死後いったん神格化された秀吉だが、徳川幕府の成立後その神格は剥奪されていた。明治政府が豊国神社を復興させたのは、明治天皇が将軍位を狙わなかった秀吉を忠義の者だと評価したからだ、と言うことになっている。
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| 常憲院殿霊廟 手前が本殿 奥の一段高い棟が本殿 |
家康没後の秀忠と、その息子の家光も、武家どうしの争いや専横、暴力の行使を抑えることに心血を注いだ。家光の子である家綱と綱吉は、その方針をさらに進めて、戦国時代風の武家の力(暴力)の支配から、文治政治の平和統治への転換を計っていく。
綱吉は学問を奨励し儒教朱子学を庶民でも希望すれば無償で学べるように昌平校を解放したが、儒教道徳で厳しく自らを律するよう求められたのは支配階級の武家と一部の高い格式のある家で、一般庶民に強要されたわけではない。
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| 常憲院殿霊廟 本殿脇にあった奥の院に向かう唐門 |
士農工商という身分制度もずいぶん誤解されがちだ。大名行列は平身低頭しなければならないものではなくてむしろ大勢の見物客を集めるものだったし、武家が名誉を毀損されたら「切り捨てご免」でお構いなしというのは、後世の神話だ。
名誉を傷つけられたから、と言っても即座に届け出た上でどうしても許し難い侮辱があった事実を立証できなければ、切腹どころか打ち首獄門さえ覚悟しなければならなかったのが実際の法制度だったし、そうやって届け出た後も、いかなる理由があっても人を殺めた罪そのものは深く反省する印として、まず真っ先に蟄居が申しつけられた(蟄居しながら証拠や証人探しもやるのは大変、というか無理)。
本当に「切り捨てご免」をやった武士が徳川幕府250年の歴史の間にどれだけいたかも怪しいというか、実際の意味合いは逆で、戦国時代の気分が抜け切らない武家がみだりに庶民を斬ることを禁じるために厳しい条件を課した制度だったと考えられる。
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| 現在は深い森になった奥ノ院を囲む石垣は幕末〜明治初期に作られた |
諸潘が一揆を恐れたのも、なによりも領民がそこまで不満を持つような政治をやったというだけで幕府による厳罰の対象になるからだった。大名家がみだりに領民や民衆、庶民の命を奪ってしまえば取り潰しを覚悟しなければならなかったし、島原の乱以降は一揆軍に対し銃を水平方向に発射することも禁じられた。
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| 現在の常憲院殿霊廟 左の位牌堂は戦後に建てられたもの |
徳川将軍家の統治の基本の哲学では、武家である大名が各潘の統治者と言っても「当座の者」に過ぎず、民百姓をこそ「末代までの者」、つまりその土地の真の住人とみなし、諸大名にとっては将軍家と、究極的には天皇からの「お預かりしたもの」として大切にすることが求められた。武家にとって年貢米が主要な収入でもあった以上は当然でもあったが、農村の生活を守ることは幕府が諸大名に課した最大の責任となった。生活が成り立たなくなった農民が土地を去り村が途絶えることは「亡所」と言われ、領内で一村でもそういう状態になれば、それだけで領主は責任を問われ、取り潰しの対象になりかねなかった。
また家康が始めた大規模治水工事と用水路、運河の整備、それを引き継いだ三代家光の江戸城外堀の建設などの、江戸を中心とした大規模な「天下普請」は、労働力が地方から流入することで江戸の人口増加を狙った政策でもあった。
こうした徳川の絶対平和主義の統治の下で、人口も全国で増加し、農業生産も経済も順調に成長を続けた。とりわけ都市は急速に発展し、江戸は綱吉の時代には世界最大級の、確認できる限りでは当時の世界でもほとんど唯一の100万都市になっていた。
しかもその江戸の行政と治安の責任を担う南北の江戸町奉行所には、同心が200名しかいなかったという(南北で月毎の輪番制なので実際に職務にあったのは100人という計算になる)。町人の自治が尊重され、治安の維持にも庶民が積極的に参加していたのだ。
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| 北斎 仮名手本忠臣蔵 初段・大序 |
綱吉は
赤穂浪士事件の発端になった江戸城本丸御殿・松の大廊下の刃傷沙汰の際、一方的に浅野内匠頭にのみ切腹を命じたことでも、あまり評判が良くなかったように思えるかも知れない。
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| 国芳 仮名手本忠臣蔵 三段目・刃傷 |
だが武家の暴力と殺生に厳しく対処して人命尊重を第一とする幕府の基本方針を綱吉が確立した中で、浅野長矩が吉良上野介に斬りつけたことに正当化できそうな動機がまったく分からない(浄瑠璃と歌舞伎では高師直が塩谷判官の妻に横恋慕してセクハラ、近現代に流布した俗説では吉良の賄賂要求となっているが、どちらも根拠はない)、しかも本人もなにも言わなかったのでは、綱吉の苦渋の決断はそうおかしなことではない。
しかも刃傷事件が起きたのは、朝廷から派遣された勅使を迎える儀式でだった。これでは厳罰で臨むしかないのも、綱吉の立場としては当然だ。幕府は家光の代に禁中公家諸法度を出し朝廷や公家も管理下に置いてはいたとはいえ、決して天皇を軽んじていたわけではない。
征夷大将軍位は天皇から授けられ、天皇からその民を預かっているのだし、直接の権力行使はしないからこそ、天皇は平和な統治と人々の安定した生活を精神的に担保する重要な象徴的権威だった。その権威を尊重は、徳川が進める絶対平和主義の政策のなかでも極めて重要だったのだ。
だいたい(繰り返しになるが)東叡山寛永寺も門跡寺院、つまり皇族が住職を務める寺とすることは天海の宿願でもあった。
天海と家光によって徳川の聖地になった上野は「将軍家の菩提寺」で住職も皇族なのだから、身分の高い人専用だったのではないか、と現代人は誤解するかも知れないが、瑠璃殿(根本中堂)を中心とする大伽藍など、誰でも参拝できた。むしろ誰もが来る場所だからこそ分かりやすく魅力的な、華麗で美しい伽藍が必要だったのだ。
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甲良宗広 上野東照宮五重塔 寛永16(1639)年 四隅の軒下には方位守護の龍 さらに初層には各面三つずつ十二支が配されている |
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| 日光東照宮五重塔 文政元(1818)年 同様に初層には十二支 |
家光は上野東照宮の華やかさや、日光東照宮のほとんど装飾過多の贅沢さを、誰もが見ることのできた寺社の様式では突き詰めた。
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| 日光東照宮 二ノ鳥居と陽明門 |
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| 唐門と拝殿 |
その一方で将軍家が自らの私的な使用や接待などのために作らせた、城内にあって一般の目に触れる機会の少ない建物となると、茶の湯と数寄の文化の影響もあってむしろ簡素で、デザインは洗練されていても華美は排したものが多かったりする。
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| 家康が伏見城内に詰め所として建てた月華殿 慶長8(1603)年 横浜・三渓園に移築 |
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江戸城奥御殿の一部を家光が川越喜多院に寄進した喜多院客殿 家光はこの建物のなかで産まれたとも言われる |
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| 喜多院書院 江戸城本丸奥御殿の一部を家光が寄進した |
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| 喜多院本坊 式台玄関 江戸城本丸奥御殿の一部を移設 |
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| 二条城内に家光が造らせた「三笠閣」元和9(1623)年 横浜・三渓園 |
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| 旧 紀州徳川家別邸「巌出御殿」慶安2(1649)年 横浜・三渓園 |
四代家綱が
紫衣事件で父・家光と対立して抗議の退位をした後水尾上皇と中宮和子(秀忠の娘で家綱にとっては伯母)のために造営した
修学院離宮も、洗練された数寄趣味の極致ではあるが、まったく華美ではなく、簡素の極みですらある。
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| 家綱が後水尾上皇のために造営した修学院離宮 下御茶屋御座所・寿月観 |
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| 寿月観の上皇の御座所 |
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| 修学院離宮 上御茶屋 窮邃亭の御座所 |
日光東照宮や輪王寺も、江戸から物見遊山の旅行に出かけるには手軽な距離の日光に、江戸市民をはじめとする一般庶民に見せるためにこそ作られたものだ。
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| 日光東照宮 庶民の参拝を前提とした部分 上神庫 鐘楼 陽明門 |
墓所だけに陽明門より奥に入るのは当初は諸大名だけで、昇殿は大名でも一部に限られ、奥ノ院への墓参は将軍家と親藩のみだったものの、陽明門までの参拝は身分に関係なく誰でもできたし、現に日光街道の整備のおかげもあって、日光は江戸から手近な人気の観光地になった。
ちなみに参拝では身分に関わらず裃(かみしも)を着るのが作法とされ、門前町では貸衣装屋も繁盛したという。格式ばった権威主義というよりは今風に言えば一種のコスプレを楽しむような感覚だったのかも知れない。
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陽明門両脇の回廊(国宝)ここまでは誰でも参拝できた
下部には西洋の燭台のようなエキゾチックな意匠も |
上野東叡山に豪華な美意識の粋を集めたのも江戸庶民相手の政策であり、天海が琵琶湖に見立てた不忍池や清水寺を模した清水観音堂を発案したのも庶民の京や上方への憧れに応えるためでもあった。
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| 上野東照宮 唐門 慶安4(1651)年 |
この寛永寺と上野東照宮、増上寺と台徳院殿霊廟、日光東照宮と輪王寺の大猷院殿霊廟が、徳川が実現した泰平の世を分かり易く見せる、華麗でエンタテインメント性に満ちた建築様式を確立したとも言える。
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| 上野東照宮 拝殿 慶安4(1651)年 |
文化や娯楽の場を作ることは、徳川幕府が民衆の信頼を得るための重要な政策のひとつだった。つまりは寺社の造営は、泰平の世を治める幕府にとって重要な庶民サービスでもあったのだ。
とはいえ寛永寺はお寺、それも門跡寺院で比叡山と並ぶ天台宗の最高権威、しかも将軍家菩提所だけに、ハメを外し過ぎたどんちゃん騒ぎはさすがに憚られた。そこで八代吉宗は隅田川の堤に桜を植え、無礼講の酒盛りもできる新たな花見の名所を作った。
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| 広重 富士三十六景 東都隅田堤 |
元をただせば、隅田川の堤防をより確かな洪水防止のために整備拡大した治水工事だった。家康以来、治水は徳川将軍家にとって重要な関心事である。その新築の堤防に桜を植えたのは、花見客が大勢集まれば自然に土が踏み固められるという吉宗の計算だった。
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| 渓斎英泉 隅田堤桜 |
家康の江戸開府以前、今の平地部分は茫漠とした湿地帯か海で、日比谷まで遠浅の入り江だった。そんな寒村だった江戸に本拠を定めた家康は、まず江戸湾に流れ込んでいた利根川を霞ヶ浦へと流れを変える空前の大土木工事に着手する。いわゆる「利根川東遷」で、三代家光の時に完成した。
また江戸市中では人工の川である神田川を掘削した土で江戸湾を埋め立てて銀座や築地などの土地を造成し、西の郊外には玉川上水などが整備された。
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渓斎英泉 東都花暦 茗渓(オチャノミズ)之蛍 人工の川である神田川 右岸に昌平坂学問所(現 湯島聖堂)奥の水道橋は当時は本当に水道が通っていた |
水の安定供給は都市住民の生活用水と衛生の確保だけでなく、耕作可能な土地を増やし農業生産高をあげるためにも必須だった。
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| 広重 名所江戸百景 玉川堤の桜 安政3(1856)年 |
利根川の東遷により、それまで湿地帯や荒れ地が多かった関東平野が日本でも有数の穀倉地帯に変貌してゆく。こうした幕府の治水工事への熱心な取り組みは諸大名にも影響を与えている。現代の日本の河川の8割以上が、江戸時代に造成されたり改修を加えられた人工の河川だ。またこうした大規模土木工事が大きな雇用を産み、江戸の人口を増やす効果もあった。
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広重 不二三十六景 大江戸市中七夕祭り 江戸の町人地の人口密集ぶりがよく分かる |
こうして江戸開府から百年前後の元禄期には、江戸は恐らく当時の世界で唯一の百万都市になっていた。
治水や水路の整備は、こと江戸や大坂のように人口が密集した大都市では生活用水の確保と衛生管理で必須だったし、商業の発達のためには極めて重要な交通網・輸送路でもあった。戦後の高度成長で多くが埋め立てられたり暗渠化されているが、東京も大阪(江戸時代までは大坂)も運河と水路と橋だらけの街だ。
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広重 名所江戸百景 京橋竹かし 安政4(1857)年 現在の京橋交差点で水路は首都高速道路になっている |
そもそも家康が関東に転封された際に、既に町があった小田原や鎌倉ではなく、あえてほとんどが湿地帯と丘陵でなにもなかった江戸を本拠地と定めたのも、治水工事さえしっかりやれば、内海になる江戸湾を海運基地として活用でき、大きな経済発展の可能性があると考えたからだ。
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| 広重 不二三十六景 武蔵小金井堤 玉川上水(現在の小金井市、小金井橋付近) |
そうした幕府の一貫した方針のなかで吉宗が新たに造成した隅田川の桜の堤と、やはり吉宗が整備した飛鳥山は、花見の酒盛りで大騒ぎをしても許される桜の名所として、江戸庶民の人気を集めた。
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| 広重 雪月花のうち 飛鳥山 |
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| 渓斎英泉 飛鳥山櫻 |
諸大名などの武家階級の視点では、こと家光までの徳川は武家諸法度、禁中公家諸法度などを制定し、厳しい締め付けを断行していたのは確かだし、最初の三代では有力大名家の取り潰しや国替えも相次いだ。
そのせいか、外様だった薩長閥が徳川を倒した明治維新以降の歴史教育の影響で、徳川の統治は強権的なものだったとみなされがちだ。
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| 上野東照宮 寛永4(1626)年 創建 現社殿は慶安4(1651)年造営 |
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| 諸大名がこぞって寄進した石灯籠が並ぶ東照宮の境内 |
江戸大改造の天下普請の負担も重かったし(急ピッチの工事を命じたのは諸大名の財力を弱める狙いもあった)、改易に怯えつつ徳川の命令に従って来た大名達やその家臣からみれば横暴に思えたのはその通りだろう。主家の改易で失業して浪人になった武士達の恨みも買ったはずだ。
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上野東照宮 大石鳥居 寛永10(1633)年 備前の御影石製
老中酒井忠世の奉納 地震を経て享保19(1734)年 酒井忠知により改修 |
だがそうした「皇国史観」的な理解の文脈では、徳川の基本哲学が百姓・農民こそ「末代の者」でそれぞれの土地の強固に結びつくものであり、武家はその統治を一時的に預かるだけの「当座の者」でかりそめでしかなく、むしろ民衆の生活の安定をこそ重視する方針だったことが、明治以降の学校教育や一般に流布された歴史観でまっとうに理解されて来たとは言い難い。
天下普請の大土木工事が江戸つまり現在の東京や大坂など、かつて幕府直轄だった諸都市で近現代の発展の基礎となったことも、現代では無視されがちだ。
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広重 名所江戸百景 千駄木団子坂花屋敷 安政3(1856)年 寛永寺の寺域は団子坂まで広がり 上野戦争では激しい戦闘もあった |
徳川が儒教・朱子学を公式学門に据えたことも、明治以降では「忠義」を重んじる武断的な価値観の徹底に思われがちだが、重んじられて来たのはむしろ「徳治」の概念で、上に立つ武家をこそ厳しく律し、民衆に不満があるようでは統治者の側が徳がない、と断罪すらされかねない。また支配層がそういう姿勢でもとらなくては、かつての日本の庶民は相当に口が悪くもあった。
日本では文字の普及が世界史上異例と言えるほど早く、平安時代の中後期、11世紀や12世紀となるとすでに有力貴族や朝廷、天皇や上皇を揶揄する手厳しい落書きが都で流行っていた。中世・室町時代の時点で、文字コミュニケーションはすでに地方の庶民階級にも浸透しており、木版印刷技術が発達した江戸時代ともなれば瓦版も人気を博した。
幕府が交通網を整備したこともあってその版元は相当な情報収集・発信能力を持ち、識字率も上がり貸本屋などが増えたことで、読書の習慣も庶民層にまで爆発的に普及している。直接的な政治批判は取り締まることもあったとはいえ、250年ものあいだ将軍家の権威というよりも人望を保つのも、徳川家にとってなかなか大変だったろう。
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| 斜面一面のつづじと清水観音堂 |
家康が「狸おやじ」と呼ばれ、二代秀忠が父と妻・江与の方に頭が上がらなかったとか、三代家光の同性愛や、その母・江与の方に寵愛された弟の忠長の確執に家光の乳母・春日局も絡んだお家騒動未遂が、ミもフタもなく庶民の噂のタネになっていたのは当時からで、将軍家や大名家の艶めいたゴシップやら、どの大名の家中やどの旗本に美男がいるのかといった話題も瓦版のかっこうの題材になり、歌舞伎などの娯楽にもインスピレーションを与えた。
四代家綱が「さようせい様」、五代綱吉が「犬公方」、緊縮財政を断行し米価の安定に苦しんだ八代吉宗が「米将軍」、十三代家定が短気だったので癇癪の「癇」の字をとって「癇公方」といったあだ名で公然と揶揄されていたのは、厳しい身分制度で武家が強権政治を敷き庶民は服従させられていたのかのような後世のイメージとは随分異なる。
あるいは、今年のNHK大河ドラマの主人公は大坂夏の陣で家康をすんでのところまで追いつめた真田信繁だが、この信繁が「真田幸村」の名で庶民に人気を博したのも、その幸村伝説のなかでは悪役・仇役となる家康の子孫の徳川将軍家の統治下でだった。
だいたい徳川に倒されたのが豊臣政権であっても、秀吉の伝記である「太閤記」も人気があった(江戸時代後期に一度だけ発禁になっている)。
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歌麿 教訓親の目鑑 理口もの
読んでいるのは絵本太閤記 |
庶民の文化レベルが高く為政者も世論を気にせざるを得なかったこともあるが、前政権を倒した現政権が権威付けのプロパガンダで前政権を悪く言うことで自己正当化を図ること自体が、宗教観からしても日本の伝統に反する。
むしろ敵として死に至らしめた相手でも、その敵の怨霊が「祟る」ことの防止も含め、菩提を弔い慰霊するのが、世間の厳しい目もあって、「徳」のある統治者の責任だった。
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| 歌川国芳 百人一首之内 崇徳院 |
南北朝の争乱期では、後醍醐天皇が没すると将軍足利尊氏はその菩提を弔うために、夢窓疎石に嵐山の天龍寺を建立させている(孫の義満の代には京都五山第一に定められた)。
真言宗の聖地である高野山では、空海が入定した奥ノ院に向かう参道には、敵味方を問わず多くの戦国武将の墓所や供養墓が並んでいる。
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| 高野山奥ノ院 安国院(徳川家康)霊廟 寛永20(1643)年 |
織田信長は本能寺の変の前に高野聖を京都で大量処刑し、高野山の焼き討ちも計画していたが、その信長の供養塔すらちゃんと高野山奥ノ院にある。
中世、とくに南北朝〜室町時代以降の日本の歴史的な大きな特徴は、文字の普及もあって文化教養が幅広い階層に浸透していたことだ。

また支配階級の側でも、平安時代末期には後白河法皇が庶民の俗謡だった今様に熱中していたし、室町幕府の足利将軍家は庶民芸能だった猿楽を愛好して能楽に発展させた。
戦国時代を経て、江戸時代には庶民文化が花開くことになり、寺社仏閣はその中心的な役割も担うようになって行く。
三代家光の大公共事業による都市整備と雇用・経済の底上げも成功し、徳川の体制が盤石となると、四代家綱の代には方針が文治政治に本格的に転換し、明暦の大火の復興を機に江戸庶民の経済発展や福祉を最優先する政策をとったのも、五代綱吉が福祉政策と文化振興を重んじたのも、明治以降の忠君愛国思想の称揚の文脈では否定的に見られるか無視されがちだが、客観的にみれば泰平の世の維持のためにも合理的な判断でもある。
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| 上野東照宮 四季の動植物や花鳥をあしらった透塀 |
文治政治と町民優先(=民間活力の成長戦略)、それに平和主義を押し進めた五代綱吉の代に幕府財政が逼迫したのも、別に将軍家が贅沢が原因ではない。
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| 透塀の下の段には水の生き物 鯉 |
後世には、享保の改革を行った八代吉宗が武道の復興や身体鍛錬を奨励したのと比較して、綱吉は抹香臭くひ弱に見られたり、元禄文化の賑やかさもあって浪費癖というイメージで語られがちだ。
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| 上野東照宮 本殿 |
だが双方を比較して綱吉を暗愚の君、吉宗を名君のように扱う明治以降の傾向が史実に則しているとは言い難い。また実際には吉宗も綱吉を尊敬していて、死後は綱吉の眠る常憲院殿霊廟内に自らを葬るように言い遺した。
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上野東照宮 唐門 左甚五郎の上り龍 慶安4(1651)年
東照宮では家康の遺訓という伝承で上向きの龍が「下り」としている |
四代五代の霊廟が続けて寛永寺に建ったあと、六代家宣、七代家継の霊廟は増上寺の番で文昭院殿霊廟、続けて有章院殿霊廟が、二代秀忠の台徳院から見て増上寺境内を挟んで反対の北側に建てられた。
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| 増上寺 台徳院殿霊廟勅額門 後水尾天皇の筆による勅額 |
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| 同 奥ノ院(墓所)への御成門 飛天 花鳥 水紋の装飾 |
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| 文昭院殿霊廟 勅額門 正徳3(1713)年 戦災で焼失 |
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| 文昭院殿霊廟 拝殿 |
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| 文昭院殿霊廟 拝殿内部 |
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| 文昭院殿霊廟内部 相の間から本殿 いずれも戦災で焼失 |
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| 有章院殿(七代家継)霊廟 享保2(1717)年 勅額門から拝殿 |
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有章院殿霊廟 勅額門と鐘楼 1890年頃の着色写真 Adolfo Farsari撮影 |
ちなみに有章院(増上寺・七代家継)の江戸城側に作られた裏門が、吉宗以降は将軍による増上寺参拝に用いられるようになり、この門が「御成門」と呼ばれるようになった。
地下鉄・御成門駅の名前の由来だ。
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崇源院殿(秀忠正室・お江与の方)霊殿 丁字門 寛永9(1632)年 所沢市の狭山不動尊に移設 |
吉宗が自分の墓所は綱吉の常憲院殿霊廟内に建てるよう遺言したのには、霊廟の膨大な建築予算を削減する目的もあった。
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| 常憲院殿霊廟奥ノ院内の有徳院(吉宗)の墓所前の拝殿 |
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| 厳有院殿霊廟に葬られた俊明院(十代家治)墓所の拝殿 |
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| 俊明院(十代家治)宝塔・前門 厳有院殿奥ノ院内 |
以降の将軍はこの先例に倣い、寛永寺か増上寺の既存の四つの霊廟のいずれかに葬られた。
戦後、増上寺の将軍家霊廟の敷地を買い取った西武グループは、重要文化財の三つの門を狭山不動尊に移築した他、石灯籠などを鉄道の西武線の沿線の寺社に寄付したり、東京各所のプリンスホテルに移して庭の飾りに利用している。
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| 有章院殿(七代家継)霊廟前にあった石灯籠 所沢市の金乗院境内 |
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| 深大寺境内 台徳院殿の石灯籠 |
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| グランドプリンスホテル新高輪に移設された台徳院殿の銅灯籠 |
また寛永寺の将軍家霊廟にあった石灯籠の多くも、都内の随所の寺院に移設されている。
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| 惇信院(9代家重)霊前にあった石灯籠 小平市 野中山円成院 |
寛永寺も増上寺も、将軍の霊廟はいくつかの門を残して戦災で焼失しているが、その華麗さをしのばせる遺構として、二代秀忠の正室お江与の方・法名崇源院の霊殿は、江戸時代にすでに鎌倉の建長寺に移設されていて、その仏殿になっている。
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| 崇源院殿霊屋 寛永9(1632)年 現 建長寺仏殿 正保4(1647)年移設 |
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| 建長寺仏殿内陣 本尊は室町時代の地蔵菩薩坐像 |
江与の方と秀忠の長男で三代将軍になった家光は、同性愛者でなかなか女性を身辺に近寄らせなかったと言われている。
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| 霊廟建築だった時の華やかな壁画がかすかに残っている |
江与が次男の忠長に家督を継がせようと考えたのも、のちのちに跡取り問題が起こるのを危惧したからかも知れないし、家光の乳母・福(春日局)が大奥を創設したのも同じ理由からだった。福の奮闘の甲斐あって家光の最初の側室となったお振の方は、娘を出産した後まもなく亡くなってしまい、後に尾張徳川家の光友に嫁いだその娘・千代姫が霊屋を建立している。
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| 自証院(三代家光側室お振)霊屋 慶安5(1652)年 |
この霊屋は明治以降寺が衰退したため一時は西武グループに買い取られて赤坂プリンスホテル内にあったが、今度はホテルの建て替えに際し東京都に寄付された。今は修復され江戸東京たてもの園で見ることができる。
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| 日曜・祝祭日には扉が開かれ内部も公開される |
尾張家の造営事業だったが、建築を担当したのが幕府の作事方・甲良家(宗広の隠居後の当主・宗清)だったことが修復時に墨書から確認された。
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| 厳有院殿霊廟勅額門 延宝9(1681)年 |
寛永寺の厳有院殿に葬られている四代家綱も、明から禅の高僧・隠元隆琦を招いた京都・宇治の
黄檗山萬福寺(明治以降、臨済宗から独立した黄檗宗の総本山)などを建てているが、なかでもよく知られているのが
両国の回向院だろう。
その名の通り死者の「回向」が役割で、もともと明暦の大火(明暦3・1657年)の犠牲者供養のために建立されたが、今では大相撲興行発祥の地としての方が有名かもしれない。
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| 広重 東都名所 両国回向院全図 中央に巨大な仮設見世物小屋が |
強い西風で東に燃え広がった火で避難した民衆が、隅田川の岸に追いつめられ、逃げ場がなくなって多くの焼死者を出した反省から、家綱とその後見役で側近の保科正之(秀忠の末子で家綱の叔父にあたる)は、それまで江戸防備のための戦国時代的な発想で、隅田川が外堀と合体していて東側に渡れる橋が北のはずれの千住にしかなかったのを改め、火災時に対岸への避難路を確保する大きな橋を建造した。
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| 広重 名所江戸百景 大はしあたけの夕立(両国橋) 東洋文庫蔵 |
隅田川を挟んで西は武蔵の国、東は安房になることから「両国橋」ないし「大橋」と呼ばれ、両国という地名もこれに由来する。
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| 北斎 絵本隅田川両岸一覧より 両国橋 |
防備よりも交通網の発展を優先した、幕府の基本政策の大転換を象徴する事業でもあった。橋を渡った先に回向院が建立されたのをきっかけに、江戸市街は隅田川東岸の深川などへと拡張して行く。現代のいわゆる東京の「下町」だ。
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| 渓斎英泉 蘭字枠江戸名所 江戸両国橋ヨリ立川ヲ見ル図 文政期(1818-29) |
明暦の大火では江戸城の天守も焼失した。家綱と保科正之は再建はせずにその予算を江戸の復興に廻すと決め、まだ戦国時代の意識が残る古参の幕臣達も説き伏せた。
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| 東京大空襲で焼失する前の回向院の全景 |
両国橋の建設と同様、天守を作らないこと(そして壮大な回向院を建立したこと)もまた、もはや戦乱の時代ではないという将軍家の意思表示でもあった。
泰平の世には天守は不要という将軍家の意思表示には諸大名も従うことになり、以降全国の城で天守閣は作られなくなる。
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| 旧江戸城本丸(皇居東御苑) 明暦天守台 |
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| この上に天守が建ったことはない |
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| 焼失した寛永天守台の石を再利用したとされる中雀門石垣 |
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広重 江戸名所橋尽 日本橋 櫓は多いが天守は建てられなかった江戸城 |
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天守の代わりとなった本丸富士見櫓 万治元(1658)年再建 どの角度から見ても美しい「八方正面の櫓」とも呼ばれた |
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| 明治初期の本丸富士見櫓 現在の坂下門辺りから |
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| 現在の宮内庁前(元は西の丸)より |
また元禄11(1698)年には綱吉の生誕50周年を期に永代橋も建造され、隅田川東岸は江戸の不可分の新興地域として発展して行く。
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| 宮川長亀 隅田川納涼図屏風 18世紀 右側に両国橋 左端下は駒形堂 |
元をたどれば家康が本拠地を江戸に定めたのも、堅牢な都市防備が可能な鎌倉や小田原よりも、自らが作り出そうとしていた平和の時代を見据え、開かれた江戸の発展の可能性を選んだからだった。
そのひ孫になる家綱の治世は一般向けの歴史や教科書では無視されがちな時代だが、明暦の大火後の江戸復興政策は、徳川の統治が武断政治から文治政治へと転換し、絶対平和主義を確立した象徴的な決断となっただけでなく、現代の東京へとつながる大都市・江戸の歴史の大きな転換点だった。
なお回向院では、身分の分け隔てなく明暦の大火の死者を回向した起源から、あらゆる人間の慰霊・供養を受け入れる方針を今でも守っているだけでなく、動物墓地もある。
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増上寺は東京大空襲でほとんどの伽藍を失った 戦後に建てられた動物慰霊塔 |
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| 関東大震災の身元不明遺体の供養塔 |
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| 江戸時代から身元不明者の供養の場でもあった |
「生類憐れみの令」が決して綱吉の気まぐれや思いつき、まして「悪政」だったわけでもなく、徳川の統治方針から当然出て来た流れだったことが、これを見ても分かる。
両国橋の両岸には、延焼防止のため広い火除地が設けられた。
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| 北斎 隅田川両岸景色図巻(部分)すみだ北斎美術館蔵 |
ここには家は建てられないが、火災の時にすぐに解体できるならという条件で仮設小屋は許されたため、すぐに見世物小屋などが集まるようになり、回向院の境内から橋をはさんだ両岸の一帯が、江戸の一大エンタテインメント・センターになった。
また公式には江戸は武州(武蔵)、隅田川東岸は房州(安房)になるので、隅田川を渡れば江戸市中で禁じられていた動物の肉を食べることなどが許されていたりしたのも、この地域を大いに発展させた理由だったらしい。
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広重 名所江戸百景 びくにばし雪中 安政5(1958)年 「山くじら」とはイノシシの肉を使ったぼたん鍋のこと |
隅田川を渡ることが日常のケから、ハレの祭礼空間への移動でもあったのだろう。
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| 歌麿 両国花火 |
また、なにしろ徳川のもたらしたものが250年の平和と安定経済成長だっただけに、江戸の人々は武家も大商人も庶民も、ちゃんと働きもしただろうが、けっこう暇でもあったのだろう、大変な娯楽好きで物見高かった。
両国の見世物小屋が相撲興行の発祥の地なのは先述の通り、芝居小屋も立ち並び、八代吉宗が東南アジアからオランダ船に輸入させたゾウがいたこともある。そんな名残として今は回向院の北にあるのが、両国国技館だ。
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| 象志 享保14(1729)年 この前年にゾウが来日し京都経由で江戸に連れて来られた |
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伊藤若冲 象図
若冲は長崎から江戸への道中に京都に寄ったゾウを見ていたらしい |
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| 歌川国芳 二十四孝童子鑑 |
幕末の嘉永3(1850)年には、やはりオランダ経由で日本に初めて輸入された生きた虎も両国で展示されている。
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| 国芳 十月十日西両国於広小路御覧入候 嘉永3(1850)年 |
こうも新しい物好き・珍しいものに目がないのが江戸庶民なると、この3年後のペリー来航への反応も一般に思われて来たのとはかなり違ったことが想像される。
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| 国貞 東都両国橋 川開繁栄図 安政5(1858)年 |
というか、実際に庶民はむしろ興味津々だったし、それは幕府の中間官僚も同様だった。またその幕末に日本を訪れた欧米人から見ると、この一般レベルに広まった文化水準の高さが驚異でもあった。
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| 広重 名所江戸百景 両国花火 安政5(1858)年 |
日本では中世期にはすでに文書による記録やコミュニケーションが農村部にも浸透していたのが、家綱と、とくに綱吉が文化政策を重視して庶民層にも学問を奨励したこともあって寺子屋の数も激増、幕末時で約1万5000と推計され、識字率は半数を軽く超えていたと見られる。
当時の世界では、群を抜く教育水準の高さだ。西欧では公教育制度が始まっていたが、英国ですら識字率は3割に満たない程度だったのが江戸市中ではほとんどの者が読み書きができ、貸本屋が大人気で、最低でも「論語」くらいの漢籍の素養はなければ読みこなせない滝沢馬琴の『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』のような大長編が、庶民向けに大ベストセラーになっていたのだ。
江戸の庶民文化は、こと戦後民主主義の文脈では、幕府の厳しい弾圧や検閲に苦しめられたかのようなイメージで語られがちだが(たとえば
喜多川歌麿が50日の手鎖の刑に処せられたこと)、そうした締め付けも時にはあったのは飢饉で財政危機になり治安も悪化した時の改革政策の一貫で一時的に行われた性格が強い。
たとえば罪人の墓は作ってはならない禁制はあったが、人気の大泥棒・鼠小僧次郎吉は、ちゃんと墓が回向院にある。墓石に記された俗名を「次良吉」と一字変えただけで、お咎めはなかった。
ちなみに鼠小僧こと中村次郎吉は「どこにでも忍び込める」という縁起担ぎや、博打に強かったという伝説から、墓石を削ってお守りにすることが流行した。
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| 回向院に葬られた人気の盗賊 鼠小僧の墓 |
墓石がなくなってしまっても困るので、回向院では削って持ち帰るための「お前立ち」の墓石を設置している。
ただし記録に残る自白では、実際の中村次郎吉は博打に強かったどころか、大名家から盗んだ膨大な金は博打でスッてしまったらしく残金はほとんどなかったらしい。
直接に同時代の武家を批判するのはさすがにタブーだったが、『仮名手本忠臣蔵』のように時代設定を形だけ「太平記」の南北朝時代に移し、吉良上野介を
高師直にするだけで、問題にはされなかった。
文楽人形浄瑠璃は、現代では近松門左衛門らの世話物がポピュラーだが、江戸時代にむしろ人気があったのは『仮名手本忠臣蔵』や『一谷嫩軍記』『義経千本桜』『妹背山女庭訓』などの歴史もので、テーマはずばり、忠義や徳を道徳とする武家社会の倫理の矛盾がもたらす悲劇だった。
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| 喜多川歌麿 忠臣蔵七段目 |
つまり江戸時代の大衆文化は体制批判の色彩が濃かったのだが、そのことだけが注目に値するわけではない。
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| 北斎 仮名手本忠臣蔵 九段目 |
南北朝時代に舞台を移した『忠臣蔵』にせよ、源平合戦に取材した『千本桜』『嫩軍記』にせよ、歴史を知らなければ理解できない内容だし、『妹背山女貞訓』に至っては大化の改新、古代史が題材だ。
たとえば徳川家の嫁入り道具には「源氏物語」のモチーフを用いるのが慣例になっていた。「源氏物語」が武家の基礎教養になっていたからだ。
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野々村仁清 色絵紅葉賀図茶碗 17世紀 『源氏物語』で光源氏が父の帝に対面する場に基づくがあえて 人物は描かない留守文様、読解は見る者の教養に任されている |
菖蒲田に互い違いの板橋を渡す「八ッ橋」が、東京に残る大名庭園だけでも小石川後楽園(水戸徳川家上屋敷)や江戸城二ノ丸庭園、明治神宮御苑(かつて加藤清正などの大名の下屋敷があった)などなどに見られるのも、平安貴族でプレイボーイ歌人の在原業平の放浪を描く「伊勢物語」も基礎教養になっていたからだ。
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| 伊勢物語 嵯峨本(17世紀の手彩色版本) |
こうした洗練された戯れと遊びの文化の精神的な豊かさがもっぱら貴族の専有物だった平安朝とは異なり、中世後期・室町時代にはすでに文字コミュニケーションが庶民レベルで普及していた日本では、江戸時代に入ると文化的に高いレベルの教養を盛り込んだ娯楽が、まず財力をつけた商人から、ほどなく庶民層にも浸透して行った。
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| 鈴木春信 見立て伊勢物語・八ッ橋 18世紀(浮世絵版画) |
そんな文化教養趣味が爛熟かつ庶民化もしていた巨大都市・江戸で、上野は春なら桜の名所、夏には不忍池に蓮が咲き、秋には紅葉が境内を彩り、冬には雪景色を楽しむ場でもあったことが、数々の風景浮世絵からも分かる。
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| 鳥居清長 不忍池の花見 |
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広重 東都名所 上野不忍蓮池
左手に弁財天 右奥に寛永寺の巨大な中心伽藍が描かれている |
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| 戦時中には水を抜き水田になって稲が栽培された 蓮は戦後に植え直されたもの |
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| 渓斎英泉 東都花暦 不忍蓮 |
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| 入母屋造りの弁天堂は戦災で焼失、現在の六角堂は昭和33(1958)年の再建 |
不忍池自体が琵琶湖の見立てだったのはすでに述べた通りだが、秋には落雁、つまり渡り鳥の飛来が風物詩になったのは、「江戸八景」ないし「東都八景」のひとつとしてだ。
中国大陸で10世紀に北宋で名勝とされた洞庭湖の瀟江、湘江近辺の瀟湘八景(瀟湘夜雨、平沙落雁、煙寺晩鐘、山市晴嵐、江天暮雪、漁村夕照、洞庭秋月、遠浦帰帆)が、南宋の文人画の強い影響下にあった
日本の禅の山水画に取り入れられ、室町時代から江戸時代初期には狩野派などの定番の画題にもなっていた。
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| 相阿弥 瀟湘八景図 大徳寺大仙院 室町時代16世紀 |
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| 狩野松栄 瀟湘八景図 大徳寺聚光院 礼の間障壁画 永禄9(1566)年 |
その瀟湘八景に当てはまるものを日本国内に見立てたのが、たとえば近江八景(琵琶湖周辺・現在の滋賀県)だ。
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| 広重 近江八景之内 唐崎夜雨 |
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| 同・石山秋月 右奥に見える瀬田の唐橋も近江八景のひとつで「瀬田夕照」 |
家康がいわばなにもなかったところに新たに江戸を開くと、上方への憧れもあってこの「八景」を当てはめたのが江戸八景や東都八景、江戸近郊八景、今の神奈川県横浜市内の金沢八景などだ。
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| 同 小金井櫻夕照 |
江戸百景や東都百景では、東叡山界隈では不忍池が「落雁」、夕暮れどきの鐘の響きを意味する「晩鐘」には寛永寺の時の鐘が当てられることが多い。
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寛永寺の入り口だった三枚橋は現代の上野四丁目交差点にあった
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| 上野四丁目交差点にある旧町名「三橋町」の説明 |
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| 上野晩鐘 現役の鐘は天明7(1787)年 鐘楼は大仏の近く 現在は上野精養軒の隣にある |
現代の上野公園で雪景色を見ることはめったにない。
いかに江戸時代には今よりも平均気温は低めだったとはいえ、江戸が豪雪地帯であったわけもあるまいが、それでも上野の雪景色を描いた風景浮世絵が多いのは、江戸時代の人々にとってここが珍しい雪景色を楽しむ場でもあったからだろう。
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広重 名所江戸百景 湯しま天神坂上眺望 かつてはここから不忍池と寛永寺が見えた |
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| 広重 銀世界十二景 上野東叡山 文殊楼(手前)とにない堂、根本中堂 |
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| 上野東照宮 唐門と拝殿 慶安4(1651)年 |
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| 寛永寺清水観音堂 寛永8(1631)年 |
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| 月の松は平成の復元 辯天堂は戦後の再建 |
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| 広重 東都雪見八景 上野東叡山不忍池 左奥に根本中堂などが見える |
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| 明治初期の不忍池辯財天 戦災で焼失(東京国立博物館蔵) |
近代日本最初の都市型公園となった上野には、今でも博物館や美術館、それに動物園もあるし、最近では東京都が「ヘヴン・アーティスト」と呼んで公認推奨している大道芸も盛んだ。
その意味では、上野の山が江戸時代から保って来た、エキゾチックでもの見高い日本人を引きつける魅惑の祭礼空間としての役割は、確かに継承されている。
だがよく見れば台東区や東京都が、随所に歴史文化遺産の解説の看板を建ててくれてはいるものの、注意して探して気付いて読まない限り、その場その場の歴史的な意味はまったく意識されないだろう。
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| 上野東照宮 お化け燈籠 寛永8(1831)年 佐久間勝之の寄進 高さ6.06m |
無理もない。江戸時代にさかのぼる上野の繁栄の歴史的な背景が、ほとんど知られていないのだ。
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| 四季折々の花鳥で飾られた上野東照宮の透塀 |
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| 「活彩色」つまり金箔を貼った上から彩色している |
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| 上野東照宮の社殿と透塀は2015年に修復作業が完了した |
その宗教的な意味合いも、文化的なDNAの潜在意識レベルで上野が今も文化の香りもする娯楽の場、人が集まり珍しいものを見て楽しむ所であり続けていることくらいでしか残っていない。
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| 上野東照宮 透塀 慶安4(1651)年 |
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| 下の段には様々な海や川の生き物 |
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| 上野東照宮 本殿 慶安4(1651)年 |
現代ではパンダこそが上野に祀られたカミなのかも知れない。ちなみに明治時代に人気を集めたのはキリンとゾウだった。動物のキリンがキリンと呼ばれるようになった(和名が「キリン」になった)のは、英語で giraffe と呼ばれていた珍獣をぜひとも輸入して来園者を増やす切り札にしたいと思った上野動物園が、予算を得るためにこれが霊獣の「麒麟」の本物だと言って、いわば政府を「騙した」からだったりする。
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| 自証院霊屋 慶安5(1652)年 左の像は吽形 右が阿形 |
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| 戦災で焼失する以前の不忍池弁財天の装飾彫刻 |
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| 護国寺 本堂 象と獅子の彫刻 元禄10(1697)年 |
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| 日光東照宮 仁王門(裏側) |
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| 輪王寺大猷院殿霊廟 夜叉門 |
麒麟も象も、龍や獅子、狛犬と同様、仏教とともにその姿や概念が中国から伝わった霊獣で、実物は見られなくとも広く親しまれて来たものだった。
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| 伊藤若冲 鳥獣花木図屏風(右隻) |
上野といえば花見と動物園で、徳川の菩提寺の寛永寺があったという知識くらいはふと思い出すことがあったとしても、根本中堂がどこにあったのかなどは考えもしないのも、徳川の築いた都市・江戸という記憶がほとんどなくなってしまった現代の東京では、当たり前ではある。
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| かつての寛永寺の参道は「さくら通り」になっている |
もともとほとんど知られていない、教わってもいないどころか、むしろその歴史は隠されて来たのだ。
そうは言っても公園の中心の大噴水広場が、高さ32mの巨大な根本中堂の跡地であることも誰も知らないというのは、なんとも奇妙な感覚にはなる。
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| 東京国立博物館庭園 元は小堀遠州作庭の寛永寺本坊庭園 春 |
東京国立博物館の庭園は、春の桜と秋の紅葉の季節に公開され、申し込めば茶室の利用も出来る。
だが歴史や過去の日本文化への興味から博物館に来ているはずの見学者ですら、そこが元は寛永寺本坊庭園であったことはまず知らない。
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| 寛永寺旧本坊表門 寛永2(1625)年 |
なによりも、慶應4(1868)年の戊辰戦争で上野が幕府軍と新政府軍の激戦で焼け野原になっていたこと自体が、日本人の集団的な記憶からは抹消されている。
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| 清水観音堂に掲げられた上野戦争の絵馬 |
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| 右下の黒門から観音堂に駆け上がる洋装の軍服の新政府軍 左下に吉祥閣 |
その理由のひとつは、分かり切ったことだ。近現代の、我々の歴史観が、勝者・明治維新政府の正当化のために書き換えられた歴史だからだ。
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| 清水観音堂に飾られた上の戦争当時の、佐賀藩で作られた国産の砲弾 |
だからこそ、上野が徳川の聖地であった記憶と、その歴史や伝統文化が上野戦争で新政府軍に破壊された史実は、「恩賜」つまり天皇家と、明治維新最大の英雄・西郷隆盛のイメージに隠蔽されて来たのだろう。
「恩賜」公園つまり天皇家から東京市民に「下され、賜った」と言うが、元を糾せば新政府が上野戦争で焼き払って破壊した寛永寺から没収した土地ではないか。
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| 上野戦争後の焼け跡と思われる明治初期の写真 |
新政府軍に焼き払われたあとの寛永寺は廃寺も取りざたされ、復興がやっと認められたのは明治12年になってだった。川越の喜多院は天海が住職を務めたこともあり、また徳川との所縁も深く(喜多院には家光が寄進した江戸城本丸御殿の一部が移築されているし、
仙波東照宮もある)、その本地堂をもらい受けて移築改築して新たな根本中堂とした。
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| 寛永寺 現根本中堂 旧 川越喜多院本地堂 |
とはいえ再建が許された場所も、あたかもなるべく人目につかないようにするためか、子院の大慈院だった敷地だ。
上野をどうするのか、明治政府内ではさまざまな案が検討され、軍の練兵場にするとか、病院にする計画もあった。
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明治維新時の所有区分を示した図面 焼失していた寛永寺伽藍も書き込まれている 本坊は陸軍 根本中堂跡など境内の中心は文部省 東照宮と徳川霊廟は徳川家に帰属 |
寛永寺の焼け野原を都市公園とすることを提案したのは、その病院計画を任されるはずだった御雇い外国人のオランダ人医師だった。
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三代歌川広重 上野公園内国勧業第二博覧会美術館并猩々噴水器之図 明治14(1881)年 ジョサイア・コンドル設計の初代東京国立博物館本館 |
西洋人に言われたことには弱いのが、重度の西洋コンプレックスに苛まれていた明治政府だ。明治5年に公園整備が始まったが、現代につながる上野公園のにぎわいのきっかけになったのは、征韓論で政府を去った西郷が西南戦争を起こしたのと同じ明治10(1877)年に、内務卿の大久保利通が上野で内国勧業博覧会を開かせたことだった。
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| 大正時代 第一次大戦後に上野で開かれた平和記念東京博覧会 |
こうなると、なぜパンダ以前は西郷さんが上野のシンボルだったのか、ますます分からなくなる。大久保だったらまだ納得も行くのだが。
だが大久保の目指したのが
伝統産業を基盤に大量生産技術を導入した民生・軽工業中心の産業革命の、輸出立国による日本の近代化だったことを考えると、これも勝者の政治の都合による歴史の抹消・隠蔽の一例として理解できる。
大久保は第一回博覧会(と西南戦争)の翌年に不平士族に暗殺され、元々その先見性ゆえの独断専行に長州閥からの反発が大きかった明治政府は、大久保がマスタープランを作った民生主導・軽工業基盤の平和的で現実主義的な近代化から、
軍事力強化の「富国強兵」を睨んだ重工業国家化へと、政策を大きく変えることになる。
19世紀末の重工業先進国といえば、原料資源と製品の市場を求めて必然的に植民地侵略に向かうものだ。大久保が暗殺されたあとの政策転換で日本が結局は辿ってしまった道の行き着いた果てについては、今さら言うまでもあるまい。資源と市場を求めた植民地侵略路線は日清日露の両戦争に勝利で決定的になり、征韓論つまり朝鮮半島支配ですら飽き足らず、石炭や鉄鉱資源を求めて満州に進出、それを提案して政府を追われたはずの西郷の唱えた対外進出・大陸侵略の野望を鮮明にしてゆく。寛永寺が大仏を供出させられ、将軍家霊廟や不忍池の辯天堂が焼失したのも、いわばその必然的な結果だった。
歴史を振り返れば、豊臣政権もまた短命に終わったのは、朝鮮出兵(…と言うか秀吉は明まで征服すると言っていた)の失敗が大きい。この大暴挙があったからこそ豊臣家は人心を失い、家康が台頭して絶対平和主義の、民衆を大事にして平和的な手段で国を富ませる幕府体制を敷くことになった。
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秀吉が朝鮮侵攻で首の代わりに持ち帰えらせた朝鮮人の耳を弔う耳塚 かつての方広寺門前 現在は豊国神社の前 |
近代日本の政府が、徳川が江戸庶民にはやさしい政権でそれなりに人気があったことも、大久保が日本の近代化の別のあり方を示そうとしていたことも、隠そう、国民に忘れさせようとしたのも、自然と言えば自然な流れではあった。
だからこそ、明治以降の近代日本は、単に徳川幕府を倒して政権を得たからだけでなく、国家とその統治理念の上でも、徳川250年の平和を否定しなければならず、徳川の聖地だった上野をそのまま残すわけにはいかなかったのだろう。
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| 高村光雲 西郷隆盛像 明治31(1898)年 |
そんな何重もの国民に忘れさせたい歴史を封じ込めるために必要だった神話化の効果を発揮し得るのは、西南戦争で逆賊として死にながらも根強い人気を誇り、相当に暴力的でこっそり対外侵略路線の元祖であったことはなぜか誰も気にせず、江戸城を無血開城させた徳の高い英雄(ただし上野は焼け野原にした)と言われた西郷だったのだろう。
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| 結城素明「江戸開城談判」神宮外苑・聖徳絵画館 |
もっとも、西郷隆盛と幕府側の勝海舟の英断で江戸が戦火から救われたというのも、たぶんに明治以降に歪められた見方だ。
孝明天皇と信頼関係にあった十五代慶喜は、その天皇が急死して少年の明治天皇を擁する西郷や大久保利通、岩倉具視らが朝廷を牛耳り混乱する政局を打開するために大政奉還を宣言、譜代・外様の違いを問わず大物の大名が重臣として参加する合議制の公武合体の新体制に平和裏に移行することを狙っていた。これが実現されていたら、薩長の急進的な武力倒幕派の下級武士たちは、政治権力の中心から弾き出されていただろう。
そこで出世の見込みが閉ざされる下級武士たちは、少年の明治天皇に王政復古の大号令と、慶喜を朝敵として征伐する勅令を出させたのだ。
鳥羽伏見の戦いで天皇家を表す錦の御旗が掲げられたことを知った慶喜は、大坂城の攻防戦で重要な経済都市だった大坂が戦場になり、さらには内戦が全国に拡大するのを避けるため、即座に大坂から海路で江戸に戻った。
江戸城の籠城戦を避けるため、慶喜は主戦派の重臣を解任すると寛永寺に直行、大慈院の一隅(現在の根本中堂の裏)の葵の間に謹慎蟄居して「朝敵」としての処罰に甘んじて受け入れる姿勢を鮮明にした。普通なら、これだけで江戸城総攻撃などなくなっていたはずだ。
だが新政府軍がそんな素振りもまったく見せないまま東に進撃するなか、江戸城の主となったのは薩摩藩・島津家の養女として13代家定に嫁いでいた篤姫(天璋院)と、孝明天皇の妹で14代家茂に嫁いでいた和宮だった。
和宮は先の天皇の妹としての人脈を活かして朝廷や公家に働きかけ(東征軍の名目上の総司令官は和宮の元の許嫁だった有栖川宮)、天璋院は新政府軍の事実上の総司令官で武力倒幕論の急先鋒だった西郷が、自分の輿入れの際の随行の1人だったことに目を付けた。
和宮が江戸の住民を巻き込んだ戦闘を避けるよう訴えた書状が宮内庁書陵部に保存されており、天璋院が西郷の出世を褒めてうまく持ち上げつつ、戦争回避のみごとな説得を展開した長文の書状も近年発見されている。
勝海舟と西郷は、篤姫と和宮の、江戸市民を守ろうという強い意思と巧みな裏工作のお膳立てがあった上で面談したのであって、江戸の街と庶民に大きな犠牲を出したであろう陰惨な戦闘が避けられたのは、勝と西郷という男たちよりも、この徳川の妻たちの力だ。
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| 天璋院篤姫(1836-83) |
明治初期を生き抜いた篤姫の墓所は、寛永寺の常憲院殿霊廟奥ノ院の、夫・家定の墓のそばにある。夫婦が並んで葬られているのは将軍家の墓として異例だ。14代家茂は増上寺に葬られており、戦後に将軍の墓所が移設された際に和宮の墓もその隣に移されている。
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| 和宮親子内親王(1846-77) |
こうした徳川家の妻たちが活躍してこその江戸無血開城だったことが忘れられ、西郷隆盛と勝海舟という男たちの功績が神話化されて来たのも、明治がどういう時代だったのかを考えさせられずにはいられない。
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| 和宮が江戸に輿入れした際の牛車の記録 |
とはいえ江戸全体が戦場になることこそ避けられたものの、彰義隊が上野東叡山に立て籠ったのをいいことに、新政府軍はそこに火を放ち、徳川がなんだかんだで庶民に親しまれて来たことの精神的な中枢の寛永寺を破壊しただけではない。その暴力的なやり方は、東北の、徳川親藩や恩顧の諸藩への攻撃ではさらに徹底された。
戊辰戦争の惨禍の以前にも、京都では長州藩が元治元(1664)年の禁門の変(蛤御門の変)を起こす前の景気付け(?)で嵐山の天龍寺などを焼き討ちし、この武力クーデタ未遂が松平容保と西郷の指揮する薩摩軍に鎮圧されて敗走する際に市街地に放火、甚大な被害を出している。今日の京都市の中心市街に明治以前の建物が以外と少なかったり、老舗といっても明治以降創業の店が案外と多いのはこの長州の放火のせいだ。
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| 寛永寺清水観音堂 寛永8(1631)年 |
禁門の変を鎮圧したのが京都守護職で会津藩主の松平容保だったので、新政府軍には会津への逆恨みもあったのかも知れない。また上野戦争で美しいものを破壊する快感に「味をしめた」こともあり、会津藩への攻撃はとりわけ凄まじいものだった。
だがこの会津戦争のあまりものひどさも、福島県以外ではほとんど知られていない。
会津松平家は、四代家綱の代に徳川の治世が戦国時代の雰囲気が残る武断統治から、平和と武家以外の町民・農民の安定した生活を守ることを最優先する文治政治に転換する方針確定に決定的な役割を果たした、あの保科正之の家系である。
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内陣の前には観音経から取られた「慈眼視衆生」 観音菩薩が慈しみの眼であらゆる生命を見つめているとの意 天海の諡号「慈眼大師」もこの一節から取られている |
首だけが残った上野大仏が「これ以上は落ちない」というシャレで「合格大仏」になっていることを、寛永寺の関係者はより深い意味を込めて語る。
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上野大仏 天保14(1843)年の改鋳修理の頭部のみ現存 唇に朱の彩色、頬に金箔の痕跡が残る |
「“敵” にこれ以上はないというほどひどく扱われて来た」というのは、その “敵” によって日本そのものが存亡の危機に陥り、寛永寺が空襲で将軍家霊廟と辯天堂を失っただけでない。僧侶達は周囲の上野がほとんど焼け野原になり多くの死者が出たことも、傍観するしかなかった。
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| 2016年夏、大仏の顔の上に屋根が設けられた |
歴代徳川将軍家のうち、最後の将軍となった十五代慶喜のみ、埋葬は神道形式(というのは明治以前にはなかった新しい風習)で行われ、その墓所は谷中霊園の東京都所轄部分にある。
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| 谷中霊園 徳川慶喜とその妻の墓 |
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| 徳川慶喜の墓 |
かつては谷中の天王寺の手前までが寛永寺の寺領で、今の谷中霊園にも将軍以外の徳川家の人々の墓所や霊廟があった。
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| 谷中霊園のなかにある徳川家の墓所 |
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| 分家(御三卿)の田安家の墓 |
今でも谷中霊園の一部は寛永寺の管理 で、徳川家や徳川親藩の他、寛永寺やその塔頭の主要な僧侶、それに仙台の伊達家などの大名家の墓もある。
上野がもうひとつ、新政府にとって極めて都合の悪い場だった理由は、今でも上野東照宮つまり神社と五重塔つまり仏閣の一部であるはずのものの位置関係に、端的に見て取れる。
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この南面が五重塔の本来の正面 手前が東照宮参道 冊で区切られて上野動物園 |
五重塔は東照宮の参道横に建っているが、その境内と動物園の敷地が、鉄の柵で強引に区切られている。元はひとつの境内で、「旧寛永寺五重塔」と呼ばれているのは本来は東照宮の仏塔だった。
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| 上野東照宮 備前(岡山県)の御影石製の石造明神鳥居 |
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| 二代目広重 東都真景図会 上野東照宮 |
これも近代以降に日本人の記憶から抹消された、隠蔽された過去のひとつだ。神仏にさしたる区別をつけないのが本来の伝統で、今日「神道」と呼ばれる宗教はなく、仏教と一体化していた。
神社に仏塔があるのは普通のことだったし、神宮寺や経蔵などの仏堂も建てられ、むしろ神社と寺がワンセットなのが、日本の本来の信仰の形だった。
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| 比叡山・横川の良源(慈慧大師。元三大師)の廟所 霊屋の前に鳥居 |
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| 仏僧の廟所・墓所だが霊屋の後 墓の前にもさらに鳥居が |
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| 同じく横川 恵心僧都(源信)の墓所 やはり鳥居 |
逆に寺院にカミを祀る社があるのも当たり前で、上野の東照宮は寛永寺の一部だったし現に鳥居にも「東叡山」の東照宮と刻印されている。また惣門を入った右手の高台には総鎮守として山王権現社があった。逆に仏教の神であっても不忍池辯財天も江戸時代には鳥居があった。
ざっと例を挙げるだけでも東大寺の手向山八幡宮、高野山の四所明神、三井寺の十八明神社や三尾神社、日光山の二荒山神社などなど、ごく当たり前にカミを祀る社が併設されていたのが、日本の信仰文化の本来の姿だ。
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| 奈良・東大寺の総鎮守 手向山八幡宮 神門 |
古代から、寺院の立地に選ばれたのは、仏教伝来以前からの聖地・霊山だった場所だったのだろう。東大寺にしてもすぐ隣接して春日大社の奥ノ院である聖なる山の御笠山があるが、手向山八幡宮は東大寺の境内の地霊を抑える鎮守として天皇家の祖先神とされる八幡大菩薩(元は九州・宇佐の農耕神だったが応神天皇の神格化とされた)を迎えて祀ったものだ。
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| 手向山八幡宮 幣殿と本殿 |
逆の例が高野山の麓にある四所明神社、またの名を丹生都比売神社で、高野山の女神の丹生都比売大神(ニウツヒメノオオカミ)が男神の高野御子大神(タカノミコノオオカミ)に勧められ、空海を歓迎し真言宗の修行道場を造ることを許したとされる。さらに敦賀の氣比神社から大食津比売大神(オオゲツヒメノオオカミ)と安芸の宮島から厳島神社の3姉妹の祭神のうち市杵島比売大神 (イチキシマヒメノオオカミ)の二柱の女神が迎えられ、この四柱が高野山の守護神となった。
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| 高野四所明神図 室町時代16世紀 |
寺院の立地に選ばれた場所の多くは、仏教伝来以前からの霊山だったのだろう。日本最古の仏教寺院のひとつ四天王寺(大阪市)の立地は「日本書紀」によれば「荒陵」、つまり古墳だったと思われる。ここは
聖徳太子(厩戸豊聡耳王・厩戸王)と蘇我馬子に滅ぼされた物部守屋に関係する霊的な場所だった可能性があり(四天王寺はこの戦傷祈願で創建された)、元は物部氏の屋敷跡に建てられたという説もあるが、境内にはその守屋と弓削小連、中臣勝海(いずれも仏教伝来以前のカミ信仰の祭祀に関わっていた豪族)を祀った祠がある。
元々そこにいた地霊のカミガミへの対応として、四天王寺では怨霊をカミとして祀ることでなだめ、東大寺の場合には抑えるための鎮守として天皇家の祖先神が迎えられ、高野山の場合は元からの地霊・カミがそのまま寺院の守り神になったわけだ。
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| 輪王寺三仏堂とほぼ同時期に建てられた二荒山神社の拝殿 正保2(1646)年 |
日光山が修験道の聖地だったのも、男体山・女峯山・太郎山の日光三山への信仰は恐らくさらに古代に遡る。天台寺院となってからも二荒山神社と輪王寺は一体とみなされ、三仏堂の三尊並列の本尊である千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音はそれがそれぞれに男体山・女峯山・太郎山と同一視されて「日光三所権現」と呼ばれた。
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| 二荒山神社拝殿 奥の簾の向こうに本殿の正面扉が見える |
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| 全体が赤漆塗りの拝殿 神社が朱塗りなのも仏教寺院の様式を取り入れたもの |
寛永寺が比叡山延暦寺に倣った寺(だから東叡山、東の比叡)であったのは再三述べて来た通りだが、惣門の右手、今の西郷隆盛像が立つ当たりは山王権現社だったのも、叡山にも東塔から最澄の廟所である浄土院と西塔に向かう途中に、山王権現を祀る山王院がある。
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| 比叡山延暦寺内の山王院 |
それに上野でも日光でも東照宮は家康が「東照大権現」というカミになったので神社になっているが、上野東照宮ならば日光にある墓に代わって江戸で家康にお参りができる役割は、上野にあった家光の「御霊屋」の寛永寺大猷院殿とほぼ同じだ。増上寺の安国院殿霊廟となると江戸時代のあいだはずっと仏教の廟所で、芝東照宮と改称されて増上寺から切り離されたのは明治の神仏分離を受けてのことだ。
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| 上野東照宮 水舎門 寛永4(1627)年 |
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| 参道に並ぶ諸大名寄進の石灯籠 |
五重塔の帰属が上野東照宮から寛永寺に移されたのも、神仏分離令で取り壊しになるのを避けるためで、東京都に所有権が移ってもずっと「旧寛永寺五重塔」と呼ばれて来た。
その上野東照宮の拝殿正面の門扉には、仏法を象徴する法輪がずらりと並んでいる。
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| 上野東照宮 拝殿 慶安4(1651)年 |
法輪は日光東照宮にも随所に配されているし、こちらの境内には仏塔である五重塔が今も同じ境内にちゃんと立っている。
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| 日光東照宮 五重塔 |
神社である日光東照宮と仏堂の輪王寺大猷院殿では、上野東照宮と同じ「権現造り」の拝殿・幣殿・本殿を中心とする建物の構成はほとんど同じだ(色の使い方は
黒が多い大猷院殿が地味…ということになっている…はず)。
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| 輪王寺 大猷院殿 拝殿正面 |
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| 折り上げ格天井 狩野派による龍の天井画は東照宮を踏襲 |
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| 狩野探幽は日光東照宮と上野東照宮にも獅子の障壁画を描いている |
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| 拝殿より幣殿・本殿 |
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| 大猷院殿 拝殿 承応2(1653)年 |
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| 幣殿 左に拝殿 右に本殿(本堂) |
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| 本殿(本堂) |
逆に寛永寺や増上寺にあった徳川将軍の霊廟も、仏教施設であっても明治以降全国統一的な神社の構造として普及した権現造りだった。
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| 日光東照宮 唐門と拝殿 |
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| 君主の徳に関わる中国故事の彫刻がちりばめられた唐門 |
同じように権現造りの仏教寺院には、東京都内ならたとえば
雑司ヶ谷の鬼子母神(法明寺鬼子母神堂・今年重要文化財に指定)がある。
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| 流れ造りの本殿に後から幣殿と拝殿が追加された |
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| 本殿の正面の屋根の垂木 相の間と拝殿が後から追加されたことが分かる |
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本殿内部 折り上げ格子天井
広島藩主松平安芸守の正室による造営 |
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| 拝殿・幣殿を増設寺に奉納された幣殿内の懸仏 |
…と言うより、現代では神社の基本的な社殿構成と思われている「権現造り」は、そもそも「権現」は仏教概念だ。
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| 上野東照宮 本殿 幣殿 拝殿 慶安4(1651)年 |
寛永寺の僧侶は今でも家康を「権現さま」と呼ぶ。輪王寺と二荒山神社が一体化した日光山は日光三所権現で、東照宮はその霊山・聖地に建てられたのだし、神仏分離令で改称されるまでは根津神社は「根津権現」で、浅草神社は「三社権現」、奈良の春日大社なら「春日権現」ないし「春日大明神」が本来の名称だ。いずれも仏教的な世界観に組み込まれた位置づけでの日本のカミガミへの信仰なのだ。
日本人本来の意識のなかでは、「神仏習合」どころでは済まないどころか、むしろこの言い方も発想が逆なのかも知れない。神仏は元から漠然と同じもので、仏教の伝来でカミガミへの信仰がその一部に取り込まれて来たのが、日本の本来の信仰の形だったのではないか?
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| 西陽の照り返しがまばゆい本殿背面の擬宝珠 |
そこを仏と神を無理矢理に分化して「神道」なる事実上新たな宗教を作ろうとしたのが、明治維新政府の断行した神仏分離令と、仏教排斥の廃仏毀釈運動だった。
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上野戦争を焼け残った東照宮の五重塔は 廃仏毀釈の破壊を避けるため寛永寺に移管された |
天皇の祖先神になる天照大神(アマテラス、伊勢神宮)を最高神とする「国家神道」という、いわば明治起源の新しい宗教の誕生以前には、天皇家もずっと仏教に帰依し、日本の仏教史のなかで大きな役割を果たして来た。多くの天皇は退位後に出家して法皇となり、宇多法皇の仁和寺、嵯峨天皇の離宮が寺になった大覚寺、亀山法皇創建の南禅寺のように、天皇・上皇が作った寺院も多い。
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| 寛永寺旧本坊表門 寛永2(1625)年 |
寛永寺と日光山輪王寺が門跡寺院だった、つまり皇族がそのトップを務めて来たことも、繰り返し述べて来た通りだ。
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| 門跡寺院つまり皇族が住職を務めたので菊紋が配されている |
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| 寛永寺と日光山双方の往事を務めたのが「輪王寺宮」 |
江戸では他にも西本願寺系の築地本願寺、東本願寺系の浅草本願寺が築地門跡、浅草門跡だった。
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| 日光山輪王寺の本坊表門(黒門)には金の菊紋 |
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| 輪王寺 本坊表門 江戸時代中期 重要文化財 |
飛鳥時代の
厩戸豊聡耳王(聖徳太子・厩戸王)は、明治の皇国史観以前は仏教の重要な信仰対象だった。斑鳩・法隆寺の東院伽藍(太子の屋敷があった斑鳩宮跡地)夢殿の救世観音像や、法隆寺のすぐそばにある中宮寺門跡の菩薩半跏思惟像は、共に太子の生前の姿を写したものだと伝承されている。
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中宮寺門跡(奈良・斑鳩)本尊 如意輪観音半跏思惟像 飛鳥時代7世紀 聖徳太子の写し身として信仰されて来た |
半跏思惟像は通常は弥勒菩薩を表すが、中宮寺では如意輪観音として伝えられて来ているのも、太子が観音菩薩の生まれ変わりとみなされて来たからだ。今日でも四天王寺では、聖徳太子像を「本地・如意輪観音」として祀っていし、太子は天台宗や浄土真宗などでも信仰対象だ。こうした太子信仰はその没後まもなくか、息子の山背大兄王が蘇我氏に滅ぼされてまもなくにまで遡るのだろう。
公的な歴史で厩戸王が聖徳太子として政治的に神話化されるのは「日本書紀」の記述に基づくが、その文面を見る限りでは実際の政治的な役割ははっきりしない。いかにも中国儒教的な十七条憲法は飛鳥時代の文章とは考えにくく「日本書紀」成立期のものだろうし、それ以外では推古帝に法華経の解説を講義したことくらいしか、とくに太子の業績として記述されたものはなく、遣隋使の派遣などの政治決定は推古天皇のやったことだ。
おそらく太子が本当に果たした歴史上の役割は、推古朝における仏教の導入普及に関することで、没後まもなく仏教的な信仰対象になっていたのを、「日本書紀」が踏襲して政治にも関わった(「摂政」)ことにしたのではないか。
なお中宮寺も門跡寺院になり、ながらく内親王(皇女)が住職を務める尼寺だった。
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| 明治21年文化財調査写真 撮影 小川一真 |
平安時代に密教が導入されると、日本のカミガミは理論的にもその体系化された世界観に組み込まれ、「本地垂迹」つまり如来や菩薩が日本の衆生の救済のために現れた姿、その「権現」とみなす教義化がなされる。
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小島荒神図 室町時代15世紀 土着神だが密教の法具を持って表されている |
今日でもチベット密教の転生仏・活仏信仰(たとえば今のダライ・ラマはダライ・ラマとして14回目の転生、観音菩薩の生まれ変わりとしては32世になる)がよく知られているが、同じような考え方で仏が日本のために聖徳太子になったり、カミとして衆生救済のため現世に現れる、その日本限定のカミとしての姿が「権現」で、その本来の仏を本地仏と言う。
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| 日吉山王本地仏曼荼羅 鎌倉時代14世紀 霊雲寺蔵 |
たとえば日光山(三所権現)は男体山・女峯山・太郎山の三山がそれぞれ千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の権現とされ、だから男体山の別名「二荒山(ふたらさん)」は観音浄土の普陀落山(ふだらくさん)が訛ったものだという説もある。また「日光」も一説には「二荒」を「ニコウ」と音読みしたのが語源なのだそうだ。
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春日宮曼荼羅 鎌倉時代 南市町自治会蔵
下から一の鳥居 左に東大寺 春日権現と若宮 その上 御蓋山の中腹に本殿四柱と若宮の本地仏が並ぶ |
あるいは春日権現社(現 春日大社)なら本殿第一殿の武甕槌命(タケミカヅチ)は釈迦如来ないし不空羂索観音を本地仏とし、第二殿の経津主命(フツヌシ)は薬師如来、第三殿の天児屋根命(アメノコヤネ)は地蔵菩薩、第四殿の女神、比売神(ヒメガミ)は十一面観音で吉祥天の姿をとることもあるとされ、また若宮の天押雲根命(アメノオシクモネ)は文殊菩薩と同一視されて来た。
「権現造り」の構造は、こうした本地垂迹説の「権現」の考え方を反映したものだ。
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| 根津権現 拝殿 宝永3(1706)年 卍やゾウ、獅子はいずれも仏教の意匠 |
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| 権現造りの拝殿から本殿を見る |
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| 根津権現(根津神社)本殿 宝永3(1706)年 徳川綱吉造営 |
カミがそこにいるとされる本殿を直接拝むのではなく、その前に拝殿があり、本殿に宿るカミが拝殿によって表象される。
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| 豊臣秀頼造営 北野天満宮拝殿 慶長12(1607)年 |
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| 北野天満宮 手前より本殿 拝殿 西の楽の間 |
京都の北野天満宮や日光東照宮ではそのあいだの地面を屋根と壁で覆った「石の間」でつながれており(東照宮では現在は石の間も畳敷き)、また浅草の三社権現(現 浅草神社)では、本殿と拝殿は渡り廊下状の床で繋がれているが柱と屋根しかない。
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| 三社権現(浅草神社)拝殿 慶安2(1648)年 徳川家光造営 |
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| 拝殿の後側の扉を開けた状態 奥に幣殿と本殿が見える |
権現造りの完成形では、屋根も壁も床もある幣殿(相の間)でつながれることで、分離されると同時に一体にもなっている。
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| 上野東照宮 奥に拝殿 左に幣殿 本殿 |
神仏分離令以前には、カミを祀る社に本地仏、つまりそのカミの本来の姿とされる仏像があるのも普通だったし、優れた仏像も多かった。
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薬師如来座像 9世紀平安時代(国宝 奈良国立博物館) 京都東山・若王子社の本地仏 神仏分離令で流出後 国に買い取られた |
それが神仏分離と廃仏毀釈運動で真っ先に標的にされ、多くの仏像が破壊されたり、海外に流出している。今日、美術館・博物館の収蔵品になっている仏像の多くが神社の本地仏だったり、神社内の仏殿(神宮寺)が破壊され、安置される場所がなくなったものだ。
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| 上野東照宮 本殿 |
上野東照宮にもかつては薬師堂があり、薬師瑠璃光如来像が本尊として祀られていた。
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| 薬師瑠璃光如来 日光菩薩 月光菩薩 旧 上野東照宮本地仏 |
神仏分離令でこの薬師堂は取り壊され、薬師瑠璃光如来立像と脇侍の日光・月光二菩薩も東照宮から追い出されて寛永寺が引き取り、部材の一部は新しい根本中堂の増改築に用いられた。本地仏の三尊は昭和42年以降、かつて大仏と大仏殿のあった丘の上のインド風の仏塔(大仏パゴダ)に安置されている。
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昭和42年に大成建設の寄進で建立されたパゴダ 東照宮の本尊だった薬師三尊を安置する |
高野山の奥ノ院にある家康の霊廟(安国院殿)にも薬師堂が付随しており、また日光の東照宮では薬師堂は破壊されなかった。全国の神社で本地堂が残されているのは極めて珍しい(国の重要文化財)。
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| 日光東照宮 薬師堂(本地堂) 寛永13(1636)年 |
むろん東照宮の一部として造られたものだが、現在ではその帰属が輪王寺と東照宮のあいだで曖昧なままで、東照宮境内にあるが輪王寺の僧が管理している。
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| 東照大権現として神格化された家康の像 17世紀 |
上野の大仏殿があった丘の裏手、上野精養軒のそばには今も寛永寺の鐘楼があり、「時の鐘」が午前と午後の6時と正午に時を告げている。かつて江戸市中の標準時刻を報せていた鐘だ。
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| 寛永寺 時の鐘 江戸市中に時を告げるのも寛永寺の役割だった |
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| 明治初期の時の鐘 上野戦争による寛永寺の破壊後まもなくの彩色白黒写真 |
明治維新で1人の天皇の在位期間中はひとつの元号になり、太陽暦が採用されるまでは、元号を決めることと、農業が基幹産業であれば決定的に重要だった暦を定めて毎年発行することは朝廷、天皇のみがその権限を持っていた。
つまり空間を支配し政治的に統治するのは将軍家の役割でも、時間を支配し続けていたのは天皇であり、その天皇が象徴的に支配する時間を報せる役割として鐘を鳴らすのも仏教寺院の役割だったのだ。
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| 上野東照宮参道の石灯籠 天台宗中興の祖・良源(慈慧大師・元三大師)の紋 |
天皇の祖先神の天照大神を最高神とする「神道」として明治政府が仏教から切り離した「国家神道」を創始した(というか、でっち上げた)ことは、こうした天皇家の伝統を強引に、本来なら強い結びつきがあった仏教から分断することでもあった。
神仏習合がまったくの当たり前で意識すらされなかったのが、近現代の日本人のほとんどには逆に奇異に見えてしまい、わざわざ「神仏習合」と言わなければ理解出来ないほどに、日本人の信仰意識が暴力的に変えられた契機が、明治維新の神仏分離と廃仏毀釈だった。
こうして出来上がった近現代の「神道」で、我々が伝統だと思っている礼拝形式は、ほとんどが一部の寺社の風習を明治政府が全国的な統一規則にしたか、明治時代に新たに作り出されたものだ。天皇が行う宮中祭祀でさえ、ほとんどが明治以降に「復元」というか要は新しく作ったものだし、神社に神主や白小袖に赤袴の巫女さんがいるのも、江戸時代までは仏教僧の別当がいた(そもそもあの衣装は一定の身分格式以上でないと着られなかった)。
寛永寺のような門跡寺院の宮門跡・法親王も廃止され、天皇家の菩提寺の泉涌寺は多くの天皇の墓所でもあるためさすがにそのまま残されたものの、その重要性からすれば意外なほど、未だ知名度は低い。
かつて大きな寺院には必ず、時に複数あった鎮守の社も多くが移転させられたり、廃止されたりした。
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三井寺南院の鎮守・三尾神社は神仏判然令で境内から移転された 鎌倉時代の本殿は移設されたもの 拝殿と透塀は明治以降 |
神社内の神宮寺や仏塔や宝塔は各地で撤去させられ、上野東照宮の薬師三尊のような本地仏は居場所を失った。仏塔である五重塔と本地堂の薬師堂が残っている日光東照宮は極めて希有な例だ。
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| 日光東照宮には経蔵(輪蔵)もある 寛永13(1636)年 |
五重塔が残されただけでも、上野東照宮と寛永寺はまだ運が良かった方なのかも知れない。
たとえば鎌倉の鶴岡八幡宮では、明治に仏塔・宝塔などの仏閣様式の建造物をすべて取り壊し排除する境内の大改造が強行され、「八幡大菩薩」だった神号も「八幡神」に変えられてしまった。戦のカミとして神格化された第十五代応神天皇は菩薩の称号で呼ばれ、神像も仏僧の姿(僧形八幡)が普通だった。
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| 僧形八幡神坐像 国宝 薬師寺 平安時代寛平年間(889~898) |
本来は江戸から全国に広がる街道口にあった江戸六地蔵のうち、千葉街道に通じる深川の永代寺にあった銅造の大きな地蔵尊が今では街道口となんの関係もない寛永寺塔頭の浄名院(へちま寺)にあるのも、永代寺が富岡八幡宮に併設された寺院で、神仏分離令に基づき廃寺となったからだ。
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かつて深川八幡の神宮寺・永代寺にあった地蔵菩薩 江戸六地蔵のひとつ 現在は東叡山の子院浄名院境内に安置 |
八幡大菩薩は天皇(十五代応神帝)の神格化とみなされただけに、政府が天皇中心の国家神道という新しい国家宗教を作ろうとする中で、仏教要素の排除がとくに徹底されたのかもしれない。
明治政府はさらに、日露戦争後には全国で神社の合祀と廃止も命じた。自然のカミを祀った社は人格のある(古事記・日本書紀に書かれた)カミの神社に統合され、鎮守の森が伐採されて農地として売り払われた。西洋の教会は木で囲まれたりはしていないではないか、ということだったらしい。
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| 加茂御祖社(下鴨神社)糺ノ森 |
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| 糺ノ森 奈良殿神池 |
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御手洗池と井上社
加茂御祖社(下鴨神社)は元は賀茂川の水を神格化した神社 |
日本のカミ信仰の起源は言うまでもなく、自然神信仰(アニミズム)であり、山や川、森や林や巨岩こそがカミの宿る場であるのが本来なのに、あまりに馬鹿げている。
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賀茂御祖社(下鴨神社)の現在の主たる社殿は 三代家光による寛永5(1628)年の式年造替の際のもの |
現代日本人が無邪気に「伝統」と思っている「神道」は、近代にかなりいびつに西洋の影響下に変質させられたものだ。
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| 賀茂御祖社(下鴨神社)直視が許されない東御本宮 |
そこから見えて来るのは、仏教は外来宗教だから否定し、日本の土着信仰は西洋近代的な価値観では「迷信」だから排除しようという、歪んだコンプレックスだ。
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日光東照宮 本地堂 全国の神社で本地堂が残されている例は極めて稀
薬師如来の眷属である十二神将については干支の守り神としてお守りも
売っているが 厨子内に秘仏本尊の薬師像があることの説明はない |
神仏分離令と廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治初期に、奈良で藤原氏の氏神の春日大社とワンセットの菩提寺だった興福寺の危機はよく知られている。
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| 興福寺 五重塔(右)東金堂(左)室町時代の再建 国宝 |
寺領どころか境内地も没収され、多くの堂舎や寺宝が失われた。今の奈良公園はほとんどが興福寺の境内で、子院や僧坊が並んでいた場所だ。
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興福寺破損仏 明治21年撮影
現在は国宝指定されている八部衆のうち沙羯羅像 |
一時は50銭で売りに出された五重塔など、現代ではほとんどが国宝指定されている多くの文化財は、いずれも奇跡的に破壊を逃れたものなのだ。
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| 明治21年 小川一真撮影 興福寺東金堂内の破損仏 |
アメリカのメトロポリタン美術館やボストン美術館などでは、平安朝の天台宗や浄土信仰の須弥壇がまるごと収蔵・展示されていて驚かされるが、別に略奪されたのではない。日本文化を愛したアメリカの実業家や富豪が、神仏分離と廃仏毀釈で明治政府が破壊しようとしていた日本の文化財を保護するため購入し、持ち帰ったものだ。
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| 紅葉に映える秋の清水観音堂 |
もう一点、これも通俗日本史観では見落とされがちだが、僧侶とくに禅僧は、かつての日本で最高クラスの知識人であり、政治家としての役割も絶大だった。
とくに禅僧は中国の文化や文献、制度に詳しく、武士と強く結びついてその政治コンサルタントになり、外交官としても活躍し、教師・指導者になった。戦国武将の多くが身近に禅僧を招き、政治顧問や子弟の教育を頼むのが当たり前だった。漢籍に通じた禅僧は孫子の「兵法」なども教示できたし、現に今川義元の
軍師・太原雪斎は臨済宗の僧侶だった。
徳川の幕府による250年に及んだ平和統治理念の確立に功績が大きかったのが天台宗の天海であり、法体系の制度設計とその運用の基本論理を作り上げたのは臨済宗・京都五山別格筆頭の南禅寺の
以心崇伝(金地院崇伝 1569-1633)だ。
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| 以心崇伝像 南禅寺金地院 開山堂 |
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| 小堀遠州 金地院大方丈前庭「鶴亀の庭」巣ごもりの鶴 |
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吉祥である松の下の石は鶴の無数の卵をに見立てられている 同性愛者でなかなか跡取りが出来なかった家光のために作られた |
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金地院 大方丈 諸侯対面の間 狩野探幽と尚信の障壁画 家光の来訪時の座所で鶴亀の庭の巣ごもりの鶴に正対する |
念のため繰り返しておくが、徳川家(松平家)の宗派は浄土宗だ。家康・秀忠・家光の三代を支えたブレーンの崇伝は臨済宗、天海は天台宗で寛永寺は天台寺院である。
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| 慈眼大師毛髪塔 東叡山寛永寺(現 上野公園内) |
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木造 天海僧正坐像 喜多院慈眼堂内 寛永20(1643)年 天海の没する数ヶ月前に生き写し像として作られたと言われる |
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| 川越喜多院 慈眼堂 正保2(1645)年 |
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喜多院の本堂である慈慧大師(良源)を祀る慈恵堂 寛永16(1639)年の川越大火の直後に家光が再建 |
崇伝は「武家諸法度」などの幕府の様々な法令を執筆、元々亀山上皇の開いた南禅寺だけに朝廷や天皇ともパイプを持ち、家光の代まで幕府を支え「黒衣の宰相」として恐れられるほどの権勢を奮い、禅の高僧として中国語に堪能で国際情勢にも明るかったことから外交顧問としても活躍した。
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| 狩野探幽 以心崇伝像 南禅寺金地院蔵 |
崇伝の協力で、家康は対馬の宗家を仲介役に、秀吉の朝鮮出兵で国交が断絶していた李氏朝鮮との正式国交を回復し、明や清と正式国交の冊封関係は取られなかったが貿易は盛んに行われ、タイのアユタヤ朝などの東南アジア諸国との交易も栄えた。
日朝の友好関係は明治新政府に幕府が倒されたことを不道徳とみなした李朝が断交するまで続き、12回に渡って国使の朝鮮通信使が江戸を訪れ、毎回その道中で大人気になっている。
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| 日光東照宮奥ノ院 家康の墓所 金・銀・銅の合金製の宝塔は元禄時代 |
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| 霊前の具足は朝鮮の李朝からの贈り物 |
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| 東照宮 奥宮拝殿 元和3(1617)年 |
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| ここで参拝できたのは将軍だけ |
以心崇伝が起草と制定に関わった武家諸法度では、諸藩諸大名が貿易外交を直接行うことが禁じられ、外国との付き合いはすべて幕府の許可を得て、幕府を通じて行われることになった。いわゆる鎖国令(ただしこの名称は後世のもの)と吉支丹(切支丹)禁止令も崇伝が執筆している。
この外交・通商政策が苛烈な宗教弾圧を含み、悲惨な犠牲も少なくなかったのも確かだが、一方では武器、特に国産が不可能な火薬(硝石は日本では産出せず、輸入に頼るしかなかった)が諸大名に渡らないようにすることで、内乱を防ぐ手段でもあった。
戦国時代の末、日本には15万梃の火縄銃があったと推計されるが、徳川政権の成立と相前後してほとんどなくなっている。
国産が圧倒多数だった火縄銃の製造拠点だった堺では、その技術を活かして包丁の生産が発展した。
対ヨーロッパ貿易は確かにオランダ一国に限定されたが、「鎖国」という言葉のイメージとはかなり反して、オランダを通して輸出された日本の陶磁器や漆器はヨーロッパで王侯貴族や上層ブルジョワを中心に大流行になっている。
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| オランダ東インド会社の紋章が入った染め付けの伊万里焼 17世紀 |
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| 柿右衛門様式の輸出用の伊万里焼 18世紀 |
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フランス王妃マリー=アントワネット所持の蒔絵の小物 母のオーストリア皇后マリア=テレジアは蒔絵コレクターだった |
たとえば伊万里焼きは元々、景徳鎮などの中国磁器の模倣から始まり、ちょうど中国で明から清への王朝交替でその陶磁器産地が衰退した隙をついてヨーロッパの市場を席巻した。
こうした高級工芸品の輸出は手工業の発展を牽引し、幕府にとっては諸藩の反乱の防止にもなり、国内政治を安定させ、財政上も大きな意味があった。
しかし明治新政府が急激な西洋化を目指す一方で「武士道」の国としての自己イメージを追及し、天皇とその祖先神の天照大神(伊勢神宮)を中心に再定義されたカミ信仰を「神道」と称して国家宗教にしようとして来た近代の歴史観と、「サムライの国」という近現代日本の国家観では、史実では坊主がこんなに大きな顔をしていて、武家の政府が仏教の殺生戒に忠実で殺生を戒める絶対平和主義の方針を徳治とみなし、庶民もそんな泰平の世をけっこう楽しんでいたなどというのは、おおいに都合が悪かったのだろう。
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清水堂では初午の日のみ源信(恵心僧都)作の秘仏本尊の厨子が開かれる 右に釈迦三十六尊 左に東照大権現としての家康の神像の掛け軸 |
僧侶や宗教との関わりでいえば、西洋近代を模倣し西洋に認められる国になろうと懸命になっていた明治政府にとって、もっと受け入れ難かったであろう歴史の痕跡も、上野にはある。
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| 渓斎英泉 上野花遊(はなあそび)の図 |
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| 恩賜上野公園 さくら通り中程 摺鉢山(元は古墳)のふもと |
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| 広重 東都名所 上野東叡山の花見 |
上野が江戸城の鬼門の方角にあたり、京都と比叡山の関係に見立てた鬼門封じになっているのは何度も触れて来た通りだが、明暦の大火後に神田明神が移転した現在の高台にある境内も、やはり千代田の城から見てやはり鬼門だ。つまり江戸総鎮守と東叡山で二重の鬼門封じになっているのだが、こうした中国由来の方位学(今で言ういわゆる風水)に基づいた都市設計は、西洋起源の近現代の科学主義では「迷信」かも知れないが、元はといえば古代中国の天文学だ。
今は新宿四丁目、新宿御苑と新宿駅の間にある護本山天龍寺は、元は江戸城の裏鬼門守護の役割で牛込納戸町・細工町に建てられた寺だ。
新宿御苑の近くには、新宿二丁目に江戸六地蔵のひとつを祀る大宗寺もある。
新宿(内藤新宿)は甲州街道の最初の宿場で、江戸六地蔵がいずれも街道口に置かれたのも、江戸を発つ旅人が道中の安全を祈り到着する者が旅の無事を感謝するだけでなく、江戸を外界から霊的に守護する意味もあった。
また家康が日光に埋葬されることを遺言したのは、北斗七星と北極星への北辰信仰と、中国の儒教伝来の君主南面思想との関連があるとの説もある。日光山は江戸のほぼ北にあたり、たとえば唐の長安やそれを模した平城京、平安京のように、儒教の論理では君主は都の最北に座し、夜の天空に不動の北極星を背に、南に見える土地と人民を統治するとされた。
君主南面との関連性は分からないが、江戸城の天守閣も最初は本丸の中程にあって表御殿の一部だったのが、家光の代に建てられた寛永天守は本丸御殿の北端の、大奥のさらに奥にあった。
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| 旧江戸城本丸 明暦天守台 |
明暦の大火でこれが焼失し、ほぼ同じ位置に天守台までは造営されたが、四代家綱と叔父で側近の保科正之が江戸市街の復興に幕府の財政出動を優先したため天守が再建されなかったのは先述の通り。
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| 天守台が出来たところで工事は中断された |
以降、江戸城は天守のない城であり続け、天守の不在こそが徳川の平和支配の象徴でもあった。 今も残る明暦天守台の上には天守が建ったことがないのに昨今一部の政治家などが江戸城天守閣の再建を、などと言っているのはまったくのナンセンスだ。ならば寛永寺根本中堂を再建した方がいい。
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| 不忍池弁財天 初詣で |
開国と明治維新以前の日本人にとって(いや実はそれ以降も今に至るまでずっと)、方位の吉兆などを考えることは、わざわざ信仰というまでもないような、むしろ生活の一部だった
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| 北斎 弁天詣で |
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| 広重 上野不忍池の雪 |
だいたい、今でも日本人は、占いやお守り、縁起かつぎが大好きな民族だ。
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| 清水観音堂の舞台より不忍池辯財天 |
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広重 江戸高名会亭尽 下谷広小路 現在の上野広小路より見た不忍池と辯天堂 |
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| 上野花園稲荷隣の韻松亭から不忍池辯天堂を臨む |
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| 小田野直武 不忍池図 18世紀 享保の蘭学解禁で広まった西洋画の技法 |
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| 東京大空襲で焼失し戦後に再建された辯天堂 |
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| 年に一度の9月の二の巳の日 秘仏八臂大辯財天の開張 |
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| 広重 江戸名所 不忍池 |
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| 明治の神仏分離令で鳥居が取り除かれた |
そう言ってしまうとますます、鎖国政策もあったことだし、江戸時代は遅れた、迷信深い時代だったと思われるかも知れないが、これも多分に明治以降の偏見だ。
実際には、こと享保の改革で蘭学(オランダ経由で輸入された西洋の学問)の研究が公式に解禁されて以降、西洋の先端知識や技術は出島を通して積極的に輸入されている。
学問の奨励も初代家康に遡るのだが、西洋渡来の学門の研究が解禁されると、たちまち江戸では解剖ブームが起こっている。
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| 解体新書 前野良沢・杉田玄白訳 安永3(1744)年 |
それも医者が飛びついただけでない。例えば相当に精確な人体解剖人形が、両国や浅草の見世物小屋で人気を集めた。
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| 見世物小屋用の解剖人形 |
後には
シーボルトの鳴滝塾も多くの門人を集め、日本の医学は江戸時代の鎖国のあいだにも飛躍的な発展を見せている。たとえば子宮のなかの胎児が頭を下にしていることが発見されたのは江戸時代の日本でだったし、幕末には華岡青洲による世界初の全身麻酔の外科手術も行われた。
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| 後藤光成 随観写真 宝暦7(1757)年 |
これまでさんざん紹介して来た風景浮世絵は開国で西洋に輸出され、その遠近法の自由自在な使い方が西洋絵画史、とくに印象派の誕生に強い衝撃を与えることになるのだが、元をたどれば空間遠近法も出島経由で輸入された西洋絵画やその理論書、それに輸入品のレンズを使った光学玩具の「眼鏡絵」から江戸時代の絵師が学んだものだ。
「写生」を日本美術で確立した円山応挙は、最初はその眼鏡絵を描く職人だった。また伊藤若冲の作品にも、オランダから出島経由で輸入された洋書の銅版画との類似性が指摘されている。
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司馬江漢 不忍池図 18世紀
本格的に西洋遠近法を導入 北側の現在の上野動物園池之端地区からの眺め |
蘭学者の司馬江漢は輸入された西洋の絵画理論書を元に本格的な空間遠近法を研究し、油絵の具でも絵を描いた他、「鈴木春重」の名義で浮世絵版画も手がけ、空間遠近法を理屈通りに取り入れた浮世絵版画は「浮き絵」と呼ばれ18世紀後半にブームになっている。
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| 北斎 新版浮絵東叡山花盛之図 奥に寛永寺五重塔 根本中堂 |
また多色刷りの錦絵の最盛期に喜ばれた深い藍色は、天然の植物由来の藍の染料では出せない。ベロ藍(「ベルリン」の訛りか?)と呼ばれる、オランダ経由で輸入されたドイツ製の化学染料を使った色だ。
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北斎 富嶽三十六景 東都浅草本願寺 濃淡の異なる複数のベロ藍(化学染料)の版で構成 |
浅草には天球儀が設置された天文台があったことも、北斎が描いている。
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| 北斎 富嶽百景 鳥越の不二(浅草天文台) |
こうした近現代科学の先端知識が、現代では迷信とされる縁起担ぎの文化と衝突も矛盾もなく受容されていたのが、
江戸時代の日本だった。
浅草も、両国橋の両岸の火除け地に仮設小屋が立ち並んだのと同様、境内西の奥山や参道両脇の仲見世を中心に、娯楽文化が盛んな歓楽街になった。
戦災で焼失するまで江戸、そして東京の庶民に親しまれた巨大な本堂観音堂は、三代家光の造営だった。
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| 広重 江戸名所 金龍山之図 |
この浅草寺も、江戸城を霊的に守護する方位学的な意味があったとも考えられている。
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日本橋かいわいのにぎわい 広重 名所江戸百景 日本橋雪晴 安政3(1856)年 右奥に見える江戸城には櫓は無数にあるが天守はない |
徳川が上野を江戸の鬼門封じとして「聖地」に整備したのを、うかつに「迷信」だとは片付けられないことはまだある。
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| 上野東照宮 拝殿 |
明暦の大火の反省から、それまで東からの侵入を防ぐため橋がほとんどなかった隅田川に、火災時の避難路として両国橋と永代橋が建造されて両岸が火除地になったことについては先に述べた通りだが、東叡山につらなる表参道を下谷広小路(現在の上野広小路)という幅の広い道路として幕府が整備したのも、延焼防止策だった。
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広重 名所江戸百景 下谷広小路 右の店は現在の松坂屋 左奥の緑が東叡山 |
これも一般的な(通俗的な)歴史観では無視されがちな幕末の大事件に、安政2(1855)年の江戸の
安政の大地震がある。実はマグニチュードでは関東大震災より大きな直下型地震だったと推定されている。
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広重 名所江戸百景 上野山した
現在の京成上野駅のやや先 忍岡稲荷の鳥居が見える |
関東大震災後、夏目漱石門下の随筆家・俳人で物理学者の寺田寅彦が、震災の被害の研究に熱中するうちに、近代的な消防設備などなかった安政の大地震の方が被害が遥かに小さかったこと、また関東大震災でも明治以降も広小路などの江戸時代の街割りが維持されていたところは延焼が食い止められていたことに気付く(寺田寅彦
『日本人の自然観』)。
対照的に、両国橋の両岸の火除地は再開発で建物が密集していて、関東大震災のなかでも最もひどい火災による被害を出している。
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かつて三枚橋があった上野四丁目交差点 暗渠化された川のフタが見える
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| 広大な門前広場の約半分以下が今の上野公園に属している |
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| 上野戦争の攻防戦 三枚橋から黒門を経て清水堂前 |
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| 惣門(通称・黒門)の位置を示す噴水 実際にはさらに左側にあった |
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宮川長亀 上野観桜図屏風 18世紀(部分) 寛永寺惣門(黒門)の描写 背後に清水堂 |
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| 上野戦争直後 焼け残った寛永寺惣門(黒門) |
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| 夜には色付きのイルミネーションも |
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| 彰義隊供養墓の説明板に描かれた黒門での戦闘 |
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| かつて鎮守の山王権現があった場所に設けられた彰義隊の墓 |
上野にはこうした徳川の痕跡だけでなく、もっと正体の分からない、日本史をさらに遡る未知の、語られざる、近代以降に忘れられた「伝統」の古層もある。
たとえば上野東照宮には樹齢600年以上という大楠が神木として祀られている。東照宮の創建より200年以上遡るはずだが、創建時にすでに樹齢200年の大木があったから神木にしたのか、神木があったからそこに家康を祀ったのかは、判然としない。
ちなみにその奥、本殿の脇には、かつて江戸城大奥に取り憑いて悪さをしたとされる狸を祀る祠もある。
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| 上野東照宮 本殿脇 狸を祀った祠 |
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| 拝殿前よりご神木の大楠 |
不忍池に面した斜面には現在二つの神社があるが、そのひとつの起源は寛永寺や東照宮よりも遥かに古い。
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| 上野忍岡 五條天神社 |
五條天神社、別名・下谷天満宮。ただし天神ないし天満宮という呼び名で医学・薬学の神様になったのは、寛永18(1641)年に菅原道真を祀る相殿が追加されてからだ。
元々の祭神は出雲の大己貴命(オオナムチノミコト、大国主【オオクニヌシ】、神仏習合では大黒天と同一視)と少彦名命(スクナビコナノミコト、同じく恵比寿天)で、創建は社殿によれば神話時代に遡り、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際に戦勝を祈って社を作ったのは、寛永寺の開山後は山道を挟んで大仏のはす向かいになる擂鉢山だったらしい。
清水観音堂も最初は擂鉢山に建てられていた。その建立時か、清水堂が根本中堂の造営に併せて移転したとき、五條天神も寛永寺の門前に移設され、大正時代までは現在のアメ横商店街の入り口あたりにあった(よって旧町名が五條町、現在は上野4丁目)。
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| 五條天神社の旧社殿地 アメ横通り |
大正時代に五條天神が現在地に移転したので、今ではそれと併設されたかっこうになっている忍岡稲荷、またの名を穴稲荷、現在の呼称では花園稲荷の起源は、さらに謎めいている。
天海の弟子・晃海が夢のお告げを受けて洞窟のなかに古い稲荷社の痕跡を見つけて復興したので穴稲荷とも呼ばれるが、その夢枕に立ったのが寛永寺の建設で上野の山林を追われた狐の怨霊だったとも言われているのだ。
稲荷社の痕跡を見つけた洞窟は元は狐の巣穴で、穴稲荷の建立は殺された狐の霊魂を慰めるためという説もある。
現在の、外にある社殿は明治6年に民間有志の手で再興されたものだ。
ちなみに稲荷大明神は元々は農耕・稲作の神で、キツネはネズミを食べることから米を守るとみなされ、稲荷神の眷属だった。だがあまりにキツネが稲荷社につきものであることが定着し、いつしかキツネが稲荷神と同一視されるようになる。穴稲荷の伝説はその好例だろう。
ここは上野戦争で追いつめられた彰義隊が最後に立て篭もり、多くの隊士が自決した場所でもある。
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| 五条天神社境内より不忍池 |
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| 北寿 東叡山麓不忍池 弁財天之図 |
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| アントニオ・フォンタネージ 風景(不忍池) 明治9~11(1876~78)年 |
徳川の以前から上野にあった聖地の痕跡の極めつけとして、かつての寛永寺の参道(今のさくら通り)を挟んで大仏の向かい側、元々古代から五條天神があって、清水観音堂が最初に建てられた摺鉢山は、実は古墳だ。
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| 擂鉢山古墳 6世紀前半 |
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| 清水観音堂は当初 古墳の墳丘である擂鉢山に建てられていた |
つまり五条天神社は古代の未知の王か有力者の墓に祀られた社だった。近現代の考古学調査では全長70m〜100mと推計され、出土した埴輪片から5世紀から6世紀の前方後円墳のようだが、以前から切り崩されて石室などが失われていて被葬者などの詳細は分からない。
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| 五條天神が元々あり 清水観音堂が当初建てられた擂鉢山古墳 |
ヤマトタケルノミコトがその古墳の上に社を築いたということは、もしかして東征で滅ぼした王権の怨霊を鎮撫するためだったのだろうか? なぜそこに祀られたのが、「古事記」の国譲りの神話によればヤマト王権に併合された側の出雲の神々だったのだろうか?あるいはヤマトタケルノミコトがここに社を祀ったという伝承自体が、古墳が造られたという意味なのだろうか?
上野はただ、千代田の城の鬼門封じとして徳川の聖地が設けられただけなのだろうか?
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| 清水観音堂は元禄7(1694)年に現在地に移転 |
家康の江戸開府の遥か以前に遡る、古代から
なんらかの宗教的というか霊的な意味を持った場所だった痕跡がそこかしこに見えるが、正体はさっぱり分からない。そういえば東京芸術大学の敷地も、掘れば古代の遺跡らしき断片がいろいろ出て来るらしい。
なお増上寺の旧境内の芝公園内からも縄文時代の丸山貝塚が発見され、丘は5世紀頃の建造と見られる丸山古墳だった。
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| 芝丸山古墳 墳丘の上 後円部より前方部を臨む |
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| 後円部 |
台徳院殿の奥ノ院(二代秀忠の墓所)と安国院殿(現・芝東照宮)との間に位置するこの前方後円墳は全長106mと推定されるが、やはり江戸時代以前に後円墳丘が切り崩されていたらしく詳細は分からない。
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| 丸山古墳の墳丘斜面に祀られた円山随身稲荷大明神 |
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| 家康を祀る芝東照宮(旧 増上寺安国院殿)は丸山古墳の麓にある |
金龍山浅草寺の過去と来歴も、さらに謎めいている。
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広重 東都名所 浅草金龍山全図
かつて五重塔は現在とは参道を挟んで反対側にあった
本堂の向こうに三社権現 左端の稲荷社は明治維時代に撤去 |
伝承では推古天皇36(628)年の創建、つまり聖徳太子の時代にまで遡り、漁師の網に黄金の観音像がかかり、この地方の豪族が自らの屋敷を寺にして祀ったのが起源とされる。
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三社権現の祭神は浅草寺本尊の発見した漁師兄弟と豪族の三柱 家光のこの社殿造営に際し東照宮も合祀された |
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| 広重 名所江戸百景 吾妻橋金龍山遠望 |
明治時代に神仏分離令に基づき三社権現(現在の浅草神社)が浅草寺と分離され、本堂裏にあった稲荷社も撤去されたのだが、この工事の際に古墳の石棺が出土した。
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| 浅草寺 本堂裏手から発掘された石棺 |
今は伝法院庭園に安置されている。つまり浅草寺もまた古墳に建立された寺だったのだ。
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| 金龍山浅草寺伝法院(本坊) 庭園 小堀遠州 寛永年間(1624〜45) |
他にも関東には大きな前方後円墳が少なくない。ヤマト王権中心の歴史観ではまだ完全には説明がつかない古代史の、未解明で謎の多い痕跡だ。
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浅草寺はほぼ全伽藍が東京大空襲で焼失 戦後に再建
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| 広重 東都名所 金龍山雪景 19世紀 |
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幕末〜明治初期の浅草寺五重塔 慶安2(1649)年 家光の再建 焼失前は現在の再建の塔とは反対の境内東側にあった |
そんな正体不明の古墳跡にある浅草寺の、本尊の一寸八分の黄金の観音像は絶対秘仏だ。明治初期の文化財調査で一度だけ人目に触れてスケッチも残されているが、その調査官達が変死したという妙な都市伝説まである。
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| 浅草寺縁起より 本尊感得の図 |
ちなみに見たら死ぬという物騒な伝承がある絶対秘仏では、他に京都の東寺西院・御影堂の南面に安置されている、空海自身が彫ったという不動明王像が有名だ。
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石川県法住寺 木造不動明王坐像(重文)鎌倉時代14世紀 東寺西院御影堂の空海作「見たら死ぬ」絶対秘仏の模刻とされる |
また法隆寺西院夢殿の本尊で、聖徳太子の生き写しとの伝承もある救世観音像も、明治時代にフェノロサが再発見するまでは、厨子を開けるだけで天変地異が起こるとされた絶対秘仏だった。フェノロサが強引に厨子を開けさせ取り出させたときには、法隆寺の僧侶が天罰を恐れて逃げ惑ったという。
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法隆寺夢殿 救世観音菩薩立像 飛鳥時代7世紀 明治21(1888)年 文化財調査写真 小川一真撮影 |
長野の善光寺の本尊の阿弥陀三尊も、6世紀にインドから渡来したとされ1000年以上絶対秘仏だ。 お前立ちの模刻像(鎌倉時代・重文)から判断する限りでは、実際には朝鮮半島・三国時代の様式と思われる。
善光寺は武田信玄に甲府に移され、信長が武田を滅ぼすと秘仏本尊も奪われ、秀吉が京都に方広寺を開くとその本尊になった。幕府が本来の長野に戻し、寺領を寄進し復興させてからは、庶民信仰で栄え、お前立ち本尊の出開張が全国で盛んに行われた。 現在の本堂は綱吉時代に幕府の支援で再建されたものだ。
天海は、ただ江戸城の鬼門封じに当たる位置だからと言うだけで、上野を聖地化したのだろうか?むしろ摺鉢山のあった上野や、絶対秘仏の神秘的な伝説があってやはり古墳だった浅草、芝の丸山古墳などとの位置関係から、太田道灌が江戸城の場所を決め、徳川家がそれを発展させた、と考えた方が、時系列的には納得が行く。
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金龍山浅草寺本堂内陣(戦災で焼失後再建) 見たら死ぬと言われる絶対秘仏の一寸八分の本尊を納めた厨子 |
浅草寺は初代家康が江戸開府にあたり崇敬・保護した寺院のひとつだ。没後には東照宮も設けられ、家光が三社権現の新たな社殿を造営した際にそこに併合・合祀されている。
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浅草寺二天門 慶安2(1649)年の家光による浅草寺と三社権現の現社殿造営時の建立 と思われるが浅草東照宮の随神門として元和4(1618)年に建立された可能性も |
寛永寺の輪王寺宮が隠居後は浅草寺の伝法院に住むことが多かった。浅草にある東本願寺の江戸別院も門跡寺院であり、つまり今では誰も気にもとめないが、浅草は江戸時代に「皇室ゆかりの地」だった。
明暦の大火後に千代田の城のもうひとつの鬼門封じとなった江戸総鎮守の神田明神も、その正体は現代人からすればかなり理解し難い。そのもっとも重要な祭神は明治以降、ごく最近、昭和天皇が崩御し平成になるまで排除されていた。
明治以降100年ほどは五條天神と同じ大己貴命と少彦名命の二柱だけが公式の祭神で、この二柱の出雲系のカミが大黒天と恵比寿天と同一視されたことから、神田明神は今では商売の神様として初詣客が絶えない。
だが元々は商業のカミではなく江戸の総鎮守であった神田明神の第三の祭神は、平安時代に朝廷に反逆し関東に独立国を作ろうとした異端の英雄、平将門なのだ。
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| 広重 江戸名所 神田明神 |
謀反人として討ち死にした将門の首は平安京に運ばれ、都大路に晒された。伝説ではその3日目に「俺の身体はどこだ」と首が大声を上げ、宙空に舞って東へと飛んで行ったとされる。
その首が力つきて落ちた場所が今も将門の首塚がある大手町、江戸城の三ノ丸大手門の門外すぐで、当時は海岸の丘だった(そこから東、今の東京の中心部の大部分は、徳川による埋め立て)。
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| 平将門首塚 千代田区大手町1-2-1 |
この首塚が祟るので、14世紀に蓮阿弥陀仏の称号を諡って神格化というか仏とみなし(どちらも過去の日本人にとっては本質的に同じこと)、神田明神にカミとして祀られた。首塚は今も神田明神の別院である。俗説では神田明神の起源そのものが首を失った将門の「からだ」が訛って「かんだ」になったもので、首塚の近くにあった元の境内は将門の首なし遺体が放置された場所だったとも、首を斬られた遺体がそのまま歩いて行って倒れた場所だとも言われる。
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| 蓮阿弥陀仏の板碑は徳治2(1307)年 将門の怨霊を封じこめる意味もありそうな配置 |
こうした伝説が史実なのかどうかが重要なのではない。過去の日本人がこうした話を喜んで伝承して来たことこそが肝心なのだ。
明治新政府が朝敵でしかも魔性の逆賊とみなした将門を、神田明神の祭神から排除したのも、近代の西洋的な、神と悪魔が対立するキリスト教の世界観の理屈ではよく分かる。だが逆に言えば、そうやって明治に作り上げられた、安易なまでの単純さで近代主義的な善悪区分をしてしまう国家神道を日本の「伝統」と呼ぶには、あまりに無理がある。
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| 旧江戸城の正門だった三ノ丸大手門 櫓などは戦災を経て戦後の再建 |
神田明神の正式の社伝では、創建は天平2(730)年に遡り、出雲から来た人々が「古事記」にヤマト王権に国を譲った大国主命(オオクニヌシ)つまり大己貴命を祀ったのが起源とされているが、この国譲りの神話もどう解釈していいのかよく分からない日本古代のミステリーだ。
普通に読むとヤマト王権が出雲の国を征服併合したという意味にみえるが、その大己貴命をヤマト王権の王子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が祀ったのが五條天神の起源となると、現代人の感覚だと誰が味方で誰が敵、なにが魔物でなにが滅ぼした敵の怨霊で、なにが守り神になるのか、わけが分からなくなる。
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| 旧江戸城 本丸中雀門跡 |
上野の摺鉢山古墳や、浅草寺や増上寺の境内にあった古墳を作った人々も、恐らくヤマト王権に滅ぼされるか征服吸収された王朝だったとすれば、摺鉢山に祀られていたのも出雲の王が神格化されたカミガミだったというのは、なんとも興味深い。
ヤマト王権の日本列島支配が成立する過程で滅ぼされた王国の墳墓が聖地化したのが、浅草寺だったり上野だったり、芝だったりするのだろうか?
では国譲りの神話は、いったいなにを意味するのだろうか?
関東地方にかなり大きな王権があったと考えるべき根拠は他にもある。たとえば現在の大田区から立川市まで伸びる玉川添いの崖地(国分寺崖線)に沿って古墳が点在しているし、埼玉県行田市にはさきたま古墳群(5〜7世紀)もある。その稲荷山古墳(5世紀後半)から出土した鉄剣の、豪華な金象嵌の文字で記された銘文は、ヤマトに吸収併合された後の征服者側のものとも、ヤマトに臣従した元の王権の有力者が葬られているとも、読みようによってはヤマトとは別の王が元々は関東を支配していて、さきたま古墳群はその墳墓だとも解釈できる。
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| 稲荷山古墳出土鉄剣 5世紀後半 国宝 |
とはいえ古代に関東で古墳を造った王権が、五條天神や神田明神に痕跡が残るとはいえ、地理的にはずいぶん離れた出雲とどう結びついたのかは不思議だし、「国譲り」の神話の意味もますますよく分からない。
ヒントになりそうなのが信濃の国(長野県)の諏訪大社の祭神が大国主大神(大己貴命)の息子の建御名方神(タケミナカタ)で、国譲りの際に出雲を逃れ諏訪にたどりついたと「古事記」に記されていることだが、この記述がまた相当に血みどろなのだ。
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| 北斎 信州諏訪湖水氷渡 |
葦原中国の国譲りに反対した建御名方は、高天原つまりヤマト王権の使者・武甕槌命(タケミカヅチ、春日権現の第一殿祭神で上賀茂神社の主祭神、建御雷神とも表記)に力較べを挑むが、その武甕槌命の手が氷の剣に変化し、建御名方は両腕を切り落とされてしまう。
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| 広重 富士三十六景之内 信州諏訪湖雪晴 |
命からがら逃げた建御名方神が最後に追いつめられたのが、信濃の州羽海(スワノウミ)つまり諏訪湖だった。
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| 渓斎英泉 木曽街道六拾九次之内 塩尻嶺諏訪湖氷眺望 |
ここで建御名方神は追って来た建御雷神に殺されそうになるが、諏訪盆地から出ないこと、葦原中国を天つ神の御子(つまりヤマトの大王)に奉る旨に反対しないことを約束して、命だけは許される。
この建御名方神が諏訪湖の女神である八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)と結ばれて夫婦のカミが諏訪大明神になり、諏訪地方は御柱祭や冬の御神渡り(氷結した諏訪湖に出来る氷のヒビが、建御名方神と八坂刀売神が出会うため諏訪湖を渡った跡とみなされる)など、山岳信仰に由来する独特の神秘的な雰囲気と伝承や文化を持つ土地として、全国の諏訪神社を通して信仰を集めて来た。
この神話に見られる諏訪と出雲の結びつきは、なにを意味するのだろうか?
そもそも、国譲りとはなんだったのか?
出雲がヤマト王権に「譲った」葦原中国とはなにを・どこを指すのだろう?
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| 寛永寺旧本坊表門 寛永2(1625)年 |
弥生時代に稲作を基盤にした村落共同体が発展して、やがて各地に王国を形成した。建御名方神は元々はそんな地方の国々のひとつだった諏訪の王が神格化され、その地方神話が「古事記」に取り込まれるなかで出雲と結びつけられたとも考えられる。
逆にいえば「古事記」にある出雲とそのカミガミとは、必ずしも現在の島根県を指す地名ではなく、ヤマト王権による統一以前に各地にあって滅ぼされたか征服併合された弥生時代〜古墳時代初期の諸王国を象徴しているのではないか?
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| 寛永寺(旧上野東照宮)五重塔 寛永16(1639)年 |
各地に分立し関東にもあった小王国か、あるいは出雲王国が、ヤマト王権に滅ぼされるか併合される過程を象徴しているのが国譲りの神話だとするなら、諏訪の神話はその過程にかなり暴力的な侵略があったことを示しているのかも知れない。
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| 上野東照宮 拝殿 慶安4(1651)年 |
今のところここまでは言えるような気がする。
平将門にせよ、神田明神や五条天神社の出雲系のカミガミと日本武尊にせよ、正体不明の上野や芝や浅草の古墳にせよ、穴稲荷の狐にせよ、勝者の視点で書かれた支配の正当化の歴史では語りきれない、将門のように志半ばで逆賊として殺されたり、上野の狐のようにすみかを追われたり、日本武尊のように道半ばで命を落とし、あるいは滅ぼされた者たちの
怨霊への畏怖とその物語への愛着が、今は東京、かつて江戸と呼ばれた土地と人々の潜在的な精神史に深く関わっていることだけは確かだ。
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| 寛永寺 常憲院殿(徳川綱吉)霊廟 勅額門 応永6(1709)年 |
徳川がそんな江戸をあえて中心に選んで、100年に及ぶ戦乱を終わらせる平和を構築しようとした、というふうに考えると興味深い。
なにしろ幕府の政務の中心は将門の首塚近くに建てられた江戸城であり、精神的な中心として作られたのが謎の古墳があって出雲系の神々が祀られていた上野に作られた東叡山寛永寺で、その寛永寺が徳川の統治にとって、江戸城と同等かそれ以上に重要な役割をになっていたのだ。

そして四代家綱の代に江戸城天守の再建が放棄されたあと、東叡山の華麗な瑠璃殿はその次の綱吉の代に建てられ、幕末に新政府軍に破壊されるまで、江戸で最大かつもっとも豪華な建築物だった。
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| 沢雪嶠 浮絵 上野花見之図 |
明治以降、そのすべてが新政府に破壊された記憶を封じこめるかのように、東京となった都市の上野公園となった旧寛永寺境内の山王権現社の焼け跡に、彰義隊の怨霊が葬らた。
かつての鎮守社つまり地霊を抑える役割を持った山王台で、その彰義隊の供養墓を押さえ込むかのように銅像が立てられた西郷隆盛も、西南戦争で逆賊として死ぬことで、逆に明治以降の近代日本の、いわば守護神となった。
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| かつての山王権現社跡 高村光雲の西郷像と彰義隊の墓 |
その明治以降の日本の、勝者・支配者の作った歴史に隠された、上野が「徳川の聖地」であったことの紛うことなき証である徳川将軍たちの墓は、人目に触れず、非公開のまま、ひっそりと、石垣と木々に囲まれて佇んでいる。
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| 常憲院殿(五代綱吉)墓所 宝塔と銅門 |