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9/20/2013

「聖徳太子」というフィクションと、日本という国家の二重性


かつてはお札にまでなっていた偉人「聖徳太子」が実在したのかどうかは、日本の古代史、日本という国の成立過程について、かなり重要な論争だったりする。


…というか、厩戸皇子という用明天皇の皇子がいた(伝574〜伝622)ことはとりあえず間違いなさそうだが、それが推古天皇の皇太子となり、かつ摂政として日本国家の基礎を築いたという「神話」は、たぶんに後世の作りごとであろう、というのが実は、今ではかなり定説となりつつある。

聖徳太子の伝説のかなりの部分が初めて登場し、教科書で習う太子の偉業の底本になっているのが『日本書紀』なわけだが、その記述がかなり不自然なのだ。

だいたい推古帝の時代に皇太子制度が既にあったなら、その後も天皇が亡くなる度に後継者が決まっていないが故のイザコザが絶えなかった歴史はおかしい。天智天皇の死後に息子と弟が皇位を争った血みどろの壬申の乱なんて内戦は、起こっていないはずだ。

その『日本書紀』の記述に従ってみたって、宮廷の政治上の重要な決定や儀式の記述の多くになぜか皇太子、つまり聖徳太子の列席が言及されていない。たとえば我々が学校で習ったような冠位十二階の制定や、遣隋使の派遣も、『日本書紀』には太子と関連する記述がなく(推古天皇が、と書いてある)、遣隋使に至っては随からの返礼の使者を迎える儀式にも太子の列席の言及がない。

「日出る処の天子」云々を聖徳太子と結びつけるのは後世の強引な解釈であり、その国書が随の皇帝・煬帝を怒らせたとかの痛快にみえる伝説も、なんの史料的な根拠もない。

それにそれも含めて太子の活躍の根拠と一応は言えそうな、推古天皇の摂政であった、というのも「摂政」という文字列はあるが漢文の読み方の規則をかなりねじ曲げないと(そうそう、『日本書紀』は中国語で書かれた本だ)「摂政」という役職にならないし、なにより不自然なのは、都があった飛鳥から20~30Km以上離れた斑鳩宮が太子の居所だったこと、今の法隆寺の東院(夢殿など)がその跡地とされるが、政治の実権を司るにはずいぶんと遠い。

現在の法隆寺金堂・五重塔は世界最古の木造建築だが8世紀初頭の再建
もうひとつ聖徳太子関連の史料としてあるのはその法隆寺に遺された太子の遺物などなど、とされているものの、法隆寺は西暦670年にいったん全焼して後、8世紀初頭あたりに再建されているわけで、それでも現存する世界最古の木造建築ではあり、美術的な価値は極めて高いものの、推古帝時代から100年くらい後のものであり、全焼しているのにそこに太子発願の仏像や太子の遺品とされるものが残っているのは、単純におかしい。

法隆寺金堂・釈迦三尊 伝・鞍作止利 作 (国宝)
北魏様式を踏襲したアルカイック・スマイルで有名

だから現存の釈迦三尊が、太子が寵愛した渡来人の仏師.鞍作止利の作であるというのにもいささか無理はある。大火災で破損もせず溶けてもおらずというのも…まあ確かに北魏の時代の仏像様式を踏襲しているので、様式的には法隆寺再建前の作のはず、相当に古いものではあるが。

また7世紀末から8世紀初頭に再建された法隆寺も、建築様式はその時代のもの(白鳳時代)とはかなり異なる。



現存する類例が朝鮮半島も含めてないために詳細な確認は不可能だが、絵画などを参照する限り、6〜7世紀の建築様式のまま再建されている可能性が高い。

一度は焼失していることは考古学的発見からも裏付けられているので確かなのだが、焼失したそのままの様式や設計で再建するのはかなり珍しいことだ。

厩戸皇子という人物は、なにか宗教的に特殊な存在であったのかも知れないが、そこも含めて謎のままだ。なにしろ日本の古代史には史料が圧倒的に不足している−−『古事記』『日本書紀』以前の歴史資料と呼べるものがほとんどない、その習慣がなく、わずかに朝貢外交を行った際の中国側の記録しかないので。

なお過去の様式・設計をそのまま再現して再築する信仰施設の類例が、日本ではもう一件だけある。 
20年ごとにそっくりそのまま建て直される(式年遷宮)、天皇家の粗先神・アマテラスオオミカミを祀る伊勢神宮だ。

僕は歴史学者じゃないので太子実在説、非実在説の詳細についてとやかく書きはしないが(ただ普通に『日本書紀』もそこから派生した神話も、「かなり噓っぽい」とは思う)、むしろ興味深いのはこの聖徳太子という伝説が意味するところだ。

聖徳太子非実在説の史料的根拠については、大山誠一・中部大学教授の『「聖徳太子」の誕生』(吉川弘文館)の前半がよくまとまってるので、ご参考に
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33669.html

たとえば遣隋使を送りながら、つまり朝貢しておきながら、そこで随皇帝と対等に振る舞おうとしたという伝説は、江戸時代の国学あたりが起源で、明治以降に学校教育を利用して広められたものだろう。

再建された法隆寺や、大阪の四天王寺など、仏教における聖徳太子信仰は、『日本書紀』の編纂以来、だいたい奈良時代以降、江戸時代まで延々と続いて来たわけだが、開国、明治維新で急速な近代化=西洋的国民国家としての道を選んだ明治の「日本」は、アジアの国でなく「世界のなかの日本」という西洋化された架空の自己イメージ作りのなかで、古代の日本に希代の聖人君子がいて、中国の巨大帝国とも対等に渡り合ったというのだと、どうしても言いたかったのだろう。

平安朝末期、遣唐使・吉備真備の大冒険をコミカルに描いた吉備大臣入唐絵巻
こんな船で日本海や東シナ海を渡ったわけで、難破した船も多かった。
史実はもちろん違う。

遣隋使に続けて遣唐使と、外交的に中国の朝貢国(つまり形式上は属国)であり続けたのが古代の日本であり、その唐をお手本にした文明的な律令国家を目指し、政治制度から首都の都市設計から儒教や仏教に道教の神仙思想、後には陰陽五行に至るまで、なんでも唐をお手本にした8世紀に、司馬遷の『史記』に始まる中華帝国の正史記録の伝統に倣ってまず『古事記』、立て続けに『日本書紀』が編纂され、その『日本書紀』で初めて史料として聖徳太子が登場する。

近代の日本はその聖人君子のスーパーヒーローを利用して、日本が最初から中華帝国と対等の独立国であった、一貫して中華帝国の影響下にあり朝貢国(属国、衛星国)であり続けた朝鮮半島とは違うし、ひいては中国よりも凄い国なのだ、という差異化を計りたかったように見える。

だがこれはどだい無理な、事実と矛盾した話である。日本も海で離れていたので断続的ではあるが、朝貢という形式で中国と国交を結んで来た東アジア文明圏の国なのだから。

だいたい朝貢という風習の意味を、現代の日本人はあまりよく理解していないようだ。確かに臣下の礼をとるとは一見屈辱的だが、それは中華帝国ならその内部の形式に過ぎないことは以前このブログの尖閣諸島の話でも触れた通りだ。 
極端な話、古代世界ではお互いに臣下の礼をとりあった巨大帝国の例もある。 
朝鮮半島のように陸続きであったり、19世紀以降の航海術があるならともかく、海を渡らなければならない日本を、中華帝国が本格的に属国化しようとなんて思うはずもないのだ。

それでも僕たちが習っている歴史観では、遣隋使や遣唐使が当時の大先進国であった中国への朝貢の使者であったことはぼやかされ、後代では室町将軍の足利義満が明朝相手に朝貢外交を行ったことが、それが「日本国王」名義であったことも含め、国賊として批判的に描かれている

足利義満(京都・等待院蔵)
いやむしろ、中国の君主の地位の序階で天皇より下の「王」を名乗り、天皇名義でなく朝貢の形式をとった義満は、天皇と明の皇帝の双方の権威をうまく守った知恵者なのだが。 
これは中国の文化や国際的な外交儀礼に通じた義満のブレーン、室町将軍家が帰依した臨済宗大本山・相国寺の大国師・夢窓疎石の入れ知恵であったらしい。 
やはり中国で禅宗を学んだ大禅師が義満に授けた外交の秘訣は「別無工夫(べつにくふうなし)」だったのだが、実際にはいろいろ工夫はあったわけだ。

足利将軍家は後醍醐天皇が分裂させた天皇家の、後醍醐天皇と敵対した北朝側であり、戦前の皇国史観は逆賊とみなしたわけだが、もしかしてこれだって、足利尊氏と後醍醐天皇の対立の問題というより、義満が明朝と朝貢外交を行ったことこそが逆賊であり、だから後醍醐天皇が、というのが南朝正統論の本当の動機なのかも知れない。

後醍醐天皇(清浄光寺)
なにせ歴史的には、後醍醐天皇の南朝は途絶え、その後の天皇家は今に至るまで北朝の系譜だ。「万世一系」の天皇の国を主張するのなら、北朝を正統とみなした方が楽だったはずではないか。

たとえば南朝をひたすら正当化して楠木正成を大英雄に持ち上げた皇国史観は、戦後教育で排除されたが、それでもやはり遣唐使が朝貢の使者であったことはぼやかされている。

奈良時代の日本が唐風の文化を極めて忠実に学び模倣し、唐を通じて西方のペルシャの文物まで輸入していたことはさすがに隠せないものの、そういえば教科書で写真が出ている正倉院御物でも、なぜか圧倒的多数を占める唐からの輸入品よりも、唐よりさらに西の文化を匂わせるものに紹介の重点が置かれていた。

正倉院御物・白瑠璃碗
イラン国立博物館所蔵の、ペルシャ時代のガラス碗
つまり決して唐、つまり中国だけではなく、シルクロードのいろいろな文化を受け入れながら、日本は独自の文化を発展させたのだ、というイメージだ。

正倉院御物・螺鈿紫檀五弦琵琶
五弦の琵琶は本来中央アジアのもの。駱駝の文様にも注目
いや確かに唐だけではない。だがそれらはいずれも唐経由であり、しかも正倉院御物が蒐集された時代、唐では西方ブームが起こっている。天平の日本の朝廷は、その西方ブームすら喜んで模倣したのだ。

*正倉院の主要な御物の画像は、宮内庁ホームページで見られます。
 http://shosoin.kunaicho.go.jp/shosoinPublic/doc/about_shosoin.html
正倉院御物・鳥家立女図屏風
聖武天皇が愛用したと伝えられる。やはり西方テイスト

唐の衰退が始まると、膨大な国費を要し航海上のリスクがあまりにも大きかった遣唐使は、やがて派遣されなくなる。

そんな平安朝については、仮名文字の発明や「やまとえ」の発展など、「日本独自の文化」が教科書ではやたらと強調されていた。確かに唐風の絵画から独自の発展を遂げた絵巻物表現や、『源氏物語』などの仮名混じり文で、日本語で書かれた文学など、見るべきものは多い。

源氏物語絵巻(国宝)より、柏木
伴大納言絵詞(国宝)・応天門炎上に集まった群衆・平安時代末期の常磐光長の作
だが、たとえば、ここにあげた「日本独自の文化」である平安朝の絵巻美術は、どれも平安時代末期の作品である。

貴族の荘園所有により律令制度がなし崩しになって来たとは言え、平安朝の国家体制は相変わらず唐をお手本にした律令制であり、その官位の制度が形式とは言え明治時代初期まで続いていたことは、曖昧に済まされている。

だいたい仮名の発明でも、仮名は主に女性の用いる非公式文字で、公用の記録言語は相変わらず漢字・漢文であり、『御堂関白記』や『台記』などの貴族の日記も、漢文で書かれている。

いやそもそも、平安京だって立派に唐風の都である。


今の天皇は、誕生日会見で一度、自分が朝鮮の血も引いていることの例として、平安京を拓いた桓武天皇が朝鮮の血を引いていることに言及している。
  
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています」
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html 

平安朝も決して、そこまで大陸の影響を排した「日本独自の文化」ではなかった。東アジア文明圏の真珠、最高のいいとこ取りとして産まれたのが日本である。

だいたい平安京の宗教・精神的的な支柱となり、都の霊的な守護を担ったのは、最澄の天台宗比叡山延暦寺派と、空海の真言宗、教王護国寺(東寺)の二大平安仏教…っていうのもこれまた日本の宗教ではない、まさに唐代における最先端の、当時としては科学的に体系化された理論を持った新しい仏教、密教を輸入したものである。

救王護国寺(東寺)
逆に平安時代だってコテコテに唐風、中国風だ

この首都が、陰陽五行を始め、恐らくは空海が持ち込んだのであろう、唐風の最先端の方位学で設計された霊的な都市であることも、教科書には書いていない。確かに今からみれば中国風、アジア土着の迷信っぽいかも知れないが、当時最先端の「科学」だった。

国宝・東寺両界曼荼羅(胎蔵界) 
曼荼羅に図式化される世界全体を網羅し理論化した宇宙観は、当時の東アジア世界では画期的だった。密教は当時の最先端科学だったのだ。 
同・金剛界

平安時代の末期に実権を握った平清盛が、もともとは西国の海賊平定にあたっていた経験もあり、積極的な大陸との交易と、宋との正式国交(つまり中華文化圏の伝統では、宋に朝貢することになる)を模索し、今の神戸市あたりの福原に大きな港を造営し、そこへの遷都も考えたこともあまり言及されないが、清盛も今我々が知っている日本史のなかでなんとなく悪者である…

…のも、よく見れば、普通すぐに推論されるように、源平合戦で平家を滅ぼした源氏の鎌倉幕府によって、清盛が悪者にされたのではないし、その後の武家の幕府がいずれも源氏の系統とされる将軍家だから、平家が悪者になったのでもない。たとえば『平家物語』には「おごる平家は久しからず」の教訓は込められているものの、そこの清盛は、決して悪役ではない。

むしろ明治以降の皇国史観によって作られた悪役イメージだ。

平家が平安末期の動乱を治めることで権力を掌握したので、その混乱も批判的に見せるため、皇国史観に基づいて院政期の上皇、たとえば白河や後白河も歴史上の化け物イメージが流布しただろう。だがこれも、歴史観としてかなり苦しい、無理がある。

上皇、法王たちは皆、元は天皇である。それが政治的実権を行使するために天皇位を退いたから「世の中が乱れた」ということだけでは、万世一系の高貴な血が悪辣な化け物政治家に化けるのは、あまりに強引だ。これも例えば後白河院が(かなりの新し物好きだったので)清盛の遷都計画はともかく、中国との交易重視政策には大いに乗り気だったことと関係がありそうだ。

後白河法王座像(京都・長講院)
だいたい、「世の中が乱れた」もなにも、平城京どころかその前の難波宮や長岡京の時代から、平安朝を通じて、平安遷都を実施した桓武天皇のような希有な例外を除けば、政治的な実権を握っていたのはほとんどが、我がご先祖(?)、日本史上最大の悪辣一族・藤原氏である。

むしろ律令国家の成立期から、ここだけは中国ではなく日本オリジナルで、天皇位そのものには政治的な実権がないように制度設計がなされている

日本は日本という国家が成立したその段階から、象徴天皇制を採用していたのだ。これもあんまり学校では習わず、律令国家=天皇親政っぽく見えるが、制度の実態は違う。

天皇家がそれなりに政治を司ったのは、大化の改新を成し遂げた中大兄皇子つまり天智天皇と、その弟で、壬申の乱で天智天皇の息子を滅ぼして皇位についた天武天皇、その後は桓武帝、そして藤原氏の人材不足も重なり、天皇を退位することで実権を握った白河院以降の院政くらいなものだ。逆に退位しなければ政治的な実権を握れなかったからでもある。

だいたい天智天皇だって、在位したのは晩年のほんの数年、ほとんどが皇太子として政治を担って来た人物である。皇太子ならよくて元天皇なら世が乱れる、というのも理屈に合わない。

これは「王政復古」を旗印に、名目上は天皇親政を目指した明治維新の正当化のための歪曲である。

むろん実際には、その「神聖にして侵すべからず」な天皇主権の明治憲法でさえ、天皇機関説が運用上の定説だった。

平城遷都の直前には、皇族でありながら藤原氏と拮抗する権勢を持ちかけていた天武天皇の孫、長屋王が、藤原不比等と聖武天皇の后・光明皇后の謀略により、滅ぼされている。

血統だけでは国家は統治出来ない、政治には権謀術数も必要だし、それ以前に法と制度を維持する冷徹な知性がなければ統治は難しい、それゆえの知恵を日本という国はその成立期から組み込んでたのだ。

一方で天皇には元来、それ以外の役割が付与されて来ており、そのためには政治的な実権がない方がいいとすら言えるのだが、これは後で触れる。

それにしても、なんだか我々が習って来た日本史や、それ以前の皇国史観は、ちょっと斜に構えてみると万世一系とされる天皇の統治の正当化以上に、「日本は決して中国や大陸の影響化にあった国ではない」「中華帝国と朝貢関係になったり、中国に憧れるのは歴史上の一部の例外だけで、それはけしからん悪人がやったことだ」とばかり言いたがっているように見える

なにしろ遣隋使・遣唐使はさすがにその影響の大きさは無視できないから教えているにせよ、遣隋使は聖徳太子を使った捏造であたかも倭が随を対等に扱ったかのように教え、遣唐使もそれが朝貢使節であったことは誤摩化している。

遣隋使には返礼の使節も来ている記述が『日本書紀』にあるのに、倭の使節 がそんなに無礼に振る舞ったわけがない。 
ただし『随志』には、煬帝が日本の使者の説明に、そんな無茶苦茶な国なのかと「呆れた」という記述はある。使者による日本の天皇の政治執務を説明されて、「無茶苦茶だ」と思ったのである。 
それは太陽が昇ったら大王は執務をやめる(統治を太陽に任せる)というのだから驚くのは当たり前。 

そういえば大化の改新だって、歴史の教科書で強調されるのは、渡来人系だった豪族の蘇我氏が実権を握っていたのを、中大兄皇子とその服臣、日本土着の、自然神祭祀が主な役割だった中臣氏の中臣鎌足が、協力して渡来人の(つまり朝鮮半島の系譜の)蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子を滅ぼしたことであって、中大兄皇子が豪族合議体制の大和朝廷の大改革を行い、中国風の律令制度を作ろうとしたことはあまり強調されない。

ちなみに偶然とはいえ、蝦夷って名前は凄い。渡来人の系譜で、その名が「外国人」という意味だもの。そりゃ大化の改新が愛国排外神話に利用されるわけだ。

だから学校で習う日本史の授業はもの凄く分かりにくくなるのかも知れない。

大化の改新が中国の政治制度や思想を輸入し、天子である皇帝を頂点に置く官僚制統治に倣った、中国風の政治体制を作ろうとした、その頂点に「天皇」を象徴として置いた、それが日本において初めて法と制度に基づく政治が行おうとした試みであったと、なぜかはっきり言ってくれないので、よく意味が分からないのである

よほど日本という国家の成立が、中国式の法と制度と哲学に従ってなされたことを、教えたくないのだろうか?

それまで多分に土俗的なアニミスムの国だった、古墳時代~大和朝廷の倭が、今我々が考えているような「日本」という国に生まれ変わる基礎、「日本」という国家の成立は、徹頭徹尾中国からの影響であり、中国の政治制度や思想・哲学こそが国家としての「日本」の原点であったこと、そして日本が常に大陸をより進んだ文明とみなし学びつつ国を発展させて来たことを、どうしても認めたくない、というようにしか見えない歴史観だ。

だがそれは歴史の説明としてやはり無理がある、不自然なのだ。なんといっても、現実とあまりにも違う。

だが無理でもなんでもいのだろう、明治以降に「いや日本は中国の属国じゃない、中国の影響なんて」と言いたい歴史観の出発点に置かれたのが、聖徳太子伝説であり、だから例の「日出る処の天子」の一件が(その史料上の根拠がないにも関わらず)クロースアップされるのだろう。

しかし聖徳太子伝説を「昔から日本は独立国」神話の起点に置くことにこそ、実はもの凄く無理がある。無理があり過ぎ、あまりに自己矛盾している。

なにより厄介なのは、聖徳太子が『日本書紀』によって創造されたフィクションだったかどうか以上に、『日本書紀』が伝える聖徳太子像それ自体であり、また逆にそこに書かれた聖徳太子の姿こそが、どうも推古天皇時代の史実ではなく、後から作られた伝説ではないかと疑わせる最大の理由でもある。

…というのも『日本書紀』の聖徳太子とは、飛鳥に都があった7世紀初頭とは思えないほどに、中国風の聖人君子なのである

まず延々と続いて来た太子信仰とはもちろん日本最古の本格的な寺院である四天王寺を建立(実は史実は異なるかも知れない。元は渡来系氏族の難波吉士氏の氏寺であった可能性もある)したことなど、仏教を最初に広めた最大功労者としてのそれである。

しかもほぼ確実な史実としての実在の厩戸皇子は、渡来人である蘇我氏の娘の子、当時の最大実力者である蘇我馬子の孫であり、「日本書紀」で書かれる聖徳太子の最初の功績は、中臣氏同様にやはり土着系の祭祀一族で、仏教の導入に賛成しなかった物部守屋を、蘇我馬子と共に滅ぼしたことだ。

つまりどうみても、むしろ海外文化大好き、進んだ外国はどんどん真似しよう派、である。

ちなみに『日本書紀』に基づく通説では四天王寺は、蘇我氏と厩戸皇子が滅ぼした物部守屋の屋敷跡に、厩戸皇子がこの戦を、額に四天王の像を頂いた冠をつけて戦った、そのご加護の御礼に建てたものとされ、 今も境内には、守屋の霊魂を祀った廟もある。 
今日でも四天王寺は「日本仏教発祥の地」であり、太子信仰の一大中心だ。と同時に、滅ぼした物部氏の霊魂の鎮撫の意味合いは、仏教が既にこの段階で日本独自の御霊信仰と結びついていたことを示す

さらに太子が天才的な聖人君子であったことの実例として挙げられているのは、たとえば推古天皇に法華経などの大陸から新たにもたらされたばかりの仏教の教典を、優れた解釈で解説したこと、そして例の十七条の憲法である。

この十七条の憲法、今でいう憲法と違い、役人の勤務心得みたいな内容で、「和をもって尊しとなす」ばかりが強調されるのが近代以降、これは「倭」を「和」にひっかけて和風で日本風なんだと、元来の日本人好みの語呂合わせでイメージを作ってるのだろうが(…って語源的には、元は「倭」で「和」は当て字)、内容はコテコテに儒教そのもの、そこにちょっとだけ仏教保護が加わっている。

だいたい、どうも聖徳太子の伝説が嘘くさいと僕が思う最大の理由がこの十七条の憲法で、まだ中国に倣った官僚制度が成立していないはずの推古朝に官僚の勤務心得を書くのもおかしな話だし、それ以上にこんなにコテコテに儒教な憲法は当時の価値観として奇妙なのだ。


原文、書き下し文、現代語訳はこちら。いかに儒教ワールドな心得であるか、とくとご確認下さい。


『日本書紀』より前に書かれている『古事記』でさえ、太子が活躍したとされる時代からすればずいぶん後代の書物だが、その歴史観・政治観や天皇統治の正当化は、まったく儒教的ではない。むしろ儒教的な価値観で読もうとすると意味不明になる話がいっぱいある。

なのになぜ、それより100年前の聖徳太子の提示したはずの国家観が、こうも書かれた当時として真新しい、というか100年前なら思いっきり時代錯誤なのかが分からない。不自然過ぎるのだ。

『古事記』は今風の感覚でいえばとても人間臭く、神々も古代の天皇たちもおよそ儒教的な聖人君子ではない。

『日本書紀』における同じエピソードの記述と比較しても、『古事記』での天岩戸伝説なんてずいぶん野卑で豪快で、土俗神のバイタリティに満ちあふれた、感情と欲望満載の姉弟喧嘩→お姉さんヒステリーのえらく人間くさい話だし、やはり暴れ者で女たらしなヤマトタケルノミコトは父の天皇に疎まれて、それでも愛する父に気に入られたくて東征の大冒険、それがかわいそうに途中で死んでしまうラブリーな物語が、『日本書紀』ではそういうわけにもいかず武勇に優れて道徳的な英雄、儒教が理想とする君子像に近づけてある。

いや儒教的な価値観だといちばんわけがわからないのはもちろん、いじめられっ子の末っ子だった心やさしい大国主命が地道な努力で出雲を中心に国をまとめた…まではまだいいが、その国をあっけなく、天照大神の子孫に譲り渡す、国ゆずりの神話もある。

こういう儒教ベースの君主制の忠孝論理の合理主義では計り知れない摩訶不思議さが、今となっては『古事記』の人間くさい、世の中杓子定規じゃ行きませんよ的な魅力なのだが、それでは唐を中心に急速に発展していた当時の東アジアではあまりにも泥臭い、田舎臭いので、『日本書紀』が創造した聖徳太子は、推古朝時代ではなく律令国家成立期、『日本書紀』が書かれた時代における当時の価値観で極めて合理的な…ということは思いっきり中国風な聖人君子なのである。

その聖徳太子を無理矢理に「いや日本は昔から完全な独立国で、中国の影響なんてそんなには」と言い張るための出発点に、近代日本の歴史観は置こうとしたのである。あまりに矛盾し過ぎている。

だって変でしょう?

仏教を日本に普及させ儒教に基づいた政府の在り方を説き…というのはもちろん、中国的な国家体制、当時の感覚では近代国家に脱皮しようとしていた時代に書かれた、極めて中華風に理想化された聖人君子像だ。

中国的であることこそが「日本はこんなに立派な国だ」と言おうとした『日本書紀』の作家や、それを書かせた当時の朝廷の最大の目標だった。近代日本の国家主義が言いたいことと、まさに真逆の目的で創造されたのが『日本書紀』に始まる聖徳太子の伝説なのだ。

さらに厄介な問題がある。

近代日本が「決してそんな中国の影響下の国ではない」と言おうとするのなら、まず律令国家の成立期、大化の改新の後に、中大兄皇子が唐と新羅連合軍に攻撃された百済に味方した史実はあるが、この白村江の戦いはボロ負けしているから、本来フィーチャーしたかった中大兄皇子=天智天皇を持ち上げるのもかなり苦しい。

この敗戦の結果、中国風の律令国家を目指すにも唐としばらく断行状態になった、そのあいだに書かれたのが『古事記』であり、それを主導したのは先帝である兄の息子を滅ぼして天皇になった、まだ法と制度ではなく昔ながらの倭の国のやり方で天皇になった大海人皇子、天武帝だろう。

その『古事記』には、まだ中華風の聖人君子ではない、古来の日本的な価値観の神話の精神が生きている。

なおしばしばワンセットで語られる『古事記』と『日本書紀』の成立年代は、わずか7年くらいの差しかない。 
たったそれだけの間に『古事記』とはまるで異なった、中国的な論理の世界観を受け入れた新たな国家観の体系で、歴史を書き直してしまえるのだから、当時の日本のエリートたちの勉強熱心さと応用力は凄いものだ。

だから日本の独自性を謳いたいのならば、唐相手の敗戦の事実には目をつぶり、『古事記』こそ正史で『日本書紀』には大人しくしてもらおう…と江戸時代後期の国学者、たとえば本居宣長などは考えるわけだが、いかんせん理屈ではそうしたいにも、儒教道徳コテコテの江戸時代のインテリ、当時の知識階級の条件は漢文が読めることである。本人の感性が中国文化に染まっているのに、その古来の日本風に満ちた『古事記』の世界観は、なかなかショッキングである。

いやそれが、当時の江戸庶民や農民には、当たり前で受け入れられる内容だったのだが…。 
つまり彼らのお祭りや芝居、遊郭と墓地などからなる信仰体系はやはり自然神信仰と御霊信仰、積極的に輸入品の神や哲学を取り入れ洗練されたながらも、本質は古墳時代から変わらない、日本独自のアニミズムであり、むしろ『古事記』的な、たとえば性的には極めて奔放なものだったわけで。
ところがその庶民の信仰観、タテマエ上は武家が儒教を奉じて威張っているが、日本を支配する雄大な自然の神々と霊魂の世界観からすれば、そんな人間の決め事ははかないものである、という世界的にも珍しい日本独自な発想こそ、儒教・朱子学の成文化された道徳律を奉ずるが故に自らの知的上位を確立していた国学者ら、武家系の階級意識に支えられた知識人層には、耐え難いものだ。自らの権威性がぜんぶひっくり返されてしまう。

さらに明治維新となると、脱亜入欧の精神で、アジアは劣等民族であり一時は「だから優秀な欧米人の血を!」と、なんと国際結婚を奨励するような論まで例の福沢諭吉サン門下から飛び出したり、「いや日本人の血統は優秀なのだ、アジアと違う」ということでなんとか落ち着いたところで、明治新国家が皇国史観で目指したサムライの国の国家像、天皇中心の帝国主義国家になろうとしていた国にふさわしい忠君愛国の道徳観は、やはり儒教であり、聖徳太子の十七条の憲法的な、中国風のものなのだ。

なにしろそれまで混浴が当たり前だった風呂屋や温泉だって、これでは西洋人に淫乱に思われるから法律で禁止。 
とてもではないが天皇の先祖神アマテラスの弟のスサノオが、どうも激し過ぎる恋心の絶倫セックスでアマテラスに仕える機織り女を悶絶死させてしまったらしく、怒ったアマテラスが天岩戸に閉じこもり、困った神々がストリップ・ショー(本番もアリ?)でお祭り騒ぎをしたら気になって顔を出したアマテラスが、なんて話は困ってしまうし、国ゆずりの神話なんて、つまり平たく読めば天皇家は日本の神々の子孫ではないことになる--それは古代日本ではぜんぜんオッケーな話だったのが、「日本はアジアと違う」とする万世一系神話にこだわると、どうも座りが悪い。 
そのスサノオは若気の至りのヤンチャが過ぎて神々の世界を追われ、八岐大蛇に殺されそうな美女を助けて英雄になるのだが、これも『古事記』と『日本書紀』ではいささかニュアンスが違う。『古事記』では姫の側がスサノオを見初め、助けてくれたらお嫁さんになっていいわ的な、女が男に惚れて求めている話に読めるのだ。 
やはりヤンチャが過ぎて愛する父に疎まれて、それでも父のために頑張って非業の死を遂げるヤマトタケルノミコトも、草薙の剣の逸話をみても、やはりモテモテのヤサ男の英雄、儒教的な男女観の男性上位に尽くす女ではなく、女性の方も積極的に好きな男、イイ男を助けてゲットする女に見える。

『古事記』の神々や人々は、男ならばスサノオノミコトやヤマトタケルノミコトが典型なように、いろいろ男らしさ過剰で問題もあるが、基本「いいヤツ」「根はやさしい」、そして女にモテる、求められる。

なかでも皇国史観においても要になる、日本的な理想の君主像を体現する仁徳天皇は民にやさしく、民のかまどに煙が立ってない、と心配して七年間は租税免除、自分の宮殿のかまども火を立てるな、と命じるわけだが、一方でモテモテな女たらしで、嫉妬深い妻の顔色をうかがう恐妻家、という面も持つ。

「いやそんなにやさしい男は、女がほっとかないよ」的な世界観は『古事記』のそれであり江戸庶民なら歓迎しただろうが、明治新国家が理想としたい天皇像は、「どうもそっちの方が平和だし」と民を第一に考えて争わず、あっけなく国をゆずるやさしい大国主命的な存在もえらく困るわけで、むしろ『日本書紀』的な、儒教的な、謹厳たる家父長的なものだ。

ちなみに現在も宮内庁が採用している古代天皇の陵墓指定は、むろん歴史学・考古学的根拠はなにもなく、本居宣長らがかなりいい加減に決めたものに基づいている。 
堺市にある世界最大の墓とされる大山陵古墳が仁徳天皇陵となっているのは、仁徳帝の都が堺にあったとされるからだけでもあるまい。どうにも儒教的な主従の価値観から抜けられず、民が感謝してこれだけ大きな墓を作ったのだ的な発想で決まったもののようだ。

いや実はこの、古代日本の知的エリートの努力と知力の結晶である『日本書紀』的な、聖人君主を中心とする謹厳な忠義や孝徳を基本とする儒教的な価値観が、表の日本の支配権威だとするならば、その裏のリアリティとして『古事記』的な、アニミズムに基づく、理屈では割り切れない、しかし実は儒教よりもある意味遥かに強固な価値観を秘め守って来た、この二重構造こそが、本来の日本の伝統なのだ。

その日本における天皇とは、表の権威体系では政治的実権を持たない象徴君主として、儒教的かつ中華帝国的なヒエラルキーにおいては空虚な中心であるからこそ、言葉や知識だけでは計り知れない世界の複雑さと人の思いの複雑さを反映した、真の道徳権威の中心だった。

だからこそ天皇に実態権力がなかったのかも知れない。 
権力者はそんなにやさしくなれないし、法と制度なしには永続的で安定した政治を維持するのは難しい。

だいたい、その天皇と言う名目上の権威から征夷大将軍という号を頂くことで権威化された幕府が政治を司った江戸時代において、庶民に天皇は関係なかったというのは、まったくの嘘っぱちである。なんと言っても誰もが朝廷が決め発行させた暦を用いている。将軍家や大名よりよほど身近だ。それは天皇だけが持っている権限だ

儒教倫理において仕えるべきは直接の主君や将軍なのか、天皇なのかという朱子学倫理の幕藩体制の矛盾からも、庶民は自由だった。儒教道徳的な権威のアチャラカ趣味(思いっきり中国風)はしょせん、政治を司る武家などの、オフィシャルな立場のものであり、農民や町民には関係がない。

そのオフィシャルな文脈では空間支配者ではない天皇は、しかし年号を定め暦を発効する時間支配者…というよりも自然界の営みである時間を人間に伝える、庶民にとっては遥かに重要な役割を持っていた。

科学文明のない時代に、吉凶を左右するとみなされた年号を定めることは、人々を安心させるのに重要な精神的役割を持っていた。人間の手には負えないい天変地異や疫病があれば、出来ることは縁起担ぎで年号を変えることくらいだったのだ。

いやなによりも日本は人口の8割超が農民の、農耕民族の国だった。太陰暦の暦を毎年定めることは、豊かな四季を持つその風土において、もっとも生活に関わる重大事である。

「天皇」という位自体が、律令国家の成立期に中国から輸入されたものである。

その本来の意味の「天」、あるいは「天子」とは、宇宙の絶対真理としての「天」の命令、つまり天命を受けて地上を支配する絶対君主、皇帝のことだ。ただし中国皇帝のうちでも特別な神聖さを帯びた者のみが名乗った(たとえば唐の開祖・高宗)特殊称号の「天皇」を輸入しながら、それを政治的には象徴君主に祭り上げてしまっただけでなく、過去の日本人はその意味すら変えてしまった。日本人にとっての「天」は、むしろ四季を通じて豊かに変化する「お天気」であり、「お天道様」=太陽のことである。つまりは空であり、自然そのものである。

儒教的な上下関係の忠孝の世界観は、そのヒエラルキーの中枢であり頂点に「天子」である皇帝を置き、天子はその天命により国と民を支配する。ところがそれを輸入したように見せながら、日本人にとって「天」は、そんな人間世界の秩序体系とは別次元にある自然神の世界なのだ。

日本の庶民にとっての「天皇」とは、本来そういういわば『古事記』的な役割を担い、人間の世界とカミガミをつなぐ意味での「現人神」だった。いかに儒教的な理屈で権威付けしようが、太陽神の子孫である天皇がその仲介者であるところの「天」つまりお天気でありお天道様である自然の神々は、まさに『古事記』の神々や神話的人物たちのごとく気まぐれである

表向きは儒教でも、本当はその自然の声を聞きながら「まあ人間、いろいろあらあな」を前提にやさしさで持って社会をおさめる、いささか融通無碍で摩訶不思議だが、杓子定規で割り切れない自然と共に生きる民族に対応した、決して直接には成文化されえない道徳を担っていたのが、まさに『古事記』的な世界観に象徴される八百万の神々であり、「天皇」だったのではないか?

だから輸入もののカミガミである仏教だって、日本人は結局は平気で、むしろ喜んで受け入れて、古来のカミ信仰とも融合させたのだし(念のため、今では寺院が仏閣と分離して別の信仰体系として「神道」と「仏教」があるように見えるのは、これも明治の捏造である)、天皇が退位して僧籍に入ったっていいのだ。

だいたい海で囲まれた日本列島に住む日本人という民族は、なにか一定の起源神話を持ち得ないし、民族大移動や征服の結果この列島にいるのではない。航海術の限界で少しずつしかこの島国には到達し得ない、その常に海を隔てた外からやって来た人間たちの集積として日本人はある。だから国ゆずりの神話が天皇が渡来神であったことを示していたとしても、ぜんぜん構わないのである。

ただひたすら、いいカミさま、人間にやさしいカミであれば、こだわらない。

まただからこそ、結局は日本人にいちばん根付いた仏教は、衆生を救済を約束するやさしい仏、阿弥陀信仰の浄土真宗である。

史実としての聖徳太子、というか厩戸皇子は天皇位(当時はまだ「大王」だが)に就くことなく、その子山背大兄王は皇位継承争いに巻き込まれたのか、蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子に滅ぼされている。

太子が建立した氏寺である法隆寺もその後670年に落雷による大火で焼失したが再建され、『日本書紀』による神話化もあって、聖徳太子は仏教の文脈における日本的なカミとして、延々と信仰が継承され、当初の政治的な位置づけとは違った意味を持って行った。

当時としては極めて科学的な新しい密教という信仰体系を日本にもたらしたスーパーインテリの空海は、仏教以外にも天文学や方位学(道教起源の陰陽五行も、おそらくは空海が伝えている)、絵画や音曲にも通じ、もちろん書に関しては大天才なのは言うまでもないが、死後その存在は完全に神格化され、行ったはずもない東北地方ですら弘法大師が拓いたとされる溜め池や、大師が彫った仏像、大師が病人を癒した伝説がある。 
弘法大師が彫ったと伝承される、福島県・飯舘村の比曾の十三仏
聖徳太子も開国・明治維新期のナショナリスティックな読み替えが起こるまで、同じように神格化されて来たのだろう。

そのなかでもとくに重要だった要素は恐らく、厩戸皇子の諡り名にもなっている「上宮之厩戸豊聡耳命」、この「豊聡耳(トヨトミミないしトヨツミミ)」の起源でもあろう、太子が子どもの頃に、すでに十人の人々の訴えを同時に聞き分けることが出来たという神話ではなかろうか?

いやこの神話こそ、未だに私たちが真っ先に思い浮かべる聖徳太子像だ。

渡来人でも誰でも分け隔てなく、みんなの話をちゃんと聞いてくれるトヨトミミのやさしい太子が「和をもって尊しとなせ」、これが結局、日本人にとっていちばん大切な聖徳太子であり、そういえば太子の写し身とされる法隆寺東院(厩戸皇子の居所だった斑鳩宮跡)・夢殿の本尊は、救世観音である。

法隆寺夢殿の秘仏・救世観音
だがその日本は、明治維新によっていびつに変質してしまった。

百姓の国が侍の国を装い、それまでタテマエでしかなかったコテコテの中国輸入の儒教道徳を武士道と称し、本来それとはまったく相容れないカミ信仰に結びつけて「神道」なるものをデッチあげながら、そのカミ信仰が中国の陰陽五行なども自然に受け入れて来たことすら排除しつつ、絶望的に儒教道徳そのまんまの硬直して人間味のない忠君愛国、つまり中国人でも驚くような杓子定規の中国道徳に染まり、命まで投げ出すファナティシズムにまで暴走させながら、その中国を憎悪するのが今の日本の歪んだ「愛国」である。

そんななか、「豊聡耳」の諡号を持つ、渡来人も寵愛し海の外にも開かれた精神を持つ、みんなの話を聞く「和をもって尊しとなせ」の、救世観音の化身かも知れないやさしいカミである聖徳太子は、お札の顔でなくなってからもうだいぶ経つが、だんだん日本人の精神風景から消えて行きつつある。

法隆寺金堂(国宝)・壁画
*この複写写真撮影後、昭和の大修理中の火災で焼損
最後にひとつだけ爆弾。聖徳太子信仰の名残りとして、今でも「太子町」という地名は関西を中心に多々ある。太子がそこを訪れ奇跡を行い民を助けた伝説もあるのだろうか? それはたいがい、いわゆる被差別部落である。

表向きは儒教と仏教を修めた知的スーパーマンの聖人君子であったカミ・聖徳太子の、本当の日本人にとっての本質とは、こういうことなのである。

その意味で、太子が実在した歴史上に実在した超人だったかどうかは、もはや関係ない。歴史学上の知的好奇心を満たす以外は、本質的な問題ではない。

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