最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

8/28/2013

潘基文国連事務総長が…いや国連が日本批判


国連事務総長の潘基文氏が韓国訪問中の記者会見で、
「正しい歴史(認識)が、良き国家関係を維持する。日本の政治指導者には深い省察と、国際的な未来を見通す展望が必要だ」
と述べたことが波紋を呼んでいる。

…というか、日本のメディアはこれを日韓対立の問題であるかのように報じ、産経新聞などは「国家間で対立している問題について、国連事務総長が一方に否定的な見解を示すのは異例だ。韓国人の潘氏が韓国の立場に立ったことは、国連事務総長としての中立性を欠く行為で波紋を呼ぶことも予想される」とまで論評した。



産經新聞の記事
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130826/kor13082622460002-n1.htm

NHKなども同様に、中立であるはずの国連当局が一方の肩を持つのは異例、というような報じ方をしている。


クウェート訪問中の安倍晋三首相は「歴史の問題については専門家の議論に任せていくというのが安倍政権の基本的な方針だ」とだけ述べるに留まり、(この人にしては珍しく?)余計な発言で禍根を広げることはしなかったが(日経新聞の報)、首相がお留守の本国日本で留守番中の内閣は、とても冷静でいられないらしい興奮っぷりである。



新藤義孝総務相「国際社会の中で最も中立的なのが国連事務総長だ。立場が偏るような恣意的な発言はいかがなものか」
古屋圭司拉致問題担当相「国連憲章違反になるかもしれないとして外務省が精査している、との報道を承知している。外務省の言っていることが筋ではないか」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130827/plc13082713130008-n1.htm



とりわけ暴走がひどいのは菅義偉官房長官 、政府の定例記者会見である。


菅義偉官房長官は27日午前の記者会見で、国連の潘基文(パンギムン)・事務総長が歴史認識をめぐり「日本の政府や政治指導者は深い省察が必要だ」とした発言について、「我が国の立場を認識したうえで行われているのか、非常に疑問を感じる」と批判した。国連の中立性への懸念を示したとみられる。そのうえで「事務総長の真意を確認し、引き続き日本政府の立場を国連などで説明したい」と述べた。(朝日新聞 2013年8月27日12時30分)
http://www.asahi.com/politics/update/0827/TKY201308270083.html

韓国出身の潘基文国連事務総長が憲法改正論議などをめぐり安倍政権批判と受け取られる発言をしたことについて、菅官房長官は27日の記者会見で潘氏の真意をただす考えを明らかにした。 
 菅氏は「日本の政治指導者には、深い省察と、国際的な未来を見通す展望が必要」などとした潘氏の発言に対し、「わが国の立場を認識した上で行われているかどうか、非常に疑問」と述べ、不快感を表明した。 
日本政府は潘氏が訪問先の韓国から米ニューヨークに戻るのを待ち、外交ルートを通じて発言の意図などを問い合わせる方針だ。国連事務総長は高い中立性が求められるだけに、今回の発言に対しては、外務省内からも「出身国にかかわりの深い問題を軽々に取り上げた」と疑問視する声が出ている。 
(2013年8月27日23時55分  読売新聞) 
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130827-OYT1T00939.htm 

「国連などで説明したい」と官房長官が会見で、質問に答えて口走ってしまうとは、いったいどういうつもりなのか?立場が分かっているのだろうか?

NHKのニュースでは、菅氏が「国連総会」にまで言及した模様すら流れていた。さすがにこれはあとあと危険過ぎるので活字にはしなかったのかも知れないが、クウェートの安倍さんも困っていることだろう。

政府の公式会見でこう言ってしまえば、本当に国連総会で「日本の立場を説明する」演説でもやらなければ、立場がない。とは言えいったいどういう「日本の立場」を説明する気なのか?


たとえば従軍慰安婦問題について、国連で「日本の立場」と称するものが相手にされるはずがない。 
「強制連行した証拠がない」と馬鹿げたへ理屈をこねたところで、植民地支配者の軍が、植民地の女性を売春婦として、戦地まで連れて行ったというその状況だけで、強制性があることなぞ自明の理だからである。 
まして軍国主義時代の日本は、日本国民でさえ「お国のため」の強制性に逆らえず、私財の供出や、それこそ特攻で命まで捧げているのだ。いったいどういう「日本の立場」なのか? 
まさかサッカーの韓国応援団が無礼で反日的だとか、他国に言論弾圧を要求するような妄言を国連総会で言い出すわけでもあるまいが。 
民間人が勝手にやっていることでその政府を非難するつもりだとか?それも日本人にとっては「(本当のことを言われたから)傷つく」としても、歴史的事実なのだし「ボクたち傷ついた!許せない!!」「悪意があるじゃないか!反日だ!!」なんて子供の感情論が、通用するはずもないのだが。

ところが、それどころか産經新聞の報道によれば、政府は藩氏の発言が「国連憲章違反」の可能性があるとして、調査を始めているのだそうだ。

国連憲章の第100条に「事務総長および職員は、この機構に対してのみ責任を負う国際的職員としての地位を損ずるいかなる行動も慎まなければならない」と明記されているのに、「強い口調で日本の非のみに言及しており、明らかに中韓寄りの発言だ」と言うのである。


いやちょっと待て。

小学校で先生が子供の喧嘩の仲裁をしているんじゃあるまいし、「日本だけ叱られるなんてひどい!」「国連先生は韓国ちゃんを依怙贔屓してるんだ!!」って、そんなの理解されるはずもないし、馬鹿にされ、呆れられるだけならまだいい方、「日本は狂ってるんじゃないか」と思われるだけですよ?

まず潘氏の発言内容自体は、国連の立場としてまったく普通かつ公平なものである。日本の軍国主義やドイツのナチズムを美化することは、第二次大戦後の国際秩序のコンセンサスで決して許されないものなのだ。

安倍政権になってからの日本の政治家の歴史認識をめぐる発言について批判がわき起こっているのは別に中国・韓国からだけではない。アメリカでは州議会レベルでの非難決議が相次いでいるし、フランス大統領のフランソワ・オランドは、国賓として来日した際の国会での演説で、さすがに喩え話でとはいえ、わざわざ日本の歴史認識と周辺諸国との対立の問題に言及している。招待国の政府を国賓が批判するというのは、外交上異例中の異例の事態だ。

潘基文氏自身、橋下大坂市長が慰安婦制度を肯定するかのような失言をした際にも「国際社会は納得しない」と明言し、併せて安倍内閣の閣僚による靖国神社参拝も牽制している。


「特に日本の指導者は、戦時中に苦しんだ人々の痛みに非常に繊細であるべきで、そうした痛みを負った人々には、思慮を重ねた思いやりのある支援をするべきだ」(朝日新聞2013年6月3日)   
http://www.asahi.com/international/update/0603/TKY201306020254.html?ref=reca


別に藩基文氏が韓国出身だから批判的なのではない。日本が過去の軍国主義を美化したり正当化しようとしたりしたら批判するのは、国連として当然の役割なのだ

そもそも国際連合は、第二次大戦の反省を受けて発足したものであり、国際連盟が大戦を防げなかったことの反省に立ったフランクリン・デラノ・ルーズベルト米大統領の構想に基づく。

その憲章では民族自決権とあらゆる民族・国家の平等が謳われ、反植民地主義、反侵略戦争を基本理念としている。

過去60余年の歴史のなかで、国連が反植民地主義を必ずしも貫けたわけではないにせよ(こと第二次大戦の戦勝国のそれは看過する場合が多かった、事実上加担すらしたことは否定できない)、理念は理念であって、国連事務総長が日本の侵略戦争や朝鮮半島と台湾の植民地支配について肯定的な立場をとるはずがない。

「いやだって戦勝国はお目こぼししてるじゃないか、不公平じゃないか、依怙贔屓だ」と小学生みたいな駄々をこねたところで、通用するはずもない。まして日本の戦争と植民地支配は、軍国主義による非人道的な戦争犯罪が断罪されている戦争だ。

この程度の常識も分からないのか、というだけでも呆れる話なのだが、しかも潘氏の発言が「韓国より」「中国より」だ、と決めつけること自体、なんとまったくの誤報であり、日本の政治家達の頭に血が昇った挙げ句の誤解なのだから、呆れてしまう。

たとえば、これが読売新聞の報道だ


(前略)発言は、「日本の平和憲法修正の動きに関する国連の立場」について答えたもの。潘事務総長はまた、日本が中韓と歴史や領土を巡り対立している現状に関し、「歴史について正しい認識を持つことが必要だ。そうしてこそ、他の国々から尊敬と信頼を受けるのではないか」と語った。韓国メディアは一連の発言を、「日本の右傾化の兆しを遠回しに批判した」(聯合ニュース)と大きく伝えている。(2013年8月26日19時30分  読売新聞) http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20130826-OYT1T00909.htm

そして東京新聞はもっと分かり易い

【ソウル=辻渕智之】韓国を訪問した潘基文(バンキムン)国連事務総長は二十六日、記者会見で「日本政府が平和憲法の改正に動き、周辺国が憂慮している状況に対する国連の立場」を質問され、「日本政府の政治指導者は深い省察と国際的に未来を見通すビジョンが必要だ」と、安倍政権に批判的な見解を示した。
 潘氏の母国・韓国の政府の立場に寄った発言と取られかねず、波紋を広げる可能性もある。潘氏は、日本政府と、中国や韓国の政府との歴史認識や領土をめぐる対立についても見解を問われ、「政治指導者は正しい歴史認識を持ち、決断することが必要。それでこそ他の国々からも尊敬と信頼を受けられる」と、日本の政治家を念頭に置いた発言をした。
 潘氏は韓国外交通商相を二〇〇四年一月~〇六年十一月に務めた。 http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2013082702000116.html?ref=rank


潘氏の発言は「日本の平和憲法修正の動きに関する」「平和憲法の改正に動き、周辺国が憂慮している状況に対する」国連の立場を訊ねられて答えたものであって、あくまで日本の改憲に対する国連事務総長としての考えを述べたものでしかない。

日本の憲法改正は日本の問題であって、「日韓対立」でも「日中対立」の問題でもないはずだ。

潘氏はどうみても日本の改憲問題で日本を批判したのであって、中国や韓国よりなどという批判が成立するわけもない文脈だ。

当然ながら「国連の中立性」が問われる余地も皆無である。

同じ会見で潘氏は日本と中国の領土問題(尖閣諸島問題)についても質問されているが、その回答は、

「政治指導者は正しい歴史認識を持ち、決断することが必要。それでこそ他の国々からも尊敬と信頼を受けられる」

あくまで国を名指ししない、この種の領土問題に関する一般論を述べただけだ。

もしこの発言を日本政府が日本への批判だ、中国よりだ、韓国よりだ(竹島問題もある)と騒ぐのなら、それこそ語るに落ちた、としか言いようがない。

領土について「正しい歴史認識を持ち、決断することが必要」なのはどこの国でも当然であって、それが日本に対する批判として成立するのは、日本の領土主張が「正しい歴史認識」に基づかない場合に限られる

国を名指しせず「正しい歴史認識」と言うのが「中国より」「韓国より」発言になるのなら、つまり中国と韓国が正しい歴史認識を持ち、日本の歴史認識が誤っている、と日本自身が自白していることになる。

潘氏のこの発言を「強い口調で日本の非のみに言及しており、明らかに中韓寄り」と言うのなら、それは日本が自国の尖閣諸島領有や、竹島の領土主張について、「歴史的な正当性はないが我が領土だ」と言っていることにしかならないではないか?

     
それにしても呆れ果てる学習能力のなさである。 
昨年の国連総会で、当時の野田総理大臣がわざわざ尖閣諸島問題について国連演説で言及してしまった失敗をもう忘れたのだろうか? 
野田氏は国際司法を得意げに持ち出したが、中国の外務省報道官のコメントであっさり反論できないまでに追いつめられたのだ。 
「現代の国際司法の秩序は、第二次大戦の結果と反省に立ったものである」 
中国側のこの(閣僚や大使クラスですらない、ただの報道官による)発言で、日本は昨年、外交的に惨敗しているのだ。
なのになにも学ばないまま、同じ愚を繰り返すつもりなのか?


菅官房長官は潘氏の「真意をただす」つもりなのだそうだ。


真意もなにもない。

潘氏が韓国人だからこそ、逆に露骨に韓国側に立って不公平だと突っ込まれる発言なんて容易にするはずがないし、現に実際の発言の事実関係では、藩氏があくまで日本の憲法改正の動きについて論評しただけであることは明白だ。

それとも安倍政権は、自民党の憲法草案が中国と韓国への子供じみた当てつけで対立を煽るためだけの改正案なのだ、とでも認めるつもりなのだろうか? だとしたらまさに「語るに落ちた」である。


日本国の平和憲法は、その前文も、戦争放棄の第9条も、内容が国連憲章に極めて近い。

つまり国連の理想と理念、潘氏が職務上もっとも尊重すべきものに限りなく近いことを、今の日本政府が否定しようとする、しかもその動きがその地域の安全保障バランスを崩すものなのだから、国連が批判的にみなすのは当たり前のことだ。
しかも国連憲章も、日本の平和憲法も、第二次大戦の反省に立って書かれたものである。ならば

「正しい歴史(認識)が、良き国家関係を維持する」
…という、これほど正論で的を射た批判もないのである。


いったい日本政府は、いやこの国は、なにを興奮して血迷っているのか。

いずれにせよ潘基文氏の国籍をいいわけに、明らかに内容として正当な批判を誤摩化そうとしたところで馬鹿げて幼稚な言いがかりにしかならないし、日本国内では通用しても国際的に納得される客観性を備えた話ではおよそない(そもそも潘氏はあくまで日本の憲法改正に言及したのであって、日韓対立の話ではない)。なのに潘氏や韓国を責めるなんて愚行に走るとしたら、もはや目も当てられない。

8/24/2013

「鎮魂」などと安易に言うものではない


なにかの被害者や、ここ2年数ヶ月なら「被災者」、あるいは弱者(在日コリアンなど)、挙げ句にそれこそ戦争の死者まで、自己正当化に都合良く利用するのが、最近の日本のトレンドであるようだ。

被害者や弱者の味方だから、ワタシは批判されるべきではない、とはまことに安直な(しかし陳腐に倒錯しまくった)身勝手でしかない。

たとえば「拉致被害者の身になって」北朝鮮は赦せない、あるいは「被災者のため」、「被差別者の側のため」に「反レイシズム」の運動…。この8月には「追悼の邪魔」と称して公人の靖国参拝を肯定したり、首相が終戦記念日や原爆忌に発した言葉への批判封じに利用する向きまで出て来る始末で、最近この種の無責任な自己正当化が後を絶たないのは、まったく困ったものだ。

まあ確かに、死刑制度を肯定する最大の理由が「被害者(遺族)感情」なのは前からなわけで、しかし亡き妻の遺影を裁判所に持ち込むことを要求し、弁護側の安易な論理への厳しい批判など、被害者遺族の権利のために闘った人物が、死刑そのものに関しては決して単純に肯定していなかったことは、メディアでは安直な隠蔽で無視されがちだった。

むしろ被害者遺族には、ただ犯人に「極刑を望む」ことだけがメディア上の図式として要求されているようにすら見える。これならまだ、単純な図式でそう思い込みがちなのも理解できるが、実際の被害者遺族が決してそんな単純な復讐心に囚われているわけではないことに目を向けないのはいかがなものか?

光市母子殺害事件の被害者遺族・本村洋さんは、差し戻し審の死刑判決を受けた会見で確かに「死刑という残酷な判決を出すような社会」への批判を述べ、自分の妻と子供だけでなく、犯人も含めて「三人の命が奪われること」は「明らかにこの社会にとっての損失」と明言した。マスコミの、墓前にどう報告するかとの質問への答えは、拒否している。 
ただこのいずれの発言も、ほとんどのニュースではカットされていた。メディアや世間の求める「被害者のイメージ」に当てはまらないからだろう。 
挙げ句に彼が再婚したことが、メディアでスキャンダルとして叩かれる始末だ。

地下鉄サリン事件で国会議事堂前駅の助役だった夫を亡くされ、被害者遺族弁護団で活躍された高橋シズエさんは、メディアではオウムを批判させるのに好都合な人として重宝されて来た。だがシズエさんにとってなにより大事だった、夫が多くの人を救うために自らサリンの袋の処理に当って命を落とされたこと、夫が「英雄」であったことも、無神経なメディアにさんざん悲しい目に遭わされたことも、世間は無視しがちだし、自らの経験から警察の操作や刑事裁判の在り方に疑問を呈して来られていることにも、関心を持とうとしない。被害者の批判が自分達に向けられた瞬間、我々の社会は平然と、冷酷に無視する。

高橋シズエさんのブログはこちら

(いやさまざまな証言から浮かび上がる高橋さんのあの朝の行動は、道徳の教科書に載せたって構わないくらい見事なものだったのだが)

拉致被害者家族の蓮池透さんは、自らの過去への反省を込めて「私も被害者だから何を言っても許されるというある種の全能感と権力制を有してしまった時期があります。時のヒーローでしたからね」、一方で「私がこうして政権に批判的なコメントをすると『弟が帰ってこられたのは誰のおかげだ。感謝しろ』という批判がわっと寄せられます」と語る(以下は朝日新聞に7月14日に掲載された談話)。


「日本社会は被害者ファンタジーのようなものを共有していて、そこからはみ出すと排除の論理にさらされる」

東日本大震災、こと福島第一原発事故では、ところが多くの被災者がその「被害者ファンタジー」に当てはまる行動をとらなかった。とたんに「フクシマの人々のために」と言ってた人たちが「原発マネーに汚染された田舎者」と言わんばかりの態度で「理解出来ない」と罵り、東京から向かった運動関係者やそれこそ記録映画を撮る人間が、ごく一部の「自分達が理解出来る被災者」と結びつき、その人たちが「東京とつながっている」というプライドで孤立しコミュニティが断絶するリスクすら増大させている。

もはや「被災者」「被害者」のためと言いつつ、理解するための努力を惜しむような状態だ。単純に、自分達の思い込んだ図式通りの「被害者」だけを探し、それ以外は排除する。

東京の新大久保や大坂の生野区で、在日コリアンや韓国人に対する暴力的な差別言動に抗議するのは立派なことだ。だがその「カウンター」自身の言動の無神経で無自覚な差別性を指摘されたとたん、同じ人々が今度は批判的な在日コリアンを「反日だ!」と寄ってたかって叩く。 
それこそ自分たちに協力的な在日コリアンを自己正当化に利用するだけでなく、彼らに在日を叩かせるなんていう分断を彼らが作り出している状況となると、ただのひとりよがりの身勝手でしかないのに、それでも彼らは「弱者の味方なんだからワタシたちは正義だ」と信じて疑わないらしい。

たとえば被災三県で多くの被災者が「被害者として振る舞う」ことを自分達の文化的矜持の問題として自らに許さなかったのを考えれば、こういた「被害者フェティシズム」は決して日本の伝統ではない、むしろ日本では最近になって顕著になっている傾向なのだろう。

だがそれにしても、結局今年も安倍晋三首相は8.15の靖国参拝を見送らざるを得なかったわけだが、腹いせに終戦の日式典の式辞では不戦の誓いも加害責任も言及せず…で、そこに当然の批判が集まることを「鎮魂の邪魔だ」とか言って、死者たちを批判逃れのエクスキューズに利用できる神経というのは、度を越している

靖国神社が元は軍が運営する国立の、神道形式による戦死者慰霊施設であり、戦後もその祭人名簿の管理は厚生省が担っていたことなど、憲法の政教分離原則からして問題がないとは言えないものの、戦死者たちが一応は「靖国で会おう」を合い言葉にしていた(そこにどんなに複雑な隠された思いがあったにせよ、真に受けていた人間が決して多くはなかったであろうにせよ)以上は、戦後に新たな形式の戦死者追悼施設を作ってもあまり意味がなく、その点で靖国が一定の慰霊・鎮魂の役割を担っていることは否定出来ない。かつてはその種の違憲論争もあったものの、せいぜいが2~30年くらい前までのことだ。
その政教分離とか、軍国主義浸透の精神装置であったことが、今問題になっているわけではない。

問題なのはただひとつ、そこにいるべきではないA級戦犯が、合祀されてしまっている、ただそれだけだ。

まず日本国家が戦後に立ち直る過程で過去の軍国主義と侵略戦争を断罪している以上、その主要指導者として断罪された人間を、ただの慰霊ならともかく「神」として崇拝することは許されるはずがない

この至極当たり前の理屈をあえて無視することで、靖国における戦死者追悼を軍国主義の美化にすり替えようとした結果、肝心の天皇すら参拝することが出来なくなり、すると今度はまるで意地でも張るかのように首相が参拝すべきだ、という暴論が巻き起こる-あからさまに、批判的な(というか国際的な約束がある関係上、許すことができない)中国や韓国への子供じみたあてつけとして

いったいそのような政治的な人気とりのジェスチャーのどこに「追悼」があるのか怪しいものだが、ましてこの人たちは「鎮魂」の意味すら分かっていないようだ。

靖国神社は西南戦争後に、戊辰戦争から西南戦争までの政府軍側戦没者をまつった東京招魂社に由来するが、そこに祀られる死者の圧倒的多数は、昭和6年から20年までの15年戦争の戦場に倒れた者たちだ。

果たしてその死者たちが、A級戦犯とされる者たちが自分たちと一緒に祭神とされていることに納得するかどうかといえば、大いに疑わしい。

  • ろくに兵站すら確保されない「現地調達」の中国戦線で、どれだけの兵士が苦しんだのか?
  • 東南アジア各地や硫黄島、そして沖縄での玉砕はどうなる?降伏し捕虜となることを禁じた戦陣訓がなければ、そういう命令や無言の圧力がなければ死なずに済んだはずの者は多い。
  • そして言うまでもなく、特攻があった。

ちょっと挙げただけでもいくらでも出て来る、兵士達が死んだのが決して「国を守るため」ではなく、むしろ軍や政府の上層部の致命的な誤りで必要もない塗炭の苦しみに倒れ、無駄死にさせられたことは、どうするつもりなのか?

A級戦犯たちこそが、そのあまたの無駄死にの最大の責任者でもある

まして戦場で倒れたわけでもなく、元々靖国神社に祀られる資格を有しない、その場に本来いるべきでない者達が、戦死者に対してしかるべき敬意や追悼の礼がなされない唯一最大の理由になってしまっている。

なぜこの歪み切った図式そのものを誰も批判しないのか?いや自民党の古賀さんが遺族会代表だった際に、ついにたまりかねて言っていたことなのだが、メディアからも政界からも無視された。

あたかも戦死者の遺族の声なんて、結局誰も関心を持たないのだと言わんばかりである。誰が考えたって靖国神社はまずその人たちのために存続しているはずなのに

戦死者にしてみれば「俺たちは誰のせいで死んだんだ?」と恨みの声でもあげたくなって当然のことだ。いや実際に、今でも靖国に通う本当の意味を持って通い続ける遺族達や戦友達の声にならぬ声として、この声は現にある。立場上なかなか口に出せなくはあるが、ちょっと膝を割って話せば「実は」とすぐ出て来る話だ。

南京大虐殺だって慰安婦問題だって、「なかった」などと本気で口にする人(そんな嘘八百を言える人は)はいない。慰安婦がいたこと、その多くが朝鮮半島から連れて来られた「かわいそうな」女たちだったことは日本兵の常識だったし、南京だって黙りこむか、「私はその場にいなかったけれど、ああいうことが起こらなかったとは絶対に言えないよ」と言わざるを得ない。かといって、自分の戦友であり家族であった死者がその加害者であったことなぞ、軽々しく大っぴらに言えることでもない、というだけだ。
「彼らは国のためと信じていたんだ!だからその意志を尊重するのが追悼だ!」ととってつけたような強弁をしたところで、「君たちは『大本営発表』っていう言葉も知らんのか?」で一喝されて終わりだよ。

日本における「鎮魂」を勘違いされては困る。魂鎮めとは、ただの慰霊ではない口にできないさまざまな恨みや辛さの真相を抱えながら死んで行ったから、その魂を鎮める必要がある、というのが日本の伝統的な考え方だ。そして生きているうちは知り得なかった真相でも、死者となればすべて分かってしまう、という畏れが、日本人本来の信仰には不可分だった。

それを日本の戦争がどんなものだったかの真相に蓋をして、薄っぺらな美化で「特攻隊は笑顔で死んで行った」などと戯言を抜かすことが、鎮魂になぞなるはずもない。いや別に死ぬまでもなく、特攻のような無茶苦茶な戦法がとられるということは、日本は負けるのだと、当の特攻隊員ほど痛切な実感を持って生前から分かっていた人たちもいまい。

建前は志願となっているが、「国を守る」よりも、さまざまなしがらみを抱え、そうせざるを得なかった人の方が多いくらいだ。そうした語り得ぬ辛さがあることを、百も承知の上でそっとお祀りするのが「鎮魂」であって、あの世で死者が「こいつらなにも分かってねーな」とずっこけるような美化は「鎮魂」ではない。ただの死者の搾取だ

靖国神社それ自体は、はっきり言えば西洋の真似事に神道の形式をくっつけただけの、無名戦死の墓の無理矢理東洋版とでもいうような、明治の人工的な産物であり、戦死者を国威発揚に搾取利用する機関でもあった。戦死者であるだけで軍神とみなす風習は、日本には本来ない。軍神は人並みはずれて戦争に強く業績があるから神格化され(代表例が東照神君、つまり家康)、またしばしば英雄であるのに非業の死を遂げ、その恨みつらみを慰め鎮めるために軍神とされる(平将門、源義経など)。

15年間の泥沼の戦争を経て、あまたの死者、それもはっきり言えば多くの場合はただのなりゆき、しばしば上層部の無責任の糊塗のため、死なずに済んだはずの兵士まで死なせてしまった戦後に、靖国神社はその魂鎮めの機能を取り戻すべきなのが本来だ。

確かに政府や軍の上層部の無責任でなし崩しに始まり継続した戦争であり、その過程で日本はとても言い訳が許されないような行為も重ねている。祀られる戦死者は、その行為の(それぞれの兵士としては、やむにやまれぬ立場と事情によって)加害者でもあり、しかもその戦争を支持した、少なくとも止めようとしなかったのは、一般の国民すべてである。

その結果の膨大な死者達の、恨みつらみや潰えた希望、失われた人間の尊厳のすべてを背負って、靖国神社は今そこにあるのだ。日本人という民族が、その決して自らを正当化しようがない、語り得ない後ろめたさを抱えた場所として、「神」として大人しくしてもらう以外に、戦後に日本が生きていくための選択の余地がなかった、その語られざる歴史の総体の表象として。

いや戦死者が体験したこと、自らやったこと、これは日本の戦争に限らず、どんな戦争でも実は決して英雄気取りで威張れるものではない。 
それ以前の戦争ならいざ知らず、第二次大戦とはまさにそういう血みどろの戦争だった。戦勝国の側、たとえばアメリカでも、硫黄島であるとかDデイの激戦の生き残りたちは、決して自分達を「英雄」とは呼ばない。

そのために「神」という信仰の形式を用い、「鎮魂」することは、ひとつの文化であろう-語り得ぬ記憶を、それでも後代に我々が決して忘れぬ限りにおいては。

それが逆に、現代の政治の身勝手が、この神社を死者たちがどうやったって安らかになりようがない場にしてしまった。だいたい自分たちが死ぬことになった最大の責任者であり、その自分たちを非人道行為、常識ではとても考えられない残虐さに追い込むよう命じた人間が共に祀られるだけでも異常だ。A級戦犯とされた戦争の指導者たちは、まずこの場に祀られた死者達に許しを請うべき人たちでもあるのだ。

それを安易に現世の、たとえば政権与党の都合とか、たかが一総理大臣のわがままで、口に出来ない記憶を踏みにじり、鎮魂を蔑ろにするような真似こそ、決して許されることではない。

果たして彼らをそこに(しかも秘密裏に、ドサクサ紛れで)合祀した戦後の靖国神社の運営者たちや、共謀した厚生省、裏で動いたであろう自民党右派の人々は、日本の信仰の古式に乗っ取ってでも、せめてその場で「神」として祀っていたはずの戦死者達にお伺いをたてる儀式ぐらいはやったのだろうか?「祭神」とか言いつつ、自分たちの都合で適当に無視しただけではないか。


さらに言えば、全員が全員ではないにせよ(松岡洋右とかどう見ても精神に異常を来していたし)、東条英機自身が終戦時に自殺未遂していることもよく知られているように、自分たちの失敗の責任を自分たちの一身に背負うことで戦後に日本が生きて行けるようにすることが、彼らの最後の責任のとり方だったのだ。 
今、靖国神社に合祀された彼らを首相であるとかが崇拝することは、その彼ら自身の最後の遺志をも踏みにじることでしかない。


まして「死んだら許すのが日本の文化」とか安易でふざけたでっち上げで誤摩化すに至っては、罰が当たっても知らないよ。

まずそんな「文化」、日本にはない。犯罪者でも戦争の最大の責任者でも、お線香のひとつぐらい手向け「あなた方にもいろいろ事情はあったんだろうが」と手を合わせるくらいなら、誰も怒りはしない。ただし彼らを靖国で「神」として崇拝対象にすることは、対外的な日本の約束を踏みにじる国辱行為であるだけではない。日本民族の歴史に対する冒涜だ

死者が黙っているのをいいことに、自分たちの都合で歴史を歪曲し、文化を無視し、勝手に利用しておいて「鎮魂」などと言うことは、戦前戦中の日本を美化する以上に、ただ自分達の無神経で無知で不勉強で無理解で無反省な身勝手を、美化することにしかなっていない。そんな独りよがりは度を越して醜悪だ。

(…っていうかね、みだりに死者だの被害者だのを持ち出すってね、みなさん下品過ぎるんです。自分を正しいと思うなら、それは自分の論理で、自分の責任でやりなさい)

8/20/2013

憲法をめぐる憂鬱


スティーヴン・スピルバーグ監督の『リンカーン』が、そろそろレンタルでも出回る頃なので、ぜひ見て頂きたい。



公式サイトはこちら。DVDは9月発売だそうです。

イラン政府が「アカデミー賞はこういう映画に与えるべきだ」と『アルゴ』の受賞にイヤミを飛ばしていたのだが、そのイラン高官が『リンカーン』をちゃんと見ていたかどうかはともかく(案外ちゃんと見てたんだろうが)、実際アカデミー賞はこういう映画に、という風格と中身の「名作」であり(それが映画としては欠点でもあったりはするのだが)、アメリカ人だけでなく、こと「改憲」がにわかに話題になっている今、日本人もみんな見た方がいい。

…というのも、『リンカーン』は奴隷を解放した名大統領の偉人伝映画ではない。「憲法を変えることの重み」についての映画なのだ


ダニエル・デイ=ルイスのリンカーンそっくりさんぶりが絶賛されたが、実は彼がリンカーンに似ているかどうかなんて演出上の課題は、スピルバーグは冒頭シーンでさらっとクリアしてしまっており、あとはまったくどうでもいい(またどうでもよく思わせるだけ、デイ=ルイスの演技が凄い)。

スピルバーグが描いたのはひたすら、奴隷制を禁止した憲法修正第13条を南北戦争終結の前に下院で通して成立さないといけない、そのすったもんだの苦労話である。

Neither slavery nor involuntary servitude, except as a punishment for crime whereof the party shall have been duly convicted, shall exist within the United States, or any place subject to their jurisdiction. 
奴隷制もしくは自発的でない隷属は、犯罪への刑罰として正当な判決に基づく場合を除き、アメリカ合衆国内およびその法のいかなる所轄範囲において、存在してはならない。

僕たちは南北戦争で北軍が勝ったから奴隷は解放された、と単純に理解しがちだが、憲法がちゃんとある国というのはそんな単純なものではない。立憲民主制というのは大きな決定をする際に、手続き的にどれだけ大変なものなのか?法の論理を守るというのは、時にえらく面倒なものである。

南北戦争が終わる前に憲法で奴隷制を禁止し黒人を含むあらゆる人間の法の下の平等を決めておかなければ、内戦では北軍が勝っても奴隷制は終わらなかった、これはこの映画を見るまで考えもしなかった視点だが、確かに法律の理屈としてそうなる。


奴隷を財産とみなすことが憲法で禁じられない限り、法が奴隷を財産とみなしている状態では、奴隷ですら合衆国憲法によって保護される私有財産であり、大統領が奴隷解放を宣言しただけでは、国家・政府が市民からその財産を奪うことは出来ない。

そして奴隷解放をめぐって内戦に突入したはずなのが、北軍(連邦政府)側でも黒人を「同じ人間」として認め、平等に人権を認めることには差別偏見で反対も多く、私有財産権を侵害するリンカーンは独裁者だとの批判もあり、また労働者階級には解放された黒人奴隷との職の奪い合いになる懸念もあった。その上南軍側が和平を模索し始めた内戦末期に、奴隷解放の点では妥協してでも早く戦争を終わらせるべき(南北戦争はそれだけ残忍な戦争だった)との圧力もある。


黒人が白人と同じ人間とみなすことが「自然」かどうか、自然法に乗っ取って当たり前かどうか?反対する側の理屈は無茶苦茶なのだが(「神が黒人を白人と平等に作ったはずがない!」って、いやだからその根拠はなによ?)、黒人が大統領になった現代には「嘘だろこれ」的な議論を、ちゃんと説得力を持って撮っているのだからたいしたもんだ。

そしてこの映画が今作られたことは、人間の作った民主主義がまだいかに不完全で、どれだけの時間と努力を費やして、それでもなんとか現代に至ったのかを実感させる

それが憲法と言うものだ

先人が考えを尽くし議論を重ね作り出した国家の基本的な在り方は、尊重されなければならない。だが先人達も人間であり、絶対的な正義に到達しているわけもなく、同じような努力を重ねてよりよい憲法、よりしっかりした民主主義を発展させていく義務と責任は、現代が負わなければならない。『リンカーン』はそういう意味でアメリカ愛国映画の教科書的な作品だ。

決まってしまえば、今では合衆国憲法のもっとも重要な条文のひとつ、まさに憲法の要であり国の魂の根幹である修正第13条を通すのが、どれだけ大変だったのか。

制度としての民主主義が、正しいと最初から分かってるように見えることでもどれだけ慎重な手続きを組み込んだものなのか。

だからこそ、そうやって一歩一歩達成され守られる民主主義がどれだけ貴重なものなのか。

その中核にあるのが憲法である

だから憲法を変えるなんて、決して軽々に論じていいものではない。

今となっては「なにバカ言うてんねんこいつら」的な、修正第13条反対派の議員も、この映画ではとてもしっかり描かれている。彼らは明らかに間違っているが、本人たちは大真面目であり、実はよく考えれば明らかな誤りでも、それっぽく聴こえる理屈を駆使もする。その一見筋が通っていそうな理屈も、ひとつひとつ誤りを指摘し潰して行かなければならない。



それが「憲法を変える」ということだ。

合衆国憲法の理念を真面目に考えれば当然否定されるべき奴隷制を禁止するのですら、これだけ大変であり、あのリンカーン大統領と言えども独断は許されなかった。だがそうした議論と努力を経たからこそ、こうしてより正しくなった憲法は、より重い意味を持つ。

この映画、ちゃんと「憲法を変える話」として宣伝していれば、もっとヒットしたんじゃないかしら?

といって、難しい映画ではない。史実を知っていれば結果は分かっていても、それでも修正条項が可決されるかどうかの展開はスリリングだ。一方であえて「虐げられたかわいそうな奴隷」は一人も登場させずセンチメンタリズムに堕したりはしない慎みはさすが『アミスタッド』『カラー・パープル』で経験を重ねて来たスピルバーグで、黒人たちはまだ社会の下層にいても、誇り高く自然な品位を発散している。その黒人たちが下院でいよいよ修正第13条が採決にかけられる日に、傍聴席に大勢現れるシーン、盛り上げるところは超一流のスピルバーグ演出、思わず一緒に拍手で彼らを歓迎したくなるほどだ。
激戦の戦場をリンカーンが訪れる冒頭シーンで、リンカーンを登場させるまで(それがリンカーンと分からせるまで)の構成も、誰でも知っているゲディスバーグ演説の「人民の、人民による、人民のための政府が、決してこの地上から潰えてはならない」を黒人兵に暗誦させるとか、見事な手練だ(ここですでにハンカチ一枚!)。最後にはリンカーンの生涯のライバルだったサデウス・スティーブンスにちゃっかり花を持たせる(トミー=リー・ジョーンズが凄い)展開も、あざといと言えばえらくあざといのが、しっかりほろりとさせられる。


リンカーンが弁護士出身なので、法律をめぐるややこしい理屈の複雑さもしっかり踏まえている。

巧みな演出の分かり易い手練で、決して、ただ人種差別反対を歌い上げるだけの映画でも、ただの偉人伝でもなく、しっかりと「法の支配とは、民主主義の理想とはなにか」を観客が学べる、本当に丁寧に作られた名作で、中学生くらいで十分に理解出来るはずだ。

映画的には名作過ぎるのが玉にキズ、でもスピルバーグの真面目路線でも最良の出来かもしれない。『シンドラーのリスト』のこれ見よがしな説教臭さはないし、彼の映画としては初めて、直球でディスカッション・ドラマなのに、『ミュンヘン』や『アミスタッド』のように言葉にひっぱられて破綻することもない。スピルバーグの成熟だ。
(ただしスピルバーグの傑作を一本選べと言われれば、誰がなんといおうが『太陽の帝国』です。これは譲れない)

それにしても憲法を変える、とはこれだけ重いことなのだ。法の尊重、法治とはこういうことなのだ


一方で「改憲はこっそり静かに」とか「ナチスに学べ」とかの暴言が飛び出し(麻生さんは口が滑っただけで本音ではないだろうにせよ)、いやそれ以前に「憲法を変えて誇りのある国を」となんかわけもわからぬ軽さで絶叫しているのが我が国である。

とりあえず96条を変えて憲法をもっと自由に改正出来るように…というのが今の話のメインだが、『リンカーン』を見ると、これまで何度も憲法に修正条項を加えて来たアメリカまもなく結婚を性別に寄らないとする修正条項が議論されるだろうですら、決して憲法をそんなに軽いものとみなしてはいないのだと実感する

そんな重大な、国の在り方を左右する話を、議会過半数だけで発議を決めて国民投票でいいのか?

議会2/3でも、本当に変えるべきときには、議論も重ね説得も試みるし、信念があればそれだけの努力もするし(リンカーンの狡猾な政治的手練手管には、かなり唖然とする。いや「不正スレスレ」どころではない)、またそれだけの説得力を改憲案が持ってなければならないはずではないか。

日本の「改憲論」のすべてが、軽薄で軽卒過ぎる気がする、と『リンカーン』のような映画を見ると真剣にそう思う。

…というか、96条改正はとりあえずの議論の端緒のカムフラージュなのは見え透いていて、今「改憲」を言っている人たちは9条をなんとかしたいだけなのだ、というのは誰でも分かっている。この見え透いた不正直さがまたなんともまあ、なのだ。

軍事力の保有を禁じ、国家の交戦権を認めない9条があるのに、自衛隊の地位が憲法に書かれていない。だから明確にするために条文を変える、というのは一見もっともらしく聴こえる。だがその改憲派の意見を聞く度に、こんな粗雑な議論で憲法をいじっちゃ駄目だろう、と特に『リンカーン』を見てしまうと、つくづく思うのである。

なんせ言ってる中身が安易過ぎる。現行憲法でも自衛隊が合憲となる、その法と解釈の論理体系をぜんぜん理解せずに「自衛のための自衛隊保有」を付け加え、その自衛の範囲を明記すればいい、というのだが、いやちょっと待て。

ならば「国際紛争を解決する手段としての武力行使」「国権の発動としての戦争」を永久に国民が国家に対し禁じ、「国家の交戦権は認めない」と明記されていることはどうするの?憲法が定める自衛の範囲は「交戦権の行使」ではない、とか慌てて付け足すんですか?


1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「ならば今の自衛隊を認める政府解釈はどうなんだ?おかしいだろ!!」とヒステリックに言い出す前に、「交戦権は禁止されているが自衛権はある」と要約されがちな現行解釈を、ちゃんと仔細に論じなければ駄目じゃないか。

日本国憲法では「国際紛争を解決する手段としての戦争」「国権の発動としての戦争」「国家の交戦権」は認めていない、これは明記されていて例外はあり得ない。自衛隊が認められるのは、「国権の発動」ではなく、「国家間の紛争の解決のための軍事力の行使」には決してなり得ない範囲だけになるが、国が別の国に対して自衛するのであれば「国家間の紛争の解決としての交戦権の行使」の範疇に入ることは否定しようがない(「いやそう解釈しなければいい」とか言い出す馬鹿が必ず出て来るが、憲法がそんな玉虫色でどうするんだ?あんたら法律の意味分かってないだろ?)。

自衛権は認められているとみなす解釈それ自体は間違っていないが、それは自分の命や財産や安全を守る権利、非合理な、望まざる圧制に対する抵抗権が、個々の人間の自然権だからである。

自衛権は憲法の条文を読む限り、国権の発動としての戦争、国家の交戦権は認めない、国権の発動としての戦争は放棄する、と明記されている以上は、この場合の自衛権は決して「国の権利」ではない

自衛権があるのは日本人であって、日本国にではない。決して国家の自衛権ではなく(それは「国権の発動」にあたる)、主権者の自衛の権利を付託された、国民を守るための組織としてしか、自衛隊は認められていない

憲法に自衛隊の保有を明記するのなら、以上のようなことをしっかりと、他の解釈の余地なく書き込まなければ、憲法の論理的な整合性が担保出来ませんよ。論理的な整合性が担保できない、自己矛盾した憲法では、憲法として認めようがないですよ。

それか交戦権を認めないとする条文を書き換え、「自衛権の行使を除き国の交戦権はこれを認めない」と例外を明記するか、だろう。ただしそう書いた瞬間、「ああこの憲法はいい加減な、抜け道と言い逃れだらけの悪法なんだね」と表明していることになる。それでいいんですか?少なくとも、「美しい国」じゃねえよなあ、そんなの。

「自衛隊を憲法に明記すべき」というなら、交戦権と自衛権と国家の権限のかねあいをきちっと条文に書き込まない限り、「自衛権」の定義を交戦権と衝突しない形で明瞭にしない限り、あからさまな矛盾をはらんだダメな憲法になってしまう。近代民主主義の法治の根幹、国の基本法というのは、それくらいしっかりしたものでないといけない。

それが出来ないのなら、ただ自衛隊とその防衛範囲を書き込む程度の安易な話しかないのなら、確かに明記はないが自衛隊に関して厳格な解釈だけが論理的に導き出せる今の憲法9条のままの方がいい。

「自衛権の行使を除き国の交戦権はこれを認めない」なんて書いたらもの笑いの種だし、国家の交戦権を認めてないのに自衛隊が守る「国家」の範囲が明記された変な憲法なんてのは、もっと困惑する。

…っていうか、議論の真剣さが足りなさ過ぎるだろう?

それに現行憲法でも、イラクにまで自衛隊を送れてしまえるほど、なし崩しな解釈改憲まで政府の都合でやってしまうのが日本政府の実績だ。今出ているレベルの、法の論理的整合性を真面目に考えてすらいない改憲、それも抜け道だらけの条文になりそうな9条改正なんて、「これは危ない」と思うのがまともな感性だろう。

いやはっきり言えば、詭弁の誤摩化しはいい加減にしろ、ということだ

憲法で自衛隊の地位を明確にした方がいい、とか言いつつ、国家に交戦権を認め、自衛隊を普通に戦争の出来る軍隊にしたいから改憲を主張しているのが見え透いている。ならば9条の交戦権の否定を「変えたい」、とはっきり言うべきだ。戦争が出来ない憲法ではなく戦争が出来る憲法がいいのだ、と堂々と主張すべきだ。本当は交戦権が欲しいのに「憲法に自衛隊の地位が明記されてないから改憲した方が」なんて姑息な誤摩化しは、近代民主主義国家の法の支配に対する冒涜でしかない

麻生太郎さんが「改憲は静かに」「気がついたら憲法が変わっていた」と言ったのは無論大問題の失言だが、麻生さんだけを責めるのも悪い。自由民主党がやって来た9条をめぐる改憲論自体、実は戦争が出来る憲法にしたいだけであるのを、それでは大騒ぎになって国民の反発が怖いから、自衛隊の地位とか集団的自衛権に話をすり替えて、「静かに」「国民が気づかぬうちにこっそりと」変えようとする、いんちきな改憲論をずっとやって来たのだ。

ところが安倍晋三さんがもはや自衛権や交戦権すら口にせず、ただ「誇りのある国を取り戻す」と、相変わらず口先だけの内容空虚のくせに自信満々に言っている、その安倍自民党が出して来た憲法草案はもっと凄い

ほんと口先だけで意味も分からず難しそうな言葉を並べる軽薄さもほどほどに…

…自民党の憲法草案は「天賦人権説の立場をとらない」と、その日本固有のオリジナリティであるつもりのことに鼻高々なのが、安倍晋三さんや麻生太郎さんのように「家が家だし、勉強できなくてもこの大学なら入れた」的な学歴ではなく、堂々と東大法学部を優秀な成績で卒業された片山さつきさん辺りであるらしいのだから、いやもう…ずっこけるしかないんですが。

「天賦人権説の立場をとらない」って…近代法治主義、立憲民主主義の法体系は、個々人に生まれながらにして基本的人権があるという大前提でしか成立しない法体系なのですが…?東大法学部ってなにを教えてるんだ?

権利が個々人に生まれながらにしてある、という前提(自民党が「天賦人権説」とレッテル貼りしているもの)に立たないのなら、極論すれば憲法は要らない。法治国家である必要がない。

別に日本国憲法とか合衆国憲法とか戦前のドイツのヴァイマール憲法のような民主主義の憲法だけでなく、ドイツのその前のドイツ帝国憲法(プロイセン憲法)や大日本帝国憲法のような、市民の人権よりも国家の権威性を優先した君主制国家主義の憲法でも、そうは明記されていなくても、基本的人権とされるものは市民・国民の個々人に生まれながらにしてあることが前提になった法体系なのだが、片山さつきさんはそんな基礎知識もないらしい。

法律によって人間の行動が規制される、「○○はやってはいけない」と定められるのは、人間がなんの制約もなければ好き勝手で自由に行動することが前提で、法がその行為の個々に「これはやってはいけません」と制約することでしかない。問題は好き勝手で自由に行動することを「権利」として認め尊重するかどうかであって、「天賦」かどうかではない。

あえて分かり易く単純化するなら、人間が自分の意志で行動することが「天賦」つまり産まれつきに、あらゆる人が、でないのなら、逆に政府があれをやりなさい、これをやりなさい、とすべて命じるか、「人間がやっていいこと」を全部憲法にでも(?)リストアップしなければならなくなりますよ? なにそんな変な法律?だいたい現実的に無理、あり得ません。

そして「○○はやってはいけません」という法は、それがルールとして定められた以上、その所轄対象となるあらゆる人間に平等に施行されなければならないのは言うまでもない。平等主義の理想以前に、そうでなければこと成文法の場合、文字で書かれてこうと決まったことの権威が保てないではないか。

『リンカーン』の憲法修正13条だって、これは黒人に権利を「与える」問題ではない。黒人に白人と同等の権利を「認める」かどうか、法が平等に施行されなければならない対象に黒人を加えるかどうかであって、白人であろうが黒人であろうが生まれながらに自由意志で、基本自分の判断で、「好き勝手」に行動するのが基本であって、それを「権利」として認めるかどうかの議論だ。

人間がなにも条件付けのない状態では自由気ままで好き勝手、自分の意思で行動するものであって、社会秩序の維持のために法や道徳、倫理によってそこに一定の制約を課すこと、その法は平等に施行されなければ法として機能しないという元からある人間社会の構造のことを、18世紀の西洋に始まった近代民主主義の近代法治(たとえばフランス革命時に出された世界人権宣言や、米国の独立宣言、合衆国憲法)では、この自由を人間の生まれながらの、法によって保護されるべき権利と認めた。

「神が平等に与えた権利」と言ってみたりしたのは、理想主義のかっこつけで説得力を持たせるためだけ、「天賦」かどうかは修辞語の問題に過ぎず、法体系の本質の問題ではない。そんなことすら、片山さつきさんたちは峻別できなかったのだろうか?

「あらゆる人間が生まれながらに持つ基本的人権」は、18世紀の人類の極めて重要な発明であり、近代の社会秩序や正義の原点がここにある。だがそれは実は、法によって共同体の秩序を守ろうとする時の基本的な構図として元からあった暗黙の大前提に定義を与えただけでもあり、真に偉大な発明なのは、最初からあったものを「権利であって侵すべからず」とみなしたことだけなのだ。

また平等原則も、決して近代民主革命の発明品ではない。

たとえばどんな普遍宗教でも、神や仏はそれを信仰するものを平等に扱うのが基本教義だ。これもプラグマティズムで言えば当たり前のことで、もし神や仏が不平等で生まれながらに救済される者と救済されない者が差別されていると分かっていれば、真面目にその神仏を信じ、その教えを守って善男善女たろうと努力するお人好しはいまい。

日本のような自然神信仰、アニミズムの場合はもっと過酷であり、そもそも自然や運命の営みは人間の都合を超越していて理解不能な不条理なのだから、平等に扱う気が神仏にあるかどうかすら問題にならない。 
とはいえそれでは宗教が道徳を担保する機能は果たせないので、たとえば日本のカミ信仰でも「お天道様が見ている」「神罰」「天罰」「罰当たり」は信仰に組み込まれており、子ども向けの昔ばなしでも見れば分かるように、お天道様は平等で公平だし、怪談もので騙されて殺された側が祟って罰を下すのでも、怨霊や霊魂はちゃんと真相が分かって祟って来る。

問題は人間の自由意志や好き勝手を、「権利」「人権」として認めるかどうかであって、それが「天賦」かどうかではない。

はい、まだ分からない人のために復習。

  • あなたたちのご都合に関係なく、人間にはそれぞれに固有の自分の意志がある。
  • あなたたちが思いも寄らぬことを「やろう」と思ったとき、その自由が「天賦」つまり他の人間の意志の及ぶ範囲ではないことを認められないなら、法を巡る議論の根底からしておかしいし、現実にあり得ない。
  • それがあらゆる人間に平等に、でなければそもそも法が法として機能しない。

だからあらゆる人間が平等に自由であることを「権利」として認めるかどうかこそが肝心の議論であって、つまり片山さんがそういう人間の権利を否定するべきだとか、国家の権威や権限を人間の権利に優先させるべきと考えているのなら「なにをそんな時代錯誤」と呆れ、賛成はまったく出来ないにせよ、まだ議論は成立する。

だが、「天賦人権説」を否定すること自体が、議論としてまったく無意味なのだ

それが元々、法の機能そのものからしてナンセスでしかないから誰も考慮しなかったことを、「天賦人権説の立場をとらない」憲法が今までないから、というだけで「これは私たち日本が誇れる、凄くオリジナルな発想なんだわ」とでも思い込んでしまったのか、自慢げに披露してしまったのが片山さつきさんであり、安倍晋三さん&フレンズ(オトモダチ達)なのだ。

さてそんなナンセンスを聞かされた側は、あまりにナンセンス過ぎるのでさすがに虚をつかれ、さてこの人たちにはどう説明してあげたら理解できるのか、と無駄に頭を悩ませる羽目に陥る。まるで時間の浪費だ(僕がこのブログを書いていることを含め!)。

今、安倍晋三さんたちだけが妙に盛り上がっている「改憲」フィーバーの実態は、こんなもんである。いったいこの人たちは国のあり方、法の支配の重みを、真剣に考えたことがあるのだろうか?

いやそれ以前に、法律って意味や機能、分かってますか?

片山さつきさんはつまらない表層的なイデオロギーに囚われ、勘違いの言葉遊びに終始して、法とは、憲法とはの根本すら理解しないままいい加減な思いつきを口にしているだけなのか?これが東大法学部の優秀な卒業生で元エリート大蔵官僚? 日本の支配階級のなかでも優等生?背筋が寒くなる。

だがこの馬鹿馬鹿しさに呆れ、安倍晋三さんの自民党が今進めたがっている「改憲」話がいかにナンセンスかを指摘するのはともかく、それ自体はあまり危険視することでもないのかも知れない。現に片山さつきさんや安倍晋三さんの言うことがあまりに馬鹿げているので、国民に知らしめるわけにもいかず、メディアは口を閉ざしている

自民党が公明党と連立している限り、9条をいじったり31条の生活権を変えようとか、まして基本的人権の保護・尊重を云々するなんて不可能だ。安倍さんたちよりは賢い石破茂さんはそこは分かっているので、参院選後は改憲話について慎重姿勢に徹している。現政権がタッチできるのは、せいぜいが96条だけだろう。

そして96条をいじる、「もっと憲法が簡単に変えられるように」という議論もまたナンセンスだ。そんなに改正が必要な条項があるなら、それは議会2/3がとれるくらいに説得力を持っているはずであり、努力を尽くすのが政治家の仕事であり、憲法とはそれだけ重いもののはずだ。

だいたいもう50年以上、ほんの一部の例外を除いて日本の戦後レジームそのものだった自民党は、当是に改憲目標を掲げており、9条を「自衛隊を明記した方がいい」という騙しの詭弁でなし崩しに交戦権を認める改憲は、もう30年40年と自民党内で議論されて来た。 
結果はどうか? 結局改憲なんてやっていない。10年一日のごとくどころか50年同じ話の繰り返し(自衛隊を憲法に明記した方が云々)だけで、本当はやる気もないし、可能かどうかすら疑わしい。具体的な改正条文案すら、議論の対象になるだけのものは出たためしがない。 
そしていきなり安倍晋三さんや片山さつきさんの、お話にならない憲法草案、まじめな議論の対象にすらならない「天賦人権説でない憲法案」云々であり、これは自民党が恥をかかないためにとっとと葬り去るしかない。

だからこんな子供っぽい右派の改憲論は現段階でそんなに深刻に危険視することでもないのだが(安倍晋三さんたちの改憲論は本来、「危険だ」からではなく、「お勉強が足りない、出直しておいで」で追い返せば十分だ)、しかし心配なのは、こういうことが続けば憲法をめぐるまともな議論が出来なくなる、どんどん軽薄化した児戯めいたお遊びのレベルに堕落していくことだ。

だからこそ、特に今は96条は変えてはならない。独りよがりで怠惰な政治家たちの都合にあわせてハードルを下げて、彼らの玩具に憲法を堕落させてはいけないのだ。

だからこそ、安倍晋三さんや片山さつきさんにこそ、『リンカーン』を見て欲しいし、そこで考えて欲しい。

安倍さんが大好きな「後世の歴史が判断」で言うなら、合衆国憲法修正第13条が通って150年後、それはこの映画が作られるだけの価値のある歴史となった。たとえば50年後に安倍さんの「改憲」は、それについて誰かが映画を作りたい、と思うような偉業になる可能性がありますか?

日本国憲法の制定過程なら、こと31条の生活権や、義務教育に関する条文の議論は、敗戦で国土が荒廃した国が、それでも新しい社会を作って立ち直ろうとする、その強靭で純粋な意思が感動のドラマにだってなるだろう(僕にやる気はありませんが)。 
安倍さんの祖父岸信介があらゆる方面から反対の声があがるなかで、日米安保調印を強行する、これだってまだビカレスク・ロマンとしておもしろい映画になる(こっちの方が藤原敏史監督作向き)。

ついに黒人の大統領が選ばれるまでになった今日、スピルバーグが見せたリンカーンの悪戦苦闘は、誰もが否定できない功績を歴史に記した。安倍晋三さん、あなたたちがやりたがっている改憲には、これに匹敵するだけの価値が後世認められると思いますか?

『リンカーン』で、ライバルのスティーブンスは修正第13条を通すまでのリンカーンの手練手管を評し、「世界一真面目で良心的な男による世界一悪辣な政界工作によって、世界でもっとも重要な法案が可決される」という。これは貧農出身で大統領にまでなった、清廉潔白で国民に愛された庶民派政治家の話ではない。「違法スレスレ」どころの話ではない、文字通りありとあらゆる手を使い、側近まで騙し、南軍との和平交渉の引き延ばしまで工作し(暴露されれば失脚はまぬがれない)、リンカーンは修正第13条の下院での可決に執念を燃やす。

そこまでしてでも奴隷制は憲法で禁止させなければならなかったこと、憲法を変えなければならなかった必然は、歴史が証明している。この修正条項を通し、奴隷を廃止したことは、150年後に黒人がついにアメリカ大統領になる第一歩となり、紛れもなく「アメリカの誇り」となった。

安倍晋三さん、あなたが「誇りのある日本を取り戻す」と口先だけで言っている改憲に、ここまでの価値はありますか?

後世に誰がみても「あの改憲は正しかった」と言われる自信が、安倍晋三さん、あなたにあるのですか?あなたにはそもそも、リンカーンのような信念と努力が、あるのですか?


そこまで深く考えて「改憲」を言っているのですか?

まったくそうは見えないことは言うまでもない。右派か左派かとかの理念対立以前に、悪ふざけのお遊びとしか思えないものに、憲法論議が堕落してしまっている。まともな議論の前にまず初歩的な間違いから潰して行かなければならない改憲騒動なんて、まったくあきれるしかないし、憂鬱にしかならない。

8/17/2013

「戦後レジューム」という奇々怪々


それにしても、あまりに妙な話なのである。

Regime は日本語カタカナ表記なら「レジーム」のはずが、「レジューム」という安倍晋三さんが自慢げに繰り返す謎の和製英語に、メディアから苦情がまるで出て来ない。

今は副総理の麻生太郎さんが総理だった時分、あれだけ漢字の読み間違い(ってまあ、河野談話村山談話をフシュウには、そりゃ思いっきりずっこけましたが)をあげつらわれたのに、ずいぶん不公平だなあ、とも思う。

いやもっと不可解なのは、よりにもよって安倍晋三さんが(読み間違いを訂正して)「戦後レジーム」からの脱却と言ってるのを、誰も笑わないことだ。

鳩山由紀夫さんがあれだけ名門かつ財産家の出自であることだけでからかわれ、いじめられ、ガンジーの言う現代版7つの大罪を引用した名演説すら全メディア金太郎飴状態のあからさまな世論操作の偏向報道で潰された「労働なき富」って、鳩山さんは遺産を民主党の政治活動の資金に供していただけで、私利私欲で使ったのではない)のと較べて、これまたあまりに不公平だ。

なんせ日本の戦後のレジームつまり支配体制からの脱却って…

…だったらなぜ岸信介の孫のあんたが首相をやってるんだよ、という話にしかならないんですが?

岸=福田派の直系御曹司の三世政治家、血統のよさだけが売りモノの安倍晋三さんこそ、戦後レジームそのものではないか。

安倍さんのオトモダチたちを含む二世、三世だらけの今の自民党こそ、北朝鮮の親子三代金regime、朝鮮労働党金王朝に肩を並べる、日本の戦後レジームの最たるものではないか。

ところが安倍さんが戦後レジームからの云々と言っているのは、どうも日本国憲法を変えたいらしいのだ。もしかして安倍晋三さん、読み間違いだけでなく、regime、支配体制という言葉の意味を知らないで使ってませんか?

憲法が提示するのは国家理念であり国の制度の抽象的な枠組みであって、決して実態権力を握ったregime、「支配体制」ではないのだが。

安倍さんはなにを勘違いしているのか、regimeとは例えばドイツ第三帝国はナチ・レジームであり、帝政ロシアだったらツァーリのregime、革命前のフランスでアンシャン・レジームといえば王と貴族階級と聖職者であって、ルイ16世はブルボン・レジームつまりルイ王朝、ヴェルサイユ宮廷レジームではあったが、絶対王政という枠組み・理念や、カトリックの信仰をレジームとは言わない。当時のカトリック教会の主流派ならそれはレジームの一部と言えるだろうが、当時の絶対君主の多くが啓蒙主義思想にもそれなりに染まっていたからといって、オーストリアの君主はハプスブルク・レジームであって、啓蒙主義がレジームだったわけではない。北朝鮮を主体思想レジームということは出来るが、それは主体思想を根拠に権力を掌握する支配者側がいるからであって、主体思想自体をレジームとは言わない。江戸幕府は徳川レジーム、幕藩体制レジームではあるが、間違っても武家諸法度や朱子学を指してレジームとは言わない。

日本の戦後レジームつまり支配体制といえば、まずは異論の余地なく自民党と霞ヶ関である。

戦後レジームを云々するならば自民党を解党するなり、霞ヶ関大改革をやらなければならないはずだ。まだ道州制の導入を掲げる橋下徹さんの方が、よほど戦後レジームつまり支配体制からの脱却につながる主張をしている。中央集権による権限の掌握が、霞ヶ関レジームの支配体制、権力構造の要だからだ。

いやもっと言えば戦後の日本の真のレジームは米国であり、自民党と霞ヶ関はその走狗でしかないという見方もある。ならば日本の戦後レジームを終わらせるなら、日米安保の破棄が最大の切り札となるはずだ。

「南カリフォルニア大学政治学部留学」を学歴詐称していた安倍さんが、相変わらず定義をよく知りもしない横文字を知ったかぶりして間違えただけ、という可能性がいちばん高いわけだが、だったらメディアがまったく訂正も批判もしないのは、「失言王」「漢字が読めない」麻生太郎さんと較べて、あまりにも不公平だと思うよ。

言葉の定義や読み方を知らないだけではない。どうも戦前戦中の妙な美化だけでなく、戦後史についても、安倍晋三さんは根本的に認識がおかしいようだ。

戦後の日本の行政は一応は憲法に基づいて来ており、法は憲法の枠内には一応はあることになっているが、誰がどう見たって日本の戦後レジームを形成する自由民主党は、結党時から改憲を党是に掲げている。憲法は歯止めにはなっては来たものの十分に尊重されているとは誰も思っていないし、戦後政治で日本国憲法の理念に左右されたり制約され、あるいはその理想とする社会の実現が努力されて来たわけでは必ずしもない。むしろ憲法よりも日米安保の方が優先され、憲法との整合性は後付けで内閣法制局がひねり出す、というパターンが多いくらいだ。

それとも戦争ごっこに固執する安倍さんは、自分が夢想する国防軍が持てないのは憲法サンが許してくれないからだ~、とかすさまじく倒錯した勘違いをしているのだろうか?

…いやだから…憲法に人格はないってば…。

憲法は実態権力持てないってば…。前文も条文も文章、ただの文字列なんだから…いかに日本がアニミズム文化の言霊信仰の国だからって、それはさすがにあり得ないってば…。

もし安倍さんが戦後民主主義への異議申し立てがあるなら、それは「レジーム」ではなく思想性とかパラダイムとか、そういうこと言わなきゃ、駄目だってば…。

日本国憲法は国家の交戦権、国際紛争の解決手段としての戦争は認めていないが、主権者である国民の自然権である抵抗権や自衛権を制約してはいない。

あくまで国家の交戦権ではなく、国民の自衛権だけが認められている、その国民が自らを守る権威を付託された組織として自衛隊が存在することは、違憲とは言えない。だが自衛隊の成立過程を見れば、そうした国民の権利や、憲法の国民主権や平和主義の理念の実現のためではなかったことは、安倍さんだって否定はできまい。

冷戦構造のなかで日本の反共陣営入りというアメリカの要請と、再軍備したい右派がいて、まず朝鮮戦争で再軍備論議が高まり警察予備隊→自衛隊となったのだ。どんなに国民を守る自衛隊と言い張ったところで、最初から日米同盟という枠組みのなかの組織として構想されているのは明らかだ。

それとも安倍さんは、そうした日米同盟の枠内の日本という体制を完成させた祖父・岸信介が「アメリカの手先」と批判される、その批判する側こそが「戦後のレジーム」だとでも思っているのだろうか?

つまり首相であった岸信介よりもそれを批判する側の方が権力構造のなかで上、とでも思っているのだろうか?

だとしたら頭がおかしいとしか言いようがないのだが、うーむ…。安倍さんは自分の靖国参拝願望を否定する「体制」が、この日本の社会構造の裏側にでも実は存在するという、マンガチックな「反日」陰謀論にでも囚われているのだろうか?

わけ分からんぞ…。

あるいは、仮に安倍さんの社会観が小学校か中学校の男の子レベルなのであれば、「アメリカの手先」と生徒の岸君を叱れる先生は、生徒である岸君より明らかに権力がある、ってことにはなるよね、確かに。

あるいは靖国神社に行きたいのに、行かせてもらえない。ボクが自分の思い通りに出来ないのは、ボクが「戦後レジーム」に支配されているからだ、ということなのか。

靖国に行けない腹いせで、終戦の日の式辞で加害責任や不戦の誓いを入れなかったら、またボクが叱られたじゃないか。これは叱ってる側の「戦後レジーム」がボクを支配しているからに違いない、だからそんな支配下から脱却するんだ、とか…

安倍君は、そういうことが言いたいのかな?

ボク、安倍晋三の思い通りにならない、ボクが怒られるのだから、安倍晋三がなにかの支配下にある、その支配体制が「戦後レジューム」だ、という発想なのか??

だから憲法を変えて戦後のレジームから脱却…ってわけ分からんぞ???

法治国家においてが法の論理性の支配下にあること(法の支配)は、レジームとは言わんぞ??? 

大人がそれなりの社会的責任を負わなければならないのは、別になにかの支配下にあるからじゃないぞ????

いやとにかく、わけが分からないのである。「戦後レジュームからの脱却」と、よりにもよって戦後の支配体制を確立した岸の孫が言っている。それも岸の孫であることだけが、政治家をやっていられる理由である人だというのに。どう考えたってその岸信介こそが、日本の戦後政治の支配体制、つまり戦後レジームを確立した超本人なのに。

岸信介がCIAだった、A級戦犯訴追を免除されるのと引き換えにアメリカの意向で動くことを命じられた、という説がある。真偽のほどは定かではないものの、岸が戦後の世界体制がすぐに冷戦体制に取って代わられてしまったなかで、アメリカの都合に最大限に貢献するよう日本が振る舞うことを第一に考えた、戦後日本の対米追従路線を決定づけた政治家であったのは明らかだし、戦前から右派の大物の岸がはっきり自らがアメリカ側であることを示したことは、日本の保守政治が対米従属になること、少なくとも日米が同盟関係となることの上で、もっとも重要な切り札だった。

サフランシスコ講和条約が調印されたときには、すでにこの条約や国連の理念・構想が提示した(その多くがフランクリン・ルーズベルトの理念的な構想に基づく)新しい戦後処理の在り方、第二次大戦の反省に立った新しい国際秩序の理念は、骨抜きになっていた。

日本は生まれ変わった民主主義の独立国として、国連を中心に主権国家の共同体として生まれ変わった国際社会に受け入れられたのではない。冷戦体制の覇権争いの構造のなかで、アメリカ側として、対米追従を条件に独立を認められたに過ぎない。

日本の基本方針が対米追従となることは、戦後日本が掲げた理念や、敗戦で国民が抱えた感情の面で問題があると、誰もが気づくだろう。

戦後の憲法や民主主義ゆえに、あるいは憧れでアメリカを歓迎したのはむしろリベラルや左派や都市中心の一般市民であって、素朴に言ってあれだけ激しい戦争を闘い、農村部からの出征者に多くの死者を出し、都市部の空襲など、日本の国土に相当な被害も与えたアメリカには、右派の旧軍人とか官僚、地方のこと地主階級などは、相当な反発を持っていた。

当時も決して皆無ではなかった、本気で八紘一宇などを考えていた真面目な右派のアジア民族派にとっては、実際にはそのアジアにこそ最大の被害を日本が与えてしまった反省こそあるべき、その欧米白人支配からの独立を支援するのに旧日本帝国の誤ったやり方とは違った手段を模索しなければならないときに、そのアジアの同朋と切れてよりにもよって米国の走狗になるとは、晴天の霹靂の屈辱だ。

戦後の日本政府は、こうした日本本来の保守層に、アメリカ陣営のなかの戦後日本を受け入れさせなければならなかった。岸がこうして戦後レジームを確立するのと並行して、アメリカこそが本来なら仇敵であった保守層の骨抜き策のひとつとして利用されたのが、極秘裏にA級戦犯を国内で復権させたこと、つまり靖国神社への合祀である。

元来は根っからの反米であった保守勢力を納得させる切り札は、決して知的ブルジョワ階級のエリート外交官出身でアメリカ通、戦時中はいつ特高に逮捕されてもおかしくない冷や飯食いだった吉田茂ではなく、満州国を影で支配した実力者と目され、復権した右派の大物の岸信介でなければ務まらなかったのである。

そこで岸信介を(戦犯としての訴追免除と引き換えに)いわば自分たちの代弁者に仕立て上げたことは、アメリカにとって実に好都合だし、公職追放が解かれ官界に舞い戻って来た支配機構側の人間、つまり復権した高級官僚にも好都合だった。

60年安保の頃になれば、当時20歳前後の若者は、子供の頃に米軍の空襲に逃げ惑った世代だ。どんなにアメリカの豊かさに憧れようと、壮絶な幼少期のトラウマを忘れようと努力しようにも、その苦しみと怒りは抜け切れない。

だから安保反対運動など、国内の反発は大きかった。それを乗り切ったのが…いや乗り切れたのも、かつての右翼の大物で戦犯になってもおかしくなかった人物、と皆が知っていた「昭和の怪物」、岸信介しかいない。

とはいえ、反対した側でさえ、これが現実的には実は正しかったと思っているのが、戦後史の実態だろう。

対米追従は屈辱的だが、冷戦体制のなかでの日本には現実的に必要だったと、多くの国民が思っているし(「ソ連に占領されたら共産主義になっていただろう」とか)、50年代にはすでに朝鮮戦争特需があったし、国防とか安全保障よりもまず経済的に、アメリカ側の陣営に入ったことは日本にとって有益だったというのが、現代における順当な歴史的評価に思える。

もっとも、朝鮮戦争やベトナム戦争で日本が潤ったとはいえ、安全保障の面では冷戦時代の研究が進むにつれて、異議が出て来ないわけではない。冷戦自体が米ソ双方の誤解と勘違いと自己投影の積み重ねであり、まったくの無駄であった。核抑止論なぞはまったくの机上の空論に過ぎず、正気とは思えぬ核軍拡競争も、ちょっと双方が冷静さを取り戻せば十分に防げた可能性が高いことも、今ではけっこう明らかになりつつあるのだ。 
早い話が、米ソは双方共に、相手が全面核戦争を仕掛けてくるか、自分達の陣営を侵略する気満々なのだと、勝手な疑心暗鬼で思い込んでいただけなのだ。どちらの側も全面核戦争になったら世界が破滅するから自国が始められるわけがない、と百も承知していながら。

「安倍自民党政権はアメリカの手先」、そう明言するのは安倍さんや自民党に批判的な側だけだが、安倍さんや自民党を支持する側こそが信じて疑っていないのは、岸信介の孫である安倍さんがやはりアメリカの手先であり、安倍さんの自民党が対米追従政治をやるだろう、ということだ。

表向きは格好がつかないから誰も明言はしないが、安倍さんが対米追従の首相だからこそ、安心して安倍さんを支持できるのである。アメリカと良好な関係を保ち、言いなりになっている方が日本にはいろいろ都合がいい、というのが安倍さんや自民党が支持される、最大の理由なのだ。

鳩山さんが提案した「対等な日米関係」は聞こえはいい、見た目はかっこよかったが、「そんなの無理だ」と日本人の大多数は思っていたし、それは今でも変わらない。そして現に民主党に政権をとらせてみたら、どうも「対等な日米関係」にはぜんぜんならなかったし、変わり映えもしなかった、まさに戦後レジームからの脱却にはなりそうにないから、ならば元の自民党でいい、というのがぶっちゃけ、現政権を一応は支持しているらしい日本の世論の本音だ。

いやメディアに至っては、「対等な日米関係」をかっこよくぶち上げた鳩山さんに、理念や道徳では反論・対抗が出来ないから、親の資産をあげつらい「宇宙人」と揶揄することで潰した、という見方すら否定はできまい。日本には対米追従しかないのだと実は心の底から奴隷根性を刷り込まれている身には、鳩山由紀夫の言っていたことはあまりに眩しく、嫉妬しか呼び起こすまい。躍起になって否定するか、それが無理なら下衆なばばあの井戸端会議の手法でこき下ろす、引きずり降ろすしかあるまい。

慣用句では「下衆なばばあ」と言いつつ、日本社会の場合、これは明らかにむしろ男性に多い行動パターンだったりする。こと高学歴優等生エリートという人種は、一皮むけばもの凄く嫉妬深く、実はたいした根拠もなくプライドばかり高い。 
根は育ちのいいボンボンで純粋さが抜け切れない鳩山由紀夫や小沢一郎の弱さとは、そういう自分を取り巻く人々の行動原理がときに恐ろしく身勝手で下衆で下らないことに、なかなか気づけない、気づいても理解出来ないから対応しきれず、味方に足下を掬われてばかりであるところだろう。 
やはりボンボンの麻生太郎さんもそんなところがなきにしもあらずで、彼の場合は陽気過ぎる希代のおっちょこちょいだから自分から地雷を踏む 
安倍晋三さんは…ボンボンとはいえまったく別種の、ひたすらちやほやと甘やかされた、あまり頭の回転が早くないただのわがままなのか、ひたすら自己中心的な世界観しか持てず、自分のことしか想像の範囲が及ばないみたいですから…

ところが日本はしっかり対米追従をやっているから大丈夫、という我々の盲目的な思い込みとは異なり、菅・野田の二代の民主党内閣と安倍内閣は、対米追従を懸命に装って来ているが、決して「アメリカの言いなり」ではない。

むしろ日米の信頼関係は悪化している。

少なくとも、今のアメリカのregimeである民主党中道の「言いなり」になぞ、菅政権以降の日本はまったくなっていない。むしろボタンの掛け違いでアメリカ側を苛立たせるばかりだ。

日本側は自分達ではアメリカの意向を言われるまでもなく慮って来たつもりなのかも知れないが、実際には当のアメリカ現政権が考えるアメリカの国益に実はむしろ反しているのが、鳩山さんが辞任に追い込まれた以降の日本の政治であり外交だ。

なにしろ、むしろオバマ政権の方が対等な日米関係を望んでいたのだ。鳩山さんがアジア重視を唱えるのも大賛成だったのだ。日本、中国、米国の三極(それに韓国も一応)で、安定した東アジアの経済発展の土台を作ることが、アメリカの国益なのだ。日米、日中が対等で、歴史的なつながりの深い同じ文化圏の日本が、中国と米国の間に入ってくれるのがいちばん合理的だったし、そのためには日本が米国の実質属国では中国が信用しない。

国内メディアの世論操作に騙されない方がいい。

安倍首相が改憲はどうもアメリカに許してもらえそうにない今、これだけはどうしてもやりたいらしい解釈改憲による集団的自衛権の是認、つまりアメリカの戦争に日本が協力出来るようにすることも、当のアメリカが望んでいない。安倍は政権発足後もなかなかアメリカが首脳会談に応じてくれないので、切り札のつもりで集団的自衛権を持ち出したが、呆気なく「関心がない」と断られている。

むしろ止められるものならアメリカの戦争は止めて行きたいのが、現実のアメリカ、オバマ政権だ。

オバマ政権は普天間基地を沖縄に固定してそこにオスプレイを配備することを安全保障上絶対に日本に呑ませなければならない懸案とはまるで思っていなかったし、今でもまったくそう考えていない。沖縄を中国との軍事的覇権争いの最前線とみなしてもいないし、アメリカと中国が軍事的な競争関係になることもまったく望んでいない、想定すらしていない。 
米中関係については未だに中国 “共産党” という名称にアレルギーのある国内保守派への配慮が外せない、国是である民主主義に基づく人権とくに言論表現の自由や、今のアメリカ経済にとって死活問題である知的所有権の保護など(かなりの部分、著作権と特許で食っている国である)、中国との対立点はまだまだ少なくないにせよ、それは交渉で解決や妥協は可能とみなし、だから米中の信頼関係の緊密化をむしろ望んでいる。米国に限らず欧州でもどこでも、世界産業の組み立て工場となった中国、世界経済の牽引車である巨大マーケットを持つ中国との関係を悪くしたくないのはどこも同じだ。 
冷戦なんてとっくに過去の、終わった歴史である今、西太平洋における米国の軍事プレゼンスは出来れば減らしたいし、核兵器だって減らしたいから国内世論保守系の反発を押さえたい。なにしろ膨大な維持更新費を必要とする今の核保有が、財政と経済の再建の足を引っ張っているのだ。オバマ政権はそんな軍事費を減らして、アメリカ社会の安定により社会資本と人的な努力を傾けたい。今日本に協力を求めたいのは、むしろ核軍縮なのである。唯一の被爆国の日本の協力は、オバマにとって国内世論説得の重要カードになる。 
アメリカの共和党、保守派はブッシュ政権の「テロとの戦争」の時代から先鋭化・カルト化が進み、広い支持を失いつつある。オバマはこのチャンスに、保守派を牛耳る軍事産業ロビーなどのアメリカ政治の陰のレジームをなるべく排除したい。そこにはいわゆる「ジャパン・ハンドラー」(安倍さんが大好きなアーミテージ氏など)なども含まれる。彼らが発言力を持つ限り、アメリカのアジア外交は時代錯誤で国益を損ねるものになりかねないからだ。中国との良好な経済関係なしには、アメリカ経済も成り立たないのだから。

リベラル派の理念があるだけではない。戦争を続け「世界の警察官」を気取ることは、アメリカの財政にとって負担が大き過ぎるし、なによりもアメリカ社会の維持に重大な悪影響が否定出来ないのだ。志願制の米軍では、戦場で死ぬことになるのは結局は貧乏人、黒人やヒスパニックやフィリピン系、白人なら田舎のいわゆるレッド・ネック層であり、イラク戦争の戦死者の増加がアメリカ社会の不平等感を露骨に示してしまった結果、オバマ政権が関心を持つ軍事分野はアメリカ兵の命を危険にさらさないで済む、遠隔操作の無人機の開発くらいなものだ。

金持ちの戦争のために貧乏人が犠牲になる、という構図はもはや、健全な中産階級を失いつつあるアメリカ社会の維持にとって、大きな脅威なのである。

また米国は現実的な国益の問題(つまり経済)として、日中や日韓の関係悪化を懸念しているし、国是の問題として従軍慰安婦の問題や領土紛争で日本に味方できるわけがないし、国是を曲げてまで経済産業が発展している韓国の不興を買ってまでわざわざ日本に味方するメリットもない。

まだ尖閣諸島の日中関係については、オバマ政権ではなく共和党系だったなら、冷戦マインドが抜け切れない中国「共産党」への対抗意識や、沖縄に軍事プレゼンスを維持することでのアーミテージ氏らの利権があるだろう。

だが日韓の対立軸である歴史問題で、アメリカがやはり同盟国である韓国を蔑ろにして日本に味方することなぞ、歴史的経緯からしてあり得ないことに、安倍さんたちは早く気づいた方がいい。

なにしろ、韓国を日本の暴虐な軍国主義による植民地支配から解放したのは、アメリカなのである(これで議論はおしまい。異論の余地はゼロ)。

安倍さんはなんでこんな単純なことも分からないのだろう?

いや安倍さんに限らず、日本のメディアはなぜこんな当たり前の歴史の基礎知識すら無視した報道に終始するのだろう?

菅と特に野田の民主党政権がオバマを怒らせたのは、尖閣諸島問題だった。

東京開催のIMF総会に鍵となるプレイヤーの中国の閣僚級代表が参加出来なくなってしまったことで、野田はオバマ政権の信頼を完全に失ったし、野田が逆ギレ解散に走った最大のきっかけは、オバマに再選のお祝いを言おうとしても電話を取り次いでもらえなかったからだ。その直後に、野田はいきなり勝てるわけもない解散総選挙に突入している。

だが今やアメリカが最大の不信感を日本に抱いているのは慰安婦問題であり、安倍政権の一連の歴史修正主義的な言動である。

靖国神社に参拝することでA級戦犯を崇拝し、アメリカが国是で「絶対悪」とみなしている日本軍国主義を美化し、アメリカがその絶対悪から解放した韓国との関係を悪化させるなんて、米国がもはや国是、アメリカという国家の存在理由のレベルで、許せるはずもないことなのだ。

韓国のパク政権の外交的なアキレス腱は、大統領が独裁者パク・チョンヒの娘であることだ。どうにも内政では強硬な保守守旧派アンシャン・レジームの化けの皮が剥げて不人気になりつつあり、父は安倍の祖父岸信介とも満州国士官学校出のエリート将校だった時以来の親しいつながりがある、アメリカから見れば実はナチス並みの絶対悪の系譜につらなるレジームの出自でもある。だが安倍晋三のあまりに露骨な極右路線にパク大統領が批判的な立場を崩さないことで、韓国は米国に対してむしろ好印象を演出できてしまった。

日米関係はまぎれもなく悪化している。

なのになぜ霞ヶ関はオスプレイ配備を強行し、自民党内の反発を押し切ってTPP推進を表明させるなど、安倍政権が相米追従内閣であるかのような演出に余念がないのか?本当は、今やアメリカの言いなりにならせてもらえない安倍政権が、なぜ日本の国内向けには米国の忠実な下僕であるかのように演出されているのか?

理屈だけで考えれば、あまりに珍妙な、奇々怪々な話である。

だが安倍政権が選挙で勝ち、支持率も悪くないことの本当の理由を考えれば、納得がいく世論対策になる。

なにしろ、安倍政権がなぜ支持されるのか?最大の理由は「なんとなく」でしかない。

安倍の掲げる政策の中身は、本人がいちばん熱中している改憲・再軍備がまったくと言っていいほど報道されていない。原発再稼働の問題なんて、党本部が議論しないように各候補者に指導していたほどだ。参院選には経済政策の論戦で勝ったということになっているが、安倍はこの選挙でアベノミクスの肝心要であったはずの「成長戦略」の「第三の矢」についてなんの具体的な公約も出していない。

まさに「なんとなく」自民党が選ばれただけなのだが、この「なんとなく」の正体は、「安定感があるように見える」こと以外のなにものでもない。それを演出するためだからこそ、選挙報道よりも呉郊外の少年少女リンチ殺人事件などの方がニュースの時間が長かったりしたのだろう。政権がなにを考えていて、そこにはどんなメリット、デメリットがあるのかを国民に考えさせるのではなく、「なんとなく安定感」に、メディアも全面協力している。

参院選で安倍さんは、「10年後に一人当たりの国民総所得を150万増やす」とぶちあげるアドバルーンだけは大きかったが、その根拠はとなると「70年代80年代の日本人に出来たことが今の日本人に出来ないわけがない」という、感情論のアジテートしかやっていない。

そして感情論のアジテートに徹した割には、安倍が圧勝とはいえとんでもない低投票率である。安倍の経済政策とやらに国民が期待し熱狂して支持したわけですらない。むしろ円安で物価はあがるし、半信半疑なのが本音だ。だがそれでも、「なんとなく」安心感はある。

なぜなら、安倍さんは対米追従の政治をやるはずだからであり、アメリカについて行けば安心なはずではないか。

国際社会はどうもとっても厳しい、弱肉強食と陰謀の渦巻く世界らしい、ならば東洋の弱小国の日本は、難しいことを考えるよりもアメリカの言いなりになっていれば安心だ、というのが国民の本音なのではないか(…というか、そう洗脳されているわけなのであるが)。

尖閣諸島問題を国内で喧伝してあたかも中国が日本の脅威であるかのように歪曲演出することも、「アメリカの言いなりになっていれば安心」感をより強調するには極めて有効だ。

もっとも実際には、尖閣諸島問題でアメリカは日本に味方する気がまったくないことを再三繰り返している。条約上の防衛義務の範囲は尖閣諸島についても認めざるを得ないが、だからこそ軍事衝突に発展させて安保の防衛義務が発動するような事態にするな、と日本は再三言われているのだが。

アメリカは「勝手にやれ、我々には関係ない、我々を巻き込んだら許さない」と2010年以来ずっと言って来ているのが日本政府なのだが…。

おそろしく格式の低い扱いで、ただの儀礼で済まされた安倍のホワイトハウス訪問と、わざわざ形式にとらわれない親しみを演出しつつ中国側の顔を立ててオバマがワシントンからカリフォルニアに出向き、保養地で行われたカジュアルな米中首脳会談という扱いの違いを見ても、その場で尖閣諸島問題が議題になった際にアメリカ側が日本にも中国にも「両国の主権の問題には介入しない」と明言していることをとっても、アメリカには条約上の義務以上に日本に味方する気は、対米追従と引き換えに日本を保護するつもりは、まったくないのだと、誰がみても分かる。

こと中国の習近平主席にじきじき「主権問題には介入しない」と明言したということは、軍事的手段は困るが、合法手段(たとえば国際司法裁判所の裁定)で尖閣諸島を中国が手に入れることになっても、アメリカは黙認ないし歓迎する、という意味にしかならない。それに中国にも、ここで軍事力を行使する気が恐らくはまったくないし、そこになんのメリットもないことを習近平政権は百も承知している。 
中国がまだ「棚上げ」論だったはず、と言っている限りは、つまりは日本の実効支配を実は認める、という意味なので、中国に領土的野心はないと安心していられる。だが日本がその自分たちに有利な「棚上げ」論を否定してしまった今、しかも日本の極右歴史修正主義の傾向に米国が不快感・警戒感を隠してもいないわけで、このままだと中国が本当に尖閣諸島について方針を変えることはあり得る。 
安倍政権が例えば慰安婦問題で韓国と対立すればるるほど、国際司法裁判所の判断は日本に厳しく、中国有利なものになるのも、分かり切ったことだし。

あたかもアメリカが普天間の辺野古移設やオスプレイ配備を強行しているかのように日本政府がメディアを通して演出することで、「日本はアメリカ、在日米軍に逆らえない」という印象はより強くなる。

だが辺野古移設やオスプレイ配備の強行は、よくみれば防衛省がそう言っているだけで、アメリカ政府が日本に対してそれを強行しているとみなすべき事実は、探しても見つからない。

それどころか米国が(日本政府が日本のメディアに報道させているように)米国が上記の配備を強行している、つまり沖縄を海兵隊の重要な戦略拠点とみなしているのなら、尖閣諸島問題でこのような態度は、アメリカはとらないはずだ。

極論してしまえば、霞ヶ関の権威の最大の裏付けは、「日本は在日米軍に逆らえない」である。

自分たちに国民を納得させる説得力がなくとも「アメリカがそう言ってるんだし、しょうがない」と思わせればそれでいい。鳩山由紀夫がメディアに潰されたのも、このよく考えれば論理的にはまったく倒錯した雰囲気作りに、霞ヶ関が成功したからだ。


いや鳩山さん自身ですら洗脳されたのかなにを脅されたのか、その中身をまったく口にしないまま「よく勉強したら」、つまり「アメリカがそう言ってるんだし、しょうがない」で普天間基地の県外移設を撤回している。

霞ヶ関が政治家に「対米追従」を演じ続けることでこそ、霞ヶ関の権力は安泰になる。戦前の官僚制は天皇の(たぶんにフィクショナルな)権威を拠り所にしていたが、戦後レジームにおいて日本のお上は、「アメリカ」なのだ。

それが今や、かつて天皇の「大御心」を、「御み簾」のうちに推測したかのような感覚で、実際にアメリカが明言し、要求したり希望を述べていることよりも、「アメリカは本当はこう望んでいるのだろう」という日本側の思い込みで日本の政策が決まる。

ところが「アメリカは本当はこう望んでいる」と思う根拠は実際のアメリカ政府の言っていることでもなければ、政治・政策の分析でアメリカ政府が国益とみなしていると推測出来ることでもない。

イルミナティの陰謀論でも加味しなければ、そんな話になるわけないだろう、的なことばかりなのだ。

鳩山政権の末期には、ホワイトハウスも国務省もそんなことはまったく言っていないのに、日本では「アメリカは普天間基地は絶対に辺野古に移転させる気だ」という報道が日本のメディアに踊った。そのソースは例えば駐米大使がクリントン国務長官に呼び出されたという、その大使自身の発言だけだったりする。しかも国務省は大使が呼び出されたという話自体の裏取りの質問に、「なにかの間違いであろう。そんな事実はない。大使が自ら訪ねて来ただけだ」と言っていたのだ。 
よく考えて欲しい。「少なくとも県外」を主張した鳩山さんが、来日したオバマさんに「トラスト・ミー」と言った。つまりオバマさんが県外を容認していなければ、絶対にあり得ない会話ではないか。

米軍にしてみれば、沖縄の海兵隊は東アジアで使う部隊ではない。中近東で作戦展開する海兵隊の後方支援と訓練が普天間の任務であり、海兵隊が東アジアで活躍する可能性は現段階でほとんどない。補給や訓練や隊員の保養には沖縄は環境が悪くない程度のことであり(…っていうか沖縄は兵隊にとってはメチャクチャいい所なわけだが)、住民の対米感情が悪化するのなら、撤退も視野に入れなければならくなるのが普通だ。

米兵によるレイプ事件や交通事故が頻発すれば、通常の主権国家ならその国内にいる他国の駐留軍に当然悪感情が生まれ、改善しなければ「出て行け」となり、アメリカのメンツが傷つく。だから在日米軍も駐日アメリカ大使館も、その手の事件には大変に神経を尖らせている。ところが一生懸命に沖縄県民への配慮をアピールしたいアメリカ側の努力も、日本政府に無視され、メディアにもあまりのらないのである。

在日米軍も駐日アメリカ大使館つまりはアメリカ政府も、沖縄の県民感情を気にしているということを、日本政府は国民に知らせたくないのだとしか思えない。

海兵隊が沖縄から撤退となったら困るのは、重要な戦略拠点を失うアメリカではなく(というか、もはやアメリカにとって、沖縄は重要な戦略拠点ではない)、沖縄の不満を抑えられなくなる日本政府なのかも知れない。

思い返せば第一次小泉内閣の時にも、沖縄での婦女暴行事件に対して、田中眞紀子外務大臣(当時)が外務官僚の説得を無視して直接コリン・パウエル国務長官(当時)に電話、アメリカ側は即座に対応に乗り出している。

考えてみれば当たり前のことであって、米兵の犯罪でアメリカという国のイメージが悪くなることだけでも、明らかにアメリカの国益に反する。

レイプ事件ともなれば米国内でもイメージが悪過ぎる。白人、WASPがアジア系をレイプしても人種差別の国では不問にふされる、みたいな多くの日本人がアメリカに未だに持っているイメージは、現代ではまったく通用しない。人種差別がなくなったとは言わないが、今のアメリカは人種差別を無視することが道徳的に許されないことがはっきりしている社会だ。

…っていうかさ、当時の国務長官のパウエル氏も、後任のライス氏も黒人だし、今や大統領のオバマさんが黒人ですよ?

ところがこの一件は、日米両外相の信頼関係も強まりいいこと尽くめだったのに、逆に田中氏が外務省の反発を買い、更迭される理由のひとつになったのである。

これが日本の戦後レジームの権力基盤の正体なのだとしたら、戦後レジームとはまさに「アメリカ」なのだろう。だがそれはもはや現実のアメリカ合衆国政府ではない。日本人の思い込みのなかにあるアメリカでしかない。

それも日本人になんの配慮もせずに無理を強い、日本はその言いなりになるしかない強硬な、現実のアメリカ政府とは異なった、日本人がそう思い込んでいるだけのアメリカが、日本の真の支配者だということになる。

これはこれでえらく倒錯した「戦後レジーム」論である。レジームとは実態権力を担う具体的な支配体制を(たぶんに批判的なニュアンスで)指す言葉なのだが、現代の日本をなお支配する戦後レジームは、もはや実態のない、我々日本人の空想のなかにのみ存在する「超大国アメリカ」なのだ。

自分で書いていてもこんな馬鹿げたことがあり得るんだろうか、アタマがおかしいんじゃないか、と思えて来る…。