいまでは、日本人の常識だったわけだし、植民地宗主国の軍隊に植民地の女性が性奉仕をしていたという状況だけで、「強制はなかった」なんて言ったら国際的な常識ではモノ笑いのタネである。

河野談話の発表前に日本政府が韓国に文案を提示して非公式の外交上の折衝があったことも、いかにも安倍晋三さんとそのオトモダチたちが言いたくてしょうがないことのようだが、仮にも国の公式見解を出すのだから、そのように万全を期すのは当たり前の外交上の手続きだ。

せっかく公式談話で慰安婦問題の一応のカタをつけようと言う時に、かえって諸外国の不信を買ってしまっては外務省はどこまで怠惰で無能なのか、という話になる。

それどころか、普通に読めば報告書は日本側が当初どれだけ愚かだったのかまで明らかにしてしまっている。どうも日本側が強制の事実は否定のしようがないので、「すべての慰安婦が強制だったわけではない」とする文言を入れたがっていたらしいのだから呆れる。

そもそも日本国の責任が問われるのは強制されて慰安婦になった人がいたのが日本国家による人権侵害だったことであって、全員が強制であったかどうかなんてまるで問題ではないただの詭弁…にもなっていない。子どものいいわけだ。

ちょうど都議会で女性議員に「(子どもが)産めないのか」とヤジが飛んだことが問題になっているが、安倍晋三氏は「自民党の議員が言ったという証拠はない」、石破幹事長の「自民党議員と特定されたわけではない」とお茶を濁しているが、これも似たような心理に基づく子どもの言い訳だ、としか言いようがない

仮に一部の慰安婦だけが強制されたのであっても、それでも日本国家の責任は日本国家の責任なのだ。しかも「一部」であったはずもない。

安倍晋三のオトモダチのなかには、慰安婦は売春婦だったのだ、と言い張る人がいる。朝鮮の娼婦が慰安婦になった、職業売春婦だったら強制ではなかったはずだ、と言いたいらしいのだが、職業売春婦だって仕事の条件や、筋のいい客か悪い客かは当然気にするし、どこで仕事をするかによって客筋は変わる。

日本軍の兵士がそんなにいい客筋だったとは言い難い(将校クラスならともなく)し、まして軍専属の、前線に近い施設で軍に縛り付けられての売春業なんて、プロだったらまず避ける話だ。

安倍晋三氏とその周辺が言いたがっていること、この河野談話に関する調査報告で匂わせたがっていることは、彼らの内輪でしか通用しない理屈にしか基づいていない。いやこの調査をやらせたことも含めて、彼らにはこういうこと自体を日本社会や国際社会がどう受け取るのか、特に実際の慰安婦問題の被害当事者である人たちからはどう見えるのか、をまったく考えていないのである。

これでは子どものお遊びである。

ちなみに冒頭で書いた安倍氏に関する噂は「あるらしい」ではなく、本当に永田町方面ではかなり飛び交っている話だ(噂があることは誰も否定出来ないだろう)。 
むろん事実だとしても岸信介の孫だから警察に訴えても握りつぶされるし、被害者は金を渡され泣き寝入りだろう。だがそんな事件を起こせば、さすがに早稲田慶応レベルの私学は、いかに岸信介の孫でもそんなのを入学させるわけにはいかず、安倍さんの学力でもなんとかエスカレーター入学出来た成蹊大に、と話は続く。 
まあことの真偽は(北朝鮮の先代の指導者に関する変な噂とも同様に)無論定かではないが、このような “根拠” の方がまだ、この報告書を安倍政権がなんとか河野談話の信用失墜・無効化につなげようとしていることであるとか、そのオトモダチ連中が慰安婦に高額の報酬を約束するとした募集広告を引っぱり出して来る非常識よりは、遥かに説得力がある。

もうひとつ、実は長期的に考えれば日本の外交にとってもっと大きな損害が、この報告書を公表してしまったことにはある。

実際には河野談話について韓国など他国の外交当局と折衝していた(韓国が推計でもっとも慰安婦にされた人が多く、また90年代に最初に名乗り出たのも韓国の女性たちだった以上、韓国が最大の相手国になるが、慰安婦制度の被害はインドネシアでも生存者が存命中など、日本が戦地を拡散し支配した各地で起こっている)としても、そこまでは非公式折衝だ。

外交の当然のルールとして、他国との非公式折衝はオープンにしないことが最初からの約束であり、だからこそおおっぴらには言えない想定も含めてあらゆる可能性をぶつけ合って、首脳レベルの交渉の下準備をするのが外交当局の役目だ。その内容を相手国に断りなく公表してしまうのはルール違反であるだけではない。双方の国家機密の暴露なのだ。

日本はこの報告書で、韓国と日本双方の国家機密であることを公表してしまった。これだけで韓国政府を蔑ろにした攻撃的な行為とみなされるだけではない。日本と外交関係を持つあらゆる国が、日本は絶対に明かしてはならない外交官同士の紳士協定を平気で破る国だと判断していることだろう。

それこそ非公式折衝で伝える自国の機密レベルの情報などを日本相手に共有することは大いに警戒されて当たり前になってしまう。

あまりにも滑稽なのは、まさにそうした事態を阻止することが目的のはずで安倍晋三政権が物議を醸して採決を強行した法律が、特定秘密保護法だということにある。

外交上の非公式・秘密交渉の内容の暴露が処罰対象でないのなら、この法律をなんのために作ったのかすら分からなくなる。当然、真っ先に国家機密扱いされるべき内容なのだから。

まだ細則が決められず施行されていないこととはいえ、安倍晋三氏が主犯になって、自分達が必死で決めた特定秘密保護法に違反してしまったのがこの河野談話をめぐる報告書騒動なのである。

この河野談話に関する報告書のもうひとつの問題は、日本国の威信を思いっきり毀損してしまったことなのだが、それは先述の朝鮮日報の社説の結論で、僕なぞとても適わない皮肉たっぷりで指摘しているので、そのまま引用しておきたい。

韓日間の外交交渉について、安倍政権は何か「取り引き」でも行われたかのように事実を歪曲(わいきょく)している。安倍政権が今になって「外交交渉を経て日本政府はやむなく河野談話を発表した」という印象を持たせようとしているのなら、これは日本による外交の独自性を自ら否定することにほかならない

6/14/2014

「中間貯蔵」施設という欺瞞


なかなか福島県浜通りに足を運ぶ機会がなく、『無人地帯』とその続編『…そして、春』(まだ完成資金を集め中)でお世話になった皆さんには申し訳ないことになってしまっているが、いつのまにか除染廃棄物の「中間貯蔵」施設はここまで計画案が進んでいるらしい。


報道が少なかったからとはいえ、「いつのまにか」と言っていいことでは本当はない。決定的に重要なことなのだから。

さらに申し訳ないのは、これだってよく考えれば「いずれこうなるのは分かっていた話ではないか」だということだ。

除染をやってしまえば、置き場所をどこにするかといえば、双葉町と大熊町以外にはあり得ないことも分かり切っていたはずだ。

まさかより汚染が少ないところ、それこそ福島県外に持って行くわけにはいかないのだし、それはただ除染の廃棄物のことだけではない。

使用済み燃料や廃炉解体した原子炉などの核廃棄物の最終処分施設も、青森県六ヶ所村などを政府は一応候補として上げているが、合理的な判断として「今安全なところよりもすでに汚染されているところ」になるに決まっているのに、六ヶ所の人たちに押し付けるのも無理があることは、自分達がすでに同じ目に遭わされている双葉や大熊の人たちには、分かっているだろう。

ここが「中間」で済むわけがないし、「中間」と言ったってそのタイムスパンは数十年単位だ。

いや「中間」と「貯蔵」という言葉が仲良く並んでいること自体に、矛盾と欺瞞が目に見えて現れている。そんなこと当事者の人たちは最初から分かっていただろう−−いや、その人たちだけしか真剣に考えて来なかった。この点でも政府の対応は極めて不誠実で相手を馬鹿にしたものだったが、十分に批判したり止めようと議論しなかった我々の責任も逃れ得ない。

しかし「国民を騙す不誠実な政府」というのは歴史上あまたあるが、すでにバレているような分かり切った噓を言い張って国民を黙らせる今の日本政府のような不誠実さというのは、さすがに希少例だろう。

どうしても誤摩化してはならないことがある。

双葉と大熊の海側に除染の中間貯蔵施設が出来るということは、原発事故で当分は帰れない、何年待つことになるのか、あるいは「皆さんが早く帰れるように一生懸命除染します」と政府が言って来た今までの状況とは、まったく違った話だということだ。

まず「中間」といって何十年か分からない、いや「中間」で済むわけがない「中間貯蔵」施設が出来るということは、大熊の夫沢であるとか原発の直近の人たちが「いつになったら帰れるのか」ではなく、「もう永久に帰れない」ということだ。大熊町では交渉の上では、恒久施設にするなと政府に圧力をかけるために買い上げでなく借り上げを主張はしているが、何十年後かに返還されたところで、住むこともできないしまして農業なんて、と実際にはみんな分かっている。

『無人地帯』より、大熊町夫沢に住んでいた中野さん
強いて言えば借り上げであれば、避難先の人たちの定期安定収入にはなるので、今さら土地をどこかに買っていちから、というのが無理な人たちにはその方がいいかも知れない。だがそれなら、相当な金額を国は準備すべきだ(といって国が払うのか東電なのかも曖昧なままだ)。 
あとこれが恒久施設だと明言されれば、大熊と双葉の地方行政、町役場は存在する意味がなくなり、大熊町と双葉町自体が消えてしまうことになる。

さらに重要な、無視されがちなことがある。

「中間貯蔵」施設が出来れば「帰れなくなる」のは、原発事故がまだ不可抗力の、致命的な過失ではあっても決して意図されたわけではない、要は「事故」であり偶発的だったこととは、まったく次元が違う。これからは双葉や大熊の人たちが「帰れなくなる」のではなく、誰かの主体的な意志で「帰れなくする」のだ。

他に選択の余地がないからといって責任逃れは許されない。ここに「中間貯蔵」施設を作ると言うことは、その土地を社会が全体の利益のために犠牲にしているのだ。

除染には効果がない、という決め付けにも大いに問題があって、もともと今回の事故の「除染」はなぜか農村がモデルでなく、都市近郊住宅地を想定したマニュアルになっていたから、もっとも汚染が危惧される双葉郡の大部分や飯舘村ではあまり効果がない(そんなに効果が出るはずがない)のだが、中通りの郡山市や福島市の市街地や住宅地域なら、確実に効果は出るはずだったし、現に(取り残しのホットスポットはまだ多々あるにせよ)出ている。

それはきちんと評価すべきであり、「福島は危ない」「住んではいけない」と、事故発生当初のパニックの自己正当化で言い続け、挙げ句に未だに「鼻血が」などで騒ぎが起こるのも、ずいぶんと無責任な話だ。

一方で2011年半ばから、福島県の各地で自治体が除染に熱中して不必要な除染まで行われ、結果として必要以上の除染廃棄物が出てしまったかも知れないのも、事故発生直後の社会情勢からして責められることではない。とにかく「福島は危険だ」と大騒ぎが始まり「逃げろ逃げろ」の大合唱が、福島がどれだけ広い県でどれだけ複雑な地形を持っているかも無視して、挙げ句に米軍のとりあえず50マイルを「アメリカは80Kmと言っているから日本政府は安全デマ」という無茶苦茶な話まで飛び出し、放射能汚染の風評が全国を駆け巡ったなかでは、実際の放射性物質以上に「放射能で汚染されている」というレッテルを、農業が今でも重要産業の福島県各地の人々が恐れたのは当然の話であり、差別される立場になった人たちがまずその差別の直接理由を取り除こうとするのは、当たり前の反応だ。

また福島県の各地で、ほとんどの場合事実に反する「福島県には住んではいけない」的な困った言い草の流布への反発から、原発事故を理由に移住することを「故郷を捨てるのか」と批判する、反発を持ってしまうことも十全に理解はできる。

福島県は元々の日本の行政単位ではひとつの「国」ではなく、江戸時代の潘で言えば複数の寄せ集めで面積も広いだけでなく、多くの山で各地域が隔てられている。平野と違って、しかも大量の粉塵が成層圏に舞い上がるほどの大規模爆発ではなかった福一事故の場合、山で隔てられて放射性物質がそんなには広がるわけではないのだが。 
福島県全体が「放射能が」と言う前に、地図と歴史くらい勉強したっていいだろう。

だから決して責めるのでも批判するのでも、「あなた達のせいだ」というのでもないが、だが残酷な現実として無視してはいけないことがあるだろう。

「中間貯蔵」施設が双葉と大熊に作られるということは、他の福島県の諸地域でより安心して生活できるようになるのと引き換えに、双葉と大熊が犠牲になる、ということであり、その予定地に住んでいた人たちが「もう帰れない」と覚悟を決めるのは、故郷を捨てたのではなく故郷を奪われるのだ、ということである。

それが必要だった、避けられなかったという意味では決して安易に責めていいことではないが、それでも「中間貯蔵施設」というのは要するに、原発立地に放射能で汚染されたものを文字通り「押し付ける」ことなのだ。

そこは忘れてはならないし、そこを忘れてしまっては、この原発事故が福島県の全体に作り出してしまった亀裂が、回復不能なまでに大きくなる。

原発事故というのは、「誰某が悪い」と言ったところで始まらない、ほとんどなんの解決にもならない。むしろ誰かを批判することで自らの安全圏を確保し、同じ主張の仲間を増やした気分になることは、問題をより大きくし、直接の被害者の置かれた状況をより残酷なものにすることに、ほとんどの場合つながってしまう。

この私たちの文明と社会が産んだ大変な災厄を前に、「私たち(だけ)は正しい」と言える立場などあり得ない。原発というのはそういう意味でも、人智や人間社会の諸制度を超越してしまっているものなのだ。

この宇宙が存在しているそもそもの根源にあるエネルギーの一端を、人類が「たかが電気」や「たかが戦争」「たかが大量虐殺」のために利用しようとしたのが原子力開発だ。そして戦争や人殺しはともかく、電気のために原子力を使うことは、今の世界では未だに避けられない選択なのかもしれず、他に地球上のすべての人類が少しでも「豊か」に暮らせるのに使えるエネルギー源はないのかも知れない。

なんと56基もあった原発を止めてしまっても、3年近く電力供給を間に合わせられるだけの余力を持っていた経済大国の巨大産業文明立国の日本が、これから膨大なエネルギー源を必要とすることになる発展途上国に「原発は止めるべき」と言ったって、説得力はなかなか持てないだろう。「あんたの国は豊かで権力もあるから。だがうちの国では」と反発されることも、覚悟しなければならないと思う。

実は自分ではずっと中国によるチベットの核開発に反対しているダライ・ラマ14世は、2011年の震災直後の来日時にあえてこの問題を日本人の記者達に投げかけている。 
http://news.nicovideo.jp/watch/nw142265 
さすがは超一流の宗教者だ…。ちゃんと答えられない日本の「フリージャナリズム」は、しょせんその程度のものだった、ということだ。

だがそれでも、その「豊かさ」の結果今福島県で起こっている複雑な矛盾だらけの現実を前にした時、あえて問わなければならないだろう。

人間とその社会の能力を実は遥かに超えていたエネルギー源である原子力に、人類が手を出してしまったことは、本当に正しかったのだろうか?

原発を利用しそれをいわば僻地に押し付けるのは、究極のコロニアリズムである。その人間中心主義の傲慢さで、先進国がこれだけの豊かさを享受して来たことは、全面的に肯定されていいのだろうか?

発展途上国に我々と同じ豊かさを認めないのは、明らかな不公平であり人種差別だ。だがそれをやってしまえば、地球がもたなくなる。

こうした問題を考えること、そしてこの教訓から新しい人類の未来の在り方の指針に到達するには、まずはこの原発災害が引き起こしている複雑さをきちんと把握することから始めるべきだろう。

「誰某が正しい」「誰某が間違っていたからそのせいだ」という図式化のために状況を恣意的に利用するのではなく、まず何が起こって何がどうなってその結果どうなったのか、をきちんと客観性を持ってものごとの全体像を把握すること、恐ろしく複雑で残酷な事態に我々も責任の一端を負っていることから、眼を背けないこと。

もう3年と3ヶ月が経ってしまった。そろそろこの事故の意味を本気で、真剣に、自分達の問題として考え始めなければ、あまりに遅過ぎる。

6/13/2014

ウナギとマグロとクジラと「世界のなかの日本」


繁殖がこの何年か激減していると言われて来たニホンウナギが、絶滅危惧種に指定された。以前にも刺身と寿司の最高級食材クロマグロが絶滅危惧と判断され、「漁獲が禁止されたら日本の食文化が危うい」とちょっとパニックになったことがある。

この指定自体は学者、専門家の国際会議で決まったことで、直接の法的拘束力はないから、まず慌てないように。ただこの指定を受けて「ではどう守るのか」で、将来的にはワシントン条約の対象として輸出入を原則禁止とする、などの可能性はある。

だが「これで禁止されたら日本の食文化が」という方向にしか世論が流れないこと自体、どうにも首を傾げてしまうのである。禁漁になるか以前に、クロマグロでもニホンウナギでも、絶滅してしまえば、それこそ日本の食文化が失われてしまうではないか。

漁が禁止されたら以前に、その魚が絶滅してしまえば、永久に誰も食べられなくなる。なぜこんな当たり前のことに気づかずに近視眼的な愚痴に終始してしまうのか?

日本が日本の食文化を守りたいのなら、むしろ絶滅の危機にあることをアピールして種の保存について積極的にイニシアティブを握る、クロマグロでもニホンウナギでもそれが絶滅しないように日本が中心になってなんとかしないと、「日本の食文化を守る」上での筋が通らない。

それにこれらの種の生態や生息数、つまり絶滅させないために必要なもっとも重要なデータを持っているのが日本である。そこがきちんと動かないと絶滅を回避する有効な計画が立てられないだろうに。

ニホンウナギの場合は繁殖数がここ数年激減していてその理由が分からない、生殖に関する生態自体がかなりの部分未解明で対策が打てないことも絶滅が危惧される原因のひとつなのだが、ことクロマグロは世界的に消費が増えていることがもっとも大きな危険因子だ。

クロマグロの絶命危惧種指定の時には、中国で消費量が増えていることが日本のメディアでたぶんに敵意を込めて報道されていた。中国人がそんなに食べなければ日本人が安心して食べられるじゃないか、と言わんばかりの理屈である。

ウナギの蒲焼きやうな重うな丼は刺身や寿司ほどにはまだ国際的に人気ではないので、主要消費地は7割の日本。とは言ってもウナギを高級魚に昇格させたのはほぼ日本文化だけで、他の文化圏では下手すれば「ゲテモノ」扱いの安い、他に食べるものがないから食べる類いの魚だったのが、それでも既に3割は海外消費ぶんだそうだ。それだけ日本食の文化は世界に広がりつつある。

「和食」は昨年、世界無形文化遺産にまで指定された。

自然の恵みをありがたがりながら四季に応じた繊細な料理と独特の食と味覚の哲学を発展させ、それが貴重な文化として評価されたからだ。なのにその食文化を守ると称して、自分たちが食べて来た生きものが絶滅する危険性を無視して「食べ続けたい」ではまるで矛盾している。

日本料理が注目され尊敬を集め、日本固有の食材の世界的な消費量が増え、数が減り、絶滅が危惧されると「外国が(とくに中国が)食べるな」という世論になること自体、発想が歪んでいることに気づかないのがおかしい。

世界中で日本料理が高級料理として認識され、愛され、学ばれている結果なのだが。

おいおい、安倍政権の売りは「クール・ジャパン」で、観光産業を「成長戦略」にするのではなかったのかよ?なのに自国の文化でももっとも世界的に人気がある分野で排外主義を発揮して「中国人には食べさせちゃダメ」とか、どういうつもりなのだ?

マグロもウナギも、それを食べて来た日本の文化が世界に影響を与えている、いわば世界が “日本から学んで” いるのだ。

だからこそ、その食文化を守るためには、日本がイニシアティブをとれば世界は従う。その種が絶滅したらもう食べられないのだから、日本が自国の食文化を守るためには絶滅しないように保護して種が維持出来るようコントロールもしなければならない、そのやり方も含めて「日本人がいちばんよく分かっているはずだ」と最初から思われてもいる。だからこそ日本から発信すべきことのはずだ。

絶滅危惧種に指定されるのは、自然界のなかでその種の絶滅が危険視されているからであり、人間の政治的な都合でどうこうなる問題ではない。なのに「西洋人はそうやって動物愛護とか言っているが肉食文化じゃないか、鯨が絶滅しかけているのは西洋が乱獲したからじゃないか」と国内でブツブツと不貞腐れたところで、そんな話は西洋コンプレックスを抱えた日本人どうしでしか通用しないどころか、トンチンカンで極めて愚かにしか見えない。

このどうにもヒステリックな国内世論は、商業捕鯨が国際条約で禁止されて以来のこの国に渦巻いているものでもあり、先頃は日本が「調査捕鯨」と称して続けていることについても国際司法裁判所で違法との裁定が出てしまった。

安倍政権ではこの裁判は勝てるつもりだったらしく、首相が外務省の担当官を厳しく叱責したとの報道まであったが、なるほど科学的な事実や最新の考え方を踏まえた議論をきちんと展開していれば、日本に勝ち目がなかったわけではない。

19世紀20世紀の乱獲でもっとも絶滅が危惧されるナガスクジラの個体数は、一応は回復傾向にあるが、プランクトンが主食であるそのナガスクジラを、肉食のマッコウクジラが食べてしまう、だから増え過ぎてしまうとナガスクジラが絶滅する危険も増大する。

生態系はたいがいの生物に天敵がいて個体数が自然調整されることで成立している。ところがマッコウクジラの場合、最大の天敵とは人間が捕鯨をすることであり、人間が穫らないと増え過ぎてしまうと考えられている。

いささかややこしい話にはなるが、マッコウクジラを人間が穫らないこと自体が、人間がマッコウクジラを人為的に増加させ、人為的にナガスクジラが絶滅しかねない状況を作っている意味にもなるのだ。

これを丁寧に説明し、海の生態系を維持することを日本側の主張の根幹にまず置けば、相応の説得力は持つし、捕鯨禁止条約の精神や存在理由にも反しない。

だが日本側の実際の主張をかいま見ると、「こりゃ負けるでしょう」としか言いようがない。適度な数のマッコウクジラの捕鯨はやった方がいい、という最新の科学の生態系に関する考えからすれば決して間違ってはいない指摘までは分かるのだが、その先の「そうしなければ海の生態系が守られない。生態系を守らなければ、クジラを絶滅から救うことは出来ない」という、本来なら日本側が提示する哲学の根本の部分が、あまりになおざりなのだ。

これでは「商業捕鯨を再開したい言い訳で、なし崩しに『調査捕鯨』と称している」という不正直さが批判され訴えられていることへの有効な反論にならない−−というか日本側の主張を実際にみれば、商業捕鯨を再開したいための言い訳にしか見えないものの羅列なのだ。

その上、よせばいいのに鯨の絶滅が危惧されるのは欧米がかつて鯨油目的で乱獲をしたからだという話を、すぐに持ち出してしまう。

日本人が捕鯨をし鯨を食べて来た文化は、確かに『白鯨』のエイハブ船長みたいなのとはずいぶん異なる。だがその日本文化の特殊性と、だからそれを守らなければ行けないと言いたいことが主張の中心のはずなのに、なぜ比較例に過ぎない「欧米の乱獲」にばかり力点が行き、西洋文明が肉食文化で家畜の屠殺が日常化していることをあげつらって「西洋人の方が残酷だ」のような話にまで暴走してしまうのか?

そして肝心の、日本の食文化の説明の方は通り一遍のなおざりで、ガイジンを和食の席に招いた際に杯を片手に傾けるウンチクのレベルの話しか出来ていない。

これでは日本の食文化を言い訳に、「そんなにボクたちをいじめて捕鯨を止めさせたい欧米ちゃんたちズルい」と不貞腐れて駄々をこねているように見えかねない。

それに和歌山県のイルカ漁とか、インドネシアの少数民族が近海で捕鯨をしているような話ならともかく、実際には産業化されている現代の捕鯨では、海の恵みとして鯨をありがたく食用にするというような文化伝統の精神はもはや失われている。 
調査捕鯨を拡大して商業捕鯨の再開を目論んでいる自民党であるとかに至っては、自然界を尊重してその秩序を守ろうという意志がまるでないのに、口先だけで「日本の食文化を守る」を言うのでは、それ自体がただの欺瞞に見えてしまう。

捕鯨禁止条約はもうかなり古い条約であり、最新の生態系の研究や考え方からはズレている部分もあるし、日本の調査捕鯨の結果も含む実証的な研究によっても、鯨の保護に本当に有効なのか疑問が出て来る部分がないわけではない。

だがそれならば、日本が率先して「より鯨の保護に役に立つ条約に改正しよう」というべきところなのに、調査捕鯨を言い訳になし崩し的に商業捕鯨再開を目論んだところで(しかも頭隠して尻隠さずの下心がミエミエでは)通用するわけがない、説得力を持ち得ない、うまく行くわけがない。

クロマグロでもニホンウナギでも同じことだ。

和食が世界無形文化遺産に登録された理由のひとつは、日本の食文化が自然との共存を前提に、自然の恵みをありがたがって大切にするという非人間中心主義の精神性を持っていることへの評価だ。

ところがその日本の食文化の危機だと言いながら、個体数の激減が危惧される魚や動物を保護しようという、本来なら日本の食文化の根幹に関わる動きに反発しているのが今の日本である。

日本の本来の食文化の精神性からすれば、クロマグロにしてもニホンウナギにしても、日本が真っ先に保護と資源維持に取り組んでおかしくない話なのだ。「中国人がたくさん食べるから減ってるんだ」なんて叫んでいる場合ではない。

安倍首相が「世界の真ん中で輝く日本」とかいう本を出したそうだ。

「真ん中で輝く」かどうかまでは知らないが、日本の文化には確かにこれからの世界の未来を考える上で重要な参考になる哲学があるし、こと戦後の高度成長期以降、日本人の勤勉さと規律正しさ、争いを回避し平和裏にものごとを進める誠実な信用重視の態度は、世界中で尊敬を集めて来た。日本食が今ブームなのは、単にそれがおいしいからだけでなく、ヘルシーなだけでもなく、自然と共存しその恵みを生かす食という発想の哲学性がオシャレだからでもある。別に安倍さんが人差し指を振り上げなくても、日本とはそういう敬愛される大国なのだ。

だがそのもっとも誇りにすべき部分をうっちゃって、きちんと自分たちの主張や理念を諸外国の人たちに説明しようとする努力すら怠っているのが現代の日本だ。

いや鯨、クロマグロ、ニホンウナギの件に対する反応を見れば、日本人自身がその自分達がもっとも誇りにすべき部分をまったく冒涜しているようにすら、見えてしまうのである。