最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

2/03/2018

貴乃花にいったいなんの「改革」を期待するの?



さっぱり理解できないのだが、今週の最大の国内ニュースは相撲協会の理事選挙と貴乃花が出馬して落選したことらしい。

通常国会が始まっていて茂木大臣の稚拙で杜撰すぎる「線香と衆院手帳」公職選挙法違反と、豪快過ぎる法の抜け道へ理屈の言い訳が炸裂し(加計学園からの迂回献金の手口を自白した上で「違法じゃない」と言い張った下村博文よりもっと凄い)、森友学園スキャンダルでは先代の理財局長の国会答弁がまるで虚偽だったことを財務省の新しい理財局長が告白してしまい(やっぱり記録は残ってたじゃんか)、経産省のスパコン補助金詐欺への安倍政権の関与疑惑もあり、その詐欺企業の顧問に居座っている安倍オトモダチ・ジャーナリスト山口敬之の準強姦事件を政権が警察にもみ消させた疑惑も質問され、首相が答弁でしどろもどろになってヒステリーを起こしてあり得ないデタラメを言い張ったというのに、TV報道でニュースになったのはほぼ、茂木の線香の話だけだ。

だいたい、この山口敬之の準強姦事件(というか逮捕状の名目が準強姦なだけで捜査当局の狙いは睡眠薬レイプの極めて悪質な強姦)に至っては被害者の伊藤詩織さんが記者会見まで開き著書で訴えていても、事件自体がまったく電波に乗って来ていない。 
アメリカではセクハラ被害を受けた女性達が #MeToo と声を上げたことが大きなうねりになっていて、映画賞の授賞式でも連帯が表明された、というニュースは報道しているのに、である。

家計消費の動向でエンゲル係数が上がっている、という国会での野党の指摘に対する、総理大臣の「食生活の変化」という珍答弁だけでも、第一次安倍政権や麻生政権の時代だったらワイドショーが大騒ぎになっていたレベルの失言だが、ニュースがひたすら相撲協会の理事選一色なのは、なんとも奇妙だ。

表面の事象だけで見ても、スピン・コントロール報道としか見えない。

犯罪捜査の常道ではある行為や不自然な事態の発生でもっとも利益を得るのは誰かを元に被疑者の絞り込みを進めるものだが、ちなみに貴乃花側に首相官邸が働きかけられる人脈パイプは極右カルト人脈まで含めていろいろあるのも当然で、また首相官邸がメディアに裏でも表でもさまざまな圧力を掛け続けているのが現政権の特徴であることも一応指摘しておく。

いやなにが不自然といって、はっきり言ってほとんどの国民になんの関係もない相撲協会の理事選挙がいかにも大問題かのように誇張されるのは不思議だし、貴乃花が負けるのが分かっていながら「投票にしなければいけない」とか言って立候補したのも、この話題を出来る限り大きくして、いわば「ワイドショー独占」状態を作り出すため(イコール国会のことが極力報道されないようにするため)じゃないか、とすら思えて来る。

いやなにせ、貴乃花がなぜ出馬したのか、動機がさっぱり理解不能な上に、その理解不能さをずいぶんとバイアスのかかった報道姿勢がうやむやに誤摩化しているのも異常だ。

客観的な事実だけ見れば、貴乃花は自分がリーダー格の一門の親方衆が一生懸命「馬鹿なことは止めろ」と制止しているのに、みんなは一門で立てることに決めて一本化した候補の阿武松親方に投票すればいいと言い放って「孤高」を気取った身勝手を貫き、投票日の前日にも一門の親方衆が3時間もかけて立候補の取り下げを説得しようとしても頑として耳を貸さず、そこまで我を張るからにはなにか勝算の腹案でもあったのかと思えば、逆に一門の内部にすらすっかり愛想をつかされたようで、阿武松にも投票しなかった親方が2人も出たという、あまりに無様な結果だった。

なんとか当選した阿武松が貴乃花を「友人であり仲間だから、一生懸命仕事をさせて頂く」という妙に奥歯にモノでも挟まって前後が文脈的につながっていない不思議なコメントが、なんとも意味深に響く。

ところがもっと驚くことがある。

日馬富士の暴行事件の発覚以来、かわいい弟子のはずの貴ノ岩が被害者なのに自分が勝手に被害者ぶって、肝心の負傷した弟子はまったくないがしろでロクに病院にすら行かせないでおいて「マスコミが殺到していて行けない」と言い訳にならない言い訳をしてみたり(相撲の親方なら弟子の身体がいちばん心配で、治療が最優先のはず)、貴ノ岩の事情聴取にも応じず(真相を明らかにしたいならすぐに応じて、聴取に自分も立ち会えばよかったはず)、もうひとりの愛弟子のはずの貴景勝のめでたい三役昇進会見はなんと親方がサボタージュして1人で会見をやらせ、表向きはひたすらマスコミ相手にダンマリを決め込むかと思えば、裏ではこの騒動の報道をなんとか長引かせようとあの手この手の姑息なやり方でリーク情報を小出しにしてひたすら混乱を助長させ…奇行であるだけでなくおよそ相撲の親方としての職業倫理に反するような態度しかとって来なかった貴乃花が、理事選で勝つだろうし勝つべきだと思っていたマスコミ関係者や街頭インタビユーを受けた一般市民が大勢いる。むしろそっちの方が圧倒多数派の貴乃花全面支持で、この結果を嘆いたり驚いたり相撲協会の悪口に熱中しているのだ。

その一方で、貴乃花の無責任極まりない奇行にひたすら振り回されながらも、現状の相撲協会として出来る限りの良識的な対応はやって来て(むろん問題がないわけではないが、後述するようなこの団体の特異な性格からすれば、ここまでやるだけでも相当に大変だ)、協会というか相撲界の体質を少しでも変えようと地道に努力して来た八角親方が、ひたすら悪者扱いなのも不気味だ。

だいたい理事長として対応については最高責任者にはなる八角でも、一連の不祥事についてまったく当事者ではない。いやそもそも、「相撲協会で不祥事が相次ぎ」ではないだろうに。不祥事が起こり続けているのは個々の力士と立行司、そのそれぞれが所属している部屋であり、つまり「相撲界」の不祥事だ。

「協会の隠蔽体質」だから貴乃花を支持? いったいなにを言っているのだろう。

日馬富士の暴行事件と、先月発覚した2014年に春日野部屋で起きていた深刻な暴行傷害事件、いずれも公表が遅れた最大の原因であり、つまり隠蔽の責任者というか主犯は、どう考えても貴乃花だ。

春日野部屋で2014年に起きていた暴行傷害事件(すでに加害者は有罪判決を受け引退)も、春日野親方は協会に報告はしていた。では隠蔽したのは誰か? 当時は危機管理部長として担当の最大の責任者だった貴乃花であり、理事長だった北の湖だ。

ちなみに当時、その貴乃花とタッグを組んでいた危機管理委員会担当の顧問(春日野が直接報告した相手)は、裏金と横領で協会を解任され、訴訟も起こされているが、北の湖に取り入ってずいぶん協会のダークサイドを牛耳っていたらしいこの人物を、八角が解任しようとしたらた猛反対したのが貴乃花だ。

2017年10月26日深夜に起きたという、日馬富士が貴ノ岩を殴って怪我をさせた事件が、11月に入っての九州場所3日目まで隠蔽されて来たのは、巡業部長として現場の直接責任者だった貴乃花がちゃんと対応せず、協会への報告も怠って来たからだ。報告を受けておらず事件を把握していない協会執行部が対応できるはずがない。

「弟子が被害者」と言うのならなおのこと、協会への報告を怠って鳥取県警に被害届を出しただけというのも不可解だが(そんなに弟子が傷害を受けたのが腹立たしいなら、協会にも厳正な処分を求めるのが筋、それを黙っているだけでなく噓をついて隠しておいて、なにをやってるんだ?)、貴乃花から報告を受けていない協会側が事件を隠すもなにも、鳥取県警も公表の判断をしていなかった以上、貴乃花以外にマスコミに訴えて事件を公的に明らかにできた立場の人間はいない。それをやらなかった、つまり何重もの意味でこの事件を隠蔽したのは貴乃花だ。

「貴乃花親方は協会に隠蔽されるのを恐れた」とか、いったいどういう荒唐無稽な憶測・忖度の貴乃花美化なのか? まず報告していないでおいて「協会が隠蔽」とは意味不明だが(隠蔽する事実をそもそも把握していない)、もし協会が隠蔽しようとしたのなら、貴乃花本人が協会に無断でマスコミに言えばよかったことだろうに、三週間も経ってから関係者を通してスポーツ紙にリークしたことだけ。最初からやり方がいかにも姑息で不正直だった。

マスコミの皆さんはまったく滑稽だ。個々の不祥事それ自体は「相撲協会の体質」の問題ではなく、事件を起こした力士なり行司の個々人であり、それぞれが所属する部屋の体質の問題であって、協会の体質ではなく相撲界の体質であり、日馬富士事件をめぐっては人種差別の排外主義も露骨であり、それを「伝統」だ「日本の文化」だと言って守りたがっているのが貴乃花だ。

協会の体質で問題なのは、実際の権力はそれぞれの部屋や一門が握り、その部屋の問題に協会が厳しい態度で臨めるだけガバナンスが行き届いていない、執行部にそんな権限・権力がないことだ。

既存の相撲界のこうした体質について、八角体制ではいろいろ頑張ってはいてもまだまだ監督不行き届きの部分が多過ぎる(というか、執行部にはそこまで口出しができない)のは確かだが、その監督不行き届きの最たるものが「貴乃花の造反」だろうに。

そんななかでも、たとえば宮城野部屋所属の立行司のセクハラ問題は、報告があってすぐにマスコミに公表したのが八角の執行部ではないか。

いったいどこに「隠蔽体質」があるのかと言えば、各部屋はごく自然な反応として、その内部の事件や所属する人間の起こした問題は出来る限り隠そうとする。

力士も行司も相撲協会に雇用されているというのは形ばかりのことで実際には各部屋にそれぞれが所属し、部屋と親方が一門を形成し、その上にほとんど形ばかりで乗っかっているのが「相撲協会」でしかないのが、公益法人化してもほとんど変わっていない実態だ。しかも貴乃花が一生懸命に煽動してマスコミがそこに無節操に乗っかって来たように、部屋や一門どうしでの主導権争い・勢力争いの派閥抗争的なものがあれば、協会として各部屋の内情に口を出すことはますますタブーのようになって行く。

こうしたそれぞれの一門や部屋の事情に忖度することよりも、情報公開と透明化をなんとか押し通す姿勢を貫こうとしているのは、このセクハラの件を見ても明らかに八角の執行部だ。日馬富士事件でも真相を協会が把握するのには貴ノ岩の事情聴取が当然必要なのに、妨害し続けたのも貴乃花だ。

春日野部屋の障害事件は北の湖体制下で、貴乃花が北の湖と共に不祥事の隠蔽に尽力して来ていたし、それも彼の場合は部屋や一門の体面というより、相撲界全体を独自の精神論で美化したいがためという、更なる動機がある。

日馬富士の暴行事件を何週間も経ってからマスコミにリークできた者は貴乃花とその周辺以外にはいないが、この時も当初の報道はわざと高校の恩師との食事会ではなく「モンゴル会」という誤った情報で報じられ、意図的に日馬富士や白鵬らモンゴル勢を貶めようという意図がミエミエだった。一方では巡業部長の貴乃花がことあるごとにモンゴル出身力士を仲間はずれ扱いして来たこともそれなりに有名な話だ。


相撲協会は別に隠していないからスポーツ紙には出るが、テレビや一般報道はひたすらもみ消しというか無視に走って来た。 
巡業の移動バスが貴乃花の命令で、白鵬を置き去りに出発してしまったといういかにも子供っぽい珍事は、この事件の発覚のだいぶまえにスポーツ紙などでは報道されていたが、テレビがこの事件に触れるとなぜか白鵬が悪者にされている。 
普通の先進国なら、逆に「人種差別だ」と非難囂々になっておかしくない一件だった。


だいたい、部屋こそが相撲界のなかの権力の主体で、協会の実態は部屋と一門の集合体、執行部はその微妙なバランスの上に乗っかっているだけ、というこの業界の体質をあまりにあからさまに象徴しているのが、マスコミの皆さんが大騒ぎして票読み分析に熱中して来た「理事選挙」ではないか。

まさにあなた方が報道している通りなら、一門ごとに投票先が予め決まっている出来レースの形だけの「選挙」でしかないわけで、そこで貴乃花が立候補したら投票になるから貴乃花は偉いって? そういうのを普通の世間では「ガス抜きの誤摩化し」という。

しかもそうした一門の内部でさえ話し合いや合意形成がちゃんと出来ずにリーダー格の親方の独裁的な専横というか身勝手がもっともまかり通っているのが、他ならぬ貴乃花一門だ。

公益法人化した相撲協会ではすべての力士は協会が雇用する形にし、各部屋と協会が力士の養成契約を結ぶことで少しでも透明性を確保し、部屋の内部の暴力沙汰などで力士の権利を守る体制を作ろうとして来てはいた。ところがその契約を拒否し続けて来たのが貴乃花部屋だ。

弟子には他の部屋との交流を禁じ、自分への帰属意識を押し付け続けている。個々の部屋が協会のガバナンスを拒否していては、部屋の内部で親方が独善的な独裁を敷くことも避けられない。そうした体質が、暴力事件などの不祥事の温床になって来たのが相撲界の問題で、貴乃花部屋こそがそうした歪んだ体質の問題がもっとも極端な部屋ではないか。

いったいどんな「改革」を、こんな貴乃花に期待しているのだろう?

投票日の前日に貴乃花がブログを更新すると、そこに「改革にかける思い」を勝手に忖度して想像たくましくするのも結構だが、あんな見え透いた美辞麗句でなにが言いたいのか分からない薄っぺらなものを、よくもまあ「所信表明」扱いできるものだ。

貴乃花はそこで「公益法人は誰のためなのか」と思わせぶりに言っているが、貴乃花はなぜはっきりと、自分はなにが「公益」だと思っているのかを言わないのだろう?

部外者ではなく相撲の世界の内部にいる親方衆や力士の誰が、今さら貴乃花のいう「改革」や、その主張する「日本文化」としての「相撲」、「角道」とやらの精神論を本気で信じられるかといえば、いかに伝説の元・平成最強横綱(朝青龍と白鵬に抜かれているが)で、力士としてはほとんどカミのような存在だった過去という強烈なカリスマ性があっても、今や相当に難しいだろう。

貴乃花がこれまで、審判部長や巡業部長という、部屋の利害を超えて透明性を徹底させ、全力士を公平に扱わなければいけない要職にありながら、部屋や一門どうしの確執ですらなく自分の好き嫌いだけでモンゴル出身力士を露骨に冷遇して来たのも、そのモンゴル出身力士をそれこそ我が子のように大事にして来た師匠の親方たちには、ただの人種差別にしか見えまい。

そんなレイシズム丸出しで嫌悪して来たモンゴル人横綱の1人、日馬富士を攻撃できる土俵外乱闘の好機と見れば、口先だけ「親方にとって弟子は我が子同然」と主張しながら、その肝心の「我が子同然」の弟子もモンゴル人だから病院にも行かせず、力士としての将来を潰そうとして来たのも貴乃花だし、被害者として協会にしっかり自分の被害を証言することも邪魔し続けた。

自分がさんざんマスコミの好奇心を煽っておきながら、そのマスコミを言い訳に身体こそがいちばん大事なはずの弟子(と言って、貴乃花にとってはしょせん「外国人は取らない」方針を両親が亡くなっているみなしごだからおめこぼし対象にしただけ)を病院にも行かせず、窓を目張りしたプレハブの宿舎の薄暗く不健康な環境に軟禁状態(当然、その前にはマスコミが殺到して常時待機になる)にして精神的にも追い詰めて、番付降格どころか処罰対象になるのは分かっているのに診断書すら出さなかった。

これでは貴ノ岩に親心を感じて守ろうとしているのが協会執行部で、貴乃花が「親方は親も同然」というのなら、まるでDV児童虐待加害者の鬼親ではないか。


もともと「相撲は日本の文化」の「角道」だから外国人力士は取らない、と公言していたのが貴乃花で、貴ノ岩は両親が亡くなっているので例外というのも「親心」の「温情」というより、モンゴルに家族がいないからいわば「日本人化」の洗脳ができると思い込んでいるのも貴乃花だ。貴ノ岩が日本史…というか戦国時代の上杉謙信(ナゼか貴乃花の憧れ)について一生懸命に貴景勝に教わっている姿も目撃されている。 
それは日本の歴史も勉強はしてもらった方がいいとはいえ、なんで戦国時代なんだか。大相撲は江戸時代の発祥だろうに。 
…というか、貴乃花部屋の「愛弟子」になるのには自分のアイデンティティである「モンゴル」を否定しなきゃいけないって、それ普通に心理学や精神医学では「虐待」、政治学や社会学では「人種差別」「植民地主義」と言います。


普通に相撲の伝統をほどほどに守って来た普通の親方たちからすれば、「ちょっとついていけない」と思うであろうことはまだまだある。

まず相撲部屋は確かに家族同然、弟子は親方にとって我が子同然なのが、現代の日本ではいささか時代錯誤で若い子たちには敬遠されるであろう相撲の伝統だ。それでもだからこそ、親方とその妻の「おかみさん」は部屋で弟子達と同居して、10代の入門したての新弟子にとって文字通り親代わりにならなければいけないはずだ。

しかし貴乃花部屋は、そうではない。父の二子山親方(先代貴乃花)から引き継いだ中野区の自宅兼部屋はなぜか引き払い、自分とアナウンサー出身の美人妻は品川区のマンションでセレブ生活を満喫し、江東区の貴乃花部屋はいかにもみすぼらしい。

十両にあがった新弟子が会見で、喜びのあまりに思わず漏らしてしまったのだが、昇進が決まったときに親方がわざわざ「部屋に来て報せてくれた」のが嬉しかったのだという。なんなんだそれは?そんな相撲部屋があっていいはずがない。

だいたい親方の名跡として「貴乃花親方」を新設し、部屋も「貴乃花部屋」で所属力士の四股名に自分の「貴」を通り字にした独特の、親方の自意識過剰な自己ブランド化アピールが露骨なのも、およそ相撲の、そして日本の伝統に反する。まず父の部屋を引き継いだのだから「藤島」か、父が叔父から継いだ「二子山」の由緒ある名を継ぐのが「日本の文化」や「伝統」を守る普通の姿勢のはずだし、自分の名前を弟子に押し付けるか普通?

ここで逆に気付くのだが、マスコミや一般社会の妙な貴乃花びいきは、彼が美男の人気横綱だった時の「貴乃花」をそのまま名乗っていることも大きい。敵役にされている八角親方が、昭和後期の大横綱・千代の富士の弟弟子で、腰痛とヒザの怪我に苦しみながら実直に頑張って、派手なスター性はなくともそれなりに世間の共感を得た横綱・北勝海だったことは、この一連の相撲協会バッシング報道に熱中しているマスコミ関係者の大多数の頭の中ではまったくつながっていないのだろう。

対照的にその人々の頭の中で、貴乃花親方は相変わらず即イコール、あの美しかった平成を代表する横綱・貴乃花のままだ。

逆に言えば現役当時は横綱で相撲界の表の主役でも、だからこそ引退して親方になれば、名前を変えて裏方に廻って現役力士を支えるというのが相撲界の伝統なのに、貴乃花はそこにまったく反している。

貴乃花は例のブログ更新で「誰のための公益法人なのか」と偉そうに中身のないことを言っているが、日本の文化と伝統の常識で考えれば、相撲取りとその相撲を楽しむお客さん(=国民)のために決まっている。だが貴乃花の行動や言動を見ていれば、彼にはまったくその意識がない。現役の力士を支えるのではなく、平成前半の大横綱で国民的スターだった自分こそが主役という意識があまりにも露骨だ。


そんな貴乃花を身近に、同じ相撲の業界のなかで見ていれば、今回の一連の不祥事における行動は、いかにかつての希代の天才力士で大横綱で現役時代を知っている元力士(つまり多くの親方たち)にとっては神のようなカリスマでも、さすがにもうついて行けないレベルの異常な自意識過剰に見えて来るだろう。


一般の街頭インタビューでも、まともなことを言う人もたまにはいた。「改革、改革というけれどなにをどう改革したいのか分からないから信用できない」とはまさにその通りで、改革の中身についてなにも言っていない貴乃花に「相撲界を改革してくれる」を勝手に期待する方がおかしい。

いやブログに書いているじゃないか、と言い張るシンパもいるかも知れないが、「公益法人」だから「公益」と繰り返しただけで、その「公益」がなんなのかがさっぱり分からないのがあの文章だ。そんなあやふやで意味不明な話で「改革」とか言われても、信用する方がおかしい。

しかも貴乃花にとっての「公益」がなんなのかは、これまでの彼の言動からすれば簡単に分かることだ。なのにマスコミがそこには言及せずに、妙な「改革」の期待を貴乃花に寄せ続けるよう視聴者を煽っているのは、この人達もひどい二枚舌の隠蔽体質の噓つきなのではないかと疑いたくなる。

いやだって、貴乃花にとっての相撲の「公益」性とは、極右カルトの「國體(国体)」でしょ?

九州場所の打ち上げで、貴乃花が「國體を支えて行く大相撲」と発言したことなどは、マスコミでも音声を入手して報道していたではないか。ワイドショーによっては貴ノ花が明治的国粋主義の(教育勅語の相撲版めいた)「角道の精華」を信奉していると報じていた番組もあるし、「相撲は神事」だとカルト的な信仰告白なら貴乃花が随所でしていることはマスコミだって十分に承知の上だろうに、なにを誤摩化しているのだろう?

ちなみにこんな文面なんだそうで、昔は新弟子の相撲教習所で暗唱させてたんだそうな。

技を磨き心を練る 春又秋 
文を学び武を振い 両つ(ふたつ)ながら兼ね修む 
阿吽の呼吸 君知るや否や 
角道の精華 八州に輝く

まあ読んで字の如くの内容というか、まったくたいした内容はないというか「君知るや否や」辺りはさっぱり意味不明だし、「八州」は一応は日本列島を意味して使われることもあったがずいぶん旧い表現で、大相撲が成立した江戸時代なら「八州」はふつう、関八州(武蔵、相模、上野、下野、安房、上総、下総、常陸の八つの国)を指す。

まあ要するに「強いだけじゃダメだよ」的な精神論はいいのだが「文武両道」って相撲取りに「武」はいかにも場違い、というくらいの感想しか浮かばず、まあこれ自体はかなりどうでもいい薄っぺらで月並みなお説教に過ぎない。

ただそれが、貴乃花はこれを受けて、こんなことまでメールに書いてるんですよ? それも安倍さんの極右人脈でもある暴力団関係者の、元は真言宗らしいがカルト単一宗派の自称「法主」宛に。

国家安泰を目指す角界でなくてはならず“角道の精華”陛下のお言葉をこの胸に国体を担う団体として組織の役割を明確にして参ります。 
角道の精華とは、入門してから半年間相撲教習所で学びますが力士学徒の教室の上に掲げられております陛下からの賜りしの訓です、力と美しさそれに素手と素足と己と闘う術を錬磨し国士として力人として陛下の御守護をいたすこと力士そこに天命ありと心得ております。
AERAの記事より抜粋) 

あちこち日本語が文法的におかしいのはともかく、まずどうも「“角道の精華”陛下のお言葉を」というのはこれが相撲界が明治天皇から賜った言葉だと言いたいらしいが(それでその貴乃花的読解が教育勅語&軍人勅諭めいているのだろうが)、そんな根拠は見当たらないし、まあたぶん噓でしょう。

それにこれを読んだってどこにも相撲の力士に「陛下のご守護」なんて頼んるように読めませんし誰も頼んでません。それは伝統的に武士の仕事だっていう。

国芳 頼光大江山入之図 嘉永6(1853)年
国芳 大物浦平家の亡霊 嘉永3(1851)年

日本の相撲はこと江戸時代に興行化されてからは世界的にもかなり特殊な格闘技で、まったく戦闘訓練とはかけ離れています。取り組む力士同士と行司の3者、さらに理想としては観客まで含めて息が合わなければ試合が始まらないなんていうのは、およそ「敵を倒す」競技ではありません。

北斎 鬼面山谷五郎 出羽海金蔵 江戸時代18世紀
北斎漫画より

これは「和」つまり協調性と共感能力が前提で神を楽しませることを言い訳に人間が楽しみコミュニティの結束を強める機能を持つ、いかにも日本的な「お祭り」です。

国貞(三代豊国)一陽来復酉の市 万延元(1860)年
役者に大工に芸者など当代一の人気者たちの中には力士も

唯物論的な歴史学の見地では相撲は見せ物興行以外のなにものでもないが、文化人類学と宗教学から言えば、ある意味では貴乃花の言うように「相撲は神事」である面は確かにあり、だからこそ「横綱は神」にも見えるのは、分からないではない。

岩手県・黒石寺蘇民祭(無形民俗文化財)

ただしより厳密には、日本のカミ信仰で「神事」というのは要するにお祭りであって、大相撲はその典型だ。

勝川春好 江戸三幅対 谷風 六代目市川団十郎 扇屋花扇

祭礼だからこそ “異形” の者たち(つまり日常から逸脱した姿や身体を持つ存在)に力士がなるのであり、こう言うと現代の価値観では差別的に思われかねないが、それこそが本来の日本の伝統でもあった。


キリスト教世界では人間は神の創造物なのでもっとも均整の取れた標準的かつ理想的な肉体が善とされ(まあここは、元々はキリスト教よりも実はギリシャ思想)、だから奇形や異形は悪魔にもつながる「悪」なのだが、もともと「悪魔」などの「悪」の宗教表象の概念がない日本では、異形であることはそれだけ神に近い、ないし神を宿す可能性を持つ神聖なものとみなすのが精神的な伝統だった。

二代鳥居清倍 惶弓勢源氏 目黒不動明王 市川海老蔵 市川團十郎 中村傳九良 18世紀

相撲がその宗教的・文化的な文脈にあるという意味では確かに「神事」というか「お祭り」であり、その意味では大相撲と並行して江戸時代に発達した歌舞伎にも通じる。

言い換えれば「横綱が神」というのは、団十郎に正月の舞台で睨まれると厄払いで一年を健康で暮らせる、というような意味でだ。

国貞 七代目市川団十郎の文覚と五代目松本幸四郎の不動明王 19世紀

「横綱=神」なのではなく、横綱は神が宿る特別な肉体で、だから「横綱」という名称の語源の通り、その腹には大きなしめ縄が巻かれる。

上野東照宮 樹齢600年の楠のご神木

貴乃花が上杉謙信に憧れて自分を毘沙門天の化身と思い込んでいるのは、宗教学や文化人類学の見地から見ても、さすがにちょっとイタい勘違いでしかなく(ちなみに歴史学的に言えば、上杉謙信は時代錯誤な権威主義者の相当にイタい戦国武将で、天下に覇を唱えるのに失敗したのは人望を得られない独りよがりな権威主義人格の自業自得)、横綱の腹にしめ縄が巻かれるところのカミというのは、毘沙門天(四天王の多聞天)のような仏教の護法神というよりは、日本古来の「ご神木」的な自然神だろう。

国貞 八代目市川団十郎の揚巻の助六 万延元(1860)年
正月にこの目で睨まれると一年を健康に暮らせるらしい

こうした本来の精神的伝統は、明治以降の近代化つまりは西洋化・西洋模倣のなかで敵視され蔑視されるようになり、日本的で東洋的なものを日本人自身が「野蛮」「迷信」として排除されて来た。相撲興行の専門館を建てるときに「国技館」という名称を思いついたのも、相撲が下賎で野蛮な見せ物で外国人に見られたら恥ずかしい的な意識が蔓延していたのをなんとか払拭するためだった。

国貞 五代目市川団十郎の景清 文久3(1863)年

で、「陛下の御守護」ですか…。いやまあ、たとえば崩御した天皇の遺骸に触れたり運んだりできるのが八瀬童子だけという伝統みたいな意味では、その息を合わせたぶつかり合い自体が祭礼となる宗教的な異形の肉体である力士にも、天皇に関わる霊的な意味性を持たせられないこともないかも知れないが…。


つまり…これまた差別になりかねないので非常に言いにくいことではあるが、八瀬童子は最澄が比叡山を開く際に従った鬼の子孫と伝承され、そういう「先祖は人間外(人間以上)」の由来から、江戸時代の身分制度ではもちろん、いわゆる「えた・ひにん」階級である。 
相撲の力士ももちろん、歌舞伎役者や人形浄瑠璃と同様、江戸時代なら「えた・ひにん」だったのは、こうした興行が非日常(ハレ)の、人間的日常からの逸脱である祭礼の意味を持っていたからだ。 
いや「穢多(えた)」の呼称はともかく「非人」は必ずしも悪い意味では本来なく、八瀬童子が「鬼の子孫」であるように、人間を超えている規格外という意味で「人でない」、神聖で霊的な特殊性を示す意味もあり、この階級が墓守や葬儀などの祭礼と死に関わる職種を独占していたのも、そうした天皇にもつながる特殊な宗教性があってのことでもあった。  
いわばその「元祖」とも言える平安時代の有名な陰陽師でその後神格化・伝説化された安倍晴明も、母は狐の化身だったという伝承がある。 
相阿弥(伝)「竜吟庭」大徳寺塔頭・龍源院 方丈
室町時代 永正14(1517)年 北面庭園 
江戸時代の「ひにん」は系譜的には少なくともこうした平安時代にさかのぼり、室町時代なら「同朋衆」で足利将軍の側近だった。足利義満が寵愛した観阿弥・世阿弥親子が能楽を作り出し、禅と書院造り、茶の湯など、今につながる日本文化の美学の起源といえる義政を支えたのが相阿弥だ。
相阿弥 瀟湘八景図 大徳寺大仙院 室町時代16世紀
「被差別部落」として単なる賤民扱いされるようになったのは、明治以降の近代のことだ。 
能楽は寺社のお祭りで奉納上演された猿楽の発展形で主人公のシテは非業の死を遂げた亡霊で、こうした「死者の語る真相」という演劇形式は後の浄瑠璃や歌舞伎にも引き継がれている。 
伝・相阿弥作庭 京都・青蓮院門跡の庭
「門跡」とつく寺院は親王・内親王が住職を務めた寺
相阿弥が水墨画だけでなく造園や建築でも義政を支えられたのは、土地の特性や地霊に関する特殊な能力があったとも考えられる。 
中世なら「阿弥陀仏」の「阿弥」という称号で呼ばれ、近世なら「大夫」、必ずしも蔑視され低く見られていただけではない。
神田明神の別院である平将門首塚(東京・大手町)
鎌倉時代の徳治2(1307)年に将門の怨霊は「蓮阿弥陀仏」として神格化された


「横綱」に綱、つまりしめ縄が巻かれるのは土俵で取り組む時以外の場でその腹の中に宿るカミが解放されては大変なことになるからだ。

黒石寺 蘇民祭

貴乃花がそういう歴史的な本質まで分かって力士を天皇に関わる特別な存在だと思っているのなら「陛下を御守護」も分からんではないが、それでも、いかに「戦国乱世」で実権を失った足利将軍家の復興を目指したのが上杉謙信とはいえ、武家に憧れて毘沙門天気取りはなんなんだ、ということにはなる。

上杉謙信こと長尾景虎 山形県米沢市上杉神社蔵
元は関東管領・上杉氏の家臣の家系で、その主家が滅亡すると上杉を
名乗ることを室町幕府に認められ、当時は北条家が支配していた関八
州に侵攻。一時は多くの国衆を従え、幕府により関東管領に任命され、
鶴岡八幡宮で就任式を行う。だが帰りの行列で協力者だった国衆にい
かにも傲慢で非礼な態度を取って一気に支持を失い、越後に撤退

貴乃花が「陛下を御守護」というのはどういう意味で守るつもりなのかもさっぱり分からないし、本人もまるであやふやなのだろうが、「カミが腹に宿る肉体」というかお祭り系「異形」身体の力士が「守護」できるとしたら、今でも成田山新勝寺の節分会なら相撲の横綱と歌舞伎の団十郎(団十郎がいないときには海老蔵、この家の屋号「成田屋」は新勝寺にちなむ)が豆をまいて「福はうち」と声を張り上げるような意味での「御守護」であり、そこで「陛下を」が出て来るのもなんともおかしい。

守っているとしたらそれは天皇ではなく、天皇の民つまり一般庶民の安寧のはずだ。

運慶 毘沙門天立像 鎌倉時代・文治2(1186)年 静岡・願成就院蔵 国宝

祭礼で邪気を払い怨霊を鎮めるというのは、武士が武力で「守護」(つまりは殺生、殺人)とはぜんぜん次元が違う話なのに、上杉謙信に憧れて自分も毘沙門天のつもりというのも…。越後の武将・長尾景虎は主家の関東管領・上杉家が滅びるとその姓をもらって上杉を名乗り、「謙信」は仏教の法名だが、自分を毘沙門天の化身とみなしていたらしく、それで貴乃花も毘沙門天を気取っているわけだが、まず毘沙門天ならば天皇とか神道に関わる日本のカミではなく仏教の護法神、四天王の多聞天で元はヒンドゥー神のヴァイシュラヴァナ神だ。

園城寺(三井寺)南院 毘沙門堂 元和2(1616)年頃

仏教の護法神を日本的な「国體」云々の神事で持ち出すにはかなり場違いだが、そこはまあお勉強ができない、お勉強もしていないのに妙に難しい言葉を使いたがる貴乃花ならではのご愛嬌ではある。

「日本の伝統」ナショナリズムを「角道」とやらに仮託するのも、貴乃花はあまりに伝統や文化を知らなさ過ぎて、どこぞで「精進」が「神事の精神」などと言っていたのも、いかにもお勉強もせず基礎教養がないご愛嬌だ。

「精進」は仏教用語、仏教のお坊さんの修行のことですよ。

多聞天(毘沙門天)東大寺戒壇院の塑像四天王
天平勝宝7(755)年 毘沙門天は四天王としては多聞天になる
戒壇院四天王の持国天

それに横綱は、横綱である間だけはカミが宿る肉体であっても、勝てなくなって引退するというのはつまり、カミがその肉体から離れてしまったということだ。

だから引退した横綱は「ただの人」に戻って名前も変えて、人の親・親代わりの親方として弟子を育てる裏方に廻るというのが「相撲は神事」というか「祭事」だからこその伝統であって、今でも自分が神だと思い込んでその「貴乃花」というカミ的な名を自分のブランド化して振る舞っている貴乃花は、明らかに日本の伝統に反している。

それに「貴乃花」という名前がブランド化しているのは、稀勢の里以前では最後の日本人横綱だったからというのが結局はいちばん大きい。その後の相撲界はといえば先々場所の優勝はモンゴル出身の白鵬の通算40回優勝大記録で、先場所はグルジア(ジョージア)出身の栃ノ心で…要は外国人力士の活躍で辛うじて人気を保っているのが今の相撲であることが気に入らないからこそ、「日本の文化」「相撲は(日本の)神事」などを呪文のように唱えているのが貴乃花だ。

唐の様式をそのまま踏襲した兜跋毘沙門天 平安時代9〜11世紀 石山寺毘沙門堂

せめてマスコミの皆さんは、自分達もそういう薄っぺらなナショナリズム(裏返せば人種差別の排他主義)で貴乃花に共感していることくらい、正直に言ってみてはどうか?

木造毘沙門天立像 平安時代12世紀

貴乃花やそのシンパは、「精進料理」という日本の文化すら知らないようだが、そんな日本の常識も抜け落ちているのに「稽古は精進」とか「神事の精神」とか言いたがり妙に四字熟語を連発したがるばかりなんだから、まあ日本人の基本的常識がないのはいかにも安倍晋三の時代のなんちゃって極右っぽい。

木造毘沙門天立像 応保2年(1162)頃
旧中川寺十輪院持仏堂所在
上の写真の像の胎内にあったお札

もっとも、ここでちょっと貴乃花を弁護してあげるなら、前近代の日本では神仏習合が当たり前で、明治維新の神仏分離で強引に分けられるまでは、神社のカミガミは仏教の一部として信仰されていた。


四天王のうち 多聞天(毘沙門天)14世紀 鎌倉時代
中世以降 日本風の兜をかぶった形が一般化する
同じく多聞天 仁和寺観音堂 江戸時代 寛永21(1644)年

出雲系のカミで最重要のオオクニヌシノミコトなら、元はヒンドゥー教のシヴァ神の変容態のひとつである大黒天と同一視されて来たのが日本のカミ信仰の伝統だし、密教の「本地垂迹」説で日本のカミガミは仏と仏教の神々が日本と日本人のために姿を変えたもの、ときちんと教義化もされて来ている。

快兼 大黒天立像 東大寺伝来 南北朝時代・貞和3年(1347)
インドでは戦闘神・破壊神だった大黒天が
日本で豊穣神に変わる過程の像とみなされる
弁財天十五童子像 室町時代15世紀
弁財天は元はインドの水神のサラスヴァーティ
弁財天坐像 鎌倉時代14世紀
日本化する過程で日本の水神の宇賀神を
冠のように頭に載せた造形が定着した

仏教が伝来してすぐに、それまで日本にあったアニミズム的なカミガミの信仰は仏教に取り込まれたのだろうし、仏教の信仰の一部となることでこそ発展して来たのだ。

国貞(三代豊国) 七福神 江戸時代19世紀
恵比寿天以外はすべてインドや中国の神々 
范道生 布袋尊 江戸時代 寛文4(1664)年 宇治・黄檗山萬福禅寺 天王殿
布袋は禅宗では弥勒菩薩の化身とみなされる
葛飾北斎によるお正月の七福神パロディ
弁財天の宇賀神と毘沙門天の宝塔が鏡餅のように床の間に置かれている
広重 名所雪月花・井の頭の池弁財天の社雪の景 江戸時代19世紀

今につながる大相撲の発祥も両国の回向院と深川の八幡大菩薩(ちなみに応神天皇の神格化とされるが元は九州の宇佐地方の農業神で、「菩薩」の称号で仏教の僧の形で表象されるのが普通。なお宇佐八幡宮は江戸時代までは正式には「弥勒寺」だった)の奉納興行なのだから、「相撲は神事」で「稽古は精進」でも、ぐるっと廻って結果論としては、そう間違っているわけではない(それでも「精進」は「神事」でなく仏教の修行ですけどね)。

仏教伝来前の日本の宗教的造形
埴輪「盛装女子」古墳時代6世紀 重文
仏教伝来前の日本の宗教的造形 埴輪・桂甲の武人 6世紀
仏教伝来後 多聞天(四天王のうち)
法隆寺金堂 飛鳥時代7世紀 国宝
観音菩薩立像 飛鳥時代 7世紀
和歌山・熊野の那智山出土
弥勒菩薩半跏像 朝鮮三国時代6ないし7世紀
法隆寺献納宝物 重要文化財
木造如来立像 法隆寺献納宝物 飛鳥時代7世紀 重文
日本のクスノキ製でなんらかのご神木と思われる
中宮寺門跡本尊 如意輪観音半跏思惟像 飛鳥時代7世紀 国宝
半跏思惟ポーズの菩薩像は朝鮮三国時代の流行が
日本にも取り入れられたもので、この像には一方で
寄せ木造りの技術など日本独自の特徴も見られる
半跏思惟像は通常は弥勒菩薩を表すが聖徳太子の生き写し
との伝承から その本地仏の如意輪観音として伝来している
明治21年の文化財調査写真 撮影 小川一真
菩薩立像 飛鳥時代7世紀
神木を使った像の可能性がある
銅造釈迦如来倚像 白鳳時代7世紀 深大寺蔵 国宝
銅造月光菩薩 興福寺東金堂 白鳳時代7世紀 国宝
十一面観音立像 唐7世紀(渡来仏)重要文化財
日本では産出しない堅い黒檀製一木造りのシャープな造形(壇像)
藤原不比等の長男・武智麻呂が唐から持ち帰ったとの伝承

明治の廃仏毀釈まで奈良の談山神社に伝来した
塑造十二神将立像 奈良時代8世紀 木造薬師如来坐像 平安時代初期 新薬師寺金堂 国宝
奈良時代には塑造や乾漆の仏を削り出すではなく造形が容易な仏像が多かった
薬師如来像はカヤ製で腕と手などを除きほぼ一木造り
伝 聖武天皇書写 賢愚経 奈良時代8世紀 通称「大聖武」国宝
日光菩薩 高山寺伝来(薬師三尊の脇侍)奈良時代8世紀 重文
おがくずを漆で煉ったペーストを盛り上げて行く乾漆像は
塑像と同じような自由な造形が可能で奈良時代に流行した 
木心乾漆釈迦如来坐像 8世紀 奈良時代 西大寺蔵 重文
金銅如来坐像 奈良〜平安時代初期 8世紀
神奈川県・松蔭寺蔵
虚空蔵菩薩立像 醍醐寺蔵 平安時代9世紀 国宝
堅いカヤの一木造りの檀像 日本では黒檀が
産出しないのでカヤやサクラで代用された
不動明王立像 平安時代11世紀
硬いサクラ材を彫ったシャープな造形
天王立像 平安時代10〜11世紀
京都府亀岡市・大宮神社伝来

なぜ弥生時代にまで遡るのであろう日本のカミガミの信仰(ちなみに縄文時代の信仰体系は明らかに、地母神信仰があったりしてそれ以降の信仰とは別物)がこうもすみやかに、さしたる大きな問題もなく仏教の一部に取り込まれてしまったのかと言えば、昨年の大回顧展でブームになった運慶の仏像でも見れば答えは簡単だ。

運慶 大日如来坐像 安元2(1776)年 奈良県・円成寺 国宝
2年がかりで製作され、独立した仏師としての運慶のデビュー作と考えられる

伝・運慶作 木造多聞天立像(毘沙門天) 興福寺南円堂四天王 鎌倉時代13世紀初頭
乾漆不空羂索観音立像 塑像日光菩薩・月光菩薩 天平17(747)年
東大寺法華堂(三月堂) 
木芯乾漆千手観世音菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺金堂

乾漆千手観世音菩薩 奈良時代8世紀 大阪・葛井寺
虚空蔵菩薩立像(壇像) 醍醐寺蔵 平安時代9世紀
壇像では木の生地を残し彩色や漆、金箔などは施されない

薬師如来坐像 平安時代 浄瑠璃寺蔵

それこそ貴乃花が憧れる毘沙門天、つまり多聞天を含む四天王の造形でも見れば一目瞭然だろう。エキゾチックで異形でカッコいいから、大昔の日本人にとってはこうした外国から来た神仏のほうが、よりカミっぽく見えたのだ。

男神坐像 平安時代・11世紀 京都・大将軍八神社蔵
仏像の影響で神像も作られるようになったが分かり易いカッコ良さでは…
広目天立像 平安時代11世紀 浄瑠璃寺蔵(東京国立博物館寄託)
不動明王立像 平安時代11世紀
十六羅漢図 迦諾迦伐蹉尊者 11世紀 平安時代 国宝
装飾法華経「久能寺経」 勧持品 平安時代12世紀
待賢門院(鳥羽天皇皇后)を中心とした貴族皇族による写経
平安時代には貴族がこのような豪華な写経を寺社に納めることが流行した
平清盛 平頼盛 紺紙金字法華経 承安元(1171)年
慶算 毘沙門天立像 鎌倉時代 文永8(1271) 年
快慶 僧形八幡坐像 鎌倉時代 建仁元(1201)年 国宝
八幡神は元は九州・宇佐地方の農耕神だったらしいが後に第15代応神天皇の
神格化とされ軍神として崇拝された 通常「八幡大菩薩」の尊号で仏教の僧侶の
姿で表象される なお宇佐八幡宮は明治以前は正式には「弥勒寺」だった
この像は元は東大寺の鎮守社・手向山八幡宮の本尊(現在は東大寺に帰属)
善円 童形文殊菩薩立像 鎌倉時代13世紀
春日大社若宮の本地仏で廃仏毀釈に伴い流出したと考えられている
快慶 文殊菩薩騎獅子像 建仁3(1203)年 奈良県・安倍文殊院 
文殊菩薩 鎌倉時代13世紀
快慶 弥勒菩薩坐像 建久3(1192)年 醍醐寺三宝院

運宗 長谷寺式十一面観音 天文7(1538)年 奈良・長谷寺
高さ10mを超える木造では全国最大
この再建前の長谷寺本尊は同じ大きさで快慶の作だった
釈迦三尊 南北朝〜室町時代 14〜15世紀

散脂大将 仁和寺観音堂 観音二十八部衆のうち 江戸時代

それに仏教伝来以前の日本の信仰には理論的な体系や序列などがほとんどなかったと思われる。いずれにせよ「古事記」以前の文献がなにも残っていないので推論の根拠すらほとんどないのが実情だが、その「古事記」の記述からも、体系化された信仰を読み取ることはかなり難しい。

康円 愛染明王 文永12(1275)年 京都・神護寺蔵

羅漢図 室町時代15世紀
釈迦の弟子である羅漢を通して「修行」の姿を描くが
江戸時代代には神通力を持つように描かれる作例が増えて行く
日蓮宗の熱心な信者だった北斎が描いた日蓮上人
七面大明神応現図 弘化4年(1847) 茨城・妙光寺蔵

一応は太陽神であるアマテラスが最高神とはいえ、もっとも中心的な神話が「天の岩戸」、要するにヘソを曲げて隠れてしまった太陽を呼び戻すためのお祭り騒ぎ(ストリップ?)なのだから、それこそが「神事」であって、貴乃花の言うような「精進」とはあまりに縁がなさそうだ。



むしろなんとなく「異形」で人間を超越すると感じるものが日本人にとっての元々の「カミ」だったのであり、他ならぬ相撲こそ、そう言った古代アニミズムの文化的DNAが残存した文化だとも言える。

国芳 弁慶梵鐘引き上げ 天保15(1844)年

そもそも今もある神社などを手がかりに日本のカミ信仰の大元を辿ってみても、山が神域であると同時にご神体だったり(弥生時代以降、日本には地母神信仰の形跡はないが山岳信仰はものすごく盛んになる)、島がご神体だったり(宗像大社)、巨岩がご神体だったり、滝がカミだったり、要するに人間の生活圏の外の自然と、その中でもより大きかったり並外れていて人間を超越したものに、超自然的ななにかを見て畏怖する自然神信仰の色彩が強い。

福島県飯舘村 比曾、愛宕神社 映画『無人地帯』(藤原敏史監督)より
『無人地帯』より楢葉町の広尾町との町境近くの太田農神社
奈良・春日大社の本殿横 聖なる山である御蓋山を拝む浮雲峰遙拝所
広島県 厳島神社 要するに宮島そのものがご神体
山口蓬春 三熊野那智の御山 大正15(1926)年
要するに那智の滝が熊野那智大社と青願渡寺のご神体

「横綱」つまり人を超えたとしか思えないほど強い力士の腹に神が宿ると考えて、だからそこにしめ縄を張るというのも、こういう発想から来ている。

日光東照宮 奥宮(徳川家康墓所)の神木・叶え杉

早い話が自然がその力を完全に解放してしまえば、川の神が暴れれば洪水だし、地震もあるし、霊峰・富士が大噴火すればその火山灰だけでも太陽光が遮られて大飢饉が起こるのが常だった。

吉田神社 京都市左京区
今出川通りからは広大な吉田山を通って境内に至る

カミがその人間の及ばない力を全面的に解放してしまうと「荒ぶるカミ」となって大変なことになるから、しめ縄を張ったり鳥居で結界を切ったり、神社の本殿を塀や垣で何重にも囲み、その神社を森で囲んでそのなかに穏やかに留まって欲しい、というのが根底にある信仰の構造があり、「神事」つまり「お祭り」とはそのカミの力を時々一部だけ解放して、その開放感をカミを信仰する人達と共有する瞬間になるのが、日本でいう「神事」つまりは「お祭り」だ。

吉田神社末社 竹中稲荷 奥の院
斎場所大元宮 現在の社殿は安土桃山時代 慶長16(1601)年 豊臣秀頼の造営
塀(結界)に囲まれた本殿
吉田神社末社 菓祖神社 お菓子づくりの神様

相撲の「横綱」でも、その腹に宿るカミは土俵での取り組み以外ではしめ縄つまり「横綱」で縛っておかないと、みだりに解放され力を全面的に発散されては、それこそ大変なこと(暴力沙汰とか)になる。

岩手県・黒石寺 蘇民祭

縄文人はいわゆる日本人とかなり別民族と思われるが、その縄文時代の土偶には地母神信仰が見られるのに、日本人の起源である弥生時代以降は地母神信仰がなく太陽神が女性で、そして山岳信仰が盛んになったのも、恐らくはこういう非日常的の大きさの、異形なものへの畏怖が理由なのだろう。

またカミが山であり島であり滝や巨木だからこそ、カミを人造物で表象しようとする発想がなく、神は “見えないが感じる” ものでしかなく、今日の神社でも神が宿る本殿の扉は閉ざされているのが常だ。

賀茂別雷社(上賀茂神社)唐門より権殿 文久3(1863)年
同 本殿側

本殿に入るどころか本殿を見ることすら出来ない神社も珍しくなく、ご神体も鏡だったりする。つまり日本古来のカミは「見えない」神なのだ。

現存最古の神社建築・宇治上神社本殿 平安時代12世紀
山麓に建てられた三つの祠の覆い屋の造りになっている
本殿の内部にこのような祠が三つ並ぶ入れ子構造
山の裾野の斜面を利用して建てられていることが分かる
山の裾野に建てられた宇治上神社
正面から見ると本殿を完全に隠す形の拝殿は鎌倉時代13世紀の寝殿造り
斜面を利用して建てられた流れ造りの本殿 平安時代
春日大社 中門より本殿第三殿 式年造替中でまだカミが戻っていないので
本殿前に入れるが 遷座の儀式が終わるとほぼ完全に立ち入り禁止になる
本殿を囲む回廊には興福寺の僧侶が読経するスペースがある
京都御所 紫宸殿と承明門 安政5(1855)年
日光二荒山神社 拝殿 正保2(1646)年
本殿を直視させない拝殿の中も簾や幕で何層にも区切られている
複数の簾の奥に見えるのが本殿の正面
御所 清涼殿
獅子で守護された天皇の御座所 奥のとばりの内は昼寝などができる休息所

そんな漠然と「人を超えたもの」をカミとして来た古代日本に、理論と体系が目に見えてはっきりしていて、しかもそれが仏画や仏像で視覚化されている仏教が伝来したことはさぞ大きかったことだろう。

加茂御祖社(下鴨神社)東御本宮 拝殿に囲まれ直視はできない
現在の社殿は寛永5(1628)年の式年造替のもの 徳川家光の造営

「神仏習合」は仏教の伝来とほとんど同時期に起こったと考えた方が自然であり、さらには平安時代に密教の、曼荼羅で体系化された世界観が空海によって唐から導入されると、日本のカミガミも「本地垂迹説」によって、日本に合わせて仏が姿を変えた「権現」として仏教理論で本格的に体系的に位置づけられた。

東寺両界曼荼羅 胎蔵界 平安時代9世紀
装飾法華経 第一巻(浅草寺経)平安時代11世紀
玄証 十六善神図像 平安時代 治承3(1179)年
仏像や仏画で守るべき様々な仏の描写上の特徴
を示すこうした手本を「白描」という
木造不動明王坐像 平安時代12世紀 京都・曼殊院門跡
法華経(久能寺経) 安楽行品 平安時代12世紀
五菩薩五大尊図像 高山寺旧蔵 鎌倉時代 13世紀
学問の寺として発展した高山寺にはこうした白描画が多数伝わった
尊勝曼荼羅 鎌倉時代13世紀 護国寺蔵
「五菩薩五大尊図像」より 不動明王と八大童子
こういう細かな定義や理論付けが元々日本のアニミズムにはなかったぶん
そういう知的な部分を満たす仏教は「カッコ良い」ものだったのでは?
不動明王八大童子 鎌倉時代13世紀 園城寺(三井寺)伝来
上の白描で指示された約束事を踏襲している
不動明王二童子像 矜羯羅童子と制吒迦童子
鎌倉~南北朝時代13~14世紀 東京・恵明寺蔵
運慶 八大童子のうち制吒迦童子
高野山金剛峯寺 建久8(1197)年 国宝
不動明王 鎌倉時代14世紀
不動明王 仁和寺観音堂 江戸時代 寛永21(1644)年
降三世明王 仁和寺はほとんどの伽藍が応仁の乱で焼失後 徳川家光により再建
運慶・快慶 金剛力士 阿形 東大寺南大門
同 吽形

日本のカミガミへの信仰(いわゆる「神道」)は仏教の論理に取り込まれて理論化され、神社には神宮寺が設けられてそのカミの本体である仏の像(本地仏)が祀られ、逆に寺院にはその地の地霊を抑えるために強い神が迎えられたり(鎮守)、地霊であった地元神を寺院の守り神として祀る社が作られるのも常だった。

日光東照宮 薬師堂(本地堂)寛永13(1636)年
こうした神宮寺は明治の神仏判然令で破壊され 残っているのは極めて稀
日光東照宮自体が日光山輪王寺(日光三所権現)の一部
日光男体山そのものをカミとして祀る二荒山神社 拝殿
男体山は観音菩薩の「権現」としても信仰され 輪王寺の
本堂・三仏堂の千手観音も男体山を表すものとも言われている
輪王寺と二荒山神社は本来一体で境内も分けられていなかった
本堂の三仏堂は元々は今の二荒山神社の境内にあった

山岳信仰も強い日本人の本来の信仰では、寺と神社に根本的な区別はなく、むしろ神聖な場所だからそこに社や寺が造られたと考えた方が合理的な説明がつく。

二荒山神社 神門は近代に輪王寺との区分けを明確にするために建てられたもの

またその神社では、神社独特の(寺院とは異なった)建築様式が発達するものの、そこには仏教の、つまり中国やアジアからもたらされた意匠も取り込まれるのが常だった。たとえば阿吽の狛犬や獅子は、仏教寺院の二天門や仁王門の阿吽の力士像に呼応するし、そもそも狛犬も獅子も龍もゾウも麒麟も鳳凰も、仏教の一部として中国から伝わったエキゾチックな霊獣だ。

加茂別雷社本殿 壁に描かれた獅子
下鴨神社 拝殿より西御本宮 寛永5(1628)年の式年造替
同じく東御本宮
下鴨神社摂社・河合神社 本殿
三社権現(現 浅草神社)拝殿・本殿 慶安2(1649)年 鳳凰も中国の霊獣
根津権現(根津神社) 拝殿 宝永3(1706)年 仏教の獅子と象、卍紋
京都・今宮神社 本殿 明治35(1902)年再建
湯島天満宮 拝殿より本殿 平成7(1995)年再建

近現代の「神道」の、伊勢神宮・天照大神を中心とする序列体系化は、こうした仏教による体系化を徹底して排除しようとした(神仏判然令・神仏分離)明治以降の政治的なフィクションでしかない。

鎌倉五山筆頭の建長寺 奥の院の半僧坊権現

京都の八坂神社(祇園感神院)や鎌倉の江ノ島辯財天のように、もともと仏教の護法神が祭神だったのに明治時代に強引に変えられた社も多い。


僧形八幡神影向図 鎌倉時代 仁和寺蔵

江ノ島辯財天の現在の祭神のなかには、なんと弁財天(元はインドの水の女神サラスヴァーティ)がいない。八坂神社は本来は牛頭大王が祭神だが、スサノヲノミコトに変えられている(元々「本地垂迹」で同一視はされていた)。


広重 京都名所之内・祇園社雪中 19世紀
鳥居には「感神院」と書かれている
祇園感神院(現「八坂神社」)本殿 承応3(1654)年 徳川家綱の造営
一説には元は興福寺か比叡山の末寺、つまり寺院だった可能性がある

さらに明治政府は、古事記・日本書紀に記述がないような、人格化されていない自然神や地域の鎮守、山や川などのカミガミを祀った社も強引に廃止し、同時に多くの鎮守の森が伐採され土地が政府に没収されて農地として売り払われた。この政策の理由は「西洋の教会は森になんて囲まれていない」から、だそうだ。

春日大社の回廊がねじれているのは神域である山を切り崩して造成はできないから
加茂別雷社(上賀茂神社)境内・橋殿 文久3(1863)年式年造替

元々人間世界の外の、人を超えたもの、とくに大自然に、カミを感じていたのが日本人なのに、である。

那智参詣曼荼羅図 室町時代15〜16世紀 熊野那智大社蔵
下部つまり南には 南方の海にあるとされる観音浄土の普陀落山に向かう舟

いやむしろ、そうした日本の信仰文化や伝統が、キリスト教の統一的で理論化された世界観の西洋先進国の価値観では「野蛮」に見えるのでは、と思い込んで自らの文化を棄て去ったのが、明治の日本だった(なのにその明治天皇に「賜った」詐称の「角道の精華」とか言われても…)。

地蔵菩薩立像 平安時代12世紀 奈良・長谷寺蔵
運慶 地蔵菩薩坐像 鎌倉時代 京都・六波羅蜜寺蔵
善円 地蔵菩薩立像 薬師寺 延応2(1240)年

第二次大戦の惨敗に至るまで、こうしたいびつで人工的な、はっきり言えば政治的な都合の歪んだ産物でしかないカルトが、数十年間に渡って日本人に押し付けられて来た結果、元々の伝統や文化が(大相撲など、無意識にそれが感じられる特異例を除けば)すっかり忘れられてしまっているのが実情だ。

観音二十八部衆のうち 難陀竜王 仁和寺観音堂 寛永21(1644)年
不動明王 広目天 増長天 帝釈天 仁和寺観音堂 寛永21(1644)年

仏教によって日本の信仰文化にもたらされたような序列・体系化が、日本人の国民性にその実しっくり来るものだったことをよく表しているのが、他ならぬ大相撲の「番付」ではないか。

千手観音 四天王 観音二十八部衆 仁和寺観音堂 寛永21(1644)年
南面する観音堂内陣の東側(東京国立博物館での再現
同じく西側 なお仁和寺は宇多法皇創建の門跡寺院筆頭で
天皇家を守護するもっとも重要な祈願寺

もともと大相撲から始まった「番付」だが、江戸時代中後期には歌舞伎役者から料理から温泉から、それこそ巡礼・参拝の物見遊山の寺社仏閣まで、なんでも東西にわけて大関、関脇、小結、前頭などの順位をつけて番付化されている。

安政6(1859)年の御料理番付
歌舞伎役者を格付けした芝居番付

逆に言えば仏教や、とくに密教の曼荼羅のような視覚化・序列化は、日本人にとって外来のカッコいい理論なのでありがたみもあるだけでなく、かえってその感性にもしっくり来るものだったから、すぐに受け入れられたのだろう。

両界曼荼羅 胎蔵界 鎌倉時代14世紀 東京国立博物館 重要文化財

たとえば胎蔵界曼荼羅で中央の如来部の仏たちが大きく、その変容・転生が外側に向かって進めば進むほど小さく描かれるのは、番付にも引き継がれている視覚情報の序列体系化だ。

日蓮宗で大曼荼羅ご本尊として用いられる法華曼荼羅 鎌倉時代 13世紀
右上に東方守護の持国天 左上に北の毘沙門天(多聞天)

右下に広目天 左下に増長天  鎌倉・妙本寺蔵
焔魔(閻魔)天曼荼羅 鎌倉時代13世紀
法華曼荼羅 鎌倉時代 13世紀 
両界曼荼羅 金剛界 鎌倉時代14世紀 東京国立博物館蔵 重文

方位、とくに東西を左右に分けるのも、元は中国的な世界観で、北に王宮があって君子が南面する唐の長安に倣った平城京や平安京の都市計画(今でも京都は烏丸通を堺に西が右京・東が左京)にも見られるものだ。

御所紫宸殿 幕末の動乱期の安政2(1855)年の再建なので
以後3回 明治・大正・昭和の即位式でしか使われていない

前の左右に右近の桜・左近の橘

方位は仏教的にも大きな意味があった。例えば奈良の興福寺には今は薬師如来を祀り東方にある薬師瑠璃光浄土を表す東金堂だけが現存するが、再建中の中金堂を挟んでその向かい側にあった西金堂には阿弥陀如来が安置され、西方阿弥陀浄土(極楽浄土)を表していたはずだ。観音菩薩ならばその普陀落山は南にあるとされた。

興福寺 東金堂 応永22(1415)年再建
東金堂内 薬師如来(室町時代) 文殊菩薩(鎌倉時代) 日光菩薩(白鵬時代) 
東金堂の本尊だった薬師如来の頭部(国宝 山田寺仏頭)
白鳳時代7世紀 室町時代の火災で焼損し頭部だけが残り
新たに作られた本尊の基壇内に納められていた
浄瑠璃寺 浄土庭園の東岸に薬師如来を安置する三重塔 薬師瑠璃光浄土を表す
西方阿弥陀浄土を表す西岸に九体阿弥陀堂(本堂)嘉承2(1107)年
山越阿弥陀図 禅林寺(永観堂)蔵 平安時代末〜鎌倉時代 12〜13世紀)
宇治平等院 阿弥陀堂 天喜元(1053)年 宇治川の西岸に東を面して立つ
西方極楽浄土を表す(ちなみに「鳳凰堂」は江戸時代以降の通称)
西方阿弥陀浄土を描いた当麻曼荼羅図 (部分)  鎌倉時代14世紀
阿弥陀堂の中心に安置された阿弥陀如来坐像(定朝作)
向こう岸から顔が拝めるようになっている

また仏教はインド起源、つまり日本から見て西にあり、経典を求めて西に旅した唐の僧侶・玄奘三蔵は日本でも信仰対象になり、明朝の伝奇小説「西遊記」も人気がある。

快慶 文殊菩薩および従者立像 建仁3(1203)年 奈良・安倍文殊院
いわゆる「渡来文殊」を表す

知恵を象徴する文殊菩薩が西方から叡智を伝えにやって来ると言う渡来文殊の伝承もずいぶん人気があった。

康円 文殊菩薩騎獅像および侍者立像 奈良・興福寺伝来 文永10(1273)年
文殊菩薩はこうした陣容で西方からやって来るとされる

つまり若乃花・貴乃花兄弟を最後に、西方(西方浄土?)から来たモンゴル人横綱が相撲ファンには大人気で、横綱審議委員会やマスコミがいかに苦情を言おうが朝青龍や白鵬に相撲ファンが「カミ」を感じて来ているのも、日本人の文化的DNAからすれば自然なことでしかない。

范道生 十八羅漢像のうち 羅睺羅尊者 寛文4(1664)年 黄檗産萬福寺
萬福寺は徳川家綱が明から渡来した高僧隠元隆琦のために造営した禅宗寺院
建築様式は当時の明風を踏襲し仏像を手がけた范道生は長崎在住の中国人
この像はあらゆる人間の心の内には仏性があるという禅宗の教えを表す

もともと遠くから来た、エキゾチックでより自分達の日常からかけ離れた「異形」に「カミ」を感じるのは、日本人として当たり前のことでしかない。よくも悪くも、それこそが「日本の伝統」だ。

運慶 弥勒如来坐像・無著菩薩立像 興福寺北円堂 建暦2(1212)年