福島第一原発より5Kmほどの地点、浪江町 請戸港の津波被害
4月21日に撮影 ©2011, Aliocha films, inc.
4月20日から三日間、福島県浜通り、今では「福島第一原発がある地域」として有名になってしまった地域に行って来た。いわゆる20Km圏内が「警戒区域」に指定されたのが22日、その前の2日間はその20km圏内の広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町などを見て、3名の小編成スタッフ(筆者、撮影の加藤孝信、助手の山田哲弥)で撮影して回った。
上はこの撮影で20km 圏内で撮ったフッテージのひとつである。遠景には原発の排気塔も見える。
この震災についてなにか映画を撮らなければなるまい、ならば撮るべきなのはやはり福島県浜通りだろうと考えたからだ。震災被害で浮かび上がったこの国の構造、地方と中央の冷酷な関係と、そのなかで日本人が自分たち自身を見失いつつあることが、もっとも痛烈に浮かび上がるのが、ここだと思ったからだ。
<仮題「No Man's Zone」英文の企画書はこちら>
当初の企画は避難勧告が出た20Km圏内に残り続ける農家、とくに老人に密着し、ただ原発事故だけでなく、この地域、自分たちの村の歴史から現代の悲劇に至るまでを象徴的に、農民漁民の生活から浮かび上がらせることだったが、三日目に「警戒区域」が発令され、それは不可能になった。
自分たちがもう入って撮影は出来なくなるから困るというだけではない(それも我々の懸念としてあることは、否定はしないが)。
残り続けているといっても生活に必要なものなどは、20Km圏外でないと調達できないのだから、この処置で彼らがその故郷に残り続けることは事実上不可能になるのも、時間の問題となった。
要は政府としては、そうやって政府の指示に従おうとはせず、政府のメンツを潰す者たち(地元の人も、我々も)を強引にでも排除し潰そうとしているのだろう。
一方で避難している人たちには、政府に従った「ご褒美」でもあるかのように、一時帰宅が許可されるという。
とはいえ一世帯に一人だけで、それもたった二時間で、荷物の持ち出しすら限定されるという、これまた人を馬鹿にした話だ。
たった二時間でなにをしろと言うのか?一世帯で一人なら、夫婦で必要なものをその場で選ぶことすら許されない。地震や津波で痛んだ家を片付ける時間もないだろう。大地震で墓石が倒れているところも多いが、それを直している暇もあるまい。
商売に必要な書類をとりに行くにも、津波は逃れていても大地震だったことは道路状態の悪さから容易に想像がつくわけで、店舗や事業所が地震で潰れてしまったところも少なくなく、ならばまず瓦礫をどけなければ書類探しも無理だろう。
建物は残っていても、なかはぐちゃぐちゃになっているところだって多い。
一世帯に一人ということで、夫が入る場合が多くなるのだろうが、妻が通帳や印鑑などをどこにしまっているかも、夫が探すのは一苦労ということになってなりかねない。二時間はあっという間に過ぎる。
どこまでも人々の生活が見えていない、想像どころか考えることすら出来ないのが、この国の「偉い人たち」であるようだ。
それも一ヶ月以上も経ってからである。
報道で知ってはいたが、福島県警がやっと遺体等の捜索を始めている光景にも遭遇した。白いそろいの防護服姿が、なにやら亡霊のようにも見えた。
富岡町の富岡駅周辺では、その警官隊に制止されたりもした。遺体の捜索にあたる姿をあまり見られたくはない気持ちは、分からないではない。
通常の震災では、生き埋めにされた人などの生存の限界は72時間、3日間とされる。今回の東日本大震災では9日後にも石巻市で生存者が発見されたりしたのだが、原発周辺の地域では、その期間に捜索はまったくなされなかった。
人々が決しておおっぴらに口には出来ない不満、いや苦悶は、隣人や親族が見殺しになってしまったこととも無関係ではあるまい。
今さら捜索を始めても遅いことは、県警にも分かっているだろう。
現場の警察官にしてみれば、一刻も早く捜索に行きたかったのかも知れない。だが「安全第一」の上層部や政府が、それをなかなか許さなかったであろう事情も容易に想像がつく。それで被曝負傷者でも出れば、自分たち上層部の責任になる。だから避ける。
第一原発での事故対処も、大きな余震があれば即全員退避で、作業が滞ることが多いとも聞いた。いや最初から、全員退避命令のせいで、事故が拡大したのではないか、という不満すら現場から上がっているらしい。
この請戸漁港も、捜索の手はまったく入ってないように見える。
その他にも富岡町や双葉町で、我々は津波で破壊されたままになっている場所を見て来た。
原発の北半分が立地する双葉町では、海岸近くに広がる広々とした水田が、一面津波にやられたまま、手つかずになっていた。瓦礫から推察するに民家もあったのだろうが、そのこともまったく分からないまま、海岸に植えられた防風林の松だけがかつての田園風景の美しさを伝えていた。
この田畑から岬をひとつ隔てて南側、より原発よりの海浜公園では、護岸の入った上の松の下の地表の崩れ方から、いかにこの地域を襲った津波が大きかったのかが推測ができる。
それでも松は立っている。護岸や防潮壁の分厚いコンクリートが破壊されても、防風林の松が最後の障壁になって、浸水被害だけで留まったような場所も、いわき市の海岸地帯で見かけた。
津波の破壊力にあらためて慄然とすると同時に、20Km圏内ではそれが原発事故のためまったく手つかずに放置されたままであることに、胸が痛む。
…と同時に、この地域、福島県の浜通りが、とても美しい場所であることにも率直に驚いた。
自然の猛威を思い知らされるだけでなく、自然のたおやかでやさしい美しさもまた、そこにあったのである。
津波の届かなかった場所に広がっていたのは、地震で道路はひどく痛み、地震で痛んだ家々はあっても、素朴な美しさに満ちた、陳腐な言い草で申し訳ないが「日本の原風景」とでも形容できそうな、麗しい田園風景だったのである。
いやまったく、この震災と原発事故以前には、この地方になんの興味も持っていなかった自分を恥じる他はない。
ちょうど桜の満開の季節でもある。山林の端や、田畑や家々の庭の要所に植えられた桜が、初春の木々の淡い緑や、まだ葉がついていない木の枝との絶妙のコントラスト。それは東京で見られる桜だらけの公園や桜並木とはまるで異なった、清楚で上品な美しさだ。
避難を余儀なくされた人々が早くうちに戻りたいという気持ちが痛いほどよく分かる、美しい故郷がそこにはあるのだ。
だがこの美しさは、4月22日の午前零時をもって、もはや誰も見ることもできず、そこで生まれ育った人にとって戻ることができる故郷でもなく、ほとんどの人にとっては永久にかえり見ることもない風景となった。
4月21日に撮影 ©2011, Aliocha films, inc.
4月20日から三日間、福島県浜通り、今では「福島第一原発がある地域」として有名になってしまった地域に行って来た。いわゆる20Km圏内が「警戒区域」に指定されたのが22日、その前の2日間はその20km圏内の広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町などを見て、3名の小編成スタッフ(筆者、撮影の加藤孝信、助手の山田哲弥)で撮影して回った。
上はこの撮影で20km 圏内で撮ったフッテージのひとつである。遠景には原発の排気塔も見える。
この震災についてなにか映画を撮らなければなるまい、ならば撮るべきなのはやはり福島県浜通りだろうと考えたからだ。震災被害で浮かび上がったこの国の構造、地方と中央の冷酷な関係と、そのなかで日本人が自分たち自身を見失いつつあることが、もっとも痛烈に浮かび上がるのが、ここだと思ったからだ。
<仮題「No Man's Zone」英文の企画書はこちら>
当初の企画は避難勧告が出た20Km圏内に残り続ける農家、とくに老人に密着し、ただ原発事故だけでなく、この地域、自分たちの村の歴史から現代の悲劇に至るまでを象徴的に、農民漁民の生活から浮かび上がらせることだったが、三日目に「警戒区域」が発令され、それは不可能になった。
自分たちがもう入って撮影は出来なくなるから困るというだけではない(それも我々の懸念としてあることは、否定はしないが)。
残り続けているといっても生活に必要なものなどは、20Km圏外でないと調達できないのだから、この処置で彼らがその故郷に残り続けることは事実上不可能になるのも、時間の問題となった。
要は政府としては、そうやって政府の指示に従おうとはせず、政府のメンツを潰す者たち(地元の人も、我々も)を強引にでも排除し潰そうとしているのだろう。
一方で避難している人たちには、政府に従った「ご褒美」でもあるかのように、一時帰宅が許可されるという。
とはいえ一世帯に一人だけで、それもたった二時間で、荷物の持ち出しすら限定されるという、これまた人を馬鹿にした話だ。
たった二時間でなにをしろと言うのか?一世帯で一人なら、夫婦で必要なものをその場で選ぶことすら許されない。地震や津波で痛んだ家を片付ける時間もないだろう。大地震で墓石が倒れているところも多いが、それを直している暇もあるまい。
商売に必要な書類をとりに行くにも、津波は逃れていても大地震だったことは道路状態の悪さから容易に想像がつくわけで、店舗や事業所が地震で潰れてしまったところも少なくなく、ならばまず瓦礫をどけなければ書類探しも無理だろう。
建物は残っていても、なかはぐちゃぐちゃになっているところだって多い。
一世帯に一人ということで、夫が入る場合が多くなるのだろうが、妻が通帳や印鑑などをどこにしまっているかも、夫が探すのは一苦労ということになってなりかねない。二時間はあっという間に過ぎる。
どこまでも人々の生活が見えていない、想像どころか考えることすら出来ないのが、この国の「偉い人たち」であるようだ。
それも一ヶ月以上も経ってからである。
報道で知ってはいたが、福島県警がやっと遺体等の捜索を始めている光景にも遭遇した。白いそろいの防護服姿が、なにやら亡霊のようにも見えた。
富岡町の富岡駅周辺では、その警官隊に制止されたりもした。遺体の捜索にあたる姿をあまり見られたくはない気持ちは、分からないではない。
津波で破壊された常磐線・富岡駅。駅舎を挟んで陸側はある程度建物は残っているが、防護服姿の県警が主に捜索に入っていた海側はまったくの更地の状態だった
通常の震災では、生き埋めにされた人などの生存の限界は72時間、3日間とされる。今回の東日本大震災では9日後にも石巻市で生存者が発見されたりしたのだが、原発周辺の地域では、その期間に捜索はまったくなされなかった。
人々が決しておおっぴらに口には出来ない不満、いや苦悶は、隣人や親族が見殺しになってしまったこととも無関係ではあるまい。
今さら捜索を始めても遅いことは、県警にも分かっているだろう。
現場の警察官にしてみれば、一刻も早く捜索に行きたかったのかも知れない。だが「安全第一」の上層部や政府が、それをなかなか許さなかったであろう事情も容易に想像がつく。それで被曝負傷者でも出れば、自分たち上層部の責任になる。だから避ける。
第一原発での事故対処も、大きな余震があれば即全員退避で、作業が滞ることが多いとも聞いた。いや最初から、全員退避命令のせいで、事故が拡大したのではないか、という不満すら現場から上がっているらしい。
この請戸漁港も、捜索の手はまったく入ってないように見える。
その他にも富岡町や双葉町で、我々は津波で破壊されたままになっている場所を見て来た。
原発の北半分が立地する双葉町では、海岸近くに広がる広々とした水田が、一面津波にやられたまま、手つかずになっていた。瓦礫から推察するに民家もあったのだろうが、そのこともまったく分からないまま、海岸に植えられた防風林の松だけがかつての田園風景の美しさを伝えていた。
この田畑から岬をひとつ隔てて南側、より原発よりの海浜公園では、護岸の入った上の松の下の地表の崩れ方から、いかにこの地域を襲った津波が大きかったのかが推測ができる。
それでも松は立っている。護岸や防潮壁の分厚いコンクリートが破壊されても、防風林の松が最後の障壁になって、浸水被害だけで留まったような場所も、いわき市の海岸地帯で見かけた。
津波の破壊力にあらためて慄然とすると同時に、20Km圏内ではそれが原発事故のためまったく手つかずに放置されたままであることに、胸が痛む。
…と同時に、この地域、福島県の浜通りが、とても美しい場所であることにも率直に驚いた。
自然の猛威を思い知らされるだけでなく、自然のたおやかでやさしい美しさもまた、そこにあったのである。
津波の届かなかった場所に広がっていたのは、地震で道路はひどく痛み、地震で痛んだ家々はあっても、素朴な美しさに満ちた、陳腐な言い草で申し訳ないが「日本の原風景」とでも形容できそうな、麗しい田園風景だったのである。
いやまったく、この震災と原発事故以前には、この地方になんの興味も持っていなかった自分を恥じる他はない。
ちょうど桜の満開の季節でもある。山林の端や、田畑や家々の庭の要所に植えられた桜が、初春の木々の淡い緑や、まだ葉がついていない木の枝との絶妙のコントラスト。それは東京で見られる桜だらけの公園や桜並木とはまるで異なった、清楚で上品な美しさだ。
避難を余儀なくされた人々が早くうちに戻りたいという気持ちが痛いほどよく分かる、美しい故郷がそこにはあるのだ。
だがこの美しさは、4月22日の午前零時をもって、もはや誰も見ることもできず、そこで生まれ育った人にとって戻ることができる故郷でもなく、ほとんどの人にとっては永久にかえり見ることもない風景となった。
素晴らしい日記をありがとうございます。
返信削除私も福島の沿岸部で育ちました。そうなんです、津波に流される前の福島北部の海岸線の美しさ…というより、私のとってはどんな姿になっても、福島の沿岸程美しい場所は、他には無いんです。
それを忌まわしい土地のように語られる悔しさ、悲しさ。
簡単な事でないのは、良くわかります。でも、どうか制作を続けて下さい。お願いします。
そろそろ3年も経ってしまいましたが、やっと劇場公開します。2/1〜渋谷のユーロスペースです。http://www.mujin-mirai.com
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