いやかつてフランス映画社配給作品専門館だったシャンテ・シネや、ユーロスペース、今はないシネヴィヴァン六本木など、ミニシアター文化最盛期にいろいろな映画を見ることがで育って来た世代としては、非常に恩知らずな話なのだが、資本の論理というものはそういう冷酷なものだし、時代は技術的にもメディアのあり方的にも激変してしまった以上、仕方がない面がある。
ミニシアターとは、小規模の公開でプリント数が少ないが、いい映画が評判さえ良ければ長期間上映することもできる前提で繁栄したものだ。それはフィルムによる上映ならではの文化だったとも言えるが、今ではことインディペンデントの、僕らの作っているような映画は、フィルム上映が前提ではなくなっている。システムの構造が技術的な根本部分から変わってしまったのだ。
映画とて経済的には資本主義の論理のなかでの商売である。シネコンが入場者数の損益分岐点が低い上にヒット作一本かぶりで黒字になり、立地条件もよく「映画ファン」でないお客の目にも触れる機会が増える。「シネコンなんて」と口にしがちだが、映画作品それ自体にとってのメリットは、実はけっこう大きい。
損益分岐点が低いということは、平たく言えば多少の博打でも経済的なリスクが製作・配給側に少なくなるわけだし、かといって劇場側のリスクも高くなるわけではない。シネコンの多くの損益分岐点は、観客動員が劇場座席数の10%代前半の水準であるらしいのだ
これがミニシアター系の配給興行のサーキットだと、劇場がブランド化しているぶん配給がより多く負担をかぶりがちで、その配給は経営上、製作側に負担を求めざるを得ず、気がつけばいちばんなけなしの金で映画を作っている作家や製作がいちばん負担が大きかったりもする。
損益分岐点の部分を予め劇場が配給に払わせる保証興行なども少なくないし、そこで提示される数字が観客動員にして40%とか50%の数字だったりするが、これはもうインディペンデント映画に「死ね」と言っているに等しい。
4週間のたとえばレイトショー興行なら、それだけで140万くらいの現金を予め準備する、借金でもしなければ映画がかけられない、という計算になってしまうのだ。さらに宣伝に最低で150万くらいはかかるとすると、300万…。しかし有名ブランド化したミニシアターでも、そこまでの集客能力を劇場自体が持っているわけでは、必ずしもない。席数100の小屋でほぼ8割の入りで、やっと劇場公開が黒字、製作費の回収なんて一銭も出来ない、という計算になる。
日本の資本主義制度では、土地・不動産の資産価値がいちばん大きいから、劇場という不動産を持っている興行側がいちばん力を持ってしまう、という面もあるし、逆に言えばミニシアター側もその不動産資産の減価償却をこなさなければ破産しかねないわけで、だから採算分岐点がどうしても高くなってしまう。
そしてこと今年ぐらいから決定的になってしまった要素もある−−デジタル・シネマ・パッケージ(DCP)上映対応の2Kや4Kのプロジェクターがあるかどうか。映画館で「デジタル上映」と書かれている場合、シネコンならばそれはDCP上映なのだが、これがミニシアターだとせいぜいがブルーレイや、下手するとDVDだったりする上に、プロジェクター自体DCPのそれに比べれば格段に性能が落ちるのだ。「いい映画をいい環境で見られるのがミニシアター」という文化は、これでは完全に崩れてしまう。
ブルーレイやハイビジョン受像機の普及で家庭でも高画質が楽しめる時代、映画館がよりよいサービスを提供できないとかなり苦しい。観客は千数百円というかなりのお金を払って、日常の家庭では体験できないはずの体験をしに、映画館にやってくるのだ。だから欧米の独立系の、日本でいえばミニシアターにあたる小屋は、最近では設備にもかなりの投資をして快適な劇場空間と美しい映写を確保しようとしている(またそういった劇場への補助金制度も、あったりする国がある)。
今ではほとんどがハイビジョンのカメラを使ってデジタル撮影される低予算映画を、より製作意図の通りに上映出来るのが実はシネコンになってしまっているのであって、日本のミニシアター系はこの点で完全に出遅れてしまった。
極端な話、シネコンでないと正しく上映できないインディペンデント映画も増えているのだ。
たとえばDCPで仕上げるのなら、6チャンネルや、場合によっては8チャンネルのサラウンド音声を、ドルビー・エンコーディングを経ずに、直接に個々の独立した音響トラックをそれぞれのスピーカーから出す、という形で実現できる。これはドルビーに対応したスタジオを高い賃貸料で借りなくても、6チャンネルなら6チャンネルの上映施設があって、そこの音響システムに音声編集用のツール(たとえばProTools)を接続することで、サラウンド音声の映画が作れることを意味する。しかもかなり高価なドルビー・ラボラトリーのライセンス料を支払う必要がない。
僕の最新作の『無人地帯』もこのやり方で、ほとんどお金を使わずに5.1チャンネルのサラウンド音声を作った映画だ。これはまさに上記のやり方で、東京日仏学院の映写施設を借りて、音響デザインとミキシングの臼井勝の職人芸でProToolsを持ち込んで音を作っている。設備使用については日仏学院の好意もあり、ほとんどお金はかかっていない。
昨年『カルロス』の三部作・5時間版が東京日仏学院で上映された際にも、監督のオリヴィエ・アサイヤスは音声も映像も本来意図したものではないことを上映前に断っていた。ブルーレイ用の素材での上映だったのだが、この映画もフィルム撮影で完成フォーマットはDCP、ドルビーではない独立形式の5.1チャンネルだったのだ。
そしてこうした5.1チャンネル音声の映画はDCPを導入した劇場でないと正確には上映できない。
僕らのような映画の場合、ぶっちゃけた話、今では海外の映画祭だとたいていシネコンの会場での上映が一回はあるわけで、上映それ自体のクオリティから言えば僕らのようなお金はかけられないしデジタルだが映画の職人仕事の面ではいろいろ凝って作り込んでいる低予算映画だと、シネコン上映がいちばんよかったりもするのは実体験済みである。
しかし日本のミニシアターのなかには、ハイビジョン上映ではHDCAM(業務用のハイビジョンの標準仕様)すら対応していない映画館も少なくない。民生用の、圧縮率が高いHDV方式に対応している劇場ですら稀だ。ほとんどがブルーレイ上映であり、つまり映画館ではなく大きなホームシアターとあまり変わらないのが実態なのだ。いかにブルーレイが最近ではとても高画質だとは言っても、である。
ミニシアターでも最近は複数スクリーンで客単価あたりの経費を抑え、番組数を増やして個別作品ごとのリスクを下げるなどはしているが、それが配給・製作側の採算リスクを下げるまでには至ってないのが現状で、ただでさえ小規模な会社が毎回毎回大きなギャンブルを打つことになる。ところがかつて「あのミニシアターでやる映画はいい映画だから必ず見よう」という客がついているような、有名ミニシアターのブランド力は、地方興行のブッキングが増える程度には残っているものの、観客動員それ自体に関しては20年30年前ほどの力は失ってしまっている。
インディペンデント映画はミニシアターで興行するもの、という既存の固定観念に留まっているだけでは、いかにこうした映画の製作が経済的にハイリスクどころかどんどんジリ貧になっているか分かって頂けただろうか?
しかもまたミニシアターの側でも、自劇場の番組作りでのブランド・イメージや価値の確保に必ずしも成功しなくなっている場合が多い。いい映画が作られていないわけではないのだが、海外作品も含めてそれがなかなか国内で上映されない、劇場が欲しくても配給されない場合も少なくない。インディペンデント映画でも保証興行等で公開の初期投資が高いなら、どうしても手堅いというか、いわば(こういっては悪いが)俗っぽい、あまりオリジナリティのない作品、映画の中身でリスクを負わないものが多勢を占めてしまい、プログラムが保守化し、かつてのミニシアター文化を支えた「最先端の映画が見られる」という魅力がどんどん失われるという悪循環だ。
今、このような既存の状況をさらに悪化させる上で決定的なのは、やはりDCPによるデジタル上映が急激に普及しながら、初期設備投資が高い、制度上の問題などで、ミニシアターがそこに立ち後れてしまったことだろう。
皮肉なことに、デジタル撮影機材の進化で、今では低予算でも相当に画質がいい、見ていて素直にきれいな映画はどんどん作れるようになった。しかしそれを完全な形で上映するにはDCPが必要…となるとシネコンの方が環境がいい、ということになっているのが、隠しようもなくなって来ている現状なのだ。
またそこで、ミニシアター系の興行が確立したバブル時代末期(もう20年以上前)から変わっていない、当時の映画上映態勢や社会情勢には適確だったが、今では時代に合わない慣習が多い。
たとえばフィルムだと上映プリントがあまり作れない関係上、東京での単館から順次地方で、というシステムが出来上がってしまったままだ。これはネットでの口コミや宣伝効果のメリットが極めて低い一方で、上映素材の複製が簡単なデジタルではほとんど意味がない。
ネットで話題になれば北海道の人でも熊本でも、「この映画、見たいな」と思うだろう。ところがその土地での上映ははるか数ヶ月先で、となると、やっと上映された時にはもう忘れられていたりする。
大手の大作ではDCPの登場で大量の上映プリントの作成および輸送経費が劇的に減ったので、DCPは大手に有利なだけだと思われがちだが、発想を逆転させれば、小規模で低予算の映画でもより多くの上映素材で同時に何カ所でも上映が可能になるのだ。
なのにこういうやり方がなかなか変わらないのには、映画宣伝が過去の、東京中心の雑誌出版に頼った枠組みを棄て切れていない問題も、たぶん大きいのだろう。
困ったことに、日本では新聞テレビですら実態はかなり中央集権的だし、雑誌も基本的に「東京で作られるもの」だから、地域に密着した健全なメディアが育ちにくい。文化も東京発信の中央集権的なものであり続けた歴史があり、インディペンデント映画などは完全にその枠組みで消費されて来た。
だがこれは今のミニシアターで上映されるとくに日本の(デジタル撮影の)インディペンデント映画には、まったく当てはまらない特質、商品イメージだ。つまりかつて蓮實氏がヴェンダースやゴダール作品の映画評を中心に確立したり、タルコフスキーの晩年の作品、テオ・アンゲロプロスの映画などによって作り出されたミニシアターのブランドイメージは、今そこで上映されている映画のほとんどに当てはまらない。今こうした劇場サーキットで繰り返されるのは、「映画への愛」といった誰も本気では信じないし、そもそも興行という観点からすれば後ろ向きで内輪向け過ぎる観念だ。
そうやって東京でまず「おしゃれなもの」として発信され地方に広がって行くというバブル時代的な考えも、ミニシアター文化の、今となっては負の面として、しかもその「おしゃれなもの」の商品価値を失った今でも、残り続けている。
東京での発信と地方での上映の時間差をなくすのなら、デジタルなら上映コピーの作成は極めて安価なのだし、ミニシアター系でも全国公開という選択肢とか、逆に地方から始める映画興行だってあり得るのに、業界の体制が今のところそこに対応しようともしていない。小規模な映画だからプリント数が少なく、だから単館上映で逆に付加価値をつける、という高級ブランド的な発想は、今では意味がないというのに。
デジタル上映であれば全国同時公開も理論上はすぐにでも出来ることなのに、誰もそういうやり方を試してみようとしない。それが今自分達が配給し興行している映画の特性を生かしたやり方になるかも知れないとしても、試してみないからうまく行くか分からず、分からないから誰も手を出さない。
東京が先行でなく全国公開とか、わざと地方から公開を始めるとかやったら、東京の有名ミニシアターがいやがってブッキングしてくれないかも知れない、という恐怖感だって、配給も製作もないわけではない。ミニシアターの興行システムに頼ってると、かえって自由がなくなることにもなりかねない。
だが僕自身の作家としての感覚でいえば、とくにデジタル製作の映画をちゃんとDCPで、つまりHDフォーマットなら2Kで十分に美しいし今後はREDだとかも使えれば4Kも、という高画質で上映できることは、業務用液晶プロジェクターでホームシアターと明らかな違いがない程度のミニシアターよりも、魅力になってしまう。映画とはたしかに映画館の漂わせる文化的雰囲気も大事だが、やはり基本は科学技術的な芸術メディアなのだし、技術的にきちんと上映されるのがなによりも重要になってしまうのだ。
とにかく映画上映の急激なデジタル高画質化の流れに、いささか出遅れてしまった日本のミニシアター系の興行だが、これまでのやり方やシステムの抜本的な見直しも含めたことを考えないとかなり苦しいし、今までのやり方だと真っ先に経済的に潰れるのが僕ら作り手であることは、忘れて欲しくないと思う。
とはいえ現状決して経営が楽ではないミニシアターの多くがDCPを導入するのは困難だろうし、シネクラブ等はさらに苦しいだろうが、ここは日本の映画文化を守るという観点から、文化庁などの政策的な戦略、補助金などがあって然るべきだし、要請すべきだと思う。
一方で僕らのようなインディペンデントの、より先鋭的な映画がシネコンに参入できるように、たとえば9スクリーン以上の施設であれば1スクリーンはインディペンデント系の映画の上映を義務づけるみたいな制度も、文化庁などで考慮して欲しいと思う。
日本の映画業界は、どうにも戦時中の反省から国や地方の行政からの支援を受けたくないと考える傾向がまだまだ強いし、それは精神論としては正しいとも思うが、現代の、見返りが即要求される経済システムでは文化としての映画を守ることはかなり難しいのだし、意識の大転換は必要だと思う。また行政や、議員などの政治家の側でも、文化を守るということは政治の重要な責任なのだという意識を持って欲しいとも思う。
先日参加したエジンバラ国際映画祭では相米慎二監督の回顧上映が大いに評判になった。日本の映画というのは世界的にみてももの凄く高い文化水準にあるものなのだ。それは政治的にも、守って行くべき価値のあるもののはずだ。文化とは国のアイデンティティに他ならないのだから。
文化の創造と継承こそが、国家の歴史的継続性を担保するものであることは、忘れてはならない。








