最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

8/24/2013

「鎮魂」などと安易に言うものではない


なにかの被害者や、ここ2年数ヶ月なら「被災者」、あるいは弱者(在日コリアンなど)、挙げ句にそれこそ戦争の死者まで、自己正当化に都合良く利用するのが、最近の日本のトレンドであるようだ。

被害者や弱者の味方だから、ワタシは批判されるべきではない、とはまことに安直な(しかし陳腐に倒錯しまくった)身勝手でしかない。

たとえば「拉致被害者の身になって」北朝鮮は赦せない、あるいは「被災者のため」、「被差別者の側のため」に「反レイシズム」の運動…。この8月には「追悼の邪魔」と称して公人の靖国参拝を肯定したり、首相が終戦記念日や原爆忌に発した言葉への批判封じに利用する向きまで出て来る始末で、最近この種の無責任な自己正当化が後を絶たないのは、まったく困ったものだ。

まあ確かに、死刑制度を肯定する最大の理由が「被害者(遺族)感情」なのは前からなわけで、しかし亡き妻の遺影を裁判所に持ち込むことを要求し、弁護側の安易な論理への厳しい批判など、被害者遺族の権利のために闘った人物が、死刑そのものに関しては決して単純に肯定していなかったことは、メディアでは安直な隠蔽で無視されがちだった。

むしろ被害者遺族には、ただ犯人に「極刑を望む」ことだけがメディア上の図式として要求されているようにすら見える。これならまだ、単純な図式でそう思い込みがちなのも理解できるが、実際の被害者遺族が決してそんな単純な復讐心に囚われているわけではないことに目を向けないのはいかがなものか?

光市母子殺害事件の被害者遺族・本村洋さんは、差し戻し審の死刑判決を受けた会見で確かに「死刑という残酷な判決を出すような社会」への批判を述べ、自分の妻と子供だけでなく、犯人も含めて「三人の命が奪われること」は「明らかにこの社会にとっての損失」と明言した。マスコミの、墓前にどう報告するかとの質問への答えは、拒否している。 
ただこのいずれの発言も、ほとんどのニュースではカットされていた。メディアや世間の求める「被害者のイメージ」に当てはまらないからだろう。 
挙げ句に彼が再婚したことが、メディアでスキャンダルとして叩かれる始末だ。

地下鉄サリン事件で国会議事堂前駅の助役だった夫を亡くされ、被害者遺族弁護団で活躍された高橋シズエさんは、メディアではオウムを批判させるのに好都合な人として重宝されて来た。だがシズエさんにとってなにより大事だった、夫が多くの人を救うために自らサリンの袋の処理に当って命を落とされたこと、夫が「英雄」であったことも、無神経なメディアにさんざん悲しい目に遭わされたことも、世間は無視しがちだし、自らの経験から警察の操作や刑事裁判の在り方に疑問を呈して来られていることにも、関心を持とうとしない。被害者の批判が自分達に向けられた瞬間、我々の社会は平然と、冷酷に無視する。

高橋シズエさんのブログはこちら

(いやさまざまな証言から浮かび上がる高橋さんのあの朝の行動は、道徳の教科書に載せたって構わないくらい見事なものだったのだが)

拉致被害者家族の蓮池透さんは、自らの過去への反省を込めて「私も被害者だから何を言っても許されるというある種の全能感と権力制を有してしまった時期があります。時のヒーローでしたからね」、一方で「私がこうして政権に批判的なコメントをすると『弟が帰ってこられたのは誰のおかげだ。感謝しろ』という批判がわっと寄せられます」と語る(以下は朝日新聞に7月14日に掲載された談話)。


「日本社会は被害者ファンタジーのようなものを共有していて、そこからはみ出すと排除の論理にさらされる」

東日本大震災、こと福島第一原発事故では、ところが多くの被災者がその「被害者ファンタジー」に当てはまる行動をとらなかった。とたんに「フクシマの人々のために」と言ってた人たちが「原発マネーに汚染された田舎者」と言わんばかりの態度で「理解出来ない」と罵り、東京から向かった運動関係者やそれこそ記録映画を撮る人間が、ごく一部の「自分達が理解出来る被災者」と結びつき、その人たちが「東京とつながっている」というプライドで孤立しコミュニティが断絶するリスクすら増大させている。

もはや「被災者」「被害者」のためと言いつつ、理解するための努力を惜しむような状態だ。単純に、自分達の思い込んだ図式通りの「被害者」だけを探し、それ以外は排除する。

東京の新大久保や大坂の生野区で、在日コリアンや韓国人に対する暴力的な差別言動に抗議するのは立派なことだ。だがその「カウンター」自身の言動の無神経で無自覚な差別性を指摘されたとたん、同じ人々が今度は批判的な在日コリアンを「反日だ!」と寄ってたかって叩く。 
それこそ自分たちに協力的な在日コリアンを自己正当化に利用するだけでなく、彼らに在日を叩かせるなんていう分断を彼らが作り出している状況となると、ただのひとりよがりの身勝手でしかないのに、それでも彼らは「弱者の味方なんだからワタシたちは正義だ」と信じて疑わないらしい。

たとえば被災三県で多くの被災者が「被害者として振る舞う」ことを自分達の文化的矜持の問題として自らに許さなかったのを考えれば、こういた「被害者フェティシズム」は決して日本の伝統ではない、むしろ日本では最近になって顕著になっている傾向なのだろう。

だがそれにしても、結局今年も安倍晋三首相は8.15の靖国参拝を見送らざるを得なかったわけだが、腹いせに終戦の日式典の式辞では不戦の誓いも加害責任も言及せず…で、そこに当然の批判が集まることを「鎮魂の邪魔だ」とか言って、死者たちを批判逃れのエクスキューズに利用できる神経というのは、度を越している

靖国神社が元は軍が運営する国立の、神道形式による戦死者慰霊施設であり、戦後もその祭人名簿の管理は厚生省が担っていたことなど、憲法の政教分離原則からして問題がないとは言えないものの、戦死者たちが一応は「靖国で会おう」を合い言葉にしていた(そこにどんなに複雑な隠された思いがあったにせよ、真に受けていた人間が決して多くはなかったであろうにせよ)以上は、戦後に新たな形式の戦死者追悼施設を作ってもあまり意味がなく、その点で靖国が一定の慰霊・鎮魂の役割を担っていることは否定出来ない。かつてはその種の違憲論争もあったものの、せいぜいが2~30年くらい前までのことだ。
その政教分離とか、軍国主義浸透の精神装置であったことが、今問題になっているわけではない。

問題なのはただひとつ、そこにいるべきではないA級戦犯が、合祀されてしまっている、ただそれだけだ。

まず日本国家が戦後に立ち直る過程で過去の軍国主義と侵略戦争を断罪している以上、その主要指導者として断罪された人間を、ただの慰霊ならともかく「神」として崇拝することは許されるはずがない

この至極当たり前の理屈をあえて無視することで、靖国における戦死者追悼を軍国主義の美化にすり替えようとした結果、肝心の天皇すら参拝することが出来なくなり、すると今度はまるで意地でも張るかのように首相が参拝すべきだ、という暴論が巻き起こる-あからさまに、批判的な(というか国際的な約束がある関係上、許すことができない)中国や韓国への子供じみたあてつけとして

いったいそのような政治的な人気とりのジェスチャーのどこに「追悼」があるのか怪しいものだが、ましてこの人たちは「鎮魂」の意味すら分かっていないようだ。

靖国神社は西南戦争後に、戊辰戦争から西南戦争までの政府軍側戦没者をまつった東京招魂社に由来するが、そこに祀られる死者の圧倒的多数は、昭和6年から20年までの15年戦争の戦場に倒れた者たちだ。

果たしてその死者たちが、A級戦犯とされる者たちが自分たちと一緒に祭神とされていることに納得するかどうかといえば、大いに疑わしい。

  • ろくに兵站すら確保されない「現地調達」の中国戦線で、どれだけの兵士が苦しんだのか?
  • 東南アジア各地や硫黄島、そして沖縄での玉砕はどうなる?降伏し捕虜となることを禁じた戦陣訓がなければ、そういう命令や無言の圧力がなければ死なずに済んだはずの者は多い。
  • そして言うまでもなく、特攻があった。

ちょっと挙げただけでもいくらでも出て来る、兵士達が死んだのが決して「国を守るため」ではなく、むしろ軍や政府の上層部の致命的な誤りで必要もない塗炭の苦しみに倒れ、無駄死にさせられたことは、どうするつもりなのか?

A級戦犯たちこそが、そのあまたの無駄死にの最大の責任者でもある

まして戦場で倒れたわけでもなく、元々靖国神社に祀られる資格を有しない、その場に本来いるべきでない者達が、戦死者に対してしかるべき敬意や追悼の礼がなされない唯一最大の理由になってしまっている。

なぜこの歪み切った図式そのものを誰も批判しないのか?いや自民党の古賀さんが遺族会代表だった際に、ついにたまりかねて言っていたことなのだが、メディアからも政界からも無視された。

あたかも戦死者の遺族の声なんて、結局誰も関心を持たないのだと言わんばかりである。誰が考えたって靖国神社はまずその人たちのために存続しているはずなのに

戦死者にしてみれば「俺たちは誰のせいで死んだんだ?」と恨みの声でもあげたくなって当然のことだ。いや実際に、今でも靖国に通う本当の意味を持って通い続ける遺族達や戦友達の声にならぬ声として、この声は現にある。立場上なかなか口に出せなくはあるが、ちょっと膝を割って話せば「実は」とすぐ出て来る話だ。

南京大虐殺だって慰安婦問題だって、「なかった」などと本気で口にする人(そんな嘘八百を言える人は)はいない。慰安婦がいたこと、その多くが朝鮮半島から連れて来られた「かわいそうな」女たちだったことは日本兵の常識だったし、南京だって黙りこむか、「私はその場にいなかったけれど、ああいうことが起こらなかったとは絶対に言えないよ」と言わざるを得ない。かといって、自分の戦友であり家族であった死者がその加害者であったことなぞ、軽々しく大っぴらに言えることでもない、というだけだ。
「彼らは国のためと信じていたんだ!だからその意志を尊重するのが追悼だ!」ととってつけたような強弁をしたところで、「君たちは『大本営発表』っていう言葉も知らんのか?」で一喝されて終わりだよ。

日本における「鎮魂」を勘違いされては困る。魂鎮めとは、ただの慰霊ではない口にできないさまざまな恨みや辛さの真相を抱えながら死んで行ったから、その魂を鎮める必要がある、というのが日本の伝統的な考え方だ。そして生きているうちは知り得なかった真相でも、死者となればすべて分かってしまう、という畏れが、日本人本来の信仰には不可分だった。

それを日本の戦争がどんなものだったかの真相に蓋をして、薄っぺらな美化で「特攻隊は笑顔で死んで行った」などと戯言を抜かすことが、鎮魂になぞなるはずもない。いや別に死ぬまでもなく、特攻のような無茶苦茶な戦法がとられるということは、日本は負けるのだと、当の特攻隊員ほど痛切な実感を持って生前から分かっていた人たちもいまい。

建前は志願となっているが、「国を守る」よりも、さまざまなしがらみを抱え、そうせざるを得なかった人の方が多いくらいだ。そうした語り得ぬ辛さがあることを、百も承知の上でそっとお祀りするのが「鎮魂」であって、あの世で死者が「こいつらなにも分かってねーな」とずっこけるような美化は「鎮魂」ではない。ただの死者の搾取だ

靖国神社それ自体は、はっきり言えば西洋の真似事に神道の形式をくっつけただけの、無名戦死の墓の無理矢理東洋版とでもいうような、明治の人工的な産物であり、戦死者を国威発揚に搾取利用する機関でもあった。戦死者であるだけで軍神とみなす風習は、日本には本来ない。軍神は人並みはずれて戦争に強く業績があるから神格化され(代表例が東照神君、つまり家康)、またしばしば英雄であるのに非業の死を遂げ、その恨みつらみを慰め鎮めるために軍神とされる(平将門、源義経など)。

15年間の泥沼の戦争を経て、あまたの死者、それもはっきり言えば多くの場合はただのなりゆき、しばしば上層部の無責任の糊塗のため、死なずに済んだはずの兵士まで死なせてしまった戦後に、靖国神社はその魂鎮めの機能を取り戻すべきなのが本来だ。

確かに政府や軍の上層部の無責任でなし崩しに始まり継続した戦争であり、その過程で日本はとても言い訳が許されないような行為も重ねている。祀られる戦死者は、その行為の(それぞれの兵士としては、やむにやまれぬ立場と事情によって)加害者でもあり、しかもその戦争を支持した、少なくとも止めようとしなかったのは、一般の国民すべてである。

その結果の膨大な死者達の、恨みつらみや潰えた希望、失われた人間の尊厳のすべてを背負って、靖国神社は今そこにあるのだ。日本人という民族が、その決して自らを正当化しようがない、語り得ない後ろめたさを抱えた場所として、「神」として大人しくしてもらう以外に、戦後に日本が生きていくための選択の余地がなかった、その語られざる歴史の総体の表象として。

いや戦死者が体験したこと、自らやったこと、これは日本の戦争に限らず、どんな戦争でも実は決して英雄気取りで威張れるものではない。 
それ以前の戦争ならいざ知らず、第二次大戦とはまさにそういう血みどろの戦争だった。戦勝国の側、たとえばアメリカでも、硫黄島であるとかDデイの激戦の生き残りたちは、決して自分達を「英雄」とは呼ばない。

そのために「神」という信仰の形式を用い、「鎮魂」することは、ひとつの文化であろう-語り得ぬ記憶を、それでも後代に我々が決して忘れぬ限りにおいては。

それが逆に、現代の政治の身勝手が、この神社を死者たちがどうやったって安らかになりようがない場にしてしまった。だいたい自分たちが死ぬことになった最大の責任者であり、その自分たちを非人道行為、常識ではとても考えられない残虐さに追い込むよう命じた人間が共に祀られるだけでも異常だ。A級戦犯とされた戦争の指導者たちは、まずこの場に祀られた死者達に許しを請うべき人たちでもあるのだ。

それを安易に現世の、たとえば政権与党の都合とか、たかが一総理大臣のわがままで、口に出来ない記憶を踏みにじり、鎮魂を蔑ろにするような真似こそ、決して許されることではない。

果たして彼らをそこに(しかも秘密裏に、ドサクサ紛れで)合祀した戦後の靖国神社の運営者たちや、共謀した厚生省、裏で動いたであろう自民党右派の人々は、日本の信仰の古式に乗っ取ってでも、せめてその場で「神」として祀っていたはずの戦死者達にお伺いをたてる儀式ぐらいはやったのだろうか?「祭神」とか言いつつ、自分たちの都合で適当に無視しただけではないか。


さらに言えば、全員が全員ではないにせよ(松岡洋右とかどう見ても精神に異常を来していたし)、東条英機自身が終戦時に自殺未遂していることもよく知られているように、自分たちの失敗の責任を自分たちの一身に背負うことで戦後に日本が生きて行けるようにすることが、彼らの最後の責任のとり方だったのだ。 
今、靖国神社に合祀された彼らを首相であるとかが崇拝することは、その彼ら自身の最後の遺志をも踏みにじることでしかない。


まして「死んだら許すのが日本の文化」とか安易でふざけたでっち上げで誤摩化すに至っては、罰が当たっても知らないよ。

まずそんな「文化」、日本にはない。犯罪者でも戦争の最大の責任者でも、お線香のひとつぐらい手向け「あなた方にもいろいろ事情はあったんだろうが」と手を合わせるくらいなら、誰も怒りはしない。ただし彼らを靖国で「神」として崇拝対象にすることは、対外的な日本の約束を踏みにじる国辱行為であるだけではない。日本民族の歴史に対する冒涜だ

死者が黙っているのをいいことに、自分たちの都合で歴史を歪曲し、文化を無視し、勝手に利用しておいて「鎮魂」などと言うことは、戦前戦中の日本を美化する以上に、ただ自分達の無神経で無知で不勉強で無理解で無反省な身勝手を、美化することにしかなっていない。そんな独りよがりは度を越して醜悪だ。

(…っていうかね、みだりに死者だの被害者だのを持ち出すってね、みなさん下品過ぎるんです。自分を正しいと思うなら、それは自分の論理で、自分の責任でやりなさい)

5 件のコメント:

  1. 匿名8/26/2013

    大拍手だな! mabo

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  2. 匿名8/26/2013

    素晴らしいです

    実際、特攻やガ島、その他明らかに軍部の都合で死ななくてもいいのに死んでいった方々は、死んだ後で戦争の意味を知ってどう思ったでしょうか
    軍の上層部の連中と合祀されるなんて、まっぴらゴメンなはずです

    「一億総玉砕」
    この言葉が全てを物語ってます
    大東亜戦争で日本人を本気で皆殺しにしようとしていたのは、実はアメリカ人では無く日本軍だったのです

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    1. 「大東亜戦争で日本人を本気で皆殺しにしようとしていたのは、実はアメリカ人では無く日本軍だったのです」

      その通りだと思います。文字通り自虐的国家観です、この国の「保守」という人たちは。

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  3. A級戦犯たちこそが、そのあまたの無駄死にの最大の責任者でもある。 仰る通り。私もそう思います。

    弱者(在日コリアン)はちょっと違うような。。

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    1. ???在日コリアンが「弱者」なんて話どこで書いてます?

      別に弱者でもなんでこないけど?なんで朝鮮人が「弱く」なきゃ気に入らないんですか?

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