最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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8/30/2017

不可解な事件をめぐる不可解な裁判~埼玉女子中学生誘拐「2年間監禁」事件


逮捕された当時の寺内樺風被告 首に自殺未遂の傷があった

2年間も行方不明だった女子中学生が、実は大学生に誘拐されたままになっていた。

自力での脱出が成功して発覚したこの事件はマスコミでも大きな注目を集め、ネット上で論争も引き起こした。その「論争」の詳細には触れたくない。賛否両論に分かれた喧々諤々の、そのどちらも的外れにしか思えないだけでなく、そんな誤解に基づく風聞は、被害少女の将来に禍根しか残さないからだ。

そして今、一審の裁判が進んでいる。

だがあれだけ話題になった発覚当時との不釣り合いさが不自然なまでに、報道はおとなしい。新聞が掲載するのもせいぜい社会面の小さなベタ記事扱いだったのが、被告が奇声を発し奇妙な発言を始めて判決言い渡しが延期となったことで、久々にテレビ報道でも取り上げられるレベルのニュースになったが、こんなことでもなければ裁判が進んでいたこともほとんど知られなかったろうし、事件そのものがもう忘れられていたのかも知れない。

だとしたら、率直に言って、その方がいいというか、せめてもの救いだ。

被害少女のことを考えるなら、事件発覚当初にあんなに大騒ぎしたこと自体が、致命的な誤りだった。しかもこの点については、ただマスコミの興味本位な視聴率至上主義や、ネット上の下衆な好奇心だけを責めていいものでもない。

2年間におよぶ誘拐監禁という事件それ自体以上に異様だったのは、被害者の父親が友人と共に得意満面に記者会見に現れ、娘の身許が特定されかねないことをペラペラと喋りまくり、その後も彼女の証言とされるものがこの父からマスコミに垂れ流され続けたことだ。

当たり前と言えば当たり前だが、その「証言」はその父親をこそひたすら満足させるような内容ばかりだった。

逃亡を決意したのはネット上で父親とその友人・仲間達が自分を探しているホームページを見たからだったとか、誘拐されたのは両親について心配させられる噓を言われてついて行ってしまったとか、犯人にはお前は両親に棄てられたのだと思い込まされて絶望していた等々、あまりに出来過ぎな上に、こと誘拐の経緯については現実性が疑われるような、たぶんに子供じみた話だった。

子供じみていたのも子供が考えつくことなのであれば無理もないが、もし父親の作り話や、その誘導尋問で作ったストーリーだったとすると相当に始末が悪い。

いやそうでなくとも、少女がひたすら父の気に入るようなことを、当のその父に言い続けていた、というより “言わされ続けていた” と言った方が精確にも思えるが、その痛々しさと言ったらなかった。

さすがに途中で警察が止めさせたようだが、その警察からの情報の、犯人の証言とされるものが、これまたその少女の(というか父親の)話に懸命に辻褄を合わせるかのような強引な中身で、こちらにもまたずいぶん無理があったのに、報道も、ネット上の議論も、なぜかその不自然さにはほとんど触れることがなく、事実関係よりも事件の外見上の構図について、なにを興奮でもしたのか、憶測というか空想の開陳に熱中していた。

この誘拐は現実の出来事だったはずだ。だが多くの人は「この想定は現実にあり得るかどうか」を自問するよりも、あまりにも現実離れした事件に自分たちの現実離れしたファンタジーを押し付けて、ただ消費してしまっていただけなのかも知れない。

しかもそれは、報道陣とかSNS利用者とかの、実は直接になんの関係のない興味本位の傍観者でしかない人々に限ったことでもなかった。

当事者、とくに被害者にとって最も身近だったはずの両親もまた同様であり、捜査当局もまた思い込みというか、社会が考える「子供とは、中学生の少女なら、こうあるべき」という、その実かなり現実離れした幻想に過ぎないものに囚われ続けたまま、なんとも抽象的な罪状しか立証できる見込みがなさそうな裁判になってしまっている。

なにしろ求刑は懲役15年だが、その理由がずいぶん珍しくもあり、また不自然さも禁じ得ないのだ。主たる罪状は、少女のPTSD(心的外傷性症候群)を傷害とみなしての傷害罪だと、検察はいう。

もちろんPTSD、とりわけ思春期のそれは深刻な被害なのに、これまで日本では裁判も含めて軽視されがちだったのは大問題で、児童虐待のケアなどについても深刻な限界を招いている。今回の裁判がそうした偏見を覆す新しい判例になるとすれば、歓迎すべきことではある。

しかしそれでも、誘拐監禁事件のはずが「PTSDを与えた傷害罪」という、立証が難しそうな罪状がメインで、身体的な暴力による傷害や、拉致・略取・誘拐・監禁の具体的な(物的証拠も含んだ確実な立証ができる)犯罪行為が主たる訴因にならないのでは、やはり違和感は禁じ得ない。

もっとも、少女が最終的には自力で逃げ出せた状況などから考えれば(物理的に閉じ込められていたわけではなく、しかもその直前に引っ越しまでしている)、監禁の立証はかなり困難なのだろう。

拉致・誘拐もまた、およそ暴力的な手段を立証できそうになく…というよりは、そんな事実自体がなかったように思われそうな起訴内容になってしまっているのだが、これは最大の被害が少女の重度のPTSDという罪状を見れば、やむを得ないことでもある。

そこまで深刻なトラウマになったのだとしたら、その原因はまず誘拐時の経緯なのだろうし、ならば思春期のPTSDの場合、客観的で精確な記憶を話せる可能性は極めて低いし、また証言させること自体が拷問に近い虐待になりかねないからだ。

とはいえその結果(なにしろ「真相」は被害者と加害者以外に知る由もない)、裁判では拉致も監禁も、物理的な暴力や直接的な威嚇ではなく、少女に強烈な恐怖感をなんらかの形で植え付けて(といって、暴力なしにどうやれば可能なのだろうか、というのも大きな問題となるが)、マインドコントロール状態に置いていた、というストーリーくらいしか成立しなくなり、またそういうストーリーを検察が構築した結果、PTSDを引き起こしたことが主たる罪状になったわけでもあろう

一方で、しかしその同じ検察が被告については精神鑑定に基づき「自閉スペクトラム障害」(いわゆる発達障害のこと)の傾向があるとも認定している。

被告の外見だけでも「マインドコントロール」ができそうなタイプにも見えなかったのが、この障害がある(俗にいう「空気が読めない」、他人が発する微妙な表情などのサインを無自覚に認識してわざわざ意識するまでもなく対処することができない)のにマインドコントロールを駆使というのは、ずいぶんちぐはぐな話に思える。

それにしても、最初は恐ろしく猟奇的に見えながら、事実関係が分かって来ると残酷さよりも不可解さばかりが際立つ事件だった。そこで「裁判で真相を明らかに」となるかと言えば、弁護側・検察双方の主張を見る限り、あまり期待できそうもない。

ならばせめて、裁判がほとんど報じられないことで事件そのものが忘れ去られて欲しいのだが、しかしどうにも無理があり思い込みや興味本位な幻想、はては一部の人々の願望ばかりが先行した誤解だけが、なんとなく事件のイメージとして残ってしまいそうなのは、それでいいのだろうか?

被告はこれまでの裁判でまったく反省の意志を示さず、「美術品を盗むなどよりもずっと軽い罪だと思っていた」「なにが悪かったのか分からない」などとうそぶいているというが、これまたずいぶん無理がある話だ。

逮捕直前に被告が自殺を諮って失敗していることひとつ取ってもまったく整合性がないし、美術品泥棒との比較に至っては窮余の思いつきのへ理屈にしても強引過ぎる。

むしろそんな無理矢理な証言から見えて来るのは、被告が一生懸命に自分が極悪人であるかのように振る舞っている、というか猟奇的な凶悪犯を自分が思いつく限りの想像で演じようとしていることに思える。

判決言い渡し予定の公判では奇声を発し、本人特定の質問には「オオタニケンジ、年齢は16歳」「現住所は群馬県高崎市のオートレース場。職業は森の妖精でございます」と答え、裁判長が「私が言っていることが分かりますか」と尋ねると「日本語が分かりません」と言ったという。結果、判決公判は延期になったが、これも発狂した凶悪犯を一生懸命に演じている芝居ではないか、とも思える。

このような事件があると、ついそうした精神の歪んだ凶悪犯の起こした異常な事件として片付けたくなるのだがが、報道された範囲でも詳細を見て行くと、誘拐監禁事件としてはなかなか説明がつかないことが多過ぎた。

2年も監禁して隠し通すとなると田舎の大きな農家の離れとか、それなりの広さと部屋数がなくては難しいだろうし、だから犯人が大学生というのならばせめて実家の一軒家かなにかと思えば、現場は大学生が下宿していた二間のマンションだった。

なのに物音などで周囲に怪しまれることもなかったのは、ことさら「隠して」もいなかったからだったようだ。

現に犯人と少女は近所の住人にしばしば目撃されていたが、現代のことで近所付き合いの会話があるわけでもなく、なんとなく兄妹だと思われていたらしい。

昨今のマンションは外から鍵をかけて内部に人を閉じ込められる構造にはまずなっていない。外付けの鍵を使っていたという報道が出ては否定され、結局正確なことはあやふやなままだったが、裁判ではどうなっているのだろう? 

いずれにせよ少女が脱出できたときには、鍵は普通に内側から開けられるものだけだった。この時には、2人は大学があった千葉県から東京の東中野に引っ越しているのだが、これも普通の「監禁」状況としてはまず考えられないし、無論弁護側が主張し、今は被告もそれに合わせようとしているようにも見える「統合失調症」も、まず確実にあり得ない。

どういう「監禁」が可能だったのかの疑問は、そもそも「監禁」ではなかったのではないかという憶測を呼ぶ。とはいえ、そこからあらぬファンタジーを膨らませ、それをネット上で大真面目に吹聴する者も多かったのも、筆者にとっては驚きだったし、無節操な推論というより「願望」の開陳が、性犯罪被害者がしばしば受けるセカンドレイプとあまりに似通っていたのだから、激しい反発を呼んだのも当然だろう。

だがそこで「ストックホルム症候群」といった論が出て来たのは事件の「解決」の経緯を見る限り明らかに行き過ぎで(自力で脱出しただけでなく、保護されて一応入院はしたものの、身体的な健康にはまったく問題がなかった)、かなり現実離れしており、だからこそこうした善意の「擁護論」もまた、逆に被害者の将来にも禍根を残しかねない。

どういう「誤解」かといえば、端的に言ってしまうなら、ファースト・レイプもなかったのにセカンド・レイプを、被害者をセカンド・レイプから守りたい善意が、逆に引き起こしてしまっていた。

デリケートな問題なのでこの言い方に留めておきたいが、「セカンド・レイプ」を危惧する以前に、この事件の場合は文字通りの「ファースト・レイプ」どころか、直接的に性的なことは恐らく一切なかったとしか思えない、説明がつかないのだ。

最初からそう考えないと辻褄が合わない事実関係ばかりだったし、現に検察も、このような誘拐監禁の状況下では性的関係があっただけで強姦ないし準強姦、最低でも被害者は未成年なのだから少年保護条例違反の立証はほぼ自動的のはずが、そのいずれも訴因に入れていないだけでなく、論告求刑のなかにある被告の証言の一部にも照らせば、今や確実だと言っていい。

検察が被告の証言を基に犯行の動機として挙げているのは、「観察したかった」だけだ(ただしこの自称「動機」もかなり疑わしいのは、後に論じる)。直接に性的なことは一切出て来ていない。これは事実として性的なことが一切なかったからであろうと同時に、被告が少女についてそうした誤解が広まることを懸命に避けようとしているからでもあろう。

発狂した凶悪犯の病的な猟奇犯罪だが、性的なことは一切ないという、よく考えるとずいぶん奇妙で不自然で犯罪心理学的にも説明がつかない事件の構図にはなるが、こんなものでも強引に押し通し世間に信じさせないことには、父親のせいで事実上身許が世間に知られてしまった被害者少女には、事実上将来がなきに等しくなってしまうし、戻った家庭での居場所もなくなってしまうだろう。

被告も思わず「少年」と言ってしまいたくなるほど子どもっぽいところがあるが、その子供の発想なりに懸命に考えついたことを、今の彼はやっているように思える。

精神鑑定にもかけられ、検察は「自閉スペクトラム障害」つまり発達障害の傾向があることを認定しつつも、責任能力は問えるとしている。これは当然の判断で、発達障害では一時的なパニックで前後不覚に陥ることはあっても、2年間も継続する譫妄状態はまず考えられない。

弁護側は責任能力を争点にするくらいしか弁護方針が思いつかなかったのか、先述の通り被告には統合失調症の傾向があると主張しているが、こうなると「弁護士やる気があるのか?」と文句も言いたくなる。

被告は2年間もの長期に渡って少女を自分と同居させ、アルバイトや仕送りなどの収入だけでちゃんとその二人分の生活を維持できていただけでなく、同時に理系の大学のかなり難しい過程を優秀な成績で卒業し、就職まで決めている。以前にはアメリカに渡って小型航空機の免許も取っている。

軽度の発達障害ならもしかしたら可能かも知れないが、統合失調症による責任能力が失われるような譫妄状態で、こんな器用なことができるはずがない。

動機が少女を昆虫か小動物を閉じ込めるような意味で「観察したかった」というのも、近隣住人の目撃証言がでっち上げでもない限り、実際のマンションの構造や近隣住人の証言などからして、まず成り立たない。

事件の結果の異常性に囚われるあまりに、我々はなにか尋常ではない、常軌を逸したことがあったに違いないという先入観と、猟奇的な好奇心に執着し過ぎていないだろうか?

2年というのは、確かに異常な長さだ。

だが結果として「監禁」になるのは、それ自体としてはむしろ平凡で日常の枠内でしかないシチュエーションさえあれば成立し得るし、いったん成立していれば惰性のまま継続することは十分にあり得るのが人間の「生活」だ。

発想の逆転で、どうやって2年間も監禁し続けたのではなく、なぜ2年間もこの状態が継続され得たのか、という設問に立てば、検察の主張通りに重度のPTSDが少女に残っているようなマインド・コントロールというのもひとつの仮説としては成立するし、それでもなにかのきっかけでそのマインド・コトロールか、あるいは惰性でしかないものが壊れ、彼女が脱出する勇気を持てたというのも無論あり得る。

脱出時に彼女は500円しか所持金がなかったと報道にあったが、たとえばお金がなければ逃げ切れないと判断していたとも推論できる。

ただし一方で、無一文だろうがとりあえず警察に駆け込んで保護を求めればいいとは考えなかったというのも、不自然さは禁じ得ない。

しかし社会の標準からすればまったく奇妙な、理解不能な「生活」とはいえ、少女が被告のマンションに暮らすこと自体が日常化していれば、「2年の監禁が異常」という外形的な事実よりも、2年後の脱走を「日常」に対する「変化」として考え直した方が、有益な思考の枠組みになるのではないだろうか。

だいたいまず初歩的なこととして、子どもが一日一晩でも家に帰らなければ、親はひたすら心配するだろうが、子どもの側はどうかと言えば、帰ったとたんに叱られることを実はまず心配するものだ。帰るにはなにかうまい説明か言い訳を考えつかなければならないし、それがなかなか思いつかなかったり、そうして親と対決することをつい躊躇し忌避してしまうだけでも、「明日でいいや」となるのも、むしろ自然ですらある。

そうやって日々が積み重なればなるほど、早く帰って謝っておけば良かったと後悔するほどに、帰る時の心理的なハードルは離れている日数が長ければ長いほどに上がっていく。

普通なら最大でも二、三日から一週間で済むだのろうが、なにかのはずみか、単にいいわけを思いつかなかっただけで数週間、数ヶ月と引き延ばされ始めれば、帰ったときの説明や言い訳をやりようがますますなくなり、そうなってしまえば2年だってただの「惰性」になる。

契機がなんだったにせよ、このような「惰性」は案外と簡単に成立し得るのが子どもの心理だし、だからこそ彼女が主体的にその「惰性」を壊して「変化」を起こそうとした動機を考えることの方が、それまでの2年間の意味を解き明かすことにつながりはしないだろうか?

まず警察に駆け込む、という当然の行動を考えなかったのは、彼女の側には彼女の側で、監禁され続けたというより「家に帰ろうと決心しなかった」ことについていささかの後ろめたさがあったと考えれば納得はいく。

念のため、積極的にそこに残ろうとしたのではなく、なんとなく「(ひどく叱られてもいいから)家に帰ろう」とまでは思わなかったに過ぎないことは、あらためて強調しておこう。ここには決定的な違いがある。

少女の側に立って考えるなら、東中野に引っ越したという具体的な生活環境の変化が、逃亡を決意する大きな契機になったと考えて、まず大きな間違いないだろう。

ひとつには、千葉県にいたときに較べて交通の便が圧倒的によく、駅も徒歩圏内だし電車などでの逃亡が容易になった面もあるだろうし、現に彼女は駅に逃げ込んでそこの公衆電話から両親に連絡し、両親に言われて警察に保護を求めている。

ただしこれは、引っ越しの時点で新しい住所などをどこまで彼女が把握できていたかにもよる。千葉にいたときには近所の証言によればしばしば2人で買い物に行く姿が目撃されていたはずだが、東中野に移ってもそうした外出の機会はあったのだろうか?

いずれにせよ、引っ越しが逃亡の契機になったのは確かだろう。つまりはより直接的に、環境が変わったことそれ自体の心理的な影響が大きかったのだろうし、特に重要だったのは、そもそも犯人が引っ越した理由ではなかったのか?

大学を卒業し就職して社会人になることを犯人が少女に隠していたはずもないだろうし、この犯人の側の変化の意味、これまでの生活が激変したことは、いままで惰性で家に帰らなかった少女の側にも「自分はこのままではいけない」と思わせたはずだ。中学校2年生で誘拐されたまま学校に行かず、自分の社会的な成長も、自分の時間もいわば止まったままの2年間を経て、被告の青年の方は社会人になるという成長の大きな一歩を踏み出している。

そこで否応なく突きつけられる現実がある--自分もまた、本来なら4月には中学校三年生になっているはずだ。このままでは、自分は中学最後の1年も経験できず、高校にも進めなくなる。

詳細が分からない以上は憶測をみだりに吹聴すべきでもあるまいが、それでも警察も検察も弁護側も、そして報道もその受け手である社会全般も、事件全体の構図を完全に読み違えているように思えてならない。

被告の奇妙な証言もその誤った構図の枠内での役割を必死に演じようとしているだけに見えるのが、この事件が「謎」である最大の理由ではないのか?

事件の結果としての異常性とは別に、もうひとつ我々が当然の前提だと思い込んでいることが、実はそれをひっくり返すだけで全体像の説明がつく。

子どもが親元で育つのは当たり前で、子どもにとってそれがいちばん幸福であり、だから少女が家に帰りたいと思い続けて来たはずだ、と我々は思い込んではいないか?

言い換えれば、家族との2年間、学校に行けたはずの2年間を奪われたことを、少女がずっと「喪失」であり「被害」として認識していたはずだというのが、この事件の理解の前提になっていた。

そうした前提で行くと、一方では現実的に、少なくとも物理的な監禁がどうみても困難だった事実関係がある以上、逆にこうした「喪失」よりも優先される事情が少女の側にあったはずだ、という考えにしか至らない。

だから検察はマインドコントロールとその結果によるPTSDというストーリーに至り、たとえばネット上ではそこに疑似恋愛的というか小児性愛的なマンガやアニメに通じるファンタジーを、勝手に事件に投影する主張も相次いだ。

だがどちらも、そもそもの前提が間違っているのだ。

子供は親元で育つ「べき」、子供は親の元に返りたいと思っている「はず」というのは、あくまで社会的に共有さえる価値観から来る倫理規範か、最悪共同幻想でしかない。

そうである「べき」だとしても、思春期の子供にとって親元にいることが幸福、ないし楽しい、そうしたいと思っているとは限らず、むしろ逆だ。この年齢ではむしろ親の存在を抑圧と感じ始めるのが正常な発達段階だ。

たいがいの子供は学校に行かなければいけないとは思っているが、「行きたい」と思っているわけでは必ずしもない。行かなくてはならないからだ。

子供が「学校に行きたいですか」「楽しいですか」と訊かれたら「はい」と答えるのは、そう答えなければならないからでもある。

ただの一般論としてさえそうである上に、現代の日本の中学校が子供たちにとって楽しい場であるかといえば、まったくそんなことはないと、実は日本中の誰もが知っているはずだ。なにしろいじめによる自殺が過去30年以上社会問題となっているのが日本の学校である。

そんな学校が本当に、どうしても行きたいと思えるほど楽しいだろうか?

今の日本の子供達にはそれが当たり前になっており、どういじめを避けるかの方法論も(いじめられるくらいならいじめる側になった方が楽であることも含め)習い症になっている。習い症、惰性、日常は、いまさら積極的に嫌だとも思うまいが(素直にそう思ってしまうだけで、最悪いじめ自殺予備軍になる)、いったんそこから解放されれば、ぜひにも戻りたいとはなかなかなるまい。

この事件の被害者少女にとって、皮肉にも誘拐されて学校に行けなくなったことが、逆にその恒常的な抑圧環境からの解放にもなった。

クラスメートや教師にしじゅう気を遣い続けるくらいなら、朴訥として不器用でどう見ても抑圧的には見えそうにないし、そういう態度がなかなか取れそうにない犯人の大学生ひとりに、適当に気を遣っておけば済むだけならば、ある意味でずっと楽にもなり得る。

つい「少年の」と言いたくなるが成人している被告の動機はといえば、本人がまったく証言しなさそうなのでなんとも言えないが、行き着いたのは惰性の共有と言った程度のことだろう。

報道に出て来た同級生や近所の証言から類推するなら、結果として疑似家族、疑似兄妹的な「生活」になんとなく満足していたようだ。そもそもの誘拐の発端はといえば、これは証言がはっきりしない以上、どうにもよく分からない。

もう一点、皮肉なことに事件によって彼女がそこから解放された、もしかしたらもっと大きな抑圧がありえる現実も、この事件の場合決して見落としてはなるまい。

繰り返すが、まず一般論として、思春期の少年少女にとっては家庭もまた決して居心地のよい場ではないのが、この少女の場合はもっと複雑なのだ。

つまり、両親の問題があり、これこそがまた相当に深刻である可能性が高い。

ここでどうしても、事件の公表当時からの父親の異常な行動に再び言及しなければなるまい。親であれば娘が見つかったことの喜びと同時に、今後彼女が直面することになる困難にもすぐに思いが至るし、最初は喜びのあまり思い当たらなかったとしても、警察は必ずそのことは示唆するはずだ。つまり、被害者の名前は絶対に匿名にしなければならないし、身許が特定されて将来に渡ってこの異様な事件が彼女個人と結びつけられることは極力避けられなければならない。

ところが…父親の行動が真逆だったのは先述の通りだ。

事件の解決にはなんの直接の関係もなかったのに、父親は記者会見で「探す会」の仲間を伴って登場して自分達がいかに頑張ったのかを強調し、喜びを露にしたのは娘が助かったことよりも、そのじぶんたちの努力が報われたことで、そうすれば確実に娘の身許が特定されてしまうことにはまったく無頓着だった。

どう考えてもこの自己顕示欲の激しさと、自制心の欠如した身勝手さは異常だ。つまり、事件によって皮肉にも少女がそこから解放された「家庭」とは、このように幼稚で「男の子」的な仲間意識に執着し、自制心や親としての自覚がなく相当に自己中心的な父が、だからこそ父・家長として無自覚に抑圧的に振る舞っている環境ではなかっただろうか?

事件発覚後に、父親経由で報道された少女の「証言」によれば、彼女が脱出を決意したのは、ネットでその父親達の活動を知ったからだという。

ならば結果論として少女が見つかったことになんの直接の関係もなかった「探す会」こそが、実は事件の解決に決定的な役割を果たしたことになる。

言い換えれば、少女は自自力で、自分の意思で脱出したことをあえて無視して、「お父さんに勇気をもらった」、つまりは「お父さんに助けられた」と言えるような立場を自分で作ったわけでもある。

もちろん、そんな出来過ぎた話はまずあり得まい。

むしろ結果としてなんの役にも立たなかった「探す会」だったからこそ、父親がそのことに「傷ついて」機嫌を損ね、自分がこの家族に戻ることが困難になるのではないかと、少女が怯えているようにすら見えて来る。そうでなくとも、2年間もそこにいなかった家庭にいきなり戻ることは、誰にとっても決して簡単ではない。家族の関係性を一から作り直す覚悟すら必要になる。

どうも、もっとも保護され配慮される必要がある少女こそが、逆にいちばん気を遣って、一生懸命に大人達に配慮しているのではないか?

そう思わせる存在は、少女の父親だけではない。

裁判では父親ではなく母親が証言していて、どうも検察もこの父親を証言させるには信用性が欠けるか、いずれにせよ事件の被害の立証には役に立たないと判断したようなのだが、代わりに出て来た母親の証言もかなりゾッとさせられるのだ。

母親は犯人が反省していないと聞いて「なにか自分たちが損したような気分」で不快だ、と述べたのだ。

どういう事情であれわが娘の正常な2年間が「奪われた」事件についての親の心情としては、ずいぶんそっけなく、そして完全に自己中心的で、娘のことがまったく無視されているのだ。

果たしてこの両親の下で、少女は幸せな子供だったのだろうか? このままで彼女の将来に心配はないのだろうか?

もちろんこの2年間が「幸福」だったわけもあるまいが、もしかしたら「安心」は出来ただけ(暴力も性的な脅迫もないのなら、直接的にそんなに脅威はないし、学校や家のことはいったん「忘れて」しまえば、不安になる要素は実はそんなにはない)でもマシだったとしたら、こんなに不幸なこともない。

そしてなによりも不幸で悲劇的になり得るのは、問題の2年間を含む少女の「これまで」以上に、彼女の「これから」、今現在の彼女の家庭での生活と将来だ。

もちろん事件の真相は2人だけしか知らない。検察の言う通り重度なPTSDなら被害者から精確な証言はまず得られないと考えた方がいいのだろうし、被告は頑に、少なくとも極端な誇張であるのは確実な、恐らくは自分が一生懸命に作り上げただけのストーリーしか口にすまい。

報道は具体的な事件の本質について曖昧なままだったし、裁判でそれが明らかになったともおよそ思えない。

いずれにせよこの事件が忘れ去られることこそが被害者少女にとって最大の利益となるわけだが、我々が決して忘れてはならないのは、被害者の親とはいえ決して被害者ではないことだ。

親は子どもとはあくまで別人格であるのに、その子供にとって異常な抑圧となりかねない両親のあきらかに異様な言動・行動についてなんの関心も払われないことは、率直に言って疑問だ。

はっきり言えば子供の虐待すら最悪の場合は想定される心理・行動のパターンであることにだけは、しかるべき責任のある諸機関にはぜひ、留意し続けて頂きたいと思ずにはいられない。

1/09/2014

1995年の1月17日(と3月20日)から19年


東日本大震災からもう2年と10ヶ月、そろそろ3年になる。そして神戸の震災からだとまもなく19年、同じ年に東京では地下鉄サリン事件があった。

現代の神戸市・中央区中山手通り。
左手の区画は震災で家が壊れたまま空き地になっている。

終戦から50年目にあたる年に、この二つのいわば黙示録的にも思える、戦後日本社会にとって決定的だったはずの事件が起きた時には、その偶然の持ち得る意味を誰もが少しは考えたかも知れないが、1945年8月15日の意味が安倍晋三政権のニッポン今や忘れられかけようとしているのと同様、この1995年のふたつの出来事の意味だって、そこを深く考えるよりも、地下鉄サリン事件ならばオウムを悪魔視するだけで、日本人の総体はそれを忘れてしまうことを選んだのかも知れない。

東日本大震災後に、平田、菊池などのオウム事件の指名手配逃亡犯だった人たちが相次いで逮捕された。 
平田容疑者は自首だったし、菊池直子容疑者も夫の親族に密告されてもことさら抵抗も逃亡もしなかったのは、この人たちはまだなにか、今度の震災の意味を自分なりに考えていたのかも知れない。

最近、どういう場であったかは敢えて言うまいが(というか腹が立つし恥さらしなので言いたくもないが)、比較的近しい場で、とんでもない発言を聞いてしまった。

「東北の震災がなんだ、たいしたことはない。神戸は大変だった」

…と言うのである。それも既に東京で暮らしていたので直接被災者ではないとはいえ(津波被災地が政府がなにも決めないので放置されているままの)石巻の出身の人がいる前で、だ。

神戸だって大変だったのはその通りだよ。それでも死者数でも、地震それ自体の規模で比較したって…なんてことすら言うまい。比較すること自体がおかしい、間違っているのだから。

だいたい「震災が大変だ」ではなく「政府がなにも決めないから放置されているのは大変」って話ですよ…? 
どういう卓袱台返しになってない卓袱台返しなんだよ。歴史修正主義すら論理的に成立していない安倍晋三内閣(「安重根は日本が死刑にしたから犯罪者なんだ!」自己撞着引きこもり政権)顔負けじゃんか。
東電本店とか経産省とか電力関連の関係者が、原発被災者のいる場で「自分たちは大変だったんだ、頑張ったんだ」そして「俺たちが日本を救ったんだ、なのにサヨクなメディアが」とぶつぶつ言うらしい、とこれも本ブログ前項の通りだが、また似たような話でもあろう。

この2年と数ヶ月のあいだ「被災地以外」の日本を覆っているうわべだけの「絆」「頑張ろう日本」といった連呼の裏で、被災地はお涙頂戴のエンタテインメントの題材にされ、その裏返しとして巻き起こっているのは凄まじく殺伐とした嫉妬なのではないか、とあらためて思い知らされる。

果たして1995年の震災の時の日本は、こんなにひどかったろうか? いやまだここまで劣化はしていなかったと思うが…。

「神戸の方がよかった」的な比較じゃないですよ、念のため。

2011年以降の日本では、「出来ることをやらなければならない」と言ったかけ声の同調圧力の裏で、同情され、支援されているように見える被災者への嫉妬が渦巻くかのように、「大変なのは被災者だけじゃない」という恨み言が、社会の表層やメディアでは見えないところで、延々と蠢いている(いやまあネットだとかで匿名でおおっぴらに言う者なら、すでにいっぱいいるわけだが)。

その一方で、では今回の被災者がそんなにいい目に遭っているとか、優遇でもされているのかと言えば、無論そんなわけもない。たとえば、本来なら仮設住宅は2年で終わるべき、次の段階に移るべきだし、現に神戸の震災ではそうだった。というか今の仮設住宅は神戸の震災がモデルケースで、だから法律で2年のはずだったのが、現状は仮設暮らしのまま多くの被災者が、家族やご近所の人の三回目の命日を迎えようとしている。

可燃性の瓦礫の焼却処理が、人口が少なくゴミ焼却場がそんなにはないところでは間に合わないから「広域処理」…となると全国で猛反対が起こった。一方で受け入れを支持する人たちも「放射能のリスクはみんなで分かち合い」…って?

いやだからそれ、放射能関係ないから。

あなた達、ヒーローぶらないでいいから。

福島県の瓦礫じゃないから。

宮城や岩手の沿岸部方向に放射性物質を多量に含んだ風はまず行ってないから(それでも低線量の部類とはいえ被爆が危惧されるのは、西北方向、飯舘村〜福島中通り方面だから)

「絆」なんて、実態はそんなもんである。テレビで見るのはいいが、リアルに、モノとして、迫って来られるのは拒否し忌み嫌ったのが、21世紀のこの国だった。

政府が補助金をつけてなんとか解決…と言ったところで、なぜ地元で処理施設を増設しないのか、その本当の理由は決して口にされなかった。実は補助金や輸送費も含めればそっちの方が安上がりだったかも知れないし、早かったかも知れない。だが瓦礫処理が終わった焼却設備は確実に余剰施設になるだろう(だから「雇用になる」なんて安易に言わないで欲しい)。 
地元は実はそれが怖かったのだ。なぜなら、首都圏のゴミを押し付けられるのが目に見えているから。首都圏のゴミ処理だけが、被災地の主要産業なんて話になりかねない。 
そしてこの中央集権の国の「中央」が、とりたてて意識するわけでもなくそういうことを押し付けるのを、たとえば東北地方は既にいやというほど体験して来ている。それはもう、明治時代から、戦時中も、日本の近代史のなかで一貫して。

いやほんと、「絆」なんてそんなものでしかなかった。なのに、なにを焼きもちを妬いているのだろう?

6年半後の東京オリンピックは、被災地の復興を応援するためなのだそうだ。おいおい、2020年は震災から数えれば9年後だ。聖火ランナーが被災地を駆け抜けるとかいう構想は、その9年後も瓦礫の山と更地しかない被災地でも想像しているようにしか聞こえない。スポーツで被災地の子どもを励ますって…震災当時小学生の子どもが、そろそろ成人する頃です、それ。

サリン事件や神戸の震災に、芸術表現の分野でほんとうに切り込んだのは、おそらく村上春樹だけだ(短編小説集「神の子どもたちはみな踊る」とインタビュー集「アンダーグラウンド」)。その春樹さんが東日本大震災についてはとくになにも書いていないのは、実は作品として上梓するにはまだ早すぎる、彼にとっては十分に考えるべき時間がまだまだ必要だからかも知れないとも思うし(僕だってドキュメンタリーでなければ、翌年2月には映画をベルリン映画祭で発表なんて出来ていない)、なかなか物語を紡ぎだすには難しい現状が続いているからなのかも知れない。

むしろ天変地異が人間スケールの「物語」を超えている以上に、この震災は社会全体の「大いなる物語」を産む能力を超えてしまっていたか、その能力を日本全体がバブル後の20年のあいだに既に失っていたことを、曝け出してしまった。

なにしろあろうことか、被災地のほとんどで、まだ将来のことがなにも決まっていない。つまり「なにも変わりそうにない」。

「戻れるかどうか分からない」のは、実は原発被災地だけではない。津波被災地の多くでも「なにも変わらない現実」は、なにか変わる契機さえ見えないのなら、物語を作るのにはなかなか難しいだろう。

未だに津波を食らった町や村に、巨大防波堤を作るかどうか、自民党の環境部会でも揉めている。それがマスコミで話題になったのだって、単に首相夫人の安倍昭恵さんが出席して「それはおかしいと思う」と発言したから、つまり首相がらみのちょっと微笑ましいゴシップねたとして、だった。

自分で言えば話題になる、と計算していた昭恵さんは、案外とたいしたものである。彼女がそうでもしなければ、みんな忘れていただろう。
参考まで:安倍昭恵さんインタビュー(朝日新聞) 
http://news.asahi.com/c/aduXawa3oDpg88ai

そして肝腎の被災地では、たいていの人が「ばかばかしい。今度津波があったら逃げるからそれでいいべ」というくらいに思っている(ということを、東京のマスコミは報じたがらない)。とはいえ地盤沈下もあるので、それなりの大規模土木工事は必要かも知れない。「ではどうするのか」が決まらないまま、戻ることも出来ないし諦めることも出来ない(これも東京のマスコミは報じない)。

いや政府の側では、なにも決めなければいずれ諦めるか、高齢化も進んでいるのだし、はっきり言えばどんどん亡くなって行くだろう、とタカをくくっているのだし、東京の大手マスコミだって結局は一蓮托生なのだろう。

「絆」「絆」の連呼の裏の実態がこれだ。

口先だけ「頑張ろう」「被災地を思って」が連呼されたくらいで、そんなに嫉妬しないで下さい。

報道が集中して同情モードに染まったくらいで、自分たちが無視されたなんて思わないで下さい。

その報道だってあなた達の安易なセンチメンタリズムにおもねるためにも、えらく歪んでいたのだし。

ただでさえ実態は大変なのに、過去の生活を失ったまま未来がなにも決まらない宙づり状態なのに、メディアの見せる被災者イメージ相手にそんな歪んだ思いまで押し付けてどうする?

篠崎誠監督『あれから』予告編

神戸の震災とは異なり、東日本大震災をテーマにした劇映画はかなり作られたが、篠崎誠監督の『あれから』という傑出した例外と、実は密かに震災と原発事故を受けた映画である黒沢清監督の『リアル〜完全なる首長竜の日』を除いて(ちなみに日本で最初にクビナガリュウが発見されたのは、当時福島県双葉郡なので「フタバスズキリュウ」という名前がついた)、「物語を作りようがない天変地異」に直面していることにすら気づかなかった結果…まあ、なんというか…なかなか大変なことになっていますね…。

ディザスター・ムービー作りたいなら、作ればいいじゃんかよ。そうすると「不謹慎」とか言われるのが怖いだけなんだろうけど。


神戸の町並みは、震災で確かにえらく変わってしまった。

いや実は震災がなくたって、それなりの大都市だし、10数年経てばかなり変わっていただろうが、その前の神戸を知っている人からすれば悔しいのは分からないではない。山の手の方の古い、かつては上品だった住宅地の中には、建て直しが出来ないまま、更地や駐車場になっている場所もある。


神戸港に至っては、復興計画の失敗で(国際物流の変化に対応するのではなく、「元に戻す」計画だった)港湾としての地位が下落してしまった。なのに東北太平洋岸の漁港でも、その経験から学習することなく、漁業従事者の高齢化などを考慮した整理もうまくいかず、どう「元に戻す」かで莫大な費用の問題も含めて揉めていて、結果として動かない。それを見て神戸の震災やその後の経緯を知っている人が苛立つのは分かる。

いやそういう漁港でも、「俺たち平均年齢65だべ?5年かけて建て直すってなんだ?」と皆さんおっしゃってましたよ。ただ足下を見られて見捨てられるのが分かっているから、自分たちからは「もういい」とはなかなか言えないだけです。 
日本の政府は今までだって、そこまで冷酷でもあったのです。

だがだからって、嫉妬心丸出しに東北の被災地と神戸を比較するか、普通?

そんな空虚な幻想でしかない比較をして、なんの意味があるのかも分からない。

なにが嬉しいのかも分からない。

いや神戸出身の人がそんなこと言うのなら、こちらも敢えて言わしてもらおう。

神戸の震災で最大の被災地となったのは長田地区だが、ここの復興計画がメチャクチャであることに関して、このけったいな比較を言った人物を含めたその他の神戸市民や神戸市出身者は、知らんぷりはしているが、まったく無関係で無責任というわけには行くまい。

長田地区は震災当時、「世界最大の靴のゴム底の産地」と紹介された。

関西圏の出身か、親戚などを通じて関わりがある人ならすぐ意味が分かる “暗号” である。つまり長田は、いわゆる被差別部落地域だった。

 まもなく完成予定『ほんの少しだけでも愛を』より

真偽のほどは不明だが、だから消防車が行かないので火災が広がったという噂もまことしやかに流れていたし、たぶんこのけったいな比較を言った人物を含めたその他の神戸市民や神戸市出身者は、実はみんながそう思ったことだろう。正直に、神戸市関係者以外を相手に、それを口にする人は(「あんなとこヨツとチョンしかおらんさかい」)もの凄く稀だったろうが。

神戸の震災について映画だとかが、ドキュメンタリーも含めて、ほとんど作られなかったのはこのせいだ。一応、長田地区を追ったドキュメンタリー “らしき” ものは作られたが、肝腎の問題には触れていない(いやまあ、見事にカットしたもんだ、器用に隠したもんだとは思う)。

それは元々、差別に耐えて来た土地である。東京や横浜から行ったなにも知らない学生ボランティアが途方に暮れたなどと言う話を正直に語ってしまえば、差別を助長することにもなりかねないから作るに作れなかったのだろうが、一方で「なぜそうなるのか」を深く考えようともしなかった作り手が多かったことも確かだろうし、結局は「部落解放同盟からのクレームが怖いから上映出来なくなる」で逃げた、とも言える。

いやこれもけっこうひどい話なんですよ、実態は。 
「部落解放同盟からのクレームが」ではなく、解放同盟などと話をする際のこちら側の態度が無自覚に差別的だから相手を怒らせてしまっただけ、という例だってこの業界では相当にあることは、指摘しておいた方がいい。

もう一度繰り返しておく。そもそも比較すること自体がおかしいし、嫉妬のために比較するような問題ではない。

一方で、東北の被災地の場合にあった「比較」は逆だ。「大変なのは自分たちだけではない」「あそこはもっと大変なんだ」「ここは大丈夫だから、もっと大変なところを」、救援に来た自衛隊や米兵、取材に来た者たちに「こんな遠くまでご苦労様です、まずはお茶でも」。

こんど公開する『無人地帯』に出演してくれた人や福島県内での反応でいちばん大きかったのは、それぞれに双葉郡の人は「いわきの津波被災地も大変だ」「飯舘村も気の毒だ」、いわきの人は「原発避難のなにが大変なのかよく分かった」、飯舘村なら…と、自分たち以外の人々への気遣いだった。

だがそれでも「東北の震災がなんだ、神戸は」と言うのなら、「おたくの中央区や東灘区がなんだ、長田は大変だったんだぞ」とあえて言ってやろうとくらい、つい思ってしまう(不毛な売り言葉に買い言葉だとは承知しつつも)。いやこの場合は、実は比較ですらない。長田が最大の被害を受け、復興もムチャクチャにされてしまったことに、たとえば中央区と言った神戸市の他の多くの地域も、直接とまでは言えないにせよ、責任がないとは言えないのだ。

神戸の震災自体は天災だ。それ自体についての反省は、せいぜいが「ここは地震がない」と思ってかなり無防備だったこと、で済むだろう。

だがそこで人間の社会の断絶が浮き彫りになったとき、戦後50年の節目にそれまで放置してきたことに気がつき、なにかを考え、なにかをやらなければならなかったはずだ。

だが神戸では誰もその意思を持たなかったのか?

長田の「復興」は地元を追い出すことに利用され、それは隠されたままだ。あれから19年経っても、恐らくは誰も口にしないだろう。

言うまでもなく、こんな比較や嫉妬自体があまりに不毛だ。

「神戸は大変だった」とか言いながら長田のことは知っているのに知らないフリをするなんてもっと不毛だ。

天皇夫妻は分かっているからそれは丁寧に慰問をしたが、それだけで終わって、美智子さんの手向けた花束が永久保存されるだけがその記憶ならば、それも不毛だ。

震災が「どっちが大変か」とか「あそこはうちより優遇されている」とかの比較と嫉妬の話題になってしまうこと自体、どうかしている。

まるで「どっちがより大変な被害者か」で競争しているみたいな話になっている一方で、三つのプレートがぶつかりあっている日本列島が地震国であることすら、忘れているんじゃないか?

櫛の歯が抜け落ちたように、家が建て直されないままの区画が残る中央区中山手通り。
ここはかつて閑静な住宅街と商店街だった。

神戸の震災も、東日本大震災の震源も、なぜか地震学の研究や地震対策の政策から外れていた。福島の場合も神戸でも、たかが1000年程度の、地球の地殻変動の歴史ではほんの短い期間に過ぎないあいだ大地震や大津波がなかっただけで、「ここは大丈夫」と思って来てしまっていた。宮崎駿監督の引退会見の言を借りるなら「人間中心主義は絶対に間違っている」、我々はこの地球の表面のことですら、そんなに理解しているわけでも、支配しているわけでもない。

そんな世界の認識、人間の限界を受け入れることを拒絶するかのように、ひたすら「自分は被害者だ」と言えばなにか正当化されるような勘違いがはびこっているように思えてならない。そしてそれがいつの間にか、日本社会の主流のディスコースになっているように見える。だから “より凄い、より大変な被害者”を目指して競い合っている。

でもそんな「大変さ較べ」だったら長田が圧勝でしょうよ。「東北の震災がなんだ、神戸は」なんて言ってるおっさんたちは、「ヨツに負けた」なんてのは絶対に許容出来ないんでしょうけどね。
いや瓦礫処理のために焼却場を建てて「雇用を」と言って都会のゴミを押し付けたり、福島浜通りなら原発の次に今度は核廃棄物処理場を押し付けるなら、その扱いは関西圏におけるいわゆる被差別部落とほぼ「同じこと」にすらなってしまう。

そしてこんな「うちだって(あるいは、うちの方が)大変なんだ」較べは、上辺だけの児戯にも似たゲームに過ぎず、長田のように本当にいちばん大変だったところは結局は無視される

そしてよく見れば、そうやってあたかも「どっちがより大変な被害者か」で競争したがっているかのように見える人たちは、実はたいした被害を受けていなかったりする。そりゃそうだ。被害当事者にはたいがい、そんな余裕はない。

これは差別問題とかいわゆる「差別反対」の運動とかにも共通する話だ。「反対」の運動や「支援者」は、たいがいいわゆる被差別者を語るときに、やたら女子供を持ち出して「弱者」イメージを強調する。なぜなのだろう?そしてその弱者を「支援」することで「同化」し、そのことで自己正当化を計れると思っている。その発想自体が差別的だとも気づかずに。

いやまず、その女性や子ども達が仮に怖い思いをしているとしたって、それは「あなた達」が怖い思いをしてるんじゃないから。あなた達はただの傍観者だから。

それにたぶん、その女性や子ども達だって、あなた達ほどには怖がってないから。

だいたい、ずっと差別に耐えて来た人たちは、あなた達みたいにただ「怖い」だけじゃ済まない、屈辱感も含めてもっと複雑な感情を持っているから。

あなた達と違って、それをちゃんと受け止めなきゃ、生きて来れてないから。

別に彼ら、「弱者」じゃないから。たぶんマジョリティに甘えているあなた達より、実は遥かに強いから。


村上春樹の『アンダーグラウンド』で、春樹さんのインタビューに応じた、サリン事件を体験した人たちは、みな強い、もの凄く強い。強い人だから取材に応じられたという面もあるのだろうが、本当の意味で「人として」強い。そしてみんなただの庶民、いわゆる平均的な日本人だが、高貴だ。

あの事件から日本社会の全体としてはなにも学ばず、ただオウムを悪魔視して終わるか、せいぜいがそのオウムをただ糾弾しただけの日本社会も実はファシストでオウムっぽくないか、という程度の問題意識止まりで終わってしまったとしても、それを体験した人々、生き抜いた人々は、確実になにかを学んでいるのかも知れない。

いや少なくとも、それが『アンダーグラウンド』を読む素直な感想だ。


あの連休の谷間の早春の朝、多くの人がなんの脈絡もなく、ほんの偶然で、あの恐怖に巻き込まれた。

それは個々人の人生において、アトランダムなことでしかない。

“たまたま” その日は休みを取らず出社した

“たまたま” いつもとは違う路線に乗った

“たまたま” 普段は乗らない車両に、連休の谷間で座れたからそこにいた

だが「理由」や「因果応報」が見当たらなくとも、それが起こってしまったのなら、「そこからどう自分は生きるのか」が問われる。そしてこんなに壮絶な、ひどい体験ですら、そこからでも、人間は変わることもできる。

精神科医の皆さんには、鬱病の回復期の患者さんにぜひお薦めして欲しい本だとすら思う。 
危機に直面し、ありのままの自分に気づいたとき、人間は真に強くなれるのかも知れない。理不尽を鬱病になるほどちゃんと受け止められるからこそ、次の一歩が実はそこに隠れているのかも知れない。

ちなみに神戸というのはなかなかしたたかな土地柄だから、「弱者」のふりをした方が現実面で、物質的に得られる物が多い、という計算づくなところはあったかも知れない。

それはそれで、他人がいちいち上から目線で責めるような話ではないし、だからといって神戸の出身者が「東北の連中はいい子ぶっている」とか言いだすとしたら、これはこれでまったくおかしい。いちいち比較しないでいいじゃんか。

ちなみに「神戸の震災」について作られた唯一の、これはすばらしい傑作である映画は、震災の前に撮られている。相米慎二監督の『夏の庭 The Friends』だ。どういう意味で「神戸の震災について」の映画なのかは、見れば、そして神戸を知っていれば分かります。とりあえずトア・ロードと三宮周辺が写るだけでも、「ああ」と思うでしょう。
現代の、まったく変わってしまったトア・ロード

一方で東日本大震災の場合、被災地はある意味「昔からの日本」でもあった。

それは「他人の前で涙など見せるのははしたない」、「自分が大変でも、もっと大変な他人がいることを考える」という倫理観が保たれ、かつ「天変地異にはしょせん、人間はかなわない」「起こってしまったことを嘆いたり他人を責めても始まらない」という “百姓の国” の価値観が、保ち続けられた土地でもあった。

そしてなによりも、現に多くの人が強かった。だが結果としてこの国の社会の不思議なゆがみは、“強い” 被災者に「弱者・被害者」気取りの “そこ以外” の日本が、妙に甘えてみたり嫉妬してみたりすることで終わっていないか?


そして今や、いかに “強かった” 被災者も、どんどん疲れ切ってしまっている…。

現代人の集合的な悪意や無神経・無関心、無自覚な人間中心主義どころか自己中心主義は、天変地異、大津波や放射能よりも怖いのかも知れない。

9/17/2013

あなたの身近な「人格障害」者


「人格障害」という言葉に、「人格を否定された!」と脊髄反射で大騒ぎになる人も多いかも知れないが、これは精神医学における疾患の分類で…というか本当に人格障害と総称されるものが精神疾患といえるかどうかも怪しいわけだが、いずれにせよ「最悪の人格」とか「性格が悪い」という意味ではないので念のため。

それこそ「人格を否定された」と脊髄反射しないで下さい。それって自己愛性か、依存性などの人格障害の可能性があるから。 
無論、それだけでは、判断は出来ませんけどね。

さらに念のために言っておくが、世に名だたる極悪人が「人格障害」である保証もない。カテゴリーによっては「とてもいい人」「つきあって楽しい人」「かわいい」と見える人もいる−−というか実は依存性人格障害の場合、一見「とてもいい人」「つきあって楽しい人」「かわいい」が特徴のうちだったりする。

…というか、たとえば依存性人格障害の特徴は、かなりの部分「癒し系」に合致する。反社会性人格障碍者は、一見快活で魅力的で、決断力があってリーダーシップがあるように見える。

いやだからって「癒し系」の人がみんな依存性人格障害だというわけじゃないし、リーダー向きの性格の人がみんな反社会性人格障碍であるわけがないので念のため。

アドルフ・ヒトラーが反社会性人格障碍、俗にいうサイコパスだったという説は根強いし、実際に記録が残っている言動も、サイコパスを疑わせる部分が多い。だが僕は案外、これは怪しいかも知れないとも思っている。

ちなみにヒトラーが食卓での会話を速記させた記録をpdfで
http://vho.org/aaargh/fran/livres10/HTableTalk.pdf

なお間違ってサイコパス=独裁者と思われないように念のため言っておけば、サダム・フセインにその傾向があったとはまったく思えないし、北朝鮮の金正恩がそうである可能性はまったくないだろうし、また単純に「悪人」ということでは決してなく、たとえば戦後日本の支配体制を決定づけた昭和の妖怪、極悪人の岸信介が反社会性人格障碍であった可能性も、まずないと思う。

ただしお孫さんの安倍晋三が、なんらかの人格障碍である可能性は、もの凄くある。

いやそうでなくて、「お腹が痛い」で呆気なく総理を辞めたこと、最近よくやってる、妙に自信ありげに人差し指を振り上げながら支離滅裂だったり自己撞着があからさまなことを自信満々に言っていたり、噓だと分かり切ってること、たとえば福島第一原発事故が完全に「アンダー・コントロール」なんて、あんな平気な顔して言えませんよ。
ただし安倍晋三さんが人格障碍である可能性が高いからといって、反社会性はまずないように思われる。反社会性人格障碍だったら、あそこまで「言わされてる」感が丸出しにはならないはずだから。

以前『平気でうそをつく人たち』という本がちょっと話題に、ベストセラーになったことがある。実は書評や読んだ人の話だけでだいたい内容は分かったものの、読んでません(汗)。

いわゆるサイコパス、反社会性人格障碍の話らしく、「だったらだいたい知ってる話だし、まあいいかな」というのと、売れる題名なのは分かっているのだが、それだけに気に入らない、と思ってしまったのだ。

いやアメリカの本の翻訳なんだし、日本の出版社のつけた恣意的な題名で判断しちゃいけないんですけどね(こういうやたら理屈っぽい字義通り性とこだわりは、人格障害ではなく発達障害の可能性あり)。

それでもこの本の日本語題名だと、そこまでセンセーショナルに悪魔化していいものか、とも思うのだ。人格障碍やその予備軍は、あなたや私の身近に案外たくさんいる、まさに一見普通に見える、実は身近な存在であり、今の日本の多くの社会的な問題の背景にある可能性も高い。

それに「平気でうそをつく」のが反社会性人格障碍の際立った特徴なのはその通りなのだが、反社会性だけの特徴でもない。

たとえば依存性人格障碍でも平気で嘘をつくし、それがこの病気(と言っていいのかも怪しいのではあるが)の特徴的な症状の結果である場合がほとんどだ。

しかも「平気でうそをつく」のがたとえば依存性でも、演技性でも、自己愛性でも、境界性(というのはその実、医者がうまく分類出来ないから適当に放り込むカテゴリーなわけだが)でも、それぞれの分類の人格障碍で大なり小なり見られる際立った特徴であるだけに、誤解を招きかねない。

それに反社会性人格障碍の話が、日本でベストセラーになるのも気に入らない。

どう考えても日本ではあまり数が多くないはずだ。この本を読んで心当たりがある、と思った人も多いと思うが、そのほとんどがたぶん反社会性人格障碍ではない。恐らくはかなりの部分が、日本に多いと推論される依存性人格障害や、最近増えてる可能性が無視出来ない自己愛性人格障碍だ。

反社会性人格障碍が日本にいないわけではなかろうが、その事例でも自己愛性にかなり偏っている場合が、たぶん多いだろう。

依存性人格障害や自己愛性人格障碍の方が日本には恐らく、その予備軍も含めれば相当に多いのだし、本当はみなさん、こっちの話をちゃんと読んで学んだ方がいいと思うのだが、その臨床と研究を続けている矢幡洋さんの、依存性と日本社会の特徴を結びつけつつ論じた、かなり分かり易い入門書だとかは、ぜんぜん話題にもならず、あまり売れていないようだ。

ちょっとご紹介しておこう。
いやまあ、他人のことなら「人格障碍だ」と言えばスッキリする、でも自分たちのことは考えたくない、というのも理解は出来るんですが、こうもミもフタもなく精神医学や心理学でいう「否認」「自己逃避」の実例になりかねない話だと、それはそれで頭を抱えるわけで。

先述の通り、依存性人格障害の特徴はかなりの部分「癒し系」だ。

癒し系でやさしい、思いやりや気配りのある人だと思っていた相手が、なにかもの凄く大変なときに「あれ?」と思わざるを得ないくらいに豹変した経験はないだろうか?

  • 突然薄情になる。
  • 親友や仲間だとか思っていたり、それこそ恋人だった相手でさえ、突然人間関係から身を引いてしまう。
  • 平気で噓をつき始め、責任のなすりつけに終始する。
  • いかにも頭が真っ白と言わんばかりに表情が消え、黙り込む。
  • なにが言いたいのか分からないことを呪文のように繰り返す。

こんな感じで、こっちがなにがなんだか分からず「え? なんでこうなるの?」と愕然とする、という経験をお持ちではないだろうか?

あるいはその本人がなにか重い責任を背負い込んだとき、

  • なぜかなんの深刻さも自覚がなく、なぜかケロっとしている
  • なんの躊躇もなく、呆気なく責任放棄
  • 話が噛み合ない
そこで「どういうことだ?」と問われると…
  • いろいろいいわけはするのだが、そのいいわけの内容にかえって腹が立つ
  • 記憶が消えている
  • 一貫性のない作り話や言いがかり
  • 逆に右も左も分からないパニック状態で逆ギレ
  • 無表情で黙り込む

「え? なんでこうなるの?」とこっちはキツネにつままれた気分にさえなる。

この突然の豹変と反応は、なにがなんだかさっぱり分からない。

平たく言ってしまえば、こういうのがたいがいの場合、依存性人格障害だ(ただしあなた自身が人格障碍を抱えていて、責任の転嫁・なすりつけを無自覚にやっていない場合に限る)

元々は浄土真宗の教えなのだと思うが、私たちは生きているだけではなく、(あらゆる衆生に)生かされてるという考え方がある。この話をある女の子にしたら、「そうなんです。私は生かされているんだからこのままでいいんです!生かしてくれる人に感謝しています!」と言い張られたことがある。

まさに「え?なんでこうなるの?」である。

一応はミュージシャンや演劇志望、アーティストを目指してるはずの彼女にとっては、自己表現をすれば数は少ないとはいえ観客が喜んでくれるのだから、自分は生かされている、生かしてもらえるだけの正当性があるのだ、と思っているのであろう。

どうも依存性人格障害の典型に思えるパターンなので、確認のため混ぜっ返す指摘をしてみた。

「でもそれは、あなたもまた他人を生かしている、という意味でもあるよね。生かされていることに感謝するということは、自分もまたその人たちを生かす、あるいはその人たちに自分が生かしてもらっていることを、自分が他の人を生かすことにつなげなきゃ、いけないよね」

ちなみにこれが、浄土真宗で「皆さんは生かされているのです」と法話でお説教する際の、キモの部分の定番である。なんだかんだ言って天才・親鸞の拓いた日本仏教の最大宗派、よく出来てます。

とたんに思考停止で「だからそれはぁ」と言った後が続かない、そのままパニック状態だ。後でヒステリックな罵倒に満ちた絶縁メールまで飛んで来た。

この女の子の場合でも、普段は依存性人格障害に多く見られる「癒し系」のパターンで一見「とてもいい人」「つきあって楽しい人」「かわいい」し、こういう状態に追い込まれることさえなければ、熱心にミュージシャン志望や演劇志望をやっているように見える。

だがなにかの間違いでもない限り、スターになることはあり得まい。

もっとも、僕はよく知らないのだが、AKB48というのは、まさにその「なにかの間違い」で大成功している例にしか見えなさそうに思える。
矢幡洋先生によれば、「たれぱんだ」などのゆるキャラの流行もそうで、日本全体が幼稚なタイプの依存性の傾向を強めている可能性があるという、その好例なのかも知れない。

なお一時期、サイコパスをアスペルガー症候群などの発達障碍の性格的な特徴と誤解して、「人の気持ちが分からない」「人を人としてみていない」故に犯罪予備軍とみなす風潮が蔓延したが、これは完全な間違いであり、露骨な差別偏見だ

発達障碍と犯罪的・反社会的な行動、あるいは「やさしい」かどうか、「思いやり」の有無、あるいは倫理観の歪みに、直接の関係性が、そもそもまったくない。

だいたいアスペルガー症候群などが「人の気持ちが分からない」はまったくの間違いだ。「空気を読む」、つまり直感的かつ無自覚にその場の雰囲気から気分を察することには確かに困難が伴うが、意識している感覚ではむしろより敏感で、観察力と想像力でむしろ人の気持ちを鋭く見抜く人も多い。

音楽家、画家、映画監督、それに俳優にも、発達障碍の可能性が指摘される人、カミングアウトしている人も多いではないか。「人の気持ちが分からない」どころか、こうなるとまったくの真逆だ。

先天的な脳の認知機能の問題であるアスペルガーなどの発達障碍(先天性なんだから「発達」ではなく、むしろ自閉症スペクトラム障碍、と言う分類の方が正しいと思う。いやまあ「自閉症」と言う用語も誤解は招くのだが)には、犯罪行動はほとんど関係しない。

せいぜいが「巻き込まれるリスクが高い」「追い込まれる場合がある」くらいしか言えない。

先天的な犯罪者予備軍がいると誤解した方が「自分は正常」と思えて楽なのだろうが、生まれつき「おかしな」人だから危険という理解は、たいがい間違っている(分かり易く差別だし)

自閉症や、アスペルガーなどの自閉症スペクトラム障碍は「しつけ」の問題ではまったくない、とまで言ってしまうのと、それはちょっと厳密には間違いになるのだが、そういう障碍があることそれ自体については、親のしつけはまったく関係がないのはその通りだ。ただその障碍を持った子どもがどう幸せになれるかは、親の扱い次第の部分が大きい、というだけである。

一方で人格障碍、いわゆるサイコパスは後天的・環境要因である。

つまりはっきり言えば、「親が悪い」「学校が悪い」でかなりの部分、説明はつく。生育環境における歪んだ体験の積み重ねのせいで世界観の認識の歪みから行動原理に倒錯が現れ、倫理観が乏しいか欠如している。

だから「平気でうそをつく」だけでなく、倫理観が乏しいか欠如している以上は、犯罪との直接的な因果関係は無視できない。

…というか、はっきり言って犯罪予備軍である。

ここで「倫理観」とか言い出すと、「ちょっと待て、宗教や道徳の授業じゃないんだから。科学なんでしょ」と怒られそうだが、ここで言っている「倫理観」は「悪いことだからやめましょう」「法律で決まってるから悪いことです」的な話ではないので念のため。 
人間が社会的な生物である以上、他者との関係を通して社会を維持する必要が個々人に課せられている。 
平たく言ってしまえば自分の行動が他者にどう影響するのかのリスクの認識がなければ、対人関係を維持し社会的な立場を確保することは難しい。 
そうした関係性におけるリスクの高い、損失の大きい行為や考え方を、宗教や社会道徳では「悪」とみなすことで社会秩序を維持していると科学的にはみなせるわけで、この場合の「倫理観が乏しいか欠如」とは善悪の選択のことではない。「悪」とみなされることを承知でその「悪」をなすことを指しているのではない。 
世紀の極悪人が「倫理観が乏しいか欠如」して反社会性人格障碍とみなされるわけではない、とはそういうことだ。自覚的に、自らの判断でやっていることを「人格障碍」と呼称する理由はない。

反社会性人格障碍の特徴のひとつが、社会的な倫理観に基づく良心の呵責がない、だからたとえば「平気で噓をつく」ことにもなるのだが、だからって希代の詐欺師がみんな反社会性人格障碍だとは言えない。

むしろ成功する詐欺の常習犯では、サイコパスの比率は、少ないかも知れない。

なぜなら「平気でうそをつく人」であれば、嘘をつくことそれ自体のハードルは低く、簡単なのだろうが、バレないように噓を突き通すのはもの凄く難しい、自分の噓がバレることを計算に入れて先回りして行動するぐらいでなくては、なかなか無理な相談だからだ。同じ理由で、岸信介が反社会性人格障碍だったとは思えない。冷酷な極悪人であったのは確かだが。

良心の呵責がなければ人殺しだって簡単だろう。

だが良心の呵責があっても、それでもそれを乗り越えて人を殺す場合だってある。自ら悪を選択する意志があっての犯罪は、精神医療の範疇ではないし、障碍とみなすべきものではない(もっとも人格障碍が精神医療の対象である「病気」かどうかは、議論の余地があり過ぎるのだが)。

また反社会性人格障碍とは、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告のような人のことでもない。

念のためやった精神鑑定でも、まったくその傾向がないことは結果が出ている。加藤智大君は人殺しが悪いことだとちゃんと認識し、その良心の呵責もありながら、それでも人を殺すことの欲望というか彼にとっての必然や怒りが、それを凌駕してしまっていることは、彼が犯行に至るまでシステマティックに追いつめて行った論理性を見ればまず疑いがない。 
彼は「平気でうそをつく人」ではなかった。むしろうそをつけない、真面目過ぎたのかも知れない。 
オウム真理教の麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚が反社会性人格障碍という可能性はあるだろうが、それだけで片付けてレッテル貼りできるものでもないとも思う。

反社会性人格障碍や自己愛性人格障碍の人間のなかには、自分が悪とみなされることをむしろ望んでいる面すら観察出来る。

「ワルぶっている」人間がすべてサイコパスだと言う意味では決してないが、自己愛性、ないし反社会性人格障碍の人間は「ワルぶって」いることがむしろかっこいい(そう受け取られる素地も、こと欲求不満とコンプレックスの溜まった社会では大いにあり得る)ことにだけ執し、「ワル」と見られることのリスクを実はまったく認識していない(普通ならどんなに「ワルぶって」見せようとしても、直感的な躊躇がどこかであり、それを乗り越えてワルを気取るものだ)傾向がある。

「平気でうそをつく」のも、それは噓をつくことが無意識・無自覚のレベルで本人には「平気」だから、直感的に噓がバレた場合のリスクも考える、ということをやらないぶん簡単に出来ることなのだ。

確信犯的な嘘つきにとって、噓をつくことは「平気」ではない。噓がバレたときのリスクを計算の上、バレないように噓をつく努力などはちゃんとやらなければ安心出来ないのだが、それは元々、人間は簡単に噓をつけない、そのリスクを考えてしまう生きものだからでもある。

希代の詐欺師や悪徳政治家は、自分達の噓が暴露されればどうなるかのリスクを認識していなければ、そこまで大それたことをやる前にたいがいは潰れてしまう。

ヒトラーが本当にサイコパスだったかどうかいささか疑問があるのもここで、彼を支持したドイツ国民がそのサイコパスに騙されることを無自覚に受け入れ続けていたか望み続けていたのでもない限り、一過性ならともかく、12年に渡って政権を維持することは不可能に思えるからだ。 
また岸信介がサイコパスだったとみなすのはかなり難しいのも同じだ。

逆に「平気でうそをつく人たち」である人格障碍者は、その噓がバレたときのリスク認識が直感的なレベルで抜け落ちている。意識的にそれを補完することは気づけばやるのだろうが、たいがいの場合は噓に噓を重ねてますますおかしくなって、まさに「え? なんでこうなるの?」とこちらがキョトンとしてしまう状態になる…のが本人たちの自覚はまったくないらしい。

まあ他人の心のなかが、そこまで把握できるわけでもなく、実は自覚はしていても、それでも続けているのかも知れないが…。 
依存性人格障害の場合、それがこちらに対して発しているSOS、もうそんなに追いつめないで、ボク壊れちゃう、ということなのかも知れないが… 
…そんな勝手なこと言われても困るんだけど。他人には分からんよ、そんなの。

人格障碍者が「平気でうそをつく」、あるいは肝心なときに「妙に無責任」で「深刻さが欠けているようにしか見えない」、他人を巻き込むことを厭わず思考停止のパニック状態を見せつけるのは、それが他人様や相手を怒らせたり、不快にするリスクを、そもそも実は認識出来ないか、その認識が著しく乏しいから、と説明出来るだろう。

倫理観が低い、ないし欠如しているというのは、道徳の教科書レベルの話ではない。

社会的生物としての他者との関係におけるリスク、赤の他人が自分をどう思うかについての直感的なリスク感覚が、そもそも抜け落ちている。その言動が「間違っている」、ないし相手を怒らせたり不快にさせたりするリスクを、認識出来ていないのだ。

世界観のなかに「他人様」がいない、とも言える。他人様がいない世界観だから、目の前にいるのが他人様であって、その人の感情や意志は独立したものだと認識していないなら、その他人様に自分をぶつける際に必要なはずの倫理観も必要ないのだ。

自分とはあくまで別個の存在としての他者ではなく、他者をすべて自己の期待や欲望の延長上か、自分の感情の投影先としてしか、実はみなしていない

たとえば、他人様を自分が怒らせた認識がなく、怒った相手が「自分を攻撃している」としか認識出来ない。 
あるいは自分が追いつめられて感情的になっているのは、それが相手が自分の感情を刺激しているからであり、それは相手が攻撃しているのか、感情的になっているのだ、という客観性に欠けて誤った認識(自己逃避であり自己投影)を即座に、かつ無自覚に採用し、それに固執してしまう。

今日、このテの「え?なんでこうなるの?」的な行動原理を「人格障碍」、Personality Disorder と分類する概念が生まれ、そう分類される事象が研究されるようになったのは、まずアメリカの精神医学で盛んになったことだが、アメリカでサイコパス、反社会性人格障碍をめぐる議論や言説や研究、さらには映画や小説までどんどん産まれるのは、実際にそれに該当する人が確かに多いと思われる(事件すら多い)し、文化や社会の価値観からしてそれは説明がつく。

なんせアメリカ合衆国って、反社会性人格障碍くらいあった方が、出世し易い国なんだもん。

あるいは今の米軍がやっている訓練方法には殺人に伴う良心の呵責を押さえる心理誘導がシステマティックに組み込まれているので、米軍、とくに海兵隊のブートキャンプだとかは、サイコパスの育成装置になっている、とすら言えてしまう。

一方で日本は社会の価値観からして依存性人格障碍、それも自虐性に偏った依存性が従来は多かったと推測されるし(旧日本陸軍なんて、かなりの部分が自虐性の依存性人格障碍を奨励する組織だった)、今では小児性や自己愛性に偏った、幼稚なタイプなどと分類される人格障碍が増えている可能性は、もの凄くある。日本の場合はある意味、学校教育がそれを奨励しているんだから

逆にアメリカの精神医学では、依存性人格障碍はあまり注目されない。

ヨーロッパでもフランスなんかでは「理解出来ない」と言われそうだ。そりゃそうだ、僕もあの国の小学校で育っているが、ああいう教育やああいう子育てでは、依存性になんぞに陥りようがないように思える−−と言って、実際にいないわけではない。だたあっけなく無視されがちだから、社会的な影響力をほとんど持ち得ない。依存性を発揮して取り入ろうとしても、それを受け入れる素地が社会の側にない。

日本はかなり逆で、大きな事件などがなにもなければ、依存性があった方が生き易い。

アメリカやフランスのような社会で依存性人格障碍が大きな被害をもたらすとすれば、社会的な犯罪よりは、DVなど家庭内、パーソナルでプライヴェートな空間においてだろう。

こうしたアメリカの精神医学界が起源の人格障碍をめぐる議論や、人格障碍を事実上の精神疾患として扱う、精神科医が認知行動療法などを用いて治療にあたる、という考え方に、僕は以前はそれなりに納得していたが、今は「本当にそれでいいのか」とも思う。

いやもう、とくに日本では「人格障碍なんて精神科医が儲けるための詐欺だ」という極論すら最近は出ているし、これもそれなりに傾聴には値する話だ。

参考まで、精神科医・内海聡氏の見解 

既存の(アメリカ起源の)モデルでは、人格障碍は誰もが大なり小なり持っている性格上の特質が極端化した状態だと言われている。

今の精神医学の定説では反社会性と依存性は同一線上の逆方向のベクトル、社会に対する順応・協調性が強過ぎると依存性、逆に独立心が強過ぎると反社会性、と分類している。だが、この説はえらく勘違いした単純化だと思うし、こんな杜撰なモデルでは、いくらカウンセリングをやっても破綻しそうだ。

というのも、反社会性人格障碍と自己愛性人格障碍には一見共通するところが多く、反社会性と依存性人格障碍では真反対に分類されているが、よく見ているとそうではなく、むしろ行動パターンの表層では真逆に見えても、分析的に見れば実は共通点が多く、そして親和性が高く同じ集団を形成する場合も少なくないからだ。


  • 妙に子どもっぽい。ただし若々しいとか純粋という意味ではない。
  • 人間関係の作り方や維持の仕方がものすごくワンパターン。でもなぜかそれに本人が飽きることがなく、人間関係の発展や学習能力も期待できない。
  • 「自分の責任」という認識がないか、著しく低い。妙に無責任。あらゆる事実関係や価値観を無視して、結局はすべて「他人のせい」。
  • 対人・対社会の関係におけるリスク判断が、対人関係に依存しているはずの依存性人格障害ですら、実は抜け落ちている。「言われたからその通りにやる」「それがルールだから」までしか考えておらず、なぜそのルールがあるのかを体感的に理解出来ていない。だから「ルールを守ってるじゃないか」と逆ギレする。
  • 会話の受け答えがかなり行き当たりばったりで、よく聞いていると言ってることの筋が通らない
  • 正誤や価値の判断における一般性、普遍性の認識や論理性が欠如している。だから反社会性人格障碍の場合、一見多くの知識を駆使しているように見えるが、その知の体系に一貫性がなく、行き当たりばったりにその場その場で偉そうに自説らしきものをぶっているだけで、自己矛盾が激しく、実は「自説」として成立していない。依存性の場合、人間関係における上位者に従い依存しているだけで、ある一貫性のある価値観や普遍性のある倫理判断に従っているのではないため、やはり自己矛盾した受け売りが多い。
  • 事実関係の把握が、一方的に自己正当化の方向に歪んでいる
  • とても無邪気にうそをつく。
  • いいわけがいいわけになってない、かえって相手を怒らせることを言う
  • 自己逃避と自己投影が激しく、自分のモノ差しや自分の都合だけで相手を一方的に決めつける。結果、ただでさえ正誤や価値の判断の一般性・普遍性がないことによるダブスタや、いわゆるブーメラン状態が、無自覚な思い込みでますます増える。
  • 知識や認識が自分のなかで体系化されていないので、実は思いっきり権威主義。ポーズとして反権威主義、反体制的に振る舞っても、一皮むけばもの凄く薄っぺらに肩書きや社会の決まりごとに左右されている。反社会性人格障碍であれば社会に反抗しているようでありながら、社会的な地位に拘泥・執着する。依存性人格障害の場合も「みんながそう言っている」と、自分に味方してくれている周囲の支持だけで自己を正当化する。
  • 自分のやったことの記憶が消えている。逆に他人にやられたことは極端に根に持つ。
  • 一見激しく感情を発露しているように見えても、実は感情が希薄である。一定の複雑さを持った人間らしい感情が欠如している。「喜怒哀楽」という単純化した分類だけでも、反社会性人格障碍の場合は「喜怒」しかなく、依存性人格障害の場合は「哀楽」しかない。実は「自分が認められている」ことに対するポジティブな感情と「自分が否定されている」ことに対する反発、この二つの感情だけでたいがい説明がついてしまう。

いやこうなると、人格障碍の様々な種類を今のやり方で分類することの限界まで見えて来た気がする。反社会性と依存性という区分け自体が怪しく思えて来たぞ。どうも現在提案されているモデルは、まだまだ改善や再検証が必要ではないだろうか?

「人格障碍」と言葉の響きは、なんだかおどろおどろしいことを想像されそうだし、今まで書いて来たこともえらく不気味に思われるかも知れないが、これはいわゆる精神疾患(かどうかも厳密には怪しい←しつこい!)のなかでは理論上、もっとも深刻でない部類になる。

だいたい、だから精神疾患とみなすべきどうか議論が分かれるのだ。

対人関係におけるリスクを勘案して社会的生物としての自分の地位と、所属する社会の秩序を維持する必要までは、全人類に共通することだが、それがどう実践されるかは「噓はいけません」「人殺しはいけません」程度のもっともベーシックな倫理観以外では、社会や文化によって、その倫理観がどのように体系化されているのかも含め、かなり千差万別である。

たとえば江戸時代までの日本は、現代とかなり異なった倫理観を持っていたし、それは表面的には極度に西洋化された現代でも、無自覚なレベルでは相当に残存している。詳しくはこちら→「私的・江戸時代論

つまり多くの人格障碍者には欠如しているか認識が著しく低いと思われる倫理観の形成は、それぞれの人間が育ち所属した社会やコミュニティの文化に左右されている以上、先天的に人間に組み込まれた「本能」とは言い難い。

それに人間どうしのつき合い方の文化ともなれば、倫理規範のベースとなる宗教によって一定の統一性を持つわけでもなく、もっと多様だ。

強いて言えばそういう個々の文化や社会の差異にも関わらず、そこを超越して語りかける力を持つ芸術表現のなかにだけ、その「人間の本能としての良心」が息づいているのかも知れない
というか、無自覚にでもその確信がなければ、たぶん誰も映画だの演劇だと小説だの、やってません。

だから人格障碍は明らかに後天的な環境要因と考えるべきであり、ぶっちゃけしつけや子育ての失敗に起因する場合が多い。意識や認識の構造の問題ではあるが、脳の器質的な機能の欠陥に直接関係はしない、要は育っている環境の結果認識や意識、世界観が歪んでしまった、という程度のことであり、精神医学による対処が本当に適しているとも言えないからだ。

むしろ禅寺で修行するとか、熱心に農業でもやるとか、職人に弟子入りするとか、なにかの体験で気づいて自分を克服するとか、小説でも映画でも演劇でも、あるいは音楽でも絵でも、なんらかの形で世界観をスッキリさせる芸術体験の方が有益だったりする。

いや恋愛や最高のセックスだって、その方が有効な場合もありそうだ。

だから「こんなもん精神科で扱うのがおかしい、儲け主義の詐欺だ」と言われても、それはそれで納得せざるを得ない。

ただし、上記のような精神科以外の方法はいずれも万能ではないし、逆効果の場合だってある。それを言ったら精神科医のカウンセリングだってまったく同じことではあるが。

題名は忘れてしまったが、ある韓国映画で、子どもを殺された母親がその殺人犯に刑務所で面会するシーンがあった。犯人は自分の罪を悔いているという。だが自分は罪を悔いて神に許されたのだから、母親にはもう彼を責めることは出来ない、と続けるのだ。 
まさに「え?なんでこうなるの?」と観客はキツネにつままれた気分になる話だ。ひたすらキョトンとしてしまうし、あまりに意外なので反論が出来ないちゃぶ台返し、その母は怒ることも出来ず、ただ哀しみにますます突き落とされる。 
この通り、サイコパスにはキリスト教もまったく役に立たないこともある。

また原因が深刻な器質的な機能の欠陥ではないし精神疾患と分類して深刻に考えるべきでないと言って、治療が簡単だとか(「治療」と言えるのかも怪しい←しつこい!)、回復し易いわけではない。

たとえばリストカットは境界性人格障碍がかなり重度な場合に、よく見られる行動だとされる。重度なパニック障碍に陥る場合だってあるし、出て来る症状には深刻(に見える)ものだって少なくない。

それに回復は、より重度であるはずの精神疾患よりもさらに難しいかも知れない。薬物は関係ない、役に立たないし。サイコパスと言われるレベルでは、治療しようがない、治らない、という見方もある。

たとえば、幼少時から虐待的な環境で育ってしまうと、人格障碍に陥るのは極めて可能性が高い。家庭内なら親、学校でも大人や社会との健全な関係を持つことが最初から禁じられてしまっているのだ。

このトラウマを克服するのが非常に難しいのは、言うまでもない。

そうした虐待的な環境がどれだけの禍根を子どもの将来に残すのか、日本ではまだまだ事態の深刻さが理解されているとは言い難い。虐待する親から子どもを引き離せればめでたしめでたし、とは絶対にならないのだ。

以前、クリントン米大統領が自分を「アダルト・チルドレン」と告白したことがあるが、これも一種の人格障碍である。なおこう告白出来る、つまりは自覚しているだけでも、人格障碍は半分は治ったようなものである場合も多い。

これも誤解されがちなのだが、「虐待的な環境」というのは子どもにとって、ただ親が暴力を振るうとか、ネグレクト=薄情な親、愛情が欠如、といった話に単純化していい問題でもない。「アダルト・チルドレン」はこと現代の日本の場合、多くの人が思っているよりも遥かに多い。

一昔前、母親と娘が仲良く同じ洋服を、とかの事象が「一卵性親子」と言われたが、あれだって共依存関係に我が子を陥れる虐待的な関係であり、依存性人格障碍の典型のひとつだ。

暴力を伴わなくとも子どもが親や周囲の大人の思い通りに行動する、そうすることが正常な親子関係だと子どもが思い込んでしまう、親を喜ばせることが子どもの最大の喜びになってしまえば、それだけで立派に虐待的な親子関係、虐待的な子どもと大人の関係であり、人格障碍の温床でもある。

学校でのいじめでも、表層の理屈だけでなく実際の感覚として、いじめられた子どもが自分の受けた体験は不当なものであると認識し、いじめた側の子どもにきちんと反省できる認識を与えるよう教師や学校がふるまわなければ、もし出来ないのなら子どもがそれを「これは大人が、先生がダメなんだ」ときちんと心の奥底にまで腑に落ちて認識出来ない限り、やはり人格障碍の温床になり得る。

だから今の日本で蔓延している、上辺だけの対症療法的ないじめ対策は、完全に誤っているのだ。

自分と他人との関わりとして「いじめ」が不当であり異常であり、そこに順応する必要がない、生存のためやむを得ず合せていると自覚できるならいいが、そういう下位に置かれた立場が自分の世界との関わり方なのだと思ってしまい、たとえばそこに服従することを潜在意識で前提としてしまえば、依存性人格障害に陥っている可能性がある。

また加害者の側でも、きちんと自分の行いを認識・反省出来なければ反社会性人格障碍や自己愛性人格障碍になる可能性は無視出来ないし、加害者グループ側でもいわば下っ端、付和雷同型の加担者は、被害者より重度に依存性人格障害になる可能性が極めて高い。

親が子どもに対して親としてちゃんと振る舞えない、極度に自信のない親が子どもに反抗期をちゃんとやらせない、「好きにしなさい」的に振る舞うだけの、子どもの自由を認めると装いつつ、実はネグレクトの状態で、幼児の持っている万能感を克服させられないまま育ててしまえば、自己愛性人格障碍や反社会性人格障碍になる可能性も高い。

これらの子どもの育ち方の環境の問題を、「だから『親学』だ」的な安易で薄っぺらな抽象論と勘違いしないで欲しい。

人格障碍とはあるイデオロギーを信奉するかしないか的な問題ではなく、その前提となる世界の認識に起こる倒錯である。たとえば『親学』を信奉し実践する親のその動機がたとえば依存性人格障害的なものであれば、教科書的にそこで推奨されていることを実践しても、決してうまくいかない。

依存性人格障碍の親は、子どもに不機嫌になられる、怒ったり泣いたりされるだけで自信を失ってしまうので、ひたすらそれを避ける傾向がある。それが「親学」なら「親学」という権威に依存出来るとなると、とたんに杓子定規に、子どもの反応も見ずに押し付け始める場合も少なくないだろう。

そこでまして「言われた通りにやってるのにうまくいかないじゃない!」だけで親が思考停止する(依存性人格障害の典型的な行動原理)なら…

…っていうか『親学』とやらで言ってる子どもとのスキンシップが、愛情がどうこう、あれはすでに子どもからみれば過剰な抑圧です。 
それを気持ち悪がらずにベタベタして喜んでる子どもって、それだけでも危険に思えますよ…。 
だいたい子育てに「○○の伝統的価値観」とかの大人の政治性をうっかり持ち込まないで欲しい。その発想自体が、虐待的だ。

実際には、人格障碍を精神科医が扱うことになるのには、やむを得ない面はある。

本人が思いっきり人格障碍な状態でも、日常生活に即座にそれほど支障があるわけでは必ずしもない。

反社会性人格障碍の多くは一見バリバリ仕事ができて有能に見えたりもするし、自己愛性人格障碍は本質的な幼稚ささえ隠せれば自信に満ちあふれて見えるかも知れないし、依存性人格障害は(さっきからしつこく言ってるけど「癒し系」に見えるから)協調性と気配りがあるように見え、周囲からかわいがられたりする。

問題が顕在化するのは、どうしようもなく大変な状況になった時だけ、というのがほとんどだ。

人格障碍のある人は実は社会的な耐性が極端に低い。ストレスに弱いだけでなく、場合によっては無駄で過剰なストレスを自分で作り出してしまう。

一見、周囲の仲間とは仲がいいから社会性が高く見える多くの依存性人格障害の人も、実は自分の依存先との人間関係が、潜在的に支配−被支配関係なので相手にとって気持ちよく、だからうまく行っているように見えているだけで、社会性が極端に低い。

だから少しでもその依存関係の構築では通用しない人間関係になってしまうと、とたんに「なにがそんなに大変なんだろう?」とハタ目には思うほど大混乱、パニック状態になって頭真っ白なまま錯乱した言動に陥ったり、過剰に興奮してパニック障碍を起こしたり、リストカットに走ったり、いわゆる頭が真っ白の状態になってなにも出来ずに自分の殻に引きこもって、あたかも鬱病になったかのようにさえ見える場合もある。

つまり世間的に言えば、やはり精神科医の出番である。

極端な場合、まるで鬱病にみえる(だが実は責任回避に懸命なだけの、一種の無自覚な演技)状態であるだけならまだいいが、過剰なストレスで本当に鬱病、つまり今の定説では脳内の神経物質の分泌異常の悪循環でどんどん落ち込んで行く、これは間違いなく精神疾患になる場合だってあるだろう。

もっとも、実はこれを峻別する方法論が、現代の医学にあるわけでは必ずしもないわけだが。 
なにしろ鬱病が脳内の神経物質の分泌異常の悪循環という定説だって、実際のその脳内物質の分泌量をリアリタイムに、鬱病の人の脳内で計測することなんて出来ないのだから、「この物質がこれだけ出てるから鬱病です」という数値化された診断基準があるわけではない。 
今話題の新型うつ病だって、本当は人格障碍者がパニックで思考停止に陥っただけなのかも知れないし、だいたい、ならば「なんで鬱病の診断が出て仕事を休んでいる人がこんなに元気にSNSで自己愛的な感情をむき出しに出来ているんだろう?」的な疑問も一応説明はつく。
あと「妙に無責任で深刻さに欠ける」が、依存性人格障害にも新型うつ病とされるものにも、双方に指摘されているのも含め。 
これがいわゆる古典的な鬱病、自虐性が強く親メランコリー気質、つまり真面目で責任感が強く自分を責めてしまいがちな人がなり易いとされて来た従来の鬱病の特徴と比較するに、精神科医が首を傾げて来たことなわけであるが。

…とここまで読んで下さった皆さんの多くが、「あるある!いるいる、そう言う人!」と思っているのではないだろうか?

ことインターネットを積極的に利用して、時に政治問題とか社会問題に関する議論や運動に関わっている人は、そういう体験をもの凄く多くしているはずだ。

  • 反論ができなくなるとすぐ論点がズレる
  • 無関係な話で相手を攻撃する
  • なんの脈絡もなく、すぐ「誰某もこう言っている」という話になる
  • 客観的には普通の言葉遣いでも、乱暴だ、罵倒されたと言い出す
  • 遡るだけですぐにバレる嘘を平気でつく

すべてあまりにも日常的な風景だし、それでも誤摩化しが効かずに追いつめられると、同じような主張や運動に関わる人が加勢して来て「炎上」を企んだり、慰め合って噓を言い合うとか、もう見慣れてしまって飽き飽きしている人も多いだろう。

そうやって仲良さそうに見える者同志が、いざその相互間で大変な問題が起こると、突然決裂するのもよくある。ちょっとしたミスだったり、自分の考えが間違っていたら、すぐに謝れば済むことなのにねえ…。

反論出来なくなったら、とりあえず黙って考えればいいのに。

まさに「なんでこうなるの?」とこっちはキツネにつままれた気分にさえなる

まさに「なにがなんだか分からない」状態だ。

「なんでこうも平気で噓が言えるんだろう?」

「自分の言動が批判されたらただ逆ギレってどういうこと?」

それを平然とやってしまえる人がその仲間内(クラスタ、って言うんですか?)のリーダー格なら、反社会性人格障碍や自己愛性人格障碍の可能性は大いにあるし、自分の失言をそういうリーダー格に「守って」もらったりお仲間に慰めてもらったりしている人は、依存性人格障害の幼稚なタイプの可能性が極めて高いし、依存先であるリーダー格やお仲間の失言が批判されている時に、よせばいいのに「誰々さんを守らなきゃ」的に蛮勇を発揮してしまうのは、自虐性の依存性人格障害である可能性を無視出来ない。

あるいは自分が怒らせた相手に一生懸命に媚を売るかのような言動に走るのも、これまた依存性人格障害である可能性が相当にある。人間関係を依存先との上下・支配関係でしか構築出来ていないのだ。

昨今、インターネットの使用に依存性がある、脳に無視出来ない異常を来す、といった論も花盛りだ。これもどこまで信憑性があるのかどうか、話題性があってセンセーショナルなわけで売らんかな精神も相当に作用しているのだろうが、さりとてここまで異様な言論が蔓延すると、その可能性を無視も出来ない。

僕はまだ見つけてないのだが、インターネットが人格障碍の状態を助長する、というような論考を誰か書いていませんか?あったら教えて下さい。

ネットが人間の精神に与える影響の可能性さえクリア出来れば、なんでネット上の掲示板やツイッターの「クラスタ」が、リーダー格がほとんどの場合、反社会性人格障碍を大いに疑わせる言動になり、そこに依存性人格障碍を大いに危惧すべき人たちがたむろする、そういう集団の結束が極端に(しかし刹那的に)強いのかはよく分かる。

依存性人格障碍者が、自分が実は「自分がない」状態であることへの潜在的で無自覚なコンプレックスも作用して、反社会性人格障碍の人間を依存先に選びがちであることは、人格障碍をめぐる研究ではもう語り尽くされているような病理だからだ。

いわゆる「マインドコントロール」「洗脳」の状態と言ってもいいだろう。

ついこないだまで、僕自身がそういう事象に遭遇したら、「もう精神科に行ったら?ネットじゃ無理だし」とサジを投げて来たわけだが、これもいささか無責任な話だったか、と反省している。

むしろネット上という特殊環境であることは勘案すべきとはいえ、ここまでそんなのばっかり、それこそネットを利用して広がる運動の類いがすべてこの反社会性や自己愛性人格障碍の周囲に依存性を大いに疑わせる人たちが集まるパターンを、反原発デモでも、極右排外主義でも、あるいはその「ヘイトスピーチ」のデモに対抗するはずの集団でも、いずれも完璧になぞってしまっているのを見ると、これはもはや精神科医に任せて済む問題ではない。

洗脳されたマインドコントロール集団と言っても差し支えない状態が、こうも簡単に産まれるのを度々目撃してしまえば、こと日本の場合はほんの70年前の戦争のこともあり、警戒したくなるのは当然だろう。

潜在的な人格障碍の蔓延を、日本という社会全体の問題として考えなければならないのではないか?

しかし困ったね。「サイコパスは治らない、治せないよ」と信頼している精神科の先生には言われたのだが…じゃあどうすんの? 
なにが出来るの?

いやなんと言ったって、内閣総理大臣がどうみても「この人、人格障碍あるでしょう?そうでなければこの言動は説明出来ない」という人なのだから。


体調不良で辞任するって、それを元気な顔で記者会見しちゃったのはまだ、一回は世間知らずで子どもっぽい行動をしてしまっただけで、そこで「お腹が痛いからやめました」とさんざん揶揄されたのだし、そこで少しは考えるだろうに…ところが「おかげさまですっかり元気になりました」でいけしゃーしゃーと現役復帰。

まさに「え?なんでこうなるの?」とキョトンとしてしまうところだ。そして行動が妙に子どもっぽい。

文字通り自分の責任という感覚が、なぜかすっぽり抜け落ちている。深刻さが理解出来ていないようにしか見えず、妙に無責任。

原爆忌のスピーチで未認定原爆症問題に触れたのはいいが、「専門家に検討を急がせる」。一人あたり国民所得を10年で150万増やす、と公約しながらどうやってやるかを問われたら「70年代80年代の日本人に出来たことが、今の日本人に出来ないわけがない」。原発事故についてデータや技術上の具体的な話は一切なく「私の政府が総力をあげて」約束するんだそうだ。

ますます「え?なんでこうなるの?」とキョトンとしてしまう。そして妙に子どもっぽい。



またそんなサイコパスっぽい総理大臣が、なぜか高支持率なんだから、ヒトラーもやっぱりサイコパスで、12年間支持したドイツ国民も病んでいたのかも知れない。

いや今の日本だって、その内閣総理大臣が先頭に立ってメディアも政界も加担する、尖閣諸島問題を言い訳にした中国敵視とか、韓国に露骨に歴史修正主義をぶつけて怒らせるとか、当然の反発を受けたら内輪でしか通用しない「反日」だとか言っているのは、もはや国家規模で人格障碍なんじゃないか、という比喩まで成立してしまう。

これは右翼とか左翼とかいうイデオロギー以前の問題だ。

保守主義なら保守主義の歴史観でも、それが他国/他人に通用するだけの説得力が必要だ、という認識自体が抜け落ちているのが、今の日本に蔓延する歴史修正主義の大きな問題だ。しかもそれが当然ながら他人様相手には通用しないとなると、通用するように説得力を増す努力なり工夫をするのでもなく、とたんに「反日だ」というレッテル貼りで、実は自分たちの内輪に引きこもってしまっている。

「もう謝ったじゃないか」「こんなに経済援助したじゃないか」「公文書には強制した命令書がない」等々、これで相手が納得すると思うのだろうか?右翼愛国主義の主張にしては、一応サムライの国のはずが、あまりにみっともない。

「え?なんでこうなるの?」という感じで、会話や対話がまったく成立していない。

外相会談で韓国側に「今さら具体的に言わないでも、なんのことか十分にご承知でしょうが」と大人の余裕でイヤミを言われても、外務大臣はしどろもどろな子どもの遣い状態になり、国内の大臣は逆ギレするだけ。

まさに「え?なんでこうなるの?」である。そして妙に子どもっぽい。

国連事務総長が「正しい歴史(認識)が、良き国家関係を維持する。日本の政治指導者には深い省察と、国際的な未来を見通す展望が必要だ」と発言すると、「中国より、韓国よりだ」と子どものように駄々をこね、国連総会で説明する、とまで妙に威勢がよかったのが、国際的に誰にも相手にされないと分かると、もう自分たちで忘れたかのよう、まるでなにごともなかったかのように振る舞っている。

若々しいとか純粋と言うのではなく、妙に子どもっぽい。

そしてやってることに一貫性がなく行き当たりばったりであることに、本人たちが気づいていない。

震災や原発事故の被災者への対応でも同じだ。都合のいいときは「絆」を語り、「被災者を励ます復興支援のオリンピック」、だがそこに他人様の認識がないから、「東京は250Km離れているから安全です」となる。

まさに被災者という「他人様」の存在の認識が欠如しているとしか思えない。

「え?なんでこうなるの?」

「フクシマの人たちのため」と言いつつ、うっかり「たかが電気のために」と一度言ってしまっただけならいい、その言い方はあまりに無神経だったと気づきさえすれば。

だが誤解された誤解されたとだけ言い続け、誤解ではなく言いたいことは伝わっていても、その言い方はやはりひどいと言われていることに気づけなければ、やはり正常に他人様との関係を認識出来ているとは言い難い。

デモの演説で一回、「たかが電気のため」を言ってしまった坂本龍一さんは、確かに「たかが電気」であるのは間違いないのだが、その「たかが電気」のために原発立地を搾取して来た側がみだりに言っていいことではなかったと、すぐに気づいていましたよ。 
ところが「周囲」はそうは反応しなかった。
福一事故で避難させられた人にしてみれば、ただの「たかが電気」でなく「たかがこんな下らない人たちのための電気だった」になるのだが。

「え?なんでこうなるの?」とキョトンとしてしまうところだ。若々しいとか純粋と言うのではなく、妙に子どもっぽい、まるでただの駄々っ子だ。

反省というものがまったくない。信奉しているはずのなにかの理念や信念と、自分自身を照らし合わせる、という作業がまったくない。実は「ボク悪くないもん」しか動機がないのかも知れない。

もはや人格障碍なんて精神医学用語を使うべきではないのかも知れない。「病気なんだ。こんな悪口を言うのは差別だ!」と言い出す逃げ道を与えるだけになりそうだし。

なんせ無自覚で無意識にやってることが病的とはいえ、ただのわがままではないか。

要は「他人様」のいない世界観という、誤って歪んだ認識と意識の構造にどっぷり浸かって、平気で噓をつきながら、自分達で「噓じゃない、噓じゃない」「ボク(たち)間違ってないもん」と相互マスターベーションで自分達どうしだけで依存しあってる、ハタ目には極めて気持ち悪い集団主義に、この国は陥ってしまっているのかも知れない。

ここまで書いていても、かなりの部分の人が、自分達がまさにその状態であることに気づかず「ああ、あいつらが」と思い当たるフシがあると納得するだけで終わるのかも知れない。

あるいは自分が論理的に逃れようがない話と気づけば書いた本人を貶めることで議論を無効化することに熱中するしかない状態になるのだろう。

いやだから、それ人格障害の疑いがありますよ