「なぜ日本人が襲われたのだ?」と憤りに震えて問うのは、容易い。だがその問いに答えるのはもっと簡単だ。
外国人と、ごくごく一部のもの凄い金持ちのバングラデシュ人しかいないダッカ市内最高級住宅地の、自国では普通の収入でもバングラデシュ人の圧倒多数と較べれば「もの凄い金持ち」になってしまう外国人が相手の、先進国なら普通やや高めの値段でも、バングラデシュ人にとってはべらぼうに高いレストランだ。
そのバングラデシュは近年経済成長が目覚ましいとされるが、裏を返せば貧しいから安価な労働力を狙って外資が入り込んで来ているからこその成長でもある。
なのにこのレストランでテロ事件に遭うことを「Why?」と問うのは、あえて冷酷な現実を言ってしまえば、むしろ「Why not?」じゃないか、と気づかない方がおかしい。
現代の日本人が全般的にもの凄く苦手なのは、多様な視点を持つこと、異なった立場から多角的に物事を考えることだ。
多様性の尊重などは本来の意味を失ない、他者に「多様性を認めろ」と迫る、つまりは他者の立場や価値観を無視して自分の感情や見方が認めて欲しいという以上の意味を持ち得なくなっているのが、今の日本の根深い病理だとも言える。
「みんなの意見」を聞くことは、「みんな」が自分と一緒であることを再確認する作業に過ぎず、こと相手が日本に対するバングラデシュがそうであるように、より弱い立場である時には無神経なまでの傲慢さで「自分」と一緒である「みんなの意見」を強引に当てはめるか、無自覚に賛同しろと押し付けてしまう。
自分のたかが半径5m程度の「みんな」以上の客観性は持てない、その周囲の顔色や、そこから嫌われるかどうかの恐怖が、善悪の判断基準にすらなってしまう国で、国際的なテロリズムの潮流にどう向き合えるのか、あまりに心もとない。
7人の日本人が犠牲になったことを「バングラデシュに尽くそうとした志半ばで」と形容するメディアの姿勢には、被害者に安易に集団同化することで日本人全般の自己正当化を担保しようとする自己満足の欲望があまりに露骨だ。裏返せば自分たちが憎悪の暴力を向けられてもやむを得ない立場になってしまっている現実を、どうしても認めたくないだけなのかも知れない。
犠牲者・被害者となると途端にそこに同化することが「絶対正義」になり、「志半ばで」亡くなった「発展途上国に尽くす誠実な人たち」への同情を強いるように、その被害者がFacebookなどに、(はっきり言えば、誰に見られても当たり障りのないきれいごととして)書いていたであろうことや、知り合いの証言ばかりがメディアにあふれている。
そんな被害者の「志半ば」を讃えることが、しかも無節操かつほとんど自動的に「日本は最大の援助国だからバングラデシュは親日でなければならない」という集団性の自己満足に横滑りしてしまっている。「善意の被害者」への自己同化による自己正当化の裏では、自分たちはこの事件が起こるまでバングラデシュなんてどこにあるのかすら知らなかった、なんの関心もなかったことはきれいに忘れ去られているし、ついこないだまで自分たちが日本政府の発展途上国への援助を「日本人の税金なのに外国に使うのは許せない」とか批判したつもりになっていたことなど、一顧だにされない。
念のため確認しておくと、今回犠牲になった7人はいずれもJICAの事業の下請けとして現地に行っていた民間人で、こんな事件さえなければ「日本人の税金を外国で使っている」として無理解にさらされ怨嗟の的にされ、その「志」が右派勢力に揶揄されて来た人たちでもある。
日本政府の対応はさらにひどい。テロ事件を国内の参議院選挙向けのパフォーマンスに利用する、それに役立つテレビの画を撮らせることくらいしか、考えていない。
まず日本人が人質になった立てこもり事件が起こっている最中だというのに、首相も官房長官も参院選の遊説を最優先し、突入作戦が始まる連絡がバングラデシュ政府から入ったとき、官邸ではどちらもが留守だった。危機感や政府としての責任感がえらく欠如した話だが、それ以上に人質が殺されたと分かった後の動きがひどい。どうせなら人質事件が進行中ならまだ分かるが、後になって国家安全保障会議の閣僚会合を開いたところで、いったいなにを決めるのか? ところがここで決めたことと言ったら、普通ならわざわざ官邸が指示するまでもない当然の手続きとして、外務省が速やかかつ粛々と航空便を手配して遺族を現地に向かわせ、現地大使館に万全のケアを指示し、メディアにあまり注目されないようにするのが当然の手続きなのを、これ見よがしな大げささでわざわざ政府専用機を仕立て「被害者に寄り添う」パフォーマンスに熱中し、しかも事務方の仕事なのに外務副大臣にわざわざ遺族を先導させることになった。
昨年のイスラム国人質事件ならば、まだ現地で人質解放交渉の指揮を執らせる副大臣の派遣は分からないではない(もっとも、当時の中山副大臣は身代金交渉の絶対守秘すらロクに維持できず、日々大使館前で記者に囲まれてぶら下がり会見をやるのが主な任務で国内向けアピールで情報垂れ流しという、どうしようもない無能っぷりを晒しただけだった)。だが今回は副大臣を派遣する時点ですでに終わった事件であり、捜査はバングラデシュ政府の管轄だ。遺族への遺体の引き渡しをサポートしてバングラデシュ政府の説明を聞くだけの仕事に政治家が立ち会う必要もないし、そもそも外交プロトコルが不得手な政治家がやる仕事でもない。
だがなによりも酷かったのは、その外務副大臣との会談を、わざわざバングラデシュ首相にゴリ押ししたことだ。
たとえ最大の援助国で裏では日本の言いなりにならざるを得なくとも、バングラデシュは建前だけでも対等な独立国であり、外務大臣や全権大使ならともかく、たかが外務副大臣では外交プロトコル上あまりにも釣り合いがとれない。それでも日本がバングラデシュにとって最大の援助国で最大の投資国のひとつで、この事件を機に日本人や日本企業に引き上げられては困るバングラデシュ政府の足下を見た、あさましくも傲慢なやり方がひどい。
しかもその会談の目的といえば、日本国内で「政権はこんなに頑張っている」と報道させるためのパフォーマンス以上の意味はなく、しかも木原誠司副大臣はその会談で、わざわざ日本がバングラデシュにとって最大の援助国であることを念押ししたという。
あまりにもあさましい傲慢さだ。しかもなんの意味もない。
突入作戦の前なら、人命がかかっていることでもあり、非常時に治安維持と「敵」の掃討を最優先しがちな国軍の行動を抑制させる圧力をかけるのは分からないでもない(ただしあくまで極秘裏にやらねばならない)。だが安倍首相はバングラデシュ首相との電話会談で、就任直後のアルジェリアでの人質事件のときと同様にむしろ「テロと断固戦う」を主張することで、人質の犠牲を厭わない突入作戦にお墨付きを与えていた。その突入作戦による掃討鎮圧の事後で、すでに被害者の死亡も確認されている時にこんな態度に出るのは、ただ援助国が宗主国気取りで無理難題を押し付けて威張り散らしているだけだ。
政府専用機を飛ばすだけでも、相手国の弱みに付け込んで特別扱いを要求する圧力に見えかねないのだ。日本政府がこんな態度を続けてしまっていては、外国で日本人が憎悪と怨嗟に晒されるのは「Why not?」になってしまうのは時間の問題だ。
日本人が7人も犠牲になったのは我が国にとって痛ましい事態であるし、その犠牲者たち個々人の善意を疑うわけではないが、JICAの協力事業は別にただの人道援助ではない。援助計画で立案されたインフラの整備事業の受注を日本企業が独占する利権や、さらには日本企業の進出条件を有利にするなど、見返りも含めてやっていることだ。少なくともその二面性があることを、我々のはなぜこうも都合よく無視してしまいがちで、我々の政府の傲慢な振る舞いに無批判なままになれるのだろう?
「バングラデシュは親日国」を喧伝するために、その国旗が日の丸に似ていることまでメディアで取り上げられた。確かに日本向けのリップサービスにせよ、そういう説はあるのだが、別に最大の援助国の日本に感謝するのだか、属国気取りではない。人口過多で大きな近代産業がなく、隣には核武装もしていて敵対関係にある大国のインドもあるバングラデシュで、日本の戦後平和主義と、資源もなく狭い国土でも工業国として大成したことに憧れ、日本をお手本にしようとした、という話なのだ。「最大の援助国だ」などという無神経な恩着せがましさの誤解は、いいかげんにするべきだ。
だいたい、亡くなった7人と重傷の1人の、この事件の被害者となった日本人の個々人はまじめで善良な人たちで、バングラデシュの発展に尽くそうともしていたことに間違いはないとしても、それでもあくまで、その個々の人たちの美徳でしかない。
日本政府の仕事はその人々や家族のサポートであって、彼らが援助事業に携わっていたのをいいわけにバングラデシュ相手に恩着せがましく威張ることではない。
それに実際にやったこととその結果の是非をとりあえず置いておき、動機と志だけを見るのならば、氏名や顔写真も含めて公表されて20代前後と分かっている5人の実行犯(ちなみに当局発表で当初7人とされた実行犯のうち1人は人質になっていたレストラン従業員が誤って軍に殺されたと判明し、もう1人は拘束されているが詳細は分からない)もまた、同じように純粋でまじめな若者たちだった。
まず「卑劣なテロは許せない」とは、日本人から見ればそう断言するのは容易いように思えるが、そもそも命がけの(自殺覚悟の)武装闘争は「卑劣」ならできるはずがない自己犠牲だ。
安倍首相が絶叫して糾弾するように「テロリストを忖度」をするまでもなく、バングラデシュ人の立場からその本音の、決して口にはされない深層心理を「忖度」するだけでも、物事はまったく異なって見えてくる。
なるほど、日本の報道陣に応えるバングラデシュ人は「こんなことをするのはイスラム教徒ではない」「許せない」「日本には感謝しているのに」と口々に言っている。
だがそれは「最大の援助国」であり、もっと言えば最大の投資国つまりバングラデシュ経済の生殺与奪権を握る日本の、視聴者や読者を意識して言っていることだ。日本に嫌われて投資や援助(これも実態は投資の一種だ)を打ち切られでもすれば、世界でもっとも人口密度が高くしかも自立した産業を持たないバングラデシュの経済は、餓死にまで追いつめられかねない。
だからこそ外国人の振る舞いがいかに傲慢で無神経で、露骨に人種差別的でさえあっても怒りは口にできない、外国人に不満を言ってはならないのが、ほとんどのバングラデシュ人に刷り込まれた立場だ。
自分たちの政府が自分たち国民ではなく外国人の利害を代弁する組織として機能し、むしろ外国の利害のために自分たち国民を弾圧するのが分かっていても、そんな政府にこそ選挙では投票してしまうし、そうせざるを得ない。バングラデシュの現状はそんな国であり、単に貧困や格差だけでなく、その貧困や格差を生んでいる歴史や現代世界の構造が、この事件の背景動機としてある。
今回の実行犯の、主犯とみなされる5人の若者のうち3人は裕福な出身で、与党幹部の御曹司や、外資系通信会社幹部の息子もいたのだが、そうなると途端に「貧困が動機ではない」と安易な結論に飛びつくメディアが多いのはなぜなのだろう? まるで日本と較べるとバングラデシュがとんでもなく貧しい国であるという不公平に、なるべく触れまいとしているかのようだ。
イスラム国系の通信社が発表した実行犯5人 |
そんな報道番組やワイドショーに招かれたいわゆる専門家が、イスラミズム過激派運動の指導者はエリート層の出身が多いこと(まずオサマ・ビン・ラディンからしてサウジアラビア屈指の大富豪で巨大建設グループ創始者一族の出身)、過激主義に共感して運動に身を投じるのも、むしろ金持ちの子弟や海外で学んだり育った者が最初から多かったことまでは指摘するのだが、残念ながらそれ以上には踏み込まないので、むしろ貧困や格差、人種差別がこうした過激主義にまったく関係ないかのような誤解が広まってしまっている。
だが歴史的な社会構造を見れば、元々が英国植民地時代の恣意的な民族・宗教分断支配の政策に端を発し、その旧宗主国の都合による人心操作にインドの独立運動が抗しきれなかった結果産まれたのが、インドの東西にあるパキスタン、バングラデシュというイスラム教徒の国だ。
ことバングラデシュは狭い国土に今では1億6000万にまでなった膨大な人口が押し込められ、ながらく極度の貧困に苦しみ、貧しいからこその安価な労働力を狙った外資製造業が大きな力を持つ国になっている。そんな国のなかで特権的に裕福な階級に生まれ育った若者たちであれば、お坊ちゃん育ちで純粋でまじめであればあるほど、自分の恵まれた環境がいわば祖国の人たちを裏切り続ける不公正の上に成り立っていて、真の支配者である外国人(かつ異教徒)に寄生することで保証されている現実に、気づいてしまう可能性も高い。
たとえば、実行犯で最年少の18歳の少年はバングラデシュ人の平均収入ではとても授業料が払えないような英語教育のインターナショナル・スクールの中学高校に通っていた。
18歳だったミール・サメー・モバシール容疑者(ISに参加前) |
バングラデシュに進出した日本企業の人たちは、テレビに識者として招かれるとこの国を褒めるつもりで英語ができて優秀な労働者が多い、と語る。そこに他意はないのだろうが、まったく無意識かつ無自覚な無神経さがあることは指摘せざるを得ない。この無邪気な褒め言葉のつもりは、バングラデシュ人から見れば自分の国で自分の言葉を使っていてはまともな仕事が得られない、社会の経済構造からこぼれ落ちて貧困層にとどまってしまう現実も、また意味している。
イスラミズム過激主義はなぜ生まれ、なぜこうも急成長を見せているのか?
たとえばイスラム国の場合なら、そのブレーンに入り込んでいるのは元は非宗教民族主義運動であった旧イラクのバース党の残党だ。つまりサダム・フセイン政権だろう、ならば暴虐な「悪」だろう、と断言するのもまたあさはかで、バース運動はもともと特に英国と戦後はアメリカ(と、その援助を受けたイスラエル)による中近東アラブ人への抑圧支配に対抗する、反植民地主義の革命思想だった。
バース党運動の系譜にあるからこそ、現代でもイスラム国のもっとも中核的な主張のひとつは、イラクをイギリス、シリアをフランスが勢力圏に置き続けるよう第一次大戦中に交わされた密約であるサイクス=ピコ秘密協約の打倒であり(つまりイラクとシリアの統一)、イスラミズム過激主義が急速に成長した背景には、アラブ諸国の政治体制が自国民よりも旧宗主国先進国の利害を代弁するような半植民地政権の独裁ばかりであり続けた現実がある。だからこそアラブの春のような民主化運動が起こり、それが結局は西洋先進諸国の利害から弾圧され潰された結果(たとえば今のエジプトの軍事政権はアメリカの援助を受けている)、さらに熱を帯びた過激主義の波がアラブ=イスラム諸国を中心に吹き荒れている。
同じような半植民地的な政治体制が、グローバリズム経済に急速に取り込まれつつあるバングラデシュや、あるいはマレーシアのような東南アジアのイスラム教国にもある。
つまりテロの背景は宗教的な理由よりも、根本にあるのは政治経済上の世界の構造的な問題だ。
現代の世界の覇権構造が19世紀の植民地主義の延長上にあり、(日本も含めて)旧植民地宗主国が相変わらず「先進国」であり続け、直接政治支配の植民地こそ独立運動で淘汰されたものの、経済的な植民地主義が旧来の格差を利用して支配する側であり続けている結果として、バングラデシュのような国がある。
バングラデシュのような極度な人口集中と貧しさまでは行かずとも、中近東アラブ諸国やアフガニスタンなども同じような中途半端な独立国の歴史を歩み、パレスティナなどは独立も許されないうちから自治政府は腐敗して住民の不信を買っている(ヤセル・アラファトは西洋で人気があったが、パレスティナ人には信用されていなかった)。
そんななかで起こったのが、例えばエジプトの無血革命だったものの、結局は欧米により都合のいい軍事政権が(欧米の意向で)返り咲いてしまった。しかもエジプトの場合、復活した軍事政権の下で一時は激減した主要産業である外国人観光客や、外国が主導する考古学調査は復調もしているのだから、国民にとっても「背に腹は代えられない」とならざるを得ない。
我々が「テロ」と呼び危険視・敵視する動きの根底には、こうした現代世界のあり方そのものへの不満や怒り、いや怒り始める以前に当然の素朴な疑問が出発点にあることは、いかに先進国の側がそのことを無視しようとしても…いや、無視しようとすればするほど、その素朴な疑問がやがて不満や怒りになり、こうした過激主義運動を存続させるエネルギーにもなり続けるだろう。
イスラミズム過激派の暴力に賛成する人は多くないし(そこはたとえばかつてのパレスティナ・ゲリラが集めた支持とはまったく違う)、イスラム法支配でさえ支持者は多くなく、それが暴力的に強制されるなんて冗談じゃないと思っている人が圧倒多数だが、それでも根底にある疑問、不満、そして怒りは、決して特別なものではないし、どんなにイスラム国を嫌う人でも、その支配地域に住む人たちがロシアやアメリカの空爆で焼き殺されることを喜ぶ者もいない。イスラム国やアルカイーダの暴力の犠牲になった外国人を心から悼むからといって、その先進国の「テロとの戦い」を支持するわけでは全くない。
自分たち自身が深刻な貧困層ならば、日々の暮らしにひたすら懸命にならざるを得ないから、直接のテロの温床にはなりにくい。不満や怒りは治安を悪化させ組織犯罪も横行につながるが、反政府的な運動にはあまり至らない。
その意味では今回の事件の直接被害者の日本人と直接の実行犯は、同じような純粋な動機で、どこかで道の選択が違ってしまっただけの違いしかないかも知れないのに、その一方を「志半ば」と美化し、一方を「卑劣なテロリストを許さない」と断罪することは、それ自体が差別構造の社会的な共有と、その社会構造に自己同化を強める差別意識の内面化にしかなってないし、そんな自己欺瞞の二重基準(ダブルスタンダード)を言い募ることこそが、発展途上国の側からみれば手のつけようがない、お話にならない傲慢にもなる。それがイスラミズム過激主義と先進国側の「テロとの戦争」に見られるような負の暴力の連鎖を加速することになる。
あるいは、宗教はもちろん無関係ではないが、それはイスラームが特殊な、危険で暴力的な宗教だという意味ではまったくない。
あらゆる普遍宗教、一時のカルトではなく時代を超えて存続するまっとうな宗教なら、必ずなんらかの平等主義、神や仏や世界の真理を前にあらゆる人間には生まれながらの分け隔てがなく、人の価値はその個々人の良心にのみかかっていることを説いている。イスラームもまたまったく、そうしたまっとうな宗教であり、むしろ聖典の文書レベルに明示された哲学と、その実践としての戒律で徹底されている点では、成立した当時としては驚くほど完成度が高い、洗練された宗教でさえある。
ちなみにイスラームの聖典はコーランだけでなく、ユダヤ教の聖書とキリスト教の福音書も含まれる。
またイスラームの教義上の平等主義が徹底しているからこそ、現代の世界の構造の根源的な不公平と衝突することにもなるのだ」
9.11を発端にアメリカを中心に先進国が始めた「テロとの戦争」は、いっこうに勝てそうな気配がないまま、イラク戦争が惨憺たる結果に終わり、アラブの春が先進国のヘゲモニーには不都合だったために結局は潰されてしまった今、どんなにアメリカやロシアがイスラム国支配地域に空爆を続けようが、イスラム国本体の支配地域が狭まった程度の成果しか挙げられず、テロの方は拡大の一途をたどっている。
今回の事件は直接に日本人を狙ったとは考えにくいが、日本人もまた(先進国の、金持ちの)外国人であるだけで狙われることは避けられない。火に油を注ぐように、こと昨年早々に安倍首相が(外務省の警告を無視して)カイロで「イスラム国と敵対する国々に」と演説してしまった結果、日本人を殺すことはイスラム国に限らずイスラミズム過激派の武装闘争にとって喧伝できる大手柄になってしまっていて、今回のダッカの事件でも「バングラデシュのイスラム国」の出した犯行声明ではその安倍のカイロ発言を明らかに念頭においた言及で、日本人を殺したことが「成果」として喧伝されている。
そんななか、「卑劣なテロを許さない」と叫べば国民に「頼もしい」とみなされると思い込んでいるらしい安倍首相は、参院選の遊説で「アメリカや、国際社会と手を携えてテロと戦う」と自慢げに吹聴してしまった。
わざわざ「アメリカ」を挙げたことで、ますますイスラミズム過激主義にとっては日本人を殺すべき敵とみなす口実が補完されることなぞ、この人には想像も及ばないらしく、むしろテロ事件を追い風にはしゃいでいるようにすら見える。
遺族の気持ちを尊重すればなるべく静かに済ますべきところで政府専用機を出して外務副大臣まで派遣する「やってます」アピールのパフォーマンスのもっともグロテスクなオチは、遺体を載せた専用機が羽田についたときだった。
貨物室から取り出された遺体を滑走路わきに並べ、しばらく野ざらしになった棺の前に外務大臣やJICA理事長らが到着する。もったいぶったセレモニーは、海外で戦死した米兵の遺体が本土に送還されたときの儀礼の珍妙な猿真似だった。「発展途上国の発展に尽くした志なかば」の人たちが、いつのまにかバタ臭い「愛国の英雄」扱いになってしまったこの悪趣味は、いったい誰のアイディアだったのだろう?
勘ぐるならば、イスラム圏の国で働いている人やその家族なら、誰もが安倍のカイロでの発言に危機感は抱いていた。それまで日本は援助の実績や戦後の平和主義があり、イスラム圏を侵略支配したことが第二次大戦中のインドネシア支配以外にはほとんどなく、ムスリムをことさら差別した歴史もなかったがゆえに、先進国のなかでは狙われる理由が比較的少ない立場だった。だがイラク戦争に小泉政権が参戦し、そしてとくに安倍の「イスラム国と敵対する国々」発言以降、日本人が狙われるのは「『外国人』全般の一部としてたまたま」ではなくなってしまった。
今回のダッカの事件でも、すでにイスラム国側はその安倍の発言へのあてつけを含めた犯行声明を出しているのは先述の通りだ。通常の、遺族の心情に最大限に配慮した対応だけでは、遺族から安倍政権への疑問が出てくる可能性は十分にある。それを恐れての政府専用機を使った囲い込みや、妙に大げさに「政府の哀悼の意」を見せつけるやり方だったのではないか?
しかし皮肉というかなんというべきか…日本人が犠牲になったテロ事件は、その報道に割かれる時間や話題性の大きさで参議院選挙の報道が減っただけでも、その原因の一端に責任がある安倍政権に有利な国内状況を作り出している。しかもその安倍政権の国内向けパフォーマンスしか考えていない対応が、「親日国」であるバングラデシュ政府や、同じような立場の発展途上国の神経を逆なでする無神経で傲慢なものであったことにも批判は出ず、犯行声明が明らかに安倍のカイロ発言を念頭に置いた内容であったことすら無視されている。
まさに先進国側の、自分たちそれぞれの国内しか見ておらず、「テロとの戦争」を人気取りのために言い続けてしまう無神経な態度こそが、ますます国際テロ事件の温床になっているのだが。
もう一点、ダッカの事件では日本人が7人、イタリア人が9人殺されたことで大きな話題になっているが、立て続きにバグダッドで起きた149人が殺される自爆事件はほとんど報道されない。その前に起きたイスタンブールのアタテュルク空港の襲撃・自爆事件も、外国人観光客が訪れたり、トランジットのハブ空港機能があるので外国人利用者が多いことから、死亡者数はバグダッドの3分の1でも、「外国人」がからむだけで扱いは大きかった。
イスラームもキリスト教も仏教も、日本の民族信仰の神道ですら、宗教は人の命が平等であることを説いている。だが現実の世界では、人の命はまったく平等でも等価でもなく、ムスリムの多い国々では、自分たちよりも「外国人」の命の方が “高価” であることを嫌というほど見せつけられて来た。そんな世界では、「イスラム国のようなテロリストはごく一部で、ほとんどのムスリムは穏健派」という説明すら、実のところ先進国の都合の欺瞞でしかない。テロリズムには共鳴せずとも、イスラミズムが戦っている(たとえそのやり方がどんなに残虐に見え、また実際に道徳的・宗教的にも誤っているとしても)ところの不平等に、素朴な疑問を持たざるを得ない人々は世界でどんどん増えている。
一方で、イスラミズム過激派の方でも、外国人を殺した方が「成果」をアピールできるならその殺し方をどんどん進めるだろうし、旧来の西洋キリスト教白人国家に新たに加わった「日本」という敵の国民の命は、より「殺す価値」が高いものにすらなっている。倒錯して狂った、悪魔的な発想だが、それを作り出してしまったのは先進国であり、その「テロとの戦争」なのだ。
ラマダン(断食月)の前夜に今度はサウジアラビアで起きた自爆テロ事件は象徴的だ。死亡者数は4名という点では大きな事件ではないが、場所がメディナだったことの意味は本来ならもの凄く大きく、今後のイスラーム諸国の動向を考える上でも注目されるべき事件だ。なのにダッカの事件の方ばかりが注目されてメディナの事件は無視されがちなことで、未だに世界の覇権を握る先進国の側がいかに無知というか、そもそも自国のこと以外に関心がないことが、分かりやすすぎるほどにあからさまになってしまった。
メディナはイスラームの三大聖地のひとつ(あとの二つはメッカのカーヴァ神殿と、エルサレムの岩のドーム)で、ムハンマドが布教の中心を置き、最初のイスラム帝国の首都だったところだ。
そのメディアでイスラム国がテロを起こすとは、なにを意味するのか?
だがメディナがそもそもイスラームの歴史のなかでどんな場所で、この街がなにを意味するのかを考えもしないし知ろうともしない欧米や日本の先進国では、たった4人の、それもムスリムの死者は、無視して平然としていられるものなのだろう。
そんな状態が続けば続くほど、イスラム国やアルカイーダなど、イスラミズム過激派組織は「外国人」を殺し続けることになる。かけ声だけの「テロと断固戦う」には、実際にはなんの防ぐ手段もない。
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