最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

11/24/2010

篠田健三さん(『フェンス』出演者)


告知が遅れてしまったのだが、本日23日16時から、愛知県芸術文化センターのアートフィルム・フェスティヴァル、日本ドキュメンタリー特選で、『フェンス 第一部 失楽園/第二部 断絶された地層』を上映しておりました。

第15回アートフィルム・フェスティバル
2010年11月19日〜24日まで

その『フェンス』に出演して頂いていた逗子市のラディカル郷土史家、篠田健三さんが亡くなられていたことを、ご息女から喪中のはがきを頂き初めて知る。メールの返事がないのは気にかかっていたのだが…。ご冥福をお祈りします。

非常に確固たる信念と歴史観の持ち主で、ユーモアのセンスも抜群の素晴らしい方で、円覚寺の境内にお住まいだったこともあり、映画が終ってからもなんどか遊びにうかがわせて頂いては、政治のことなどいろいろ話したのも楽しかった。元々共産党系でありながらも、小沢一郎を評価し、日本が東アジアの国として自らを再定義するべきであることを度々熱心に語られていたことが心に残る。

『フェンス』のなかで、普通ならぎょっとするような話を平然としているのも、いかにも篠田さんらしい。「(日本は)独立国じゃありませんから」とか。

あるいは「横須賀は戦争になればまっさきに地下まで徹底して破壊する核攻撃を受けるから、池子にそのサブの核シェルターがあるのは当たり前」とか。横須賀がそこまで核攻撃を受けるとは、つまり首都圏が壊滅するような話なのだが、それを分かっていながらこともなげにおっしゃる。

こういう日本人がいたことを映画に残せたというのは、この稼業をやって来た大きな喜びであり、幸運でもある。

11/17/2010

FILM/JLG/SOCIALISME

ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール・ソシアリスム』2010年

映画の歴史は、社会のなかで生きながら、ある時期、自分を表現したり、その表現を感化したり、あるいはまた、自分が受けた感化をなんらかのやり方で表現したりする男たちや女たちによってつくられたのです。―ジャン=リュック・ゴダール

「分配する前に、まず生産しなければならない」(社会経済的な読み)/「配給する前に、まず映画を製作しなきゃダメじゃん」(映画業界的な読み)。

前者においては大衆と経済学者と政治家が、後者においては映画会社と特に劇場が真逆の勘違いの倒錯をしているんだから、うまくいくわけがない。


『ゴダール・ソシアリスム』は2010年にもなっているのに未だに21世紀に未だなっておらず、20世紀が破綻したまま継続している現代のなかで、あくまで20世紀のフィルムの映画作家を自覚するゴダールが、「わたしは未だに社会主義にしがみつくおじいちゃんなのさ」というポーズの元に、21世紀を始めさせるために20世紀を清算し、終らせようとするフィルムである。

だからこの映画を全編デジタルで撮りながら、ゴダールはこれをあえて「フィルム」と名付けたのだろう。

『ゴダール・ソシアリスム』、一応これで全部見たことになるはずの(?)予告編

それにしても、この全編デジタル撮影の最新作を、ゴダールがあくまで原題『“FILM” SOCIALISME』と名付けたこの痛烈!

我々に突きつけられるのは、デジタルを使ってる我々がいまだにフィルムのパラメーターの範疇でしか、映画を撮れていなかったことだ。今までのデジタル映画は新しくもなんともないのだ。

あらゆる芸術行為は、その表現のフォルムの原点となる媒体の探求を内包しなければならないことを、『ゴダール・ソシアリスム』は忠実に、かつクリティカルに実践する。ステレオ音声とはなにか、デジタル映像とはなにか、現代映画とはなんなのか?

またあらゆる芸術行為とはその表現手段への問いかけと自覚化であると同時に、レンブラントの言ったように「芸術家は結局、自画像しか描けない」、『ゴダール・ソシアリスム』はこの双方の極北を行く映画である故に、ゴダールのもっともゴダール的な映画なのである。


『ゴダール・ソシアリスム』でイスラエル/パレスチナが言及されるのもそうだが、マジョリティとマイノリティの敵対構造の中で、後者と「連帯」することで自身が前者に属する責任がチャラになるわけがない。むしろ自らの「属する側」の論理の問題点や病理をこそクリティカルに見抜くのが芸術家の仕事。つまり、自己批評/批判としての自画像。

「国家の求める幻想は単一であることであり、個人の夢とは二人であること」、この言葉は前作『アワー・ミュージック』から引き継がれ、『ゴダール・ソリアリスム』で繰り返されるモティーフのひとつだ。

だがデジタルには0と1しかない。だからデジタルの時代において個人が自己を表現することは、必然的に極めて困難になるだろうと『ゴダール・ソリアリスム』は指摘する。だからbe動詞は使ってはならないのだ、と。

『ゴダール・ソシアリスム』においてゴダールは前作『アワー・ミュージック』からイスラエル/パレスチナの問題意識を継承しつつ、そこにドイツ/ユダヤ人/ヨーロッパをぶつけて来る。20世紀を最終的に清算し、決着をつけるために。イスラエル/パレスチナ、光/闇、そしてフィルム/デジタル、幾何学/数字、原点への帰還。


『ゴダール・ソシアリスム』は20世紀がまったく終わっていないこと、その清算をする意思も持てないようでは新しい世紀なぞ始まるわけもないことを突きつける。

たとえば「ソシアリスム」、社会主義といえば、ナチズムが「国家社会主義」であり、シオニズムが社会主義思想であったことから、我々は逃げて来た。

デジタルの時代に我々が忘れてしまいがちなことを、ゴダールはこのデジタルによる「フィルム」で刺激的に喚起していく。

たとえば、イスラエルの領域とはパレスチナであり、つまり地理的にイスラエルとはパレスチナに他ならないこと。

ゴダールは『アワー・ミュージック』においてサラエヴォでイスラエル/パレスチナの問題を合わせ鏡として扱った。

イスラエルの若いジャーナリストに「まるでユダヤ人みたいなことを言ってるじゃないですか」と問われたマハムード・ダルウィッシュは「その通りだ。敵対するもの同志は似通うのだ」と答える。

   
ジャン=リュック・ゴダール『アワー・ミュージック』2003年 マハムード・ダルウィッシュ

「二つの音の流れによって不協和音を作り出そうと言うとき、それを示すのはまず二つの旋律にある共通の音である」。イスラエル/パレスチナ、民主主義/資本主義、民族/個人、光/闇、0/1、デジタル。

光/闇、白/黒、白人/黒人、昼/夜。「昼を決めるのはなにか?」この21世紀になれないままの20世紀の延長においては、DAY & NIGHTというアメリカのブランドの時計こそが決めてたりする?

『ゴダール・ソシアリスム』はイスラエル/パレスチナをホロコーストまで遡りながら(ナチスは「国家社会主義」)、フランスは絵画から新婚旅行までイタリアに憧れてばかりだが、ヨーロッパの国としては本当はドイツをこそ近代ヨーロッパの起源として考えるべきだとまで指摘する。過激な真実。

『ゴダール・ソシアリスム』はあえて言うなら決して「パレスチナ側」でなく、あくまで「イスラエル側」の映画である。

なぜならイスラエルの失敗を語ることはヨーロッパに属するゴダール自身の自己批判であり、インテリのディアスポラ民族の国民国家×脱宗教の世俗主義/社会主義であったシオニズムの破綻こそが、もっとも純粋に社会主義の失敗例として言及できる対象であることにおいて。


だから『ゴダール・ソシアリスム』でイスラエル/パレスチナが言及されるのが、いまさらパレスチナ側に連帯する意思であるわけがない。

マルクスがドイツのユダヤ人だったことは今さら言うまでもないが、シオニズムもまたドイツ系ユダヤ人ヘルツルが創始した理念であり、同じくドイツ系ユダヤ人のゲオシェム・ショーレムがその理念の潜在的危険性を指摘した。ヨーロッパの問題/自己批判。

「私のなかには他者がある/他者のなかにこそ私がいる」、これは非デジタル的思想のように見えて、デジタルが本来行き着くべきものでもあるのかも知れないと、『ゴダール・ソシアリスム』は指摘する。

イスラエル/パレスティナに言及する時の『ゴダール・ソシアリスム』があくまで「イスラエル側」であるから、ゴダールはそれ自体はたいした映画ではない2003年のウディ・アローニのドキュメンタリー『Local Angel - theological political fragments』までわざわざ引用する。

この映画の監督はイスラエルの極左政党メレーツの女性党首の息子。

イスラエルの極左政党メレーツは、未だにシオニズムを真面目に継承するほとんど唯一のイスラエル政党。その党首の息子の映画でほとんど初めて紹介されたゲオシェム・ショーレムの書簡を、『ゴダール・ソシアリスム』は改めて紹介する。それは理想主義の人工国家が自己撞着で破綻する可能性への警告だ。

『ゴダール・ソシアリスム』で再引用される書簡でショーレムが秘かに危惧していたのは、国家理念というものが休火山のようなもので、人間が見落としていたその理念の矛盾の部分が暴走する危険。ショーレムが具体的に危惧した部分は引用してない故に「分かりにくい」のはゴダール流意地悪であり賢明さ。

『ゴダール・ソシアリスム』、もう少し普通に見られる(?)予告編

その極秘の書簡の全体を紹介すると、純ユダヤ的問題になってしまうからゴダールは引用しなかったのだが、ショーレムが危惧したのはヘブライ語を民族の言語として復活させ、ヘブライ語の名を名乗るようになると、みんな預言者みたいな名前になっちゃう!ということだった。

シオニズムが民族の言語としてヘブライ語を復活させたこと(実は民族の土地としてのパレスチナ帰還と同じくらい両刃の剣)をショーレムが危惧したのは、言語自体の宗教性が、シオニズムがユダヤ人の人間としての解放のために排除すべきだと考えた「神」の、無自覚な復活を許すのではないか、と。


ここまで来ると唯一絶対神概念から逃れられないユダヤ人特殊の問題になりかねないことだとはいえ、こうした人工的な国家理念の無自覚な矛盾の暴走は、ナポレオンの作ったヨーロッパ国民国家理念についても言えることだろう。だからゴダールはあの未発表の書簡を引用した。

つまり『ゴダール・ソシアリスム』は初期のシオニスト達が秘かに気付いていた「近代国家」理念の矛盾と危険を、ヨーロッパ的国民国家理念それ自体(フランスの発明した理屈)のそれとして提示しているのである。現代の世界ではどの国も(無論日本も)この危険から自由ではない。

たとえば、「自由は高くつく。しかも支払う対価は金でも血でもなく、卑屈さと服従と売春」。1945年の米軍によるナポリ「解放」について『ゴダール・ソシアリスム』で発せられるこの言葉に、我々は今の日本の「自由」や「民主主義」の幻想と幻滅と崩壊を、考えずにはいられないはずだ

マノエル・デ・オリヴェイラ『永遠の語らい』2003年

だから『ゴダール・ソシアリスム』は現実のヨーロッパ国家からフランスがひねり出した理屈の矛盾を提示しつつ、アンチテーゼとしてヨーロッパの国家とはドイツ諸公が現実的な生存策から辿り着いたものだと言い切ることで、フランス的な人造物としての国民国家理念の呪縛を断ち切ろうとする。

イスラエル/パレスチナへの言及で『ゴダール・ソシアリスム』が「連帯」しているかどうかは不明だが、地中海を航行する豪華客船の上で明らかに意識しているのは、アモス・ギタイ『ケドマ』の冒頭で地中海を渡ってパレスチナに向かう移民船ケドマ号である。「ケドマ」は「起源に遡る」を意味する。

「私は社会主義にしがみつく20世紀のおじいちゃん、生きた化石なのさ」というポーズをとりながら、『ゴダール・ソシアリスム』は少なくとも二人の現代映画作家の今世紀の作品2本をものすごく意識している。一人はオリヴェイラ(『永遠の語らい』)、もう一人はアモス・ギタイ(『ケドマ』)。

アモス・ギタイ『ケドマ』2002年

起源に遡ることでその後の展開の誤りを意識するという戦略、ギタイが『ケドマ』で建国神話の起源にあった誤りに遡るなら、『ゴダール・ソシアリスム』はヨーロッパ文明の科学技術の起源が幾何学にあり、またゼロや負数の起源がヨーロッパではないことに遡る。ゴダールにおいて、数学もまた政治だ。

起源に遡ることでその後の展開の誤りを意識するという戦略、起源に純粋さを夢想して失敗したのがテオ・アンゲロプロス(『ユリシーズの瞳』『永遠と1日』)だったならば、『ゴダール・ソシアリスム』はオリヴェイラの『永遠の語らい』、ギタイ『ケドマ』と同様、そのセンチメンタルな幻想を拒否する。

『ゴダール・ソシアリスム』の起源に遡り誤りを指摘する戦略は、古代ギリシャにまでも遡る。「民主主義と悲劇はアテネにおいて結婚し、そこで生まれた唯一の子供は、内戦だ」。ギリシャ語での「ギリシャ」は、アルファベット表記すればHELLAS--HELL AS、「〜と同様の地獄」。


「民主主義と悲劇はアテネにおいて結婚し、そこで生まれた唯一の子供は、内戦だ」。『ゴダール・ソシアリスム』の観客の脳内ではここで、すでに『アワー・ミュージック』でもゴダール自身(の人物)が紹介していた写真が二重写しとなる。南北戦争で廃墟となったリッチモンドの写真。

「国家の幻想はひとつであること」が『ゴダール・ソシアリズム』が喝破するヨーロッパ的国民国家とその民主主義の危険性。国民、民族の名の元の同一化。だから選挙に立候補する子供達はbe動詞の使用をやめようとし、新たな他者との関係を模索するのだ。


「『汝の隣人を愛せ』とは傲慢だ。せめてまず自分を愛し、自分達で愛し合わなければ。そうすれば自分を大事にするから隣人に悪を働くなんてしなくなるさ」--『ゴダール・ソシアリスム』

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』2011年、編集中。偶然にも(?)『ゴダール・ソシアリスム』と同じことを言っているラストシーン

『ゴダール・ソシアリスム』の父親は他者との関係性は自分を愛することからしか始まらないことまでは分かっているが、自分=私を家族=私たちに無自覚に横滑りさせてしまう時点で、「私たち」の同一化を押し付ける国民国家幻想から逃れられない。

一方で『ゴダール・ソシアリスム』の子供達は、国家étatの語源であるbe動詞(être)を使わないことで、他者と自分の新たな関係性に未だかつてない共同体としての国を模索し始める。社会主義にしがみつくおじいちゃんはその他者である子供達に未来を託す。

「私」のなかに「他者」がある/「他者」のなかにこそ「私」がいる。


その未来はフィルムの話法から抜け出せない今までのデジタル映画とは異なるべきであるはずの、真の創造的なデジタル映画のあり方にも見いだされるべきなのだと『ゴダール・ソシアリスム』、デジタル撮影でもあえて「フィルム」を名乗るこの映画は言う。

だから『ゴダール・ソシアリスム』の原点回帰の戦略は、だからデジタルを極めるのならば数学、数字のケタ(digit-al)に留まらず、ゼロや負数は非ヨーロッパの発見であることと、幾何学のフォルムという数学の原点を挑発的に提示するのだ。

幾何学のフォルム=数学の原点と、デジタル(digit-al)の数字のケタ、0と1しかないその単調性に見えることが、フォルムを前にした時に決してそうでないことを、『ゴダール・ソシアリスム』は恐ろしく多様なデジタル映像媒体の混合で示す。

我々は光が当たらない場所が闇なのだと思い込んで来た。だが『ゴダール・ソシアリスム』でこう言われる、「なぜ光があるのか?闇があるからだ」。ラディカルにしてシンプルな発想の革命的な転換こそが、20世紀をやっと終らせられるのか?

20世紀は終わってないのである。その罪や過ちを我々が本気で清算しようとしない限りは、21世紀という新しい時代は本当には始まらない。だからまず『ゴダール・ソシアリスム』を、まずはとにかく見なければならない。



ジャン=リュック・ゴダール最新作『ゴダール・ソシアリスム FILM SOCIALISME』は、12月18日より日比谷のTOHOシネマズ・シャンテ2で公開。配給:フランス映画社

付記:20世紀に毛沢東主義者だったゴダールは「知ることの楽しさ」(日本題は「楽しい科学」)と題した映画を作った。21世紀にスイス人銀行家の息子のユダヤ人性をカミングアウトする『ゴダール・ソシアリスム』は「考える楽しさ」と呼んでもいいくらいの楽しい映画なのである。決してどこも、まったく「難解」ではない。

11/04/2010

『ほんの少しだけでも愛を』ラフカットをまたまた改訂


『ほんの少しだけでも愛を』11月初旬版ラフカット冒頭

ひと月前にもこのブログに掲載したのだが、先月には追加撮影も行い、ナレーションも録音が進行する等、かなり手直しが入ったので新しいラフカットを再掲。

ナレーションの録音をやり直すのがまだ何カ所かあるものの、これで全体像ははっきりしたと思う。

この映画が語ることが最後に到達するのは、過激といえば過激すぎる正論かも知れないが、この際いろいろ腹立つことも多いし、ナレーションによって最終的にはもっと過激になるかもしれない。

また4時間30分で一本の映画ではさすがに無理、かといってそう切れる部分も思い当たらず、では三部作構成にしてしまおうというわけで、上掲の冒頭部分にはすでにその第一部としてのタイトルが入っています。

今後もシーンの順番を変えたり、全体を引き締めたり、あと音の整理や音楽はまだまったく手つかずな状態ではあるが、なんとか年内に仕上げ段階に突入したいところ。

これは冒頭13分ですが、全編をご覧になってご意見いただける方はこのブログのコメント欄に書き込んで下さい(公開はしませんので連絡先があれば、残りのリンクを送ります)。ただし4時間半もあるので…。