11/14/2016

雪舟 慧可断臂図(東京国立博物館の「禅」展)


雪舟等楊 慧可断臂図 明応5(1496)年 愛知・齊年寺蔵 京都国立博物館寄託

洞窟の壁に向かい瞑想を続ける達磨に教えを請おうとした慧可に、達磨は「仏法を求めるものは己の身体を身体とすることも、己の命を命とすることもできぬ」と謎めいた言葉を投げかけて弟子入りを断る。その達磨の背を見つめて何日も雪のなかに立ち続けた慧可は、決意を固めて自らの左腕を切り落とし、達磨に差し出したという。

達磨が座禅瞑想を続けることで切り拓いた新たな仏教の、最初の継承を表す(達磨に続く禅宗の二代目の始祖が慧可だ)この物語の意味は謎めいていて、どう解釈するのか自体が「禅問答」にもなっているようにさえ思えるが、その慧可が切り落とした左腕を右手に持って達磨に差し出した瞬間を描いたのが、室町時代・日本中世の人物画を代表する傑作のひとつで、歴史の教科書でも写真が載っている(そして国宝でもある)雪舟数え年77歳渾身の「慧可断臂図」だ。

戴進(1388-1462)「達磨至慧能六代祖師図」より 達磨と慧可

この絵を描くにあたり、雪舟は明の画僧・戴進の「達磨至慧能六代祖師図」のなかのこの絵を参考にしたのではないか、と言われている。明に留学中にこの模写を見ていたのではないか、という仮説で、確かに人物の位置関係などはそのままだ。

だが戴進の作を原画としているとしても、そこで雪舟の傑出した才能が揺らぐことはない。戴進の絵の一部を切り取った構図だとしても、雪舟の「慧可断臂図」はその切り取り方によって戴進にはなかった強烈なドラマ性と緊張感を画面にみなぎらせる。

戴進は達磨を画面中央に配しているが、雪舟は達磨が画面の右端をにらんでいるかのように見えるまでその位置を中心からズラし、眼前に岩壁を描き、慧可の方は上半身だけを下方・手前にアップにし、腹部から下は大胆に画面外に切り落とす。


教科書などでは小さな写真でしか紹介されず、ネット上の画像などでは実感がないことだが、雪舟の「慧可断臂図」はかなりの大作で、画面自体だけで縦183cmほど、表装も含めれば高さ2mほどある。

それでも美術館などでの展示では、立って見ている我々の視線はほぼ達磨の高さになる。だが本来の描かれた目的の通り、禅寺の方丈の書院かどこかに架けられた場合、前の床か畳に座って見ることになり、視点の高さは慧可に重なる。



写真や、美術館で見た場合、これは達磨が主人公の絵に見えるが、宗教的な意味合いも含め、雪舟が狙った効果は違ったのだ。

座った位置の視点では、我々はむしろ慧可の立場から達磨のシンプルな太い墨線で簡略化して描かれた白い衣の後ろ姿を仰ぎ見ることになり、画面上三分の一以上を占める洞窟の天井の岩も、文字通り上からのしかかって来る。

極度に抑制された表現で描かれ、ことさらどこかを直接的に強調しようなどとはまったくしていないこの絵で、達磨を中心に見た場合にはほとんど気づかないかも知れない慧可の切断された左腕が、座った視点では目の前に来る。


雪舟はこの絵で濃淡の墨描きに淡彩を施しているが、その色彩の使い方も抑制されている。

達磨の横顔と、慧可の顔と手に肌色、そして赤が慧可の痛みを噛み締める下唇と、写真やデジタル複製ではかなり見づらいが、慧可の右肩から上腕にかけての太い薄墨の線の右ほんの数ミリか1センチと離れていない左腕の端には、切断された切り口の血を示す赤が引かれている。

左腕を持つ慧可の右手は太い描線と縫い目を細かな点で表した白い布で隠される。この右手の肌色を隠す抑制との対比で、細い墨の流麗な曲線に肌色の淡彩を施した手と、切り口の赤い血が見るものの目を射るように、雪舟は計算しているのだ。

戴進の「達磨至慧能六代祖師図」と雪舟の「慧可断臂図」の際立った違いのもうひとつが、この描線とタッチの使い分けだ。

風景山水画で鍛え抜かれた描写の、背景となる洞窟の岩の黒々と力強い、硬質の触感の一方で、二人の衣は薄墨でゆっくりと勢いをつけずに描かれた太い描線で簡略化され、さらに対照的に達磨と慧可の顔は細い線で緻密に、髭や毛の一本までを丁寧に描き込み、同じく肌色の淡彩が施されていても慧可の切られた腕も細い線ながら顔の描写ともさらに異なった表情の、伸びやかな曲線だ。


「慧可断臂」のような、意味がいかようにも解釈できそうな、解釈をすればするほどに深淵を見いだせそうにも、あるいはひたすら悩むことにもなりそうにも思える物語の場合、絵にすることはひとつの解釈や意味付けを決定してしまうことになりかねない。かと言って解釈を避けようとすれば、今度はただアクションを説明するだけか、それこそ言われなければなにを描いた絵なのか分からないような平板な作品になりかねない。

だが雪舟の「慧可断臂図」は、構図全体に息苦しいまでの緊張感、慧可が自らの左腕を犠牲にしてまで禅の教えを得ようとする決意の激しさだけはみなぎらせつつ、その慧可と、彼をそれでも無視するかのような達磨の背中のドラマにのみ集中し、それ以上の特定の解釈や物語的な意味付けを一切排除している。

ただこんな尋常ではない出来事があったこと、それだけを純粋に提示する雪舟の「慧可断臂図」は、見る者に解釈を語りかけることもなく、また安易な解釈も許容もしない。事物と人間とそこで起きたことだけを純粋に、ありのままの事件として提示し、その存在の集中度だけで圧倒的なドラマと世界観を成立させているのだ。

自署によれば「雪舟行年七十七歳」、当時としては大変な高齢のはずだが、没年には諸説あるものの80代半ばから後半と考えられるその生涯のなかでは、まだ晩年・最晩年ではない、むしろ創作意欲の絶頂期だった。他に国宝指定されている雪舟の傑作のうち「破墨山水図」(東京国立博物館)はこの前年の明応4(1495)年の日付で、「秋冬山水図」(東京国立博物館)、「天橋立図」(京都国立博物館)、「山水長巻」(毛利家)は、いずれも恐らくこの「慧可断臂図」よりも後の、15世紀末か16世紀初頭の作と考えられる。

雪舟等楊 秋冬山水図 秋

初夏にまず京都国立博物館で開催された「禅-心をかたちに」展が、今度は東京国立博物館で11月27日まで行われている。日本の禅宗の美術を代表するものとして、雪舟の国宝作品の「秋冬山水図」が前期の、そして後期は「慧可断臂図」が、いわば目玉作品だ。

秋冬山水図 冬 15〜16世紀 東京国立博物館蔵

この展覧会は中国での臨済宗始祖の没後1150年と、白隠の没後250年を記念するものでもある。

達磨図 蘭渓道隆賛 13世紀鎌倉時代 山梨・向嶽寺 蔵 国宝

ちなみに、よって「禅宗の美術」と言っても臨済宗と並んで日本での禅宗の双璧となる曹洞宗は触れられていない。

周文(伝)竹斎読書図 室町時代15世紀 東京国立博物館蔵 国宝

牧谿、李唐といった南宋の水墨画が禅宗文化の発展のなかで日本に輸入され、周文らを経て雪舟・雪村らによって大成されると、こと雪舟は室町8代将軍の足利義政が見出した狩野正信を始祖とする狩野派によって「画聖」としてほとんど神聖化された。

狩野元信 四季花鳥図 大徳寺大仙院 室町時代16世紀
伝 狩野元信 囲棋観瀑図屏風 室町時代16世紀

南宋の文人画の伝統を学び尽くしてさらなる発展を見せた雪舟が確立した日本の禅画を狩野派が継承し、その絶頂期であった狩野永徳の代には、ライバルとしてしのぎを削った長谷川等伯も雪舟の後継者を自認し(等伯という号の「等」は雪舟等楊の「等」をとったもの)て日本の絵画史のなかでも屈指の刺激的で豊かな時代が形成され、近世日本絵画の礎が築かれて行った。

長谷川等伯が南宋の画僧・牧谿風のタッチで描いた竹林猿猴図屛風(右隻)
安土桃山時代 16世紀 京都・相国寺蔵 重要文化財


なお狩野永徳と父・松栄の障壁画で知られる大徳寺聚光院が特別公開中だ。千利休の菩提寺でもある。http://kyotoshunju.com/?temple=daitokuji-jukoin
狩野永徳 花鳥図 大徳寺聚光院障壁画 国宝 

安土桃山時代には、永徳ら狩野派も、長谷川等伯も、それぞれに大作の障壁画を京都を中心に禅宗寺院に描いている。

狩野山楽 龍虎図屏風 妙心寺蔵 安土桃山時代
狩野探幽 南禅寺方丈障壁画 江戸時代初期

江戸時代に入ると公式絵画となった狩野派の一方で、文人画の系譜の池大雅や、市井の絵師で臨済宗・黄檗宗の熱心な信者だった伊藤若冲も、禅寺の障壁画を描いたり、自作を寄進したり(有名な「動植綵絵」30幅は、元は釈迦三尊と共に相国寺に寄進されたものだ)して来た。

伊藤若冲 鹿苑寺大書院障壁画 18世紀江戸時代
伊藤若冲 鷲図 若冲は晩年は黄檗宗寺院の石峯寺に身を寄せた

また書画をたしなむことが基礎教養であった禅僧のなかから、江戸時代中期には白隠、仙厓といった名僧が現れ、庶民に分かりやすく禅の教えを伝える手段にもなった水墨の禅画を多数残している。

展覧会冒頭に掲げられた白隠慧鶴の大判の達磨図 江戸時代18世紀 大分・萬壽寺蔵

この大きな達磨図に白隠が白字で記している「直指人心見性成佛」は、人の心のなかに必ずある仏の特質(仏心)を指し示す、仏になろうとするのでなく自らの仏の特質に気づくことで悟りに至るという意味の禅語だ。一方、下の作品の自画賛は「どう見ても達磨」とも「どう見てもよい」とも読める。

白隠慧鶴 達磨像(どふ見ても)

だがこのような、我々が「禅」と言ったときにイメージして、いかにも「日本的」だと思っている絵画の多くは、鎌倉時代に始まる日本の禅宗の歴史のなかでかなり後の方に登場するものだし(だからこの展覧会では最後の最後でやっと)、禅に関わる美術作品として、必ずしも主流ではない。

臨済宗の禅画でもっとも重要視され、この展覧会でも数が多いのが高僧の肖像画(頂相)だ。

宗峰妙超(大燈国師)像 建武元(1334)年 大徳寺蔵 国宝

頂相は本来なら、その高僧の弟子筋の禅僧が描くものだ。

師が頂相に自ら賛文を記したて弟子に与えることが継承者・後継者(法嗣)としてのお墨付き的な意味も持ち、また儀式や礼拝に使われるものでもあった。その絵画の頂相に基づいた肖像彫刻が作られる場合もあり、この展覧会ではその代表的な傑作でありながら、ごく最近まで存在すらほとんど知られていなかった、建長寺開山堂の蘭渓道隆坐像も出品されている。

蘭渓道隆坐像 建長寺開山堂 鎌倉時代13世紀

右斜め前からではほとんど分からないが、正面からみると蘭渓道隆は少し微笑んでいる。


再発見の当初は近世の修理で塗られたと思われる黒漆で顔が覆われていたが、最近の修理でその漆を取り除いた結果、極めて写実的に再現された顔に、水晶の円盤に瞳孔の光彩を金を裏張りした特殊な加工の目が鋭く輝きつつもやさしい眼差しで、あたかも修行者をじっとみつめつつ、その内心にまだ隠されたままの仏性まで見抜いているような神々しさをたたえている。

水晶のコンタクトレンズのような薄い円盤に金で光彩をあしらった瞳孔の表現
(修理前の漆塗りの状態)

修理前の数百年間は、金の光彩の目が黒い顔に際立った光を放っていたはずだ。

蘭渓道隆坐像 修理前の漆塗りの状態

建長寺開山堂の蘭渓道隆像は、間違いなく日本の彫刻史上屈指の、人物の肖像彫刻として唐招提寺の有名な鑑真和上坐像に比肩する傑作であり、その静かな微笑みはダ・ヴィンチ『モナリザ』にもまったくひけをとらない。普段は非公開の開山堂に安置されているので、これを見るためだけでも展覧会に行く価値はとても大きい。

修理前の蘭渓道隆坐像の顔

なおその蘭渓道隆を招き建長寺の開山のスポンサーとなった(開基)北条時頼の、やはり建長寺蔵の坐像も展示されている(ふだんは鎌倉国宝館に寄託)。

建長寺の開基・北条時頼像 鎌倉時代13世紀 建長寺蔵 重要文化財

日本での禅宗の導入期(鎌倉時代)には宋から禅の名僧が渡来したり、宋や元に留学した僧侶が帰国して日本で禅宗寺院を朝廷や鎌倉幕府の執権北条家の庇護と援助で開山した。その際に中国での師から与えられた頂相も日本に渡来し、その形式に則った肖像画が日本でも描かれるようになっって普及していく。

無準師範像 自賛 南宋・嘉煕2年(1238)京都・東福寺蔵
弟子の円爾に与えられ、その開山した東福寺に伝来 国宝

禅僧の肖像である頂相など、禅寺で用いる絵画は、本来は禅僧が修行の一部として描くものだったが、室町時代後期から戦国時代にかけて、狩野派のような俗人のプロ絵師が描くようになる。

狩野探幽 以心崇伝像 南禅寺金地院蔵 江戸時代初期

頂相の中国起源の宗教的意味合いの強い肖像画の形式は、やがてこのような俗人の肖像画にも踏襲されることになる。

狩野永徳 織田信長像 天正12(1584)年 京都・大徳寺

これは信長の一周忌法要に飾るため、秀吉が狩野永徳に描かせたものだが、つまりは実は禅画、宗教画でもあったと言えるだろう。描かせた秀吉はといえば没後に「豊国大明神」として神格化されており、狩野光信が下の肖像で描いたのは、そのカミとしての秀吉の姿だ。

狩野光信 豊臣秀吉像 慶長4(1589)年

日本における禅宗の始祖となるのは明菴栄西や蘭渓道隆、無学祖元など日本に招かれた中国人の僧だし、臨済宗はそもそもが唐の末期に臨済義玄が始めたもので、日本では平安中期に遣唐使が廃止されて中国からの新文明・新文化の導入が途絶えていたため、平清盛の日宋貿易などで断片的には知られていたものの、初めて本格的にもたらされたのは鎌倉時代になってからだ。

伝 曾我蛇足筆 一休宗純 賛 臨済義玄像 大徳寺真珠庵

その遣唐使も途絶えた唐の衰退期には仏教の弾圧も起こっている。そんななかで禅宗が生き残り、北宋・南宋に渡って隆盛を極め、モンゴル人の皇帝がチベット密教を信奉していた元代にも存続し、明朝でも盛んだったのは、臨済禅がさほど経典に依存しなかったこと、経済的にも国家や皇帝の権力に頼らないでも存続できていたからだという。

范道生 羅怙羅尊者 江戸時代 寛文4(1664)年 京都・黄檗山萬福寺
十六羅漢像のひとつで あらゆる人の内面には仏性があることを具象化している
范道生は長崎に住んだ中国人仏師、明らかに同時代の明の様式の仏像である

南宋の時代の禅宗が日本で受容される過程では、あらゆる人の心に仏性が宿り、本当の自分を突き詰めることが悟りにつながるという、大乗仏教のなかでも日本では平安時代までの密教や浄土信仰の、「神仏にすがる」ことが基本、目に見える分かりやすい現世での効能や来世の救済が中心の考えでは満たされていなかった自己探求の哲学性が大きかったのも確かだろう。

臨済宗幻住派開祖・中峰明本樹下坐禅像
広演賛 元時代14世紀 京都・慈照院 

だが一方でその禅が中国が「本場」の仏教であり、禅宗の受容が中国の最新の文化・文明への憧れでもあったこともまた、明らかに一貫している。

牧谿 龍虎図・龍 南宋 咸淳5年(1269)年 京都・大徳寺蔵
同・虎 牧谿の水墨画は日本で高く評価された

仏像にしても鎌倉時代といえば、源平争乱で荒廃した奈良の仏閣の再興で活躍した慶派の、筋肉表現や人物像描写のリアリズム傾向が印象的な、立体的で躍動的な表現が知られるが、禅寺では肉体描写はむしろ平板かつ静的で、衣のうねるようなひだの表現など装飾性の高い南宋風の仏像が好まれ、平安仏の流れを汲む保守的な作風の院派仏師が活躍した。

宝冠釈迦如来坐像 院吉・院広・院遵作 南北朝時代 観応3(1352)年 静岡・方広寺蔵

江戸時代初期にはたぶんに日本化されていた日本の臨済宗に対し、明代の中国の、いわば「本場・本物」の禅宗の再導入として、隠元が来日し、徳川四代将軍の家綱の援助を受けて黄檗山萬福寺を京都・宇治に開いている。

喜多元規 隠元隆琦像 寛文11(1671)年
萬福寺 開山堂 江戸時代17世紀

そこから全国に広まった黄檗宗の寺院では日々の生活も中国風が一貫されていたという。

萬福寺 丸窓に卍崩しの欄干 明風の建築
隠元隆琦 木菴性瑫 即非如一 「一行書」
隠元隆琦愛用とされる数珠を納める函 中国・明朝製
萬福寺 法堂 寛文2(1662)年

鎌倉時代から禅がいわば最新式中国仏教として日本に受容されて来た、そこから生まれた茶の湯の文化も、喫茶の風習を日本に伝えたのも臨済宗を最初にもたらした栄西だったことくらいは教科書でも習うことだが、天才・利休の登場までは、茶会に用いられるのはもっぱら北宋・南宋の龍泉の青磁や、建窯の天目茶碗、元朝以降の景徳鎮など、いわゆる唐物、中国製の名品だった。

青磁茶碗 銘 馬蝗絆 龍泉窯 南宋13世紀 伝・足利義政所用 重要文化財

近世、さらには現代に連なる日本文化の原型となる美学も禅に源流があり、その基礎となるのは応仁の乱のときの足利将軍で政治的には極めて評判がよくない八代義政が、とくに応仁の乱後に隠居先の東山の慈照寺(銀閣寺)を舞台に作り上げたものだが、その義政が四畳半空間の書院の美学を完成させ、また茶室の原点とも言われる慈照寺東求堂・同仁斎でも、義政が窓辺への配置を事細かに指示した文房具の数々も、ひとつひとつは中国製か、あるいは中国趣味の逸品である。


ちなみに慈照寺銀閣の東求堂(国宝)は、秋の特別公開中 http://www.shokoku-ji.jp/a_news15.html

慈照寺(銀閣寺)東求堂 国宝

こうした「唐物」の愛好は、茶の湯を奨励して人心掌握や統治機構にまで組み込んだ織田信長、豊臣秀吉が千利休を重用しても変わらず、江戸時代まで綿々と続いている。

玳玻天目 中国・南宋時代(12-13世紀) 京都・相国寺 国宝

建築でも、中世の禅宗様と呼ばれる禅宗寺院の堂舎は、現代人にはいかにも「日本的」に見えるかもしれない。

正福寺地蔵堂 室町時代 応永14(1407)年 東京都東村山市 国宝

中央の正方形に配された柱を中心に扇状に広がる垂木を配置して急勾配の反り返った屋根を支える構造などは、確かに日本独自の技術だ。

正福寺地蔵堂 内部
中心の正方形の鏡天井の四隅の柱から垂木が扇状に広がっている

だがこの精緻な構造はすべて屋根を支えるための工夫であり、ではなぜ日本の大工が急勾配の反り返った屋根の実現にこだわって試行錯誤を重ねたのかと言えば、南宋の文人画などで見た家屋の屋根の形を、日本の木造技術で再現しようとしたからだ。

前方は礼拝空間を確保するため柱は上部だけで
大きな梁で重量を前後に逃している


今日ではお寺の窓でおなじみなので、これも「和風」だと思われているかもしれない釣り鐘形の窓(火灯窓、火災を忌み避ける縁起担ぎで「花頭窓」とも書く)も、中国絵画で見た窓の形を、中国風のみためを目指した禅宗建築が採用したものだ。


この正福寺地蔵堂や、ほとんど同じ形の円覚寺舎利殿のような初期の禅宗様建築では左右の桟が直線なのが、近世以降では下辺に近づくところで末広がりになる。

円覚寺舎利殿(国宝)
最新研究では同じ様式の正福寺地蔵堂の少し後の建造と考えられる
円覚寺塔頭 正続院 中央の唐門の奥に見えるのが舎利殿の急勾配の屋根
相国寺 法堂 慶長10(1605)年 豊臣秀頼の再建
萬福寺 大雄寳殿(仏殿) 寛文2(1662)年
近世に受け継がれた禅宗様建築 泉涌寺仏殿 寛文8(1668)年
妙心寺仏殿 文政10(1827)年

日本における禅はそもそも中国風の仏教として始まり、宗教であると同時に文化体系で、中世から近世初期における中国風の最新の文化・文明の受容装置でもあった。

達磨大師坐像 円覚寺仏殿に安置 鎌倉〜南北朝時代14世紀

そんな歴史の流れはなんとなく分かっていても、この「禅-心をかたちに」展の第四章、仏像などの展示で、いきなり鎌倉・建長寺にある道教の神々の像に遭遇するのには、さすがに驚かされる。

伽藍神像 13世紀鎌倉時代 建長寺仏殿
仏殿内では本尊地蔵菩薩(室町時代)の向かって右側に安置されている

建長寺の道教神像のなかには、開山の蘭渓道隆を日本に渡るよう励ましたという神の像もある(写真の左端の顎髭がある男神)。

中国伝来の九条袈裟 仏教だけでなく道教の神々もあしらわれている
元時代(13~14世紀) 京都・天授庵 重要文化財

日本でも古来仏教は積極的に日本土着のカミ信仰を取り込み、神仏集合は当たり前、寺の伽藍の造営には守り神として日本のカミを祀るのも当然だったのだが、中国でも禅宗寺院は道教の神を守り神として祀る風習があり、それがそのまま日本に持ち込まれたのだ。

伽藍神像 鎌倉時代13世紀 奈良国立博物館蔵
范道生 韋駄天 江戸時代 寛文4(1664)年 萬福寺

考えてみれば、たとえば江戸中期の禅の名僧で隠居後に膨大な絵を描き、美術史にもその名を刻む仙厓は、庶民に親しみ、頼まれるがままに子どもの病気除けとして鍾馗様の絵を大量に描いている。

仙厓 鍾馗図(ドラッカー・コレクション/この展覧会の展示品ではない)

鍾馗はもちろん道教の神だし、中世以降は仏教の閻魔天も「閻魔大王」として、道教の神々と同様に宋の高級官吏の服装で描かれるのが習わしになっている。

雪村周継 呂洞賓図 室町時代 16世紀 奈良・大和文華館

仙厓は蔵書が仏教だけでなく道教、禅や道教とは必ずしも思想的に相容れない儒教の書物に、医学や自然科学に至るまで多岐に渡っていたことが分かっている他、彼は晩年に仏教も道教も儒教、あるいは日本の神々への信仰も、根本は共通すると示す禅画も何点も描いている。

また写生的にスケッチした動植物の絵も少なくないが、自然科学や医学の本で調べた品種名などをいちいち書き込んでいるところは、仙厓の傑出して好奇心旺盛で凝り性な性格を伺わせはするものの(ちなみに、珍しい石のコレクターでもあった)、儒教も含めて中国文化について広汎な知識を持つこと自体は、日本の禅僧の大きな役割だった。

 夢窓疎石像 14世紀南北朝時代 京都・妙智院蔵 重要文化財

そうした知識教養に留まらず、中国を中心に国際情勢や政治にも明るいのが禅の高僧で、足利将軍家は幕府の成立期に夢窓国師(夢窓疎石)をブレーンとして重用、南北朝の動乱と混乱を乗り切れたのにもその思想的な功績が大きい。

夢窓疎石作庭 天龍寺方丈 曹源池庭園 14世紀 南北朝時代



また義満が明と正式国交を結ぶにあたって天皇の立場を傷つけぬよう将軍が「日本国王」名義で朝貢の体裁をとるという知恵も、同じく夢窓国師の発案だったと言われる。

夢窓疎石墨跡「別に工夫なし」

この書は夢窓疎石が対明外交を始める義満にアドバイスとして与えたものだという。外交にあたっては策謀を巡らし理屈をこねるなどの小細工はする必要がない、直裁に語るべきことを語り伝えるべきことを伝えよ、「別に工夫は要らぬ」ということだが、実際にはちゃんと「工夫」はあったようだ。

夢窓疎石 墨跡「不労心力」

戦国時代となると大物の戦国大名は、家の宗派に関わらず禅の高僧を身近に置き、子どもの教育から政治・外交のアドバイザー、情報源としても重用して師と仰いで来た。「心頭滅却すれば火もまた涼し」の名言で知られる快川紹喜は甲斐の武田信虎・晴信(信玄)のブレーンであり、徳川幕府の法制度設計に尽力し武家諸法度、禁中並びに公家諸法度などを起草、家康・秀忠の代には外交顧問としても活躍し、家光の吉支丹(切支丹)禁止令と鎖国令の制度設計も行ったのが、京都・東山の南禅寺を再興させた以心崇伝(金地院崇伝)、その権勢は黒衣の宰相として恐れられた。

その以心崇伝を激しく批判(紫衣事件)して一時は配流となったのが沢庵宗彭だが、配流を解かれた後、江戸・品川に東海寺を開くと、三代将軍の家光の深い崇敬を受けた。ちなみに徳川家の菩提寺は江戸では芝増上寺、京都では浄土宗総本山・知恩院、もともとは浄土宗の檀家で、また天台宗の天海に帰依し上野に寛永寺も開かせている。

一休宗純墨跡 七仏通戒偈 室町時代16世紀
文面は「諸悪莫作衆善奉行」

禅とは、私たち日本人とその歴史にとってどんなものなのだろう?

今日では、禅はいわば「日本的なるもの」の代表的な文化と思われているし、実際に今にもつらなる日本文化の基礎が確立した室町時代において、足利義政が書院造りの住居などの美学を創造したのも禅の文化の枠内であり、千利休も、狩野派とそのライバルの長谷川等伯の絵画も、その美意識の系譜から生まれた。

だがその義政は無類の唐物愛好家でもあり、禅僧は中国の最新の文化や文明の知見を日本に伝える役割を一貫して果たして来た。

京都五山のなかでも栄西の開いた建仁寺は中国伝来の人文科学を伝え研究するアカデミック中心の役割を担って「学問面」と呼ばれたし、妙心寺が「算盤面」と呼ばれるように、数学や会計学も研究されていた。

正福寺地蔵堂 応永14(1407)年 国宝

正福寺地蔵堂や円覚寺舎利殿のような禅宗様建築も、その独特のフォルムと凝った木組みの美学は、こうした数学や物理学研究の知見をフルに活用して「重い屋根を支える」という機能を満たすことから独自の美のかたちに到達したものだ。

正福寺 地蔵堂 応永14(1407)年 山門 元禄14(1701)年

そうやって発展して来た日本の禅宗は、その学問的な教養と権威を背景に政治にも深く関わり、中世以降の日本の法制度や統治機構の基本論理の構成も担って来た。その意味で禅は支配する側、権威の側の宗教であり、その権威的な文化・思想を支える一方で、そうした権威に支えらえた俗世の常識を超越する自由な思考を鍛える「禅問答」もあった。

今回の「禅-心をかたちに」展の目玉作品のひとつである国宝の「瓢鮎図」(室町時代)は、典型的な「禅問答」を表した禅画だ。

大巧如拙 瓢鮎図 15世紀室町時代 京都 妙心寺塔頭退蔵院蔵(国宝)

将軍足利義持の出した「つるつるの瓢簞でぬるぬるしたナマズをどうやったら捕まえられるか」という問いが描かれ、31人の高僧の答えが書き込まれている(こうしたものはどうせ展示するなら、漢文で書かれた回答の現代語訳も付け加えて欲しい)。現状は掛軸に表装されているが、義持はこれを衝立てに仕立てて身近に愛用していたという。

このように、日本における禅が権威権力の側を戒め、世の中の権威常識の固定観念を突き崩すものでもあった、そんな自由な発想を具体的に体現する人物としては、天皇の子でありながら天衣無縫な振る舞いの反骨精神と機智に富んだ頓知で、世の中の権威常識を覆し挑発し続けた破戒僧・一休宗純がいたことも忘れられない。

一休宗純像 室町時代15世紀(本展では非展示)重要文化財

さまざまな逸話のある一休宗純だが、有名なところでは木製の仏像をたきぎにくべて「ただの木だ、暖をとった方がよほど人を救う役に立つ」と言ったり、浄土真宗の門主・蓮如を訪ねたときに留守だったので、その念持仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした、密教の呪術修法の護摩壇の火を小便をかけて消したとか、骸骨を掲げて街を練り歩き「ご用心、ご用心」と、人が必ず死ぬものだとの警鐘を触れて回ったなどなど…。

一休宗純像 京都・酬恩庵(一休寺)蔵 重要文化財
片足を膝に乗せるポーズが型破り

一休は大徳寺も含む当時の禅宗の形骸化も激しく批判し、僧侶の戒律をものともせず寺院で当時一般的だった男色だけでなく女性とも交わり子どもももうけている一方で、その大徳寺の往時を務めた権威ある禅僧でもあった。

京都と東京の国立博物館が企画した「禅-心をかたちに」展は、白隠が「人の心を直接に指差してそこに仏の心を見い出す」と書き込んだ大判の達磨像を、展覧会の冒頭に置き、人の心の内にこそ仏があるという理念を具象化した范道生の「羅怙羅尊者像」を宣伝などでもフル活用し、相国寺伝来の周文の「十牛図」(禅の修行を牧童にたとえ、少年が自分の分身であり真実の自分を意味する牛を探す姿として表したもの)も目玉作品のひとつであるなど、禅を「心に仏性を宿した真実の自分探し」というテーマを前面に打ち出し、その仏性の「心」を形にして来た日本の禅宗美術の歴史を紹介すことがコンセプトになっている。

伝 周文 十牛図絵巻 相国寺蔵 第十図

だが一方で、たとえば「羅怙羅尊者像」を作った范道生は長崎に住んだ中国人仏師で、これは黄檗宗寺院のために作られたコテコテに明風の仏像でもある。

周文の「十牛図」も牧童の服装や建物は宋風・中国の風景だし、雪舟の「秋冬山水図」も中国の風景を描いている。歴史的な正確さで日本における禅の歴史を追って行けば、それは中華文明に憧れて、中国の最先端の文化文明や思想を受容して来た、いわば中国模倣の歴史でもあった。

周文(伝) 山水図(水色巒光図) 15世紀室町時代 奈良国立博物館 国宝

いやそれを言うなら、近代以前の社会において宗教は文化と文明観の根幹を成すものであり、日本の場合それは仏教だった。6世紀に仏教が伝来するとすぐに日本古来のカミへの信仰は仏教と融合し、神仏習合は最初から当たり前だった。

平安時代になると空海が中国から直輸入した当時の最先端仏教である密教の理論体系で、日本のカミガミは仏が日本向けにカミの姿で現れたもの(権現としてのカミ、その本地仏としての仏)として理論化され、今日でいう神道はいわば仏教の一部だった。

仏教は最初は朝鮮半島を経て伝来し、推古朝の遣隋使派遣以降は白鳳・奈良・平安時代前半の遣唐使と、常に中国大陸から輸入される外来宗教だった。またその本流が天竺・西方・インドになることも日本人には意識され続けていたことは、たとえばこの展覧会でも複数展示されている羅漢図を見ても分かる。

十大弟子立像 鎌倉時代13世紀 京都 鹿王院 インド風の服装

宋や元の時代の中国で製作された羅漢図が日本の禅宗寺院に伝来したものも多いが、禅僧の修行の日常生活のメタファーでもある羅漢図や十大弟子像では、羅漢や十大弟子はインド風の服装で、それ以外の俗人は中国風俗で描かれている。

日本人の世界観の思想的・理念的中心は外来のものであり、それが外来のものであることを日本人は常に意識し続け、日本の禅宗の歴史を彩る華麗な中国趣味、唐物愛好に見られるように、むしろ渡来品であることには世俗的な高級品というのには留まらない、宗教的・哲学的な意味すらあった

唐物、中国製の高級陶磁器や工芸品を珍重した茶の湯の文化を改革したのが天才・千利休だが、利休が自分の美学に添った茶碗を国内で楽家に楽茶碗として焼かせたりもしたからと言って、別に「日本独自」へのナショナリズム的なこだわりだったわけではない。

むしろこの展覧会でも禅の文化の普及の一例として、織田信長の弟で利休の高弟で、徳川将軍家の茶道師範にもなった織田有楽斎の世界を取り上げるコーナーがあるが、有楽斎に関わる代表的な逸品といえば、自身の名が銘となっている大井戸茶碗・有楽がある。

名物大井戸茶碗 銘 有楽 (重要美術品)李氏朝鮮 16世紀 重要美術品

利休の天才は、たとえば朝鮮の民具だったものを井戸茶碗、三島茶碗などと称してそこに美を見出すことで、龍泉窯、健窯、景徳鎮と言った中国陶磁を頂点とする高級茶器の価値体系を覆したのだ。

ちなみに兄の信長が愛用した、銘「信長」の井戸茶碗もあり、現在畠山記念館で展示されている。 
http://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/exhi2016autumn.html

楽茶碗もまたその美学の新体系のなかに位置づけられるもので、利休が削ぎ落とした美学の思いのままの茶器を楽家に焼かせることができた以外には、別に国産であることにたいした意味はない。

長次郎 黒樂茶碗 銘 尼寺 安土桃山時代 16世紀
長次郎 黒楽茶碗 銘 末広 安土桃山時代 16世紀

権威であって権威でない、ありていに言えば中国模倣でありながら、たとえば雪舟の「慧可断臂図」が明の戴進の「達磨至慧能六代祖師図」を模しているとしても、雪舟が完成させた絵画のなかの慧可と達磨の禅宗継承のドラマは中国のお手本とはまったく異なった、別の次元の表現になっているような、日本人とその歴史・文化史・精神史にとって「禅」とは、そういうものなのかも知れない。

牧谿 瀟湘八景図巻断巻 烟寺晩鐘 南宋14世紀 畠山記念館で展示中 国宝
長谷川等伯 瀟湘八景図屏風 安土桃山時代16世紀 東京国立博物館本館で展示中

破天荒な機智で世間の権威常識に異議申し立てを続けた一休宗純が、一方では歯に衣を着せずに苛烈な批判を辞さなかった京都五山の名刹大徳寺の、往持という要職にも就き、天皇の皇子でその所持品には父・後小松天皇から下賜された逸品も多かったり、禅宗は確かに大名や将軍家、皇室ともつながりの深い権威・権力の側の宗教文化でもあった。

鎌倉五山、建長寺や円覚寺は北条執権家が開基となって鎌倉幕府の帰依の篤かった寺であり、京都五山を整えたのは足利義満、その五山のなかでも別格となる南禅寺も亀山天皇が譲位後に自らが住んで出家し法皇となった寺であり、応仁の乱で荒廃した後、現在の壮大な伽藍を復興できたのは、以心崇伝が徳川家に重用されたからだ。

長谷川等伯 松林図屏風 右隻(国宝)
左隻 安土桃山時代 16〜17世紀初頭

禅とは権威であって権威を壊す、権威を壊しながらなお権威でもあり続ける、そんなものであった日本人と禅の歴史のなかで、江戸時代に禅をむしろ庶民にこそ広めようとする禅の高僧が現れ、優れた画才で誰にも分かりやすい絵で禅の心を説き始めた。

仙厓義梵 南泉斬猫画賛
弟子たちが寺に住み着いたかわいい猫の取り合いを始め
高僧がその猫を斬り殺しその迷いを諌めたという逸話だが
仙厓は猫を殺すのは誤りだと賛文に書いている

白隠慧鶴であり、仙厓義梵である。「禅-心をかたちに」展には、その白隠の最近発見された絵も展示されている。

白隠慧鶴 慧可断臂図 18世紀 大分・見星寺蔵

これも「慧可断臂図」、雪舟の傑作と同じ禅宗の創世期の、達磨大師をめぐる伝説をテーマにした絵だが、なんというか…達磨はこの絵ではこれ見よがしにこれから腕を切りますと言わんばかりの慧可に向き合うようでいて、目玉はそれでもなんとか無視というか知らんぷりするかのように右上に向けて描かれているが、これはつまり、まあ…こういうものである。

ちなみに達磨が円のなかに描かれているのは、真円が禅においてもっとも調和のとれた美しい形とみなされたからであり、真円を描けるまで修行を積むことが、禅の画僧の悟りへのひとつの道とみなされた。

白隠慧鶴 円相図 18世紀江戸時代 賛文は駿河の茶摘み歌
仙厓義梵 円相図 江戸時代19世紀 自賛は「これくふて茶のめ」

高僧が生前に自分の肖像を描かせたり像を彫らせることを寿像と言うが、沢庵宗彭は職人に真円を器具を使って描かせ、そこに墨で点を打つことで自画像の寿像とし、弟子や身辺に配ったという。これもなんというか、いかにも禅であり、つまりはまあ、そういうものだ。

沢庵宗彭 自画賛 江戸時代17世紀