最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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5/13/2010

無性に腹が立つ

先週末、大阪に集団即興劇映画『ほんの少しだけでも愛を』(2011年完成予定)の、最後の追加撮影に行って来たのだが、その前後から無性に腹が立っている。

クランクアップ記念写真:船場にて、加納克範、安田一平、植木友也、今田幸彦、飯塚亮子

断っておくが別に大阪が嫌いになったわけでも、大阪だけが悪いわけでもない。撮影自体はとても順調に行ったし、最後の撮影までつき合ってくれた安田一平、飯塚亮子、加納克範、谷口勝彦、今田幸彦、田中健太郎ら出演者兼スタッフと、今回のお手伝いスタッフでワンシーンだけ特別出演した植木友也君、いずれもとても気持ちのいい面々であり、大変に困難が続いた映画ではあっても、終わりよければすべてよしと思っている。

実際、こういう気持ちのいい、誠実であり真面目なのに、また楽天的でユーモアのセンスもたっぷりな人たちに出会えただけでも、大阪で映画を撮ってみて、本当によかったと思う。

とはいえ、この映画の中心的な主題となるのはやはり、一見波風立たない平穏の底の虐待的な人間関係であり、そのひとつの中心というか根底にあるのが、やはり大阪に蔓延する「差別」を中心とする問題ではあるが、別に差別問題だけではなく、良心というか倫理観というか、人としてもっとも基本的なところが欠如している状態が蔓延しているかのような感覚を持たざるを得ない。

そしてそのたびにやはり腹が立たずにはいられないのだ。

いやまあ、そう簡単に怒ってはいけない、もっと大人の成熟した映画作家にならなければとも思いつつ、やはり腹が立つ。というわけでこのような怒りを込めて、劇映画であるはずのその構造そのものをぶっ壊すシーンまで、撮ってしまった次第である。


『ほんの少しだけでも愛を』怒りの(?)フィクション構造解体シーン

いやもちろん、これは別に大阪に限ったはなしではないはずだ。このニッポンという国全体が、あきらかにどうかしている。

強いて言えばこの都市に、この国全体が抱える問題のいくつかが凝縮しているというだけの話であるはずであり、大なり小なりこのニッポン国の現状は、どこも似たり寄ったりであろう。その意味でもこの映画をここで撮ってよかった。

だいたい、今回は撮影前から腹が立っていたわけだし。

無性に腹が立つのはもちろん、普天間基地移設の問題のことである。

これもまた一皮むけば旧琉球王国という「植民地」としか見ていない沖縄への残酷な差別がなくては、こうはなるまい。鳩山首相が沖縄来訪した当日と翌日の二日間だけは、メディアは沖縄の人たちの怒りをとりあげた。だがその人々の悲痛な叫び、「もう沢山だ」という声と顔を届けたあとだというのに、コメンテーターたちは鳩山の「不勉強」をなじるばかりだ。

まるで普天間の県外ないし国外移転を公約した鳩山が「パンドラの函」でもあけてしまったことをなじるかのように。民主党が言わなければ、沖縄の声なんて無視できたはずだし、彼らもまた基地と引き換えの振興策という本土の「温情」に「感謝の気持ち」でも持って黙っていただろうに、とでも言わんばかりに。

はっきり言おう、我々日本人の総体はまだまだ沖縄を差別している。その経済レベルの低さを侮蔑し、「金をくれてやればいいだろう」と言わんばかりの態度で基地を彼らに押し付けて来たし、これからも押し付けようとしている。

沖縄の人々の人間の尊厳や、彼ら自身の人生をめぐる自己決定権を、我々は対等なはずの人間として、なんとしてでも認めたくはないのだ。遠い彼方の外国人というわけですらない、同じ日本国に住む同じ日本国民だというのに、自分たちが自分たちに対して否定している自己決定権、つまりは一応はこの国が独立国であることを自ら拒否して来た以上は、差別対象である沖縄の人々相手に、絶対にそんなものは認めたくないのだ。

米軍基地問題はこの象徴的な構図を明らかにしているのに、我々日本人はそのことだけは絶対に気付きたくない。


我々が明治以降、「西洋」つまりは欧米白人の世界へのコンプレックスの固まりであり、自らをアメリカの奴隷の地位に進んで置いて来ていること。その奴隷としての屈辱を、自分たちの下位・蔑視対象である「旧・植民地のかつての琉球王国」という自分達が征服した相手や在日コリアン、いわゆる被差別部落への屈辱的扱いや、アジア諸国への蔑視、中国脅威論などによって鬱憤を晴らすか、ときおり彼らに同情を示すことで「よき主人」「強者」、より西洋(白人)先進国に「近い」側の役柄を自己演出したがっているに過ぎない一方で、島国民族で外国を知らないことへの強烈なコンプレックスに支配されている。

普天間の問題で、本当に議論されるべきは、この呆れ果てるほどの破廉恥な偽善にある。

今となっては本当にあるかどうかも怪しい冷戦時代の概念である「抑止力」とやらのために、沖縄の人々の生活どころか生命そのものすら、日々脅かされていることをいつまで無視すればいいのか?

たとえば米軍兵(とくに海兵隊)の関与が疑われる婦女暴行事件が、ほとんどが告訴すらされないまま(地位協定がある以上、無駄。捜査すらおぼつかない)、毎日のように起っているか考えたことがあるのか?

『ほんの少しだけでも愛を』より

いやもはや、沖縄は二重の差別の被害者ですらある。元からある旧植民地への差別に加え、今度はレイプ被害者への差別。自ら彼らの自己決定権と尊厳を奪っておいて、彼らを「弱者」として下に見る構図。

「部落民」でも「沖縄」でも、あるいは「遊郭で働く女たち」でも、いったん自分たちの「内輪」の外の「他者」と思った瞬間、その声は聞く必要がない。「差別なんてそんな難しいことを考えたくない」とまである出演者に泣きつかれたのには、唖然とするしかなかったし。

我々日本人はいつのまに、他者への共感可能性を失ってしまったのだろう? 

なんで我々日本人は、いつのまにか「他人の立場になって考えてみる」という当たり前のことすらできなくなったのか?

出演者が出てないシーンでは録音を担当したりするのがこの現場。(田中健太郎)

これは「思いやり」とかの問題じゃない。単に現実的な交渉ごとの基本として、あるいは戦略論として、テキがどう動くかを予測もできずにどうやって対抗するつもりなのか? だから大東亜戦争なんてやっちゃったし、だから負けたんだよこの国は。

沖縄の場合は、その口にするのもはばかられる屈辱の被害を、当事者たちすら口にできないのをいいことに、我々は「振興策」とかのまやかしで、国家が確かに国民である彼らの生命生活の安全すら保障する気がないことを、見て見ぬ振りしているのではないか。「同和対策」をやったから、もう部落問題は存在しないはずだ、今残ってるのは「同和利権」のゴネ得だと言わんばかりの無視の仕方と、それはそっくり同じである。

未だに陰険に存続する就職差別や貧困もあり、経済的に不利な立場に置かれ、その多くの地域がスラム街みたいな状況だった過去もあり、行政はかなりの公金を投じて市営住宅などをつくる「同和対策」はやって来た。

だがその実態がどんなものなのか、その行政に住民税を払っている当の市民たちが知ろうともしない。あんたらの税金だろ? ならせめて、有効な対策に使われるように気にするくらい当たり前だろうに。ではこの、建設費を水増しするためだけかのように妙に手間だけはかかった公営住宅をこれ見よがしに押し付けて「感謝しろ」と言わんばかりの態度で、「差別」は解消され「同和」つまり文字通りの意味は「同じ立場で和す」ことが可能だとでも思うのだろうか?



大阪において厳然と存在する被差別部落の問題において、いわゆる「部落民」(という呼び名しかないこと自体が、許しがたい不幸である。江戸幕府が「えた・ひにん」という呼称を与える以前の、彼らが自分たち自身を呼び、他の人々がときに畏怖の念を込めて呼んでいたであろう、たとえば「傀儡」というような言葉は、日本語の語彙から抹消されているのだ)の人々の声がまったく無視されているように、沖縄の人々の声もまた、ほんの二日ほどメディアを賑わせはしたが、すぐにこの国の言説から抹消され、ニュースは相も変わらぬ政局ばかりを報道する。


『ほんの少しだけでも愛を』大阪市内のいわゆる同和対策地域のシーン

この我々の映画の場合は、たまたまある種の問題が大阪に集中しているだけだといえばその通りだし、それは現代まで大都市として継続している街としてはここが日本で最古の都市であることとも、無関係ではないだろう。歴史的な継続のなかで溜った澱のようなものでもあるのだし、それがここに集中していること自体は、現代の大阪に生まれ育ったりした人々の問題ではない。

むしろ愛想のいい、感じのいい人の多い街であるし、東京ほどぎすぎすして冷たい感じがしないというのは、その通りだろう。

いつから我々は、自分の周囲にいるような、体験を共有している人々を中心とする、自分の所属集団への同情だけに情緒的に耽溺して、こうも倫理を踏み外した国民になってしまったのだろう?


しかしそうは言っても、その一見「あたたかい」人々がなぜかくも自分たちが住むのと同一の都市空間のなかに厳然とある残酷さに気付こうとすらしないのかは、やはり理解できない。結果として、現代の大阪はたいへんな階級社会であり、その各階級のなかをさらに分断して無数の「内輪」を作り出している。


まるで自分たちが放置したままにしているか、もしかしたら不作為で継続させている差別の対象の人々を認識することすら、恐れるかのように、自分たちの内輪にしか目を向けられず、倫理をめぐる議論ですらどうしようもない私怨とすり替えてしまうかのような。

かくして、江戸時代以来の権力の側が常にやって来た分断支配は、確実に成功している。

問題は、恐らくは江戸幕府と明治政府がかつて狙ったのであろうそれが、今さら権力側にとってだってたいして役に立たないというのに、厳然と存在し続けていること、そのことが大阪に住む人々を恐ろしく不自由にさえしていること--とここまでは、大阪の人々もまた、差別という制度の犠牲者とも言える。

明治政府や江戸幕府、関西を見捨てて関東に行ってしまった過去の権力側の亡霊の奴隷にいまなお留まり続けるって、酒でも入った日にはプライドもなにもないのかよと悪態すらつきたくなる。

それに日本全土のなかでももっとも豊かな歴史がある都市、歴史的にはある意味で日本の中心であったのはずなの場所なのに、大阪の人々がその歴史をほとんど知らないのも,いささか滑稽でもある。

なにしろ四天王寺が日本で最古の仏教寺院であることすら、かなり無視されているし、谷町筋を挟んで向かい側あたりになる茶臼山が大坂夏の陣の際の真田幸村の本陣であり、現在の天王寺駅あたりが最大の激戦の地だったこともほとんど知られていないし、現在の大坂城が夏の陣で完全破壊されたあと江戸幕府が盛り土して作った遺構であることも、地元の人々が知らない。

とくに若い世代は、もはや「知らない」し、大人たちは彼らに「教えない」、「教えたくない」のだ。自分たちが偉そうな顔をできなくなるような現実を若者に知られたら、立場がなくあんるという、たぶんただそれだけの理由で。

いや、もっとはっきり言えば、いまや「差別」という制度の奴隷になっているのは、差別の被害者たちよりも、なんとしても「差別する側」の優位だけはどこかで保ちたい一般市民たちの方なのだとすら思う。彼らにとっての「差別反対」とはしょせん、「あわれな弱者」への同情・憐憫によって担保される相対的な「強者」の立場に過ぎない。「差別される側」が「弱い」なんて誰が決めたわけでもないのに。



なぜ大阪の人々は、いや我々日本人の総体は、そこから自由になろうとしないのか? なぜ良心派ぶって、他国の差別であるとかの問題なら喜んでそういうテーマの映画だとかを上映するような映画関係者が、「そんなこととりあげたら大阪で上映できなくなるぞ」とか脅しまがいのことまで言って来るのだろうか?

彼らは「いやそれはね、君は知らないんだろうけど、解放同盟だとかは恐ろしいんだよ。抗議されたら大変だし複雑な問題だから、忠告してやってるんだよ」とくらい言って来るのだろう。

でもそれだって、実は自分たちの偽善を指摘されるのが怖いから逃げていることの、相当に卑劣な言い訳に過ぎないのではないかとも、こちらには思えてしまうのだ。

たとえば悪名高い「言葉狩り」なら、その闘争方針なら解放同盟は30年くらい前にやめているし、それが実は差別解消には直接結びつかない方針だったことだって認めている。「一定の啓蒙効果」、ただそれだけ。なのにいったいなにを、都市伝説のように恐れるのか?

公共事業などの土地収用をめぐる「同和対策金」とか称するものだって、よく考えれば眉唾なご都合主義である−−元から、彼らの持っていた土地はなにしろ「被差別部落」だから評価額が低いことになっている。あちら側にしてみれば差別することに決めておいてだから値段を下げろとは、買いたたきの手法としてもっとも悪質の部類に入るだろう、というだけの話だ。

すでにその時点で、彼らを「差別される側」、自分たちを「差別する側」とする思い込みが前提にあって、それを是認した上での話に過ぎない。その前提そのものこそが相手にとってこの上なく不当なものであることには一切の斟酌はない。


『ほんの少しだけでも愛を』怒りの(?)フィクション映画構造解体シーン別バージョン(恐らくこちらが実際に使用する決定版)

「そんなこととりあげたら大阪で上映できなくなるぞ」とか脅しまがいのことまで言いたかった人(というか直接ではなく、間接的に伝わるようにわざわざ仕向けた面倒くさい人々)は、「それは違う、我々だって差別はいけないと思っている」とか、反論があるのなら言って欲しい。

江戸幕府や明治政府が作った制度に今でもがんじがらめになっているのだとしても、だったらそれなりの理由があるはずだし、ならばそれを言って欲しい。なんで「自分たちは生まれながらに差別する側だ」とか思うのか、なぜ一人の人間としての自分自身の良心を信じることもできないのか、そこをこちらだって知りたい。

なんで西洋コンプレックスに囚われて自分たち自身の過去や伝統を迷信として否定したいがあまりに「被差別部落」を温存させるほどのことまでやりながら、西洋近代の思想的な要である自我の確立からも逃げ続けるのか? なぜ「自分は自分でしかない」「自分は自分なのだ」ということすら受け入れられないのか、そこが知りたい。

映画作家としては、それこそがいちばん知りたいこと、そこを描けてこその映画なのだから。

だが誰も反論はしないでいて、「だから東京の人には分からない」とか、「大阪を差別しているじゃないか」とすら言いかねない。というか、影でだけこそこそ言ってるんだろうけれど、そこがなんとも、滑稽なほどにおかしい。

それならまず、いっそのことちゃんと言えばいいじゃないか。

『ほんの少しだけでも愛を』ラストシーン

こちらが知らないことがあるのなら、知らせた方がいいに決まってるだろうし、そこでやっとまっとうな自己弁護もできる。あなたたちの自己正当化は、あなたたちにしか通用しない。それを暗黙の了解だと決めつけたところで、なにも言わないで相互理解など、そもそもあり得ないだろうに。

ただしエセ同和団体のことだとかなら聞き飽きてます。そういう半ば都市伝説めいたことは、結局は「差別を温存させている自分達」を自分達にしか通用しない論理で自己正当化しようという、これまたたぶんに悲惨で滑稽なこころみにしか見えないわけでもある、ちゃんと言ってくれない限りにおいては。

もっと突っ込んで言ってしまおう。それこそ「祟り」を極端に恐れて来た日本人の伝統文化に他ならない。

「同和」というような魔法の言葉をあたかも祟りのように恐れること自体が、江戸時代以降「えた・ひにん」とされた人々が担って来た日本的なアニミズムの精神構造を、彼らを「被差別部落」とすることで「過去の迷信」として封じ込めようとしつつも、潜在意識のレベルでは同じ精神構造を、今度はひどく歪んで病的な形で信じ続けていることの証左にしかならない。

「祟り」と「荒ぶる神」としての自然神を恐れ続けて来た農耕民・定住民族としての日本人と、その自然界=八百万の神々や、殺されたりした者たちの「怨念」としての「神」とのあいだの調和を担って来たのが、天皇であり彼らいわゆる「部落民」のご先祖たちであり、そうした自分たちの歴史そのものを忘却しようとして来たのが、近代日本なのだから。


結局は、自分たちの鏡を恐れているだけなのだ、我々日本人の差別とは。「差別する側」としてのマジョリティであり「弱者」に憐れみをかける「強者」の自己満足に耽溺しながら、その差別的な意識構造を指摘されることを恐れるあまりに、差別の問題にふれることをタブーとする病理は、「同じ人間だろ?」の一言で済むはずの問題なのに、なぜそこにも気付けないのか? ほとんど滑稽にしか思えない。そしてその己の滑稽さから逃げ続ける不条理な行動パターンの滑稽さ。まさに「ドツボにはまる」。

もっとも、そうした歪んだプライドの滑稽さの影では、確実に人間の尊厳を踏みにじられている人たちもいることを思えば、笑いごとでは済まない。

だから無性に腹が立つ。

5 件のコメント:

  1. 匿名5/14/2010

    はじめして。はじめてブログにおじゃまします。
    え~と…もしかしてあの藤原君でしょうか?
    プロフィールを見てもしかしてと思ったもので。
    私は中学・高校で一緒だった渋谷と申します。
    覚えていらっしゃったら嬉しいです。

    返信削除
  2. 渋谷 昌利5/14/2010

    はじめまして。
    こちらのブログにははじめてお邪魔します。
    もしかしてあの藤原君ですか?
    プロフィールを見てもしや?と思ったんですが…
    そうするとはじめましてじゃなくなりますが…
    中高一緒だった渋谷です。
    もし覚えていらっしゃったら嬉しいです。

    卒業してからもうだいぶ経ちますね。
    機会があればお会いしていろいろお話したいです。

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  3. これは懐かしい。あの渋谷君ですか?
    卒業してからだいぶ、ってもう20年以上だよ(笑)。

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  4. 渋谷 昌利5/16/2010

    覚えてくれてて嬉しいです。
    映画監督やってるんですねぇ…う~んスゴイ。
    僕は…やっぱり鉄道会社でした。
    今は首都圏の大手私鉄、関東一態度の悪い◎武鉄道で勤務してます。
    毎日、クレームやらなんやらで大変。
    昔に比べて自己中が増えてきました。マナーも悪いし。
    そういうのを見ると、この国の将来が不安ですよね。

    連絡したいんですけどどうやったらいいですかねぇ…
    とりあえず携帯のアドレスとか教えたいんですけど…

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  5. ここのコメント欄はオーナーが承認しないと公開されないので、ここにメルアド書き込んでもらっても僕が公開しなければ問題ないと思いますよ。

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