最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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7/06/2017

都議選が終わったところで、「最大の争点」だったはずの築地=豊洲市場問題を考えてみる


築地市場の大冷凍庫 浜離宮より

2017年の都議選は、国政で与党自民党…というか安倍政権の体質そのものに関わるスキャンダルが次々と出て来て、すっかり安倍不信任投票の結果になった。

だがそういう流れというか「大逆風」以前には、豊洲新市場こそが争点だというのが主たるメディアの論調だったはずだ。

共産党や生活者ネットワークが移転反対と築地再整備を一貫した方針として提起して来たのに対し、豊洲への移転が決まったときの与党だった自民党・公明党は(後者が都政での連立を解消した後も)、どれだけ新市場について問題が明らかになろうとも、移転強行を崩さず、自民党に至っては早期移転のためなら問題の隠蔽すら辞さない態度を見せていた。

そのなかで小池百合子都知事が方針を明らかにしないことは、自民党からの格好の攻撃材料になっていた(というか、自民党はそのつもりだった)。

「決められない知事」という “レッテル貼り” に、ちょっと前までは豊洲新市場が抱える土壌汚染や工事の不備をさかんに取り上げていたはずのテレビを中心とするメディアも同調していたのは、国政の政権与党でもある自民党への忖度というか、その国政については加計学園スキャンダルでも、「共謀罪の構成要件を厳しくはちっともしていないテロ等準備罪(ただしテロと無関係な罪状ばかり300前後)」の審議でも、報道すれば批判的な論調にならざるを得なかったが故の、報道各社なりの「バランス感覚」のつもりだったのかも知れない。

国政の自民党への批判が殺到した結果の都民ファースト圧勝について、豊洲の「争点隠し」になって小池百合子と都民ファーストがうまく逃げた、という論もあるようだが、フタを開けてみればこんな批判はまったく当たらないことが明らかになった。

投票所の出口調査では、もっともサンプル数が多いので信頼性が高いと思われるNHKで、64%が小池知事の判断を「評価する」という結果だったのだ。


これがまたNHKの記者が開票中のインタビューで小池氏に「36%が『評価しない』と言っているがどう思うか?」と、露骨に変な質問を始めるのだから、与党への忖度の癖がぬけない政治記者は始末が悪い。 
小池氏はまったく動ぜずに「逆に『評価する』はどんな数字が出てますか?」と、NHKの詭弁を呆気なく覆してみせていた。


つまり仮に「豊洲移転が争点」だと自民党が都議選の争点を捏造しようとした企てが成功していたとしても、逆にその争点でも自民党は負けていたことになる。

豊洲=築地移転問題の真の核心は、豊洲に移転したところで中央卸売市場の機能と商売が本当に継続できるのか、だ。

移転の強行を主張した都議会自民党はそこにまったく気づかなかったようだし、メディアもまったく触れようとして来ていないが、豊洲市場に移転してしまうと、近い将来には最悪、商売がまったく立ち行かなくなる可能性すら否定はできない。

豊洲新市場の不安要素は、もっとも話題になった土壌汚染問題に限らず、建物は妙に建築費だけは高い(坪単価150万)わりに使い勝手に問題があったり、耐震強度不足の疑いまで出て来るなど、列挙にいとまがない。

しかも移転となれば、「築地」というこれまで培って来た伝統の信頼、小池百合子の言葉でいえばブランド力を放棄しなければならない。この立地だから都内から毎朝、中小の鮮魚店や料理店が買い付けに行けるのが、豊洲に移るだけでそうした上得意を失いリスクも現実的に大きい。

そもそもIT環境の革新的な進化で、中央卸売市場というビジネスモデル自体が急速に過去のものになりつつあることも忘れてはならない。

そんな環境が整うずっと前から、大手スーパーやフランチャイズの飲食店(たとえばモスバーガー)などは「産地直送」を食材の質の高さのセールスポイントとして確立して来て、中央卸売市場の商売は元から減って行く傾向があったのが、今や中小の飲食店や鮮魚店なども、ネット上のサービスを活用して「産地直送」が手軽にできるようになりつつある。

そんななかでも築地が機能して繁盛して来たのは、その「ブランド力」を支えて来た、仲卸しを中心とする「目利き」が信頼されて来た、日本ならではの文化の伝統だ。では豊洲移転を一方的に強行することで、せっかく今ある築地の付加価値を捨ててしまうのは、今の時代に賢明な選択だろうか?

小池百合子都知事が「アウフヘーヴェン」と称し、メディアが「玉虫色」「八方美人」とこき下ろしたプランは、単に築地の伝統を支えて来たプライドのある残留派への、ただ選挙目当てを考えた配慮ではない(というか選挙なら、そんなにたいした数の組織票でもあるまい)。

築地を売却せず都が再開発し、市場機能を復活させるオプションも残すというのは、現実的に豊洲市場が大失敗したとき(その不安は誰もおおっぴらには口にしないが、決して排除できない)の、安全装置でもあるのだ。

そして実際に、都民は自民党に同調したメディアの煽動には乗せられておらず、小池案が相当に地に足のついたものだったことも理解していた、ということなのだろう。結果を見れば(出口調査で64%が「評価する」)、小池百合子を「決められない知事」と責めれば都議選を闘えると思った自民党の思惑も、有権者にそっぽを向かれていたのだ。

築地市場に隣接する都立浜離宮庭園

あるいは「豊洲移転」は自民党が勝手に固執していたから争点に見えていただけなのかも知れず、マスコミがしきりに報じて来たので「争点もどき」に見えてはいたが、都民の大多数には関心が薄かったのでは、という指摘もあった。

まったく無関心でもあるまいが、都議選の主な争点だと言われれば、確かに大いに違和感はある。ほとんどの都民の生活には、直接の関係はないと言われればその通りなのだ。

それに豊洲への移転を迫って「決められない知事」と自民党が小池を批判したつもりでいたのは、昨年の11月の予定だった移転を小池知事が延期させるに至った経緯を忘れたのか、それとも無視したのか、小池都政がこの異常性に気づくまで放置して来た都議会与党としてあまりに無責任かつ手前味噌な話であり、どっちにしろ選挙の結果を左右する争点にはならなかったか、争点だというのであればむしろ小池百合子/都民ファーストの会に投票する追い風になったと考えた方が合理的だ。

だいたい、石原慎太郎都知事とその都議会与党の自民が公約した「無害化」の目処はまったく立っていない。

約束を守れないでおいて、「安全と安心を混同している」と、原発事故後の福島産の農作物への風評被害を批判するのと同じロジックを御都合主義で持ち出すのは、自民も晋太郎もあまりに無責任で言葉の重みの自覚がなさ過ぎる。

そもそも福島県の農業なら連綿とした歴史と農業を担って来た農家があり、そこへ原発事故の放射能被害があったのだから、その復興を応援するのとまったく意味が違う。汚染された農地を取り戻そうとする意志は尊いが、汚染が明らかな土地は市場の立地としてそもそも成立しない。

豊洲市場は「これから作る」計画だったのであり、好き好んで東京ガスの工場跡地に生鮮食料品の市場を作ろうなんていう根本の発想がまずおかしいのだ。

それに福島県の農業についての「絆」「食べて応援」などという政府系のプロパガンダはまったく効果がなかったし、むしろ最初から風評被害の被害当事者である農家の意識とも、まるでかけはなれていた。そして福島県で風評を多少は払拭できて来たのは、農家が放射性物質の特性を勉強し、高額な測定器まで購入して検出限界以下を目指して来た、ひたすらその意地と地道な努力の賜物だ。

現実に、今や福島県の農作物は全国でもっとも厳しく放射性物質がチェックされていて、出荷されるのはほとんどが基準値以下ではなく検出限界以下となっている(つまりデータで見る限り、むしろより安全なはずだ)。 
それでも福島の農業が商売として、産業として成立しているかと言えば、未だとても難しい状況にある。

それに対して豊洲新市場が汚染土壌に建てられているから危険というのが「風評」だとしても、その「風評」の払拭の手段は、ここに入る卸・仲卸業者にはない。払拭と信頼回復の手段を持っているのは東京都だけだ。

だから東京都がどれだけ責任を持ってやってくれるのかを見ていれば、都議会は石原慎太郎元都知事らを喚問しても、豊洲に決まった経緯も、なぜ当初方針にも設計にも反して地下空間があったのかの真相も解明できなかったし、専門家委員会も「無害化」の公約が達成できないいいわけもそこそこに、「科学的には安全」と繰り返しただけで、「風評」の払拭を放棄して「安心と安全を混同している」と世間一般に責任をなすりつけようとするだけで終わっている。

そもそも福島県の農業は元あったものを「復興」させる必要が農家にあるから頑張って来たのに対し、豊洲新市場に関してはそもそも都のずさんな行政の責任で、最初からここに移転なんてしなければなかった「風評」でしかない。

なにもハンディがあるところでわざわざ商売を新たに始めるというのは、経営判断としておかしい。

自民党は自由主義経済を支持する保守政党ではなかったのか? これではまるでスターリニズムではないか。

浜離宮は徳川将軍家の別邸で 明治以降皇室の離宮となり戦後東京都に移管された

なにかの計画を強引に進めるときに、その地元・当事者が分断するように仕向け、さらにその分断を煽ることで当事者(被害者)側コミュニティの力を奪ってゴリ押しを成功させるのは、自民党政権が使い続けて来た手口で、有名な例では成田空港がある。

昨今の沖縄の基地問題では、このやり口はさらに姑息さを高度化させている。当事者・地元・沖縄県民の分断の演出が無理ならば、ネット言論を利用して全国規模でそれを捏造する、ということまでやっている。

築地市場では、極めておおざっぱに言えば卸つまり大手は自民党側、中小の客商売の仲卸は築地の方がお客さんの信頼があるし立地的にも有利なので築地残留、という構図になっているようだが、都議会自民党はわざわざその築地市場の仲卸しの区画の視察にメディアを同行させ、「旧くて汚いじゃないか」とさんざんにその仲卸を侮辱する発言を繰り返した。

これが分断を煽る意図だったのか、単に呆れるほど傲慢で無神経で、本当にひたすら仲卸し業者を見くびって愚弄し差別しているからだけなのかは、よく分からないが、後者のように受け取られて当然である自覚が皆無だったのは、ちょっと呆れる。

豊洲移転を決めた時の石原慎太郎も、「汚い」「古い」を繰り返し、日本の科学技術を絶賛して清潔な最新鋭市場の意義を滔々と語っている。

こんな非礼な「不潔」扱いをされ続けては(築地残留派の仲卸がますます反感を強めるのは当然だ。それが分断を煽って移転を促進する狙いだったとしても、ここまでやれば空回りにしかならない。

最終的に発表された小池百合子都知事の方針が、そうした仲卸し業者が誇りとして来た築地の「伝統」に敬意を表し、築地を売却せず、市場の一部をそこに戻せるオプションを含んだものだったのは、まずこうして石原慎太郎以来、都の行政と都議会与党が作って来た分断を少しでも治めるために必要な政治判断だったし、その発表後すぐに都知事は築地に行き、土壌の「無害化」の公約を達成できていないこと(出来る見込みがないこと)について深々と頭を下げた。

築地市場の市場の仕組みの概略図

結果として基本方針が豊洲移転とならざるを得ないとなるにしても、だからこそその移転をスムーズに行うためだけでも、この判断は政治的に正しかった。現に自民党側が「玉虫色だ」「やはり決められない知事だ」「曖昧で無責任だ」とメディアも使って言い立てようが、結果から見れば64%の都民は騙されずに、地に足のついた評価をしたと言えるだろう。

というか、自民党が都政においても傲慢過ぎて、愚か過ぎたのだ。

今回の都知事選は最終的に「安倍不信任投票」となった、都政よりも国政の問題で自民党が惨敗した、という分析が主流で、落選・敗北した元議員のなかには党本部への恨みが募る者も少なくないかも知れないが、安倍が非難されたのと同じ傲慢さと手前勝手な体質、過ちを認められず謝ることを拒絶して突っ走る閉塞した自己中心主義は、都議会自民党も共有している。

浜離宮 六代将軍家宣お手植えと伝わる巨大なクロマツ

豊洲市場の問題は、メディアと世論の注目の中心になった汚染土壌対策だけではないことも、改めて確認しておこう。

都議会選が近づくに連れて「決められない都知事」大合唱に走ったあまり、メディアも忘れているのかもしれないが、豊洲新市場はやたらと金がかかって妙に最新鋭な割には、その最新鋭を注ぎ込んだら床の強度が耐震基準を満たしていないとか、仲卸セクションの区分けがターレットを使うには中途半端か狭過ぎるとか、果てはトラックの積み降ろしが最近の側面が開く荷台に対応していない、旧来の、後方の扉からの出し入れしかできず効率の悪いものでないと幅が足りない、などの様々な設計上のミスも、そのメディアが報じていたはずだ。

総事業費が7000億近く、建築費だけでも坪単価が150万という、同じレベルの高価な建築といえば黒川紀章設計の新国立美術館や、高級ホテルくらいしか思い浮かばない(と思ったら、今治市に建設中の加計学園の獣医学部が、やはり坪単価150万という凄い数字になっている)、公金を注ぎ込めるのをいいことにやたら高価格になっている。

なぜここまで高いのか?

かくも高価な「最新鋭」は運用・維持にも金がかかり、年間数十億レベルの赤字の試算が出ているのが豊洲新市場である。

建設開始と建設中に次から次へとその時点での「最新鋭」を盛り込んだプランとして肥大して来た結果、過重に無理が出るだけでなく建築費もそこまでかかってしまったのだろうか? アスベストの問題などは未解決にせよ、戦前の建築である築地で、同じ商売は十分に成り立っているのに、である。

元はガス工場という極端な汚染土壌の不適な立地だからこそ、そのデメリットを払拭するかのように「最新鋭で清潔」な超高級建造物にしようとする動機は分からないでもないが、だったら最初からそんなところに建てなければよかったのだし、しかも肝心の土壌汚染対策はまったく目標が達成できてない。

これで「早く決めろ」「決められない都知事だ」と都知事をなじって豊洲移転の早期決定を迫るというのは、あまりに一貫性がない。

築地場外市場は豊洲移転後も営業を続ける

はっきり言って、豊洲=築地問題は、進むも地獄、進まないも地獄の悪魔の選択でしかない。なのに拙速に「早く決めろ」と言うほどの無責任もない。小池百合子は「劇場型政治」と批判されて来たが、ここでは「劇場型」なら不利になる現実的で地道な判断を下しているし、結果からすれば都民有権者もそこは評価したことになる(出口調査で64%)。

そもそもガス工場、化学工場の跡地に生鮮食料品の中央市場を持って来るという判断が最初から分かり切った大間違いだった。

石原慎太郎が「日本の科学技術は素晴らしいから克服できる」とナショナリスティックな大見得を切ったたままその誤りを誤りと認められないまま(当初は東京ガス自身がこの土地の売却に反対していた)、あたかも見直し・後戻りの可能性が出てカリスマ都知事の判断の誤りが指摘されるリスクを封じ込めるかのように、都は建設費を肥大させ、当初の見積もりの甘さが祟って土壌汚染対策経費も膨れ上がり、それでも「誰かが決めたこと」の決めた誰かへの忖度で再検証もなにもできないまま、新市場の建物が出来上がってしまったところで後の祭り、となっているのが現状なのだ。

有権者の心を掴むキャッチフレーズ造りの巧い小池百合子流に言えば「昭和っぽい古い政治」が21世紀に入って、より巨大化してより派手にタガが外れて、制御不能なまま成し遂げられてしまった結果が、豊洲移転問題だとも言えるだろう。 
それが分かっていながら知事を責め立てたのなら、都議会自民党のタチの悪さも相当なものだ。

そうやって妙に「最新鋭」をてんこもりにした結果、今の築地と同規模の市場運用を想定した場合には年間数十億の赤字になるという試算が出ているのも、前述の通りだ。しかも築地と同じ規模の市場が存続できる見込みもない。

汚染土壌をめぐる風評(とも言えない。都が公約した「無害化」は現に失敗しているのだ)だけでなく、都心から遠ざかるだけでも、今まさに築地の商売を支えている顧客層(中小の料理店や小売り)にとっては移動距離が増えてしまう懸念もある。

端的に言ってしまうなら、豊洲に市場を移転したとたん、中央卸売市場の商売がみるみるうちに先細りになってしまうかも知れないことが、この移転問題の本質なのだ。

川瀬巴水 中央市場  昭和11(1936)年

市場の継続性だけを考えるなら、豊洲移転という石原時代の(結局は誰が決断したのかもよく分からない「なあなあ」でしかなかった)巨大な誤りだった判断はいったん白紙に戻し、築地再整備というのが、いちばんすっきりする解答だったのかも知れないし、筋は通るのだから、都民の信頼も回復できるだろう。

筋を通すことについては頑固というか金科玉条の共産党だけでなく、小池百合子だって本音ではそうしたかったのかも知れず、現に市場問題プロジェクトチームに、豊洲を売却・築地再整備という極端なプランも出させていた。

だがそこで現実の問題になるのはまず、これまで悪評のついてしまった豊洲新市場を売却できるのかどうかだ。

プロジェクトチーム案は生鮮食料品ではなく普通の商業施設なら使い道はあるかのような楽天的な想定もし、また住宅開発も考慮に入れていたようだが、今の建物のまま再利用を考えるにせよ、更地に戻して、というにせよ、これだけの巨大プロジェクトで変にリスクもあるものをやる企業が出て来るのかどうかは、率直なところ疑問も残る。

さらに都政として問題になるのは、7000億円もかかり、建築費だけで坪単価150万という巨大なムダをどう清算できるのか、だ。逆に7000億円もかかっていることが(そのまま損金になってはもったいないではないか、という有権者の庶民感覚も含め)、最初から問題だらけだった豊洲移転が小池都知事の登場までは都庁・都議会内でなんの大きな異議申し立てもなく進んでしまった最大の理由だったが、同じ問題が再び立ちふさがるわけでもある。

これだけの無駄を産んでしまった側の責任をどこまで追及できるのか、その責任がクリアにならなければ、「これは無駄でした」と切り捨てる正当性が担保できず、石原慎太郎とその後の2人の知事と、都議会の決めたことに従って粛々と計画を進めて来た都職員の立場もない(これが安倍政権だったら、そのテクノクラートを平然とトカゲの尻尾切りの犠牲にするのかも知れないが)。



築地が維持して来た、伝統芸的な長年の経験で培われた目で、魚の鮮度や味の良し悪しを見た目だけで見分けられる力が、ある意味すでに時代遅れになっているはずのこうした商売のやり方を支え、今やそこに極めてスペシャルな付加価値さえ産まれている。

また、これは業者にとっては迷惑ではあるものの、早朝のマグロの競りはちょっとした観光名所として外国人観光客にも人気だ。

こうした現状の築地の価値を、豊洲移転後も限定的にせよ維持できる機能として、築地市場にはすでに築地魚河岸が開設されている。

小池案の5年後に戻れるオプションを残すというのは現実的ではない、という批判は単純計算ではその通りかもしれない。だが豊洲が思った以上に(思った通りに?)うまく廻らなかったときに、本当に築地に市場機能の一部を戻すことは、現実に必要になるかも知れないのだ。

たとえば卸は豊洲で、そこで仕入れた仲卸が築地で小売りや料理店に、というのは一見非現実的に見えるかもしれないが、築地魚河岸は元々、多くの仲卸の顧客にとって豊洲が遠過ぎることを考慮して、そういう使い方を想定して作られたものだ。 
実際に廻してみればそういう流通・移送ルートは案外と速やかに確立できるものだし、また仲卸がいったん豊洲に移ったあとも、顧客のニーズを考えれば築地魚河岸を通しての商売も継続することになるだろう。 
そして豊洲ではどうにも商売にならない、となったら、再整備された築地で本格的に、というのであれば、小池の提案は非現実的どころか、極めて現実的な解決策になるかも知れない。

そのオプションを残しておいた方が、築地を売却してしまったところで豊洲はどうにもうまく行かない、さてどうしようかと、ほんの数年後にまた都政の頭痛の種になり得ることを考えれば、スッキリはしないかも知れないが、現実的ではある。

一方、巨大なお荷物である豊洲新市場について、小池都知事は羽田・成田の両国際空港との近さを立地上のメリットとしてあげていた。国内でも飛行機で全国から集まる食材や、国際的な輸出入を視野にいれるなら、確かにこの巨大なお荷物も新しい使い道は十分にあり得るのかも知れない。

むろん、それは今の世界的な和食ブームが今後も維持され、かつ日本の農産物・海産物の食の安全がきっちり維持されるなら、の話だ。失敗したクールジャパンなんてとっとと店じまいして、こうした日本本来の強み、世界的に日本人気を支えているものを守り振興することに、これからは国政も力を注いだ方がいい。


5/30/2014

こんな醜い妥協の産物なら、新国立競技場は建てるべきではない


2020年東京五輪に合せて新しく建て替えられることになった国立競技場は、国際コンペで選ばれたザハ・ハディドの案がずいぶんと物議を醸して来た。


なおコンペが行われた経緯はほとんど国民に知らされず、気がついたときにはこのバグダット出身の女性建築家の途方もないデザインに決まっていて、そこでやっと周辺住民の反対などが始まるというのは、相変わらずのニッポンの風景ではある。

未だに「日本の国立競技場なのになぜ外人が」という話すら出て来るのも困るわけだが(だから国際公募でコンペやってるんだからそうなりますって)、ザハ案に決まってからその計画が建築予定地の現況からすればあまりに大き過ぎることが初めて問題になるは、神宮外苑は風致地区でありこんな巨大建造物は違法ではないか、あるいは今の敷地を大幅にはみ出して幹線道路にかかってしまい渋滞まで危惧され始める、というのではコンペの運営自体がよく分からない。


さらに総工費1300億円の予定がザハ案は試算では3000億はかかりそうだということになり、大幅なデザイン変更が余儀なくされるのでは、という経緯を、僕自身はザハ案にあまり感心しなかったので多分に白けて見て来たわけだが、それでも建築費を抑え、大きさの面でも環境に配慮したという新しい最終案の中身には唖然としてしまった。




「代々木の森にこんなSFチックな宇宙船が降り立ったみたいなのは」と言うのがザハ案に対する僕の最初の素直な感想であった。


ところがいざ最終計画が発表され、並べて見せられた今では、元の設計がいかに美しかったか、とすら思えて来てしまう。

いやまあ、これでは比較すれば誰だってそう思うでしょう。

安藤忠雄が審査委員長を勤めたというコンペでザハ・ハディトの案が選ばれたのは、立地の問題や美的な趣味では反対もしたくとも、評価されたこと自体は理解出来ないことではない。

元のデザインの大きな特徴である、縦方向にスタジアムを横断する流線型の曲線の構造物こそがミソであるのに対し、最終案のデザインは、この曲線になんの魅力も美しさもなく、曲線という記号性のみ踏襲されているようにしか見えない。

建築家に言わせれば、元のデザインは「スタジアムではない、橋」なのだそうで、つまり二つの曲線は単なる美観上の要素ではなかった。

それ自体が自立する、いわば橋のような単一アーチ構造物を二つ並べて、スタジアム自体は普通に地面から柱と壁で上に積み上げられ支えられるのではなく、この二つの曲線から吊り下げられることになるのが、新国立競技場の建築的な最大の特徴だった。


この斬新な構造のアイディアこそがこの案が評価された最大の理由であろうし、国際コンペで公共建築のデザインを公募するというのは、こうやって新しい建築の在り方を切り開くチャンスを建築界に与える、という役割もある文化事業でもある。

と同時に、単なる装飾でなく構造上の必然だからこそ、元のザハ・ハディド案の二つの巨大曲線はこうもシャープで躍動感のある力学的なカーブを描いていたのである。まさにこのフォルムは、建物の本質、その設計の根幹から産み出されたものだったのだ。

口の悪い建築関係者のなかには、安藤忠雄が理工系の建築学科の出身ではないから構造計算が苦手だからこれを選んでしまったのだと言う人すらいたようだが、無論女性建築家でしかもアメリカ人でもヨーロッパ人でもないことの政治的な利点もあったにせよ、安藤だってなによりもこの構造のおもしろさに着目して評価したのだと思う。 
ただ確かに、構造計算のプロではない安藤忠雄の弱点もあるとしたら、土木の専門家でもなければこれが実際の施工でどれだけ難しいのか気がつきにくかった、ということはあるかも知れない。

いや「こんな巨大アーチ本当に作れるの?」というくらい、現代の建築土木技術の最先端に挑戦するような代物なのだ。だがそういう新しいチャレンジのため、建築史の新たな一頁を切り開くためにも、こういう巨大公共建築の公募はあるのでもある。

64年の東京オリンピックの全体像をデザインしたのは丹下健三で、今でも20世紀の名建築、丹下の代表作のひとつとされている代々木の国立体育館は、屋根を支える構造の斬新さが世界の建築界をあっと言わせ、戦後に復興した日本の建築水準の高さを世界に見せつけた。

国立代々木体育館、遠景にはやはり丹下健三設計の東京都庁と東京パーク・ハイアットホテル、および丹下事務所で息子の丹下憲孝の手がけた東京モード学園

この屋根の美しい、ユニークな曲線もまた、実は建物の構造そのものと密接に結びついているからこそ産まれたものだ。巨大な室内空間を実現する屋根を支えているのが、屋根の曲線構造それ自体なのだ。

と同時に、これが発表された時には当時の建築施工の業界は頭を抱えたのだろうし、施工技術が追いつかず、比較的最近まで雨漏りなどの問題が絶えなかった。
国立競技場
ザハ・ハディドの元デザインの特徴であり美点であると同時に欠点ともなりかねない2本の巨大なカーブの最大の問題は、湾曲の頂点でかなりの高さになり、端が今の国立競技場の敷地を大きくはみ出して幹線道路すらまたいでしまうことである。

これが「短くすればいいじゃないか」で済む話ではないのは、もうお分かりだろう。なにしろこのカーブの長さが、8万人を収容できる開閉屋根付きのスタジアムという巨大構造物の全体を支えている…というか、吊り下げているのである。短くしたり湾曲の度合いを変えてしまうだけで、その強度は維持出来なくなる。幹線道路をまたがないで今の敷地内になるべく納めるのなら、スタジアム部分の重さを減らす、つまり規模を小さくするしかない…

…と、このデザインが国際コンペで選ばれている以上は、誰もがそう考えるはずだ。スタジアム自体がこの二つの曲線から吊り下げられることが設計コンセプトの要であり、それはさすがに無視できない。無視したらこの案を選ぶ意味がない。

そこへ国立競技場を管理する文科省傘下の独立行政法人日本スポーツ振興センター…というか要するに文科省が出して来た、総工費を1700億に抑えたという最終計画が、ザハ・ハディドの当初案以上に、それも今度はただ悪い意味で、我々の度肝を抜くべき代物であるのは、改めてその全体イメージを見るだけでもうお分かりだろう。

大きな曲線二本がスタジアムを縦方向に貫く見た目だけは踏襲されているものの、元のデザインにあった流線型の躍動感がまるでない、寸詰まりで単調で、力強さのかけらも感じさせないことには一目で気づく。

これでは当初構想が骨抜きどころか、まるで別物だ。

元の設計案の仕掛けを知っていれば、なぜこんなに無粋でかっこ悪いのか、理由は明白になるだろう。

最終案の二つのカーブは、ただスタジアムの上に張り付いた屋根の支えでしかなく、スタジアム本体はごく当たり前に壁と柱で支えられた平凡な構造に、安易な装飾性をゴテゴテと付け加えただけの代物だ。二つの曲線に至っては屋根を支えるだけなら大きさが桁外れな以外はとくに斬新でもないし、鈍重で平板で寸詰まりにしか見えず、建物をかえって醜くしている(それでも前代未聞の大きさで金額は相当なものだ)。

なぜこうなってしまったのか?ザハ・ハディドの元の構想を生かしながら、幹線道路にまではみ出てしまう問題を解消するには、全体の規模を縮小するしかなかったはずだ。

ならば観客収容8万人が本当に必要なのか、ということも建築費や維持費の問題からして検討されてしかるべきなのが、文科省はオリンピック招致の際に8万人規模の屋根付き競技場を建てるとアピールしてしまったとかで、そこは譲れないらしい。

8万の観衆を集める巨大イベントの需要がそんなにあるのか?

独立行政法人JSCの側では、採算を合せるため年12回のコンサート使用も予定しているとか…って、そんな大人気のミュージシャンがそんなにいるとも思えないし(月イチでジャニーズ事務所専属になるとか?)、だいたいこれ「国立競技場」でしょう?教育スポーツ行政の一貫じゃないの?

2020年オリンピック開会式だって、そこまで観客が集まるかは怪しいのではないか?ここまで無様な建築をただ8万人収容と屋根付きだけで強行し、文化的に意味がないどころか妥協の産物に落ちぶれるだけでなく、将来すぐに無用の長物になりはしないか?

僕は実は丹下健三だってそんなに好きではない…というのは高校生くらいの時に東京都庁の新築コンペというトラウマがあり、そこで選ばれたのが今もみなさんご存知の、恐らく丹下の最悪の作品であろうあの都庁だ。
当時めきめき頭角を表していた磯崎新の都庁コンペ案がとても美しいものだったのが、なんでも巨匠・丹下によれば「パリのノートルダム寺院へのオマージュ」という(って地方行政のお役所ですよ、なぜ教会?)あの意味不明の二つの塔である。


とはいえそれでも、大人になれば丹下の国立代々木体育館や広島平和記念資料館がすごい傑作であることは認めざるを得ないし、丹下は第二次大戦後の世界に衝撃を与えた天才建築家であると同時に、64年東京オリンピックをひとつの契機とした丹下の東京都市計画の構想は、日本のひとつの時代を象徴するものでもある。

日本政府ではなくフランス政府が、ル・コルビュジェの国立西洋美術館を世界遺産に申請しているが、高度成長の時代の始まりに天才丹下が構想した一連の東京オリンピック関連建築物もまたそう申請されるべき価値がある、とも言えるのである。

国立代々木体育館ほど凄いとは思わないにしても、国立競技場もまたそうした日本の過去の、輝いた歴史の記念碑なのだ。それを取り壊して新しいものを建てるなら、それにふさわしいだけの建築でなければならないはずだ。

国立代々木体育館建設現場の丹下健三
好き嫌いやコンセプトについての意見の相違はいくらでもあるにせよ、ザハ・ハディドには新たな建築を目指す強烈な意志もあり、当初案にはそれだけの構想も目指したものだとは言えるものがあった。

いや僕らが「こんな宇宙船みたいなの」と思ってしまったのは頭が古いだけなのかも知れない。少なくとも言えるのが、彼女の発想自体が、64年の丹下の国立体育館がそうであったような建築構造の新たな挑戦、スタジアム建築として前代未聞の斬新なものだったということだ。

だが最終的に発表された案は、原案を形だけは踏襲したつもりでいても、中身はまるで別の平凡なもの、それも無駄な装飾があるだけで平凡どころか出来の悪い建築でしかない。

それもそうなってしまった経緯は、いかに今の日本の行政がだらしなくなってしまったかの象徴みたいな話である。

なにしろ案が発表されてやっと批判が起こった中には違法の可能性すら含まれ、都市計画の観点では無茶苦茶で建築費が大き過ぎると叩かれ、付け焼き刃の対応で、しかし「屋根付き競技場で収容人員8万人」というなぜか文科省が拘るIOC相手の見栄というか媚ばかりを最優先した結果の、どうしようもない妥協の産物でしかない。

今からでも遅くはない。

こんな珍妙な妥協の産物なら、8万人の収容人員が必要かどうか(オリンピックでさえ競技本番でガラガラに見えてしまいはしないか)も含め、いったんこれは白紙に戻し、今や日本の戦後の歩みが刻まれた歴史的建造物である現状の国立競技場を生かし、改修する形にした方が、まだ先進国・文化国家としての日本の体面は立つのではないか?

それに昨今の国際オリンピック委員会の方針である「無駄遣いはしない、設備はなるべく新設はせず、大会終了後も有益に使い続けること」にも合致する。

1936年のベルリン・オリンピックのスタジアムは未だ現役だ。ロサンゼルスのオリンピック・スタジアムは1932年と84年の二度の大会で使用された。

丹下の名作を中心とする代々木と外苑の東京オリンピックに関する建築群が、56年の時を経て二度の五輪大会をホストするのは、併せて世界遺産にでも登録申請でもすれば、むしろセールスポイントにだってなる。

ザハ・ハディド氏本人がこの最終案にどこまで関われたのか、彼女が納得しているのかは知らない。それは巨大コミッションを受注しながらそれを取り消されるのは、気鋭の女性建築家にとっても大きな損失にはなる。

とはいえここまで自分の構想を骨抜きにされた、見るからに醜悪な代物に自分の名を冠されることの方が、アーティストとしての彼女にとって不名誉であり、もうほとんど許し難い侮辱にも見えて来てしまうのである。

そして同時に、こんなひどく無教養な妥協と化した新国立競技場を建ててしまえば、それはこの国にとって不名誉であり恥さらしにしかならない。

まったく、「愛国心」を称揚し民族の歴史だ伝統だと言いたがる割には、なぜ今の内閣はこうも歴史を軽視しながら新しい創造も殺す、世界に日本の恥を晒すようなことばかりやるのだろう?

3/24/2014

橋下徹さんと大阪市政と大阪都構想、そして「差別する町」の伝統


大阪市長やり直し選挙は一応、橋下さんの一人勝ちだったが、大阪都構想は極めて難航している。


このこと自体はとても残念だ。大阪府全体にとって都構想がメリットが大きいだけでなく、大阪市にとっていささか乱暴にも見える現状改変の都構想であっても、最終的にはよい転換点になったはずだからだ。

だが都構想の本質がなんなのか自体すら、橋下さん自身がほとんど語っていないのは橋下さんにも責任の一端があるとしても、今までちゃんと言って来なかったことを言ってしまえば、橋下さんが市長を続けることすら不可能になるのかも知れない。

実のところ前回の選挙では圧倒的な支持で市長に当選させておきながら、大阪市民の大半は恐らく都構想を支持していないか、まず内容をよく分かっていないか、理解する気もないし、実は理解している人は既にこっそりと反対しているのではないだろうか?

いや本当は分かっているのに分かっていないふりをしているのか、本当にまるで分かっていないのか、実は分かっているのに分かっていること自体までも無意識の底に追いやって分かっていないフリをしていること自体についてすら無自覚であるのか、その区別も判然としないことこそが、まさに「ザッツ大阪」なのである。

いわば橋下さん独り舞台であったやり直し選挙が、わずか20%代の低投票率であったことも、無意識か無自覚にせよ、市民が実は都構想を毛嫌いしていることの反映なのかも知れない。

都構想の究極の目的、というより都構想もまたその手段に過ぎない橋下さんの本当の野心は恐らく、大阪と関西圏をここ何十年かの停滞から抜け出させ、日本の現状である東京一人勝ち・中央集権の経済構造を打破し、大阪をかつてそうであったように東京と並ぶ日本の二大経済中心として復権させるために、大阪の経済活動を活性化させ、経済を担えるだけの基礎体力や気力を回復させることなのだ。

明治から大正時代や昭和初期、大阪は人口が東京を上回っていた。絹が日本の主要輸出品だった時代に、日本の経済の中枢にあったのは船場の大問屋たちだった。江戸時代でも、江戸ではなく大阪こそが日本の経済の中心、日本の中心にあったのは言うまでもない。 
だから東京一人勝ちはおかしい、というのは歴史的にも正しい認識だし、極度の中央集権よりも日本全体にとってもメリットがあるはずだ。 
だが現状の大阪は違う。

東日本大震災では東京一極集中の脆弱さに気づく人も多く、企業のなかには大阪にも経営基盤を持とうとする、一時的には経営の中枢を大阪に移すことを考えた人も少なくない。だが起こっておかしくなかった(東京でそれを危惧する人も少なくなかった)この大移動は、結果としてまったく起こらなかった。理由は東京が実際にはそれほど被害を受けていなかったことでも、回復が思いのほか早かったからでもない。端的に言ってしまえば、大阪にその受け皿になる体力も体制もなかったからだ。

ぶっちゃけ、大阪に行ってみたら仕事がまるで進まなくなった、ということだったりもするわけで…。


いやまあ大阪万博が頂点であるよりは没落の始まりだった大阪の現状はそんなものであり、今の大阪はおよそ「商売人の町」でもないし、実利を重んじチャッカリしているわけでもいなく、むしろこれほど実利や商売の損得を考えられない人たちが経済を担っている都市も珍しいほどだとすら思う。

以前に橋下さんがぶち上げた、関空と梅田をリニアで結ぶ構想にしても、大阪と関西の経済圏の全体を考えれば、伊丹空港が廃止となることも受け入れられたはずだが、そうはならなかった。関空、伊丹、神戸と三つも空港があることがただ「無駄」だから整理すべきだった、というだけではない。伊丹に配慮して関空がその機能を発揮できないことが大阪がこのグローバル経済の時代に巨大経済都市として生き残る上で障害になり、大阪の東京への従属を固定化するからこそ、断行すべきだったのだ。

ちなみに新幹線が大阪駅に止まらないようになったことからして、大阪を実は経済都市としては没落させようという狙いだったような気もする。 
結果、大阪は東海道山陽新幹線の東京や品川と並ぶターミナルという当然の地位を確保出来ぬまま、新大阪がただの停車駅になっている。

空の便に関しては、東京も決して便利な都市ではない。羽田空港の再国際化が今やどんどん進行しているのも、成田空港というかなり遠く不便で、その割に空港としての使い勝手も悪いところが玄関口であることが、香港や、インチョン国際空港を擁するソウルが国際ハブ空港としての機能を発展させていることに較べて、日本経済の凋落を危惧する要素にすらなっていたからだ。

その点、関空は最初からハブ空港化を視野に入れて設計されている(成田は当初計画の半分くらいしか実現出来ていないので滑走路が足りないし、ハブ運用は夜間離発着が出来ないので無理)。関空を当初の構想通りに完全に運用すること(伊丹と関空の一本化はその重要な一部)は、国際経済都市としての大阪を維持するには不可欠のことだったし、日本経済の基礎体力強化にも貢献したはずだ。

バブル以降の停滞20年超とはいえ、中国はともかく韓国に経済的に「抜かれる」ことを日本が危惧したりライバル視する理由はない。だいたい、国の大きさつまり市場規模がぜんぜん違うし、韓国経済は日本経済に大なり小なり依存しなければ維持出来ない。 
そうは言っても国の安定した経済成長を政策的に支える選択について、韓国政府の方がここ10数年以上の日本よりも遥かに合理的で正しい選択をたいがいはやっていることは無視しない方がいい。
というよりも日本には「景気が悪い、景気が悪い」という強迫観念への行き当たりばったりの対処(たとえばアベノミクス)以外に、経済政策や、現状に見合った安定成長路線の政策判断がないのが問題なのだ。 
それでもなんとか持っているのは、日本がそれだけ豊かな国で過去の遺産があり、日本政府も相当に資産を抱え、そんな危機的な財政難では実はないから、である。
その意味で、大阪市政と大阪経済の現状は、日本の縮図か極端化されたカリカチュアとも言える。

だからこそ橋下さんは伊丹の廃止も視野に入れて関空=梅田リニア構想をぶちあげた。

今ならバスで1時間かかるしそのバスが1時間に1本か2本しかない梅田=関空をリニアで結べば、今はいかに儲かっていようが伊丹=羽田便は意味がなくなる代わりに、海外からのビジネスマンの日本出張の相当な部分を大阪が担える体制になる。

まったく、羽田=伊丹便が繁盛しているのに伊丹を廃止する理由がない、と言い張る人たちはなんと「先のこと」も考えられず、現状認識すら木を見て森を見ずの保身の自己中心主義なのだろう?東京から大阪に来る乗客が伊丹に着くか関空に着くかだけの違いで、伊丹が羽田便で儲かるとはすなわち、大阪が東京に従属する都市であることに甘んじる現状の追認以外のなにものでもない。伊丹空港から行くままでは、国際ビジネスマンにとって大阪は、東京のついでに時間があったら程度のスタンスでしかなく、だから大阪が発祥の、本店や本社が大阪にある企業でも、実際の業務の中心は東京に置くしかなくなり、それでは大阪の経済産業はどんどん空洞化する。

「関空は不便」と言って伊丹廃止に反対したって、それは大阪市内と関空が直結されていないからだ。

逆に伊丹が便利なのは、ただ阪急電車が走っているからに過ぎない。リニア構想は実用化されていない技術なのだし大風呂敷広げ過ぎの打ち上げ花火スタントだったにしたって、なぜ梅田や天王寺か難波と関空が鉄道で直結していないのか、理解に苦しむ…ようなことでもない。それをやってしまったら伊丹空港の価値がなくなるから、わざと関空を不便にしているのだ。

あるいは伊丹を維持するなら維持するで、今度は比較的近いアジア圏、少なくとも韓国やとくに中国、それに台北やバンコクやマニラくらいは直行便を飛ばさないと意味がない。それもビジネスで常用できる程度の運行規模でないと、今度は国際ハブ空港化したインチョンや香港や上海、北京に、関空や成田、羽田が大阪の旅客を奪われるだけになる。

大阪が実利を重んじ損得勘定にぬかりのない商売人の町だなんていうのは、現代ではまったくの嘘っぱちだ。むしろ官僚的な既得権益に、それがジリ貧に向かうことを見て見ぬふりしてしがみつき、顧客のニーズへの対応も苦手な引きこもり体質、というのが実態に近い。

都構想はそんな現状の停滞を打破するひとつの手段であり、橋下徹さんが目指しているのは過去の繁栄を食いつぶしその栄光のプライドにすがりながら、現状をなにも変えられず、このままでは衰退するしかない大阪の力を取り戻すことだ。

都構想とはそのための荒療治であり、また府知事として橋下さんが実感したあまりにもの不自由を打破することでもあった。ぶっちゃけ、大阪府というのは財政難も含めてほとんどなにもできないのに規模だけは大きい自治体である。

なぜ大阪府には力がないのか?

これまでの府政にも責任がないわけではないが、最大の理由は構造的なものだ。大阪府内では、大阪市だけが一人勝ちにリッチな自治体であり、実質権力の大部分を府ではなく市が独占しているからだ。

これは大阪府内でも大きな不均衡を引き起こしている。

大阪市だけがお金が潤沢では、他の自治体の住民は貧乏クジを引かされた格好になる。もっとも、その他の市町村も大阪市のベッドタウン化しているわけで、それなりにリッチな大阪市の恩恵に多少は預かってもいるわけだが。

なにしろ腐っても鯛のかつては巨大経済中心で、日本の大企業は経営機能のほとんどが(国際競争に勝ち抜くために)東京中心で動いていても、大阪には名前だけ本店、名目上本社がまだたくさんある。実は大阪の産業経済とは現状ほとんど関係がなくとも、それは大阪市の税収には結びつく。

その上大阪市の不動産資産が、実はもの凄いらしい。正確なところは忘れたが(橋下氏の対抗候補たちはなぜそれを調べ上げて争点にしないのだろう?)下手すれば市全体の25%だか3割以上の経済産業立地が、実は大阪市の所有だったりする。

だからこそ大阪市はリッチで、無駄なハコモノでもどんどん建てられるだけではない。補助金で地元経済を廻している面ももの凄くあり、そして市役所がその巨大利権を握っているのである。そのすべては、大阪市民の目先の利益ともなり、その生活を維持するのにも貢献してはいるわけで、だから橋下さんも都構想の真の目的をおおっぴらに口には出来ないのだろう。


つまり都構想の本丸は、大阪市役所の持っている巨大利権と巨大権限を剥奪し、大阪市だけがリッチな現状を変えて大阪府全体で効率的におカネを使うことと、過去の遺産と補助金漬けの大阪の経済の実態を打破して、自立した経済的な体力を回復することにある。


市営地下鉄や市バスの経営体制を変える、といった橋下さんが打ち出している一見些細に見える改革案も、実はこの「大阪市がとにかくリッチな自治体で、その財源が大阪の経済のかなりの部分をなんとか廻している」という文脈で、本来は考えなければいけないし、逆にそう考えればこそ明瞭に意味が分かることなのだ。 
少なくともそれらの市営交通の経理を明瞭にする効果はある、市が実は膨大な資産や財源を隠し持っていることの一端は見えて来るはずなのだ。

言い換えれば都構想の本音とは、「大阪市民は甘やかされて腑抜けにされているからこのままじゃダメだ」ということであり、「税金の無駄遣いでもなんでもいいからそれで経済が廻っているという現状はおかしいだろ」、だから「大阪市民がもう今までのように甘やかされず、大阪府全体で有効にお金を使うことが、大阪の経済活性化につながる」である。

だがこれを言ってしまえば、東京コンプレックスに苛まれる大阪市民のプライドはもの凄く傷つくし、実はかなり補助金で廻っている経済の、その補助金を直に貰っている層であるとかからは、確実に支持されない。

でも橋下さんが選挙キャッチフレーズで打ち出している「次世代のために」で考えれば、このままその温存の最優先で行けば、大阪は実は経済的に凋落するだけなんだから、目先は損するとしてもやった方がいい決断のはずではある、少なくとも本気で議論はすべきだ。




だが橋下さん自身が、そうした本当の争点を今度の選挙ですら打ち出せてはいない。これには維新という政党の問題もある––橋下さんと慎太郎以外は、恐らく本当の政策だとかなにも分かっていない人たちばかりに見える。

「維新」というウヨッキーな復古調の党名も含め、橋下さんや慎太郎が右翼を演じているのは、それがポピュリズムとして現代の日本政治でかなり有効だからに他ならない。その意味で橋下さんや慎太郎の国家主義や復古主義はかなりの部分、スタンドプレーであり演技だ。だが維新の他の議員や党員にとっては、安倍晋三ばりのペラペラな国家主義の装いが本気の本気で、子供じみた精神論以外の中身がなにもないのだから始末に負えない。

これは橋下さんや慎太郎本人の性格的な問題もあるのではあろうが、結果として側近やブレーン、補佐役として彼らを支える人材がいない、というか周囲にロクに能力がない人たちしかいない。

橋下さんが格闘しつつぜんぜん成果が上がらない大阪市政の場合は、市議会与党や野党より、もっと大きな問題や障害が他にある。まず市役所が、それこそ霞ヶ関も真っ青な「伏魔殿」だし、その巨大利権と巨大権限をそう簡単に手放すわけがない。

いや橋下さんにとってもっと困ったことは、本当の改革のポイントを選挙の争点にしても票にならないという大阪市とその市民全体の問題だろう。

この点でも大阪は日本の縮図か、凝縮されたカリカチュアになっている。国政ならば霞ヶ関、大阪市政なら中之島の市役所を中心とする建物群が本当の「敵」なのだ。
だが国民も市民も、肝心な時には選挙の結果よりもその官僚機構の方になびくよう、適度に飼いならされ、お役所には結局は絶対に逆らわない、逆らえないと思い込まされている。


実は大阪市はリッチである。だが表向きは日本でもっとも多数の生活保護支給を抱える自治体でもあり、だから「不正受給」の背後に在日コリアン団体やいわゆる同和団体の影響をあてこすりながら、「生活保護が市の財政を圧迫している!」とか言った方が、選挙には勝ててしまうのがこれまた「ザッツ大阪」だったりする。

なにしろ共産党まで支持者を維持し票を集めるスローガンが、「同和利権」なるフィクションを持ち出し部落解放同盟をネチネチとヘイトスピーチで攻撃することだったりするのが、大阪市政では当たり前の風景なのである。

いやそれは日本共産党だからこそ、という説もあることも念のため言っておきます。 
その方が結構図星だと僕自身だって思っているし、そんなヘイトスピーチのデマ偏見流布での支持集めを延々とやって来た代々木のエラいさんが「反差別デモ」とかで先頭に立ったりするのはほとんど失笑ものの悪質な冗談である。

これは決して安易に言っていいことではないし、裏でこっそり口にする人の多くが極めて安直な偏見で、結果として完全に間違っている場合がほとんどだが、かと言って無視するのもまた差別的な偽善になりかねないこととして、橋下徹さんという政治家と、橋下さんがいわゆる同和、被差別部落民の出身であることは、やはり切っても切り離せない

橋下さん個人の性格がどうこう、などの薄っぺらで偏見に満ちた決め付けをやりたいのではない。

むろん橋下さんが自分の実力で出世できる弁護士という資格商売を選んだこと、派手なスタンドプレーと大風呂敷に固執しがちな目立ちたがり屋である一方で、世間のうわべだけの偽善のタテマエを時にまるで無視して自爆しがちなことと、自力で上り詰めたエリートだからこその強烈な自信と負けず嫌い、人によっては傲慢と毛嫌いするプライドの激しさ、いずれもいわばその “最下層” 出身だからでもあるのだろう。

だが、それが橋下さんの「強さ」と強烈な上昇志向のベースにあるとしても、そうした強烈さや我の強さを持てない小市民的な付和雷同な人間が「あいつは同和だから」とか陰口を、というのは、さすがにちょっとウンザリ…

…と言っても、ぶっちゃけた話、こと大阪府知事、大阪市長としての橋下さんの毀誉褒貶の激しさに関しては、支持しているようで裏では陰口を叩く人も多い大阪方面の論理は、まさにこうした差別意識と成功者への嫉妬のない混ぜ以外のなにものでもない。

実を言えば橋下さんの出自のこと自体、僕は彼がまだ府知事であった頃に大阪で映画を撮り始めるまで、考えもしなかったのだが、「橋下」という名字自体が関西出身であればすぐ “ピンと来る” ものである。 
いや言われてみればそうなのだけど、いくらなんでも法的にいわゆる「部落民」が平等扱いになってからもう140年、さすがに今さら、そんな差別をするのはごく一部の人だろうと、当初は無邪気にも思っていたのだ。 
だが「あいつの出身は」云々を最初に聴かされたのは、彼が右派だから反対なのだろうと普通なら考えるようないわば左派リベラルの市民派というか、小川紳介や土本典昭、原一男の映画作りを大阪で積極応援して来たはずの人からだった(かと言って代々木系ではないので念のため。つまり大阪では左翼が差別の先棒を担ぐのは共産党に限ったことではない)。

だから橋下さんとその出自、つまり彼がいわゆる被差別部落出身でありながら、あの大阪で府知事になり市長をやっていることにおいて、結局はその出自の問題を切り離しては考えられないのは、橋下さん個人の人柄や性格に関する問題ではない。橋下さんが結局はそういう出自の人としか見られない、そうなってしまう危険性を橋下さん自身も無視出来ないことが、いちばん大きいのだ。

言い換えれば、それは橋下さんの育ちとか性格の問題よりも、橋下さんを見る市民・府民の側の(あくまで先述のような、「ザッツ大阪」的な意味での「無自覚」な)差別意識の問題だ。

そう思えば、橋下さんが極右ポーズをとることを選択したポピュリストであることには決して賛成も共感も出来ないものの、その選択をした動機も含め(同和出身で左派だったら、それこそ相手にされないのがバブル後の日本のポピュリズムだ)、橋下徹さんの「勇気」は認めざるを得ないし、その「勇気」とは大阪市民の特権的優位意識をあえてぶっ壊す都構想をぶちあげたことも含めてであることは、言うまでもない。

前市長の平松氏も本人は決して悪い人ではないのだろうが、平松市政が話題作りの人気とりでやったことの多くが、大阪の人には分かる(ただし先述の「ザッツ大阪」で、実は分かっていること自体分からないのか、分からないフリをしているのかよく分からないのが大阪である)「暗号化された同和いじめ」だった。

ちなみに平松さんと橋下さんの一騎打ちになった前回の市長選で、橋下さんの出自をあげつらったネガキャンが週刊誌で行われたのは、平松陣営が関わっているとしたら大阪が分かっていない部類の勇み足だろう。 
実は差別が根深いからこそ、「橋下が市長になれないのは同和だからだ」と言わせることは絶対にやらないのも「ザッツ大阪」、その辺りは徹底して二枚舌というか、「差別している」と言われることは徹底して避ける。

釜ヶ崎の「浄化」計画を進めようとしたこと(ホームレスの人たちを新築した福祉住宅に入れる、と表向きは「よさそう」に見えること)、道頓堀のタコ焼き屋が市の土地で営業していたのを撤去させたこと、河川事務所が川や堀・運河に沈んでいた現金などをいわばネコババしていたことの告発、すべて「分かる人には分かる」こととして、いわば「暗黙の同和利権」と市民が実は理解して来たことをターゲットにしている。

橋下さんの代になって大っぴらに維新が問題にした大阪人権博物館(リバティおおさか)の展示内容にしたって、とっくに平松市政の代から、同和差別の告発の要素が徹底的に去勢された、極めて偽善的な内容になっていた。

旧渡邊村、その昔のえた・ひにん制度導入の前の秀吉の時代には「太鼓庄屋」の称号を与えられた日本一の太鼓の産地、江戸時代には骨粉肥料の開発でもけっこう儲けていたその場所にある「差別の歴史を教える」博物館が、アイヌの展示とか女性差別に関する話から始まるんだから、人をバカにしているじゃありませんか。


残念なことに、橋下さんも市長になったとたん、自らがその出自なのに…いや、これは部外者の勝手な言い草だろう。橋下さん自らがその出自だからこそ、分かり易い「暗号化された同和いじめ」をやらなければ市長の地位が危うくなったことは認めざるを得まい。

そうしなければ、すぐに「あいつはやっぱりしょせんはヨツ」と陰口が行き交うに決まっている。リバティ大阪だって橋下さんの立場では、平松時代に既にやっていたそれ以上をやらなければ「やっぱりヨツ」でリンチ吊るし上げの対象になりかねない。

それこそ都構想の真意が分かったとたん、市長を続けられないどころか「部落のクセに生意気だ」が決して表向きでは口にされない合い言葉となって、それこそリンチで殺されかねない、その恐怖はあれだけ勇ましい橋下さんだって無視は出来まい。


東京では、橋下さんが文楽協会に噛み付いたことで「文化が分からない無教養な右翼」と批判することが主流だったが、実はこれは大阪ではまったく違った意味を持つのだ。

文楽人形浄瑠璃、その語り部である太夫も人形遣いも、太棹三味線も、たとえば「太夫」の称号が示す通り、伝統的にいわゆる「えた・ひにん」階級の特殊技能だった。人形浄瑠璃はいわゆる「かわらもの」の芸能であり、その大きな劇場は地域的に言えばいわゆる「被差別部落地域」にあるものだった。

…っていうか大阪の今ある繁華街の多くが、大阪駅のある梅田ですら元は巨大墓地があった場所であり、たいがいは歴史的にはいわゆる「部落地域」かそこに隣接している場所だ。そしてその多くは、江戸時代から賑やかだった。

なお江戸だって、日暮里や浅草から北西、吉原にかけてと、隅田川の川向こうの両国は “そういう地域” で、だから歓楽街や娯楽文化の中心として栄えた歴史がある。 
別に役者芸人や遊女が「虐げられたもの」だったから、というだけの単純な話ではないので念のため。 
浄瑠璃も歌舞伎も、そして能楽も、そのドラマの基本構造からして宗教的・霊的に、その人たちでなければ担えない表現だったからである。 
こと浄瑠璃ではその構造は極めて明確だ。浄瑠璃の物語は決してオリジナル・ストーリーではなく、すべて元は歴史物語として誰もが知っている共通教養の源平合戦や太平記などを翻案した歴史物か、同時代的に大いに話題を集めた恋愛スキャンダルを扱った世話物だ。 

『義経千本桜』より 
前者では主人公達は歴史上の非業の英雄たち、後者ではたいがい心中事件の主人公、つまり死者であり、それまで世間で知られていたのとは異なる「事件の当事者から見た真相」がそのドラマの中身だ。つまり死者を代弁することで、武家社会の忠義の論理や商人の世界の義理や決まり事の矛盾が引き起こした悲劇を告発するのが文楽人形浄瑠璃であり、その真実を語り社会を批判出来るのは、特殊な霊的な力を持ち然界の神々や死者たちとつながった “権力外” の人たちだけだったのだ。 
被差別部落、「えた・ひにん」とは本来、そういうものである。江戸時代の身分法でも、士農工商のさらに下に「えた・ひにん」があるという構造ではない。そのヒエラルキーの「外」にあった制度上最下級身分、いわば「身分がない」「身分の外」であり、では実態も最下級だったのかと言えば必ずしもそうとは言えなかった。 
というかもっとはっきり言えば、現代でもたとえば「太子町」と言った地名がその地域には多いし、京都に行ってしまえばミもフタもなく分かり易いこととして、「えた・ひにん」階級は明らかに、天皇と密接な関わりを持っている。 
なお彼らが江戸時代までなら皮革加工やにかわの製造、明治以降では屠畜や精肉に関わるのが「穢れ」とみなされて、というのもむしろ明治以降の誤解である。本来は「それら穢れた職業しか彼らに許されなかった」のではなく、彼らにしか許されない仕事だったのである。 
命を奪うことは「穢れ」ではなかった。命を奪えば普通は「祟る」、その祟りを本気で恐れたのが過去の日本人であり、自然神や死者の霊を鎮める力を持つ彼らだけが「祟り」を恐れずに済んだのだ。

橋下さんが自分も被差別の出自なのに右翼のポーズをとり「弱者」に冷たい、という批判は教条左翼から多々出て来そうなわけだが、それはそれであまりに差別的な言い草だと指摘しておく。むしろそんな厳しい境遇だからこそ実力でのし上がった橋下さんからすれば、そんな「弱者」扱いこそが自分達を被差別の立場に追い込み閉じ込める話にしか見えない。

頭の良さと人一倍の勉強を武器に弁護士資格をとり差別をはねのけて来たのが橋下さんであり、弱者扱いされること、弱者に甘んじることなんてまっぴらご免だろうし、そうしたことを一切考えて来なかったし教えもして来ていないことが、日本の差別に関する教育(「人権教育」)や、反差別を自称する「支援」の運動の多くに見られる巨大な誤謬だ。

橋下さんの右翼国家主義のポーズはむろん「その方が人気が出る」という冷徹な判断が第一にあるのだろうが、こうした戦後左翼がこと差別の問題についてほとんどなにも成し遂げて来ず、しょせんは恵まれた中産階級の自己満足に堕して終わっているのが大半である現状と、こと大阪では他ならぬ共産党が自分達に対するヘイトスピーチで票や支持を集めていることへの、彼自身の強烈な反発の結果でもあるのだと思う。

この辺りは、戦後の左翼運動や今の左派やリベラルを称する人たちが大いに反省すべきことだ。

また橋下さんの世代になれば、一方で部落解放同盟などの運動体ももはや賞味期限を失ってしまっていることが大きい、とも思う。

これは解放同盟自体が悪いわけではない。

橋下さんは賛成しないだろうとも思うが、少なくとも僕から見て、解放同盟は大筋に置いて、戦後の運動方針はどれも間違ってはいない。普通なら差別の解消に役立って当然の、理論的に正しいものがほとんどだったと思う。

だが戦後まもなく、貧困と差別が密接に結びついていた時代に、いわゆる部落民の経済的な生活状況の向上を要求して戦ったことは、結果として「同和利権」なる都市伝説を産み、増幅させ、あたかもいわゆる部落民が一般市民に較べて優遇されているかのような偏見を産んだ。

就職差別が激しかったからこそ、自治体などに積極雇用を要求したことも差別解消の最初の段階として当然とられるべき処置だったが、これも「利権」と言うことにされてしまった。

行政の側はさらに手の込んだことに、雇用なら歴史的に旧えた・ひにん階級が関わって来た葬儀祭礼や河川の管理、ゴミ処理などの職種をメインにし、これ見よがしに「危険手当」などを匂わせることで一般プチブル市民の悪意と嫉妬に満ちた噂を誘発して来た。

公共住宅の建設ではわざと建設費が割り増しになるような独特な様式の建物にして、巨額の建設費でこれまた一般プチブル市民の嫉妬を誘発させて「同和利権」神話を補完すると同時に、そうした建物それ自体が見た目の特異性からして被差別のスティグマとして機能するように仕向ける念の入り様である。


また一方で、こういう施策の過程で部落解放同盟それ自体の一部幹部を始めとしたいわゆる被差別の側に、いやな言い方をすれば「鼻薬」をかがせることも、ちゃんとぬかりなくやって来ている。そうすることで当然の権利の要求の運動を去勢し、利権に縛り付けて身動きをとれなくすることも計算済みだったのか、これもまた無自覚・無意識にそう仕向けたのか…

そんなやり口がもはや「伝統」と化した大阪市政にあえて乗り込んだ橋下さんを、僕は無碍に非難する気にはなれない。慰安婦問題に関する暴言それ自体は問題だが、「慰安婦=売春婦」論的なことを橋下さんが口にするのは、なにも知らない二世三世の「愚かな坊ちゃん」だらけの自民右派や、そこにはへつらう傲慢な権威主義者のNHK会長がオランダの「飾り窓」を持ち出すのとは意味が違う。

橋下さん自身が飛田料理組合の顧問弁護士をやっていたこともある。オランダの「飾り窓」云々どころではなく日本にも、こと大阪には(売春禁止法があろうがなかろうが)、それこそ「飾り窓」とは比べものにならないほど厳格な伝統様式すら持った遊郭、売春業が飛田九条の松島に存続しているし、歴史的な経緯では遊女もまた「えた・ひにん」階級であったことから、それは橋下さんが育った環境の身近にあったものだ。

橋下さんにしてみれば、そういう現実が厳としてある現状を知りもしないで「慰安婦がかわいそう」的な感傷主義の“正義”の装いに終始する議論には、そう簡単に納得はできまい

むろん理論的・理念的に考え抜いた結果ではなかった安直な発言の責任は問われるべきだが、橋下さんがいわゆる部落民であり、飛田料理組合の顧問弁護士だったことの意味を深く考えもせずに「女を食い物にする組織売春に加担した」的にあげつらった批判には、「それは違う、なにも分かってない」と言わねばなるまい。

部落解放同盟の戦後の運動・闘争のなかで、現代の我々にも馴染みが深いのはいわゆる「言葉狩り」だが、これは実は差別の解消には理論的にはなんら寄与しない闘争だった…というのは同盟も最初から実は分かってやっている。

「えた・ひにん」とか「ヨツ」と言ってはいけないとしたところで言い換え語で「部落」、それも禁じたところで今度は「同和」と、いくらでも言い換えは出来る(「売春」と言わず「風俗」も似たような話だし、軍専用売春婦では体裁がつかないから「慰安婦」と呼んだ日本軍なんてのもある)わけで、言葉を禁じたところで差別は温存される。

差別は決して「差別語」ではなくあくまで差別意識の問題であり、「チョン」が差別語だから使わないとしたところで、差別的な意識や文脈で「在日」と言えば差別性は維持される。

ただそれでも、「差別語」という概念を持ち出すことで、「チョン」だの「ヨツ」だのの言葉を無頓着かつ無神経に使っていた人間に気づかせることにはつなばるはずだし、放送局などの大手メディア・言論権力を掌握する側にそれを突きつけること自体が、差別問題をうやむやにさせず差別される側がきちんと自分達の存在と、自分達が担う正義を突きつける意味があった。

ところがこれも、まるで理論的にはそうなるはずの結果にならなかったのだから、現代の日本という差別することが国民共同体の暗黙のレゾン・デートルになっている泥沼は恐ろしい。

なんと日本のマジョリティの側はこれを、「部落の連中が生意気にも俺たちの言論を封じようとしているが、差別と言われるのは困るからしょうがない」というように読み替えてしまったのだ。こうして差別に苦しめられている側が不当な抑圧者にスリ替えられるフィクションが共同幻想として成立し、自分達こそが被害者なのだという歪んだ自己正当化の言い訳にみすみす利用され、挙げ句に解放同盟は「怖い」か「鬱陶しい」、不当な圧力団体扱いすらされてしまうのが現状だ。

戦後の部落解放運動の歴史は、やって来たことは基本正しかったはずだ。

戦略的にも理論からすれば有効で、普通ならそれで成功することをちゃんとやっていたはずなのだ。

なのに結果だけ見れば、敗北よりももっと始末が悪い。自分達の正当性を認めさせたはずが見事に足下を掬われ、差別する側の狡猾にして無自覚な悪意の連帯に闘争の手段を絡めとられ、逆利用され、差別は解消に向かうのでなく隠蔽されるだけで温存され、昨今ではそこに胡座をかいてふんぞり返ったまま「反差別の運動」の主体すら被差別者から奪う「マジョリティからの反差別」運動を称してその自分達の「善意」にマイノリティを服従させようとする輩まで出て来る始末だ。

それどころか今や、『はだしのゲン』に「かたわ」「乞食」「貧乏人」と言った言葉が出て来ることを理由(というか言い訳)に、このマンガを子供に読ませまいとする、そうすることで戦後に原爆の被爆者がどれだけひどい差別を生き延びて来たかすら隠そうとする勢力まで、出て来てしまった。

 「なぜゲンだけなのか」 回収協力の校長「悔やんでる」(朝日新聞) http://www.asahi.com/articles/ASG3M7G13G3MPTIL033.html


こうした「臭いものにフタ」こそが、いわゆる「差別語」禁止の最大のデメリット、むしろ差別が「なかったこと」とされてしまうことに利用されかねない。

差別を表象する言葉、差別が確かにあったし今もあることの明確な記号を禁忌とすることで、差別自体が隠され、伝える言葉もなく、それ自体がなかったことにされてしまう。

また「差別語を使っていないから差別ではない」と言い張る余地まで、差別をし続けたい側に与えてしまう。

「差別する側」でありながら反省と自己改善を拒絶する者達にとって、もっとも好都合で身勝手な結果になりかねないことだ。

そんな現状のなかで橋下徹さんを無碍に責めることは、少なくとも僕にとってはちょっと良心が許さない。その個々の発言内容や態度には、納得出来ない、批判すべきだと思うことも多々あるが、それですら狡猾かつ無神経な無自覚さで「自分達が安心して差別出来る立場を温存したい」をずっと貫いて来た僕たちの社会が彼をそこに追い込んでしまった結果であるようにしか、僕には見えない。

ただだからこそ、橋下徹さんにはあえて言いたいし、気づいてもらいたいとも思ってしまうのである。

あなたが差別をはねのけて懸命に頑張って来たそのことすら、あなたの真の敵である匿名の、集団制の、摩訶不思議で正体の判然としない、無自覚で無神経で無責任なこの国の「差別する側」に結果として負けてしまっている、いいように利用されてしまっているのではないか?

だからこそ、大阪都構想の本当の意味も、そろそろブチまけてもいいのではないか?

「あなた達はこれまで不当に甘やかされて来て、それがあなた達の活力も奪っているのだ。大阪市民であることの特権的な利益なんてこの際、大阪のため、日本のためにこそ自ら棄てる覚悟を、あなた達は持つべきではないのか?」と言ってもいいのではないか。

そうでなければ橋下徹さんに大阪市民から期待されていることは、ただの徹底した「同和いじめ」(それを同和出身の市長がやれば「差別ではない、区別だ」と正当化されるらしい。そんなバカな)でしかなくなってしまう。

実はかなりの部分が補助金で廻ってしまっている経済をなんとかするのでなく「同和利権」という都市神話になんとなく符合しそうな補助金や生活保護だけを切ることだけだ、ということになってしまうし、このどうしようもなくドス黒く陰惨で無自覚さと無神経さに満ちた、不特定多数の「差別する側」のいっそう堕落した集合的不道徳の泥沼だけが、橋下市政が次の世代に遺す負の遺産になってしまいかねない。

これは単に差別される側の、いわゆる部落民や在日コリアンなどの人に「やさしい」社会を、とかいう話ではない。こんな自堕落な非倫理と、人間としての最低限の矜持の欠如を共有する集団性のなかに引きこもり、商人の町のガッツなんてとっくに失いかけている大阪が、再び名実ともに日本第二の経済圏の中心、独自の文化とエネルギーを持った都市を取り戻せるかどうかの、瀬戸際ではないのか。

つまり大阪が自分をちゃんと取り戻す、ということでもある。

10/01/2013

空虚なる記号としての日の丸と、日本の差別と呪詛のDNA


どうも今の日本と言う国は、なんとしてでも隣国の韓国と北朝鮮(朝鮮人民共和国)、つまり朝鮮民族を小馬鹿にし差蔑しなければ気が済まない国に成り下がったらしい。

いささか旧聞に属することではあるが、福島第一原子力発電所からの汚染水漏れがいきなり話題になり(最初から分かっていたはずのことであり、今の騒ぎは政府の情報管理が稚拙過ぎたとしか言いようがない)、韓国政府が東北太平洋岸・関東北部からの水産物の輸入禁止に踏み切った時のことだ。

韓国政府のこの対応は確かに困る。いかに自国内の原発の安全管理に疑問符がつき世論に神経を尖らせているとはいえ、だからこそ科学的な対処をお願いしたい、日本の失敗に今から学んで、原発の立地地元が一方的に苦しむ状況を再現しないよう、世論の素地作りに配慮して欲しいのは、もちろんのことだ。

実際には東北太平洋岸の水産物から顕著に高い放射性物質量が今年8月9月の段階で検出されているわけでもなく、汚染水ははっきり言えば事故発生当初から漏れていたわけだし、他国とはいえ風評に苦しめられる福島の農家や漁民のことも、少し配慮して頂ければ、とは当然ながら思う。万が一貴国の原発で放射能漏れが起きたとき、同じようなパニックが起こる世論の歪みを放置していれば、日本の被災地の農民漁民に起こっているのと同じことが起こり、今度は貴国の原発事故被災者が苦悶することにもなるのだし。

とはいえ、元を糾せば我が国の原発事故である。福一事故が想定外の津波に寄る不可避な事故であったとしても、その想定が間違っていたことも含めて失敗であり誤りであったことは認めるしかなく、日本政府が子どものように駄々をこねたってなにも始まらない。

しかもこの夏からの突然の汚染水漏れパニックでは、我が国の政府の情報の出し方の稚拙さが、過剰な警戒反応を招いている。他国に文句を言うのもいいが、日本国内に買う消費者が少ないことこそが現状の最大の問題、まさに風評であり、報道の不備、政府の思慮不足、すぐにお祭り騒ぎを始めたがる日本の世論の脆弱さの結果、福島県の漁業は未だにほとんど再開出来ないまま、そこへいきなりの汚染水問題の追い打ちとなった。他国を云々する前に、まず自国がしっかり支えなければ…いや決して特別な優遇や応援ではなく、誤解は誤解としてきちんと解消する責任は我が国の政府にあるのだし、この禁輸処置に納得出来ないならばこそ、まずきちんと説明する責任はあくまで我が国にある-だいたい、他の誰もやってくれないのだし。

ところが日本の政府も世論も、「韓国が」、となるとがぜん色めき立ち、林農水大臣に至っては、韓国政府を「非科学的」といかにも小馬鹿に仕切った態度で記者会見に臨んだ。

いやはや、8月15日に靖国神社に公式参拝出来ず欲求不満タラタラだったんだろうが、ここまで相手の感情を害してしまえば、これはもう国家政府のメンツの問題にかけて、禁輸処置は継続されますよ。

だいたい非科学的って、科学的判断に必要なデータすらまともに揃えて公表することすら出来ていないのが日本政府じゃないか。

一日300tの汚染水を「完全にブロック」、肝心の汚染水浄化・放射性物質除去装置の能力が追いつかない上に故障してしまっている事故現状を「アンダー・コントロール」と自慢げに言える非科学的な総理大臣閣下の顔を立てるため、東電社長が国会答弁で、無理なへ理屈を言わされたほどだ。 
科学技術と科学事象のアセスメントの問題で、科学に人事が優先させられるのが、今の日本国です。どうするんだこれ?

不安を覚えているのはなにも韓国だけではないのだし、この会見の場では

  • 現段階で危険とみなされる量の放射性物質が水産物から検出される例はほとんどない
  • 出荷される商品はきちんと検査されている
  • こと内陸の淡水魚には海に流れ出ている汚染水は関係ない

以上を日本側こそが冷静かつ科学的にきちんと説明するのが、福島をはじめ東北・北関東各県の漁民を守る農水大臣の責任だろうに、はっきり言って傲慢な差別意識丸出しの強がりなんてやっては、なにか隠してるから意地になってるのだろうと見透かされ、かえって被曝差蔑と風評を広げるだけではないか。

それにしても韓国がちょっとでも日本の意に添わない、言いなりにならなかったら「反日だ」と色めき立つのは、いったいどういうことなのだろう?

他所の国であり、利害が時には必ずしも一致しない、誤解を避けるには丁寧な説明が必要なのは、当然のことだし、幼稚な感情に走っては足下を見られるだけだろうに。

前大統領の李明博氏が、任期末期に天皇の訪韓への期待を表明したら「天皇に非礼だ」の大合唱だった。

いやかつての植民地支配者側、加害者側の元首(対外的には天皇は元首である)が過去にきちっとけじめをつけるのは、国際慣例、外交辞令として当然のことなんですが。

そのための国家と国民の象徴である上に、政治的実権を持たない天皇であれば現代の具体的な政治的関係との区分けもつく。それに当の今上天皇ご自身がそれを切望していることだって、李氏は当然踏まえての発言であった。

直接に植民地支配のくびきに苦しんだ記憶を持つのが「天皇陛下万歳」を言っていた世代だからこそ、天皇が行けばこそけじめ、清算になる、それなりに納得されるのだ。在日二世出身で日本に理解が深い李明博氏だからこそそれはよく分かっているし、いや誰よりも我らが今上のおかみ明仁さんがいちばんよく分かっている。

なのになにも分かっていない、頭が悪く教養も常識もない皆様が、無様な差別意識丸出しにはしたなく絶叫すれば、それが通用してしまう節度のない国が、かつて知性ある節度をなによりも重んじたはずの日本の、なれの果ての現状である。

…っていうか、「天皇陛下」はただの口実で、意地でも「チョーセン人には謝りたくない」っていう差蔑意識満載なプライドを自己満足させただけだろうに、なんとはしたない

靖国神社だって同じことだ。 
名目上とはいえ「天皇陛下のため」に日本兵たちは死んだ。なればこそ天皇が頭を下げることが最も重要なのに、戦死者たちに最大の責任を負う(つまり、彼らのせいで無駄死にしたのだ)A級戦犯が合祀されたことで昭和天皇がそこに行けなくなってしまい、韓国や中国と張り合いたいだけの幼稚な自称右派政治家たちが騒ぎを起こす度に、鎮魂は遠のくばかりだ。 
高齢化が進む直接の遺族や元戦友たちがいなくなれば、死者達の抱えた恨みや怒りの魂鎮めは、まもなく完全に忘却されるだろう。

なにか勘違いしてないだろうか?

いかに植民地支配それ自体を「当時の価値観」を持ち出して正当化を試みようとも、日本による朝鮮半島の植民地化の場合は、それでもやはり惨憺たる失敗でしかなく、その大失敗の無惨なる結果という前提を抜きにした評価も正当化もやりようがない

なにしろ日本は自らのボロ負けの結果、植民地に対して支配者として負っていた最低限の責任である、その大地を領土をして守ることすら、出来なかったのだ。

朝鮮半島が今なお分断国家であるのは、宗主国日本の戦争に巻き込まれた挙げ句、その宗主国がその大地を守りすらせず逃げ出したからだ

植民地主義のモノサシでみたって、これは大失敗であるだけではない、支配する側の矜持すらまるで抜け落ちた約束破りだ。旧支配者として威張りたいのなら、せめてその最低限の責任くらい果たしてからにするのでなければ、あまりに矜持もプライドもないはしたなさでしかない。

だがそんなみっともなさを誤摩化すために、現代の日本は一生懸命に朝鮮民族を敵視し、差蔑を続けている

戦後、日本は日韓基本条約を結ぶと同時に、個々の韓国人の賠償請求権…というと誤解を招くので精確さを期せば、たとえば未払いの給金や労災、日本兵として戦ったのなら当然恩給と遺族年金の対象となる、そうした当然の支払いを受ける権利を放棄させる、いわば借金となった給料の踏み倒しを押しつけ、国内では在日朝鮮韓国人を差蔑し続けている。

勘違いが多いので困るのだが、戦争などでの国家間賠償は、第二次世界大戦の戦後処理の国際法の枠組みで否定されているし、韓国政府もそれに倣って国家への賠償の請求権は最初から放棄している。 
問題なのはあくまで個々人に本来支払われるべきだった、私有財産権に属するもの、つまりは未払い給料の借金踏み倒し以外の何ものでもない。仮にパク・チョンヒ政権がそれを提案したとしたって、日本側がそれを受けること自体があらゆる倫理や道義に反する。なにしろ日本に忠誠を誓ってその軍で戦った人たちすら裏切る話なのだから。 
ましてこの協定は、冷戦下に日本がアメリカの権威を嵩に着て、虎の威を借る狐よろしく押し付けた不平等条約でしかなく、日本が一方的に破棄を宣言した方が国際的な評価が上がるような話だ。

これでは日本の植民地支配を「朝鮮半島の近代化の一段階」として一定の評価を与えようにも、なにしろ給料・借金まで踏み倒す旧支配者サマでは、封建領主よりもひどい。

李氏朝鮮の暴君だってそこまではやらなかった。

慰安婦問題に至っては、恥の上塗りによる差蔑の上塗りであるだけでなく、頭の悪さまで曝け出している

「慰安婦なんて売春婦だ」と言い張るのはその好例だ。

慰安婦とは日本軍の専属売春婦のことであり、そんなものを国家政府と軍組織が運営していることこそが問題になる。大っぴらにそんなことをやっていては当時でもあまりにみっともないから、当時の日本の官僚が「慰安婦」という「慰問」とかを連想させる役人言葉をでっち上げて誤摩化したのが、表向きは「武士道」を気取った日本の軍国主義なのだ。

「強制はなかった、証拠がない」という詭弁も悪い冗談でしかない。支配される植民地側、それも貧しい女性たちが、当時日本人でも断れなかった「お国のため」を断れるわけがない。

しかも徴集に官憲や軍の同行を義務づける命令書まで出ている(これは公文書として残っているのを日本政府が見つけている、つまり「強制があったという証拠はない」というのは詭弁の嘘っぱちである)。名目は「不正を防止するため」って、まさかそんな偽装のタテマエを文字通りに受け取る世間知らずな阿呆もおるまい。こんな馬鹿げた話を相手に押し付けようとすること自体が、相手を愚弄しきった差蔑意識の発露でしかない。

この愚かしさはどこから来るのか?

曲がりなりにも南蛮貿易の時代、つまり戦乱の続いた戦国時代でもヨーロッパのどの国も足下に及ばない識字率の高さに宣教師達が度肝を抜かれ、開国と明治維新の時点で世界ぶっちぎりの9割以上の識字率、戦後には占領軍を驚愕させた9割5分超えの識字率の圧倒的な民衆の知性の充実を誇り、しかも知識だけでなく知性の豊かさ、礼儀正しさと節度に「文明国」が驚愕した、世界有数の教育国家の伝統を持つ日本には、あり得ないほどの頭の悪さの無教養だ。

結局、自らの国の歴史的な失敗を指摘されることで、下位とみなす、差蔑対象でないと困る相手に頭を下げたくない、自分の過ちから逃げるために差蔑する相手を設けることで幼稚な優越感に浸る欲望の成せる業でしかない

ちなみに植民地支配者として最低限の義務すら守れなかったという支配者日本の惨めさは、沖縄についても言える

沖縄も元は別の民族と国、琉球王国であったのを、薩摩藩が幕末に征服併合し明治政府が引き継いだ領土だ。その沖縄を守るどころか、本土決戦を避ける時間稼ぎの犠牲にしたのが、日本という国だ。

いや2年半前の震災であきらかになり、たとえば今年のNHKの大河ドラマ『八重の桜』がテーマとして明示しているのが、明治維新による中央集権国家の成立とは、同じ国、同じ民族の大地であったたとえば会津、福島を、暴虐な植民地戦争で征服し、中央に隷属するいわば国内植民地とした歴史である。

『八重の桜』が見せている歴史は、会津のことも、天皇が去った京都のことも、中央政府の視点からだけで見る我々の習って来た日本史はまったく無視して来た。

ちなみに『八重の桜』が明治維新を成し遂げた暴力という誤りに対して提示するのは、ヒロインの山本(新島)八重が会津藩でも屈指の教育熱心家庭の出で、兄の山本覚馬は蘭学を修めて藩士に講義し、維新後は京都府の特別顧問として首都でなくなった京都を生まれ変わらせた先駆的な思想家、しかも夫は同志社大学創始者の新島襄、というわけで、正々堂々と教育の価値、学ぶことの大切さと、日本で初めてレディーファーストを実践させた女傑の話だけに、勉学=真理の探求を通した女性の自立である。 
明治維新の禍根を果敢に批判しつつ浮かび上がらせる、オルタネイティヴな、本来ならかくあるべきだった日本の近代化の強靭な意志を、明治維新と近代日本に虐げられた側に見い出すという、今では映画の方が怖がってやらないラディカルで真摯なメッセージ性を、報道では霞ヶ関御用達しかやらない国営放送NHKがやっているのである。参ったね。 
しかも女性の自立の物語を書いているのも女性脚本家、イケメンなスターたちに晴れがましいまでの魅力的な男性像を堂々と演じさせ、女性をキャーキャー言わせハート鷲掴みである。いやはや…こういうのは映画がやらなきゃあかんことでしょう。そしてとっても正しく日本的ですよ。

その中央つまり東京に一方的に奉仕するために押し付けられた福島第一原発の存在すら、その恩恵を受けて来た東京がすっかり忘れて来たように、東北地方、とりわけ福島県はその歴史が無視されて来ただけでなく、現代に至るまで常にその存在自体までが、無視され、ないがしろにされて来たのだ。

確かに、東京の電気は今ある日本の全体の経済の発展のためには必要だったのかもしれない。

だが、なればこそ浜通りが二つの原発を受け入れ、大地震と大津波による不可避な事故までは安全に運用して来た貢献は、評価されてしかるべきだ。

ところが東京では、にわか反原発運動は原発を受け入れたことを「原発マネーに汚れている」「原発ムラ」とこきおろし、未だに原子力発電を止めるか減らす気はまったくない側は、しょせんはただの下請け扱いで補償も先延ばしのまま踏みつけにしている。まるで植民地扱いの使い棄てだ。

封建領主だってもう少しは温情があった。

日本古来の神話的に解釈するなら、今起こっていることは、無視され搾取され差別されて来た存在が、怨霊となり「荒ぶる神」となった復讐であり「罰が当たった」状況とすら言える

現に富岡町から避難されている佐藤紫華子さんの詩集『原発難民の詩』には、こんな一節がある。


この悔しさ!
この惨めさ!
 
大人しくなんてしていられない 
皆で津波のように
押し寄せてやろうかしら 
 

佐藤紫華子『原発難民の詩』朝日新聞社刊


古来日本人は、自然を畏れ、死者を怨霊として恐れて来た民族であった

明治維新はそれを迷信と片付けようとしたが、その明治維新の東京は、自然の方からは関東大震災という手痛い復讐…というか「お叱り」に遭っている。

当時を代表する物理学者つまり最先端の西洋科学を身につけた知識人であり、夏目漱石門下の文学者でもあった寺田寅彦は、関東大震災の被害をつぶさに考察した結果、驚くべき結論に到達した-江戸時代の通りや町の区画を保って来た場所では、延焼が防がれ被害が少なかった。もっとも甚大な人的被害を出した被服省跡は、江戸のルールに従って避難の際の家財持ち出しを禁じていれば、その家財に延焼して数万が焼死するという被害は防げたかも知れない。

最晩年の1935年に、寺田は随筆『日本人の自然観』を著し、この震災の教訓を、日本人のアイデンティティの問題として総括している。

日本ではまず第一に自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が満たされやすいために住民は安んじてそのふところに抱かれることができる、という一方ではまた、厳父の厳罰のきびしさ恐ろしさが身にしみて、その禁制にそむき逆らうことの不利をよく心得ている。その結果として、自然の充分な恩恵を甘受すると同時に自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を集収し蓄積することをつとめて来た。
(中略)
 日本の自然界が空間的にも時間的にも複雑多様であり、それが住民に無限の恩恵を授けると同時にまた不可抗な威力をもって彼らを支配する、その結果として彼らはこの自然に服従することによってその恩恵を充分に享楽することを学んで来た、この特別な対自然の態度が日本人の物質的ならびに精神的生活の各方面に特殊な影響を及ぼした

寺田寅彦『日本人の自然観』全文はこちら


いや東日本大震災でも、昔ながらの体験と知恵の文化が残っていた場所で、被害がやはり抑えられていたことも記憶に新しい。

日本の近代化=西洋化のなかで失われたものは、地方、田舎にはまだ残っていたのだ。それは「日の丸」に代表されるような薄っぺらなアイデンティティ意識でもなければ、同じアジアの民を差別することで得られる優越感でもない。

いやむしろ、たとえば真っ先に菅首相とともに被災地を訪れた恩家宝中国首相は、中国人就学生を救う為に命を落とされた工場主を賞賛した。台湾からも中国からも韓国からも、義援金を始めさまざまな応援があった。 
「同じ東アジアじゃないか」の連帯感もあるとはいえ、日本の政治家の誰よりも被災者を励まし福島の風評被害を抑えようとした政治家が、中国首相だった温家宝氏だったのだから、こうなると「日本の…東京の政治家は、いったいどうなってるんだべ?」と困惑するしかない。

近代以降の日本と朝鮮半島や大陸との関わりとは、今では支配された朝鮮半島や侵略戦争の戦場になった中国本土以上に、支配した側である日本にとって惨憺たる、惨めなものだ。支配し加害者であった側がここまで惨めなのは、目も覆わんばかりだ。

残念ながら私たちの日本という国が、明治維新以降の、ずっと朝鮮民族を差蔑して来た歴史は厳然としてあり、その歴史は今さら変えられない

それどころか近代の、日の丸という国旗に象徴される国となって来て以来の140余年間、日本という国と民族のアイデンティを形成しうるもの、つまり歴史上の一貫した共通体験として日本と日本人がみんなでやって来た、成し遂げた主体的な行動とは、なんと「朝鮮民族を一貫して差蔑し、侵略し、搾取して来たこと」くらいしか、見当たらないのである。

なんと言う陰惨さだろう? 隣国いじめと差蔑にしか、自分達が自分達であることの拠り所を持てなくなってしまった私たちは、その自らの陰惨さを隠すために、ますますその隣国の、親戚だかご近所の民族を差蔑することしか出来ない。

今の日本にとっての戦争責任の問題とは、過去の負の遺産ではない。

未だに私たちの国と民族がやって来ていることなのだ。

日本がかつて「悪い国」だったことを認め謝ってしまえば、自分達は朝鮮民族や漢民族に対して「下位」に甘んじることになる。だから歴史をねじ曲げ、朝鮮民族を劣等民族扱いし、悪いことなんてしていない、日本は当時の世界史において支配者の民族であり朝鮮人とは違うのだ、インフラ整備や教育や、ロシアの侵略を防いで「助けてやったのだ」とふんぞり返り、ますます差蔑意識に耽溺する、その現代の責任である。

韓国とてナショナリズムがあるから、かつての支配王朝の李氏をそこまであしざまに言えないとはいえ、李氏がこと民衆の教育や文化を守ることについてはどうしようもないダメ王朝で、支配者の身勝手で民衆が文字を読めるようになることを恐れてせっかく発明したハングルを長らくおクラにして来たこと、日本が持ち込んだ普通教育制度が朝鮮民族の歴史において画期的で極めて重要であったことは、実はみんな気づいている。 
ただその普通教育が同時に、日本名を名乗るように押し付け、日本語の使用と、日本への愛国主義を強要し、日本社会の二流・三流市民に朝鮮民族を押し込めたものでもあったことも、無視するわけにはいかない。なのに日本がその誤りを認めず「教育をしてやった」とふんぞり返るだけなのならば… 
…あまりに他人様が見えていない愚かさで自分の首を絞めているマゾヒズム、まさに自虐史観としか言いようがない。

李氏朝鮮があまりに中国かぶれに耽溺し、自分たちの民族の庶民を愚弄していたのに対し、朝鮮半島の民衆の産み出した文化、たとえば民具として作られた陶磁器に、権威性の成金趣味を超越した卓越した美意識を見いだしたのは、千利休らの日本の茶道であり、明治以降だって柳宗理がいるではないか。

なのになぜ日本人は我々の現代になったとたん、自分達の民族の誇る豊かで洗練された知性の伝統を自ら捨て去って、醜悪な隣国いじめなぞに耽溺出来るのだ?

(…っていうかしょせん日本国内のコップの中の嵐では、もはや先方には馬鹿にされるだけ、いじめになってませんけど)

こうした過去の客観視や、相手側の視点を考えないこと、つまり近隣民族を人間扱い出来ないまま、下位に見た差異化によってしか、現代の日本人という民族の総体は、そのアイデンティティを保てなくなっている。

なんという悲惨なのだ。他にだって、日本の国家と国民のアイデンティティたりえたものは、たくさんあったはずだ。

敗戦という国民の最大の共通体験こそ受け身であったものの、その時にあえて平和憲法を選び、武力軍事力に頼らず復興したことも誇れるはずだし、今なお世界有数の経済大国であることだっていいし、歴史上一貫して庶民階級でも識字率が高い、教育・教養の全体水準が高いことでも、世界で屈指の優秀な労働力・技術力でも、いくらでもあるはずだ。だがこうしてかつての軍国主義や侵略戦争の歴史を乗り越えたはずの、国と民族の本当の誇りであるはずのことを、自らの怠惰さや幼稚なプライドで捨て去ってしまったのが過去20年の、バブル崩壊後の日本だ。

とりわけ第三世界の国々にとって日本が今も憧れと敬意の対象であるのは、戦後こうして知力と努力で立ち直ったことだけではない。他の先進国出身者では考えられないほど、地元に親身で分け隔てをしない、現地の農民や労働者からもきちんと学ぶ日本人の技術者たちであるとかが、20世紀の後半にインフラやプラントの整備、農業指導などの援助で大活躍したからだ。つまり「日本人は白人と違って差別しない、私たちを分かってくれる」という信頼と敬意だ。

他の先進国つまり白人国家の多くは、やはりどこかで現地の人を人間扱いしていない、やはりどこかでコロニアリストの尻尾を曝け出すのだ。日本人はそこが違う、と多くの人が思って来た。「さすがはヒロシマ、ナガサキに耐えて立ち直った人たちだ」であり、『おしん』と『一休さん』に世界が感動した日本人の高い道徳律の通りの生き方、これがアジアの誇りだと、世界中で多くの人が戦後の日本を見て思って来た。

たとえばアフガニスタンでも最も信頼された外国人は、ペシャワール会の日本人だった。

欧米人がイスラム武装ゲリラに殺されるのはある程度「やむを得ない」と実は多くのアフガン人は思っている。それだけの欧米植民地主義のもたらした、積年の恨みと言うものがある。だがペシャワール会の伊藤和也さんが殺されてしまったのは、皆が「とんでもない誤りだ」と嘆いた。

イラクで人質になった高遠さんたちが解放されたのだって、日本人を誘拐したり殺したりすることがほとんどのアラブ人にとって「間違い」だからだ。

だがこうして第三世界に認められて来た、中国人や韓国人も尊敬して来た立派な日本人の態度や業績は、私たちの「国民の共通体験」になっていない。むしろほとんどの日本人が知りもせず、意識もしないことだ

現地で働く人たちですら、現場で地元の人と汗を流し、その声を尊重しなければ仕事が成り立たなかったわけではない、経営畑であるとかの面々は、むしろ名誉白人扱いに耽溺して来た。近代の日本人は非白人の国々や諸民族から憧れと敬意をもたれることよりも、白人の一の子分の名誉白人として認めてもらうことを望んで来たかのようだ。

1964年の東京オリンピックを成功させ、世界に冠たる経済大国に、それも戦争や武力に頼ることなく成長した(まあ朝鮮戦争とベトナム戦争の軍需でえらく儲けたにせよ)ことで、もはや日本を、たとえ「黄色人種」であっても「子分」でなく対等の先進国として、欧米だって認めるしかなくなったのもだいぶ前のことなのだが。

ところが、それどころか世界有数の経済大国でありながら、経済外交政策でその大国の責任をぜんぜんまっとうしない対米追従で幻滅と失望を、言いなりになっているつもりの当の米国からさえ買っているのが今の日本だ。

ましてG20会議を首相がサボってオリピック招致とか、普通に呆れられますよ。

だいたい明治以降、日の丸を国旗にして以来、日本という国それ自体が、実は「日本」という国や民族ではなくなってしまっている。その急遽でっち上げられた日の丸を国の象徴とし、そこに固執すればするほど、我々は本来の「日本人であること」からかけ離れて行くしかない。

なにしろこの日の丸というやつが、民族アイデンティティの拠り所としてあまりに頼りない。

しょせんは明治の急ごしらえ、そこになんの歴史も民族の思いも込められていない、あっぱれなまでに空虚なる記号なのだからどうしようもない。だいたいが西洋には国旗というものがあるらしい、なら日本にも必要だ、というだけで慌てて決められた国家表象に過ぎず、実はなにも表象していない

明治維新の新国家樹立が、天皇親政の王政復古政府として正当化されるのであれば、なぜその天皇家の紋である菊を国旗にしなかったのか、さっぱり理解出来ない。

自然神信仰の系譜につらなる祭祀王の家系の古来の家紋なんて、いかにもアジアっぽくてかっこ悪いと思い込んじゃったのだろうか、明治の日本は?

いや君主国の場合その王朝の紋章を国旗にするか、国旗に組み込むって、けっこうヨーロッパでは基本なんですけど? 
フランス革命以前のフランス王国の国旗は、白地に金の百合、ブルボン王家の家紋ですよ。革命で採用された三色旗だって、真ん中の白は本来ブルボン王家の色です。イタリアの三色旗の真ん中が白いのも、ナポリ=シチリア王国がブルボン家の王朝だったから。英国国旗は、英連邦を構成する複数の旧王国の、そのそれぞれの王朝の家紋の組み合わせだ。 
明治の元勲達は、勉強不足と、劣等民族のアジア人というコンプレックスに、焦っちゃったのだろうか?

まあ別に日の丸自体に罪があるわけではなく、古来日の丸は太陽を表すオメデタイ記号として、見栄えもいいので重宝はされて来た文様である。

だが天皇家の祖先神が天照大神で太陽神だから日の丸が、なんて後付けのコジツケはまるで無意味だ。天照大神や、自然神信仰の日本人にとっての漠然と最重要な道徳的・宗教的権威である「お天道様」を表すのは、伝統的にと決まっている

逆に「なにかを映すもの」であってそれ自体に視覚的実質のない「鏡」でなければ、それほどの倫理的最高権威は表し得ないのが日本のカミ信仰の叡智の伝統なのだ。

自分自身を映し出す鏡だからこそ、「お天道様が見ている」という定番のお説教は、哲学的・倫理的に意味をなすのである。平たく言えば鏡に映った自分の姿を見て恥ずかしくないのですか、ということだ。

日本人とはこのように、世界の他の民族が組織宗教の前にとっとと放棄してしまった自然神信仰を守り抜き、それを高度に洗練された哲学にまで進化させた点で、世界に希有な民族なのである。

不完全な人間とは根本的に別次元にあるはずの、最も高度な正義や論理を視覚的に表象することは哲学的に不可能である、そのことを成文化したのはユダヤ人だが(故に神は表象不可能であり、偶像崇拝は禁止)、それを理屈で提示したのはいいが、なにしろそんな神=絶対正義を実感するのが難しい話なのでいろいろ悩んだ挙げ句に骨抜きにしてしまったユダヤ=キリスト教文明を尻目に(キリスト教なんて知的レベルの低い邪宗だからこの禁忌を完全に冒涜して、神はピンクの衣に白髪の老人になっちゃったし)、鏡を持ち出すことで身体的・感覚的に「見えざる最高権威」を納得させる天才的な発想は、日本のものなのである。

その洗練されまくった思想の根幹である鏡と言う象徴を、ロクに民族の歴史を勉強もせずに安易に放棄しちゃダメでしょう?

「いや日の丸は」と叫ぶ人たちは、よほど日本の歴史を知らないらしい。

たとえば源平合戦の屋島の戦いで有名な弓の名手・那須与一に、平家側が腕試しの標的として提示したのが、日の丸の扇だ。じゃあ平家物語の国民的英雄は、畏れ多くもそんな日本の象徴であり天皇の祖先神に矢を命中させたのかよ?バッカじゃなかろうか、っていう話である。

うっかり間違って「日の丸」を国旗とし、このただの形式でしかない、本来ならオメデタイだけの空虚な記号にばかり固執してしまった結果、日本という国と日本人という民族は、自らの手で自分達自身の歴史的な過去と断絶してしまった。

それも元はと言えば慌てて決めただけ、西洋の慣習に勘違いして迎合しただけの「国家象徴」である。まあデザイン性のインパクトはあるとはいえ、こんなもんをフェティッシュにしてこだわる方がおかしい

いや今も「日の丸」にこだわる人たちは、単に日教組が学校現場での日の丸君が代使用に反対したから、どうも近隣諸国が反発するらしいから、というだけで「日の丸」を掲げたがり、サッカーの試合でも自国チームの応援そっちのけで海軍旗まで振り回すらしい。 
その実他者に意識を支配されているだけの、自分がない輩の幼稚なリアクションとしてのイヤガラセ、幼児の反抗期並みの行動原理でしかないわけで、そこまでして韓国相手に「言うこと聞かないぞ」と叫びたい、自分たちが優位なのだと言い張りたいのだろうか? 
まったく馬鹿げている。


日の丸が意味論的にまったくの空虚であることの呪いとして、その表象する日本という国家もまた意味論的に空虚なものでしかなくなってしまった

歴史を喪失した国家=空虚しか見えていないのが、そんな悲惨な「彼ら」、現代の日本人なのだ。だから我々の国家は、過去の自分達やその祖父母、曾祖父母レベルの誤りすら受け入れられないほどに、脆弱な拠り所でしかない。

自分たちが実は何者なのか、そのアイデンティティになにも確たるものがないから、自我がちゃんと持てないままに、他者との比較に必死で固執する。つまりは差蔑するべくして差蔑している、差蔑しなくては生きていけない脆弱さの病理である。

たとえば震災や原発事故で我々に見せつけられた、福島浜通りや、東北の被災地の強さとは、自分達が生活して来た大地という確たるアイデンティティがあったからこそのものだった

震災と言う悲劇に直面した彼らが、テレビを通してそれを報道している「東京のエリート」であるはずの人たちのタガの外れた無様さや、東京中心の中央集権に組み込まれた政治家や地方自治体の情けなさを見て、やはりエリートだったはずの東京電力のていたらくにまで直面すれば、その悲惨と較べて自分達の「田舎」がどれだけ人間的に価値のあるものかは、多くの被災者にとって歴然たるものになる。 
自分達がそこに貢献するために原発を受け入れたはずの、近代日本の発展とはなんだったのかに対する、巨大な疑念も含めて。


しかしほとんどの日本人には、その自分が依って立つ拠り所、踏みしめる大地がない。地方ですら、その大地という確たるアイデンティティを棄てて東京に憧れるよう仕向けたのが、近現代の中央集権の日本国家だ。

そしてその東京とは、アイデンティティの確たるものを失いながら、かと言って近代的な自我を獲得出来たわけでもない、さまよえる者たちの浮ついた都市に、いつのまにか変貌してしまった。




僕にとって東京はおもしろい都市だ。

先日も近所のお寺の墓地で享保とか享和年号の墓石を見つけて、「へえ、この辺りは江戸というより、下屋敷が建ってたりした、江戸のはずれのギリギリだよねえ」とかおもしろがっていたわけだが(ちなみに今の箱根山公園と早稲田大学理工学部は、旧尾張藩下屋敷で、箱根山はその築山)、ほとんどの人は実は「江戸=東京はおもしろい」だなんて、思ったこともないのではないか?




まだ高度成長時代までは、東京は仕事の場であり学問の場として、確固たる地位を持っていたが、その意味もバブルと共にあぶくとなって消えてしまった。

そんな東京と言う空虚を中心とする中央集権国家としてしか日本を見られないのなら、行き着く果ては空虚な表象である日の丸にこだわることしかない。

その東京とは本来なら、その昔は江戸であった都市であり、明治維新、関東大震災、戦争、さらには高度成長と、何度も自分自身を更新し再生して来たダイナミックな都市だった。

その歴史の地層がそこかしこに実は見えるのが面白いのだが、何度も都市が自らを更新する、その地層の最新部分にいる者は、継続ではなく断絶によってしかその地層の下の過去に繋がり、しっかと立つことが出来ないのが、現代の東京である。

新大久保がいわば東京のリトル・ソウルのコリアタウンと化したのだって、江戸幕府の鉄砲百人隊(百人町という地名の由来)の居住地として江戸の外縁部に置かれ、鉄砲百人隊という集団の特殊性-ただの下級武士ではなく、鉄と火薬を扱うことが許されるなにか「特別」なものを背負った存在-がねじ曲がったのか、一時はどうにも学生街の高田馬場と繁華街で商業中心の新宿を結ぶ微妙な緩衝地帯に成り下がってしまい、フィリピン人娼婦が街角に立つ町に地盤沈下してしまった20年前を克服した、更新と再生を繰り返す東京という都市の新たな地層である(そしてこの土地にエキゾチックな「異なる他者」の町が出来るのも、実は歴史的な必然と言える)。
なぜそのおもしろさを受け入れられないのだろう?こういうことこそが江戸であり、東京なのに。

こうした他者性の積み重なりと多様性が自分のアイデンティティの一部だと悟れば、過去を学びながらそれを自由に自分で使いこなせる場所に、東京はなる。

しかしその東京の、断絶によってこそ過去や歴史や他者と繋がっている自由さこそが、地層の一番上にいながらその何度もの断絶と更新の上に立っていることに気づけない人には、耐えられないものなのかも知れない。

自らの「自我」が「他者」との関わりによってこそ位置づけられるものであり、それは単に同時進行の空間的なものだけではなく、歴史的・時間的な他者との関わりによってなされること、人間の自我とは決してただ孤立して自分自身なのではない、ということに気づけなければ、フラフラとさまようしかない。

人間が社会的な生物であり学習して変化し続ける生物である以上、時間的な継続としての歴史感覚がなければ、人間は自我を持てない。

近代が人類に与えた自由と引き換えに他者化した過去との折り合いをつけることを怠り、学ぶ作業を怠る者、たとえばこの東京をおもしろがれない者には、「日の丸」くらいしか拠り所がなくなる。



日本人が東京を首都とし、その地下水脈である江戸と断絶した時、日本人は自らがそこから断絶された過去に、自分の意志で繋がることでしか歴史的・民族的アイデンティティを持つことはできなくなった。

寺田寅彦が関東大震災お被害を検証して気づいたように、江戸と言う知恵の宝庫を無視して西洋風の近代化に邁進した結果、天災に鍛えられた独自の強さを持った民族ではなく、天災にパニックになる脆弱な民族に、我々はどんどん退行している。

自分たちが日本人であるという確固とそこに立つ居場所がないから、空虚な日の丸にしがみつき、借り物の理屈の薄っぺらさと共にそれを振り回す-子どもじみた自己正当化のために、つまりは依存出来て承認してくれる保護者を日の丸に求めて(ただの旗なのに)。

つまりは自分からの逃走であり、自由からの逃走だ。

そんな彼らが日本人という意識を持ち続けるためには、朝鮮民族を差蔑するしかないのだ。

そして同時に、差蔑しているという罪を必死で隠蔽しなければ、今度は自己正当化が保てない

この現代日本人の最大の悲惨のひとつとは、自立した自己が不完全な人間であるからこそ誤りを犯す権利もまた持っている、誤りや失敗から学び克服することにこそ生きると言うことの権利があるのだとすら、まるで認識出来なくなっていることでもある。

悩み迷いながらも自らの正誤の判断を最終的には自らの意志で行うこと-お天道様の象徴が鏡であるというのは、まさにそういうことだ-の権利それ自体を、我々の日本の現代は見失っている。

だから批判を必死で忌避するために既存の価値に薄っぺらに迎合するか、自分が社会的生物であることを忘れて開き直ることしか出来ないのが、大半の現代日本人なのだ。

自らの存在に不可分である社会性を拒絶して反社会に徹するならそれもひとつの立派な選択だ。ただし、ならば自分が拒絶した社会からの承認なんて求めるのはおかしい。 
引きこもるなら徹底して引きこもる、自らの存在を社会的な「悪」と規定し殺人でも犯すならまだいい。拒絶するフリをして社会に甘えているだけの「被差別者ごっこ」もまた蔓延している。 
実際に差蔑を受け続けて自我の確立が阻害されている者ならば、まだ「しょうがない」と温かく見守るしかないだろうが、挙げ句に日本人が朝鮮民族を差蔑して来たことを批判されれば「逆差別だ」と叫びだす倒錯まで出て来るのだからもう…。

いや、まだ一般の庶民は、また違うのだろう。

だが少なくとも自分は意識が高いとか、社会的・政治的な発言をしたり社会参加したがる人間のほとんどが、皆こんな調子なのだし、その倒錯した理屈に迎合しなければ、「意識が高い」お仲間に入れてもらえなくなる。

だから自分の主張の正当性の拠り所が、行き着く果ては「みんながそう言っているから」しかなくなる。「誰にも自分たちを批判させないこと」でしか自己正当化が保てない。

いやはや、これほど支配されるマイノリティの立場に自ら進んで落ちぶれて行くマジョリティというのもない。

もはや「お天道様」が参照となるのではなく、自ら所属するマジョリティに対してマイノリティとして隷属してつき合うことでしか、自分の居場所を担保出来ないのだ。

まあしょうがない、なにしろ140年前より以前の歴史から、国民と民族の総体が断絶されているのだから。その140年にしか、アイデンティティを置くことが出来ないのであれば、根本的に根なし草にしかなれず、しかし根なし草であることも受け入れられない。

この断絶に気づかず、自分の意志でそれを取り戻そうともせず、ただ日本人なら日本人という所属集団のなかで「みんながそう言っているから」の幻想にしがみつく、その集団に所属する自分を再確認するためには、「日本」ならその日本についての自分たちの内輪でしか通用しない現状認識を脅かす真実を握った他者、その近代日本に差蔑され続け虐げられた朝鮮民族を、本能的に恐れ、恐れるが故に蔑視するしかなくなるのだろう。


新大久保のコリアタウンに右翼が街宣を仕掛けるのは以前からあったことだが、インターネットが主な活動の場であるらしい右翼もどきがそこで反韓デモなる、まあはっきり言ってただの営業妨害と脅迫イヤガラセの犯罪行為をネット上で呼びかける愚かさ丸出しで騒ぎ始め、どうもやはりネット上にしか自分たちの「意識の高さ」だかを自己主張出来ないらしい人々が呼応して、ちょっとした騒ぎになっていることは、以前にもこのブログで触れた

その反対の運動を国会議員が主導するようにまでなり、どこから資金が出たのか映画か演劇の宣材ばりのグロス紙のチラシまで作って「差別撤廃東京大行進」なるイベントにまで発展し(こりゃ官製運動じゃないの、と疑っても当然ではある)、当日のNHKの7時のニュースをはじめ各報道機関もようやくとり上げたのだが(いやだから新大久保や鶴橋に犯罪行為でしかないイヤガラセがあること、日韓外相会談でまで話題になったことを、なんで報道しなかったのよ?やっぱりこのデモも含めて官製運動の出来レースじゃん)、その報道内容にはひっくり返った。

「在日韓国朝鮮人」の「ざ」の字も、日韓対立の現時点での最大の問題である「従軍慰安婦問題」の「い」の字もなく、在日コリアンには北の共和国つまり総聯系もいることすら無視、そっちの方面では今最大の問題である朝鮮学校を高校無償化政策から外すことにも一切触れない(この除外には、国連人権委員会から何度も人種差別だとの指摘が出ているのだが)。

気がつけば日本社会における差別の問題ではなく、日韓関係報道の扱いになっている。

あれ?

差蔑に反対するデモを報道してるんじゃなかったの?

「差別に反対するデモ」を報じているはずが、在日コリアン差蔑には一切触れずに、あたかも日韓関係の悪化が、「反韓デモ」と称する差蔑いやがらせの原因であるかのように報じ、その例として出されるのが竹島(独島)をめぐる領有権主張の対立や、先にも述べた水産物禁輸処置だ。

「いや元々は韓国のせいなんだけど」と言わんばかり

まるで韓国が悪いから日本人の一部が怒った、でもやさしい日本人が日本にいる韓国人をいじめるのは度が過ぎているから起ち上がった。韓国は良くない国だが、お隣なんだし日本は寛大に仲良くしてあげましょう、差蔑はいけませんと言うことは、これからオリンピックを開催する日本はちゃんと分かっているんです、と言わんばかりの、自画自賛のフィクション構図の捏造でしかなく、根源的に差蔑的だ。

ちなみにNHKが併せて報道した、日比谷公園の日韓交流おまつりには、高円宮妃と安倍首相夫人が開会式に出席し、この昭恵さんを韓国外交通商省が「好ましい努力」と、亭主のやってる反韓国ナショナリズムをあえて無視したイヤミたっぷりの賞賛までやっている。 
大人だなぁ韓国政府…。イヤ日本が子どもっぽ過ぎるだけか。

もっともこれはNHKや各新聞だけを責めていいものではない。

当の「差別撤廃東京大行進」なるイベントを主催したり参加している側が、まったく同じ意識であり、参加する在日コリアンにまでそういう態度、つまりは「(韓国と北朝鮮はけしからんが)差別はいけない」と主張する自分たちに同調するどころか感謝することまで、強要しているのだから。

なんでも挨拶に立った在日コリアン二世の女性が、「この日のために日本に生まれた」だのと言ったとか言わないとか、「結婚」に喩えたそうである。

結婚?まるで日韓併合の悪夢の再来ではないか!

いやだから韓国も北朝鮮も別の国、朝鮮民族は日本人とは別民族、在日は身近な他者として日本民族と共存しているのであって「結婚」なんてしてまで同化せんでいいから。

しかもそれを在日の女性に言わせるに至っては、差別反対どころか男尊女卑じゃんか

また先頭に立った国会議員が共産党の小池晃氏、つまり差蔑の問題に関しては、菅政権当時に復興大臣になった解同系の松本氏を「同和出身の地金が見えた」などと、被差別部落問題に関してはどの政党も足下に及ばないほどの差別者っぷり丸出し共産党にえらく忠実な差蔑発言を公言してしまったお方と、拉致問題を口実にした反朝鮮総聯差蔑プロパガンダ報道でもご活躍なさった過去もある、ジャーナリストの有田芳生氏である。

いや自分たちの過去をちゃんと反省して「人種差別撤廃条約の履行」を政府に求めるのなら頑張って下さい、なのであるが、我がニッポンの国会議員サマはこんな調子だ。
いやだから「差別される人たちの多くはこの日本で声も出さずにじっと堪えてきたんだろう」じゃないでしょう?


彼らに黙るよう、じっと堪えるように強いて来たのは誰なのか? 
なぜたかがこの程度のパレードで涙を流すほどまでに、その人たちは虐げられて来たのか? 
それは誰がやって来たことなのか? 

それを無視してまるで他人事である。

こんなことで、私たちの社会になおべったり刷り込まれた差別を「撤廃」なんて出来るのか?

拉致問題は確かに大きな問題とはいえ、あなた方が節操もなくそれを朝鮮総聯や朝鮮学校に結びつけるかのような報道をする度に、在日朝鮮人がどれだけ戦々恐々の思いをし、「やめてくれ」とも言えず黙るしかなかったのか、考えたことはないのだろうか?


拉致被害者家族・蓮池透さんの談話
「拉致問題を解決するには、日本はまず過去の戦争責任と向き合わなければならないはず」

有田氏のような、自分たちの主体的な行いからの責任逃れと隠蔽したい欲望が度を越して、「自分たち日本人が主体としてやって来たこと」すら、他人事のように思い込んでしまっている、ここまで近現代の日本という国家自体が我々日本人の意識において空虚でしかあり得ないことが、日本人が朝鮮民族差別をやめられない本当の理由なのだ

だから彼らは、たかが0.5%の少数民族である在日コリアンに実はこんなにも怯えて直視出来ないでいる、ほとんどカミ的な作用を持っている被差蔑者を恐れているのだ。

そう、朝鮮人とはそんな日本人たちにとって、怯えるからこそ蔑視することで封じこめようとする怨霊でしかない。

朝鮮人を日本から排斥しようとする者達も、排斥する者を叩くポーズによって「‪仲良くしようぜ‬」と懐柔しようとする者達も、蔑視すると同時に怯えている。いや怯えているからこそ差蔑することで、必死に「自分達の方が上」だと思いたいのだ。

その実、朝鮮人とは日本人からみて、まるで怨霊なのである。


  • 怨霊としての朝鮮人の正体とは、言うまでもなく征韓論に始まり、日清戦争によって朝鮮半島進出に実際の足がかりを得て、日露戦争によって事実上の保護国とし、李氏朝鮮が日本とロシアの勢力バランスのあいまになんとか自国の立場を確保しようとするのを露骨な暴力の行使による脅迫で阻み、暴力と脅迫で日韓併合の合意を飲ませた植民地侵略である。 
  • 1911年から1945年の植民地支配の大失敗であり、そのあいだ一貫して朝鮮民族を差蔑し、搾取し、慰安婦や徴用、強制的な労働契約で酷使し虐待すらしたこと。 
  • 1923年の関東大震災では日本人の暴徒が朝鮮人を虐殺すらしたこと 
  • 第二次大戦では多くの朝鮮人を日本兵として死なせたこと。さらにその当然の恩給、遺族年金などの支払いを踏み倒して来たこと。 


いや、 現代の日本が逃げ続けている「不都合な真実」は、なにも戦前だけではない。


  • 朝鮮半島の戦後は、日本軍の敗走から始まる。 
  • 半島を守るどころか日本民間人を取り残して逃げた帝国陸軍、この惨めな史実もまた、今の日本は直視出来ないで逃げ続けるだけだが、その日本軍の敗走で半島は分断国家となり、日本の戦後復興を支えた朝鮮戦争により焦土と化した(今のソウル市に歴史的建造物が少ないのは、朝鮮戦争で破壊されたからである)。 
  •   在日韓国・朝鮮人に対する一貫して差別的な政策、法制度や社会制度。
  • 韓国の民主化でようやく元慰安婦の人々が声を上げると、その訴えの正否の事実認定すら拒絶して来た日本の司法。


 「裁判で真実を明らかにする」という慣用句はどこかに消えてしまったまま、明らかに不平等で不道徳な借金・給料踏み倒しの約束をタテに敗訴にしたうえ、金儲けだの、敗訴したんだから嘘つきだのと、罵声を浴びせる-日本側が事実かどうかすら調べようとしていない。

荒ぶる神、怨霊とみなす朝鮮人を目覚めさせてはならない。その怨霊が握る真実は、隠し続けなければならないのだから。

なにしろ司法が「真実を明らかにする」ことを封じこめているのだから、ミもフタもなく分かり易い構図だ。

真実を握る虐げられた者、死者たちの怨霊に怯える-ベタに日本の怪談ものの物語構造なのである。

我々は田宮伊衛右門と悪行仲間達がお岩の亡霊を恐れるように、あるいは播州池田藩が井戸に放り込まれて殺されたお菊の、皿を数える声に怯えるのと同様に、朝鮮民族に怯え、恐れるからこそ差別して黙らせようとしているのだ。

鶴屋南北作『東海道四谷怪談』の映画化、『怪談 お岩の亡霊』監督 加藤泰

ちなみにここに泰西ホラーと日本の怪談ものの決定的な違いがある。幽霊や化け物は「悪」ではない。人間の「悪」が見過ごした正義であるべきもの、虐げられたものの復讐であり、物語の理は人間の側ではなく、荒ぶる神と化した怨霊、化け物たちの側にある。

朝鮮人を過去の真実を握る怨霊として怯え蔑視している、その怯えと蔑視によってこそ自分達が日本人なのだと確認している点において、排斥のポーズをとる者も「‪仲良くしようぜ‬」と言う者たちも、実は大差がない

怨霊としてしか見ていない朝鮮人を、それが怨霊の本性を見せない限りはちやほやする、やさしくする、つまりは「仲良くしようぜ」を装うのは、怨霊が暴走することを恐怖しているだけだ。

だから彼らはその朝鮮人=怨霊の本性を呼び起こしそうな日本人を、徹底的に攻撃する。

同じ怨霊への怯えを共有するが、恐れが行き過ぎて露骨に「悪魔払い」を始める暴力的な排外主義は潰さなければならない。

挑発された怨霊の、その怒りの発露が怖いから。

一方で歴史を喚起して朝鮮人を目覚めさせようとする「左翼」はもっと黙らせなければならない。そうした「反日左翼」が歴史の事実によって朝鮮人を目覚めさせてしまえば、彼ら日本人にとって荒ぶる神、怨霊になるだろう。

幼稚な‪排外主義者たちが‬暴言で朝鮮人を怒らせて怨霊を目覚めさせること以上に、それは彼らにとって耐え難い恐怖なのだ。だから彼らは「左翼」については叩くだけでなく、朝鮮人から切り離させるため、子分に出来そうな朝鮮人の囲い込みにも執心する。



左派、右派の図式でまるで割り切れないのは、これが政治の問題でも、歴史の政治的解釈をめぐる問題でもなく、宗教の問題であり、儀式の作法である自律と謙譲を見失った者達による必死の魂鎮めの儀式だからだ。

怯えの暴走、怨霊ないし荒ぶる神としての朝鮮人を排斥し攻撃することにあの人々が抗するのは、それが「ヘイトスピーチ」だからではなく、そこまで刺激してしまっては朝鮮人が「怒る」、つまり荒ぶる神が怨霊の本性を曝け出すことをこそ彼らが畏れているからなのだ。

これでは反差蔑でもなんでもない。儀礼の品位を失った祭りである。

政治(まつりごと)ではなく、哲学や節度を見失い儀礼としての文化の形を喪失した野蛮な呪詛の祭礼(おまつりさわぎ)なのだ。信仰としての呪詛は特殊な形と特殊なイニシエーションを受けた者なしには成立しないことに気づきもしない知性の欠如した傲慢さを、無自覚に曝け出しながら。



異なるもの、場合によっては被差別者、それこそが実はカミに通じる、これは古代のアニミズムの信仰体系である。

現代日本人は日本人としての過去から断絶させられてしまっているからこそ、かえって信仰として体系化される以前の自然新信仰、アニミズムに本能的に支配されているのだろう。

こと都市の日本人は、アニミズムの本体である自然という他者から隔離され、人間にとっての究極の他者性である「死」が社会の表面から去勢され、死者達の歴史に連なる過去の地層が自分達から断絶されてもなお足下で繋がっていることも忘れ、同質性の集団内に引きこもるよう飼いならされたとき、現代の都会の日本人がカミ的に見ることが出来る他者性を持った対象が、皮肉なことに人口0.5%に過ぎぬ少数民族、朝鮮人なのだ。

人口0.5%に過ぎぬ少数民族である他者、朝鮮人は、しかも日本人にとって怨霊となり荒ぶる神となる条件を十二分に備えている。

日本人が忘れ抑圧している自らのアジア性へのつながりである朝鮮人、そしてなによりも、その朝鮮人を明治以降の日本国家が常に蔑視し、搾取し、支配し、虐待すらした歴史。

これが通常の歴史問題なら、日本という国家は過去に朝鮮人を虐待した歴史の過ちすらきちんと受け止められる歴史的・文化的な強靭さを持ち得たはずだ。

むしろ本来の日本の文化では、過ちは潔く認めない限り許されることがない。ところが現代の日本人はそれが絶対に出来ないのだろう。

出来ないのも無理はない。

日の丸というあっぱれに空虚な象徴しか持てなくなってしまった空虚な国家としての近代日本は、自らのアジア性を去勢し、天皇のカミ性すら西洋の軍服を着せたご真影で無効化してしまった。バブルに狂奔したこととそれが崩壊したことの幻滅で、世界でも稀な勤勉で努力家な民族というプライドも失った。

そして過去140年間、アジアと西洋のあいだで中途半端にぶら下がっているだけの日本は、あまりにも脆弱に成り下がってしまい、過去を受け止める強さすらもはや持っていない。

現代の過ちを受け止めるだけの歴史と過去の厚み、それを伝統と呼び保守とみなすわけだが、その保守も伝統も、近代日本は(恐らくは田舎を除けば)持ち得ないのだ。そこにあるのはあまりに空虚な記号である日の丸だけ、という無惨なまでにアイデンティティの拠り所のない我々は、だから朝鮮人に怯えることしか出来ない。



だいたい、この日本で保守を名乗ることは滑稽な喜劇でしかなく、その印に日の丸を掲げることはさらに滑稽で陰惨な不条理劇、朝鮮人差蔑に反対するのに日の丸を掲げて保守を名乗るなぞに至っては、滑稽で無惨な悪趣味の自虐でしかあり得ない。 
空虚なる日本の空虚な日の丸は、朝鮮人を差蔑して来た旗でしかないのに、わざわざそれを思い起こさせようと言わんばかりに、なぜか日の丸にこだわる。 
いや「彼ら」は単に、日教組が反対するから、どうも近隣アジア諸国が嫌がるらしいから、みんなで日の丸を振りましょう、と言っているに過ぎないわけだが。 
かと思えば自分たちは決して差蔑される側ではなく、差蔑をやって来た側の同質性にどっぷり浸っているというのに、マーティン・ルーサー・キング牧師の「ワシントン大行進」へのオマージュとか言い出す(嗚呼無惨なり、アメリカかぶれの薄っぺらなポリティカリー・コレクトネスごっこでしかない借り物だ)、それも黒のスーツに黒タイを真似たのだという。 
こういうのこそ日本的な伝統でいえば、お天道様の象徴である鏡を突きつけられるべき局面だ。そこに映る自分たちの姿を見れば、すべてがもの凄く悲惨で出口のない、節度にかけた倒錯の祭りでしかない 
いやお天道様を持ち出すまでもなく、その珍妙な自分たちの真の姿を映し出す鏡として作用する他者が、目の前の在日コリアンや韓国人という姿で、そこにいるはずであることすら気づかない。

日本人にとっての朝鮮人とは、この自身の軽薄過ぎる醜悪さを映し出す鏡となり、その無惨な近代史を体現する怨霊となる。

そして惨めな醜悪さを我々が積み重ねれば積み重ねるほど、当然ながら怨霊の持つ真実の力は増大する。

怨霊を恐れ呪詛と鎮撫を求めるのは確かに日本人本来の文化的DNAだろう。だがあくまで祭礼・儀礼なのだから、それなりの作法と文化的な振る舞い、節度と精神性がなければみっともなさ過ぎる。

まして神事に不可欠な形代を持ち出すのでもなく、新大久保や鶴橋で直接の暴力沙汰に罵詈雑言のお祭り騒ぎに耽溺するとは、あまりに節度と矜持に欠けた振る舞いであるだけではない。

そもそも、そのお祭りで暴れる資格なぞ、文化伝統から言って普通のマジョリティ日本人にはない-同質化幻想に耽溺するだけでは「異なる者」の荒ぶる神の側には居ないし、言うまでもなく平等を求めてワシントンに向かった60年代の黒人たちの側にも居ないのだから。

ただの馬鹿げた自己撞着の倒錯である

なぜなら現実の朝鮮民族も、新大久保や鶴橋の韓国人も在日コリアンも、怨霊なぞではなく人間であり、彼らは日本の負の歴史を体現するために我々の前にいるわけでもなく、その一方で我々日本人には十分にその負の歴史を政治として受け止める力があることすら、彼らがまるで忘れているからだ。

朝鮮人は明治以降140年我々日本人が差別し搾取して来た歴史の怨念の固まりではない。

近代史の荒波に巻き込まれた過去を踏まえながら、自分達の民族と国家のアイデンティティ意識を取り戻すべく努力し、民主化以降、とりわけ金大中政権以降、急速にかなり成功しているのが今の韓国だ。

彼らは怨霊ではなく、同じ人間として、ただ事実を認め謝って欲しい、お互いが過去を乗り越えるために必須の、しかるべき反省を求めているだけだ。そこに我々が怯えるべきものなど、一切ない。

我々の日本もまた、日の丸という空虚な記号に象徴されるだけの空虚ではない。

世界に冠たる豊かな文化を持った国のはずだ。たかが140年の歴史しかない「日の丸」という国旗が、その起源をたどれば少なくとも古墳時代には遡れる日本を象徴なんて出来るわけがない。

「日の丸」によって空虚さに貶められた日本の本来、その大地、その歴史、その優れてユニークで豊かな文化を我々が思い出し、日本人であることのアイデンティティを回復しさえすれば、朝鮮人と言う怨霊に怯えるからこそ蔑視することが日本人であるという誤った思い込みから解放されることは、簡単なはずだ。

「日の丸」によって空虚さに貶められた日本ではない、本来の大地や歴史、ユニークで豊かな知性と官能・享楽性を融合させた文化、その規範をバネにして世界中のどの国よりも早く近代化を成し遂げたことを思い出し、日本人であることのアイデンティティを回復しさえすれば、その過去の幾度かの過ちを認めることは難しくはないはずだ。

だいたい、しのごのといいわけに走って駄々をこねるのははしたない、真っ先に自分から「ごめんなさい」を言うことが、日本の伝統倫理のはずじゃないか。

だが自分を喪失している今の日本は、それが出来ない



そんな自己を喪失した、他との比較によってしかアイデンティティを担保出来ない現代の日本人だから、朝鮮半島侵略と朝鮮民族差蔑の歴史の過ちを拒絶するためにも、ますます朝鮮人を差蔑することの差異化に立ち位置を求めてしまい、ますますその差蔑性を指摘されることに怯えるという、堂々回りのがんじがらめに陥る。

日本人にとっての朝鮮人は、ますます怨霊だからこそ忌避し差蔑し、なんとか黙らせようとする対象になる。

だが実は、怨霊としての朝鮮人に怯えるからこそ差蔑している日本を、彼らだってどこかでは自覚しているのだから、その差蔑を続けることでますます怨霊の力は増すことになる、つまり「お前達は差蔑を続ける邪悪なレイシスト民族だ」と言われることをますます恐れ続け、どんどん怯えに苛まれたヒステリーに落ち込んで行く。

だからこそ「‪反韓デモ‬」 と、それに反対すると称する人々の共謀による、歪んだ、節度のない、倒錯した野蛮な祭は、新大久保では本質的に浮いてしまうに決まっている。




なぜなら、そこにはその双方が共通して怯え、だからこそ封じこめたい「怨霊としての朝鮮人」なぞいないのだから。

いるのは隣国から来た、あるいは日本で生まれ育った異民族、歴史的にずっと我々の身近な隣人であった民族の、チャーミングな人間たちであり、その身近な他者性を素直に楽しむフツーの日本人たちなのだから。




本来の日本の文化では「他者」であることそれ自体が「チャーミング」であり、真実を支配し、神聖さにもつながるものなので。だから韓流イケメンに日本女性がキャーキャー言いつつ韓国料理に舌鼓を打つのは、元来は享楽的な日本人の文化的DNAからして、まっとうなことでもある。

少なくとも食欲と、イイ男にキャーキャーいいたい欲望に忠実であることは、必死になって朝鮮民族を差別したがる歪んだ欲望や、「反差蔑」を口先だけ叫んで正義の味方ぶりたい欲望よりも、遥かに健全だ。

5/30/2013

橋下徹氏の問題発言をめぐって、大阪の飛田新地(遊郭)と性の文化への偏見について

先日の外国人記者クラブでの会見で、橋下徹氏に過去、飛田新地料理店組合の顧問弁護士をしていたのではないか、という質問が飛んだらしい。

「料理店」というのはあまりに分かり易い、兵士の性欲処理のために従軍させた女性たちを「慰安婦」という偽善的な言い換えでで誤摩化したのにも通じる、あまりにあからさまな言い換え語だ。

橋下さんは「違法ならば取り締まられているはずだ」と質問をかわした。

つまりは「取り締まられず現状ずっと営業しているのに、本当に違法と言えるのか」と詭弁で話をかわしたのだが、質問した側には、女性を食い物にする遊郭の弁護士をやるほど倫理観が低いから、例の問題発言をしたのだろう、と批判する意図があるのも分かりきったことであり、橋下さんが論点を逸らし誤摩化したと言えば、それはその通りだろう。

田中龍作ジャーナル「橋下氏会見 海外メディア不満「明確な回答なかった」、失笑もれる」
http://tanakaryusaku.jp/2013/05/0007176

だが一方で、質問した側の発想に見られるその意識も、いかがなものか、とも思ってしまうのである。

売買春の是非を巡る議論では、しばしば女性の人権の問題と、売買春を賎業とみなす父権性の通俗道徳的な倫理観が混同され、告発する側はたいがい、自分たちの差別偏見や蔑視に、無自覚なままで終わってしまう。

内田樹先生がその辺りの問題を分かり易く整理しておいでなので、こちらもぜひ参考にして頂きたい。

内田樹の研究室「セックスワークについて」
http://blog.tatsuru.com/2013/05/29_0836.php

飛田新地は、大阪の天王寺駅の向こう側、西成区にある。隣接する阿倍野地域は再開発が進んでいる(と同時に、こぎれいな第三セクター経営物件の商店街などで、ゴーストタウン化も進んでいる)が、崖を経てその下がかつての鳶田墓地、そこに明治の後半に、難波の大火のあと遊郭が移転して来た場所だ。住所表記の上では、西成区山王になる。


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「山王」という地名が、たとえば「太子町」、あるいは「橋下」などの人名と同様に、いわゆるかつての被差別部落地域を暗示するものであることすら、今では大阪の人でも多くが知らないだろう。しかし西成区が日本でも最大級のいわゆる部落であることを、関西の人間は「知らない」としても、やはりどこかで気づいている。

天王寺駅から行った方が、崖の上から見下ろす形で、階段を下りて行く方が近いことは後で知った。阿倍野側の崖の上には、背の高さほどの塀がある。こちら側から見たら向こうが見えるか見えないか程度の壁、だが反対側、飛田の遊郭街から見れば、とても威圧的だ。

最初は新今宮(線路の反対側は通天閣などがある新世界)から、延々と「動物園前商店街」を通り抜けて、いわば文字どおり、地理的に、「同じ高さ」でこの今も残る遊郭の町に入った。



決して飛田の遊郭を肯定するわけではないし、実際、最初に行ったときは「人間ディスプレイ」状態、文字どおり「商品」がライトアップされている状況なのが、凄まじいショックで、気分が悪くさえなった。

でも何度か行ってみて、今編集中の映画『ほんの少しだけでも愛を』のシーンも撮影した後では、そんな単純な話ではない、と言うところまでは分かる。



かれこれ一世紀近い歴史はある飛田の、建物の作りは様々だ。

明治末〜昭和初期と思われる、見事な木彫りの懸魚に眼を引かれるような、豪壮な木造建築もあれば、同じ時代でも簡素な庶民的な造りもあり、戦後のいわゆる「文化住宅」的なものなどなどが、整然と升目状態に区切られた町に混在している。

だが店先は全部同じ様式、看板は必ず正方形で、間口も正方形、その間口の中央に、ライトアップされたお姐さんが座わる。まるで「鎮座している」としか言い様がない、堂々とした笑顔で、昼間でも照らし出されている。
ちなみに飛田遊郭の営業時間は比較的早い。夜の10時ぐらいには閉店するよう、警察との了解があるそうだ。
間口の戸の陰にお客に声をかける「遣り手婆」がいて、反対側には逆側から来る客を見逃さないための鏡がある。

この統一された様式は、無論もともと商売の合理性を考え抜き、「商品」をもっとも売れるように提示する冷酷なものではあるが、ここまで徹底されると、それはそれでひとつのスタイルになっている。


表向きは「新地料理店組合」が管理する町だが、その実態は恐らく、いわゆる「同和」系のやくざなのだろう。好奇心でカメラを向けようものなら、地廻りに止められる。あくまでお客を楽しませる場所で、決して暴力を振るうわけではないだろうが、迂闊にカメラを出してはいけない、という雰囲気は誰もが肌で感じるだろう。

だが飛田で映画や写真を撮る場合の不文律は、「店先を撮ってはいけない」ではない。

決してお姐さんたちを撮ってはいけない、ということだ。

ここでしか稼げない今はここで稼ぐ、彼女たちの将来のために、その記録は決して残してはいけない。

それが分かっているみたいだし、ならいいよ、と僕らは言われた。


その後は、何度撮影に行っても、絶対に店頭の彼女たちが入らないキャメラ位置に、どっしり三脚を構えていれば、一度くらいはなにを撮っているのかフレームをさりげなく確認するようにそばを通られるだけで、なにも言われない。

むろん僕たちが大規模な、商業的なスケールで映画を撮っていたら、話はまったく違っていただろう。こちらに余裕があるのなら、ショバ代を出すのは当たり前のルールだとも思う。ここは警察・官憲が治安を担う「普通の場所」ではない。 
警察・官憲もまた「差別する側」であるのに対し、差別される側の場所において、法律がどうなっていようが、その我々の側の論理でしかないことに、その人たちがただ従うべきだという「正義」は、成り立たない。彼らを差別するものでもある我々の論理は、彼らからみれば「正義」や「倫理」であるはずもないのだから。 
安易な正義感で、告発かなにかを気取ってキャメラを向けていい場所だとは、思えない。

山王の町に限ったことではないが、いわゆる「同和」地域で撮ったりするのはいろいろ面倒だ、と我々の業界ではよく言われる(あるいは言外の言で警告じみた圧力をかけられる)。だが実際には、礼儀さえ守り、なるべく迷惑をかけないように心がけ、声をかけられても最低限の礼儀を守ってさえいれば、まったく問題はなかった。

声をかけてくるにしても、先方も決して威圧的でもなんでもなく、きちっと礼儀を守っているし、そんじょそこらの警備員の慇懃無礼さや、警察官にありがちな、どこか上から目線の高飛車さも、微塵も感じさせない。

阿倍野と飛田を仕切る、崖の上の壁

正直、最初に行ったときは、飛田遊郭の「商品」としてお姐さんたちが完璧にライトアップされた様式美は、搾取のシステムにしか見えなかった。

でもだんだんどういう町か分かって行くと、その照らされたお姐さんたちが毅然としていることに気づく。


決して肯定はしないが、単純に否定は出来ない。



動物園前商店街は、大阪の、こうした地域の商店街の例にもれず、今ではもの凄く寂れているわけなのだが、そこで目立つのが単身者向けの家電の中古販売だ。

やむにやまれぬ事情で覚悟を決めてここで働く、過酷な仕事だけど、短期でカタをつけて、新しい人生を切り開く女性も多いのだろう。

いや、そうに決まっている。本当に喜んで、自ら進んで春をひさぐ女性がいるとは思えないし、そう言い張る女性がいるとしたら、それはそれで心の病などからの自己逃避の場合が多いだろう。



様々な事情があって、やむにやまれず、この仕事を選択している。そうやって貧乏人が一生懸命に生きていることに、余人に後ろ指を指されるいわれはないはずだ。

「恥ずかしい仕事」と見られることはわかっているし、将来の幸福を棒に振る覚悟も要る。そうした社会の差別偏見を抜きにして考えても、決して愉しい仕事ではないし、客のなかには身勝手な、それこそサディスティックな欲望を満たすためにやって来る者もいるし、その判別はほとんどの場合、二人だけの密室のなかで、手遅れになった時でしか、つかない。とても危険な仕事なのだ。



釜ヶ崎と飛田がご近所であることを意識すれば、すぐ分かることだ。男はいざとなれば釜ヶ崎に行けば生きていくことだけは出来る。女性にとってそういう場が、たとえば飛田遊郭なのだ。

その哀しみは、ただ「売春は最底辺女性の人権蹂躙」と言って済ませられることではないし、
だからこの場の存在を無碍に否定はできない。

この飛田の話をツイッターで書いたところ、このような返信をもらった


やりきれない話だ…。私たちの「社会正義」は、本当にそんなに自信を持って正義と言えるのか?「女性の人権の蹂躙を許さない」と言って売買春を杓子定規に否定することが、実はこのような不当な差別の隠れ蓑になってはいないか?

他に働ける場所がないだけではなく、他に行ける場所、存在できる場所がないから、この町が存続しているのだとしたら、橋下氏が「必要」と言ったことや、この町の顧問弁護士であったことを、ただ闇雲に否定はできないのかも知れない。

現代の非合法管理売春では、しばしば娼婦がいったんその仕事を始めたら、決して抜け出せないようにあの手この手を尽くして(もっともよく使われるのが精神・肉体双方の虐待と、麻薬づけにすること)、売春組織に依存する心理でがんじがらめにすることが、よく行われる。

アモス・ギタイ監督『プロミスト・ランド』より

外国人娼婦の場合、パスポートをとり上げることで身動きできなくするのなんて常套手段だ。

国際的な非合法売春組織は、米軍のブートキャンプのようなやり方で、女性たちの人格を破壊する方法論すら持っている。

現代の世界の売春取り締まりのやり方では、その虐待被害者である女性たちをさらに犯罪者扱いして、人格を徹底的に破壊してしまう場合が多い。

飛田では、決してこの場で行われている商売を美化するわけではないが、恐らくそういうことはまずやってないと思う(薬物中毒患者ではここのスタイル、店先に毅然と座ることが難しくなるし、また西成署との暗黙の了解で存続している遊郭で、看過出来ない犯罪行為をやらせるほど、ここの人たちは愚かではない)。


僕が聞いた限りでは、山王組はお姐さんたちがヤクを使わったらお店ごと営業禁止で閉店させて追い出すのがルールらしい。

動物園前商店街を釜ヶ崎方面に向かう


釜ヶ崎に行けば覚せい剤は簡単に手に入るのだが(「あそこの通りは危ないから行ったらあかんで」と釜ヶ崎のおじさんたちに言われた)、それは決してやらせないよう、手を出させないようにしているのだそうだ。

だから単身者向けの、安物の家電が、中古で並ぶのだろう。

むろん、すべての妓楼が良心的であるわけもないし、麻薬に手を出させないのは娼婦の“商品価値”を下げないためでもある。過去には親の借金のカタに「親孝行」となだめすかして娼妓にさせた冷酷も、日本の歴史の一部であったわけだし、逃げ出す者は「それでいい」ということではまったくない。年季奉公で縛り付けることが、日本の遊郭文化の供給源であった事実を、否定する気はない。

ただ杓子定規に私たちの論理、私たちの「正義」で決めつけていいことではない、というだけだ。江戸時代までは、遊郭を無事出ることが出来た女性が結婚することも普通だったのだし、だからこそこうした営業行為が文化として存続出来たのだろう。

必要なぶんを稼げるだけ稼げば、あとは出て行きなさい、出て行っていいよ、というスタンスなら、社会全体の現実が女性たちにとって厳しいなかで、決して単純に売買春の仕切りを「女性の人権を蹂躙した」と否定しておしまいに出来ることではない。

とはいえ、出て行けない人が多いのもまた現実なのだろう。


飛田遊郭の片隅には、ここで亡くなったまま、身寄りや引き受け手もなかった女たちの無縁仏を供養する慈母観音が、ひっそり立っている。



あどけない童子の額は、あまたの人の手がそれを慈しみ、撫で続けたのか、ピカピカに磨きあげられたかのようにみえる。