最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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8/24/2016

水俣病発生から60年、未だ抜け落ちている政治の責任


NHKのクローズアップ現代プラスが、水俣病についての新事実、加害側企業チッソの内部文書をスクープした。チッソの久我正一副社長(2008年没)の、1977年〜78年の政府との折衝に関する生々しいメモだ。この時期に水俣病をめぐって起こった二つのことに(誰もが疑っていたように)やはり因果関係があったことが、このメモの発見で立証された。

●ひとつは政府によるチッソ救済のための公的資金投入の決定。

もうひとつが1978年の環境庁通達により、水俣病の認定基準が複数の症状が見られなければ絶対に認められなくなったこと(実際には、72〜3年頃にはすでに現場ではこういう運用が支配的になっていた)。

この二つの決定は直接の因果関係にあり、政治が深く関わっていたことが久我メモで立証された。

政府はこれまで、認定基準の厳格化については「医学的知見が深まったことで」と説明して来た。もちろん誰が考えたって、これがチッソが補償金として支出する金額を抑えようとする目的なのではないかとまず思うだろう。さらに厳密に言えば、77年から78年の時期以降、チッソを通して患者に補償金として支払われる国の出資を減らすため(国が既に国費によるチッソ救済を決めていたので)と疑われて当然なのだが、それが今回やっと政府が言い逃れできないように立証されただけでなく、政府の資金によるチッソ救済が決まった舞台裏も明らかになった。

水俣病といえば言うまでもなく、土本典明による日本ドキュメンタリー映画史の金字塔、『水俣 患者さんとその世界』から始まる17本の映画でも、深く切り込んで記録されてきた事件だ。しかし1977から78年の水俣は、その土本典明の水俣シリーズも撮影されていない時期だ。

土本典明「水俣 患者さんとその世界」1971年

ちなみにメモの主、久我副社長は土本の『水俣一揆』で島田社長の横にいつもいる「悪番頭」キャラの人だ。『患者さんとその世界』のクライマックスに登場する江頭社長も島田氏もメインバンクの第一勧銀からの出向で、チッソ内部からの叩き上げで実務を(その後ろ暗い部分まで)掌握し続けていたのが久我氏だったと考えても、間違いはないだろう。

「水俣一揆」中央の背中が島田社長、左が久我副社長
机に座るのは患者の川本輝夫氏

その久我氏は、患者への補償金負担がチッソの経営を圧迫し、倒産も視野に入る危機的な状況の中、政府に働きかけていた。

そこで久我氏に紹介されて国費の注入によるチッソ救済の枠組みを作るように動いたのは、意外な人物だった。当時は財務官僚から参議院議員になったばかりの、藤井裕久・元財務大臣である。

後に藤井さんは1993年にその自民党を離党、小沢一郎氏らとともに新生党を立ち上げ、細川護煕内閣で財務大臣を務めた。細川政権が倒れた後も自由党と民主党の幹事長、民主党の最高顧問を歴任、テレビ討論などで財務省の内輪の論理にも批判的に言及するなど、経済政策を中心に実直な正論を展開し、日本の政治家としては数少ない良心的な実直さを見せて来た人物で、2009年の政権交代への道筋を固めた1人でもある(鳩山由紀夫内閣で再び財務大臣になるが、健康を損ね辞任)。

今は「生活の党」の小沢氏のモットーとなっている「国民の生活が第一」というのは、藤井さんの信念でもあった。

その藤井裕久さんが、久我副社長のメモで名指しされていた。

今回インタビューにも誠実に答えてすべてを「その通りです。間違いありません」と認めたのは、いかにも藤井さんらしい態度ではあった。とはいえ、そんな藤井さんが政治家に転身した直後に、こんな後ろ暗い、いわば「汚い仕事」に関わっていたのは、驚きでもある。

だが藤井さんがこの「汚い仕事」に力を尽くした理由である、患者に補償金が支払われ続けるためには、チッソを潰すわけにはいかないという現実もまたもちろん、ちょっと考えれば誰でも気づくことだ。その補償金なしには、多くが漁民であった患者たちは身体の自由も、肝心の漁場である水俣の豊かな海もチッソの汚染水に奪われ、極貧に追い込まれかねない。

水俣病事件について忘れられがちな視点は、公害の被害がただ加害企業を断罪する「正義」だけでは終わらない厳しい現実だ。水俣市自体が日本の高度成長のなかでその経済をチッソに依存せざるを得ない企業城下町であり、そのチッソが破産すれば企業責任は有限責任なので、補償金も支払われなくなる。

「汚い仕事」とはいえそれだけで藤井さんに幻滅するわけではない。むしろ「生活が第一」であれば、働くことが出来なくなった患者たちへの補償にこそ、万全が尽くされなければならない。藤井さんの、つまりは小沢一郎氏たちの「国民の生活こそ第一」の原点は、もしかしたら実は水俣にあったのかも知れない。

補償金の負担でチッソが倒産すれば、水俣は様々な意味でドン底に追い込まれ、死の町にすらなっていたかも知れない。当然ながら、藤井氏のところには水俣からのチッソを守って欲しいという嘆願もあった。

とはいえ、チッソを救済するための公的資金投入を、「あんなひどい会社はつぶれて当然だ」と思っていた世論相手に正当化する工作がいかに大掛かりだったのか、政府が直接に動いてまで水俣市民にチッソ擁護の世論を作り出そうとしていたというのは、さすがに驚く。藤井さんは「騒ぎを起こすいう言い方は好きではないが、その通りです」と認める。

だがその世論形成の結果、水俣で補償を受け取った患者への風当たりや差別が激しくなることまでは、政府でも考えていなかったようだ。ここはぜひ、もっと藤井さんに訊きたいところだ。結果を知れば当たり前の展開ではある。しかし事前に思いついたかどうか?思いつかなかった、気づかなかったことに責任はないのか?

藤井さんはNHKの取材に率直に応えていたが、もっと突っ込んで話を聴かなければならないことは多い。それは藤井さん個人の問題ではなく、公害の救済がただ「正義」を通すだけで済む問題ではなく、現代の社会の構造それ自体の欠陥に深く切り込まなければならない課題であり、水俣病発見から60年経った今でも思想的・理念的な大枠すらまったく未解決のままだからでもある。

今の藤井さんであれば、その責任から逃げるようなことはないだろう。

そして77年から78年の藤井さんは、ある意味で誰よりも公害問題の複雑さと根の深さを考えていた(考えざるを得なかった)人でもあるのかも知れない。その立場にいなければ「チッソはけしからん」で済むかもしれない。多くの国民は当然そう考えただろうし、だから藤井さんが国会でチッソの責任を追及する質問をすれば、政治家としての地位は築けたはずだ。だがそうやって悪徳企業のチッソを倒産に追い込めば、患者の受け取るはずだった補償金はいわば不良債権、判決も賠償命令も紙くず同然になる。

とはいえ、その藤井さんでさえ、自分が決めた国によるチッソ救済の結果として、自分が救おうとしたはずの多くの患者がかえって救われなくなった(2万人以上の未認定患者が今も苦しんでいる)ことは認めようとしなかった。

ここも藤井さんをもっと問いつめなければならないことだ。

久我メモには政府内部の恐ろしい言葉も残されている。患者への補償のための国費投入を「ザルに水を注ぐようなものだ」と言い切っているのだ。当時は藤井さんもその党員だった自民党も、福田内閣も、そういう立場からの認定基準の厳格化を追認している。チッソへの配慮のためにすでに不当な厳格さで運用され始めていた認定基準は、今度は国の財政、つまりは国民の財産を守るために絶対的なものとされた。

政府が支援することでチッソは倒産せずに補償金を払い続けることができるようになったが、その結果、患者とチッソの対立する利害の関係性のなかで、政府が完全にチッソ側になったというか、患者への補償が国の財政と国民の利害に反する構図になってしまった。チッソを患者の要求から守ることは政府の財政を守ること、つまりはあろうことか国民の財産を守ることとなってしまったのだ。

だからこそ藤井さんにはもうひとつ、どうしても問わなければいけないことがある。

患者のためには政府がチッソを支援するしかない、という藤井さんの決断は根本的には良心的なものだったが、それでもひとつ大きな問題意識の自覚が抜け落ちていはしないか?

なぜ水俣病被害がここまで広がり、患者が増え、国費を投入しても救済し切れないからといって患者数そのものを減らそうとする(つまり患者を切り捨てた)結果になったのか、そのそもそもの原因は、どこにあったのか?

言うまでもなくその最大の原因は、厚生省の内部では原因がチッソのメチル水銀だと分かっていて勧告も出ていながら、政府が「政治的判断」で原因の公式認定を遅らせたことだ。水俣の患者たちが、自分たちの「奇病」の原因が自分たちの食べた魚で、それがチッソの廃水に汚染されていたせいだったと知ったのは、公式発見の1956年から12年も経った1968年のことだ。

だから政府もまた患者の支援と補償に力を尽くさねばならないのは、単に政府として国民の生活を守る義務があるだけではない。水俣病の患者がこれだけ増えてしまった大きな責任と罪は、政府にこそあったのだ。

その時には、高度成長を支える優良企業、日本のトップクラスの化学工業企業だったチッソを守るのが政府にとって優先事項だったのであろうことも、想像に難くない。政府はだからこそ原因の究明をわざと先延ばしにしたのだろうが、この「未必の故意」状態の先送りのタイムラグのあいだに水俣でなにが起きていたのかは、土本が克明に証言として記録している。

『医学としての水俣病・第一部』の冒頭で渡辺さんが証言しているように、水俣病の症状がでた患者は、精を付けるためにかえって魚を食べる量を増やしていたりする。考えてみれば当たり前のことだ。「魚が原因」とは誰も教えてくれなかったのだから、漁民であればまず魚を食べて栄養をつけようとする。その結果、かえって患者はより多くの毒性の有機水銀を体内に取り込んでいた。

ほっておけば健康回復のために魚をより一生懸命食べるだろう、このような当たり前の想像力すら東京の役所にいる人たちはなかなか持てていないことは、今も変わらない。たとえば福島第一原発事故でも、まったく同じ問題が露呈している。

その想像力を持てなかったことそれ自体が、中央官庁や政治家の、巨大で罪深い能力の欠如であることから、我々も政治家も目を逸らしてはならない。「仕方がない」では済まされない。せめて「能力がなかった」ことの罪は反省しなければならないはずだ。

既に述べた通り、77年から78年の時期に水俣で起きていた重大な変化は、土本の水俣シリーズでは撮影されていない。そして土本の仕事があまりに偉大すぎるため、『不知火海』つまり70年代半ば以降の水俣は、かえって日本のドキュメンタリー映画史から抜け落ちた状態になってしまった。77年から78年に実は起きていた大きな動き(政府側の巻き返し)も、土本の映画がないのでなかなか知られない水俣病の歴史の一頁になっている。

『不知火海』が撮られたとき、患者達の社会的・政治的な戦いは一応は収束し、映画は「生きることの闘い」というか、水俣病との闘いとはすなわちいかに患者が人間らしく生きられるのかであるという問題設定に、映画の関心が明らかに移行している。

だがその数年後、土本が水俣を撮り続けられなくなった時に、患者たちはまず自分たちの健康な生活を奪った加害企業であるチッソを許すことができるのかという葛藤に追い込まれ、補償金を得たことが単に嫉妬されるだけでなく、チッソを苦しめているのだという差別攻撃まで、他ならぬ故郷の水俣から受けることになる。

ただでさえ結婚などで差別されるのを恐れて認定の申請すらできなかった患者たちはますます追いつめられ、その後に待っていたのは申請しても認められるのは10%以下という、国がこっそり設定していた高いハードルであり、その正体は日本の現代政治が自らを雁字搦めにしていた深い闇だった。

『不知火海』を頂点とすることで、土本の映画はなによりも患者たちの人間性の回復のための作品となったし、その患者と直接対峙することになった会社の側の立場までは、土本は『水俣一揆』ではっきりと映画に刻み込んでいる。しかし政治を直接に問うことまではやっていないし、当時の自主製作のドキュメンタリー映画にはその手段もなかなかなかったし、だいたい政府も自民党の政治家も、現役だった当時では絶対に取材に応じなかった。

しかし水俣病事件それ自体は企業の責任だとしても、その背後には大きな政治の流れが一貫して関与しており、政治の責任こそが重大だ。それがどんな関与だったのか、政府がなにを考えていたのかは撮られていないので、この事件を映画的に考えるときにどうしても抜け落ちがちだ。

逆に言えば、今水俣についての映画を作るのなら、今回はっきり因果関係が立証された国によるチッソ救済(これが患者のためにも必要だったことは、僕も認めざるを得ない。土本も認めていた)と、その結果としての認定基準の不当な厳格化の問題こそ、取り上げられるべきではないだろうか。

そして政府側の人間として藤井裕久・元参議院議員にもぜひとも映画に出て、もっと深く語ってもらわねければなるまい。

土本の水俣シリーズに限らず、日本のドキュメンタリーはこれまで、なかなか政治家の側、権力の側それ自体の問題に切り込むことが出来て来なかったし、政治の側でも映画に出ようなどとは思わなかっただろう。

今の藤井裕久氏であれば、その日本の戦後政治の根源的な問題をこそ語ることに、応じてくれるはずだとも思う。

公式発見から60年、水俣病事件は終わっていない。2万にもおよぶ未認定患者がいて、政治決着はなされたものの極めて不完全なままだ。裁判所も認定基準のおかしさを指摘する判決を出しているが、まだ確定・決着はしていない。いや、現行の認定基準の厳しさが政府のいう「医学的知見」ではなく患者への補償を続ける財源の不安から来た財政的ベースの判断に過ぎなかったことが立証された今、政治決着は白紙に戻し、そもそも政府の不作為によって多くの人が水俣病になった責任も含め、改めて問い直されなければならない。

しかも奪われた人生を取り戻すためのその時間は、ほとんど残されていない。

そのあいだに、当時3歳だった第一号患者の田中実子さんは、63歳になった。土本典明の映画には、まだ少女の姿だった田中さんが何度も写っている。その妹をずっと介護し続けていた姉の下田さんは、自身も中学生の頃から手のしびれなどの症状が出ていたが、差別を恐れて認定申請はしなかったという。やっと認定を受けようと思ったのは1978年以降で、10%にも満たない認定率では、認められるはずもなかった。

妹が重度の水俣病患者である。水俣病が食中毒である以上、同じ食生活で育って来た下田さんの症状が、水俣病でないわけがないはずだ。

これは土本が『医学としての水俣病』の、とりわけ第三部で指摘したことでもある----具体的な症状だけがベースの認定基準は、そもそも科学的ではない。

その下田さんは今回明らかになった経緯を知らされ、NHKのカメラの前でこう呟いていた。「人間的でない」「煩悩(熊本方言では「他の人間への執着」転じて「思いやり」の意味になる)が欠けちょる」。

今回のクローズアップ現代では使われていなかったが、おなじくNHKのETV特集では別の下田さんの深い言葉があった。ずっと面倒を見て来た妹よりも自分が寿命を迎えてしまうことの不安を語りながら、下田さんはその妹の実子さんを「生き甲斐」と呼んだ。

水俣では、まだまだ記録の映画が作られるべきだし、チッソ救済のための世論形成の内幕と厳格化された認定基準が生み出した深い亀裂は、映画が一本作られるべきテーマだと思う。

それは単に水俣病の歴史で抜け落ちている重要な一頁を埋めるためだけではない。私たちの戦後日本の社会と文明のあり方そのものに含まれる矛盾と限界が、ここに現れているからだ。

3/15/2016

5年経った「復興」の正体



3月11日はいわき市のJR泉駅近くにある、富岡町の仮設住宅で慰霊祭に顔を出して来た。2012年に最初の慰霊祭を撮影させてもらった時には、5周忌にまだここに来るとは思ってもいなかった。仮設住宅は本来2年の使用を前提に設計されているから「仮設」であり、法制度上もそうなっていたはずだ。



この仮設から出て行っていわき市内に家を構えた人も多く、住む人はどんどん減って、高齢化も著しいのは否定のしようがない。

慰霊祭の手配や司会を取り仕切っていた自治会の世話役である、ほぼ同世代の友人も、すでに小名浜に家を持ち、いわき市内で新たな職を得て熱心に働いている。

富岡町では来年4月に、引き続き帰還困難になる以外の地域の避難は解除されるが、「普通だったらいわきに車で通勤することも出来なくはない」とはいうものの、帰還困難の線引きはその元の家からわずか200m先だし、その区域に入る大きな道路や町の設備は使えないままだ。町内でいちばん日常で使う大きなスーパーも帰還困難区域の手前の国道6号沿いで再開の目処が立たないまま、確か自衛隊だったか東電関連企業に貸されたか買い上げられている。



そして町のかなりの部分(桜の名所の夜の森も含む)が、今後もいつまで人が住めないままなのか分からない場所になり、北隣の大熊町、その北の双葉町は大部分が除染廃棄物の「中間貯蔵施設」になってあと30年は人は住まない。

これで本当に「復興」できるのか?いや単純に、帰って生活できるのだろうか?



富岡町の南隣の楢葉町では昨年に避難が解除されたが、帰った人は400人強で人口の6%だそうだ。

楢葉の場合は、主な日常の買い物に行く先が富岡町だったし、地震で痛んだ上下水道や道路などのインフラ、さらには医療などの生活の基盤はまだまだ整っていないし、しかも4年、5年と放置せざるを得ずに痛んでしまった家をどうするのか?

楢葉町の仮設住宅 いわき市内郷白水
兼業農家が多かった双葉郡で、これからなにをして暮して行けばいいのだろうか? 避難先の、たとえばいわき市や郡山での生活がやっと落ち着いて来ていることは、どうすればいいのだろう?

決して故郷に愛想がつきたわけでもなく、見捨てたわけでもないのに、実際問題として帰るのは難しい。町にあった商店で再開したところもあるが、原発や除染の作業員相手が中心の商売で、そこで暮らす基盤となるようなやり方をとろうにも経営が成り立つ目処がないという。

部外者は、放射能があるから帰らないのだと思いがちだが、楢葉町はもちろん、富岡町でさえ場所によっては線量は元から低いし、宅地や農地の除染も(膨大な公共予算を使って)かなり徹底して行われた。


元々、東電の二つの原発と広野町にある火力発電所で2万の直接雇用があったのが、人口8万の双葉郡だ。放射線や放射能に関する知識は元から東京などとは比べ物にならないほど詳しい人が多いのも忘れてはならない。「直接の被曝影響が出る可能性は低い」という一般的に示された見解の意味も正確に理解されているのに、それでも帰らない・帰れないのが、4年も5年も故郷を放置させられて来た人たちの現実だ。

また放射能や放射線について東京などとは比べものにならないほど詳しいということは、除染の限界についてもちゃんと理解されているということでもある。

一応科学データの根拠があるとはいえ、帰還困難のままになる場所との線引きはあくまで行政の恣意性で引かれるもので科学ではなく、この線を超えたらいきなり危険になったり安全になったりするわけがないし、宅地や農地、平野の部分は除染が行われたが、山と森林はその限りではなく、放射性物質が降り注いだままの常緑樹や、落葉樹でも放射性物質は地面に留まったままで、自然に崩壊して減るのを待つしかない。

それに福一それ自体は「冷温停止」と政府が宣言していようが、放射能漏れが完全に止まったわけではないし、溶融した核燃料の所在が確認されて安全が完全に確保されたわけでもないことも、これまで原発で働いて来た人も多いからこそ、よく分かっている人もまた多い。

ここへ来て、また不安な報道が最近出て来ているし、むしろこれまでよりも遥かに深刻だ。

「福島で鼻血が」といった荒唐無稽なデマはただ迷惑でありウンザリするだけだったが、4年、5年と経って福島県内で徹底して行われている子供の甲状腺検査の結果、これまで甲状腺がんについて言われて来た人口当りの発症率のだいたい30倍の患者数が出て来たと言われているのだ。

新聞は律儀に「両論併記」で、関係性は論証出来ないという学者と原発事故由来だと主張する学者の見解の双方を付き合わせているが、となると前者は公的な立場にある側の見解でもあるので、どうにも後者がより信じられそうに見えてしまう。なんと言っても子供の健康と生命に関わることだし、若い世帯を中心に慎重になるのはやむを得ない。

これは関係がない(ないし、「なさそう」)と言っている側の言い方も悪い、説明も足りないのかも知れないし、それ以上に、なぜ「ない」と考えられるのかの理屈に興味を持たない(ないし理解できない)ので説明を報道しないジャーナリズムの問題が大きい。

もちろん、甲状腺がんの原因物質となる放射性ヨウ素が多く環境中に存在していた(半減期は8日と、とても短い)震災と事故発生直後の個々人の被曝量を正確に把握することはとても難しい(どこに何時間いてなにを食べたかを正確に思い出せるかどうかも怪しい)が、ごくごく一部(たとえば福一の敷地内)を除けばそんなに大量に放射性ヨウ素がある環境下にいたり、放射性ヨウ素を多量に含むものを食べた可能性は極めて低いし、仮にそんな過酷な状況が例外的に福島県内にあったなら、はっきり言えばもっと大量に甲状腺がんが見つからなければ理屈に合わない。

言い換えれば、甲状腺がんが見つかった子供が集団でまとまっているのならともかく、だいたい同じ環境で行動していた(たとえば、同じ避難所にいた)子供のうちで患者が一人だけと言うのなら、放射線の影響は考えにくい。ほぼ同じ被曝量ならば、甲状腺がんが発生する確率も、そう個人差で左右されるわけではないはずだ。

個人情報に関わることでもあり、福島県の具体的にどこで子供の甲状腺がんが発見されたのかの詳しい分布を出すわけにもいかないのかも知れないが、原発事故の放射能漏れによる汚染が強い地域と甲状腺がんの発生数の相関関係でも示されれば、恐らくほとんどの人は「なるほど、確かにあまり関連があるとは思えない」と考えるのではないか。恐らく、だからこそ医学者・研究者の圧倒多数が「関連性は考えにくい」という見解になるのだろうが、その根拠をなるべく分かり易く一般に知らしめることについては、十分な努力が成されているとは言い難いし、専門家だけでなくメディアの責任も大きい。

「関連性がない」という研究者の言葉に納得出来ないのなら、とことん質問してまず自分が理解できるまで説明してもらうのが、ジャーナリズムの仕事ではないのか?

だが風評被害や不安が収まらないことについて、もっと大きいのは政府や行政の稚拙な世論対応の責任だ。どうも福一事故の放射能の拡散やその影響は(おそろしく幸運なことに、つまり遥かにひどいことになっていてもおかしくなかった)そこまでは深刻ではないようだ、というデータを見る限り科学的にほぼ精確な見解でも、原発の再稼働に躍起な政府がお墨付きでも与えたつもりになればなるほど、かえって信用出来ないのも当たり前だ。

山下俊一博士が事故当初にさんざん謂れのない中傷でバッシングされたのがいい例だが、ただ研究者・医師として誠実に言ったことでも、政府や行政がそれを支持してしまうだけで、かえって痛くもない腹を探られ邪推されてしまうのも、3.11以降の歴代首相が誰一人として在任中に原発政策の抜本的な見直しなどを口にして来ていない以上、当たり前なのだ。

菅直人氏に至っては、首相を辞めたとたんに反原発の主張を公言するようになったのだから、これではますます行政が信用できなくなって当然だろう。

今はまず福一事故の収束と検証を最優先し、原発政策の今後はその結果を見て決めるという、本来当たり前の態度を示しすらしなかったのが菅、野田の民主党の両総理で、しかも菅氏のあんな掌を返したような退陣後の豹変っぷりがあるのなら、政府のなかではよほど原発について語ることがタブーで、官僚が必死で脱原発の動きや福島第一の事故に関する “真相” を隠蔽しているのだ、と国民が疑ったとしても、むしろ当たり前だった。

なんとも足下のふらついた民主党政権が倒れ、安倍政権は特定秘密保護法や安保法制と並行して原発の再稼働も世論の反発を無視して強行しようとしている。これでは政府発表の中身でも時には事実に基づいて正確であっても、信用しろというのは無理がある。

菅政権の時には元TBSアナウンサーの下村健一氏がメディア担当の補佐官になったり、劇作家の平田オリザ氏が鳩山首相のスピーチ執筆に協力したり、菅政権でも官邸からの依頼に応じたりしていたらしいが、その割にはメディア対応の基本すらなってなかったと言わざるを得ない。安倍政権に至っては世界に冠たる大広告代理店の電通が広報を全面的にがっちりサポートし、膨大な国費で儲けてもいるというのに、世論がどう形成されるのか、人の心理の基本すら考えていないのでは税金の無駄遣いもいいところだ。

風評被害はもちろん、「福島で鼻血が」とか言いふらした人たちに直接の責任はあるとはいえ、総体で言えばそうしたデマが収まらない理由には政府のやり方があまりに稚拙だったことが無視出来ないのが、安倍政権に至っては再稼働こそが最優先、そのためには都合の悪い情報を隠蔽することこそ自分達の使命だとでも思い込んでいる態度に見える。これではしっかりと科学的な反論ですら「政府の意向だ」と邪推されるだけで、風評を打破どころか、なんとか押さえ込むことさえ、無理な相談ではないか。

これだけの過酷事故が日本の原発で起こったのだ。今後の原発政策のありようや、原発を再稼働させるかどうかは、まずこの事故を終息させる目処が立ち、なにが起こっていてなにが問題だったのかのきちんとした検証を経て、いちから考え直すべき問題でなければおかしい。

もしポーズだけでもそうした態度を菅直人政権の時点で鮮明にしていれば、実際には「隠蔽」もなにも圧倒的な情報不足(福一では停電でほとんどの計器が止まっていた)で隠せる情報すらなかった段階でも、国民の信頼を得ることは出来たはずだ。

だが菅・野田の民主党政権、そして自民党の安倍政権を通じ、一貫して政府はその誠実な努力のカケラすら見せていない。これでなし崩しのまま再稼働だなんて、まともな民主主義社会であれば正気の沙汰ではない。

むろん、原発事故とはどういう非常事態なのかを報道して来たはずが、放射能はなにが危険なのかもあやふやなままのメディアの責任も大きいし、これはそれぞれの社や個人が原発に批判的なのか推進派なのか以前の、報道の基本中の基本の矜持の問題のはずだ。

はっきり言ってしまえば、政府も地方行政も報道も、自分の「立場」だか「意見」だか以前に、まずみなさんちゃんと自分の仕事の基本をやって下さい、ということだ。それなしには福島県が風評から救われることもないし、どんなに金を注ぎ込んだって「復興」もあり得ない。

その肝心の、福島に限らず震災と津波被害からの復興の方も、いつのまにかこの5年で国費26兆円が注ぎ込まれ、それがこれからの5年は5兆円しかないそうだ。これも「いつ決ったの? もっと早く言ってくれよ、それ」と思わざるを得ない上に、「前向きに」とか「故郷を忘れない」とかの上辺の精神論にばかりにメディアも世論も乗せられて来たあいだに、その26兆円の使われ方のほうもいつのまにか、ずいぶん凄いことになっていたのが、5周年になってやっと国民にも知らされ始めている。

いわき市 久之浜 2011年12月
いわき市の場合、もっとも被害がひどかったのは久之浜、薄磯、豊間、永崎といった海岸の地域で、久之浜は津波被災後の大火災で町の海側が丸ごと消えてしまったし、薄磯も山のふもとのごく一部の高台を除いて町がほぼ流されてしまい、震災一年後に撮影に行ったときも凄まじい廃墟の風景だった。

久之浜 津波に流された家の基礎と、稲荷神社 2012年4月
その久之浜は、今はこんな状態である。



三周年の時点で家の基礎などの廃墟はすべて取り払われ、少し高台にあって津波にも火災にも耐えた稲荷神社が残っていたのが、いまや稲荷神社は周囲の地面と同じ高さになり、海側の巨大な丘から見下ろされるかっこうになる。この丘の向こうには、津波で壊れていた以前の堤防よりもはるかに大きな堤防が建てられている。

久之浜 2014年

大地震の影響で海岸地帯全体で地盤が下がっていて、かさ上げが必要だとは言われて来た。

久之浜 2016年3月11日
二度と津波で死者を出さないため、というかけ声でこれだけの大規模土木工事が行われ、なるほどこの土地は安全になったかも知れない。だがそれでも、ここは「津波が危険」ということで、居住は禁じられ、公園になるそうだ。



福島県に限ったことではない。

たとえば、宮城県女川町は新しい駅舎が完成したり商店街がオープンしたりで4周年からは「復興のシンボル」的に報道されることも多かった。もともと中心市街地が津波に浚われたのだが、そこに高台の土地を造成しても、住むことは「津波が危険だから」できない。店舗兼住居が当たり前だった地方で、商店主は都会のように通勤することになる。住宅はもっと奥地でないと建てられないと政府の方針に応じて決められている(そうでなければかさ上げ・造成計画に国の予算が出ない)のだ。

津波危険地域は住んではいけないので、津波に耐えて修理すれば住める家でも立ち退かざるを得なくなり、代替地は今後分譲されるものの、5年も待って疲弊した被災者のうちどれだけの人が、自己資金でそこに家を建てる気力を持っているのだろうか?

女川でも(原発があるおかげで町の財源は豊富なのに)人口流出は止まらないという。災害復興状宅は集合住宅の形式なのに一戸あたり建物だけで3千数百万というが、空き部屋も多いそうだ。

再び、いわき市の津波被災地に話を戻そう。



これはかつて、日本の海水浴場百選に入っていたという薄磯の、5年後の姿だ。

震災後しばらくは校庭が瓦礫置き場にされていた豊間中学校は、今やどこにあったのかも分からなくなってしまった。道路自体が作り替えられているのだ。

いわき市薄磯 豊間中学校 2012年3月11日

動画の後半は、塩谷崎灯台を挟んで南側に隣接する豊間だ。



僕たちが2011年4月に撮影した『無人地帯』で、津波の直撃を受けても耐えた築140年の家と、そこに住んでいた四家さんご夫妻に出演して頂いた場所だ。

この先祖伝来の家を修理して住むつもりだったのが、市の方針に左右され続けて修理も始められないまま、結局は取り壊しが決ったことは、2014年の2月に連絡を頂いていた。

2012年3月の四家邸 いわき市豊間
ここの道路は以前のままなので、「ここだったはずだ」ということだけが、辛うじて分かった。



一方、JRいわき駅の周囲の平地区の田町は、元から少しガラが悪い(失礼!)飲屋街だったが、それがずいぶん繁盛している。歩いていると、あちこちから「マッサージどうですか」とカタコトの、中国やフィリピンの訛りの日本語で声をかけられる



堤防造りにかさ上げの大規模土木工事と、さらに原発事故の収束作業や除染の拠点になるのもいわき市で、しかも原発事故での避難者で人口も増加し、交通渋滞などが増える一方、経済はとても潤っている。

田町から外れた、駅前の大通りの反対側にも、こんなアジアン・パブが出来ていた。



一方で、以前にはよく行っていた、富岡町から避難していたタイ料理店「サラータイ」が見当たらない。その店舗には「お化け屋敷」という、なにやら怪しげな店が入っていた。

中国やフィリピンの出稼ぎ女性たちの生き抜く、稼ぐ意志の強さは逞しいと感じ入りつつ、ふと思う。

富岡町にあった「サラータイ」も含め、かつて福島浜通りには東南アジアからやってきて日本人と結婚して暮らす女性が多かった。震災直後には、北の南相馬のほうでは、奥さんと子どもたちをフィリピンに帰した酪農家の男性が命を絶ち、この原発事故の最初の自殺者の一人となった。

今はストリップや風俗業や「マッサージ」つまりは売春でお金を稼ぐために、東南アジアや中国から女性たちがこの事故を起こした原発から南に40Kmの町で、生きている。

そこはかつて、決して豊かではないが、日本本来の農村的なコミュニティのおおらかさが辛うじて残されていた地方だった。



しかし一方で、いわき市のかつての主要産業が石炭で、今は双葉郡にふたつの原発があり、浜通り全体では火力発電所が4つある、国のエネルギー政策と、浜通りはとくに首都圏の電気を支える地方にもなっていた。

福島県が東京の電力の供給基地になったのは、昭和3年の地震と津波の「復興」政策がきっかけだったという。

福島に限らず、それまで東北地方では地元ベースの小規模な発電所が多かったのが、当時の軍需産業に必要な電力を京浜工業地帯に供給するために大規模に組織化され、「復興」は昭和6年の満州事変で始まった15年戦争と軍国主義の国策に組み込まれて行き、養蚕という明治期の大きな産業が次第に凋落していた東北地方は、さらに都市の工場で働く出稼ぎ労働者と、陸軍の歩兵の多くの出身地にもなり、戦後も一貫して差別的な扱いを受け「後進地帯」扱いに甘んじて来た。

21世紀の未曾有の大震災と津波被害、さらには原発事故まで起こった三重災害の「復興」は、今どこに向かっているのだろう?いや、最初から本当はどこに向かっていたのか、そう問うた方が正確だ。

はっきり言えば、この震災の「復興」は、実は最初から被災地ではなく日本経済の「復興」を考えてプログラムされていたことが、今や誰の目にも明らかだろう。

「絆」や「前向き」「故郷」というかけ声の陰で、実際に粛々と進められていたのは、大規模土木工事への財政出動だった。その総額26兆円、「アベノミクスの成果」をしきりに吹聴して来た安倍政権だが、なんのことはない、ここまで大量の“真水”を注入していれば、実態経済がいずれ上向かない方がおかしかっただけの話である。

第二次安倍政権の初期には実際に景気が少しはよくなったように見えたのは、安倍政権の功績でもなんでもなく、菅・野田の両政権が「復興」「絆」のかけ声で国民を騙してくれたお陰に他ならなかった。

いやだったら、最初からそのつもりだと正直に言ってくれていたら、まだよかったのではないか? 26兆円の使い方にしても、もっと日本の景気を建て直すのにも有効で、かつそこで造られたモノが被災地の復興に役立つように計画できたはずだ。

原発事故の発生当時には「政府の隠蔽」がさんざん疑われたが、実際に隠されていたというか誤摩化されていたのは、政府が隠蔽するほどの情報も持っておらず状況をほとんど把握できていなかったことだ。だがその一方で、「復興」と称する政策の不正直さは、みごとに国民から隠されて来た。

残されたのは大堤防と盛り土で津波から「安全」になったはずなのに住んではいけない海沿いの土地であり、これまた莫大な公金をかけて住む人がいないかも知れない高台移転の造成地であり、妙に建築費が高価だった割には変に都市的で被災者たちの生活文化とはちぐはぐな復興住宅と、そのぶ厚い鉄筋コンクリートの壁と鉄のドアのなかで孤立を深める高齢化した被災者たちであり、一方には26兆もの公金投入にも関わらず一向に上向かない日本全体の実態経済があり、もはやマイナス金利にまで踏み切った日銀大盤振る舞いの金融緩和…は黒田総裁が就任当時から「金融緩和は止めるタイミングが難しい」と言っていたのが、本当に止められないまま、まるで金融緩和というカンフル剤の薬物依存症になったかのような日本のマーケットの現状がある。

『無人地帯』(本編配信 Netflixもあり

東北地方の人たちは寡黙で、本音を言わない、という偏見が以前から根強かった。かくいう僕自身が家系的には父方は上方・兵庫県母方はさらに西の広島と山口の太平洋岸という素性で、そういう東北への思い込みに囚われがちな方だった。それがこの原発事故を機に『無人地帯』(2012)という映画を作り、その続編も撮影は終え、浜通りの人たちと接する機会を持って、まったくそんなことはないと分かった。

この土地の、津波や原発事故の被災者の人々はむしろ饒舌だし、その言葉は雄弁だし説得力もあるのは、それが正直でやさしい言葉だったからだ。

その正直さとやさしさこそが、この「復興」と称する過程の全体構図には欠如していたことに、5年経った今気付く。震災は、人命や奪われた土地や漁業・農業の生活以上に大切かも知れなかったものを、この日本という国から奪ってしまったのかも知れない。

いやそれは、天変地異が奪ったのではない。これは僕たち日本人の精神の人災だ。

いわき市 豊間 四家夫妻の家の跡 2016年3月12日 

7/11/2015

ギリシャとEUの必然的な危機はどこへ向かうのか?

『旅芸人の記録』1976年、監督・脚本テオ・アンゲロプロス

ギリシャの財政と経済の今後を巡って世界が大揺れに揺れているかのような騒ぎになっている。あまり影響がないとされる日本の株価ですら、ギリシャ政府が円建て債権(いわゆるサムライ債)の利子は滞りなく支払っても下落し、ギリシャ国民がEUの提示する緊縮策を受け入れなかったことに日本でも(いや、後述するようにむしろ日本でこそ)非難が集中した。

現代の金融・証券マーケットというのは、どんな些細な動きでもそれによって変動がなければ儲からない投機筋が優遇されるシステムになっているから、なんにでも反応して株価が動いてしまうわけでもある。

いわば過剰反応であることを、そう世界経済の明日が危ないとか深刻に考えるまでもなさそうに思える。だいたい、人口たった1千500万、東京都により少し多い程度の小国で、主な産業は観光、農業、漁業だ。

しかし一方で、このギリシャを巡る事態の混乱には、この世界の将来の方向性にとって真剣に考えなければならない問題がいくつも含まれている。

現代のニュースの特性で、昨日起こったことすら新しいニュースでつい忘れがちになるが、ギリシャが急に危機になったわけではないことは、まず抑えておくべきだ。ギリシャの財政赤字の実態が表面化したのは確か5年だか6年前(と、こんな調子で記憶がうろ覚えになってしまうのが現代)だったと思うが、以来ずっと緊縮策が続いていることすら、部外者でしかない我々はついつい忘れがちだ。だが緊縮がもう5年も続いている大不況を思うだけでも、ギリシャの国民投票が緊縮策に「OXI ノー」となるのは、そう責められる話ではない。失業率が25%前後、若年失業率が49%超はEUに強要された緊縮財政の必然的な結果であり、ただ「もうウンザリだ」というだけでなく、このままギリシャの景気減退が続けば永久に負債の返済は不可能になるのではないか、とも誰だって思いつく。

我々日本人にとっては「借金は返さなければならない」が常識にみえ、ギリシャを寓話「蟻とキリギリス」に喩えて怠け者だとなじり「借りている方がなんと厚かましい」と思うのも健全な庶民感覚だと思いがちだが、この日本ですら過去には「徳政令」つまり借金棒引き命令が善政として行われた歴史だってある。

『20世紀の資本』が大ベストセラーになった気鋭の経済学者トマ・ピケティらがEU側の緊縮策強行を批判する公開書簡を出したように、経済学の視点からすれば「借りた金は我慢して返せ」は倫理的には正しくとも、現実的に正しいとは限らないのだ。

http://www.thenation.com/article/austerity-has-failed-an-open-letter-from-thomas-piketty-to-angela-merkel/

「借金はしないように」や「無駄遣いはやめましょう」、「倹約」は個人のモラルや人生訓、個々人の付き合いレベルの社会的な倫理としては正しいが、しかし経済政策としては可処分所得が満遍なくあらゆる階層で増えることこそが景気の維持と成長には有効なのだ。

極論すれば近代資本主義の成立以前の世界で、徳政令は庶民優遇の善政である以上に、即効性の高い景気浮揚にもなっていた。

資本主義の現代でも、実を言えばギリシャを「厚かましい」と言っている日本にしても、金融緩和つまり低金利政策は平たく言えば借金をし易くして利子の支払いを減らしている借り手優遇だし、インフレ・ターゲットとは、貨幣の価値を下げる借金の実質目減り策である。

それにこの危機の原因は、なにもギリシャの政治がばら撒き政治で国民が怠け者で、勤勉なドイツ人が不公平さにうんざりだしているとか、そう単純な問題でもない。

6月30日の欧州中央銀行への返済期限が過ぎ、全土で銀行が閉鎖されたのを受けて公共交通機関が原則無料、携帯電話も無料化されたと聞いて「非常識だ」と怒るコメンテーターがテレビに出ているが、ここで怒っているのが「識者」の立場なら、経済学の観点からみても、現実的にも、実のところよほど非常識でもある。

一日の引き出し限度が60ユーロと、使える現金が限られている時に、社会的混乱を避け少しでも経済活動への悪影響を減らそうと思うなら、チプラス政権のこの処置はむしろ賢明で合理的だ。考えても見て欲しい、手持ちの現金に余裕がなくなりそうだから節約してみんなが外出を控えてしまったり、時間がかかってもひたすら歩くようになってしまっては、効率が悪過ぎて経済活動はいっそう停滞する。

もちろん電車に乗るよりも時間に余裕をもって一駅歩く節約の精神は決して間違ってないし、健康にもいい。だがそれでも、物事には限度がある。

確かに、これまでのギリシャの政策はあまりに放漫ばら撒きに思えるかも知れないが、この危機を誘発した真の問題は、まずなによりも構造的なものだ。

ギリシャが実のところいわば発展途上国なのに、ドイツやフランスや北欧諸国のような最先端の先進国と同じ通貨ユーロを使いながら、財政は国ごとに別個独立という、ヨーロッパ共同体の構造そのものに矛盾があり、リーマンショックまでそれは隠蔽されていたが、そのリーマンショック以降は、もはやそれが可能な時代ではなくなってしまっているのだ。

ギリシャの財政収支それ自体が粉飾決算であったと分かったのは、リーマンショックを受けた翌年のことである。
リーマンショックの原因自体が、これは個人レベルで不良債権となる可能性が高い債権が金融商品化されていた、いわば粉飾決済の商業利用であったことと、ギリシャの財政がいわば借金を返すために借金を返す状態になって借金がねずみ講的に増えていたことは、ある意味で同様の現象とも言えるかも知れない。どちらも市場にマネーがあふれているあいだは回転し続けていて、そもそもの問題が発覚しなかった。

最初から実は早晩破綻するのは当たり前だったこの構造は、しかし一方ではドイツであるとか北欧諸国のような輸出型産業の先進国にとって一方的に有利にもなっていた。

変動通貨制の「信用」の機能と、通貨防衛政策のメカニズムについては、経済学の入門書でも読んだ方が筆者が書くよりもはるかに分かり易いはずなので、ここでは簡単にいかにこれがその実無茶な話なのか、実感し易い簡単な喩えを言っておく。

島根県が税収の不足を、中央政府からの地方交付金で補うのではなく、足りない分を日銀から借りなければならなくなったら、島根県の財政や公共サービスはどうなるか?

ギリシャの場合さらに大変なのは、日本なら国がやる行政サービスも全部その大きな産業基盤がなく税収不足の地方自治体がやる、となったら、県なら県の財政が破綻するのは当たり前だ。

日本でならば国税の納付額がいちばん大きいのは恐らく東京都だろうが、東京都民の利害を代表して都知事がいきなり島根県に「これまでの地方交付金を返還すべきだ、国民は平等なのだから」と言い出しているような話が、今のドイツとギリシャの関係でもある。

「ちょっと待て、ギリシャとドイツなら別の国ではないか?」と訝しがらないで欲しい。それ以上の格差がある先進国ドイツとギリシャのような実態は発展途上国が、同じユーロという通貨を使っているのだ。

その意味ではドイツとギリシャの関係は、「同じ国の先進地域と後進ないし衰退地域の関係」に等しい。ところが通貨は共通なので金融政策も同一にならざるを得ないのに、財政は国ごとに別建てになっていて、一体化されていない。

弱い側のギリシャには、自国の独自通貨の公定歩合を変えるなどの通貨防衛で自国経済の保護という手段が使えず、一方でそのギリシャのような国も含まれるが故にドイツの経済的実力からすれば遥かに価値が低いユーロが、ドイツの輸出産業にとっては有利になる。また同じ通貨である故にドイツの資本がギリシャに投資されるのも容易になり、そこで金を貸すことでドイツ等の製品がギリシャで買われ易く(単一通貨なので通貨の違う、たとえばアメリカや日本の製品よりも売り易い)、つまりドイツの銀行がギリシャ国債を買うことは、ドイツ産業のマーケットの拡充にもなって来た。

そのドイツの銀行にとってだって、そもそもユーロ体制が故の好景気で預金は増えても、好況の企業は資金を自力調達出来るので、貸し出し・投資先がない。ギリシャにお金を貸すことは、そのだぶついた預金のかっこうの受け皿にもなっていた。借金は、資本主義の世界では、利子が払われ続ける限りにおいては健全な資産として勘定される。

日本における島根県と東京都の格差のように、単一の国家の内部なら、国全体の均等な発展で社会の安定性と国力全体の底支えのために、地方への財政出動が行われるが、ユーロ圏は通貨と金融政策は共通なのに、財政は国ごとに別個になっている。財政出動の代わりにドイツを中心とした銀行の資金が貸し付け先を求めてギリシャ政府の供給され続けられた間は、借金が増えても利子さえ返済されていれば、銀行の経営は廻り続けて来た。

だがその際限なく膨らみ続ける雪だるま的な図式が成立しなくなったとたん、貸し手にとっては利子を生み続ける資産であり続けていたギリシャの借金は、不良債権となる。

いざそうなると、財政が別個であるために、今度はドイツ国民やフランス国民などにしてみれば自分達の税金を他国のギリシャの救済に使われるように見えるし、それは我慢ならないというのも一見自然な反応に思える、そのことがギリシャ危機に対して本来とられるべき方策が行えない事情を作り出している。

ドイツやフランスの政府だって実は緊縮策をこれ以上ギリシャにやらせることが決して現実的に有効な手段でない、むしろユーロ体制の存続にとって不必要な危機すら招きかねないことは分かっている
だが国民の感情に分かり易く逆行する政策には踏み切れないのが、大衆民主主義の体制の弱みでもある

ギリシャ国会議事堂
しかもギリシャの経済や財政の実態は、勤勉に働き納税して来た自分達はなにも悪くないと信じて疑わない(自分達は真面目に働いて、努力した者の報いとして豊かになったと自分たちでは思っている)ヨーロッパ共同体のうち先進国の側からすれば、確かに腹立たしく見える。

だからギリシャや、あるいはポルトガルのような「厄介もの」は排除したい、あるいは自らがEUから離脱したいという動きはイギリスでは既に起こっていることでもあり、それはそれらの国々の視点からすれば一見もっともらしく思える。

なにしろドイツ等の銀行からの潤沢な資金が供給され続けた(利子は返せたから借金がどんどん増えた)そのあいだ、ギリシャでは公務員が労働人口の1/4、つまり借りたお金はその給料となってギリシャ全土を言わば「食わせて」来てもいた。年金の平均額もかなり高く、これも国の借金で賄われていたことになる。

その一方で脱税が横行する社会であるのも有名で、実態経済の1/4から1/3が、徴税の対象にならない「闇経済」ではないかとも言われている。いくら根本にあるのはEUの構造的な問題だとはいえ、これはあんまりだと思うのも分からないではない、とそれだけ聞けば日本人は思ってしまうだろう。

どうもこういうブログ・エントリーを書いているとついつい「知らないのが問題だ、教えてやる」的な態度になってしまいがちなのはくれぐれも自制すべきであって、遠い西洋の、地中海の国の話だから知らないのは無理もない。しかしそれだけなら構わないとはいえ、知らないままに偏見で決めつけてしまう傾向がどんどん強まっているのは、現代日本社会の(とくに都市部の)明らかな問題に思える。

遠いギリシャのこと(あるいはアラブの春にせよ、イスラム国問題にせよ、イスラエル=パレスティナ紛争にせよ)で先進国目線の決め付けが多いどころか、日本国内の地域格差に関してでさえ、たとえば東京などの都市圏の日本人が十分に理解しているとは言い難く、その誤解と偏見故に補助金や地方交付税の問題は都市部の潜在的な不満の材料であり続けている。

高度成長期の後半に、日本では中央に遍在する経済産業の発展を少しでも万遍なく全土で享受出来るように、田中角栄が「日本列島改造論」をぶち上げて、公共事業による雇用で地方経済を支えて来た伝統が今でも様々な局面に残ってもいるし、そこへの不満がなにかある特定の地方で問題が起こるたびに噴出するのも、右派か左派かに限った話ではない。

福島第一原子力発電所の事故が起これば、地元は「原発マネーで汚染されている」という論が、放射能汚染への差別とともに、いわゆる「左側」から噴出した。はっきり言ってしまえば放射能に関する風評被害ですら、補助金つまり我々の税金で「潤って来た」原発地元への嫉妬心の暗喩的なカムフラージュとすら分析できる

一方で、沖縄県が辺野古新基地の建設に明確に反対の意志を表明すると、今度は沖縄振興のための様々な補助金、交付金の類いがあたかも基地の存在を受け入れその被害を耐え忍ぶバーターであったと言わんばかりに、補助金返せ、沖縄は恩知らずだとの声が「右派」から噴出している。

このどちらでも、福島には原発が、沖縄県なら米軍基地があるから経済が成り立っているのだろうという思い上がった決め付けが前提になっているが、実際には福島県内で原発にある意味依存した経済構造があったのは浜通り・双葉郡限定で、確かに人口8万で東電の二つの原発と火力発電所ひとつ(広野火力発電所)の直接雇用が2万といえば、その経済は原発なしには成り立たなかったと言うことにはなるが、およそ福島県全体に敷衍できる話ではない。

沖縄の場合はさらに極端な誤解偏見であって、基地関連の雇用等の経済効果は今日ではせいぜい5%程度と計算されている。観光業の成長が著しく農業生産も伸びている同県では、基地はむしろ「邪魔」だから、地元の経済界など保守系こそが、反対派の翁長知事を強固に支持している現状がある。

だいたい翁長氏自身が、元は自民党沖縄県連の幹事長だ。今の沖縄の反基地闘争は、むしろ伝統的には保守派の流れの運動だし、辺野古新基地に反対する理由はただ「環境破壊」だけでなく、ここが返還されれば極めて有望な観光開発が期待されるからでもある。

ギリシャ問題についての比較なら、むしろ沖縄の方が島根県より適しているかも知れない。ギリシャも沖縄県も、主要産業は観光・農業・漁業で、ギリシャはヨーロッパ市民から見て、沖縄は日本本土の人間から見て、ともに憧れの南方の、リゾート地でもあるだけではなく、西欧にとってのギリシャも、日本本土にとっての琉球(沖縄)も外の世界との接点にあたる地政学上の要衝であり軍事的にも重要になる。沖縄なら日本にとって東シナ海、台湾や中国本土、さらに南シナ海に通じる交易路に位置し、ギリシャは西欧から見ればトルコなど中近東にも、ボスポラス海峡を通じて黒海、ロシアへと繋がっている。

ギリシャが西欧から見ればヨーロッパ文明の源流であるという歴史的な意味だけでなく、この地政学的な位置づけが、実のところギリシャの政治がなぜこうなってしまったのかの原因にあるのだが、日本のメディアに出て来る「識者」は、たとえば元駐ギリシャ大使でも、近代以前にオスマン・トルコ帝国に属していたことをなぜか「植民地」と誤った認識で語る割には、近代ギリシャの独立後のことはなぜか口をつぐんでいる。

だが現代ギリシャ人の国民性というか自国の政治との関わりや政治体制には、トルコ時代よりもその後の歴史の方が遥かに深刻な傷痕を残していることを理解しない限り、国民投票でギリシャがEU諸国に「OXI ノー」を突きつけた理由も、なかなか理解できない気がする。

端的に言ってしまえば、現代のギリシャ政治もギリシャ人の国民性も、1974年まではそうとうに激しい軍政だったこと、その軍事独裁政権がアメリカとNATOの支援で成り立っていたこと抜きには語れないし、第二次大戦中にはナチス・ドイツに占領されたこと、その占領から「解放」したはずのイギリスがちっとも「解放軍」などではなく脅迫と弾圧を繰り返して名ばかりの自由選挙を強要し、王制派と共和派の激しい内戦でギリシャ全土が引き裂かれたこともまた、忘れてはならない。

1975年にカンヌ国際映画祭を席巻したギリシャ映画『旅芸人の記録』は、この軍政の終焉直後に作られ、直接的には1939年から1952年、第二次大戦、ナチス占領、共和派の弾圧と軍政の成立までを描きつつ、ギリシャの古代史と地中海と太陽にのみ憧れて来た外部の人間の知らない歴史の継続的トラウマを凝縮した作品だ。ある意味、外国人にとって現代ギリシャを理解するのにもっとも手っ取り早いのは、このテオ・アンゲロプロス監督作品を見ることかも知れない。

『旅芸人の記録』予告編

撮影のヨルゴス・アルヴァニティスと録音のタナシス・アルヴァニティスの兄弟の父はドイツ占領下では対独レジスタンスで戦い、戦後は解放者ではなくすぐに弾圧者になった英国軍に抵抗するパルチザンとなり、留守宅の母が身代わりで逮捕されたという、そうした体験はこの一見様式性と神話性を極めたようにも見える作品に、生々しく反映されている。

軍政が終わったからこそこのような映画も作れたとはいえ、民主化でギリシャが本当に変わったわけではない。

軍政の下に出来上がった行政機構も、コネ社会も、闇経済もそのまま温存され、根本から国を民主的に改革しようとする左派に政権が決して渡らないように、圧制転じて今度はバラまきの懐柔政策を資金的に支えたのもまた、西欧と米国からの貸し付けだった。

先進諸国の連合体であるEUのなかでギリシャは単に発展途上国なのではない。その政治的な実態は半ば植民地であり続けて来たし、西欧先進国がそれを望んでも来た。

言い換えればチブラス政権以前のギリシャ政府は大なり小なり国民よりも実のところ西欧先進諸国、今のEUの主導的国家や、アメリカの側を実は向いた政権であり続けたのだし、しかもギリシャの最大の(外貨獲得につながる)産業が観光である以上、その西欧先進諸国やアメリカからやって来た観光客が大きな顔をして来た社会にもなってしまう。

しかもこうした社会の矛盾や『旅芸人の記録』に描かれたような暴虐な内政の問題は、観光イメージにはマイナスなので隠蔽されても来た。

ギリシャ人にとって、オスマン・トルコ帝国治世も決して楽ではなかったが、西欧先進国のやったことも負けず劣らずに酷かった。近代的な産業基盤を持たず、またそれを育成するチャンスもなかったギリシャは、その西欧や米国に翻弄され、半ば植民地とも言える実質は発展途上国の状態に、一応は民主政が回復した後も置かれ続けて来た。膨れ上がった負債はその西欧の都合の必然的な結果でもある。

ギリシャの年金制度がかなり高額であることにも批判が集まっているが、これだってどういう世代の人たちが受給しているのか、その人たちが生きて来た歴史を考えれば、それくらい当然じゃないかとすら思える。
イギリスが起こした内戦と弾圧、アメリカが支援した軍政、その苦難に人生を翻弄されて来た世代の老後くらい、少しは平和で安心できるものにしたってバチは当るまい。

なぜ米国や西欧、NATO諸国がここまでギリシャを実のところないがしろにしながら、自分達の支配権・覇権の下に置き続けようとして来たのかと言えば、冷戦の終結まではギリシャの「共産化」を恐れたからであり、冷戦の終結後は自分たちのマーケットとして確保し続ける同時に、中近東・イスラム圏に対抗するヨーロッパ側の最前線としてギリシャを自分達の側につなぎ止める必要を感じていたからだ。

だからこそ民主化後も、政治理念や社会的な目標よりもバラ撒きや公務員としての雇用の目先の金で民心を掌握するような腐敗した政府や、コネの恩恵に預かる富裕層とそうではない庶民の極度な格差がある不公平な社会を、ヨーロッパとアメリカこそが望み、温存して来たのでもある。

まただからこそ、ギリシャ人は政府を根本的には信用していないし、それが近代以降政府や権威・権力に極端に従順で所属意識の強い日本人には、えらく身勝手で奔放で公共への奉仕の精神が欠けているようにも見える。なぜギリシャ国民がEUの強制する緊縮策に「OXI ノー」を突きつけたのか、日本のメディアで語られる「理由」や「分析」はあまりに西欧寄りだし、西欧の都合もまた今のギリシャの危機の温床となったことを一生懸命無視しているようにすら見える。

言い換えれば「ギリシャ人の視点からはどう見えるか」の思考が欠如しているのだが、これは日本の例のアナロジーに話を戻せば、東京中心のメディアは原発事故以降の福島から見て現状はどう見えるのか、沖縄の視点からは辺野古新基地の強行がどう見えるのかも、あまりに無視しがちなことにも通じる。

一見同じ現状でも視点を変えれば別のものに見える、歴史に至っては視点を変えるだけで見えなかったものが浮かび上がって「同じ歴史」とすら言えなくなることでいえば、唐突に話を変えているようで申し訳ないが、ローマ帝国の滅亡はいつかと問われれば、我々日本人は476年のローマ陥落だと無邪気に思い込んでいる。

だがギリシャから見れば、これはまったく違う。

ローマ帝国の歴史という視点で考えるだけでも、476年のローマ陥落はおよそローマ帝国が滅亡したと言える事件ではない。

ローマ帝国が滅亡したのは1453年のコンスタンチノープル陥落だ。今の我々はアテネがギリシャ人の首都だと無邪気に思い込んでいるが、歴史的に言えばコンスタンチノープル、今のトルコのイスタンブールこそが、ギリシャ文明の歴史的な首都なのだ。

東ローマ帝国の建立した聖ソフィア大聖堂(イスタンブール)
オスマン・トルコ時代にモスクに改修され、現在は博物館
我々は西欧中心の歴史観で世界史を学んでいるので、ギリシャがあり、ローマがあり、5世紀の西ローマ帝国の滅亡(ローマ陥落)後にその文明が西欧に継承されたと思い込んでしまいがちだが、ローマ帝国はイタリア半島の一都市ローマの国ではなく地中海帝国であり、ギリシャ文明をこそ継承する帝国として、東ローマ帝国がオスマン・トルコに滅ぼされるまで続いていた。

この帝国の言葉はローマ人の言葉であるラテン語は一部の人間しか使わない公式言語に過ぎず、帝国全土に共通して使われていたのもギリシャ語だった。
この帝国の繁栄の中心自体が東地中海、例えば今ではトルコになっているアナトリアからシリア辺りまでで、今の西欧先進国はむしろ辺境でしかなかった。

ローマを継承したのがゲルマン人王朝で、フランク王国がフランスになり、神聖ローマ帝国がドイツへ、という西欧の歴史観はギリシャには当てはまらないだけでなく、ローマ帝国の歴史的な実態を正確に反映したものでもない(現代の価値観に偏った視点で過去の歴史を軽卒に判断すべきではない)。ゲルマン人王朝下にヨーロッパがいわゆる暗黒の中世であった時代に遥かに文化文明が発達していたのが東ローマ帝国で、ローマが継承したギリシャ文明の科学や哲学はむしろギリシャ人を通じてイスラム圏にこそ受け継がれた。

その意味では、西欧から見ればトルコ人に東ローマ帝国が滅ぼされたように見えることを、東ローマ帝国を継承したのがオスマン・トルコ帝国だったと見ることすら可能だ。

無論、実際にはトルコ人のイスラム教王朝であったオスマン帝国の下で正教徒のギリシャ人は抑圧される少数民族であった以上、オスマン・トルコが東ローマ帝国の継承者だとみなす歴史観もまた極論すぎて、およそ実際にギリシャ人に支持されるものではないだろうが、しかし西欧中心の歴史観からのみ、このEU内の対立の危機を見る偏向からいったん自由になる頭の体操としては、有効に思える。

つまりローマ帝国とは地中海帝国であって西欧の源流としてのみ見るのは間違っていて、その中心は東地中海だったことを思い起こせば、西欧やアメリカがギリシャを自分達の文明圏につなぎとめようとし、戦後は「共産化」を恐れるあまりギリシャを実質の半植民地扱いして来た近現代から解放され、異なった視点からこの危機を逆に新たなチャンスと見ることだって出来る、ということだ。

再び沖縄というアナロジーを持ち出せば、沖縄の観光産業の主な顧客が本土の日本人であった20世紀の後半とは、今の沖縄は明らかに別の様相を呈していることにも通じる。
今や沖縄はアジア全体を商売相手にできる観光地であり、たとえば中国からの観光客も増えて来ている。
観光業の発展で「ライバルはハワイ」とも言っているという沖縄の、独立論は極論にしても、かつて東アジア、東南アジア貿易で栄えた琉球王国のアイデンティティを取り戻すことこそが、むしろ沖縄の未来につながる。翁長知事などはそのことにかなり意識的な発言も繰り返している。

ギリシャは西洋文明にとって自分達の源流であり、ながらくその観光産業の主な顧客層は西欧でありアメリカだった。

だが今やそのギリシャにも中国人観光客が押し寄せ、リゾート地を中心に中国富裕層による不動産の購入熱も始っているという。ギリシャが経済を建て直して負債をある程度は返済できるようになるためにも中国人なら中国人という新たな観光の顧客層も重要になるし、現状のデフォルト危機を抜け出すためには、中国マネーもまた有効だ。チプラス政権が既にその動きを始めていることを、日本のメディアは中国の世界制覇の野望であるかのように報じているが、ヨーロッパだけの経済力・資金力だけではこの危機が回避できるわけでもない。

いずれにせよ、現代の世界はもはやアメリカや西欧が覇権の中心であり続けられる時代にはない。ギリシャもまた、西欧文明圏の東の辺境という位置付けにあり続ける必然もない。覇権の中心が今後は中国に移るわけでもないし、中華人民共和国政府だってそんな大それて負担ばかりが大きい野心など持っているわけでもない。世界は多極化に向かい、複数の中心を持ったバランス関係にこそ、世界の秩序の維持と繁栄の未来がある。その未来像はまだおぼろげにしか見えていないが、現代の世界がその転換期にあることは間違いない。

今日本人として不安なのは、その世界の転換期に今の日本の政治やメディアの報道、つまりは私たち日本人の世界観が、完全に乗り遅れているのではないのか、ということだ。
例えば集団的自衛権の議論などはその時代錯誤の典型だろう。違憲であることが問題なのは言うまでもないが、日本の今後の安全の確保を考えるなら、議論すべきは日米同盟を前提にした集団的自衛権ではなく、集団安全保障への参加の充実だ。このまったく異なった議論が混同されていること自体、安倍政権の日本における議論があまりに稚拙であることもまた、言うまでもない。

国民投票の結果はEUの緊縮策に「OXI ノー」だったにも関わらず、チプラス政権がEUに自ら提案した改革案に、世界のメディアは驚いている。中身が実際には、EUの提示した条件とほとんど変わらないのだ。

ならばなぜギリシャ国民は「OXI ノー」を選択したのか?

この改革案はチプラス首相への反発を呼び、政権基盤を揺るがすのではないか?

そんな疑心暗鬼も飛び交っているが、恐らくそうはならないだろうし、彼らは結局、今回の危機の本質も分かっておらず、その解決の方向性も見えていないのだろう。

同じ内容でも、これまで半植民地扱いだったギリシャに掌を返したように宗主国ヅラを曝け出した西欧諸国が押し付けるのと、ギリシャ国民が支持する政権が自ら提示するのでは、まったく意味が違う。同じ結果なら国民投票は無駄な儀式だったのではないか、と思う人もいるだろうが、それも違う。これはギリシャ人達が今新たに、ギリシャ人としての自分達のアイデンティティを掴み直す第一歩として、必要な儀式だったのだ。

覇権主義や植民地主義、差別思想の優越感から切り離された、健全なアイデンティティ意識を取り戻す、世界との積極的な関わりのなかに自国の存在価値を意識する新たなナショナリズムもまた、必然的な相対化と多極化の進む世界のなかでは必要なものなのだ。

先進諸国民が過去の栄光に引きこもって優越感を担保する排外主義的なナショナリズムにしがみつく傾向が強まっている現代に、ギリシャ人たちは今、その新たなアイデンティティ意識の更新の試みの、まっただ中にいるのかも知れない。

7/25/2013

参院選の結果と広島の死体遺棄事件に通底するもの


恐らくロクな結果にはならないだろうと思っていた参院選だが、思った以上にすごい結果になってしまった。投票率が50%をちょっと越える程度の史上最低レベルであったことについて、僕が棄権した人たちを責める気になれないのは、投票日前にこのブログに書いた通りだ(「本当に選挙を「棄権」してはいけないのか?」)。

「ねじれ解消」をいかにもポジティブなことのように書く報道については、内田樹さんがいかにそれがおかしな話、ねじれこそ民主主義の二院制の機能であり、これでは民主主義の放棄に通ずる話でしかないか、ご自分のブログで適確に論じているので、今さらここでは書くまい。

内田樹の研究室「参院選の総括」
http://blog.tatsuru.com/2013/07/23_0850.php

しいて付け加えるなら、従来の自民支持者こそ、この結果に危機感を抱くのが当然ではないだろうか。

思い返せば一年ほど前には、安倍晋三氏が自民党総裁に再登板することは、悪い冗談としか思われていなかった。

周知の通り、総裁選挙で党員、つまり一般の自民支持者が選んだのは石破茂氏だ。

以前に政権を丸投げした安倍晋三のことを信用する自民支持層は少なかったわけだし、それなりに政策通の、一応は勉強はしている石破氏が、実際に生活もかかっている自民党組織票の保守志向の支持者(たとえば地方の商工会議所や農協の人脈)に選ばれるのは、当然だろう。

安倍氏が勉強が足りない、政策を知らない、あまり頭も良くない、中身がない、こう言っては悪いがボンクラなお坊ちゃんであるのも、第一次の安倍政権の際に、旧来の自民党支持の庶民ほど気づいていたことだし、挙げ句に体調不振を理由に丸投げ辞任…

…それも倒れて入院でもしたのならまだ納得するのが、本人が元気な顔して記者会見をわざわざやってしまう世間知らずっぷりでは、呆れられて当然だった。

安全保障通を自認しながら、兵器のプラモデルを集めるのが好きな男の子の趣味でしかないと揶揄される石破さんでも、軍事や外交安全保障のイロハどころか世間の常識すら知らない安倍さんよりはマシだ。

なのに国会議員たちは(大切なはずの支持者を裏切って)安倍氏を選んだ。

この時には誰もがその結果に鼻白んだはずだ。

どうも石破氏を直接知る国会議員のあいだでは、ちょっと勉強してるからって知識を鼻にかけて傲慢、しかも粘着質で執念深い、性格が悪くて友達がいない、ともっぱらの噂であるにせよ。

その安倍氏が衆院選だけでなく、参院選まで大勝となれば、安倍氏とその周辺の軽薄なお調子者たちだからこそ、自分達が勝ったのだと驕り高ぶるのは目に見えた話だ。

しかも彼らには実際に政策を作ったり実行する能力がない。安倍政権の「お友達」内閣メンバーに至っては、こんな幼い顔した人が大臣ですか、と驚くような顔ぶれだ。

薄っぺらなかけ声と、岸信介の孫という血筋だけが売り物の首相が勘違いで鼻高々になれば、肝心の政治は結局は官僚の言うなりになる(本ブログ 「全体主義国家へようこそ」 の項参照)。そしてその霞ヶ関にとって、安倍晋三は消費増税にもっとも好都合な総理でしかない。

その安倍晋三と言う猫の首に、これでは自民党の誰もが鈴をつけられなくなってしまう。

石破茂氏は選挙後あえて低姿勢を貫き、長年連立を組んで来た公明党を裏切って憲法改正を強行などはしない、と安倍氏の浮かれ方を尻目に慎重さをアピールしていたが(それだけまだ、石破氏の方がまともだ)。

東京選挙区で言えば自公で三議席過半数をとるのは想定の範囲内とはいえ、ダントツのトップ当選が丸川珠代というのは驚きというか、投票した人はなにを考えているのか分からない。

武見敬三氏ならまだ、TPPとのからみもあってせっかくの国民会皆保険制度がなし崩しにされようとしていることへの反対勢力にもなり得るなど、とにかくバランスはとれたはずだ。

別に女子アナ出身のタレント議員がすべて駄目だと言うつもりはないが、よりにもよって丸川氏が110万、しょせん大物の息子の二世とはいえそれなりにベテランで、医療政策などが分かっている方の武見氏に、ダブルスコアに近いトップ得票とは。

出産を経たら案の定「女性にやさしい社会」を演説で繰り返すのはいいが、だったらあなたは自民党でなにをやってるんだ、それも安倍晋三の忠実な着せ替え人形アイドルがなにを言ってるんだ、としか思えない。

その政治手腕に本気で期待して投票する人というのも、想像がつかない。


世論調査をすれば、多数が原発の再稼働には反対ないし慎重、TPP参加にも多くの国民が懐疑を抱き、今のままの消費増税も納得せず、「ブラック企業」という非難に代表されるように雇用制度の規制緩和にも疑問が多い。にも関わらずそのいずれをも公約に含んでいる自民党が大勝したのも奇異だ。

とはいえこれですら、必ずしも自民に投票した有権者を責められた話でもない。そうした本来なら争点であったはずのことが、選挙前にほとんど報道されていないのだ。

丸川珠代が「女性にやさしい社会」とか言ったって、マスコミは誰もその珍妙さを指摘しなかったのだ。

NHKと、テレビ朝日系の人気番組TVタックルでは、投票日の翌日に討論番組を組んで、野党に与党の政策への疑問や批判を挙げさせた(NHKの番組を報じた赤旗新聞の記事はこちら)。

司会者も含めて選挙前とはがらりと違った雰囲気だ。これでは文字通り後の祭り、国民が「騙された」と怒ったって無理のない話であり、なのに怒らない人が多いのはさすがに奇妙だとは思うが。

いったいなんのためのマスコミ、なんのための報道なのだろう?選挙で投票する判断材料を国民に与えもしないでおいて、棄権した国民をけなすのだからいい気なものだ。

投票日二日前の金曜日に、米国デトロイト市の財政破綻が報じられた。オバマ政権の財政支援などのテコ入れで、アメリカの大手自動車製造会社は持ち直しているのにも関わらず、である。

実際、アメリカの自動車産業自体は、今も好調だ。(GMの好業績を伝えるBloomberg日本版の記事はこちら

いや当然の話として、設備投資の余裕ができたビッグ3は、しかしそれをデトロイトなど米国内に投下するつもりなどさらさらなかったのだから、こうなるのはある意味、目に見えていたし理の当然でもある。

教科書通りの「産業空洞化」なのだ。

なのにマスコミで識者ぶったベテラン政治記者は、「日本も他人事ではない」と口先では言いながら、持ち出した比較例はなんと夕張である。

どこまで安倍政権に気を遣っているのだろうか?

同じように、仰々しくも「アベノミクス」と銘打った、タガの外れた金融緩和による円安誘導しかやっていない安倍晋三首相の経済政策も、それで大手企業に(おもに為替差益の帳簿上のからくりだけとはいえ)余裕が出たとしても、それが日本国内の設備投資や雇用創出に廻ることはまずあるまい。

先進国では人件費がアップするため、より労働力が安い新興国や発展途上国には価格競争で勝てなくなるのは、資本主義では自然な流れだ。

だから先進国の「産業空洞化」なんてもう20年前からよく聞く常識で、高度な技術力と労働者全般の質の高さで、その打撃が他の先進国ほどではなかったバブル後の日本でさえ、小泉時代の規制緩和による非正規雇用の爆発的な増加などで対処しなければ、国内の工場を維持するのがすでに難しくなっていたではないか。

ところがデトロイト市の財政破綻の理由を分析するのでも、「産業空洞化」という、ごく当たり前に出て来るはずのタームを口にするのは、せいぜいが一部のコメンテーターだけだ。

アベノミクスが「第三の矢」である成長戦略でよほど日本でなければ出来ない分野を強力に底入れしない限り、大手製造業に余裕が出来たところで、デトロイトと同じ展開が日本でも起こり、一般雇用の拡大や安定、ないし地方経済への波及は期待できず、日本全体が第二第三のデトロイトになりかねないことも、なかなか遠慮して言及されない−−中学で習うような経済学の知識で、すぐに分かることなのに。

この参議院選挙で、せめてこれは公約で出して来るだろうと誰もが思っていた「第三の矢」の中身を、首相や自民党がアピールすることすらなかったし、報道もあえて不問に伏して放置した。

産業空洞化で元の木阿弥、ますます雇用が痛み格差が広がるという結果にならないため、今のところ人工ミニ・バブルでしかないアベノミクスを実態経済への好影響につなげるには、この「第三の矢」の中身がすべてだと言うのに。

首相と来たらなんの根拠も具体性もないまま「10年後に一人当たりの国民所得を150万増やす」と吹聴し、それが出来るとする理由は「70年代や80年代の日本人に出来たことが、今の日本人に出来ないわけがない」という空っぽなかけ声だけだった。

申し訳ないが高度成長の時代の日本に出来たことを、今の日本に期待するだけおかしい。日本は今や成長するだけ成長してしまった、成熟した資本主義国だ。これ以上経済成長をする余地はあまり残されていない。

かつて安価で良質な労働力を武器に世界の市場を席巻したメイド・イン・ジャパンだが、今では労働力は高価だし、その質のほうは逆に、今の日本人の総体は昔ほど実直な働き者ではない。教育も育ちも違うし、それに大企業ですら家族的な雰囲気の演出で忠誠度を高めていた日本的な経営も、もはや過去のものだ。

中国や東南アジアで勤勉で優秀な労働力が育っている今、産業空洞化をどう阻止するのか、あるいはそれに替えてどう言う手段で将来の日本が食って行くのか、それを提示するのが、責任ある与党の選挙公約のはずなのだが。

これも投票日前に出てるのだから、普通に報道されていれば確実に与党への逆風になった話題だが、東京電力では福島原発事故以降、退職者が後を絶たない管理職を引き止めるため、一律10万を支給するという(東京新聞の記事)。 
総額がまたかなりの額になるのは当然で、原発事故の保障賠償もままならず、燃料費コストの価格転嫁で電気代は上がってるのに、いったいどういうつもりなのか東電さんにもつくづく愛想がつきるわけだが、一方で会社が危機の時に責任ある管理職から辞めて行く、だから現ナマで懐柔なんてことは、高度成長時代の日本企業では考えられない話だ。

だがどうも、安倍晋三さんの周囲だけ、日本は未だに高度成長時代であるらしい。

この時代錯誤な幻想(こうなると「信ずる者は救われる、だからひたすら信じろ」というカルトでしかない)を見て見ぬ振りしてオブラートに包んだ報道に徹した大手メディアというのも、これでは民主政治に不可欠な権力の監視役としての言論の役割など、およそ期待できない。

そしてここまで大勝してしまえば、もう誰も安倍さんの勘違いした傲慢なひとりよがりを、自民党内ですら止められないのだ。

始末の悪いことに自民党でも政策が分かっていた、族議員と批判されながらも、その専門分野の実態についての知識は馬鹿にならず、官僚に対抗して自ら政策をつくれるような長老陣は、あらかた引退してしまった。 
残ったのは二世三世が過半の、それも三年間の野党暮らしでなんの政策知識も持っていないことがバレてしまった(国会でもロクに質問も議論も出来なかった)面々がほとんどである。

もはや雰囲気だけの選挙、それも「風が吹く」のならまだ以前にも何度かあったものの、極めて刹那的で、ほんの半年前、一年前のことも忘れたその場限りの突風みたいなものだ。

なるほど、政治も景気もある程度は「気」、気分の面があることは否定しない。しかしその「気分」があまりにも軽薄で散漫として刹那的で、なにも考えていない、本来なら政治が担保すべき国と社会の将来に、あまりに投げやりになっているとしか思えないのだ。

民主党は歴史的な惨敗に終わった。確かに2009年の政権交代マニフェストをほとんどなにも実践出来なかった民主党も情けない限りだが、いつの間にかその三年間に景気が最悪になるような、とんでもない悪政をやったということになっている。

民主党政権が呆れられたのは単に自民党となにも変わらなかったことであり、アベノミクスの元になったインフレ・ターゲット論ですら、元は民主党の菅や前原が言い出したことだと言うのに。

すでに安倍政権発足直後のこのブログで書いたことなのでいちいち繰り返さないが(「日本は本当の危機なのか」日本は本当に危機なのか・その2 」 )民主党政権時代に、日本の経済は別に悪くなってはいない。

むしろ先進国のなかではもっともリーマン・ショックの打撃から早く立ち直り、失業率などの数字も決して悪くない(ただし実際の雇用では給与水準がどんどん落ちているが、これは数字上は好況だったことになっている小泉時代からだし、むしろ労働法制と労働市場の管理の問題だ)。原発が止まって行くことで景気に悪影響としきりにプロパガンダされたことですら、事実はまったく異なった結果になった。

民主党に政権交替する前、第一次の安倍や麻生の内閣の頃、年越し派遣村があれだけ話題になったことすら、もう忘れたのだろうか?

経済政策で民主党政権の最大の失敗は、菅・野田の両首相が尖閣諸島の問題で中国との関係を悪化させたことであり、東京開催のIMF総会を失敗させたて世界の顰蹙を買い、ユーロ危機の解消を送らせたこと、今や世界の組み立て工場である中国相手に日本の国内産業で最大の売り物の高度な部品の輸出が滞ったことくらいだし、こうした外交面の失敗の経済への影響は、安倍政権になってむしろ悪化している。

安倍首相が喧伝するほど、日本の経済はファンダメンタルの部分で悪くなっていない(麻生氏が総理のとき、「日本のファンダメンタルは悪くなっていない」と言って顰蹙を買ったのも、それ自体は間違いとは言えなかった)。決して良好とは言えないし問題は山積している、将来はもたなくなるだろうとはいえ、今日明日にそこまで悲観する理由は実はない。

だが一方で、安倍首相が言い張る楽観論もまた、今後の日本の現実とはまるで異なる。

いかに安倍さんが人差し指を振り上げて「一番」のポーズをとろうが、今さら高度成長など出来るはずもないし、別に彼が人差し指を振り上げるまでもなく過去30年近く、世界でもっとも豊かな国のひとつなのだ。

なのに不況感が漂い、欲求不満が溜まっていることは、否定のしようがない。

問題なのは企業経営のルールや倫理だけは日本式経営の美点をかなぐり棄て雇用制度はガタガタにしながらも、経済の構造というか、我々の意識が未だに輸出偏重構造の高度成長型である時代錯誤、実態に合ない経済構造を維持していることであり、我々もまた今よりも高度成長時代は良かった、と無邪気なノスタルジアに浸ってしまっている(いわゆる「昭和ブーム」)。

だが日本は80年末代にはとっくに高度に成熟した資本主義の、安定した低成長ベースのフェーズに入っている。

その転換期に経済政策を誤ったが故にバブルになり、そのバブルが崩壊してからの「失われた20年」、「規制緩和」を唱え続けても、結果は労働市場が不安定化して非正規雇用と正社員の格差が増えたくらいのことで、バブル崩壊から順調に回復できたわけでもない。

ところで未だにバブルの時代の再来を望むような論調も見かけるから驚く。あれは経済政策の失敗なんだって。その後遺症に今も日本は苦しんでいるんだって。 
いや「バブルは良かった」という感覚こそが、その最大の後遺症なのだろうか?

にもかかわらず国は未だに膨大な資産を持っているので、赤字国債を発行したって日本国債の価値は下がらなかったし、悪者扱いされた円高は実は世界のどの通貨よりも円が信頼されていた結果に過ぎず、不景気とか言いながら銀行には投資先が見当たらずに困る世界最大級の預貯金が唸っている(アベノミクスの為替差損で相当に目減りしたとはいえ)。

経済構造を安定持続型に変える余力はまだあるし、今が最後のチャンス…なのに、「再び日本を一番に」と人差し指を振りかざす軽薄な絶叫の奇妙さを経済学者や歴史学者が指摘しようとしたら、マスコミにコメンテーターとして呼ばれなくなる国になり、その結果、衆院だけでなく参院の過半数まで与えてしまい、これから三年間は大きな選挙もない、よほどの失政がない限り安泰の、霞ヶ関の言いなり政権が続くのだ。

ここまで勝たれてしまうと、消費増税などいろいろ都合がよかった霞ヶ関も困ってしまうかも知れない。 
調子に乗った安倍晋三が、確実に世論の反発を買う憲法改正などを強行したりはしないだろうか?
日中関係や日韓関係をこれ以上悪化させては日米関係まで揺らぐだけでなく、経済に響く。
それに自民党の現在の憲法草案がお話にならない内容なのは以前に述べた通りで、あまりにみっともないので今回の選挙でも報道でほとんど触れられなかったのだが、逆に言えばこれを持ち出しでもしない限り(三年後に選挙に大敗する可能性さえ覚悟しておけば)、安倍政権は安泰だ。 
逆に言えば、憲法改正や集団的自衛権の問題は、多くの人が危惧しているように強行されることはないように思える。霞ヶ関、とくに財務省がそれをやらせたがらないだろう。せっかくの、頭が良くないぶんもっとも操り人形にしやすい、便利な政権なのだから。



投票日直前にもうひとつ、本来なら大きなニュースになってしかるべきだったのは、中国の習近平・李克強政権の経済政策の転換だ。

デトロイトの破綻と同じ日に、人民銀行が闇金融対策で金利政策を変えることが発表された。その前に輸出にかげりが見えたと指摘され、「大規模公共投資で景気の底上げはしない」と李克強首相が明言したことも、世界経済の新しい流れを予測させる重大なニュースだったのが、安倍の政策がいかに時代錯誤化をあからさまにしてしまう話であったせいか、ろくに報道されなかった。

中国の現政権ははっきりと、今の急激な経済発展に多少はブレーキがかかる結果になっても、中国経済の構造を今の輸出偏重型から、格差を是正し安定した国内需要で支えられた持続型に変える必要性を述べているのだ。

本来なら日本もまた20年前、30年前に取り組み始めておくべきだったことだ。

たとえば小沢一郎が2009年マニフェストで提案し、菅や野田の(松下政経塾に毒された)民主党と決別したあとも、今回は「生活の党」で主張していたのもこうした政策変換だ。

アベノミクスの問題点を指摘し今後日本がどういう国になるべきかをもっとも論理的かつ分かり易く述べていたのは、今回の選挙でも誰よりも小沢さんたちだった。

その生活の党が、今回はいわゆる反自民勢力の中でも、もっとも惨憺たる結果になった。

もちろん小沢さん本人の問題も大きかったことは否定できない。震災のときにもっとも東北のニーズが分かっていて、被災地の救援や復興援助の要になる理論を提示出来たはずの彼が、なにも動かなかったことで失った信頼は、あまりにも大きい。

自分の周囲の議員たちの興奮を押さえきれず、民主党と袂を分かってしまったのも、民主党にとっても小沢さん本人にとってもあまりにも痛恨の失策だ。小沢さんにしても鳩山さんにしても、いざと言うときに人が良過ぎて、権力闘争を勝ち抜く狡猾さやパワーに欠けているのが最大の欠点なのだろう。

…というか、この二人のどちらも、世の中には(そして自分の周囲に)私利私欲や名誉心や身勝手な嫉妬、あるいは保身がなによりも優先してしまう身勝手で狡い人間だって多いことがどうにも認識出来ていないか、分かっていてもそういう人たちがどれだけ嫌らしい行動原理を持っているのか、まるで理解できないらしい。 
いい意味で「お坊ちゃん」、小沢さんの場合はしかも「田舎のお坊ちゃん」だけにシャイ過ぎることまで、おまけでつくのだから、権力闘争が苦手なのも、まあ、やむを得ないのかも知れないが、えらく歯がゆい話だ。

とはいえそれでも、派手さはないにせよ理路整然として分かり易い小沢さんと生活の党の主張がこうも無視されるてしまうのでは、やはり日本の現在と将来にあまり明るい展望は見えて来ないのだ。

後世の歴史家は今回の参院選挙を、1992年と2009年に政権交代があり、自民独裁体制が覆えされ得る可能性も日本の政治にはあった、その選択肢が完全に葬り去られた選挙だったと評価するだろう(産經新聞などはすでに大喜びで「鳩山・菅・小沢時代が終わる」と分析記事を出している)。

安倍晋三は「戦後レジュームを終わらせる」とやたらと口にする。「Regime」なんだから「レジーム」ろう、読みがおかしいという突っ込みはともかく、戦後日本のRegimeつまり支配体制がむしろ完成し、オルタネイティヴがあらかた排除されたのが、この選挙の結果だ。

そして、その行き着く先が自民独裁や安倍独裁ではなく、実態が官僚独裁全体主義であることは、衆院選直後のこのブログで書いた通りだ。

…ということは、完成したのは単に戦後のレジームではなく、明治に急ごしらえされた国民国家としての日本の、中央集権の官僚体制の完成である。 
菅直人に続いて安倍晋三という旧長州藩出身の政治家によってそれが成されたというのだから、ある意味で馬鹿みたいに分かり易い。 
震災と原発事故発生の直後、あまりに政府の対応が薄情で地元のことをなにも考えてないことに、福島県では冗談とも本気ともつかぬように「もしかして今の首相が山口の出身だからだろうか?」という人も少なくなかった。 
まさにその長州主導の明治維新がいかに暴力的で冷酷な「東北侵略の植民地戦争」であったかを告発するのが今年のNHK大河ドラマ『八重の桜』であり、しかし低視聴率なのだそうだから話が出来過ぎている。

だがそれ以上に僕が注目したいのは、この選挙によって知性や理念が日本の政治風景から完全に消え去ったことだ。

菅・野田の民主党政権の公約違反に敢然と異を唱えた女性議員集団「みどりの風」も消えてしまった。



理念だけでなく、信念も日本の政治風景から失われたことの、象徴的な例といえよう。

知性も理念も信念も消えてしまったことは、単に自公の大勝だけでなく、反自公の側の動向でもはっきりしている。

たとえば「反原発」「脱原発」「原発ゼロ」は世論の支持するところであり、野党は大なり小なりそのスローガンを掲げて闘ったのだが、政策的な方法論の提示がないので全体としては争点になりようがなかっただけでなく、それでもその争点で勝ってしまった(票の行き場がなく集中した?)のが、東京選挙区なら山本太郎氏だということにはっきりしている。

日経新聞のベタ記事に寄ればこと原発の問題では、自民党はなるべく街頭演説ではこの話題を避けるよう指示を出していた。

繰り返すがタレント候補だから駄目だと言いたいわけではない。齋藤(謝)蓮舫氏のように、タレント出身だって優秀な政治家はいる(案外と芯が弱く、民主党内の松下政経塾勢力に骨抜きにされたけれど)。

とはいえ東京選挙区5議席のうち2議席が丸川珠代と山本太郎、文字通りただの「タレント候補」、まともな日本語の議論すら不自由そうな、短いフレーズのかけ声だけで、その主張の根拠もあやしい(デマも多い)点で、岸の孫という血統以外にとりえがない安倍晋三首相に、輪をかけたような存在なのだ。

ネットでの選挙活動が解禁された今回、ツイッターでいちばん盛り上がったのが山本太郎陣営による民主党の鈴木寛候補への攻撃だったと朝日新聞が分析していたが、本当だとしたら目も当てられない。

震災当時に文部科学副大臣だった鈴木氏が、SPEEDI情報を隠蔽したのだという、もの凄く薄っぺらで中身も根拠も特にない中傷まがいの、軽薄なイメージだけの選挙闘争だ。

もちろん鈴木寛氏だって決してそんなに褒められた人じゃない、民主党が政権に入ったら官僚の言いなりになった典型みたいな人だが、山本陣営の支持者のやり口はさすがに衆愚的なヒステリーに過ぎる。

これではヒステリックな陶片追放みたいな魔女狩りだし、積極的な再稼働を実は主張していた自民の票でなく、反自民票を狙って、それを奪って当選したのであれば、大きな政策理念や目標が、まるで無視された話でしかない。

実は原発の再稼働にもっとも真剣に考え、慎重で、疑問が多く出ているのは、よく考えれば当たり前のこととして、他ならぬ福島浜通りなど、原発が立地する地元である。 
だが山本氏らの言うことがあまりに極端で現実離れしていて、デマも多く、そのデマによる差別風評でいちばん苦しむのがその原発立地地域だからこそ、山本氏は実はいちばん熱心にこの問題を考えている人々の支持や支援、共感を、決して得られない立場に自らを置いてしまっている。 
他者、自分と立場の違う他人の存在を認識・尊重出来ない結果、なにがやりたいのか結局よく分からなくなってしまう典型だ。いや実際、なにがやりたくて彼は選挙に出たのかすら分からない。 
芸能人としてはあのキャラで使うのは歳をとり過ぎて、俳優として使い道がなくなってしまったから、ただの打算の売名と言い切ってしまうのはさすがにかわいそうだが。

この選挙期間に、選挙戦の報道よりもマスコミがはるかに熱中したのが、呉市の郊外で遺体で発見された少女が、中学時代の元同級生の少女らのグループにリンチで殺害されて遺体が遺棄されていたと分かった事件だ。

最初はスマホのメッセージ機能アプリLINEでのやり取りで悪口を言われたのが動機と報じられ、一応は主犯に見える、自首した少女の一連のLINEでのやりとりが、共犯グループとの関係まで含めて、テレビでさんざん紹介されているのだが、これには強烈な違和感を覚えずにはいられない。

比較で思い起こすのは、もう5年前の、秋葉原連続殺傷事件の加藤智宏が書いたとされる一連の掲示板への書き込みだ(その抜粋はTwitterでもボットで今も流されている https://twitter.com/katou_tomohiro)。

なるほど、加藤の場合にもその書き込みの異常さが喧伝されたわけだが、彼が至る結論がいずれも常軌を逸した自己嫌悪ではあっても、その書いていること、言っていることには明確なロジックがあった。至った結論とそこでやったことは理解不能にしても、彼がその行為に至る過程は、その言葉を通して論理的に、動機と心理がちゃんと理解できた。

検察は念のため加藤被告の精神鑑定を行っているが、案の定、精神疾患という結論は出なかった。不運な状況が重なって彼がああいう行動をやるのだと結論した、その結果が異常なだけで、思考の過程に病理が見られないのだから当然だ

広島県の事件で報道されるLINEのやり取りを見ていて困惑するのは、コミュニケーションが成立してないどころか、人間として、言葉を通じて他人とコミュニケートしよう、自分のことを伝えようとする意志すら感じられないことだ。

なぜこんな事件を彼女達が起こしたのか、いくらそのメッセージのやり取りをテレビで見させられても、手がかりすら見つからない。

自分のことを人に伝えようという意思すらないのだから当然ではあるが、そこにあるのは幼稚で自己中心的な感情論だけであり、その感情もただ「傷ついた!許せない!」という程度の、単純過ぎてなんの人間的な厚みもない。

だが彼女達のやり取りと違ってさすがに「てにをは」くらいは文法を踏まえ、「ゆう」ではなく「言う」とちゃんと表記はされている、場合によっては丁寧語にはなっているなど、一見まともに見えるものの、たとえば山本太郎氏のツイートとか、山本氏の演説やテレビでの発言とか、あるいは山本氏を支持する人たちのインターネット上の言動を見ていても、実はあまり変わらないし、その山本氏を叩くネット上の発言の半分くらいも、やはり大差ないのだ。

「ネット選挙」が解禁されたものの、本質的に広島の事件の彼女達と大差がないくらい、恐ろしく自己中心的で他者が存在しない世界の住人たちの、多くの場合は読解力の絶望的な不足に根ざした、ただ「傷ついた!許せない!」の、感情論とすら言う気がしないほどの機械的な感情しかなく、政治的な議論としてはまったく成立していない。

しかもこれは山本氏を支持する人たち、あるいは原発事故後あまりに極端なデマ、パニック体質の言動に走って「放射脳」と揶揄された人たちに限った話ではない。そうした彼らを批判する側も、大差ないのだ。

挙げ句に反原発が大事なのか、あるいは原発がなければ日本のエネルギー供給が立ち行かないと確信していることが最重要なわけでもなく、その実、自分達が批判されたことが許せないのかの区別もないまぜになった、刹那的な、感情論ですらない乱暴で皮相な感情だけが、ツイッターならツイッターの「クラスタ」を成立させ、自分(ないし自分達)が批判されでもしたら即脊髄反射、嘘でも出鱈目でも論点が完全にズレていてもなんでもいいから、とにかく攻撃に走り、仲間うちでつるんで誰かを攻撃することのカタルシスをまるで麻薬のように求めている。

先日このブログでも触れた、これまた時代錯誤に「反韓デモ」とやらをやっている人たちと、そこに対する「カウンター」の一部(というかネットでいちばん威張っている人たち)も、似たようなものだ。だから差別発言と同じくらいに、彼らが「反日」とみなす在日コリアンや「サヨク」を執拗に攻撃する。

これは恐ろしく反知性的なだけでなく、根本的に非人間的な光景であり、長期で社会の将来を考える政治的な議論の役割におよそ無縁な、ファシスト的な党派性でしかない。

こうしたやり方では「運動」や「社会のうねり」は拡大しない。 
ただたまたま同じ脊髄反射的な感情を共有する「内輪」が広がるだけだ。 
そしてそうした「内輪」は、他者からの批判を「攻撃」と誤認することで、いっそう結束を強める−−同じ集団内からの批判が出た途端に分裂し、昨日までの仲間に暴力性を剥き出しにする危険を、常に秘めながら。

そしてこの薄っぺらさと空虚さは、広島県でおそらくはもののはずみで同級生を殺してしまった少女達や、あるいは秋葉原で「誇りのある国を取り戻す」と内容空虚に絶叫する安倍晋三や、彼をとりまいて日の丸を振って熱狂している輩に、限ったことではないのだ。

参議院選挙の結果全体が、そのようなものに見えてしまう。杞憂であって欲しいのだが、「政策で決める」選挙からもっともかけ離れた投票行動になっていることだけは間違いない。

共産党の市田氏が、「衆参のねじれ」ではなく「与党と国民の希望の間のねじれ」に言及していた。繰り返しになるが、大勝した与党の政策の多くが、TPPでも原発でも消費税でも、世論調査では国民が反対ないし慎重なことばかりなのだから、「ねじれている」のは確かだ。

安倍晋三首相は微妙な争点を避け、経済政策の議論に特化することでこの選挙に勝ったという分析がマスコミでは主流なのだが、経済についてすら、実際にはまるで議論などしていないのである。

ひたすら気分だけの幻影の経済政策と、中国を叩く、韓国を叩く、民主党を叩くだけの攻撃性。そのいずれも、現実の把握も批判も二の次で、やはり薄っぺらなただの気分でしかない。

しかもこうした薄っぺらな気分は、予め閉ざされた自分(ないし「自分達」)の内部だけで通用するものであり、「外」に向けて恐ろしく押し付けがましい無自覚な身勝手の自己満足か、攻撃的な、排除の論理しか持っていない。

1/13/2013

日本は本当に「危機」なのか・その2

昨日の「中学生でも分かる日本経済【危機】の実態」の続き。

この人をこのブログで持ち上げるのはいささかシャクに触るのだが、正論だから仕方がない。まず見て頂きたいのは、前回の総選挙の日本維新の会・石原慎太郎代表の政見放送である。

Youtube 日本維新の会政見放送
慎太郎、ここではポピュリズム狙いの右派・極右発言は一切なく、「財政危機」「空前の財政赤字」を喧伝して増税を国民に納得させようとする財務省のプロパガンダに、全面対決を挑んでいます。

まったく、なぜ維新のこういう主張を、政治マスコミがとり上げないのか?

当然記者クラブを通じた癒着があるにせよ、フリーランスですらこういった実は肝腎な話はまったく報じない。

民主党から離党して「国民の生活が第一」→「未来の党」と突っ走った小沢一郎は、今回の総選挙ではまるでやる気がないといった風情だったが、これは小沢が2009年総選挙の頃から指摘していた問題でもある。

慎太郎がさらに説得力があるのは、都政改革(といって、やったのは猪瀬直樹・当時の副知事なんだろうが)の経験を元に、国家財政がなぜか単式簿記、まるで一般家庭の家計のように扱われていることのおかしさから説明していることである。

石原第二期で、都政は企業等と同じ複式簿記に切り替えた。その結果都の保有する膨大な資産が明らかになり、 負債は資産で相殺され、無駄も明らかになった。

実は「国民一人あたり数百万」と喧伝され、増税圧力になっている国家の負債も、同じような話だったりする。税収と国債の一般予算だけで、収支を単式でやっているから、国家の負債額は膨大であるかのように見える。

単純収支が赤字なのは、もちろんいいことではないし、財政の健全化が必要なのはまちがいない。

しかしこれが、果たして未曾有の危機とみなすべきかどうかと言えば、話はまったく別だ。

日本国は不動産だけでなく、大量の米国債や、外貨準備などの膨大な資産や、特別会計の資金を、実は持っている。これを「埋蔵金」とセンセーショナルに言い出すから話がややこしくなるが、企業等の組織の財政では当たり前の話であり、その資産があるからそれが担保となって国債の信用度も落ちないのだ。

また「埋蔵金」を単式簿記の、家計のような発想で考えてしまうと、「埋蔵金は一回しか使えないだろう」という、民主党政権初期に浴びせられた子供じみた誤解の批判になるわけだが、これは資産なのだから、それを担保に資金を調達すれば、恒常的に活用できるのだ。

現に日本の国債への評価はほとんど落ちていない。

停滞や衰退を続ける先進国のなかでもっとも優良な国債の部類に入り、ギリシャどころか日本が大量保有する米国債とも比べ物にならない。

さらに円の評価もまったく落ちていない。円高円高というと悪いことのように報道されるが、これは円の通貨の安定した価値が高い、円建ての資産の価値が高いから、円高になっているのだ。

日本では元々が輸出超過型の経済だったので、自国の通貨高は輸出の価格競争が不利になるので敬遠されて来た。だがこれはもう、過去の話なのだ。

大企業はすでにその経営基盤を国際化しているし、メーカーの現地生産の工場なども多い。通貨の乱高下による減収は、実は帳簿上のことに過ぎず、「未曾有の円高でソニーが減収」とか報じられるのは、実は海外でのもうけが帳簿の上での円換算の結果下がるだけで、企業の経営本体を揺るがす程の危機ではない。

逆に言えば野田の解散宣言から安倍政権誕生まで、円がずっと下落を続けているのも、決して手放しに喜んでいいことでは、本来ないのだ。

円高で苦しいのはその企業に円ベースの取引で部品を納入している下請けであり、かといって本当にサポートが必要な(前項で書いた通り、中傷下請けなどの持つ部品製造技術の高さこそ、日本のこの上ない強みなのだ)中小企業への肩入れをする代わりに、自国通貨の信用度をわざわざ落とそうとするのが日本の政策だったりする。

よく考えて欲しい。輸出産業にとってはデメリットもあるとはいえ、自国の通貨の評価が高いのは、基本的にいいことなのだ。

そのぶん、日本の海外のものを買う力は増えるのだし、それだけでもメリットが大きい。福一事故後の原発の営業運転停止で、火力発電への大幅のシフトでも、なんとか持ちこたえられるのは、燃料の輸入コストが円高で下がるからだ。

まして過去数年の円高は、実は円が上がったのではない。

ドルの信頼性が暴落したのだ。

日本の財政赤字が実は帳簿のマジックであるのとは異なり、アメリカの財政赤字は本当に深刻であり、ブッシュ政権の始めた、アメリカに実はなんの実入りもない戦争と言う最大の無駄な公共事業の軍事費膨張で、アメリカの財政状況は本当に危険なのだ。

しかもオバマ政権は、その財政を健全化させる施策を、思うように出来ていない。社会のセーフティーネットを取り戻して極端過ぎる格差を是正し、アメリカの景気を健全化させることも、まったく成功していない。

ユーロが下がったのは、ギリシャ危機などを始めとする、国債金融資本市場によるユーロ崩しの結果であり(よく考えれば元々農業と観光しか産業がないようなギリシャ一国の財政危機だけでヨーロッパ経済全体が揺らぐなんて、かなり不条理な話だ)、そして今では回復基調なのは、中国と日本の国家資金・資産の活用で危機を回避出来たからだ。

ちなみに日本や中国がユーロを買い支えても、それで国家財政の損失になることはない。別の通貨になったってお金はお金だし、結果としてその通貨の価値が回復すれば、資産は増えるのだから。

財務省は延々と財政危機を喧伝し、さらに震災の復興予算のことも抱き合わせで、消費税の増税を押し通そうとしている。

5%の消費税は確かに国際水準から見て低い方だが、8%となると西欧諸国やアメリカとほとんど変わらない。ただ唯一違うのは、これらの国では生活に最低限必要な必需品、食糧関連は非課税か低税率である。

連立を組む公明党は、今自民党税調に、8%に増税を行うのなら、食料品などには異なった税率を当てはめるように要求している。

自民税調の返事は、「来年4月までに間に合わない」のだとか。これもふざけきった話だ。

実は「埋蔵金を処分」ではなく、国の資産を透明化するだけで、財政危機はまだそこまで深刻でないことは明らかになる。

むろん少子高齢化社会に向けて、社会保障関連の一般歳出は増えざるを得ないし、老朽化したインフラのメンテナンスなどでも支出は増えるだろうし、だから国家経営の合理化は必要だが、それは拙速にやっていいことではないし、拙速に出来ることでもないし、さらに言えば不況のときに間接増税をやって消費を冷え込ませる馬鹿なんて、経済政策として下策中の下策の自殺行為だ。

小沢一郎が常に言っているように「物事には順番がある」のだ。それにまたまだ国の蓄積した膨大な資産のおかげで、待ったなしの財政危機では実はない。

きちんと物事を順番通りに、筋を通してやって行く時間はまだ十分にあるのだ。

バブル崩壊後すでに20年を無駄にして来てしまってはいても、である。

ところが安倍新政権は、国家公務員の採用数減もすでに見直すと言っている。霞ヶ関の言いなりで、日本の財政を本当に健全化する気などまるでないらしい。

これではさすがに、いかに膨大な資産を持っていても、あと10年持たせるのはあまりに厳しいと思うのだが…。

それにしてもこんな子供だましの、よーく中学高校で学んだマルクス経済学やケインズ経済学の基本を思い出したら「おかしいじゃん」というような話に、日本国民はすっかり乗せられてしまっているのである。いったいマスコミはなにをやっているんだろう?

困ったもんだ。

1/12/2013

日本は本当に「危機」なのか?

安倍晋三の新しい内閣は自称「危機突破内閣」なのだそうだ。

海外メディアでは欧米を中心に「極右歴史修正主義者の首相」とさんざん報じられ、「河野談話」見直しが危惧されてニューヨーク州議会では「従軍慰安婦は人道に対する罪」との決議まで出てしまい、そっちの方での日本の国際的な信用失墜と外交的な孤立の方がよほど危機だと思うのだが、日本のマスコミが注目するのはもっぱら、「危機的な経済」に対応すると称する政策ばかりである。

ここまで政府よりの報道にしか徹しない政治マスコミの存在理由もよく分からないが、参議院選挙まではこうして「安倍政権の大規模な経済対策」賞賛に話題が集中するのだろうし、「景気」はたぶんに気分の問題だから、この“イケイケどんどん”に乗せられて経済の指標は多少は上がるのだろう。

忘れてはいけないのは、2014年4月に予定される消費税8%増税は、この6月までの景気回復を見極めて最終決定となるわけで、だから増税したい財務省はどんな数字のトリックを使ってでも、「安倍新政権で景気が回復」を演出するに決まっている。

一方で、日本経済は危機なのだという認識は一般に共有され、だから安倍氏の「経済対策」に期待が集まる構図なのだが、果たして本当に日本はそんなに「待ったなしの危機」なのだろうか?

確かに雇用はあまりよくない(といって失業率4%代は、国際的にみて圧倒的に低い水準だ)し、給与所得の平均はどんどん落ちている。

だが安倍氏が選挙中にぶち上げた「大幅な金融緩和」や、自民党がずっとやりたがっている大企業の法人税減税、インフレ・ターゲットなどが、本当にそんなに有効な施策なのだろうか?

大企業が潤えば雇用が回復するという絵空事を信じられている時点でどこか話がおかしい。大手製造業に工場等の投資を増やす余裕ができたとしても、それを日本国内に投下するとは考えにくい。

子供でも分かる話で、輸出産業で日本の国際的競争力がどうしても低下するのは、日本が世界有数の裕福な、所得水準の高い先進国であるため、当然人件費が高いからだ。オートメ化が進む現代の大手メーカーの生産工程なら、国内ではなく人件費が安い中国や東南アジアに工場を持って行くに決まっている。

パナソニックがサムスンに脅かされるのも、韓国の方が日本よりもずっと物価も、人件費も安いからなのだ。そこでサムスンがパナソニックに負けない品質のテレビを生産するようになれば、工場を日本国内に置く限りは、価格競争で勝ち目はないし、そこで低価格競争をやれば、雇用の人数は確保できるにしても給料は上がらない…から小泉政権の時代から、大企業でも期間限定の非正規雇用を中心の労働力にシフトせざるを得なかったのである。

この正規雇用と非正規雇用の格差が、またキャッシュの偏在をまねき、デフレを招いているのだ。多くの人が非正規雇用の低所得になれば、100円ショップが必要になるし、安いのだから高所得の正規雇用の人だって、同じ物なら100円ショップで買う。するとその生産拠点は日本ではないのだから、日本の雇用は減って当然である。

正規雇用の人たちはこの、社会的にも名誉になるし福利厚生も保証された自分たちの立場を保守したくなるのは当然だろうが、しかしこのいびつな雇用体制は是正しなければ、デフレ脱却など無理な話だ。この課題は小泉時代からもうそろそろ10年くらい提示され続けているのに、なんら抜本的な改革はなされていない。

その改革がなされなければ、日本のセーフティーネットの根幹になる健康保険制度も、年金制度も、破綻する危険性がぬぐいきれず、潜在的に大きな社会不安の要素になっているのにも関わらず、である。

そもそも日本にキャッシュが足りないわけではまったくない。預金量で世界最大のメガバンクは、未だに日本の都市銀行である。高齢者やサラリーマンを中心とする膨大な預金額は、ここ10数年ずっと続いている低金利政策にも関わらず、ほとんど減っていない。

当然のことだ。民主党が掲げた年金の制度改革も共済年金を死守したい公務員や厚生年金の有利さにタッチ出来なかったことで失敗してしまった以上、高齢者が将来の老後に不安を感じて預貯金を取り崩さないのも、当たり前の話である。

その高齢者は人の親であり祖父母でもある。保育園の待機児童問題もまったく解消されず、幼稚園保育園の一体化で無駄を省くこともままならず、公教育の現場はいじめ問題や教師の質の低下で不安だらけであれば、子供のため、孫の教育に必要になるかも知れない貯金を守るのもまた当然だし、そこまでお金がなくても、当然ながら「子どもたちに迷惑はかけられないから」という話になる。

だからこの膨大な預貯金は銀行か、下手すればタンス預金になって、マーケットに流通せず、実体経済に流通するキャッシュは当然減ってしまう。

銀行にはキャッシュが実はだぶついているし、その投資先が実はないことの方が問題なのだ。

中小企業では銀行にお金が借りれなく資金繰りに苦しんでいるところが多いのだが、これは決して不景気だから銀行が貸し渋っているのではない。

ウォール街中心の国際金融資本の基準に融資の可否を合せてしまっているので、優良な中小企業でもなかなか条件が満たせず、その資金は国債や、金融マーケットに流れるしかない。

今の日本経済の問題は通貨供給量ではなく、実態経済分野への通貨流通量なのだ。

企業の経営構造が、これも国際金融資本の基準に変わってしまったことの問題も大きい。かつての日本型大企業経営は、収益が上がればそれは従業員の給料や、下請けへの支払いに還元された。こうして企業への忠誠度を高めて成功したのが、いわゆる「日本株式会社」の高度成長の奇跡だったのだ。

今ではこれがまったく異なる。

企業は収益があがれば、それは株主に還元することを真っ先に求められるのである。金融緩和で大企業に株式市場からの資金が廻るようになったところで、わざわざ従業員の給料を上げる経営者などもはやいない-制度的にそれが許されない、時価総額が上がることが企業の価値になり、役員の最大の義務になってしまったのだから、その総額が減るような人件費増なんて、簡単には出来ないのだ。

しかも経営役員の制度も高給化し、報酬の一部を自社株で、というのも定着しつつある。そこで収入が増える役員達が、従業員の給料を上げることなんて考えるだろうか?よほどの善良な経営者でなければあり得ない話だろう。

だから「インフレ・ターゲットでデフレ脱却」なんてやったところで、実体経済がよくなり我々の収入が増えて内需も伸びて日本が元気になる、なんて、実はあり得ない話ではないのか?

そもそも、大企業を中心にした景気対策に意味がないのは、今では企業従業員や下請けが一種の疑似家族を形成することで成長して来た日本型経営がなくなってしまっているからだけではない。

パナソニックやシャープやソニーがどうしたって国内に工場を置く限りは苦しい一方で、日本製品は今でも確実に売れ続けている。

なるほど、スマートホンにしたって日本のメーカーは完全に出遅れている…ように見える。だがアップルの iPhoneでもサムソンでもブルーベリーでも、部品の大部分は日本製なのだ。

高度で緻密な加工技術の精確さと、細かなところで不可能を可能にしてしまうイノベーションの技術力の高さでは、日本の製造業は未だに世界のトップクラスであり、これは高い人件費を払っても十分にその価値があるものなのだ。

あるいはソフトウェア開発でも、作りが丁寧で不良品やバグ率が少ない日本製品は国際的に評価が高いという。ただしこの業界も十分な資金繰りを得られているとは言えず、労働環境も悪く、優秀な労働者が過労で鬱病で倒れる話がとても多いのも現実だ。日本の経済の未来を支えうる優良業種を、この国の政策や経済体制はみすみす潰しているのである。

単純労働者やオートメ化した生産ライン管理しか必要としない最終的な組み立て工程を担う大企業・元請けだけを見ている経済政策だから、実態として日本の力はまだまだあるのに、それを全体の経済に生かせていないだけなのだ。

そうした優秀な部品の生産加工やソフトウェア開発を担う中小企業に、銀行にだぶついた資金がうまく廻っていないから、というのがこのデフレ不況の実態ではないのか?

あるいは医療光学機器で世界的にトップのシェアを実は握っていたオリンパスが、アメリカ発の「告発」でよく考えればなにがなんだか分からないスキャンダルに巻き込まれたことも記憶に新しい。

通常の民生用品とは比べ物にならない精度が要求される医療機器にも、日本の技術や日本のノウハウ、日本の質の高い労働力や開発能力、日本製の質の高い部品は欠かせないのだ。なぜ政治もマスコミも、こうした有望な業種をきちんと評価できず、あぶく銭の名前だけのIT企業か昔ながらの製品やサービスをやっている大企業ばかりに注目するのだろう?

だから安倍政権が参院選での人気取りに向けた「大規模な経済対策ぶち上げ」は、おそらく我々の実際の生活としての実態経済の回復には、ほとんど寄与しないどころか、第二のバブルを招くことになりかねない。

安倍首相の「大幅な金融緩和」を「危険だし、必要がない」と判断した白川日銀総裁は、自民党のプリンスのご機嫌を損ねたためにたぶん更迭は免れ得ないだろう。

だが白川さんは確かにもう少し「金融の番人」としての積極的なプレゼンスは欲しい人ではあるかも知れないが、まったく間違っていない。

日本の経済は確かに、決して安泰とはいえない状態にある。これから高齢化はもっと進行するのだし、給与水準が下がったところで、安価な労働力で価格競争と言ったような輸出産業立国はもはや立ち行かない。この点では新興国に対抗のしようがないのだし、成熟した先進国になってしまっている以上、バブル以前のような急成長はもはやあり得るはずもない。

だが新興国を脅威と感じる、追い抜かれると思って警戒すること自体が馬鹿げている。中国も韓国もどの新興国にとっても、成熟した先進国である日本は重要なマーケットであり、ビジネス・パートナーなのだ。その成長を上手にお互いに利用しなければ、むしろ日本経済が悪くなるのが当然なのだ。

今必要なのは第二のバブルを起こすことでも、付け焼き刃の公共事業で資金を大手ゼネコンに投下することでもない。バブル崩壊時からそのまま放置して来てしまっている、成熟した先進国としての国と社会の新しいあり方のビジョンを提示し、そのために必要な合理化や改革を政治的なイニシアティブで決めることなのだ。

…といって、霞ヶ関ですらそのことが分かっていないし、その霞ヶ関の言いなりになるしかない、能力の欠如した安倍晋三の自民党政権に、その新しいビジョンの提示を期待するだけ無駄なのかも知れない。今やマスコミで話題のネタに人気取りで飛びついて「やります、やります」という以外に、この新政権が国民のためにやっていることはなにもないのだから。

<本稿の補足はこちら http://toshifujiwara.blogspot.jp/2013/01/blog-post_13.html