11/21/2015

東京国際映画祭で考えた、映画がストーリー・テリングではなくなるかも知れない未来

マルコ・ベロッキオ監督『私の血に流れる血』
東京国際映画祭ではプレスパスをもらっているのにいささか後ろめたいのだが、つい自分の映画で招んでもらった映画祭と同じような感覚で、どんな記事を書くかとかの計画性もない行き当たりばったり的に見る映画を選んでしまった。

あくまでプレスなのに「今年の映画祭は」とか「今の映画の世界が」とかの立派な総論は言えそうにない。なにしろパスをもらってP&I試写の予定を見て、真っ先に予約を入れてしまったのが黒澤明の『乱』なのだ。30年前のこの映画が改めて「すごいな」と言うだけですっかり満足してしまい、すでにほかの映画は「もう見ないでもいいかな」とまで、つい思ってしまったのだから、まこと困った怠け癖である。

黒澤明『乱』について
http://www.france10.tv/entertainment/5401/

黒澤明『乱』
とはいえ、とりあえずフレデリック・ワイズマンやマルコ・ベロッキオのような大先輩の巨匠は勉強になるから見ましょうね、小栗康平監督の新作は藤田嗣治なんだからこれは最優先でやはり見ないとな、と心を改め、あとは毎年この東京映画祭の時期に会う、某映画祭でアジア映画のアドバイザーをやっている友人にオススメを訊いたら、たまたまフィリピン特集の『グランマザー』のポスターの前で立ち話していたので「これは絶対に見た方がいいよ」と言うわけで見たら凄かったので、この流れでフィリピン特集はなるべく見ることにしよう、そうだコンペやアジアの未来も見なければとなると、カタログで写真と説明を読んで、ブラジルの精神医療の革新的な実話ならとりあえず見よう、という感じなんだからいい加減なものだ。


だから「映画祭」の今年の評価を出来るわけもないのだが、結果としてたまたま題材に引かれて見たその『ニーゼ』が東京グランプリになり、そこでこの映画祭というより今の映画の世界の流れで気になることを考え始めてしまったのは、その『ニーゼ』とマルコ・ベロッキオの『私の血に流れる血』を、偶然にも同じ日に見たからだろう。

『ニーゼ』は1944年のリオデジャネイロの国立精神病院が舞台。ロボトミー手術や電気ショック療法が最先端だった時代に、女医ニーゼ・ダ・シルヴェイラは行動療法に絵画などの美術製作を持ち込む。重度の統合失調症で手のつけようがないはずの患者達が人間性を見せ始めるだけでなく、彼らの作品は美術界の注目を集めることに…という凄い実話を、手堅く、分かり易いヒューマニズム的な演出でまとめているのだし、文句のつけどころは特にない良質の映画だと思う。患者の病状やそれが変わって行く丁寧な描写も、まあ勉強にもなった。

『ニーゼ』(東京グランプリ受賞)
この映画の副題は「狂気の心(ないし狂気の核心)」だが、精神医療そのものをとりあげた同作に対し、同じ日の晩に見たマルコ・ベロッキオの新作ではまず17世紀の修道院で異端審問・魔女裁判が始る。つまり、見ようによってはこれまた「狂気」の話であり、そして映画として「狂気の心(ないし核心)」がはっきり、リアルに、触覚的に写っているのは、どう考えたって精神医療の現場を見せる『ニーゼ』ではなく、『私の血に流れる血』だった。

正直『ニーゼ』のなにがつまらなかったのかが、比較の問題でよく分かってしまったのだ。ストーリーは狂気、狂気の創造性こそが主題なのに、映画的にはその狂気がどこにも見えない、去勢され調教された「(愛すべき)病んだ人達」のサクセスストーリーにしか見えないのだ。治療と患者の心が開かれて行くプロセスもまたヒューマニズムの予定調和で、やさしく接したら患者の人間性が見えて来たからこの医者は偉い的な図式に過ぎず(まあ実際の医療の現場では、これ物凄く大事なことだけど)、なんというか…とても「健常者」的で、患者達も結局「見た目は変だがいい人」でしかない。

映画の中の美術評論家が「潜在意識こそ芸術の源泉」と言うが、彼らの作品が潜在意識を表象しているかのような暗号解読的な説明はあるものの、どれもまず普通にいい絵や彫刻であっても、「これが潜在意識の豊かな世界なのか」という感覚は、映画的な存在感を持って捉えられてはいない。いやいちいち言語化されて意識レベルに矮小化されてしまうから、絵の方までそう見えてしまうのかも知れないが、その絵画に「圧倒」はされない(それに対し『FOUJITA』で登場する藤田嗣治の戦争画にはやはり圧倒される他ないのだが、この作品については後述)。

 マルコ・ベロッキオ監督『私の血に流れる血』予告編

それにしてもこのベロッキオの新作では、いったい何が起こっているのだ?! ルネサンス時代の異端審問の展開は、イタリア中部の明るい初夏の光と修道院の暗がりが強烈な陰影のコントラストを産み出し、超一級のゴシック・ノワールとも言うべきスリラー演出が、次第にホラーの様相をも呈する。主人公の兄である神父はなぜ自殺したのか? 魔女かも知れない修道女の謎めいたまっすぐな眼差し、彼女の誘惑、そこになにが隠されているのか分からない修道院の禁域、彼女が彼に密かに手渡すその禁域の鍵に、一方ではその彼女をなんとしても魔女と断罪したがっている教会上層部の陰謀があり、どうもその黒幕はヴァチカンらしい…。

主人公が寄宿する屋敷には敬虔な未婚の姉妹が住み、その名はマルタとマリアという新約聖書ネタも出来過ぎだが、案の定若くセクシーな主人公の騎士の肉体的な存在が敬虔な独身姉妹を惑わし、その抑えられて来た性の欲望も…精悍な細面に髭と長髪の彼が寝台に横たわり、その両側に姉妹が寝そべるショットの照明はまるでカラヴァッジオ、男の姿はむろんイエスに重なり、一昔前なら教会に大弾圧されたんじゃないと思ってしまうほど謎めいた誘惑と徴発に満ちたこの映画のセクシーさはどうだろう?

ベロッキオは聖書やカトリック神学や教会史の闇をめぐる膨大な知識教養を駆使し、次々と提示される謎の鍵めいた要素要素に観客は映画に引きこまれながら、いつまでたっても全体像が見えて来ないまま、主人公も、そして観客も、どんどん視野が狭まって行き、まさに狂気の心、統合失調症的な感覚の内奥へと誘導され、修道院内の狂気の核心らしき禁域へと誘惑されて行く。いつまで経っても悪魔との契約の証拠を見せない修道女に、神父達のなかには「聖女」と心打たれる者も出て来て、そこでヴァチカンの黒幕の廻しものらしい院長が下す決断が、これまたあまりに残酷で狂っている。



ふとその日中に見た『ニーゼ』のことを考えてしまうのが映画祭体験の困ったところで、繰り返すがこちらの時代は1944年のブラジルだ。

病院の男性医師達がアイスピックで前頭葉を破壊するロボトミー手術や電気ショック療法で患者を大人しくさせることに成功するのは、もちろん当時の精神医学の支配的な傾向だったものの今思えばひどく残酷なわけで、ヒロインがそれに反発するのはいい。

だがそれが1944年のブラジル、つまりゼツリオ・ヴァルガスの軍事独裁政権下だったことは、知識があれば当然考えることだろうが、ブラジル近代史を知らない観客にとってはなんの関係もなく意識もされないままに、この映画は進行してしまう。

いや別に、そうした政治的・歴史的な背景の情報を、観客に明示すべきという意味ではない。

『私の血に流れる血』なら、1617年という冒頭の字幕を見落としても、イタリア史や西欧中世史を知らなくとも、修道院という特殊な空間に意図的に閉ざされた演出に、時代の抑圧と狂気が、知識の有無に関係なく観客にほとんど触覚的に伝わるように確かに刻印されていて、その緊張感のなかで我々はこの異端審問の行く末を見つめる。



だが『ニーゼ』の場合、彼女のやっていることが単に新しい精神医学であるだけでなく、ただ新しい芸術の創造であるだけでもなく、まさにヴァルガス独裁という政治的・社会的な文脈において強烈で革命的なインパクトも持つことが…ただ美術評論家の台詞で述べられる以外には、なにもないのだ。ただ病院の男性医師たちが権威主義で意地悪なだけにしか見えないのは、監督の演出力が足りないのか?脚本の世界観が未熟だったのか?いやどうも、分かる人には分かるだろう程度の情報は示しつつも、そこには極力触れたくないというのが意図だったように思えてならない。

それはニーゼのもとで芸術的天才を開花させる患者達が、統合失調というより見た目は変だが実はかわいい人たちに見えてしまうことにも共通した、作り手の側の意図的な態度なのかも知れない。言い換えれば、シノプシスを聞くだけですぐに想像がつくテーマ性のヒューマニズム的な結論の枠内に収まるように、観客が宣伝文句を見て期待した通りの「感動」に到達できるように、この映画が最初から作られているのではないか?果たしてそれが本当に「映画」なのだろうか?僕としてはニーゼ・ダ・シルヴェイラ博士の偉業を知れたのはありがたかったし、ブラジルで撮る企画も準備中なので参考にもなった。だがこの映画から、自分は本当になにかを「学べた」のだろうか?

黒澤明『乱』
驚きや学ぶところ、不意打ちなしに、映画は映画たりえるのだろうか?『乱』は、30年前の公開時以来ではなくさすがに何度か大人になって見直している映画だが、今回のデジタル復元版でも、新たに驚かされる発見がいくつもあった。黒澤の端正な演出と計算されつくされた逸脱に、今回ほど深く学ばされたことはなったかも知れない。

黒澤明『乱』
ところで『私の血に流れる血』の方は、異端審問裁判がクライマックスに達し、なのに真相どころか今なにが起こっているのかも、まだまだ分からない。そのまま突然、冒頭ショットと同じ角度から修道院の正門玄関ホールが写し出されると、なにか散らかっていて荒れ果てたように見える。それどころか門扉の狭間から覗き見ると、真っ赤なジャガーが駐車しているのだ。「しまった、やられた」とその時にやっと気付かされる。我々が固唾をのんで見守っていた異端審問も、伏線のように小出しにされて来た謎の鍵めいたディテールも、陰謀の匂いが濃厚に漂っていると我々が思い込んで来たのも、真相の探究も…

いや、そんな真相は最初からなにもなく、ベロッキオは観客の興味と注意力を釘付けにするためのいわばネタとして、深い歴史の知識と教養に根ざしたディテールを華麗な演出のテクニックとして駆使していただけなのだ。「騙された」と思う間もなく、今度は現代の観客がすぐ分かるドラキュラ映画のクリシェがひねったギャグとして提示されるに至り(犬歯の治療を求める伯爵と歯医者のとぼけた会話は抱腹絶倒もの)、我々は自分が騙されたことを痛快におもしろがるしかない。

映画のことを僕たちが「ストーリー・テリング」の芸術だと思い込んで来たとしたら、ここには超絶技巧と悪戯心に満ちた知性の詰まった「テリング」はあっても、ストーリーなんてなかったのだ。異端審問のストーリーから自動的に思いつくヒューマニズムや反権威主義、宗教や神秘主義のテーマ性なども、ただ我々が勝手に読み込んで思い込んでいただけで、映画それ自体とはなんの関係もなかったのだ。

だが逆に、観客が見たその主観を通してではない「映画そのもの」なんてものが、あり得るのだろうか?絵画なら、誰が見ないでも絵それ自体は物理的に存在している。彫刻も同じだ。だが映画はそれが上映されている瞬間瞬間にしか存在しないし、観客の主観と言うフィルターを通して以外には事実上ないに等しい(だいたい映画が連続した映像に見えること自体が、ただの目の錯覚だ)。「客観的」には、『私の血に流れる血』は実はばらばらのシーンが荒唐無稽に羅列されているだけだ。だがそのこと自体がストーリーを無自覚に追ってしまう我々の意識とデリケートに衝突し、その観客の脳内体験以外に、実は「映画」は存在しない。

アンジェイ・ズラウスキ監督『コスモス』
巨匠と言うには異端すぎるかも知れないが、大ベテランなのは間違いないアンジェイ・ズラウスキの久々の新作『コスモス』も、ベロッキオと同じ問題意識を共有しているように思える。この映画もまた謎解きミステリーの「テリング」はあるのだが、解明される事件の真相というストーリーは…こちらの場合はもう最初からなにもないことが自明なのが、イタリアとポーランドの文化の違いなのかも知れない。良くも悪くもズラウスキ、下品なまでに露骨であるが、ここまであっけらかんと、しかし技巧を尽くしてやられるとひたすらあっぱれで、なにしろ小説家志望の落第法学生が注目する謎が、そもそも最初から「なんじゃそりゃ」なのだ。

じゃあスリラーの謎解きは単なる言い訳で裏プロットがあるのかと思えば、確かに成り行きで主人公と同行することになる青年は明らかにゲイで、主人公のことが実は好きなのだが、ズラウスキ映画なのだしそういった性の世界が裏テーマなのかと言えば、なんとただのコメディ・リリーフである。ちなみに同性愛蔑視や差別をまったく感じさせず、ステレオタイプの分かり易くコミカルなゲイの人物なのにそれを尊厳を持って演出できるのは、大ベテランの見事なまでに余裕たっぷりの達観であろう。


我々は一方では「差別だ」と言われるのを恐れ、他方では一部観客のホモフォビアな本音にも配慮しつつ、妙に遠慮してくそまじめを装ってしまうし、まして観客をミスリードするための仕掛けに使うなんて思いもよらない。男女の恋愛なら平気でそれが出来るのに、である。これって差別意識ですよね?

COSMOS EXCERPT 01 EN from Leopardo Filmes on Vimeo.

ベロッキオが練達の奸智で観客の意表を見事につき続け、我々が勝手にミスリードの罠に自ら入り込むようにグイグイと「騙して」引っ張ってしまう最高級の文学的詐欺師だとすれば、『コスモス』は最上級の技量で音楽的に構築されたアール・ブリュットと言える。だいたい主人公が狂っているのは確かだし、二人が滞在するブルジョワ家庭の下宿屋の面々もみんな大なり小なり狂っている(唯一まともなのはゲイの青年だけだったりする)以上に、演出のテンポそのものが、見事にわざと狂わされている。というか、ここまで早口言葉な映画というのも珍しく、それもハワード・ホークス的な端正なスピード感ではなく、乱暴なまでに狂騒的な早口映画に、見終わったときに思わず「生麦生米生卵!隣の客はよく柿食う客だ!」と対抗して口走りたくなってしまった。

しかも変な造語がポンポン飛び出してはそれがギャグに昇華はされるし、落第法学生の文学青年がトルストイだのサルトルだのスタンダールだのと言い出すたびにゲイの青年が「誰それ?友達?」とかベタ過ぎるギャグも妙におかしいし、挙句にスタンダールの「赤と黒」の映画化のDVDを見て「ジェラール・フィリップっていい男だね」とか…もうギャグのクオリティではなくその密度が、異端の芸術である。

 COSMOS EXCERPT 02 EN from Leopardo Filmes on Vimeo.

スズメの首つり死体に鶏の首つり死体、次は毛を抜かれ食肉加工された鶏の首つり、グリンピースに突き刺さるつまようじ、斧、矢印などなど、きわどい精神分析・潜在意識触発系のネタもふんだんに登場し…そして、実は「ストーリー」も、そうした諸要素の解読から導き出されるべき「テーマ」も、なにもないのがこの映画の楽しさであり凄さだ。これもまさに「狂気の心」の体感体験ではないか?

 COSMOS EXCERPT 04 EN from Leopardo Filmes on Vimeo.

「テリング」すべき「ストーリー」をあえて確信犯で放棄したことで、ベロッキオとズラウスキは映画的としか言いようがない凄みのある狂気を堪能させてくれた。一方でものすごく可能性に満ちた主題を、ストーリーとその表層的なテーマの枠内でのみ語ったかのように見せかけるだけの、妙におとなしい映画が『ニーゼ』だった。

あるいはチベット映画の『河』や、フィリピン映画特集の多く(例えば日本におけるフィリピン人移民労働者たちを描く群像劇『インビジブル』や、地方農園の地主と小作の関係を描いた『バロットの大地』、どちらもフィリピンとフィリピン人の現実において重要なテーマの作品だ)も、やはり妙におとなしく良心的なストーリー性に収斂してしまい、その行きつくストーリーやテーマは最初から予想がつくレベルの一般論に終始し、もちろんいい映画ではあるが、しかし言うなれば観客が自分の善良な価値観を再確認してホッとできるような作品に終わっている。実はよく見れば明らかな矛盾があるのも(例えば『河』も『バロットの大地』も、前者は羊、後者はアヒルの飼育の話だが、大事に愛情を込めて育てた家畜を、いずれ殺して食べるという問題には、触れようとしない)、それに気づかせると観客が不愉快になるので避けているように見える。

Photo courtesy of Zipporah Films, Inc. www.zipporah.com
その点からするとやはり凄いのがフレデリック・ワイズマンだった。『ジャクソン・ハイツ』は意外性に満ちまったく今のアメリカ社会の全体像から想像がつかないシーンの連続ながら、それでも明確に「現代アメリカ社会の、そのステータス・クオの公正で精確な肖像」であり、しかも『At Berkley』以降の巨匠の新路線として、人類とその文明における重要な思想の意義を再検証・再確認させるテーマ性重視の作品でありながら、観客が体験するのは決して、「自らの価値観を再確認して安心」ではない。『At Berkley』では知性と教養、『ナショナル・ギャラリー』では美と芸術の価値を再確認したワイズマンがここでとりあげるのは、アメリカの存立理念そのものである民主主義と基本的人権と多様性だ。この最新作はかつてなく楽天的でやさしいワイズマン映画だが、しかし『ジャクソン・ハイツ』を見る我々は決してホッとなどしていられない。

『ジャクソン・ハイツ』評
 http://www.france10.tv/entertainment/5408/

むしろ映画が示す豊かな多様性を、豊かで多様で美しいと素直に思えるのかどうか、我々自身の限界が、穏やかに、やさしく、ゆったりと、しかしある厳しさと狡猾さを持って試されていく。たとえば生きた鶏がハラール(イスラム戒律仕様)のチキンに加工されるシークエンスがある。いやハラールと言って要するに鶏を屠殺するときにコーランを唱えるだけで、あとはまったく機械的作業だし、首を切られても鶏はまだバタバタ動いている、その新鮮な状態でどんどん加工されていくのだが、これをもって「イスラム教徒は残酷だ」と思い込みかねない間抜けな観客がいたとしたら、シークエンスの最後にその町工場の看板がちゃんと映り、スペイン語で「生きた鶏」と書かれている。つまりこのシークエンスが「残酷」に見えたとしても、宗教の風習はまったく関係がない。ヒスパニックの工場が多様化するジャクソン・ハイツの人口に合わせてムスリムにも対応しているだけであり、何教徒だろうが鶏にとっては残酷なやり方で加工されたチキンを、我々現代人は食べているのだ。

そうやって見ている自分が映画に試されながらも、『ジャクソン・ハイツ』は心から明るい気持ちで見られる映画だ。

IN JACKSON HEIGHTS Official Trailer from Zipporah Films on Vimeo.

近年のアメリカ都市部の土地バブルで、この多様性が具現した街がいつまで存続できるかもわからないし、その多様性も決して万全ではないし、それでもこの街がアメリカのなかで珍しくうまく行っている奇跡の街であることも痛感しつつ、我々はワイズマンとともにここに生きるあらゆる人たちを祝福してこの映画を見終わる。ラストで巨匠が、これまで自らに禁じて来たような編集によるトリックで、はっきり祝福の意思を表明する時には、心からの拍手で賛同してしまうだろう。いやそのエンディングが映画のインチキであり作り手の創作だと百も承知で、それでも祝福したくなる街がこの映画のジャクソン・ハイツであり、祝福すべき人々の日常が、ここにはある。

ワイズマンの映画は例えばジャクソン・ハイツのゲイパレードの準備、たとえば新移民がアメリカ社会に居場所を見出し定着していくプロセスといった、いくつかのストーリー的な縦糸で巧妙に構築されていて、そこにはまだ映画がストーリーテリングの芸術であり続けられるかすかな希望が残されていた。一方、本来の映画の映画らしい古典的なあり方、ストーリーとそれを語るテリングのフォルムが見事に一致した時に生まれる豊かさと美しさを、過酷で残酷で醜悪でさえある現実をしっかり捉えながら実現した作品が、先述の『グランマザー』、監督ブリランテ・メンドーサの2009年作品だが、この6年前の映画がまったく古びていないというより、むしろ今の映画のほうが古びて見えてしまうのも怖い。

ブリランテ・メンドーサ『グランドマザー』冒頭

6年前、まだ映画は僕らが考えて来たような「映画」であることが出来たのだ。いやこれだって、徹底的なリアリズムに根差し、時にそのリアリズムを逸脱した過剰さに踏み込みつつ(たとえばこんな大量の雨なんていくらマニラでも現実には絶対に降りませんよ)、しかし物語というか事件の顛末には「ありえないだろ!?」と思わず言いたくなるようなエンディングなのだが、なんとこんなとんでもない現実こそがフィリピンなのだそうで、これも一層の衝撃だった。しかも始末の悪いことに、我々の通常の道徳では明らかに「おかしい」結末が、しかしこの映画の世界ではもっとも合理的で妥当な結論としか思えなくなるのだから、まさに映画演出の王道である。我々の知らない現実を発見させ、その世界に生きさせ、学び、考える道具としての映画。だがSDのデジタル・ビデオ撮影で35mm変換のこの映画から6年後、2Kつまりハイビジョンないし4Kのデジタル撮影でデジタル映写が普通になった今、別にフォーマットの問題でもないだろうとは思いたいが、そんな力を映画は失ってしまったような気がしてならない。

我々はフィルムに慣れてしまった映画を通した現実の見方に変わる、新たなデジタルの映画の見方、見せ方を模索することもできないまま、妙に保守的な方向に引きこもってしまってはいないか?もちろんこれは、デジタル撮影でもフィルム的な質感を求めてしまいがちな自分も含めてのことだ。

そんななか、やはり今回の東京映画祭を代表する映画は、僕にとっては小栗康平の『FOUJITA』だった。

小栗康平『FOUJITA』予告編

正直、僕はデビュー作『泥の河』(これは80年代日本映画の最も美しい一本に入る傑作だ)以外の小栗映画はそんなに好きではなかった。僕の「映画」に関する考えがやはり古くさいものだからなのかも知れないが、小栗的な、例えば俳優の「生き生きした演技」を求めない、むしろ人物も事物も風景も等価に見せようとして俳優の存在感を抑え込んでしまう演出論が「映画的でない」と思ってしまって来たせいかも知れない。それはフィルム的ではないのかも知れない、という疑念は今でも変わらないが(小栗の全作が近所で上映されるので見直しているところだ)、デジタルという新たな素材において、まさにその質感にぴったり合った、デジタルがフィルムの不完全な代替品ではないと確信できる新しい表現が『FOUJITA』には満ち溢れているし、むしろ人物も事物も等価に映し出そうとする小栗の試みは、デジタルのほうが明らかに成功している。その主題が絵画、それも藤田嗣治という選択も驚くべき知性だ。

デジタル技術の映画製作における使われ方は、まず特殊撮影効果や合成で、だから実写映像っぽく見えるアニメーションを作ることが必然であるかのように発展して来た。藤田嗣治という画家を取り上げることで、小栗はこの映画のデジタル利用の最初の一歩の大きな誤りをあっけらかんと示し、しかも最初のたった2カットで己の正しさを証明してしまう。


ファーストカットはパリのアパルトマンの中庭に建てられた藤田の木造二階建てのアトリエ外景で、猫が屋根を歩いて横切るのは藤田の猫好き伝説への目くばせ(そしてこの映画で猫が映る唯一のカット)だ。そしてセカンドショットでは、そのアトリエのほの暗いなかに、台所の白い壁とそこに掛けられた食器、テーブルがほんのりと浮かび上がる…と思ったら、やがて藤田の乳白色の時代の静物画だったことに気づく。「あっ!」と驚きとともに気づかされる。デジタルは写真動画とアニメーションの境界を曖昧にしたのではない。実は絵画と写真の境界をこそ、なくしたのだ。

このセカンドショットの静かな衝撃から逆算すると、ファーストショットは完全なデジタル絵画だった(ちなみにアトリエの内景外景ともに、実はスタジオでのセット撮影だ)。かつてまだデジタル技術がここまで完成されておらず、フィルム転写にも限界があり、かといってデジタル映写が映画館の大スクリーンには耐えられなかった頃、エリック・ロメールが17世紀の時代物の背景を全部絵画にしてしまう、当時は突拍子もなかった実験をやっていたが、実写との合成技術も進化し、処理できる情報量も飛躍的に増え、そして映写がデジタルになった今では、実は絵画である映像を実写のなかでここまで「自然」に見せることが出来てしまう。そのデジタル映写のなめらかで平板な表面性を、小栗は最大限に活用する-あたかも藤田の20年代パリ時代を特徴づける、乳白色の半透明な膜のような質感みたいに。


この新しい表現、写真と絵画の融合が時間性を持って提示される体験を、もはや映画と呼んでいいのかどうかすら分からない。これは絵画に時間性を付与した新たなデジタル芸術なのかも知れない(小栗映画なのだから、動きは運動の表現ではなく、ましてストーリーを展開させるためのわけもなく、時間の経過のために起こっているのは言うまでもない)。ただこれが新たな未来の方向性を提示しているのは確かであり、それが今後映画となるのか、映画がまた違った方向に進むのかは今はまだ分からない。

いや今いちばん心配なのは、映画がこの現状の停滞のまま、滅びて続けてしまうことなのだけれど。



と、ここでついまた『ニーゼ』に話が戻ってしまうが、ニーゼ・ダ・シルヴェイラ博士は自分の患者たちのことをユングに報告し、その助言と励ましに大いに触発されたという史実があるのに、この映画で展開されるユング理論を援用したはずの患者作品の解釈は、なんだかフロイト的なレベルに終始しているのも疑問だった。


一方、小栗康平は藤田嗣治を「徹底した近代合理主義者で個人主義者」と言っていて、つまりはフロイト主義的な人物なのを、小栗の映画は決してその近代主義的なスペクトラムではとらえようとしない。ユングの名前なぞ誰も口にしないのに、『アッツ島玉砕』と『サイパン島同朋臣節を全うす』の二枚に挟まれた戦争画の時代は、明らかにユング的な視点で映し出され、そのなかで自らの個人主義にこだわったはずの藤田という「個」はどんどん、その時代の「日本人」ではなく「日本そのもの」に取り込まれ、同化するかのように曖昧になっていく。

藤田嗣治『サイパン島同胞臣節を全うす』東京国立近代美術館
20年代パリ、乳白色の時代の藤田はその白い肌の裸婦像で人気を博すが、それを描く藤田はなにか醒めているし、小栗の映画はと言えばだから乳白色のスタイルに映像を似せるなんて分かり易い真似はせず、しかし例のセカンドショットの台所と、もう一枚の静物画以外には、裸婦画などは単なる小道具のようにしか映さない。いや、これは僕の偏見もあるのかも知れないが、映画でも、本物の絵でも、乳白色の時代の、あたかも半透明な膜で覆われたかのようなスタイルの藤田作品は、静物や無人の家の情景の方が、ずっと強烈な存在感を持って見えてしまうし、映画でもそうなっている。

あるいは、決してスタイルの模倣ではなく絵=画面としての在り方が、藤田のそれと小栗の映画のそれが一致しているとも言えるのかも知れず、言い換えれば小栗映画では人物と事物は等価に映し出され、運動は動きやアクション、ストーリーの展開ではなく時間の経過のためにそこにある、その本質が藤田の乳白色の時代の「狂気の核心」と重なっているせいなのかも知れない。それが藤田という個の作り出した表現という意味では個人主義なのかも知れないが(ちなみに彼は生前、独特の白を出すテクニックは自分の表現だからということで、誰にも教えなかった。解明されたのは死後の修復作業においてだ)、反人間主義的な表現であって、よってフロイト主義的な個人記憶・集団記憶の枠内に収まらないのも確かだ。

そんな藤田が『アッツ島玉砕』について「画家だから戦争の情景は描けない、描くのはあくまで人間」というのは一見矛盾して聞こえるが、彼はあくまで「だが戦争には動きがあり、動きを描くのには腕が要る」と絵画の技巧の問題としてのみ話を続ける。戦場の残虐の本質を描き切ったとしか見えない『アッツ島玉砕』が戦意高揚絵画として「活躍」した当時の日本も謎だが、その謎が心理主義をまったく排除している藤田の言葉の謎と重なるとき、戦後藤田が「戦争協力者」と弾劾された際の議論の一切が無効化する。ここから始まる戦争絵画の時代編の『FOUJITA』をどう解釈するのか、これから公開されるのだし謎解きめいた解釈ごっこは控えたいが、「狐の意味が分からない」という声も大きいのでこれだけは言っておこう、「ユングですよ」と。



言い換えれば、「徹底した、骨の髄からの近代主義者」の藤田嗣治を描くと口では言いながら、小栗康平の『FOUJITA』は完全に近代主義の物語芸術としての従来の映画を逸脱している。『サイパン島同朋君節を全うす』の準備中に藤田がサイパン島の玉砕の模様の写真や映像を見るのは史実としてはあり得ない(米軍が撮影した記録フィルム、それも昨年公開されたカラー版)のも、もちろん意図的だし、この作品が近代主義を逸脱し超越している以上、およそ批判されるべきポイントではない。ただその行きついた先こそが現代映画なのか、それとも小栗にとって『泥の河』の加賀まりこと「きっちゃん」母子への回帰、つまりは近代以前の古来の日本そのものの亡霊への回帰なのかは、今は分からない。ただ終幕に『サイパン島同朋君節を全うす』が映し出されるその見せ方も、タルコフスキー的でありユングであると同時に、死も屍も水も、生ける人間としての個が消え去ることも、それが過去なのか未来なのかは未だ不明だが、とにかくすべてが、本来の「日本そのもの」である。

最後に指摘しておくと、一般に乳白色の時代編と戦争画の時代(あるいは濃褐色の時代)編の二部構成と言われている『FOUJITA』は、どう見ても三部構成だ。この映画が見せる藤田嗣治ないしレオナール・フジタの時間は、30代と還暦前後だけではなく、最後は80歳の時間なのだ。ここはフランス語で年号と年齢を書きレオナールと署名しているところに、ちゃんと日本語字幕を入れた方がいいと思うのだけど。なおちなみに、この第三部80歳のパートは、明らかに第一部で藤田がフランス中世美術の至宝「貴婦人と一角獣」のタペストリーを見るシーンと呼応している。この映画で絵画がただの小道具でなく絵画としてはっきり映されるのは、藤田作品以外では、このタペストリーと、あとは能面、そして歌麿、広重だけだ。

藤田嗣治『アッツ島玉砕』東京国立近代美術館

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