最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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12/27/2017

極右「國體」カルト洗脳の貴乃花は、いったいなにを狙って奇行を繰り返しているのか?


日馬富士が引退して姿を消しても、大相撲の「暴行事件」騒動が連日報道を賑わしている。

いわば「第二幕」の焦点になったのは白鵬と貴乃花の確執(ただしその根底にある貴乃花の「モンゴル嫌い」は一部夕刊紙・スポーツ紙以外ではまったく触れられていない)で、「第三幕」で現在進行中の相撲協会VS貴乃花一派というか、貴乃花の気まぐれで理解不能な行動と、相撲協会がどう対応するのかに話題が移っている。

そして貴乃花はその相撲協会を挑発するように、次から次へと「奇行」を繰り返している。

親方となってからの貴乃花はメディアでは角界の「改革派」と持ち上げられながら、肝心の相撲と弟子の育成はそっちのけで相撲協会内の権力闘争にばかりご執心だったが、それでもついに貴乃花部屋で初めて、貴景勝が三役昇進・次回の正月場所で小結に決まり、それを祝う記者会見があった。


こうしたおめでたい席は普通ならその相撲部屋に設けられ、取材記者はいわばお祝いに駆けつけたお客さんのようなもの、もちろん親方が立ち会って温かい目で弟子を祝福したり、緊張しているのをうまくほぐして和やかな空気を作るのが相撲界の伝統のだったはずが、貴景勝はひとりぼっちで、それも国技館で会見をやらされた。

暴力事件の被害者・貴ノ岩の扱いにしてもそうだが、この親方、つくづく弟子をいったいなんだと思っているのだろう?

結局は、密かに東京に戻されて入院していたらしいが、だったら親方はなんで診断書を提出してやらなかったのか? 祖国モンゴルでの自分の評判をひどく気にしているそうだが、せめて入院していることと、怪我の状態が良くないことを親方がきちんと公表するだけでも、あらぬ誤解はかなり防げたはずだし、巡業を無断で休むこともなくて済んだはずだ。

「入院しているのだからそっとしておいて欲しい」というだけでも、マスコミだって多少は取材攻勢を控えていただろう。

だがマスコミに取材攻勢を控えられてしまうのは、逆に貴乃花の目論みに反することだったのではないか? むしろあまたの憶測を呼び起こす奇行を繰り返して延々とこの一件を話題にし続けることが、貴乃花の狙いなのではないか?

九州場所の間、貴乃花部屋の宿舎の前にマスコミが貼付き続けたのは結局的外れだったことにはなるが、そんな取材攻勢をかけられ見張られ続けているだけでも他の弟子たちにだって相当なストレスだろうに、そんなひどい環境に置かれた先場所で、貴景勝は横綱2人大関1人を倒す快挙を成し遂げた。

今の幕内では最年少でこの出世というのは、嬉しくてめでたくてしょうがないはずだ。しかし「喜びの会見」で貴景勝は緊張と不安で冷や汗をかくばかりで、笑顔ひとつも見せる余裕もなかった。

たった21歳の若者に、これはあまりにも酷ではないか? せっかくの晴れの席なのに、彼は記者が聞きたいのが自分のことではなく親方のことだとも百も承知だろう。なんとも幸先の悪い話でもあり、なによりもこの青年がかわいそうだ。

弟子そっちのけで貴乃花が引き延ばしに熱中して来たこのスキャンダルの、その貴乃花本人も含めて誰も得をしそうにない展開に、その動機に首を傾げる人も多い。

だがこの一件、得をしている人間が少なくとも1人は、確実にいる。

相撲界にだけ気を取られていると気付かないかもしれないが、ちょっと距離を置いて考えれば答えは簡単だ。犯罪捜査でも推理小説でも常道は、最大の受益者=最大の動機がある者をまず疑うことだが、もちろんこの大相撲騒動がトップニュースになることで政治報道がテレビからほとんど消えてしまって誰よりも助かったのは、言うまでなく安倍晋三総理大臣だ。

野党側の主張で12月8日まで審議が行われた国会の議論では、加計学園疑惑についても追及が続き、その獣医学部の新設が設置審を通った背景にも、また獣医学部新設について閣議決定された4要件に違反している可能性についても重大な疑義が提起されていたのだが、新聞以外ではほとんど報道されなかった。

森友学園疑惑では、籠池夫妻が公汎開始に至らないまま5ヶ月も拘束されて保釈が許可されない理由も見当たらないのに親族すら面会できなくなっている。日本の司法制度において前例のない異常事態というか、どうみても違法な取り扱いだが、まったく騒ぎになっていない。8億円超の国有地値引きの背景についても、財務省と学園側の交渉の録音記録がリークされ、驚愕の…というか呆れた実態が分かって来ている。なんと土中の多量のゴミをでっち上げて値引きの言い訳に使ったのは財務省の発案で、事実に反することは困ると及び腰の学園側を、法の抜け道が使える文言まで提案して財務省の側こそが押し通していたのだ。なんとも安倍コベ…ではなかったアベコベな話で、ワイドショーの格好のネタになりそうなものが、なぜかまったく取り上げられていない。

天皇の退位についても、退位日程が決まった過程にいろいろ疑問があるし、天皇がわざわざ宮内庁を通して派手な式典は要らないと表明したことも、「内幕はどうなっているのか」をあれこれ憶測するのはワイドショー的におもしろいはずが、まったくスルーされている。

麻生太郎副首相と親しいと言われるスパコンのベンチャー企業ペジー・コンピューティング社長の補助金不正受給詐欺も、まったくテレビは取り上げない。この社長氏、安倍首相と極めて親しいジャーナリストでセクハラ・レイプ事件を起こし、警視庁高輪署の丹念な証拠固めで逮捕状も出たところで、なぜか警視庁上層部が強引に捜査を打ち切らせた山口敬之氏を、自分が借りている超高級マンション(週刊新潮が調べたところでは家賃200万だとか)に住まわせてもいる。確かに経産省を騙して補助金を「詐取」した事件にも見えるが、こんな手口で経産省のエリート官僚を騙せるものなのか、ずいぶん不自然ではある。なんらかの力が働いて強引に補助金が支出されたのではないか、とワイドショーが推理に熱中しても本来ならおかしくない。

JR東海のリニア新幹線をめぐる大手ゼネコンの談合不正受注に東京地検特捜部が切り込んだのも普通なら大ニュースになるはずだ。これがまた、昨年の参院選の直後に安倍首相が突然「成長戦略」と称して3兆円の財政投融資の投入を決めたいわく付きの事業でもある。JR東海は前会長が安倍首相と「日本会議」を通じてつながった極右カルト人脈で、リニア事業はこの前会長がご執心だったのが、現経営陣は採算性の見込みが立たず途方にくれていたもので、いきなり「国家戦略」としての国費の注入がたいした議論もなく決まっただけでも本当は大問題の、森友・加計どことではない巨額オトモダチ案件だった。しかも談合を主導した大林組には、なんと安倍さんと「メシ友」なお友達幹部がいるらしい。本来ならワイドショーが喜んで飛びつく大疑獄のはずだが、まったく無視されている。

テレビ的には「貴乃花をやれば視聴率が上がる」と言われているらしいが、貴乃花がダンマリを決め込んでいる以外に新しい話題も特にないのに、本当に喜ぶ視聴者がそんなにいるのだろうか? コメンテーターがああでもない、こうでもないと同じような憶測を繰り返すだけでまったく本質も見えて来ないのだし、いいかげん飽きて来てもおかしくない。

相撲協会の危機管理委員会の鏡山親方が貴乃花部屋を訪れては居留守を使われ帰って行く繰り返しだとかはまあ、おもしろおかしくはあったし(しかし鏡山もいささか間が抜けているとはいえ、同僚の親方にあんな恥をかかせてしまえる貴乃花というのもひどい)、「貴ノ岩はどこにいるのか」もミステリー仕立てのエンタテインメント性がなかったわけでもないが、なにしろひたすら思わせぶりなだけでたいした内容もないのに、スキャンダル報道だけが肥大・膨張・増幅していくのは奇妙だ。

だがよく考えれば、こうして報道ばかりが過熱して延々と引き延ばされたのは、ひたすら貴乃花の行動があまりに不可解で思わせぶりだからに他ならない。

そして一見不可解な自爆行為としか思えなさそうな貴乃花にも、実は狙いというか思惑があって、よく見ればそれが三つほど、かなりはっきり見えて来る。

第一に、事件を知った時点で警察に被害届は出しながら相撲協会には報告せず、場所が始まってからスポーツ紙にリークして不意打ちのように報道させたのは、日馬富士の暴行事件をここぞとばかり利用して、少しでも大きなスキャンダルにするためだ。「協会にもみ消されるのを防ぐためでは」と支離滅裂な貴乃花擁護を展開するコメンテーターも多いが、馬鹿も休み休み言って欲しい。もみ消しを防ぐのなら事件を知ってすぐに警察に被害届を出すと同時に協会に報告し、あわせて自分で記者会見でも開いた方がはるかに効果的だったし、貴ノ岩も少しでも苦しまずに済ませられたはずだ。貴乃花は弟子の被害に怒ったのではない。まず話を大きくして日馬富士を確実に潰そうとし、あわよくば白鵬まで狙っただけだ。自分が黙っていた方が、その意図をマスコミが勝手に忖度してくれて、話はどんどん大きくなる。

第二に、今やかつての自分を遥かに超えた、押しも押されぬ平成の大横綱となった白鵬へのバッシングを仕掛けることだ。これはある程度は成功している。ここ数年の白鵬の取り口が勝つことだげが目的の荒っぽいものになっていたこともあって、その意味では自業自得的な面もあるが、モンゴル人という出自があるからこそ日本人よりも日本人らしい愛される優等生横綱になろうと徹して来た白鵬が、考えを改めてひたすら勝ち続けることだけに集中する大横綱になろうと決意したのは、優勝記録や連勝記録を更新し続けて名実共に貴乃花を超える平成の大横綱として認められた前後からだった。「横綱がはしたない」と批判されるような物言いをつけ始めたのはもっと分かり易く、貴乃花が審判部長だった頃だ。巡業部長になってからは、移動のバスが貴乃花の命令で白鵬を置いてきぼりにしたこともある。

そして第三に、今まさに進行中の、警察の捜査が終わったら協会の事情聴取に応じるはずが「検察の捜査が」と前言を翻してみたり、自分の主張を理事会で口答ではなくわざわざ文書にして他の理事に黙読させ、その文書はしかもわざわざ回収したり、鏡山に居留守を使い続けたりもした一見不可解な行動は、ひたすらこの事件をめぐる騒動とその報道を長引かせることが目的だと気付けば、すべて説明がつく。

本当に言いたいことがあるのなら同じ文書をマスコミに渡していれば主張はより強く伝わったはずだ。だがそうやった場合、この文書の件がワイドショーの放映時間を独占するのは、木曜日の理事会のあとの夕方と夜のニュースと、その翌日いっぱいで終わって、次の展開が必要になっていただろう。

だが最初は中身がさっぱり分からず、週が明けてから少しずつ「関係者の証言」として中身が小出しにされたことで、週末の情報番組も占有できたし、週明け後も年内いっぱいくらいはワイドショーの放送時間を押さえられる(つまり、他のたとえば政治ニュースは報道されないで済む)。

唐突に協会側に帝国ホテルに呼びつけて事情聴取に応じ、その文書と同じような内容をひたすら繰り返したらしいのも、協会側が木曜日の臨時理事会までその内容は公表できないのを見越していれば、情報が小出し・断片的にしかならないぶん憶測が憶測を呼び、ひたすらこの話題を引っ張れるという計算は当然成り立つ。

つまり貴乃花の目的が「ワイドショー独占」なら、一見不可解な行動にもすべて合理的な説明がつくし、そのワイドショー独占が成功すれば衆院選挙には勝ったが支持率は低迷したままの安倍政権が助かるのだ。

ずっと貴ノ岩の所在を隠し続けたのも、冬巡業に診断書を出さなかったのも、マスコミがああでもない、こうでもない、と憶測報道を続けることを狙った計算があったとすれば、事態は確かにその貴乃花の狙った通りに進行して来ている。

早々に「入院しているので今はそっとしておいて欲しい」とマスコミに告げ、ごく普通に貴ノ岩の診断書を協会に提出していれば、ワイドショーはそれ以上は報道できる内容がなくなり、「貴ノ岩はお気の毒」「早く恢復して正月場所での活躍が楽しみ」でこの話題は打ち切られてしまい、スパコン補助金不正やリニア談合、加計学園獣医学部があやふや・うやむやなまま認可された不透明さや、森友学園疑惑の新たに出て来た真相などなど、ワイドショーの関心は政治スキャンダルに向いて行っていただろう。

もちろんただスキャンダルを引き延ばしただけでは、貴乃花本人には結局メリットはなにもない。

メディアはなんだかんだ言ってもかつての「若貴フィーバー」のノスタルジアもあって貴乃花を応援してくれているが、付き合わされている相撲協会にしてみれば、あまりに非常識で人を馬鹿にした態度に、かつての人気横綱で「土俵の鬼」だったのだから、と貴乃花を支持して来た親方衆も、さすがに呆れて離れて行くだろうし、現に横綱審議委員会が親方の行動を批判するという異例の事態にもなった。

それに弟子にとっては親代わりなのが親方の責務なのに、貴乃花の弟子の扱いがあまりにひどい。

こうも人望を失い続けるままでは、貴乃花の「改革」の野望というか相撲協会の理事長となって角界のトップに、という野心の実現はどんどん遠のいて行くだけだ。

だが誰か大きな力を持った、いわば “黒幕” がいて、貴乃花をうまくそそのかしてとにかくこのスキャンダルを引き延ばすよう頼みでもしていれば、状況はまったく変わって来る。その “黒幕” の後ろ盾があれば相撲協会内の力関係をひっくり返せるのだ、と貴乃花に思わせることさえできれば、貴乃花は喜んでその話に乗るだろう。

どっちにしろ元横綱北勝海の八角ががっちり体制を固めて、一時の度重なるスキャンダルを乗り越えて相撲人気の回復を成功させた今の相撲協会のままでは、人付き合いが悪いことで悪名高い貴乃花がその北勝海を倒して角界に君臨するなんてことは、普通ならまずあり得ない。

だが公益法人として政府の管轄下にあるのが相撲協会だ。政治権力が貴乃花を理事長に、と動き出せば状況はがらりと変わる。

幕内優勝40回に通算1000勝などなど、数々の大記録を打ち立てた白鵬も、通ぶった人々がいかに最近の荒っぽい取り口を「横綱相撲ではない」とイチャモンをつけようが、一般相撲ファンの人気は絶大だし、そのひたすら勝ちに行く攻撃的な相撲は、白鵬の柔軟で俊敏な動きの身体的な美しさもあって、確かにメチャクチャかっこいい。ファンが喜ぶのは当然だし、その白鵬を見たくて切符を買う人も増える。

11月・九州場所の優勝インタビューでなんのことかよく分からない万歳三唱を呼びかけたのも、満場の観客が喜んで応じたのを見れば分かるように、いかに「厳重注意」を食らおうが、横綱の風格というかカリスマ性の高さも、今の相撲興行からは絶対に外せないのだし、この厳重注意だって一方では、八角体制の執行部は白鵬の渾身の(掟破りの、普通ならあり得ない非礼の)訴えを聞き入れて貴乃花を冬巡業から外したわけで、むしろいかにも日本的バランス感覚の「喧嘩両成敗」の形を成立させるための方便だろう。

だが貴乃花のバックにもし例えば与党内の極右勢力とか、安倍官邸がいれば、自分たちの人種差別の排外主義をこの政権が正当化してくれることが嬉しくてしょうがない熱烈支持層も嬉々として白鵬&モンゴル勢バッシングを展開してくれるし、そうした世論も含めて貴乃花が切望する相撲界からのモンゴル勢排除の強力な後押しにもなるだろう。

今の相撲協会の主流派なら、白鵬と貴乃花のどちらを選ぶかと言えば確実に白鵬を選ぶに決まっている。まずなによりも、相撲の興行を支えられるのは白鵬であって、貴乃花を見に相撲に行く客はいないからだ。

一部の週刊誌がいかに差別排外主義的なナショナリズムで白鵬をこき下ろそうとして、ネット上でもそうした差別排外主義が露骨なバッシングに同調する者も増え、テレビのコメンテーターもかつての若貴フィーバーの延長で貴乃花を擁護しようが、白鵬を「日本をバカにしている」「反日だ」と叫ぶいわゆるネトウヨ層のツイートなんて、八角体制が開拓した「スー女」の女性ファンは見向きもしないし、週刊誌もコメンテーターも入場料を払って両国国技館や地方場所や巡業を見に来てくれるお客さんではない(テレビ中継すら見ているかどうか怪しい)。

それに確かに相撲界は保守的で、なにしろ伝統芸能の格闘技の継承者それも「国技」だからいわば「愛国的」で、政治的傾向では右翼的な人も多い方ではあるが、保守的で愛国的だからって即乱暴な排外主義の差別主義者になるとは限らない。

むしろ日本の伝統的な真性の「保守」だったら、まったく逆になる。

たとえば日馬富士の師匠・伊勢ケ濱を見ても分かることで、引退会見で親方の方が涙を流したかと思えば、気色ばんでマスコミのぶしつけな質問を封じ込めたのは、世間の評判は悪いだろうがそれでも、伊勢ケ濱がどれだけ日馬富士を愛していて、最後まで守りたかったのかは伝わった。

ほとんどの親方衆は白鵬や日馬富士や鶴竜が、モンゴル人の彼らにとっては苦労も多い外国となる日本で、人一倍努力して、日本語も学び稽古にも励んで今の地位に上り詰めた、その一生懸命な姿を見続けて来た。生身で見て、裸で接し、時には一緒に涙も流して来たであろうその彼らに、「日本人ではない」からといって排外主義的な差別の憎悪を向けるような真似ができる親方は、若い頃から相撲しか知らない人達だからこそ、まずほとんどいないだろう。

元力士の親方衆が仕切る相撲協会は、確かに現代の世間の価値観からはズレていたり、非常識だったりはする。勉強よりも相撲の稽古に青春時代を費やしただけに教養や常識がなかったりすることも確かにあろう。旧弊な上下関係の体質もあるし、しかも相撲の興行は巨額のカネが動くものでもあるだけに、そのカネをめぐる利権やら癒着やら腐敗やらもあるだろうし、繰り返しになるが伝統芸能の格闘技を継承しているのだがら保守的でしがらみも多く、一門制度であるとかの旧態依然の派閥体質も確かにある。だがよくも悪くもそうした昔ながらの価値観の、真性の日本的な「保守」で、小難しい理屈もよく分からない人達だけに、人情というものは人一倍厚い。

だがそんな中で明らかに浮いているのが、貴乃花なのだろう。

確かに現役当時には高い身体能力で天性の相撲の才能も明らかで、土俵入りの美しさなどは天下一品だった。目鼻立ちも身体の線も見栄えもするし、初代若乃花の甥で初代貴乃花の息子の血統の良さからしてもまさに生まれながらのスター力士、まるで「天皇」的な存在ですらあった。


だが今では無条件の褒め言葉のように使われている「土俵の鬼」というのも、元々はそんな無邪気な文脈で出て来た言葉ではない。

たとえば女優・宮沢りえとの婚約の破棄だとか、なにがあったのか真相は分からないが(ざっくばらんで正直だが口は悪かった宮沢の母は「漢字もロクに読めないクセに」と怒っていた)彼女が深く傷つけられながらもあっぱれなまでに気丈に振る舞っていたことだけは確かで、それに対する貴乃花側の対応がこれまたなんとも奇妙というか冷淡というか、常識をわきまえないというか血も涙もないというか、そんなスター力士の態度をなんとか擁護するために持ち出されたのが相撲のことしか分からないという理屈で、元々は叔父の初代若乃花を指した「土俵の鬼」という形容がリサイクルされたのだ。

その後も貴乃花は、子供の頃からずっと支えてくれ、かばっても来てくれた兄の二代目若乃花ともなぜか絶縁状態になったり、父の藤島親方(初代貴乃花)が「光司は洗脳されている」と告白して大騒ぎになったこともある。

今でも貴乃花の名勝負といえばすぐ持ち出される2001年夏場所の、武蔵丸との優勝決定戦にしても、あれが「横綱相撲」で本物の「土俵の鬼」の取り組みだったとは、とても言えない。

満身創痍で膝を痛めている貴乃花を相手に、武蔵丸はとてもではないが本気で「ガチンコ相撲」は出来ず、戸惑い、遠慮して、ほとんどわざと負けたようなものだ。

これ以上怪我をひどくさせてはいけないと気を遣って手加減してくれている相手を倒して「鬼の形相」だの、当時の小泉首相が「痛みに耐えてよく頑張った、感動した」と誉め称えたのも自分の「改革」方針のキャッチフレーズをうまくアピールした機転にだけは感心するが、あれは明らかにおかしいと思ったら案の定、藤島親方は息子の頑固な熱意に千秋楽の取り組みまではしぶしぶ許したが、優勝決定戦になったら棄権しろと命じていたのに、無視したのが貴乃花だったらしい。

藤島親方はまともだったわけだ。単に息子で愛弟子の身体が心配だっただけではなく、あんな状態で土俵に上がられては、やさしい人柄で知られた武蔵丸があまりに気の毒だし、貴乃花がやったことは、普通ならあんな卑怯な勝ち方はない。

だが貴乃花の場合は卑怯というよりは単に、相手のことをなにも考えていなかっただけのように思える。

これは相撲と言う競技の特質からすればかなりおかしい。貴乃花は本当に、日本の相撲の精神的な特質・特徴を考えたことがあるのだろうか? 
日本の相撲はただの格闘技ではない。 
力士同士は真剣勝負で向き合っても、必ずしもただ「敵」であるだけではない。 
そうでなくてなぜ、双方の息が合わなければ試合が始まらない、なんてルールになるのだろう? 
取り組みの相手は真剣勝負の相手であると同時に、息を合わす相手でもあるのが日本の相撲なのだ。こうして対峙する相手に対してもただ勝つだけでなく同時に高度な共感能力を持つよう要求もされていることが、日本の相撲を日本ならではの独特の文化にしている。 
だからこそ相撲は神事になり土俵は祭礼のカミを喜ばせてヒトも楽しむ場と化し、そして最強の横綱は「カミ」になり得るのだ。


今回の騒動でも、自分のスキャンダルのせいでなんの関係も責任もない貴景勝のおめでたい昇進に水を差しているのだから、せめて自分のことで弟子が苦しまないようかばってやらなければ行けないはずだ。だいたい自分の責任なのだから自分が矢面に立つのが「親」だろうに、貴乃花は記者会見に「1人で行って来い」と言って送り出したのだそうだ。薄情を通り越して身勝手で無責任、そして弟子を人だとも思っていない。

貴ノ岩はもっとかわいそうだ。貴乃花は貴ノ岩が最初は「階段から落ちた」と言い訳したのを「『親』である師匠にも言えないことが起こったに違いない」「根が深い」などと言い訳しているが、根が深いのは暴行事件の方ではなく、モンゴル人の弟子が素直に話せないような圧力をかけ続けている貴乃花部屋の体質、貴乃花自身の性格と彼が染まっている歪んだ思想の方だ。

このモンゴル人の弟子がいながら、貴乃花はテレビのインタビューでも「自分の務めは日本人の強い力士を育てること」と公言したりして来ている。さらに内輪の集まりだとかでは相撲道の理想は「國體を守る」とか「國體を支える」などとまで言っているのだ。

これを誰も批判しない相撲マスコミというのは、貴乃花本人と同じくらいどうかしている。これではほとんど恒常的な精神的虐待も同然のレイシズムに日々晒されて来たのが貴ノ岩ではないか。かくも無自覚な差別意識丸出しに俺は「親」なのだとふんぞり返る親方にこそ、弟子が正直に話せるわけがない(というか、これではまるでパワハラ、虐待的依存関係の強要だ)。

そんな貴乃花が貴ノ岩に「馴れ合いになる」と言ってモンゴル人力士の先輩や同輩との付き合いを禁じていたことを美談のように伝えるワイドショーと、「それはおかしい」と決して言わないコメンテーターは、自分達もまた大日本帝国カルトの八紘一宇めいたレイシストになってしまっていると自覚できないのだろうか?

高校生で日本に留学し、貴乃花を大横綱の「土俵の鬼」と信じて入門して一生懸命に頑張って来た貴乃岩であれば、モンゴル人だからこそ必死で日本人になりきろう、日本人の言うことに従おうとしか考えられない立場に置かれて来たはずだ。

それに相撲部屋という特殊環境では、彼がそんな貴乃花の極右排外主義に逆らいようもないのだ。洗脳されてしまうことは避けようがない(そうしなくては相撲部屋の中では生きていけない)。


これは第二次大戦中に、日本軍の、それも特攻隊にあえて志願した朝鮮人の青少年や、台湾の高砂族などの少数民族出身の日本兵や、沖縄出身の日本兵に起こったこととも通底している。

藤田嗣治『薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す』昭和20年(部分)
例えば彫刻家・金城実は父がそうした忠実なる日本兵として戦死したことを、自らあえて厳しく批判している。その金城は、亡父が前線から母に送った、そうした言葉が書かれた父の遺書となったハガキを、今でも大切に保存している。 
日本の当時の体制下で差別されていたからこそ、日本人以上に日本人らしくあろうとすることで日本人に認めてもらわなければならない、という強迫観念が産まれてしまっていたのだ。 
さらに沖縄戦では多くの民間人も「切り込み」などと称して米軍の陣地に地雷や手榴弾を抱えて自爆攻撃までやっているのだ。 
近現代の「日本」という社会には、こうした差別やいじめと表裏一体になった不気味な同調圧力があり続けていることに、我々自身もまたどこかで同化しながら、その自覚から逃げ続けている面は決して否定できまい。 
我々はまだ無自覚でいられるが、在日コリアンの人々にせよ、相撲界のモンゴル人力士にせよ、彼らにとっては常に迫られて意識され続けさせられる圧力になっているとしても、なんの不思議もない。


そしてここにこそ、日馬富士が我を忘れるほど怒ってカラオケのリモコンで殴りつけるような暴行に走ってしまった、真の原因があるのではないか?

同じ席で、日馬富士と照ノ富士のあいだにも緊迫したやりとりがあったそうだ。

照ノ富士は「自分たちには壁があって思った通りのことは言えない」と日馬富士に訴え、日馬富士は「そんな壁はお前たちが自分で作っているんだ」と言って顔を三、四度平手打ちをしたという。

マスコミでは懸命に、照ノ富士が言った「壁」というのは下位の自分たちは横綱には何も言えない、という意味で、相撲界の上下関係の体質の問題だと決めつけようとしているが、ちょっと考えればこれでは日馬富士の返事の意味がまったく分からなくなるし、だいたい照ノ富士だってその「壁」に向かって「壁」があると言ったのだとしたらずいぶん矛盾した話だ。

だが彼らモンゴル人力士にはまた別の、思った通りのことが言えない「壁」が確かにあるし、そこに気付けば、貴ノ岩が以前に白鵬相手に金星を上げて「これからは俺たちの時代だ」と吹聴して白鵬を怒らせたことがこの事件の遠因になっているらしいとか、断片的に報じられている当日の他のやりとりとも整合性がつくし、日馬富士が「その壁はお前たちが作ってるんだ」と言った意味もすんなり理解できる。

「壁」とは、自分たちがモンゴル人力士である以上は日本人が日本の伝統だというものに逆らうことはできないし、日本人相手に本当に思っていることは言えない、まして自分たちは差別されて悔しいなどとは絶対に言えない、という「壁」だ。

一応、照ノ富士の支援者が本人で電話に確認し、「壁」というのは横綱にはモノが言えないという意味だと言質を取ったという報道はあった。 
わざわざ電話した日本人支援者も、その情報を鬼の首を取ったように喜ぶメディアもまさに何をか言わんやの滑稽すぎる話で、「壁」本人に向かって「あなた(達)が壁です」なんて言えるわけがない。

白鵬や日馬富士本人だって、その壁に実は苦しんで来たし、自分なりに乗り越えようとして来たではないか。だったら「その『壁』はお前たちが作っているのではないか」と言うのも意味はよく分かる。

だから白鵬は、モンゴル人横綱が朝青龍の時から「横綱の品格」と言われ続けていることに「勝つことが横綱の品格だ」と最終的には開き直ったというか自分で合理的な解答に達し、土俵上では文字通り「勝負の鬼」になると決意したのだし、そうでもしなければ自分たちがいくら頑張っていい記録を残しても、最後の日本人横綱だった貴乃花を引き合いに出しては日本人横綱待望論を繰り返すマスコミ報道に、とっくの昔に耐えられなくなっていただろう。

その待望の日本人横綱に稀勢の里が特例で(二場所連続優勝ではなく一場所だけで)昇進した場所が尋常ではない稀勢の里フィーバーになり、そこで普段なら力よりもテクニックで勝つ相撲が魅力の日馬富士が(というかここ何年かは満身創痍で体力的に無理があるのを、テクニックで補って来た)、柄にもなく猪突猛進型のすさまじい取り組みで稀勢の里を土俵の外に突き飛ばし、勢い余って大怪我をさせてしまったこともあった。

貴ノ岩が単に生意気な態度で白鵬を怒らせ、白鵬の代わりに日馬富士がせっかんしてしまったということだけが、この事件ではないのではないか?

同席していた日本人の、直接に相撲界の人間ではないどころか、貴ノ岩にとっては高校時代の恩師である人たちまでがこの事件について黙っていたのも、日馬富士が怒ったのにはよほどの理由があり、それが明らかになればむしろ貴ノ岩の将来が傷つくと思ったのだとすれば、説明はつく。

そしてそんな「よほどの理由」として今の日本で考えられるのは、「モンゴル人」が絡んでもいるのだし、人種差別の問題、差別発言が真っ先に思いつく。

だいたい、貴ノ岩についても真面目で実直な性格で、とてもではないが目上に対してそんな非礼で生意気な態度を取る人間ではない、というのがもっぱらの評判だ。

だが貴ノ岩が貴乃花の極右排外主義に洗脳され、その師匠を正しいと信じ込んでいたか、懸命に師匠に合わせようとしていて、師匠に忠実であろうとするあまりにモンゴル人である大横綱相手だからあえて大横綱と認めまいと反抗的に振る舞ったり、バカにした態度を取ったり、露骨に侮辱した(たとえば「モンゴル人くささが抜けていない白鵬は本物の横綱ではない」とか「日本人の貴乃花と違って横綱の品格がない」的なことを口にした)のであれば、日馬富士を知る人が誰もが首を傾げるような暴行も、引退会見でその日馬富士が憮然と「礼儀と冷静を教えた」と繰り返しただけだったことも、すべて説明はつく。

そもそも貴乃花の言う「國體」(要するに「日本は神の国」で云々)のロジックで言えば、日本人になっていない白鵬や日馬富士は(「本物の横綱」ではないので)貴ノ岩にとって「目上」ではなくなる。

ここに人種差別があるからこそ、「自分たちはモンゴル人だからと言うだけで差別されている」とは、朝青龍にも白鵬にも、そしてむろん日馬富士にも、絶対に言えない「壁」が確かにそこにあるのだ。

相撲協会の体面と相撲の伝統を守るためにも、そして自分たちモンゴル人力士が日本で相撲を取り続けるためにも、こればかりは絶対に言えない「壁」だ。

彼らがそこまでは口に出来ない立場を大半の親方衆も関取もなんとなくは分かっていて、貴乃花が異様な差別思想に取り憑かれて異様な「モンゴル嫌い」の態度を取り続けていることももちろん認識されているからこそ(たとえば、巡業中もモンゴル勢が土俵で稽古を始めると弟子を引き連れて席を外してしまうのだそうだ)、白鵬が「貴乃花親方が巡業部長では安心して相撲がとれない」と、現役力士として本来は絶対にやってはいけない親方批判をあえて言ったのも、執行部の親方衆もその場では言葉を濁しながらも、ちゃんと聞き入れたのだろう。

一部の週刊誌報道はここぞとばかりに、かつての朝青龍バッシングの再来のような白鵬バッシングにいそしみ、テレビ報道はかつてかっこいい名横綱として国民に愛された貴乃花を中途半端に持ち上げてその「真意」を忖度することを競い合っているのはいかにも気持ち悪いのだが、ちょっとネットで検索をかけて見たらなんのことはない、貴乃花は極右に染まっているどころか、極右系のエセ神道の新興宗教にゾッコンなのだそうだ。

さらにはツイッター上では、貴乃花部屋の力士が自分のアカウントで旭日旗をカバー写真にしたりして、すっかりネトウヨ化すらしているらしい。


貴乃花がこんな極右カルト人脈に洗脳され、どっぷりそこに浸かっているとなると、貴乃花の狙いがひたすら騒動を引き延ばして少しでも話を大きくしてワイドショーを電波ジャックするのが真の狙いだとしても、誰の差し金で貴乃花がそんなことをやっているのかについてまで、「いくらなんでもまさか」と思っていた極論の “黒幕” 仮説が、どうも本当に真相なのではないか、と思えてしまう。

つまり、冒頭の繰り返しだが、この事態の長期化で政治報道がほぼワイドショーから消えてしまい、重大な疑惑をニュースがまったく取り上げなくなったことで、いちばん得をしているのは(つまりこのスキャンダルの最大の受益者は)安倍首相だ。

貴乃花が極右カルトの新興宗教につながっているのなら(その新興宗教のホームページを見れば、貴乃花はこのカルトの広告塔にもなっている)、この仮説もまったく荒唐無稽とは言えなくなる。

なにしろ、「國體」を崇拝する貴乃花は要するに、かつての森友学園と同様の、安倍の「日本会議」人脈、要は歴史修正主義で第二次大戦をなんとしても正当化して南京虐殺などはなかったと噓も百回言えば本当になると思い込んでいるような、「日本は神の国」的極右カルトのネオナチ人脈に属しているのだ。

だとしたら、貴乃花が日馬富士の事件の示談を拒否し裁判に持ち込みたがっているのも、協会の処分に対しても民事訴訟で争う気満々らしいことも、彼はそれで勝てるつもりだからなのだろう、と説明がつく。

裁判所が政治家の言いなりで、だから自民党極右の権力者に有利な判断を司法が忖度するなんてことはまともな国では絶対にあってはならないのだが、相手は貴乃花なのだから三権分立の原則も知らないだろうし(なにしろ「警察」と「検察」の違いがよく分かってなかったのだし)、また安倍政権ではそういう憲法上あってはならない判決も、現にしょっちゅう出ているではないか。政権におもねるために裁判所が司法判断から逃げることすら珍しくない。

いずれも苦し紛れのへ理屈で、違法性が訴えられたのを「違法と断定はできない」と誤摩化したレベルの逃げの判決でしかないのだが、まあ貴乃花であるとか極右カルトやネトウヨさんたちの頭のレベルでは、「勝った」か「負けた」かの区別しかつくまい。 
もちろん朝鮮学校への高校無償化適用が完全に合法であることは変わらず、これは外国籍への生活保護支給も同様で、「適用しないのも違法とまでは言えない」判決はただの誤摩化しのへ理屈だ。 
最高裁は総理大臣の靖国参拝の違法性の有無を判断せず、ただ訴えた原告がその参拝によって損害を受けていないと逃げただけだ。後者は合法という判断を下さなかったというのは要するに、最高裁だって実は違法(ないしその可能性は否定できない)と思っているからだ。 
しかしそれにしても安倍政権下では、こういう論理性をあいまいにした恥ずかしい判決が極端に増えている。

自民党の極右カルト分子というか、要するに安倍官邸か、党内の安倍の側近の誰かが貴乃花の奇行と引き延ばし作戦の “黒幕” なら、確かにその権力を傘に着て貴乃花が相撲協会を乗っ取ることも…これも普通の世の中なら絶対に無理なはずだ。だが相手は相当に世間知らずな貴乃花だ。総理大臣ならそれくらいできると(しかも自分は「國體」を守ろうとしているのだし)信じ込むだろう。しかも実際に、これだって安倍政権ならやりかねない。

それにしても「國體を守る」とか言っている貴乃花の途方もない勘違いは、いったいどこから始まったのかを考えると、やはり2001年5月場所の、対武蔵丸優勝決定戦が思い当たる。

貴乃花の認識ではミもフタもなく、自分が総理大臣に「感動した」と言わせたのはハワイ人の、つまり外国人横綱の武蔵丸を倒したからだと思い込んだのではないか?

逆に言えば、武蔵丸は貴乃花が膝に致命的な怪我を抱えていたからだけではなく、相手が日本人横綱で国民的ヒーロー、それも角界の「天皇家」みたいな血統の貴乃花だったからこそ、あそこで「土俵の鬼」になって「横綱相撲」の本気の取り組みで勝ってその貴乃花に大怪我をさせるなんてことは、絶対に出来なかっただろう。

藤島親方は武蔵丸の立場をそこまで考えていたのかも知れない(っていうか、観客ならともかく角界の当事者なら気付くでしょ)し、いずれにせよあの優勝決定戦はなんとか息子を止めようとしていた。しかし貴乃花はその師匠の(「相撲道」に乗っ取った、日本人なら当然の道徳観に根ざした)制止を聞かず、当然のこととして勝たせてもらえただけなのに、勝ってしまえば誰も批判せずに国民的ヒーローに持ち上げられてしまった。

だがこの際はっきり言っておこう。江戸時代やそれ以前に遡る日本の「大相撲」の歴史をちゃんと見る限り、また相手・敵と「息を合わせ」なければ立ち会いが成立しないといった相撲の格闘技としての特徴を見ても、「相撲道」というのはそんなものではないはずだ。

国宝 一遍聖絵 巻七 正安元(1299)年より 神社の境内
牛車に乗った貴族や高僧と ハンセン病患者たちや貧民

相撲が見せ物であるからこそ神事でありお祭りであるのも、土俵が神聖で塩で清められた場所でなければならないのも、そんな狭量で邪悪ですらあるケガレそのものみたいな考え方とは、まったく反する。

「國體」とか貴乃花たちが言うのであれば、日本がそんな国であったのは明治維新以降第二次大戦までのごく限られた時代の、それも最後の方だけだ。あれはどう考えても日本史のなかであまりに例外的な、異常な、日本人が日本人らしさ完全に失っていた時代だった。

12/10/2017

「日本の伝統」が聞いて呆れる 深川八幡「御家騒動」殺人に見え隠れする神社本庁と、大相撲「暴行」問題と「国體」


江戸時代後期の深川八幡(広重)拡大はこちら

富岡八幡宮で殺傷事件が、という速報が夜のニュースで突然流れたとき、通り魔事件でないならもしや関連が、とふと頭をよぎったのが、この八幡宮が神社本庁とトラブルになり脱退していたことだった。

まさかこのからみで刃傷沙汰か、というのもさすがにあるまいと思えば、なんとその通りだった。

多くの神社でそうであるように、ここの神職も世襲で、代々富岡家で引き継がれて来たものだったが、跡取り息子が不倫セクハラと使い込みで宮司の地位を追われ、そこでいったんは父である先代の宮司が復職し、氏子さんたちの総意もあってそのお姉さんである長女の富岡長子さんが神職を引き継ぐことになった。

ところが神社本庁はこの人事を許可せず、まともな返答もなく棚晒しにし続け、しびれを切らした氏子さんたちが神社本庁から脱退させ、長子さんが宮司になっていた。今回の事件の被害者である。

同じ八幡宮がらみでは、八幡信仰の総本宮である九州の宇佐神宮も神社本庁とのトラブルになっていて、地元の地域社会や氏子さん、さらにはこの由緒正しい八幡信仰のメッカを支えて来た同じ地方の神社(県神社庁支部)からの怒りを買っている。

毎日新聞の報道
https://mainichi.jp/articles/20160607/ddl/k44/040/300000c

ここでも世襲の神職一族の後継者の女性宮司を神社本庁が認めなかったのが混乱の始まりだ。解任された女性宮司は神社本庁相手に裁判係争中だ。

富岡八幡宮の事件は宮司一族の御家騒動という報道で、現職宮司を殺害した弟の元宮司が自殺しているので、マスコミでも動機はうやむやに済まされそうだが、神社本庁の不思議な対応が事件の原因に関係していることには、なぜかほとんど言及がない。

なぜ報道各社が、神社本庁が富岡長子さんによる継承を拒否し続けたのかを追及するというか、せめて神社本庁に取材を申し込むくらいのことはしないのか、理解に苦しむ。

長子さんが宮司を継ぐことがすんなり決まっていれば、いかに多々問題があって追い出されたも同然の元宮司の弟とはいえ、ここまで話がこじれることにはなっていなかったのではないか?

神社本庁の奇妙な対応が、犯人にあらぬ期待といか妙な自己正当化の理屈を与えたことはなかったのか?

少なくとも、神社本庁から脱退しなければ長子さんが正式に宮司になれなかったということは、姉殺しの殺人犯になった弟からみれば「ほら見ろ、姉は正規の宮司ではない。自分こそが本当の宮司なのに乗っ取られた」という逆恨みを信じ込み続けられる大きな根拠のひとつにはなる。

神社本庁もなにも言わないので憶測しかできないが、気になるというかとっかかりになりそうなのは、富岡長子さんの公式ブログの最後のエントリーだ。

12月7日づけの富岡長子さんのブログ「世の中間違ってやしませんか」
https://ameblo.jp/tomiokashrine/entry-12334480912.html

彼女はここで他所の神社の神職との忘年会が億劫であること、自分がセクハラに遭ったこと、その加害者である神主を他の神主が言い訳にならない言い訳でかばおうとした経緯を赤裸裸に語り、今後も同じようなことが続くなら実名を公表するとすら言っている。

神社の神職のオジサンたちの世界というのは所詮こういうものであり、宇佐八幡宮の場合も同様で、神社本庁側ではぶっちゃけ、もともと軍神である八幡大菩薩のお宮の宮司を女性が務めるなんて許せん、という男尊女卑丸出しだったのではないか?

男女平等は「現代の価値観」などという以前の問題だ。富岡長子さんはセクハラを告発したブログで、

「深川の人達は普通の街の人達ですけど、万が一、そういう事があればキチンと注意してくれます。「失礼だろう」と……」

…とも書かれている。

こんな普通の道徳が通用しないのが神主とか全国の多くの神社とか神社本庁の体質なら、曲がりなりにも宗教どころか、人としてあまりに非常識だろう。ましてかように人としてあるまじき歪んだ価値観に染まった人達が宗教を語る(騙る)こと自体、なにをかいわんや、となろう。

どうせ神社本庁なんてそんな自称「保守」な身勝手オジサンの集団でしかなく、曲がりなりにも宗教なのだからと期待する方が間違いだろう、と言われるかも知れない。ちなみに自民党の有力支持団体でもあるわけで、現政権の閣僚も大半がその政治団体のメンバーでもあるが、その自民党の方でもさる議員の「巫女さんが自民党を支持しないとはけしからん」暴言が問題になったこともあった。

宇佐八幡に神社本庁の要職から天下った、というか天皇家の重要な祖先神で第十五代応神天皇を神として祀り、清和源氏の氏神となりその系譜を称する徳川将軍家の崇敬も集めた全国の八幡社のなかで最も格式高い伝統を持つ総本社・宇佐八幡に神社本庁からの天下りで押し付けられた現宮司の振る舞いも、評判を聞く限りではさすがに宗教者として、あるいは地域の地縁コミュニティの要である神主として、というかそれ以前に人として、あまりにあるまじき人格と言わざるを得ないような話だ。

いずれにせよ神社本庁は「脱退した神社のことだから」「富岡家のトラブルだから」として関知しない、などと逃げずに、この事件についてしっかりしたコメントなりなんなりをしなくては、曲がりなりにも宗教団体、それも日本の民俗信仰を統括する団体としての責任は果たせまい。

百歩譲ってこれが富岡八幡宮の宮司一族の御家騒動に過ぎないとしても、そうしたトラブルがあった際に調整役・調停役として事態の解決に当たることもできず、氏子つまり信者の信頼を裏切るようでは、いったいなんのための全国の神社を統合する団体なのか?

神社本庁の側から積極的にコメントを出すべきことについて、マスコミがまったく及び腰なのも困ったものだ。 
自民党つまり政権与党の有力支持団体で、昨今はとりわけ同党内の右派や安倍政権との結びつき、森友・加計両学園のスキャンダルでにわかに注目される「日本会議」と癒着している可能性もあるから、政権に忖度してこの事件を単なる家族トラブルで片付けようとでも言うのだろうか?

広重 江戸名所深川八幡の社

それにしても、昨今はやたらと「日本の伝統」を強調したがる傾向が強い。東京オリンピックのエンブレムだけでなく、小学生の投票で選ばせるというマスコットでも「日本の伝統」が強調されている。

だがその肝心の「伝統」の担い手だったり、自分達こそその「伝統」を尊重しているのだと自負しているつもりの人々…とすら言う気が失せる、【そんな輩】に限って、この一件に限らずあまりに不道徳というか倒錯というか、堕落して劣化していないだろうか?

「国技・伝統」の大相撲の「暴行」問題も世間を騒がしているが、このスキャンダルでみんな気付いているのに誰も言わないことがひとつある…と思っていたら「被害者側」の貴乃花がミもフタもなく、この「暴行問題」の彼にとっての本質というか、なぜ必要以上に事態を混乱させているのかを、あられもなく口にしてしまっていた。

支援者に囲まれた「内輪」の席とはいえここまでバカ正直でどうするだ、とびっくりさせられるのだが、貴乃花は…

「国體を担っていける」

…大相撲を守るために戦っているのだそうだ。おいおいおい…

現役時代の末期には、晩年の父・藤島親方が「息子は洗脳されている」と週刊誌に漏らしてちょっとした騒動になったこともあったが、「あぁ、やっぱりそういうことなのね(呆)」というか、またとんでもないものに洗脳されてしまっているのか?

さすがにマスコミの前ではなく部屋の打ち上げパーティーでの発言で、しかし一度は報じられたものの、これまたこの事件に関する報道がこれだけ多い割には、まったく無視されているのも気になる。

貴乃花が相撲協会内の「改革派」というのも、要はこういうことなのは、業界内ではみんな分かっているのかも知れないが、それでも誰も明言はしないのだが、喩えて言うならやっぱり誰かさんの「戦後レジュームの打倒」みたいな保守懐古趣味の方向での右翼というか極右排外志向の「改革」で、狙われたのが白鵬・日馬富士らモンゴル勢というのが、少なくとも白鵬が優勝インタビューであえて口にした「膿を出し切る」の意味するところにしか見えない。

40回優勝という大記録の優勝パレードでも、白鵬はわざわざ宮城野部屋の弟弟子ではなく、モンゴル出身の後輩を、介添えでオープンカーに同乗させた。モンゴル人力士達は、最初からこの事態を貴乃花の狭量な国粋主義の差別排外主義の動きだと見て、抵抗の意思表示を念頭に動いていることがかなりはっきりしている。

白鵬がわざわざ「貴乃花親方が巡業部長では安心して相撲が取れない」と言い放ち、相撲協会がその上下関係を無視した異例の言い分をあえて受け入れたところ、今度はあたかも白鵬と貴乃花の個人的な確執であるかのように話を矮小化しているマスコミ報道もいかがなものか?

暴行事件それ自体は、もちろんどんな理由であれ殴ってしまった日馬富士が悪い、となるのが現代の標準的価値観では当然なわけだし、それは建前で「口で言っても分からない奴には」的な保守的な「伝統」が相撲界の内部では未だ日常化しているままだとしたら(そういう世界は相撲に限らずスポーツの世界では、高校の部活などでも常態化しているらしいが)、それはちゃんと明らかにした上で「膿を出し切って」体質を改めることは必要だろう。

だが貴乃花の動きはどうみても、そうした相撲協会や相撲界の「体質」を改革するためではないし、少なくともモンゴル出身力士たちはそうは受け取っていない。

なにしろ「國體」だけでなく、「角道の精華」とやらで「八州に輝く」のが理想なのだそうだ。またずいぶん時代錯誤な国粋主義もあったものだが、さすがにこれはもう相撲協会の新人養成では使ってないそうだが、ちょっとびっくりしてしまう内容である。

事件初期に出た報道だと、土俵で闘う相手と酒を飲んで仲良くなんてとんでもない、というわけで貴乃花は貴乃岩にモンゴル力士会に参加することを許さなかったという。これも相撲協会が「生活互助会で飲み会ではない」と慌てて訂正を出す話になったが、モンゴル人力士たちから見れば貴乃花がモンゴル人を弟子にする条件は、モンゴル人と付き合わないこと(同朋と縁を切って日本人に同化しきること)にしか見えまい。

そして協会の危機管理委員会が発表した事件の経緯によれば、貴乃岩はしきりにモンゴル人横綱たちにわざと反抗するような態度を取り続けたらしい。

もちろんこの中間報告は一方的だ、貴乃岩の言い分が抜けているから判断できない、という意見はあろうが、警察に証言したという「睨んでない、話を聞くので見ていただけ」と言うのでは下手な言い訳にもなっていないし、より肝心なのは、白鵬や日馬富士、鶴竜から見れば、こうした態度が単に貴乃岩が「生意気」ということには見えないであろうことだ。

はっきり言えば、貴乃花親方の反モンゴル国粋主義に、かわいい後輩が洗脳されているようにしか見えない。あたかも貴乃岩が貴乃花部屋で関取を続けるには、モンゴル人同朋と縁を切り、モンゴル人であることを棄てて日本国粋主義の「國體」に隷属することでしか許されないかのようだ。

その貴乃花はしかも、「弟子を思う」どころか自分の部屋の出世頭の貴乃岩を却って苦しめるように、その立場が悪くなるようにしか動いていない。

貴乃岩本人が事情を協会に話しそれがマスコミに出るのがよほど嫌なのだろうか? 
隠して部屋に閉じ込めて、「容態が良くない」と被害者側ぶりながら医者にも診せていない(本当に深刻なら、マスコミを避けるためにも入院させるのが最良の手のはずだ)のは、いったいどういうことなのか? 
PTSDなどの精神症状が問題なのだとしたら部屋の九州場所での宿舎のプレハブに窓を目張りして閉じ込めておくなんて扱いがいいわけがない。

こうなると暴行事件それ自体については加害者である日馬富士も被害者だし、その意味でも言うまでもなく、もちろん何重もの意味でもっともかわいそうな被害者が貴乃岩だ。

もちろん相撲界全体が、単に相撲協会がというのではなく、むしろそれを取り巻く相撲マスコミなども含めて(というか、そっちの方がむしろ激しく)、いわば「保守的」というか、一皮むけば相当に人種差別的なものであり続けている。

日馬富士といえば先々場所に満身創痍の1人横綱で最後には見事に優勝を勝ち取ったのも記憶に新しいが、それ以上に印象が強いのが、稀勢の里が横綱としての初の場所で全勝を阻んだ凄まじい気迫の取り組みだった。結果、稀勢の里はこの時の怪我が元で苦しみ続けているわけでもあるが、この一戦だけは絶対に負けまい、と決意した日馬富士の気持ちはよく分かる。

その前の場所では、稀勢の里が白鵬を敗ったこと自体は結構なことだが(全勝優勝で横綱昇進になった)、あの観客の喜び方はいったい何だったのか? 白鵬も日馬富士も、そうなるのが分かってはいても、それでも愕然としただろう。

かつて朝青龍が引退に追い込まれた時の悪夢が2人の頭をよぎったとしてもなんの不思議もない。こと白鵬はああはならないように、土俵の外では慎重な「優等生」に一生懸命徹して来た。一方で土俵上では「勝つことが品格」と開き直った、というか覚悟を決めるようになったのも気持ちは分かる。どんなに頑張っても、稀勢の里以前では日本人最後の横綱だった貴乃花が「土俵の鬼」、横綱の鑑だと言われ続けるのだ。

ではかつての貴乃花と白鵬、どちらの相撲が「土俵の鬼」と言えるのか?

貴乃花の名勝負というと2001年の武蔵丸との優勝決定戦がすぐ持ち出されるが、これもひどい。「痛みに耐えてよく頑張った」というが、あの取り組み、どうみても武蔵丸は手加減をしている。ここで本当に「土俵の鬼」になって怪我をしている貴乃花を打ち負かせば、ハワイ人である(日本人ではない)自分にどんな怨嗟が向けられるか、分かったものではないし、そうでなくとも手負いの相手に本気の取り組みはできないことの方が「相撲道」だろう。

藤島親方は貴乃花に、あの千秋楽は休場するように説得しようとしたそうだが、それが「横綱の品格」というものではないか?

こんな「国技」相撲を取り巻く環境のなかで、元北勝海の八角親方は実はよくやっていると思う。世論に押されて稀勢の里を久々の日本人横綱にした時に、同時に売り出したのが弟弟子の高安だ。高安は日本国籍とはいえ母親はフィリピン人で、日本国内のフィリピン人コミュニティが高安を応援している姿もマスコミで流れるように仕向けた。

相撲は「国技」だ、「日本の伝統」だというが、モンゴル人力士を含めた多くの外国人をこれだけ受け入れて来ている今、相撲界は(協会が、というのではなく観客や相撲マスコミやワイドショーも含めて)その現実をもう一度よく考えるべきではないか…と思ったら、相撲解説者になった舞の海などは、「憲法九条があるから日本の力士は強くなれない」などという暴言まで言っているらしい。ちょっといい加減にして欲しい。

念のため言っておくが、プロレスに転向した力道山は言うまでもなく在日コリアンだし、昭和の名横綱・大鵬は樺太産まれの引揚者で、父はウクライナ系のロシア人だ。

そのウクライナ(冷戦後の現代では俗に「世界一の美人の産地」とまで言われ人気モデルにもその出身者が多い)の血が入った、目鼻立ちのはっきりした美男ぶりから、大鵬人気には女性ファンも多かった。

だいたい相撲が江戸時代から大人気の日本の伝統の大衆娯楽なのはその通りだが、「国技」というのは近代の産物であって伝統でもなんでもない。

むしろ近代化のなかでいかがわしい野蛮な見せ物のように誹られる傾向が強く、そこで相撲専門の競技場を造るときのネーミングで「国技館」と大きく打って出て権威化をでっち上げようとしたのが、相撲が「伝統の国技」になった始まりだ。

同じような道をたどったのが歌舞伎だ。

今ある歌舞伎の名家・大名跡は市川団十郎家にしても尾上菊五郎家にしても中村勘三郎家にしても、確かに江戸時代の「大芝居」に遡るものだが、歌舞伎座のようなステータス・シンボル的な権威付けも含めた今の上演形態は、西洋演劇のぶっちゃけ模倣である「新劇」がインテリ的にもてはやされて大衆芸能である歌舞伎が「古くさいもの」として貶められようとしていたのに対抗した団菊佐時代に基礎があるもので、江戸時代の歌舞伎そのままでは決してない。


ちなみにこの歌舞伎の「伝統」とナショナリズム的な純血主義の関係で言えば、十五代市川羽左衛門がフランス系アメリカ人の子だという噂があるが公式にそう認定されたことはなく、「歌舞伎俳優=純粋日本人」というか、日本人でなければ歌舞伎なんて演じられないという固定観念は根強い。 
こうした偏屈な保守性(と言っていいだろう)に風穴を空けようとしているのが七代目尾上菊五郎、フランス人を父に持つ菊五郎の孫・寺嶋眞秀(母は女優の寺島しのぶ)が今年、「初お目見え」と言いながら実際には「初舞台」と言っていい大役で歌舞伎座デビューしている。 
幸い、眞秀くんの堂に入った演技で(ほんの二日目か三日目には観客の喝采や笑いを計算したタイミングで台詞を言うようになっているのだからたいしたものだ…)好評に終わったものの、ここに漕ぎ着けるには相当に抵抗もあったであろうことは容易に想像できるし、こと菊五郎は記者発表で「ポスターに『グナシア寺嶋眞秀』と本名を出したかったが会社に『字数が多過ぎて入らない』と言われた」という冗談に、しっかりと抵抗の大きさとそれに屈しない音羽屋の決意を滲ませていた。


いやだいたい、明治の産物でしかない「伝統」を言うのなら、話を深川の八幡宮に戻せば「神道」なるもの自体が、明治に国がかりで作り上げられた新興宗教なのが実態だ。

まず江戸時代までの日本人は「神仏」を信仰していたのであって、教義的には「神道」というか「社」に祀られたカミガミへの信仰は仏教に取り込まれることで体系化されたのが、平安時代の空海と最澄による密教の導入以降1000年以上の日本の「伝統」だ。

富岡八幡宮や宇佐神宮の祭神である第十五代応神天皇は、仏教伝来前の天皇(ちなみにこの応神帝が実在した可能性が高い天皇と神話上の天皇の境目になる)だが、明治以前の神号は「八幡大菩薩」であり、視覚化された表象は仏僧の姿が一般的だった。

快慶 僧形八幡神坐像 建仁2(1201)年 国宝
本来は手向山八幡宮の本尊 明治の神仏判然令で東大寺に移された

あらゆる仏、ひいては世界そのものが究極的には大日如来から派生するとみなす密教の教義理論で、日本のカミガミは仏が日本向けにカミの姿を取った存在(権現)とみなされるよう体系化され、「神仏習合」が理論的にも裏付けられるようになった(本地垂迹説)のが平安時代以降だが、神仏「集合」と言うものの、それ以前に仏教とカミガミへの信仰がそもそも別個のものだったかどうかも、実のところよく分かっていない。

むしろ例えば東大寺には創建当時から鎮守社として八幡神が勧請され手向山八幡が付随していたり、飛鳥時代に遡れば今も続くなかでは最古の仏教寺院である大阪の四天王寺が物部氏の屋敷の跡地ないしその古墳に建てられたという伝承があるように、仏教の伝来とほぼ同時に漠然と「神聖なるもの」としてカミも仏も同列に信仰対象だったと考えた方が合理的だし、逆に言えば仏教もまた、受容の課程でカミ化しているとも言える。

奈良・東大寺総鎮守 手向山八幡宮 神門 江戸時代

京都の賀茂川の東側の花街が祇園と呼ばれる、その地名の起源が仏教の経典にある「祇園精舎」であることが、明治以降にはよく分からなくなっているが、明治以降は「八坂神社」と呼ばれている社の本来の名が「祇園社」ないし「祇園感神院」だから「祇園」と呼ばれるようになったものだ。

祇園社(祇園感神院・現「八坂神社」)本殿 承応3(1654)年

花街の起源はその門前(現在の南楼門。こちらが正門で祇園・四条通に面した西楼門は正門ではない)にあって参拝客を接待した茶屋だ。

明治以降はスサノオノミコトが主祭神とされているが、元々は仏教で閻魔大王の両脇に控える牛頭馬頭の二神の牛頭大王(祇園精舎の守護神ともされる)が祀られており、本地垂迹でスサノオと同一視されていた。


だいたい「感神院」という名称はつまり寺院だったのだし、高句麗からの渡来人が建立したという社伝の一方で、歴史研究によれば9世紀に元は寺として建てられた可能性も高い。元は興福寺の末社で、その後室町時代までは比叡山に属していた。

「祇園社」が「八坂神社」になったり、東京の浅草寺に付随する三社権現が「浅草神社」になったりしたのは、あまりに極端な違いだが、類推がつく範囲の改変では「八幡大菩薩」では仏教になってしまうので神号が変わった八幡神の総本社が「宇佐神宮」になったのも明治以降である(正しくは「八幡大菩薩宇佐宮」ないし「宇佐八幡宮弥勒寺」)など、枚挙に暇がない。

むしろ名前が変わっていない神社を探した方が早いのかもしれない。

東大寺と興福寺の隣にある藤原氏の氏神が「春日大社」なのも「春日明神」「春日権現」ないし「春日社」が明治以降に変えられたものだし、元はお隣の興福寺と一体だった。

ここの四つの本殿の周囲は20年ごとの式年造替で修理(かつては建て替え)がある時以外にはほとんど誰も立ち入れない聖域だが、その本殿前の中門の左右の、本殿と向き合う部分(ただし本殿とのあいだには冊が)は、かつては興福寺の仏僧が読経し祭礼を行うスペースだったと、今の春日社ではしっかり説明看板も立てている。

春日大社 中門より本殿第三殿 この左右の御廊が興福寺の僧侶の読経スペース

神社本庁が卒倒を起こし出すような話かも知れない。昨年の式年造替に併せて新しい宝物館も開館したが、展示品のかなりの部分が仏教美術のカテゴリーに入るものだし、そのこともしっかり説明されている。

由緒ある神社となると有名観光地でもあり、こと外国からの観光客もこれだけ増えれば「なんとなく」ではなくきっちり文化財の由来や歴史は説明しなければならない。そうすれば必然的に、自民右派(というか安倍政権)と結び付いて右傾化の急先鋒にもなっている今の神社本庁とは意見が合わない、目障りにはなるだろう。

ちなみに境内の五重塔・経蔵(輪蔵)・本地堂の仏教施設を守り抜いた日光東照宮は、とっくの昔に神社本庁を脱退している。

日光東照宮 経蔵(輪蔵) 
同 本地堂(薬師堂)
本地堂(薬師堂)いずれも寛永13(1636)年
日光東照宮の仏塔である五重塔 文政元(1818)年再建

だがそもそも、神社本庁というか明治政府が造ろうとした「神道(国家神道)」がイメージして来たような「伝統」は日本にはなかったのだ。

日光東照宮も山の裾野から斜面に建てられているが、春日大社と言えばやはり山の麓にあって、回廊が妙にねじ曲がっているというか、真っすぐに建てられていないことも知られている。

春日大社 東回廊
南回廊(東側つまり山側)


この社伝は本殿の第一殿の祭神タケイカヅチノミコトが鹿島神宮から奈良に降り立った御笠山の麓に建てられている。

春日大社 本殿の東側の奥の院 つまり御笠山を拝む遥拝所

神聖な山の斜面を切り崩して平らな境内地を造成することは宗教的に許されない。そこで回廊は斜面に沿って斜めに歪むことになった。



京都の下鴨神社(加茂御祖社)の糺ノ森が有名だが、神社には本来鎮守の森が付随するのが当たり前だったし、徳川家康が日光に葬られたのは、日光山系全体が元々は修験道の聖域だったからだ。

巨岩や山や島そのものがご神体である神社も多く、あるいは境内に川が宗教的な意味を持って流れていたりする場合も多い。

下鴨神社(加茂御祖社)の御手洗川と御手洗社

要するに、日本人の信仰体系は元をたどれば自然信仰であり、そこには農耕民族としての文化を古代から育んで来たからではの、狩猟や牧畜が主たる文化だったことがうかがわれる、たとえば旧約聖書のような神話体系とは、かなり異なった独自性もある。たとえば多くのアニミズム信仰でおなじみの地母神信仰は、縄文時代にはそう解釈される土偶が見つかっているものの、その後の日本にはない。

大地そのものがひとつのカミではなく、それぞれの土地にそれぞれ地霊があり、あるいはその地霊がカミとして社に祀られたり、その地霊を鎮めるための「鎮守」のカミが勧請されるのだ。特に神聖視されるのが、普段の生活で人間社会の外にある山で、ちなみに地母神信仰の形跡がなく山が崇拝対象になっている例では、他に現在のカンボジアのクメール人がある。

ちなみにいわゆる「日本人」の起源となったのは恐らく弥生時代に日本列島で稲作を始めた人々だろうが、弥生人にも恐らく山岳信仰があった形跡がある。そして最新の研究では、この弥生人の起源がカンボジアから中国・雲南省辺りではないか、という説もある。 
クメール文明はその最盛期に山に見立てた巨大な仏塔(須弥山)を中心とするアンコールワットのような巨大石造寺院を造るが、弥生時代に稲作を始めた日本人が、やがて王の墓として人工の山を造営し始めたのが、いわゆる「古墳」だ。

なお地母神がない代わりと言うわけでもなかろうが、日本では太陽神は女性だ。

土偶「縄文のビーナス」

縄文時代に日本列島にいたのが必ずしも今の日本人と同一民族とは言い難いが、この時代ですらかつては新石器時代の狩猟採集文化だと思われていたのが、木の実などを食するにしてもほとんど農耕と言っていいものだったことが最近の発見や研究で明らかになっている。

そして原日本人が成立したと言える弥生時代は、ほぼ完全に農耕を基盤とした文化だ。

農耕は自然のサイクルがいわば例年通りというか、四季の変遷がいつも通り安定していることが肝要で、稲作のような農耕コミュニティの生産や生活はその自然に依存しつつ、かつ自然を人間の力である程度作り替えて人間の領域を作り出すことで成立する。だが人間のコントロールの範疇にはもちろん限界があり、例えばどんなに用水路や溜池を整備しても(例えば空海が造った溜池という伝承は日本中にある)、たとえば雨が降らなければ困るし、降り過ぎれば洪水になって稲作コミュニティは崩壊する。

そうした生存環境のなかで、日本人は人間外の大きな力を畏怖しつつ、その大きな力がそのまま発揮されないことを祈る信仰文化を作り上げることで日常を守ると同時に、その日常から逸脱したものを恐れながら崇拝もし、その崇拝行為を平凡で退屈な繰り返しになりがちな、地道な日常のサイクルにメリハリをつける娯楽ともして来た。

だから神社においてはその周辺地域コミュニティ全体が参加する祭礼が大事だったし、仏教も「外の世界」から来た外来信仰だからこそ神聖なものとしてすぐに受け入れられ、最初はエキゾチックで華やかなものとして発展した。こと「大仏」などはいかにも分かり易い。奈良時代では「大きくて目立つことはいいこと」だったのだ。

東大寺 大仏殿

相撲が日本の「伝統」であるのも、要はそういうことだ。相撲取りは尋常な人間の標準を超えて巨大であり、その「人並み外れた」力を体現する力士どうしがぶつかり合う祭礼というのが、大相撲が「神事」である由縁であって、貴乃花が言っているような大げさな「國體」だの「毘沙門天が乗り移って」だのと言うようなものではない。

石山寺・毘沙門堂の兜跋毘沙門天 平安時代前期8〜9世紀
毘沙門が中国西域の兜跋国(今のトルファン)に現れた姿と言われる
この形式の毘沙門天像の原型は京都・東寺に伝来する唐代の渡来仏と
みられ、他に滋賀県の善水寺、京都府の鞍馬寺、岩手県の成島毘沙門堂など

だいたい日本のカミではない。毘沙門天は仏教の護法神で、元はインドのクベーラ神、四天王として祀られる場合は多聞天で、上杉謙信に勘違いした憧れを抱いているらしい貴乃花には申し訳ないが、元々は財宝の神で軍神ですらない。ちなみに日本では財宝と豊穣の神になっている大黒天が、元はシヴァ神で、軍神・破壊神だ。

快兼 大黒天立像 南北朝時代 貞和3(1347)年

明治時代に日本を激変させた、西洋由来の近代の価値観でいえば、相撲は異常に太った巨漢が力を競うというか見物に供する「奇人変人ショー」にしか見えなくなったのだろうが、異常と言うか非日常的に大きく非日常的に太った力士が非日常的な一瞬に力を発揮することそれ自体が「相撲は神事」なのだ。

広重 両国回向院境内全図 天保13(1842)年
中央に仮設の大きな見せ物小屋が見える

土俵は「結界」であり人間離れした=カミ的な力を持つ相撲取りがその力を解放していいのはその結界の中だけだ。このように「結界」が重要になるのも、日常と非日常(たとえば祭礼)、平凡な人間と尋常ではない異なるものとの微妙なバランスを保つことが信仰文化であったからこそだ。

現存する最古の神社建築は平安時代末の宇治上社の本殿だ。それ以前のカミ信仰空間の構造は古代から同じ形で式年遷宮を繰り返して来たとされる伊勢神宮など以外は、発掘された祭祀遺跡など、ごくわずかな断片的な痕跡から類推するしかない。

宇治上神社 本殿 平安時代後期11世紀

この平安時代の本殿が、内部に三つの祠を祀る、言い換えればその神聖な祠の覆い屋になっている。つまりは神聖なる力を直視しないで済むよう、その力が野放しにならないよう造られた結界とも考えられる。



中世に入ると神体や神霊が固く閉ざされた扉の奥に鎮座する本殿の前に、さらに拝殿などを設け、柵で囲い直接には全体が見えないようにすることが一般化する。


春日大社の本殿も、下鴨神社の東西の本宮も、上賀茂神社の本殿・権殿も、ほとんど直視できないほどに囲われている。

下鴨神社 御簾越しにしか見られない東御本宮(国宝) 江戸時代寛永期の式年造替

伊勢神宮の本宮がその最たるもので、冊の内側に入って本殿を直視できるのは天皇だけとされている。出雲大社も本殿は拝殿から仰ぎ見ることは出来るが近づくことはできず、誰もまず中に入ることがない。

そうした結界を破るとなにが起こるのか、どういう「罰が当たる」のか、縁起でもないので神社では口にされることがほとんどないが、仏教寺院の方でははっきりした伝承や伝説も少なくない。 
浅草寺の秘仏の黄金の観音像や東寺西院の不動明王は「見たら死ぬ」だし、法隆寺夢殿の救世観音はかつて秘仏で「厨子を開けたら天変地異が起こる」、長谷寺の縁起によれば最初の本尊が彫られたのは琵琶湖の北から流れ着いた巨大な霊木で、本尊の十一面観音が彫られるまでは何十年にも渡って多くの人を祟り殺している。

相撲の土俵も結界なら、横綱というのも語源は土俵入りの際に腹に巻く大きく太い綱だが、これも神社の神木にしめ縄が巻かれるのと同様、結界だ。尋常ならざる巨体が尋常ならざる力を発露させる「神事」が相撲であり、とりわけ最強の横綱の腹の中に存する力が発揮されるのは特別なときだけで、拮抗するような霊力を持ちそうな太い綱で閉じ込められなければならない。

その神聖な力とはつまり、横綱が普通の人間とは異なるからこそのものであり、だからウクライナ系の血を引く大鵬やモンゴル人の白鵬、日馬富士や朝青龍が横綱である、ハワイ人の曙や武蔵丸が最強であったことは、純然たる日本人(つまり日本人にとって「普通の人」)でないからこそでもあるのが、相撲の「伝統」の本来だとすら言える。

歌舞伎だって同様だ。尾上菊五郎は1人で「四谷怪談」の殺されるお岩と殺す側の二役、三役を演じて評判になり、さらにこれは元々は忠臣蔵に組み込まれて演じられる芝居で、そうなると大石内蔵助(大星由良之助)まで菊五郎が演ずることになる。
 
市川団十郎家に至っては、にらむことに魔除けの効果があるとされ、『暫』などが正月に演じられるのは祝祭の縁起物だし、初代の当たり役は全身を赤く塗って演じた不動明王だったりする。

自然の、人間外の、人間を超越した力は、それがなければ人間世界の生活も生命も成立しないが、それが過剰に作用すれば今度は危険になる。だからカミは慰撫し安んじてもらわなければならないし、結界の中に留まってもらうか、人間世界にみだりに侵入されても困る。だからその自然の力が集中し高まったものであるとことの神を祀る場は、鎮守の森で囲まれたり、あるいは山上の、人間の共同体の外周部、外の世界との接点にしばしば置かれて来た。

ちなみにこれは、仏教寺院でもとくに重要な霊場・修行道場がそうだ。 
比叡山にせよ日光にせよ神聖な、カミ宿る山の全体が霊場であり、高野山や八葉の蓮華の形をした巨岩に本堂が建てられた石山寺もそうだし、長谷寺や清水寺も恐らくはそういう場で、この場合はかつ神聖な霊水の泉や川もある。、

ところが近現代の「神道」が作り上げられる(捏造される)課程で、明治政府はそうしたあまたの自然神信仰の社を廃絶させ、古事記などに記述があるような人格が特定されるカミガミの社に無理矢理併合させ、鎮守の森を伐採して農地として売り払わせているのだ。

鎮守の森を廃した明治政府の言い分は、「西洋の教会は森になんて囲まれていない」だったそうだ。なんだかあまりにバカバカしくて情けなくて、虚しくなって来る。

8/31/2017

加計学園スキャンダルの、図面流出で見えて来た意外な本質



加計学園スキャンダルの追及に、安倍晋三首相が見え透いた噓ばかり言っているのはその通りだ。

だが、だからこそ不思議なところがある。なにかを必死に隠そうと虚偽に虚構を重ね続けているはずが、悪びれた風や後ろめたさがまったくないのは、なぜなのだろう?

開き直りだとしても、さすがに意外なまでの堂々っぷりで、雰囲気だけに目が行って発言の中身は気にしない人だと、首相がなぜ「噓つき」と言われるのかさえ分からないかも知れない。

その問題の獣医学部の図面を、「今治市加計獣医学部問題を考える会」が公表した。補助金を不正に受け取るための建築費水増しの可能性があると指摘する根拠になるからだ。


なお加計学園によれば総工費は192億円で、その半額の96億は今治市と愛媛県の補助金で賄われるという。

図面で分かる床面積から計算すれば建築費の坪単価は150万となり、相場と言われる70〜80万円の倍額であることは以前から指摘されていた。実際に図面が出て来ると、指定された建材が安価なものばかりであるのも含め、建築家によれば100万は確実に切り、せいぜい80万前後だという。

これでも大目の試算かも知れない。建材の多くが最も廉価なものなら70万強がせいぜいではないか。

ちなみに坪単価が150万以上の建築といえば、たとえば黒川紀章設計の新国立美術館であるとか、一流ホテルなどがこのレベルの値段になる。変わったところでは問題の東京都・豊洲新市場が坪単価150万超の計算になり、いくらなんでも高過ぎることが問題になっている。

図面で明らかになったのは、まったくそんな超豪華建築ではないことだ。鉄骨作りの、むしろ安普請と言っていい設計だ。

なお市と県で合計96億といっても、愛媛県は出費するかどうかも決めておらず、県議会でも問題になっているなか、さらにスキャンダラスなことに、最大で96億を負担することになる今治市では、加計学園側が出して来た数字をまったく検証していないらしい。「考える会」が怒るのも当たり前だ。


今治市は人口6万強、瀬戸内工業地帯の要衝に位置し、高度成長期には港湾と軽工業、部品産業で栄えたものの、今ではタオルこそ有名なものの、産業の空洞化・斜陽化も進むなか、この数字は市民にとっては青天の霹靂で、財政破綻すら危惧される(市は既に37億相当の土地を大学建設地として加計に無償提供している)のはもちろんだ。

だがここではあえて市民の側ではなく逆の視点で、192億の建築費を計上している加計学園の側の狙いを考えてみる…と、ますますわけが分からなくなる。

市民からみれば倍額の予算で自分達を騙して私腹を肥やそうとするとんでもない話に見えるし、そうやって加計学園の懐に入った額の一部が安倍首相や国家戦略特区諮問委員ら、この計画を強引に支援してきた連中にキックバックされるのではないか、との疑いも出て来る。

だが当の獣医学部を作りたい側からすれば、ほぼ倍額に水増ししたその半額をもらえるのなら、これで辛うじて帳尻が合うという話でしかないのではないか?

むろん自己資金などでまかなわれるはずの残り半額を工面しなくて済むのは丸儲けだが、元々資金力がないのなら(そして現に、同学園が経営する千葉科学大は経営の失敗が受け入れた銚子市を財政破綻に追い込みそうになっている)、この不正で加計学園が得られるのは、ほぼ無償で新学部校舎を完成させられることだけで、誰も「私腹を肥やす」ことはできない。

安倍政権の周囲で潤うのも、建設を受注している逢沢一郎議員の親族会社に大きな仕事が来たことくらいなものになってしまう。

逆に言えば、安倍首相が自分の政治生命の息の根を賭けることになってしまった「腹心の友」優遇問題の本質は、安倍氏本人の側から見れば、こういう話でしかないのではないか?

だから安倍氏には悪びれるところや後ろめたさもなく、まるで自分が「誤解された」だけであるかのように振る舞えるのではないか?

というか、本人からすれば「誤解されているだけだ」と思い込んだままなのではないか?

つまり安倍さんから見れば「やる気」がある「腹心の友」が獣医学部を作りたがっているのに、それが出来ないのはおかしい。だから総理である自分が一肌脱いだ、という「善意」だけであるのなら、確かにそこに安倍さん本人の「悪意」は認め難いし、安倍氏や加計孝太郎氏個人のレベルでみれば、まさに「岩盤規制」と戦っていることにもなる。

ましてその安倍さんたちが本気で「日本の獣医学は遅れている」「国際水準の、新しい需要に応える必要がある」と思っているなら、新獣医学部の設立が「日本のため」であり、それが許されない現行制度がおかしい以上、この程度の異例の優遇は「不正」ではなく、行政をねじ曲げたのもまた「日本のため」ということにすらなるのだろう。


だが言うまでもなく、この安倍さんたち個人レベルの正当化の理屈は、根本的におかしい

まず獣医学部の新設が出来ないことになっていたのは文科省の省令、文科大臣の告示に過ぎない。

新たな獣医学部のニーズがあるのなら、特区制度を利用した抜け道などではなく、行政府の長の権限でそれ自体を改めればいいはずだ。

むしろ政治家、それも国家リーダーの責任とは、そういうことである。

それこそ先端ライフサイエンスや、この十数年ほどパンデミックが警戒されている鳥獣共通感染症(鳥インフルエンザ、SARS、MERS、エボラ出血熱など)への対応が急務の「国家戦略」であるのなら、その必要性は公約として掲げ、国会で議論し、しかるべき予算もつけて、理化学研究所や国立感染症研究所、国立大学の医学部や獣医学部などを巻き込んで進めるべき話だ。

だいたい家畜伝染病や人獣共通感染症のパンデミックへの水際対応で愛媛県、ないし四国に穴があるというのなら、そこでこそはじめて特区制度の出番になる。縦割り行政に傾きがちな日本の官僚制度に風穴をあけて、農水省や厚労省と文科省の連携をしっかりやらせる必要もあるし、それが特区制度本来の重要な役割のひとつだったはずだ。

ただし、ならばそもそも畜産業がほとんどない今治市に大学を作って済むことではない。愛媛県全体ならたしかにブランド牛もあって畜産も盛んなことだし、愛媛県全体を特区に指定する、というのなら分かるが、この特区指定はなぜか広島県と今治市であって愛媛県の他の地域は含まれていないのだ。

それに国家戦略特区を所轄する内閣府が縦割り行政の弊害を排するように動いた形跡もない。むしろ真逆で、文科省が検討に当たって農水省の意見を求めていたのに内閣府に無視されている。

安倍首相が自分の総理大臣という立場が理解できているのか、首を傾げざるを得ないのは、森友学園・「安倍晋三記念小学校」スキャンダルにも共通する。これだってもし教育勅語を基礎に置いた初等教育を安倍氏が理想としているのなら、それまで幼稚園と保育園しか経営していない弱小学校法人に10億の国有地を8億に値引きして払い下げたり、国交省の補助金についても斟酌するような裏口で支援するようなやり方ではなく、堂々と国策として提案すべきことだ。

総理大臣として、それが理想だと思うならそう国民に訴える責任が安倍さんにはあるし、それが行政府の長かつ政権与党総裁としての役割のはずだ。

その上で国会の議決や国民の支持を得られないのならそれまでの話、というのが民主主義社会における権力のあり方のはずだし、こと教育の話なら、裏口を通してコソコソとやるようでは、その教育の倫理的な根幹すら疑われかねない。

逆に「日本のため」なら、堂々とそう主張すべきだ。その上で国民の支持があるのに既存の行政制度の壁で認められないのなら、そこで初めて「岩盤規制」と言えるはずだが、安倍さんの頭のなかではそうなっていないらしい。


加計学園にしてみれば、むろん初期投資が事実上ゼロで新学部を始められるのは、それはそれで私立の学校法人にとって十分に夢みたいな話だ。

とはいえ、金銭的な利益にもなり「日本のため」にもなり得るのはあくまで、十分に学生が集まり、学校経営が成り立てばの話だ。しかも大学経営なら普通の学部でも採算ベースが確立するのは4年目に、全学年の生徒が揃ってからだし、獣医学部の場合は6年カリキュラムなので、それまでが大変になる。

そんなことも頭に入れながら図面を見てみるに、加計学園のプロジェクトはますます、どれほど真面目に現実性があるのか疑わしくなる。

本当に真面目な大学設立計画で、ちゃんと採算性や将来性を考えたものなのか?

すでに当初の一学年定員160名の予定は大学設置審議会から疑問が出て140名に減らされている(つまり授業料収入は1割半ほど減る)上に、結局は判断は保留になっている。審議会の答申は原則非公表だが、報道各社の取材によれば、実習時間が既存の獣医学部の1/4しかないこと、「既存の獣医学部では対応できないこと」をやるのが国家戦略特区を認める条件だというのに、新分野への対応が不十分であることが問題視されたそうだ。

図面を見ても、一学年の定員が140人なのに図面によれば300人の大教室があったり、一方で実習設備のサイズはちぐはぐで、6学年840名(ないし元の計画なら960名)にはおよそ足りなさそうだったり、ずいぶんと派手なハッタリとケチくささが奇妙に同居しているように見えてしまう。

実習時間が既存の獣医学部の水準の1/4しかない、という問題もここに通じる。坪単価150万という超高額(ちなみに超一流と言っていい北里大学の獣医学部で坪単価82万で済んだという)なのに、なぜ実習設備をケチったのと同様のことで、実習費は確かに高価になるからと言って、実習時間を安易に減らしてしまえるのだろうか? 
獣医学部では少人数で実際の動物を使った実習が要になるが、これには金がかかってしまう。  
先月の国会閉会中審査で自民党の青山繁晴参議院議員が取り上げた、私大獣医学部の水増し定員問題も、真の理由はこの実習費の高さにある。獣医学部志望者が多いかどうかなんて、入学試験できちんと定員通りで切ればいいわけでなんの関係もないわけで、青山氏らが展開したのはまったく馬鹿げた詭弁だった。 
実際には、私大の獣医学部は既存の定員通りだと経営が赤字になってしまう窮余の策で、授業料の稼ぎを少しでも増やそうとしているのだ。 
授業料が高いからといって大学経営上有益なわけではまったくないのだが、加計学園はそんなことすらまったく分かっていなかったのではないか?

なかでもよく分からないのが、7階がまるまる会議室スペースで、大会議室にはとても広いパントリー(調理場)まで付随している。そこに生ビールのサーバーや、ワイン保存庫まで設置されることには、さっそくマスコミのかっこうなネタにされた。どう考えてもパーティー会場にしか見えないのだからしょうがない(学園側によれば、ワイン保存庫は取り消しになったそうだが)。



だがもっとおかしな点がある。

繰り返しになるが、国家戦略特区として獣医学部の新設が認められる要件のひとつが「既存の大学獣医学部では対応できないこと」で、加計学園や今治市、国家戦略特区諮問会議など要するに安倍政権側(加戸前愛媛県知事も含む)では、「最新ライフサイエンス」や、人獣共通感染症に特化した教育を売り文句にして来た。

もっとも、これはすでに虚偽であることがわかっている。文科省が存在を確認した流出内部文書のひとつでは、萩生田官房副長官と文科省の局長のやりとりのなかで、愛媛県が「プラスアルファ」としての特別な獣医学部は求めていない、と明言されているのだ。

だがその売り物になるはず(というか獣医学部新設が正当化されるためには必須)の実験設備が、5階の研究室・教員スペースの、それも極めて小さなクリーンルームしかないのだ。

外部との空気の出入りを遮断する出入り口や、内部を陰圧にして外に空気が漏れるのを防ぐ密閉構造を考えれば、せいぜい2人くらいしか作業ができない実験空間しか確保できない。

バイオセーフティ・レベル4までは目指していないにしても、こんなものでは鳥インフルエンザ・ウィルスなどレベル3のバイオハザード対応が出来るはずがない。

だいたい教員が常駐し、学生の出入りも多いはずの5階の研究室フロアに置くのもおかしい。理想は独立した建物、せめて最上階ワンフロアに隔離しなければならないのが常識だろう。

そうそう、パーティー施設だと疑われている7階を、最先端実験フロアにするのが正しい選択のはずだ。

しかもこのクリーンルームの直近にはエレベーターまであり、いったん実験している細菌やウィルスでも漏れ出そうものなら、そのシャフトの上下空間を通して建物全体で学生が感染の危険に晒されそうだ。

いったいどこまで真面目なのだろう? 計画の全体が、こう言っては悪いが素人の悪ふざけにしか見えなくなって来る。

こんなもので「国家戦略」のつもりなのか?

案の定、この獣医学部は安倍内閣自身が閣議決定した新獣医学部設立の要件も満たせそうにないし、大学設置審議会で「保留」になったのもせめてもの温情というか、昨今の文科省の方針で「却下」はなるべく出さず「保留」とすることで、形だけでも各大学の自主性を尊重することになっているからだ。文科省の審議会は「大学を作らせない」ためではなく、逆に新しい学校を作らせるサポートを担うのが本来の筋だからでもある。

だが、それでも申請が通らなければ、すでに「獣医学部は岩盤規制の象徴だった」と言っている国家戦略特区諮問委員会は、今度は「大学関係者がメンバーの新学部設置審議会こそ岩盤規制・既得権益」とか言い出しそうだ。

思い返せば、国家戦略特区を打ち出して「岩盤規制を自分がドリルの刃になって打ち破る」と言い始める以前の、第二次安倍政権の発足当時から、安倍さんはしきりと「戦後レジュームの打破」を主張していた。

「岩盤規制」もそんな「戦後レジューム」の一部だと言うのなら一応筋が通るが、逆によく分からなくなるのは、安倍さんがなにを「岩盤」とか「レジューム」とみなしているのかだ。

いやそもそも、「レジューム」ではなく regime、支配体制、カタカナ表記なら「レジーム」なのだが、こんな間違いを指摘されただけでも彼らは「揚げ足取りだ」どころか、「そんなことでケチをつけるのは岩盤規制派だ」と言い出しそうだ。

そういえば加計学園が提案していた獣医学部構想は、最先端ライフサイエンスや人獣共通感染症対策を売り物にしているはずが、MERS(中近東呼吸器症候群)をMARS(火星?)と誤記していた。 
第一次安倍政権の10年前から構造改革特区に申請して来たとか、愛媛県の加戸前知事によれば十数年来におよぶ、永年の念願のプロジェクトの割には、こんなところでもまったくお粗末だった。 
もちろん、加戸氏が国会で述べたこと自体がまるごと、まったくのその場しのぎの虚偽でしかなかったのだが。

安倍さんは外交では「法の支配」を主張して対中国や対北朝鮮の牽制のつもりでいるが、国内向けに「打破」を言い募っている「戦後レジューム」は、最初は改憲を目指していたり(つまり「憲法」が「支配体制」なのか?)、なのにその改憲から逃げた「解釈改憲」で安保法制を強行してみたり、あるいは法体系に特例を認める「国家戦略特区」を、さらに法の抜け道に利用しようとしてみたり、既存の刑法の体系に反する可能性が高いだけでなく中身自体が詐欺的で恣意的な運用の温床になりかねない「共謀罪」の強行採決など、むしろ「法の支配」をなし崩しにしてばかりだ。

法の公平性を損ないかねない特例や優遇の、うわべだけの合法化の言い訳として新たな制度や法を作ってしまったり、行政が積極的に法の抜け道を探ったり辻褄合わせの口裏合わせで記録をつけなかったり隠したりするのなら、形式上の合法性の上辺だけは担保され得てるとしても、それでは「法と制度に基づく統治」そのものが骨抜きになる。

法論理や立法主旨をねじ曲げた法をさらにねじ曲げて運用するような真似は、本来のまともな政府、あるいは「普通の国」なら避けるべきである以前に、まず本来なら必要がないはずだ。

ねじ曲げなければいけないほど社会の変化に適合しなくなった法や制度なら変えればいいだけだし、ちゃんと説明をすれば世論の支持も得られる。

法とは合理的かつ公平に解釈され運用されるものだという法治の大原則に行政府や司法府が忠実でさえあれば、わざわざ改正の手間すら必要がない場合も多い。

ところがこうした当たり前の「法の支配」の原則が、安倍政権には「戦後レジューム」や「岩盤規制」に見えてしまうらしい。

加計学園や森友学園をめぐるスキャンダルはその典型だ。「行政の私物化」なのは客観的に見てその通りなのだが、これらの事件は従来あった贈収賄や利権がらみの、政治家が私腹や党利党略に走った「私物化」とは動機の本質が異なっている。

この獣医学部スキャンダルのおかしさについては既に述べた通りだし、森友学園「安倍晋三記念小学校」スキャンダルに至っては、安倍さん達の主観としてはまったく純粋に、自分達が理想とする小学校を作って欲しくて、そのために籠池さんが頑張ってしまい、安倍さんたちはその純粋な「思い」に報いようと、国有地を格安で買えるように算段を尽くし、元々「抵抗勢力」である官僚をねじ伏せることが「戦後レジュームの打破」なのだと思ってしまっていたのだろう。

言い換えれば、安倍さん達の国家観や政治観というのは、民主主義や近代法治主義の問題以前に、そもそも国家のありようとして躰をなしていないのだ。日本の歴史でいえば弥生時代からヤマト王権への移行期レベルの、部族連合に「大王(おおきみ)」を乗せた程度の原始古代国家みたいなものが、安倍さん達の「理想」「美しい国」なのかも知れない。

その古代日本が、すでに始皇帝以来統一的な法と制度による国家統治を確立していた中国の帝国を模倣した律令制を確立しようとしたのが、現代にまで続く天皇を象徴的な中心とする日本国家の黎明(物部守屋を滅ぼした推古朝から、白鳳時代を経て奈良時代・聖武天皇の治世の前半くらいまで)なのだが、そんな実際の歴史を踏まえることすら、安倍さん達にとっては「自学史観」に見えてしまうのかもしれない。

日本が東アジア文化圏の一部だったのは記録が残る以前からの日本の歴史であり、法と制度に基づく組織化された国家統治もまた中国から学んだものであることは、今さら変えようがないのだが。 
まさか「聖徳太子」以降のすべてを否定するわけにも行くまい。

それにしても森友学園にせよ加計学園にせよ、あるいは「道徳」の教科化にせよ、安倍政権のとりわけ教育分野に対する目の敵っぷりは凄い。

一方で安倍政権の数少ないポジティブば成果としてあげられるのが、フリースクールの役割を拡充した規制改革なのだが(ちなみに文科省でこれを主導したのが、前川喜平・前次官だった)、これですら不登校やいじめ等の被害生徒の救済と多様な子どものニーズへの対応という本来の目的を、安倍さんは勘違いしていたのかも知れない。つまり、「学校」を否定するか、せめてその役割を相対化したかっただけなのではないか?

この人は、よほど学校や教育を基盤とする「知の体系」が嫌いなのではないか?

そういえば昨年には、灘や麻布などと言った、いわゆる超一流の私立中学高校が、採用した歴史の教科書をめぐって、それが「反日」だとする安倍シンパと目される層からのクレーマー攻勢に遭っている。

なんでも「OBだが今後は寄付金は出さない」という文言がテンプレート的に使用されたハガキが大量に送りつけられたのだそうだが、そのほとんどが匿名だったというから笑い話にしかならないのだが、そこに見え隠れするのは学歴社会における「超一流」権威を自分達の恣意的な身勝手でねじ伏せることを幻想する集団的な自己満足だ。

だいたい、問題にされたその教科書というのが、一律の通史的な歴史観を元に知識を暗記させるのではなく、多様な歴史を併記して生徒に考えさせることを目的に、元社会科教師たちが編纂したものだ。安倍シンパの人達が噛み付いたのは慰安婦問題なのだが、日本政府の公式見解である「直接に命じた証拠はない」もちゃんと明記されている。

およそ「反日偏向」などではなく、むしろ公平に多様な情報を与えて自分で考えさせるという、まっとうに近代的な教育方針の知的手続きの根幹自体が、この人達には気に入らなかったのだろうか?

まあ多様な情報を公正・公平に判断すれば、「慰安婦問題」の日本国の責任についての結論は、学術的にはとっくに見えているわけで、それが「反日」になるのかも知れないが。

こうした願望は加計学園問題をめぐる「岩盤規制」「抵抗勢力」という決めつけにも通ずる。例えば国家戦略特区ワーキング・グループの原英史座長なぞは「既存の獣医学部では対応できない」という条件について、具体的になにが対応付加なのかを問い合わせる気すらなかったと公言している。

その根拠とするのが以前に文科省が出した報告なのは滑稽ですらある。これは私学獣医学部の一部の現状を危惧した獣医師会の意向を反映した調査結果で、統廃合を促すものだ。獣医学部は実習などのコストが高く一部の私学は経営難への対処から定員水増し等が多く、全体の教育水準の低下が問題になっている。言うまでもなくその対応であれば、新規の私学獣医学部の新設では逆効果になりかねない。

今後の獣医学部教育はどうあるべきか、なにが課題で、どうすれば国際水準の最先端の教育へと刷新できるのか、といった課題についてもっとも適確に答えられるだけの情報や素養・知識を持っているのは、言うまでもなく現役の獣医師たちや獣医学部の教員・研究者のはずだ。だがこのスキャンダルでは、あらゆる局面でそうした専門家の専門知識や情報を踏まえた合理的な判断というものが無視されている。

国家戦略特区諮問会議やワーキンググループも、内閣府も、そういった本来の専門家は目の敵にして来ている(「既得権益側」になるらしい)し、加計学園なら加計学園の側では、掲げた看板だけは立派というか、既存の獣医学部を侮蔑するような大言壮語を掲げながら、中身はまったくお話にならない稚拙な素人プロジェクトを、今治市に出させた公金でやるつもりだった。

なにも専門家の言うなりになれ、獣医師会に従うべきだ、という話ではない。そこからきちんとヒアリングなりなんなりをしたうえで、合理的な判断を下すのは政治家の役割だ。ところがその本来の意味での知的かつ合理的な政治判断というものを、安倍政権はまったくやる気がないらしい。

これでは「国家」と呼ぶに値するだけのものを公正に運営することはとても出来ない。自分達がよく知りもしないことについて、その拙速な思い通りに行かないとなると、自分たちの不見識や無知を反省したくないから「岩盤規制」「抵抗勢力」「戦後レジューム」だから打破しよう、と言っているのが安倍政治の本質に思える。

8/30/2017

不可解な事件をめぐる不可解な裁判~埼玉女子中学生誘拐「2年間監禁」事件


逮捕された当時の寺内樺風被告 首に自殺未遂の傷があった

2年間も行方不明だった女子中学生が、実は大学生に誘拐されたままになっていた。

自力での脱出が成功して発覚したこの事件はマスコミでも大きな注目を集め、ネット上で論争も引き起こした。その「論争」の詳細には触れたくない。賛否両論に分かれた喧々諤々の、そのどちらも的外れにしか思えないだけでなく、そんな誤解に基づく風聞は、被害少女の将来に禍根しか残さないからだ。

そして今、一審の裁判が進んでいる。

だがあれだけ話題になった発覚当時との不釣り合いさが不自然なまでに、報道はおとなしい。新聞が掲載するのもせいぜい社会面の小さなベタ記事扱いだったのが、被告が奇声を発し奇妙な発言を始めて判決言い渡しが延期となったことで、久々にテレビ報道でも取り上げられるレベルのニュースになったが、こんなことでもなければ裁判が進んでいたこともほとんど知られなかったろうし、事件そのものがもう忘れられていたのかも知れない。

だとしたら、率直に言って、その方がいいというか、せめてもの救いだ。

被害少女のことを考えるなら、事件発覚当初にあんなに大騒ぎしたこと自体が、致命的な誤りだった。しかもこの点については、ただマスコミの興味本位な視聴率至上主義や、ネット上の下衆な好奇心だけを責めていいものでもない。

2年間におよぶ誘拐監禁という事件それ自体以上に異様だったのは、被害者の父親が友人と共に得意満面に記者会見に現れ、娘の身許が特定されかねないことをペラペラと喋りまくり、その後も彼女の証言とされるものがこの父からマスコミに垂れ流され続けたことだ。

当たり前と言えば当たり前だが、その「証言」はその父親をこそひたすら満足させるような内容ばかりだった。

逃亡を決意したのはネット上で父親とその友人・仲間達が自分を探しているホームページを見たからだったとか、誘拐されたのは両親について心配させられる噓を言われてついて行ってしまったとか、犯人にはお前は両親に棄てられたのだと思い込まされて絶望していた等々、あまりに出来過ぎな上に、こと誘拐の経緯については現実性が疑われるような、たぶんに子供じみた話だった。

子供じみていたのも子供が考えつくことなのであれば無理もないが、もし父親の作り話や、その誘導尋問で作ったストーリーだったとすると相当に始末が悪い。

いやそうでなくとも、少女がひたすら父の気に入るようなことを、当のその父に言い続けていた、というより “言わされ続けていた” と言った方が精確にも思えるが、その痛々しさと言ったらなかった。

さすがに途中で警察が止めさせたようだが、その警察からの情報の、犯人の証言とされるものが、これまたその少女の(というか父親の)話に懸命に辻褄を合わせるかのような強引な中身で、こちらにもまたずいぶん無理があったのに、報道も、ネット上の議論も、なぜかその不自然さにはほとんど触れることがなく、事実関係よりも事件の外見上の構図について、なにを興奮でもしたのか、憶測というか空想の開陳に熱中していた。

この誘拐は現実の出来事だったはずだ。だが多くの人は「この想定は現実にあり得るかどうか」を自問するよりも、あまりにも現実離れした事件に自分たちの現実離れしたファンタジーを押し付けて、ただ消費してしまっていただけなのかも知れない。

しかもそれは、報道陣とかSNS利用者とかの、実は直接になんの関係のない興味本位の傍観者でしかない人々に限ったことでもなかった。

当事者、とくに被害者にとって最も身近だったはずの両親もまた同様であり、捜査当局もまた思い込みというか、社会が考える「子供とは、中学生の少女なら、こうあるべき」という、その実かなり現実離れした幻想に過ぎないものに囚われ続けたまま、なんとも抽象的な罪状しか立証できる見込みがなさそうな裁判になってしまっている。

なにしろ求刑は懲役15年だが、その理由がずいぶん珍しくもあり、また不自然さも禁じ得ないのだ。主たる罪状は、少女のPTSD(心的外傷性症候群)を傷害とみなしての傷害罪だと、検察はいう。

もちろんPTSD、とりわけ思春期のそれは深刻な被害なのに、これまで日本では裁判も含めて軽視されがちだったのは大問題で、児童虐待のケアなどについても深刻な限界を招いている。今回の裁判がそうした偏見を覆す新しい判例になるとすれば、歓迎すべきことではある。

しかしそれでも、誘拐監禁事件のはずが「PTSDを与えた傷害罪」という、立証が難しそうな罪状がメインで、身体的な暴力による傷害や、拉致・略取・誘拐・監禁の具体的な(物的証拠も含んだ確実な立証ができる)犯罪行為が主たる訴因にならないのでは、やはり違和感は禁じ得ない。

もっとも、少女が最終的には自力で逃げ出せた状況などから考えれば(物理的に閉じ込められていたわけではなく、しかもその直前に引っ越しまでしている)、監禁の立証はかなり困難なのだろう。

拉致・誘拐もまた、およそ暴力的な手段を立証できそうになく…というよりは、そんな事実自体がなかったように思われそうな起訴内容になってしまっているのだが、これは最大の被害が少女の重度のPTSDという罪状を見れば、やむを得ないことでもある。

そこまで深刻なトラウマになったのだとしたら、その原因はまず誘拐時の経緯なのだろうし、ならば思春期のPTSDの場合、客観的で精確な記憶を話せる可能性は極めて低いし、また証言させること自体が拷問に近い虐待になりかねないからだ。

とはいえその結果(なにしろ「真相」は被害者と加害者以外に知る由もない)、裁判では拉致も監禁も、物理的な暴力や直接的な威嚇ではなく、少女に強烈な恐怖感をなんらかの形で植え付けて(といって、暴力なしにどうやれば可能なのだろうか、というのも大きな問題となるが)、マインドコントロール状態に置いていた、というストーリーくらいしか成立しなくなり、またそういうストーリーを検察が構築した結果、PTSDを引き起こしたことが主たる罪状になったわけでもあろう

一方で、しかしその同じ検察が被告については精神鑑定に基づき「自閉スペクトラム障害」(いわゆる発達障害のこと)の傾向があるとも認定している。

被告の外見だけでも「マインドコントロール」ができそうなタイプにも見えなかったのが、この障害がある(俗にいう「空気が読めない」、他人が発する微妙な表情などのサインを無自覚に認識してわざわざ意識するまでもなく対処することができない)のにマインドコントロールを駆使というのは、ずいぶんちぐはぐな話に思える。

それにしても、最初は恐ろしく猟奇的に見えながら、事実関係が分かって来ると残酷さよりも不可解さばかりが際立つ事件だった。そこで「裁判で真相を明らかに」となるかと言えば、弁護側・検察双方の主張を見る限り、あまり期待できそうもない。

ならばせめて、裁判がほとんど報じられないことで事件そのものが忘れ去られて欲しいのだが、しかしどうにも無理があり思い込みや興味本位な幻想、はては一部の人々の願望ばかりが先行した誤解だけが、なんとなく事件のイメージとして残ってしまいそうなのは、それでいいのだろうか?

被告はこれまでの裁判でまったく反省の意志を示さず、「美術品を盗むなどよりもずっと軽い罪だと思っていた」「なにが悪かったのか分からない」などとうそぶいているというが、これまたずいぶん無理がある話だ。

逮捕直前に被告が自殺を諮って失敗していることひとつ取ってもまったく整合性がないし、美術品泥棒との比較に至っては窮余の思いつきのへ理屈にしても強引過ぎる。

むしろそんな無理矢理な証言から見えて来るのは、被告が一生懸命に自分が極悪人であるかのように振る舞っている、というか猟奇的な凶悪犯を自分が思いつく限りの想像で演じようとしていることに思える。

判決言い渡し予定の公判では奇声を発し、本人特定の質問には「オオタニケンジ、年齢は16歳」「現住所は群馬県高崎市のオートレース場。職業は森の妖精でございます」と答え、裁判長が「私が言っていることが分かりますか」と尋ねると「日本語が分かりません」と言ったという。結果、判決公判は延期になったが、これも発狂した凶悪犯を一生懸命に演じている芝居ではないか、とも思える。

このような事件があると、ついそうした精神の歪んだ凶悪犯の起こした異常な事件として片付けたくなるのだがが、報道された範囲でも詳細を見て行くと、誘拐監禁事件としてはなかなか説明がつかないことが多過ぎた。

2年も監禁して隠し通すとなると田舎の大きな農家の離れとか、それなりの広さと部屋数がなくては難しいだろうし、だから犯人が大学生というのならばせめて実家の一軒家かなにかと思えば、現場は大学生が下宿していた二間のマンションだった。

なのに物音などで周囲に怪しまれることもなかったのは、ことさら「隠して」もいなかったからだったようだ。

現に犯人と少女は近所の住人にしばしば目撃されていたが、現代のことで近所付き合いの会話があるわけでもなく、なんとなく兄妹だと思われていたらしい。

昨今のマンションは外から鍵をかけて内部に人を閉じ込められる構造にはまずなっていない。外付けの鍵を使っていたという報道が出ては否定され、結局正確なことはあやふやなままだったが、裁判ではどうなっているのだろう? 

いずれにせよ少女が脱出できたときには、鍵は普通に内側から開けられるものだけだった。この時には、2人は大学があった千葉県から東京の東中野に引っ越しているのだが、これも普通の「監禁」状況としてはまず考えられないし、無論弁護側が主張し、今は被告もそれに合わせようとしているようにも見える「統合失調症」も、まず確実にあり得ない。

どういう「監禁」が可能だったのかの疑問は、そもそも「監禁」ではなかったのではないかという憶測を呼ぶ。とはいえ、そこからあらぬファンタジーを膨らませ、それをネット上で大真面目に吹聴する者も多かったのも、筆者にとっては驚きだったし、無節操な推論というより「願望」の開陳が、性犯罪被害者がしばしば受けるセカンドレイプとあまりに似通っていたのだから、激しい反発を呼んだのも当然だろう。

だがそこで「ストックホルム症候群」といった論が出て来たのは事件の「解決」の経緯を見る限り明らかに行き過ぎで(自力で脱出しただけでなく、保護されて一応入院はしたものの、身体的な健康にはまったく問題がなかった)、かなり現実離れしており、だからこそこうした善意の「擁護論」もまた、逆に被害者の将来にも禍根を残しかねない。

どういう「誤解」かといえば、端的に言ってしまうなら、ファースト・レイプもなかったのにセカンド・レイプを、被害者をセカンド・レイプから守りたい善意が、逆に引き起こしてしまっていた。

デリケートな問題なのでこの言い方に留めておきたいが、「セカンド・レイプ」を危惧する以前に、この事件の場合は文字通りの「ファースト・レイプ」どころか、直接的に性的なことは恐らく一切なかったとしか思えない、説明がつかないのだ。

最初からそう考えないと辻褄が合わない事実関係ばかりだったし、現に検察も、このような誘拐監禁の状況下では性的関係があっただけで強姦ないし準強姦、最低でも被害者は未成年なのだから少年保護条例違反の立証はほぼ自動的のはずが、そのいずれも訴因に入れていないだけでなく、論告求刑のなかにある被告の証言の一部にも照らせば、今や確実だと言っていい。

検察が被告の証言を基に犯行の動機として挙げているのは、「観察したかった」だけだ(ただしこの自称「動機」もかなり疑わしいのは、後に論じる)。直接に性的なことは一切出て来ていない。これは事実として性的なことが一切なかったからであろうと同時に、被告が少女についてそうした誤解が広まることを懸命に避けようとしているからでもあろう。

発狂した凶悪犯の病的な猟奇犯罪だが、性的なことは一切ないという、よく考えるとずいぶん奇妙で不自然で犯罪心理学的にも説明がつかない事件の構図にはなるが、こんなものでも強引に押し通し世間に信じさせないことには、父親のせいで事実上身許が世間に知られてしまった被害者少女には、事実上将来がなきに等しくなってしまうし、戻った家庭での居場所もなくなってしまうだろう。

被告も思わず「少年」と言ってしまいたくなるほど子どもっぽいところがあるが、その子供の発想なりに懸命に考えついたことを、今の彼はやっているように思える。

精神鑑定にもかけられ、検察は「自閉スペクトラム障害」つまり発達障害の傾向があることを認定しつつも、責任能力は問えるとしている。これは当然の判断で、発達障害では一時的なパニックで前後不覚に陥ることはあっても、2年間も継続する譫妄状態はまず考えられない。

弁護側は責任能力を争点にするくらいしか弁護方針が思いつかなかったのか、先述の通り被告には統合失調症の傾向があると主張しているが、こうなると「弁護士やる気があるのか?」と文句も言いたくなる。

被告は2年間もの長期に渡って少女を自分と同居させ、アルバイトや仕送りなどの収入だけでちゃんとその二人分の生活を維持できていただけでなく、同時に理系の大学のかなり難しい過程を優秀な成績で卒業し、就職まで決めている。以前にはアメリカに渡って小型航空機の免許も取っている。

軽度の発達障害ならもしかしたら可能かも知れないが、統合失調症による責任能力が失われるような譫妄状態で、こんな器用なことができるはずがない。

動機が少女を昆虫か小動物を閉じ込めるような意味で「観察したかった」というのも、近隣住人の目撃証言がでっち上げでもない限り、実際のマンションの構造や近隣住人の証言などからして、まず成り立たない。

事件の結果の異常性に囚われるあまりに、我々はなにか尋常ではない、常軌を逸したことがあったに違いないという先入観と、猟奇的な好奇心に執着し過ぎていないだろうか?

2年というのは、確かに異常な長さだ。

だが結果として「監禁」になるのは、それ自体としてはむしろ平凡で日常の枠内でしかないシチュエーションさえあれば成立し得るし、いったん成立していれば惰性のまま継続することは十分にあり得るのが人間の「生活」だ。

発想の逆転で、どうやって2年間も監禁し続けたのではなく、なぜ2年間もこの状態が継続され得たのか、という設問に立てば、検察の主張通りに重度のPTSDが少女に残っているようなマインド・コントロールというのもひとつの仮説としては成立するし、それでもなにかのきっかけでそのマインド・コトロールか、あるいは惰性でしかないものが壊れ、彼女が脱出する勇気を持てたというのも無論あり得る。

脱出時に彼女は500円しか所持金がなかったと報道にあったが、たとえばお金がなければ逃げ切れないと判断していたとも推論できる。

ただし一方で、無一文だろうがとりあえず警察に駆け込んで保護を求めればいいとは考えなかったというのも、不自然さは禁じ得ない。

しかし社会の標準からすればまったく奇妙な、理解不能な「生活」とはいえ、少女が被告のマンションに暮らすこと自体が日常化していれば、「2年の監禁が異常」という外形的な事実よりも、2年後の脱走を「日常」に対する「変化」として考え直した方が、有益な思考の枠組みになるのではないだろうか。

だいたいまず初歩的なこととして、子どもが一日一晩でも家に帰らなければ、親はひたすら心配するだろうが、子どもの側はどうかと言えば、帰ったとたんに叱られることを実はまず心配するものだ。帰るにはなにかうまい説明か言い訳を考えつかなければならないし、それがなかなか思いつかなかったり、そうして親と対決することをつい躊躇し忌避してしまうだけでも、「明日でいいや」となるのも、むしろ自然ですらある。

そうやって日々が積み重なればなるほど、早く帰って謝っておけば良かったと後悔するほどに、帰る時の心理的なハードルは離れている日数が長ければ長いほどに上がっていく。

普通なら最大でも二、三日から一週間で済むだのろうが、なにかのはずみか、単にいいわけを思いつかなかっただけで数週間、数ヶ月と引き延ばされ始めれば、帰ったときの説明や言い訳をやりようがますますなくなり、そうなってしまえば2年だってただの「惰性」になる。

契機がなんだったにせよ、このような「惰性」は案外と簡単に成立し得るのが子どもの心理だし、だからこそ彼女が主体的にその「惰性」を壊して「変化」を起こそうとした動機を考えることの方が、それまでの2年間の意味を解き明かすことにつながりはしないだろうか?

まず警察に駆け込む、という当然の行動を考えなかったのは、彼女の側には彼女の側で、監禁され続けたというより「家に帰ろうと決心しなかった」ことについていささかの後ろめたさがあったと考えれば納得はいく。

念のため、積極的にそこに残ろうとしたのではなく、なんとなく「(ひどく叱られてもいいから)家に帰ろう」とまでは思わなかったに過ぎないことは、あらためて強調しておこう。ここには決定的な違いがある。

少女の側に立って考えるなら、東中野に引っ越したという具体的な生活環境の変化が、逃亡を決意する大きな契機になったと考えて、まず大きな間違いないだろう。

ひとつには、千葉県にいたときに較べて交通の便が圧倒的によく、駅も徒歩圏内だし電車などでの逃亡が容易になった面もあるだろうし、現に彼女は駅に逃げ込んでそこの公衆電話から両親に連絡し、両親に言われて警察に保護を求めている。

ただしこれは、引っ越しの時点で新しい住所などをどこまで彼女が把握できていたかにもよる。千葉にいたときには近所の証言によればしばしば2人で買い物に行く姿が目撃されていたはずだが、東中野に移ってもそうした外出の機会はあったのだろうか?

いずれにせよ、引っ越しが逃亡の契機になったのは確かだろう。つまりはより直接的に、環境が変わったことそれ自体の心理的な影響が大きかったのだろうし、特に重要だったのは、そもそも犯人が引っ越した理由ではなかったのか?

大学を卒業し就職して社会人になることを犯人が少女に隠していたはずもないだろうし、この犯人の側の変化の意味、これまでの生活が激変したことは、いままで惰性で家に帰らなかった少女の側にも「自分はこのままではいけない」と思わせたはずだ。中学校2年生で誘拐されたまま学校に行かず、自分の社会的な成長も、自分の時間もいわば止まったままの2年間を経て、被告の青年の方は社会人になるという成長の大きな一歩を踏み出している。

そこで否応なく突きつけられる現実がある--自分もまた、本来なら4月には中学校三年生になっているはずだ。このままでは、自分は中学最後の1年も経験できず、高校にも進めなくなる。

詳細が分からない以上は憶測をみだりに吹聴すべきでもあるまいが、それでも警察も検察も弁護側も、そして報道もその受け手である社会全般も、事件全体の構図を完全に読み違えているように思えてならない。

被告の奇妙な証言もその誤った構図の枠内での役割を必死に演じようとしているだけに見えるのが、この事件が「謎」である最大の理由ではないのか?

事件の結果としての異常性とは別に、もうひとつ我々が当然の前提だと思い込んでいることが、実はそれをひっくり返すだけで全体像の説明がつく。

子どもが親元で育つのは当たり前で、子どもにとってそれがいちばん幸福であり、だから少女が家に帰りたいと思い続けて来たはずだ、と我々は思い込んではいないか?

言い換えれば、家族との2年間、学校に行けたはずの2年間を奪われたことを、少女がずっと「喪失」であり「被害」として認識していたはずだというのが、この事件の理解の前提になっていた。

そうした前提で行くと、一方では現実的に、少なくとも物理的な監禁がどうみても困難だった事実関係がある以上、逆にこうした「喪失」よりも優先される事情が少女の側にあったはずだ、という考えにしか至らない。

だから検察はマインドコントロールとその結果によるPTSDというストーリーに至り、たとえばネット上ではそこに疑似恋愛的というか小児性愛的なマンガやアニメに通じるファンタジーを、勝手に事件に投影する主張も相次いだ。

だがどちらも、そもそもの前提が間違っているのだ。

子供は親元で育つ「べき」、子供は親の元に返りたいと思っている「はず」というのは、あくまで社会的に共有さえる価値観から来る倫理規範か、最悪共同幻想でしかない。

そうである「べき」だとしても、思春期の子供にとって親元にいることが幸福、ないし楽しい、そうしたいと思っているとは限らず、むしろ逆だ。この年齢ではむしろ親の存在を抑圧と感じ始めるのが正常な発達段階だ。

たいがいの子供は学校に行かなければいけないとは思っているが、「行きたい」と思っているわけでは必ずしもない。行かなくてはならないからだ。

子供が「学校に行きたいですか」「楽しいですか」と訊かれたら「はい」と答えるのは、そう答えなければならないからでもある。

ただの一般論としてさえそうである上に、現代の日本の中学校が子供たちにとって楽しい場であるかといえば、まったくそんなことはないと、実は日本中の誰もが知っているはずだ。なにしろいじめによる自殺が過去30年以上社会問題となっているのが日本の学校である。

そんな学校が本当に、どうしても行きたいと思えるほど楽しいだろうか?

今の日本の子供達にはそれが当たり前になっており、どういじめを避けるかの方法論も(いじめられるくらいならいじめる側になった方が楽であることも含め)習い症になっている。習い症、惰性、日常は、いまさら積極的に嫌だとも思うまいが(素直にそう思ってしまうだけで、最悪いじめ自殺予備軍になる)、いったんそこから解放されれば、ぜひにも戻りたいとはなかなかなるまい。

この事件の被害者少女にとって、皮肉にも誘拐されて学校に行けなくなったことが、逆にその恒常的な抑圧環境からの解放にもなった。

クラスメートや教師にしじゅう気を遣い続けるくらいなら、朴訥として不器用でどう見ても抑圧的には見えそうにないし、そういう態度がなかなか取れそうにない犯人の大学生ひとりに、適当に気を遣っておけば済むだけならば、ある意味でずっと楽にもなり得る。

つい「少年の」と言いたくなるが成人している被告の動機はといえば、本人がまったく証言しなさそうなのでなんとも言えないが、行き着いたのは惰性の共有と言った程度のことだろう。

報道に出て来た同級生や近所の証言から類推するなら、結果として疑似家族、疑似兄妹的な「生活」になんとなく満足していたようだ。そもそもの誘拐の発端はといえば、これは証言がはっきりしない以上、どうにもよく分からない。

もう一点、皮肉なことに事件によって彼女がそこから解放された、もしかしたらもっと大きな抑圧がありえる現実も、この事件の場合決して見落としてはなるまい。

繰り返すが、まず一般論として、思春期の少年少女にとっては家庭もまた決して居心地のよい場ではないのが、この少女の場合はもっと複雑なのだ。

つまり、両親の問題があり、これこそがまた相当に深刻である可能性が高い。

ここでどうしても、事件の公表当時からの父親の異常な行動に再び言及しなければなるまい。親であれば娘が見つかったことの喜びと同時に、今後彼女が直面することになる困難にもすぐに思いが至るし、最初は喜びのあまり思い当たらなかったとしても、警察は必ずそのことは示唆するはずだ。つまり、被害者の名前は絶対に匿名にしなければならないし、身許が特定されて将来に渡ってこの異様な事件が彼女個人と結びつけられることは極力避けられなければならない。

ところが…父親の行動が真逆だったのは先述の通りだ。

事件の解決にはなんの直接の関係もなかったのに、父親は記者会見で「探す会」の仲間を伴って登場して自分達がいかに頑張ったのかを強調し、喜びを露にしたのは娘が助かったことよりも、そのじぶんたちの努力が報われたことで、そうすれば確実に娘の身許が特定されてしまうことにはまったく無頓着だった。

どう考えてもこの自己顕示欲の激しさと、自制心の欠如した身勝手さは異常だ。つまり、事件によって皮肉にも少女がそこから解放された「家庭」とは、このように幼稚で「男の子」的な仲間意識に執着し、自制心や親としての自覚がなく相当に自己中心的な父が、だからこそ父・家長として無自覚に抑圧的に振る舞っている環境ではなかっただろうか?

事件発覚後に、父親経由で報道された少女の「証言」によれば、彼女が脱出を決意したのは、ネットでその父親達の活動を知ったからだという。

ならば結果論として少女が見つかったことになんの直接の関係もなかった「探す会」こそが、実は事件の解決に決定的な役割を果たしたことになる。

言い換えれば、少女は自自力で、自分の意思で脱出したことをあえて無視して、「お父さんに勇気をもらった」、つまりは「お父さんに助けられた」と言えるような立場を自分で作ったわけでもある。

もちろん、そんな出来過ぎた話はまずあり得まい。

むしろ結果としてなんの役にも立たなかった「探す会」だったからこそ、父親がそのことに「傷ついて」機嫌を損ね、自分がこの家族に戻ることが困難になるのではないかと、少女が怯えているようにすら見えて来る。そうでなくとも、2年間もそこにいなかった家庭にいきなり戻ることは、誰にとっても決して簡単ではない。家族の関係性を一から作り直す覚悟すら必要になる。

どうも、もっとも保護され配慮される必要がある少女こそが、逆にいちばん気を遣って、一生懸命に大人達に配慮しているのではないか?

そう思わせる存在は、少女の父親だけではない。

裁判では父親ではなく母親が証言していて、どうも検察もこの父親を証言させるには信用性が欠けるか、いずれにせよ事件の被害の立証には役に立たないと判断したようなのだが、代わりに出て来た母親の証言もかなりゾッとさせられるのだ。

母親は犯人が反省していないと聞いて「なにか自分たちが損したような気分」で不快だ、と述べたのだ。

どういう事情であれわが娘の正常な2年間が「奪われた」事件についての親の心情としては、ずいぶんそっけなく、そして完全に自己中心的で、娘のことがまったく無視されているのだ。

果たしてこの両親の下で、少女は幸せな子供だったのだろうか? このままで彼女の将来に心配はないのだろうか?

もちろんこの2年間が「幸福」だったわけもあるまいが、もしかしたら「安心」は出来ただけ(暴力も性的な脅迫もないのなら、直接的にそんなに脅威はないし、学校や家のことはいったん「忘れて」しまえば、不安になる要素は実はそんなにはない)でもマシだったとしたら、こんなに不幸なこともない。

そしてなによりも不幸で悲劇的になり得るのは、問題の2年間を含む少女の「これまで」以上に、彼女の「これから」、今現在の彼女の家庭での生活と将来だ。

もちろん事件の真相は2人だけしか知らない。検察の言う通り重度なPTSDなら被害者から精確な証言はまず得られないと考えた方がいいのだろうし、被告は頑に、少なくとも極端な誇張であるのは確実な、恐らくは自分が一生懸命に作り上げただけのストーリーしか口にすまい。

報道は具体的な事件の本質について曖昧なままだったし、裁判でそれが明らかになったともおよそ思えない。

いずれにせよこの事件が忘れ去られることこそが被害者少女にとって最大の利益となるわけだが、我々が決して忘れてはならないのは、被害者の親とはいえ決して被害者ではないことだ。

親は子どもとはあくまで別人格であるのに、その子供にとって異常な抑圧となりかねない両親のあきらかに異様な言動・行動についてなんの関心も払われないことは、率直に言って疑問だ。

はっきり言えば子供の虐待すら最悪の場合は想定される心理・行動のパターンであることにだけは、しかるべき責任のある諸機関にはぜひ、留意し続けて頂きたいと思ずにはいられない。

7/03/2017

「高支持率」のカラクリを自ら壊してしまった安倍政権



第二次安倍政権で安倍首相が返り咲いたのは最初、単にそれが自民党の政権だったこと、そして安倍晋三がその自民党の御曹司(祖父は岸信介)だったからに過ぎなかった。

政治主導を掲げて政権交替した民主党が、鳩山内閣の退陣の後は菅・野田と、財務省主導で国民に分かり易い説明を欠いた政策を押し進めて期待を裏切った。ならば最初から官僚機構との対決姿勢なぞ示さない、むしろ官僚にしっかり支えられた自民党政権でもなにも変わらないし、むしろ安定感はあったわけだ。

特定秘密保護法安保法制を強行採決したのも、言論の自由が危うくなったり戦争に巻き込まれる不安の一方で、「でもアメリカの要請ならしょうがない」ともなるのだし、現に「アメリカに逆らって普天間基地を『最低でも県外』と言っていた民主党政権はどうなったか」という比較例もあると、こうした2法案でもそんなに危うい誤りだとも思えなくなるのだろう。

実際、安倍内閣が高支持率を維持して来れたのには、外交で失敗しか実はしていないこと、とりわけ対米関係がどんどん悪化して日米の信頼関係が最悪になっていることを、マスコミが安倍に配慮して(ないし官邸の圧力と外務省ブリーフィングの鵜呑みで)隠し続けて来たからが大きい。

だが今回の都議会選挙で、党内的には安倍が「選挙に強い」と思われて来たその神話が、小池百合子にぶち壊された。

まず小池は安倍と違って本当に選挙に強い(戦い方を心得ている)のと、それ以上に、安倍が選挙で連戦連勝して来たのは投票率自体が低かった、つまり政治的な無関心が日本に蔓延し、不満票の受け皿もなかったからに過ぎなかったことが、いかに小池の人気があるとはいえ新人・いわば無名の「素人」が多数の都民ファーストの会が、その「素人」でも圧勝したことで証明されたのだ。

話を遡れば、2012年暮れになぜ民主党に自民党が圧勝したのかといえば、民主党政権が国民が「裏切った」からというだけでなく、むしろより重要なのが、鳩山由紀夫が対米従属も変える、官僚支配も改める、と公約していたのにまったくそれが出来ないままに、国民には、アメリカと霞ヶ関に潰されたように見えたからだった。

対米従属と官僚主義(それが自民党政権を支えて来た)が政権交替してもどうせ変わらないのなら、政権交替も強い野党も、必要がない。

民主党政権では大きな失政は特になかったし、政権担当能力なら実は自民党と大差ないか、それぞれの野党になった時の国会質問の中身を見れば、むしろ民主党(現民進党)の方が政策にも法制度にも明るかったりする。

それでも日本の政治がアメリカの言いなりで、官僚の力で統治が維持されることが変わらないのなら、政権交替可能な野党は要らないし、「対米従属を変える」などと考えそうな者に政権を与えるのはもっての他と国民がいわば「学習」した、現状を変えたりアメリカのご機嫌を損ねそうな党が与党ではない方が安心だけはできるから、自民党が返り咲き、高支持率を得て来たのだろう。

もっとも、今もなお大きな誤解が蔓延しているが、鳩山の退陣でもっとも焦ったのはオバマ政権だったし、近年で日米の政権間でもっとも信頼関係があったのは鳩山由紀夫とバラク・オバマだった。そもそもオバマと鳩山の政治理念が近いのだから当然であろう。しかし日本のメディアは、そこを必死で誤摩化し隠して来た。 
鳩山の退陣は「アメリカに逆らったから」「アメリカ政府の圧力」ではなかったし、少なくともホワイトハウスや国務省はこの政権をパートナーとして(子分・隷属者としてではなく)歓迎していた。普天間基地の県外移設も反対していなかったどころか、オバマ以前のブッシュ政権で既に、東アジアの安全保障上もはや不要となった沖縄海兵隊の撤退すら考慮されていた。 
ことオバマ政権は、軍縮によって軍の使う予算を減らしての財政再建を当初狙っていた。「最低でも県外」は鳩山とオバマの交渉であれば、国外つまり沖縄海兵隊の撤退すら十分にあり得ただろう。
鳩山を潰したのは政権の思い通りに基地政策が動いては困る霞ヶ関と、アメリカのなかでは予算を減らされては困る軍・国防総省の、それも在日米軍基地を利権として来た極東担当部門だ。だが日本政府に最大の影響力がある「アメリカ」とは、ホワイトハウスでも国務省でも議会でもなく、この極めて限定的な一部門なのだ。 
日米連絡会議というものがあることは知られているが、鳩山は首相になって初めてその実態を知ったという。 
アメリカ側がすべて軍人だったことに鳩山は驚いた(というか、そう聞いてこちらも驚いた)。
鳩山由紀夫は元は自民党の代議士であり、民主党で首相になる以前にも官房副長官として官邸に居たこともあった。そこまでの要職にあってもこの実態を知らされていなかったというのも、驚きだ。 
普天間基地の移設問題で鳩山が本当に闘っていた相手は、この隠蔽された秘密のシステムに牛耳られた統治機構としての、日本の官僚組織だったのかも知れない。鳩山が叩かれた「トラスト・ミー」発言も、実際にはこの文脈で出て来たものだ。
オバマが心配し、鳩山が「トラスト・ミー」といったのがアメリカ相手の交渉についてのはずがない(相手はそのアメリカの大統領だ)。もちろん日本側をどう鳩山が説得できるかの話でしかあり得ず、オバマもこの官僚機構を鳩山が抑え切れるのかに不安があったのだろう。 
その不安もまた、自然な流れだ。バラク・オバマはこの頃相前後して、広島を訪問し原爆投下を謝罪したい意向を鳩山政権に伝えている。鳩山由紀夫自身は歓迎したが、猛反対した外務省が勝手に断ってしまっている。

国民の目には、鳩山由紀夫はアメリカに逆らって普天間基地移設を目論んだから退陣させられたように見えたはずであり、続けて菅・野田の両政権は政権交替時の国民の期待にことごとく反するかのように、霞ヶ関、とりわけ財務省のいわば「言いなり」の財政再建を目標に据え、「税と社会保障の一体改革」が、国民に分かりやすい説明もなく決められた。

元々政権交替の大きなきっかけだった年金の問題も、あやふやなまま終わってしまった。

民主党が2012年暮れの総選挙に惨敗したのは、国民が民主党に裏切られたから、というよりも「日本の政治家はアメリカと官僚には逆らえない」といわば「学習」したからだったと言った方が、正確だろう。

民主党が最初は約束していたような、独立した民主的な新しい日本という夢さえ放棄してしまえば、自民党の政権でいいし、右翼の安倍ならば対米関係でアメリカに逆らわないだろう。

実のところその程度のことで選ばれた第二次安倍政権だからこそ、ずっと高支持率を保ちながらも、支持の理由といえば「他にいない」が常にトップであり続けている。

たとえば就任時のバラク・オバマや、今のカナダのジャスティン・トゥルードーのように国民に希望を与えて人気と期待を集める政治指導者が高い支持率を集めたり、人気は今ひとつでも盤石の安定感と地道な政策で、なんだかんだ言っても国民の信頼感を得ているアンゲル・メルケルとは、まったく違った「高支持率の安定政権」なのだ。


第二次政権になって安倍は4度の国政選挙で勝利して来たが、いつも選挙の直前に突然新しい政策を公約と打ち出しながら、勝ったからといってそれを中心政策に据えるわけでもなく、公約にほとんど出ていなかったことばかりを強行して来た。

安倍がちゃんと守った公約といえば、2度目の消費増税の先送りだけかもしれない。

公約にほとんど示されなかった政策では、安保法制ではさすがに激しい反対の声もあがったものの、通ってしまえばなんとなく「のど元過ぎれば」なんとやら、で済んで来たのはなぜか? 根本的に、国民が政治に関心を失っていた、というかアメリカと官僚機構の言う通りにしてくれればいいのだ、と半ば諦めて来たからであろう。

安保法制でも、国民はなんとなくそれがアメリカの意向だと思い込んでいたのだから、「アメリカの言いなりに自衛隊が海外派兵される」という論戦を野党が張ることはある意味逆効果だった。

果敢に、整然たる論理で民主党(民進党)や共産党が反対論を展開しようが、保守系の憲法学者たちこそが先頭に立って違憲であると指摘すれすればするほど、国民が「日本はアメリカに従い、官僚に統治される国であり続けた方が安心」と思い込まされている以上は、野党は政権奪取からますます遠のくことになっていたのだろう。

そんな「諦め」の証拠に、安倍が勝って来た選挙はいずれも極めて投票率が低かった。昨年には「改憲勢力2/3をついに衆参両院で」と言っても、自民党は得票数だけで見れば2009年に惨敗して政権を失った総選挙以来、支持はほとんど増えていない。投票率が低いので組織票的な固定票だけで「圧勝」出来て来ただけだったし、メディア、とくにテレビも消極的にこうした政権のあり様を支持して来た。つまり、2009年政権交替以前なら各局が党首を並べたテレビ討論を企画し、それぞれの主張や争点を報道して来たのが、第二次安倍政権になってから極端に減っている。街頭演説の映像などで一応選挙報道らしきことはやるが、野党の政権批判の肝心の部分などはなるべく放送していない。


だが今回の都議会選では、投票率は55.1%を記録した。前回の都議会選に較べれば、7.1%の増だ。もちろん浮動票が動いただけでは自民が負けると言っても40議席前後だったろうが、23議席という惨敗(それもほとんどが党落選上ギリギリで、逆に自民が共産党に競り負けた選挙区が8つもあった)は、出口調査によれば旧来の自民支持層が都民ファーストや、共産党にさえ投票していたことが大きな原因だ。

第二次安倍政権の「一強」は、そもそも国民の諦めの産物で、その国民の大多数が政治にまったく興味を失っていたのが、今年に入ってふと気がつけば、安倍というのは幼稚園児や小学生に教育勅語を暗唱させたがる虐待抑圧体質のとんでもない非常識なバカで、しかも汚らしい無責任な噓つきで、その閣僚や幹部はちょっとあり得ない非常識、さらにはかつての自民党ならあり得ない公私混同のえいこひいき野郎とバレちゃったのが、とくに先の国会の終盤からこの都議会選の直前に連発して起こったことだった。


加計学園と森友学園「えこひいき」スキャンダルでバレてしまったのは、「大きな間違いは犯さないだろう」となんとなく思われていたが故に支持率を維持して来た安倍政権(アメリカと官僚には逆らわないから、結果として日本の現状秩序は維持はされるはず)が、実はかつてなら絶対にあり得なかったレベルの「大間違い」というか、野方図かつ身勝手なデタラメをやらかし続けているらしいことだった。

森友学園問題で、超優秀なはずの財務官僚がなんとも不可思議で無理がある答弁を繰り返すのを見て、「なにか変だ」と思った国民も少しずつ増えて来たかも知れない。それが強権的になんとなくウヤムウヤに済まされそうになったところで出て来た加計学園スキャンダルで、安倍政権は致命的な誤りを犯す。

政権が文科省の内部文書を「確認できない」と言い張ったところで、「あったものはなかったことにするわけにはいかない」と出て来たのが、前川喜平・前文科次官だった。なんと安倍政権は、この超エリート官僚を人格攻撃で貶めることで事態を誤摩化そうとしたのだ。

これは二重の意味で重大なミスだった。

まず「出会い系バー通い」を騒ぎ立てて前川氏を中傷して信頼性を失墜させようとしたら、どんどん出て来たのが真逆の、ほとんど「いい人伝説」と言っていい証言の数々だった。「出会い系」もそこに出入りする若い女性の人生の悩みを親身に聞き、真剣に励まし、立ち直らせてさえいたというのだから、これでは菅官房長官の狙いは大外れである。

文書が報道機関(NHKと朝日新聞)や民進党に流れたこと自体を前川氏が漏洩元だと印象操作で決めつけて、以前に天下り問題で辞任させられたことの逆恨みしで出した「怪文書」として葬ろうとしたことが、ことごとく裏目に出てしまった。

前川氏の「いい人」っぷりにはとんだオマケがつく。 
これまで日本人の多くは、東大出のエリート官僚というのは冷酷で権力欲出世欲が強い、頭の固い権威主義者であって、しかしちゃんと仕事さえして行政を廻してくれてさえいればそれでいい、と思って来た。だが前川喜平氏は国家試験4位という超エリートでありながら、頭はいいが普通に誠実で真面目で普通かそれ以上に人情の分かる、ちょっとお人好しですらある「おじさん」だったのだ。

だが実はもっと大きな失策が、この隠蔽戦略にはある。

安倍政権が(実態はデタラメなのに)安定感がある、(実態は無能で無策なのに)実行力があると、なんとなく思われていたのは、安倍がというよりも、官僚機構が大きな間違いは犯さないだろうと思われて来たからだ。

なにがあっても(海外のテロ事件でも、大震災でも)安倍自身は「迅速な対応を指示した」と繰り返すだけだが、それでもあとは日本の優秀な官僚機構がちゃんとやってくれる、と日本人はなんとなく思って来た。

震災対応で陣頭に立とうとして、翌日にはヘリで被災地に飛んだ菅直人よりも、官邸で中身のない「迅速な指示」を出すだけの安倍の方が、「余計なこと」はやらないだろう、という消極的支持だ。

もっとも2015年1月のイスラム国人質事件では、すでに外務省を切り捨てようとしていた安倍は自分は動かずとも官邸主導でアンマンに派遣した中山外務副大臣を中心に強引に対応を進めようとして、惨憺たる結果に終わったが、この時は犠牲者への過剰なセンチメンタリズムをメディアが盛り上げてくれたおかげで、なんとか切り抜けることができた。

なにも民主党のように官僚機構と対立する必要もなかったのだ(どうせなにも変わらないのだ)と、安倍政権の4年くらいのあいだ、多くの国民が思い込んで来た。

ところが森友学園をめぐる質疑で出て来た財務官僚の顔を見ていてなんとなく分かって来て、そして前川氏の登場で明白になったのは、安倍政権が官僚機構に凄まじい強権を発揮して、横暴を繰り返して来たことだった。

これでは話が違う、というか、まったく安心できないではないか。


またもうひとつの安倍政権高支持率の「強み」というか、「他よりはマシ」と安心されて来た要素であった対米関係(とはいえオバマとの関係は最初から悪かった)も、昨年11月の米大統領選挙の意外な結果以来揺らいでいることは、メディアがいかに隠そうが(というかその切迫した努力が逆に作用して)、次第に普通の一般国民にも見えて来ているはずだ。

当選直後のトランプに慌てて会いに行ったのに、安倍政権が強力に押し進めたはずのTPPについて、トランプはそのほんの数日後に脱退を表明してしまった。

就任後の訪米・日米首脳会談も、フロリダのトランプの別荘に招かれた「特別扱い」のはずが、安倍がトランプと連携して対抗するはずだった習近平もそこに招かれ、トランプがしきりにこの中国主席との信頼関係をアピールしただけではない。

北朝鮮のミサイル危機が高まる中で、トランプはアメリカに代わって北と交渉してくれるであろう習に急接近し、思ったような成果が出なくとも(金正恩は中国の言うことを聞く気なぞ皆無であるか、少なくとも表面上は中国に従うように見えることは断固拒否し続けている)、「中国がベストを尽くしている」「習近平首席はいい人で、私は好きだ」とまでツイート等で連帯を表明する一方で、アメリカが北朝鮮とどう対峙するかについて日本が完全に蚊帳の外であることは、もはや隠しようもない。

トランプが安倍に「あらゆるカードがテーブル上にある」と言ったとき、日本のメディアは(安倍本人の期待に忖度して)米国が軍事行動すら辞さないかのように報じた。だが早々にマティス国防長官(これも日本メディアはなるべく隠そうとしたが、稲田防衛大臣との会談がアメリカに不信感しか与えなかったことは隠しようがなかった)が戦争なぞあり得ない、絶対に避けなければならないことを表明したところで、「あらゆるカード」が安倍の期待と真逆の意味だったことに感づいた人も少なくないだろう。

トランプはむしろ、自分が金正恩と直接対話することも、明らかに視野に入れている。というかトランプ本人はその気でいて、米国務省と国防総省がなんとか押しとどめようとしている一方で、交渉の出発点をどこに置き何を議論するのかのせめぎ合いが、米朝間で、そして米政府の内部でも続いているのが現状だ。

北朝鮮の危険性を煽るだけの日本の報道を見ているだけではそこまでは分からなくとも、都議会選とちょうど同時期になった韓国の新大統領・在文寅の訪米と米韓首脳会談の結果が安倍政権が国民に与えようと苦慮して来たイメージと真逆だったことは隠しようがない。安倍があれだけ親しさをアピールしようとして来たトランプは明らかに韓国の新大統領の方を信頼していて、米韓で合意に至らなかったこと(対北外交だけでなく、THAADの配備から経済関係に至るまで)をあえて共同声明に両論併記とし、米国が韓国の立場も尊重していることを表明したのだ。


そうでなくとも安倍があれだけ仲の良さをアピールしたトランプが、ロシアとのあやしげな関係を問われ政権危機にあることは、日本の新聞テレビも報じないわけにはいかない。ああも安倍が仲良くしようとし、そしてその仲の良さをアピールしたがり、メディアもその方針に忠実だった相手であるトランプは、どうも国際的にだけでなく、アメリカ国内的にもとんでもなく非常識で信頼できない、みだりに近づくべきでなかった大統領らしい。

いくら日本はアメリカの言いなりになっていればとりあえず安心、と思って来ていても、こんなトランプの言いなりになろうとする安倍の方針はさすがに危険なのではないか? しかも実際には安倍とトランプの「個人的信頼関係」どころか安倍が妙に下手に出て媚を売っただけ、トランプはひたすら下手に出るだけの安倍なぞどうせ言いなりになるのだから、わざわざ相手にする気もないと言わんばかりの態度だ。

アメリカの言うことを聞く政権なら日本はとりあえず安定し、安心できるから、「他に適当な人が見当たらない」ので安倍でいい、というもう一つの高支持率の理由も、あからさまにほころびを見せ始めている。

トランプに強引に解任されたジェームズ・コミー前FBI長官の議会証言が、日本国民にとって安倍政権が拒絶する前川喜平前文科次官の証人喚問とパラレルなものとして受け止められもした。安倍政権の下で、日本の政治はあまりに不公正になっていないか、という疑問がここでも広く一般国民に湧き上がっておかしくない。

安倍政権というのは、実は相当に危険に暴走した政権ではないのか、と遅ればせながら多くの国民も気づいてしまった結果が、「安倍辞めろ」「帰れ」コールであり、都議会選・自民23議席だったと言えるだろう。


さらに始末が悪いことに、こうしたスキャンダルが明らかになった時の安倍政権の対応が、日本人の道徳観では許容されないような、デタラメな汚らわしさまで暴露してしまった。

妻を通してあれだけ熱烈支援していた籠池泰典をいきなり裏切った上に(100万円の寄付を否定しようとムキになるのは、さすがにあまりに馬鹿馬鹿し過ぎた)、加計学園騒動となると今度はなんでもかんでも人のせい、それも文科省や内閣府の若手官僚に責任をなすりつけるのはあまりにひどかった。

そして「安倍の秘蔵っ子」はどうしようもなく幼稚な感情論に走るオコチャマなのに、自分の「秘蔵っ子だから」と無理矢理かばう安倍は、自民党内からも冷ややかな目で見られ始めている。

こんな身内だけが得する国の、いったいなにが「美しい国へ」だったのか?

極めつけは側近の都連会長は、ヤミ献金の誤摩化しの手口を堂々と記者会見で披瀝して「事実無根だ!選挙妨害だ!」って…バッカじゃなかろうか?

しかも、この下劣さはさすがに大手メディアはほとんど報じなかったが、下村博文都連会長はしかも、自分の元秘書の青年が都民ファーストから出馬したのを逆恨みして、その青年を泥棒でスパイ呼ばわりまでしてその「証拠」らしき「上申書」なるもののコピーを会見で配布していた。 
いったいどっちが選挙妨害なのだ? 
あまりに卑劣な上になにも学習していないらしい。内部文書の漏洩先を決めつけてその相手を人格攻撃したところで、文書自体の信頼性はなにも変わらないことは、前川喜平氏を貶めようとして失敗した一件で、嫌というほど学んだはずではないか?


不潔感しかなくなってしまった安倍政権と、昨年から勘違いした態度を続けてやはり不潔なおっさん集団っぷりを晒し続けて来た(思い返せば、以前にもセクハラ野次問題もあった)自民党都議団に対し、少なくとも小池と都民ファーストには、安倍とか下村とか萩生田官房副長官、山本幸三大臣みたいな汚らしいオッサンや、そのオッサンたち相手にプラトニック枕営業でえこひいきされているかわい子ぶりっこのオコチャマなおばさんは、ちょっと見当たらない。


小池百合子も本人は根本的に右翼的な思想の持ち主なのかも知れないが、それでも彼女には日の丸の小旗を振り回し、「あの人達に負けるわけにはいかない」なんて自国民に向かって叫ぶ総理に喝采する、アタマがおかしい敵意むき出しの変な支持層もいないか、少なくとも目立たない。

秋葉原の安倍演説では、「この人達に負けるわけには行かない」という安倍の暴言というか妄言以外にも、この政権の本質をいかにも象徴することがあった。選挙カーの上の演説席からよく見えるように広げられた「安倍辞めろ」の大きな幕の前に、つまり選挙カーからの視野を遮るように、「自民党青年団」ののぼりが並んだのだ。


選挙なのに、有権者にどう見えるのかは考えない。気にしていたのはこの「安倍辞めろ」が演説する安倍の目に入らないようにすることばかりだったのだ。

こうした政権の異様な体質は、自民党内の全体まですっかり毒してしまっているようだ。後藤田正純衆議院議員は「私自身が、自由民主党執行部はおかしくなってると感じたのは、私の安倍政権の反省についての街頭演説が、安倍批判をしたと、党幹部に伝わり私にクレームがきたこと」とブログに記している。

かつて日米開戦に至る歴史の流れのなかで、「これは勝てる戦争ではない」と客観的には誰の目にも明らかだったはずなのが、「そんな根性では勝てる戦も勝てぬ」と言わんばかりの雰囲気が政府や軍の内部で横行し、陸軍主戦派の主張が押し通される経緯があった。戦時中には日本軍が負け続けていることは「大本営発表」で国民に隠され、それでも「この戦争には勝てないのではないか」疑問を抱いただけで「スパイ」扱いされて「非国民」と誹られ、治安維持法で逮捕されることも少なくなかった。安倍政権は「戦前回帰」を目指しているとしばしば指摘されるが、こうなるとその戦前戦中の日本の出来の悪いパロディに近い。



都民ファーストの圧勝を「素人」とこき下ろしているヒマがあったら、自民党とその支持者は、反省すべきことがあるはずだ。そんな「素人」でも、安倍政権の4年半に毒されまくり、その異常性に無自覚なまま、なんでも他人のせいで愚にもつかない言い訳しか言えなくなっているあなた達よりは、はるかにマシなのだ。