最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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10/28/2014

塩崎厚生労働大臣の「謝罪」(泉南アスベスト訴訟続報)

(このエントリーは前々項 アスベスト訴訟の最高裁判決は「勝訴」なのか? の続きになります)

泉南アスベスト訴訟の原告、つまり泉南のアスベスト被害の代表の皆さんが、昨夕やっと塩崎厚労大臣に面会した。最高裁の判決が出てから最後の段階のひと月弱だけ、原一男監督の大作ドキュメンタリーの応援スタッフで参加しているが、原告の「関西のおばちゃん」たちが本当に普通の、気さくな皆さんで、すっかりかわいがって頂いていて本当に感謝している。

とにかく国にきちんと謝って欲しいという気持ちは本当によく分かるし、賠償金が目当てだろうとか陰口だってさんざん叩かれながら、8年も頑張って来た皆さんにとって、大臣が謝罪したことはとても大きかったに違いない。

「まずは謝って欲しい。お金の問題じゃない」

それを奇麗ごとなどと冷笑すべきでない。たとえば石綿肺が悪化し、50歳で看護婦のお仕事を退職するしかなかった岡田さんの、もっと働きたかった人生は、どんなにお金を詰んだって取り返せないのだから。


しかし今は一級障碍者扱いで月500円とはいえ、酸素ボンベだけでも以前は三割負担でも月々の出費が3万。それ以上に、働けない身体にされてしまったことは言うまでもない。決してお金が目当てでなくても、お金のこともまた、無視できない。

国が「謝る」とはどういうことなのだろう?

原組・記録班も他のメディアと同じ扱いで、キャメラは原さんのメイン・キャメラ一台だけで、それも冒頭部分のみの撮影。国側はメディアに「謝った」という印象、イメージだけを報道させたい意図が透けて見え、それもお膳立てをしたのは自民公明与党のアスベスト対策プロジェクトチームの二人の議員。その二人が面談後の記者会見をまず行い、与党がアスベスト問題に強い関心を持っていることをアピールするのはいいが具体的な問題の話はなにもなかった。


最高裁判決には大きな問題がふたつある。

まず国の責任は昭和33年から46年までに限られ、それ以前はアスベストの危険性を十分に認識できる立場になかったとみなされ、その後は法律で排気装置の設置を義務づけたから国の責任は果たしたという判断になっている。だが僕たちの一般的な感覚では、石綿が危険だと認知されたのはその20年以上後の、1990年代半ば以降だ。法規制がほんとうには徹底されなかった、危険性が啓蒙されなかったことが、「法律があるんだから個々の事業者の責任」で済むのだろうか?

形だけで逃げて産業上の石綿の重要性を優先させたのが、この国の政府ではなかったのか?

もうひとつはアスベスト被害がいわば「労災」の枠組みでしか認識されていないこと。いわゆる近隣暴露、つまり「労災」ではなく「公害」としてアスベストの被害を受けた人たちの訴えは退けられている。

国側は大臣の面会を発表した時点でも、「裁判で勝った原告には謝る」というニュアンスを通し続けていたので、最高裁でも門前払いの敗訴になった原告は不安もあるし怒ってもいた。それが全員に大臣が(予想に反し)頭を下げたことは、それは嬉しかったろう。だがそれが国側の狙いだったような気もする。わざと謝らないかも知れないと思わせておいておけば、謝ったという事実だけで、裁判で門前払いにされて来て政治救済の対象であるべき、そしてずっと怒って来た人だって、つい喜んでしまう。

夫がアスベスト被害の石綿肺と肺がんで亡くなった佐藤さんは、昭和46年以降とみなされ敗訴になっている。その夫を撮ったDVDを二枚、大臣に渡すため持参していた。塩崎大臣はちゃんと受け取ったという、それだけで佐藤さんは一応は喜んでいたが、大臣がちゃんと見るかどうかには一瞬だけ不安をかいま見せた(その瞬間が撮れてますように!)。佐藤さんの夫のような被害者の救済について、大臣は

「前向きに善処したい」

と言ったそうだ。

佐藤美代子さん
農家で隣がアスベスト工場だった南さんは、環境被害、近隣暴露について大臣に訴えることは出来、大臣はそうした問題があることまではきちんと認識したらしい。これも

「前向きに善処したい」

とは言った。

農家だったが隣の工場からのアスベスト被害で亡くなった父の遺影を持つ南さん
亡くなったご両親の訴えは認められた岡田さんは、しかし託児施設がなく石綿工場内で子守りをされ、それで乳幼児の頃からアスベストを吸ってしまったご自分の訴えは認められていない。石綿肺で呼吸が難しくなり、50歳で働けない身体になり、月三万の酸素ボンベ。一本12時間もつと言うが、昨日は減りが多く、泉南の家を出てから帰るまでほぼ12時間でも、まずもたなさそうだった。

その岡田さんは、記者会見ではっきり、自分は「敗訴した」と明言した。

普段は朗らかな病気にめげず岡田さん
これはまったくおかしな話だ。子どもの頃の岡田さんは、訴えが認められた労働者とまったく同じ環境で被害に遭っている。しかも粉塵は低い位置ほど濃くなるわけで、働いている大人以上に吸ってしまっている可能性が高い。

しかし「敗訴」だ。

会見のあいだじゅう、南さんの固い表情と岡田さんの沈んだ顔が印象に残った。

最高裁判決後の記者会意見での岡田さん、南さん、川崎さん

「前向きに善処したい」

意地悪な言い方をしてしまえば、霞が関話法の官僚用語で、「出来るだけ先送りにしてなにもしない」の意味でもある。

それでも、大臣には会う気がないとしか見えず、原告に応対した厚労省の官僚が「スケジュールが多忙で、報告がいつになるか」とすら繰り返し、原告が傍聴していた国会答弁ではその塩崎大臣も菅官房長官も「重く受け止める」ばかりをロボットのように繰り返した2週間前の上京時に較べれば、えらい違いではある。

だから原告の皆さんが喜ぶのも分かるが、そうなることを狙った演出だったような気がしてならないのは、僕の見方がうがち過ぎているのだろうか?

いずれにせよ、大臣は

「前向きに善処したい」

とだけは確かに言った。

大阪高裁に差し戻しになった第一陣の訴訟については、和解調停に入り判決が確定した第二陣と同じ扱いにする、という「方向」は語ったが、即時であるとか期日を決めて明言したわけではない。
遺族ではなく数少ない生存原告の石川さん
昨日はまず、新幹線で到着する原告の皆さんを東京駅まで迎えに行った。霞が関に移動しながら聞けた話では、弁護団にはなるべく穏便に、あまり激しい言葉は使わないように言われたということであり、最初は代表2名だけ発言し、あとの人はなにも言えない段取りだったのを、佐藤さんが怒って変えさせた、という話をJRから地下鉄に移動するあいだ歩きながら伺うことができた(手持ちの大移動長廻し、うまく撮れてるかな…)。

こうして全員が発言できるようになったとはいえ、1人たった1分である。

厚労省に到着して、最初は自分になにも言うな、言ってはならない、と言っていた若い弁護士さんに会った佐藤さんは、自分から真っ先に彼女に声をかけ、しきりに労り、謝っていた。

そういうところが、本当にとてもやさしい、いい人だ。涙もろいぶん、他人の感情にもとても細やかに配慮する。

僕にも「藤原くん、藤原くん」としきりに声をかけてくれ、帰りの厚労省のエレベーターのなかでは「藤原くん、やったよ!励ましてくれてありがとう」と元気に語りかけて下さった。

だがこの人たちの善良さ、やさしさが、結果としてこの人たちが損になるように利用されてしまっている気がどうしてもしてしまう。

大臣が

「前向きに善処したい」

としか言わなかったことを佐藤さんの口から聞いたのも、この時だ。

「本当に大丈夫なんですかね」と言うと、佐藤さん南さんは一瞬だけ「我が意を得たり」と不安を隠せないことの混じり合った表情をされた。

「大臣は人の痛みが分かる人だった」と皆さんが信じたい気持ちは痛いほどわかるが、一生懸命そう信じないとやっていられない、という思いで、だからこそ自分を押し殺している気配もそこはかとなく感じ取れた。

その「痛みが分かる」と発言し、本当に感動していたように見えた松島さんが、東京駅で原さんのインタビューに応えようとしなかったのはなぜなのだろう?「会見で言った通りです、もういいです」としかおっしゃらなかったのは、実は分かっているのではないか、とも思えた。

だとしたら、それでも語らないその複雑さを、どうドキュメンタリーで映画に出来るのだろう?

ご両親を亡くされた、まだお若い武村さんだけは、厚労省の前でも、新幹線を待つホームでも、「こんなのはふざけている。大臣に会うべきでなかった。それより石綿対策室でもなんでも、厚労省の役人を泉南に呼びつけて実態を見せるべきだった」と怒っておいでだった。

遺族原告の武村さん
東京駅のJRと地下鉄、そして厚労省が主な撮影現場になった今日だが、「規則ですから」ということですぐ警備員が来て撮影を止める。帰りの見送りで新幹線を待つホームでも、なかなか撮影は困難だった。そんな我々に原告の皆さんは最後まで気を遣って下さった。どうも気がせいてしまって目立ってしまい、それで警備員にマークされてしまったのかも知れず(なにしろキャメラに接続したマイクを僕が持っていて、それで二人が走り回っているわけで)、もっと冷静に、おとなしく、目立たぬように動けばよかったと反省することしきりでもある。

いやドキュメンタリーはやはり難しい。こういう追っかけドキュメンタリーは僕はほとんど経験がない(いやまあ東京駅内や周辺でゲリラ撮影とかは以前やってますけど、その時はある程度は警備員対処も含めて仕込んでいたので)ので始末が悪いのだけど、それにしてもどんどん難しくなっている気もする。 
駅にせよ役所にせよ、警備員はただ仕事だからやっているだけだし、理由は「お客様のプライバシーの侵害」などそれなりにもっともにも聴こえる…のだけれど、結果として僕たちは真実や現実からどんどん遠ざけられている気がする。

原告の皆さんは、新幹線に乗ったあとも発車まで、ずっとホームにいる我々ににこやかに手を振って下さっていた。そして大阪、泉南に帰って行かれた。

僕はほんの三度の上京につき合っただけだが、ほんとうにやさしくして頂いて、心から感謝する次第だ。いずれ泉南にも遊びに行きたい(ただ皆さんに会いに、遊びに)。そして失われた人生は決して取り戻せないとしても、これからのこの皆さんの生活が、少しは平穏で、もう怒らないで済むものであって欲しいと願う。

しかしそれが皆さんが我慢することで得られる平穏ならば、あまりにも不公平だと言わねばならない。

この国はいつから、こんなに不公平で薄情な国になってしまったのだろう?「裁判に勝ってよかったね」「大臣にも謝ってもらえたし」、それだけでいいのだろうか?

前回の上京時に、弁護団の村松先生が僕のインタビューで漏らしたことがある(なかなか口が固く慎重な村松先生に、原監督が変化球を決断して僕に訊かせたわけだ)。

結局、この国では公害だとか労災は、被害者が頑張らなければ決して救済されないのだ。それも憐れみを乞い、可哀想だと言うことを世間に思わせることでしか、救済らしきものは始まらない。

いや村松先生は、ここまでははっきりは言わなっかったと思う、上記はやりとりの中での僕の相づちも含めた言い換えだが、要するにそう言うことである。

そんな社会を相手にしているときに、弁護団がなるべく原告に慎ましいというか謙虚というか、おとなしい、被害者然とした態度に留まるよう促すのも、やむを得ない戦略ではあると思う。

だがそれでは映画にならない、という点では原さんも僕も認識はほぼ同じだ。映画に出る人は、たとえ被害者でも、毅然としていて欲しい、そうでなければ映画的ではない。

いやこれでは言葉が足らないだろう。「映画的であって欲しい」とはどういうことかと言えば、映画とはやはり人間が実存していること、その世界があることの尊厳をこそ撮るものだからだ。

でも福島の被災者が毅然と、あくまで堂々としている『無人地帯』は日本では受け入れられなかったし、一昨日の日曜に、震災の三周忌以来半年ぶりに会った富岡町の西山さんが主人公の一人になるその続編も…昨晩は二人で、ほんとブラックユーモアだか不条理喜劇かとしか思えない浜通りの現実を、しかもそこ以外の日本では誰も関心を持たないことも含め、毒舌で盛り上がっていました。
 『…そして、春』富岡町に一時帰宅中の西山さんとお父上

ふと思うのは、原さんが泉南で撮りたい映画も、僕が福島浜通りで撮って来ている人たちも、この方が絶対に映画的だと僕らは思うのだけれど、弁護士の村松先生がおっしゃったようなこの日本の社会では、絶対に「ウケない」のかも知れない。

人が人としての尊厳を守り抜いて生きようとするという物語を、今のこの国は受け入れないのかもしれないとしたら、日本の映画って終わってるんじゃないか?

1/18/2013

「記憶の風化」をめぐって 〜神戸の震災から18年

昨日は神戸の震災の18周年だった。マスコミ報道でもインターネットでも、判で押したように「記憶の風化」が語られるが、それは無理もない話だろう。

というよりも、神戸市の人口の40%がすでに震災を知らない世代であることを指して「記憶の風化」と批判めいていうこと自体、自己撞着した「為にする議論」の典型に思えてならない。

最初から体験すらしてないことを「忘れないように」と言われても、困るわけで。

それに震災後に生まれた世代や、そのあとに神戸にやって来た人が、語り伝えられることによって記憶を引き継いでいないと、誰が言えるのだろう?それが実体験者の記憶の生々しさや、震災の実体験のその通りではないからと言って、震災があったことを認識していないわけではないし、その過去から学んでいないわけでもない。

18年経てば、過去は歴史となる。

歴史として自分たちのなかで整理をつけて、ある程度客観視できるようにしなければ、過去の悲惨の生々しさに囚われているだけでは社会は存続できないし、その社会のなかの人間も生きて行けない。

それに「震災の記憶の風化」とか、その記憶を引き継ぐべき、と言うこと自体が、すでに別の記憶を抹消し忘却している言動に他ならない。

「神戸」がもはや震災でしか語られない都市になってしまったことそれ自体が、神戸の歴史の記憶の風化であり、忘却ではないだろうか。

それは震災の悲劇の矮小化でもある。

東北の被災地でも、福島県でも、津波の恐ろしさや原発事故の大変さを語ったり、被災地の映像や写真を撮るときに、その光景や逸話のスペクタクル性にばかり気をとられる我々は「そこで本当はなにが失われたのか」を忘れがちだ。

誰とは言わないが、東北の震災の直後にドキュメンタリー映画を撮りに行った面々が、移動の車中で「死体を撮りたい」「テレビでは死体はタブーだから、死体を撮ることに意味があるんだ」とばかり議論していたという。この面々は結局、被災地で発見された遺体に傍若無人にキャメラを向けて、遺族に罵倒されて追い返され、それを作った映画に組み込んだら、その「正直さ」を褒め讃える批評家や研究者、「後ろめたさ」を繰り返す作家たちに共感する観客がずいぶん出た。

その時に、その遺体で発見された人には人生があり、歴史があったこと、我々がそこに接し、それを知る機会が失われていることは、まったく意識されていない。ただ死体というモノ、裏返しの祝祭としての破壊に対するフェティシズムを、「後ろめたさ」を語る「正直さ」という倒錯した偽善で塗り固めているだけだ。

ビートたけしの昔のギャグ、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を、歪んだクソ真面目さで、倒錯した自己愛のために繰り返しているだけとも言える。

「赤信号」でもみんなで渡っているんだから、私たちは悪くないじゃないか、とでも言わんばかりだ。

生々しい遺体や、破壊の光景が「忘れられている」からといって、それを指して「神戸の人たちの間で記憶が風化しているのだ」と断ずるのは、そうしたイメージだけを消費する側の傲慢であり、差別意識ではないかとすら思えて来る。

再建された生田神社



神戸の震災から18年経ったときの言説に違和感を覚えるのは、自分が神戸の住人ではないが、神戸を知っていた記憶はある、という微妙な関わりと距離があるからでもある。

1995117日の朝、NHKのテレビで生中継されたヘリコプター空撮や、NHK神戸放送局の社屋から撮影された映像がショッキングだったのは、一面家が倒れ真っ平らになった光景が黙示録的だったからよりも、そこになにがあったかを自分が知っていたからだ。

テレビで生田神社の銅拭きの屋根が地べたに落っこちているのを見た時に、それ以前の生田神社が自分自身の人生や歴史に関わっていた記憶がある者は、「あの生田さんが」とまず思う。

震災前は閑静な住宅街街と商店街だった中山手通りは、
震災で家が壊れたまま駐車場になっている土地も多い。

それは地震の猛威を見せる映像であると同時に,それ以上に「あの生田さんが」壊れてしまった、喪失の映像になる。東北の震災の映像にしたって、我々はこの「なにが失われたのか」をめぐる被災者と部外者の差を、忘れてはならないのだ。

それが3.11以降、震災をめぐって撮影され流布された映像のほとんどに欠けている視点でもあり、逆にいえば無名の地元の人々が、いわば“素人”が撮ったYoutubeなどの津波映像が今でも力強い理由でもあるのだろう。

一方で、今はまっさらに再建された生田神社しか、今も神戸市で生活する人たちの記憶にないとしても、それは責められることではない。人は生き続けなければならないからだ。

この中山手通りに建っているマンションの敷地が、震災では半壊だった
ものの修理にお金がかかりすぎるので売却せざるをえなかった父の実家。
元・天理教東神戸分教会。
神戸の震災から18年の同日に、訪中している鳩山由紀夫氏が南京大虐殺記念館を訪問したことが問題視され、現職大臣が「国賊だ」などと言っているらしい。

こっちの記憶の風化の方がはるかに怖い。

12/09/2012

イラン・イスラム共和国の首都、テヘラン訪問

私事で恐縮だが(といって、blogなんだから私事だろうに)、今年はずいぶん国際映画祭ドサ廻りをやって来ている。

先月はイランのテヘランに12日間、タイのバンコクに5日間行っていた。

テヘランには、イラン国際ドキュメンタリー映画祭、通称“シネマ・ヴェリテ”で、『無人地帯』を上映するだけでなく、国際コンペティションの審査員も兼ねて招待されたのだが、考えてみればイランの核兵器開発はたぶんに眉唾とはいえ、民生用の核開発、原子力利用なら国策で進めている国である。


映画祭の主催は政府の映画機関のひとつであるDEFC(ドキュメンタリー実験映画センター)。どっちにしろ政府公認の「オフィシャル」なものしか、原則あり得ない体制である(まあ「原則」ということは、この国の場合どこにも増して、例外がいくらでもあるわけなのだが)。僕を審査員として招待するのは、福島原発事故を扱った、反原発的な文脈にある映画を招待上映するための大義名分、というか官僚的なエクスキューズでもあったのだろう。

こちらはこの新作が映画祭をいろいろ廻るのを利用して、いろんな国を見てやろうと言う心づもりでもある。ことテヘランに行けるなんてチャンスは滅多にない上に、イランといえば1950年代に黒澤、溝口、小津らの日本映画が世界の映画祭に紹介されて衝撃を与えたように、1990年代の国際映画シーンに突然登場して、その独自の文化に根ざした映画が席巻した国でもある。自分はそれをリアルタイムに体験した世代、アッバス・キアロスタミ、モフセン・マフマルバフ、アボルファズル・ジャリリといった、若い頃に憧れた巨匠や鬼才映画作家たちの国に行けるのだから、とてもありがたいわけだが、とはいえ話はそう簡単ではなかった。

アフマディネジャド政権は、ジャファール・パナヒを逮捕・自宅軟禁状態にしているのを始め、マフマルバフですら国内で活動できなくなってロンドンに事実上亡命。イランでの立場を狡猾に担保して来たアッバス・キアロスタミでさえ「今のイラン国内では映画は撮れない」と言って近作2本はイタリア(『トスカーナの贋作』)と日本(傑作『ライク・サムワン・イン・ラブ』)で撮影している。イラン領内に居続けることが困難になってイラクとトルコのクルディスタン地域に移ったバフマン・ゴバディは、最近兄が逮捕されたそうだ。

ジャファール・パナヒ、『これは映画ではない』予告編

自国を代表するような映画人たちを弾圧しているイランの現政権に抗議するため、政府機関の主催するこの映画祭について、『無人地帯』の国際配給会社ドック&フィルムでは、パナヒらへの連帯の意志を込めてボイコットすることを基本方針にしていた。

とはいえそこは、国際配給権を持っているとはいえ、作家に理解のある会社だ。監督がそれでも行きたいといえば、監督の意志を尊重してくれた。

また僕の方でも自分のルートで、内外の旧知のイラン映画人たちにアドバイスを求めたところ「なぜ行かない?」「なぜ来ないんだ?現実を見るべきだろう?DEFCは良心的な機関だから心配するな」と揃って言われた。

DFEC(ドキュメンタリー実験映画センターの本部)

また国際世論の批判を集めるイラン政府といったって、敵視の急先鋒はイラク戦争が行き詰まったジョージ・ブッシュJr政権が、イランには核兵器開発疑惑があると騒ぎ出したアメリカ、その疑惑を理由に対イラン戦争もちらつかせることで、どうにもつれないオバマ政権の支援を取り付けたい瀬戸際外交の真っ最中のイスラエルのネタニヤフ政権だったりする。そっちの流れの味方というのは、これはアフマディネジャド政権よりももっとやりたくない。

というわけで、イラン入りである。

これがビザをとるだけでもひと騒動で、政府機関の招待でもあるんだからとたかをくくっていたら、ホメイニ空港で取得すればいい、いややはり日本の大使館で、とたらい回しのすったもんだで、結局は出発三時間前に駆け込みで発行…となると途端にビザが出るのだからやはり政府機関の招待だなぁ…と、よくも悪くもお役所仕事である。

そしてこの時から、イランという国の今が、実はどんな社会なのか、なんとなく分かり始めて来た。

世間では、1979年のイスラム革命でパーレビ王朝を倒した後のイランは、イスラム主義の宗教国家とされている。大統領はいるものの、国家元首であり最高指導者は大アヤトラ、議会や大統領は最高意思決定機関ではない。21世紀に入りイスラム主義が「イスラム原理主義」と呼ばれテロリストと同一視されるような欧米主導の国際世論のなか、イランと言えば国民揃ってヒズボラみたいに思われているか、先述のように自国の誇る国際的な映画作家ですら弾圧する強権全体主義国家に見える。

だからこそ、「たぶん実態は必ずしもそんなものではあるまい」という嗅覚が働かなければ、こっちだって映画を作るという稼業を、とっくの昔に返上してるだろう。

空港というのは普通、入るときにセキュリティ・チェックがあるものだが、ホメイニ空港では国際線の出口で手荷物のX線検査があるから珍しい。

酒類の持ち込みを防ぐためだ。

イスラム法が法律の基本になっている国なので酒の持ち込み自体が禁止…ところが、たとえばイラン古典文学を代表する詩人ハフェーズの作には、ワインの酔いと官能への言及がそこらじゅうにあるわけで、古典なんだから発禁になるわけもなく、ペルシャ細密画を挿絵にした豪華本がごく普通に、それもけっこう安価に入手できるし、英語、フランス語、ドイツ語などへの対訳本もある。

だいたい、イランでは本はさほど高くない。むしろ経済水準に関わらず教養は身につけられるようにと、安めにすることが政策なのだそうだ。

テヘランが他の現代都市と大きく異なっているのは、教養レベルの高さだ。

今時町中の本屋に行って、その入り口近辺の平積みやショーウィンドウに、ペルシャ文学だけでなく、シェイクスピアの全集だのドストエフスキーだの、ベケットまで並んでいる国も珍しいだろう。

大統領が「同性愛者はいない」と言ったはずの国の洋書売り場…

アメリカ映画は輸入できないしされてないはずが、『ヒッチコック/トリュフォー』のペルシャ語版まで、日本のように書店の隅っこの映画書コーナーではなくて、目立つところにディスプレイされていた。

映画関係者と話せば、一緒に審査員を務めた映画大学の教授のアフマド・ジャローミ先生の、黒澤明の映画への深い造詣だとか、いくら僕が黒澤ファンではないとは言え、日本人でもかなわないくらいだ。ヨーロッパ映画でもアメリカ映画でも、映画史の教養に圧倒された。しかもとても理知的な紳士で、映画についても、政治についても、世界ついても、問題意識がとてもシャープだ。


今さら別に驚くようなことでもないが、テヘランは高層ビルも高速道路もショッピングモールもある普通の現代都市だ。中心街の建物には60年代70年代の様式のコンクリ打ちっぱなしが多く、いささか殺風景な印象はある。

考えてみたら当然の話だが、革命で政治体制が変わったからといって、町並みまでまるごと変わるわけもない。

とはいえ宿泊先の、いかにも60年代テイストなエンゲラーブ(ペルシャ語で革命、ないし反乱)という名のホテルが革命前の建物なのはすぐ分かったものの、元の名前がロイヤル・ガーデン・ホテルであったことがレストランの食器のロゴで分かった時には、驚いてさすがに笑ったけれど。


エンゲラーブはテヘランで外国人が泊まる数少ないホテルでもあり、宴会場では毎晩のように結婚式がある。参列する女性はそろって全身黒いチャドル姿だ。「やっぱり宗教の国なのかな」と思えば、よくみればチャドルの裾から花嫁なら白いぜいたくなレース生地、他の女性たちも色とりどりなスカートがはみ出ていたりする。宴会場のドアを閉めてしまえば、そこはプライベート空間…というのがテヘラン流。

街のショーウィンドウでは、明らかに戒律違反のはずのノースリーブの豪華なドレスも並んでいる。女性たちがこれを着用するのはプライベート・パーティー。パブリックな空間でなければ、ある意味なにをやってもいいのだ。販売が禁止されているアルコールですら、闇ルートでかなり流通しているらしい。

スンニ派のイスラム教徒が多い国では、トルコのように政治は世俗制でも、モスクは重要な役割を持っていた。モスクの前にはお年寄りが集まって世間話に興じていたり、戸は開かれていて、中ではしばしば祈る人も見かけ、門前では物売りが市場みたいに集まっていたり、街や村の生活の一部になっていることが多い。

ところがシーア派イスラム主義を政治社会体制として掲げるイラン・イスラム共和国の首都テヘランのモスクには、あまり人影がないし周囲に普通に人が集まっているわけでもない。イマームの姿をした男性もたまに見かけるものの、普通の日常において実践されている宗教といえば、女性は髪を隠し手首足首まで肌の露出が許されないという戒律だけかも知れない。

だいたいこれだって「宗教」の形式というより、女性蔑視のマチズモの抑圧だろう。

実のところ、これほど宗教性が感じられない社会というのも、欧米でもよほどの大都市でないとあまり見かけない。お祈りの時間にはコーランの朗読が流れるのも録音された音がスピーカーでだし、街の騒音の一部でしかないくらいで誰も気に留めていない。


先進国でもよほどの大都会以外では、教会はそこらじゅうにあるし信仰はまだまだ生活に根付いている。日本人は自分達を無信仰無宗教だと思っているが、その日本でだってよく見れば随所にお寺や神社だけでなく、小さな祠やお堂や石仏などもそこらじゅうにあるし、お供えなどがちゃんと置かれている。

そういう感覚が、テヘランには一切ない。

金曜日にも誰もモスクに行かないみたいで、むしろ休日に郊外に遊びに行く車で道路が渋滞する。

いったいこの国のどこが、「危険なイスラム原理主義の国」なんだろうか?

渋滞と言えば、大都市、とくに昨今の発展途上国の交通事情はたいがい、自動車の増加に道路整備が追いつかずに大変な混雑だが、テヘランの渋滞はとりわけすさまじい。しかも運転はかなり無茶で荒っぽい。


どうも自動車に乗ると乱暴な人種に豹変するらしいイラン人は、しかし車の外ではむしろもの静かで節度ある民族文化で、横断歩道を渡るときの滅茶苦茶さ以外では、街を歩く姿も整然とした感じだ。いささか殺風景で、バラバラの建築様式が混在して破綻して見える町並みも、細部を見れば繊細な気配りが行き届いていて、第三世界の大都市だとたいていはおなじみの、雑然としたごちゃぎちゃな印象は意外とない。

また建物の外側が殺風景だったり醜悪にごてごてしていたりしても、対照的に屋内にはしばしば、洗練されて心地よい、シャレた空間が作られていたりする。


街に落書きが少ないのは政治体制の抑圧もあるのだろうが、代わりに壁画が多い。壁に騙し絵が描かれていたりもして、別にメッセージ性があるものばかりというわけではない。


無論、一方でこんな反米壁画が一面に描かれていたりもするのだが…。


…といって、本気でイラン人が反米で、米国への憎しみに凝り固まっているわけでは、もちろんない。「反米」のポーズはむしろ、国内向けのものだ。その一方で、イラン人はアメリカ政府が自分達を敵視していることはむろん知っているし、現にアメリカを中心とする経済制裁がイラン経済を破壊しようとしていることは、決して快く思っているわけもないのも当然だ。

パーレビ王朝時代のアメリカ大使館は今でも保存されて抗議の対象となるいわば一種の逆偶像で、このような落書きもどきの絵が壁に描かれている。


また見るからにロシア構成主義プロパガンダの影響が強い壁画も見かけた--とはいえ、これらはいずれも、イランの人々の気持ちを反映したものではなく、あくまでただの形式に過ぎないし、そういう意味で本気にすべきでもない。


イスラム文化で抽象的図像が発達したのは、偶像崇拝が厳禁されているからだという話は、スンニ派にしか当てはまらないのだろうか?イランの装飾文字やタイルの抽象パターンもまた美しいものだが、どこが偶像崇拝禁止なんだろうかと呆れるくらいに、アヤトラの肖像や殉教者の絵が、町中の壁を彩っている。

法律で、公的な空間には大アヤトラの肖像を飾ることが義務づけられている。店舗でも、ホテルのロビーでも、事務所でも、映画館や劇場でも、現代美術館ですら。


街路でも屋内でもそこらじゅうにアヤトラがいるのは外国人には最初、とても気になるところだが、数日もいれば「まあ、そんなものか」と慣れてしまう。あまりにそこらじゅうにアヤトラがいると、アヤトラの価値が安売り状態、イメージのデフレーションとか言いたくなってくる。


イランが宗教独裁国家だというのは、国際社会のまったくの誤解だと思う。

確かにイスラム主義を標榜しているが、「イスラム主義」を「社会主義」に置き換えれば、国旗を偏重してそこらじゅうにずらりと並べ、そこらじゅうに指導者の絵を描くのは、文革時代の中国共産党そっくりだ。映画祭の閉会式のようなオフィシャルなセレモニーの出し物も、旗を振る群舞だとか、まさに中国共産党風だった。

国旗の背後には、「殉教者」を讃える壁画

社会に根付いた支配体制も、秘密警察の役割が大きいアラブ独裁国家よりは、官僚的な組織の杓子定規で人々をがんじがらめにする官僚国家のそれだ。

招待先が一応国家機関だったり、僕にイランで映画を撮らせようと思った友人がいたりで、いろいろとつき合って来て、イランの社会機関や組織がどう動くのか比較的分かり易かったのは、自分が普段から硬直した官僚国家・ニッポンに慣れているからでもある。責任逃れのいいわけが延々と続くことにどう対処したらいいんだろう、というような官僚的なパワーゲームのやり方も、制度で決まってることとのつき合い方やそれをうまく避けるやり方も、日本人にはけっこうなじみ深い。

…というか、基本、日本とほとんど変わらない。

テヘランの国立映画博物館

映画祭ゲストがテヘランの映画博物館に行った時のことだ。90年代から世界の映画祭を席巻したイラン映画を讃える一室があり、キアロスタミ、ジャリリ、マフマルバフをはじめ、巨匠達ごとに映画祭のトロフィーやポスター、写真などの記念品が展示ケースに並べられていた。なかにはアフマディネジャド政権が自宅軟禁状態にしているジャファール・パナヒのコーナーもある。

マフマルバフ一家のコーナー

外国人ゲストのなかには、「彼は逮捕されているじゃないの!」と抗議の声をここぞとばかりに上げる者もいた。とたんに博物館ガイドの通訳をしていた、案内役の映画祭の人物が「私は公務員だからその件はコメント出来ない」と、いかにもな官僚的対応。

まあ、こんなのはどっちもどっち、なのである。

いかにもな官僚答弁も「もっとうまく言い訳できないものかね」と呆れるとはいえ、ここで「言論と表現の自由」を叫んで、パナヒの展示を続ける博物館を「偽善だ」となじろうとする外国人の方も、よく分かってないで見当違いな抗議をしているのだし、そこには “中近東のイスラムの国” をまとめて、薄っぺらに、ここは非民主的な野蛮国なんだと思いたい植民地主義まで透けて見える。

むしろ、イラン人から見れば、パナヒが逮捕されているだけでなく、マフマルバフだって半ば国外追放か亡命に近く、彼らに身近だった俳優が映画出演を出来なくなっているような現状があっても、映画博物館は「わが国家の映画史の栄光を讃える」名目で、彼らのコーナーをちゃんと、あえて残しているのである。

ある種の“勇気”が必要なことでもある一方で、縦割り行政だから可能なことでもある。映画人を弾圧する司法当局と、博物館を運営する文化当局は、まったくの別組織で相互間の意思統一などがないし、大きな問題がなければお互いの活動に口を挟むこともない-官僚社会の賢い生き延び方だ。

DEFCの本部でも、当然アヤトラ像の掲示は義務づけ…

イラン社会の権力と支配のあり方は中国共産党に似ているし、強固な官僚機構ががんじがらめにしているお役人社会という点では日本人にとってむしろなじみ深い。ただ中国はどうか知らないが、日本とはまったく違う点もひとつあった。

イランで会って話をしたほとんどの人たちが、自分達の社会や政治体制が問題だらけであることをちゃんと意識しているし、その場その場や言葉遣いさえわきまえれば、こちらの批判的な意見にもオープンに応じるし、自分たちでも厳しい意見を隠さないことだ。

これは日本とむしろ真逆だろう。日本人の多くは、自分達の社会に本質的な問題があることすらあまり意識したがらないし、その問題を明確化して意識し分析する気はほとんどないし、批判的な見解を持つことすら自身に禁じ、かつその自らに課した禁忌にほとんど無自覚だ。


だから逆に不思議でもある。自分達の問題に意識的・自覚的であるだけでなく、イランの人々は基本的に教養水準が高く、勉強熱心でもある。今時の世界では珍しく、世界の文学の名作や古典がちゃんと読まれ続けているであろうことは、先述の通りだ。

これだけ知的で教育水準も決して低くない国、国民の教養レベルを高めるために政策的に書籍の値段も低めに抑えられてい来たような国で、なぜ今のような、誰もが不満を感じ、問題も理解している政権が、維持され得るのだろうか?

ふと思いついたことがあって、訊ねてみた。

「今のイランが宗教国家ではなく官僚主義国家であることはよく分かったんだけど、革命前も実はそうだったんじゃないか?」

「そう言われてみれば、その通りだ」

「指導者は変わっても、実際に支配しているのは同じ人間たちだったりしない?」

「革命があったんだからさすがに同じ人間たちとは言えないけれど、同じような人間たちなのは確かだね」

やっぱりそうだったのか…。このことなぞは、第二次大戦の敗戦で「民主主義国家に生まれ変わった」はずの、実は戦前と変わらない官僚国家・日本の戦後の実態と、とてもよく似ているわけだ。

もうひとつ、さるイラン人映画監督の自宅で、酒の上(といって、瓶を見れば「エタノール」というラベル…薬品扱いなのでこれは違法ではない!)で言われたことが印象に残っている。

「この街では、あらゆることが不可能だけど、あらゆることが可能なんだよ」

これは日本とは逆だなぁ…。

1/01/2012

あけまして・おめでとう・ございます

(毎年恒例<ちなみに昨年はこちら>、年賀メールを掲載)
旧年中にお世話になりました皆様も、あいにくお会いする機会がなかった方々も、今年もよろしくお願いします。

「アラブの春」から始まった2011年でしたが、3月11日の大地震を経た今となってはずいぶん昔のことのようにすら思えます。あまりに多くのものが失われ、数えきれない悲しみと、今もまったく解消されない困難や問題があり、今年もどうなることか不安から逃れられないままの新年ですが、それでもまた、学ぶべきこと、得られたことも決して少なくなかった一年でもありました。

自分は10年前まで山形国際ドキュメンタリー映画祭で仕事をしていたこと以外には、東北地方にはまったくと言っていいほど縁がなかったのですが、津波の破壊力に息を呑むと同時に、巨大な災厄を前にも人間らしさや矜持を失うまいとする被災地の人々にまず深い敬意を抱く他なく、そうこうするうちに4月には、撮影の加藤孝信と共に新作のドキュメンタリーを撮影しに福島浜通りに向かい(福島第一原発の周囲へ行って来ました)、5月には避難期日直前の飯舘村(福島県・飯舘村)でも撮影することになりました。

その場所で我々を驚かせたのは、一ヶ月以上放置された地震と津波の被害の巨大さや、無人の町となってしまった光景以上に、ちょうど桜が満開の季節の自然の繊細さと豊かさであり、そこでお会いすることの出来た人々の、人としての豊かさ、魅力、まっとうさ、慎ましさのなかに秘めた悲しみと、決してその運命に負けず、かといってしゃにむにあがくのでもない、知性にあふれた強さでした(原子力発電所と共に生きるということ)。

「しょうがない」という言葉が、これほどの重みと強さをもって発せられることを、自分は学ぶことができたと思っています。

破壊の大きさを描くには、そこで本当に失われたものは何だったのかを見せていくしかないと同時に、だからこそ失われなかったものもまた見せなければ、映画にはならない。

日本で製作してはただ悲惨を悲惨として搾取するだけの作品しか出来ないと考え、この映画は日仏合作とし、編集は完全にフランスで、フランス人の編集者、フランス在住のアメリカ人の音楽を得て完成させることになりました。

そして浜通りと飯舘村で撮ることが出来た素材に内包された人間性の豊かさを、編集のイザベル・インゴルドドミニク・オーヴレイ、音楽のバール・フィリップスエミリー・レスブロス、ナレーションを引き受けてくれたアルシネ・カーンジャンらの信頼するスタッフ、そして編集段階の試写で見てくれた友人たちが、日本人以上の繊細な共感を持って見てくれたこともまた、とても嬉しい体験でした。

それはまた、福島県の人々と、彼らの風景から我々が得たものは、決して現代の日本固有の体験ではなく、普遍的な意味を持つものだからこそ、映画として世に問うべきなのだという考えを、確信に変えるものでもあったからです。また彼らの力で、少しでも自分の目標というか野心に近づくことが出来たのであれば、と思う次第です。

こうして完成した映画『無人地帯 No Man's Zone』は、11月の東京フィルメックス映画祭でのワールド・プレミア上映を無事済ますことができ、2月にはベルリン国際映画祭でインターナショナル・プレミアを予定しています。

今年中には、全国での劇場公開も考えております(ほぼ同時にフランスでも公開します)ので、その折にはご覧頂いて厳しいご意見などたまわれれば幸いです。

一方、我々が撮らせてもらった福島第一原発の周辺に住んで来た人々が一日も早く生活を取り戻されることを切に願いつつも、現実の大変さは、残念ながら今もほとんど改善していませんし、そのいちばん困っている人達がなぜか無視されてしまっている状況もそのまま続いているなか、春頃にはこの続編となる映画を撮り始めることも考えなくはありません。

先日いわき市で行った試写の上映後の質疑で、涙を流して喜んで下さった富岡町から避難された方に、つい「今年の花見は富岡町の夜の森だ。それを撮影する」と、つい言って来てしまいましたし。

いかに巨大な悲劇と破壊で、命や生活やあまりに多くのものが失われてしまったのが昨年であっても、そこからですら得られるもの、学べること、より人として成長できるものがあるのだと確信できる年になることを祈りつつ、新年の挨拶とさせて頂きます。

今年もよろしくお願い致します。

2012年 元旦

4/08/2011

3月11日から4週間

 黒沢清『トウキョウソナタ』より、ドビュッシー「月の光」

3月11日金曜日から、4週間が経った。その直前の木曜の夜にはマグニチュード7.1、最大震度は6強を記録する、普通ならそれだけでも充分に大地震と呼ばれるはずの余震で、東北地方は大停電だという。

先の見えない不安のなか、まず被災地の皆さんには心からお見舞い申し上げる他はない。

その皆さんを思うと同時に、4週間前の地震と津波で命を落とされた多くの方、まだ行方も定かではない人々の死をせめて悼もうとするとき、我々は映画を作っている人間ではあっても、それを伝え表現する言葉も映像もなく、今はただ音楽の力に頼るしかない。

というわけで、先日NHKで放映され、この震災を経てもまったく古びていなかった黒沢清『トウキョウソナタ』(2008)のラストの、喪失と服喪を超えた、再生のための音楽を、冒頭に掲げる。


3月11日とその後の数日間、唐突な非日常のなかで我々はこのままではいけないと思ったはずだ。非日常の、奇妙な、しかしそれはそれで健全なはずの連帯感が、これから何かが変わるのではないかという希望さえ、暗示していた。

だがそれは、幻想だったようだ。

途方もない悲劇に襲われながら驚くほどの強さと人間性を見せた三陸の、ほとんどが破壊された幾つもの町や集落の人々の雄々しさに、慰める側であるはずの我々が逆に勇気づけられたその姿は、しかしすぐにテレビの主役ではなくなり、政府に忠実に従ったテレビ局の、30Km離れた地点から原子力発電所を眺める超望遠の映像に画面が占有されるようになるのと前後して、この国はこれまでは隠し通して来た、見て見ぬ振りをしてきた矛盾と断絶を、露呈し始めて今日に至っている。

そのテレビ画面には、原発の周辺で生きて来た人々の姿は、哀れで途方に暮れる「避難者」のステレオタイプとしてしか映し出されない。「大変ですね」とは声をかけても、「申し訳ない」とは誰も思わない。彼らが震災の被害者でもあることすら無視される。


「がんばろう日本」と「放射能怖い」、この二極分化した狂騒のなかで(この2つはその多重の被災地において、完全に重なっているはずなのに)、幾つもの大事なことが見失われている。

もしかしたらそれらの大事なことを直視しないために、我々はこの2つを魔法の呪文として唱えているだけなのかも知れない。

   アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』(1979)

それにしても、原発事故の被害はなんとか最小限に食い止められているとはいえ、それでもこれだけの深刻な事態だというただその現実だけで、もう充分に「今後も原子力発電を続けていいのだろうか」との疑問が共有されているはずなのに、この期に及んでは事実・現実だけに基づいて主張するべきことを主張すればいいだけのはずなのに、一部の「反原発運動」が風評被害と地元軽視と、いわゆる被曝差別に平然と横滑りするステリックさは、いったいなんなのだろう?

この人たちはほんとうに原子力発電に反対したい、止めたいと思っているのだろうか?

それともこの契機を捉えて東京電力や政府を叩き、そこと癒着していると断ずる大手マスコミを叩く、人身御供を供える祭りに狂奔しているだけなのだろうか?

いや単に、不安と危機を前にして、「放射能」を「穢れ」とみなし差別し排除する、野卑な宗教儀式なのだろうか?

その文脈では、実際に被害に遇っている人々もまた「穢れ」とみなされ、おためごかしの憐れみの裏で既に差別されている

「“直ちに” 健康に影響はない」との言い方、しかし「念のため」農作物を出荷制限だけでなく摂取制限、それも元々基準値を超えていない地域も含めての県単位という、政府の矛盾した言い方が却って不安を覚えさせるものなのは確かだ。

そうは言っても現に、この程度の低い数値の放射線ならば、放射線による健康影響が被曝量とその期間の累積から推測される以上、短期ならば確かに影響はまず考えないでいい。

大気中への放射能の漏洩は、どうも先月15日以降ほぼ治まっていることが計測データから分かるのだが、誰も気にしないようだ。

被災地でもある原発の周辺地域、福島県にとってはこれはもの凄く大きなことのはずなのだが。

まだ福島の一部地域以外では、それこそそんな数値は出ていないというのに、専門医がそうTVで語れば途端に「安全デマ」「御用学者」と叩かれる。あくまで量と期間という前提で語っているはずなのに、「放射能は安全だ」と言ったことにされた挙げ句に、トンデモ呼ばわりである。

そして東京電力と政府がひたすら叩かれる。それで原発事故が終息されるのであればどんどん叩いて下さいと言いたいところだが、そんなはずもない。なのにどういう事故への対処をしているのかもよく理解しないままに、「隠蔽だ」と罵倒される。

「炉心溶融」とか「メルトダウン」が、その意味もよく理解されないままに、「スリーマイル島」という記号と結びつけられて連発される。一部が溶けている可能性が高いからって圧力容器の底に高熱が穴が空いたような意味での「ダウン」であるわけもないのに。

ここまで論理性も科学性もなにもなく、ただ単語とその連想に反射するだけで興奮する社会が、果たして原子力のような膨大な(=危険でもある)エネルギーを手にしていても、いいのだろうか?

我々近現代の日本人は自然の巨大な力とのつき合い方の精神も、「死」との向き合い方の哲学も、完全に喪失しているのかも知れない。

それはそもそも、地震と津波という巨大災害の認識にしてもそうだ。我々が確かにその猛威を認識したはずの、津波の光景の映像も、もう半ばタブー化されている。視聴者の「トラウマ」になるのだそうだ。

その巨大な爪痕が、今でも現実の傷として存在し続けているというのに、ふざけた話である。

その災厄の引き起こした膨大な死者たちへの言及や服喪が無視されていることは言うに及ばず…。そして「復興のためには経済を、だから日常を取り戻せ」と連呼される。

今さら元の通りなどということが、最早あり得ないことから逃げるように。

「被災地に元気を」などとはおこがましい。おびただしい死者たちを前にして、今生き延びている人たちに与えるべき「元気」など、我々は持っているのだろうか?

「勇気」なら、彼ら自身がすでに持っている。驚くべき助け合いの精神と礼儀正しさと共に、彼らはTVキャメラの前にそれを見せつけてくれている。

小学生の子供が「なにか欲しいものは」と尋ねられて、「みんなが寒いから灯油と電気」と答えるような勇気。津波の恐怖、親を失った悲しみを背負いながら、果敢に生きていこうとする勇気。

…と同時に、我々が目を背けようとすることとして、故郷を取り戻したい、ここに居続けたいと思う一方で、それがもはや限りなく不可能に近いことも、彼らはたぶんん、実は理解していることがその表情と言葉の端々には察せられる。

「おしん」や「楢山節孝」ではないが、明治以降、奉公、出稼ぎ、徴兵で戦争に行かされ、戦後もずっと集団就職や、出稼ぎで少しずつ近代日本によって喪失させられて来た故郷は、日本がこのままである限り、もはや決定的に失われるしかないことも。

政治のレベルで言うのなら、被災地にしても、とくに原発事故の被害も受けている地域にとって、本当に必要なのは【補償】ではない。これを機会に大きく転換されなければならないはずの【政策】であり、この国と社会のあり方の大方針転換、明治以降の歪みを総ざらいに作り替えることのはずだ。

だが「日本はひとつ」と言いながら、東京という中枢でそれを本気で議論する人は皆無のようだ。その中枢であることの罪もまた問われるのを、ひたすら恐れるように。自分たちは決して変わりたくないという頑迷な悪しき、そして無自覚で身勝手な保守主義ゆえに。


ふと思うのだが、この東京を初めとする、なんだかんだ言ったところでまるで安全圏で展開する乱痴気騒ぎは、「日本はひとつ」といくら叫んだところで、あるいは東京にある官邸が茶番の舞台になり下がり、やはり東京にある東京電力本店の記者会見が興奮した記者達の怒号の嵐になったところで…

…それは当の被災地の側からは、どのように見えるのだろう?

福島第一原発の、主に2号炉の格納容器からと目される水漏れの膨大な汚染水は確かに問題だし、それが地震で損傷した部分から海に流れ出ていたのも沿岸漁業にとって大きな問題だ。だから穴を塞ぐ一方で、流出路を塞いだ以上は溢れるしかないその収容先が応急処置として必要で、まだそうしたタンク等が間に合わない以上、やむを得ぬ判断として濃度が低い汚染水のタンクを空にするのは、海洋汚染を防げないのなら、その被害を最小限度にするためには、必要なことのはずだ。

ところが高濃度の汚染水が意図せずに流れ出ていたことよりも、その対処とはいえ意図的に、より放射性物質の量の少ない(つまり被害が少ない)水を放出したことの方に、批判が集中する。「海外は日本を海洋テロ国家だと見ることになる」という暴論まで飛び出す始末。

海外の批判がどうこう、意図的だったから違法かどうかよりも、海の放射性汚染を少しでも減らすことが、どう考えたって重要なはずなのだが…。

本当に放射能が怖いと思っていたら、これだって決して手放しで誉められることではないにせよ(早急に他の高度に汚染された水の収容先を準備するべきだとはいえ、まだ間にあわない)、より被害は少なくなることなのだと分かっていれば、こんな話にはならないはずなのだが…。

そんな単純なことは、即座に分かるはず、説明できるし報道できることのはずなのだが…。

この事故に巻き込まれた当事者、とくに漁業者や農業者にとっては、実際の被害が最低限であること(風評で売れなくなるのもまた現実の被害であるのは、言うまでもない)のはずなのだが…。

実のところ、テレビで地元漁業者に取材している映像を見ても、東京電力を批判させたいから低濃度汚染水の放出が決まった時点で取材している側と、その前から起っている高濃度の汚染水の漏洩の方が心配な漁師、そして東電からの補償の獲得を見据えている漁協幹部のあいだで、すでに大きな意識のズレがあることは、それぞれの表情や発言の間合いのニュアンスから、はっきり見て取れる。

生活者と、そうではない人々の違いが。

そして大地に根ざし海に生きる名もなき生活者たちの声は、無視される。水俣病事件からも、なにも変わっていない、なにも学んでいないのだ。


「日本がひとつになって復興を」とは真逆に、これまでも構造的に存在していたこの社会の断絶が、地震と原発事故の結果、かえってはっきりと見えてしまった。

今日のエントリーに使っている写真は、タルコフスキーの『ストーカー』のワンシーンだ。

大地震と核による巨大な破壊があった後の近未来、その破壊の中心であったであろう「ゾーン」と呼ばれる無人地帯に入る三人の男は、見えない恐怖に苛まれながら「ゾーン」の奥へと進んでいく。

不気味なトンネルの入り口に到達した三人は、マッチ棒を折ったクジを引いて、誰が最初に進むのかを決める。作家である男が当たりクジの、折られていないマッチを引き、その「死」が待っているかも知れない暗闇と光のトンネルへと進んで行く。

クジの偶然によってこの扉の向こう側に行ってしまった、死線を超えてしまった作家の人物と、まだ扉のこちら側(とはいえタルコフスキーのキャメラはその「死」の側に最初からあるわけで、キャメラから見れば元から「向こう側」に見えるわけだが)にいる二人の違い。

この二人もすぐにこの扉を踏み越えることになるわけだが、ゾーンの奥底の砂丘の部屋に辿り着くまで、この一人と二人の差異は決定的であり続ける。

この二人と一人の差異は、今の日本の引き裂かれた断絶を象徴しているように思える。


まだ「こちら側」にいるしかない我々は、もはや向こう側に、「震災後の日本」、巨大な天災と破壊で産まれた新たな「ゾーン」というかより哲学的・精神的に高度な次元に進んでしまった、そこに進めなければ死ぬかしかない「東北」がすでに現出していることに気づきたくないがために、彼らのことを思うかのような演技として「日本はひとつ」「元気を与える」と言い続けたり、あたかも彼らのことを思う振りをして「放射能は本当に怖いんだから避難するべきだ」「故郷をなくしても人間は生きていけるのだ」などと言い続けている。

その「絶対他者」を認識したくないために、「日本はひとつ」と「放射能は本当に怖いんだから」の双方に無数の似非物語を作りあげることにのみ、狂奔している。

そこにある真の物語、そこにすでにあって誰も気がつこうとしなかった、近代化によって喪失させられていく故郷の物語と、あまたの死によって中絶させられながら変容していく生の物語を、今でも決して見たくないために。

我々の文明と社会の構造が、その喪失を押し付けながら、そこから逃げて来たことに気づきたくないために。

実際、そう考えなければ、とくに「放射能は本当に怖いんだから」の方はまったく辻褄があわない。放射能が本当に怖いのなら遥かに強い放射能を持った汚染水が流出していることの方が問題のはずだし、東京電力の首脳の吊るし上げよりも事故の本質を理解しどう解決するのかを知ろうとするはずだ。

「推進派」を批判し脱原発の世論を作り出したいのなら、その発言をねじ曲げて誰も言っていない「放射能は安全だ」なんて主張をでっちあげたりはしないはずだ。説得力のある議論を展開し、政府に今後の原発政策を問う国民投票でも要求するはずだ。

まして補助金や雇用を目がくらんで私利私欲で「安全神話」に染まって原発を受け入れたのだから、というようなことは決して言えないはずだ。その補助金や雇用がなければ、町や村がとっくの昔に限界集落になり、ゴーストタウンになっていたかも知れないのだから。

「故郷をなくしても人間は生きていけるのだ」などとよくも言えたものである。出稼ぎに出たまま文字通り故郷喪失者(ホーム・レス)になった人も多い地方のトラウマを想像することもしないで、東京と都市だけが潤う中央集権の構造に乗っかって、我々は「電気は関東へ、放射能だけ福島へ」を金の力で押し付けて来たのだ。

また、もし「日本はひとつ」なら東京でタレントがメッセージを読む公共CMでなく、被災地の声を伝え被災者の雄々しさを見せる公共CMを作るはずだ。

だがその人々の雄々しさに言及したのは天皇だけであり、福島第一原発周辺の被災者の複雑な悲しみに思いを馳せた取材者は姜尚中だけだ。

我々は原発事故で避難を余儀なくされたり、避難地域のすぐ外側で生き抜いている人たちが、原発以前に震災の被害者でもあることすら、忘れがちだ。だから震災の義援金は出さずに東京電力に補償させろとか言う。両方もらって当然のはずなんだが。


それが社会の大勢であるのなら、「向こう側」に運命のいたずらで行き着いてしまった人々は、「こちら側」に留まったままの大衆の差別を恐れて、黙ってしまうしかなくなるだろう。

ヒロシマ、ナガサキで被爆者がそうなってしまったように。地下鉄サリン事件の体験者を聴いた人が村上春樹しかいなかったように、そして秋葉原事件の生存者たちもまたそう扱われ、「社会の敵を死刑にする」という大衆の欲望の正当化の道具へと、貶められて来ているように。


内田樹氏がブログで、かなり痛烈な皮肉を込めて、二日にわたって原子力発電所事故をめぐる日本のうろたえぶりを分析している。

4/7 荒ぶる神の鎮め方
4/8 原発供養

あまりに図星なので、笑いごとでもないのに笑ってしまった。

内田氏の指摘するように、我々は地震という自然の猛威としてのカタストロフィーにせよ、自然の秘めた力を人間が科学技術で使いこなそうとした結果とんだしっぺ返しを食らったカタストロフィーにせよ、そのカタストロフィーを「荒ぶる神」として畏れながらもつき合う知恵や儀式を、確かに忘れてしまっている。

我々は明治維新以降、そのかつての日本文化の、他者や自然との関わり方の知恵や儀式を失った。「穢れ」ともみなしうる「死」と関わるものへの恐怖は、ただの忌避と排除になり、象徴的なこととして、その霊的な儀式を担って来た人々が「被差別部落民」として排除された

生と死の儀礼を司ると同時に、社会の矛盾、人間の矛盾の語り部としての芸術を担って来たその彼らが「近代化」のなかで排除されたとき、日本人にとっての芸術表現、物語は、その本来の現実の中での力をも、喪失させられて来たのである。芸術とはまさに「ゾーンの向こう側」から「こちら側」の人間世界を見て、「我々は本当にこのままでいいのか」を考える道具であったはずだ。

その「ゾーン」の存在を、「近代日本」は恐れ続け、封印して来たとも言える。

3/11は日本という国の歴史が変わる大きな契機となる日付のはずであり、これを契機に我々は自分たちの社会や文明のあり方だけでなく、生活や価値観を問い直されてもおかしくない。


地震と津波と原発事故は、日本がもう、今までのままではいけないことを、突きつけたはずだ。

たとえば確かに我々の豊かな暮らしのために電力は必要かもしれない。夏場の猛暑で老人の熱中症を防ぐためにエアコンは必要だろう。日本の経済のためには、ふんだんな電力も必要だろう。

だがだからと言って、実は潜在的に危険だと誰もが気づいている原子力発電を、補助金と雇用と「日本のため」の三点セットで、その雇用や補助金がなければ過疎の村になるように中央集権の経済体制が仕向けて来た故郷に、むりやり押し付けて来たような構造が、このまま許され続けていいのだろうか?

そこで得られる我々の「幸福」や「豊かさ」は、本当に我々の幸福なのだろうか?


必死で自分たちを納得させて30年40年と原発と共存して来た人々を、その電気を享受して来た我々が安易に責めていいものではないことだけは、確かだ。

石原慎太郎が「我欲にまみれた天罰」とこれまた物騒な言い方をしたようだが、直接の被災者にとってではなく日本全体にとっての「天罰」であるのなら、それはあながち間違った考えではない。ただしそれを言うなら、東北の被災地域の多くはその「我欲まみれ」の文明から取り残されて割を食って来たところだ。

「天罰」なら東京で起るべきであって、そこで計画停電でぶうぶうと不平を言ってるどころでは済まないはずなのだが。

その計画停電だってなぜか東京23区の大部分は除外されるし、どうしても電気がなくては困る医療関係や自宅療養関係に最大のしわ寄せがいくわけで、どこまでも不公平なわけだが。

今「ゾーン」に進まなければならないのは我々なのだ。


被災地がいわば『ストーカー』の作家の人物のように先に進むなら、我々はあとの二人のように、そこについて行くべきでさえあるのかも知れない。

東京から「文化人」を自称する輩が「元気を与え」に行くと称するのもおこがましい。我々はむしろこれから、その死者たちと死を超えた者たちの声なき声に、まず耳を傾けなければならないのではないか。それを表現に変えることにこそ、専念すべきではないか。

3/11後の日本がどう変わり得るのかは、そこからしか始まらないように思える。

地震と津波から9日後、3月20日に奇跡的に、80歳の祖母といっしょに救出された石巻の16歳の少年は、助けてくれた警察官に「将来は芸術家になりたい」と言ったのだそうだ。


彼を救出した警官は、少年のその言葉に勇気づけられたという。

その少年、阿部仁君が大人になり、芸術家としてその人々の声なき声を作品に出来る日が来るまで、3/11で生まれた「ゾーン」が、この国において物語芸術がその本来の意味を取り戻す契機となるために、我々にもまたやるべきことがある。

すでにおびただしい分量のテレビ報道があり、今後は多くの映画がこの震災をめぐって作られることになるだろう。

だがそこで我々が恐らく決して忘れてはならないのは、その映画作りが服喪の儀式であると同時に、近代日本によってシステマティックに喪失させられて来たものを再生する可能性をつなぎとめる、最後のギリギリのチャンスにこそ、我々の映画がならなければならないことだ。

ここまで読んですでに推察されている方もいるだろうが、僕自身が撮るとしたら、福島の原発周辺地域のことになるだろう。