最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

6/17/2010

惑星探査機とサッカーとニッポン人

サッカー日本代表の監督だったイビチャ・オシム氏によれば、サッカーには国民性が現れるという。

日本サッカーを指導した体験から氏が指摘した日本人の国民性のなかに、うろ覚えの言い換えになってしまって恐縮だが、

・チームワークが機能的でなく集団のなかで個人の能力を生かすのが苦手で、なあなあで済ませる。

・失敗や敗北と、その悔しさや責任をしっかり受け止めて、そこから学習することができない

この二つがあるという。

W杯の初戦はカメルーンにまぐれ当りだったとしても勝ったんだから水を差すのも難だとも思わないでもないが、オシム氏の指摘は、サッカー日本代表チームはともかく、現代のニッポン人全般について、笑っちゃうほど図星である。

たとえば対カメルーン戦と並ぶ国家的二大慶事のように喜ばれている小惑星探査機の「はやぶさ」である。

一時は通信途絶で絶望視されたのが戻って来たんだから、新約聖書の「放蕩息子の帰還」よろしく、喜ぶぶんには、まあ、いいんだけど、それだったら「愛」の問題であって、「成功」「失敗」とはまた別次元の話だろうに。

レンブラント・ファン・ジン
『放蕩息子の帰還』
1666-1668年頃

だいたい相手は「息子」でなく機械なのにこんなに愛情を注ぐのも日本的なアニミズムへの先祖帰りとして微笑ましいことかもしれないけれど、とはいえ機械は機械だし、なによりもこれはあくまで科学調査だったはずだ。

科学に安易な情緒を、持ち込んではいけない。

科学的なプロジェクトとして、「はやぶさ」が失敗であるのは、否定しようがない。

トラブルが多発したことだけで、失敗だというのではない。単にプロジェクトの根本的な科学的目標を、まったく達成できていない、わざわざ小惑星に向けて探査機を送る理由からすれば、意味のあることはできていない以上、およそ成功とは言えない。どういいわけしようが、失敗は失敗なのだ。

物理的に探査機を小惑星にまで飛ばす理由はなにかといえば、物理的にその土壌サンプルを採取して組成を確認すること、それが太陽系の成立の謎をとく大きな手がかりになるから、だ。そうでなければわざわざ、小惑星まで人工衛星を飛ばすこと、そのために膨大な資金とマンパワーと技術力を費やすことの、意味がない。

「はやぶさ」はそれに失敗している。いちばん肝心だった小惑星への着陸と、そこでの土壌サンプル採取が、どっちも成功していないのだから。

だからこの失敗はちゃんと失敗として受け止め、なぜ失敗したのか、計画や設計の不備をちゃんと検証しなければ…だいたい税金であり、事業仕分けの対象にまでなってるんだぜ?

失敗した着陸の棚ぼたで、舞い上がった砂埃の一部が奇跡的に採取されている可能性がある、だから土壌サンプル採取が出来ていたらいいじゃないかという話に世論は流れがちだが、それこそ運が良かっただけの棚ぼたで、着陸に失敗したこと、サンプル採取装置が機能しなかった失敗を見過ごすとしたら、どうしようもなく自分たちに甘い話だ。

オシム氏の指摘した通りである。現代ニッポン人は確かに、失敗や敗北とその悔しさをしっかり受け止めることができない。だから無限にいいわけや誤摩化しや責任転嫁を続ける。

そして責任転嫁と自己保身、その自己保身を担保するための集団の維持だけが最優先され、集団はチームワークによる目標達成の手段としての機能を失い、集団の成員はそれぞれに、そもそもなんの目標でその集団に自分は参加しているのかすら、見失ってしまう。

参加する目的がそもそも、どんな集団でもいいから「自分を認めて欲しい」だけだったら、そもそも出発点からして倒錯してることには、なるんだろうが。


いや別に「はやぶさ」に限った話ではない。

今やこの国で起ってることの大部分が、同じ病に取り憑かれている。政治から会社経営から、映画作りから、家族関係や子育てに至るまで。

子育てなんてそもそも、「失敗」するのが当たり前だろうに。

もちろん「はやぶさ」は、失敗でも構わなかったのである。

宇宙開発には失敗はつきものだ、というよりプロトタイプなんだから、失敗することが前提なのだ。誰も行ったことがなくよく分からない場所で、誰もやったことがないよく分からないことを、やるんだから。

だからこそ失敗によって得られた情報をちゃんと検証し、失敗から学習して次に生かせばいいのだし、そもそも「はやぶさ」はいわば試験的なプロトタイプに過ぎない。プロトタイプの役割とは、失敗してその失敗の原因をめぐる情報を収集・検証することだ。

失敗して、そこで欠陥を検証し、より完成度の高い機械を作るための「捨て石」なのだから、失敗は失敗でもそれなりの成果や役割は果たし得るのだから。

筆者の本業である映画作りであれば、NGテイクがいくらあったって、OKテイクしか完成した映画には関係がない

体力的・時間的、あるいは経済的な限界はあるから無限に繰り返すのはさすがに無理だとしても、なかなかOKが出ないからってコンプレックスに思う必要は、本来ならない。

どんなに失敗しようが、その経験がOKテイクに生かされればいいのだから。

ところが、私事で恐縮で、かつ一部の人への直接批判になるのは心苦しいことながら…

ちょうど一年ほど前から大阪で撮影して来た『ほんの少しだけでも愛を』という集団即興実験では、大部分の出演者がまったくそれがわかっていなかった。

そういう現実的な認識すらなく、仮にも国際的な評価を得ている監督に映画に出られるという「夢」が手近に転がってた、ということだけだったんだろうか?

  藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2014、編集中)

あらかじめ自分が勝手に思い込んだ自己イメージがあり、それが作品として提示するにはあまりに薄っぺらで幼稚な自己満足に過ぎないと分かると(…って、誰しも自己イメージなんてそんなものである)、チック症状は出るわ、思考回路も感情も停止するわ、ヒステリーを起こすわ…。精神医学的にいえば大変な惨状だったのが正直なところ。

なにしろ即興である以上、そして演出家の個性からしても、出演者がそのような病理を抱えているのなら、映画がそのような病理についての作品になることは、避けられない。いやむしろ、それこそが正直で真摯な映画なのだろうが、ただ魅力的であるか、観客の共感を呼べるかどうかは、また別問題にはなるところは、確かに難しい…。 
いかにモノ作り、それも即興的で身体を使う作業にはセラピー効果があるからって、これでは必要なのはセラピー効果もある創造作業ではなく、本格的なセラピーそのものじゃないかと言いたくもなるし、それもグループ・セラピーの前にまずみっちりと個人面談の診察がないことには、なにしろ社会性が極度に低く、集団であること自体が過大なストレスにも、なるようなのだから。他人に接することそれ自体に、自分を「失敗」と見なされることへの恐怖が潜在的につきまとっているのだから。 
「集団のなかで自分が認められたい」が最優先、それしか欲望がないのであれば、もともと出発点からして病理ということにしかならないわけだが…。だって思春期をとっくに過ぎて「自分を認めて欲しい」が最優先されるなら、それは定義上、すでに自我の確立が阻害された人格障害の症状になってしまう。

  藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010、編集中)

まして即興映画なんて、最初から「正直で、いい映画を作ること」以外に、脚本で決められた方向性で具体的に限定された目標があるわけでも、予算があって出資者がいて、そこから要求される商品価値が想定されているわけでもない。

むしろ姜尚中氏のベストセラーではないが、うまく行かずに『悩む力』こそが、最後には撮れるはずのOKテイクの質をより高めるはずだ。

映画なんだから、最終的に他人様であるお客を感動させるためのものなんだから、そこにこそひとつひとつのシーンの最終目標が、あるはずだ。まして最終的にそれを見る観客の人生は、作ってる我々のそれと同じくらいに、失敗や挫折だらけのはずなんだから、「それをどう生かすのか」が、「自分がどう生きるか」に通じるものに他ならない。

ところがこれが、まったく伝わらない。

「集団のなかで自分の存在を認められること」以上の目標が、まったく見えていないような社会で育ってしまっていれば、「国際的に評価されてベルリンだとかで上映される映画」を作るなんてこと自体が、夢物語どころか、「遊星よりの物体X」か「小惑星イトカワ」くらいにリアリティのない話、つまりは「夢」にしかならないのだろうか?

彼らの大部分が若い世代であることを考えると、気の毒にもなってくる。

それも前回の同様の実験『ぼくらはもう帰れない』(2006)では大部分が学生だったのが、今回は若いといっても将来が未知数の学生ではなく、ある意味すでに社会の成功のレールからは外れているフリーターかニートに近い立場なのだ。それが世間並み=月並みの「成功」の自己イメージを希求してどうするんだろう?

  藤原敏史『ぼくらはもう帰れない』(2006)

そうこうしているうちに、自分の多分に自分に甘い自己イメージの再現のつもりで「いい人の役」か「ヒーロー」を必死でやってるつもりが、かえってその人間的/精神的な限界が、ちゃっかりとキャメラには撮られていることになる。

それに気付いて、自分のほんとうの姿を受け入れられれてこその即興なのだが、ほとんどの人間にはそれができない。

真摯で本気で悩んでいるのなら、それだけでもなんらかの芸術的な美しさはある。だが忌避している姿は、醜悪なだけでなんの魅力もなく、偽りしかそこには写らない。

だが我々の映画がこの国の社会の【今】を捉えているものなのだとしたらも、だからこそ自分たち自身こそがあまり見たくない、認識したくないものにはなるだろう。

なにしろ自分達の存在自体が【失敗】なのだ、ということも、なりかねないのだから。

バカバカしい話である。人生が成功したかどうか自体、最低限でも死ぬまでは絶対に分からないのが、人間だというのに。

ましてモノを作ってる人間なんて…「知ってるかね? ファン・ゴッホは死ぬまでに一枚しか絵を売っていない。それが芸術家というものだ」というのが、ロバート・アルトマンの口癖だった。

  フィンセント・ファン・ゴッホ『耳を切った自画像』

『ぼくらはもう帰れない』の決め台詞は、「自分の背中、自分では見られないですから」「俺ってこんな顔してるんだ」だった。


失敗が許されない社会は、失敗から学ぶことが封じ込められた社会でもある。
と同時に、自らの失敗や敗北の認識を病的なまでに忌避する社会でもある。

そんななかで育てば、そろって引きこもり予備軍くらいにしかなりようがない。だって失敗することをそこまで病的に恐れるなら、なにもせず、誰とも出来る限り接しないことが、最良の逃げ道になるのだから。

だったら引きこもってたほうが、他人に迷惑や危害を与える可能性に恐れおののくことがないぶんだけ、まだ健康なんじゃないか、とすら思える。

失敗を回避するための努力には、失敗から学ぶことが不可欠だ

しかし今の日本はむしろ、失敗を忌避する社会になっている。失敗を絶対に許さない社会になっているあまりに、失敗してもそれを認識できない。

失敗を回避する努力をするなら、確実に失敗は減る。失敗を回避することとは、想定されるリスクへの対応をあらかじめプロジェクトのなかに盛り込んでおくことだからだ。

それに対し、失敗を忌避する欲望(というか病理)は、より失敗を増やす結果にしかならない。失敗を恐れるあまりに、失敗につながる可能性のあるリスクを認識することからも、逃避してしまうのである。

それがバブル崩壊という大失敗後の、そして冷戦崩壊後の日本の、失われた20年の最大の特徴なのだとも言えるだろうし、「ゆとり教育」というのもまた、教育現場においては失敗のリスクを忌避し認識しようとしない教育でしかなかった。

そういう世代が今のニッポンの若者であり、そういう若者は従え易いのをいいことに、いい歳した大人が彼らを子分にして悦に入ってるなかでは、失敗を認識することは常に忌避される

とくにその子分を作ることの内輪の論理にのみ血道をあげるような大人(って言えるんだろうかそれで?)たちは、自分の失敗は決して認めない。そういう大人の背中を見て、ご機嫌をとって育たなければならない団塊ジュニア以降は、まことに不幸としか言いようがない。これじゃ児童虐待と紙一重、というかその実、虐待的な成長環境そのものである。

これでは失敗してもそれを認識しない風潮、決して失敗から学べない社会の大勢は、ますますその病理を深めて行くことにしか、ならない。

もちろんその先に、未来なんてものもない。

彼らの将来は、予め去勢されてしまっているのだとさえ、言えてしまうほどに。

その意味では、『ほんの少しだけでも愛を』の出演者たちの一部もまた、現代ニッポンの大人達の犠牲者であり、実際にこの映画でも、自分達が不当に抑圧された立場にあることを自己認識すらできないほど悲惨な存在として、ちゃんと写ってはいる。

ただそういう、「自らアクションを起こす」ということができない人間を映画の物語叙述の軸に据えるのは、少なくとも古典的な映画作法のドラマツルギーでは、限りなく不可能に近い…。

それが演出の側にとってのハードルの高さにはなり、その本質を生かしながらどう退屈にはならない映画にするかで、編集で頭を抱えているわけではあるが。

   藤原敏史『ぼくらはもう帰れない』(2006)

   藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010、編集中)

それにしてもはやぶさに「おかえりなさい」はともかく、「見事な帰還」「日本の誇り」に至っては、まことにお笑い草であるとしか言いようがない。

「帰って来た」って、元から地球大気圏に突入する際に燃え尽きる使い捨て設計だぜ(笑)。採取カプセルだけは地上に戻して回収するのは、物理的に小惑星の土壌サンプルがなければ精確な分析ができない、電子望遠鏡による調査推測では限界があるから「はやぶさ」のプロジェクトは科学の進歩にとって重要だったはずなのに、これじゃただ「行って来ました、帰って来ました、おかえり〜」と、科学とも技術とも無関係な極めて薄っぺらな情緒レベルに陶酔してるだけだ。

いい歳をした大人まで含めて、まるで「初めてのおつかい」の幼稚園児のメンタリティである。お金を落としてしまっても、「よくやったねぇ〜。がんばったね〜」と子どもを甘やかす…というか、他人に甘やかされる前に、まず自分で自分を甘やかしている。

6/04/2010

この国は真底に不真面目な国なのか?

鳩山辞任と民主党の次の党首選びですっかりマスコミ報道が埋め尽くされているなかで、気がかりになることがある。

ほんの数日前までその鳩山氏までいきり立っていた「北朝鮮による韓国哨戒艦撃沈疑惑」は、いったいどうしたのだろう?

すわ朝鮮半島は一触即発、北朝鮮はけしからん、日中韓首脳会談では鳩山自身が中国の温家宝に「国際社会への協調」をせまり、北朝鮮の脅威があるからやはり在日米軍は…だから普天間の海兵隊も…(だから「抑止力」について「いろいろ学ぶ」とか)。

なんちゃって、元から茶番なのは分かっている。

日本のマスコミはなぜかぜんぜんこの当たり前の事実を報道もせず、朝鮮半島の専門家を自称する人々もまったくその報道される分析でもなぜ言及しないのかの方が、よっぽど理解しがたい話なのだが…。

李 明博 韓国大統領の政権は、不人気なのだ。

2MBの時代錯誤と揶揄される不人気政権の母体である保守ハンナラ党が、統一地方選を控えている。

だから選挙に勝つのにいちばん手っ取り早いのは、北の脅威を煽るために必死で哨戒艦沈没が北朝鮮の仕業だという調査結果をまとめて対決姿勢を演出することだったってだけの話。

保守政党としての手垢のつくほどに使い古された選挙戦略なのは、子どもだって分かるような話なのに。

つまりはことの本質は韓国の内政問題、選挙対策なのだ。

しかも2MB大統領の不人気は狂牛病がらみの牛肉輸入問題でアメリカのいいなりになったせいで大規模デモに発展したことがそもそもの始まり、北の脅威を喧伝することで「アメリカいいなり」の言い訳を作るのも、日韓でそろって非常によく似た話でもある。

さて日本は日本の内政問題で報道が埋め尽くされて、「北の脅威」のことなんて「安全保障は国の根幹」とか典型的な平和ボケした寝言をいってる議員連中までその騒ぎをすっかり忘れ去ったころ、国際ニュース欄の片隅でひっそりと報じられているのは…。

…李明博の属するハンナラ党は統一地方選挙で惨敗し、党首が責任をとって辞任。

なるほどね、やっぱり韓国国民はすでにこのテの話に慣れているだけに、今さらそんな古典的プロパガンダに踊らされず、不人気政権は不人気政権のまま、早晩韓国の対北強攻策は見直しを迫られることを余儀なくされてしまった。

さて安保理に議題として提出する際には真っ先に協力を表明し、慎重姿勢を崩さない温家宝をけしからんと言わんばかりだった「ハンナラ党外野応援団」こと我がニッポン国は、どうするんだろう?

そうそう、「安全保障は国の根幹」とか寝言をいってる連中は当然ながら「中国の脅威」論者でもあるんだが、そんな「危険な隣人」の首相つまり温家宝が日中韓首脳会談のあとすぐに日本に訪問して、鳩山と首脳会談をやってたことも忘れてるんだろうか?

したたかな政治家温家宝は、しっかりと友好ムードを演出し、東シナ海ガス田開発の条約締結もやっと合意して行ったとたん、こちら側の当事者である総理大臣が辞任表明とは(笑)、さすがに想定外でしょう。

ところが「日米関係」云々で鳩山批判をする「安全保障は国の根幹」とか平和ボケした寝言をいってる連中やマスコミは、彼らによれば途方もない脅威であるはずの隣国との信頼関係にとって明らかにプラスにはならないことを、一言も批判しないのである。そんなに怖い「脅威」なら、関係性の構築には最大限の注意を払うんじゃないのか、普通?

むろんそんな「脅威」でなくても、日本経済にとって最大の貿易相手国、細かな問題もいろいろあるし、「安全保障」云々は別にしていい関係を作ってかなきゃいけない重要なパートナーなんだけどねぇ。

どう考えたって本気で日本の安全保障を考えているようには、見えませんよね。

「安全保障は国の根幹」が平和ボケ日本ならではの寝言だとしても(あくまで現実の認識とそれへの対処の問題でしかないだろ、安全保障なんて)、外交を通して国民生活の安全を守ることが極めて大切、真剣に取り組まなければならないことは言うまでもないのだが、どうも現在のこの国の人々は、そんなことですら真剣に考える認識が欠如しているらしい。

だいたい本当にそんなに危機的状況だったら、その最中に総理大臣を辞任に追い込んだりしないし、総理大臣だって簡単には辞められないはずだぜ(苦笑)。

6/02/2010

誰が鳩山由紀夫を嗤えるのか?

辞めるには最悪のタイミングである。

国外ないし県外が対米交渉で困難となった…というか実務者協議で外務省も防衛省もその提案をまともにアメリカにぶつけてすらいなかったのがわかった時点で、指導力不足の責任で辞意、ならよかった。

あるいは、参院で問責が出て、社民党が賛成し民主の沖縄や鹿児島選出などの一部が造反して可決となってから辞めるなら、官僚主導で潰された鳩山自身の公約、最低でも県外か国外を、辞任と引き換えに元のスタートラインに戻し、かつ日本の民意で沖縄県内への移転は無理なのだとアメリカにメッセージを発せられたし、それは鳩山が掲げた日米安保の見直し再定義をスタートさせることにも、なったはずだ。

それが変節の果てに「私のクビと引き換えに、沖縄のみなさん我慢して下さい」となりかねないタイミングでは、政権交代して大騒ぎして、職を賭してまで、何も変えないことに力を尽くしたことにしかならない。

これでは現状の固定という最悪の敗北でしかなく、政権交代の意味すら無効化する。

それでも、本気で鳩山由紀夫を嗤える人間は、今の日本にどれだけいるのだろうか?

首相辞任を受けてTwitterで経営コンサルタントの宋文州氏が、自称「過激なつぶやき」を連発している。

任期中の総理辞任はもう癖になってしまった。これだけの数になるとリーダーの個人資質で片付けないで国民も反省したほうがいい

今の日本。リーダーが生まれないのは日本人が根っこからリーダーを望んでいないからだ。子供が生まれないのは日本人が根っこから子供が欲しくないからだ。しかし、皆が他人に嘘をいう

そんなによいリーダーを望むなら、なぜ子供達に将来「普通のサラリーマン」になりたいというだろうか。それは親の影響ではないだろうか。要はリーダーには何のメリットもないと考えているのでは。

リーダーは他人を傷付けることを避けられないよ。少なくとも保守勢力とやる気のない人を。日本人の優しさといえば反論できないところもあるが、リーダーへの配慮も優しさではないか。

公平にいうが、どこの国にも似たような輩が大勢にいる。しかし、こんなにもゴロゴロリーダーが辞める社会は外国だけではなく、日本自身の史上にも珍しい。原因は他人に原因を求める今の社会にある。

俺は日本の総理になりたくない(もちろん失格であるが)のはメリットがないからだ。金銭はなくていい。忙殺されてもいい。だけと、せめて同僚(議員)や部下(国民)から励ましをいただきたい。生き甲斐と尊重を得たい。

自分の会社の中でヒラメに徹底しているマスコミ社員。彼ら限って世論の隠れ蓑から「勇敢」に目立つ目標を攻撃する。ベンチャー経営者、官僚、政治家、総理大臣・・・日本にリーダーが居なくなるまで。

辞めろといってきたマスコミの社員達が社内の老害社長に同じことを言えたたろうか。特に84歳のトップに。なぜ言えないだろうか。

「下克上」。これは本当は恥ずかしいことだよ。こんなことを自慢するやつが日本の保守的組織にたくさんいる。下が上を克ったからといってその下が上になって組織を何とかすることがない。また次のカモ(上)を待つだけ。


あまりにその通りなので、つい笑ってしまった。

宋氏ご本人は中国人であるだけにさすがに、こういう本当のことを(しかも「外国人」が)言うとすぐにバッシングが始まるこの国の怖さを知ってるからか、「日本に素晴らしいリーダーがたくさん居るし、障害を乗り越えて何人も子供を育てる人が一杯居るし、組織から独立して尊敬に値する人も大勢にいる。この私の過激つぶやきを読む人は殆ど私に言われる筋がない。心情が害された方はお許しください」と一連の“つぶやき”を締めくくってはおいでだが…。

ホント、だからこの国はこんなに駄目になっちゃうんだよ。

この“つぶやき”も、けだし名言ではあるが、現代の日本人でこの意味を理解できる人はたぶん少数派だろう。

「滅私奉公」なんかは典型的な偽善。私が滅びたらどうやって公に奉仕するだろうか。実はこれが中国の文化大革命時代によく使われた言葉だ。聞くだけで社会主義と全体主義を連想する。

自分の経験ばかりいって恐縮ですが、忠誠心も文化大革命の時によく使われた言葉。共産党、毛沢東と国家への忠誠心を求められた。今、その中国でも死語になっている。まだ使われているのは日本と北朝鮮だろう。

自分を大切にすることは他人を大切にすることと同様、いや以上に重要なのだ。自己中心ではない。倒れそうな人間が他人を助けるなんて無理だし、迷惑な道連れだ。


まあしかし、なんせ以下のような、こんなおかしな価値観を刷り込まれてる国民ですから…

ある売れない営業マンがいつも残業する。何をしているかと聞くと仲間の手伝いをしているという。「他人を助けている」というふりして自分の努力不足、あるいは無能を誤魔化す

入社したばかりの社員がいった。「早く会社に貢献できる人間になりたい」と。「会社のことを心配してくれなくてもいいから、はやく自分の給料を稼げる人間になってくれ」と私はいった。なぜこんな偽善な言い方を覚えてくるだろうか。

キリストも仏陀も孔子も自分を大切にすることを説く。「汝を愛するように他人を愛しなさい」というのがせいぜい。自分を大事にしていることに気付かないと、他人のせいにする癖ができてしまう。


確かに、本当は自分こそが大事なのを誤摩化して他人に尽くす振りをしたあげく、うまくいかなければなんでも他人のせい、にしてるよね。

今や日本における協調性とは、お互いに責任をなすり付け合える微妙な関係を維持することでしかなく、その心底の動機は、自分が責任を負うことを極端に恐れるからでしかない。

「他人のため」はひたすら、そのような「いい人」と見られることと、責任回避のための、装いに過ぎない。

だいたい他人を批判するからには、自分は同じことで批判されるようにはしないよう心がけるのがまともな大人というものだが、どうにも「団塊の世代」以降、そんな倫理の基本すら分かってない人間が「大人」のフリをして、宋氏のいう「こんな偽善な言い方」を若者や子どもに押し付けて言わせているのが、現代の日本である。

鳩山由起夫自身が団塊の世代なわけだが、そのなかで彼はまだマシな方だ。謝れるだけ、自分で辞任を決断できるだけ(タイミング最悪だけど)。

いったい彼を嗤える人間が、どれだけいるんだろう? いや自分でも同じことをやるか、もっとひどいことをやりながら、それでも「あいつはダメだ」とか平気でけなしたり嗤ったりするのが、この国の「大人」たちである。

そんなのに騙されないように、少しは警戒した方がいいと思う。彼らの大半は鳩山のように「愚直」にすらなれない、小賢しく他人のせいにする癖ばかり発達させてるエセ大人なんだから。

そのクセ偉そうな顔だけはしたがるんだから始末に終えないわけだが。

まだ現実的に経済とか経営上の損失が出る立場なら分かるが、単に歳上だといばりたいだけの「立場」の保守で責任逃れをしまくるような人ばかりに囲まれてしまっていては、宋氏ではないが「リーダーは他人を傷付けることを避けられないよ。少なくとも保守勢力とやる気のない人を」となるのは、当然である。

普天間移転をめぐる大失策はもちろん謝って済む問題ではないのだが、それでも沖縄に行って必死で謝ることができただけ、まだ鳩山はマシである。

だって謝るしかない、謝ったほうがどう考えたっていい状況でも、いいわけにならないいいわけばかりして絶対に謝らないのが昨今の日本人。

かといって喧嘩する度量も自己正当化を論証する能力もなく、やることと言ったら関係を絶って陰口をふりまくだけ−−20代の若者のことではない、50代のいい歳した大人がそうなのだから、そんな人々に果たして鳩山を嗤えるのか?

もっとも、その50代以下の世代だって、上の世代がそうだからってそこに盲従して同じ行動原理になってしまえば、しょせん同じことではあるのだが。


とはいえ鳩山由紀夫も、どうせ泥をかぶって引責辞任なら、問責決議を食らうことで「普天間を沖縄県内に移設することは日本の民意として無理」というメッセージを発してから辞めるならまだ本気の「滅私奉公」として評価できなくもなかったのだが。

このままでは逆に、「米軍基地の問題に触れたら最高権力者といえどもクビが飛ぶ」というメッセージを、国内に発しただけである。

6/01/2010

「世界に目を向けるための映画上映会」


…と言ってなんのことかよく分からないイベント名かもしれないが、今年度の前期は慶應大学の教養学部で学生にドキュメンタリーを撮らせる授業を教えてて、その関連で2006年の拙作『ぼくらはもう帰れない』(ベルリン国際映画祭フォーラム部門、ペサロ国際映画祭「未来の映画」最優秀賞、他)を上映することになった。

会場:シネマ・ジャック&ベティ(横浜市中区・最寄り駅:京浜急行黄金町駅5分)
http://www.jackandbetty.net/accessmap.html
日時:6月14日(月)19時10分〜

舞台挨拶&質疑応答あり:藤原敏史(監督)、山田哲弥、霜田敦史、いとう克則(出演者)

※慶應大学の学生向けの上映になりますが(学生証提示で無料)、一般入場料1500円、学生1300円、シニア1000円での、公開のイベントとなります。

もっとも、ドキュメンタリーではなくフィクション映画だし、「世界に目を向ける」よりは自分たち自身を見つめる話なんだけど…。


『ぼくらはもう帰れない』予告編

仏・カイエ・デュ・シネマ誌
今年のベルリンで最も注目すべき発見。[中略]まるで奇跡のように、実験は作品になり、挑戦は感動になる。『ぼくらはもう帰れない』はそのフォルマリズム的なプログラムを超克し、俳優たちの身体と、大都市の喧噪、そして人物たちのフィクションがデリケートに絡まり合ってこの映画に固有の統一性、その呼吸、その力強さを生み出している。(ジャン=ミシェル・フロドン)


アトム・エゴヤン監督(カナダ)評
ストーリー展開のカジュアルなやり方とユーモアが大好きだ。すべての人物が適確に浮かび上がり、そのいずれもが心に響く。キャメラワークが素晴らしく、とくにある構図をドラマチックな状況の最後までじっと維持し続けるその姿勢は、人間観察というものの意味を即座に分からせてくれる。そして“リアルな演技”をめぐる会話や、自分の顔をポラロイド写真で撮り続ける青年、その彼をビデオカメラを持って追いかける少年を通じて、映画全体がそれ自体の合わせ鏡のようにそれ自身に折り重なっていく感覚、そのすべてがとても愛おしい。


ベルトラン・タヴェルニエ監督(フランス)評
独特のカメラワークは素晴らしく、演出はシャープで生気に満ちている。ところどころおもわず爆笑してしまう。ただリアルな若者の姿を描いているだけでなく、創造をめぐる寓話でもある。


ジャン=ピエール・リモザン監督(フランス)評
この映画の自由さを賞賛したい。俳優たちが 素晴らしく、人生の曲がり角にいながら、とても傷つきやすく、それでいてとても楽しげに、人間 的だ。音の構成は特筆すべきものであり、外の 騒々しさがアパートのなかにも容赦なく入り込 み、東京という都市の商売本位で暴力的な音響の特質をみごとに捉えている。


ロバート・アルトマン監督(アメリカ)評
美しい。


ニコラ・ブラン、プロデューサー(フランス)評
大変な自由をもって作られたと感じさせるそのやり方が、登場人物に対する驚くべき接近感と、この映画独特の香気とも言うべきなにかを発散する。そのなにかが映画の立場、そして我々の観客としての立場を問い直し、そのことがこの映画の大変に緻密な構造を浮かび上がらせる。これは映画において大変に難しいことだ。ラーズ・フォン・トリアーも『イディオッツ』でこれに到達している。

これを見てもう一度東京に行きたくなった。この映画が日本の文化の長所も矛盾も、決してやり過ぎになることなしに映し出しているからだ。この登場人物たちとおしゃべりしてさらに彼らを知りたい、いっしょにもっと時を過ごしたいという気にさせられた。


バルベ・シュロデール(バーベット・シュローダー)監督(フランス)評
この驚くべき演技と知性に溢れた、まったく独創的な映画で、ついに私が見て来たそのままの東京の街を発見することができた。


黒沢 清 監督(日本)評
立派な映画です。そしてかなりおかしい。



『ぼくらはもう帰れない We Can't Go Home Again』

 監督・撮影・編集 藤原敏史
 音楽・音響構成 ジーモン・シュトックハウゼン
 音響監督 久保田幸雄
 挿入歌 CRAFT
 製作 姜裕文 平戸潤也 高沢裕正 アレクサンドル・ワドゥー 藤原敏史

 出演 鳥居真央 霜田敦史 高澤くるみ 香取勇進 山田哲弥

 ポスター・デザイン 深谷ベルタ

2006年/日本=ドイツ合作/111分/カラー/35mm 1:1.85